作家でごはん!鍛練場
れむ

転換

 1 朝

 彼は今朝、何かを盗まれていることに気付いた。ただ、それがなにかはわからない。きっととても大切なことに違いない。昨日の同じ時間にはあったような気がする。昨日の晩はわからない。
 そうだ、とにかく仕事にいかなくては。彼はつぶやくと、忘却の空白を部屋に残したまま家を出る。駅までの道を歩き、電車に乗り、揺られている間も、何を盗まれてしまったのかずっと考えていたが結局思い出せずにいた。


2 上司

 オフィスにはいつもより落ち着きのない雰囲気が漂っていた。普段、午前中は真剣なふりをしてパソコンに向かいつつ時間を潰している連中がそわそわとしている。彼は卓上にあるカレンダーを見て気付いく。ああ、そうか、今日は決算賞与が出るかもしれない。
 早いものは、すでに朝の時点でネットバンキングの残高をチェックしていたらしく、成績の良いもらっていそうな社員を皆がチラチラと見ていた。彼は期待をしていなかった。成績は別に良いわけではない。というか基本的に自分く人間なのだろうと知っていた。押しに弱く、一度も社内で表彰などかすめたこともない。そして彼の思う自分のもっとも駄目な部分はミスを犯してもそれを隠し、しかもそれがばれないところ、悪い時は他の社員の所為になる、しかしそれでも罪悪感を覚えないところだった。
 昼休憩の時間になると上司からじきじきに賞与の明細が配られる。彼の会社では紙、彼はそれを開かないまま鞄の中にしまう。なかには数分後トイレに立つ社員もちらほらいた。
 仕事が終わり、彼はオフィスを出る。エレベーターまで歩くと、もう電気はまちまち消え、廊下は薄暗くなっていた。エレベーターのボタンを押して待つ。その間に黒いコートをスーツの上から羽織りながら上司が彼の隣に並んだ。
 驚いたか?
 上司は聞く。
 彼は何の話ですかと聞き返す。
 賞与だよ。
 賞与?
 そうだ。まだ見てないか?
 ドアの上横にあるランプが狐色に点灯し、エレベーターが階に到着する。彼は先に中に入り開のボタンを押し上司を導く。次に閉のボタンを押しドアが閉まる。エレベーターは静かに落ちていく。
 それは、と上司は話を続ける。
 それは現時点でのお前の全存在価値だと思うことだ。それ以上でも以下でもない。至極妥当な数字だ。
 ええ。
 彼は頷く。
 お前は確かに積極性に欠ける。ただ既存の顧客との商談や事務作業をそつなくこなすお前も俺はまた知っている。数字に見えないところでお前を評価しているものもいる。数字がすべてだと考えるものも当然いる。だが、たしかにお前に足りないのは数字だ。次の賞与の時にはきっと見えない部分は評価の埒外になるだろう。どうするかはお前次第だ。
 エレベーターが一階に着く。
 じゃあな。よく考えておけ。そしてお前がお前自身をどうするのか、選択しろ。
 上司はエレベーターを出て、彼に背を向けたまま軽く手を上げ、外の夜の方向に素早く消えていった。
 彼は鞄から給与明細を取り出す。端を切り、片面を破る。彼が予想をしていたよりもずっと大きな数字がそこにはあった。彼は視線を上げ、上司の背中を見る。自動ドアの向こうの宵街の中へそれは消えていく。

3 娼婦

 彼が家に着く頃にはもう日が変わりかけていた。空気は冷えていて、暗い空には半月が出ている。彼は家のドアの前に立つと、微かに震える手を鞄の中のポケットに入れた。しかしそこにはいつもあるはずの鍵がない。次に鞄を大きく開きなかを隅々まで探るが見つからない。スーツやコートのポケットにも入っていない。ドアノブを回してみても当然ドアは開かない。
 なんてことだ。彼は舌打ちをする。確かに家を出るときはかけていったはず。でなければ今家が閉まっている説明がつかない。やはりどこかになくしたのか。会社のロッカーの中か。あるいは落としたのか、それともまさか俺は鍵も閉めずに家を出て行ってしまったのか。そして今俺の家のなかにはまさか空き巣がいるのか。いずれにしても大家はもう寝てしまっているだろうから中には入れない。たしかに今朝は盗まれたもののことをずっと考えていたせいで、記憶がおぼつかないし、そんなうっかりミスをする可能性もありえる。一体俺は何をやってるんだろう。鍵よりも大切なものなんてあるはずがない。
 彼はホテルにでも泊まろうと思い駅に引き返す。駅前には外国人の客引きがちらほらいるばかりで、ひとけはなくなっている。
彼はそれをかわしながら、駅前に唯一あるビジネスホテルに入った。しかし入口には満室の立て札があり、仕方なく引き返す。漫画喫茶に泊まろうと思ったが隣の駅まで歩かなければいけない。彼にはもうその気力はない。彼は少しの間逡巡したがやがて軽く息を吐くと駅の反対側の出口まで歩き狭い路地の方に入っていった。そして薄ピンクの汚れた看板が光るラブホテルへと入る。
 狭く黴くさいエントランスにはモニターに各部屋が映し出され並んでいる。モニターの灯りが消えているのが埋まっている部屋。灯りが点いている部屋もまだ一つだけ残っていた。彼はモニターの下にある休憩と宿泊のボタンのうち宿泊を選ぶ。それから受付に移動すると中年の女性(顔は磨りガラスで隠れている)が、料金を言う。彼は払う。鍵を渡される。
 彼はホテルの一室に入ると深くため息を吐く。そしてベッドに体を投げ、しばらくの間天井を見上げながら考え事をする。とりあえず、明日午前中に大家に言って鍵を渡してもらおう。仕事はどうするか。体調を崩したことにして、遅刻しようか。会社の連中には評価が上がって早速うぬぼれたと勘違いされるかもな。
 彼はひとりで苦笑いをし、煙草を吸おうと内ポケットに手を入れる。しかし取り出した箱の中には煙草はもう一本も入っていなかった。彼はまた舌打ちをすると、鞄から財布を取り出し、コンビニで買ってこようと部屋を出ようとする。
 しかし彼がドアノブに手をかけた瞬間にドアが二回、ノックされる。彼は驚き少しの間かたまった。一体誰なのだろう。彼は思う。何か掃除婦が忘れ物でもしたのか。
 もう一度ノック音。彼はためらいつつゆっくりとドアを開く。そこには見覚えのない若い女がいる。男のように短い黒髪で、背が高く顔がとても小さい。眼は大きく深い黒の色をしていて肌は死人のように白く体は病的に細い。女は伏し目がちに男をちらちらと見て言う。
 モチヅキさん?
 彼は突然のことに言葉を返せず呆気にとられている。この女は誰だろう。なぜ俺を知っているんだろう。どうして俺がここにいることがわかったのだろう。女は彼が返事をしない所為か胡乱な眼で彼の眼を見ながら答えを待つ。
 違う?
 そうだけど。あんたは誰なの? 彼は言葉を返す。
 マツリです。よろしく。
 マツリと名乗ったその女は軽く頭を下げて大きな黒のブーツを脱いで部屋にあがりこんだ。キャリーバックをベッドの傍に置き中を開いてポーチを取り出しベッドの上に置く。次にポケットから携帯を出す。バックの中には手枷やローションやジョークグッズが入っている。
 ちょっと待てよ。俺は風俗を呼んだ覚えはない。
 冗談でしょ。
 彼女はぞんざいに答えると携帯を耳に当て店に到着の連絡をする。すぐに切りもう一度彼に視線を向ける。
 本当だって。
 あなたモチヅキさんなんでしょ? あなたが覚えがないのならなんで私はあなたの名前を知ってるの? なんで受付はあなたの電話を受けたの? どうしてオンラインであなたのクレジットは支払いを済ませているの?
 それは俺にもわからない。
 それとも私が嫌なだけ? チェンジなら可能よ。女は気怠げに言う。
 いや、そういう話じゃない。
 彼は首を振り答える。これは新手の詐欺か? 美人局か? 彼は考える。しかし、それならどうしてすでに金は払ったなんて言ってくるのだろう、そう言っておいて後で請求するつもりか、それともまさか彼女は俺のストーカーなのか? 彼は女の顔を見る。それは美しかった。しかしその眼の下の暗がり、虹彩の鈍さ、何度も気怠げに首を傾ける仕草から、女にはどこかうしろめたいような傷のイメージが付きまとった。やはり俺はこの女自身ではなくて、この女を伝って誰かの罠にはめられようとしているのかもしれない。
 で、どうするの? するの、しないの? 選択しなさい。
 女は彼に迫る。
 選択をしろ。彼の脳裏に上司の言葉がよぎる。上司の姿と目の前の女の姿が重なる。選択をしろ。
 わかったよ。やるよ。
 彼は息を吐きながら観念したように言う。彼はなぜそうしたのか自分でもよくわからなかった。もう料金の支払いも済んでしまっているというのならキャンセルしても料金がかかるだろうし、どうせなら、という考えか、あるいは単純に、同じ名前の人間と彼が人違いされているのかもしれない、そんなわずかな可能性からからだろうか、いや、彼はハッキリそれを否定する。単純に女の見た目が、仕草が、雰囲気が、彼の性欲を刺激しただけだ。
 秒針の音が静かな部屋に響く。 シャワーから出ると、彼はまたスーツに着替える。枕の端のほうに置いた携帯を彼はつかむ。もうすでに夜の二時を過ぎていた。あの女がこの部屋に来てから二時間が経ったということになる。男はベッドに横たわっている女の死体に目を向ける。
 やっぱり、選択なんかするんじゃなかったな。男は呟く。
 男はベッドに腰を下ろし、なにが起きたのかもう一度整理しようとする。俺は一体なにをしたのだろう。記憶は乾いた粘土のように少しずつ破片となり、こぼれていく。
 裸になる女。胸の間にある蝶の刺青。たしかあの蝶はクロホシウスバシロといったか。腹には切り傷を隠すようにテープのようなものが貼られている。体を這う細い蛇のような女の舌。皮膚に走る鋭い歯の感触。彼を笑いながら見下す、彼女の真っ赤に染まる眼。人間の目じゃない。なにかとてつもない悪意そのもののような眼。そして爪が伸びた。そうだ、俺の目の前で、彼女の爪はナイフのように長く伸びた。あるいはナイフを実際に隠し持っていて、それがそう映っただけなのか。その爪が喉元にくい込む。首筋に痛みとぬるい液体の流れる感覚、彼女の眼、雪に撒かれた血のように白から赤に染まっていく女の肌、白くなっていく髪。彼女の胸から飛び立つ、彼女の蝶。
 記憶はここで止まる。男は危険を感じてきっと反撃したのだろう。女の体は血まみれにまって、体中に切り傷の跡がある。
 彼はもう一度女の体を見る。髪は黒、爪も短い、閉じられた目を開いてみても、ただ、石のように白い半球のなかに黒い瞳があるだけ。彼は軽くため息をつくと、女の体にシーツをかぶせ、隣のベッドに寝転び、そのまま眠りについた。


4 元妻

 朝になると彼は一度家に帰った。大家のばあさんは早起きだ、だから例えまだ家のドアが閉まっていたとしても、合鍵を貸してくれるかもしれない、そう思った。しかしその必要はなかった。ドアノブに手をかけるとドアはすっと開いた。やはり空き巣だったのか。彼は顔を顰める。ただ、特に部屋を荒らされている様子はない。彼はリビングに入るとテレビをつけて洗面所から持ってきた髭剃りを使いながらニュースをざっと見る。髭剃りが終わると、駅前のコンビニで買った、タバコとサンドウィッチの入ったビニール袋の中からサンドウィッチを取り出して立ったまま食べる。
 どうせあの女の死体もすぐに見つかって、ニュースになるんだろうな。彼はそんなことを考えながらもう一度部屋を見回す。やはり、盗まれたものは帰ってきていない。もう永遠に戻ってこないのだろうか。そのきっかけだけでも思い出せればな。それがなにかはわからないが、今彼にとって一番関心のあることだった。それさえ見つかれば、全てがうまくいくような気すらしていた。
身支度が終わると、仕事に行くまでの間少し休もうと彼は思った。なにせ昨日は色々とドタバタしていて肉体も精神も疲れ果てていた。彼はリビングのソファーにワイシャツを着たまま横になりテレビを薄目で見る。
 これ、飲んでいいかな?
 背後からの突然の声に彼は驚き振り向く。すると食卓にいつの間にか女が座っていた。セミロングのブラウンに染まったチリチリに痛んだ髪の毛、そばかすだらけの顔。冷蔵庫から勝手に取り出した缶ビールを片手に持っている。
 なにやってんだお前?
 彼はおもわず声を大きくして聞く。それは彼の元妻だった。
 とりあえず飲んでもいい?
 いつからいたんだお前?
 彼女は答える前に缶ビールを一飲みして大きく息を吐く。
 いや、やっぱりビールは麒麟に限るね。喉越しと後味が違うんだよね。相変わらずビールのセンスだけはいいよねあなたは。あ、いつからいたって質問に答えるなら昨日の夜からだよ。
 合鍵持ってたっけか?
 持ってないよ。あなたどうせいるだろうと思って。でもいなかったね。鍵空いてたから勝手に入っちゃったけど。ごめんね。でも無用心だよ。
 じゃあ鍵を閉めたのもお前か。
 あ、まさかやっぱり昨日一回帰ってきてたんだ。ごめんね気付かなかったよ。ホテルでも泊まったの?
 ああ、そうだよ。おかげさまでとても良いホテルに泊まれたよ。というかお前何しに来たんだよ。
 お金もらおうと思ってきた。で、昨日あんたがいない間に色々部屋の中荒らしたけど、ちっともないね。
 お前ひどいな。
 彼は呆れ、思う。どうして俺はこんな奴と一度でも結婚してしまったのだろう。たまに帰ってきたかと思えば金のことだ。家裁で思わしい結果が出なかったからって直接盗りにくるやつがあるか。そしてあんなに汚い言葉を飛び交わしたのに、どうしてこんなに飄々と俺の目の前に来られるのだろう。
 でもね、別にわたしお金にこまってるわけじゃないから。なくてもどうってことないんだけどね。
 彼女は口の端に泡をつけたまま目を細めて言う。
 じゃあただの嫌がらせか? 彼は聞く。
 とどめ。
 とどめ?
 彼の質問に、彼女はニヤリと笑みを浮かべて答える。
 いや、最近さ、興信所使って調べたんだけどあんた負債だらけなんだってね。原因まではわからなかったんだけど、それでわたし可笑しくなっちゃって。最後の砦として銀行とか自宅とかにお金でも隠してんのかな、って思ったんだよね。隠してたらとどめにそれすらも奪って行っちゃえばさすがのあんたも絶望するかなってね。でもさっき通帳も見たけどまぁひどいもんだね。あんた、すっからかんじゃない。やっぱりよかった別れて。確かにその布石はあったんだよねぇ。あんた金銭管理ずさんだったものね。クレジットの明細すら見ないんだもん。そのくせプライドだけは高いんだから、なんで一度でもあんたなんかと結婚したゃったんだか。
 彼は黙ったまま元妻を睨みつける。彼女は彼の顔に怒りの色が拡がっていくのを確認して、嬉しそうに頬を吊り上げている。
 お前、今俺に殺されても文句は言えないと思うよ。
 彼は冷たい声で言う。それにたいして、女は吹き出して笑いながら答える。
 死んだ後にどうやって文句言うの? 相変わらず馬鹿だね。口ではそんな物騒なこと言ってても、実際心は何にも感じていないんだろうね。あんたはそういう人間だもの。でもね、そんなあんたを一度は信じてみようと、わたしもあんたに最後の審理を用意したんだよ。もうその審理は終わっちゃったけどね。予想外のかたちで。でも今となっては一度あんたに下そうと思ってた有罪判決も下す気にはなれない。ぁまりにもあんたという人間が悲しすぎてね。
 女は本当にその言葉通り、少し前まで見せていた侮蔑の笑いを薄めて、哀れみの視線を彼に向けていた。ビールの缶を置くと、空の缶が乾いた音を部屋に響かせた。
 彼の視線は変わらなかった。女はそれを認めると、じゃあね、とどこか悲しげな声を残して彼の部屋から去っていった。
 なんなんだよ一体。彼はイライラしながらビールの缶をゴミ箱に捨てる。
 元妻との生活を思い出そうと思っても、彼には漠とした光景しか浮かんでこなかった。つまらなそうにテレビを見ながらソファで片膝をつく元妻、やけに味の濃い料理を食べながらその姿を眺めている自分、結婚した後に、何度か旅行に行こうなんて話も何回か出た。しかしそれが実現するはずもないことを二人ともわかっていた。俺たちは何も生み出せなかった。子供なんて作ったところで、二人も、その子も、不幸になるだけだろう。彼はそう思った。しかし、元妻はまたやけに子供にこだわっていた。自分たちが子供のような癖をして。
 家の前の公園から、子供達の遊んでいる楽しそうな声が彼の部屋に届いて。それがやけに彼の耳に響く。朝の陽射しも明るくなり、部屋の床に光と濃い影を落としていた。気温は丁度温かくなってきて、彼はいつの間にか自然と機嫌を直していく。そして幸せな心地すらわいてきた。そうだ。今まで何度だって負債は抱えてきた。ただしそれが真剣な問題になったことはこれまで一度もない。取立屋が家に来たことも、脅すような催促の電話も一度もない。最後はなんとかなるんだ。最悪は破産という手もある。あの馬鹿の言うように、とどめの一撃なんて、俺に対しては存在しない。
 彼はまたソファーに寝転ぶと朝の光の幸福を体いっぱいに感じた。何も問題はない。やがて彼のまぶたは段々と重くなり、彼は意識を失っていく。


4 部下

 彼が目を覚ますのとほぼ同時に、床に投げ捨てられていた携帯が鳴った。軽くあくびをすると、ソファから起き上がり、頭を傾けて首の骨を鳴らしてから携帯を取る。
 もう窓の外は黄昏時で空には金色のうろこ雲が鎖のように連なり、陽は赤く膨らんでいた。子供たちは学校からの帰路を辿って、友達とはしゃいでいる。
 それがお前の選択か。
 はい? それが上司の声だということに彼はすぐに気付いたがどううまく答えたらいいのかわからず、つい間の抜けた声を返してしまう。
 今すぐ来い。でなければお前は終わりだ。
 今から出来ることがあるのですか?
 俺が見たいのはお前の覚悟だ。
 その言葉を最後に電話は切れた。彼は時計を見る。もう六時だ。まったく、どうしろっていうんだ。彼はため息を吐く。今から行ってどうなる。きっと何の仕事もできないなず。あの上司も結局は体育会気質というか、非合理主義的だな。小言を言われるだけなのはわかっている。でも、さすがにこれをすっぽかしたらまずいだろう。
 彼は部屋のカーテンを閉め、ビニール袋の中からタバコを取り出し、ライターで火をつけ喫む。部屋で吸うのは何年ぶりかのことで、それほど彼は機嫌を損ねていた。二本だけ吸うと、適当に灰皿に投げ捨て、冷蔵庫からもう一本残っている缶ビールを取り出して、飲む。それからスーツに消臭剤を振りかけ、彼は部屋を出た。
 彼が会社の最寄駅に着いた頃、もう空は暗くなっていた。スーツを着た会社から帰る人々の群れに逆行し、彼は早歩きで大通りを行く。駅前に並ぶ高層ビル、その壁に張り巡らされている無数の窓はもういくつか光が消えている。クラクションの音が重なり、響き、空には下弦の月が出て、蝙蝠が街燈の周りを飛んでいる。
 会社への近道のため途中人気のないバイパス道に入る。すると煙草屋の前で彼は帰宅途中の部下の青木と鉢合わせる。青木は彼に気付き、はっとしたように、いじっていた携帯から顔をあげて、彼の顔を見る。青木は会社のラグビー部に所属していて、恰幅が良く、声が大きい。責任感もあり、人望も厚い。彼は青木を苦手としていた。その真っ直ぐさがうっとおしかった。
 お疲れさん。
 彼はきまずそうに、青木に一応声をかける。
 青木は返事をせずに、彼のことをじっと見ている。彼は不審に思う。なんだよあいさつくらい返せよ。どうしたんだよ。やがて青木の口許に冷たい微笑みが浮かぶ。
 評価が上がったからって、社長出勤ですか。
 青木は言う。彼はその明らかな敵意に満ちた言葉に腹立たしさを感じると同時に戸惑いを覚える。それに付け込むように、青木は早口でまくしたてる。
 ありえないですよね。賞与をもらった翌日に無断欠勤なんて。あなたには責任感がなさすぎなんですよ。前々から思ってましたが。それにすぐにあなたは他人に責任転嫁する。俺たちが気付いてないとでも思いましたか? 例えばY社との納品トラブルも、あれ、あなたのミスでしょ。なぜか管理簿には木村の名前が書かれていたので木村の所為になりましたがね。木村を辞めさせたのは実際あなたですよ。あなたが犯してるミス、気付かれずに隠してるミス、山ほどあるでしょ? 上司はともかくあなたの下で働いている人間でそれに気付いていないやつなんか一人もいませんよ。今回の査定の件だって会社に投書しようと思うくらいだ。あなたが会社にいる間、それだけは覚えておいたほうがいいですよ。あなたを囲う組織で働いている人間のほとんどが、あなたに嫌悪を覚えている人間だってね。
 青木はすべて一気に彼への悪意を吐き出した後で、おつかれさまですとだけ皮肉げに言い残し、足早に去っていく。あえて靴音を鳴らすように、硬音が狭い道に反響する。彼は振り返って小さくなっていくその大きな背中を一瞥する。
 青木が入ってしまった後で、彼は青木に言われた言葉を胸の中で繰り返す。あなたを囲う組織で働いている人間のほとんどがあなたに嫌悪を覚えている。ああ、そうなのか。しかし、特にどうとも思わない。たしかに俺が悪かったのだろう。しかし仕方なかった。あいつも俺の立場になればわかるだろう。しかし、周りは敵だらけか。そうか。
 彼は踵を返し駅の方面へ戻る。一度、脳裏に上司の顔が浮かんだ。でなければお前はもう終わりだ。しかしその顔は、その声は、微睡みの中の意識のようにすぐに消えた。


5 夜

 彼が家の近くまで歩くと、サイレンの音が立て続けに聞こえた。
 次から次へ、消防車が、道路を通り過ぎていく。彼は無意識に自分の家へ目を向けると、家の辺りの空が淡黒くなっていることに気付く。彼はまさかと思い、歩調を早める。近づくに連れて人だかりが多くなっていく。騒がしい声の交差が耳朶を叩く。
 そして、彼が通りの角を曲がると、燃えている自分の家を確かに目にする。何台もの救急車が停まり、黄色のテープが周りに張り巡らされて、隊員の抱えるホースからは水が勢いよく放射され、黒と赤の混じった炎がそのマンションから吹き出ている。汚水のような濁った煙は、空気に溶けず、槍のように高く空まで突き出し、家の中からは何かが爆ぜていく音が、辺りに群がる人々の怒鳴り声に重なる。
「二階から出火したみたい」
「タバコの吸殻が原因らしいよ。さっき隊員の人が話してた」
「まだ中には逃げられないままの人が何人もいるって」
 彼は一人そこに立って、人々の話を聞くとはなしに燃えていくマンションを見ていた。マンションはまるで、夜の中で火を身体中に纏う怪物のように低い唸り声をあげていた。彼の力なく垂れた手は微かに震えていた。彼はそれを見ながら、作りかけのドミノ倒しの端が倒れて、次々と出来損ないのそのすべてが崩れていくように、何かが終わっていくのを感じていた。
 ねぇ、おじさん。
 不意に彼の意識に声が割り込んできた。幼い女の子の声。彼は弾かれたようにその声の方に目を向ける。
 すると、彼の隣に、黒い服を着た小さな女の子が立って、彼を見つめていた。黒く短い髪、小さな顔、大きな黒い瞳、この少女はホテルであったあの女に似ていると、彼は思った。
 なに? 彼は少女に聞き返す。同時に彼は少女の顔を記憶の中に探してみたが、やはり見当たらない。
 少女は言いにくそうに、戸惑うように、燃えている家に目を向け、それを指差しながら彼にたずねる。
 何か、とても大切なものがあの中にあるの?
 どうして? 彼は素直に聞き返す。それと同時に、やはりこの子は知り合いではないと悟る。きっと、何かが言いたくて声をかけてきただけだり
 だって。少女は唾を飲んでから彼に言う。おじさん、とても悲しそうな顔で見てるから。
 彼は自分の顔に右手で触れる。それから少し息を吐き、その手で頭をかく。少し笑い、少女の不安げな、彼を慰めようとしているような顔に目を向ける。
 ありがとう。でも違うよ。彼は答える
 そうなの? 少女は微かな声で問い返す。
 うん。あの中には私にとって大切なものなんてない。大切なものなんて、何もない。
 なにも?
 うん、私にとっては今や大切なものなんて何も存在しない。あったのかもしれないけれど、それはきっとすべて気付かない間に盗まれてしまったんだ。もうずっと戻ってこない。私は空っぽになってしまったんだよ。とどめの一撃はとっくに果たされていたんだ。私はきっと、ずっと前から壊れてしまっていたんだ。
 彼は自分に言い聞かせるように、少女に話す。少女は俯き、何か考え込むように頭をひねり、また小さく笑い、彼に言葉をかける。
 でもきっと。少女は意を決したように少し大きな声で言う。まだおじさんは空っぽじゃないよ。
 どうして?
 本当に大切なものを失くしてしまったなら、失くしてしまったことにも気付かないと思うよ。それが何かわからないかもしれないけど、失くしたことを覚えてさえいれば、いつか思い出せるかもしれない。取り戻せるかもしれない。だから、まだおじさんの中にはそれがあったっていう跡が残ってるっていうだけでも、おじさんには何もなくなんてないと思うよ。
 少女は途中自分でも何を言っているのかわからなくなったようで、顔を赤くする。彼はそれを面白く思い、笑う。火は勢いを増して吹き出ている。彼は闇の中で赤く踊るそれを美しいと思った。きっと、死ぬ前に何度も思い出す光景になるだろうと思った。ふと、彼がもう一度隣に視線を落とすと、少女の姿は消えていた。
 彼は燃える家を背にして、もう一度駅に向かって歩き出した。そうだ。彼は思う。きっと俺の負債はこれまでにないくらい膨らんでしまったが、もう抱えきれないくらいになってしまったが、まだ俺は生きている。あの少女の言うように、いつかすべてを取り戻せるかもしれない。やり直せるかもしれない。救われるのかもしれない。まだきっと間に合うはずだ。例えもう、死が一刻と近付いていようとも。
 彼は立ち止まるタバコを取り出す。ライターで火をつける。小さな火が光る。ふと振り返る、更に大きくなった火が空に吹き上がる。空が割れて、すべての世界の闇が消えていくように思えた。そして、その方から、街燈の近くで軽く舞って、蝶が彼の火に近づいてきた。白の羽に黒の班目。彼はその蝶に手を伸ばすと、無垢だった日の感情のように、手のひらの中で静かにそれは消えていった。

転換

執筆の狙い

作者 れむ
KD106180005102.au-net.ne.jp

初投稿です。
長くなってしまいましたが、、、どうかよろしくお願いしますm(__)m

コメント

hir
f65-pc60.cty-net.ne.jp

 セリフが「」されてないせいか、独白のようです。
 どのエピソードも具体性がなく、はぐらかされている感じ。
 いろいろな不幸が起きたけど俺は悪くない。と開き直っているような。
 出来ない。無理。と拒む部下を、気がないだけだ。と茶化す上司。何を盗まれてしまったのでしょう。

5150
5.102.2.242

拝読しました。

非常にミステリアスなストーリーでした。個人的に好みです。名前ではなく「彼」というのが、不思議な雰囲気を醸し出しているし、いわゆる奇妙な味みたいなテイストかなと読み始めました。

最後まで読み、読み返しても、けっきょくはよくわかりませんでした。おそらく形あるものではなく、抽象的な何かだろうと予測しますが、まったくわかりませんでした。

2、では、会社よりの賞与が思ったより多くて、それが全存在価値だと上司に言われる
3、では、鍵がないことに気がつき、ホテルに泊まり、そこで自分を知っていると思われる女性が現れる。
4、家は空いていて、元妻がいる。

各章を通じて浮かび上がってくるものというのは、「彼の存在」そのものであり、いずれも、彼の知らないところで何かが起こっていたり、彼はそれを全部把握していないということ。空白、ズレ、記憶。

3で顕著になりますが、けっきょくは女を殺しておいて、ベッドに寝かせて、そのまま眠ってしまうという。明らかに、記憶がおかしい。ありきたりだけど、二重人格とか?

最後の場面。少女と会う。ホテル出会った女だと錯覚する。少女から、何か、とても大切なものがあの中にあるの? と訊かれる。

>うん、私にとっては今や大切なものなんて何も存在しない。あったのかもしれないけれど、それはきっとすべて気付かない間に盗まれてしまったんだ。もうずっと戻ってこない。私は空っぽになってしまったんだよ。とどめの一撃はとっくに果たされていたんだ。私はきっと、ずっと前から壊れてしまっていたんだ。

ここにいたっては普通に読むと、火をつけたのは彼のように読めるし、少女との会話によって、これは背景にSF的設定があるようにも思えたけど、そうじゃなさそうだし。少女が消えた、ということは、すべては幻覚?

最後のライターで火をつける場面は、無垢なる存在から変貌してゆき、それを埋めるためにやったという示唆のように思えなくもない。

けっきょくは彼がしたことなんだろうけど、意識が乖離しているってことか?

各エピソードでは、描写をもっともっと具体的に書いたほうがよいか、と。

>彼は今朝、何かを盗まれていることに気付いた。ただ、それがなにかはわからない。

鍵だったら家の鍵を置く場所とか、精神的な何かだったら、「何か」を例えば、「霧」でも「埃」でも具体的な何かに置き換えるべきか、と。「何かを盗まれた」の表現が非常に抽象的すぎる。「盗まれた」は、もっと具体的に書くべき。盗まれたと思っても、落としただけとも考えられるし、忘れたこともありうるので。状況を書くべき。

一番解せなかったのが、エピソード 3
鍵がなくて、漫画喫茶へは遠いから行かずに、わざわざ一人でラブホテルへチェックインする。そして、呼んだ記憶はないのに、女がいきなりノックしてきて部屋に入れさせる。それだけでもすごいことなのに、女が自分を知っていると思わせたことで、まんまとコトに及び、さらに殺したあとも……。彼が何者であろうとも、それはないだろ、というはちゃめちゃな展開。作者都合すぎる。ここで読むのを止めようかと本気で思いました。ご都合主義すぎて、思いっきり興醒めしました。

あと部屋の鍵の件も、大雑把に扱いすぎる。うまく処理してほしかった。等々、細かい箇所はいっぱいあったように思います。

もしなくしたものが形のないものであったのなら、だからこそ、具体性でもってまわりを埋めてゆき、浮かび上がらせるのが賢明な手法のような気がしますが……。

5150
5.102.2.242

きちんと書ける作者さんに思えたから、はりきってバンバン突っ込んで感想書いてみたはいいけれど……。どんな返答が返ってくるか楽しみにしてたのに、返事がないということは気分を害されてしまったのかも。やり過ぎたか、と、かなり反省モード。または感想がまったくの的外れで、話にならないと作者さんには思われているのかも……。

というか、こういうの大好きなんで、どういう意図で書かれたのか、単純に知りたかっただけなんですけど……ホントに。まあ、すでに書いてしまったものは仕方ないんで。

感想者
149.208.138.210.rev.vmobile.jp

表記の仕方がおかしな箇所が散見されたものの、作品としては最後まで面白く読めました。
「説明不足」だとか「ありえない」とか「馬鹿馬鹿しい」とか、そういう不満は一切湧いてきませんでした。

不条理気取りの下手な作品を投稿する人もいますが、御作はカフカやカミュのような不条理ものの小説として成立していると思います。
下手(=小説として成立していない)と下手ではない(=小説として成立している)の違いをうまく説明する事はできませんが、私の感性では御作は小説として成立しています。

「胡乱の目」は誤用とする説もあるので、「不審の目」か「怪訝な目」を推奨します。

夜の雨
ai212037.d.west.v6connect.net

れむさんの「転換」という作品を読みました。
きっかけは、5150さんが、返答がないとぼやいていたからですが。


こちらの作品はかなり難解な内容になっていますが、先日私が観た映画と構造が似ているのですよね。
「複製された男」という映画で、原作はノーベル文学賞受賞者のジョゼ・サラマーゴの小説です。

ウィキペディアより。
『複製された男』(ふくせいされたおとこ、原題:Enemy)は、2013年のカナダ映画。ポルトガルのノーベル賞作家ジョゼ・サラマーゴの小説『複製された男』(原題:The Double, 2002年)の映画化。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ。ジェイク・ギレンホールが瓜二つの男を1人2役で演じた。

作品解説
●「複製された男」というタイトルであるが、実際は主人公の潜在意識を通して男女の愛を語る作品である。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ということで「複製された男」も難解で、主人公とうり二つの男が本人の目の前に出てきて、社会生活をしている。
二人には恋人と彼の妻がいるわけですが、なにしろ主人公と彼はうり二つなので恋人と妻を取り換えてもわからない、いや、ばれてしまうのですがね。
おまけに導入部とラストに大蜘蛛が出てきて、なにやら晦(くら)まかされた感じです。
途中であるエピソードはミステリアスなので、いろいろと想像してしまうわけです。
つまり二人の男は「一卵性双生児」ではないのかとか。
それともSF的な創りで、片割れがアンドロイドではないのだろうかとか。

映画を観ただけでは理解不能なので、ネットで調べていたら「主人公の潜在意識」というような内容だったわけです。
「主人公の潜在意識」なら、そういう描き方があるわけなのですが、説明が足らな過ぎる、と、私は解釈しました。
まあ、ラストまで観ることはできましたが。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
前置きが長くなりました。
で、こちらの「転換」という作品も「主人公の潜在意識」を描いた内容だと思った次第です。
「主人公の潜在意識」を描いた作品で潜在意識の部分を説明なしで書いたとなると、「複製された男」のように、難解な作品になります。

「主人公の潜在意識」なので要するに「主人公の現実と夢が錯綜している状態」になります。
「潜在意識」の部分が「夢」の部分です。
夢は現実的であったり、とりとめがなかったりするでしょう。
●だから「転換」という作品も現実ととりとめがない部分が混じっているわけです。

●ちなみに作者さんの名前である「れむ」は作品の内容に関係していて「レム」から「レム睡眠行動障害」へのヒントだと思います。

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ハードボイルド的な味付けがしてあるミステリーなので難解でしたが、最後まで読ませる力はありました。

●ちなみに御作を読みづらくしているのは、文章のこまごまとした間違いがあるからです、今後は気をつけてください。

作者のれむさん、それからhirさん、5150さんお疲れさまでした。


以上です。

5150
5.102.2.242

他の方の感想を読みました。

5150の最初の感想を読み返すと、作品について、いい部分のことほとんど書いていない。かなりネガティブな感想に傾倒しすぎたか。

けっこうな期待感を抱かせながら読み進めていき完読。で、何を盗まれたのか、まったくわからないので細部を何度か読み返してゆくと、エピ3の書き方が惜しいと思えてしょうがないことに気づく。作品への期待が大だっただけに、失望感もまた大きい感じ(もう少しちゃんと書いてくれてたら、これ、すごく良い作品になったと真剣に思う。ってか、すでに十分よいものですけれども)。

エピ3 は作品にとってかなり重要だと思えただけに、作者さんにはもう少し丁寧に細部を書いて欲しかった。流れは悪くなくて、どちらかというと筆運びの方に不満あり(作者さんには総合的な力量を感じずにはいられないし、そこは明白だと思えるので)。

むしろ好きな作風だし、テーマもすごくよかった。しかし、いくらかの書き方に不満がある、全体的にはそんな感じでした。テーマについては、最後ではっきり提示させないほうが良いタイプなのは明白ですし。

エピ3では、この作品の核になっている部分が、かなり含まれているように思えたので、ここをもうちょっと丁寧に書いて欲しかった。何度か読み返してみても、やっぱり、そう感じずにはいられない。非常に惜しいという感じ。

夜の雨さんへ

そういえば5150も、その映画観てます。たしかに似通った部分は大いにありですね。いや、構造的にはかなり似ているのかもしれないな、と今思いました。5150は夜の雨さんの感想読むまで、あの映画のことは思い浮びませんでしたが。入り方がぜんぜん違っているからかも。

興味深い考察でしたね。5150はただ、転換というタイトルが最後まで引っかかっていていました。タイトル選びも今作の場合は、何かを匂わせるものではなくて、何かを提示しているものがよかったように思えました。内容が抽象的であるからこそ、対比するようにしてという意味で。

もんじゃ
KD111239164042.au-net.ne.jp

 れむさま

 拝読しました。

 面白かったです。

 誤字脱字が散見されましたが、習志野ナンバーさんの感想に同意であります、小説的に何かが足りていないというようには感じませんでした、むしろ尺がもう少し短くてもよかったなくらいに感じました。

 御作を、鏡を覗き込むような心地で読ませていただいたことを白状いたします。
 この読み手の書き方に似ている――だなんて記すと、佳きテキストに対して不遜であるとの謗りを免れないようにも感じますが、にも関わらず敢えて書いちゃいますけど、以下の二点において他所の中に自作のくせのようなものを発見し学ばせていただきました。

 一に、構文。
 二に、視点。
 であります。

 まず構文。
 この読み手は書き手として、いくつかのスタイルを試してきたあげくに最近では、複文を可能な限り用いずに単文ないしは重文のみによりて、短文を紡ぎ重ねる、というやり方を好んで用いています。御作もシンプルな構造の短文をテンポよく打ち出すスタイルであるかと存じました。
 さてこのスタイル、先を読ませる牽引力にはなりそうなのだけれど、読者をして息切れさせてしまい疲れさせてしまうのではないかと危惧しておりまして、なので御作を読み始め、おおこのスタイルか、と感じ、自分が息切れしないで読了できるのかと、潜水で二十五メートルに立ち向かう心地で読み続けましたところ、……あっさり読了できました。少なくともこのくらいの尺なら文章スタイルとして問題ないのだな、と、客観的に確認させていただきました。ただこれが二百枚、三百枚、五百枚……と増えてゆきますとなかなか疑わしくなってきます。二十五メートルを息継ぎなしで泳ぎきれても、エラなき種族に五百メートルはきつかろう、と思ったりもするのでした。頭から終わりまでの、短文重ねゆえの緊迫感、みたいなものを中和する醒めた語りだったり、「」で包まない台詞だったり……、等々の微妙な匙加減を工夫する必要があるかと思うのですが、御作からそのヒントをいただけた気がしています。

 と、いうことにも関連して……、
 二つ目に、視点。
 一人称だからどうだとか、三人称だからどうだとか、三人称であっても単視点だから一人称寄りだとか、神視点に許されるのはここまでだとかそうじゃないとか、さまざまなことがびゃあびゃあと言われたりもするわけですが、書き手でもない普通の読み手はそんなこと気にしてもいないので、そういう枠組みは置くとして(おかしな視点を検証するときにだけ取り出すものさしにしておいて)、御作の視点は劇中「彼」の肩のあたりにいて、ときに彼の中に入り、しかしたいていは彼の外で彼の動きを実況している……そんな視点に思われました。この読み手も書き手として、一人称視点たる「私」や「僕」や「オイラ」の肩に視点を据えることが多く、すなわち視点は私なりオイラなりに同一化はせず、私なりオイラなりを外から、しかしすぐ近くから眺めている、というふうに表すことを好みまして、その意味で一人称と三人称のちゃんぽんめいたそれだったりするのですが、御作の「彼」にも逆向きのちゃんぽんを感じました次第です。乖離、ということに触れていた感想がありましたが、乖離、というか、意識化し得ない内面をあらわすのに、このちゃんぽん表現は効果を発揮しますし、他者の作品として今回そのような視点を味わわせていただき、なるほどこのような読み味になるのだな、と改めてわかりやすく認識させていただいた次第です。

 短い話を、1、2、3……みたいに細かく区切ることをよしとしない一般論もあるようですが、錯綜している御作でありますれば、1、2、3……の区切りは有効に機能していてエッセンシャルであったかと思われます。

 弱点、みたいなものを強いてあげるなら、カタルシスがない、みたいなことかな、と。慰めを求めたり、悦楽を求めたりしてる読者もいるので、満足感みたいなものに関してもいくらかサービスを……みたいに感じられなくもなかったです。みたいに、みたいに、みたいに、みたいにですみませんが。

 読ませてくださりありがとうございました。

れむ
KD106180005148.au-net.ne.jp

hirさん

ご感想ありがとうございます!
返信が大変遅くなってしまい本当にすみません!

感想についてはおっしゃる通りだと思います。
現実的でありつつもどこか狂っていてどこかおかしい小説を書きたいと思ったのですが、
具体性に乏しいと感じられたとのことで、確かに具体的なエピソードや細部にかけていたと思います。
主人公を何の共感もできないよな駄目な男として書いたので、不快に感じられたらすみません。

とても参考になりました!
ありがとうございます。

れむ
KD106180005148.au-net.ne.jp

5150さん

ご感想をありがとうございます!
返信が遅くなり本当にすみません! またそれによって不快な思いもさせてしまって申し訳ないです。。

細かく鋭く批評をしていただきとても嬉しいです。

鍵などの具体的な描写が不足しているとのご指摘はごもっともだと思います。「霧」や「埃」など具体で置き換えるべきとの指摘は特に目から鱗でした。
エピ3につきましては読み返して見ると本当にその通りです、ここでもっと細部を書いて説得力を持たせればまた別の面白いものができていたと思います……

補足しますと(失望されてしまうかもしれませんが)、これを書いたのは数年前なのですが、
「彼は今朝、何かを盗まれていることに気付いた」と、冒頭の一文が頭に浮かんで、そこからフリーハンドで書いたものがこの作品です。なので、意味というよりも無意識の部分が表に出た結果色んな矛盾や不明箇所が生じてると思います。
感想者さまにも指摘受けましたが当時はカミュやカフカの不条理文学が好きで、特にカフカの「城」のRPG的に次々と相手が現れる構造を意識していたと思います。
エピ3はカミュの「異邦人」を意識して、完全に共感不可能な行動をさせることで満足していましたが、
それをするには圧倒的に細部、力量、筆力が不足していたと今回のご感想を頂き痛感しました。

何を盗まれたのかは書き始めた段階では自分でもわかっていなくて、書き終わってしばらく経ってからなんとなくわかったのですが(夜の雨さんが仰られたように精神的なもの)、明らかに描写不足なので、それが伝わるようにまたリライトしたいと思います。

その他にもご指摘の通り色んな誤字脱字や、人称、地の文と台詞の不自然な混同があり、読みにくくさせてしまっていましたね。。。すみません。

好きな作風とおっしゃっていただけたのは本当にうれしかったです!
頂いた批評を糧にこれからも精進します。
ありがとうございました。

れむ
KD106180005148.au-net.ne.jp

感想者さん

ご感想ありがとうございます!
返信が遅くなり本当にすみません!

面白く読めたと言って頂きとても嬉しいです!
ご推察の通り書いた当時は不条理文学に心酔していたので、不条理ものとして成立していると言って頂き本望です笑
「胡乱の目」は知りませんでした。教えて頂きありがとうございます。その他にもおかしな箇所が散見されたとのことで推敲は本当に必要だなと改めて思いました(本気で間違えてるとこもあるかもですが、、)

ありがとうございました。

れむ
KD106180005148.au-net.ne.jp

夜の雨さん

ご感想ありがとうございます!
返信が遅くなり本当にすみません!

「複製された男」、見よう見ようと思っていてまだ見られてないです、、笑
知り合いからネタバレされたので落ちまで内容は知ってしまいましたが、仰るように潜在意識的なもののようですね。


ご指摘のようにこの話も、先を考えず手に任せるまま書いたところが多く、潜在意識をめぐる話になっていると思います。言ってしまえば私の心象風景的な要素も多いです(それを読まされても、、という感じではありますが)。
なので現実と夢が混ざっているとはその通りですね。

またペンネームも何から何まで見破られてますね、、恥ずかしい笑

読ませる力があると言って頂いて自信になります。他の方からも多く指摘を受けていますが、文章の細々とした間違いは恥ずかしい限りで、、気をつけます。

すごく参考になりました。
ありがとうございます。

れむ
KD106180005148.au-net.ne.jp

もんじゃさん

ご感想ありがとうございます!
返信が遅くなり本当にすみません!

鋭いユーモアと知性がひしひしと伝わる感想で読んでいて参考になりましたし、何より面白かったです笑

構文についてはシンパシーを持っていただけたようで嬉しいです。
私も書いた当時は文体に四苦八苦していて、これはヘミングウェイのようなハードボイルドの短文の積み重ねと、当時米文学でよく使われていた(オースターやマッカーシー等)引用符なしの文体で何とかうまくやろうとしていました。
かなり失敗している部分もあり恥ずかしい限りですが、、、

ご指摘のようにこの分量(本当はもっと短い方が良い)だからこの文体で何とかなったきがしますが、長くなると難しいですよね、、読んでるほうも書いてるほうも気疲れしてしまいますね笑
かと言ってこの文体の持つ緊迫感みたいなものも捨て難くはあって、どうにかならないかなぁとも思います。

視点のご指摘についても適切に言語化して頂きハッとさせられました。ちゃんぽん的な人称の視座といのはその通りですね。カフカが三人称に変えて文学の豊かさを実感したと言っていて、その言葉に影響を受けていたりもしました。意識し得ない内面を表すのにこの手法は有効だと、言語化して頂き、意識することができました。

カタルシスが足りなのは本当にそうですね汗 結局モヤモヤが読者の中で晴れないわけで、そのモヤモヤの残し方も上手ではなかったので、そこは反省すべきだと思います。

ありがとうございました。

れむ
KD106180005148.au-net.ne.jp

皆さま返信が遅くなり本当にすみませんでした。。
言い訳になりませんが仕事で体力がやられていて、ページを開ませんでした。
大変失礼しました。。

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