電車に乗れない
スマホのアラームをスヌーズ機能にして寝た。それでも、朝起きられない。二度寝してから、わたしは十一時に起きる。世間では午前中のひと仕事をそろそろ終えるころだ。どうしてこんなふうになってしまったのだろう。
お昼近くの時刻だった。それでも朝食として、何かを食べずにはいられない。健康を何気なくアピールするバナナを素通りし、わたしはオレオの箱を手にする。袋からクッキーを取り出して、もぐもぐと頬ばりながら、バイト求人誌を広げた。
不動産会社に退職届を提出してから、はや十日。こんな自堕落な生活をずっと続けていいわけがない。ワンルームの家賃の支払いが月末にある。それまでの生活費も必要だ。世間で二十三歳といえば、仕事に真っ盛りで、日々を忙しく送っている人が大半だろうに。
わたしは毎日、残暑が厳しいのをいい訳にして、涼しい部屋に閉じこもり、続き物のテレビドラマばかり観ている。そうでなければ、マンガを読んでいる。外へはほとんど出なくなっていた。来る日も来る日も、同じようなことをしている気がする。
ついこの間まで、普通に会社勤めをしていた。つまらない仕事を押しつけられるばかりの毎日。桂木課長からは頭ごなしに怒られることも多々あった。でも、このご時世に、せっかく就職できたのだから。そう思うと、仕事をこなすしかない。そんな日々を送っていた。
桂木課長はメガネをかけていて、一見すると穏やかそうだ。でも、怒るときは湯沸かし器みたいになる。急沸騰する。ひゅー。そばにいると、手にとるようにわかる。
いつの間にか、わたしは桂木課長の一挙一動を、そばにいて敏感に嗅ぎとるようになっていた。怒られる前から、そういう気配を敏感に察知してしまうのだ。そういうときは、つい自分の感情であるかのように、受け入れてしまっていた。わたしでない他人の、どうにもならない感情なのに。
わたしはなぜこんなふうになってしまったのだろうと、自問する。あるいは、もとからそういう性分だったのか。満員電車がきっかけだったのかも、と思わないでもない。都会に住んでいれば毎日使うものであるし、これほど便利な交通機関はない。わたしは同じ時刻の電車に乗る生活をずっとしていた。ほんの二週間前までは。
痴漢に遭遇した。わたしのような女の子でも被害に遭うんだ、と最初は呑気に構えていた。何度か遭ったので、車両を変えたり、時間をずらしたりしてみた。女子専用車両というものがなかったから。でも、それだけのことをしてみただけでも、しばらくの間は、効果があったように思えた。
その後、みんながみんなそうではないはずなのに、男の人全般に対して猜疑心を持つようになった。これまでなかったことだ。男の人と付き合ったのは高校二年だから、経験は少ない。でも、男性にウブだというわけではない。父親とも普通にやっていた。
でもなぜか、会社での、桂木課長との関係はこじれていた。他の同僚は、桂木課長は奥さんと危ないんだってさ、と耳打ちしてきた。
何度か、自分のミスというより、どう見たって課長からの言いがかりだということもあった。わたしは黙っていた。仲のよい同僚からは、あなたほんとに忍耐強いのね、でも、そんなふうだとこの先、長くはもたないかもね、といわれてしまった。
わたしは久々に、満員電車で痴漢に遭った。あからさまにやられた。悪夢そのものだ。満員電車は息が詰まりそうだった。身体を少しも動かせずにいた。そこを狙ったのだろう。背の低いわたしは、周囲が見えずにいた。誰かの手が、執拗に、わたしのお尻を撫で続けていた。
ただ一言だけ、やめてください、と口にすることができていたら、どんなによかっただろう。でも、閉塞感漂う電車の中で、わたしは陰湿な行為をそのままにしておいた。
次の駅までが異常に長く感じられた。大きな駅だったので、人の移動があった。ドアが開いた際に、わたしとすれ違うように、一人の見知らぬ会社員と目があう。
メガネをかけた人で、桂木課長とどことなく似ていた。でも、桂木課長であるわけはなかった。メガネが人いきれで曇っていた。口もとから笑みが漏れるのを見た。
わたしは急激に吐き気を覚えた。人を押しのけるようにして、ドアの外に出てしまっていた。その後、満員電車はおろか、電車に乗るだけで吐き気を催すようになった。そんなこともあって、相談を誰にもせずに、辞表を会社に提出して、受理された。
そんなふうに今にいたるわけだ。でも、今日やっとバイト先を見つけることができた。駅前のビラ配りだ。唯一やっかいなのは、暑さだ。立っているだけでしんどい。
一応パソコンは普通に使えるので、派遣とか、もっといい求人があったはずだ。でも、問題は別のところにある。面接場所は、たいがい電車に乗らなくてはいけない場所にあったから。ビラ配りの面接は駅前のビルで行った。時給千三百円。週一からオッケー。
誰にだってできるものだ。学歴や技能など必要ない。わたしはパソコンを普通に使えるけど、他に特技らしいものはない。前職での仕事だって、わたしの代わりなどどこにでもいた。大きなプライドが唯一、わたしの持っているものだった。
こんなバイトをやっていてもどうしようもないだろうし、どうして会社を辞めてしまったのか、これから一体どうやって食べてゆけばいいのか。ビラ配りをしながら、バカみたいだと、もう百回くらい頭の中で叫んだ気がする。
駅前を通る人々はみな、わたしよりはずっといい生活を送っているように見えた。主婦の人たちは夫におんぶさえしていれば食わせてもらえる。いい服を着た学生たちからは、働き盛りの親の顔がよく見えてくる。ガラの悪いバカそうな連中でさえも、生き抜くことにかけてはタフそうだし、彼らなりに自立してやっているように思う。
イヤラシイことしか考えてないだろ、としか思えない中年のオヤジにも、ときにすり寄って、作り笑いを浮かべた。たとえ下手に出ても、相手は軽蔑しきった目で無視することもある。きれいなお姉さんにティッシュを渡したのはいいけれど、こんなのいらないから、と突き返されたこともあった。
そうやって、他人から断られ続けていると、なんだか、わたし自身が世間から拒否されたような気持ちになってくるものだ。
わたしはその夜、無性に泣けてきた。布団のなかで丸くなっていると、涙がぽつりと出てきた。その涙は止まることなく、気がつけば、声を出してわんわんと泣いていた。
ビラ配りのバイトをしていて、通行人と言葉を交わすことはあまりない。受け取ってくれる人の大半は、無言だ。そんな中で、一人の男の子と口をきくようになった。端正な顔立ちに見覚えがあった。
制服を着ていて、ブレザー姿だったから一見すると高校生のように見えた。ミドルの長さの髪は、いかにも現代風だ。品がよさそうであり、同時にナイーブそうでもある。
女の子のようにツルツルとした肌をしていた。でも、表情は堅くて、頬あたりは動きそうもないくらい引き締まっている。端正な顔だけど、どことなく男っぽさがないのも、今風といえばそうなのだろう。
その男の子は、わたしの前に立つと、自分から手の平を差し出してきた。テッシュをさっともらうと、ブレザーのポケットに入れた。その優雅なしぐさがどことなく印象に残っていた。昨日もわたしからティシュをもらっているはず。
「ティッシュくらいもってないの。家から出かけるまえに、確かめるくらいしたらどうなの」
わざとぶっうきらぼうに、わたしはいった。
男の子は、その場で立ち止まった。
「持ってきたよ。でも、いくらあっても足りないこともあるから。学校で、もしのことがあったりするとそれ、けっこう役に立つんだよ。だから、あったほうがいいと思って」
男の子はそういうと、前を見据えた。後ろ姿に、わたしはいった。
「じゃあ、もう一つあげる。もらっていきなよ。ほんとは一人に何個もいけないんだけどさ」
「あ、どうも。お言葉に甘えて」
男の子は、そういうと、すぐさま去っていった。
次の日も、男の子は現れた。
「もう使っちゃったの?」
と、馴れなれしく訊いた。
「いえ、まだあります」
男の子は、素直な口調で答えた。
「今日も欲しいの? それとも、また今度にする?」
「あ、今度にします」
相変わらずクールなようすだ。スクールバッグを肩にかけ、手をポケットに突っ込んで歩く。わたしとはたぶん七、八歳くらいは離れているけど、もし同い年でクラスにこういう男の子がいたら、何気なく見ちゃうんだろうな、なんてふと思った。暑いといっている、そのしぐささえもが、汗臭さを感じさせずに、さっぱりしている。
男の子は改札口から外へ出てきたらしかった。それから、駅とは反対側の商店街の方へと歩いてゆくらしかった。ちらりと時計を見ると、十一時。どうしてこんな時刻にふらついているんだろう、と、好奇心がもたげた。
通勤時間はとうに過ぎて、お昼までには少し時間があった。駅前を歩く姿は多くない。だから、あまりテッシュの数を配れないでいた。
それでちょうど気が抜けたころでもあったので、わたしはちょっかいを出してみたくなった。
「ねえ、このへんに学校なんてあったの?」
わたしは、思わずそう訊いていた。
「えっ、いや」
男の子は、立ち止まる。いくぶんか、邪魔すんなよな、うるせーな、というトーンを含んでいた。
それから、わたしのすぐ近くを、小さな子供を載せた自転車が、ぎりぎりのところで通っていった。座席のうしろで座っている幼な子の顔と合った。変な顔つきでわたしを見ていたが、気にしなかった。
「別に詮索してるわけじゃないのよ。ただ変だな、と思って。わたしは改札口前のここらへんでビラ配りしている。毎朝たくさんの学生さんたちが駅に入ってゆく。あなたと同じくらいの、同じような制服を着た子たちが。でも、あなたは逆の方向へ歩いてゆくわ。しかも、こんな中途半端な時間に、って、ふと思っただけ」
彼は、わたしのいった言葉を受け入れるかのように、身体をこちらに向けていた。わたしは少しだけ距離をつめた。それから、彼はいった。
「ぼくはこれからあっちにある公園に行くところです。今日は学校へは行きませんでした。いや、行ったフリをしているだけなんです。ぼくは中学生です」
えっ、それっていわゆる不登校というやつじゃん、と心の中で思ったけれど、男の子に先を越された。
「あなたは、ティッシュ配りが上手な方だと思いました」
「はぁ」
わたしよりもずっとずっと若い男の子に、じらりと目を見られているんだ、という気がした。思わずいてもたってもいられずに、背けてしまっていた。
「ぼくはよく、他人の心の声が聞こえてくることがあるんです。たとえば、あなたが配るテイッシュを断ったとする。それで、すれ違うときに、ああ、なんだコイツー、無視しやがって。このくそガキが! 生意気な若造が! みたいな、そういう声が」
「やだ、わたしそんなふうに思ってなんかないわよ」
「知ってますよ。だからこそ、受け取ったんです。やっぱり、言葉にしなくてもわかることって、あるんですよ。そういうのがなければ、ティッシュ受け取ってくれる率ぐんと上がると思うので」
「あは、そういうことね」
「ちなみに、つなぎでこのバイトやっているように見えましたが、違いますか?」
「よくわかったわね」
「ティッシュ配りを嫌いやながらやっているわけではない、っていうことは、すぐわかりました。もし、どうしようもなくお金に困っているなら、そういうのはティッシュの差し出しかたに現れます。表情にも出ます。まだまだ外は暑いですしね。イヤイヤやっているような、プライドが許さないような。かといって、抑制された愛想笑いができるほど、場慣れしているわけじゃない。つまり経験は少ない。ということは、これはたんなるバイトでにすぎない。見たところごく普通の人で、家出とかじゃなくて、たんなるつなぎなんだろうな、って」
「あら、お見事じゃない。感心したわ」
わたしは、ほんとうに感心していた。なんだか、心の底を見透かされた感じ。
「あのねえ、あなたの親じゃないし、正義ぶりたくもないんだけど、それでも、やっぱり学校ってのは行った方がいいんじゃないの、と思って」
ぎゅっと、睨み返してきた。そんなことなんか聞くんじゃねえよ、という言外に伝わるものがあった。
「わたし、これでもね、一応はれっきとした社会人なんでね」
「ぼくだって、ちゃんとした学生で、成績だって悪くはないです」
「だったら、なんでこんなところ……そんなふうに簡単に訊くのはどうかなって思うんだけどさ。あなた、中学生っていっていたわね。だから、……」
「ぼくが十五歳で、まだ中学三年生だから、学校サボるのはよくないとでも?」
「一応さ、一般的には行くもんだし……」
なんとか気に障らないようないいかたをしたつもりだった、はずなのに。彼は、そのとき、初めてといっていいくらいに、わたしを鋭く睨みつけた。まるで、先生か、親か、大人か、というように。そんなふうなつもりは避けたはずだったのに。
十五歳か。なんか、いろんなことが微妙な年なんだよな、と思った。結果的に腫れ物みたいに扱ったとしても、それは、やっぱり十五歳という年齢が、どうしたって腫れ物みたいな時期だからというものだ。
「一般的? じゃあ、その一般的とやらからはみ出た人は? そんな人だっているんだ。まるでよくないみたいないいかたじゃん」
じつに十五歳らしい繊細さで、あしらってくれた。
わたしたちの間に漂う何かを察してか、通りがかりのオバさんが、わたしの顔をじろじろと見ていった。明らかに、わたしに何かいいたそうな顔をしながら。
「ねえ、名前、教えてよ」
わたしはふいに、尋ねた。
「真人」
「わたしは涼子」
ここまでくると、すっかりバイトをしていることを忘れていた。というか、今日はここまででいい、という感じになっていた。
「真人くん、さっきさ、これから公園行くところっていってたよね。ちなみに、わたしもうこれでバイト終わりなの。わたしもいっしょにいってもいい?」
「あなたとですか?」
「やだ、そんな変な顔で見ないでよね。別にさ、若い男の子が好きだっていう趣味があるわけじゃないし、ここのところしばらく、誰とも口きいてなかったから。あ、わたしね、会社辞めたばっかなのよ、だから。あれ、でも何か変だわ。真人くんといると、どうしてか、つい……。たぶん、弟か何かみたいに思っているのかしら。でも、わたし、一人っ子なんだけどね。へへ」
商店街を通らずに、わきの道を二人並んで歩いていった。やがて、人通りが少なくなった。人がいるときはよかったものの、二人きりでいると、二人の間にある距離が妙に気になった。
肩を並べて歩く。しんみりした空気を払いのけるように、わたしは自販機の前で、コインを入れた。喉が渇いたわけではなかったけれど。
わたしはウーロン茶を、真人はポカリスエットを手に持って歩いた。公園が見えてきて、人気のいないベンチに座った。犬を散歩している人もいなければ、暇そうにしているお年寄りの姿さえなかった。大きなベンチが三つあったが、誰もいない。目の前には小さな池があるだけだ。がらんとした空間が横たわっていた。
いざベンチに腰掛けても、話題は見つからなかった。
「ぼく、静かで誰もいない場所が好きなんですよ。喫茶店とかに座っているとダメなんです。隣の席にカップルとか座っていると、もう耐えられないんです。聞こえてくる会話から、透けてみえてくるものがたくさんありすぎて」
わたしもそういうタイプよ、といおうとして抑えた。ここは同感すべきじゃない、と思えたからだ。
「そうなんだ。ゲームセンターでもなく、バッティングセンターでもなく、誰もいない公園か。学校行かずにここで何しているのよ?」
「何も。ただボッーとしているだけです」
「なんか、健康的な十五歳の発言じゃないみたいね」
そんなふうに軽くいって、また少し後悔した。とくにこういう誰もいない静かな場所にいると、少しの沈黙がやけに大きなものに思えた。
「ごめん。別に否定しているわけじゃないのよ。いいな、と思って」
どういうわけか、真人の発する間がやけに響いてきた。引きずり込まれてゆくように思えた。真人の沈黙。底なし沼のよう。
わたしが直人よりももっと大きいとき、高校二年のときに同じクラスの男の子と少しだけ付き合った。向こうから告白されたけれど、けっきょく、フラれたのも向こうからだった。
わたしは二人きりになると、どうしても沈黙がちになっていたからだ。もちろん、普通に話すことはしていた。けれど、ふと、相手の発する沈黙という裂け目に、自らを入れてしまう癖があるらしかった。桂木課長も同じようなものだった。
わたしの考えを吹き飛ばすように、真人はいった。
「学校には行きたくても行けないんです。考えれば考えるほどに。普通って何、はみ出すことがそんなにいけないのか。普通という感覚に、強烈な違和感を感じてしまう。そういう自分を発見してしまったとき。追いうちをかけるように、自分ではそれを認めたくないのだとしたら」
どう答えていいのかわからなかった。イエスでもあり、ノーでもある。というか、真人は他と比べてそれほど変わったところがあるようには見えないし、どうしてそこまで普通にこだわるんだろう、と。
わたしはペットボトルのウーロン茶を一口飲んだ。周囲はあまりにも静かすぎて、ごくんという音さえ聞こえてくるようだった。誰も通らなくて、目を向けるものさえない。空に飛行機が飛んでくれればいいのに、とさえ思ったくらいだ。
「涼子さんにはそういうの、わからないでしょうけど」
「わたしには、どうすることもできないかもしれないけれど、でも、話を聞いて、寄り添えることくらいはできるかもしれないわよ」
今度は、わたしが沈黙を作り出していた。沈黙による波紋は、静まり返った池に小石を投げ込んだようだった。
「涼子さん、大人なんですね」
「一度傷ついちゃうとね、残念ながら、そうなっちゃうものなのよ、大人って。どうにもできないことがある、ってことを認めた上で、やってゆかなくちゃいけなくなるんでね」
また、かっこつけたがるのも大人の癖だ。真人に対しても、年上というだけで、そんなふうに振舞ってしまう。課長とうまくいかなかったり、痴漢に苦しめられたのはたしかだ。そういうことを誰にもいえず、かといって背負ってゆけるほど強いわけでもない。自分をごまかしているようには思いたくはないから。
「だったら、ぼくは大人になりたくなんかない」
「それ。すごく真っ当だと思うわ」
「大人たちはみんな、どうしているんですか。ある人に伝えたいことがあるんだけど、でも、どうしてもいえないときとか」
「それって、好きな人がいるってこと? そんなふうに聞こえなくもないけど」
真人はこくりとうなずいた。
「同じ学校の子?」
「クラスメートです」
真人はいった。
わたしはアパートに帰って、ぼっーとしていた。シャワーを浴びて、汗を洗い流した。冷蔵庫に入っているカルピスを飲んだ。一口飲んでもあまり味はしなかった。テレビをつけていても、響いてくるものはまるでなかった。
「明日、ぼくといっしょに電車に乗ってくれませんか? 」と、真人に訊かれてしまった。
あんなに真顔でいった真人に向けて、電車には怖くて乗れない、などといえるわけはなかった。真人は、そういう大人も中にはいるんですね、と思ったかもしれない。
痴漢被害に遭い、そのため男に不審感を抱いている、とはいえなかった。会社を辞めて、しばらく引きこもっていた。真人には、どうして学校行かないのか、という白い目を向けつつも、わたし自身は真昼間から布団に入ったまま、テレビドラマを追いかけるようになっていた。
でも、ふと思う。だから、何? 恥ずかしいのか。
どうしてわたしは、真人に自分の状況を話したくなかったんだろう。知られて困るようなことだろうか。人に知られると恥ずかしいからか。
「家を出て、改札を入り、ホームで電車を待つ。電車に乗り、三つ目の駅で降りる。そこまではいいんです。でも、そこから学校まで歩いて十分。その距離が長いんです。いろんなこと考えちゃうから。学校での嫌な思い出が頭をよぎったり、他人からの声がよみがえってくるんです。いわれたことや、場面が繰り返される。それだけで、なんだか気分が重くなるんです。いいことある。今日はいいことあるぞ、といいきかせても、けっきょくは負けてしまうんです」
そう真人は淡々といった。
「でも、偉いよ。わたしなんか、電車乗れないもん」
そういったときの真人の顔が妙に真剣で、印象に残っている。それはそうかもしれない。あれだけ偉そうな口をきいておいて、電車が怖くて乗れなくなっている。で、どうしてかというと、痴漢に何度か遭ったし、会社の課長ともうまくいっていないときだったということもある。
そういう最近の事情をかいつまんで話した。すると、真人は険しい顔になった。
「ちくしょう。許せねえ。涼子さん、どうしてそのときなんかしなかったんですか? 助けてくださいというとか、やめてほしいでも、なんでもいったらよかったじゃないですか? そんな卑怯なやつは男じゃないから。くそっ。痴漢ってのは卑劣だ」
わたしはごろんとソファに寝転がって、低い天井を見ていた。歯を磨いて、電気を消したあとでも、ずっとわたしは天井を見ていた。眠れずに、ずっとそうしていた。天井に、真人の純真な表情を見ていた。
「そんなんじゃいけないですよ、涼子さん。引きずってはダメです。明日、ぼくといっしょに電車に乗りましょう。ぼくは電車は怖くない。電車は大丈夫です。学校の門をくぐることができないですけど。でも、そこからは涼子さんの踏み入ることのできない領域です。ぼくがなんとかしないといけないのです」
「えー、真人くんと電車に乗るのか。うーむ、できるかな」
「こう考えてください。まずホームまでいく。空いている電車に乗りましょう。少しづつでいいんです。そうしたら、ぼくだって学校へいけるかもしれないし」
寝つきが悪い夜だと、朝起きるのが辛くなりがちだ。七時五十五分の電車に乗らなくてはいけない。だから、七時前に頑張って起きた。それから支度をして、眠い目をしながらも出かけた。
わたしは駅前で真人を待っていた。でも、彼は時間を過ぎても現れなかった。どうしたんだとつい考え込んでしまう。昨日の真人の感じからすると、約束を破るようには思えなかったからだ。真人はわたしのスマホの番号を知らない。わたしも彼のは訊かなかった。
しばらく待っていた。必ずくると思っていたから。
どうしたんだろう。おかしい。
わたしはどうしても納得がいかず、待ち合わせの改札口が見える喫茶店の中に入っていた。窓際の席からは、もし真人が現れれば、すぐにもわかる。
それでも姿を見なかった。けっきょく、その日は。
次の日。同じ時刻より少し前にきてみた。それでも結果は同じ。真人と同じ制服を着ている学生を見つけて、学校名を教えてもらおうと思った。でも、そこまでしても、もし真人がなんらかの理由で、わたしと会いたくなかったらどうしようもない。
もしかしたら最近の子は、あんなふうでも案外、けろっとして学生生活を送っているのかもしれないなと思った。
わたしなんか必要とされないんだろう、と。
けっきょくのところ、わたしはただのティッシュ配りのお姉さんにすぎないのだ。
ふっーと、わたしは大きなため息をついた。
次の日は季節外れの雨となった。でも、小雨だし、ひどくはならないだろうと天気予報は伝えていた。だから、気は乗らなかったけれど、ティッシュ配りのバイトを入れた。
でも、もうこれで最後にするつもりだった。これ以上、続けてもしかたない。
今日でバイト辞めて、それから次のを探そう、と。けっきょくあれからもう、電車は乗っていないのだけれど、いつまでもそうしているわけにはいかない。
「まずホームまでいく。空いている電車に乗りましょう。少しづつでいいんです」と、そんなふうに真人にもいわれではないか。とにかく空いた電車に乗ってみて、慣れることが大事だ。
さっそく今日の午後にでもとりあえず、どこかに出かけてみよう。まずは第一歩だ。
そんなことを考えながら、ティッシュを配っていると、一人の女性が声をかけてきた。
「涼子さんでいらっしゃいますでしょうか?」
誰だろう。見知らぬ人らしかった。
「わたくし、真人の母親でございます」
そういって思いがけないところから、真人の名が出てきて、わたしは驚いた。見れば細身のジーンズを履いて、赤いスニーカーという、ずいぶんと若い格好をしていた。きれいな女性であり、さすがは真人の母親という気がした。母親似だ。
「真人がたいへんお世話になったようで、あなたを探していたんです。駅前でテッシュを配っている方だ、ということでしたので」
「あの、真人くんは? 今は学校に行かれているところですか?」
「いえ」
と、真人の母親は首をふった。と、思うと、うつむくように下を向いたままになった。
「どうかされたのですか?」
「これ、真人が書いたものです。遺書の一つです。あなたのことが書かれてあります」
小さなメモ書きだった。真人がペンで書いたものらしい。
ありがとう、涼子さん。
あなたは学校へいけないぼくのために、電車にいっしょに乗ろうといってくれた。
そして、ごめん。ぼくは約束を破ってしまった。
でも、いつか前に進むことはできると思うから。必ず。
「あの子ったら、ぜんぶ一人で背負っていたんですよ。家ではけっこう平気な顔をしてましたし、そこまで深刻だとはまるで思わなかったんです。親として恥ずかしいことですけど」
「遺書って、え? あの、真人くんがまさか?」
「二日前です。真人は自宅で首をつって自殺をしました」
「そんな、嘘ですよね、それ」
真人の母親はまた下を向き、うなだれた。
「学校でのイジメがエスカレートしていたようなんです。ちょうど夏休み明けの、九月半ばです。てっきり、クラスは問題ないと思っていたいましたもので。でも、突然、学校から電話がかかってきて、あなたの息子さんは学校にきてないといわれました。もうビックリです。あの子は、あなたに何かいっていませんでしたか?」
「わたしはそれほど真人くんを知っていたわけではありません。でも、一度、公園にいって、話をしました。そのとき、クラスに好きな子がいて、みたいなことをいっていたと思います。イジメのことはいってなかったようですが」
「ここに、あの子がつけていた日記があります。あなたのことも少し書いてあるし、自殺の理由も記されています」
「真人が通う中学は、男子校です。クラスには一人も女子はいません。男ばかりです」
「えっ、あ、あの真人くんは男子校だったんですか」
「はい、そうです。男子校でした」
わたしたちはそれほど長く話をしたわけではなかった。いくつかのことを聞かれたが、わたしは答えようがなかった。何も知らなかったから。
真人の母親は、彼がつけていた日記を貸してくれた。あなたに読んでもらえるといいかな、と思いまして、と控えめな声でいった。
「自殺する前の日、あなたと真人は約束したそうですね。いっしょに電車を乗るんだ、と。イジメのおかげで学校へいけなくなったからと、あの子といっしょに電車に乗って学校へいこうとしてくれたんですね。ほんとうにありがとうございます」
いや、事実は異なる。電車に乗れないわたしのために、真人の方が、わたしを説得してくれた。簡単に置かれた個人的な事情を母親に話した。それで真人が、わたしに大いなる同情心を示してくれたことも。
別れ際、真人の母親は深く礼をして、いつまでも顔を上げようとはしなかった。
わたしはアパートに戻り、真人が書いた日記に読み耽った。大学ノートにびっしりと、端正な字で綴っていた。
だいたいの経緯はわかった。真人の気持ちも。
夏休み期間中に起こったことだった。それまでずっと仲よく友達として普通に付き合っていたK。クラスメートだ。中学になってから親しくなった仲だったらしい。ゲームして、音楽について話したり、いっしょに勉強するという、ごく普通の友達付き合いをしていた。
それが急変したのが夏休み。真人はこれまでに抱えていた想いを、それとなくほのめかしてKに伝えたという。そして、真人が同性愛者ではないかという噂を、Kが周囲に漏らしてしまった。真人は、カミングアウトしているわけでもなく、自分の性については意識的ではなかった。そういう傾向があるんじゃないかと疑っていた程度だったらしい。
日記にはKのことがよく出てくるが、肝心なところについては、まったく書かれていない。しかし、八月になると、真人はKへの想いを、あからさまに綴っている。とても気になってしかたない。いつもKのことを考えてしまう、というように。
やがて夏休みをはさんで学校が始まった。最初のころはそうではなかったらしいが、急激に、数名による陰湿なイジメが開始されたらしい。ホモ、死ねよ、という直接的な言葉から、靴の中に画鋲が入っていたり、生卵をぶつけられたこともあると書いている。そこで短くだけど、わたしのことが書いてあった。駅前でもらったお姉さんからのティッシュを使って、拭きとった、と。感じのいい人だから、またもらいにいこう、とまで書いてあった。
……人と違うことって、そんなに悪いことなの?
その夜、わたしは真人のことを考えて、思いっきり泣いてしまった。
※※※
あれから、一ヶ月が過ぎた。まだ暑い日は続いている。残暑というより、真夏日のような暑さの日が。たった一ヶ月が過ぎただけなのに、いろんなことが変わっていた。わたしは小さな会社の事務の仕事を始めていた。給料は安いけれど、それなりにきちんとしている会社だった。採用されたのが信じられなかった。
また規則正しい生活に戻ることができた。小さな会社だったので、その分居心地はよかった、といってもいい。上司や同僚とも上手くいっていた。男性社員はみないい人ばかりだった。
その中に、二つ上の気になる先輩がいた。かっこよくなどないけれど、どこか包み込んでくれるような優しさがある男性だった。いろいろと仕事のことを教えてもらったり、気軽に相談にものってくれた。塩崎さんだ。
以前の自分が、まるで別人のように思えた。電車に乗るのが怖くなっていたのが、信じられないくらいだ。もう怖くはなかった。どういうわけか、痴漢にはもう遭うことはなくなっていた。もしかしたら、わたしという人間はあれから少しだけ変わったのかも、と思えなくもない。いや、それは大げさだとしても、ちょっとは図太くなったような気がしないでもない。
いまは、いい歯車が回っていっているような気がしている。どうせなら、このままでいきたいところだ。以前は逆で、どうやっても抜け出せない穴にずっと落ち込んでいたような気がした。それとも、たんに、自然と季節が変わったためなのだろうか。
もう電車を怖いなどといっていられなかった。なんでかというと、会社の塩崎さんに会うのが楽しい毎日だし、電車に乗らなくては会えないのだから。
執筆の狙い
ごくオーソドックスな短編であり、創作上の難しいことは何もありません。ただ気軽に読んでもらえればと思います。今回は、「共感」がキーワードになります。