血戯え
何もかもがわけもなく苛立たしかった。もどかしい煩悶がかれの臓腑をじりじりと焦がしていた。雑踏の中でとかくハザマは落ち着かなかった。青黒い顔を突き出すようにして、肩をいからせのしのしと大股に歩く、そんな歩き方をしているのは道行く人々の中でハザマ一人だけだ。
かれの他の人々は皆安楽そうな様子だった。かれらは一様に、ほとんど無表情に近い透明な微笑を浮かべていた。しかしそれがハザマの神経を逆撫でした。心の中の一等敏感で繊細な部分に、絶え間なくやすりがけをされているかのようだった。
本来のハザマは我慢強い性格なのだ。しかし、実を言うとかれはもう何十日も同じ苛立ちと格闘しつづけてきたのだ。そして今、苛立ちはとうとう臨界点を越えようとしていた。
外套のポケットから、荒々しい手つきで銃を取り出し、撃つ。かれが狙いを定めたのは道行く人々の中の一人、パステルブルーのコートを着た若い女だった。弾丸は女の脇腹に命中した。途端に蛍光ピンク色の、小さな立方体が傷口から溢れ出して地面に転がった。
女は苦悶の表情を浮かべるでもなく、悲鳴を上げるでもなく、以前よりもやや口角を上げ無言のままハザマのもとへと近づいてくる。
ハザマは鼻先にびっしり汗を浮かべながら、悶々とした気分で女を見下ろした。
ハザマのすぐ目の前で、女が言った。
「これからは、気をつけてくださいね」
女は電子音のように、無機的な声で言うと、ハザマに背を向け雑踏に戻っていった。
コレカラハキヲツケテクダサイネ、コレカラハキヲツケテクダサイネ、コレカラハキヲツケテクダサイネ……女の言葉がハザマの脳裏で何度も何度も反芻される。なんという手ごたえのなさだろうと思わずにはいられなかった。銃を手に握った時の硬い手触りだとか、引鉄を引いた時の熱っぽい浮遊感だとか、それら諸々の火照りはあっけなく失われていった。あとに残ったのはもとと変わらぬ退屈と、それに対するやるかたのない苛立ちばかりである。
(ダメだ。どうしてこれほどにも、腹立たしいのだろう……)
煩悶の理由すらわからないというのはひどく心苦しいものだ。鬱屈とした情念を絶えず持て余し、狂気への恐怖に背を焼かれながら歩く毎日……早く楽になりたかった。しかしそのための方策はというと、皆目見当もつかないのである。
翌日ハザマは、町の真ん中に軒を構える精神科医のもとを訪れた。かれは「ヒラマ先生」という名前の有能な医師だった。
ヒラマは、ハザマの話す荒唐無稽な話にも、辛抱強く真剣に耳を傾けてくれた。
「なるほど、ね。抑えがたい感情の湧出……それに耐えきれず、オモチャで人を撃ってしまったと」
「ええ……失礼なこと、礼儀を欠くことというのは百も承知だったのです。銃なんてオモチャは的を撃つためにあるものだというのに、それで人を……」
「たしかに、普通の発想ではありませんね。よほど追い詰められ、錯乱していたのでしょう。オモチャの動く的ではなく、人を撃つだなんて……」
「そうなんです。的当て遊びを楽しみたいなら他にもっと適当なものがあるはずなんです。でも自分はどうしてか人間を撃ちたいと思ってしまった。人間を撃ったところで、ただ気まずいだけで何も楽しくないはずなのに……これはやはり、狂気の兆候なのでしょうか?」
「まあまあ、あまり思い詰めないことです。安逸剤はちゃんと飲んでいるのですか?」
「ええ、一日三回二錠ずつ。ちゃんと飲んでいます。なのに私は随分とおかしくなってしまったみたいで……何だか自分が情けないです」
「ご自分を恥じることなどありませんよ。そうナイーブになるのが一番よろしくない。より効き目の強い安逸剤の処方箋を出しておきましょう」
「どうもありがとうございます」
ハザマは深々と頭を下げた。ヒラマに自分の本心を打ち明けたことで、ここに来る前よりもいくらか気が楽になっていた。
「いえいえ、では受付で処方箋を受け取ってください。それと、また何か困ったことがあったら、いつでも来てくださいね」
ヒラマは柔和な微笑を浮かべながらいった。つられるようにしてハザマもぎこちないが穏やかな笑みを浮かべ、診察室を出ようとした。その時だった、不意にハザマが立ち止まり、振り返ってヒラマの方をじっと見た。
「どうなされたのですか?」
「実は……」
振り返りはしたものの、ハザマは「それ」を打ち明けるかどうか迷っているかのように見えた。それでも数秒の逡巡ののち、かれは思い切って包み隠さず「それ」を打ち明けた。
「ヒラマ先生、一つ言い忘れていたことがあったんです。実は、あの時人を撃ってしまった刹那、脳裏に奇怪な映像がよぎったんです。真っ赤な、ドロッとした液体が、女の人の脇腹から飛び散る映像……あれは、いったいなんだったのだろう。やはり狂気の兆候なのでしょうか……?」
「はあ……それはたしかに、奇怪という他ありませんな……」
「でも、不気味な映像ではあったのですが、それ以上にどうしてか、なつかしいような気がしたのです。突然躯が弾けるように熱く火照って、口の中にかすかな鉄の味が広がって……それが不思議となつかしい、気持ちのよい感じがした」
「……」
ヒラマは、すぐには答えなかった。かれはうつむき、腕組をしながら思考に集中していた。
「ふむ、珍しいといえば珍しいですが、私のところにやってくる患者の中には、皮膚という皮膚に虫が這う幻覚に悩んでいる者もいる。水などどこにもないのに、自分が溺れているという固定観念に悩まされている者も。かれらと比べれば、あなたの症状はまだまだ浅いものでしょう」
ハザマを安心させるため、ヒラマはにっこりと微笑んでいった。しかしそれは作り笑いだった。よく注意してみればわかるが、細められているだけで、その目はちっとも笑ってなどいないのだ。
「とにかく安逸剤を出しますからちゃんと服用するように。きっとよくなりますよ。奇怪な幻覚に悩まされることなどもうなくなるでしょう」
「そうですね。先生の言うことを信じます。忙しいはずなのに、長々と話を聞いてくださって、ありがとうございました」
今度こそハザマは診察室から去っていった。一人残されたヒラマは、うわごとのように頼りない声色で、呟いた。内心の懸念が、にじみでているかのように……
「それはね、「血」と呼ばれるものなんですよ、ハザマさん」
薬の処方にもかかわらず、ハザマの狂気の度合いはその後もますます増していくばかりだった。ヒラマから処方された安逸剤も、効き目があったのは最初の数日だけだ。狂気は休みなくかれに攻勢を仕掛け、その勢いはますますはなはだしいものとなっていく。
そんなある日、ひょんな思いつきからかれは海浜公園を訪れることにした。昔よく訪れていたお気に入りの場所なのである。豊かな緑に囲まれ、草花の甘くすがすがしい香りをかぎながら、涼しい潮風に吹かれ海を眺めゆったりと歩く。そうすれば、少しはこの苛立ちも収まってくれるだろうとかれは思っていた。
そしていざ海浜公園を訪れてみると、心が落ち着くことはなかった。代わりにかれはあることに気がついた。
(ようやくわかったぞ、オレは平和に苛立っているのだ)
海浜公園の訪問によってかれが得た収穫はそれだけだ。人の心を和らげてくれるはずの平和が、かれにとってはどうしてか一番腹立たしい。老いた祖父の車椅子を押す少女の、絵画のような穏やかな微笑などを見ると肚がグツグツ煮滾ってくるようだ。
(どうしてだろう、まるで現実感がない。あの時オレが撃った女だってそうだ。あんな無礼なことをされたんだから、もっとオレに怒りや恨みを向けてきてもいいんじゃないか? オレの手から銃をひったくって、怒りに任せてオレを射撃して、そうして……オレの躯からあの赤い液体が飛び散ったりしたら……それはどれほど……)
ハザマはそこで一旦思考を中止した。かれが続けようとした言葉は、「どれほど幸福なことだろう」だった。しかしその言葉は、意識の表面に上らせるだけでも恐ろしい言葉のように思えた。
(やはりオレは狂ってしまったのだろうか? 平和の何がいけないというのだろう。しかし、どうにも、平和という奴にはたしかな手ごたえがない。どうにものっぺりしてしまって張り合いがない。現実のくせに、どこか現実感がない。的当て遊びをしている時、ごくまれにオレの胸に去来した感情、ヒリヒリした灼けるような充実感なんて滅多にやってこない。代わりに、穏やかな微笑ばかりは掃いて捨てるほどありふれている……)
海浜公園を行く人々の中で、自分のように不満をあらわにしている者などただの一人もいなかった。やはり皆あの無表情に近い透明な微笑を貼りつけている。しかし今のかれは、狂気の進行のためだろうか、この平和の方がずっと不気味なものに思えてくるのだった。
(違和感だ。オレはもうこの世界に違和感しか感じない。ならば、オレの故郷はどこにあるというのか……?)
眼下に広がる果てのない蒼い海を眺めながら、かれは一人夢想にふけった。
そんなかれの煩悶に満ちた日々に、ある時転機が訪れた。
「あれえ、ハザマさんじゃないですか。お久しぶりですねえ……」
海浜公園を訪れてから数日後、道を歩いていると声をかけてくる者がいた。メイという名の、かれの古い女友達である。
「あ、ああ……久しぶり」
メイもまた他の人々と変わらない。奇妙に間延びした口調程度しか個性らしい個性はなく、顔に浮かんでいるものはなんとも呑気そうな、緊張にかけたものである。要するに、狂気に毒されて以降のハザマにとっては、顔突き合わせるのが苛立ちにつながる部類の人間である。
「なんだか、変わった? 以前より瘦せた気がするよ」
親しみを込めた微笑。ハザマの胸に苛立ちの火が灯りかける。その表情はどこか柔和だったが、かれにとっては作り物臭く感じられたのだ。
しかしかれの脳裏に突然、ある企みが閃いた。途端にかれは、精いっぱい口角を吊り上げ、見せかけの親しみをメイの前で晒した。
「たしか君は、図書館にはたらいていて、古文書の管理をしているんだよな」
「そうだよ、憶えていてくれたのかな」
「お願いがあるんだけど、古文書を見せてくれないかなあ」
「古文書? どうしてなの?」
「理由なんて特にないよ。ただ、少し興味があるだけさ」
これは嘘だった。本当の理由は、あの赤い液体の正体について、古文書に何か手がかりが眠っているのではないかという憶測のためだった。
(あの赤い液体は、何だかなつかしい感じがする。なつかしいということは、古いものに関連があるのではないか?)
根拠としてはそれほど強いものではない。なのにすがりつこうとしたということは、それだけかれが追い詰められていたということだろうか、それとも……
「ついたよお」
メイの部屋はシンプルでカラフルで、そしてちっぽけなものだった。直方体をした部屋の壁や床に、いくつかの、オレンジやバナナの色をした立方体が取り付けられているだけだ。この幾何学的な図形は、使用者の望みによってさまざまな家具に変化するという抽象的な機能を持った万能家具であり、だから立方体さえあれば他の家具はほとんど必要ないのだ。
メイが玄関の近くにある立方体に触れると上部の一面が開いた。中にはお茶が入った湯呑みが用意されている。うちの一つをハザマに渡したあと、メイは、今度は別の立方体の一つを手にとった。
「これを使えば電子データ化された古文書にアクセスできるけど、ハザマちゃんはどんなのが見たいのう?」
「そうだなあ……薬品学についての古文書はあるかい?」
「わかったよお」
立方体の面の一つが液晶のディスプレイへと変化した。
「はい、どうぞお」
メイが見せてくれたのは東洋薬学についての古文書だ。水銀、王水、竜血……こんなものではない、なんだかしっくりとこない。ハザマは、今度はワインについての古文書を見たいと言った。あの赤い液体の色合いはワインに似ているような気がしたのだ。しかし今度も満足いくものではない。野生のブドウが現在の中東の辺りで原生していたなど、かれにとってはどうでもいいことだ。ジョージアだのアルメニアだの、馴染みのない国名も同様だ。無意味に長大な円周率の無限の羅列のようなもので、何一つ喚起的なものはない。そもそも、国なんてもので世界がわかたれていたのは随分と昔の時代のことなのだ。
「他のも見たい? でも、どんなのがいいの?」
「そうだなあ……」
のぞきこむようにして、メイが顔を近づけてくる。その時、かれはメイの唇の赤みに何か惹きつけられるものを感じた。
気づけばかれは、無意識のうちに指先でメイの唇をなぞっていた。
「えっ?」
メイがキョトンとした表情を浮かべる。たちまちハザマはわれに返り、自分が失礼なことをしてしまったのだと自覚した。
「あっ、すまない……」
かれはひどくドギマギしていた。指先にはまだ、メイの唇の感触が残りつづけている。
あの時、それは微熱を帯びたゴムのように感じられた。柔らかいが、その弾力は他人の侵入をやんわりと拒む性質のものだ。
(……そうだ、ならば、躯はどうだろうか?)
先程のできごとがヒントになったのかもしれない。かれの脳裏に新しい思いつきが閃いた。そういえば、あの赤い液体のイメージはいつも人間の躯と関連していたような気もするのだ。毎度毎度躯から噴き出るイメージだった。
(躯なんて、乾いたものだ。細かい立方体が緻密に組み合わさっているだけで液体なんてものとは無縁だ。しかし、どうしてだろう。無意味としか思えない思いつきに、意味を求めたくなるのは、それほど幼稚な心理なのだろうか……。躯、うん、躯という思いつきはきっと悪くない。「躯」はどこかしっくりとくる……)
「人体についての本? 別にいいけど、脈絡がないねさっきから」
三度目にハザマがリクエストした本は、古代の人体標本である。本の中で人体は、臓物と骨格、そして躯中に張り巡らされた血管によって構成されるものとされていた。
「昔の人は突拍子もないことを思いつくね」
メイはそう言ってクスクスと笑った。ひなたぼっこでもしているかのように他愛のない感じだった。
「いや、そうかな……」
ハザマはどうしてか、ある種のなつかしさを感じていた。その人体標本には、赤や黒や代赭色がふんだんに使用されている。どこか暗澹たるものを感じさせるそれらの色彩には、胸に染みるような不思議と豊かなあじわいがあったのだ。
ハザマは次第に熱中しはじめ、そのまなざしは針のように鋭いものとなっていった。そのうちかれは、人体の中でもとりわけ奇妙なある部位について発見し、それへの興味を強烈に掻き立てられた。
(肛門……私たちが食べたもののうち、不要物を排泄する器官……それはシュレッダーにプリントを挿入し、紙のクズ切れが出てくるような類の現象だろうか。いや、しかし、それが……この内蔵という赤黒かったり、サーモンピンクだったりする器官を通して行われるとすれば……また違った意味を持つのではないか? この腸という、内側にひだひだのある長大な通路を通して行われる、躯の中の有機的な過程とは……)
「なあ、オレたちが喰ったものはどこへ行くんだっけ」
「どこへ? 内部の、立方体器官の中に蓄積され、エネルギーに変換されるんでしょう。そお、習ったけど……」
「たしかに、習ったよ。でも、そのイメージは何だかイヤなんだ。何だか、息が詰まりそうになる。なあメイ、オレは思うんだ。オレたちの正体とはこの臓物的なものではないのかと……?」
「いったい何を言ってるのお? 私たちは細かな立方体をたくさん積み重ねてできているんだよ? 学校でそう習ったよお?」
(違う、違う、違うんだ。ああ、クソ、もどかしい……。こういう微妙な感覚を、他人に伝えるというのはなんて難しいんだ……
ハザマは荒々しく頭を抱えた。メイのハザマを見る目つきはますますいぶかしげなものとなっていった。
「ちょっと、大丈夫なの? 安逸剤は飲んでるの?」
「飲んでる、飲んでるさ。でも足りないんだ。泉のように絶え間なく湧き上がってくる衝動があるんだ」
その時、眼球が裏返ったかのように視界が、意識が黒く弾けた。瞬間、ハザマはメイを圧し倒し、馬乗りになって覆いかぶさっていた。
「あ、ああ……ああ、あっ!」
明白な意味を持たない、うめきのような叫びのような声を半開きになった口の端から洩らしながら、ハザマは荒々しい手つきでメイのスカートと下着をずり下ろした。その間メイは、すでに死んでしまった俎上の魚のようにじっとしていた。特に瞳は死んだ魚そっくりだった。
裸のままの、メイの股間があらわとなる。そこには、かれが期待していたような肉厚の赤い貝は存在しない。ツルツルした白い皮膚の上に、コンセントの溝を縦にしたような黒い太線が一本引かれているだけだ。
「ああ、あ、ああ……」
ハザマの内部の火照りは急速に冷めていった。諦めがそのまま声になって口から洩れた。かれは自分のことを冷えた灰のようにつまらない存在だと切実に実感した……。
かれが打ちのめされていると、突然一人の訪問者がやってきた。しかしこの訪問というのが尋常のものではなかった。というのも訪問者は、床をぬるりとすり抜けて部屋に中へと入ってきたのだ。
「ヒラマ先生……」
あっけにとられながら、ハザマはポツリと呟いた。訪問者はヒラマだった。かれはすでにあの、人の好さそうな微笑を浮かべてはいなかった。そこにあるのはドライな嫌悪と、冷徹さがないまぜになった表情だった。
「ここで話すのもなんです。場所を変えましょう」
ヒラマが冷たく言った途端、たちまち二人のいる場所が変化した。二人は何もないところにいた。雲も陸もなく灰色の空だけがあった。
「あなたは、あの赤い液体の正体に気づいたのでしょうか?」
最初に問いを投げかけてきたのはヒラマの方だった。
「いや、わかりませんが、何となくイメージはつかめました。あれは元々、私たちの内側を流れていたものではないのですか? 熱湯のようにグツグツ煮滾って、急流のようなうなりを上げながら……」
「おおむね、正解です。あれはかつて「血」と呼ばれていたものです。生理学的には、それは全身に酸素を運搬する生命維持に欠かせない液体であり、文化的には野蛮の象徴だったり、血縁関係を象徴する語だったり、ともかく、人間の根っこの部分に寄り添っていたものですよ」
「にわかには信じがたいが、信じますよ。その説明には私の中の微妙な感覚にそぐうものがある。……しかし、そうなると気になるのは、どうして現在人間の躯には血が流れておらず、代わりに小さな立方体がひしめいているのでしょう? 何だか不自然な気がして不気味ですよ」
「そうですね。では、かいつまんで説明しましょう。あなたは、戦争というものをご存知で?」
「戦争? なんですかそれは?」
「そうでしょうね。この世界の常識からはすっぽり抜け落ちていますが、以前の世界においてそれは空気のようにありふれたものでした。具体的には、人間同士が互いに傷つけ、殺し合うことを戦争と呼びます」
「えっ? どうしてわざわざそんなことをするんです?」
「本来の人類というのは、今の私たちと正反対の存在だったのですよ。争い好きで猜疑心が強く、ささいな違いで他者を見下し罵倒し迫害する。だからかつての人類の間では戦争が絶えませんでした。そしてある時、人類すべてを殺してしまえる強力な兵器が生み出されました」
「それは、立方体を破壊するための……ではないのでしょうね。内蔵を破壊するためのものでしょうか?」
「その通り。あの人体標本はね、まだまだ粗いのですよ。実際の内蔵とはより複雑で精緻な器官なのです。だからこそ脆い。そんな脆い人間たちは、爆弾程度で粉々になってしまう……」
「なるほど、それは……恐ろしいですね」
「結局、終末戦争は回避できなかった。世界中で破滅的な爆弾が次々と炸裂し、人類の大半が死滅した。それで人類たちも深い後悔と悲嘆に打ちのめされ、争いから逃れることのできない自分たちの本性がほとほとイヤになった。そこで私たちは、実際の肉体をコールドスリープさせ、代わりにVR装置を使って、夢の中に広大な仮想現実を作り出し、生活の場をそこに映したのです。現在、私たちが現実と思っている世界、あれはただの虚構に過ぎないのですよ、リアリティという一点においては現実と寸分の狂いもないだけで……」
「待て。それならどうして、臓物の世界を立方体の世界に変えるなどという不可解なことをしたんですか?」
「不可解などではありません、必然です。野蛮なものや汚いものを注意深く取り除いた世界を、当時の私たちは求めていたんです。あなただって、コールドスリープに入る前はそうだったはずなんですよ。しかし今はそんなことも忘れ、血と肉の時代へと回帰しようとしている。見過ごすことなど到底できない危険な兆候です」
「危険だというなら、私をどうする気なのです?」
「精神の抜本的な洗浄です。人権思想に基づき同意のもとに行うべきことなので、その必要性についてこのように説明を施させていただきました。同意していただけるのが最善なのですが、もし同意を得られないというのなら強制処置を取らせてもらいましょう。野蛮なやり口で嫌気が差すが、致し方ありません」
たちまち、ハザマの表情が赤く火照っていった。
「たしかに、あなたのいうことは筋が通っている……しかし、それはイヤです。理屈じゃないんだ。そんなものを超越した衝動が私の胸を衝きあげているんだ!」
「それはわがままというものです。受け入れることなどできません。公共のためには、個人の欲望は抑制されなくてはならない」
その「個人」という表現にハザマは根本的な違和感を覚えた。ハザマからすると、自分を襲う衝動が自分一人のものとはどうも思えなかった。かれは何かに取り憑かれているかのように声を切らして叫んだ。
「イヤだ! あれは……狂気なんかじゃなかったんだ。オレは本当に自然な人間へと還ろうとしているんだ! お願いだからその邪魔しないでくれ!!」
ハザマの声は、傷ついたけものの威嚇の吠え声とよく似ていた。激しくも、どこか切ない響きを感じさせた。しかしヒラマは、そんなものではやすやすと打ち崩されなかった。かれは厳粛であり大人びており、モラルに裏打ちされた、抑圧する側なりの確固たる信念を持ち合わせていた。
「抵抗は無駄ですよ。私はこの世界の管理者側の人間であり、この世界を自在に操作できますからね」
そう言うとハザマは立ち上がって、かれの目の前で手をかざしてみせた。途端にかれのまぶたが強制的に閉め落とされ、意識もまた、電気のスイッチをオフにしたかのように闇の中へと幽閉された。
(なんだ、これは……)
落ちているのか上っているのかわからなかった。垂直とも水平ともつかなかった。強いていうならば、メビウスの輪のような表裏のない円環だった。一個の場所に留まっているわけでもなければ指向性のある運動でもない。ただ、漠然とした「ひろがり」のように感じられた。
――暗闇の中で、幻燈のように次から次へと映像が映し出された。極彩色の衣装を纏い、異形の神を装って踊る半裸の巫女。生贄の腹を裂き内蔵を調べることで未来を占う老婆。戦に敗れた捕虜たちの遺骸を使い、建築された血と肉のモニュメント。コロッセオの中で行われる剣闘士同士の血みどろの試合。けものの毛皮を着せられて、野犬に喰い殺される異教徒たち。船出の無事を祈るため、生贄の頭を船体にぶつけて砕くセレモニー。燃え上がる炎の城に囲まれ焼殺される幼い子どもたち。機関銃の一斉掃射によって次から次へと撃ち殺されていく若い兵士たち。核兵器の爆発によって輪郭を失っていく無辜の市民たち。
血に眠る記憶を辿るかのような幻燈の旅の最後に、かれが見たものとは、地平線の向こうへと沈みゆく真紅の夕陽だった。降り注ぐ微熱を帯びた斜陽の中で、かれは自分自身のたましいが氷のように輪郭を失い融解していき、果てしなく大きな何かが自分を掬い上げようとするのを感じた。
そして、かれは目を覚ました。
真上から、淡い蛍光灯の光が降り注いでいた。その光に透かされ、うっすらと透明の膜壁が見えた。ハザマは衝動的に拳を固めてまっすぐ上へと突き出した。
けたましい音を立てながらガラスの壁が粉々に砕けた。その時、鋭利なガラス片はかれの腕を切り裂いた。鋭い痛みとともに傷口から血が噴き出る。
その時、至福感がかれの全身で熱い火花のように弾けた。痛みというもののたしかな「手ごたえ」にかれは目眩すら覚えた。あいまいに宙を浮遊していた自分のたましいを、血と苦痛がたしかな場所に繋ぎ止めてくれたのだ。かれはそう確信し、粉々に砕けたガラス片のうちから一等鋭利なものを握りしめ自分の躯を執拗に抉りつづけた。
湯船に肩まで浸かっているような安楽の感覚と、至福感による熱く激しい昂揚感。かれは思わず叫び声を上げた。
――オレは、還るべき場所に還ってきたのだ!
宏大な自由の感覚が、かれの胸の中で翼のように広がっていった。
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「コイツ、笑ってますよ。どんな夢を見てるんでしょうか?」
「別に、何を見てようが関係ないさ。処置が終わればどうせ矯正される。穏やかな人間になる」
「でも、いい笑顔ですねえ。何だか、見ていてなつかしい気がしてくるなあ」
「なつかしい? よせ、よせ。見ないようにしておくんだ。見ているつもりになっているだけで、実際は何も見ていない。そんな幼っぽい時が案外、人間にとって一番平和な時期なんだから……」
執筆の狙い
短編がかけたので投稿します。だいたい一万字です。こういうのって、どうなんでしょうね。