相田康介
室谷蓮司は道を歩いていた。
彼は大学生。現在、駅から家へ帰るところだった。
街灯がアスファルトの道路を照らす。
住宅街は死んだように静かだった。道には人っ子一人おらず、車さえほとんど通らない。
蓮司はスマホをいじる。
『魔王の攻撃!勇者に99999のダメージ!』
ドドーンという効果音が響く。
『勇者の一行はやられてしまった!』
「ああ...」
蓮司はガックリ肩を落とした。やはりラスボスは強い。
これは攻撃無効魔法を使ってごり押しするしかないか?
そんなことを考えていると、前方から女性の声が聞こえた。
「きゃっ!」
蓮司は前を見る。
すると一人の女性が尻餅をついていた。
女性の周囲には数十枚の紙が散らばっている。
「大丈夫ですか!?」
蓮司は女性に駆け寄った。
「大丈夫です、少し転んだだけですから…」
彼女は立ち上がり、散らばった紙を集め始めた。
蓮司もそれを手伝う。
散らばった紙に印刷されているものは、全て同じだった。
どうやら何かのチラシのようで、紙面には大きく『人間関係のお悩み、解決いたし〼(マス):イザナ屋』と書かれ、下の方に電話番号が記載されていた。
イザナ屋。聞いたことのない名前だった。
「イザナ屋って何をする店なんですか?」彼は思い切って尋ねてみる。
女性はすぐ返事を返した。「人間関係の悩みを解決するお店です。本日オープンしたばかりなので、こうしてチラシを張り、皆さんに宣伝しているんです」
そう言われ、蓮司は周囲の壁にいくつか張り紙があることに気づいた。全てイザナ屋のチラシだ。
「チラシ、勝手に張って大丈夫なんですか?怒られちゃいそうですけど」
「許可は貰っているので大丈夫ですよ」
「ならいいんですが」
こんなにたくさんのチラシを張るのに、いったいどれだけの許可が必要なんだろうか。いや、そもそも本当に許可を取ってるのかだって怪しいぞ。
蓮司は女性を疑った。
しばらくすると、チラシの回収が終わった。
蓮司は自分の集めたチラシを整え、女性に渡す。
「ありがとうございます」女性はお辞儀をした。「よかったら、家に寄っていかれませんか?感謝のしるしに、お茶を御馳走したいのですが」
蓮司は虚を突かれた。女性の家に招かれてティータイム・・・発情期真っ盛りの大学生が連想したのは、ネットで見るようなエロ展開だった。
しかし、彼はその妄想を振り払った。
「すみません、お誘いは嬉しいんですけど、僕には付き合ってる彼女がいるんです」
女性はフフフと笑った。
「そう身構えなくても大丈夫ですよ。家には主人もいますから」
「あ、そうなんですか」礼司は間の抜けた顔をした。期待外れというか、またしても虚を突かれたというか、そんな感じだった。「じ、じゃあ、お邪魔することにします」
「こちらです」女性はにこりと微笑み、歩きだした。
~~~~~
10分後、2人はマンションに到着した。それは少し古びていて、少し探せばどこにでもありそうな物件だった。
女性はマンションに入ると、蓮司と共に307号室へやってきた。
307には『深川』という表札がかかっていた。この女性の名前は深川というようだ。
女性はドアノブを持ち、玄関扉をグイっと押し開ける。
すると扉に着けられた鈴がチリンと鳴った。玄関には土間があり、その先はまっすぐな廊下になっていた。廊下の端にはリビングに繋がる(と思われる)扉がドンと構えていた。
「おっ、お帰りー」
リビングの方からドタドタと足音が聞こえた。
蓮司は緊張した。おそらくこの足音は女性の夫だろう。夫が気性の荒い人であれば、自分は数回殴られてもおかしくない。大丈夫かな...。
声の主が姿を現した。
それはスリムな男で、髪はボサボサ。そして顔にひょっとこのお面をつけていた。
ひょっとこの面が蓮司をジロリとみる。
「えーと、なんだお前。うーんと、あ、そうか。なるほどわかったぞ」
蓮司は殴られても我慢できるよう身構えた。
しかし、ひょっとこの反応は予想外のものだった。
彼は蓮司を指さしこう言った。
「お前が今度の犠牲者か」
”犠牲者?”蓮司は背筋が寒くなるのを感じた。もしやここは人食い族の家なのだろうか。それとも、新手(あらて)の犯罪者集団か何かなのだろうか。
すると女性が口を開いた。
「彼は私が落としたチラシを拾い集めてくれたんです。ですから、お茶でも飲んでいきませんか、と誘ったんですよ」
「ほーん」ひょっとこはウムウムとうなずき、蓮司に話しかけた。「それならちょうどよかった。今しがた夕食ができたところだから、君も食べていくといい」
「え、夕食…お二人のですか?」
「うむ。明日の弁当用に2人分余分に作っておいたから、君も食っていけ。なんてったって、今日は豚の生姜焼きだ。俺の作る料理はう~まいぞぉ~」ひょっとこは両手をヒラヒラさせ(理由は不明)、リビングへと消えていった。
…ただの変人っぽいな。犯罪者集団とかじゃないな、うん。
蓮司はそう結論付け、廊下を歩きだした。
――第1話後編――
「おいしい!」蓮司は思わず言った。
「うむ、ウマかろうウマかろう」ひょっとこ男は嬉しそうにうなずいた。
豚の生姜焼きはとても美味だった。
薄い豚肉にショウガとソースの味が染みついており、それがキャベツや白米と非常にマッチしているのだ。
蓮司たちは今、リビングにある4人用の机で食事をとっていた。
机を囲む4つの椅子は2:2で向かい合わせになっており、1つの椅子を蓮司が、それと向かい合わせの2つをひょっとこ男とその妻が使っていた。
蓮司は夕食をガツガツ食べながら、ふとひょっとこ男の手元を見る。
ひょっとこ男は食事に全く手を付けていなかった。いや、そもそも仮面すら外していない。
まさか食事に毒でも盛ったのか?…いや、深川さん(妻の方)は普通に食べてるし、そういう訳じゃないんだろうけど。
一応聞いてみるか。
「あの、どうして夕食を食べられないんですか?」
「ん、ああ。食べた方がよかったかい?」ひょっとこ男は意外そうに言う。
「いや、そういうわけじゃないんですけど...。自分でおいしいと言ってたから、なんで食べないのかなと思って」
「あ、なーるほど」ひょっとこ男はポンと手を叩く。「確かにそのとーりだ。興味ないからすっかり忘れていたよ」彼はお面を外した。
蓮司は驚愕した。
なんと、ひょっとこ男はイケメンだったのだ。
しかもただのイケメンではない。有名俳優並みのイケメンだ。
顔のパーツはどれもキチっと顔に収まっていた。細く高い鼻、スッと閉じた口、キリっと引き締まった眉―――それら一つを取っただけでも、十分すぎるほど美しかった。まるで芸術作品だ。
これで性格がよければ問題ないのだが。まあ、天は二物を与えないということなのだろう。蓮司は妙に納得した。
「ふぃ~、お面は蒸すな。さあ、飯だ飯だ」元ひょっとこ男はそう言うと、飯をバクバク食べ始めた。彼は犬のように口だけで食べている。
なんだこの人は…蓮司はあっけにとられた。
彼が呆然としていると、元ひょっとこ男が顔を上げ、蓮司の方を見た。
「そういや、お前の名前はなんだったっけ?」
突然のことに蓮司は戸惑った。
「あ、ああ。えっと、僕は伏見蓮司です」
「ほーん。レンジ君か。熱い名前だな。ちなみに俺は渕昌介(ぶち しょうすけ)」そして彼は自分の妻を指さす。「んでこっちが深川汐里(しんかわ しおり)、俺の妻だ」
「そ、そうですか・・・」
なぜ結婚しているのに別姓なのか気になったが、蓮司はこれ以上この男と会話を続けたくなかった。
彼は話題を変えるため、深川に顔を向けた。
「そういえば、深川さんはどこでお仕事をされているんですか?僕、今度お店に遊びに行きますよ」
深川はご飯を飲み込み、水でのどを潤す。
「お気持ちだけで十分です。私は店舗を持っていませんし」
蓮司は首を傾げた。
「え?でも、チラシにはイザナ屋開店って書いてあったじゃないですか」
「イザナ屋は店頭でお客様に接するタイプのお店ではないんです。電話相談、もしくはお客様の方(ほう)へ出張する方針なので、店舗は必要ないんですよ」彼女は蓮司を見つめた。「そうですね。せっかくですし、もし何か人間関係のお悩み事があれば、お手伝いいたしましょうか?」
「えっ、手伝いですか。それは確かにうれしいですけど」蓮司は言った。
「言いにくい理由がありまして?」
「いえ、プライベートなことなのでちょっと―――」
蓮司は考え込んだ。彼はしばらく考え、一応言ってみることにした。まあ、このぐらい言っても害はないだろう。
「――えっと、実は、彼女との仲が険悪になってしまって。どうにかして改善したいんですけど、上手くいかないんです」
「なるほど、承りました」深川はうなずいた。
彼女は元ひょっとこ男に”御馳走様”と言うと、リビングにある扉の1つを開けた。
そこは入口へ繋がる扉とは別の扉だった。扉の向こうには闇が広がっており、文字通り真っ暗だった。
「どうぞこちらへ」彼女はそう言うと、扉の向こうへ消えていった。
蓮司はドギマギした。まさかこれはエッチな展開か―――!?と思い、彼の胸は最高潮に高鳴っている。
彼はチラリと元ひょっとこ男を見た。元ひょっとこ男は未だに無我夢中で飯を食っており、気にする様子はない。
蓮司は扉に向き直る。彼は席を立ちあがると、女の後を追い、扉をくぐった。
「あーちゃま、あいつ、終わったな」蓮司がいなくなると、元ひょっとこ男は面倒くさそうにつぶやいた。
~~~1週間後~~~
午前7時。
ひょっとこ男がリビングにやってくると、深川は椅子に座っていた。
彼女は手に何かを持ち、嬉しそうにそれを眺めている。
ひょっとこ男は深川の背後に忍び寄り、肩越しに手元を覗き込んだ。
深川が持っていたのは一通の手紙だった。差出人はレンジ君だ。
『深川さん、先週はどうもありがとうございました。おかげさまで彼女と仲直りすることができました。今度夕食をおごらせてください ~伏見蓮司~』
文面を読んでひょっとこ男はウムウムとうなずいた。そして、彼は手紙に同封された写真に気づく。
写真には笑顔のレンジ君と、その彼女が映っていた。
レンジ君の彼女は結構美人だった。美人な上に全裸で、首には犬用の首輪がついている。首輪からはリードが延び、その端を蓮司君が握っていた。
彼女は嬉しそうに顔を火照(ほて)らせ、犬のように舌をダラリと垂らしている。もちろん体勢は四つん這いだ。
「あっちゃー、やっぱりそうなっちまったかー」ひょっとこ男は言った。
深川が振り返る。
「二人とも幸せそうでしょう?」
彼女は微笑んだ。
ひょっとこ男は「フム」と顎に手をやる。
「そうか、幸せか。ならいいか」そう言うと彼はヒラヒラと右手を振った。「んじゃ、朝食作るとしましょーかね。朝食何がいいー?」
「なんでもいいですよ」
「あいとこさー!じゃ、今朝はサンドウィッチ定食だー!」ひょっとこ男は台所に立つと、自慢の朝食を作り始めた。
――第2話――
ひょっとこ男と深川汐里はリビングで夕食を摂っていた。
メニューはカレーとサラダ。スパイシーな香りが湯気に乗って部屋を循環する。
2人がパクパク食事をしていると、扉が突然開いた。
「ほえ?」
間抜けな声と共に、ひょっとこ男はドアを見る。
すると、ドアの前に1人の若い女性が立っていた。
女性は白い和服を身にまとい、首に犬の剥製をマフラーのようにかけ、髪を背中まで伸ばしていた。
その体に右腕は無く、アルビノのため瞳は赤く、それ以外が雪のように白い。肌の白さ、整った顔が相まって、見ている者に人形のような印象を与えた。背負っている猟銃すら、その美貌を引き立てていた。
「イザナ、ひさしぶりじゃのう」
女が言った。口調は古いが、声は若く澄んで、美しかった。
イザナとは深川の仕事名だ。
彼女は軽くお辞儀する。
「お久しぶりです、シロガネさん。それで、今日はどういったご用件でしょう」
「用件はかんたんじゃ。実のはのう、この町は妾(わらわ)とタロウの思い出の地でな・・・」シロガネはそう言うと、剥製犬の頭を愛おしげに撫でた。「そこで妾は、この地を汚す輩を何人たりとも生かさんことにしておるのじゃ。しかしイザナ。おぬしは同業のよしみじゃ。今すぐこの町を離れるというのなら、見逃してやってもよいぞ」
「それはできません」
「ほう、覚悟はできておるじゃろうな?」
シロガネは背中の猟銃に手をかける。
深川は怯まない。
「私は人助けを仕事にしています。これは町を美しくする行いですから、あなたが干渉する必要はありません」
「よく言うわい。堕天師と呼ばれたお前が、よもや人助けなど…」
「いーや、これは事実だぞ」それまでダンマリしていたひょっとこ男が口を開いた。「彼女は引退した。今は一介のカウンセラ〜だ」
「・・・・・」
シロガネはしばらく考えた。
「うむ、そう言うことなら―――――そうじゃな、妾にそちの仕事の様子を見せてみよ。それが納得できるものなら引き下がろう。しかし、できなければこの街から出て行ってもらうぞ」
「わかりました。では明日、仕事の様子をお見せいたします」
「駄目じゃ、今日、今(いま)見せよ」
「それはできません。お客様もいませんし、もう営業時間外ですから―――」
「駄目じゃ」シロガネは深川の言葉をさえぎり、彼女に銃口を向けた。「今と言ったら今じゃ。できなければ、この町から出ていってもらう」
「では、シロガネ様のカウンセリングを行うというのはどうでしょう」
「!?」シロガネは驚いた。
「へー、なるほど。いいアイデアだっ!」ひょっとこ男が拍手する。
シロガネは黙った。彼女は深川の恐ろしさをよく知っていた。
「・・・妙な真似をすれば殺す」シロガネは言った。
「構いません」
深川は席を立つ。
「では、カウンセリングは私の部屋で行いましょう」
― ― ― ― ―
2人は部屋に入った。
シロガネは部屋に素早く目を走らせると、深川に断りを入れ、点検を行った。
(・・・壁を見るに、防音性の高い部屋じゃな。ドアにロック機能は無し。部屋に武器類もないことじゃし、罠ではなさそうじゃ)
彼女は椅子に座る。深川は既に席についていた。
シロガネと深川は向かい合わせに座る格好になった。
2人の間を隔てる物は机一つない。
深川が口を開く。
「では、カウンセリングを始めますね」
「妾に妙な真似をしたら、その時は躊躇なく殺すからの」
「もちろん、わかっていますよ」
深川は微笑む。
「シロガネさん。体に力が入っていては、カウンセリングができません・・・さあどうぞ、肩の力をお抜きになって」
シロガネは渋々肩の力を抜く。
「そうです。では、3回程深呼吸をしてみましょう」
シロガネは言われた通りに深呼吸した。
深川が嬉しげに笑う。
「よくできました。では、今から私が質問しますから、それらに全て『はい』で答えてくださいね」
「・・・どういうことじゃ?」シロガネの目が不審に光る。
深川は動じない。
「私はあなたを肯定する質問を投げかけます。それにあなたが『はい』と答えることで、あなたの自己が肯定され、あなたは今よりもっと満たされた状態になることができるんです」
「・・・了解じゃ」
シロガネの反応に、深川はコクリとうなずく。
「では、質問を始めますね。あなたは犬が好きですか?」
「はい」
「あなたは自分を愛していますか?」
「はい」
「あなたは狩りが好きですか?」
「はい」
質問に答えながら、シロガネは湯船につかるような心地よさを感じ始めた。
(なんじゃ、すこし頭がボーっとする。何やらぽかぽかしておる。日向ぼっこのようじゃ。遠くから深川の声が聞こえるのお。やけにはっきり聞こえて――――なぜだか子気味いい響きじゃ)
「あなたは美味しい食事が好きですか?」
「はい」
「あなたは幸せが好きですか?」
「はい」
「あなたは―――――」
・
・
・
「あなたは自分の体が好きですか?」
「はい」
シロガネは完全にリラックスしていた。頭からも力が抜けて、深川の声がスポンジに水をかけたように染み込んでいく。
彼女は全身を包む暖かい感覚と、脳内で甘く反響する深川の声しか感じられなくなっていた。
「席を立ちませんか?」
「はい」
2人は席を立つ。
「あなたの愛犬を椅子で休ませてあげませんか?」
「はい」
シロガネは首に巻いた剥製犬を先ほどまで自分の座っていた椅子に寝かせた。
「あちらのベッドに座りませんか?」
「はい」
2人は部屋に設置してあるダブルベッドに並んで腰かけた。
シロガネはボーっと前方の壁を見つめている。
彼女の左耳に、深川が唇を近づけ、囁く。
「服を脱いでいただけませんか?」
「はい」
シロガネは服を脱いだ。
「ベットに横になっていただけませんか?」
「はい」
シロガネはベッドに横になった。
「あなたは自分の裸体が好きですか?」
「はい」
深川は微笑んだ。
彼女はシロガネの顔を覗き込む。右手を持ち上げ、シロガネの裸体を、みぞおちから下へスーッとなぞっていく。
へそを通過した時、シロガネは「んんっ」と甘い声を漏らした。深川は表情を変えない。手も止めない。
手が移動する。膀胱の上を通り、股間の陰毛をなぞり、そして秘部に到達する。
つぷっ、と、指がシロガネの中に侵入した。
・
・
・
「どうですか?気持ちいいですか?」
「はい」
数時間が経過した。
シロガネの表情は完全に溶けきっていた。
頬は赤く染まり、だらーんと半開きになった口から舌が垂れ、目に幸せのモヤがかかっている。彼女の体液がベッドを濡らし、辺りには濃厚な汗のにおいが充満していた。
「もっと幸せになりましょうね」
深川がシロガネの中に入れた右手の指を、内側にクイッと曲げる。
「はっ、イッ―――――!!!」
シロガネの背中がえびぞりになる。
体ががくがくと震え、すぼめた口から息がヒューヒュー漏れる。
痙攣が引くと、シロガネはベットに体を横たえ、ハァハァと息をした。
そんな彼女に深川は囁く。
「シロガネさん。今からあなたの脳に理性が戻ってきます。常識的な思考力が戻り、大切なものを思い出します。『はい』と答える必要もなくなります。けれど、体は動きません」
「はぃ―――――」シロガネはとろけた顔で答える。その最中、瞳に理性の色が戻り、脳が刹那に現状を理解する。「――――――ッ!」
彼女の顔に激怒の色が浮かんだ。
「イザナ!妾との約束を破りおったな!許せん!殺してくれる!」
怒り狂うも、動くのは頭だけ。体は人形のように動かない。
「あなたの体は感度が10倍になります」
深川が右手の指を曲げる。
「あっ、あああああああああ!!!」
シロガネは頭を上に向け、口と目を極限まで開き、叫んだ。
けれど体は動かない。
快楽の波が引くと、シロガネは歯を食いしばり、フーッフーッと言いながら深川をにらみつけた。
「覚えておれイザナ。後でおぬしに生まれてきたことを後悔させ――――――」
深川が左手を動かし、指が優しくシロガネの乳房をなぞる。
「うわああああああああああああああ!!!」
それだけで彼女は絶頂してしまう。
「これが催眠というものです。あなたには今、はっきりとした意識が戻っています。しかし、催眠はあなたの無意識に語り掛け、暗示を刷り込むもの。あなたがどれだけ意識で拒否しようと、無意識はもう、私の奴隷になってしまっているんですよ」
深川が指を動かす。シロガネが絶頂し、あまりの快楽に雄たけびを上げる。
「無意識が支配されれば、心も体も私の思い通りになります。こうして今あなたに説明しているのは、催眠の理論を知ることで、あなたの無意識が私に勝てないことを自覚し、より従順になるからなんですよ」
「なにを・・・」
シロガネはイザナをにらみつけようとした。
しかし、その背筋を寒気が駆け抜けた。
イザナの顔は、シロガネが今まで見たこともないほど恐ろしいものだったのだ。
イザナは微笑んでいた。いつも浮かべる、得意の微笑みだ。
しかし今回の微笑みは空気が違った。纏(まと)っている感情が違ったのだ。
それは例えるなら、蛙を見つめる蛇。
もう絶対に勝ち目のない弱者を見つめ、それをどう調理しようか楽しげに思案している強者の顔。
「では、カウンセリングの本題に入りましょう」
彼女はサプライズパーティーを提案するかのように、にこにこと手を合わせた。
「シロガネさんには、幼い頃から一緒に育った愛犬がいらっしゃいましたよね。愛犬が飢え死にしそうな時は自らの右腕を食べさせたと聞いています。愛犬の死後も、その剥製を身に着けているとか」
「なにを・・・する気じゃ・・・」
シロガネは怯えた。
イザナの笑みが一層強くなる。
「愛犬を愛することは素晴らしいことです。けれど、愛犬が死んでしまって、いつまでもその死を引きずっているのは、あなたの人生にとってマイナスでしょう。ですから、今日からあなたには愛犬と決別して頂きたいと思っています」
さて、とイザナは言葉を続ける。
「あなたはこれから、私の命令に逆らえなくなります。そして、私の暗示を解こうと思わなくなります」
シロガネの顔から血の気が引いた。ただでさえ白い顔が青白くなった。
もう勝ち目はない。
彼女の心を絶望が包んだ。
シロガネは右を向いた。
視線の先には椅子に寝かせられた剥製犬の姿があった。
「タロウ、タロウ、タロウっ!」
彼女は愛犬の名を連呼する。
その右耳に、イザナがそっと唇を寄せた。
「大丈夫ですよ。もう楽にしてあげますからね」
「タロウっ!」シロガネは叫んだ。
「あなたは自分の意志で愛犬と決別します。これは命令です」
シロガネの脳に言葉がしみこみ、無意識がそれを受け入れた。
「タロウ、タロ・・・」
シロガネの言葉が途切れる。
体から力が抜け、瞳から光が失われる。
目じりから涙が流れ、頬を伝った。
そこに、イザナが言葉を吹き込む。
「あなたは私が大好きになります」
「・・・・・」
シロガネの顔が、ゆっくりとイザナの方を向いた。
彼女は母親を見つけた迷子のように、両目から涙をあふれさせた。
「イザナ、イザナ、イザナ・・・」
「はい、私はここに居ますよ。もう、体を自由に動かして構いませんからね」
イザナは優しくシロガネの左手を取った。
シロガネはイザナの胸に顔をうずめた。
彼女は頬を上気させ、イザナの胸の谷間から、愛おしげに、切なそうにイザナを見やる。
その愛らしさに、イザナはまた、微笑んだ。
・
・
・
朝がやって来た。
ガチャッと音がして、リビングの扉が開く。
そこはイザナの部屋に繋がる扉だ。
「おっ、起きたか――――」ひょっとこ男が顔を向ける。「――――えっ!?」
彼は驚いた。
とはいえ、シロガネとイザナが並んで現れたことに驚いたのではない。
驚いたのはシロガネの服装だ。
彼女は昨夜着物姿だったが、今はTシャツにショーパンという出で立ちだった。長い髪はゴムで束ねてポニーテールにし、背中に猟銃は無く、手に持っている風呂敷包はこんもりと膨らんでいた。
よく見ると、風呂敷包みは昨日彼女の着ていた着物だった。
「何が入っているんだい?」ひょっとこ男は興味津々で包みを見る。
シロガネは愛おしそうに風呂敷を撫でた。「この中には愛犬のタロウが入っておる。今度、寺で葬式を挙げ、火葬してやるつもりじゃ。いつまでも妾の傍にいては、タロウも気の毒じゃろうて」
「ほーん。あ、そういや、俺たちが町を出ていく件はどうなったんだ?」
シロガネは頬を赤らめた。
「それは・・・無しじゃ。おぬしらには、ずっとここに居てもらいたいと思っておる」彼女はチラリとイザナを見た。
はーはー、そーゆーことね。と、ひょっとこ男は納得した。恋って怖いね。
イザナはシロガネに顔を向けた。
「私たちはいつまでもここに居ますよ。いつでも遊びに来てくださって構いませんからね、シロガネさん」
イザナの視線がシロガネの視線と絡み合った。
シロガネは顔をさらに赤くした。
ひょっとこ男は2人を見て頭を掻く。
ま、何があったかは知らないけど、ハッピーエンドでよかったなあ。
彼はのんきにそんなことを考えた。
執筆の狙い
自分好みの官能小説を書きたかった。
自信作ですが、こういったタイプの話を書くのは初めてだと思うので、目も当てられぬ惨状になっていると思います・・・官能小説の割に、文章が足りない気がするので。
第2話が本番。第1話はキャラ紹介として載せてます。
コメントお待ちしております。