作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

最後の絵はがき

 病院の別館には、各科の医局、図書室、カンファレンスルーム、院長室、副院長室などが並んでいる。
 廊下を急ぐ相模健一の乾いた靴音が静寂を破ってリズミカルに響いた。 無人であると思っていた内科医局に灯がともっている。戸を開けると、先輩医師の神崎早苗が書類を見つめていた。声を掛けようとして健一は思わず足を止めた。振り返った早苗の目に涙が浮いているように見えたからである。早苗はすぐに目を戻し、机の上の書類を素早く引出しにしまい込んだ。
 早苗先生が泣いている。あの剛毅な早苗先生が。
健一が黙って自分の机につくと、
「どう、今夜一杯やらない?」
 健一に向かって早苗が手でグラスを持つ真似をした。早苗の目には、普段の表情が戻っていた。
「ああ、いいですよ」
 早苗は微笑んで、背中まである長い髪をかきあげた。仕事中はその髪をアップに束ねているので、それを見慣れている健一の目には、今の早苗は三十代半ばを過ぎている女には見えなかった。
「じゃあ決まり。九時にホノルルでね」
ホノルルは市内の繁華街にあるスナックで、健一も下宿の近くだから何度か行ったことがある。気さくな中年のママがいて、感じのよい店である。病院の多くの医師たちもここの常連となっている。   
 早苗は立ち上がり、長い髪を後ろ手にまとめながら足早に立ち去った。女性としては長身の後ろ姿には日頃のたくましさがなく、何となく寂しそうに見えたのは、早苗の涙を見たと思ったからかも知れない。
勤務時間はすでに過ぎているが、新米医師の健一にはまだやるべき仕事がたくさん残っていた。午後からつききりであった重症患者は、一応危機を脱してはいるがまだ油断はできない。今後の症状の変化を予測して、対策を指示しておかねばならない。次の日は祭日であるが、この調子なら一度覗きに来なければなるまいと思った。この病院に赴任して以来、日曜、祭日がない生活には慣れっこになっている。
 初冬の風は冷たく、健一の首筋を撫でていった。もうすぐ正月だなあと思った。正月には東京に戻って恋人の亜紀に会えるかしら。
 九時過ぎに健一がホノルルに着いた時、早苗はカウンターに座って、手にした水割りのグラスをじっと眺めていた。
「やっと来たのね」
 隣に座った健一に声をかけた早苗の目が涙で濡れている。やはり早苗先生が泣いている。健一には信じられない光景であった。

 健一は、医学部を卒業してから六カ月の基礎研修を大学病院で終え、三年前の年末にS市のS市立病院に研修医として赴任してきた。S市立病院は健一の母校である東京のT大学の有力関連病院である。院長はじめ、主だった幹部医師はほとんどがT大学の出身で占められている。
 市立病院の内科は、内科医長が一人、副医長が二人、医員が五人おり、研修医は健一だけだった。 赴任してきた時、健一は内科副医長の女医、神崎早苗を紹介された。高い鼻筋、よく光る鋭い目、白人のような色の白さ、一瞬混血かと錯覚するような風貌であった。早苗は健一の十年先輩である。その早苗が自らの希望で健一の研修指導に当たることを知らされた。
 早苗は冷たい表情で値踏みするように健一を観察した。
「あとで医局にきて頂戴。研修プランをたてましょう」
早苗に見据えられると、身のすくむような緊張感で健一の返事の声がうわずった。研修医とは言いながら、大学病院と違ってここでは一人前の医師として扱われる。期待と不安で心が揺れる。
「相模先生は何を専門にしたいと思うの?」
 早苗と向き合った机を割り当てられて、そこに座った健一に早苗が訊ねた。
「研修が終わって大学に戻らないと何が専門になるかわかりませんが」
 ふん、と早苗が鼻でわらった。
「それは学位論文の研究のことでしょ。臨床医として、消化器とか、血液とか、自分が強い領域を作りたいとは思わないの?」
「それなら」
 健一が口ごもった。
「消化器か循環器が良いかな」
「じゃあ、消化器をやってみるつもりある?」
 早苗が男のように腕を組んで健一を見つめた。
 内科の臨床では消化器疾患が一番多い。胃ガンから胃・十二指腸潰瘍、慢性胃炎、大腸、肝臓、膵臓、胆嚢など、消化器の症状を訴える患者は、日本人では特に多いと言われている。胃内視鏡の進歩によって、早期胃ガンの診断が可能になり、消化器を専門とするには胃内視鏡の技術が重要視されるようになった頃である。健一は大学病院で胃内視鏡に立ち会った時のことを思いだした。若い医師が強引に内視鏡を患者の咽に突っ込み、患者は咽から鮮血を吐き出した。残酷な、健一はそう思って目をそむけた。
「消化器を専門にしたいけど、内視鏡は苦手ですね」
「どうして? 内視鏡をやったことがあるの?」
「やったことは無いけど見たことはあります」
「胃内視鏡の出来ない消化器の専門なんて聞いたことがないわ。これから練習したら良いことでしょ」
早苗は内視鏡の名手であった。健一はまず胃内視鏡の手ほどきをうけることになった。早苗の傍につき、説明しながら操作する早苗の手の動きを健一は見つめた。
「今日は相模先生にやって貰います」
「でも、見学しただけですから、僕には無理ですよ」
「百年見学しても、自分でやってみなければ出来るようにはならないわよ」
 初めての胃内視鏡の操作だった。緊張で強張った手で内視鏡を持ち、これも緊張して体を固くしている患者の咽に内視鏡を通そうとする。患者は苦しそうにゲーと悲鳴をあげ、内視鏡を手で引き抜こうとする。大学病院で咽から血を吹き出した患者の姿が頭をよぎる。健一は助けを求めるように早苗を見た。早苗は僅かに首を振る。
 胃内視鏡検査は、内視鏡本体が患者の咽を通過する時が最初の関門である。熟練者は、患者の首の角度、挿入する内視鏡の角度、嚥下動作のタイミング、これらをうまく合わせて簡単に内視鏡を挿入してしまう。健一は早苗の手技をまねてそのようにしようと努力するがうまくはいかない。内視鏡を挿入する段階でつまずいてしまうと後の観察が難しくなる。
 やっと内視鏡が胃の中に入った。モニターの画面に赤い粘膜がぼやけて見える。内視鏡のレンズが粘膜に接近し過ぎているのである。額から汗を流しながら内視鏡を動かす。胃の全貌がちらりと見えてはすぐにもとの赤い粘膜だけになる。迷路に入り込んだ様に、当てもなく内視鏡のレンズは胃の中をさまよい歩く。
 早苗は言う。
「胃内視鏡が胃の中に入って胃全体を見た瞬間に、どの辺りを見るべきかがわかるのよ」
 健一は内視鏡を入れるだけで精一杯である。全体を観察する余裕はない。ましてや、入った瞬間にどの辺りを見るべきかなどは見当もつかない。
「そんなこと、どうしてわかるんですか」
「まあ、経験による直感ですね」
 どれだけ経験を重ねれば早苗先生のようにできるのだろうか。健一は早苗の白い指が手品師のようにしなやかに動くのを見ていると、自分は特別不器用で、胃内視鏡の術者としての才能がないのではないかと不安になった。
 胃内視鏡は早苗と健一が交替で行なうことになった。健一に当たった患者を誘導するとき、看護婦は気の毒そうな目付きで患者を見る。健一にはその目付きが拷問のように感じられた。
 内視鏡を終えて医局に戻った。
「僕が下手なために患者を苦しめていると思うとたまりませんね」
「誰だって、はじめから上手な人はいないわ」
早苗は笑ってとりあってくれない。
「もし、胃を突き破るような事故でも起こると……」
「だから、慎重に、丁寧にやるのよ」
「自信ないなあ」
「そりゃあ、私に比べたら相模先生はまだまだ未熟でしょう。練習すれば上手になりますよ。事故のことは心配しなくても良いの。その為に私がそばについて居るんだから」
「でも、患者を練習台にすることは」
「練習をしないで、どうしてうまくなれるの?」
 たたきつけるような口調で、早苗の目が厳しく光った。健一はうろたえた。
「練習台にされた患者が苦しむことは……」
 言いかけて健一は言葉を呑込んだ。
 早苗が鋭い目つきで健一を見据えたからである。仕事中でのクールな目つきであった。
 化粧気のない早苗の白い顔が上気してピンクに染まっている。健一はふと、美しい顔だと、話題に関係ないことを考えた。
 早苗の顔がゆるんだ。
「患者を苦しめたくないのなら、早く上手になることね」
 健一は無言でうなずいた。 
 早苗は湯沸器からお湯をとり健一にお茶を入れてくれた。
「外科医の成功は、屍の山の彼方にあるって言葉、知っている?」
 早苗は湯呑を手にとりながら言った。
「どこかで読んだことがあるけど」
「有名な外科医、ビルロートの言葉よ」
健一が医学部に入る前に読んだことがある。たしか、『医者の告白』という本だった。そこでも、若い医者が患者を練習台にすることに疑問を投げかけていた。その時は、何てひどいことを言うもんだと思った記憶がある。
「臨床医学では仕方がないことね」
「そんなに割り切れますか?」
「割り切って考えなきゃあ仕方がないでしょ。もし、相模先生が胃内視鏡を練習しなかったら、いつ出来るようになるの? こんなことは本を読んだだけで自然に出来るようにはならないのよ」
 確かに早苗の言うように、練習しなければ上手にはなれない。現在、手術の名手と言われる外科医でも、始めから手術が上手であった訳ではない。多くの患者で練習して上達したのだ。中には、未熟な為に死んだ患者がいるかも知れない。これらは明るみに出ることなくその真相はうやむやにされている。内科でも医師が上達するには、患者を経験台にして経験を重ねるしかない。本を読んで知識を蓄えるだけでは実戦の役に立たないことは、臨床の現場で痛感していることである。
 医師は患者を練習台にする事が許されるのか? これが臨床医としての第一歩を踏み出した時からの健一の疑問であった。
 胃内視鏡でも、早苗はぎりぎりまで手助けはしてくれない。これ以上健一に任せると危険であると考えたときは交替してくれるが、一旦手がけた以上は責任をもってやり遂げろというのが早苗の教育方針のようだった。健一が手こずった症例では、終わった後で何故うまく行かなかったかを指摘してくれるが、簡単には途中での手助けをしてくれない。早苗に頼ることでいつまでも一人立ちが出来なくなるからである。
 早苗なら五分で終わることを健一がやれば三十分かかる。その間、患者はゲーゲーと苦しむ。
 終わったあと、患者は健一を睨みつけ、
「二度とこんな検査はごめんだ」
 と捨て台詞を残す。すまなさそうに健一は肩をすくめる。
三十分かかっていたことが二十分となり、最近ではほとんどの胃内視鏡は十分以内に出来るようになった。操作中、言葉をかけて患者をリラックスさせるコツも覚えた。最近では、早苗がそばについていなくても健一だけで十分に出来るようになっている。
 ある日の夕方、医局にいた健一が呼び出された。
「吐血の患者が救急外来に来ています」
 看護婦の慌てた様子を見てただならぬことと直感した。救急室に入って見ると血塗れになった患者が運び込まれていた。
「血を吐いた!」
 付き添って来た息子と思われる若者が大声で叫んだ。
「大丈夫?」
 看護婦が驚いて声をかけている。
 健一は状況を一目見ると、胃洗浄及び点滴、内視鏡の準備を命じた。内視鏡で止血しなければならない。胃出血の内視鏡による止血操作ははじめての経験であった。
「早苗先生は?」
「いま探しています」
 早く、と思った。早くしなければ失血してしまう。
 蒼白な顔をしかめて苦しそうに患者が嘔吐した。茶褐色の吐物に鮮紅色の血液が混じっている。胃からの出血はまだ続いている。
 もはや、早苗を待つことはできなかった。健一は先ず胃洗浄の管を胃内に挿入し、冷水で洗浄した。凝固した血液の塊と新鮮血が管から吸引された。かなりの出血がある。
 健一の胃内視鏡を持つ手が緊張する。内視鏡は素早く胃内に挿入され、テレビモニターに胃内の状況が映し出された。
 画面は一面が真っ赤である。出血はまだ続いている。健一はカメラを通じて生理食塩水を注入し、粘膜面を洗った。一瞬血液を噴出している潰瘍底が映った。それはすぐに血液で覆われて見えなくなる。内視鏡を通して胃内容物の必死の吸引が続く。健一は額に汗を浮かべて内視鏡を操った。いくら洗っても潰瘍は血液の海に沈んで二度と姿をあらわさない。健一は焦った。手の動きが硬くなってくる。
 いきなり内視鏡を取り上げられた。内視鏡を手にした早苗がモニター画面を睨んでいる。
「もっと生理食塩水を!」
 早苗が叫ぶ。健一は看護婦に代わって、内視鏡のチューブから生理食塩水を注入する。早苗の手が躍動し、潰瘍底が見えた。すかさず内視鏡に通された細いチューブの先の針が潰瘍周辺の粘膜をとらえ、アドレナリン液が注入される。出血の勢いが弱まった。次々と的確なアドレナリンの粘膜内注射が行なわれる。出血は止まった。それは神業とも言うべき練達の手技であった。
「血圧は?」
「百と六十です」
「よし、点滴を少し早めなさい」
 早苗の声は落ち着いていた。
 止血が完了していることを確かめて早苗は胃内視鏡を抜く。
「これでしばらくは大丈夫でしょう。すぐに外科の方に回すように連絡しなさい」
 早苗の指示で職員が走る。
 早苗が振り返った。
「吐血の処置で一番大事なことは?」
「まず、氷水で胃洗浄し、内視鏡でアドレナリンを出血部位に注射します」
「それで?」
「止血が完了すれば、外科に回して手術するか、保存的に処置するかを観察します」
 早苗はうなずいた。健一の模範回答に笑顔も見せない。
「一番大切なことが抜けているでしょ」
「大切なこと?」
 健一は首をひねった。正しい処置を述べた筈だ。現に、早苗先生もその通りに処置しているではないか。
「それで間違いないと思いますが」
「間違いないのに、なぜ相模先生は止血できなかったの?」
「それは……」
 健一は口篭もった。技術が未熟だからだ。早苗先生と比べれば健一の技術が未熟なのは当然だ。それは健一の責任ではない。
「緊急事態で、一番大切なことは……」
 早苗の目が健一を射すくめた。
「慌てないこと。まず落ち着くこと。冷静に処置すれば、相模先生の技術で十分に処置できます」
 落ち着けだって? やっと一人前に胃内視鏡ができるようになったばかりの健一が、こんな救急時に落ち着くことができるわけはないと思った。でも、もし早苗先生がいなかったら、この患者は健一が救わなければならない。患者の命は医師の手に委ねられている。医師が未熟だからという言い訳は許されない。健一は背筋が凍りつくような緊張をおぼえた。
 胃内視鏡を始めて半年ほど経った頃、健一が早期ガンを発見した。組織検査でも早期ガンが確定された。五十代半ばの男性であった。
 内科の診察室で内視鏡の写真を患者に見せた。
「胃に潰瘍があります。これは手術が必要ですね」
 健一はなるべく平静を装ってそう告げた。
「潰瘍ですか。ガンではないんですね」
 患者はほっとしたようである。
「しかし、治療方針としては手術が必要ですよ」
 健一はあわてて手術を強調した。
「手術はまた考えときます」 
 その患者は、ガンでなければと呟きながら退室した。
「どうして早期ガンと言わなかったの」
 患者が居なくなったのを確かめて早苗がとがめる様な口調で言った。
「でも、ガンと告げる訳にはいかないでしょ」
 健一が口ごもる。その当時は、ガンと診断しても患者に直接告げることはしない。内密に家族に告げるのが常識とされていた。
「どうして?」
「ガンと言われたときの患者のショックを考えると、言わない方がいいと思います」
 早苗の目が鋭く光った。
「あの患者が潰瘍だと思って手術しなかったらどうするの」
「だから、治療方針は手術だと言ってありますけど」
 早苗の冷やかな目が光を増した。
「潰瘍なら手術の必要はないでしょ」
 健一の表情がこわばった。その通りである。胃潰瘍なら内科的治療で十分に治癒する。
「あの患者は手術するつもりはありませんよ。組織検査でガンが見つかったといってもう一度来院して貰いなさい」
 早苗の言葉がずっしりとのしかかってくる。健一は黙って診察室を出た。
 翌日、健一は患者に電話して来院するように伝えた。
「実は、その後の細胞診で悪性に近い細胞が見つかったのですが」
「悪性に近いということは、やっぱりガンですか?」
 患者の顔色が変わった。
「いや、まだガンになった訳ではなく、このまま放置するとガンになるかも知れないという段階です」
 どうしても、早期ガンという言葉が口に出せなかった。
「これは早期ガンです。すぐに手術をしなければなりません」
 いつの間にか早苗が健一の後ろに立っていて、患者にはっきりと宣告した。
 患者は息を呑んで二人の医師を見つめた。
「そっちの先生は早期ガンだと言うし、こっちの先生はまだガンになってないと言うし、どちらが本当ですか?」
 悲鳴のような声であった。
「相模先生、本当のことを言ってあげなさい」
 早苗は冷たく言い放って立ち去った。
「実は早期ガンです。すぐに手術が必要です」
 患者は大きく目を見開き、健一を見つめた。手が震え、口から嗚咽が迸り出た。やがて顔を上げて健一を見た顔は涙で濡れていた。
「先生、手術すれば助かりますか。大丈夫でしょうね」 
「手術すれば助かります。この程度なら再発や転移の危険性はありません」
 再発の危険性がないと聞いて、患者は健一に手を合わせた。
「お願いです。どうか助けて下さい。まだ手の掛かる子供や家族がいるんです」
「大丈夫です。早期ガンですから」
 患者の表情が明るくなった。
 健一は背中から重荷を下ろしたように体が軽くなったように感じた。

 初夏のS市は緑が豊かである。鉛色の空がその緑に深さを重ねている。病院の窓から健一はぼんやりと並木道を見おろしていた。男女の若いカップルがふざけながら通り過ぎていく。
 恋人の亜紀はどうしているだろう。東京の空も曇っているだろうか。
 大学の医局で、医局長からS市の病院に行くように言われたとき健一は戸惑った。S市に行けば恋人の亜紀と離れなければならない。近くにいくらでも大きい関連病院があるのになぜS市まで行かなければならないのか。それもよりによって自分が。健一はこの人事を恨んだ。
「どうして遠くへ行ってしまうの。東京では駄目なの?」
 別れの日、亜紀は健一の胸にすがりついて泣いた。
「大学の命令だから仕方ないよ」
「ねえ、日曜日には帰ってこられるんでしょ」
「多分、帰れると思うけど」  
あれから半年、一度も亜紀に会っていない。研修医の生活は予想外に厳しかった。早苗の指導は健一の甘い心を打ち砕いた。他の医員が麻雀やゴルフに興じているときも、健一にはそれを許さなかった。暇があれば文献を読め、患者を観察しろ。医師の実力は卒業してからの三年間の勉強で決まる。それが早苗の口癖であった。日曜も祭日もなかった。早苗の目を盗んで、亜紀に電話するのさえはばかられた。
 亜紀に会いたい。亜紀を抱きたい。早苗に叱られて重くなった心の空白に、亜紀への思いが忍び込む。
「先生、早苗先生が呼んでいますよ」
 看護婦の甲高い声で現実に引き戻された。
医局では早苗が待ちかまえていた。
「相模先生はガンの告知をどう考えますか」
 ガンは死病である。ガンと宣告されることは死を意味する。だから、医者はガンという診断を極力隠そうとする。ガンと告げるのは、患者の親族の一部だけに限定するのが当時の常識であった。
「ガンは本人には直接告知すべきではないと思います」
 早苗の挑むような目を避けて健一が面を伏せた。
 胃内視鏡をやっていれば、しばしば胃ガンを発見する。発見した胃ガンを如何に患者に伝えるかが問題点であった。
ガンと告げられた患者は、驚き、絶望し、何とか助けて下さいと医師の手にすがりつく。手術して助かる可能性が高い早期ガンの場合はまだよい。助かる可能性のない進行ガンの告知をすることは、健一には気の重い仕事であった。あなたの病名はガンで、命はあと三ヶ月です。こんな残酷なことが言えようか。告知しないで済めばそうしたかった。
 告知される患者も苦しい。しかし告知する医師も苦しいということを初めて知った。早苗はそれでも告知すべきだと言う。
「告知には反対なのですね」
「手術して助かる早期ガンなら告知してもいいかも知れませんが、末期ガンの告知は反対ですね」
「なぜ?」
 問い返した早苗の目には妥協を許さない厳しさがあった。
 こんな話を聞いたことがある。高齢の高僧が、自分は修業を積んでいるからガンを宣告されても驚かない。だから本当のことを教えて欲しいと医師に言った。医師は、生死を超越した高僧なら真相を告げても大丈夫だろうと考えてガンであることを告知した。その時から高僧は元気を失い、食欲がなくなってたちまち衰弱死したという。修業を積んだと自称する高僧ですら、ガンを告知されるとそれだけの衝撃を受け、死期をはやめることになるのだ。またこんな話もある。初老の女性患者が、胃内視鏡で胃ポリープを発見され、医師はなにげなく胃ポリープがあることを告げた。患者はポリープとはガンであると早合点して、病院の帰りに池で入水自殺をしたのである。聖者でも高僧でもない凡人に、ガン、それも助からない末期ガンを告知することは反対である。
 健一の反論を聞いて早苗は声を落とした。
「でも、いつかは言わなければならないでしょ。告知することで手術の決心がつき助かります。手術のできない手遅れガンの患者は悪くなることはあっても良くなることはないのよ。医師に不信感を持ち、結局は医療自体がやりにくくなるだけです」
「でも、最後までガンとは知らずに死んだ方が患者にとっては幸せだと思いますけど」
「相模先生」
 底から突き上げるような声だった。
「最後まで患者を騙すことが良いことだと思う? 家族も一緒に患者を騙さなければならないのよ。この家族の辛さが先生にはわかる?」
「では、告知を受けた患者の心はどうなるんですか?」
「ガンで助からないと知ったとき、患者は狼狽し、怒ります。なんでよりによって自分がガンにならなければならないのかって、自分の運命を呪うわ。それが過ぎると、あきらめの境地になって、現状を容認しようとする。つまり、死を受容するのね。医師はそこまで患者と共に苦しむだけの覚悟がなければガンの告知は出来ないわ。ガンの告知に反対するのは、医師としての苦しみから逃れようとしていることだわ」
「では、早苗先生なら、ガンの告知をして貰いたいと思いますか?」
「もちろん、告知して貰います」
 早苗の毅然とした言葉に、もはや健一は反論する気は失せていた。
「それは一般論としてそう思っていても、いざ本当にそうなった場合は違うんじゃあないですか」
 ガンであることを知った患者が、生きる望みを失って早く死亡したという話をよく聞く。ガンの告知は決して建前だけで論じることはできない。
 早苗はふと寂しそうな顔をした。
「一般論でなく、私は告知して貰いますよ」
「でも、告知されたらショックを受けるでしょう」
「当然受けます。それは仕方ありません」
「何か、残酷なような気がしますけどね」
 理屈は早苗のいう通りだが、健一は釈然としない。
 健一は自分がガンになったらどんな気持ちになるか想像してみた。とても早苗のいうように現実を受容することはできないだろうと思った。
「相模先生が、私のガンを診断したとして、それを隠せます? 私は医者ですよ」
「医者に隠すことは難しいでしょうね」
「そうでしょう。隠して欲しいと思っても、すぐに知ってしまいますよ。それなら本当のことを知らせた方が良いとは思わない?」
 医師がガンになったら、当然病状の説明を求めるであろう。医学的に納得のいく説明で無ければ承知しない筈だ。ごまかすことは難しい。また、説明しなくても、症状から大体は推察してしまう。医師が自分で死期を悟ったらどんな気持ちだろうかと健一は思った。でもそれは患者が医師の場合のことだ。少なくとも一般の患者には死期を知らせるべきではなかろう。
「医者が自分の命をあとどれだけと、自分で診断したら悲惨だろうな」
「あとどれだけの命か知ったら、その命をどのように使うか考えることが出来るでしょう」
 そうだろうか。死の宣告を受けた人間が、死ぬまで平静にいられるだろうか。おそらく死ぬ日までの、残り日数を数えながら恐怖の毎日を過ごすに違いない。
「まあ、あまり深刻に考えないことね。こんな事は現実に直面しなければわからないことだから」
 早苗はさらりと話題を変えようとした。
「僕は、ガンの告知は苦手だなあ。早苗先生のように割り切れないなあ」
「嫌でも避けて通れないことが医師には沢山あるの」
 早苗は少し苛立ってきたようである。
「僕は早苗先生ほど強くないからね」
「私が強いと思ってるの?」
 早苗の顔が泣きそうに歪んだ。
「少なくとも、僕よりは……」
 早苗は首を振った。
「私は弱い人間だわ。悲しければ泣くし、くじけることもあります」
 しかし健一には早苗が弱い人間であるとは思えなかった。
 どんな緊急事態でも動じることなく処理し、平然とガンの告知もしている。早苗が泣くことがあるなんて想像もできなかった。

店に行った時、早苗は手にしたグラスをじっと眺めていた。普段の男勝りの早苗とは違って、その表情には悲しさが満ちている。健一はママを見た。ママが目配せをした。何か事情がありそうだ。
「先生、何かあったんですか?」
 たまりかねて健一が訊ねた。
「いいや、何もないの」
 早苗が僅かに顔を向けたが、涙を隠すようにすぐに正面に向きなおった。
「泣いているの?」
 健一が顔をのぞき込む。
 早苗は顔をそむけた。
 手持ち無沙汰となって、仕方なしに健一はグラスの中身を空けた。
「今夜は徹底的に飲もうや」
 早苗が男のような口調で、顔をこちらに向けた。目にすこし涙が残っているが、顔は笑っている。健一はほっとして早苗とグラスを合わせた。
「相模先生は、恋人いるの?」
「ああ、一応います」
 健一は恋人がいることが申し訳ないような気がして小さい声で答えた。東京には恋人の亜紀が帰りを待っている。研修期間は三年少々の予定であるからもうすぐだ。
 こちらに来るまでの最後に亜紀を抱いたのは何時だったかと考えてみた。亜紀の裸身がもだえ、日曜日毎に帰ってねと泣いた。それからもう三年近くになる。その間に亜紀を抱いたのは数回しかない。
「どんな人? きれいな人?」
 健一の口がためらった。きれいな人だとのろけるのもはばかられる。
「きれいな人でしょうね。やさしい人?」
 早苗はひとり合点して頬に笑みを浮かべた。
「勝気なところもあるけど」
 勝気な亜紀も早苗先生と比べれば優しいもんだ。でもそれは口には出せない。
「ま、私に比べれば誰でも優しいわね」
早苗は一人でうなずいている。
 健一が何か言おうとした。それを遮って、
「そう、若い人はいいわね」
 早苗が笑った。
「早苗先生は、恋人は?」
「私には恋人はいないの」
「そうかなあ」
「だって、もうこんなおばさんでしょ」
「先生ほどの美人ならいくらでもいると思うけどなあ」
「あら、内視鏡だけでなく口も上手になったのね」
「いや、本当ですよ」
「そう? 私は美人に見える?」
「僕は美人だと思いますけど」
「美人だと言って貰ったのははじめてだわ」
 早苗が豪快に笑った。
「私、まだバージンだと思う?」
 健一は返答に困った。早苗先生が独身だから処女でないというのは失礼のようだし、処女であるというのは、この年頃の女性にとってはもっと失礼なのかも知れない。
「遠慮しなくてもいいの。どっちだと思う?」
「バージンだと思う」
 早苗が噴き出した。
「それでは女と思われてなかったことになるわね」
「いや、そんなつもりでは」
「バージンどころか、セックスフレンドなら二、三人はいるのよ」
 健一は顔を赤らめてうつむいた。そんな健一をからかうように、
「私が淫らな女だと軽蔑する?」
 と早苗は挑むように顔を突き出した。
 健一は首を振った。
「白衣を脱げば、私は只の女よ。時にはセックスもしたくなるわ」
 早苗の視線が宙を漂った。
「先生はなぜ結婚しないのですか?」
 健一が顔をあげて訊ねた。以前から抱いていた疑問であった。 
「結婚するつもりで付き合っていた人とは三年前に別れたの」
「どうして?」
 早苗はそれには答えず、グラスをぐいと空にした。
今日の涙の原因はその辺りにあったのかと健一は思った。
 早苗の口数が減り、グラスを運ぶ回数が増えた。健一がおろおろしてママを見る。ママが寄ってきて、
「先生、もうほどほどにしたらどうですか」
 と声をかける。
「もっと飲むんだ。もっと飲ませて」
 既に呂律が怪しくなっている。
「早苗先生がこんなに酔うなんて珍しいことね」
 ママも当惑している。
 早苗はカウンターにつっぷした。長い髪が健一の腕に絡まる。
「先生、先生」
 健一が肩を揺すって起こそうとする。
「先生、帰って寝ましょう」
 早苗が僅かに頭をあげた。
「相模先生の下宿で飲みなおそう」
「それより、もう帰りましょう」
「帰るのはいや。相模先生の下宿に行く」
 だだっ子のように、酔って聞き分けのない早苗を持て余し、健一は助けを求めるようにママを見た。
「相模先生の所は近いでしょ。醒めるまでそこで休ませたら?」
 ママもお手上げの様子であった。
健一のアパートは繁華街のはずれにあり、百メートルほどの距離である。
 健一は正体の無い早苗の脇から背中に手を回し、背負うようにして歩いた。その背に早苗の乳房の弾力を感じる。やっとの思いで早苗を部屋に運び込み、ベッドに寝かせた。
「苦しい。これを脱がせて」
 早苗が胸をかきむしる。健一は上着の胸を開けた。早苗はブラジャーを外そうとする。仕方なくブラジャーも外した。形のいい乳房がこぼれ出た。健一は慌てて目を逸らせた。早苗は次にスカートのベルトを緩めようとする。
「これを外して。これを脱がせて」
 譫言のように言う。
 健一は躊躇したのちスカートも脱がせた。早苗は股間を僅かに隠すだけの下着も脱ぎ捨て全裸となって健一のベッドに横たわっている。早苗の裸身は透き通るように白くて、それほどゼイ肉のついていない胴のくびれと豊かな腰の膨らみが健一の目を刺激した。早苗の裸体を無遠慮に眺めることは早苗を冒涜することだと考えながら、健一の目は早苗から離れることは出来なかった。亜紀の裸身が目に浮かぶ。亜紀も膨らんだ腰を持っているが早苗の腰には更にふくよかな脂肪の層がついている。
 健一は早苗がバージンではないと言った意味を考えた。早苗を抱けということだろうか? 本当に抱いてもいいのだろうか? 正体もなく眠り込んでいる女を抱いてもいいのだろうか?
 欲望と理性が激しく戦った。
 健一は邪念を振り払うように、早苗の体に毛布と布団をかけて、自分はソファーに横になった。
健一が目覚めた時、早苗が難しい顔をしてそばに立っていた。窓はすっかり明るくなっている。健一はあわてて起きあがった。
「事情を説明して頂戴」
 早苗は椅子を引き寄せて腰掛け、テーブルに肘を着いた。
「どうして、私が裸でこんなところに寝ていたの?」
 早苗はべつに怒っている様子でもなさそうだ。
「あれ? 先生はゆうべのこと、覚えていないの?」
「ぜーんぜん」
「昨夜、先生が飲み過ぎて、どうしても僕の部屋に連れて行けと言うもんだから」
「でも裸にする必要はないでしょ」
「それは……」 
 健一は昨夜のいきさつを説明した。
「へー、そんなに私、酔っぱらっていたの?」
「ほんとに僕は困ったんですよ」
 健一の脳裏に早苗の裸身が浮かぶ。
「それは悪かったね」
 早苗は照れ笑いをした。
 テーブルに両肘を突き、手に顎を乗せて、早苗は健一の顔を見つめる。
「それで……、肝腎なこと、まだ聞いてないわ」
「肝腎なことって?」
「抱いたの?」
「えっ?」
「私を抱いたのかってことよ」
「いいえ、とんでもない。抱いていませんよ」
 健一はあわてて否定した。
「素裸にしたのに、どうして抱かなかったの?」
「どうしてと言われても……」
「ほんとに抱かなかったの?」
 早苗は疑わしそうに見る。
「本当ですよ」
「私のからだ、そんなに魅力なかった?」
「そんなことはありませんよ。魅力的ですよ」
「じゃあ、抱きたいと思った?」
「思っても、そんなこと出来るわけないでしょ」
「ほんとに抱きたいと思ったんだね」
 健一は仕方なしにうなずいた。
「よし、抱きたいと思ったのなら許してあげる」
健一を見つめる早苗の目が笑った。
「馬鹿だなあ。抱けばよかったのに」
「え? 抱いてもよかったの?」
「当り前でしょ。女を裸にしておいて抱かないなんて失礼だわ」
「でも、先生は正体なく酔っ払っていたから」
「ずいぶん遠慮したもんね」
 健一は無言で頭をかいた。
 早苗が立ち上がった。
「今度はしらふで来たいね」
 そう言って早苗は立ち去った。
 その数日後の夜、早苗がしらふで下宿を訪れた。
「相模先生、なんの用事で来たかわかる?」
 早苗はいたずらっぽい笑みを湛えていた。
「なにか、忘れ物でもありましたか」
「そう、大事な忘れ物」
 健一は部屋を見回した。早苗が忘れていった物は見あたらない。
「なにも忘れてはいませんがね」
「そうかな。私が酔っぱらい過ぎて忘れたもの」
「なんだろう、わかりませんね」
「相模先生に抱いて貰うことよ」
 健一は唖然とした。
 早苗の目は笑ってはいなかった。冗談ではなさそうだ。
「相模先生は、私を抱きたいと思ったでしょう」
 問いつめられてそのように答えたのは事実である。
「でも、早苗先生を抱くなんて、そんな」
「相模先生は私が嫌い? 私を抱きたくない?」
 早苗の表情が沈み込んだ。
「そんなことはありません。しかし、先生は僕の指導者だから」
「指導者だって、私はただの女。抱いて貰いたい時があると言ったでしょ。今がその時」
 早苗と目が合った。仕事中の厳しさは失せており、女のなまめかしさを感じた。
「さあ、抱いて頂戴」
 早苗は裸になってベッドに横たわった。健一はその上に身体を重ねた。早苗が声を上げて身もだえした。
 着衣を整え、顔を直すともとの厳しい指導者の表情に戻っていた。
「これで私がただの女だということがわかったでしょう。抱かれれば悦ぶし、悲しければ泣く普通の女よ」
 酔って健一の下宿に来た時に、早苗先生は健一に抱いて貰いたかったのではないかと思った。この三年間、早苗の最も身近にいた男性は健一である。愛とか恋ということでなくても、自分が情熱をこめて育て上げた健一に抱かれて、自分も一人の女として生きている証を得ようとしたのではないか。だから数日後に素面で来たのだろう。

 早苗が病院を辞めるらしいという噂を聞いたのはその翌日である。健一は、夜まだ医局に一人で残っている早苗を見つけた。
「先生、病院を辞めるって本当ですか?」
健一は早苗の向側に座った。
「ええ、本当よ」
 健一が息を呑む。
「どうして、急に……」
「事情があるの」
 早苗の顔に寂しさが走る。
「辞めてどうするんです」
「両親の所へ行くの」
 健一は首をかしげた。早苗の両親は死んだと聞いている。
「故郷へ帰るんですか?」
「まあ、そんなところかもね」
「帰ってどうするんです? むこうで病院に勤めるんですか?」
 早苗は首を振った。
「では、なぜここを辞めるの? 辞めてどうするんですか?」
 早苗はじっと健一の目をみつめた。健一もその目を見返した。
 早苗が目をそらせた。
「死ぬの」
 早苗が呟くように言った。
 健一は椅子から思わず立ち上がった。
「死ぬって、誰が?」
 うわずった声で聞き返した。
「私」
 早苗がうっすらと笑った。
 突然、健一が大声で笑った。
「先生、からかうのは止めてくださいよ。びっくりするじゃあないですか」
「冗談ではなく本当なの」
 早苗は真面目な顔である。
「では、先生は自殺するつもり?」
 健一の顔が青ざめた。衝撃が胸を襲う。
「自殺? そうね。多分、そうなるでしょうね。雪原の中で酒と睡眠薬を飲む。酔っている間に凍死するんだから苦しまなくていいでしょ」
「その理由を聞かせて貰えませんか?」
 健一には、早苗が自殺する理由は想像できなかった。優秀な頭脳と技術を持った将来性のあるエリート医師である。失恋した位で自殺するほど弱い人ではない。
「四年前からこうなることはわかっていたの」

 早苗が自分の病気に気づいたのが四年前である。何となく体に違和感があって血液検査をやってみた。その結果を見て早苗は愕然とした。桁の間違いだろうと思って何度もゼロを数えてみた。間違いない。白血球数が十三万、正常値の二十倍を超えている。細菌感染で白血球が増加するが、これほど白血球が増加する病気は他にはない。血液の塗抹標本を顕微鏡に載せる手が震えた。その視野に禍々しい核を持った細胞が飛び込んできた。幼弱白血球だった。骨髄性白血病。これまで何人も受け持ったことのある白血病患者の終末の苦しみが早苗の脳裏をよぎる。これは悪夢に違いない。
 日を置いて再検してみる。やはり夢ではなかった。念のため、名前を伏せて大学の血液専門の医師に血液標本を送ってみた。診断は慢性骨髄性白血病。自分の診断と一致している。慢性白血病では化学療法もほとんど効かない。数年の内に急性転化する。急性転化すれば二カ月か三カ月の命である。それまで何年の命だろうか。三年か、四年か。
 このことは自分一人の胸に秘めて誰にも言っていない。自分の命はあと数年と覚悟を決めて、恋人が外国に赴任する事を機にその理由を告げずに別れた。
「私は、生きる希望を失ったわ。そのとき、自殺しようかと思った。雪の中でね。でも、患者には苦しい病気と戦うことを強制しておいて、自分だけ苦しみから逃れて自殺するなんて卑怯だと思ったの」
 健一は早苗の顔を見つめながらうなずいた。早苗の気持ちは良くわかる。もし、予後不良の患者からそのような相談を受けたら、健一だって最後まで希望を捨てずに頑張りましょうと励ますだろう。
「残された命をどう使うか。それを考えたわ。その答えが、あなた、相模先生」
 早苗は出身大学に事情を告げて、優秀な研修医を派遣してくれるように要請した。早苗の恩師はその要請に応えて健一を派遣したのである。
「赴任してきた相模先生を見たとき、私の生きがいを見つけたと思った」
 健一は初対面の時の、凄絶とも思える早苗の顔を思い出した。
 早苗は悲しげな目で天井を見上げた。
「先日、急性転化したことがはっきりしたの。あなたと飲みに行った日」
 健一は早苗が泣いていた理由をやっと悟った。
「私はあと二カ月か長くても三カ月で死ぬわ」
「何とかならないんですか? 化学療法や骨髄移植などは?」
「駄目なことは先生にもわかっているでしょ」
「でも何もしないで、死ぬのを待つのは……」 
「もう良いの。私は覚悟しているんだから」
 早苗とガンの告知で論争したことが思い出される。
 早苗先生は、四年前に自分自身にガンの告知をしていたのだ。あと三年か四年の命と知って、その間を精一杯生きてきたのだ。そう思うと健一の心がキリリと締め付けられる。
健一は早苗の顔を見た。今までになく美しく見えた。この美しい女がまもなく死ぬとは信じられないことであった。夢のようだと思った。
「先生が死ぬなんて信じられない」
「でも事実よ。ここに発病以来の記録があるわ。これを先生にあげる」
 早苗は引出しから数冊の大学ノートと血液標本箱を取り出した。
「これを見れば、慢性骨髄性白血病の経過と、それを知った時の患者の心理がよくわかると思うわ」
 そのノートと血液標本は健一にとってはまたとない研究資料であり、貴重な贈り物であった。
「先生は死ぬのが恐くないのですか?」
 平然としている早苗を見て、健一が思わずそう言った。
 早苗の目から涙がこぼれた。
「恐いとは思わないけど、やっぱり死ぬのは悲しい」
 早苗が手で顔を覆った。
健一も涙を流しながら、早苗をじっと見つめるだけであった。もはや、慰める術を知らなかった。目の前の早苗の体がもうすぐ地球上から消滅する。そう思っただけで、健一には耐え難い悲しみであった。
「この病院に入院したら?」
 あまり意味があるとは思えなかったが、健一はそう言わずにはいられなかった。早苗の最期を看取ってあげたい。
 早苗が顔をあげた。
「私が病気に負けて死ぬところを、誰にも見られたくはないの。特にこの病院の人には」
 健一はうなずいた。病み衰えた死の直前の姿を見られたくない、その気持ちはよくわかる。この病院での早苗は、いつも自信に溢れてさっそうとした医師であった。そのイメージを壊したくはないであろう。
「この三年間、相模先生が私の生きがいだったと思う。ずいぶん厳しいことを言ったけどごめんなさいね」
 早苗は自ら希望して健一の指導を買って出たのだ。自分の学んだものを継承して欲しかったからである。胃内視鏡だけでなく、何事にも早苗の指導は厳しかったことが懐かしく思い出される。健一は担当した症例に関する内外の文献を徹底して読まされた。早苗は健一の診断、治療方針を厳しく批判した。その過程で、健一は早苗が内科医長よりもはるかに博学であることを知らされた。健一にとって、早苗は臨床医学の最初で最高の恩師であった。時には早苗の指導が厳しすぎると恨みに思ったこともあった。
一度、健一は早苗の束縛から逃れようとしたことがある。
その日、早苗から渡されていた外国語の文献を読んでいかなかった。
「なぜ読んでこなかったの」
「ちょっと忙しかったから」
「そんな筈はないでしょ。昨日は早く帰ったじゃあないの」
 早苗の口調はこうるさい母親のようであった。
「小説を読んでいましたよ」
 健一がすねたように答えた。
 亜紀が面白かったからといって送ってくれた小説である。
「小説?」
 早苗の血相が変わる。
「小説を読む暇があれば医学文献を読みなさい!」
 健一はうんざりした。
「先生。勉強も大切だけど、僕はもっとゆとりが欲しいな」
 めずらしく健一が逆らった。
「時間がないのよ。時間が!」
 早苗のせっぱ詰まったような物言いがなぜかわからぬままに、その時は健一が黙り込んだ。
 そして、健一自身、この三年間、よく勉強してきたと思う。早苗の指導によって、三年間で内科学会総会、内科地方学会など、内科関連学会での症例報告は二十例を超えている。これは新米の臨床医としては破格の回数であった。学会報告するためには、その症例に関して完璧に勉強しておかなければならない。会場から、どんなことを質問されてもそれに答えられる自信がないと学会発表はできない。
早苗の期待に応えてよく勉強したことが今となっては唯一の救いであった。
 早苗が手を差しだした。
「相模先生とは、ここでお別れの挨拶をしておくわ」
 健一はその手を握った。
「病院から出るときは黙って行くからね」
 健一の目から涙が湧いてきた。
 早苗がもう一度手を握りしめた。
「このことは他の人には内緒ですよ」
 早苗は立ち上がりながらウインクした。
「さあ、回診してこよう」
 そう言っていつものように医局から立ち去った。
 真相を知っているのは健一だけである。健一に対しても、早苗の態度はそれまでと変わらなかった。そして数日後にひっそりと早苗は病院を去った。何処へ行ったか誰も知らなかった。
 一月の中ごろ、S市は珍しくうっすらと積雪した。
 早苗から病院の健一に絵はがきが届いた。北海道の雪原を写した絵はがきであった。その絵はがきには、一言、さようならと書いてあるだけだった。それを見た看護婦たちは、早苗先生は北海道旅行をしているね、良いなあ、と羨ましがっていた。
 健一はその絵はがきを手に取ってじっと眺めた。その絵はがきが何を語っているか、健一だけは知っていた。北海道は早苗先生の故郷である。故郷の雪原に横たわる早苗先生の白い裸身を想像した。早苗先生には、ぼろぼろになってでも、最後まで病気と戦って欲しかったと思う。でもそれは早苗先生の医師としての誇りが許さなかったのだろう。病気に敗れるまえに、自分の最期は自分の手で決着をつけたかったのだろうと思う。敵の刃で殺される前に、自ら命を絶つ戦国武将の心境なのだろう。そして早苗先生は、医師ではなくて一人の女として死にたかったのだろう。健一に抱かれたのは、女であることを確かめたかったからかも知れない。

 健一は数日の休暇を貰って北海道へ飛んだ。早苗先生を育だて、早苗先生が眠る北海道の雪原に立ってみたかったからである。
 飛行機が離陸した。S市の町が後方に消えて、雪原のような雲の広がりを突き抜けていく。
 早苗の指導を受けるようになってからの三年間の思い出が健一の脳裏を往来する。冷酷なほど厳しい医者だと思っていたが、早苗先生こそ最も人間味のあった指導者だと思う。自分の死が免れないと知ってから、ひたすら健一の教育に情熱を傾けたのだ。あの剛毅な早苗先生がスナックで涙を流した夜、自分の生涯を駆け抜けた万感の思いがこみ上げてきたのであろう。
 もう一つの思い出がある。健一が早苗の指導を受けるようになって一年ほど経った頃だ。夜遅くまで医局で外国文献と格闘している健一の向かい側で、早苗は論文を書いていた。
「相模先生、お茶でも入れようか」
 時計をみると十時を回っている。
「いや、僕が入れますから」
 立ち上がろうとした健一を制止して、早苗は湯沸かし器からお茶を入れる。健一が夜遅くまで勉強しているとき、よほどのことがないかぎり早苗は最後まで付き合っていたのだ。
「相模先生、氷雪の門って知っている?」
 早苗が話しかけた。
「たしか、北海道にあったと思いますが」
「そう、稚内にあるの」
 早苗は北海道の北部の出身である。
 北海道最北端の地、はるかに樺太をのぞむ稚内の丘の上に「氷雪の門」が立っている。この氷雪の門に寄り添うようにした九人の乙女の慰霊碑がある。
「この九人の乙女は、決死隊だったの」
 潤んだような早苗の目が宙をさまよった。
 昭和二十年の八月二十日に、ソ連軍が樺太南端の中心地、真岡に上陸を開始しようとしていた。迎え撃つ日本軍の劣勢は明らかであった。戦火と化した真岡の電話局では九人の乙女が交換台を死守し、最後に「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」と、悲痛な声を残して青酸カリを飲んで自決したという。
「八月二十日なら、ポツダム宣言を受諾して、戦争は終わっていた筈ですが」
「そう、戦争は終わっていたけど、ソ連軍は情け容赦のない攻撃を続けたの」
 戦争終結時にそんな事件があったとは健一は知らなかった。
「私は高校生のころ、稚内で氷雪の門にある記念碑を見て感動したわ。その慰霊碑には、さようなら、という最後の言葉が刻み込まれているの」
「死を覚悟して任務を全うするなんて凄いですね」
「私はその慰霊碑を見たとき、足が震えたわ。私にはとてもそんな強さはないと思った」
 飛行機は海上に出たようである。もうすぐ新千歳空港に到着するだろう。
 早苗先生はなぜ氷雪の門の話をしたのだろうか。
 稚内に行こう。氷雪の門の慰霊碑の前に立ってみよう。早苗先生の心の内が分かるかも知れない。
 新千歳空港に到着すると、健一はすぐに稚内行きの航空機の搭乗手続きをとった。曇り空であるが、飛行には支障のない天候が幸いした。稚内までは一時間足らずだ。空港から稚内公園までのタクシーが荒涼とした雪原を突っ走る。この雪原のどこかに早苗先生が眠っているかも知れない。
 健一は慰霊碑の前に立ってみた。宗谷海峡を超えた寒風が吹きつける。人の背よりやや高い黒っぽい屏風状の石に、交換手の乙女像の銅板が埋め込まれ、「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」の言葉が刻まれていた。健一は、さようならと声に出して読んでみた。この言葉こそ、早苗先生が健一に残した言葉であった。
 氷雪の門を話したあの夜、早苗先生はきっと、死に直面して弱気になろうとする自分の心をむち打ったに違いない。
 早苗先生は、九人の乙女に劣らず強かったと思う。乙女が敵に陵辱される前に自ら青酸カリで命を絶ったごとく、早苗先生も、最後まで死力を尽くして病気と戦い、病気に蹂躙される前に自分の命を絶ったのだと思う。
 健一の体から力が抜け、涙が流れ落ちて絵はがきを濡らした。健一は絵はがきを引きちぎり、慰霊碑の前にばらまいた。強風が葉書を巻き上げ、慰霊碑の上を彷徨って早苗先生が眠る雪原の方向に運び去っていった。

    おわり

最後の絵はがき

執筆の狙い

作者 大丘 忍
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以前に掲載したことがあり、あらすじには大きい変更はありませんが細かい描写にはかなりの推敲を加えております。
時代背景は、胃内を写真撮影するだけの胃カメラから、ファイバースコープを使って胃内を観察しながら撮影、生検できるようになった胃内視鏡に移行し始めた時代ですから、かなり昔の話だと思ってください。従って看護師は看護婦と呼んでおります。
医療現場の描写がありますが、それが読者に浮かんでくるか? また、女性の強さを以前から表現しようと苦労しておりますが、それが読者に伝わっているか。
医療面では、私が若い頃の実体験をもとにしておりますので、医療の内容的には事実ですが、それがうまく描写されているかどうか。読者の皆さんの感想をうかがって、さらに精進したいと思っております。

コメント

ドリーム
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明けましておめでとうございます。

今年最初に読み最初に投稿したのが大丘先生の作品という事になります。
流石は医師であり小説にそれが現れて居りました。
冒頭は優秀な女医と若い医師の恋愛物かと思いました。
健一から見た早苗先生は医師としても素晴らしく尊敬する先輩医師
そんな医師が泣いていた。としても魅力的に仕上げられた早苗先生。
医師でもあるが女でもある。ついにそんな女を表に出した時、本音も垣間見て来た感じもします。
それは後で知るが余命数ヶ月。その最後の生き様に涙腺が緩みました。
新年から感動作を有難うございました。
本年も宜しくお願い致します。

大丘 忍
ntoska314132.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp

読んで頂き有難うございます。私は女医さんの指導を受けたことはありませんが、強い女医をイメージして、私の新米の頃の体験を加味して早苗先生を描いてみました。上手く描けていたかどうかは読者が判断してくださることです。ドリーム様には私の意図が伝わっているようでうれしく思いました。独りよがりで書いたのではだめで、読者に伝わるにはどう書けば良いかを考えながら書かなくてはと痛感しております。
早速読んで頂き、丁寧な感想を有難うございます。

青井水脈
om126156188011.26.openmobile.ne.jp

あけましておめでとうございます、今年の一作目の投稿、読ませていただきました。
二度三度と読み返してみて、なんていうか情景描写がそれほど多くないのにシーンが浮かぶというか。早苗と健一、それぞれの心情がありありと見て取れるようです。絵葉書にさようならだけと、多くを語らないのが早苗先生らしいというか。

>「私は、生きる希望を失ったわ。そのとき、自殺しようかと思った。雪の中でね。でも、患者には苦しい病気と戦うことを強制しておいて、自分だけ苦しみから逃れて自殺するなんて卑怯だと思ったの」

医師、医学の専門家ならでは。患者を診てきた経験と知識もあり、おまけに自分の身体にこれから何が起きるかもわかってしまう状況なんて、想像もできません。

大丘 忍
ntoska314132.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp

青井水脈様
 読んで頂き感想を有難うございます。あまり作者が説明しなくても。ドラマのようにそのシーンが浮かんでくるという書き方が良いと思ってそのように努力しております。早苗先生の強さが読者に伝わればいるでしょうか。
 これからもアドバイスをよろしくお願いいたします。

夜の雨
ai194077.d.west.v6connect.net

「最後の絵はがき」読みました。

これは傑作でした。
しっかりとドラマが描かれていました。

登場人物が魅力的に描かれている。
御作は原稿用紙61枚の作品でしたが、そのほとんどが主人公の健一と彼を指導する先輩医師の神崎早苗とのエピソードで構成されていました。
ほかの人物は説明程度にしか出てこない。もちろん、描き方に問題はありませんでした。
だから、二人の人物を深く描くことが可能だったわけで、特に神崎早苗の生きざまが壮絶で美しい。
健一を指導する早苗ですが、普段の描写には女性らしい美しさが漂っているところに、大丘さんの小説を書く技術力の高さが現れていました。

医療経験者の作者が書いておられますので、医療などの専門的な書き込みには説得力がありました。

また、医療現場ということで生死が扱われているのですが、癌などで死期が近づいている患者に対して、告知をするのかどうかなどの話も書かれていてドラマに厚みを持たしているのですが、早苗が健一に対して患者にどう向かうのかなどを執拗に描かれていて所などにも意味がありました。
もちろん伏線だとはわかっていましたが、後半で早苗自身が死と直面していたという展開になりました。
御作では導入部で早苗が泣いていたので、そのあとの患者に癌の告知という死の覚悟をさせるのかどうかの話がかなりのスペースで書かれていたので、早苗の事情はよくわかりました。
その上で、健一がどうして遠くにあるこの病院に来ることになったのか、などが、エピソードとして書かれていたので、早苗の覚悟が読んでいて伝わってきました。

早苗が指導者としてではなくて女として描かれている場面もあり、人間味もしっかりと書かれていたので、読み応えがありました。

氷雪の門の話もラストにふさわしいものになっていた。
健一が早苗から届いた絵はがきを引きちぎり、慰霊碑の前にばらまいた。強風が葉書を巻き上げ、慰霊碑の上を彷徨って早苗先生が眠る雪原の方向に運び去っていった。

この締めもよかったです。

新年早々、良い作品を読ませていただきました。

大丘さん、今年も作品投稿よろしくお願いします。

ありがとうございました。

大丘 忍
p1793091-ipngn200202osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

夜の雨様
 読んでいただき感想をありがとうございます。この作品も最初に書いたのはかなり以前です、昔に本欄に投稿しておりましたが、その后、大筋には変更はありませんが、何度も推敲して作者の意図が伝わるように手を加えております。小説は少し手を加えるだけで見違えるほどよくなるものだと実感しております。
 小説は短時間に書けば能力があると言うことではなく、作者の意図が読者にどれだけ伝わっているかが問題だと思いました。その意味で、これは苦心の作であったと言えます。
 夜の雨様には、作者の意図を十分に読み取っていただき嬉しく思っております。
 時には気分紛らしのための官能小説も交えながら投稿を続けたいと思っておりますので宜しくお願いいたします。

もんじゃ
KD111239165047.au-net.ne.jp

 大丘 忍さま

 拝読しました。

>仕事中はその髪をアップに束ねているので、それを見慣れている健一の目【には】、今の早苗は三十代半ばを過ぎている女【には】見えなかった。

 とか、

>女性としては長身の後ろ姿【には】日頃のたくましさがなく、何となく寂しそうに見えたのは、早苗の涙を見たと思ったからかも知れない。

 とか、

 気になりました。

>早苗【が】男のように腕を組んで健一を見つめた。

 みたいな助詞にも違和感があります。文脈によっては【が】でしょうが、この文脈では【は】でしょう。視点の問題でもあります。三人称なんだからどう考えたって【早苗は見つめた】が妥当です。一人称で【早苗さんが僕を見た】なら【が】が妥当だけれど。

 この手のひっかかりポイントが、話の中盤までで、雰囲気なカウントですけど二十箇所イメージくらいでありました。とてもじゃないけど話の中身に入れません。文法の問題じゃなくて、文脈に照らしたり、視点に照らしたりしたときの助詞の扱い方にセンスがないのです。センス、というと人それぞれみたいにとられちゃうかもしれないから、ぼやかさないで言い換えるけど、日本語として明らかに間違いです。センテンス単位の文法、においては間違いじゃないけど、文章というまとまり、かつ作品という視点を加味した総体の中にあってはこれすなわち間違いです。言葉に対してあまりに鈍感で、不遜である、と感じられました。作品の狙いを読むと、ずいぶん推敲をしたとある。どこを推敲したのか疑問に思えました。

 センス、という点では、白人のような白さ、とか、混血、とか平気で書いてしまうあたり、これって世代差なのでしょうか、個人差なのでしょうか、差別や偏見をあらわしたい場面でもないのにしれっとそんなふうに書いちゃうセンスに驚かされます。混血とは、みたいな辞書的な正誤を述べているわけではありません。このような文章をかつて投稿して、おそらくは指摘も受けて、その上で推敲して、再度上げた作品がこれなのでありますか? と、力が抜ける心地がいたします。

 なので半分くらい(二十番目のでっぱりに躓いたあたりまで)しか読んでいません。言葉を軽んじていたり、文章を軽んじていたりする(訂正することなく再度投稿されている)作品の内容に興味を持つことはできません。

 文章の拙さを指摘されて、見てほしいのはそこじゃないだとか、学校の作文じゃないんだからだとか、小説は自由な表現だとか返す向きもあるようだけど(大丘先生が、ってことじゃないです)、基本もおさえずに自由な表現も何もあったもんじゃないわけで、日本語をまともに使いこなせるようになった上での工夫であったり表現であったりするべきかと、言うまでもないことですが(例えば読点を、意味的にもリズム的にも正しい位置に打てる技量があってこそ、読点を意図的に多用したり、逆に読点を一切打たなかったりするようなアレンジができるわけです、読みやすさを損なうことなく)。文章なんてのは編集や校閲が直したらいいんだ、とか書いてる人がいたけど勘違いも甚だしい。設定だの筋だのは打ち合わせしながらフィックスされてゆくもの(当該雑誌の読者の傾向や旬の当たりネタ外れネタがあるから)でしょうが文章の拙さを喜んで整えてくれるスタッフなんているわけなくて、完全完璧の上に完全完璧を期した文章をさらに校閲にかけたものが商品になるってだけのことであります。というか、校閲者なんて立てずにそのまま本になるテキストがむしろ大半であったりするのです。
 美文麗文以前の普通の読みやすい日本語についての話です。自国語の自由な使い手になることは、作家に限らず、すべての国民に求められるところの読み書き算盤の読み書きでありましょうぞ? だからこそ学校教育に国語があるのです。営業マンにだって日本語力は求められます、いわんや作家においてをやです。

 大丘先生はご自分の楽しみのために書かれているとのことですが、こちらのサイトの投稿作品やその感想欄でのやりとりは、サイトの特性上、作家志望者たちもまた目にするわけでそのために以上を書かせていただきました。失礼いたしました。

青井水脈
om126208170063.22.openmobile.ne.jp

>この文脈では【は】でしょう。視点の問題でもあります。三人称なんだからどう考えたって【早苗は見つめた】が妥当です。一人称で【早苗さんが僕を見た】なら【が】が妥当だけれど。

横入り失礼しますが、こちらの記述など参考になりますよ。鍛錬場ですしね、勉強になりました。
なるほど、もんじゃさんはまず日本語の基礎という観点で、しっかりコメントを書かれていますね。感心します。

私からは、改めて感想を。

>「私のからだ、そんなに魅力なかった?」(中略)
「ほんとに抱きたいと思ったんだね」
 健一は仕方なしにうなずいた。
「よし、抱きたいと思ったのなら許してあげる」

健一が頷いたところ、言葉にしてもしなくても、早苗さんはその一言が欲しかったのがわかりました。

今作くらいの描写だったら、冊子にしてクリニックの待合室に置かれても、患者さんは興味深く読まれるのではないでしょうか。
死期が迫るのを前にした一人の女性の気持ちが、パッと伝わるのではないかと。

南風
softbank060091003055.bbtec.net

もんじゃ様

横から失礼します。もんじゃ様の指摘される日本語の文法や感覚にとても興味があります。そのような知識とか感性はどのようにして磨かれたのでしょうか。小説を読み込むと自然に身につくようなものでもなさそうなのですが、どうでしょう。
>センスがないのです
この文の前提が「私は思うのだが」であるならば、主観的で普遍ではないような気がします。これが「みなそうだと思うのだが」が前提なら普遍であり、習得の方法がありそうな気もするのですが。

大丘 忍
p1793091-ipngn200202osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

もんじゃ様
 感想を有難うございます。文章が下手なため最後まで読んでいただけなかったことは残念なのですが。
 私は、小説としていわゆる美文を書くということは全く意識しておらず、平易なわかりやすい文章を書くことに留意しております。したがって、文章が下手であることは十分に承知しております。何度も読み直して推敲しているのは、文章が上手いかどうかと言うことより作者の意図として、登場人物の心の中が読者に十分に伝わっているかどうかに重点を置いております。
 さて、ご指摘の「……には」が連続している件ですが、読んでみてさほどの違和感は無く、代替しうる適当な言葉も思いつかなかったのでそのままにしました。

>早苗【が】男のように腕を組んで健一を見つめた。

 早苗が主語ですから、「早苗は」もしくは「早苗が」となりますが、ここはあえて「早苗が」としました。どちらでもいいようなものですが、「早苗は」とするのが順当だとは思います。しかし、ここで「早苗が」としたのはその前に言った早苗の言葉の、「じゃあ消化器をやってみる積もりある?」という早苗の思いを強調したかったからです。ここらは作者の直感ですから、それが理解されなかったとしても仕方ないと思っております。
 また、白人とか混血が差別用語になるという意識はありませんでした。文中でも差別的に使っているのではないと思っております。

 小説の文章になっているかどうかは、文学賞に応募してみればわかると以前に聞いたことがあります。それで、以前のことですが太宰治賞に一回応募して一次通過、その後北日本文学賞には何度も応募して大抵は二次通過止まりでしたが、これで一応は小説の文章にはなっているのかなと思っておりました。
 これからも、いわゆる美文ではなく、平易で読みやすい文章をと心がけて、書いていきたいと思っておりますのでお気付きの点をご指摘ください。

大丘 忍
p1793091-ipngn200202osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

青井水脈様
 読んで頂き感想を有難うございます。

>早苗【が】男のように腕を組んで健一を見つめた。

 これは先の感想の返信で述べております。あえて、早苗「が」……、としたのはその様な意図があったからでした。「早苗は」とするか「早苗が」とするかでその様なニュアンスの違いがあると私は思いましたので。ただ、どなたもその様に思ってくれる訳ではないと言うことがわかったのは参考に成りました。
 今後もお気付きの点があればご指摘ください。

大丘 忍
p1793091-ipngn200202osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

南風様
 小説の文章には「こうでなければならない」という規則はないと思います。作者それぞれが自分がこれが良いと思って書いているのですね。
 まあ、客観的評価を期待するなら、文学賞に応募してみることです。小説の文章になっていないと審査員が思えば直ちに読むのをやめて没にしますから。

もんじゃ
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 南風さま

 センスがないのです、という言葉はかの方の口癖だったのでそれを意図的に踏襲してみたのですが、文脈を追えばわかっていただけるように、センスがない、というと個人的な感覚ととられちゃうかもしれないからぼかすのはやめてはっきり書いておくけど、その助詞の使い方は国語のテストみたいなものさしではかってもバツでありますよね、つまり日本語として正しくないですよね? と指摘させていただきましたわけで、これは主観的な指摘ではないわけです、しかるべき箇所を特定して具体的に、が、という助詞は、三人称視点の話の中で、AさんではなくBさんが、という意図なく使用されるべきではなく、通常の主語述語関係を構築するだけのセンテンスであるなら、は、を使うべきだと、むろん特段の表現の意図があれば別なのですが、なさそうなのでそうお伝えしたわけです。それに今回もんじゃが指摘した箇所は前回投稿時に残らず指摘されていたはずなのに、ってこれは大丘さまは認識できてるはずですが、なのに同じ文章をまた上げておられる、執筆の狙いに何度も推敲したとあるのに。今回の指摘の大部分はこの、文章って直せば直すほど伝わりやすくなるものですね、的なおっしゃりように対する問い合わせであったりするのです。
 ともあれ、ですよ? この場で南風さんと――橋が空と三角をつくる方ですよね? その南風さんと議論することは好ましくないと感じますので、やりとりが重ならないよう、言葉を尽くさせていただきましたが、これ以上のやりとりを希望される場合には、創作意見室っていうんでしたっけ? それこそかの方が活躍されていたあのあたりにスレッドを立てるなどしてそちらにお誘いください。
 南風さんは、とは、や、が、の使用に問題を感じませんでしたか? あれらのセンテンスをひっかかることなく読めましたか? もんじゃは、その段差が十を超えたら読めません、書き出してまもないかもしれない初々しい感性による習作なら他の美点をさがしますが、書き手が無反省なベテランである場合は、読めなかった理由と読まなかった事実をお伝えすべきかと考えます、その作品を無批判に褒めてしまう読み手が少なくない場合はなおさらです。かの方の憤懣を違うやり方で、つまりいくらか丁寧に正面からお伝えする、みたいな形になっていますが、これはフェアであり、建設的であり(破壊のあとの再生という意味で)、真摯であろうかと感じています。もんじゃは自作にそのような指摘をいただけたら大変嬉しいです。大丘先生は他者の作品の一つの誤字を指摘して、これじゃ作品が台無しですね、と感想されていたベテランさんでいらっしゃいますし、他者の文章について美文麗文の類いにたいした価値はないとの持論を述べておられた方なので強い調子で指摘させていただきました。以上言葉を尽くさせていただきました。

もんじゃ
KD111239165047.au-net.ne.jp

 大丘 忍さま

 スタンス了解いたしましたが、他の方も見られていると思うので最後に一つ。

>太宰治賞に一回応募して一次通過、その後北日本文学賞には何度も応募して大抵は二次通過止まりでしたが、これで一応は小説の文章にはなっている

 このセンテンスも、
・一応【は】文章【には】なっている
 を、
・一応文章になって【は】いる
 に直したくなっちゃいますが、ともあれ。
 今回のこの文章で応募したならさすがに一次も通らないでありましょうけれども(それらの賞をよく知らないので想像ですが)、致命的な欠陥のない作品が一次を通過し得たのでありましょう。大丘さまの作品は他にもいくつか拝読しており、作品ごとにその文章のまともさがずいぶん異なっておりましたから。今回のは読むの二回目だけど、なんでだろう、この作品だけ飛び抜けてよろしくないかと。前回指摘されてた箇所、三十箇所くらいなかったですか?
 ともあれ、そのような実績で満足される書き手は少数かと思われますので、大丘さまのためにではなく、そのような実績ではないありさまを求めておられるのではないかと思えます書き手のために書かせていただきました。……でもないかな、そんな高いレベルの話じゃないですよね、国語で習った学力があったらわかる話かと思うのですが。というか、言葉や表現がこのような扱いを受けていることが我慢ならない、みたいな感じ、書き手さんたちがどんな実績を目指していようが目指していなかろうが関係なく。
 さて、どこかの文学賞の一次ですか、二次ですか、そのような実績(!)のみをもって、我が文章に直すべき余地なし、だなんてずいぶんと……な感じがいたしますが、とは、に違和感を感じない、だとか、が、でも、は、でもどちらでもいい、だなんて言って憚らない書き手は……、そうですね、わかりました、でもそれなら、狙いに、文章は直せば直すほど伝わりやすくなるものですね、みたいに書かないでくださいよ、読む人に誤解を与えるから。

 あ、あと、白人のような白さ、だとか、混血だとかは、差別的なキャラをあらわすために使用されるなら可な表現だけど(NGじゃないってこと)、そうでないなら逆に無駄に差別的になりかねない、と指摘させていただきました、辞書的な意味じゃなくて、文化的な意味で。真逆に受け取られているようですが。

大丘 忍
p1793091-ipngn200202osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

もんじゃ様
 再三のお越し、恐縮です。ここに居られる多くの皆様は、おそらく若い頃から文章修行をしてこられたと思います。
 私が小説を書こうと思い立ったのは還暦もかなりすぎた六十台中頃からでした。それまで小説は子供の頃日本文学全集を読んだだけで、青年期にはほとんど読んでおりません。まあ、小説どころではなかったということもありますが。文章は沢山書きましたが、これは学生時代のアルバイトであり、博士論文のゴーストライターをやっておりました。博士論文の代筆ですね。だから小説的文章とは全く無関係の文章でした。
 還暦も過ぎ、仕事に余裕が出来てパソコン通信のニフティの文学フォーラムを覗いたのが小説を書いてみようと思い立ったきっかけでした。
 「ニフティの文学フォーラム」、「ノベルスワールド」、を経て現在は「作家でごはん」で小説を楽しんでおります。だから、私はプロの小説家になろうと思ったことは全くありません。純粋に小説を書いて楽しむと言うことに徹しております。
 小説を書き始めた頃、確か「虹」という名前だったと思いますが、文学週刊誌がありました。そこでは毎週掌編作品を募集しておりましたが、選者の言として応募作のほとんどは小説になっていないと書いてありました。なるほど、小説とはただ文章を書けばいいのではないのだなと思いました。そして、文学賞の一次を通過すれば何とか小説として認められたことになるとも書いてありました。
 そこで、試しにマイナーな文学賞と思いますが応募してみました。それが最終に残ったけれど、受賞はしませんでした。それから、やはり小説になっているかどうかは、文学賞に応募して先ず一次選考に通過することだと思いました。太宰治賞に応募しましたが、これはかなりの枚数を要するため、その後は30枚という短編で応募できる北日本文学賞に応募することにしました。この賞の良いところは、一次、二次、三次、最終と段階的に何処まで行ったか知ることが出来ることです。
 投稿サイトで読者の意見も参考になりますが、これは玉石混交、プロ並みの実力者の意見もあれば、全くの素人の意見もあります。その点、文学賞の選者は一定の水準で選考するのでより確かな評価だと思ったからです。
 もんじゃ様の感想は、文章技術の面から見て高度なレベルと感じており、確かにその通りであると思っております。そのご意見を参考にして過去作を読み直しておりますが、過去作にはそれほどの違和感を感じません。これは作家になろうとする人に要求される厳密さと私が目指している小説書きの拠って経つ足場の違いによるものだろうかと思います。しかし、なるべくならプロから見ても通用する小説を書きたいと思うのは当然ですから、もんじゃ様のアドバイスを念頭に置きながら推敲していきたいと思います。
 長文、失礼しました。

南風
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大丘 忍様

再度の訪問です。プリントしてゆっくり読ませていただきました。
私にとってドクターは心身ともに強い存在でしたので、読み進めていくに従って同じ人間なのだと思いました。その中で早苗さんの女性の強さの表現はとても心に残るものがありました。職場にも早苗という名の女性がいますので、彼女の女性の強さを考えてみるのも楽しいことでした。とてもよくまとまった作品ですので、今後に参考にさせていただきます。有難うございました。

大丘 忍
p258223-ipngn200404osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

南風様
 再訪有難うございます。この作品を、「小説」として読んでいただき有難うございます。私は、「小説」を書こうとしておりますので、やはり「小説」として読んで頂き、評価していただくと嬉しいですね。
 といってもいつも「小説」ばかり書いているわけではありません。時には気晴らしで、「軟らかいもの」を書くこともありますので宜しく。その時は「軟らかいもの」と考えて読んでください。

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