作家でごはん!鍛練場

銃声とピンク

 殺す。マジ、ぶっ殺す。
 心の中でだけ呟いていたつもりだったけど、もしかすると声に出ていたかもしれない。
 大粒の涙は枯れることなく頬を流れ続け、高槻から枚方へ続く国道百七十号線を私は制服のまま一人、真っ直ぐに歩いていた。
 行き交う車達は夜を待ちわびていたかのようにヘッドライトで街を照らし、いつの間にか薄暮は闇へ。秋の夜。暑くも寒くもない気候で、気持ちが良い季節だった。私が大好きな季節。でも今夜はそれを素直に受け入れられなかった。何となく寂しい空気。どうしようもないくらいに秋という季節を寂しい季節だと感じた。寂しさは秋の色、なんて、はは、昔の人はよく言ったもので笑えない。てか、泣く。泣いてしまう。
 だって、環汽はもう私の側にいないのだから。
 ちょっと前まであんなに仲良しだったのに。いろんなところに二人で行って、美味しいものをたくさん食べたのに。テニス部の試合を、ちゃんと総合運動公園まで応援に行ったのに。修学旅行では北海道で夜中に二人で相引きしたのに。
 環汽は私にとって最も遠い存在になってしまった。

「ごめんな、宇井。でも、俺、もうこれ以上宇井と付き合ってくこと、できひんねん」
 中三から、もう二年も付き合っている環汽に急にそんなことを言われるなんて、想像だにしなかった。
「ちょっと待って。意味分かんない」
 私は今までにしたことのないような笑顔を浮かべて言った。
 本当に頭の回転が止まってしまうと、表情というものはこんなにも崩れるものなのか、と一つ学んだ。いや、そんな余裕があったわけではないけど、とにかく凄い顔になっていたと思う。それで環汽もちょっと怯んだけど、もう何がどうなろうと彼の中では答えを決めていたようで、話を覆すには至らなかった。それどころか、話はどんどん悪い方向へ流れていく。
「ほんまにごめんな。でも、どうしても別れてほしい」
 放課後の、二人きりの階段だった。まだ夕暮れにはほど遠い時間。運動部の元気な声が校庭の方から微かに聞こえた。
「何で? 何でそんなこと急に」
「別に好きな人ができてん」
 環汽は私の目を見ずに言った。
 瞬間、吹雪のように冷たい風が身体をすり抜け、廊下を向こうの方へ駆けていった。
 は?
 それは何か違うくない?
 焦りに焦って、ブルーに悲しかった気持ちの上にペンキの様な真紅の怒りがひっくり返って、瞬く間に染みた。それに気付いてか環汽は、「ほんま、悪いと思ってる」と被せた。
「誰よ、好きな人って」私も目を合わせずに言った。自分でも分かるレベルで声が震えていた。
「ん、あの、えっーと、夏海」
「は?」
 今度ははっきりと声に出た。
「だからごめんって」
「夏海って、あんた。あの夏海?」
「うん。まぁ、多分、その夏海」
 夏海とは、坂下夏海。私のクラスメイトで、しかも同じグループの女の子だった。よりにもよってそこかよ。マジかよ。
「どういうこと」
 私はここで初めて語気を荒めた。
「だから、ごめんって」
 環汽は少し弱って言う。そんな言い方したって誤魔化されないぞ、この肉食獣。なんて思いつつ私は怒りで震えた声で更に聞く。
「夏海と付き合う気なの?」
「いやー、あの、実はもう付き合ってる」
「はー?」
 これには心底呆れた。
「マジでどういうこと?」
「いや、まぁ、すまん。実はそういうことやねん」
 なんて環汽は開き直ったように言う。
 私とそうそう変わらないけど、少しだけ背の高い環汽が項垂れて、結局私と同じくらいの背丈になる。
 そりゃ確かに夏海は身長だって百五十弱しかなくて小ちゃくて可愛いらしいけど、でも私の友達なんだけど。それは無いだろ。私は思う。底知れぬ怒り、そしてそれとは別に現実を受け止めきれない自分もいた。
「それ、本当の話?」
 絞り出すような声で聞いた。
「ほんまやねん。悪いんやけど」
 環汽がそう言って憎たらしい苦笑いを浮かべるから、ペチン。その頬を思いっきりぶって私は校舎を駆けてった。
 宇井ー、と私を呼ぶ環汽の声を背中に感じたがもう無理で、一度も振り返らずに走った。

 それで、今。国道百七十号線。
 ちくちょう。許さない。ぶっ殺す。
 なんて、歩き出したのだが、私がここを歩き切って枚方に着こうとも環汽をぶっ殺したことにはならなくて、何一つ成し遂げたことにはならなくて、じゃ、いったい何のために歩いているのかと言われるともう意味が分かんなくて、横たわる淀川が見えた時に、いっそもう私がこの汚い川に身投げして死ねばそれで綺麗に終われるんじゃないかと思いつき、そうだ、そうしようなんて、枚方大橋を渡り切った頃にはもう、自分が死ぬ、死んでやろう、ということでほぼほぼ気持ちが固まっていた。
 街明かりを背に河川敷へ降りて行くと暗く、小さいながらも力強く川の音が聞こえる。夜の淀川は黒く、流れこそ早くないが、やはり身投げというものは冷たく辛いんだろうなぁ、なんて私は少し挫けそうになった。が、踏ん張る。気持ちをぐっと固める。
 だって、もう生きてたって仕方ないし。
 環汽、あんたはどこまで理解してたのか知らないけど、私は本気であんたのことが好きだった。あんたのその可愛いらしい童顔も、ちょっとなよなよした性格も、好きだった。そんなに上手くないテニスだって、それでも走ってる姿、かっこよかったよ。私の黒髪、綺麗って褒めてくれたのすっごい嬉しかった。さよなら。本当は殺してやりたかったけど、もういろいろ面倒だし、人殺しなんて私にはできないから自分が死ぬわ。
 心の中でそれだけ言うと、私は河岸の柵に手を掛けた。風は微風、秋の虫の鳴く声がする。では、さよなら世界。
 が、その時、「おーい!」と誰かが私の背に声をかけた。大きな声にびっくりして振り向くと、駐車場から男が一人、すごい勢いで私の方に走って来るのが見えた。
 男は中年、おそらく四十代後半ってくらいの年頃で、スーツ姿。どう見てもランニングには見えない感じ。てか、それより何より物凄い形相だった。
「え、何?」
 男はどんどん私に近づいてくる。
 最初は私の自殺を止めようとしているのかと思った。が、何か違うっぽくて、それにしてはそんなに必死になる? というような顔だった。てか、怖かった。いくら死に片脚を掛けた状態でも怖いものは怖いのだ。私は反射的に逃げようとしていた。その時、
「助けてくれ!」と男は私に叫んだ。
 理解不能だった。
 私は背はちょっと高い方だけど身体つきは華奢だし、何だか分からないけど、どう考えてもあの男を助けられるような人間には見えないと思う。そもそもあちらは中年男性、私は制服姿の女子高校。あちらの方が戦闘力は高いに決まっている。何からどう助けろというのだ。
「助けて!」
 なおも叫んでくるので私ははっきりと、
「無理です!」
 と叫び返した。それで男は何か言いたげな表情を浮かべたが次の瞬間、乾いた破裂音が河川敷に響き、ばたっと芝生の上に倒れてしまった。
 え?
 は? 酔っ払ってる? や、でもそんな感じじゃなかった。
 倒れた男は動かなかった。
「ちょっと、ちょっと、おじさん。大丈夫?」
 さすがに放ってはおけないので声を掛けた。でも一向に返事はない。動かない。
 不気味ではあるが、恐る恐る近づいてみる。てか、どうしようか。こういう場合はまず警察? それとも救急車? これから死のうって時に、どちらにしても迷惑な話だった。その時、
「見ない方がいい」
 と暗闇から声がした。
 はっとして声がした方を見ると、痩身の男が一人立っていた。
「あ、はい」
 なんて応えるも私は何が何だか分からなかったが、男の手に握られたものを見て身体に電流が走った。
 拳銃。
 そういえばさっきのパンって音、あれはまさか銃声? じゃまさかさっきのおじさんは撃たれたってこと? そんなことある? なんて思って倒れたおじさんに目をやろうとすると、「だから見るなって」と男に再度言われて身体が硬直する。男はゆっくりと私に近づいてきた。
「お嬢ちゃんさぁ、こんなとこで何してたの?」
 そう言った時、初めて男の顔がはっきりと見えた。縁のある眼鏡、無精髭、不健康そうなくしゃくしゃの髪。痩せた、病気のロバみたいな男だった。
「え、あの。死のうと思って」
 私は正直に答えた。
 すると男は「はぁ?」と呆れたような声で言うから私は何故か「すいません」と謝ってしまった。
「しかし参ったなぁ、もう。こんなとこに人がいるなんて」
「すいません」
 迷惑をかけてしまったようなのでなおも謝る。
「とりあえず一緒に来てよ。見られちゃったんなら素直に帰すわけにもいかないし」
 そう言われて内心嫌だったけど断る勇気もなく、男に促されるまま駐車場まで歩く。
 ぼろぼろの軽自動車が一台だけ停まっていた。「おい」と男がその車の窓を叩くと、中から女が煙草を吸いながらダルそうに降りてきた。
「終わった?」
「ああ」
「てか何? この子」
 女は少し眠そうな目で私を見て言った。実際、眠っていたのかもしれない。長身で、私よりも少し背が高かった。長い真っ直ぐの黒髪にがりがりの身体。ハスキーな声が印象的だった。
「見られたんだよ」
 男が面倒そうに言う。
「はぁ? 現場を?」
「そう」
「アホちゃうか」
 棘のある言い方だった。で、男の方もムッとしてキレる。
「うるせぇな。仕方ないだろ。あんなとこに誰かいるなんて思わねぇし。事故だよ、事故」
「いい加減な仕事ばっかしてるからそんなんなるねん」
「だから事故だっつってんだろ」
 何か、私のことで揉めてる。
 当事者だけど、何も言うことがないので黙っていた。
「とりあえず車乗り」
 女にそう言われて私は後部座席に座る。
 車でも二人は言い合っていて、あ、何か悪いことしたんやな、私、なんて気まずくてずっと黙っていたら、私の家の割と近くで、見覚えのあるマンションに車が停まった。
「降りろ」
 と、男に言われて、わっ、何その台詞映画みたい、なんて思ったけど、言っても仕方ないし、何も言わずに黙って車を降りた。
 マンションの部屋は小綺麗で、無駄なものはほとんどなく簡素だった。あまりキョロキョロと周りを見回すと怒られると思い、カーテンの緑を何となく見てた。
「あれ。あんたその制服、もしかして芥川?」
 女が私の制服を見て行った。芥川とは芥川高校。私の通っている高校の名前である。
「そうですけど」
「へぇ、奇遇やなぁ。うちと菊地も芥川卒よ。もうずっと昔の話やけど」
 そう言って笑った女は少女のようだった。笑うと印象が変わる人だなと思った。
 私がキョトンとしていると女は続けた。
「あ、菊地ってのはあの痩せっぽちの男のことな。うちはウー。海子っちゅう名前やねんけど、みんなウーって呼ぶからウーでええよ」
「はぁ」
「あんた、名前は?」
「あ、藤村宇井です」
「フルネーム」
 そう言って男、菊地さんは笑った。確かに何でフルネームで言ったんだろ。
「宇井ね、オーケー。ほら、飲み」
 と、ウーさんがコーヒーを出してくれた。
 一口飲むと少し気が落ち着いて、大胆にも攻めた質問をしてみる。
「あのー、さっきの河川敷での話なんですけど、あれってその、もしかして……」
「おっと、それ以上は言うなよ」
 と、菊地さんは手をかざして私の言葉を遮った。骨ばった手。眼鏡の奥の鋭い目に私は少したじろいだ。
「あんま知らん方がええんとちゃうかなぁ。そこは。でもあんた、見てもうたんよね?」
「はい。まぁ」
 今になって冷静に考えると、あれは何だったのか、だいたいの想像がつく。
「で、どうすんの、菊地」
「どうするって、こういう時マニュアルではどうなってたっけ?」
「知らん。自分で調べや」
 そう言われて菊地さんは面倒そうに頭をかいて「マニュアル、どこやったかなぁ」とブツブツ言いながら隣の部屋に入って行った。
 何? マニュアルって。
「あの、一つ聞いていいですか」
「何? あんた、意外とぐいぐい来るなぁ」
「あの人、菊地さんはずばり殺し屋なんですか?」
「うわ、ストレート」
 そう言ってウーさんは笑った。
「やっぱそうなんですか?」
「あー、まぁ、せやな。てか、今更ちゃう言うてもあんた信じひんやろ。驚いた?」
「まぁ、それなりには。殺し屋の人なんて初めて会いましたから。てか、ウーさんも殺し屋なんですか?」
「ちゃう、ちゃう。うちはただのアシスタントよ。普通の会社で言う営業事務的な感じ」
 いや、殺し屋のアシスタントと営業事務ってだいぶ違う気がするけど。
 すると菊地さんが何やら国語辞典のように太い本を持って部屋に戻ってきた。おそらくあれが話に出ていたマニュアルなんだろう。
「分かった?」
「分かったけどさぁ。やっぱバツみたい」
「あー、まぁそうやろね」
 ウーさんはそう言って残念そうに煙草に火をつけた。
「バツって何ですか?」
 私ははっきりと聞いた。
「聞きたい?」
「いや、自分の身に起こることなら」
 菊地さんは観念して話し始める。
「バツってのはつまりダメってこと。生かしちゃダメって。だからつまりその、顔を見られたなら口封じしないとって意味」
「つまり、殺すってことですか? 私のこと」
「まぁ、簡単に言うと」
 頭の中でバリッと雷鳴が鳴った。
「ちょっと無責任過ぎません?」
「え?」
「いや、だって自分がミスしたんでしょ、つまりは。なのにそれで関係ない私を殺して終わりってどういうことですか? それ、何の解決にもなってなくないですか?」
「いや、それは」
 菊地さんは痛いところを突かれたという感じで髪をかいた。この人は多分、髪をくしゃくしゃするのが癖なんだろう。
 で、私はというと止まらない。緊張でせき止められてた言葉が怒りの決壊で洪水のように流れ出す。
「例え、ここで私を殺しても、次菊地さんがまた同じミスをしないって保証ありますか? 無いですよね? そんな感じでこれからもミスったら殺すって、そんなんでいいんですか?」
 菊地さんはヘルプという感じでウーさんを見た。
「うん。残念ながら、宇井の言うことの方が正しい」
 ウーさんは笑って言った。
「は? じゃ、どうすんだよ?」
 菊地は苛立った声で言う。
「うるさいなぁ、とりあえずええやん。それより宇井、あんたお腹空いてへん?」
 そう言われると急にお腹が空いた。素直に「空きました」と言うとウーさんは「じゃ、ご飯にしよう」とパチンと指を鳴らしてキッチンの方へ歩いて行った。「おい、何でだよ」と、菊地さんはウーさんの背中に怒鳴ったけど、ちょうど電話が鳴り、舌打ちをして別の部屋に消えていった。
 それから私は一人テーブルに座ってウーさんが料理をしている様を見ていた。ウーさんは手慣れた感じで、その作業は無駄がなく綺麗で、見ていて飽きなかった。
「あんた、いくつ?」
 野菜を切る手元に目線を落としたまま、ウーさんが私に言う。
「十七の高二です」
「若っ」
「そうですか?」
 普段は年の近い人達としか付き合いが無いので「若い」なんて言われたことがない。若いのか? 私は。まぁ、そりゃ若いっちゃ若いか。女子高生なんだから。
「一番楽しい時やん」
「いや、まぁでもいろいろありますよ」
 そう、本当にいろいろあった。嫌なことを思い出してしまった。
「羨ましいわぁ。うちかて戻れるならあの頃に戻りたい」
「そんな良いもんじゃないですよ」
「何? 何か嫌なことでもあったんか、若者」
 聞かれたので、私は環汽とのことを話そうと思った。そう言えばフラれたてほやほやで、まだ誰にも話してない。ひどい話だし、誰かに聞いてほしいという気持ちはあった。
 それで「実は……」と話始めたのだが、「あ、ちょっと待って。その話長い?」とウーさんにいきなり止められてしまった。
「ま、ちょっと長いかもですけど。どうしたんですか?」
「卵切らしちゃってて、悪いんやけどちょっと買ってきてくれへん?」
「何作ってるんですか?」
「炒飯」
 ウーさんはフライパンで刻んだ野菜と豚肉を炒めながら言った。
「別に卵がなくてもよくないですか?」
「いや、炒飯に卵がないとかあかんやろ」
 そう言ってウーさんは電子レンジの上の灰皿に乱雑に入れられていた小銭を握って私にわたした。
 それで私は卵を買いに出る。
 特殊な経験をしたからか、いつもと変わらない近所の風景なのに、どこか違う場所のように感じた。場所っていうか空気。そう、何だか空気がいつもと違った。
 近所だから向かうのもいつものスーパーで、いつもの見慣れた卵売り場。で、パックに記載された賞味期限を確認している時にフト思い出した。何をって、環汽と別れたこと。
 そうだ、私はもう一人なのだ。
 買い物をしていても、散歩をしていても、学校に行っても、勉強してても、放課後に友達と喫茶店に行っても、いつもは心のどっか、必ず環汽が一緒にいた。でもそんな日々は唐突に砕けて、今の私は一人。どこへ行っても何をしていても一人なのだ。
 それは私にとって、物凄くキツいことだ。
 いや、多分私だけでなくて、普通キツいと思うけど、当たり前のように側にいた存在が急にいなくなってしまうというこのキツさは、これは実際に経験してみないとなかなか分からないことだと思う。これに耐えて生きるなんて私にできるのだろうか。
 無理だ。
 てか、そうだ、無理だと思ったから死のうと思っていたのだ。なんだかんだとまだ生きてるけど。肌寒いスーパーで卵買ってるけど。
 ちくしょう。何か情けない。あいつは、環汽は今頃笑っているのだろうか。連絡でも取り合って、夏海と幸せに笑っているのだろうか。
 苛々と悲しさと情けなさとが心のミキサーで混ざり合い、混沌として、私はわちゃわちゃの頭のままスーパーのレジ袋をぶら下げてマンションまでの夜を歩いた。
 玄関のドアを開けると部屋の中から怒鳴り声が聞こえた。どうもまた二人が揉めているようだった。
「どうしたんですか?」
 恐る恐るリビングのドアを開けると、二人は怒鳴るのを止めて私を見た。部屋の中の空気が一瞬凍ったようだった。
「お前。戻ってきたの?」
 菊地さんは驚いた声で言った。
「あ、すいません。ダメでした?」
「いや、ダメってわけじゃないけど」
「だから言ったやろ。宇井はちゃんと戻って来るって」
 ウーさんはそう言って菊地さんの頭を叩いた。
「何があったんですか?」
 私は卵をウーさんにわたして聞いた。
「宇井に卵を買ってきてもらってるって言ったら菊地が怒ってん」
「いや、そりゃそうだろ。どこの世界に現場を見られた要注意人物をお使いに出す殺し屋がいる?」
 菊地さんは反論するように言った。それは確かに正論だと思った。
「だから宇井は大丈夫やって言うたやろ」
「知るかよ。にしてもお前もお前で何でわざわざ戻ってきたんだよ?」
 そう言われると自分でもよく分からなくて笑うしかなかった。何故だか、逃げようという気にはまったくならなかったのだ。
 その後、ウーさんが作った炒飯を三人で食べた(もちろん卵も入っていた)
 炒飯は少し味が濃かったが美味かった。三人とも食べる時は静かで、微かな咀嚼音のみ。食卓、私は水をぐびっと飲み、言う。
「殺してほしい奴がいるんですけど」


 私はギャンレイの運転するマッハバイクの後ろに乗って名神高速をぶっ飛ばしていた。景色は瞬間、置き去りにされて、そこにあるのはまさに風のみ、オンリーという感じ。私はギャンレイの硬質な腰に腕をしっかりと回す。

 私には一人弟がいる。
 普通、姉弟であれば弟が姉の影響を受けて少女趣味になるものだが、うちの場合は逆で、私が弟の好きなものにモロに影響を受けていた。何とも情け無い話ではあるのだが。
 それで一番好きだったテレビ番組が、このギャンレイ。
 正式名称は「宇宙警察ギャンレイ」というのだが、所謂特撮系のヒーローで、ロボコップ風のシルバーのボデーに旭日章のパクりのような額のマーク、これが幼少の頃、どうにもかっこよかった。
 ギャンレイの世界、どっから湧いてきた連中かは知らないけど、悪人グループがいて、彼らはどうしてもこの世界に嫌がらせをしたいようで、毎回些細なことに因縁をつけて街行く人々にどう考えても嫌がらせとしか思えないようなみみっちい悪事を働く。それも極めて大雑把に。で、毎回毎回ギャンレイに見つかってきっちり成敗されるのだ。うわぁ、なんつって。その姿は爽快。実に爽快だった。
 で、これは割と最近の話だけど、そんなギャンレイの原作者のインタビューを私は偶然テレビで目にした。
「ギャンレイは毎回悪人を倒しますが、決して相手を殺したりしませんよね」
 インタビュアーの言葉に、確かに思い返してみればそうだったことに気付く。
 悪人達はいつもギャンレイにやられて、最後は遠くの空にピカーンとぶっ飛ばされて消える。明確な殺傷シーンは一度も見たことがなかった。
 ギャンレイの原作者、名前は分からないけど、どこかで見たことのあるお爺さんはインタビュアーに対して、「だって、悪いことしたからって何も殺すことはないじゃないですか」と静かに言った。
 ギャンレイの原作者は特撮業界では巨匠に位する存在で、且つそのもの静かな話し方には妙な説得力があり、インタビュアー、スタジオでVTRを観ていたタレント達も皆その言葉に深く頷き、「なるほど、そうですよねぇ」「そういうところがやはり教育を意識した特撮なんですよねぇ」なんて賞賛混じりのコメントをしていた。
 しかし、私はというと正直、それを聞いて「果たしてそうか?」と疑問を抱いていた。
 そりゃもちろん殺生は良くない。分かってる。ただ、ギャンレイの敵にもいろいろな奴がいて、基本的には少しタチが悪いだけの小悪党が主なのだが、中には幼心にも「マジ?」とドン引きしてしまうような外道に位置付けられるような輩もいて、正直私はそんな奴ならば殺しちゃっても良いんじゃない? と思った。本当に悪い奴は、たとえ空の彼方にぶっ飛ばしても多分また同じように悪いことを繰り返す。それならいっそ、と私は思うのだ。
 今だってそうだ。
 人の友達に手を出した挙句、二年も連れ添った彼女をポイ捨てするような外道はぶっ飛ばすだけじゃ飽き足らない。殺して然るべし。私はそう思う。
 ねぇ、ギャンレイ。あんたもそう思うよね?
 あんたは私の味方だよね?
 ギャンレイは運転に集中しているのか、前を見据えたまま何も言わない。だから私はねぇ、ねぇ、ギャンレイ。聞いてるの? と、その屈強な腕をつつく。それでギャンレイも気付いた。
 ぶっ殺したいよね。
 台詞に似合わず私はキラキラした目で言う。
 しかし、私の問い掛けに振り向いたのは、ギャンレイではなかった。菊地さんだった。ギャンレイはいつの間にか菊地さんに変わっていたのだ。メタリックのヒーローがロバみたいな男に。ちょっと幻滅。
 でも何か、もう。別にそれでも良いかなと思った。


「そろそろ起きろ」とウーさんに鼻をつままれ、痛い痛いとなって起きたのはもう昼前十一時。
 緑のカーテンは開け放たれ、窓からは乳白色の木漏れ日が差し込み、壁の白をより白にしていた。圧倒的な晴天。しかし寒かった。私はソファの上、無意識のうちに毛布にぐるぐる巻きになっていた。
「今日、何か寒くないですか?」
「そう? 最近はずっとこんな感じちゃう?」
 ウーさんは紺色の七分丈のチノパンに上は白のロンティーという薄着。黒のブラが薄っすらと透けていた。
「何、あんた寒がりなん?」
「別にそういうわけじゃないんですけど」
 と、言っても私は制服ブレザーを着込んだ上に毛布まで被っている現状。説得力に欠けた。
「おはようございます」
「もうおそようや。ご飯食べる?」
「あ、いただきます」
 寝ぼけ眼で食卓に座る。菊地さんはいないようで、ウーさんと私、二人だった。朝(昼?)ご飯は栗御飯と春巻とシーザーサラダ。あまり見ない組み合わせだなと思った。
「栗御飯、作り過ぎてもうてな。宇井が来てくれてちょうど良かったぁ」
 来てくれてって言うか、あんたらが強引に連れてきたんだけどな。ウーさんは何だか朝から幸せそうな人だった。とても殺し屋のアシスタントには見えない。
 昨日は結局、夕飯を食べた後、三人でダラダラとテレビを観て、やがて寝た。
 私に対する処遇は決まらず。夕飯前はがやがや言っていた菊地さんですら、それ以降は何も言わなかった。
 でもそれはもしかすると、殺すつもりで連れてきた奴から逆に殺害依頼を受けるという思わぬカウンターパンチを食らったからかもしれない。
 あの時、二人とも狐につままれたような顔をしていた。

「何? どゆこと?」
 ウーさんはちょっと笑って言った。
「殺してほしい奴がいるんです」
 私は再度、今度は菊地さんの目を見てはっきりと言った。菊地さんは炒飯をもぐもぐ食べながらそんな私を訝しげに見ていた。
「まだ高校生のくせに誰を殺したいって言うんだよ。馬鹿らしい」
「菊地、きっと何か訳ありやねんて。ちゃんと話聞いたろうや」
 ウーさんが挟む。私は堪えきれず、
「だってもう二年も付き合ってきたのに浮気してポイですよ。しかも相手は私の友達」
 と、ちょっと大きな声を出した。
「何だよ、男かよ」
 菊地さんが嘲笑うように言った。それで少しカチンときた。
「悪いですか?」
「おいおい。怒んなよ」
「だってそんな言い方するから。私、本気でお願いしてるんですからね」
 と、言ってむくれる。するとフォローのつもりかウーさんが「まぁ、ヤングアライブインラブやからなぁ」と言ったが意味不明で、私も菊地さんも「ふん」なんて言って炒飯の続きを食べた。
 で、それ以降その話には誰も触れなかった。

「美味しいですね、栗御飯」
 私は素直に言った。ウーさんの作った栗御飯は本当に美味しかったのだ。
「ごま塩があればなぁ。もっと良かったんやけど」
「そうですかね」
 と、言ったものの、私は特にごま塩の必要性を感じなかった。
「てかあんた、学校は?」
「今日はもういいんです」
「サボりかよ、不良少女」
 私はソファの横に置きっぱなしにしていた鞄から携帯を出して見た。
 雫句からメールが来ていた。
『宇井、大丈夫? 話、ちょっと聞いた。今日はもう来ないん?』
 ってやはりもう話は広まっているのか。噂が広まるのが異常に早いうちの高校、すぐに環汽と私の話も広がるんやろなぁ、と思ってはいたけどそれにしても早い。
『心配してるからまた連絡ちょうだい』
 と、更にもう一通来ていた。雫句。彼女は高一から同じクラスで仲が良い友達だった。恥ずかしげもなく親友って言ってもいいくらいの間柄の友達。
 この雫句と私と夏海の三人が一年からの仲良しグループだった。
 さすがに夏海からは連絡はなかった。夏海のことだ、どうせ気まずくて死にそうになってるんだと思う。あの子はそういう子だ。
「な、煙草吸いに行こうや」
 ウーさんにそう誘われて、煙草なんて昨日からずっと部屋でスパスパ吸ってるのになぁ、という疑問と、私、煙草吸わないんだけどなぁ、という疑問を抱いたまま、それでも特段断る理由もないので二人で家を出る。
 ウーさんのマンションの近所、それは同時に私の家の近所でもあるのだけど、とりあえずこの近辺には公園が多い。そのどれもが遊具が二、三あるくらいの小さな公園で、それならいっそ敷地をまとめて大きな公園を一個作れば良いじゃんと思ってしまうのだが、土地利権、都市開発、少子高齢化なんて、それはそれで簡単なことではないのだろうなぁ、と納得をして今に至る。
 ウーさんはその中でもまだ大きめの公園を選び、滑り台の上に登って煙草に火をつけた。
「宇井って何で標準語なん?」
「私、小学校までは関東だったので」
 私はベンチに腰掛けて、滑り台の上、背中に青空を背負ったウーさんを見上げて言った。
「へぇ、東京?」
「千葉なんですけど」
「じゃ菊地と一緒だ」
「え、菊地さんって千葉の人なんですか?」
「千葉の人っていうか大学が千葉やったんよね。高校まではこっちやってんけど。だからあいつも標準語やろ? 向こうで感化されて帰ってきたんよ」
 てか殺し屋なのに大学出てるんだ。そこの方が驚いた。
「で、それで宇井は何で今は大阪?」
「まぁー、いろいろと家庭事情がありまして」
 そう、うちはちょっとややこしい家庭環境なのだ。
 しかしウーさんはそれ以上は興味がなかったのか、「ふぅん」とだけ言ってまた美味しそうに煙草を吸っていた。秋の陽気。公園の景色は色鉛筆で描いた絵のように淡く、光に染まっていた。
「あのさ、てか何で殺したいの? その元彼。って元彼で合ってる?」
 しばらく黙っていたウーさんが急に言った。
「元彼です。だと思います。何でって、ムカつくからに決まってるじゃないですか」
「まぁ、そりゃ、ムカつくわなぁ」
「ウーさんだったら殺したいって思いません?」
「どうやろうなー」
 実に中途半端で無責任な言葉だ。私は何も言わなかった。どこかから布団をパンパンとはたく気持ちの良い音が聞こえる。
「まぁ、浮気の良くないところは自分のことを信じてる誰かを裏切ってるってことだわね」
「分かってるじゃないですか!」
「でもその信じてるってのも、実はひどく曖昧な感情なんやけど」
「何が言いたいんですか」
「や、これ以上はやめとくわ」
 うん、そこはもうやめておいてほしい。


 次の日の夕方、しびれを切らした弟の悟留から電話がかかってきた。
「馬鹿姉、今どこいんだよ?」
 ちょっと怒り口調だった。
「ごめん。近所っちゃあ近所なんだけど」
「どうせちょっとしたら帰ってくんだろと思ってたら、もう三日だぞ。何してんだよ? あの彼氏と一緒か?」
「いや、違うよ」
 てかもう彼氏ですらないよ。
「今日、雫句さんが心配して来たぞ」
「えー、マジか。そう言えばメール返してなかった。ごめん」
 そう言う今でもまだメールを返す気にはなってないんだけど。
「で、まだ帰って来ないの?」
「うーん、そうねぇ。ごめん」
 雫句や悟留には悪いけど、何故だか今は帰ろうという気にならないのだ。ここにいたら命だって危ないのかもしれないのに。自分でも不思議だ。
「まぁ、身体に気をつけろよ。てか、変なこと考えんなよ」
「変なことって何よ?」
「いや、まぁ別に何ってわけじゃないけど」
 妙にたどたどしい言い方。三日も帰ってこない姉に対して悟留も何かを感じ取ってくれているようだった。
「お婆ちゃんは元気?」
「元気って、これを元気って言っていいのかは分からないけど、とりあえず変わりないよ」
「気苦労かけるね」
「思ってもいないくせに」
 それで電話を切った後すぐ、菊地さんが帰ってきた。
 帰ってくるなり私を見て、「なんだぁ、お前まだいたのかよ?」と怪訝そうに言った。
「だって、勝手に帰ったらまた怒るんでしょ?」
 私がそう言うと菊地さんはバツの悪そうな顔をした。私も私でどうしたいのか謎だが、菊地さんも菊地さんでどうすればいいのか分からなくなっているのだと思う。
「海子は?」
「十五分くらい前に買い物に出ましたよ」
「あぁ? てか、あいつ飯作ってねぇのかよ?」
 菊地さんはキッチンを覗いて言った。
「多分、その買い物かと」
 菊地さんは更に冷蔵庫を開き、すぐに食べられそうなものがないことが分かると大きな舌打ちをした。それで少し考えた顔をして、「なぁ、飲みに行こうか?」と私を誘った。
「私、一応未成年なんですけど」
「最近の高校生はカタいね。別にジンジャーエールでも何でもいいだろ」
「でもウーさん、多分買い物から帰ってきたら夕飯作る気ですよ」
「知るかよ、そんなもん」
 菊地さんは吐き捨てるように言った。
 私は例え何回生まれ変わろうとも絶対にこの人の嫁にはなれないなと思った。
 それで仕方なく二人で外に出る。大通りまで出ると菊地さんは迷いなくタクシーを停めた。
「何食いたい?」
 走り出したタクシーの中、菊地さんが聞いた。
「え、別に何でもいいですけど」
「何でもって何だよ。奢ってやるから金なら気にするな」
 殺し屋という職業はやはり儲かるのだろうか。まぁ女子高生相手に割り勘なんてオッサンもなかなかいないのかもしれないけど。
「じゃ、焼き鳥」
「そんなもんでいいのかよ」
 菊地さんは笑う。
「だって飲みに行こうって言ってたから、それなら焼き鳥なのかなぁって思ったんですよ。私のイメージですけど」
「あぁ、酒といえば焼き鳥的な?」
 私は頷く。私の周りにはお酒を飲む人がまったくいないので、それもドラマや映画で観たイメージなのだが。「なるほど、なるほど」と菊地さんはちょっと嬉しそうだった。
 やがてタクシーはセンター街の入り口に停まる。菊地さんは当然のようにタクシー代を払ってさっさと車を降りて行った。
「もう一人呼ぶぞ」
 菊地さんにそう言われて、私としては二人きりもちょっと気まずいので丁度良くて「どうぞ」と頷いた。
 少し先を歩く菊地さんの背中を追って歩く。菊地さんは歩くのが速く、油断したら置いていかれそうだった。
 辿り着いたのは私のリクエスト通りの焼き鳥屋さんで、ドラマで観たイメージ通りの居酒屋という感じの店だった。菊地さんは生ビール、私はジンジャーエールを注文した。
「てか、もう一人って誰が来るんですか?」
「さっきメールしたからじきに来るよ」
 なんてまったく私の質問の回答になっていない。ジンジャーエールは思っていたよりも甘かった。濃かった。
 二人でうだうだと焼き鳥をつまんでいたら、菊地さんの呼んだもう一人であろう人物、坊主頭の男の人がフラっと私達の席にやってきた。
 男の人はヨレヨレのロンティー、華奢な身体付き、年齢は不詳、真面目そうな人なのだが、何となく「浪人生」という言葉を連想させるような出で立ちだった。
「小嶋です。初めまして」
「あ、藤村です」
 ぎごちなく挨拶をする。
「今日はフルネームじゃねぇんだな」
 なんて菊地さんは笑うから私はちょっと睨む。それで菊地さんは仕切り直して、「俺の職場の後輩、小嶋」と指を銃みたいにして紹介した。
「職場の後輩ってことは小嶋さんも殺し屋なんですか?」
「あ、そうですよ。見えないってよく言われるんですけど」
 そう言って小嶋さんは舌を出して笑う。本当に殺し屋には見えない。てか、そんな簡単に殺し屋とか素性を明かしていいのかよ、と思った。
「小嶋も飲めよ」と菊地さんは小嶋さんにビールを勧め、小嶋さんも「あ、じゃあいただきます」だなんて言って生中で乾杯しちゃって、その様子はどこからどう見てもフッツーの一般人だった。私はそんな二人をもの珍しそうに見ていた。
「何だよ、じろじろ見て」
 と、お酒で少し陽気になった菊地さんが軽く私の肩を突いた。
「何か違和感だらけで面白いから」
「違和感?」
「だって普通、殺し屋の人ってこういうとこでお酒飲んだりしなくないですか? もっと何というかこう、バー的なとこに行くイメージ」
 私がそう言うと二人はゲラゲラ笑った。
「お前、そりゃゴルゴ13の読みすぎだよ」
「ゴルゴ13なんて読んだことないですけど」
「ルパン三世とかね」
 と、小嶋さんは少し顔を赤らめて笑った。
「ルパンも読んだことないです」
「そりゃ偏見だよ。お前、殺し屋だって人間よ? 社会人よ? 仕事が終わらなかったら残業するし、家賃補助も多少なりとも出る。んで、たまにこうして後輩と飲んだりする」
「そういうものなんですか」
「そうだよ」
 いや、何か違う、という気持ちを消しきれないのは私が社会を知らないからか、それともやはり私は間違っていなくて、この人達がイレギュラーな人種なのか。
「てかそもそも二人は何で殺し屋になったんですか?」
「僕はずっと武道、空手なんですけど、やってて、その関係ですかねぇ。大学生の時に試合会場でスカウトされて。警察官になるか最後まで迷ったんですけど、結局殺し屋の道を選びました」
 と、小嶋さんが言う。
「へぇ……」
 ツッコミどころが多過ぎて逆にそれしか言えなかった。
「こいつ、凄かったんだぞ。めちゃくちゃ強くて、何だっけあの、学生時代のあだ名」
「あぁ、あれですよ、東海のキラーマシン。もぉー、自分で言わせないでくださいよ」
 何て言って二人で笑い合ってる。この人達、本当に仲が良いんだな、と思った。
「菊地さんは何で殺し屋になったんですか?」
 私が改めて聞くと、菊地さんは少し考えて「まぁー、要は小さい頃からの夢だったんだよ」と答えた。
「夢?」
「ほら、よく小学校とかで聞かれるだろ? 『将来の夢はなんですか?』って。そういうやつだよ」
「それで殺し屋って答えたんですか?」
「そうだよ」
「ちょっと問題になったでしょ?」
 笑っていいのかダメなのか分からなかったけど私は笑ってしまった。
「まぁ、多少はな。でも所詮は小学生の書いたことだからな。本気にはしちゃいなかったよ」
「でも本当になった」
 小嶋さんがお代わりのビールをタッチパネルで注文しながら言った。
「まぁな」
「すごいですね」
「自分で言うのもアレだけど、確かにすごいよな」
 そう言って菊地さんは少し笑った。
 そんなこんなで更にうだうだして、気がついて携帯を見るともう二十二時を過ぎていた。二人は何杯も何杯もお酒を飲み、私はそのペースに驚きつつ、汗をかいた三杯目のジンジャーエールを持て余していた。
「ところで二人はどういう関係なんですか?」
 小嶋さんはずっと気になっていたことをやっと聞けたという感じで聞いた。
「生き別れた娘だよ」
 菊地さんが大真面目な顔で言うので、小嶋さんは「マジっすか」なんてちょっと信じた様子で私の顔を見る。いや、そんな目で見んな。
「ちょっと菊地さん、ふざけないで」
 と、言いつつも菊地さんとしては実は現場の目撃者なんだよとも言いにくいのかなぁ、何てことも思って、その結果「依頼人です」なんて、口からフッと出た。でもこれは別に嘘ではない。少なくとも私はそう思ってる。
「えっ、依頼って殺しの?」
「そうですよ」
「おい。俺は受けたつもりは無いぞ」
 と、菊地さんは私を指差して言った。
「何でなんですか? プロなんだから仕事選んじゃダメでしょ」
 私も言い返す。
「女子高生のくせにどこでそんな言葉覚えたんだよ。とにかく、ダメだ。だいたいお前、金あんのかよ?」
 あ、それは盲点。
 多少のバイト貯蓄こそあるが、大した金額ではない。だいたい人を殺すのって、どれくらいの額が必要なのか? その辺も分からない。私はそこで初めて言葉に詰まった。
「そもそもいったい誰を殺してほしいの?」
 と、小嶋さんが私に聞く。すると、私が答えるより前に菊地さんが「男だよ」と吐き捨てるように言った。
「ちょっと、そんな言い方って無いでしょ」
「だから俺は反対だっての」
「何? 男って彼氏? フラれちゃったの?」
 小嶋さんは見かけによらず私の心をグイグイ言葉で突いてくる。
「浮気されたんだとよ」
 と、菊地さんがまたもぶっきらぼうに言う。皆まで言うな。事実だけど。
「そんなんよくあることだよなぁ」
「どうなんでしょうねぇ。僕、恋愛経験はあまり無いので……」
 小嶋さんは少し困った顔で言った。恋愛経験があまり無いって、初めて外見のイメージ通りのことを言ったので私は少し安心した。
「だって、浮気は酷いでしょ。しかも相手は私の友達よ」
「だからそれがよくある話だって言ってんの。そんなこと、どうせ暫くしたら忘れる」
「忘れられるかどうかなんて、そんなん菊地さんに分からないでしょ」
「分かるよ。お前はまだ若いからそんなこと言うんだよ」
「若いとかどうだとか、悲しい気持ちには関係ない!」
 と、二人ともヒートアップしてきて、だんだん声が大きくなっていた。そこに小嶋さんが「あのー、素朴な疑問をいいですか」と言って割り込む。
「どうぞ」
「殺したいのは彼氏の方なんですよね?」
「ですね」
「普通、殺すなら相手の女の方じゃないんですか? 藤村さんから彼氏を奪った張本人なんですから」
「そうだよ!」
 菊地さんもカブせる。
 これはまぁ、確かにそういう意見もあるな、と納得ができる。が、結論から言うと私は夏海を殺したいとは思わない。
 夏海は中学の頃、私と環汽が付き合い始めるよりも前から環汽のことが好きだった。
 私がそれを知ったのは環汽と付き合い始めてすぐのことだった。事情を何も知らない私が喜びの最中に交際報告をした時、夏海は見事に泣いてしまった。「ごめんね、ごめんね」と何度も謝って「おめでとうね」と無理に笑顔を作っていた。
 後日、そのことを事情を知る友達から夏海の涙のわけを聞いた。宇井、よくそんな残酷なことができたねぇ、なんて多少の嫌味も言われたが、これだけははっきりと言いたい、私は本当に知らなかったのだ。全然気付きもしなかった。そしてもう一つ言いたい。私だって遊びではなく環汽のことが好きだった。
 その後は特に何もなかった(と、私は思っていた)私は環汽と付き合いつつ、夏海とも変わらず友達だった。そりゃもちろん多少の気まずさはあったけど、変によそよそしくなるのも何かおかしいし。
 しかし夏海、ずっと好きだったんだね。環汽のこと。そして私はその気持ちを責めることは何となくできなかった。
 もちろん人の彼氏を取るのはいけない。悪い。でも、例え彼女がいようとも誰かを好きになってしまい想い続けてしまうということは、これはもうどうしようもないと思う。女として、その気持ちは分かる気はする。
 しかし環汽、あいつはそんな私達の健気な恋心を弄んだ。その結果私を捨てた。許すまじ。殺す。
「とにかく、私、菊地さんが依頼を受けてくれるまでずっと諦めないですからね」
「あんまりしつこかったらストーカーで訴えてやるよ」
「自分は殺し屋のくせに」
 テーブルを挟んで私達は睨み合う。間で小嶋さんは苦笑いを浮かべていた。
 結局二十三時過ぎまで居酒屋にいた。
 タクシーに乗ってマンションまで帰ると、ウーさんが仁王立ちで待っていた。その表情からしてやはり怒っているようだった。
「どこ行っててんコラ」
「別にどこだっていいだろ」
 そう言って菊地さんは怒っているウーさんを気にするでもなく冷蔵庫からパックのグレープフルーツジュースを取り出して直で飲んだ。
「夕飯ごめんなさい」
 私は怒っているウーさんにビビって謝った。
「そんなんええねん。てか作ってないし」
「じゃ、いいじゃねぇかよ」
 菊地さんは欠伸をしてソファーに座った。
「よくないわボケ! 殺すぞ! うちはあれをやりたくて待ったんや」
 そう言ってウーさんはカウンターキッチンの上に無造作に置かれたスーパーの袋を指差した。
 袋の中身を見ると、スーパーのレジ前なんかによく売っている花火のセットだった。夏の売れ残り品か、貼られた値段は随分安く思えた。
「花火、したかったんですか?」
「そう。だって今そういうシーズンやろ」
「アホか、もう秋だぞ。普通花火は夏だろ」
 菊地さんの言う通り、私も花火はもうシーズンオフだと思う。でも今のウーさんを前にして、そんなことは口が裂けても言えない。
「いいじゃないですか。やりましょうよ」
 私は無理して明るい声を出す。
「そんなガキ臭いの、俺はやらねぇ」
 菊地さんは吐き捨てるように言った。
「コラ、うちのこと待たせたんやからちゃんと責任取れや」
 そう言ってウーさんは菊地さんのシャツの首元を掴んで言った。これにはさすがの菊地さんも少したじろいでいた。
「さ、屋上行くで。宇井、バケツに水ためて」
 菊地さんはテーブルから私に「やめとけ」と言わんばかりの細目を向けていたが、私はそれに気付かないフリをしてバケツに水を注いだ。
「菊地ー、チャッカマンってどこやっけ?」
 ウーさんが玄関の方から呼んでいる。菊地さんが返事をしないでいるとウーさんはだんだん苛立った声になってきて、それで菊さんも諦めてソファーを立つ。
 屋上に登ると雲一つない大阪の空が頭上に広がっていた。微かながら星も散らばっていた。
「花火日和」
「ちょっと寒いけどな」
 菊地さんがまだ文句を言う。
「そこ、うるさい」
 そう言ってウーさんは菊地さんを指差した。
 ウーさんは大きな花火のセットを三つも買っていた。これはどう見ても三人でやるには多過ぎる量だった。
「けっこう買ったんですね」
 私は苦笑いで言った。
「だってたくさんある方がええやん」
「限度ってもんがあるだろ」
 菊地さんが毒突く。
「うっさいなぁ。ほら、じゃんじゃん行くで」
 ウーさんは自分の持っている花火にチャッカマンの火をあてた。花火はしばらく燻っていたが、やがてチチチチと気持ちの良い音を立てて緑色の光を放つ。
「二人ともぼうっとしてないで」
 私と菊地さんはウーさんの花火から火をもらって自分達の花火に火をつけた。すぐに屋上は明るくなり、夜が赤に緑に黄にと染まった。煙が風下へゆっくりと流れて行く。少し肌寒くはあるが、懐かしい夏の匂いがした。
「火を途切れさせないように」
 そうウーさんが指示を出すので三人、火が途切れないようにどんどん花火を繋ぐ。でも、そもそも用意した量が莫大なので、なかなか花火は減らなかった。
 そのうち、菊地さんはだんだん焦れてきて、四、五本まとめて一気に火をつけだした。
「菊地さん、勿体ないですよ」
「いいじゃねぇか。こんなにいっぱいあるんだから」
 菊地さんはそう言って盛大に燃え盛るカラフルな花火をふざけて私の方へ向けた。
「わっ」
 私は驚いて後ろに飛ぶ。それで菊地さんが面白がって笑った。ちょっとちょっと、と私は少し怒り、それを見てウーさんも笑う。
 結局、その後は三人で花火のかけ合いになった。危ないし、あまりお勧めできたことではないのでだが、何故だかたくさん笑って、楽しかった。
 気がつくとあんなにあった花火はもうなくなっていた。
 花火が終わると菊地さんは眠そうに頭をかきながら部屋に戻って行った。私とウーさんは二人屋上に残って、柵にもたれかかり星を見た。
「オリオン座、見えへんかな?」
 ウーさんは遠くの星を眺めて聞いた。
「や、分かんないですけど。でもオリオン座って冬じゃないですか?」
 私は星座のことなどほとんど知らない。これがギリギリの知識だった。
「一説では夏や秋でも見れるらしいで」
「へぇ」
「冬に見えやすいのは他の季節と比べて空気が澄んでるからで、夏や秋でも明け方前には見えることがあるらしい。でもまだこんな時間じゃ無理かなぁ」
「ウーさん、星座お好きなんですか?」
「いや、別に。今何となく思ったから言うただけや」
「そうですか」
 ウーさんらしいな、と思った。
「な、朝までここで待って一緒にオリオン座見ようか」
「えぇ、私起きてられる自信ないですよ」
「確かテントと寝袋があったはず」
「ちょっと、マジで言ってるんですか」
 最初は冗談だと思っていたのだが、ウーさんの目が本気だったので焦った。私は疲れていて、正直言ってもう寝たかった。
 しかしこうなったらもうダメで、ウーさんは簡易テントと寝袋、毛布をすぐに部屋から持ってきて、あっという間に屋上に夜営場所をセッティングしてしまった。
「ほれ」
 ウーさんが温かいコーヒーを私に手渡す。
「あ、ありがとうございます」
「私はこれ」
 と、ウーさんが取り出したのは缶ビール。
「寒くないんですか?」
 私は毛布を頭から被って言った。
「全然。てかあんたやっぱ寒がりね」
「そんなことないんですけどねぇ」
 本当に今までそんなこと言われたことが無かったのだ。
 ウーさんはテントの入り口を大きく開けて空を覗き込んだ。
「見えへんなぁ、オリオン」
「だって、明け方なんでしょ? まだ一時ですよ」
「よし、頑張って起きようか」
「ねぇ、さっきも言いましたけど、私全然自信ないですよ」
「何言ってんの。話でもしとったら朝なんてあっと言う間や。見てみ、あっちのマンションの後ろからさぁっと朝日が昇るんやで」
「知ってますよ。私の家近所ですから」
 私はそう言って欠伸をした。
「ほらっ、しゃきっとしいや」
 そう言ってウーさんは私の頬に冷たい缶ビールを押し当てた。私は「ふぁっ」なんてバカみたいな声を出して、それでウーさんがひゃっ、ひゃっと笑う。
 私は何だか遠いところに来てしまったなぁ、と思った。
 殺し屋の方々と居酒屋で飲み、秋なのに帰って屋上で花火して、そのまま明け方のオリオン座を待ってテントに座ってる。この前知り合ったばかりの殺し屋のアシスタントのお姉さんと二人で。こんな未来、誰が想像しただろうか。
 澄んだ秋の夜。缶コーヒーの温もり。
 結局二人ともしっかり眠ってしまい、オリオン座は見れなかった。

 一年前の今頃、雫句と一緒に環汽がバイトしているファミレスへ行った。
 環汽はテニス部で、基本は毎日練習があるのだが、たまの休みの平日と土日の夜だけシフトに入っていた。そんな環汽は私がバイト先に来ることを嫌がった。
「バイトの制服、めっちゃダサいねん。あんなカッコ絶対宇井に見られたくないわ」
 なんてよく言っていた。そのファミレスはチェーン店で、別の店舗には私も何度か行ったことはあるが、制服は変な配色のくせに妙に気取っていてアンバランスで、確かにダサい。でもその制服を環汽が着ているところは何故か全然想像できなくて、ずっと興味があった。
「ええの? 中原君、バイト先来るん嫌がってたんちゃうん?」
 ファミレスに向かう道すがら、雫句が私に聞く。中原君というのは環汽のことで、環汽には特別なあだ名が無く、友達は皆だいたい中原君とか中原とか苗字で呼んでいた。
「いいよ。今日シフト入ってたって知らなかったことにするから」
 実のところを言うと私は環汽のシフトをだいたい把握していた。そのことは環汽には黙っていたが。
「会いたくてバイト先まで押しかけちゃうなんて青春やん」
「そんなんじゃないって。私は環汽の制服姿が見たいだけ」
 なんて言うも、本心は会いたかった。へらへらと笑っていた。
 で、ファミレスに着いて席に通されるも、環汽はいなかった。そういえばあいつはキッチンのスタッフなので普段は表に出ていないのだ。
 それで私達はドリンクバーを取りに行くふりをしてキッチンの中を覗き込み環汽を探した。その様子は完全な不審者だった。見つけた環汽は皿洗いをしていて後ろを向いていたが、同じくシフトに入っていた同級生の子に声を掛けられ、私達に気付いてこちらを見た。
 環汽は「あっ」と驚いた顔をしたが、別に怒っている様子はなくて、私達は笑顔で手を振る。苦笑い。
 しばらくした後トイレに立った時に大量のコップを盆に乗せて運ぶ環汽と鉢合わせた。
「来ちゃった」
「うん。制服、ダサいやろ?」
「そう? 意外と可愛いじゃない」
 実際、環汽が着ると可愛らしく見えたのだ。
「いきなり来るから驚いたわ」
「ごめん、怒った?」
「別に怒ってへんけど。あ、バイト先の子達にあれが俺の彼女やでって教えたらみんな宇井のこと可愛い言うてたで」
「あのねぇ。そりゃこの状況で可愛いくないなんて普通言わないでしょ。お世辞だよ」
 とは言え悪い気はしなかった。
「今日は時正と遊んでたん?」
 時正というのは雫句の苗字だ。
「そう。プリクラ撮って来たの」
 私はその日に撮ったプリクラを一枚環汽にわたした。私と雫句が並んでピースしてるプリクラ。実物よりも少し、いやだいぶ目がでかい。でかでかと「私ら恋の勝ち組」なんて書いてある。当時、雫句も彼氏ができたばかりで(春過ぎには別れたけど)完全に調子に乗っていた。
「ははっ」
 環汽は笑ってそのプリクラをエプロンのポケットに入れてキッチンに戻っていった。見送る私は幸せだった。それを瞬間的に実感できるくらい幸せだった。

 何故かここ数日、その時のことをよく思い出す。急に寒くなった気候のせいか。
 今となれば何もかも変わってしまったのだけど、あれはまだたった一年前の話なのだ。


 気付けばもう一週間以上学校を休んでいる。
 しかも何の連絡もせず。これは良くない。非常に良くない。
 私はいろいろあって学校に行きたくなかったから行かなかったのだが、何もこのまま辞めてやる、なんて強い気持ちがあったわけではなかった。要は後先のことをまったく考えていなかったのだ。
 ウーさんと菊地さんの家で迎える二回目の金曜日の朝。起き抜けに壁の時計を見て、何となく今日、学校へ行こうと思い制服に着替えた。
「あら、学校行くん?」
 洗面所で歯を磨いていたウーさんが制服姿の私を見て言う。
「しばらく休んでたから」
「へぇ、うちはてっきりもう学校辞めるんかとばかり思ってたわ」
 それならそれで大人なんだから止めればいいのに、と思った。私が言うのもナンだが。まぁ仕方ないか、ウーさんなんだから。私の知る大人の物差しじゃウーさんのことは測れない。
「行ってきます」
 ウーさんから借りた自転車で校門をくぐると、私に気付いた同級生が何人か驚いた顔をした。このリアクションは教室でも概ね同じで、みんな私の顔を見て「あっ」て顔になる。気持ちは分からなくもないが、そんな顔をされる方としては気分は良くない。気にしたら負けだと思い、そそくさと自席に座り、いつもはそんなことしないのに一限目の教科書を机の上に取り出して読んだ。
「宇井、大丈夫?」
 すぐに雫句が私のところに来た。
「メール返せてなくてごめんね」
「それはええねんけど、心配してたんよ。ずっと学校来ないし、家行ってもおらんし」
「申し訳ない」
 私は手を合わせて素直に謝った。
「話ちょっと聞いたけど、あんまりヤケなったらあかんで」
「うん」
 ヤケ?
 私はヤケになっているのだろうか? 分からん。
 その時、向こうの席から夏海がこちらを見ているのに気付いた。夏海は私と目が合うと気まずそうにさっと目を逸らした。まぁ、そりゃそうなるわな、というのが正直な感想。大丈夫、殺さんから大丈夫よ、と私は心の中で夏海に呟いた。
「許せへんよな」
「え?」
「夏海。友達の彼氏横取るなんて」
「まぁ、ねぇ」
 夏海がずっと前から環汽を好きだったことを多分雫句は知らない。
「私あれから一度も口聞いてへんねん」
「えっ、そうなん?」
「だって私、そんな女嫌いやもん」
 友情とは、なんだ。男女の間に本当の友情は無理だという理論があるが、もしかしたら女同士でも無理なのかもしれない。皆、何かしらの哲学を持って生きている。
 朝礼が終わった後、担任の先生に職員室に呼ばれた。
 やっぱり来たか、と思った。何せ一週間以上無断欠席していたのだ。当たり前だ。
 職員室に入ると担任の先生が待ち構えるように座っていた。見ると、隣に強面で有名な学年主任の先生までいる。そしてこの場に来て初めて気付いたのだが、上手い言い訳を何も考えずに来てしまった。まったくもって迂闊である。馬鹿である。
「藤村、大変やったなぁ」
 担任の先生が私をじっと見て言う。
 まぁ確かにあんな失恋も初めてだったし、自分が殺す殺されるみたいな話になったのも初めてだった。大変だった。というか先生はいったいどこまで状況を把握しているのだ?
「もう学校来ても大丈夫なんか?」
「え、あの、まぁ大丈夫っていうか、最初よりはだいぶ落ち着きましたし、まぁ、ずっと休んじゃってたんで」
 と、私はしどろもどろになる。
「それで、お祖母ちゃんはもう退院できたのか?」
 学年主任の先生が私に聞いた。
 え?
 お婆ちゃん?
 私は一瞬フリーズした。
「骨折して入院してたんだろ?」
 今度は担任の先生が言う。
 それで「あ」と悟留の顔が頭に浮かんだ。おそらくあいつが気を利かせて学校に連絡を入れてくれていたのだ。
「はい。おかげさまで先日無事退院しました」
「おぉ、それは良かった」
「でもまだ万全というわけではないので、場合によってはまたちょっとお休みするかもしれませんが」
「まぁ、それは仕方ないな。藤村の家庭事情はこちらも理解しているから」
 悟留のフォローがあったと分かると急に舌が回った。保険までかける余裕までできた。悟留、ありがとう。お婆ちゃん、ごめんね。
 教室に戻るともう授業が始まっていた。少なからずの注目を浴びながら自席に着く。とりあえず無断欠席が問題にならなかったことで、私の心は少し軽くなっていた。
 私の席は窓際の後ろから二番目で、午前中の授業はほとんどぼぉっと外を眺めていた。二限目と四限目は校庭で体育のサッカーをやっていて、おそらく一年の女子なのだが下手くそで、ボールは変な方向に飛ぶは、空振りするわで、ゴールポストが置いてあるから何とかサッカーとして体をなしてるというレベルだった。でも下手くそなサッカーは見ていて不思議と退屈しなくて、もしかしたら上手なサッカーを見ているよりおもしろいかもしれないな、と思った。体育のない時間は空を見ていて、雲がこう、右から左に流れていくなぁ、とか今日も空が青いなぁ、とかそんな当たり前のことをぼんやりと考えていた。
 休み時間は友達と話した。最初こそ皆よそよそしかったけど、慣れてきたら私は私で、休んでいたからと言って別に何ら変わりのないことがみんな分かって、普通に話した。最近のテレビ番組とか、アイドルとか、新発売のお菓子の話とか。
 昼休みには雫句と食堂でうどんを食べた。食堂のうどんは相変わらず簡素で、ネギがぱらぱら散らばっているだけで、他に具は無い。それでも何故か美味しかった。食後に売店でパックのコーヒーを買い、校庭に面したベンチに腰掛けて男子達のバスケットを見ていると、そう言えばこれが私の日常だったなぁ、なんて思った。と言うより思い出した。
 そうすると今度はこの一週間ずっと一緒にいたウーさんや菊地さん達のことがぐっと現実から浮きだして色を無くし、もしかするとあれは夢だったのではないかと思えるくらいに希薄になった。でも分かってる、夢なんかじゃない。私は確かに二人と炒飯を食べたし、花火だってした。
「実際どうなん、中原君のこと」
 雫句は私の目を見ずに言った。
「どうって? 別れたよ」
「それは聞いたけどさぁ」
 私は口を尖らせて空を見る。ガシャっとゴールを外れたバスケットの音がした。
「きっぱり諦めたん?」
「だってもう夏海と付き合ってるんでしょ?」
「そうやけど、だからって諦められるかどうかは別やろ」
 眼から鱗というか、それは確かにそうだ。
 でもそんなことをここまで一切考えなかったのは、内心、私としてはもう環汽を割り切っていたからなのかもしれない。性格的にも多分、私は夏海のように報われない誰かを想い続ける根気なんてない。だから環汽が夏海と付き合うこと、私と別れることについて、その決定を覆したいとは思わないのだ。ただ、ムカつくから殺したいだけだ。
 私が黙ってしまったので、雫句は気を遣ってそれ以降、環汽の話は出さなかった。でも勘違いをされたら嫌なので「戻る気はないよ」とだけ言っておいた。
 チャイムが鳴り、皆教室に戻っていく。日常。

 夕方の下校時、この勢いで今日は家に帰ろうかなぁ、なんて下駄箱へ歩いていたら部活着の環汽と鉢合わせた。
 二人とも目が点になった。
 そうだ、うっかりしていた。今頃はちょうど環汽が部活へ行くためにここを通る時間じゃないか。
「久しぶり」
 先に声が出たのは私の方だった。
「うん。何か、学校休んでたって聞いたけど」
「あぁ、お婆ちゃんがちょっと、骨折して入院しちゃってね」
 言った後に激しく後悔した。先生達はともかく、環汽にはバレバレな嘘だろ。
「そっか。大変やったな。お婆ちゃんもう大丈夫なんか?」
「うん。一応」
 信じているのかいないのかよく分からない反応だった。それで私は、あぁそういうところが環汽だったなぁ、と思った。どこまで本気なのかが分からない奴。思えば私に対してもそうだった。
「この前さぁ」
「うん」
「俺のことぶって走って行ってもうたやん、宇井」
「あぁ、うん。ごめんね」
 って、何故私が謝らなければならないのだ。
「いや、それは仕方ないんやけど、俺が悪かったし。でもあの時、ちゃんと最後まで話せんかったから気になってて」
「何、最後までって」
 私は気の無いフリをして言ったが、内心バクバクだった。何よ、最後まで話って。私の中、動くはずのない岩が瞬時にぐらぐらと音をたてて揺れていた。それを感じていた。
「ううん。いや、話っていうかそのつまり、ありがとうって言いたくて。今までありがとうって。それとさよならと。最後やねんから、そこはちゃんと言っとかなあかん思て」
 環汽が言う。
 その瞬間、最大級の落雷が真っ青な稲光りと轟音を纏い、私の脳天を直撃、貫通する。ぶっ飛びそうな感電。私はただ目を見開いてその衝撃を受け止めた。
 反応が無いので、環汽は私の顔を覗き込んだ。私はというとぷすぷすと頭の中で落雷の余韻が聞こえてフリーズ状態になっていた。「ごめんな」と、環汽のその一言で意識が少し戻った。そうすると次は、マグマのような怒りが心の山脈を溶かしながら現れる。
「ごめんって何」
「え、何って?」
 環汽としてはそれしか言えない。
「きちっと別れてすっきりしたってか」
「いや、そういうわけちゃうけど」
「別れの言葉だけちゃんと言っとけば綺麗に終われるってか」
「だから違うって」
 違うわけがない。だってそれ以外、今の言葉の説明がつかないのだから。
 私はそれ以上何も言わずに環汽の横をすり抜け、自転車に乗って走った。ぶっ飛ばした先は自分の家ではなくウーさんの家で、がんっとリビングのドアを開けるとウーさんと菊地さんが二人でハーゲンダッツのアイスクリームを食べていた。私は肩で息をしながら、
「マジであいつ殺して!」
 と、叫んだ。
「な、何だよ急に」
 鬼気迫る私の様子に菊地さんはたじろいだ。
「やっぱ無理。生かしちゃおけないわ」
「なんや例の彼氏?」
 ウーさんがハーゲンダッツの最後の一口を食べて言った。だから元彼な。
「菊地さん、お願い。もう本当にお願い。早くあいつを殺して!」
「おい。だから俺はずっと断ってんだろ。早くも何もやるなんて誰も言ってないぞ」
 なんて言って頭をかく菊地さんを私は般若のような顔で睨み、にじり寄る。それで菊地さんも私のことをヤベー奴と思ったのか、本能で自分の身に火の粉がかかりそうなことに気付いたのか、「待て、分かったよ」と、観念した様子で言った。
「頼まれてくれます?」
「しかしお前、金はあるのか?」
「即金で三万。それ以上は無いです」
 それが私の全財産だった。
「三万……お前、俺一応プロだぞ」
「ええやん。菊地、下期は計画数字に売上全然足りてないやろ。それに三万でも新規得意先やで」
 ウーさんが挟む。私には言っている意味がよく分からなかったが、菊地さんはこのウーさんの言葉に口をへの字に曲げた。大人の事情というやつか。
「仕方ないなぁ」
「よろしくお願いします」
 私は頭を下げる。
「しかしお前な、すぐにはできないからな。こういうのには綿密な作戦が要るんだよ」
「なる早でお願いします」
「なるべくな」
 それだけ言うと菊地さんは立ち上がり部屋を出て行った。またお酒でも飲みに行くのか。
 まぁ、ともかく、環汽殺害の依頼がようやく受理されたことで私の怒りは少し落ち着いた。その日はいつもよりたくさん夕飯を食べて早めに寝た。


 長袖で過ごすようになって、夜はちゃんと窓を閉めて寝ないと朝方喉が痛くなって、それはいつの間にか圧倒的な秋だった。
 もう少ししたら紅葉だなぁ、いいなぁ、季節になったら摂津峡へ行こうか、足を伸ばして嵐山へ行こうか、なんて考えつつ、私はまたも学校へ行かなくなった。
 今度はちゃんと自分で学校に電話を入れた。「お婆ちゃんがやっぱり良くないんです」なんて、念のためかけておいた保険が役に立ったのだ。
 学校に電話をかけたのもウーさんの家からで、相変わらず私は一度も家に帰っていない。立派な不良少女なのだが、ウーさんと菊地さんは何も言わないし、悟留からも何の連絡も来ないので、誰に注意されるでもなく自然とこの形に落ち着いていた。

 そんなある日の夜、唐突にお母さんから電話がかかってきた。
「もしもし、宇井ぃ。元気?」
 お母さんはやたらとテンションが高かった。お酒が入っているのかもしれない。電話の後ろも騒がしかった。
「元気っちゃ元気だけど。元気ないっちゃ元気ない。お母さんは相変わらず元気そうね」
 その様子だと多分、私が学校行ってないことも知らないね。と、これは言わなかったが。
「急にどしたの。電話かけてくるなんて珍しいじゃない」
 私の覚えている限り二、三カ月ぶりの電話だった。
「いや、元気してるかなって。前からずっと気にしてたのよ。でも公演やらなんやらでバタバタしちゃってて。それで来週からはロンドンだからそれ行く前には連絡しようと思ってかけたの」
「ロンドン?」
 少し驚いた。
「そう。イギリスの」
「それくらい私だって知ってるわよ。また何で?」
「何って、公演よ。最近ちょくちょく海外でもやってるの。ヨーロッパは初めてだけどね」
 ニマニマ笑んでいるであろう表情が目に浮かぶようだった。つまりは初めてのヨーロッパ公演を私に自慢したかったということね。そして私はまんまとそれに乗っかってしまった。
 私のお母さん、藤村唯井は知る人ぞ知る有名なバレリーナだった。
 私はバレエのことはよく知らないが、お母さんのことを知る人には「えええ、すごいじゃない」と驚かれるし、実際、ヨーロッパ公演なんてことをやるくらいなのだからすごいのだろう。
 と、まぁそんなお母さんなのだが、何を血迷ったか二十代中盤に結婚をして年子で私と悟留を生んだ。でもこの結婚生活は長続きせず、悟留が生まれた一年後にはもう離婚した。私と悟留はお母さん側についたので、お父さんの記憶は全く無い。顔さえ知らない。もちろん離婚原因も知らない。ただ、その原因はおそらくお母さんなんだろうなぁ、と何となく推測していた。
 お母さんはいわゆるバレエ馬鹿で、本当に笑ってしまうほどバレエのことしか頭になくて、家庭生活など土台無理な人だった。
 家を空けることも多く、というよりほとんどいなくて、私と悟留は物心ついた時から鍵っ子だった。長期間大阪に住むお婆ちゃんの家に預けられることもしばしばあった。
 小学校の時まではそんな感じで騙し騙し生活していたのだが、私が年頃の中学生になったタイミングでこのままじゃいけないと思ったのか、それとも単に面倒になったのか、私達姉弟は完全にお婆ちゃんの家に居を移すことになった。その時点でお爺ちゃんはすでに他界しており、それからは私、悟留、お婆ちゃんの三人で大阪に住んでいる。これが先生達の言う「藤村の家庭事情」というやつだ。
「それで、ロンドンにはどれくらいいるの?」
「ん、一カ月くらいかな」
「は? そんなにいるの?」
 別にロンドンだろうが東京だろうが家にいないことには変わりないのでどうだっていいのだが、それにしても一カ月とはなかなか長い。
「公演が終わった後も少し向こうでゆっくりしようかと思ってね。ロンドンを拠点にヨーロッパをぶらぶらするつもり」
「はぁー、いい御身分ですなぁ」
「また帰ってきたら土産話してあげるわ」
「はいはい」
 それで電話が切れた。
 まったく、何て親だ。子が子ならグレる可能性だって大いにある。まぁ、見方によっては私もグレてるように見えるかもしれないが。
「電話誰やったん? イギリスがどうこう言うてたけど」
 換気扇の下で煙草を吸っていたウーさんが聞いた。
「あぁ、お母さんです」
「へぇ、宇井にもお母さんがおったんや」
「ウーさん、私のこと何だと思ってるんですか」
「だって親おるんやったらこんな長いこと家空けてたり学校行かんかったりしたら心配しそうやん」
 ウーさんにしては正論だ。
「うちはちょっと複雑な家庭環境なんで」
 これ、確か前にも言ったな。
「で、そのお母さんがロンドン行くん?」
「ええ、仕事で」
「仕事って何してはるん?」
「バレリーナなんですけど、藤村唯井って聞いたことないですか?」
「いや、知らん。有名なん?」
「まぁ、一応は」
「へぇ。ええなぁ、私もロンドン行きたいわ。菊地、そんな仕事取ってきてくれへんかなぁ」
「国が絡んだ暗殺とかですかね? 大統領とか総理大臣とか」
「無理やなぁ、あいつじゃ」
 と、ウーさんは笑う。私もそう思うから笑った。私が言うのもナンだけど、菊地さんってそんな器じゃないじゃん。
 その夜は全体的に退屈な夜だった。
 開け放した窓の外は妙に静かだったし、退屈しのぎにつけたテレビもがやがやしているだけで二人ともろくに観てもいない。ウーさんは立ったり座ったりと落ち着きなく煙草を吸っていて、私はソファの上でちょっとずつポーズを変えてもぞもぞしていた。家にいた時もそうだが、たまにこんな夜がある。行き場のない、苦痛ではないのにどこか息苦しい夜。
「ラーメン食べに行こか」
 やがてそんな夜を破るようにウーさんが言った。
「あ、近くの博多ラーメンですか?」
「いや、そんな近くちゃうくてもっと遠くまで行こうや」
「とすると、高槻ですかね?」
「うーん。いや、一風堂行こか。梅田の一風堂」
「はぁ? 遠いですよ。電車で行くんですか?」
「いや、電車はめんどいやろ。原チャやな。あんた原チャくらい乗れるやろ?」
「免許は持ってますけど、何で原チャなんですか! 電車よりめんどくさいじゃないですか。てかそれなら車で行きましょうよ。ウーさん車持ってたじゃないですか」
「あれは社用車やで。私用で乗ったことバレたらめんどいから嫌や」
 変なところ真面目なのだ。
「うち、原チャ四台持ってるから好きなの使い」
「何でそんな原チャ持ってるんですか。おかしいでしょ」
 吹き出してしまった。普通原チャなんて一人一台持っていれば十分である。
 そんなこんなで結局またウーさんに押し切られて外に出る。自転車が無造作に並ぶ駐輪場の中に、確かにウーさんの原チャが四台あった。旧型のビーノとトゥデイとレッツフォーとジョルノ。ウーさんがレッツフォーを選び、私はトゥデイを選んだ。
 出発しようとマンションから道へ飛び出した時、向こうから自転車が一台走って来るのが見えた。どこかで見たことがある顔だと思っていたら雫句だった。向こうも私に気付く。
「は? 宇井?」
「雫句、何してんのこんなとこで」
 雫句も驚いていたが私も驚いた。
「何って、心配して家まで様子見に来たんよ。あんたまた学校けえへんから」
「わぁ、わざわざごめん」
「で、あんたは何してんのよ」
「いや、ラーメン食べに行こうかなと思って」
「ラーメン?」
 雫句が訝しげな顔をする。それはそうだ。なんせ時刻はもう二十二時前。こんな時間にラーメン。しかも全然知らない明らかに同世代ではない女の人と一緒なのだから。
「宇井の友達?」
 少し後ろにいたウーさんがエンジン音に負けないように声を張って言った。
「高校の同級生です」
 そう言うとウーさんは雫句を見て「はじめまして」と律儀に頭を下げた。それで雫句もちょっと緊張気味で頭を下げる。
「もし良かったらあなたもラーメン行く? 梅田の一風堂。美味しいで」
「えっ? 今からですか?」
 雫句は完全に戸惑っていた。元々初対面に強いタイプではない上にこの状況だ。頭が付いてきていないなだろう。
「そう、原チャで。あと二台あるから好きなん選び」
 雫句は完全にヘルプの目を私に向けていた。
「退屈な夜だったんよ」
 と、私は意味不明のフォローを入れる。
 結局、雫句もウーさんに押し切られて一緒にラーメンを食べに行くことになった。ウーさんには不思議と人を押し切る力がある。雫句はビーノを選んだ。それで三人、夜の街を駆け出す。
 夜の国道百七十一号線は意外と車が少なく、走りやすかった。適度な速度で梅田を目指す。先頭を走るのはウーさん。私と雫句は少し離れてその背中を追った。おそらく千里から新御堂に入るつもりなのだろう。
 秋の夜、一心に西を目指す私達はまるで夜の盗賊のようだなぁ、なんて思った。夜の砂漠を馬で駆ける盗賊。アラビアンナイトみたい。千夜一夜物語ってか。ちゃんと読んだことないけど。
 途中、信号で止まった時、雫句に「なぁ、あの人誰なん?」と聞かれた。大した自己紹介もないまま走り出したのだ。もっともな疑問だと思う。
 でも私は今はそれに真摯に答えるのは面倒で、と言うよりいったい何と答えればいいのだ? という疑問もあり「ま、友達のようなもんよ」といい加減に答えた。雫句は全然納得していない顔だった。
 二号線から新御堂に入る手前でウーさんが唐突に路肩に停まる。
「てか寒ない?」
「寒いです」
 それは私も思っていた。
 走り始めは涼しいなぁ、くらいに思っていたのだが、茨木を過ぎたあたりからはっきりと寒くなってきて、原チャをナメてたぁと内心後悔していたのだ。
「二人ともシートの中に雨合羽が入ってるからそれ着い。ちょっとは暖かくなるやろ」
 そう言ってウーさんは早々に雨合羽を着込んだ。
 正直、女三人揃って雨合羽で原チャってどうなのよ、と思い一瞬躊躇したが、雫句も寒かったのか文句も言わずに雨合羽を着たので私も仕方なく着た。
 一行、再び走り出す。ウーさんの言う通り雨合羽を着たら寒さは少し和らいだ。ただ、あくまで和らいだというレベルで、寒いは寒い。秋つうか、もう冬じゃんこの寒さ。新御堂で爆音をたてて私達を追い抜いて行った暴走族チックな連中は皆キッチリと上着を着こんでいた。
 そういうわけで梅田に着く頃には三人とももうすっかり冷え切っていて、すぐに一風堂に駆け込んだ。
「寒ぶ、寒ぶ」
 そう言ってウーさんは両腕を摩った。
「だから車にしましょうよって言ったんじゃないですか」
「しつこい奴やなぁ。あれは社用車やって言うてるやろ」
 そんなやり取りをしている私達を雫句は不思議そうな目で見ていた。
「悪かったなぁ、あなた。えーと」
「あ、時正です」
 雫句が改めて言った。
「時正さん、えと、雫句ちゃんやっけ?」
「はい。雫句です」
「うちはウー。本名は海子やねんけど、みんなウーって呼ぶからウーでええよ」
 私の時と同じことを言ってる。
「あ、はぁ。ウーさんはその、何なんですか?」
 雫句は恐る恐る聞いた。
「何って?」
「あの、宇井とはどういう関係なんかなって」
「あぁ、友達よ、友達。ちょっと歳は離れてるけどな」
 そう言ってウーさんは私に意味深な目線を向けるから雫句としてはまったくのハテナで、謎が残るばかりで居心地が悪そうだった。
 それでちょっとかわいそうになってきたので「夏休みにやってた短期バイトで知り合った人よ」なんて信じることができそうなくらいの我ながら程よい嘘をついた。雫句は「あぁ」なんて言って何となく納得できたようだった。ウーさんは何も言わずにお茶を飲んでいた。
 運ばれてきたラーメンを三人ですする。温かくて、食べ物の美味しさ、生きてて良かったぁ、と素直に思った。他の二人も同じようなことを思っているのか、食べてる時は口数が少なかった。
「雫句ちゃんは宇井の彼氏のこと知ってんの?」
 ラーメンを食べ終わったウーさんが歯に爪楊枝をあてながら言う。
「はい。高校の同級生なんで」
「あぁ、そっか、そっか。どんな感じの男やったん?」
「どんなって……」
 と、雫句が気を遣った目で私を見る。私はそれに気付かないフリをしてラーメンの汁を飲み干した。
「宇井の奴、何回頼んでも写真見せてくれへんねんもん。だから全然イメージ湧かんくて」
「あのね、別れた男の写真なんて普通見せたりしないでしょ」
 黙っていようと思っていたのについつい口を挟んでしまう。
「ね、どんな男? かっこ良かった?」
「まぁ、うん。意外と女子に人気はありましたね」
 雫句がお茶を飲んで言う。少しずつウーさんに慣れてきたようだった。意外とって何だ。
「へぇ、てか雫句ちゃん写真持ってないの?」
「持ってるわけないじゃないですか」
 私は吐き捨てるように言った。
「あ、前に宇井が送って来たやつならあるかも」
 そう言って雫句は携帯を取り出す。
「ちょっと、ちょっと、マジで見せなくていいから!」
「こら、宇井。うるさい」
 焦る私の頬っぺたをウーさんが両手で抑える。私は変顔になってもまだ雫句を止めようとした。
「あった。見せたらあかん?」
「だべ」
 変顔のまま言った。
「えー、いいやん」
 やっと手を離したウーさんは口を尖らせて言った。見ると、雫句も少し写真を見せたい顔になっていて、二対一。どう考えても部が悪い。空気を読まざるを得ない空気がそこにはできていた。
「好きにして」
 私はもうどうでもよくなって言った。一人、不貞腐れて携帯で読みかけていた漫画の続きを開くも、ウーさんの「へぇ、なるほどねぇ」とか「そういう感じね」とか、どう取っていいのか分からないリアクションが耳障りでまったく内容が入って来ない。
「ちょっと、どんな写真見せてるのよ」
 雫から携帯を取り上げると、それは体育祭の時の写真だった。体操着で寄り添い笑ってる私と環汽。違う色の鉢巻きをして同じようなピースをしていた。
「なかなか可愛い男の子じゃない」
 そう言ってウーさんが肘で私を突く。褒められても環汽はもう私の彼氏ではないのだが。何と言っていいのか分からず口をヘの字に曲げていた。
 写真。それにしても二人とも幸せそうな顔をしてる。半年後に待ち受ける運命なんて知らないで。環汽の奴、来年の体育祭の時には同じように夏海と写真を撮るのだろうか。そう思うとちょっと悲しかった。いや、かなり悲しかった。
「もう、あんま気にすんなや」
 私の気持ちを知ってか知らないでかウーさんが言った。
「えと、雫句ちゃん、彼氏は?」
「今はいません」
「ほら、聞いたか宇井。うちも彼氏なんておらんから、三人みんな男おらんねんで。一人ちゃうで」
「強引な励まし方過ぎません?」
 てかウーさん、菊地さんとは恋人関係じゃないんだ。一緒に住んでるのに。大人ってやっぱりよく分からない。
「別れた直後は急に一人になったような気になるけど、意外とそれ、普通よ」
 そう言ってウーさんは私の頭をぽんぽんした。
 確かに、死のうと思ったあの日からしばらく経つが、私はなんだかんだと暮らしている。でもさ、許す許さないって話は別よね。
 ラーメン屋の支払いはウーさんがしてくれた。外に出て煙草を吸うウーさんの後ろ姿を見て雫句が「なんか、大人の女性って感じの人やね」と耳元で言った。
「そう?」
 私は怪訝な顔で言った。大人なら北摂から梅田まで原チャで行ったりしないと思うが。
「なんかちょっと謎やけどね」
 雫句が笑って言う。
 意を決して帰りも原チャで帰った。
 梅田で何か安い上着をゲットして帰ろうという話にもなったが、いつの間にかもう日を跨ごうかという時間で、どこも開いていなかった。だから帰りも雨合羽。寒かった。何なら行きよりも寒かった。
 新御堂から茨木方向へ二号線に入る時、行き会ったのと同じ暴走族が私達を追い抜いて行った。三人、運転しながら目を合わせて笑った。いったいどこで何をしていた結果波長が合ったのか。
 家に帰ってゆっくりお風呂に浸かって温まったが、次の日は少し風邪気味だった。葛根湯を飲んだら割とすぐ治ったが。


 さて、もうかなり長い時間自分の家に帰っていない。
 最初の電話以来、悟留からの電話も無い。それが急に不安になり、私は久方ぶりに自分の家へ帰ろうと思った。
 夕刻。さっきまでは晴れていたのに、私が外に出るとしとしとと雨が降り出した。こんな季節に夕立かよ。一瞬日を改めようかとも思ったけど、「いや、そういうとこが私の悪いとこ」と、心の中で呟き、部屋まで傘を取りに戻りマンションを出た。
 歩いてみれば私の家はウーさん達のマンションから十分くらいの距離だった。思っていたよりも近い。こんなに近いのに、何故にまったく帰ろうという気にならなかったのか。自分でも不思議だった。
「ただいまぁ」
 と、まるで今朝出て行った帰りのようなテンションでドアを開けると、エプロンを付けた悟留が立っていた。
「あ、姉貴」
「よう」
「よう、じゃねぇよ。いつぶりだよ」
「分かんねぇ」
 私はそう言って玄関に上がる。古いべっこうの靴べらに謎の鶴と亀の置物、着物を着た日本人形。まったく変わらない私の家。居間の炬燵に座るお婆ちゃんが見えた。
「お婆ちゃん、ただいま」
 と、近づいて言うと、お婆ちゃんはまじまじと私の顔を見て、「唯井じゃない珍しい」と言った。
「違うよ、私よ。宇井」
「あぁ、宇井か。今日は随分早いのね」
 私は苦笑いを浮かべた。お婆ちゃんは私が高校に入った頃から痴呆の気がある。それもどんどん進んでいるようで、最近は私のことを高い確率で唯井と呼ぶ。
「炬燵、出したんだ」
「ええ。この前悟留が出してくれてね。ほら、最近急に寒くなってきたから」
 炬燵に座るお婆ちゃんは、何だかとても小さく見えた。元々小柄ではあったが、ここ一年で更に小さくなった気がする。
 お婆ちゃんは、何でこの人からあんなガサツでトリッキーなお母さんが生まれたのか! と思うほど物静かで、どこか品のある人だった。私は密かに、こんな歳の取り方をしたいなぁ、なんて思っていた。
 台所に行くと油の匂い。悟留が何か揚げ物をしているようだった。
「何? 天ぷら?」
「そう。姉貴も食う?」
「食う、食う。てかあんた、天ぷらなんて作れるんだ。すごいじゃん」
 私は作れないのだが、かっこ悪いのでそのことは言わなかった。
「別に、そんなに難しくないよ。婆ちゃんが好きだからたまに作る」
「ふぅん」
 そう言って私は揚げたての南瓜を一つ摘んで食べた。
「うん。美味しい」
「おーい。手、洗ったのかよ」
「あ、ごめん」
 私が言うと悟留は無言で流し台を顎で指した。
 手を洗いながら揚げ物をする悟留の横顔を見ると真剣そのもので、まだ若いのにこいつはつくづく偉いなぁ、と感心した。
 十六にして家事全般を引き受け、痴呆が出てきたお婆ちゃんの面倒も見る。そしてちゃんと学校にも行っているのだ。そんな悟留を私は心から尊敬する。そして同時に自分の馬鹿さ加減に恥ずかしくなる。
「そうだ、学校に連絡入れてくれてありがとうね」
「どうせ何の連絡も入れてなかったんだろ?」
「入れてなかった。助かったよ」
「姉貴はさぁ、もうちょっと後先考えて生きなきゃダメだよ」
「まぁ、何せあのお母さんの娘だからね。そういえば連絡あった?」
「あった。ロンドンだろ」
「そうそう。良い身分よね。馬鹿とも言えるけど」
「土産楽しみにしとけって言ってたよ」
「うそ。私には土産話って言ってたのに。何この差?」
「何にせよさぁ。誰の娘だろうともう高校生なんだからちょっとは後先考えないとダメだろ」
「はい」
 返す言葉がなかった。ダメな姉です。おっしゃる通りでございます。
「悟留、一花ちゃんとは上手くいってるの?」
 一花ちゃんとというのは悟留の彼女で、高校に入学してすぐくらいから付き合っているのだ。私も何回か会ったことがある。小柄でちゃきちゃきしたなかなか可愛い子だった。
「まぁまぁかな」
「忙しそうだけど、ちゃんと会えてるの?」
「ぼちぼちかなぁ」
 まぁまぁとかぼちぼちとか曖昧な表現ばかりでよく分からん。
「たまにうちにも来るよ。婆ちゃんの面倒も見てくれるし。何か二人でいろいろ話してる」
「へぇ。良い子じゃん」
「うん、まぁ。それ、ありがとうって言えばいいの?」
「悟留、そんな良い子絶対離しちゃダメよ。あんたは苦労人なんだからちゃんと幸せになりなさいよ」
「何だよもう。何な話だよ」
 私は悟留の肩をぽんぽんと叩き、台所を後にして二階の自分の部屋へ行く。
 久しぶりの自室。当たり前だが何も変わっていなかった。窓を開けて、閉じこもった空気を逃すと冷気が待っていましたとばかりに広がり、寒い。外はもう暗かった。
 勉強机の上には環汽と二人、去年の文化祭の時に撮った写真が飾ってある。ディズニーランドなんかでよく売っているミッキーとミニーの耳の形をしたカチューシャを付けて笑ってる。何て幸せそうな顔。私はその写真を写真立てから出してビリビリに破いて捨てた。ついでに写真立ても捨ててベッドに倒れ込む。
 この部屋の中、環汽との思い出の品はまだまだある。それを今すぐ一個一個丁寧に壊して捨ててやりたい。跡形も無く消してやりたい。でも私はベッドから起き上がれないでいた。
 あの日あの時の環汽の言葉を思い出す。
「今までありがとうって。それとさよならと。最後やねんから、そこはちゃんと言っとかなあかん思て」
 何だよ最後って。マジでブチ殺すぞ馬鹿野郎。
 環汽の顔が頭に浮かぶ。
 涙が溢れた。
 悔しい。この期に及んで泣くなんて馬鹿みたいだと分かっていても涙は止まらなかった。これはいったい何に対する涙なのか。
 私は踏ん張って起き上がり、目についた数学Bの教科書を部屋の端の本棚に思いっきり投げた。この教科書は別に環汽とは何の関係も無い。ただそこにあっただけのものだった。
 教科書は本棚に並んだ漫画雑誌に当たって床に落ちた。特に大きな音もしなかったし、まったく気も晴れなかった。
 再度ベッドに倒れ込み、そのまま暗い部屋で天井を見上げていると「姉ちゃん、ご飯できた!」と一階から悟留の声が聞こえた。私は涙を拭いて部屋を出る。
 夕飯。私は二人が引くくらいたくさん天ぷらを食べた。
「宇井はよく食べるねぇ」
 と、お婆ちゃんは目を丸くして言った。
「どんだけ腹減ってたんだよ」
 私が食べ過ぎるから追加で揚げた天ぷらを机に置いて悟留が言った。三白眼だった。
「今夜はたくさん食べてすっきりしたいのよ」
 そう言って私は揚げたての海老天にかぶりついた。「天ぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったかのようにかぶりつくようにして食べろ」という言葉を何かで読んだことがある。何かは忘れたが、私は今それを実演している。
 満腹のうちにお風呂に浸かった。ウーさん達の家ではお湯を溜める習慣が無く毎日シャワーだったので、湯船に浸かることが新鮮だった。気持ちが良い。温まったそのままの気持ちでお気に入りのドライヤーで髪を乾かし、ユニクロで買った肌触りの良い綿のパジャマに身を包む。幸せだった。
 リフレッシュした身体のままで眠ってしまおうと、私はすぐにベッドに入った。夕飯前に見たのと同じ天井が見えた。
 そして気付く。
 私は何一つすっきりしていない。
 頭はモヤがかったままで、この部屋の中にはまだ恋の残像が残っていることをちゃんと忘れられていないかった。
 ダメだ。
 やっぱり早く菊地さんに環汽を殺してもらわないと私の心は晴れない。
 それにしても菊地さん、仕事遅いよなぁ、私、なる早ってお願いしたのに。そもそも菊地さんって仕事できなさそうだし。綿密な作戦とかカッコいいこと言ってたけど、ちゃんと私の依頼のこと考えてくれてるのかなぁ。
 近々問い詰めてやろうと思った。このままじゃラチがあかない。
 そう思っていたのだが、事態は二日後、急激に動き出す。


 平日の十五時半、私と菊地さんは高槻のアルプラザにあるスターバックスでお茶をしていた。
 その、綿密な作戦とやらの進捗を問い詰めてやろうと私が誘ったのだ。それを察してか菊地さんは席に着いてから私とまったく目を合わせようとしない。向かいの席に座ってホットコーヒーをブラックで飲んでいた。変なところだけ殺し屋らしいのだ。
「何か食いたかったら食ってもいいぞ」
 目を合わせないまま菊地さんが言った。
「大丈夫ですよ」
 私はわざと菊地さんをじっと見て答えた。キャラメルフラペチーノのクリームをスプーンにすくって食べる。
「何か言いたそうな顔だな」
「あ、分かります?」
「お前が俺を誘い出すなんてそれしかないだろ」
 菊地さんはやっと私の目を見た。
「で、どうなんですか? 例の作戦の方は」
「ちゃんと考えてるよ。当たり前だろ。いちいちうるさいんだよお前は。そんなんだから俺の考えがまとまらないんだよ」
 妙に早口だった。そしてまた私の目を見ない。
 確実に何も考えてないなと思った。
「ねぇ、菊地さん。マジでちゃんとやってくださいよ。この件に関しては一応私、お客さんなんですからね」
「うるせぇなぁ。お前さ、だいたいいつの間にか自分の立場を忘れてんだろ? お前は目撃者で俺は殺し屋だぞ。いつ何時どうなってもおかしくないんだからな」
 菊地さんは私を指差して言った。
「その件は目撃されるようなヘマをする菊地さんが悪いってことで決着したじゃないですか。今更そんなことぶり返さないでくださいよ」
「いや、何も決着してねぇよ」
 なんて菊地さんはブーブー言う。
 その時、向かいに座る菊地さんの後ろ、見覚えのある顔ぶれがエスカレーターを上がってくるのが見えた。
 あれはうちの学年のテニス部集団だ。
 へらへらと談笑して歩いている。とするともしかして、と思ってよく見ると、やはりいた。環汽。見慣れたテニスバックを肩から掛けて笑っている。
「あれ、あれよ、あれ」
 私は指を指して小声で菊地さんに言う。
「何だよ」
「環汽よ、環汽。私の殺してほしい元彼氏」
「はぁ?」
 菊地さんも奴等を見る。
「どれ?」
「とりあえず出ましょ」
「え、何で?」
 戸惑う菊地さんを引っ張ってバレないように環汽達の後ろを付ける。
 環汽は楽しそうだった。冗談を言い合っているのか、おかしそうに同級生を小突いたりしていた。それがまた腹が立った。
「菊地さん、もう今やっちゃってよ」
「は? 今?」
「そう。だってチャンスじゃん。すぐそこにいるし」
「いるってお前、五、六人はいるぞ。しかもこんな街中で」
「そこはプロとしての腕の見せ所でしょ。あの少し背が低くて、肩にテニスバックを担いでる男。ほら、今笑った奴」
 それで菊地さんがじっと環汽を見る。
「別に悪い奴じゃ無さそうじゃん」
 私は物凄い顔で菊地さんを睨んだ。
 それで菊地さんは諦めたように環汽達の方へ歩いて行った。
「あー、ちょっと君達」
 菊地さんが後ろから声を掛けると、皆振り返った。私は物陰に隠れてそれを見てた。
「あの、君達と言うか、君だ、君。環汽君、だっけ?」
 菊地さんが環汽を指差して言うと、環汽は不思議そうな顔をして「俺ですか?」と言った。周りの同級生達もいきなり見ず知らずのおっさんが話しかけてきて、ハテナという感じだった。そりゃそうだわ。
「君、申し訳ないんだけどさぁ。ちょっと死んでもらうよ」
 わっ、何か殺し屋らしい台詞。
「え?」
 環汽の顔が曇った瞬間、菊地さんが懐から拳銃を取り出して真っ直ぐ環汽に向けた。
 一瞬時が止まったようだった。
 拳銃なんて日常生活では見慣れないものが急に出てきたこともあるが、菊地さんの鋭い視線、殺気も凄かった。やっぱりプロなんだ、と改めて思った。それで環汽も同級生達もまったく動けない。私の鼓動も早くなった。
「ごめんな」
 菊地さんが少し笑んで言った。
 引き金が引かれる。
 あっ、と思ったその瞬間、銃声は響かず替わりに水が一線、ぴゅっと飛び出し環汽の顔を濡らした。
 は?
 全員が一瞬ポカーンとしてしまった。環汽もまったく状況が掴めず、濡れた顔を不思議そうに触っている。頭の上にハテナのマークが二つ浮かんでいるのが見えた。
「おっさん、何の真似やねん!」
 やっと我に帰った同級生の一人が怒鳴った。それで皆やっとハッとしたようで、菊地さんに詰め寄った。
「はは」
 菊地さんはまいった、まいったとでもいうかのような表情で頭をかき、次の瞬間、全速力でJRの方へ逃げて行った。環汽達も「待てやコラ!」何て怒鳴って菊地さんを追いかけて行く。
 やがて声も聞こえなくなって静かになった。
 残された私は呆気取られて、開いた口が塞がらないとはこのことかぁ、何て思っていた。


 三十分後、案の定それは怒りに変わる。
 私は家に帰り、ウーさんに事の顛末、菊地さんが如何に自分を弄んだクソかを泣いて訴えた。
 さすがのウーさんもそれはちょっと無いと思ったのか、あいつはなぁ、何て言って菊地さんに電話を掛けてくれた。
「コラ、あんた。聞いたでぇ、宇井のこと。何してんねんな」
 電話口から菊地さんの声が聞こえる。音漏れだからか、怒鳴っているような印象だった。私は泣きじゃくってウーさんの薄い胸を抱きしめていた。
「ごちゃごちゃうるさいわ。え? あんな街中じゃ無理? それならそれでちゃんと宇井に言えばええやん。それを茶化すようなマネするからあかんのやろ。あんた大人やろ」
 ウーさんがすごく真面なことを言っている。私はこの人にずっと付いて行こうと思った。
「なぁ、菊地さぁ。あんた、ちゃんと仕事する気あんの? 前から思ってたけど、あんたのそのいい加減な性格ほんまあかんで。依頼人かていっつも迷惑してるし私かて迷惑してるんやからな。ちゃんと分かってるか?」
 ウーさんにボコボコに言われ過ぎて電話口の菊地さんの声がだんだん小さくなってきた。
「やるならちゃんとやり。え? 何? 宇井に代われって?」
 私はウーさんの胸から顔を上げる。
「宇井、菊地」
 電話を受け取り恨みのこもった声で「もしもし」と言うと、菊地さんがまいったような声で「悪かったな」と言うから、私はまだ許してはいなかったけど何故かボロクソに言う気にはならなかった。
「ほんとですよ」
「ちょっとした冗談のつもりだったんだ」
「馬鹿じゃないですか」
 菊地さんが小声で「確かに」なんて言ってる。多分また頭をかいているのだろう。
「で、あの後逃げ切れたんですか?」
「あぁ、それは大丈夫。阪急くらいで撒いたよ」
 普段から走り込んでるテニス部の連中をいとも簡単に撒くなんて。流石はプロの殺し屋である。
「捕まってボコボコにされちゃえばよかったのに」
 菊地さんはフッと鼻で笑って「明後日の夜だ」と言った。
「何が明後日の夜なんですか?」
「何がって、お前の彼氏の話だよ。この流れ、それしかないだろ」
「やる気になってくれたんだ」
「まぁ、仕事だからな」
 菊地さんは少し溜息をついて言った。
「そういうわけで、ちゃんと用意をしておくように」
「用意って?」
「あぁー、まぁウーの奴に指示しとくよ。あいつにもう一回代わってくれ」
 それでウーさんに電話を戻した。二人はしばらく話をしていて、ウーさんは時折頷いてメモを取っていた。
「明後日になったらしいな」
 電話を切った後にウーさんが言った。
「そう言ってました」
「とりあえず良かったやん」
 私は頷いた。確かにとりあえず良かった。
「じゃ、明日は朝から準備にかかるで」
「はい」
 よく分からないが、準備とはいったい?


 翌朝、私もウーさんも九時前には起きていたのだが、朝食を食べた後もウーさんは準備に取り掛かる様子は無く、午前中の報道番組をいつもと同じように観て笑っていた。そうなると私も特にやる事がなかったので、隣に座って同じくテレビを観た。
 途中、様子を伺うようにコーヒーを淹れてみたが「おっ、サンキュー」なんてまったく普段通りで、明日が決行日だというのにまるで日常だった。
 そうこうしているうちに十一時を回り、流石に私も痺れを切らしかけていた頃、「さぁ、そろそろ行こか」なんてウーさんは突然テレビを消して伸びをした。それで久しぶりに例の社用車に乗ってマンションを出る。
 どこへ向かうのかなぁ、なんて思っていたら、百七十一号線沿いのマクドナルドにあっさり入って「先昼ご飯食べてから行こ」なんてなかなか準備にたどり着かない。
 とは言え文句を言っていても仕方ないので車を降りて二人、マクドナルドへ行く。店内は平日の昼にもかかわらず意外と混んでいた。
「ハッピーセットにしよかなぁ」
「おもちゃが付いてるやつですか? あんなの子供が食べるものでしょ」
「おもちゃが付いてるだけで、言うてあとは普通のハンバーガーとポテトやで」
「まぁそりゃそうですけど。わざわざおもちゃを付ける意味あります?」
「意味とかそんな難しいことちゃうやん」
 それでまたウーさんに押し切られて、私達はハッピーセットをそれぞれ注文した。おもちゃはウーさんがスヌーピーの人形で、私はウッドストックの人形だった。車のボンネットに並べて置いた。
 で、けっきょくたどり着いた先はただのホームセンターだった。
「全然普通のホームセンターじゃないですか」
「何を期待してたんよ。あんね、普通ってのが一番足がつかなくていいんよ」
 ウーさんはそう言って軍手を幾つかカゴへ放り込んだ。なるほど。
「他は何を買うんですか?」
「うーん。ここでは後はスコップくらいかな」
「はぁ」
 それで軍手とスコップだけを買って足早にホームセンターを後にする。
 次に向かったのもホームセンターで、今度は懐中電灯とカイロを買い、また次のホームセンターへ向かった。私はその特異な買い出し方法より、近隣にこんなにホームセンターがあったのか、ということに驚いた。
 そんなこんなで私達はけっきょく五軒のホームセンターを回り細々としたものを買い集めた。私はウーさんに付いて回るだけだったが、それでもかなり疲れた。
「ちょっとソフトクリーム食べようや」
 買い物を終えて外に出た時にウーさんがソフトクリームの屋台を見つけて言った。確かに何か甘いものを食べたい気分ではあった。
「いいですね」
「じゃ、私は苺にするから、あんたはチョコレートにし」
 勝手に決められてしまった。
「まぁ、いいですよ」
「ほんで半分こしよな」
「はいはい」
 外のベンチに座って二人並んでソフトクリームを食べる。
 入り口付近で警備員さんが腕をぶんぶん回して車を誘導しているのが見える。木枯し。天気は良いが肌寒くて、もうソフトクリームの季節じゃないなぁ、と思った。
「何かもう、冬ですね」
「なんの、まだまだ」
 そう言ってウーさんはがつがつとソフトクリームを食らう。私はちょっと引いた目でそれを見る。
「いよいよ明日なんですね」
「せやなー」
 と、ウーさんは遠くの空を見て言った。雲一つない秋晴れの空だった。
 明日、いよいよ私の恋が終わる。

 普通に泣いたり笑ったりして生きるということは、どれほど難しいことか。
 ふと思った。
 警察に捕まるような悪いことを何もせずとも、誰かに多大な迷惑をかけていなくとも、問題は起きる。彼氏に捨てられる。そうやって人生という線路は油断をするとだんだんと曲がってしまい、理想のコースからズレていく。真っ直ぐに走るということは非常に難しい。
 車だってタイヤやらホイールやらサスペンションやら、車全体のバランスが取れて初めて真っ直ぐ走れるようになるとテレビで観たことがある。機械ですらそんなものなのだ。
 生身の人間が真っ直ぐ走れるなんてあり得ないのではないだろうか。皆どこかで間違って、後々軌道修正して辻褄を合わせて生きている。はずだ。軌道修正できない人だっている。
 とりあえず今夜、私の人生は大きく曲がる。普通に泣いたり笑ったりして生きていたかっただけなのに。

 夜、二十一時に菊地さんが帰ってきた。
 私とウーさんは昨日ホームセンターで購入した上下のウインドブレーカーに身を包んでそれを待っていた。
「俺の服は?」
 ウーさんが机の上を指差す。
 菊地さんは着ていたスーツを素早く脱ぎ、用意していた私達とお揃いのウインドブレーカーに着替えた。脱いだ菊地さんの身体は痩せているのだが、妙に引き締まっていて、かっこいい身体つきとは思えなかった。平たく言うとキモかった。てかレディー二人の前で堂々と脱ぐなよ。ヨレヨレのボクサーブリーフを晒すなっての。
「行こうか」
 着替え終わった菊地さんが言った。
「環汽は?」
「あ? もう車にいるよ」
「え、そうなの」
 少し驚いた。
 車へ行くと、後部座席に男の人影があった。見るとうちの高校の制服を着ていて、顔はニット帽で隠されていた。手足は縛られている。
「薬の影響で今は意識が朦朧としてるはずだ」
 顔は見えなかったが、間違いなく環汽の靴、制服だった(環汽のブレザーには自転車で転んだ時に引っ掛けた傷が肩にある)それに微かに環汽の匂いがする。体格的にも間違いない。
「顔、見ていいですか?」
「止めとけ。気持ちが揺れる」
 菊地さんが妙に迫力のある声で言ったので、私は黙って頷いた。
「おい。そろそろ行くぞ」
 菊地さんが言うとウーさんは吸っていた煙草を足で消して運転席に座った。
 私は後部座席、環汽の隣に座った。
 気まずかった。意識が朦朧としているとは言え、こうして二人で並ぶのは久しぶりだった。横顔を盗み見るもニット帽で隠れていて、私はその向こうの環汽の顔を想像した。
 気がつくと車は坂を登っていた。
「どこに向かってるんですか?」
「ポンポン山」
 ウーさんがハンドルを切りながら素っ気なく言った。
「意外と近くなんですね」
 ポンポン山とは京都市と高槻市の境界にある山で、山頂で跳ねると、ポンポンと音が鳴るという逸話からポンポン山と呼ばれていた。ウーさん達のマンションからそう遠くない距離にある。
「穴場なんだよ」
 菊地さんが少し笑って言う。
 それで三十分も経たないうちに車が停まった。
「ここから先は歩いて行くで」
 ウーさんは昨日ホームセンターで買ったコールマンのアウトドアワゴンに環汽を乗せた。三人、山道を登っていく。最初のうちは舗装された道だったが、やがて土を踏み締める登山コースに入った。行く道は暗く、懐中電灯が無いと何も見えなかった。
「ほら、寒いやろ?」
 ウーさんがカイロをわたしてくれた。
 それで初めて辺りが物凄く寒いことに気付いた。街中と山では気温がまったく違ったが、緊張していたのか、それまではまったく寒さを感じなかった。
「ありがとうございます」
「もうすぐ目的地に着くで」
「え? もう山頂なんですか?」
 前に登ったのは小学生の頃、亡くなったお爺ちゃんに連れられてだったが、もっと歩いたような印象だった。
「いやいや、山頂までなんて行かへん。あんな人がぎょうさん集まるとこあかんわ」
「はぁ」
 それでしばらく行くと「この辺だな」と先頭を行く菊地さんが急に立ち止まった。何も無い、別に普通の道の途中だった。
「え? ここですか?」
 と、私が驚くと、ウーさんがちょいちょいと崖の下を指差した。「え」と驚きのぞき込む。懐中電灯で照らしても、底がよく分からなかった。
「まさか、ここを降りるんですか?」
「そうやで」
「ちょっと、ちょっと。無理ですよ。私、普通の女子高生なんですから」
 私が焦っていると「うるせぇなぁ」と菊地さんは懐中電灯をゆらゆらさせて崖の底を確認していた。
「いいな?」
「ええんちゃう」
 ウーさんがそう言った瞬間、菊地さんはコールマンのアウトドアワゴンごと崖の下に消えた。「ええええ」なんて驚いていたら、崖の底から「オッケーだぞー」と菊地さんの間の抜けた声が聞こえた。
「いや、ちょっと待って、ウーさん。これは無理。私、絶対無理」
 と、私は必死でウーさんに訴えた。
「大丈夫、大丈夫。分かってるて。ほら、これあんたのロープ。どっかの木に結びつけて降り。それなら大丈夫やろ?」
「まぁ、それなら」
 本当は暗いし、そんなに大丈夫だとは思えなかったが、丸腰で飛び降りるよりは全然マシだと思い覚悟を決めた。
「じゃ」
 と、言ってウーさんも崖に飛び降りて行く。
 急に暗がりで一人きりにされた私は慌ててロープを結べる木を探した。「あのさ、私、素人なんだからね」なんてぶつぶつ愚痴りながら崖を降りる。こんな夜に暗い山の中、とにかく一人でいるのは怖かった。
 崖の下に降りると、二人は待ち侘びたかのように立っていて、その真ん中に環汽が正座で座らされていた。
 二人とも目付きがいつもと違った。
「さぁ、じゃ手っ取り早くやりますか」
 そう言って菊地さんは懐から拳銃を取り出した。
 項垂れる環汽、ぎりぎり座っているという感じ。おそらくまだ意識が朦朧としているのだろう。
 私は崖を降りる時にカイロを落としてしまい、物凄く寒いはずなのに何故か背中に変な汗をかいていた。
 現実。
 殺しの現実が目の前にあった。
「やるって?」
 すっとぼけた声が出た。いつの間にか額にも薄っすらと汗が浮かんでいた。
「いや、お前何しに来たんだよ」
「まぁ、そうですよね」
 無理して笑みを浮かべてみるも足が震えた。
「眠いから早よやろうや」
 ウーさんは大口で欠伸をして言った。
「そうだな」
 そう言って菊地さんが環汽の頭に銃口を押し当てた時「ほんとにやるの?」と裏返ったような声が反射的に出てしまった。
「何だ、ビビったのかよ」
「や、ビビったとかじゃなくて、ただ、その、本当にやるのかなって思って」
「本当にやるも何もお前の依頼だろ」
「そうだけど」
 私の笑顔は完全に強張っていた。
「やっぱ、やめません?」
「お前さ、俺等も一応プロなんだよ」
 菊地さんは鋭い目で私を見て言った。
「悪いけど俺はもうこの仕事を受けちまった。受けちまった依頼はこなす。例え今になってお前がビビっちまってもな」
 銃口が再び環汽の頭を捉える。
 死ぬ。環汽が死ぬ。
 私が依頼したのだけど本当に死ぬのだ。目の当たりにするとその現実は思っていたよりもずっと重く、恐ろしかった。
「ちょっと待って、お願いだから」
 涙がぽろぽろこぼれた。
「見んとき。あんたには刺激が強過ぎるわ」
 ウーさんが私をぎゅっと抱きしめる。でも私はそれを振り払い「待って!」と叫んだ。
 しかし、それとほぼ同時に乾いた銃声が森に響く。
 環汽の身体はバランスを失い、土の上にバタッと倒れた。
「あ……」
 菊地さんの持つ拳銃の銃口から煙が立ち昇る。破裂音の後、辺りはまた静かな夜に戻っていた。少しの間誰も何も言わなかった。
「お前、何泣いてんだよ」
 菊地さんが私の頭に手を置く。
「だって、だって」
 私は嗚咽をこぼす。
「さぁー、さっさと掘るぞ。おい、ウー」
「分かってる」
 ウーさんが昨日買ったスコップと軍手を取り出して菊地さんにわたし、環汽の死体にブルーシートをかけた。
「宇井」
 そうして差し出された私の分のスコップと軍手。
「どっか端っこで休んどく?」
「ううん。掘る」
 私は袖で涙を拭いてスコップを受け取った。
 菊地さんが指示した場所を三人で掘る。「深く掘らないと野犬に掘り返されるぞ」と菊地さんが言ったが、私はその言葉の意味をあまり理解しないままに無我夢中で穴を掘った。涙は止まらず、頬を伝う。それが土に落ち、私はまたそこを掘る。息が白い。三人共何も話さなかった。
「これくらいで十分だ」
 しばらくして菊地さんに肩を叩かれた時、私の頭は最早正常に機能していなかった。止めないでくれ、と強く思った。腕は既にパンパンになっていたが、何故か私はこのまま穴を掘り続けたいと思っていた。
「あ、私……」
「いいんだよ。もう十分だ。上がるぞ」
 そう言われて上がってみると、いつの間にか穴は浴槽二つ分くらいの大きさになっていた。けっこう深い。
「埋めるで」
 ウーさんが私の耳元でそう呟いた。私は無意識のうちにそれに何度も頷いた。
 ぐったりした環汽の死体をブルーシートごと穴に落とし、菊地さんとウーさんはそれに土をかけた。私もそれを手伝おうと思ったのだが、今度は何故か身体が少しも動かなかった。
 どこかで鳥が飛び立つ音が聞こえた。音的に、かなり大きな鳥だったと思う。

 そこから先のことはあまり覚えていなかった。
 まるで眠りに落ちた一瞬のように、その数十分の記憶がまったく無い。
 気が付いた頃には私は車の後部座席に座っていて、ちょうど緑ヶ丘のバス停を過ぎたあたりだった。
 雨が降っていた。フロントガラスにパチパチと弾け、そこに透けた対向車のライトが線香花火みたいだった。
 というか私は、いったいどうやってあの崖を登ったというのだ。 
 緑ヶ丘。いつの間にかマクドナルドが潰れていて、だだっ広い駐車場になっていた。


「ただいまぁ」
 玄関からウーさんの明るい声が聞こえる。
 外は土砂降りで、部屋の中は雨音に支配されていた。
「いやいやいや、急に降って来るんやもん。勘弁してほしいわ」
 現れたウーさんの髪と肩は雨で濡れていた。
「傘持ってなかったんてすか?」
「せやねん。まいったわ」
「夕方から降るって朝のニュースで言ってたじゃないですか」
「え、そうやけ」
 ウーさんはそう言って頭をくしゃくしゃとバスタオルで拭いた。
「そうですよ。一緒に観てたのに」
「そうか、そうか」
 時刻は十六時半。雲に覆われて夕暮れは見えない。空は灰一色。雨が止む気配は無かった。
「何や、電気も付けへんと」
 そう言ってウーさんは部屋の明かりをつけた。
「後処理は無事終わったんですか?」
「あぁ、うん。使ったもんはこれで全部処理できたわ」
「そうですか」
 私はソファの上で膝を抱いた。
「なぁ、宇井。またラーメン食べに行こうか」
 ウーさんはやたらと明るい声で言った。
「雨ですよ」
「まぁ、せやな。じゃ何やろ、ボーリングでも行くか?」
「嫌です」
「ほな、ブックオフに立ち読みしに行こうか。うち、あれ、金田一読みたいねん。金田一少年の事件簿」
「私はいいです」
「え、ほな、じゃお餅でも食べるか? 焼いたるで、オーブンで。お雑煮にしてもええで」
「気分じゃないです」
「ほな何の気分やねんな!」
 ウーさんが耐えかねて怒鳴った。
「あんたなぁ、菊地も言うてたけど、あんたが依頼したんやからな」
「分かってますよ!」
 私も怒鳴った。
「でも、後悔したらダメですか? 何か、ちょっと間違えたかなって、そんな権利私には無いですか?」
「いや、権利って……」
 ウーさんは困った様子で言った。
「好きだったんですよ。やっぱり」
「うん」
「何か、今になってそれが分かりました」
「うん」
「遅いですよね。どう考えても」
「そういうこともあるて」
 ウーさんは私の横に座って頭を撫でた。
 また涙が溢れる。あれからもう三日が経つが、私はこんな感じでずっとメソメソしていた。
「まさかこんなにコタえるなんてなぁ」
 本当にその通りである。いや、それが当然なのかもしれないが。
 ウーさんがコーヒーを淹れてくれた。湯気の立ち昇る温かいコーヒーは生命力そのもので、それを飲むとお腹の辺りが暖かくなる。私自身も、確かに今生きているのだなと思った。大事なことだなと思った。
「ウーさん、私これからどうしよう」
 私が言うと、ウーさんは深く溜息をついた。
「どうしようってあんた、その答えを私に求めるんは何かちゃうくない?」
 それは確かにそうだ。私はまた黙ってしまう。ウーさんはそんな私を見てまた溜息をついた。
「とりあえず学校行ってみ」
「一番行きたくない」
「そうも言ってられへんやろ」
 ウーさんはそう言って煙草に火をつけた。
「嫌だ。もう二度と行きたくない。てか、行けないよ。どんな顔で行けばいいのよ」
「普通の顔して行けばええやん。ほら、こんな顔」
 と、ウーさんの思う「普通顔」をやった。笑わせようと思っていたのかもしれないが、私は笑わなかった。
 それでバツが悪くなったウーさんは咳払いをして「とにかく、明日は絶対学校に行かなあかんで」と言い切った。私は何も言わずにソファに倒れていた。

 しかしウーさんは思っていた以上に本気だったらしく、翌朝、私は六時半に叩き起こされた。
「学校」
「にしても早いでしょ。九時までに行けばいいんですから」
 寝起きの私は機嫌が悪かった。
「ちゃんと朝食食べて行かなあかんやろ」
「食べますよ」
「嘘つけ。最近ロクに食べてないことちゃんと分かってんで」
 それで私は何も言えなくなった。
 顔を洗ってリビングに行くと、トーストの焼ける匂い。ウインナーと目玉焼き、プチトマトも添えられて、朝食の準備は完璧だった。
 ウーさんは既に食卓に着いてコーヒーを飲んでいた。
「何でウーさんがそこまでするんですか」
「一言で言うと、プロやからかなぁ。一応」
「全然意味分かんないです」
「ちゃんと最後までやり遂げたいってことよ」
 そう言ってトーストを齧る。やっぱり分からない。
 ゆっくり朝食を食べ、一応制服に着替えるもやはり気乗りがしない。気乗りというか、最早絶望感なくらい学校に行きたくなくて、用意ができてからもグダグダとソファに沈んでいた。
「ウーさん、私やっぱ無理かも」
 そう言った私のお腹にウーさんが制鞄を落とした。ぐえ。私は無防備だったので、モロにその衝撃を受けた。
「お鞄ですよ」
「ね、私の話聞いてます?」
「ウジウジした話はうちの耳、よう聞かんのよ」
「でももう今から出ても遅刻ですよ」
 時計を指差す。
「車で送ったるから大丈夫や」
「あれ、社用車だから怒られるんじゃないんですか?」
「ぶつくさうるさいなぁ」
 と、これ以上言うとウーさんが本気で怒り出しそうだったので止めて、私は嫌々ながらも車に乗った。
 校門のところで雫句とばったり会った。
「宇井、あんたずっと何してたんよ」
 助手席に座る私に雫句が目を丸くして言う。怒っているような、安心しているような顔。思えばここ最近連絡をしていなかった。
 久しぶりの雫句、学校。私は忘れかけていた日常が眩しすぎて身体が強張った。
 それに気付いてなのかは分からないが、ウーさんが優しく私の肩に手を置く。
「雫句ちゃん。宇井、ちょっと暫く体調崩してもうててなぁ。お婆ちゃんの介護疲れなんかなぁ、なんて。それで学校ずっと休んでてん」
「はぁ」
 雫句は何とも言えない顔で言った。
「まだあんま元気ちゃうから教室まで一緒に付いたってくれる?」
「それはもちろんいいですけど」
「ありがとう。ほら、降り」
 と、ウーさんは助手席のドアを開けて私を押し出した。
「ウーさん、私……」
「とりあえず現実と向かい合ってみいや。話はそれからやろ」
 怖くて足が震えたが、雫句に気付かれたくなかったので、必死でそれを我慢した。
「怖いのは当たり前」
「……かな?」
「また帰りに迎えに来たる」
 そう言ってウーさんは少し笑みを浮かべ、走り去っていった。
「なぁ、何の話?」
 雫句が怪訝そうに聞いた。
「何でもない」
 そう言って足を一歩踏み出すと、額からドッと汗が出た。次の一歩が上手く出せない。
「ちょっと、宇井、ほんまに大丈夫?」
「大丈夫、大丈夫」
 必死の覚悟でもう一歩を踏み出した。するとその次の一歩は勢いでいけた。
「いやいや、あんたマジで無理せんときや。顔、真っ青やで」
「大丈夫。頑張るから」
 必死の形相で校門をくぐる。
 今日、ここで逃げてしまったら本当にもう私は戻って来れない気がした。ウーさんがチャンスをくれたのだ。私はそれを無駄にしてはいけない。そんな気持ちでゆっくりと歩く。
 その時だった。
「宇井」
 後ろから不意に誰かに声をかけられた。
 振り返ると夏海だった。
 私はマジで心臓が止まるかと思った。
「何よ、あんた」
 そう言って雫句が夏海を睨みつける。
「ごめん。私となんか話したくないやんな」
 夏海は泣きそうな声で言う。
「そんなん当たり前やん。自分が何したか分かってるやろ?」
 と、夏海を責める雫句を私は「大丈夫だから」と弱々しく制した。
「夏海、元気?」
 混乱とか恐怖とか、様々な感情が入り混じった結果、わけの分からないことを聞いてしまった。
「私は、元気やけど。元気っていうか、まぁ……」
 これは夏海にとってはなかなか気まずい質問だったらしい。そんなつもりで聞いたわけじゃなかったのに。夏海は何かモゴモゴ言っている。変なところで真っ直ぐで、考え過ぎてしまう性格なのだ。こういうとこが夏海の可愛いところなのだと、私は今でも思っている。
「宇井、ずっと学校来てなかったやん」
「まぁ、いろいろあって」
「それってやっぱり私のせい? 私の顔、見たくなかったから?」
 そう言われて、一瞬そうなのか? と、自問自答したが、特にそうだとも思わなかったので「いや、そういうわけじゃないよ」と言った。すると、夏海の小さな肩が震え出し、「ごめんな。宇井、本当にごめん」といよいよ泣き出してしまった。
「でも私、宇井とまた友達に戻りたくて」
「あんたねぇ、何都合のいいこと言ってんの?」
 と、雫句が苛立った声で瞬間的に怒鳴ったのだが、次の瞬間、私の顔を見てハッとしていた。
 私は号泣していた。
「違うの、夏海。ごめん、私の方こそごめん」
 ごめん。私、あんたの彼氏、殺し屋に依頼して殺しちゃったの。
「宇井……?」
 雫句はもちろん、泣いている夏海も驚いていた。
「ごめんね。私、こんなはずじゃなかったの」
 私は感極まって夏海を抱きしめてしまった。
「私のこと、許してくれるん?」
「許すも何もないよ。私こそ、こんなんでごめん。本当にごめん」
 私はえずきながら言った。
 それで私達は暫く二人で泣きじゃくった。夏海も相当張り詰めていたようで、おそらくちゃんと意味を理解していないはずなのだが、えんえん泣いた。
 雫句だけは冷静で、これはいったい何なんだ、という顔をしていた。

 それで少しだけ気持ちが軽くなった。
 周囲のリアクションはこの前とほぼ同じで、最初はやはり皆、私が来たことに驚いていた。そして前回同様、やはり先生に呼ばれた。今度は悟留もフォローを入れてくれていなかったので、いろいろなことを根掘り葉掘り聞かれたが、それっぽいことを言ったら最終的には同情してくれた。

 どうしても気になって、勇気を出して一限終わりに環汽のクラスを覗いた。
 いなかった。
 そりゃそうよね。だって埋めたんだもん。ポンポン山の崖の下に。分かってはいたが、一気に胸が苦しくなって、くらっと貧血のような感覚に陥った。
 もう一度覗いてみるも、当たり前だがやはり変わらずで、何も無い机の上。花くらい置いてやれよ、なんて、どの口が言うのかということを思った。

「良かったん? 夏海とあっさり仲直りしちゃって」
 二限目終わりの休み時間。次の授業の理科室へ向かう最中に雫句が聞いた。
「いいのよ」
「何でよ、夏海はあんたから中原君を奪ったのよ」
「そうだけどさ」
 私は俯いて言う。
 奪った。
 それで言うと私も夏海から環汽を奪ったことになる。しかも永遠に。
 当たり前だが、人間誰しも死んだら終わりだ。命は一人一つと神様が決めていて、それを失ったら終了。霊とかそういうものの存在はよく分からないけど、実質的に夏海はもう今世では環汽に会うことができない。
 それって、夏海が私にしたことよりも、ずっとずっと悪いことではないか。
「まぁ、宇井がいいって言うなら別にもうええんやけどな」
「うん。だから雫句も夏海のこと許してあげて」
「えぇ、それは何か難しいなぁ」
 と、雫句が顔をしかめる。
 その気持ちは何となく分かる気がした。
 理科室にて、授業が始まっても私は環汽のことを考えていた。いや、環汽のことと言うか、これは私のことかもしれない。諸々のこと。日常のこととでも言うのか。
 私はこのまま、何となくまた日常に戻れるのかもしれない。甘っちょろくも、そう思っていた。
 もちろん環汽のことは一生消せない。殺したのは事実だし、それはいけないことだったし、後悔もしている。ただ、菊地さんとウーさんの仕事は圧倒的にプロで、おそらくバレることは無いだろう。例え私が口外したとしても私達の犯行は特定されない気がする。だから普通にしていれば普通に日常に戻ることができる。理論的には。
 後は心情的なところなのだが、これも気付けば薄れていく、だろう。今日の感じ、そうなっていくと思う。周りは何も知らないから普通だし、むしろ彼氏を奪われた悲しい女という同情の目だし、そうなると自分でも自分は普通なのだと思い込んでしまう。最低なのかもしれないが、私はそういう人間だ。今日だけで既にそれに気付いてしまった。
 大きな溜息をついたところで先生に当てられた。
「藤村。ほれ、熱力学のとこ読んでみ」
 先生は教科書をつんつん指す。
「はい」
 と、教科書を手に立ち上がるも熱力学なんてどこにも載っていない。おかしい、と思って表紙を見ると数学B。教科書を間違えていたのだ。
「先生、間違えて数学の教科書持って来ちゃった」
「お前なぁ、だとしても気付くの遅すぎるだろ。授業始まってから何分経ってんだよ」
 確かに。
 それでクラスメイト達はドッと笑った。
「すいません。教室に取りに行ってきます」
「休み明けでぼやぼやしとるんちゃうかぁ」
 それでまたクラスメイトが笑う。
 私は理科室を出た。
 廊下を歩きながら、あぁ、これが私の普通なんだなぁ、と、改めて思った。
 理科室から教室へ戻るには階段を上る。環汽が私に別れを告げた階段だった。
 全てはここから始まったんだよなぁ、と思った。もう環汽はいないけど。
 私は、もしかしたらいつか環汽のことを忘れてしまうかもしれない。
 最低かもしれないが、このまま日常的に普通に浸かっていたらそれも有り得ないことではないのかなぁ、と思ったのだ。朝はがちがちに震えていた私も、今何となく皆と授業を受けている。人間はだんだん慣れていく、忘れていく、それは多分私だけでは無いはずだ。
 いつか、一緒に撮った写真なんかも全部捨てて、顔を見る可能性もなくなったら、綺麗サッパリ本当に忘れるのだろうか。だとしたら、それはかなり寂しい。
 いや、てかダメだ。
 他の誰が環汽の顔を忘れても私は忘れてはいけない。それは私の責任だ。
 例えばいつか、現彼女である夏海が別の人と結婚して、可愛い赤ちゃんを産んで、環汽のことなんて青春の一ページになって、顔も忘れてしまったとしても、私だけは忘れてはいけない。絶対に。
 私は環汽の顔を思い浮かべた。
 まだ、今ははっきりと思い浮かべられる。想像の中、環汽は笑っていた。この笑顔をずっと、これからもずっと覚えていよう。
 そう思って階段を上りきると、思い浮かべていたその顔本人と鉢合わせた。
 環汽。
「いやぁぁぁぁ」
 私は驚きのあまり叫び、その場にへたり込んでしまった。
 どう見ても、それは間違いなく環汽だった。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめんって」
 私は無我夢中で謝った。こんなに早く化けて出てくるなんて、相当恨んでいるに違いない。
「ちょ、おい、宇井。何だよ。落ち着けって」
 私があんまり取り乱すので、環汽は焦った様子で言った。
「何で? 何で?」
「いや、何が何で?」
 環汽は不思議そうに顔をしかめた。
「本当に環汽?」
「そうやけど……」
「だって、ポンポン山に埋めたのに」
「はぁ、何の話?」
「生きてるの?」
「見りゃ分かるやろ」
 そう言われて涙が溢れた。
「良かった……」
 肩の荷が全て下りた感覚だった。涙は止めどなく頬を流れ、表情はそれでも笑んでいた。
「なぁ、いったい何の話なん?」
「いや、こっちの話。てか、何で朝は学校来てなかったの?」
「まぁ、俺もいろいろ大変やってん」
 環汽はそう言って頭をかいた。
「大変?」
「うん。家に強盗が入って、俺の制服とか鞄とか靴とか、一式まるまる盗まれた」
 間違いなく菊地さんの仕業だ。
「他の家族のものはまったく手つけられてないのに、俺のものだけ集中的に盗まれてん。マジ訳わからんわ。それで財布も盗られたから原付の免許もなくなってもうて、今朝再発行してきてん」
 そう言って環汽は馬鹿面の免許証を私に見せる。ついつい笑ってしまった。
「髪くしゃくしゃだよ」
「そこは別にいつもや」
 何となく和やかな空気になり笑い合う。
「てか学校来たんやな」
「今日からね。今は教室に教科書忘れて取りに戻ってるところ」
「そうか。俺は体育館行かなあかん。体育、バスケットらしい」
「うん」
 目が合って、黙ってしまう。懐かしい間だった。
「またこうやって普通に話しかけてもいい?」
 環汽が不安そうに聞く。
「いいんじゃない?」
「え、何で疑問形なん」
「別に、深い意味は無いよ」
 本当はあったのだが、そんなことは言わない。
 それで今日は笑顔で別れられた。

 ドアを開けると、誰もいない教室に菊地さんが一人座っていた。
「何か、昔から変わってねぇなぁ」
 菊地さんは机を撫でて言った。
「そうなんだ」
「何だよ。わざわざこんなとこまで来てやったのにあんまり驚かねぇなぁ」
 菊地さんは少し残念そうに言った。
「だってついさっき一生分驚いたから」
「あぁ、そっか」
 菊地さんは愉快そうに笑った。
「どうやったのよ?」
「何が?」
「何が、じゃないでしょ」
 私は目くじらを立てた。
「私達が埋めたのは誰だったの?」
「埋めたのはただの人形だよ」
「うそ。だって車で私と並んで座ってたのは間違いなく人間だったよ」
「あぁ、あれは小嶋」
 菊地さんは得意気に言った。何かムカつく。
「偽物の銃で撃った後、ブルーシートをかけたろ? あれでひとまず隠れて、お前がせっせと穴を掘ってる間に人形と入れ替わったんだよ」
「小嶋さん」
 確かに背格好は環汽と似ている。
「気づかなかっただろ? 服とか靴とかも全部本人のものを使ったからな」
「悪趣味だよ。てか全然気づかなかった」
「だろ? あいつ、流石だよ。めちゃくちゃ演技上手かった。帰りもこっそりとトランクに潜んでたんだぜ? 俺、笑いそうになったよ」
「いや、笑えないって」
 私は菊地さんを睨んだ。
「いたいけな女子高生には刺激強すぎじゃない?」
「何がいたいけだ。自分から依頼したくせに。まぁ、騙して悪かったよ。でも結果これで良かっただろ?」
 そう言われて、まぁ確かにそれはそうだと思った。
「菊地さん、一応ありがとう」
「礼には及ばねぇよ」
 そう言って菊地さんは少し笑って立ち上がった。
「あ、でも金はちゃんともらっておくぞ。こっちも一応ビジネスだからな。今期の売上、厳しいんだから」
 菊地さんは指に挟んだ一万円札三枚を見せた。
 半信半疑だったが、後日自分の口座を確認したらきっちり三万円減っていた。
「ま、ちゃんと勉強しろよ」
 菊地さんはそう言って頭をかきながら教室を出て行った。
 これが私の最後に見た菊地さんだった。

 放課後、校門を出ると道の反対側にウーさんの社用車が停まっていた。
「どうやった?」
 ウーさんはエンジンをかけながら聞く。灰皿には火のついた煙草がくすぶっていた。
「驚きましたよ。当たり前でしょ」
「そうやんな」
 そう言ってウーさんは少し笑った。
「本当に心臓が止まるかと思いましたよ」
「はは、そん時の顔見たかったわ。もしかしたら菊地が写真撮ってるかもやから聞いてみよっと」
「性格悪いですよ」
 私は顔をしかめた。
「何と言われようと結構!」
 ウーさんはそう言って盛大に笑う。
 私は溜息をつく。
 少し寒かったけど、半分くらい窓を開けてみた。冷たい空気が顔に当たる。前髪が揺れる。気持ちが良かった。冬の到来はもう近い。
「ねぇ、ウーさん」
「ん?」
「私、家に帰ります」
「うん。それがええわ」
 ウーさんは灰皿から煙草を拾って続きを吸い出した。少し笑っているようにも見えたが、真偽は定かではない。
 車はゆっくりと坂を登り、そしてまた下っていく。


 冬服の上にコートを羽織り、そしてマフラーを巻く。
 年が明けると、寒さはいよいよピークを迎え、これは例年よりも寒いだとかそうでもないだとか。詳しくは分からないが、とにかく寒かった。
 あれから私はちゃんと学校に通っていた。
 高校二年も気づけばもうすぐ終わる。最近は進路がどうだとかそんな話で持ちきりだった。
 進路。正直言って迷っていた。特別やりたい事なんてなかったし、漠然と大学へは行っておいた方が良いよなぁ、なんて思ってはいたが明確なビジョンは描けていなかった。
 雫句なんかはあっさりと志望校を決めて、春からは予備校に通うらしい。ちょっと焦った。
 それで私はたまには母親に頼ろうと、冬休みに一度お母さんに電話をしてみたのだが、何やらパーティーの最中なのか、テンションが高すぎて話にならなかった。聞けばまだロンドンから帰っていないらしい。
 悟留にそのことを言ったら「母さんに何を期待してんだよ」なんて言っていた。こいつは相変わらずで、一花ちゃんとは上手くいっているようだった。
 まぁ、進路のことはそんな感じで検討中なのだが、その他のこと。
 まず、環汽とは本当にきっぱり別れた。
 もう何の未練もなかった。もちろん殺したいなんてことも思わない。今でもたまーに、廊下で会ったら話すこともあるけど、それだけだ。
 夏海とは友達に戻った。でもやはりお互いに気まずさが残り、完全に今まで通りというわけにはならなかった。雫句も一応夏海と口を聞くようになったが、ぎこちなさはあった。まぁ、これはもう仕方ないよなぁ。
 もしかすると、高校を卒業したら夏海とは会わなくなってしまうかもしれない。それでも、もっとずっと大人になってまた会ったら、環汽のこととか、いろんなこと、笑って話せるような気がする。もちろん雫句と三人で。そんな日が来るような気がする。や、きっと来る。その時は焼き鳥屋でビールでも飲みたいなぁ、なんて。菊地さんと小島さんみたいに酔っ払いたい。
 そして最大のニュース。何と、私に好意を寄せる男子が現れたのだ。
 彼は一つ下の学年の男の子で、サッカー部だった。どうも環汽と付き合っていた頃から私のことを好いてくれていたらしく、冬休みに入る前に急に電話番号を聞かれた。背が高く、可愛い顔をした男の子だった。年下の男の子。何だよ、私も捨てたもんじゃないな、と思った。今はまだ付き合っているわけではないが、マメに連絡を取り合っていて、非常に良い感じだった。
 以上、現状報告である。

 そんな冬のある日、私は久しぶりにウーさんと菊地さんのマンションを訪ねた。
 ウーさんの車で学校へ行った日以来、ここへ来るのはこれが初めてだった。久しぶりに訪ねたマンションはどこか懐かしく、駐輪場にはウーさんの原チャが四台、相変わらず仲良く並んでいた。
 でも部屋は呼び鈴を鳴らしても誰も出なかった。
 外出中かな? と思い一応ドアノブを回すと鍵が開いていた。
「ウーさん、いる? 私よ、宇井」
 と、声をかけながら中に入り驚いた。部屋から何もかもがなくなっていて、もぬけの殻状態だった。
「何で?」
 つい呟いてしまった。そこでフト壁を見ると真っ白い壁に大きくピンクの字で「goodbye」と書かれていた。
 口紅が一本床に転がっていた。おそらくこれで書いたのだろう。まったく、映画の殺し屋みたいな真似をして。私は少し笑ってしまった。
 よく見ると口紅の下に手紙が挟んであった。
「菊地が人事異動! 異動先は韓国!」
 ウーさんの字だった。
 人事異動って、殺し屋にもそんな制度があるのか。しかも韓国って。まぁ、ロンドンではないが、海外は海外だ。この手紙の感じからして、ウーさん的には無しじゃなかったのだろう。
 空っぽの部屋を見渡すと、ここで過ごした数週間の時間が夢だったように思えた。まぁ些か現実離れしていたのは事実だが。私はウーさんの口紅と手紙をコートのポケットに入れた。
 外に出ると景色がやたらと白く、よく見るとはらはらと細かい雪が降っていた。
 この冬初めての雪だった。

銃声とピンク

執筆の狙い

作者
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タイトルがどうも納得いかなくてボツにしていました。こんなのはどうでしょうという感じです。

コメント

夏の魔物
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遅れてしまい、作者様が見てくださるか不安ですが、感想です。

今回の話も良かったです。

         *

 殺し屋のアジトに来ても臆することなくウーと菊池さんの会話に参加する、なんだかんだで気の強い女の子が主人公の話です。ウーさんとの会話などから、明るい雰囲気で物語は進んでいきます。

 そして、無事に元彼を殺すことに成功したはずなのに彼女の心は晴れません。殺すかどうか迷っていたのに、彼女の怒りのために(殺し屋の2人に流されて?)殺してしまったことにひどく後悔するのです。最終的には、元彼は生きていて、殺し屋の2人は以下にも殺し屋らしい別れ方を選びました。(ここでタイトルにも繋がりますね。)

 元彼を殺そうと思った主人公が、最後はやっぱり後悔して落ち込む。なんか漫画にしても良さそうなシーンが多いお話なのに、こんなにも重いテーマがあります。

 私のとても好きなシーンは以下のところです。

「気分じゃないです」
「ほな何の気分やねんな!」
 ウーさんが耐えかねて怒鳴った。
「あんたなぁ、菊地も言うてたけど、あんたが依頼したんやからな」
「分かってますよ!」
 私も怒鳴った。
「でも、後悔したらダメですか? 何か、ちょっと間違えたかなって、そんな権利私には無いですか?」
「いや、権利って……」
 ウーさんは困った様子で言った。
「好きだったんですよ。やっぱり」
「うん」
「何か、今になってそれが分かりました」
「うん」
「遅いですよね。どう考えても」
「そういうこともあるて」
 ウーさんは私の横に座って頭を撫でた。

         *

 ここを変えるともっと良くなるかも、という点が2つあります。

 一つ目は、名前です。うい、たまき、しずくとひらがなにすると今の若い子にもいる名前なのですが、漢字が独特でいちいち突っ掛かってしまいました。(前に作者様の作品の中に出てきた『狐子』という名前が個人的には好みでした。もしかしたら違うかもです。)

 2つ目は、主人公はこの殺し屋の2人にもっと依存するはずだ、ということです。
作品の空気的にも、主人公の落ち着ける場所は学校でも家でもないことは明らかだったので、この最後の別れの部分をよりドラマチックに出来ると良いのかな、と思いました。(どなたかが以前コメントで仰っていましたが、羊様の特徴は軽さであるというのはこのような部分を指していると思います。)
(余計ですが、私だったら一連の出来事を通して殺し屋の2人無しではいられなくなった、『依頼主以上の関係になった高校生』を見たいと思いました。)

         *

 なんでこんな良い小説なのに感想が付かないんだろうと思っていたのですが、おそらく
・単純に長かったから
・この「殺さなかった方が良かったのではないかという葛藤」が難しく『読んだが、感想を書こうと思わなかった』方が多かったから
と勝手に結論づけました。

 個人的に作者様とかしまるこ様とか読みやすく、かつ文章が上手な人の話が好きなんです。上ではだらだらと書いてしまいましたが。

お疲れ様でした!

もんじゃ
KD111239165047.au-net.ne.jp

 羊さま

 拝読しました。

>私は今までにしたことのないような笑顔を浮かべて言った。
 本当に頭の回転が止まってしまうと、表情というものはこんなにも崩れるものなのか、と一つ学んだ。いや、そんな余裕があったわけではないけど、とにかく凄い顔になっていたと思う。それで環汽もちょっと怯んだけど、もう何がどうなろうと彼の中では答えを決めていたようで、話を覆すには至らなかった。

 ここを読んで閉じようと思ったけど、こらえてもう数ライン読んで、

>焦りに焦って、ブルーに悲しかった気持ちの上にペンキの様な真紅の怒りがひっくり返って、瞬く間に染みた。

 ここに至って読むことを断念しました。

 ということをいちおう報告させていただきます。

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夏の魔物様

ご感想ありがとうございます。
今回は感想が誰からもつかないかと不安になっていました。

名前は常にちょっと変わった名前にしたいという気持ちがあります。ただ、まぁ確かに引っかかりますよね…

依存ですか。正直、けっこう苦手分野です笑 ただ、それくらい濃厚な展開にした方が小説的にはいいのかもしれませんね。

また次もよろしくお願いします。

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もんじゃ様

残念です。
その文章の中のどのあたりがひっかかりましたか?

u
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読みました
今まで読んできた作者さんの作www
の中では
悪い部類です(と、思う)
もんじゃ様のようにあたしには文章の指摘はできま千年灸
羊さんらしさは本作にもあった言わずもがななのですが薄さ軽さwww
本作、それが生かされていない
最後の落ちは(最後だから落ちなんですがwww)読者(あたし)としては99.999999%予測(羊さんだから)www

なんで? 菊池に「水鉄砲」で襲わせたん? 二弾落ちの前にwww
ここが無駄なんだろうなー? 作者さん最終的な落ちに自信が無くてこのエピで、まー薄めるというかexcuseミタイナあたしはそんな感じがシンデレラ

殺し屋さんは間尺にゃあわないけど3万ではね、でも、大落ちの前の行動
彼、彼女らは主人公になんかを教えてかったんではないかないか道頓堀
その部分が余りにもかけてないのではないカモミール

まー面白かったかなwww
御健筆を

もんじゃ
KD111239165057.au-net.ne.jp

 羊さま

 すみません!
 uさんのが最新コメントのとこにあるのを見てこちらを開き、遅まきながら質問されていることに気がつきました!
 一つ目は一人称視点がそないなさなかの自分の表情を客観的に描写したりはしませんやろ? みたいなこと、および相手の心の内をそんなふうに語りませんやろ? みたいなことで、二つ目は、比喩っていうのは抽象であったりもするところのAとBとの配置を、それと同じ配置であるところの具象CとDの配置に置き換えてあらわすのが基本かと思われるのですが、悲しい気持ちをブルー、怒りを赤ペンキの赤、と置き換えるのはあまりにまんまだし、具象ではないものの具象とは言いがたいものへの移行だし、ここではそう表された結果としての効果が感得できないし、比喩をつかいたいがための比喩にしか思えず、だから躓いた、みたいなことでありました。青い冷静が赤い衝動にグラデーションしていったのである、みたいな表現自体を、例えば絵画の話をしてるときなんかに、目の前の絵画の色合いの階調とだぶらして提示するならわかるのですが、ブルーな気持ちが真っ赤な怒り(しかもペンキの赤)に染められた、みたいな表現はあまりに……かと感じてしまいました次第です。
 不適当な感じ方であったらすみません。でもこの読み手は読んだ当時そのように感じてブラウザを閉じました。その後反省して読みかけた話は最後まで読みその上で感想を書かせていただくことにしているのですが、正直文章で躓くと先を読み進める気力がかなり削がれてしまうということを改めてご報告させていただきます。
 返信が遅れてすみませんでした。

u
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↑>>一人称視点がそないなさなかの自分の表情を客観的に描写したりはしませんやろ?
なんか般若顔?ミタイナ表現? 本文中から探そうとしたんですけど長いので止めた
羊さん あたしもここは瑕疵かなーと思います
自分の顔自分じゃみえないわなwww鏡でもない限り
もんじゃさん堪忍ドスエwww
ということでおじゃま

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u様

ご感想ありがとうございます。いつもありがとうございます。

ご指摘いただいた件、うーん、確かにちょっとオチが見えますよね。言われてみると、いつも何かオチが見えてしまっているなと思いました。ちょっと考えます。

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もんじゃ様

こちらこそご返信が遅れてしまい申し訳ございません。

ありがとうございます。言わんとすること、伝わりました。精進いたします。

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