不死鳥
1
小雪がちらつきそうな寒い空の下、猿の檻の前で腕を組みながら、じっと猿の芸をみている一人の男がいた。
彼の名は沼川誠一郎といって、今日をもって会社を退職した、いや、おおかた首を切られたと言ったほうが適切かもしれない。
それもそのはず、いまや世界中が大不況の真っ只中であったからだ。彼の小さな住宅会社も大不況のあおりから住宅がまったく売れず、いよいよ会社は赤字続きになって経営が急速に傾きだしていた。
それゆえ会社からは依願退職を無言の圧力で迫られていた。そしてやむを得ず退職した形となった。
彼はその会社で営業マンとして働いていた。営業成績は下から数えたほうが早かった。意地の悪い上司からよくいびられながらも彼はなんとか踏ん張って働いていた。
「いや、ほんとうに困った。今日から俺は無職か。妻になんて言おうか。これから先就職もなかなか見つからないだろうし、どうやってお金を稼いでいこうか」
彼はため息まじりにこんなことを思いめぐらせていた。今日はそんな日であるからせめてもの気晴らしに動物園に来ていたのであった。おそらくは心のモヤモヤを脱ぎ払うために、そして自分が人間である優越感に浸るために、自然と動物園に足を運んだのであろう。
「さあ、皆さん。計算のつぎはさる太郎くんが人間の言葉をしっかり理解している証拠をお見せしますよ! はい、さる太郎くん、この漢字はなんて読むのかな? この紙にかいてごらん」
と、飼育員の男が、妙に落ちついた猿に『猿』と書かれた漢字を見せると、猿はキーッと一声鳴いて、紙に丁寧な字で『さる』と書いた。見物人からは歓声がわく。
次いで『どうぶつえん』と書かれたひらがなの字を見せると、猿はまたキーッと一声鳴いて上手な字で『動物園』と漢字を書いてみせた。見物人からはどよめきに近い歓声と拍手がわく。
そして最後に、ご褒美のおやつは何が欲しいですかね、さる太郎くん、と飼育員がたずねると、猿はまたまたキーと一声鳴いて、『アイスクリームとオレンジジュースそれからおまんじゅう』という言葉を紙に書いて見せた。見物人の歓声と拍手は最高潮に達した。
「アハハハ、すごい賢いお猿さんだな。計算したり字を書いたり、まるで人間みたいじゃないか。しかもアイスとジュース、それからおまんじゅうだってよ。ほんとうだな、人間よりも人間らしいお猿さんだぜ、まったく。アハハハ」
見物人の中からはこんな話し声が聞こえてきた。まもなく見物人たちはお金をその檻の前にある箱の中にたくさん入れていった。
「しかしほんとうに賢いお猿さんだ。このお猿さんは俺よりもはるかに稼ぐな。けれどもこちらはお猿さんの芸に感心している場合じゃないんだよ。しっかしこの先俺はどうしたものか。まったくいやになるよ」
こんなことをつぶやきながら箱の中にお金を入れてやることにちゅうちょした彼は、喜んで宙返りする猿を横目にその場を立ち去った。猿の檻の横では銀杏の落葉が地面を黄金色に染めていた。
2
彼は動物園の帰り道に同級生である親友の後藤の家を訪ねることにした。もちろんお金の工面である。せめてもの手土産に安売りしていたタコ焼きを買っていった。
新築の家に一人で住んでいる後藤の家のチャイムを鳴らすと、そこからぬっと野生的な顔が浮かび上がった。後藤はずんぐりむっくりしたゴリラのような男である。
「やあ、どうした突然?」
「ああ、ちょっと相談があってな。帰り道に寄ってみたんだ」
後藤は大きな鼻をクンクン鳴らすと
「君、その手に持っているのはたこ焼きか? それとも焼きそばか?」
「相変わらず鼻が効くな後藤は、たこ焼きだ。手土産にもってきたんだ」
「そうか、やっぱりな。気が利くな。まあ、寒いからはやく上がってくれたまえ。」
「では、失礼するよ」
室内は殺風景であったが新築の良い木の香りがした。
「なあ、後藤。まだこの家は出来てひと月ばかりだろう。だから良い木の香りがするな」
「ああ、そうだ。僕はこの新築の木の香りが大好きなのはもちろん、未来の嫁さんと一緒に暮らすために、念願かなってようやく購入したんだ。あとは綺麗な妻を待つだけだ。しかし君はいいよな。レイコさんと言う美人な妻がいて」
「まあ、そうなんだけれども」
と、彼は突然下向き加減になって視線を床の上におとした。
「ん、どうしたんだ? 元気がない様子だけれど。まあ、とりあえずお茶でも飲んでくれよ」
後藤はあったかいお茶を差し出して、どっしりと床にあぐらをかいた。
「んー、骨の髄まであったまるな。なあ、後藤。まずは買ってきたたこ焼きを食べようじゃないか」
「そうだな」
後藤はゴリラのように鼻の穴をふくらませながら、手土産のたこ焼きをほおばった。
「で、今日の用事はなんだよ」
彼は少し真剣な表情になって
「それなんだがな。実はな、今日で会社が倒産したんだ。突然今日の朝に言われたんだ。なんでもこれ以上は赤字続きで経営困難だそうだ。経営陣もどうにかこうにか試行錯誤したけれど、もう首が回らないそうでやむ終えなく倒産することを決断したそうなんだ。そりゃこんな世界的に大不況じゃ家なんて高価な買い物は誰も恐ろしくて買えやしないし、この先も景気が良くなる見込みがないそうなことを政府も言っているからな。それでだ、俺もこの先はしばらく就職することができないであろうから、その、なんていうか、少しばかりお金を貸して貰えないかとおもって今日は来たんだ。頼むよ後藤、俺はお前しか頼りになる人間がいないんだ」
後藤はたこ焼きをごくりと飲みこんで、大きく膨らんだ鼻の穴をゆっくりとしぼませた。
「そうか。お金の話だったんだな。どうりで顔に覇気がないとおもったよ。しかも会社も倒産したのならば落ち込むのも無理はないな」
「それでいくら貸してほしいんだ?」
「とりあえず100万ほど貸して貰えないかと」
「けっこう大金なんだな。僕もそんなに余裕はないけれど、君が苦しんでいるときに助け舟を出さなければ友達と呼べないからね。よし、100万は貸すよ。返済は君に余裕ができてからで構わないから。あまり気にするなよ。でもギャンブルだけは絶対にするんじゃないぞ。もしそんなことをしたら絶交だからな」
「もちろんだ。ギャンブルなんてきれいさっぱりやめてしまったんだから。安心してくれたまえ。しかし後藤、ほんとうにありがとうな。これでこそ親友だ。俺はこんなあったかい親友に恵まれて嬉しくおもうよ」
「おい、そんなメソメソするなよ。男前が台無しだろう。ところでレイコさんにはなんて言うんだ」
「それなんだが、妻になんて言おうか、なかなか無職になったことは言いづらくてな。悩んでいるんだ。妻との結婚の条件は私を働らかせないことと、ギャンブルは一切やらないことであったから、いまさら妻に仕事をしてくれなんて頼めないし、仮にそんなことを言ってしまえば離婚しますわって言うに決まっているだろうから。しかもうちには子供がいないから離婚なんてすぐにしてしまうさ。だからしばらくは内緒にしておこうと思うんだ。レイコとは絶対に離婚なんてしたくないからな」
後藤は静かにうなずいた。
「そうだな。レイコさんは働くのが大嫌いみたいだから、しばらくは伏せておくといいよ。君もはやく就職先を見つけなければな。僕のほうでも人脈を屈しして色々と探しておくよ」
「ほんとうにありがとう。なにからなにまで世話になるな。ぐう」
「なに、あまり気にするな。僕は当たり前のことをしているだけだ。その100万は明日にでも君の口座に振り込んでおくよ」
「すまない。ぐう」
彼は涙をぬぐいながら優しい友の家を後にした。空には大きな赤い満月が不気味に彼を照らしていた。
3
ちらちらと小雪が降る競馬場の空の下、ハズレ馬券は人々の歓喜と怒号とともに宙を舞う。
そんな光景を前にハズレ馬券を力一杯握り潰しながら、まるで馬のように白い鼻息を出して、ぼう然とその場で立ちつくしている彼の姿があった。
彼は競馬場にいたのだ。
彼も人間であった。やはり人間は弱かった。彼は一生懸命に仕事を探したけれども、なかなか条件のいい仕事がなく就職ができていなかった。
彼は依存しやすい人間であった。若くて美しい妻、優しい親友の後藤に依存していた。
そしてなによりギャンブルに依存していた過去があった。妻のレイコと結婚するまではすべての小遣いをギャンブルにつぎ込むほどの博打好きであったが、ギャンブル嫌いの妻からギャンブルをやめるようにと言われ、しばらくは賭け事から遠のいていた。
しかし一ヶ月たっても仕事が決まらず金銭的に焦りがあらわれていた。そんななか彼は昔のギャンブル精神がふつふつとわきあがってきてしまっていた。もうこうなれば、しばらくはギャンブルで稼いでいくしかないと。そんな甘い考えに着地してしまっていたのであった。
彼はハンチング帽をぐっと深くかぶりなおすと死んだ魚の目をしながら競馬場を後にした。
――そして彼はパチンコ屋にいた。
「ちくしょう! なんで昨日は勝てたのにどうして今日は出ないんだ! 勝たなきゃ生活ができない上に妻にも無職になったこと、ギャンブルをやっていることがバレてしまうじゃないか!ちくしょう! ちくしょうが!」
彼は目を血走らせながらパチンコの台をドカドカと殴った。けっきょく親友の後藤から借りたお金はすべてギャンブルにつぎ込んでしまった。
彼はしばらく放心状態でパチンコ台の前にすわっていた。その時だった。突然うしろから肩を叩く者がある。彼はうつろな目でふりむくと、そこにはツバの広いハットを深くかぶった、背の低い怪しげな男が立っていた。
「な、なんだよ。急に」
と彼が驚いた様子でいうと、男は腰をかがめて彼の耳もとでささやいた
「旦那さま。もしやお金に相当お困りではありませぬか」
「あ、ああ、そうだけれど。パチンコやっている人間なんてだいたいお金に困っているんじゃないか」
「それはそうですが、旦那さまは少しばかりまわりと違った様子でしたから。ヒヒヒ」
と、男は歯のない歯茎を見せて不敵に笑った。
「で、なんだよ俺に」
旦那さまにいいお話がありまして。
「いい話とはなんだよ」
男はまた腰をかがめて彼の耳もとでささやいた。
「もしお金にお困りでしたら、お金を工面できますがいかがしましょう。これは決して借金ではありませぬ、物々交換で大金が手に入るのです」
「なんだって、それはほんとうか?」
「はい、真実でございます。もし気が向きましたらこちらまでお越しくださいませ」
と言うと一枚の名刺を差し出してすぅーとその場を立ち去っていった。名刺には☓☓区☓☓町☓番地☓☓ビルB1、仲介人、マタヌキ、とだけ赤い字で書かれてあった。
「なんなんだよ。なんか気色の悪い名刺に、不気味な男だったな。それにしても、物々交換で大金が手に入るとはいったいなんだろう。気になってしようがないな」
彼はその気色の悪い名刺を握りながらパチンコ屋を後にした。
4
名刺を渡された翌日、彼はしとしと冷たい雨が降るなか、名刺に書かれてあった場所へと向かっていた。もう彼には後藤にギャンブルでお金を使い果たしたことや、妻に無職になりギャンブルを再開したことなぞは到底いえるはずもなかった。そして藁にもすがるおもいで昨日の怪しい男がいるであろう場所に向かっていたのであった。
「この辺りのはずだがな。おお、この赤レンガづくりの古いビルだな。間違いない。よし、少し恐ろしいが入るとしよう」
彼は人通りのまばらな商店街にある赤レンガづくりのビルに恐る恐るはいっていった。ビルの中はひんやりとして寒く薄暗かった。電灯が不規則にチカチカと消えたり付いたりしていて、いかにも幽霊が現れそうな空間であった。
名刺にはB1と書いてある。故障中のエレベーターを横目に階段を使って地下まで降りていった。地下には誰もいる気配がない。ただ彼の靴の音がコトンコトンと寂しげに響くだけである。彼は背後が気になって、途中で後ろをふりかえりつつ、そのまま通路をまっすぐ歩いていった。
そして突き当りを右に曲がった瞬間、彼はおもわず、わッ! と叫んでしまった。なんとそこには昨日のハットをかぶった奇しい男が、赤い扉の前でニヤニヤと歯のない歯茎を見せながら立っていたからである。
「ヒヒヒ。お待ちしておりました」
「ああ、これはどうも。驚いたな。俺が来ることがわかっていたのか」
「はい、長年の経験でなんとなくわかるのでございます」
「長年の経験?……」
「ここではなんですから、さあ、室内の中にお入りくださいまし」
そういって男が重そうな赤い扉を静かにギィーッと開けた。
部屋の中は墨を塗ったように一面が黒塗りであった。天井に壁に床にそれから部屋の真ん中にあるテーブルとイスまですべてが真っ黒であった。
その部屋の灯りを照らしているのはテーブルの真ん中にある一本の赤い大きなロウソクであった。その赤いロウソクの炎はゆらゆらと不気味に動いている。そうして赤くうごめく炎の影が真っ黒な壁に映って、部屋の空間を赤黒く照らしている。いかにも魔女がすみかにしていそうな、なんともおどろおどろしい空間であった。
「さあ、おかけくださいまし。本日は足もとのお悪いなか起こしいただきましてご苦労さまでございます。わたくしは仲介人のマタヌキと申します」
ロウソクの炎で顔に陰影のくっきりついたマタヌキの顔は妖怪のそれであった。彼は全身に鳥肌が立つのをおぼえた。
「う、うん。少しばかり気になったんでね。あの物々交換で大金が手に入るとはいうやつが。しかしその話はほんとうなのか」
「左様でございます。昨日もお話したとおり、そのお話は真実でございます」
「じゃあ、さっそくその話を詳しく教えてくれたまえ」
「かしこまりました。ですが、わたくしの役目はここまででございます。詳しいお話は博士からお聞きくださいまし。では、博士! おねがいします」
と言うと、奥の部屋から落ち武者のように頭のハゲあがった白い実験衣を着た老人が現れた。
「君が今回のお客さんかね。なんとも苦労顔をしとるな。じゃが安心しなされ。すぐに楽になる」
と言って一枚の名刺をさしだした。
そこには『赤いトビラ人体研究所、黒清水博士』と書かれてあった。
「ど、どうも。沼川誠一郎です。これは驚いた。博士って。でもなぜあなたのようなお方が俺に?」
「なに、ワシは長年人体研究をしておるただの博士じゃ。そうこわばる必要もないぞ。ただ、需要と供給の架け橋をしとるだけのことじゃ。アハハハ」
黒清水博士は深いシワだらけの顔で笑った
「需要と供給? しかし人体研究の博士が俺になんの用なんですか」
「うむ。それが肝心の話であったな。ごほん。まず君はお金に困っておる。どうにかしてお金を借りたい。しかし借りるあてもない。どうしたものか。と悩んでおる」
「お、おっしゃるとおりです。なぜそこまでわかるのですか?」
「アハハハ、ここに来る人間はみなそんな理由じゃからな」
「はあ、なるほど」
黒清水博士ははげ頭をボリボリかきながら
「そこでじゃ。君は金に困っておる。ワシは人体部品の不足に困っておる。ここで見事に需要と供給が一致するわけじゃ」
「人体部品? 人体部品とはなんのことですか?」
「うむ。人体部品とはその名の通り人間の体の部位、つまりパーツのことじゃ。人骨模型をみるとよくわかるのじゃが、人間というより動物は大小異なる骨と骨が体のパーツをつくっておる。そのつなぎに軟骨やら筋肉やら皮膚やら血管やら、そして神経がある。まあ、平たく言ってしまえば人間の体は骨と骨を組み立てたプラモデルみたいなものなんじゃ。ワシはこの人体の分野を長年研究してきたのじゃ。そしていよいよ人間のあらゆるパーツを拒絶反応なくして移植する技術を身につけたのじゃよ」
「あらゆるパーツ?」
「そうじゃ。骨、血管、筋肉、皮膚、神経、臓器、そして脳、すべてのパーツの移植技術をじゃ」
「それはすごい。すごいとしか言いようがないです。が、それは公に公表したんですか?」
「そんなことはするものか。公に公表してしまえば、すぐに技術は盗まれる。そしてこの技術は数年で一般化してしまいワシの権威も脅かされる。それならば、闇で動いたほうが賢いというものじゃ。しかも闇で動けば正規で動くよりもうんと金になる。だいたいパーツの移植技術はそんなに難しいことではない。ただコツが必要なだけなんじゃ。人間は自分自身の体を難しく考えすぎなんじゃよ。これは研究すればよくわかることじゃ。人間の体の全体像を理解してしまえば、人間の体はけっこう単純に構成されていると言うことがわかるのじゃ。難しいことは一周まわると意外に単純なものなんじゃよ。ワシはこのことに気づきその移植技術を身につけたわけなのじゃ。まあ、この技術を素人の君に詳しく話しても理解できないだろうから、この話はこの辺にしておくとしよう」
「話はなんとなくわかりました。それで俺がここに呼ばれたこともなんとなくわかりました。要は俺の体のパーツを買い取ってくれるのですね」
「うむ。そう言うことじゃ」
「でも一つ疑問があるんですが、たとえば腕ごとパーツを売ってしまった場合、俺は腕なしで生活をしなきゃならんというこですか」
「まあ、それは本人が良ければそれでいいのじゃが、代替えのパーツも売っておるから、それを買ってその腕をかわりに移植することもできる」
「なるほど。でもそうなると腕を売ったお金で、移植と代替えの腕のお金まで支払ったらとんとんじゃないですか」
黒清水博士は実験衣の袖をひじまでまくり上げて
「それなら心配御無用じゃ。パーツ提供者には移植する金は取らん。その場で取り外して取り付けの手術も同時にできるし、術後の傷跡や痛みもほとんどないからすぐに帰宅できる。そして予備パーツでも上から下まで値段は色々ある。一番安いのは老人のパーツと病人のパーツになる。自分がこれで満足だと思えばそれを付け替えたらいいまでのことじゃ」
「それなら安心だ。しかし人体パーツが不足しているとはそれほど需要があると言うことなんですか?」
「もちろんじゃ。お金をたくさん持った美に興味のある富裕層やそれを必要としている人間は世の中にごまんといる。たとえば腕力や脚力を強くしたい仕事やスポーツに属している人間はたくましい骨格の腕と足を、モデルのようにスラリと長い足や腕にしたい人間は美しい骨格の足と腕を、皮膚を丈夫で滑らかなにしたい人間は健康的な全身の皮膚を、声を美しくしたい人間は優れた声帯を、顔の醜さを整えたい人間は美しい目や鼻や口や顔面のパーツ丸ごとを、ワシみたいにハゲ頭をなおしたい人間はふっさふさの毛髪つきの皮膚ごと頭皮を、それから年老いたり病気で駄目になった臓器を治したい人間は健康的な肺や心臓や肝臓や腎臓をひっきりなしに求めて交換してゆくのじゃ。人間は欲深い生き物じゃ。足るを知らぬ。だいたい良質なパーツを求めにくる人間なぞは次から次にパーツを交換してゆく。一度良質なパーツに交換したならば次はここのパーツを良質にしたいという欲望が際限なくやってくる。まあ、人間とはそう言う生き物なんじゃ。だから需要がありすぎてしまう場合は、供給のパーツ提供者をこうしてマタヌキ君に探して来てもらっているというわけなんじゃよ」
「……。」
彼はあまりの現実離れした話に返す言葉がみつからなかった。
「あと少し気になったんですが、悪くなった臓器を交換できるということはもしかして人間は不老長寿になれるということなんですか?」
と彼が質問すると、いままで朗らかな顔つきだった黒清水博士はその刹那、真剣な表情にかわって
「うむ。いい質問じゃ。だが臓器だけを交換していってもいずれ骨や筋肉などが老化してゆく。したがって体まるごとのパーツにおのれの脳だけを移植してゆくことを継続的に繰りかえせば人間は不老長寿どころか不老不死になれる。そう、我々人類はとうとう死の神を征服したのじゃ! 人間は永遠に生きられる! たとえ肉体が滅びても脳さえあれば人間は永遠に生きられるのじゃ!」
「死の神を征服……」
彼はまたもや現実離れした話に開いた口がふさがらなかった。
「しかしだ。君は金のないパーツ提供者じゃ。パーツ提供者は自分の健全なパーツを売却し不健全で安価なパーツと交換する。その逆に金のある人間はより美しい肉体と永遠の命を手にする。世の中はどれだけ綺麗事をたて並べても結局は金なんじゃ。金持ちはより良い生活になる。貧乏人はより悪い生活になる。それゆえ、金持ちと貧乏人、勝者と敗者、需要と供給、という構図が生まれる。つまり世の中は陰と陽の二極の世界で成りたっておるのじゃ。悔しいかもしれぬがこれが現実なんじゃよ」
彼は陰と陽のニ極の世界という博士の言葉を妙になっとくできた。自分は陰で敗者だと。
「もちろんそれは承知しています。けれども、実際に言葉として言われると凹みます」
「これは失敬じゃった。気を悪くしたのならすまぬ」
「いえ、ぜんぜん大丈夫ですから。むしろそれが現実ですからね。ぐう」
と言いつつもかなりの深手を負っていた彼だった。
「さて、話が少しそれてしまったが、そろそろ本題に入るとしよう。ここまで話てきたとおり、金に困っておるようならパーツを提供してみてはどうじゃ。痛いようにはせぬから」
「もちろんそのつもりです。お金は、お金は欲しいですから。が、まだ少し不安があります」
「なにに不安があるのじゃ」
「取りかえたパーツのことです。もしその後お金に余裕ができたなら、その取りかえたパーツは良質なパーツに再度交換することはできるんですか?」
「これはすまぬ。その再交換の話はまだしておらんかったな。もちろんじゃ。何度でも再交換はできる。気に入らなければすぐにでも交換できるから心配御無用じゃ」
彼は静かにうなずき納得した。
「それなら話は早いってもんです。今日中に何かしらのパーツを売却しますよ。背に腹は変えられないですからね」
「うむ。納得してくれたようじゃな。ではこの紙に人体パーツの売却値が書いてある。その一覧表をみてどの部位のパーツを売却するかよく吟味するといい。裏には交換できる予備パーツの値段も載っているからそれもよく吟味して選ぶとよいぞ」
彼、沼川誠一郎はその人体パーツの一覧表をよく吟味して今回は左腕一本を1000万で売却した。かわりに老人のか細い左腕を50万で購入した。同時にその交換手術も施してもらった。彼は今回左腕一本を犠牲にして950万もの大金を手に入れることとなった。
5
妻のレイコがじろじろと眉をひそめたまま彼のか細くなった腕をみながら
「あら、あなた、なんだか左手が妙にか細くなったのではありませんか?」
「いや、最近なんだか痩せたからそのせいじゃないかな。なに、太ればすぐに元に戻るよ。あまり気にしなくても大丈夫だよ」
「あら、そうなのね」
彼はいまだ妻のレイコに会社を退職したことは話していなかった。それどころか売却した大金でレイコとの新婚旅行を画策していた。
「なあ、レイコ。しばらく会社が休みになったんだ。レイコも知っているとおり世の中はいま大不況だ。会社もしばらくは少人数でまわしていきたいそうだ。そこで自ら志願してしばらく休暇をいただいたんだ」
レイコは艶のある黒いロングヘアーをかき上げて
「でもあなた、そのまま首を切られるなんてことはないかしら。あたし、働くのはイヤよ」
「バカなことは言っちゃいけないよ。俺が首なんて切られることなんてないさ。俺は社長も認める敏腕営業マンなんだから」
と自慢げに言いつつも、額にはイヤな汗がでていた。彼は人一倍自尊心の強い男であった。
「それとな、レイコ。実はいままでコツコツ貯めた貯金があるんだ。それに俺たちはまだ新婚旅行をしていなかったよな。そこで今回の長期休暇を利用して世界一周旅行でも行ってパアッと遊んでこようじゃないか。どうだ。いいだろう」
レイコは大きな黒目をうるうるさせたまま、彼の胸にいきおいよく飛びこんだ。
「あなた、とってもうれしいわ。まさか隠し貯金があっただなんて知らなかったわ。大好きよ。あたしもはやく新婚旅行に行きたかったの。それに世界一周旅行だなんて最高な新婚旅行ですわ」
「えへへ。そんなに喜んでもらえるなんておもわなかったよ。膳は急げた。すぐにでも旅行会社にいって世界一周旅行のプランでもたてるとしよう」
こうして彼、沼川誠一郎とその妻であるレイコは一ヶ月ものあいだ豪華クルーズ客船の世界一周旅行へと旅たった。
彼らは客船のあらゆる施設で豪遊し贅沢三昧の時間を過ごした。
妻のレイコは美容施設で全身に大金をつぎ込んだり、彼はこっそりカジノで大金をつぎ込んだり、また彼らはフランス産のフォアグラやら、イタリア産の黒トリュフやら、ロシア産のキャビアやら、それからシロナガスクジラの脳みそやら、リュウグウノツカイの心臓やら、クロコダイルの丸焼きやらに大金をつぎ込んだ。
そして一ヶ月の旅行から帰って来てみれば、彼の売却した左腕のお金は半分以上が旅費で消えてしまっていた。
6
赤い扉の前にたたずむ一つの人影があった。か細い左腕をだらりとぶら下げた男だった。彼はまたあの赤い扉の前に立っていた。
なぜかといえば、彼の左腕を売却したお金は新婚旅行では言うまでもなく、競馬やら競艇やら裏カジノやらパチンコやらのギャンブルでほとんど使い果たしてしまっていたからである。大金をもってしまった彼にはもう就職を探すという意思はなくなっていた。またどうせお金がなくなればパーツを売却すれさえばいいと安易に考えていたからである。
「これはこれは沼川さま、よくぞまたお越しいただきました。お待ちしておりました。ヒヒヒ」
仲介人マタヌキは相変わらず歯のない歯茎をみせながら不敵に笑った。
「これはどうも。その、あの、なん言うか。また少々のお金――」
ここまで言いかけると、マタヌキはその言葉をさえぎって
「はいはい。承知しております。また新たにパーツの売却がしたいとのお申しつけでございますね」
彼は顔を赤らめながら恥ずかしそうにうなずいた。
「おねがいできるかな?」
「もちろんでございます。沼川さんのパーツがある限り何度でも売却できます。それでは博士をお呼びいたします。博士! おねがいします」
相変わらず落ち武者のように頭のハゲあがった黒清水博士がニヤニヤ笑いながらあらわれた。
「おや、おや。これは沼川くんじゃな。さてはまた金に困っておるのじゃな。君も金遣いが荒いな。こんな短い期間に来る人間もめずらしいぞ。アハハハ」
博士は笑いながら両サイドのちぢれ毛をゆさゆさ揺らせたままどっかりとイスに座った。
「まったくお恥ずかしいかぎりです。またパーツの売却をおねがいできますか?」
「もちろんじゃ。そうじゃ。君みたいに金遣いの荒い人間にはいい方法があるぞ。パーツを複数どうじに売却してくれれば色をつけて買い取ろう。どうじゃ。いい話じゃろう」
「ほんとうですか。それなら迷わず複数のパーツを売却します。お金はいくらあっても足りませんし、この交換した老人の左腕でもなんとか不自由なく生活ができますし」
「それはよかった。じゃが老人のパーツはそのうち骨に負担がかかってくるぞ。一度スカスカになった骨はなかなか再生されないからな。そのことだけは頭に入れておくとよいぞ」
「わかりました。なんとかそこは気合で乗りこえてみせます。いざとなれば良質なパーツに交換さえすれば解決できますから」
「それは金があっての話じゃがな。まあ君が良ければワシは何も言わぬ。それは提供者の自由じゃ。前にも言ったようにワシはただ需要と供給の架け橋となっておるだけじゃからな」
彼はこの日、右腕一本、右足一本、左足一本を3200万で売却し、そして格安の老人のパーツと交換した。彼の四肢はヨボヨボで不自然な格好になってしまった。だが彼には目先のお金のことしか頭になかったのだった。
7
「よう。沼川。元気でやってるか」
と、コンビニを出たところで突然話しかけてきた人物は、退職した会社の元同僚の朝比奈と言う男である。この朝比奈も彼と同様に依願退職をさせられていた。
「おお、朝比奈。君こそ元気でやってるか」
朝比奈は分厚い唇の間からペロッと舌なめずりをして
「ああ、なんとか元気で生きてるぜ。ん、沼川、なんだかやせ細ってしまったな。病気にでもなったのか?」
彼らはコンビニの前にあるベンチに腰をかけた。
「いや、病気にはなってないが、最近なんだか食欲がなくってな」
朝比奈は短い足を組んで
「そうか。まあ、うまいもんでも食って精を出さんとな。それよりも沼川、就職先は見つかったのか?」
「いや、まだ見つかってない。色々と用事ごとがあって忙しかったから。でも一刻もはやく就職先を見つけないといけないな。君はどうなんだ?」
「俺も一緒だ。でもな、沼川。こんな大不況じゃ、どこも雇ってなんかくれないぜ。ましてやこれといった資格もなければ学歴だってないんだからな俺たちには」
「ごもっともだ。俺も君もいままで営業しか経験がないからな。いまさら違う職種にって言ってもなかなか難しそうだし。しかもこんな大不況じゃ営業職なんてどの会社も欲しがらないどころか必要ないんだよな」
朝比奈はうんうんと何度もうなずいてから、短い指をパチンと鳴らした。
「実はな、沼川。さっき地元の先輩に相談したんだ。その地元の先輩は投資家をしてるんだ。それでな、今ちょうどいい話があるみたいでな。なんでも絶対に高値になる株があるみたいなんだ。で、俺にその株を買わないかと言ってきたんだよ。どうだ、沼川もその株を買ってみないか」
彼は怪訝そうな表情をして、
「おい、君。それはインサイダー取引という違法行為じゃないのか?」
朝比奈は少し驚いた顔になって
「ほう。沼川も意外に知ってるんだな。おそらくそのインサイダー取引というやつだろうな。でもだぞ、今の俺たちにそんな正義感なんていらないんだよ。俺たちには明日がないんだ。たとえそれが違法行為だとしてもバレなければそれでよくはないか。絶対に高値になる株なんだから買えば買うほど元金は増えるんだよ。どうだ、沼川。こんな大金を手に入れるチャンスなんてめったにないぞ。これを断れば絶対に後悔するぞ」
彼は眉間に深いシワを寄せながら、
でもだな。もしそれが見つかれば逮捕されるんだぞ。俺はそんなリスクのあることはできない。すまないが断るよ。
朝比奈はフンッと言って笑った。
「まあ、沼川ならそう言うと思ったぜ。昔から正義感だけは強かったからな。でもな、そのことなら安心してくれたまえ。沼川には一切の責任は負わせない。株を買うのはあくまでも先輩なんだ。俺たちはただお金を先輩に渡しさえすればいいんだ。あとは多少のマージン、つまり手数料を先輩に払えばそれで問題なしなんだ。すべての責任は先輩が一手に引き受けてくれると言うことだ。どうだ、悪くない話だろう」
「ほんとうか? ほんとうにその先輩が責任をすべて負ってくれるのか? もしその話が事実なら断るよ理由なんてないよ。今一番欲しいものはお金なんだから」
「ああ、ほんとうだ。その先輩は人を騙したりするような人間ではないから安心したまえ。ただ俺もこんなおいしい話を他人なんかに話したりはしない。なぜ沼川に話すかといえば、俺たちは会社を退職させられた仲間だからだ。お互い深い穴の中に落ちたなら一緒になって這い上がるのが道理ってもんさ」
「朝比奈、君は意外にいいやつなんだな。そんな風におもってくれていたのか。ありがたい」
朝比奈は照れくさそうに鼻先をつまんだ。
「なに、俺は昔からいいやつだぜ。深く付き合わないとわかんないけどな。アハハハ。で、この話に乗ったよな?」
「ああ、もちろんだ。もはや断る理由がないくらいだ」
「さすが沼川だ。物分りがいい」
「で、どのくらいのお金を株に投資するんだ」
「それは投資する人間が決めればいい。ただし今回は必ず儲かるという保証がある。投資金の分だけ利益がでるのだから投資金は多ければそれに越したことはない」
「まあ、それはそうだよな。じゃあなるべく投資金を用意しておくよ」
「じゃあ後日また連絡をするな」
彼は少し不安もあったが朝比奈の投資話を信用して控えめの100万だけを投資することにした。そして後日朝比奈から連絡があり100万を託すことにした。
それから数日後、妙にテンションの高い朝比奈から連絡があった。株投資に成功したとの知らせであった。朝比奈の先輩が言っていたように投資金の倍の200万になった。彼は100万を用意しただけで100万ものお金をただ同然で手に入れた。しかもその先輩いわく、今回は初めての投資と言うこともあるから手数料は取らないであげると言うことのようだった。このとき彼はその先輩が海を切り裂くモーゼのように神々しくおもえた。
それからほんの数週間後、また朝比奈から連絡があった。今回も前回のような株投資の話しであった。
彼は前回の利益が出たこともあって完全にその話を信用していた。そして今回の彼はどうせ倍くらいになるのだからと思い3000万もの大金を投資することにした。それは四肢のパーツを売却したほとんど全てのお金だった。
同時に朝比奈からは一つ懇願されたことがあった。俺は今回5000万を投資したい。が、その投資する大金を持ち合わせていない。だから借金をしてまで投資金を作りたい。しかしそのお金を借金するには連帯保証人がいる。そこで沼川にその連帯保証人になってもらいたい、と言う懇願であった。
彼は前回の投資での恩もあることだし、どうせ前回のように利益がでるのだからと思って安易な気持ちで連帯保証人にサインをしたのだった。
――しかし前回のように朝比奈からの連絡はすぐにこなかった。それから根気よく待ったが一向に朝比奈からの連絡はなかった。
彼は少し不安になって朝比奈に連絡をしたがまったく繋がらなかった。彼は街中を血まなこになって捜したが朝比奈の姿はどこにもなかった。
かくして彼は朝比奈から投資詐欺の被害にあってしまったのだった。さらには朝比奈の借金をした5000万の連帯保証人となっていた彼は同時に5000万もの負債を抱えることになってしまった。
なんと元同僚の朝比奈は詐欺師になっていたのだった。しかしこれは詐欺師の常套手段。一度信用させておいてからのだましである。彼はこの朝比奈の罠にまんまと引っかかってしまったのだった。
8
――彼は言うまでもなく赤い扉の前でよぼよぼの骨と皮だけの両手をぶらさげながら立っていた。それもそのはず連帯保証人で5000万もの借金を抱えていた彼には、もはや臓器のすべてを一度に売却するしか術は残されていなかった。そして変わりに格安の老人と病人の臓器を移植してもらったのだった。
それから数週間後のある日、彼はいよいよ妻のレイコに会社を退職したことや、人体のパーツを売却したことや、ギャンブルを再開したことや、そして株投資で詐欺の被害にあって、同時に連帯保証人で5000万の負債を抱えたことをすべて話した。
「あなた、あたしを騙していたのね。ひどいわ。しかも体の部位を売却したり、ギャンブルを再開したり、投資詐欺にあったり、連帯保証人で借金を作ったりして心底情けないわ。どうりで両手両足がヨボヨボだったというわけね。それと最近はあまり体調も優れないようで、それも臓器を売却したのが原因なんでしょう。そんなひ弱なお体で仕事なんてできっこないわ。今後どうするつもりでいるの? 仕事はどうするの? お金はどうするの? ねえ、あなた、答えなさいよ!」
レイコの至極真っ当な質問攻めに彼はたじたじとなって顔がひきつって返す言葉がみつからなかった。
「あの、その、お金と仕事は――」
鬼のような形相で怒るレイコは彼の言葉をさえぎって
「そうよ、お金はどうするの! お金がない生活なんてイヤよ。あたし働きたくないわよ。働く位でしたらもう離婚ですわ」
彼は半泣き状態になって
「そんな殺生なことは言わないでおくれよ。俺だって自らを犠牲にしてお金をつくったんだから。それよりもこんな状態なんだから少しは働いてくれてもいいだろう。少しは協力してくれよ」
「あなた、もしかしてお忘れになったの? 結婚するときの条件は絶対にあたしを働かせないことだったわよね?」
「それはもちろん覚えているよ。でもだね、それは時と場合によるさ。今はこんな状態なんだから」
「いいえ、約束は約束だわ。結果的にあなたはあたしを騙したことになりますわ。もう離婚ですわよ」
「そんなこと言うなよ。これから頑張って仕事を探すしギャンブルだってもう絶対にしないから。少しだけ待っておくれよ」
「そうそう。けっきょくギャンブルだってやらない約束だったのに、また再開しましたわよ。その約束だってお破りになりましたわ」
「まあ、ギャンブルに関しては俺が悪かった」
レイコは深いため息をつくと、なにか思案した様子でしばらく目をつぶった。彼女の眼窩の奥ではときどきつぶらな瞳がゴトリと動いた。その奥で眼球はなやましく悶ているものらしい。
「いま少し考えさせてもらったわ。もしあなたが頑張ってお仕事を探して就職ができたなら、少しは考え直おしてもいいわよ」
「ほんとうかい。すまないなレイコ。俺、頑張って仕事を探してみるよ。こんなひ弱な体だけれど」
「ただし一ヶ月の間だけよ。一ヶ月以内にちゃんと就職先を見つけなければ離婚ですから」
「わかったよ。必ず一ヶ月以内に仕事をみつけてみせるよ」
彼はなんとかこの修羅場を乗りきることができた。彼はほっと一息して窓の外を見た。窓の外では激しい雨がムチのように窓を打ちつけていた。
9
妻のレイコとの約束の一ヶ月が経とうとしていた。けれども彼はまだ就職先が見つかっていなかった。
それもそのはず、彼の四肢は骨と皮だけの貧相な状態に加え、交換移植した病人の内蔵のせいもあっていちじるしく体力もなくなって、いよいよ病的な貧弱の体になってしまっていたからだった。
「ちくしょう。弱ったな。こんな貧弱な体ではこのご時世そう簡単にどこも雇ってはくれない。しかも残金もあと残りわずかだ。こうなれば致し方ない。首から上だけのパーツは絶対に売却しないと決めていたが仕方ない。顔のパーツを売却してこの場を乗りきるしかない。レイコもまたそれなりのお金が入れば少しの猶予を与えてくれるかもしれないからな」
だが彼はこのときとてつもない不安に襲われていた。自分の顔のパーツを交換するということは自分が自分でなくなってしまうのではあるまいか。他者が自分を認識できるのは顔があってのことではあるまいか。真っ黒い渦巻の中へ知らず識らず落ちこんでいくのではあるまいか。そういう不安が後から後からと突き上がってきた。
しかし数日後、彼はとてつもない不安を払拭して顔のすべてのパーツを売却した。かわりに安価で一番まともであろう顔のパーツを黒清水博士に移植してもらった。そうして彼は恐る恐る帰宅するのであった。
「ただいま。レイコ。今日は大事な話があるんだ」
レイコは彼の顔をみるなり、ギャーッと悲鳴に近い声で叫んだ。
「だ、誰なのあなたは! 警察に通報するわよ!」
「ま、待ってくれよ。俺だよ、誠一郎だよ。実はな、顔のパーツを売却してきたんだ。お金がそろそろ無くなりそうだったし、けっきょくまだ就職先はみつからないし」
「あら、ほんとうにあなたなの? 顔が、顔がまったくの別人じゃないの。それに声もまったくの別人じゃないの。あたしはあなたの整った顔と美声が好きだったのに。なによその不細工な顔と声は。なんだかとても気持ちが悪いわ。まるで別人と話しているみたいで」
「それはあたりまえだよ。首から上のパーツは変えてしまったんだから顔も声帯も変わるのは仕方ないよ。別に顔や声が変わったとしても俺自身は心の中にいるよ」
レイコは怪訝な表情になって
「なに言ってるのかしら。心にあなたがいるって、あなた、心臓も別人の心臓に交換してしまったんでしょう」
「ちがう、そうじゃない。言葉では心にいるって言ったけれど、人間は実際に脳がすべての体の司令塔なんだ。人間は脳で考えた信号が神経を通って体が動くんだ。つまり脳が心なんだ。脳さえあれば俺は俺なんだよ」
「よく言っていることがわかりませんわ。あたしの言っているのは顔や声が変わってしまってはもうあなたじゃないと言うことよ」
「なんだよレイコ。それはひどいな。レイコはなんだ、俺の顔と声と結婚でもしたのか。俺は顔や声なんかじゃない、俺がいるのはこの心だ。俺の心を愛してくれよ」
と言って、レイコに近寄った。
「来ないで! そんなあなたもう愛せないわ」
その時であった。突然玄関のチャイムが鳴ってドアが開いた。
「沼川いるのか?」
そこには親友の後藤が立っていた。
「後藤さん、助けて!」
と言うが早いか、レイコは素早く後藤の方に逃げて行った
「だ、だれです。あの人は? 泥棒でも侵入したんですか?」
「いえ、違いますわ。誠一郎さんよ」
「なんだって!」
彼は後藤にいままでのいきさつを全て話した。
「そんなことがあったのか。いや、君は最近まったく連絡をよこさないから心配してこうやって訪ねてみたんだ。しかし驚いたな。君はほんとうに沼川か? 顔と声がまるで別人だぞ」
「ああ、俺は正真正銘の沼川誠一郎だ。顔と声は別人だけれど俺は正真正銘の沼川誠一郎だ」
「いや、君はもはや脳以外すべて別人なんだけれどな」
「それはさっきレイコにも話したんだが、脳さえあれば俺は俺なんだ。人間は脳がすべての司令塔なんだ」
「それは理にかなってはいるが、君、なんだよ、やっぱり人間は顔をみて話すし、声だってその顔の口から発する。だいたい一目惚れなんて現象自体が顔のタイプかどうかだろう。君だってレイコさんの美しさに惚れていると言ったことがあるだろう。ちがうか」
「ええい! うるさい! さっきからなんだよ。二人してまるでケモノでも見るかのように俺を見下しやがって。だいたいレイコはなんで後藤の後ろに隠れているんだ。こっちに来い。俺が旦那だぞ。後藤が旦那じゃないだろう」
と言ってレイコの手を手荒く引っ張った。
「痛いわ。なにするのよ。後藤さん、助けて」
レイコは後藤の腕にしがみつく。
「君、やめたまえ! 暴力は最低の行為だぞ!」
後藤は凄まじい剣幕で言い放った。
「なんだ、貴様は! さっきからレイコをかばって。そうか、この機に乗じてレイコを奪いとる気だな! ちくしょうがー!」
彼は獣を狩るような勢いで後藤に襲いかかった。
「しかし勝敗は始めから分かっていた。四肢のか細くなった彼にはもう襲いかかる腕力など残されていなかった。彼はその場で後藤に両腕をギュッと締め上げられた」
「痛い! 離せ! なにをするんだ!」
このときの彼は暴れ牛になったかのように我を忘れていた。
「君、もう暴力はよせ。少し落ちつきたまえ」
後藤はそっと締め上げていた手を離す。
「ちくしょう。暴力はどっちだ。手が痛くてしばらく使いものにならないじゃないか。どうしてくれるんだ」
「どうもこうもないだろう。君が最初に襲いかかってきたんだろう。まったくどうかしてしまったぞ。顔が変われば性格も変わるのか。しかもレイコさんもだいぶ怯えてしまっているじゃないか」
レイコは獣に襲われた仔羊のように怯えながら
「もう、前のあなたじゃないわ。暴力なんて一度も振るったことなんかないし、罵詈雑言だって一度も聞いたことなんかないわ。もうすっかり性格が変わってしまったわ。きっと顔を変えてしまったからだわ」
「ええい! うるさい! さっきから二人して俺の顔のことばっかりいいやがって。俺の性格を変えたのはお前らのせいだ」
「まあ、君、ほんとうに少し落ちつきたまえ。顔のことはこの通り謝るから」
後藤はお辞儀をして丁寧に侘びた。
「まあ、いいだろう。俺も少し頭に血がのぼってしまったからな。少し落ちつくとしよう」
「それはよかった。しかし君、いまだに就職もしていなかったのか。それに貸した100万もいまだに返してくれないしな」
「あなた、後藤さんに借金なんかしていたんですね。知らなかったわ。最低ですわ」
「なにが最低だ。俺の苦労も知らないで、よくぬけぬけとそんなことが言えるな。すべてはレイコのためだぞ」
「あたしのために借金なんて少し変ですわ。借金をするのであれば、それはあなたの努力が足りないと言うことですわ」
「しかしだ、レイコ。いまは世の中が大不況中なんだ。いくら俺が努力したって世の中がそんな風じゃ仕方ないだろう」
「そんなの言い訳ですわ。すべてはあなたの努力不足じゃありませんか。賢い人は借金なんかしないでお金を稼ぎますわ」
すると突然、彼はか細い手首をムチのようにしならせてレイコの頬を勢いよくひっぱたいた。
「キャーッ! 痛いわ、何するのよ。殴ったわね」
後藤はすかさず彼に飛びかかり再び両腕をギュッと締めあげた。
「おい、君、暴力はだめだとさっき言ったばかりだろう」
「痛い、離せ! ちくしょうめがー!」
レイコは赤く腫れ上がった頬をおさえながら
「あなた、もう絶対に離婚ですわ。暴力はれっきとした離婚条件になりますわよ」
後藤は彼の締め上げている手をよりひねって
「君はもうお終いだ。この件が落ちつくまでしばらくレイコさんは僕があずかるとしよう」
「痛い、離せ! そんなことはさせてなるものか! やっぱり貴様はこの機に乗じてレイコを奪い取る気だな」
後藤はさらに締め上げている手をひねって
「君にはもう愛想が尽きた。君と僕との友情もここまでのようだ」
「痛い! 離せ! 折れる! ちくしょうー!」
「さあ、レイコさん早く外に避難してください。彼は頭がおかしくなっています」
レイコは後ずさりしながら外に飛び出した。
後藤はまるでやせ細った野良犬を見るような哀れな目で
「君はもう廃人だ。それは君が一番よく理解しているだろう。君にもうなにも言ってあげる言葉はない。許したまえ」
と言って、彼の締め上げていた手を勢いよく離し外へと飛び出した。
彼はその場で我と我が身をいやと言うほど殴った。そうして、部屋中に響きわたるほどすすり上げながらおいおいと泣き崩れたのだった。
10
彼はベッドの上でじっと天井を見上げていた。その目にはもはや生気はなかった。もはや生けるしかばねも同然の彼であった。
それもそのはず老人と病人のパーツに交換してしまった彼の体はもう思うように動かなくなっていたし、さらにはレイコとの離婚も正式に決まって多額の慰謝料を取られていただけでなく、レイコは親友であった後藤と再婚をしていたという衝撃的な事実があったからだった。
しかも顔のパーツを売却したお金はレイコの慰謝料にほとんど持っていかれ、彼の手元にはほんの少しばかりのお金があるのみだった。
「ああ、こんな地獄のような世界に生きているのならいっそ死んだほうが楽かもしれない。人間はお金がなければ去っていくし、善良なふりをして平気で人を騙すし、いざとなれば簡単に人を裏切るし、邪魔になったら赤子やペットを平然と捨てるし。人間はみな薄情だ。人間はみな偽善者だ。人間はみな醜い。善良な人間なんてこの世にいやしない。人間はみな心の奥に悪魔が宿っているんだ。人間は悪魔だ。俺はもう人間をやめたい」
彼は天井を見上げながらこんなことを思いめぐらせていた。そしてこのとき初めて死というものを意識した。
しかし彼がなぜ人間に対してここまで恨みつらみの感情を抱かせているのかといえば、もう一つ深い理由があった。彼は捨て子であった。彼は産まれてまもなく病院の玄関に薄いタオルケットだけに包まれて捨てられていた。だから親の顔も知らなければ親の愛情もまったく知らなかった。それがゆえ、自分を捨てた親をひどく恨んでいた。のみならず、彼の心の底には『人間とはなにか』という哲学的な考えが常にあった。
「もはや俺の人生もここまでのようだな」
と力ない声でつぶやくと彼はおもむろに立ちあがった。そうして椅子の上に立って天井からぶら下がっているロープに首を掛けようとした。が、その時だった。とつぜん椅子の脚が鈍い音とともに折れて彼は床の上に放り出された。
「クソッ。俺は、俺は死ぬことさえもできないのか。クソッ」
彼のうつろな目の間からは涙が頬へ垂れていた。
――それから幾時間床の上で眠っていたが分からぬが、彼はそっと起きあがって玄関の扉を静かに開けて出でいった。
彼の行き着いた場所は黒清水博士のいる赤い扉の前だった。
「おや? 沼川さま、今日はいかがしましたか。たしか沼川さまはすべてのパーツを売却済みでございましたが」
と、紹介人マタヌキは不思議そに言った。
「はい……。自分でもよくわからないんです……。気づいたらここに来ていました……」
彼は魂を抜かれたような表情で答えた。
「そうでしたか。まあまあ、一度お話でもお聞きいたしましょう」
彼はマタヌキにこれまでのいきさつを淡々と話した。
「なるほどでございます。それは人間不信からくる極度の鬱状態でございます。このマタヌキ、沼川さまの心情は痛いほどわかるのでございます」
「なぜですか?」
するとマタヌキは深くかぶっていたハットをサッと取ってみせた。
「ご覧の通りわたくしの頭には数本の貧弱な毛があるのみでございます。実は言うとわたくしも体のパーツを黒清水博士に売却した元パーツ提供者でございます。わたくしもほとんどのパーツを老人のパーツに交換移植しましたから、こうやって歯が一本もないのです。アハハハ」
とマタヌキは歯のない歯茎をみせて笑った。ハットを取ったマタヌキの顔は一面がシワだらけであった。彼はこのとき初めてマタヌキの歯のない理由を了解した。
「そうだったんですね。でもマタヌキさんはなぜ黒清水博士のところにいるんですか?」
「では事のいきさつを少しお話いたしましょう。わたくしは元運送会社の社長をしておりました。小さい会社ではありましたが、10人の従業員を雇って、ほそぼそと経営をしておりました。しかしある時、わたくしの会社の近くに大手運送会社が進出をしてきました。そうしてあっという間に数々の契約は奪い取られていきました。会社はたちまち火の車になって経営は困難になっていったのです。けれどもわたくしには社長と言う責任がありました。従業員をけっして路頭に迷わせてはいけないとの責任がありました。ですから、あちこちまわってなんとかお金をかき集めながらやっとのことで従業員に給料を渡すことができていました。しかしそれも少しの間だけです。そのうちどこもかしこもお金を貸してくれるところはなくったのです。先行き不透明な会社にはもうお金は貸せないと。いままで散々銀行に預金をしていたと言うのに、お金がなくなればいとも簡単に見捨てられるのでございます。しかしちょうどそのころ、風のうわさで黒清水博士の存在を知ったのです。わたくしはチリにでもすがるおもいで黒清水博士を訪ねました。それからわたくしがどうやってお金をつくったのかは言うに及ばずでございましょう。そのときわたくしは内蔵と脳以外のパーツを一度にすべて交換いたしました。それほどお金に困っていたのです。ですからわたくしはこんな老人の容姿をしているのです。そしてその大金はもう銀行には預けずに会社の金庫にしまうことにしました。それから数日後のことです。朝会社に行ってみると会社の事務所はもぬけの殻でございました。室内のあらゆる貴重品はすべてなくなっていました。もちろん金庫の中の大金もすべてなくなっていました。それらの大罪を犯したのは信用していた従業員たちでした。従業員たちはみなで結託して犯行に及んだのです。わたくしはしばらくもぬけの殻になった事務所でぼう然と立ちつくしておりました。それからの記憶はあまり覚えてはいないのですが、わたくしも気がつけば黒清水博士のところにまた来ていました。その時は臓器を売ってこれから会社を再起する足しにでもしようと考えましたが、同時にまた従業員たちに裏切られるかもしれないという不安感もあってしばらく悩んでおりました。すると黒清水博士が、ちょうどいま人材を探しておるから君はどうかね。だが隠者として生きていかなければならぬが、と、お誘いしていただけたのです。わたくしはその刹那、俗世を離れて隠者として生きてゆくことを決心しました。幸いわたくしは独り身でしたから隠者となることに迷いわありませんでした。こうしてわたくしはなにもかも捨てて現在黒清水博士の元で仲介人として働いていると言う訳なのです」
いままで妖怪のそれであったマタヌキの顔はいまや仏様のような穏やかな顔に変貌していた。
「なるほど……。まさかそのような事情でここにおられるとは……。マタヌキさんも色々とご苦労なさったんですね。やはり人間は恐ろしい魔物です。同時にお金も魔物です。お金は人間を幸福にすることもできれば、人間を地獄に落とすこともできる魔物です。自分はもうお金のない世界に行きたいです。人間をやめたいです。人間はお金に翻弄されて生きているようなものですから……」
すると、奥の扉から黒清水博士が真面目な顔つきであらわれた。
「いままでの話はすべて聞かせてもらった。盗み聞きをしてすまなかった。そこで君に一つ話がある」
と言って、静かに椅子に腰をかけて、タバコに火をつけた。
「――あれはちょうど一年前じゃ。君と似たような境遇の男がここにやってきた。その男も相当お金に翻弄されておった。そんで君と同じように脳みそ以外のすべてのパーツを売却していったのじゃ。それから君と同じように魂の抜けたような表情でまたここにやってきて、お金と人間にはもう疲れた。人間をやめたい。自分の脳を人間以外の動物に移植してもらえないかと言ってきたんじゃ。が、ワシはまだ人間の脳を他の動物に移植する異種移植はしたことがなかったから、実験の延長線上になってしまうがそれでも構わぬなら他の動物に脳を移植してもよいと言ったのじゃ。その男は実験に失敗して死んだら死んだらで構わない。どうか今すぐ自分をこの人間世界から開放してくれと懇願してきたのじゃ。そこでワシは知り合いの動物園の園長に頼んで、一匹のオス猿を提供してもらったのじゃ。そして実験は見事成功した。しかも知能も人間の時と遜色はない。だから人間の時のように思考したり字を書いたりする事もできるのじゃ。今でもその男、いや、その猿は☓☓動物園で芸をしながら余生を楽しく過ごしておる」
彼はその刹那に一切を了解した。あのとき動物園で見た、人間の言葉を紙に書いて芸をしていた猿が、その男だということを。
彼は濁った目を見開いて
「博士、それはもしかして遠回しに俺の脳を他の動物に移植してくれると言うことでしょうか?」
「うむ。そう言うことじゃ。今はその件もあって人間の脳を他の動物に移植する異種移植の研究もしておるから、無償で移植手術もできる」
「おお、博士。ありがたい。博士は想像以上にすごいお方だ。でも俺は、俺は猿にはなりたくありません。狭い檻のなかに閉じ込められるなんて息が詰まりそうですから」
「まあ、人間もただ広い檻のなかで生きているようなものじゃがな。アハハハ」
と言って博士は笑った。
「博士、俺は誰にも邪魔されなく自由気ままに生きたいです。博士、おねがいします。この俺の脳を人間以外の動物に移植してください」
「そうじゃ、ちょうどいま一羽の雄の鳥がおる。なんでもその鳥は南国に住む極楽鳥という鮮やかな羽を持つ鳥らしいんじゃ。その極楽鳥もその動物園の園長に譲ってもらったのじゃ。たしか君はいま自由気ままに生きたいと言ったな。それなら大空を自由気ままに飛べる鳥はどうじゃ?」
「え? 鳥ですか? 人間と鳥とでは脳の大きさが明らかに違いますよね?」
「そうじゃ。それが一つ問題なんじゃ。方法としては人間の脳の大事な部分だけを切り取って鳥に移植するんじゃが、成功するか失敗するかはわからぬ。もし失敗してしまえば君は永遠に目覚めることはない。それでも脳を移植する覚悟はあるかね」
彼の目にはもう一切の後悔はなかった。
「はい、もちろん。俺は一度死んだ身。もう死など恐れるに足りないです。どうかこの身を、どうかこの身を実験に使ってください。博士、おねがいします」
「いい覚悟じゃ。それと君に朗報がある。今回は同時に異種移植での不老不死の実験も兼ねたいとおもっておる。君が鳥になって体が弱ればまたここに来たらいい。そうしたらまた違う個体にその脳を移植すればことは済む。そうすれば君は不老不死じゃ。そう、君は不死鳥になれるのじゃ」
彼の目には輝きがよみがえっていた。
「ふ、不死鳥! 俺はあの伝説の鳥、不死鳥になれるんだ! 不死鳥となって自由気ままに大空を飛ぶことができるんだ! 博士、俺はもう、俺はもうなにも思い残すことはありません。異種移植の実験をおねがいします」
博士はにっこり笑って静かにうなずいた。
「沼川さん、幸運をお祈りいたします」
と言ってマタヌキもにっこり笑った。
まもなくして異種移植の手術は開始された。彼は麻酔によって深い深い眠りに落ちていた。その横では絹のように透きとおった赤い羽の極楽鳥が一匹、長い尾羽をだらりと垂らして横たわっていた
――――それから幾時間が経ったのだろうか。ビルの合間から一匹の鮮やかな赤い鳥が、雲一つない大空へ飛び立っていった。きらびやかな赤色の長い尾羽をゆらゆらと揺らめかせながら――――。
執筆の狙い
某サイトに投稿した無反応作品です。
テーマはエゴイズムのつもりです。
至らない点がありましたらご教授ねがいます。
ご一読おねがいします。