作家でごはん!鍛練場
敷島梧桐

蟹々の沈黙

# 笠木

 あたかも青く、青という言葉が失われてなお青みがかったような月下の海である。
 僕たちは海岸線を越境する。ぼうっと光る砂上に六つの足を踏ん張っている。次々と、代わる代わる、思い思いに踏ん張っている。青白い六つの腕で腐りかけた一個の木塊を引きずり、歩んでいる。木塊の表面はフジツボやシジミの黒い凹凸に濡れている。その濡れた膚の下が薄光の空気にふれ、かつて朱に塗られていたことをかろうじて思わせる。思わされつつなお、僕たちはザッ、ザッと歩む。言葉は挟まれない。そうだ、余計な言葉は一切交わされない。不要な言葉がなんであるかを僕たちは確信している。冷たい確信のなかで、ただ手足を踏ん張りザッ、ザッと歩んでいる。手のひらが乾いた潮でべたついて、木塊からほぐれ出た木片がくっついてくる。手をゆすぐ行為をキューに送る。僕たちはデキューされてきた行為を淡々と実行していく。このようにして、僕たちは今も夏の始まりにある。
 六分の二本、細く骨ばった腕。六分の二本、金色の毛が目立つ腕。六分の二本、白くやわらかい腕。
 私たちが運ぶ腐りかけの木塊、これは漂着物。私たちは漂着物を集めて記録している。思えばずいぶん長い間そうしている。何か目的があるわけではなくて、でも私たちはこの活動が、なんだかちょっとやめられないのだ。旅先という旅先で海岸に出て、浜辺を歩む。もしかして、単に海が好きなだけなのかもしれない。私たちは貝殻とすれ違う。ヒトデとすれ違い、蟹とすれ違う。イソギンチャクとすれ違う。そして巨大な一枚岩にたどり着く。私たちは木塊を地に横たえ、波の中に高く聳える巨岩を見上げる。岩越しに満ち満ちとした月を望む。三〇〇フィートはあろうかという、干し草岩の名を持つ海食柱。逆光の巨岩は夜に空いた黒い穴のように見えている。私たちの誰もがそのように見ている。七つの瞳がそのように見ている。御神体だな。誰ともなくそのように発している。建立せよ。誰ともなくそのように聞いている。
 三つの声、四つの声、無数の声。いずれも区別はない。神々の声のトレース。
 漂着物の中でも、太平洋を横断してきたものとなれば殊に魅力的に映る。数年前に対岸を浚った津波の漂着物がここ最近増えていて、それで俺たちはある種の豊かさを享受している。たとえば、物のまとう文脈を異邦に移植する行為の豊かさを。そのインスピレーションと、新しいアートの予感を。腐りかけた笠木を見つけた翌朝、俺たちは長さ一二フィートの細い丸太を三本注文する。木材加工場から材料が届くまでのあいだ、俺たちは組立手順を立てたり、道具を準備したり、まぐわったりしている。笠木は日当たりのいい場所に干しておく。過去の漂着物の記録を眺めては、記録の新しい解釈と、いまだ未知の画期的な文学性をまさぐっている。漂着物を記録する行為の有用性に議論の余地は、やはりない。俺たちを除いたとしても、その記録を好奇とともに見いだす者はいかなる時にも現れうるからだ。未来として想定する年月を延ばすほどに記録の有用性は増していく。当然、種々の記録活動間に優先順位をつけることもしない。未知の学問的・芸術的達成への最短路は誰にもわからないからだ。未知は予想を拒むから、未知だ。観測リソースを確保し、余さず記録する。それが俺たちにできるすべてだ。俺たちは自分たちの行動に関して迷う余地がない。そして一二フィートの丸太三本が俺たちの元に届く。
 あたしたちの形を想像することと、あたしたちの姿を俯瞰すること。両者は緊密に結びついている。
 三つの肉体で一本ずつ丸太を運ぶ。夏の始まり、正午前の日差しがあってなお海風は肌寒い。あたりに人影は見えない。波打ち際の音を拾う観測点に囲まれて、巨大な一枚岩は冷たい山のように黙している。巨岩、つまり御神体まで八〇〇フィートほどの砂浜に立ち、僕たちは行動キューに従って建立し始める。笠木、柱、貫板それぞれに寸法を記す。柱となる丸太の断面に中心線を引き、水糸を張る。ドリル、ハンマー、ノミを使って貫板を差し込むためのほぞ穴を開ける。貫板となる丸太の接合部分を掘り出す。僕たちはおのおのの箇所でノミを叩く。僕たちは等しくノミの扱いに習熟している。笠木となる腐りかけた木塊にほぞ穴を空ける。ドリルとハンマーの衝撃で、木塊はほとんど砕け散る寸前のように見える。笠木のほぞ穴に入るように、柱の先端を加工する。笠木の曲線に沿うように、ノミで接合部の曲線を作る。貫板で固定した柱を腐りかけた木塊に差し込むと、鳥居の形になっている。苛性ソーダと漂白剤で表面を洗い終えるころには日が落ちている。仰向けになった鳥居を置いて、僕たちはキャンプへ戻る。
 点在するコテージから立ち上る焚火の灯りと煙が、林全体の空気を仄かに照らしている。林の奥から、ときおり陽気な撥弦楽器の音色が聞こえてくる。彼らが昼間どこで何をしているのか、私たちは知らずにいる。あえて調べるようなことはしない。彼らがどこからやってきたのかも、彼らが何を記録しているのかも。知らずにいることによって、私たちは彼らと擬似的に異なる主体を維持している。そうすることを私たちは好む。そうすることを好むから私たちは私たちだ。一方で、彼らが私たちを同じ主体と見做すことを私たちは拒まない。見做すことは自由だ。見做されたなら、私たちは彼らの語りの一部だ。同時に、彼らは私たちの語りの一部ではない。焚火の灯りが一つずつ消えていく。夜鳥と昆虫の鳴き声。私たちは背中が三つある獣になる。夜が更けていく。
 性交は非対称的な行為の最たるものであり、それは俯瞰的な営みとなってあたしたちの元からすみやかにズームアウトしていく。
 ところで鳥居という建築物の起源はいまや曖昧で、はっきりしたことは分からないのである。古代日本における神社建築の一部であり、その役割は、神域と俗界とを区切る結界であり、門だ。それを鳥居と呼ぶからには、何か鳥にまつわる由来があった。由来がなければいけない。たとえば、鳥居の笠木のてっぺんがいつも鳥の糞まみれになるからだとか、古事記の天岩戸で天照大神に鳴きかけた常世長鳴鳥に因むだとか、《通り入る》という言葉の音がそのまま借用されたとか、何かしらの由来が、必ずあった。俺たちの身体は今も物語で出来ているから、そこに確信が宿る。それが失われてしまった今でも。俺たちは朝食を摂り(朝食という他に表現のしようがない)、今日も海岸へ向かう。かつてキャノン・ビーチと呼ばれた海岸へ。俺たちは真っ白に垢抜けた鳥居の表面にニスを塗りたくる。あらかじめ手配していた小型重機で砂浜に三フィートほどの穴を掘る。バケット容量〇・六立方フィートの油圧ショベル。かつてアラスカに滞在したときに操縦したのと同型だ。掘り起こした穴に、支えになるよう鉄板を差し込む。鳥居の貫板にワイヤーを引っかけて、小型重機で引き起こす。垂直に立ち上げた鳥居の足を砂で埋める。キャノン・ビーチに鳥居が立つ。
 腐った木塊が、一度は個を剥奪された木一般に過ぎない存在が、鳥居の笠木になりなおす瞬間。その鳥居はあたしたちの始まりの門だった。そうだ、あたしたちは何度でも始まることができた。ふと、先週すれ違った小さな蟹が背後からあたしたちの視点を追い越していく。ざりざりと鋭いつま先で、歩む。あたしたちのことを横目に見ながら、歩む。その歩みは遅々として進む。その蟹は鳥居を目指しているように見える。少なくとも、あたしたちにはそのように見えている。蟹は何度もお辞儀をしながら、歩む。何礼何拍の御神体か、あたしたちはまだ決めていない。腐りかけた笠木をいただく鳥居、これを額縁とした遠景に鎮座する、御神体たる巨岩。ランドスケープの穴たる巨岩! 蟹は黒い穴へ落ちていく。此岸にいるあたしたちは蟹の歩みを眺めて、眺めて、眺めて、眺めている。七つの眼で二者の待ち合わせを眺めている。眺める眼の先の空気が泡立ちはじめる。
 蟹が、鳥居をくぐる。



# マンドリン

 起床し、天気予報を聞きながら歯を磨き、洗顔し、共用スペースへ下りてゆき、僕たちは互いを見つけて挨拶を交わし、代わる代わる朝食を準備し、テーブルを囲み、今日の開発スケジュールを議論すると、いつも子音の前にいたrの発音が消えていて、二重母音のパターンが統合されていて、a音がすこし長くなっていて、発話のリズムには耳覚えがない。マイクに声を吹き込み、音声認識から検索をかける、ジャマイカ・イングリッシュのパターンに一致する。へえ、と僕たちはこぼす。中米にはまだ行ったことがないな。それでおしまい。いつもみたいに仕事に取りかかり、それからは打鍵音だけがある。
 昼前には向こうの連中とつなぐ。連中はいつも夜の中にある。連中は、いつものように質問を繰り返す。無邪気な質問を繰り返す。それをぼくたちは太平洋の潮騒と、ジャマイカ・アクセントで打ち返す。馴染みの薄いリズムが口から自動的に吐き出されるのはなんだか心地よくて、だんだん楽しくなってくる。どうしても楽しくなってきてしまう。この感情ははじめて経験するアクセントに共通するものだ。僕たちは経験している。異邦のアクセントが無意味に僕たちを興奮させている。楽しくなってしまうことを止めることは出来ない。昨日までのアクセントは、すでにどこか縁遠いものになっている。
 現象そのものは、かつて外国語様アクセント症候群と呼ばれた外傷性脳疾患に近いと聞く。物理的な衝撃に起因して脳の言語野が変調し、彼ら/彼女らの発話の語調やリズムが不可逆的に変質するという。変質の結果、彼ら/彼女らは隣国か、あるいは見たことも聞いたこともない遠い国の言語のアクセントを獲得するという。情勢が不安定だった時代には、諜報員と見做され拘束される事例も残るという。滑稽だが、真に迫る話だと思える。こうした挿話はときおり僕たちの表層に堆積し、きまって忘れた頃に掘り起こされる。補足するまでもなく今日では、このいわゆるシンドロームにおける《外国語様》の部分はパレイドリアの一種とされる。変質したアクセントの聞き手らが田舎者たちならそれは単に変なアクセントだし、聞き手らが世界を股にかけていたならそれは外国語様になる。彼ら/彼女らの発話が外国語様となる根拠は、本人らの口ではなく、聴き手らの耳の中にあった。なんて牧歌的なヒトの認識機構だろう! そんな素朴な認識の有り様を、僕たちはいまや想像さえできない。今朝降りてきたジャマイカ・アクセントとこの症候群との間には、もう何の関係もない。音声認識の精密化とパターンの細分化が進むほどに、あらゆる可能なアクセントは既存のパターンに回収されていく。かつてパレイドリアは混沌とした世界に秩序を齎したのかもしれないが、いまやヒトの認識に、純粋なパレイドリアを生じる余地はなくなっている。
 正午を過ぎると僕たちはきまって海岸へ出る。滞在しているコテージが海上建築だから、はじめから海岸線上で寝起きしているとも言える。群島でのテレワーク生活は、滞在前の想像よりも遙かに居心地がよい。穏やかな潮騒が僕たちを作業に没入させ、またその後の疲労を忘れさせる。僕たちは翠玉色の海縁を歩みながら、珊瑚礁の表面を透視する。この海岸は環礁の一部であり、僕たちの立つ砂浜は海上に浮かぶ翡翠色の楕円に接している。接線方向から少し内側を眺める。環礁の浅瀬から小舟を出している人たちが見える。彼らはダイビングスーツを着用している。環礁の中心部を目指しているのだと思う。そこに沈む、人類最後の大戦で使われた軍艦目当てだろう。かくいう僕たちも、ここに滞在し始めた最初の日々にダイブした。かつての核実験の爆心地に。十一個の眼で逆しまになった軍艦を眺めた。腐った鋼鉄の塊は海藻たちの住みかになっていた。
 僕たちは海岸を散策すると同時に仕事を進める。四本の足で海岸を歩み、六本の腕でキーボードをたたく。肉体と精神の求めに応じて、次々と、代わる代わる、思い思いに砂浜へ出る。浜ではときどき変なものを拾う。今日は壊れた弦楽器が漂着しているのを見つける。楽器は小さな木製の筐体を持ち、ヘッドの部分が折れている。千切れた弦が垂れ下がり、丸い背面に貼りついている。画像認識によれば、マンドリンと言うらしい。サウンドホールから筐体内部を除くと、中に小さな黒い貝が数個張り付いており、長いあいだ太平洋を漂っていたことがわかる。磯の匂いが染みついている。ふと、長く海を漂流した木樽でウイスキーを熟成させるとどうなるんだろう、と思う。思ったことはすべて記録し、ネットにアップロードする。情報は集積され、利用される。世界中でさまざまな記録が同時に集積される様を想像するのは愉快だ。僕たちは今日の入力蓄積状況を確認する。端末液晶に表示されたパイチャートは、ヒトによる生の入力データが若干不足している状況を示している。もう少し記録を取っておく必要がある。僕たちはそれからしばらく散策を続ける。
 漂着物を専門に記録しているわけではないし、ビーチコーミングを趣味にしているわけでもない。それでもあたしたちは、面白い漂着物を観測したら必ず記録するようにしている。それは人々に課せられた義務でもある。かつては、海洋気象の調査に漂着物が使われていたと聞いている。震災で海に流れた物体をサンプリングして、その大きさ・形状・重さ、漂流の始点と終点から、海流の経時変化を調査したという。まるで、文明の黎明期に漂着物から国政を占った、古き占星術師のように(占星術はパレイドリアの最たるものだった)! 一方、あたしたちがいま漂着物を記録する目的は、より原始的だ。記録すること自体が、目的なのだ。この時代の人々は漂着物に限らず、様々な事物を観察し、記録をつけている。特に、予想のつかないものとの邂逅は良いサンプルになる。これらの活動は、人類を文明につなぎ止めておくための錨だ。生身の肉体による入出力を確保すること。すべてが機械と知に置き換わっても、肉体を忘れなければあたしたちはいつでも戻ってくることができる。虚しくも、そう信じている。
 定時に仕事を終える。夕食前の時間、僕たちはスキットルとショットグラスを持って、赤みが差したビーチに繰り出す。体感気温二二度の湿り気を帯びた空気、サマーベッドに腰掛けてグラスにウイスキーを注ぐ。ウイスキーからは、熱帯果実のような香りがする。穏やかな潮騒に聴き入りながら、拾った楽器を手でもてあそぶ。弦はちぎれている。ヘッドは折れてなくなっている。無残な姿だが、趣がある。目的を果たさなくなった道具は純粋な雅趣に富んでいる。太平洋に面するどこかの国のどこかの人々の所有物を、いまは僕たちが所有している。その物的側面の連続性や流動性に対する、社会的属性の不連続な感覚。簡単に書き換えられてしまうプロパティの軽薄さを、僕たちは思う。夕食ごとに焼かれるみずみずしい肉は、どこからやってきたのだろう。それは、大洋のぽつねんとした群島には似つかわしくないものだ。向こうのコテージから数名の男女がこちらへ歩いてくる。昼間ダイビングスーツを来て小舟に乗っていた人たちだろう。彼ら/彼女らの話すアクセントは、いままでの僕たちが話したことのないものだった。
 ところで、それはなにかね? と彼ら/彼女らは、僕たちが手でもてあそんでいた木棺を指さす。
 マァンドリン、と僕たちはジャマイカ・アクセントで発音する。少し間の抜けた響き。それが、彼ら/彼女らにとってのマンドリンの表象になった。
 あたしたちの書き換えられたプロパティは、三つの言語野を経由してつながるネットと、あたしたちの肉体の双方による所産。世界に暴かれ、接続された人々の言語野が吐き出したアウトプット。特に補足運動野とブローカ野は、まるではじめからそういう器官として設計されたかのように、現代における外国語様アクセント症候群の発生と伝搬を媒介する。人類すべての言語野がつながったのが、いまからちょうど半年前。この群島は、アラスカやシベリアの軍事拠点と並び、地球上で全住民の接続を完了した最後の地のうちの一つだった。あたしたちにおかしなところはない。なに一つおかしなところはない。ただ、せわしない言葉の移ろいが、少しうるさいと思っているだけで。
 群島での滞在期間が終わりに近づいている。少しずつ作りはじめた荷物の中に、僕たちはかつてマンドリンだった木棺を放る。漂着物を持ち帰ろうと思うのは稀なことだった。持ち帰ってどうするかは決めていない。サウンドホールに耳を宛てると、波の音が聞こえてくるような気がする。壊れたまま本棚に置いておくのがいいかもしれない。それとも、もう一度道具としての目的を与えるか。無理に修理するより、新しいのを買った方が安上がりかもしれない。
 むろん、マンドリンなんて古い楽器が、まだこの地上に流通していればの話だが。



# 鯨

 明け方の沿岸路をロードバイクで縦走する。テトラポッド群が海岸線と平行に列をなしている。護岸工事の末、人工的な直線をなぞる海岸線、その合間に肩を寄せる古い磯。ほとんど消えかけたかすかな磯の匂いを肺に留めつつ、私たちは縦走する。六つの車輪で縦走する。走っている間、私たちの中に自分たちが動かしている肉体は存在しない。あたしたちの中にはただ、七つの眼に結ばれる像だけがある。あたしたちの肉体は自動人形と区別が付かない。ふと、誰ともなく地図アプリを網膜に投影している。もうじき岬にさしかかる。太平洋を望み、古い灯台をいただく、古い岬。私たちはもう何度もこの道を通っている。今さら地図を見る必要もないが、誰ともなく地図は開かれている。岬を通過してすぐ短いトンネルに入る、トンネルを抜ける。一度に視界が開け、目の前に灰色の砂浜が広がる。その浜に映っている、なにか、黒い影。今朝の浜辺はいつもと少し違った。明け方の浜辺には、一匹の鯨の遺骸が打ち上がっている。
 沿岸路の勾配を下りきってから、ロードバイクを降りる。バイクを背負って波打ち際へ下りていく。眺めるに、鯨の全長はおそらく一〇メートルほどある。その皮膚が白く爛れていることが遠目からでもわかる。その爛れの実体を間近で見ようとは思わない。腐敗によるガスを裡に孕んでいるのが、ここからでも見て取れる。私たちは砂上にバイクと腰を下ろして、鯨の遺骸と水平線とを重ねて眺める。御神体か? 誰ともなくそう囁く。いつか見た、御神体か? いつ見たともわからぬ巨軀。しかし、と続けて口を開く。やがて朽ちゆくものは、神たるのか――ああ、そうか。朽ちゆくものへの憧憬をこそ、いま私たちはその巨軀に仮託しようとしているのか。
 ふと、鯨のような海洋哺乳類、あらゆる魚類、あらゆる微生物を含めた海洋生物の総体を想像している。まさしく想像に過ぎないのだが、あたしたちにはその総体を容易に想像することができる。海洋生物の総体としての意思を仮定したとき、その主体は海自体こそがふさわしいだろう。海そのものを一つの主体と捉えることに、その一人称複数を仮定することに、あたしたちは何ら抵抗を持たない。かつてその種の海に覆われた惑星が想像されたと伝え聞く。巨大な一つの意思たる海、それを身に纏う美しい惑星。その惑星の姿は、今のあたしたちの姿とよく似ていたのかもしれない。いや、間違いなく似ていただろう、かつてあたしたちが作り上げた集合的な知のシステムは。また、いつしかそれと同化していた、このあたしたちの姿は。
 左手、私たちが向かっていた先の方角から、サーフボードを担いだ人たちが近づいてくる。彼ら/彼女らは日に焼けた六つの足で、まるで朽ちゆく鯨の巨軀が見えていないかのように近づいてくる。
 私たちはデキューされてくる言葉をお互いに告げる。何を告げたのかはさしたる問題ではない。交わされる言葉は余計な言葉であり、口や喉の体操という側面だけがかろうじて意味を持っている。私たちの対話は、さながら集合的無意識のトレースだ。
 かつて、意識というものがあったと聞いている。あらゆる文献でその存在が示唆されている。ある文献には、《迷い》と《慣れ》がヒトの意識の本質だ、とある。曰く、ヒトは同じ事象に繰り返し接する度に、その事象に対する意識が薄らいでいくのだという。たとえば、生まれて初めて海を見たときの感覚は、毎日海を見続けるほどに薄まっていく。海は海という認識のパターンに格納される。いつしか水平線まで続く塩水の原と波を見ただけで、それは海であるということになる。ああ、美しき原初のパレイドリア! 生の感覚を自分たちの手でスポイルする甘美な贅沢に、あたしたちは思いをはせる。いまやあたしたちは、単なる感覚の供給源にすぎない。感覚を消費するほどの贅沢は許されていないのだ。
 文献は《慣れ》についてこう続ける。例えば生まれて初めて泳ぎを教わるとき、人々は腕を回す周期とバタ足の周期とを、教わったタイミングで持続させられるように意識する。また、手のひらを水が良く掻けるような形で維持するように意識する。そのとき彼らは弛まぬ意識とともに泳いでいる。しかし、泳ぎに習熟するにつれて、そんなことをいちいち意識する必要はなくなり、それらの動作は無意識のうちにできるようになっていく。慣れが意識を殺すのである。
 意識を持たないあたしたちは、すでに意識を殺されたあたしたちは、慣れるという言葉の意味が理解できない。慣れるということを想像することはできるけれど、体験することはできない。先の文献はこう続く。《慣れ》とはすなわち、何を選ぶべきか迷う余地のない状態に到達したことを示す。先の例で言えば、掻き手とバタ足の周期についていちいち迷う必要がなくなった状態が、泳ぎに慣れた状態である。翻って、《迷い》こそがヒトの意識の本体であるといえる。ヒトの意識は、何かに迷ったときにはじめて無意識下から浮上してくるのである。
 サーファーたちが鯨の来し方へ入水していく。鯨の巨軀はいまも少しずつ腐り続けている。私たちは立ち上がる。ロードバイクを背負い、沿岸路へ歩き始める。日差しを受ける背中が、少しずつ汗にぬれていく。ふと、ささやかな風が私たちの背を撫でる。汗の気化熱が大気に放出される。私たちは風の来た方角に目をやる。七つの目がそちらを向く。砂浜に下りるときには気づかなかったが、沿岸路からトンネルの脇に急勾配の石階段が伸びていて、その先の海を望む断崖に、小さな木造の祠が建っている。今まで何度も通った道だが、はじめてその存在に気がついた。神社だろうか、石階段の入口に鳥居が建っている。私たちは石階段の前まで歩く。小さな鳥居だ。二メートル弱の高さしかない、小さな鳥居。朱色の鳥居。その笠木の反った曲線は、すこしでも空に近い場所に位置するべき曲線だった。そのささやかな曲線は、下から望まれるべき曲線だった。私たちは一礼して鳥居をくぐり、石階段を上る。石階段は七七段ある。上りきった先に、小さな祠がある。祠の脇に、注連縄を巻かれた木が一本立っている。楠だという。他の木が枯れ果る(おそらく塩害によって)中で、その木だけは盛んに命脈を保っているように見える。私たちにはそのように見えている。祠の裏手から、鯨の巨軀が見える。ここから見える鯨は、白く腐り続けていることが嘘のように黒々として見える。私たちは祠の裏手でしばらく海を眺めている。しばらく、海を聞いている。
 素朴な日常のスケッチ。この手のスケッチは人々にとって絶やしてはならぬ火だ。ヒトの肉体に基づく認知と情動の火だ! これらの情報はネットに供給され続けなければならない。これは人類にとっての、最後の防衛線なのだ! ネットにつながるあたしたちの主体は、いまやネット自身、あるいは社会自身であると言ってもいい。古く蓄積されたネットの情報、集合的な知のシステムが、いまや人類そのものだ。生きるのに必要な情報を過不足なくインストールされたあたしたちは、はじめから誰もが同じ経験と知識を持っている。ヒト個体の経験や知識に価値が認められた時代はとうに終わった。ヒトは個体のリソースによらずに育ち、生きている。あたしたちはみんなつながっていて、みんな同じ。早晩、人類から一人称は失われるだろう。童話に出てきたイヌやサルのように、一個のヒトという存在になるだろう。今はその過渡期だ。だからあたしたちは、今は一人称複数だ。あたしたちはネットの声を聞き、それに従う。そこに選択を迷う余地はない。社会の側がヒトの主体であり、ヒト個体はそれを成長させるための副次的な存在。人々による知の集積行為も、ネット自身の要請に基づくものだ。だからこそ。だからこそ、システムに知の入力と出力のすべてを担わせるわけにはいかない。それを許したとき、ヒトはヒトではなくなる。そう思えてならない、あたしたちには。それを許したとき、社会はヒトの軛を解かれ、知は際限のない行進を始めるだろう。ヒトの肉体を置き去りにして! でも、ヒトは肉体を持った動物なのだ! そう、動物なのだ! せめてこの生の肉体を通した情報に基づいて生きなければ、それは嘘だ! あたしたちは、自分たちの動物性を守らなければならない! 今なお多くの文献から、ヒトが感覚と認識の主人だった時代、ヒトがまだ動物として十全に生きていた時代の様子をうかがい知ることができる。でもそれは、ただ知ることができるに過ぎない。あたしたちにはもう、それがどういうことなのか、体験することはできない。そのための器官がないからだ。ヒトの肉体は、かくも巨大で迅速なネットに接続してなお、感覚に基づく純粋な認識を維持できるようには設計されていない。そして地上に生きるすべての人々がネットにつながるのも、いまや時間の問題だ。きっともう何年もかからないだろう。
 僕たちは、ノイズを感じている。わかりきったことを、誰もがはじめからわかっていることを、あえてアップロードする意味はなんだ。それは、今さら地図を見る必要がないほど慣れた路なのに、誰ともなく地図を開いてしまうかのようじゃないか。この文は何のために書かれている。誰に宛てて書かれている。【僕たち:傍点】人類のためではないのか。
 そして私たちは、誰ともなく荷物から小ぶりな弦楽器を取り出す。マンドリンと言うらしい。ひとつの楽器を、二本の手で演奏する。鯨の黒い巨軀を見やりながら、私たちは。そのとき、大地が揺れる。その拍子に楽器を取り落とす。揺れが収まって楽器を拾い上げようとかがんだときに、第二の揺れが来る。強く揺れる。掴んでいた楽器を勢いよく放り落とす。楽器は崖の斜面に落ち、そのまま滑落していく。私たちは地面にへばりついていて、楽器の行く先を眺める余裕がない。
 大地は揺れ、やがて波の音は聞こえない。



# 石球

 二一二一年九月のある晩、アラスカ州コディアク沿岸にあるホテルの一室、俺たちはキングサイズのベッドの中で、ある夢を見た。夢の中でも、俺たちはやはり海辺にいた。
 その海辺で、俺たちは青銅の武具を身につけたアカイエの兵士たちだった。その海辺で、俺たちは神々の声に耳を傾けていた。神々は、自らの娘たちである女神たちに呼びかけていた。怒りを歌え、怒りを歌えと呼びかけていた。俺たちは冬の砂浜で、女神たちの怒りの歌を聞きながら、まるでそれが毛布であるかのようにぼろ布に縋って震えていた。頬はげっそりと痩け、目は落ち窪んでいた。俺たちは五年近くもその海辺で立ち往生していた。その日は川に向かってもう何度目になるか分からない進軍を再開する日だった。でも俺たちの腕は、もう青銅の剣を持ち上げるのでやっとだった。その晩も俺たちは眠れなかった。なにしろ夢の中で眠ることは出来ない。俺たちはただぼんやりと天頂を眺めていた。明けぬ夜の空は、天体を覆う虚球の疎密入り交じる泡のようだった。それらは、攪拌された虚ろな真球の群れだった。やがて天から降り注ぐように聞こえてきた潮騒が徐々に遠のき、東の空から生命の始まりの気配が近づいてきた。日の出とともに勇将たちが立ち上がり、俺たちの前で演説をはじめた。神々の自動人形たる英雄たちが。自分が何をしているのか自覚のない、気高い自動人形たちが。すると、俺たちの身体にみるみる生気が漲ってきた。上腕二頭筋が怒張し、血管の筋が表皮を走った。幾本もの剣が天に掲げられ、かけ声が上がりはじめた。相対するアカイアの勇将たちと俺たちは競うように声を張り上げ、やがて士気は最高潮に達した。俺たちがその身に溢れる力強さと凶暴性のはけ口を探し始めたとき、勇将たちがおもむろに進軍をはじめた、敵が陣を敷く川辺へ向かって。俺たちはその歩みをトレースした。それは、気高い自動人形たちの精悍たる行進だった。俺たちは青銅の防具に身を固め、剣を掲げ、手足を踏ん張りザッ、ザッと歩んだ。言葉は挟まれなかった。余計な言葉は一切交わされなかった。そうしてどれほどの時間、歩んだだろうか。やがて日が高くなる前に、俺たちは川に面する平野に到達した。川辺ではジュニパーベリーの匂いが鼻についた。敵陣はもぬけの殻だった。平野に殺到した俺たちは剣を振り下ろす先を失って呆然としていた。しばらくして、河原の真ん中に何か丸いものを見つけた。近づくと、それは綺麗な灰白色の石球だった。大人の身長ほどの直径を持つ、よく磨かれた貝殻石灰岩の石球。それはほとんど真球のようで、その上その球には境界がなかった。境界のない、開いた球だった。御神体だな。誰ともなくそのように発している。これほど大きくて綺麗な球を見たのは初めてで、ましてや開いた球を見たのも初めてだった。その球を目にした認識は、それまでに見たいかなるイメージにも回収されない、純粋な感覚だった。すると俺たちの神々の自動人形たる勇将たちが、迷うことなく開いた球面に手を伸ばした。触れるやいなや、敵方の神々が数千のトロイエ兵に身を窶し、川の対岸で戦列をなして戦神たちの軍歌を歌っていた。怒りを歌え、歌いたまえよ。俺たちも歌に呼応するように、川へ向かって戦列を組んだ。蒸気が吹き上がるような闘いの気配に、空気が泡立っていた。突撃の号令が聞こえる――。
 その瞬間、俺たちは目を覚ました。ベッドの上に三つの肉体が列をなしていた。シーツに染みこんだ三つの肉体の匂いが混ざり合い、重なり合った言語野のなかにゆっくりと溶けだしてくのがわかった。その温もりは、儚くも奪い去られた人間の孤独に対する、最初で最後の贖いだった。死んだ原色が静かに蘇ってくるような洋上の夜明けが、窓の外に広がっていた。



# 蟹

 あの日、あたしたちのうちの一つの瞳だけが、別の夢を見ていた。それは初めての経験だった。夢の中で太平洋を漂流する一つの肉体のイメージが、今も脳裏にくっきりと残っている。
 こうして、肉体は漂流する、最後の孤独を胸に抱いて。その肉体は一年以上にわたって洋上にある。すでに一万マイル以上の距離を旅している、とうに燃料を失った小さな漁船に乗って。恐るべき嵐を乗り越え、バッテリーと通信手段を失った孤独な肉体は、洋上で魚や海鳥、海亀を捕えて生き延びている。白い布を張って日陰を作り、蒸発した海水を集める装置を作り、網や銛を修理しながら漂流している。漁船は貝や海藻で覆われていて、中には亀の甲羅が山積みになっている。そのうちの一つを枕にして、その肉体は眠りの中にある。そして、あたしたちの瞳のうちの一つが、その肉体を見い出す。
 キャノン・ビーチに滞在する最後の日だった。滞在中、僕たちは漂着した木の枝(いずれも海水と日光に洗われて漂白されている)や動物の骨(ヒトの骨と思しきものもあった)、オレンジ色のブイ、干からびたヒトデ、貝殻、辛うじてそれがかつて下着だったことがわかる薄汚れた布切れなどを組み合わせ、いくつかの彫刻物を作った。いずれの彫刻物も、完成した時点でその役目を終え、路上だとか、焚き火の中だとか、僕たちではない人たちが滞在する貸しコテージのデッキだとかに捨て置かれた。あの日ビーチに建立した鳥居だけが、今日まで僕たちの興味を惹きつけていた。食事や睡眠の時間以外はずっといずれかの肉体が鳥居の前で祈りを捧げていた。何を祈っているのかもわからず、あえて鳥居をくぐることはしなかった。
 朝方、俺たちがビーチに出ると、砂の上に腰掛けて弦楽器を鳴らしたり聴いたりする人たちがいた。その楽器は、黒ずんで腐りかけた胴部を持ち、ネックから先だけが真新しい、奇妙な代物だった。彼らの一部は日陰のなかで膝に乗せたラップトップを凝視していた。パラソルの陰に入りきらない人たちが楽器で遊んでいたり砂浜を歩いたりしていた。僕たちにとって、彼らは一般化された他者以外の何者でもなかった。そしてネットの本質は一般化された他者だったから、俺たちもそいつらとほとんど同様の存在だった。そうだ、俺たちは結局のところ、俺たち自身にとっての他者なのだ! 彼らと俺たちの人称はたいへん近しかったので、そこに何らかの対話が入り込む余地はなかった。だから俺たちは彼らの領域を通過して、黙々とビーチを歩んだ。
 そして私たちは貝殻とすれ違う。ヒトデとすれ違い、イソギンチャクとすれ違う。
 その歩みの中で、僕たちはすれ違いの定義を検討している。たとえば、交わらない二本の直線上をそれぞれ歩む二者を想定したときに、両者が最も接近する瞬間をすれ違いと定義できるかもしれない。そこで問題になるのは時間と空間のスケールだ。もし交わらない二本の直線間の距離が大きく離れていたなら、それはすれ違っていると言えないような気がする。しかし、二つの直線を十分遠くから見たならば、両者はやはり接近しているように見え、すれ違っているように見えるだろう。また、たとえば二者のうち一方が静止している場合、それはすれ違っていると言えないような気がする。しかし、すれ違う両者の時間スケールが十分に隔絶している場合、一方に対して他方の歩みがほぼ静止しているように見えるだろう。そもそも点が静止しているかどうかは座標の取り方次第であって、等速直線運動と静止との間にさしたる違いはない。だから定義上、空間スケールと時間スケールを十分に広げた場合、僕たちはこの世の全ての存在に対してすれ違うことができる。波に削られながら地殻と共に歩む巨岩とすれ違うことだってできる。
 日の出からずいぶん経っているはずなのに、いまだ遠洋から響くような低い波の音が私たちの肉体を震わせている。ああ、冷えた大地が遠くの音を響かせている。その響きの中で、私たちは巨大な一枚岩とすれ違う。先月建立したいびつな鳥居が、まだ垂直に立っている。鳥居は精確に測量されて組み上げられているが、キャノン・ビーチに移植された文脈と、古い笠木に継ぎ接ぎされた真新しい柱材が、大いなるいびつさを伴って私たちのランドスケープに顕現している。このいびつな鳥居も、高波や嵐が来れば砂のなかに倒れ、波に浚われてしまうかもしれない。それとももしかすると、御神体たる黒い巨岩がそれを許さないのかもしれない。門たる鳥居越しに、私たちは御神体を眺める。そして、巨岩の裏側の裾野に引っかかるようにして、小さなボートが揺れているのを見つける。一つの瞳が、私たちの一人称複数を保証する一つの瞳が、それを見出す。
 アップロードされた語りの一つ一つを内包し、同時に内包されるわれわれが見る景色、そのランドスケープの中にわれわれが含まれることはついぞない。あたしたちのネットは、クーロン力で付きまとう泡のようにあたしたちを覆う虚球の群れだ。その虚しさに、あたしたちのほとんどはすっかり慣れ親しんでしまった。書かれた時点で独立した精神となる言葉たち。書かれた言葉たちが随時われわれに所属し、われわれを形成してゆく。意識を持たないわれわれ自身が形成されてゆく。そこに一つの瞳が加わり、あたしたちは仕上がる。あたしたちのうちの一つの瞳。対流圏から熱圏にいたる範囲を巡航する種々の飛行撮影機と衛星によって構成された視線、地上を動き続ける視線として、その瞳はある。それは純粋な視線であり、だから純粋な言葉である。三つの言語野を通じてあたしたちに共有された肉のない筆記者。あたしたちの一人称的で非対象的な行為を俯瞰的な営みへと化する、一人称複数の要。ありとあらゆるものを写し取る現代のロビンソン・クルーソーにして、脳だけを持った瞳……。
 僕たちは海岸線を越境する。朝の冷たい海水に六つの足を踏ん張っている。次々と、代わる代わる、思い思いに踏ん張っている。六つの腕で小さなボートを引っぱり、歩んでいる。ボートの表面は海藻の黒い茂みに濡れている。その濡れた膚の下の白い塗装も、ところどころが金属錆に侵蝕されている。私たちはザッ、ザッと歩み、その歩みに言葉は挟まれない。そうだ、余計な言葉は一切交わされない。不要な言葉がなんであるか、俺たちは確信している。冷たい確信のなかで、ただ手足を踏ん張りザッ、ザッと歩んでいる。それなのに、僕たちの七つの目のうちの一つは、震えている。瞳は俯瞰せず、ただ一カ所を凝視している。ボートの中に横たわる女の肉体を見て、震えている。鳥居をくぐった私たちは御神体からボートを引き、また鳥居まで帰り着く。僕たちは乾いた潮にべたついた手で、ボートを鳥居の前まで引きずり果せる。間近で見た御神体の岩肌は、海鳥の糞にまみれて白く汚れていた。こうして俺たちはいまや夏の終わりにあった。
 あたしたちの、あたしたち性とでも言うべき部分が震えていた。ボートの中で、女の肉体はかすかな寝息を立てていた。身体中が日に焼けて真っ黒だった。手足の肌が荒れ果てて傷だらけだった。顕わになった腋には豊かな体毛が茂っていた。そして、あたしたちは見た! 女の痩せた腹の上を、小さな蟹が歩んでいるのを! いや、本当にあたしたちはその光景を見たのだろうか? 本当に、【あたしたち:傍点】が? 迷いが生じていた。そして迷いを知らぬ蟹の歩みは、女のささやかな乳房の丘の上に差し掛かっていた。その美しい突起に一歩が踏み出されたとき、あたしはようやく目を覚ます。とても長くて、とても退屈な眠りから。
 【それ:傍点】が、身体を起こす。手のひらの上に蟹をのせて。「【あたし:傍点】は」と【それ:傍点】が言葉を発する。嗄れて、かろうじて絞り出されたような言葉を。「【あたし:傍点】を、長いあいだ棲まわせてくれて、ありがとう」【それ:傍点】は一瞬だけ僕たちの方に笑いかける。僕たちには、その言葉の意味することがすぐにはわからなかった。
 【それ:傍点】が立ち上がる。そしておぼつかない足取りで歩み始める。ネットは沈黙していた。女神たちの怒りの歌も今は聞こえない。まるで古の神々の沈黙が伝搬してくるかのようだ。その伝搬が俺たちの肉体一つ一つに染み渡り、やがて俺たちが俺たちであった証をやさしく溶かしていってくれたなら、どんなによかっただろう。
 蟹が、鳥居をくぐる。

蟹々の沈黙

執筆の狙い

作者 敷島梧桐
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電脳化等の技術によって自我があいまいになったときを想定した一人称複数の語りを志向しています。

コメント

5150
5.102.0.232

あれ、もしかして、以前に、没入者 書かれた方では? 間違っていたら、ごめんなさい。

敷島梧桐
pw126199000137.18.panda-world.ne.jp

5150さま、

『没入者』というタイトルの短編をこちらに投稿したことはございません。

ブロンコ
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ちょっと下にピムっていう似たもんいますけど、わかってますか? やる気あるんですか。
何しに来てるんですか?

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