人間未満
俺の計画は高層タワマンから飛び降りることだった。
念頭にあったのは、どのように飛び降りるかということだった。する、しない、ではなく、できる、できない、でもなく。頭から突っ込んで、そのまま地面にぶつかり、脳骸骨が粉々になるように落下したかった。
しかしいざ、その場に立つと、そんなことはどうでもよくなった。ひたすら怖いのだ。怖いと感じられるくらいには、まだ自分に精神的な余裕がたっぷりあったということだ。それでも慄く身体を少しずつ前に進めることを強いた。
いまさらもう後には引けなかった。窓を隔てた、すぐ近くに不動産会社の案内人の影が見えている。真っ青な顔でいることだろう。俺に残された時間はわずか。やらなければいけない、という声だけに背中を押されて、一歩一歩と前へ進んでいった。
学生の頃、飛び込みジャンプを少しやった経験がある。あの頃、高いところからジャンプするのなんか、ぜんぜん怖くなかった。あの頃に戻れたらいいな、と、どうしてか思えた。そんないい学生時代じゃなかったはずなのに。
身体を支える足が、もうあと十センチというところまで進んだ。ふと、晴れ渡ったいい天気だと思えて、富士山が拝められるかな、とそんなことが頭をよぎった。余計なことだった。
邪念……。
でも、それは俺のせいじゃない。晴天のせいだ。
いや、いつもいつも頭の中で、何かを考えずにいられない俺が悪いのか。
……こびりつく思考のせいだ。
それから、俺はあちら側にいく岐路に足を踏み入れた。跨いだ。
うぉぉぉぉーーーーーーと、叫んでいた。
海側からの意外に強く吹く風が、首元のネクタイを舞い上がらせた。それで不覚にも足を滑らせてしまい、縁に尻が当たって、俺の身体はタワマンから離れてしまった。
これ以上ないくらい滑稽な姿であったに違いない。スーパーマリオが無残に落っこちるみたいに。せめて死に際くらい、思うようにやってみたかったというのに、それすらかなわなかったらしい。
落ちるまでの時間はどれくらいあったか。五秒、あるいはもっと短い、いやもう少しあっただろうか。とにかく人生の最後を惜しいと思う瞬間さえないのは、たしかだった。
落下する中で、少しだけ光に近づいていったのかもしれない。
足が離れ、宙に浮き、やがて自分の体重プラス、重力、加速度、と。物理法則の真っ只中に俺はいたはずだ。ほんの一瞬でも、何かが頭をよぎったことがあったのだろうか。地球にいるときの一切の制約の縛りを自らほどいて、人間ではない他の生き物、例えば鳥とかに近づいていっているような感覚だったといえるかもしれない。
落下してゆく中で、周囲に当たり前のように映っていたはずの、空に浮かぶ高層ビルの輪郭やら、縦横無尽に走っている血管のようにくねっている道路だったり、見慣れているはずの車のサイズが豆粒のようだった。ゴジラの視野にいたのだろう。
自分の体重の倍、何十倍とスピードが加算するにつれて、あらゆる感覚という感覚が麻痺していったのだろうか。光のスピードに近づくと、その先にあるのは、静謐さというか、無というか、妙な静けさの中に辿り着いた。
諸々の法則というものに夥しく、がんじがらめになるという体験をすると、すべての感覚を超越してしまうのか。子供のころ観た、スーパーサイヤ人に変身するプロセスを踏んだというか、なんというか。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
俺はどうやら別世界にたどり着いたようだった。
ここは黄泉の国かもしれない、と思った。あるいは夢の中なのかもしれない、とも。でもどっちでもよかった。言えるのは、もしここが黄泉の世界だったとしたら、黄泉の世界ということをすぐには悟りたくなかったし、もし夢の中であったなら、夢だと感づきたくなかった。夢オチならば、そのカラクリを知らされない方が、よほどマシだと思えた。
むろん、それは俺がまだ人間であるという前提のことであろうが。
俺はいったい誰なんだろう、という問いが浮かぶが、もちろんわからない。そもそも記憶がやけに曖昧で、そんなことすらまだよく自分で掴めてすらいない。
あるいは、誰ではなくて、何か、と問うべきか?
というような怪しい疑問はおいておき、周囲に浮かぶ景色を頼りにしてみることにした。見えてくるものは黄色い光に包まれた世界。太陽の眩しさではない。何かのフィルター越しのような世界が見えているのだ。
信号機の灯りだけがやけに目立ってばかりの、誰もいない交差点だったり、アパートなどの建物にはところどころ灯りがついてはいても、そこに人影が一向に見えない。眩いばかりのコンビニがポツリと立っているのに、棚という棚がみごとに空っぽだったりする。
人が住むために必要な店だったり、マンションだったり、道路が通っている。でも、肝心な人が一人もいない。しばらくたっても、人間の影すら、車の一台すら通っていないことに気がつく。
俺は、いってもいっても空虚なばかりの街の佇まいに違和感を覚えて、どんどんと突っ走ってゆき、駆け抜ける。空を飛んでいるようにも思えた。
そうやって無人の街の中を一人で彷徨っていた。この街はかつて俺が住んでいた街でもあったはずだ。そんな気がする。でも、人っ子ひとりいない。空気がセピア色に変色した世界。この世界がまったく別の惑星にいるような感じさえした。
場所をぐるぐると回ってみても、見覚えがある場所らしいというのはわかるけれど、それがどこかはわからない。地名が書いてあるはずだが、電信柱はのっぺらぼうであり、番地の一つも書いてない。道路にも何々通りだとか書いてあるはずだし、信号機にも記されてあるものがまったくない。とても奇妙な感じだった。
時計を探してみる。ビルのてっぺんなどに会社名と時刻が表示されているのを見る。十一時五分を差している。でも、他のを見ると違う時刻だったりする。俺はまた歩き出した。手がかりになるようなものを求めて。数字はデタラメだし、文字は書いてあることはわかるものの、輪郭がぼやけていて文字としての体をなしていない。
俺は自分の身体を触ってみる。確かに腕はある。いや腕という形があっても、別の手で握ろうと思ってみても、ぐにゃとなるだけだ。すっぽ抜けるわけではないが、皮膚という感触はどこにもなかった。そもそもひねるということすらできなかった。ひねることができれば、痛いという感触もあることが確かめられるのに。
服装はTシャツとジーンズという格好だし、それが飛び降りる前にしていた格好なのは間違いない。でも、なんか服を着ているという感触がない。俺は近くに大きなガラス扉があり、その前で自分の姿を映し出してみた。
ガラス扉には何も映っていなかった。
俺はついに霊になったか、と思った。なんだ、もし俺が本当に霊になったのだとしても、案外霊でいるのは悪くないな、と思ったりもする。なんか、透明人間に近い感じだろうか。
もし透明人間だったとしたら、いろんなイタズラもできるだろうし、とんでもないことだってできる。でも、ここには人間がいない。それが問題だ。
例えば、ブティックなどの着替え室にでもはびりついていれば、きれいな女たちの裸がいくらでも覗き放題になる。でも、そういう願望というのは、あまりに人間的すぎるんだよな、というふうに今の俺には思えたりする。
俺は、たぶんだけど、もう人間じゃあないはずなんだ。そんな気がしてならない。だったら人間的な欲望も持ち合わせていない、ということなのか。
じゃあ、俺はなんなんだろう。
けれど、そんなことは人間であったときにさんざん考えてきたじゃないだろうか。少しだけ思い出したような気がする。たぶん、俺は自分がどうしようもない人間だった。自分自身のことについて悩んでいたのかもしれない。俺はなんなんだろうと、いつも考えて時間を無駄に過ごしてきたような気がしてしかたない。
そんなすべてがアホらしい、と、人間ではない今でなら、いうことができるのではないか。
俺は自由なのだ。飛ぶことだってできる。嘘じゃない。
さすがにスーパーサイヤ人ではないだろう。生身の身体じゃないはずだ。魂か霊だか何だかんだになって、そう時間がたっていないはずだが、それでも自分の身体の身軽さには慣れてきたように思える。少しくらいなら飛ぶことができるのだ。いちいち歩いてゆくこともない。飛んだ。
飛んでいると身体の重さが感じられない。重力から解放されたような気がする。そう、俺は何かから解放された身なのだ、と感じられる。
この新しい身体、と厳密には言えないのだろうが、ともかく俺は自分の新しい身体がとても気に入っていた。自由だと感じられる。自由。というか、縛られているものがすごく少なく感じられる。
そうだ。けれど、自由に何かができるとしても、ここにはしたいことが何にもないような気がした。何もないし、誰もいない。欲さえない。それでは意味がないな。
だから、寝ることにした。あたりを見回し、ビルの入り口あたりで身体を丸めた。どうせ誰もいないわけだし、どこで寝ようが勝手だとは思ったが、たぶん人間だったときの考えの癖がまだ残っているのだろう。
俺は寝た。目を閉じて。それから、また目を開ける。三分くらいしか目をつぶっていたような気もするし、軽く三十時間くらいは寝ていたような感じでもある。寝すぎたとか、寝不足とか、そんな感覚ではない。あくびのひとつさえ出ないのだから、寝たという感じがしないのは当たり前か。
相変わらずのセピア色で世界が覆われている。空のようなものはあっても、幕がひとつあって遮られている感じがする。太陽とか、月とか、雲とか、そんな当たり前だったものさえ、どこにもない。いや、形はあるのだろうが、なんか違うのだ。
ちくしょうめが。俺はそんな気分になってくる。何一つ、この地球が動いていて、生きているという兆候が何もないように感んじられてしまう。
俺はただここにいる。でも、それだけで十分なのではないのか?
あーあ、と口にする。また考えすぎたのかもしれない。
俺は周囲の同じような建物ばかりの間を、飛んだり、歩いたりしていた。ビルを抜け、道路に沿って移動し、住宅地をグルグル回る。誰もいない公園が見える。それから、抜けてゆくと、また同じようなビルばかりが立ち並ぶ場所にくる。それから住宅地を抜け公園へと出る。
ぐるぐると同じような場所を回っているような気がしてきた。
また余計なことを考えてしまいそうなので、もう一度寝ることにした。
人間じゃないはずだから、もう考えなくてもいいはずなのに、と思いながら、俺は公園のベンチで横になって寝ていた。
誰もいない公園。
砂場があり、小さな池がある。散歩道があり、緑もある。でも、砂場があっても小さい子供はいないし、小さな池があってもそこに生きているものが皆無だし、散歩道があってもそこを歩く人の姿はどこにもない。
大きな公園で、木々があちこちとあり、都会のオアシスみたいだけれど、実際のところは、空虚で無意味な空間が広がり、木々には生命力のかけらも感じられず、都会のオアシスどころか、都会の墓場みたいにしーんと静まり返っている。
俺は何をこんなにも寂しがっているんだろう? こんなものになってなお、まだ何かを求めているのだろうか?
「お前は着いたばかりなのか?」という誰かの声がした。
その声は少なくとも俺のことが見えている。声をかけてきたその誰かは、 俺を認識することができている。俺はその声の主にすがりたい一心で、顔をそいつの方へ向けた。
目を開けると、そいつは俺を凝視していた。
フサフサで風に揺れているような短い髪の毛、ボロ布に包まれた汚らしい服、そこから出た短い手は、とても小さい。しかも、ちゃんと五本あり、ふっくらとしている。
そいつは、ベンチに転がった俺の視線と同じくらいの丈しかない。
子供だった。
背丈からすると六、七歳くらいだろうか。
しかし、俺はまだ焦点が定まらない目をこすって、目の前にいる子供の顔を見て、ひっくり返りそうになった。
たしかに背丈と体型は、幼い子供だった。
でも、顔は何重にも及ぶ皺に覆われ、消えかけのような瞳もだぶついた皮膚に埋もれているし、およそ子供とは似ても似つかないゴツゴツとした肌触りに見える。
子供の体型をした老人というべきものだった。
「こんなところで何をしている?」と、そいつが聞いた。
「何って、見りゃあわかるだろ、寝てたんだ。そういうお前は誰だよ」
「私の声がよく聞こえるようだな。ふむ、そうか。初めて見かける顔だな。私の名はグルじゃ」
「グルだって、はっ」
「お前、どこから来た?」
「どこって言われてもよ、ほら、あそこだ。あそこ」
と、俺は上を向いて、周囲に聳え立っている一番高いビルのてっぺんを指した。
「俺はよ、自殺したんだよ、自殺」
と、自分で口にしておきながら、そんなふうな記憶がどこから出てくるのか不思議だった。さっきまで名前さえわからなかったというのに。
まるで湧いてくるように、いや、何かに感応して、記憶が引き出されているような感じだ。
「あんたには見えるかい? 自分がなぜ死を選んだのか。以前はどういう環境にいて、引き金を引いたものは何だったのか? そこまでちゃんと」
俺のすぐそばにいる老人の顔をした子供の目を睨めつけていた。そこに表情というものはなく、あるのはただ吸い込まれてゆくような乾いた瞳の輝きだけがあった。
だからなのだろうか。幼子と老人という矛盾した時間の経過が、一つの体に共存している。その矛盾したグルという存在を見ているだけで、こっちまで頭がおかしくなってきそうだ。
グルの問いかけに答えようとする俺がいる。しかし、深い記憶は遮断されたままで、いっこうに欲っしている答えを引き出してはくれなかった。
そうやって俺は呆然としていた。そして、考えることをやめた。
言葉が浮遊した。ちりのように、宙にふわふわしている。
……思考とは磁石なり。吸着面の広さが強さとなる。極の力によって二つの異なった力を持ち、磁石同士が引き合う力なり。吸収力は強くて、一度吸い付いたら離れない。思考こそが、人間を縛っているもの。一度ついたら離れることができない。世の中での引き合う、ありとあらゆるものを探し出す力の源……。
……言葉は、黒い芯となった。
あるのは、ただのガスの塊のようなもの。目には見えても、触ることはできない。真っ黒で、ただの真っ黒。意味などない。ただそこにあるだけ。そこにいるだけ。塵のようになって、セピア色の宙に消えてゆく。
……ただ、そこに。
俺はグルの瞳を見る。無垢に包まれた老境なる光。俺はそこに引き込まれてゆく。
さらなる思考の放出へと。
「……俺がこれまでに一生懸命やってきたこと。仕事もそれなりにやったさ。でも、だからってどうなる。仕事をするのは報酬のためだ。でも、あれだけ働いても貰えるのは、たかが知れている。悔しいから、もっと働いて、働いて、身体に鞭打って、寝るのも惜しまずに働き、人が嫌がる仕事を率先してやり、唾を吐きかけたいやつの機嫌をとり、仕事をとる。成果が出たと喜ぶ。これで小憎い上司にも認めてもらえると思いきや、向こうは当たり前の顔をして、もっともっとと要求してくる。そうして、そうやつに限って、俺のやったことをさも自分の手柄のように見せかけ、状況が悪い方へと傾けたり、何か損失が出たりすれば、やってもいないようなことまで、こちらの手違いとミスだと仕向けて、そう思わせる術に長けている。自分が根性や忠誠心とかいう古い価値観に縛られていることも知らずに、ぬけぬけと報酬型だの、自己責任だの、自分だけのスペシャリティを持てだの、どっかのビジネス本をそのまんま借りてきたことばかりを抜かす。空虚な言葉。矛盾した理論。そこにあるのは労働という名の搾取であり、資本主義の皮を被った奴隷制度であり、そこに待っているのは永遠と続くラットレースでしかない。頑張れば頑張るほど、自らで、どんどんとその輪の中に入ってゆくだけ。俺は何もかもが嫌になってたんだ。仕事で成功して何が得られる? もらった金で家買ってしまえばもう一生出口はなし。いくら給料を入れようとも、女には欲の底というものがない。子供の可愛さって何だ。いればゴミ扱いされ、いなければいないで、気がついてもくれない。外へ出かければ、俺は財布の役割でしかない。愛って何だ? へっ、幸せって何だ? そもそもそんな形のないものばかり願っているから、人は路頭に迷い込んでしまうんだ。気がついたら、愛とは、ただの欲望の塊でしかなく、幸せとは利己主義の向かう形でしかない。その程度なんだ。実態なんてないものにどうしてここまでこだわるんだ。すべてのものには裏と表がある。あることがらには法則というものが作用している。手にしようとすればするほど、それは逃げてゆくだけ。踏ん張れば踏ん張るほど、沈んでゆくだけ。願えば願うほど、遠くへゆく。生きたい、愛したい、幸せになりたいと思えば思うほど、近くにあったものでさえ、自分の手で払いのけてしまい、手の届かないところへと、自ら追いやってしまうんだ。それに気がつきもしない。残るものは、無価値と、くだらないという言葉ばかり。がんじがらめになって、すべてのことに嫌気が差してくる。くだらねえ。どうしようもねえ。面白くね。くそっくらえ。どいつもこいつも。くだらねえ。くだらねえ」
俺の頭は割れるように痛かった。ひたすらガンガンと割れるような痛みが繰り返させる。
この場所にきて、頭痛というものに初めて襲われた。
痛み。
そんなものが今の俺にある、それがわかっただけでも、何だか不思議な気分になる。
俺はその場に膝まづいた。立っていられないほどだったから。
「ワッハハハハハハハハッハハハハッハハ」
グルの笑い声が鳴り響く。
「なかなかのものを溜め込んでおるようじゃな。詰まっとる、詰まっとるのう」
グルは嬉々とした声を発した。子供のはしゃぐのと、いい年をした老人がはしゃぐのはどこか似ている。それは引き寄せられるような笑い。芯から発せられる振動のような笑い声。
すべてが色褪せて見える、誰も、何もない世界において、グルの存在だけは唯一、掴みどころがあるものであるように見える。グルは人間か、そうではないのか。有機物か、無機物なのか。
「お前は相当なものを、あの高いビルから落ちるときに持ってきたようじゃな。まあ、そもそも自分の思考にがんじがらめになって、身動き取れないくらいにならないと、あんなところから飛び降りようなんて普通は思わないものな。ところで、お前、名前は? って、来たばっかのやつに聞いてもわかるわけねえよなぁ。あ、でもそういや、お前自分で言ってなかったっけ。ほら、シンとかだったろ?」
「俺の名前? シン?」
「まあ、ピントこないのもムリねえはな」
「なあ、グル。どうして俺は記憶がないんだ? ぼんやりとはわかるかもしれないけど、ほとんど覚えてないんだ。俺が誰で、何をしてきて、どうしてここにいるのかが?」
「ふーむ、まだまだお前は引きずっておるな。わしがどうしてお前を見つけられたと思うのじゃい? よいか、ここは人間の世界とは違うのだ。そうしてシン、お前のようにこちらの世界に来ておきながら、まだ人間であったときのことが忘れられず、カルマに引きずられながら、この世界で彷徨っておる。いいか、シンよ、『プーロ』になれ。過去を断ち切り、カルマを寄せつけるな。でなければこの世界には居場所などない。こちらの世界へ来てまで、現実世界にはない居場所を求めてるのか、それとも人間だったときの鎖を断ち切るか」
グルは赤ん坊だけが持つ無垢としたオーラを放ち、長く生きた人間の老人だけが手にすることのできる含蓄ある言葉を吐いた。
「『プーロ』になるには、捨てねばならぬ。所有は貧なり。現在のみに生きよ。有にしがみつかずに、無に頼れ。シンよ、お前はまだプーロには程遠いことがわかったろ。お前の口から吐き出された言葉の数々。あれが証拠じゃ。プーロとはそれと対極に位置するものじゃ。それを覚えておくがよい」
このグルの目がいけないのだろうか。
覗き込んでいるだけで、俺はそこにある別の自動巻き時計による、歯車によって時計が巻き上げられるように感じる。別の時計ということは、異なる時間の経過を指していて、当然ながら、異なる世界が存在しているわけだ。そんな気がする。
今、俺の目に写っているのは、以前と同じ世界に似てはいても、ここはほとんど地球外にあるそっくりな惑星みたいだ。家々が建っている。しかし、手の届くところにはなく、遥か何光年も隔てた彼方にあるような気がする。
アスファルトが真っ直ぐに続いていて、白い中央線が伸びていて、三色の信号機がある。それらには何の意味もなく、海底に沈んだ船のようでもある、というような。
俺は、鏡を見てもそこに映らなかったし、俺の目で自分の身体を見ても、ジーンズとスニーカーを履いていたとしても、果たして本当に、足というものがあるのかさえよくわからない。たとえ、ジーンズの下から生身の足が覗いていたとしても、その皮膚の下には果たして血が通っていて、骨があるのかさえ、定かではない、そんな感じ。
……思考は巡る。ぐるぐると。
「あら、またここへ新しい人が来たのね。そんでもって、グルと会うことができただなんて、あなた、幸せものね」
声がした。別の声だ。俺は反射的にそちらへ顔を向けた。
地面から少し浮いたところで立った格好でいる。だからなのだろうか、そいつはかなり背が高い。俺より背が高い。宇宙服みたいな白い服に身を纏っていて、身体の線がぴったりとしている。とても細い身体をしている。いや、細いなんてもんじゃない。
肉がない。身体の内部が浮き出ているみたいだ。
若い女。二十歳くらいか。
拒食症なのだろうか。
「プーロとはね、この世界におけるわたしたちの一つの在り方なのよ」
「在り方っていっても、俺にはそもそもここがどういう世界なのかもまだわかってないし」と、俺は言った。
「わたしたちはね、現在によって生かされているのよ。ただ、それだけなの。過去でもなく未来でもない。でも、人間の世はそうじゃなかったでしょ、覚えている? そんな当たり前のことさえ、誰も気がつかないでいた。あっちの世界で人間が動かされているものは、思考、欲望、そんなものね。現在という時制はやたらと無視されがちで、ただのプロセスだとしか見なされない。シンプルすぎるのかもしれないわ。過去は美化されすぎるし、未来には過度な期待ばかりする。絶望的なほどにプーロとはかけ離れたものが人間という存在なのよ」
「人間がな、人間として誤った道を歩み始めたのが、『思考』を持ち始めてからじゃ。パスカルの考える葦というやつじゃな。それを土台にした構築してきたことが間違いの根本なのじゃ。それが人間の歪んだ未来へのベクトルとなってしまった。呪いじゃ。よいか、未来などない。理想などない。未来だと思っているものとは、単に過去の積み重ねでしかない。一歩一歩の階段が続いてゆくだけなのじゃ。行く先を無理に知らなくても、辿ってゆけるだろ。未来など思い描くから、先に進め無くなってしまうというのに。人類は未来へ希望を託しすぎなのじゃ。未来を向きすぎているから、過去もまた気になってしまう」
俺はただきょとんとして、老人の顔をした幼子と拒食症みたいな女の顔を、交互に見やっていた。こいつらのわけのわからない議論なんぞ、あまり興味はなかった。プーロが何だ。偉そうにそんなことを語るけれど、俺はどうしようもなく新参者だし、この世界で生きるということが何もわかってはいない。
理想が何だ。なりたい自分。頑張ること。そんなものはとっくに、どこかの遠い世界で、誰かに入れ知恵されて、さんざんやってきたばかりではなかったのか。今は俺のやってきたことが、うっすらと見えてきている。過去の俺がどうだったか。人間だったときの俺は、どうやって人生を無駄なものばかりに使い、いつも真実から目を背けてきたのか、が。
たぶん会社というところに勤めていたはずだ。だいたいこの国ではほとんどがサラリーマンだというし、俺だってその中の一人だった。死ぬ前のことはよく思い出せないが、それでも覚えている感触みたいなものはあった。
会社のためとか、頑張れとか、そういう実態のないものに散々、追いかけ回されてきたような気がする。俺は生き詰まっていたのだろうか。だから、自殺を選んでしまったのか。
「思考、思い込み、固定観念、道徳、教え、教育。そんなもの、人間の世界では大層大事に扱われていたけど、こちらの世界では正反対なのよ。それらのものは、たんに、人間を自由に操るための手段でしかないのに。刷り込んだ思考というものは、こびりついて、離れにくく、扱う側にとっては、思い込みに駆られた人間ほど扱いやすく、支配するのに好都合なことはないのに。そういうのを、誰も気がつかないし、気がつきたくもない、ってわけよね。白人主義に拍車をかけて、裏での真の歴史における悲劇の一つが、コロンボの新大陸発見じゃ。あれが白人の優越主義を増長して、世界は西洋社会一辺倒に傾いてしまい、その反動として現在の欧米各国に移民逆輸入を招いた。つまり、今日における人種間の抗争の源になってしもうた。世がグローバルになろうが何だろうが、根っこは変わっておらん。つまりは白人たちの傲慢な思い込みのおかげってわけだ。思い込みってのは、凄まじいエネルギーを孕んでおるのじゃよ」
ルイは腕を組んで、ツンとした目をしていた。その細い身体を見る。アンバランス。背は高めなのだろうが、身体の各部位はか細い。腕も握れば折れそうなくらいだし、手足が身体と比べてやたら長い。それはどこか蟹とか、昆虫とか、そういうものの身体を思い起こさせる。
「あ、おねえさん、すごく身体細くてさ、モデルみたいな体型じゃない。すごくセクシー」
グルの言葉がやけに人間っぽく感じられた。説教みたいに。だからなのか俺は反動として、ルイに、わけわからない言葉を発していた。俺はもしかしたら、そういうことを人間だったときに、よくいっていたのだろうか。そういう軽いタイプだったのか。
「え、な、なんていった? わたしがセクシーだって?」
「そう。いい身体だ、っていったんだよ。痩せていてセクシーだってさ」
「わたし、痩せている? そういったの?」
「そんなの一目瞭然じゃないか」
「ワッハハハハハハハハッハハハハッハハ」
グルの笑い声が鳴り響く。
ルイはさっきまでのお高く止まっていた格好が崩れて、狼狽を見せていた。
「ルイよ、お前もまだまだじゃの。しばらく姿を見ないと思ったら、その間にまたこんなにも『思考』を溜め込んでいたとはのう。また吐き出してみるか、え。シンのような新参者だからこそ、痩せているなどということが聞けたんじゃ。ワハハハハ」
「わたし未だに溜め込んでいるのかしら。ここにきてもうけっこう日数がたっているはずなのに」
「『思考』はたえず吐き出しておかないと、溜まってゆくものなんじゃよ」
「まだカルマが廻っているのかしら」
「シンと会ったのも、まあ人間たちがいうところの、縁というやつじゃな」
「まあ、こんな世界で出会ったんだもの」
「案外、お前たち二人は似た者同士だったりして」と、グルが子供らしい無邪気な声で笑った。
グルの声が響き渡る。
誰もいない公園。俺の目に入るセピア色の景色のすべては、何かのフィルターに包まれているようでもあり、過去の景色のようでもある。
俺は何となく、ベンチに腰掛けた。飛んでいるのはかなり力がいるものだ。こうして座っていると、それはそれで、そこにベンチのある意味がわかったように思えて、なかなかな感じになれた。
足元に広がる土に足を乗せるというのも、それはそれでなかなかのものだ。足をぴったりと大地にくっつける。
ルイは、俺のすぐ近くにいた。その周りだけが、違う空気の流れがあるように感じられた。
やがて、渦のように強力になって、ルイはその渦の中にいて、目を閉じてひたすらじっとしている。
「さあ、解放せよ!」と、グル。
……言葉が吐き出された。
「……鏡が大嫌いだったわ。あんなものこの世からなくなってしまえばいいと思っていたの。だって鏡という鏡が、わたしの身体についている不要な肉という肉を、すべて写し出しているように思えたから。へこんでいなくちゃいけないところに、いつも余計な贅肉がついている。あるべき平面な部位のはずなのに、丸くなっていたりする。かといって、丸みが欲しいところにはそのような丸みはついてくれない。わたしはことごとく自分の身体のあらゆるところが嫌いだったの。すらっとした太ももではなくて、ふっくらとしていたし、特に、胴回りはそう。お腹なんて、すぐに出ちゃうんだもの。いくら食べるのを抑えていても、そう。どうしても平らなお腹にはならないの。食べなきゃいんでしょうけど、そうもいられないし。って、ずっと思っていて諦めていたんだけど、それが悪いってことに気がついて、それで、じゃあ、食べないようにしよう、って思ったんだ。なんだ、そういう簡単なことだったのか、って。で、食べないでいると、けっこうすぐ痩せちゃったんだよね。それがいけなかった。これまでは間食はしていたし、甘いもの好きだし、夜も食べちゃうし、ってわけで、そういうのをぜんぶ我慢したのよ。これまで、わたしにはそんなことできるわけないとずっと思っていた。意志が弱いって、学生時代からざんざんいわれてきたもん。でも、意外にできちゃった。そうやってお腹の肉はけっこうすぐに、鏡の中には写らなくちゃったのよ。鏡の前で、ぐるりと回ったり、違う角度で見ても、お腹はぺっちゃんこになったわ。すると、たったお腹だけなのに、まるでわたしを取り巻いていた世界が百八十度ぐるりと変わってしまったの。てっとり早くわかるのが、当たり前だけど、服ね。指を入れても、まだ余裕があったりする。あるいは、新しい服も、けっこうこれいけるかも、というように、冒険ができるようになったのも大きかったわ。簡単にいうと、自信がつくのよね。だから、身体の線がでるものは避けていたんだけど、痩せるとちゃんと着られるし、それが嬉しくってしかたなくなるのよ。新しい自分を発見したというか、ね。それによって、新しい男もすぐにできちゃったわけよ。けっこうカッコいい男でさ、でもスタイルに自信がでてきちゃうと、わたしこんなに痩せているんだから、もしかしたら当たり前なのかもね、なんて思うようになってしまったの。痩せていることに、わたしの価値観がすべて凝縮されていったの。もしかしたら性格も変わっていったかもしれない。ちょっと嫌な感じの女にね。でも、それが当たり前だと思っていた。いいオンナなんだから、それぐらいは求めてもいいんだって。でも、いい時期は続かなかった。それからはずっと鏡との戦いだったわ。シャワー浴びたあととかは、身体が冷えちゃうくらいまで、ずっと鏡の前で裸のわたしの身体ばかり見ていたくらいなのよ。デブデブデブデブ。いけないいけないいけない。食べちゃダメ。我慢我慢我慢我慢我慢ってね。まるでマンダラね。わたしね、鏡ばかり見て過ごすようになっちゃったの。もうこの世界に誰も住んでないくらい。わたしと鏡の中のわたしだけ、みたいな。もう男なんてどうでもよかったし、食べるものに興味がなくなってきた。というかね、人があんなに、たかが食べるものに固執しているのを見ていて、けっきょく人間って、飼育されているようなもんじゃん、って思うようになったの。食べるのが楽しいなんて大嘘。人間が食べていかなくちゃ死んじゃうなんてのも嘘。むしろ、食べ過ぎて死んじゃうのが今の世の中なのに。世の経済の半分以上は、食べ物とセックスに関わることが占めている。もしかしたら半分以上なんてもんじゃないかもしれない。私たち人間はね、欲望を餌にして、飼育されているようなもんだわ。ただ、誰に支配されているかなんて、これっぽっちも感じられないだけ。いい気なもんよね。与えられた飼育場で、人間って、自由だとか愛だとか、そんなことを感じながら生きていれば、十分幸せだと思えるおめでたい生き物なのよ。人間だったときに観た『マトリックス』っていう映画に出てきてさ、人間ってただエネルギーの供給源でしかない、っていうアレよ。牛と同じもんよ。いいもんタダで食わせてもらって、マッサージなんかしちゃってさ、でも、生きているのはたんに、人間の無限なる食欲の犠牲になるだけっていう。そんでもって、牛も殺される前までは、それなりに人生を謳歌しちゃって幸せだったり、なんて……」
……言葉というものには、それだけでエネルギーがある。力がある。蓄積された熱量というものが。
空気中にまたもや渦ができる。
周りに空圧の歪みができて、流れが急激になる。その中心では変化が起こる。
ルイの吐き出した思考という思考が、チリとなって、しばらく宙に漂いながら、やがて彼方にある濁った大気層の中へと消えていった。
ルイは宙に浮いていった。
まるで水の中にいて浮かんでいるような格好で、宙に浮いていた。身体は弓のように曲がっていて、手足はぶらりとしている。首は垂れていて、目が閉じられていた。細長い手足で、長い髪をぶら下げている姿は、空に浮く人魚を思わせた。
しかし、ようく見ればバランスが崩れている。頭でっかちに見える。優雅であるはずの身体つきは、ただ細いだけで肉つきがないため、ひ弱に見えるし、そもそもこれだけ棒のような体躯では魅力的とは程遠い。いや、憐れみさえ、その身体には漂わせているくらいだ。
どこか幽閉された姫のようでもある。
身体が何か透明なフィルターにでも覆われているようでもあった。浮遊して、さらに上昇しているような気がした。
「蓄積された大量の思考を吐き出すと、あのように透き通ってみえるんじゃ。つまりはな、ルイはより一層プーロに近づいたということじゃ。より純粋なるプーロになれたのなら、身体はもっと透明になってゆくのじゃ」
俺は手を伸ばした。宙をふわふわと浮いているルイの身体をつかまえなくてはいけない。そのまま上昇してゆくような気がしたからだ。
手が届かないどこかへいって欲しくなかった。
宙に浮いているのはまだ完全には慣れていないのだが、それでもなんとか流されずにかろうじて身体をコントロールできていた。
俺はルイの身体を掴んだ。それから、そっと身体全体を包み込むようにして、その場に引き止めた。
すぐ近くで見るルイに、俺はどうしようもない親近感を抱いていたように思う。痩せこけた身体をただ見るだけではなくて、そこにあったもの、かつては存在していたものが、俺をどうしようもない気持ちにさせるのだった。
もちろん、俺はルイのことは知らないし、おろか自分のしてきたこともよくわからないでいる。それでもなお、俺は、ルイにわけがわかないくらいに惹かれるものがあった。目に見えるものじゃない。確かな過去とも直接的には関わりのないことかもしれない。
それは太陽の日が当たる方向へと向いている向日葵であり、遊泳の末に自らのルーツを忘れずに生まれ育った川へと戻ってくる鮭でもあり、土の中で幼虫として何年も過ごしながら成虫になってからは、夏のほんの数週間をひたすら鳴いて死んでゆく蝉みたいなものかもしれない。
俺とルイとはなんの繋がりはなくても、それでもなおかつ、どこか深いところではやはり繋がりが見えてくるような、そんな何か。
目を閉じているルイの表情に宿っているのかもしれないし、ツヤがなくて乾いたルイの肌の懐かしい感触なのかもしれないし、あるいは俺の手に触れているルイの実在そのものなのかもしれない。
俺はルイの身体に触れることができないんじゃないか、と思っていた。自分で自分の身体さえ掴んでもよくわからないのに、ましてや他人の身体など掴むことができないとばかり思っていた。でも、むしろ自分のあるのかないのかわからない身体よりも、ルイのたとえ細長い棒のような身体であっても、たしかに在る、という実感がこちらにどんと伝わってくることが、なんともやるせなかった。
だから、俺はずっとルイの身体を掴んでいた。包み込むようにして。しっかりと。強く。
……俺たち、たぶん頑張りすぎたんだろうな。生きてゆくことに。どこまでも真面目すぎたのかもな。
……それで、思考にがんじがらめになっちまったのかも。
……くたくたなんだ。誰も気にしないし、何にも興味すらない。あるのは、毎日毎日、同じようなことばかり、頭で考えながら、昨日と同じようなことを今日して、また明日もする。同じことの繰り返し。果てしなく続く、何にもない平坦な日常。
「ひゃあ、どうしたの、あんた、こんなところで何してんのよ」
俺は宙で横になっているルイの腕をがっしりと掴んでいて、自分の体でどこかへ飛んでいかないように、ルイの身体にぴったりとくっつけていた。
目を開けたルイの黒い瞳がこんなにも近くにあり、俺はその輝きに狼狽した。ただ動いている様を少しだけ見ているだけで、こちらの心臓あたりがやけに騒がしい気がしたからだ。
俺はルイの瞳の中に、何かかけがえのないものを発見したように思えた。目を見ているだけで、理解できるものがあった。言葉じゃなくて、過去でもなくて、それらをもっと超越した違う次元で見える風景に、俺は憧憬を抱いたのだと思う。
「ちょっと離して、ってば。一人で大丈夫だから」
落ち着いた様子に戻ったルイは、一人でゆっくりと、宙に浮いていた長い二本の足を地面に降下させてゆき、やがて地の上に立った。
「すべての思考から解放されたとき、どうなると思う? それはな、あのベールがかった砂漠の色をした空気となるのじゃよ。それが究極なるプーロの形じゃ。無じゃな。ただ湧いてくる。ただそこにある。意味などクソくらえじゃ。そこに論理は皆無だ。プーロはラテン語で、純真という意味じゃ。人間がなぜこれまで滅びなかったのか、それはな、カルマじゃ。それが生命なるものの鎖であり、環なのじゃよ。人間はどうして空を飛ぶことができなかったと思う? 人間は自分の力で飛ぼうとせずに、他のものに依存する形でしか飛ぶことができないんじゃ。それが人間というものの本質であり、また限界でもあるわけじゃな。動物にだってカルマはある。むしろ、彼らは無意識的かつ、本能的ににカルマの環の中で、自発性を持って生息しておるのじゃ。しかし、人間は違う。苦しむ。葛藤する。苦悩する。不安に怯える。そうやってもなお、カルマから逃れることは難しいのじゃ。人間はな、誰もが空を飛びたいという願望を心の底に抱いておるものじゃ。しかし、飛べない、いや飛びたくないとも思ったいる。矛盾じゃよ、矛盾。相反する二つの要素。それがな、人間たちが終始、対峙しているのじゃ。空の星たちであり、大地であり、太陽の光によってできた影である。大地の深淵さには、根源的な畏れが潜んでおるからなのじゃ」
「でもさ、グル、俺たちは人間じゃないんだろう?」
「イエスでもあり、ノーでもあるな」
「わたしさ、ずっと不思議だったんだけど、グル、あんたって何者なのよ。そんなふうに、人間みたいに考えることができてさ、それでいて人間のような形を、この世界においても保っていけてる。それはどうしてなのよ? 」
「おい、人間のような形じゃないだろ。だって、グルは子供の身体で、顔と考えることは老人だ。そんなやつ、もとから人間じゃねえよ」
「ワッハハハハハハハハッハハハハッハハ」
「わたし、何だかとっても身体が軽くなった気がするわ」
そうして、ルイははしゃぐ子供みたいにぐるぐると回ってみたり、身体を平行にして浮かんでいたり、素潜りをするように宙を飛んでいた。嬉々とした声を出しているルイは、まるでプールで無邪気に遊ぶ子供そのものだった。
「なんかいいよな、そんなに簡単に、軽く浮かぶことができて。やっぱり、身体が細いからその分、身軽なのかな」
そんなふうに俺はいってみたが、ルイは見逃さなかった。
じろりと俺を睨めつけた。
まずいと思い、自分の軽口に後悔した。
「こっちへきたら」と、ルイは俺の手を求めて、差し出してきた。
宙に浮いているのは、海で泳ぐのと似ている感触だった。気合いを入れていれば、ずっと中で浮いていられたが、しばらくずっと浮いたままでいると、地に足をつけたくなってくる。
やはり、大地にどしんと足を置いている方が、楽なのは楽なようだった。
「いつまでも、そうやっとるがよい」と、言い残して、グルは去っていた。
「わたし、こうやってずっとずっといられるようが気がするの。そんでね、土に足つけなくなって、鳥みたいに暮らせるのかも。そんでもってさ、あの塵といっしょになって、何にも考えずに、ただふらふらと漂いながら、在り続けてゆくのもいいかもなんて、思っちゃったりして。まあ、そんなことだから、わたしにはどうせプーロにはなれないんでしょうけど。けっきょく、この世界でも中途半端なままなんだわ、きっと。わたしってそういうカルマを背負っているんだわ。ねえ、人間だったときにさ、恋人とか奥さんとかいたの?」
そんなふうに聞かれて、俺は狼狽した。
「いや、まあ、まだその記憶みたいなのが曖昧ないんだけどさ、たぶん、いなかったと思うよ。結婚とかしていなかったような感じがする」
「まあ、どっちでもいいんだけどね。ねえ、もっとあっちの方へいってみない? 」
「やめとけよ、なんか風とかがやけに強くなってきたし、いったきりもう戻ってこれないかもしんないぜ」
この世界で吹く風は風であるけれど、でもどこか閉じられた中での吹く風だという気がしてならない。雲も浮いていることは浮いているけれど、距離感とかのスケールを感じさせてはくれない。
急激に黒い雲に襲われつつあった。
やけに黒々とした雲があっという間に、空を覆った。黒はどんな色にでも黒に塗り替えてしまうことができる。まさにそんな雲だった。
「おい、もういい加減、浮いてるの疲れたぜ。こっちへこいよ。ちょっと休もうぜ、なあってば」
俺はやや高くに浮かんだままの、ルイを見上げてそういった。
まるで蝶々みたいなやつだな、と思った。ひらひらと翼があるばかりに、どこへともなくふらふらと漂うだけ。掴もうにも掴めない。
周囲に流されているだけに見えるけど、意外とそうじゃなかったりする。ぎりぎりのところで逃げてしまう。あるいは近くによると、蝶の羽根の可憐さに惑わせれてしまう。
そうやって無防備であるみたいに振る舞いつつも、本心はどこにあるのかさえわからないような、そんな存在。あるいは、見ているのが一番いいといえるかもしれない。
「ルイーー! 聞こえてるのかよ、オーイ!」
俺は声を張り上げた。
声は黒い雲の中に吸い込まれてゆくかのようだった。思いっきり声を張り上げてみる。しかし、宙に浮かんだままのルイは、一向に降りてくる気配がなかった。
嫌な予感がした。
予感などというものがあろうとは思わなかったが、そうとしか思えなかった。それは俺の身体を震わせるほどだった。がっちりと誰かに掴まれたような気分だった。掴まれたまま、身体ごと震わされているような感じだった。
脳裏の奥には、見てはならないものの映像が写るのを拒否しているようでもあった。頭の裏側でズキズキとしてくる。何かを伝えようとする兆候。サイン。
「ルイーー!」と、さらに俺は声を張り上げた。
ややあって、ルイの身体が降りてきた。
雲の向こうに粒くらいにしか見えなかったのが、ようやく身体の輪郭がわかるくらいには降下してきていた。
俺はふいに思い出した。
ルイはたしかに、どこかで会ったような気がした。強烈な既視感。記憶というほどたしかなものではないにせよ、俺はこの世界にくる前に、どこかでルイと会っていたのだ、と。
思い出したといっても、記憶の断片が映像として引き出されたわけではない。ただ、それでも俺はやっぱりどこかで思い出していたのだ。俺の身体のどこかに残滓のように、ルイが細胞に染みついている。そうに違いなかった。
それ以外は考えられなかった。
ルイの顔がもうすぐ見えそうなところまできていた。
鼓動の鳴るのが聞こえた。心臓なんてものがあるのかさえ疑問だったが、今は、その高鳴りをどういうわけか感じることができた。上半身の右側にある。アリストテレスが心と呼んだものがあると位置づけた場所だ。
仮にだ、ルイと出会っていたとしても、俺はどちらでもよかった。かつての恋人であったかもしれない。そして、それはとっくに壊れていたのかもしれない。それでもよかった。あるいは、俺の一方的な恋によってかもしれない。
もしかしたら、恋とはぜんぜん関係なくて、ただの知り合いだったかもしれない。どこかのレストランのウェイトレスだったかもしれないし、たった一度だけデートして終わったのかもしれない。それはどうでもいいことだった。
もし、今の俺に魂というものがあるのだとしたら、魂のレベルで、俺はルイに感応したに違いなかった。意味なんて、記憶なんてどうでもよかった。ほんとうに。
大事なのは、すぐ近くにルイがいるということだけで十分じゃないのか?
それが一番大切なことではないのか。
ぽつりぽつりと雨が降り出した。
俺の火照った身体のほとぼりを冷ますように、しくしくと雨が降ってきた。
ルイが何か叫んでいるのがわかった。
頭から前に進むように、こっちへと向かっていた。吹きすさぶ風にかき消されて、ルイの声は届かなかった。
俺はルイの方へ向けて、飛んでゆきたかったが、どうにも身体は鉛のように重かった。
「逃げて! 早く!」というルイの声が聞こえた。
近づいてきたルイの顔が見えた。
目が開かれていて、驚きの表情をしていた。
俺は何が起こっているのかまったくわからず、ただ唖然としているだけだった。
迫っているものがあるなんて、これっぽっちもわからなかった。
懸命にルイが何かを伝えようとしていることだけはわかった。
なので、俺は後ろを振り向いてみた。
そうして、俺は知らずのうちに迫ってきていた、それの片鱗を見ることができた。
公園の何の変哲もない遊歩道あたりから、太くて、長い触手が何本も出ているのが見えた。それは巨大タコそのものであり、濃緑色に覆われていた。
まだ距離がある。急げ。俺は走り出した。
そのときに、ちらっとルイの顔が目に入った。
「飛ぶのよ! 捕まったらもう最後よ。ここでは生きてゆけないわ。ジ・エンドなのよ!!! お願いだから」
そうか、俺は人間じゃないんだ、と思った。
人間未満。
人間の身体を持っているけれども、実体がよくわからないし、これがほんとうの身体なのかわからない。血が通っていないかもしれない。ただの塊なのかもしれなかった。
でも、そんな俺でも、ルイのことが妙に愛しく感じられた。
そして、俺はルイのところに行きたかった。
だから、飛ぼうとした。一度は身体が浮かび上がった。しかし、背後から迫ってきた巨大タコの触手の先に捕まってしまった。ちょうど身体が地から浮き上がったところで、行かせないとばかりに、タコの手が俺の足首をがっちりと捕まえていた。
力は思ったよりも強くて、とてもじゃないけど抜け出ることなど不可能に思えた。タコの巨大な身体が公園の土からのっそりと出ていた。いかにもふにゃふにゃしていそうな頭部は、やたらと大きくて柔らかそうだった。頭だけでも俺の何倍もの大きさがあった。
身体を地底から全部出して、その体躯を晒していた。
巨大な要塞のような頭の付け根には、二つの目が光っていた。小さい目でこちらを見ているのか、そうでないのかわからない。
俺は足をがっちりととられていた。
でも、不思議と恐怖はなかった。
あるのは悔しい思いだけだった。
またもや、俺はこの世界でも、その最後に思うのは、悔恨だった。たぶん、タワマンから飛び降りたときもそんな気分だったのかもしれない。いや、悔恨という感覚さえ麻痺していて何も感じないでいたかもしれない。
でも、俺は今、巨大なタコにつかまれて、俺ははっきりと自覚していた。
ルイを置いていってしまってはいけないんだ、と。
せっかく何かを掴みかけていたというのに、またしても俺はこの手にすることができずに終わってしまうような気がする。
いつまでたってもそうだし、どの世界であっても、終わりは同じようなんだと思えた。
緑色の巨大タコの吸盤をくっきりと見た。
……その数多ある吸盤の一つひとつが、人間の顔でできていた。
それが、生きているのか、死んでいるのか、あるいは生命ですらないのかわからないが、ともかくそれは人の顔なのは間違いなかった。
それも一人だけではなく、数百個に及ぶ人間の顔が、タコの吸盤として、緑色の皮膚から浮かび上がっていた。
それのどれもが苦痛で叫んでいるような表情だった……。
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「完璧な小説などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないように。むしろ、不完全さこそが小説の本質的な強度となり、人間性に迫るに必須な要素となる。もちろんそこまで達するには、相当高度な文章力と技術を身につけられてはじめて得られる境地なのは、強調しておくべきだろうが……」
村垣春木、国民的作家のデビュー作『海風の音に耳を澄ませ』からの、冒頭の一文だ。
※※※※※
阿部由伸。三十二歳。小説家。まあ、小説家と堂々と呼べるだけの著作があるわけではない。あるのは鳴り物入りで某新人賞を取ってデビューした処女作があるのみだ。タイトルは『人間未満』。
タワマンから飛び降り自殺をした男が、身体から自由になり霊の存在となって、その世界を浮遊するように漂ってゆく、という内容だった。霊の存在になることで、非人間として生きるとはどういうことかを、軽快な文体で描いたものだ。
どういうわけか新人賞の最終候補に残り、審査員の大激論の末に大賞を獲った作品だった。まさかの受賞にすべての経過が、夢の中での出来事であるかのように由伸には思えていた。
ここまで至る経緯も、由伸には何か自分の人生に起こっているのではなくて、誰か違う人のものであるように感じられたものだった。
阿部由伸の夢は作家になることだった。大学を出て普通に就職をしてからも、その志は変わらず保ち続けていた。日常に揉まれ、やる気は日々蓄積される疲労に吸い取られてゆく。果てしなく続く日常。どこまでいっても同じような日々の繰り返し。その中で書き続けるということがいかに大切かを思い知った。
モチベーションを維持するために、由伸は「作家でごはん」というサイトをちょくちょく利用した。
完璧な作品を書くことではなかった。いかに作品を書き続けられるか、だった。書いてゆく中で足りない部分を調節し、よい部分を強調させる、あるいは他人の反応を客観的に見ながら、手探りで進んでゆくのが、由伸の得たポリシーだった。
長所が薄くて破綻のない作品は悪くない。しかし、やはり悪いところは多々あるが、やけに読ませる魅力のある作品を書きたい。それが理想だった。
とてもよいサイトだったが、あるときから疑問を感じてもいた。弱点を指摘されないようにということと、他人から褒められなくてはいけない、という思考の環に入ってしまうのだ。いわば書く作品自体が自意識過剰になりすぎて、外にベクトルが向いてゆかない。思考がそういうふうに閉じてしまうからかもしれない。
やがて蜘蛛の巣のように、いつか思考に囚われすぎて、身動きができなくなる日がくる。書けなければおしまいだ。たいがいの人はいいものを書こうと背伸びしすぎて、何かを掴みきれなくなり、一人相撲となった果てに、書けなくなり自爆する。その環に入ってしまったら抜け出すことは容易ではない。
由伸の場合、勤めていた会社での女子社員と恋に落ちて、結婚をした。社内でもなかなか評判の美人だった。由伸はどうしてあんなきれいな人が自分のことを好きになってくれたんだろう、と不思議に思わないでもなかった。とんとん拍子にことは進んでゆき、結婚して二人で新居に暮らすことになってからは、もう小説のことはすっかり過去のことになっていた。
由伸のしあわせな生活はたった二年で急転した。二人で山へとドライブ中に対向車を避けそこなって、車ごと川岸に落ちてしまった。助手席には由伸の妻がいたが、即死だった。
由伸も助けが来たときは瀕死の状態だった。二日ほど意識が戻らなかった。身体のいたるところで骨折しており、健康状態は芳しくなかった。それでも由伸は奇跡的な回復力を見せることになった。
長い間というもの病院と自宅で療養生活を送った。幸いにして腕はわりかし自由に動かせたので、読書の他に、昔書いていた小説を書き始めた。とうに忘れていたはずの小説への情熱が蘇ってきた。というよりも、事故での体験が由伸に、もう一度書くことを強いられたとでもいえる。
妻をなくし、人生が急変したことが理由ではない。妻をなくしたのは悲劇だったが、由伸に書く力を与えてくれたのは、悲劇的な事故を超えた、もっと精神的な何かだった。
由伸は事故についての記憶があまりない。妻についても、自分で求婚して掴んだ幸せなはずなのに、やはり自分の人生ではない気がしてしかたなかった。もちろん、根拠があるわけではなかった。いや、根拠がないからこそ、由伸は追求するために、得体の知れない何か巨大なものを少しでも汲みとろうとして、ベッドの上で言葉を紡ぎ出したのだった。
書いた小説はある意味で、由伸が見ていた長い夢の続きであるような気がしていた。ずっとどこか違う世界を漂っているような心持ちが残滓としてあったわけで、それを言葉にして残してゆくことに、意味があるのかはわからかったが、とても大切なことであるような気がしていた。
そうしたわけのわからないものが、由伸に書く動機を与えていた。
「完璧な小説などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないように」
この村垣春木の言葉は、由伸が『人間未満』を書くプロセスにおいて、座右の銘のようにして自分に言い聞かせていた言葉だった。
そうして書き上げた『人間未満』は、由伸自身にとっては、とてもリアルなものとなった。事故の前の生活よりも、少なくとも確かな肌触りのある物語だったのだ。
しかし、これを読んだ人たちの感想は正反対で、非常に幻想的で、別世界の出来事なのに、まるで実生活での経験のように、筆はポップな筆で恐ろしいほどリアルに書かれている、と評された。その幻想性が受賞の大きな理由でもあった。
あれは作者ができる限りの想像力をもってして、書かれたストーリーです。
そう由伸はインタビューで答えてしまった。
無名の新人にしては売れ行きはまあまあで、批評家たちからの反応もそこまで悪くはなかった。編集者からは当然のことながら、自作の書き下ろしについて、期待しているぞといわれている。作家としていい出だしをしたので、会社からもそれなりの期待はかけられていたのだ。
けれども、由伸はそこから急激にスランプに陥ってしまうことになる。いろいろと試しながら書いてはみるものの、どれもが由伸にとっては偽物のように思えてならなかった。そう思っているので、当然ながら書いていても筆が乗ってくるどころか、たいがいは失速してそれきりになってしまった。
昔に書いたものもあったが、とても使えるしろものではなかったし、由伸にとって書くということは、リアルな感触を手すりとして一歩一歩階段を登ってゆく行為に似ていた。リアルさを掴んでいなければ、階段の足腰だってどこか脆弱だった。すぐに不安定となり行くべき方向性を見失うことになる。
処女作で書いたときのようなリアルな手触りは、どうやっても蘇ってはこなかった。というか、そもそも、由伸がこうやって事故から生還して、本を出したということ自体が、やけにリアルさを伴わない長いトンネルのような夢であるような気がしてならなかった。
由伸は考えに考えた。小説や映画から刺激をもらうよう努めた。編集者の助言に耳を傾けた。それでも次作はまったく書けなくなった。完全に行き詰まりとなった。
それから、由伸は以前に何度も投稿していたサイトでの反応を見てみることにした。自分ではよいと思ったものの、編集者に見せてもボツにされた新作の小説だった。
厳しい評価で有名なところで、鍛錬場という名がついていた。以前いろいろと批評してくれて創作の刺激になったサイトだった。
しかし、結果はさんざんだった。酷評された。それどころか、中傷まがいの言葉で堂々とコケおろしにされた。
以前同サイトに投稿した作品はけっこういい評をもらえていたように思えた。由伸は軽い気持ちで、たんに他の読者から、たとえお世辞でも、いいですね、面白かったですね、と書いてきてもらいたかっただけの自分の本心に、あとになって気がついた。
批評ではなく、たんに緩い慰めを必要としていたのだ、と。そんな不純な動機での投稿だったことすら、由伸は露ほども自覚していなかった。
極めつきは、ふと見てしまったアマゾンでのレビューだった。『人間未満』に対しての一般人からのレビューは、いいものもあったかもしれなかったが、圧倒的に批判的なものが多かった。しかも、読んでみると、素人なはずなのに、知ったかぶりであたかも批評家気取りで、みんな書いていることだった。
あきらかに素人で、若輩者のように思えても、貶すことにかけてはみな、とても熱心なように思えた。あるレビューアーからは悪意さえ漂うほどだった。
評判は決して悪くなかったはずの『人間未満』だったが、こうしてアマゾンだと、やたら批判のオンパレードだった。こうなってくると、村垣春木の言葉さえも、まるで効果がなかった。由伸は悔しくて悔しくてしかたなかった。
素人のレビューにはとにかく腹が立った。あまりにもノンセンスなことを堂々と書いている。星はわずかに一つしかなかった。
由伸はこのところの不調で疲れ切っていた。どうやっても出口の見えない迷路をぐるぐると彷徨っている気分だった。
酷評の言葉の一つひとつが、由伸の頭の中にこびりついて、しつこいカビのように居すわった。嫌なことは忘れろ、他人のいうことをすべて間に受けるな、人の感想にブレない軸を作っておけ、とは、不況の出版界で編集者に何度かいわれた言葉だった。
しかし、由伸はあまりにも頭の中で考えすぎていた。
思考、思考、思考。
由伸は誰かと腹を割って話したかった。そうすればいくぶんか、やりきれない思いはなくなるような気がした。けれど、由伸は愕然とした。周囲には誰も本音で話すことのできる人間がいないことに、あらためて気がついたのだった。
そうして、由伸は一人で街の中をただ彷徨った。
歩いていると、街からすべて色彩が褪せていったかのように、由伸の目には写っていた。横断歩道の太い白線が霞んで見えたし、けばけばしい※※電気というどデカい看板も目には入らない。街を歩く中で店内から伝わる活気と眩い光も届かなかった。
それどころか、若さと色気を漂わせた女たちの歩く姿も、なんら刺激を与えてはくれない。道端の屋台の鉄板からの香ばしい焼きソバの臭いさえも、由伸の嗅覚を刺激してこなかった。
街はすべてセピア色に包まれていた。
俺は人間ではない。人間未満だな、と思った。
こうして生きてはいても、血が通い、心臓は動いていても、気にするものは何もなくて、気にかける人も誰も一人としていない。
そうやって、一人で歩きながら、駅の入り口近くのコンビニから出てくる、一人の女とすれ違った。由伸はふと、振り返った。
どういうわけかその女にだけは、どこかで会ったことがあるように思えたからだった。やけに細身だった。ぴっちりとしたスリムのジーパンを履いていて、そのあまりに細すぎる女の足を逆に強調させていた。
上は身体の線を思いきり出した、ニットを着ていた。口紅がやけに赤い。それに黒髪。
その拒食症のような女を見かけたときだけ、由伸の感覚は戻ってきていた。色彩が戻ったように。女は駅の改札を入っていった。由伸も追いかけるように、スイカカードで中へと入ってゆく。
エスカレーターを登り、右側に立つ人を通り越して、ホームへと出た。人はまばらだった。由伸はぐるりと周囲を見回した。女の姿を探すがどこにもいない。なにせあの体躯はやけに目立つ。いればすぐにわかるはずだった。
由伸は他の人の姿は何も目に入らなかった。あの女の外見や、あるいは性的に惹かれたわけではなかった。いや、そういう部分も含まれていたかもしれないが、もっと心の奥深くの、手の届かない場所からの、報せだった。ベルが、チリンと鳴ったのだ。
その正体を確かめたいばかりに、由伸は、ひたすら女を探し求めた。
いた。女を見つけた。
しかし、反対側のホームに立っていた。
由伸は女のその佇まいに、ただただ見とれていた。あまりに世界とはかけ離れて存在しているような、孤高な姿がそこにはあった。
……遠い記憶。幼少時から今までずっと背負ってきたものであり、それは、思考と密接に結ぶついていて、がっちりと離さない。
お前は何やっても不器用でトロいよな! どうしようもないマヌケだ。何にもできやしないし。
おい、由伸、そんなんじゃ、お先真っ暗だぜ! あら、由伸くんて、なんにも取り柄がないのね。ハハハ。どうしようもねえやつだな!
頭の中で、煩いハエのように、ぐるぐると頭の中で思考が回っている。それはたとえ、嘘であり、たんなる思い込みであったとしても関係なく、同じ鮮度を保ちながら、何年いや、何十年にもわたって、頭の中でこびりついている。
それがたとえ、偽であったとしても。
疑うことすらなく……。
人の少ない駅のホーム。
あまりにも多くのことが瞬時に襲ってきた。詰まった思考に押し出されるようだ。
……プーロとは、今ここにある、という意味じゃ。それだけのこと。
由伸は知らずとホームの黄色い線の外へと、吸い込まれるようにして身体がスライドしていった。けたたましいホーンがホームに鳴り響いた。と、同時に、ものすごい空気圧が感じられ、すごい勢いでホームに入ってくる電車へと、身体が傾いて……。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
……カルマの環は回り続ける。思考がある限り。
了
執筆の狙い
ジャンルは何だろう。あえてカテゴライズするとしたら、ダークファンタジーなのかな。幻想譚。メタが後半入ってくるんだけど。前作とはまったく違った趣向のものにしようと思って書いた新作です。テーマは**です、と書きたいところですが、伏せておきます。執筆の狙い欄に書いて、誘導させる形で読んでもらいたくないので。