竜の軌跡 最終章( 今までのあらすじは、コメント欄に有り)
46.残りし想い
余りにあっさりと坂東を制覇したことで気の緩みが出たのか、或いは、覚悟を決めたはずの将門の意識が、客観的に見れば尚も中途半端であった為か、結果的にここが将門の頂点であった。
恐らく、将門が、朝廷を倒すことを最大の目標としていたとしたら、間髪を入れず、上洛の為の西進を開始したであろう。
京(みやこ)と坂東を結ぶ東海道沿いに在住する土豪達をどちらが先に取り込むかということは、勝敗を左右する大きな要素となる。
追討軍に取り込まれた土豪達とは実際には戦っていないのだから、影響は無かったと見るのは間違いではないだろうか。
もし、将門が直ぐに西進を開始し、官位・官職を餌に土豪達を取り込んで行ったら、どうなっていただろうか。
まだ、海の者とも山の者とも知れない将門が、それぞれの国の国司に任ずると言っても、多くの者達は直ぐには反応すまい。
しかし、国府に強い不満を持つ者や、息子達の出世の糸口が全く掴めず、将来を悲観していた者の一部が将門に賭けてみようという気になれば、様子見をしている者達の一部がそれに加わって来る。
そうして、将門軍が膨れ上がって行くのを目の当たりにすることに寄り、時の勢いというものが生まれる。迷っていた者達が、ある時、雪崩を打って将門軍に参加し始めるということが起こり得たかも知れないのだ。
ところが、実際の将門の動きは、この辺りから急に鈍くなる。
それは、将門の意識の中心が、打倒朝廷には無く、坂東制覇にあった為だろう。
将門の意識の中に、帝(みかど)を弑逆(しいぎゃく)するとか島流しにするなど全く無かった。いずれ、京(みやこ)に攻め上ったとしても、倒すのは、忠平以下の公卿達までである。帝(みかど)を頂点とする皇族達に手を掛けるつもりは無い。
その気持ちが、親皇(しんのう)任国の司(つかさ)を介としようとしたことに現れている。将平の出奔(しゅっぽん)により例外を作ることになってしまってはいたが…… 。
いずれ追討軍が派遣されることは予期していた。
それは現実となった訳だが、軍事に優れた武官を派遣した訳でも、畿内で軍を緊急招集した訳でも無い。高齢の公卿(くぎょう)(三位(さんみ)以上で無くとも参議になると公卿と呼ばれる)に、道々兵を徴集させながら坂東を目指しているという噂が入って来る。
将門は思わず笑ってしまった。
坂東に着くまでには恐ろしく時が掛かるであろうし、そんな寄せ集めの軍など何万来ようと恐ろしくは無い。
伯父・良兼(よしかね)や、常陸介・維幾(これちか)と戦った経験がそう思わせた。
ひとつ大きな違いが有ることを見落としてしまっていたのだ。
将門自身、軍は数では無く士気と質であると思っている。その士気に於いて、追討軍は、今まで将門が戦って来た相手とは全く違うことになる。
『将門を討った者は、その身分に拘わらず、五位に叙す』
という布告がどれ程の重みを持つか、思い至らなかった。
そして、その布告に影響を受けたのは、単に東海道の土豪達だけでは無い。坂東の土豪達の意識にも大きな影響を与えていたのだ。
実はこの時期、追討軍に先駆けて、夥しい数の朝廷の密使が急派され、坂東に入り込んで来ていた。
貞盛を探し出し将門追討の詔勅を渡そうとする者の他、各寺社を訪ね歩き、将門調伏の祈祷を命じる為の使者達もいた。
平時であれば、国守に命じれば済むことであるが、行政組織が崩壊してしまっているので、一社、一寺毎に訪ね歩くしか方法が無いのだ。
この命令に、多くの寺社が従うことになる。
密使の中のひとり、真言宗の僧・寛朝は、宇多天皇の皇子・敦実(あつざね)親王の子であるが、他の密使に先駆けて、密勅を携えて、海路、上総国尾垂浜(おだれはま)(現・千葉県山武郡横芝光町尾垂 )に上陸。将門を調伏する為、下総国公津ヶ原(現・成田市加良部)で不動護摩の儀式を行っていた。
成田山新勝寺(なりたさんしんしょうじ)の起源である。
各寺社が将門調伏の祈祷を行っているという噂は、朝廷が尚も健在であるという印象を庶民に与える効果が有った。
将門が坂東を制覇したとは言っても、それは単に、将門に対抗する軍事勢力が無くなったと言うだけのことに過ぎない。
行政組織は崩壊したままで、除目(じもく)を行い、国守(くにのかみ)を任じたとは言っても、それは未だ名目上のものに過ぎず、下部組織を整えなければ何も出来ない。
坂東の実態は、無政府状態なのである。
実際に、庶民の怨嗟の的(まと)になるような行為も行われていた。
膨れ上がった将門軍は、毎日大量の食料を消費することになる。それを緊急に調達する為に、嘗て受領達が行っていた以上の過酷な徴発が行われ始めたのだ。そんなことはもはや、いちいち将門の耳には入って来ない。
冷静に考えれば当然起こり得(う)る事態なのだが、嘗て農夫達と共に畚(もっこ)を担いで汗を流していた将門も、坂東経営という大きくて掴み所の無い問題に頭を巡らせているうち、身近なところで起こっている事態にまで気が回らなくなってしまっていた。
それでも将門は、「善政を行わなければ」と思っている。
兵農分離が行われていない時代に於いては、農繁期の戦(いくさ)は避けるのが常識である。農民の反発を招くばかりでは無く、国力を疲弊させ飢餓を招くことになるからである。
しかし、朝廷を倒す為には常識を超えた発想が必要であり、西進を開始する為には、それをどう解決するかということを考えなければならなかった。
朝廷打倒に将門が執念を燃やしていたならば、真剣に考え、何らかの解決策を見出したかも知れない。だが、将門の意識はそこに無かった。
追討軍の動きは鈍く、例え迫って来たとしても、足柄(駿河、相模国境の足柄峠)、碓氷(信濃、上野国境の碓氷峠)の二関を固めれば防ぎ切れると思った。
秋の取入れを待って食料を確保することが第一の目標である。その間に行政組織を整えなければならない。
荘園や公田を接収し、人を入れて耕作させ、上がりを公費に充てる為の組織作りと、どれ程の収穫が得られるかの見積り、そして公費がどれだけ必要かの計算も必要となる。それが出来て初めて年貢をどれだけ引き下げられるかの見通しが立つ。
国守に任じた者達だけでは、とてもそれだけの仕事を熟すことは出来ない。まずは、新しい人材の発掘が必要である。
善政を敷く為にはやるべきことは山ほど有った。だが、行政経験の無い将門に取って、それは心の負担として重く伸し掛かって来るばかりで、なかなか動き出せない。
悩んだ挙句将門は、まず、休養と農事に携わらせる為に、前年十一月以来帰していない農民兵達を一旦帰すことを決断する。
だが、その前にどうしてもやって置きたいことが有った。逃走した貞盛と為憲の捕縛である。
そんな折、為憲が十数人の郎党を率い、石井(いわい)の営所に監禁していた維幾を奪い返したという報が入って来る。
本拠地・石井は手薄になっていたのだ。将門の脇の甘さである。嵩(かさ)に懸って攻撃している時の将門は徹底的に敵を追い詰めるが、一方で、取り逃がすことも度々有るのだ。
激怒した将門は、一月中旬、五千の兵を率いて常陸国へ出陣し、貞盛と維幾親子の行方を捜索する。十日間に及び捜索するも貞盛らの行方は知れなかった。
しかし、兵達が貞盛の妻と源扶(みなもとのたすく)の妻を発見しこれを捕らえた。そして犯してしまった。憎っくき貞盛ではあるが、仲の良かった従弟としての感情がどこかに残っている。
『何たることだ!』と自責の念が込み上げて来る。
犯した者達を目の前にすると、いきなり抜き打ちでひとりを斬り殺し、残りの三人も斬って捨てた。
将門の怒りの激しさに兵達は驚愕した。当時の常識からすれば、敵の女を犯すなど、略奪と並んで、戦場では当然のことなのだ。身分の有る女を犯した為かと皆解釈した。
将門は兵に陵辱された妻達を哀れみ、着物を与えて帰した。
そして、下総の本拠地に帰り、兵の多くをそれぞれの地元へ帰還させた。
一方、秀郷はと言うと、一気に兵を集めることはせず、いざとなったら直ぐにでも集められるように根回しをしながら、時を掛けて徐々に集めていた。そして、小規模な集団を単位に、あちこちで基本的な訓練を繰り返していた。
将門個人からの密使が何度も訪ねて来て、一日も早い参陣を催促して来る。
最後の密使は、武蔵守の職を用意しているので、兵の数は少なくても良いから直ぐにでも参陣するようにと強い調子で迫って来た。
放っていた細作(しのび)から、将門が新皇を名乗り除目を行ったという報せが齎(もたら)されたのは、その翌々日のことであった。
将門を訪ねた時、その態度に違和感を持った。そして、その原因が興世王に有ることを見抜いた。
将門の下野(しもつけ)侵攻は素早く、とても、兵力を整える暇(いとま)は無かった。
『将門と手を組めば、坂東を変えられるかも知れない』
と言う想いがあった為、今まで、将門との衝突は避けて来た。将門の軍才に付いても、秀郷は評価していた。このところの将門の勢いからして、下に着くこともやむを得ないとまで思った。
だが、将門がこの坂東をどうしようとしているのか、それを知らなければ従えないとも思っていた。
『危険を冒してでも一度会い、将門の考えを糺(ただ)さなければならない』と思った。
そして、名簿(みょうぶ)を用意して、数人の郎等を従えただけで、将門に会いに行ったのだ。
将門が慌てて出て来たのは、烏帽子から垂れ下がった数本の解(ほつ)れ毛で、直ぐに分かった。
『将門も自分を待ち兼ねていたのなら、じっくり話し合える』
そう思った途端、『秀郷殿、名簿(みょうぶ)を奉(たてまつ)られよ』と言う、興世王の言葉が飛んだ。
『問答無用で従えと言うことか。ふざけるな』
そう思ったが、
『この場で争えば命が無くなる』
と判断し、名簿(みょうぶ)を奉ったのだ。
期待に反して、将門と坂東のことについて語り合う機会は無かった。
舘に戻ってより、
『将門と連繋するならば、興世王をいつどんな風に排除するか』
秀郷は、それを真剣に考えていた。
興世王に操られる将門に失望はしたのだが、将門の稀に見る戦(いくさ)の才能には依然として期待を持っていたし、この幾を逃したら、坂東を変える機会は二度と訪れないだろうとは思っていた。
ただ、将門の同意を得た上で興世王を排除する為の具体策が成るまでは、迂闊に動けないと思った。
将門が新皇を名乗ったと聞いた時の秀郷の落胆は激しかった。
将門は、この坂東に都の朝廷を真似たものを作る方向に動き出してしまったのだ。
それは、あの興世王が望む方向に将門が引き摺られてしまったということに他ならない。
秀郷の考える、『朝廷とは全く違った体制をこの坂東に作り上げる』という方向とは明らかに異なったものとなってしまっている。
最早、興世王ひとりを除いたとしても、将門の進む方向を変えることは難しくなっていた。
二度とは無い機会に敢えて賭けたとしても、いずれは将門と決定的に対立し、結果双方とも滅ぶことになる。成り行きを読めば、そう言う結論しか出て来ない。
だが、秀郷は、まだ動かなかった。
将門の周辺からも、秀郷に対する疑念が湧き上がり始めていた。
正にそんな時。朝廷からの密使のひとりが、秀郷を訪ねる。
「何と! 朝廷が麿を押領使(おうりょうし)に任ずると言うのか。晴天の霹靂とは、正にこのことじゃな」
良くもまあ抜け抜けと、と秀郷は思った。
「…… ところで、確か下野の国府から麿に対して追討の官符が出ておったような気がするが、あれはどうなったので御座ろうかのう。
遠い昔のことのようで、記憶も定かでは無いが、取り消されたと聞いた覚えも無い……」
秀郷の厭味(いやみ)である。
「いや、この大事の時、最早、そのようなことは無かったとお考え頂くようご沙汰を得ておる」
密使は必死の形相を見せて言う。
「どなたの?」
「…… それは勿論」
「太政大臣様がそう申されたと取って良いのじゃな」
「罪有る者を押領使に任じたり出来ると思われるか?
それに、今回の押領使のお役目は、単に下野の治安を守るだけではなく、国境を越えて、坂東全体の治安を回復せよとの命(めい)に御座います」
要は、将門を討てとの命(めい)に他ならない。
将門を討った者は、その身分に拘わらず五位に叙すとの布告に続いて、朝廷も随分と思い切った手を打ったものだなと秀郷は思った。
と言うよりも、朝廷の形振(なりふ)り構わぬ必死さを感じた。
そして、数日の後、将門が、殆どの兵を家に帰したとの細作(しのび)からの報せが入って来る。
こうした出来事を重ね合わせてみれば、秀郷の取るべき道は決まったも同然であった。
しかし、この坂東を変えられるかも知れない又と無い機会を見逃して良いのか、という拘りから、秀郷は逃れ切っていなかった。
47. 秀郷起つ
夕闇に紛れて、ひとりの男が秀郷の許を訪ねた。平貞盛である。
将門側の捜索の網を掻い潜って潜んでいた貞盛だが、五千の兵を使っての大捜索に身の置き所が無くなり、常陸から逃れ下野に入った。しかし、その際、やっと見つけ出した妻達と再び逸れ、その妻は、将門の兵達の陵辱を受けてしまう。
貞盛の怒りも、遂に頂点に達していた。
下野に入ってから、朝廷の密使が自分を探しているという噂が耳に入って来た。他人(ひと)を介して繋ぎを取り、将門追討の官符を手にすることが出来た。
追討軍に合流せよとの伝言も聞いたが、東山道を信濃まで辿るにしても、街道を行けば将門に発見される可能性が極めて高い。そして、見付かれば今度こそ終わりだと思った。それに、追討軍に合流する前に手勢が欲しかった。
常陸に戻って散り散りになっている郎党達を探すことは、危険が大き過ぎて出来なかった。
接触した者が裏切っていないとは限らないし、そんな動きをすれば、たちまち将門に察知されてしまうからだ。
追討の官符を手に入れたとは言え、身ひとつでは何も出来ないことを思い知った。後ろ盾が欲しかった。良兼は、最早この世に居ないし、良正の行方も知れない。仮に所在が分かったとしても当てに出来る存在ではない。
唯一頼りになりそうなのが、村岡五郎こと平良文だが、この伯父は、今、陸奥守として赴任中で、村岡には居ない。
秀郷を頼ってみようかと、ふいに思った。
秀郷を訪ねるなら、同じ下野の内。将門に発見されずに訪れることが出来るかも知れないと思ったのだ。
義理の叔父に当たる秀郷だが、これまで、将門と戦うことを避けている。腹が読めない。
それに、将門が秀郷を放ったまま上野に向かったということは、秀郷との間に同盟関係が成立したからと見るのが正しいだろう。であれば、秀郷を頼るということは、他のどの選択肢よりも危険が大きいことになる。
だがひとつ、当てに出来るかも知れない事情が生まれていた。
密使から将門追討の官符を受けた時、秀郷を押領使に任ずると言う官符も発行されており、それを秀郷に伝える為の密使も、既に坂東に潜入していると聞いたのだ。
伝え聞く将門の除目(じもく)の中に秀郷の名は無い。であれば、秀郷が朝廷側に着く可能性は残されている。
『いや、秀郷とて出世欲は有るはずだ』『無位・無官の者でも五位に叙す』と言うのであれば、従七位の位階を持ち、下野少掾である秀郷なら、従五位上或いは正五位下くらいは望めることになる。それを無視してまで将門に着く理由が秀郷に有るだろうか? 無いと貞盛は踏んだ。そして、秀郷を頼る決心をしたのだ。
「将門の暴挙に巻き込まれ父を亡くしたばかりで無く、こたびは、あ奴の雑兵に妻が穢され申した。最早、将門と麿がこの世に並び生きることは出来ません。あ奴を討つか麿が死ぬか、道は二つに一つより他無いのです。あ奴は謀叛人。これを討つことは、天下の為ともなりましょう。秀郷殿、どうか、お力をお貸し下され」
そう言うと貞盛は、秀郷の前に深く頭を下げた。
秀郷は瞑目する。やがて目を開き、
「お察し致す。世が世であれば父上の後を継ぎ、坂東平氏の嫡流として常陸を治めていたであろう命(みこと)が、将門に追われ逃げ隠れする毎日。さぞ苦労したことであろう。それに加えてこたびのこと、お見舞い申す。将門を許せぬというその気持ち、察して余り有る……」
秀郷の言葉はそこで途切れた。
『力を貸そう』
のひとことはまだ出て来ない。
貞盛は懐から一冊の文書(もんじょ)を出し、秀郷の前に置いた。将門追討の官符である。
秀郷はまず、目だけを動かして、それを見た。
「ご披見下され」
貞盛が促す。
秀郷はゆっくりと手を伸ばし、官符を手に取った。
「将門追討の官符で御座います。正義は我等に有りまする」
貞盛が必至に訴える。
秀郷は維幾(これちか)のように、露骨に喜びを見せたりはしなかった。
「実は麿も、押領使として坂東の治安を回復せよとの命(めい)を受けておる」
「左様で御座いますか」
貞盛は知らぬ体(てい)を装って答える。
実は、秀郷の中では、将門を討つ決心は既に固まっていたのだ。全ての状況が、そうすべきと語っている。だが、坂東を変える機会を逃して良いのか、と言う拘りがほんの少し残っていた。その拘りを貞盛の官符が完全に取り除いた。夢は子や孫達に託そうと思い切った。
「貞盛。共に将門を討とう」
そう静かに言った。
「ま、真に御座いますか。有り難き仕合わせ。この貞盛、この御恩忘れませぬ」
「そうと決めたら、直ぐにも動くぞ。追討軍など待つことは無い。今を逃してはならぬ。
手勢を付けてやるゆえ、命(みこと)も散っている郎党を集めるが良い」
迷いに迷っていた秀郷だったが、一旦心が決まれば動きは早い。多くの兵を郷に返し、将門の許に今あるのは、家の子、郎党、食客、与力の土豪併せて四百。農民兵を含めても千には届くまいと思われた。
『今しか無い!』と秀郷は思った。
将門に約束した兵集めはゆっくりと進められていたが、根回しはしてあるので、いざと成れば短期間に集める自信は有った。
数日して、維幾親子も秀郷を頼って来た。二十人ほどの郎党を率いていた。秀郷は、為憲にも自らの兵を集めるよう要請する。
続々と兵が集まり、その数四千。軍の編成も進んでいた。
「この中で、一番地位が高いのは、常陸介である維幾様。次に同じ従七位下とは言っても、朝廷の左馬寮の允(じょう)である貞盛殿。位階は同じでも、在地の少掾に過ぎぬ麿よりも格上ということになる。こたびの軍の総大将・総指揮は、やはり維幾様にお願いすることになりましょうな」
維幾、貞盛、為憲を前に、秀郷がそう切り出した。本音で無いことは明らかである。
将門にみっとも無く惨敗した維幾が、まさか受けないだろうとは思ったが、筋の通る話ではあるから、貞盛は緊張した。
維幾が、「うーん」と唸った。
ここで為憲が後押しをしたりすれば、受けかねない。維幾に総指揮を任せたりすれば、勝てる戦(いくさ)も負けるだろう。貞盛は、維幾の指揮の許で戦うなど真っ平だと思った。第一、秀郷がどんな態度に出るか分からない。
「この戦い。何としても勝ち、将門を討たねばなりませぬ。押領使として坂東の治安を回復することを朝廷より託され、今まで数々の修羅場を潜って来た秀郷殿にお任せになっては如何で御座いましょう、維幾様」
「うーん」とまた維幾が唸った。
『今更、体面など気に出来る立場か。兵の殆どは秀郷の手勢ではないか』
貞盛はそう思って苛ついていた。
「総大将は父上。しかし、その指揮権は秀郷殿に託すると言うことでは如何でしょうか」
そう言ったのは為憲である。
「うん。そう致そう。頼むぞ、秀郷殿」
ほっとしたように維幾が答えた。
身分の上では当然自分がその任に当たるべきと言う考えの強い維幾だが、本当に任されたらどうして良いか分からない。そう思って迷っていたのだが、為憲の言葉で救われた。名だけ取って、責任を負わないのが一番良い。
「維幾様がそう言われるのであれば、この秀郷、微力ながら全力を尽くしましょう。お任せ下され」
名目など、維幾が勝手に自己満足していれば良いことだ。
『実質的な指揮権を手にしなければ何も出来ない。これで戦える』と秀郷は思った。
将門の戦闘能力を評価している秀郷は、将門を甘く見てはいない。四百の手勢しか居ないとは言え、それは、良く訓練され意識の高い将門軍の主力である。貞盛や為憲が集めた兵を含めて、十倍の兵力を有するとは言っても、やはり、その殆どは農民である。一旦、将門に突き崩されれば雲散霧消してしまう可能性は有る。実際、将門は今迄、何度もそうして勝って来ているのだ。
軍が崩壊した場合でも、逃げずに命を惜しまず戦える主力が倍の八百は欲しい。それも確保出来ている。
次に、将門軍四百と、秀郷らの軍八百が戦った場合を想定する。
『それでも負ける可能性は有る』
と秀郷は思う。
勝てる可能性が六割であろうと八割であろうと、例え九割であっても、結果的に負けてしまえばそれで終わりだ。最後の一手が必要だ。
将門軍の強さは、将門個人の資質に負う処が大きい。そしてそれは、そのまま将門軍の弱点でもあることに、秀郷は気付いていた。
『要は、将門さえ殺してしまえば、将門軍は崩壊する』
秀郷は一人頷いた。
その頃、将門も考えを巡らせていた。
『春の農繁期が終われば再び帰還させた兵を再招集し、足柄(駿河、相模国境の足柄峠)、碓氷(信濃、上野国境の碓氷峠)の二関を本格的に固める。それで追討軍は防げる。
一方で、秋の収穫時期までに行政機構の整備を図る。兵達の一部は常備軍とする必要が有るかも知れない。それに掛かる費用も計算し、常備軍の数も決めなければならない』
将門の思惑は長期戦にあった。
一方、興世王は、新しい都の建設に夢を馳せていた。
石井(いわい)の営所を王城・亭南の地とし、檥橋(うきはし)(現・坂東市沓掛)を京の山崎、相馬郡の大井の津を大津になぞらえようと思った。
そして、左右大臣・納言・参議など文武百官の構成に想いを馳せ、石井付近を回っては、測量・地割の真似事まで始めていた。
そんな時、秀郷が大々的に兵を集め、訓練を施していると言う報せが入って来る。
しかも、将門を驚かせたのは、貞盛、維幾までもが、それに加わっていると言うことだった。
「秀郷が裏切ったと!」
それは、将門に取って想定外の事態だったのだ。
坂東を変えたい。その想いに於いて秀郷は自分と同じ志を持っていると信じていた。朝廷側に着くなど夢にも思っていなかったのだ。
「おのれ秀郷、許さん!」と口走っていた。
『名簿(みょうぶ)を捧げて謀った上、兵を帰して手薄になった今を狙って自分を討つ為の軍を興すなど、人として到底許すことの出来ない仕業だ』と思った。
48. 罠
時を移しては不利になると考えた将門は、二月一日を期して出撃した。
農民兵を含めて、兵力は千にも足りない状態である。その上、索敵も出来ていない有り様。
将門は、本隊を率いて下野の国府へ向かう。だが、敵が国府に終結していると言う確認が出来ていなかった。小山(おやま)(現・栃木県小山市)に至り、念の為将門は、副将・玄茂に二百ばかりの兵を着けて、秀郷軍の所在を探らせることにした。
『敵は大軍である。もし、移動していれば直ぐに分かる』
玄茂は、更に隊を二つに分け、一隊を日光方面に、もう一隊を宮(現・宇都宮)方面に放ち、自分は小山(おやま)に待機し、軍を発見次第報せるよう指示を出した。
宮方面に探索に出たのは、多治経明、坂上遂高(さかのうえのかつたか)らであった。
宮近くの山中を進んでいると、谷から立ち上る煙が見えた。少し降りて見ると、二百ばかりの兵達が見えた。火を炊き鍋を吊るして食事の支度をしているようである。鎧(よろい)を外し寛いでいる者さえ居る。
「あ奴らも物見の者達のようですな」
遂高が経明の耳に口を寄せて言う。
「しかし、何故反対方向のこんな所に……」
「分かりませんが、奴ら油断し切っております。あの人数なら、逆落としを掛ければやれます」
「待て、我等の任務は物見じゃ」
「報せに戻っていたりしたら、好機を失います。やるなら、油断している今しか無い」
「うーん」
と経明は考え込む。
「経明殿。今だから申すが、我等、副将は長年お舘様に与力して来た経明殿とばかり思うておりました。それが、新参者の玄茂殿とはどうしたことかと皆で話しておりました。お舘様、いや、新皇(しんのう)様の決定ゆえ、異は唱えられませぬが……
郎等の中でも、引き立てられたのは好立殿おひとり。このままでは我等、一生、興世王殿や玄茂殿の下に着かねばならぬことになりますぞ。手柄を立てて、新皇様に、我等を見直して頂きましょう」
経明は、僅かな手柄よりも軍律が大事と思っている。だが、ここで遂高の意見を退け、玄茂に報告している間に機を逸すれば、
『やはりお舘様は、経明殿の優柔不断さを見抜いて、副将としなかったのだ』
と言う見方が、郎等達の間に広まってしまうだろう』と考えた。
「分かった。やろう」
そう答える。
「それでこそ、経明殿。憚りながら、吾も大将軍・坂上田村麿の末裔。ここで手柄を立てて新皇様に認めて頂きとう御座います」
「よし、密かに近付き、一挙に方を付けよう」
右手を挙げて、前進を指示する。
ところが、これが秀郷の罠であった。
経明隊が、山から駆け降りて来るのを見ると、休んでいた者達は一斉に逃げ出し、代わりに、沢から、森から、無数の完全武装の兵達が湧き出して来たのだ。
将門方の兵達は四方に逃げ散り、逃げ遅れた者達は、秀郷軍に降った。
秀郷軍は逃げた者達を追撃し、南に追った。
その頃将門は、国府に秀郷軍は居ないとの情報を得て小山まで引き返し、玄茂と合流していた。
最初に逃げ戻った者が、将門に仔細を報告する。
「何? 秀郷の罠に掛かったと。戯けが」
逃げ延びた者達が続々と姿を現し、経明、遂高も戻った。
「申し訳有りません」
二人は、将門の前に跪(ひざまづ)き、頭を下げる。
もし、攻撃が成功していたら、将門は、経明らの軍律違反を追及していただろう。勝手な行動を許せば、軍律を保てなくなるからだ。しかし、この状況で追及すれば、逆効果となる。
「やむを得ん。以後、勝手な行動は慎め」
とだけ言った。
そうしている内に、ただならぬ数の馬蹄の響きが聞こえ、次第に大きくなって来る。
『敵は勝ち気分に乗って勢いが有る。この勢いをまともに受け止めたら持ち堪えることは出来ない』
咄嗟にそう判断した将門は退却を命じる。
下総国・川口にて追い付かれ、合戦となった。
劣勢に立たされた将門軍は、一旦、この地に籠るが、包囲され、闇に紛れて脱出した。
この手痛い敗戦により追い詰められた将門は、地の利の有る本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負を仕掛ける為、幸島郡(さしまごおり)の広江に隠れた。
しかし、二月十三日、秀郷、貞盛らは、将門の本拠・石井(いわい)に攻め寄せ焼き払う焦土作戦に出た。将門は身に甲冑を着けたまま探索を躱しながら諸処を転々とし、反撃に向けて兵を召集しようとする。
だが形勢が悪くて思うように集まらない為に、攻撃に転ずることもままならなかった。
「好立。以前にもこの様なこと、有ったなぁ」
谷間に隠れ、人集めの為に放った者達の帰りを待ちながら、将門が態(わざ)とのんびりとした口調で呟く。
「はい。お舘様が病を得。良兼、貞盛らの汚い手に我等が引っ掛かり、追い詰められたことが御座いました」
「あの折も麿は復活し、勝った。今度も、きっとそうする」
「はい、きっとそうなります」
「余りに順調に行き過ぎていた。我等の心に弛みが有ったのであろう。
これは、天が与えた試練だ。この困難に打ち勝つ器量が麿に有るか、試されているのだ。それでも、吾は勝つ。勝って見せる」
「はっ」
と小声ながら、皆、声を合わせる。
「兵など集まらなくても、そなた達が居れば麿は勝てる。何千の兵が居ようと、破れる時は如何に脆いか、何度も見て来たであろう。経明、遂高」
「はっ」
「過ぎたことは忘れて、その分命懸けで働け」
「畏まりました」
そう言って経明は将門の目を見詰め、遂高は深く頭を下げた。
農民兵は散ってしまい、将門は、僅か、手勢四百を率いて幸島郡(さしまごおり)の北山に陣を敷いた。
49. 北山の戦い・将門着陣
幸島郡(さしまごおり)に有る北山は、南側が険阻な崖となっており、北側は緩やかな斜面となっている。将門はこの山を決戦の場所と決め、秀郷軍の警戒を掻い潜り、深夜に軍を進めた。
早朝、北山に至ると山頂に登り、持っている限りの旗や幟(のぼり)を、目立つように廻り中に立てさせる。
晴れているが、強い南風が背後から吹き付けている。
『天は麿を見放してはいない。逃げてもじりじりと追い詰められるだけ。敢えて戦いを挑み、勝つしか道は無い』
将門はそう確信した。
山頂に無事、陣を敷けたことと、この南風が、戦力不足の不利をかなり補ってくれるはずと思った。
派手に幟や旗を立てれば、将門がここに陣を敷いたことは、直ぐにも秀郷の耳に入るだろう。将門を袋の鼠にした積もりで居たろうが、裏を掻かれて、こんな所に布陣されたことを知り、歯噛みする秀郷の顔を想像すると愉快だった。
「何! 将門が北山に布陣しただと。一人や二人を逃した訳では無いのだぞ。包囲の者達は寝ていたのか! 人数に奢り、僅かな勝ちに奢った者達が、今まで、何人、将門の前に膝を屈して来た!」
秀郷は、兵達にそう怒鳴ったのだが、惟幾を初めとした、正に、その中の一人である者達は、気まずそうに下を向いている。
『戦うには有利だが、麓を囲まれれば山頂に居ては、退く道は無い。将門め、一か八かの賭けに出て来おったな』
秀郷はそう思った。
『慌てずじっくり攻めるのが得策』
逸る兵達を落ち着かせて、秀郷はゆっくりと北山に向かう。
麓に着いてみると、冬の季節にも関わらず、強い南風が吹き付けている。生暖かい風だ。
兵の数では完全に将門を圧倒しているものの、山の上に陣取り、しかも強風が吹き降ろしていると言う状況は、将門に有利だった。
「風が変わるのを待った方が……」
貞盛が言った。秀郷が頷く。
「将門に使いを出す。『まだ陣立てが整わぬゆえ、整うまで待って欲しい』と伝えさせる。
上からの向かい風では、始末が悪い。風が変わるまで時を稼ぐ必要が有る」
「将門は待ちましょうか?」
「待つ。暫くはな。そう言う男であろう」
「はい。確かに」
「問題は風が変わるのと将門が痺れを切らすのと、どちらが先かだ」
「誰ぞ」
と声を掛けると、若い郎等が進み出た。
「『陣立てが整うまで、開戦を暫しお待ち頂きたい』と将門に伝えよ」
「はぁ?」
若い郎等は、思わずそう言ってしまった。
『それでなくとも、戦力的に圧倒的に不利な将門が、そんな虫の良い要求を聞く訳が無い』
そう思った。
秀郷はニヤリと笑った。
「本当に陣立てが整っていなければ、それこそ、攻めるに絶好の機会となる訳だが、敵は、そんな弱みを態(わざわざ)々教えてやるほど、麿が人が良いとは思っておらん。罠と思って用心するだろう。痛い目に遭ったばかりだからな。
一度罠に掛かった者は、疑心暗鬼となって、あれこれ迷う。迷えば判断を誤ることも有る」
「はあ……」
「行け!」
「はっ」
上から望見すると、四千を越える大軍が麓から複数の路まで、連なっている。
こんな大軍と平場で対したら、如何に将門軍でも、あっと言う間に飲み込まれてしまう。どう考えても凡そ勝てる状況では無い。
余裕が有るのか、敵の兵達は慌てる様子も無く、麓を取り囲む為だらだらと移動している。
普通なら、伸び切った辺りを目掛けて突っ込み、一気に突破して囲みを逃れる方法を考えるだろう。
『秀郷め、又も罠に掛けようと、態(わざ)と、だらだらした動きを見せ、誘っておるな』
将門は、そう思いながら、秀郷、貞盛らの軍の動きを眺めていた。
見ていると、一人の男が馬で賭け上がって来る。
将門を始め、主な者達が居並ぶ数間先まで登って来ると、男は下馬し、左膝と右の拳を地に突いて頭を下げた。
「御大将・平将門殿に申し上げます」
そう言った。
『何を言いに来たのか?』
と将門が思っていると、
「下郎(げろう)、新皇(しんのう)様に直々もの申すこと相成らん。許す。麿が聞く」
興世王である。
『こんな時に何を場違いなことを言っているのか』
と思いながら、将門は、昔、初めて忠平に目通りした時のことを思い出した。
『あの時、滑稽と思ったことを、今、此方側でやっているのか』
そう思うと、可笑しかった。
言われた男の方は、
『下郎』と言われて腹が立ったのみで、『では、お側の衆にまで申し上げます』などと、言い直す訳も無い。
「主(あるじ)・秀郷が申しますには、陣形が未だ整わぬゆえ、整うまで、開戦を暫しお待ち頂きたいとのこと」
「うぉっほっほっほっ。陣形が整わぬだと。秀郷、無様よな」
興世王が愉快そうに笑う。
「陣形が整わぬとあれば、これ幸い。こ奴を血祭りに上げ、今直ぐ攻撃しましょう」
文屋好立がそう進言する。
使いの男はしゃがんだまま一歩飛び退き、太刀の柄(つか)に手を掛けた。
「待たれよ。陣形が整わぬなどと態々報せて来るなど、秀郷の罠に決まっておろう」
そう制したのは、副将・藤原玄茂である。
「良い。待つと秀郷に伝えよ。但し、何時までも待てぬ。さっさと致せとな」
将門が迷わず答える。
「はっ。有り難き仕合わせ」
そう言うなり、使いの男は馬に飛び乗り、駆け下りて行った。
「新皇様、何故待ってやる必要が有るのですか?」
興世王が尋ねる。
「敵は今動いておる。何処を衝こうと、忽(たちま)ち取り囲まれてしまうであろう。
玄明。雑兵の十人や二十人、斬り倒す自信はあろう」
「元より、造作も無きこと」
後ろの方に居た玄明が進み出て答える。
「順番に掛かって来ればな。
だが、囲まれて、同時に掛かられたら、どう防ぐ。防げまい」
「はあ」
と玄明は言葉に詰まる。
「敵が格好を付けて陣形を固めた方が、動きが鈍くなる場合もある。陣形を組んでくれれば、何処が強固で何処が脆いかも見分けられる。
言って置くが、十倍の軍に勝つことは出来ぬ」
将門の言葉に、皆、怪訝な表情となった。
『例え空元気でも、皆を奮い起たせなければならない時のはず』と思う。
「我等には、八幡大菩薩のご加護が有りますし、新皇様は、今までにも、度々、不可能を可能とされて来たお方では御座いませんか」
玄茂が言う。
「智恵を働かせぬ者に八幡大菩薩のご加護などは無い。何と無く勝てるなどと思うな。それが命取りとなる。勝つべき算段が無ければ決して勝てぬと肝(きも)に命じて置け」
「算段とはどの様な?」
「敵の雑兵を味方に着けるのだ」
「そんなことが、出来るのですか?」
「稲を狩り、田を耕しているだけの者に命を捨てる覚悟は無い。何とか無事に帰ることしか考えておらぬであろう。
今は、数で圧倒的に勝っていると思っているから落ち着いている。だが、突然恐怖に襲われれば、吾を忘れて取り乱すことになる。それが、五人十人、いや、百、二百と伝播して行けば、その動きは我等には向かわず、向こうの武者達の動きを邪魔することになるのだ。つまりは、味方にするも同じこと」
「分かりました」
「良いか。決して一人になってはいかん。一人離れれば、忽(たちま)ち取り囲まれて、命は無くなるぞ。全体が纏まり、恰(あたか)も一本の矢のようになって、敵を突き崩して行くのだ」
50. 北山の戦い・風よ変われ
仕掛けた罠に、将門がまんまと嵌(はま)ったことに満足すると言うより、将門に加担せず見切った自分の判断が正しかったことに、秀郷は満足しているようであった。
「見栄を張りおって。過信か、新皇(しんのう)と名乗ったことに因る増長か、いずれにしろ愚かじゃな」
秀郷がそう呟いた。
将門は仕掛けに嵌ったかに見えたが、向かい風は一向にやむ気配も方向を変える気配も無い。風が変わらなければ、当然策も無駄になる。
そうしている内にも、陣立ては進んで行く。
突っ込んで来る将門軍を押し包んで、袋の鼠とした上で討ち取る、所謂(いわゆる)、鶴翼(かくよく)の陣である。これは、大軍で少数の敵を討つ場合の常識的な布陣となる。
本陣は、鶴翼の後方に置くことにした。
本陣に置く兵は三百。鶴翼の陣の中央には、秀郷の長男・千晴に千人の兵を預けて配し、突撃の際、将門の矢面となり易い右翼には、三男・千国と四男・千種それに五男の千常にそれぞれ五百ずつの兵を与えて計千五百を配した。そして、左翼には、貞盛の弟・繁盛率いる八百に二百の与力を着けて配し、その外側に藤原為憲率いる五百の兵を配している。
本陣の三百はただ後方に構えているだけでは無く、五十名ほどを残し、後は、破られそうな所に駆け付ける遊撃隊的な役割を負わせてある。
秀郷が恐れたのは、総崩れである。
これだけ戦力に差が有れば、例え不利な向かい風であっても、犠牲は大きくなるが、しっかり戦い続けることによって、必ず勝利は得られるはずだ。だが、当てになるのは家の子・郎等のみ。
もし、将門に囲みの一角でも破られれば、充分な訓練をしているにも拘らず、兵達の殆どが逃げ去ってしまう可能性すら有るのだ。
秀郷は、わざと陣立てをもたつかせて時を稼いでいる。
『風よ、変わってくれ!』
そう祈っていた。だが、風は変わらない。
将門は、敵の陣立てが進む様をじっと見ている。
「三郎」
と将頼に声を掛ける。
「汝(なれ)なら、あの陣立てを見てどう攻める」
「はっ。左翼を攻めます」
「何故か?」
「幟(のぼり)や旗をみる限り、中央から右翼には、秀郷の子らが配されており、日頃から鍛練を積んだ兵が多く含まれていると思われます。
それに引き替え左翼は、貞盛、為憲らの手勢、急遽集められた者、秀郷から借りた兵など雑多に入り交じっていると思われますので、打ち破り易いかと」
「うん。正に、秀郷もそこを狙わせたいのであろうな」
「は?」
「左翼を目掛けて突っ込んで行ってみろ。隣に陣取る、恐らく一番強力と思われる嫡男・千晴の隊が補強に入り、本陣からも応援が入って壁を厚くする。
そこでもたついている間に、右翼の隊が我等の後ろに回り込んで来れば終いじゃ」
「はあ。では、どうすれば?」
「正面突破」
「一番強力な正面と当たれば、両翼が競り出して来て、やはり、押し包まれるのでは?」
「と思わせることが肝要じゃ。策が有る。それに、何よりの援軍は、この風だ」
「はい?」
「玄茂。どう考える」
と将門が玄茂に話を振る。
「はい。風を味方にし、右翼、正面を十分に牽制した上で、やはり、三郎殿の言われる通り、左翼を崩すべきかと」
「麿もそう思う。三郎、狙いは同じでも、工夫が無ければ破れると言うことだ」
「は、はい。分かり申した」
「行くぞ、者共! 命惜しむな、名をこそ惜しめ!」
将門軍の怒涛の進撃は始まった。
変わらぬ風にじりじりしながら秀郷は待っていた。そして、将門が遂に痺れを切らし、逆落としに討って出て来た。
秀郷は鉦(かね)を叩かせ、急いで最終的な陣形を整えさせる。元々わざと遅らせていたのだから、陣形はすぐに整った。横に広がって鶴が翼を広げた形を表す鶴翼(かくよく)の陣である。
矢頃まで降りて来ると、将門は、まず作法通り鏑矢(かぶらや)を放った。
追い風に乗って唸りを上げて飛んで来た鏑矢(かぶらや)は陣に届き、兵が頭の上に持ち上げた楯に激しく当たって、大きな打撃音を発した。
こちらの放った鏑矢は、風に阻まれて、遥か手前に落ちた。続いて、一斉に射られた数百本の矢が、放物線を描いて上から降り注いで来る。
陣の前の方に並べた楯は殆ど役に立たない。
騎馬武者の大鎧(おおよろい)に矢が突き刺さり、一方、兵達は、胴丸では防御しきれない部分に矢を受けた者が倒れる。
そして、二の矢の雨。射返してもこちらの矢は風に吹き戻されて届かない。
三の矢が降り注いで、また多くの兵が倒れる。
暫く矢を射かけていた将門軍が突撃に移った。
鋒矢(ほうし)の陣形を組んで一直線に攻め寄せて来る。全体が一本の矢の形となり、鶴翼(かくよく)の陣を突き破る戦法だ。将が最後尾に居て采配を振るう通常の鋒矢の陣とは違って、先頭を切るのは将門自身である。鏃(やじり)の肩に相当する両脇には屈強な郎等を配し、射掛けながら進んで来る。
将門の戦い振りはいつも、最初、射ながら疾駆し、近付くと傍の郎等に持たせた手斧に持ち替えて、それを振り回し相手を薙ぎ倒して行く。
後に続く兵達はその光景を目の前に見るだけで、その凄さに酔い痴れ、己も無敵となった心持となり、一体となって突進して来るのだ。
鋒矢の陣に寄る鶴翼の陣に対する突撃は、いかに素早く突破するかに掛かっている。弱い所を突き破り、反転して後ろからまた襲い掛かる。
そうすることに寄って、敵の陣形を崩し混乱を生じさせる。しかし、第一の突破にもたつけば、すぐに包囲されてしまう。
『将門ひとりを倒せば良い。それに寄って兵達の暗示は解け、現実の恐怖に晒されることになる。そうなれば、多勢に無勢。あっと言う間に勝敗は決まる』
秀郷はそう思っていた。
将門の弓の勢いは強く、驚くほど正確に射込んで来る。対する秀郷陣営は、矢が風に吹き戻されて届かないばかりでなく、近付くに連れて、将門軍の馬の蹴上げる砂埃が目潰しのように吹き付けてくる為、まともに目を開けていられない状態になってしまった。連合軍の陣に恐怖と動揺が走った。
「恐れるな。射よ! 射よ!」
秀郷は懸命に叫んだ。前軍の将達も同じように叫び続けている。このままでは中央を突破されると思った。
しかし、逆風とは言え、将門は疾駆してどんどん近付いて来ているのだ。しかも、先頭を切って突っ込んで来る。射続ければ、突っ込まれる前に必ず当たる。大鎧(おおよろい)の上から何本かの矢を受けても致命傷にはならないが、勢いを殺すことは出来る。後は打ち合うのみだ。
「ここは一旦、退くべきでは」
狼狽えた様子で、藤原維幾が秀郷に言った。
「戯けたことを申されるな! 今退けば総崩れじゃ!」
相手の身分も構わず、秀郷は怒鳴った。
「繁盛だけに任せてはおけん。麿も前に出る」
貞盛は怯えてはいなかった。将門に負け続け、
『父の仇も討てぬ都かぶれの臆病者』
との誹りを受けながら生き延びて来た。ここで逃げれば、もう永久に汚名を返上し名誉挽回をすることは出来ない。征東将軍の朝廷軍が到着して将門を討ってしまえば、一生臆病者と嘲られて過すことになる。例えここで討死しても、それよりはましだと思っていた。
「それでこそ、坂東平氏の嫡流。行かれるが良い」
二十人ほどの郎等を従えて、貞盛は、本陣から左翼に向けて駆け出して行く。
51. 北山の戦い・大軍崩壊
秀郷は正面補強の為、遊撃隊二百五十を中央に向けて放った。その一隊は、間も無く千晴隊の後方に着き、層を厚くする。
長弓を持つ者が騎馬のまま射ることが出来る範囲は、正面と左側のみである。その為、将門軍の標的になり易い右翼に、秀郷は、信頼出来る息子達を配している。
将門軍は、疾駆しながらも、正面と敵右翼に矢を放ち続け、その矢は風に乗って走る。
その時、一直線に中央に向かって突進していた将門軍が突然右に方向を転じた。
龍が大きくその首を右に振った。
中央の千晴隊に、続いて貞盛隊に矢を射かけながら平行に進み、左翼端の為憲隊の守る辺り目掛けて突き進んで行く。
まさか、自分たち目掛けて襲い掛って来るとは思っていなかった為憲隊の雑兵達に動揺が走り、混乱する。
直前まで、将門軍が放つ矢の雨に曝(さら)され、正面及び右翼は、将門軍を包囲する為、直ぐに動き出すことが出来なかった。
突然、将門軍の驚異に曝された為憲の兵達は、何と、迎え入れるように将門軍が突き進む道を開けてしまったのだ。雑兵達の心に、『生きて帰りたい』と言う想いが、同時に沸き起こった結果である。そして、突き抜けた将門軍が反転して襲い掛かって来ることを恐れて、将門を追おうとする味方の軍の方に向かって逃げ始めたのだ。
まず、貞盛隊と逃亡兵達の流れがぶつかり混乱する。
遊撃隊、千晴隊は、それを避けて将門を追おうとするが、貞盛隊の中からも逃亡しようとする者が出始め、混乱が広がって千晴隊の行く手を阻む。
そうしている間に、手斧を振り回しながら将門が、混乱の中心を目掛けて突進して来る。
迎え撃とうとした騎馬武者が二人、三人と将門の手斧の餌食となって落馬する。将門に続く郎等達も屈強で、次々と連合軍の兵達が倒されて行く。
貞盛は兵を励ましながら、混乱を潜って将門に近付こうとするが、近付けない。
その中で、将門の郎等の何人かを倒し、将門に近付き一撃を与えたのは、遊撃隊を率いる、信濃国佐久の郷司・望月三郎兼家だった。
秀郷とは以前から親交が有り、挙兵に際し、遥々駆け着けていた。
兼家は太刀で将門の兜(かぶと)を打ったが、落馬させる程の衝撃を与えるには至らなかった。しかし、将門の兜の緒が切れた。
逃亡兵達が、今度は空いた北の方に向かって一目散に逃げ始めたのだが、その数は見る見る増えて、恐怖心が伝染したのか、千晴の隊や、千国、千種、千常の隊からも逃亡兵が出始める。最早、陣を組み直すことは不可能な状態となった。
陣形を整える為の太鼓や鉦(かね)の音が空しく響き、声を枯らして叱咤する将達の叫び声も乱声に掻き消される。
又も突き抜け、上りに掛かった辺りで、少し距離を取って陣を組み直した将門軍が、再び矢を放ち始めた時、連合軍は遂に崩壊した。殆どの兵が勝手に退却を始めたのだ。いや、将門軍の矢頃を逃れる為、一目散に逃げ始めたと言った方が正確だろう。
混乱する連合軍を見下ろしながら、将門は兼家の一撃に因り緒が切れた兜(かぶと)を荒々しく脱ぎ捨てた。その所作が荒々し過ぎたのか、兜だけでなく、その下に被っている折れ烏帽子まで脱げそうになった為、将門はそれも脱ぎ捨てた。
戦場ならではのことで、平安の男に取って、人前で被り物を脱ぐなど、日常では有り得ない行為だ。
はずみで髻(もとどり)が切れ、髷(まげ)が崩れて髪が乱れ、大童(おおわらわ)となって垂れ下がる。
郎等が代わりの兜を差し出そうとするのを、
「要らぬ」と遮り、
「者共、敵は混乱している。勝ち戦じゃ。命を惜しむな。掛かれー!」
将門の言葉は天啓の如く郎等達の心に響いた。
再び将門軍の突撃が始まった。
解けた髪を振り乱して、やはり将門が先頭を切って迫って来る。
「うぬ。くそっ! 退けー!」
このままでは、兵の殆どが逃亡して、二度と戻って来ない。もはや立て直すことは不可能と観念した秀郷は、遂に退却の号令を発した。
兵達は四散し、将と郎等達は秀郷と合流する為に本陣を目指す。各隊の将達は悔しがりながらも撤収に掛かる。
それを見た将門は、嵩(かさ)に懸かって猛追撃を開始した。
「だから、言わぬことでは無い」
そう漏らした維幾を、秀郷は一瞬キッと睨んだが、すぐに騎乗し逃走に掛かった。
「くそっ。くそっ!」
と叫びながら駆けた。耳元を矢が掠める。
52.北山の戦い・想い
四千の大軍のうち、残っているのは僅か三百余名に過ぎない。
『風が変わることのみのを当てにした吾の過(あやま)ちであった。如何なる事態にも対応出来る積もりで組んだ陣も、見事に裏をかかれてしまった。吾は、勇ばかりで無く、智に於いても将門に及ばぬと言うことか』
そんな悔いが、秀郷の頭の中を駆け巡っている。良兼や維幾の敗戦を『愚か』と思い、他人事として笑って来たが、正に己もその中の一人として数えられることとなるのだ。
『こんな所で死んでたまるか。必ず生き延びて、将門を討つ』
秀郷は、そう心に誓い、只管(ひたすら)逃げた。追い風を受けての逃走だから、疾駆していても顔に当たる風圧は感じない。
ところが、暫く駆けているうちに、急に顔に風圧を感じるようになった。しかも、冷たい。
その時、背中に軽い衝撃を感じた。カチッという音がして後ろから飛んで来た矢が鎧(よろい)の背で弾ける。風圧に寄り矢の勢いが殺されているのだ。
一方将門は、智と勇を以て絶望的な状況から抜け出せたことに満足しながら、秀郷を追っていた。
『もはや、彼我(ひが)の戦力の差は無い。そして、圧倒的に優位に立って、今、自分は秀郷らを追っている。又もや、危機を脱することが出来たのだ。
己の力などと過信してはいけない。絶望的な状況にあっても着いて来てくれた者達有ってのことなのだ』
将門はそう思って自ら気を引き締めた。今一歩で、秀郷を捕らえるか討つ事が出来る。貞盛と共に、絶対に許せない男の一人だ。
「風が変わった!」
秀郷は歓喜した。
「止まれ! 踏みとどまれー! 風が変わったぞ。者共、踏み止まって射返せー!」
周りを見回すと、千晴を始めとした息子達。貞盛、繁盛、兼家、それに郎等達が集まって来ていた。敗走していた連合軍の残軍は踏み止まり、馬を返した。
そして、一斉に射始める。
将門軍は皆強く手綱を引き、馬を止める。横に広がってこちらも一斉に射始めるが、それまでとは違い、秀郷側の弓勢(ゆんぜい)は強く、将門側は弱い。
『くそっ。今一歩のところで』
将門は天を仰いだ。
連合軍の矢は風に乗り、将門軍の矢は風に戻される。
「聞けー! 藤太秀郷!」
将門が大音声(だいおんじょう)で呼ばわった。
秀郷が右手を挙げる。
「やめよ! 射ることを止めよ!」
双方の矢の雨が止む。
「何用か! 朝敵・将門将門! 命乞いなら聞かぬぞ」
秀郷が言葉で挑発して来た。
「何を抜かすか、卑怯者め。命乞いをするのはその方であろう! 一旦はこの将門に名簿(みょうぶ)を捧げながら、虚を衝いて謀叛を企むなど許し難い。成敗してくれるわ!」
将門は、秀郷に対する鬱憤をぶつける。
「謀叛人はうぬじゃ! この日本(ひのもと)に帝(みかど)は只ご一人(いちにん)しか居坐(おわ)さぬ。勝手に新皇(しんのう)など僭称しおって。謀叛人は己だ。この秀郷が、朝敵を討つ為に欺いたことに気付かなんだ己を愚かと思うが良い」
『言わせて置けば勝手な理屈を並べおって』
と怒りに更に火が点いた。
「何ーい。盗人(ぬすっと)にも三分の理とは良く言うたものじゃ。藤太、許さぬ!」
将門は風に乱れたザンバラ髪を振り払い、弓を郎等に渡して、太刀を抜き放った。
その時、
「将門! 己はこの平太・貞盛が討つ! 覚悟せよ!」
秀郷と轡(くつわ)を並べて、貞盛が叫んだ。
「はっはっはっは。誰かと思えば、臆病者の常平太ではないか。信濃で、陸奥で、良くも逃げ延びたと褒めてやろうぞ。今度も逃げ足は速かったのう。のこのこと出て来居って。
従兄弟の誼(よしみ)、見逃してやるから、さっさと消え失せろ! 都にでも落ちて、遊女(あそびめ)とでも戯れておれ。それとも、やっと兵(つわもの)の気概を取り戻したか?」
矢張、許せぬと思っている貞盛を挑発する。
「我が父・国香を討ったこと、忘れたか! 己を討つこの日の為に、命、永らえて来た。父の無念も我が恥辱も今こそ晴らしてくれるわ!」
言うなり、貞盛が弓を引き絞った。
それを見た敵も味方も弓を構える。
『腑抜けの貞盛の矢などに当たってたまるか。太刀で矢を払った上で、今一度弓を取って、貞盛も秀郷も射抜いてくれる』
逆風に変わり、味方の矢が吹き戻されている状況ではあるが、将門は、己の持つ強弓(こわゆみ)と腕に、絶対の自信を持っている。例え、他の者達の放つ矢が届かない状況でも、二人を射抜く自信が有った。
『直ぐに決着を着けてやる』
そう強く思った。
貞盛が矢を放った。続いて双方の矢が乱れ飛ぶ。
しかし、将門には飛んで来る貞盛の矢が良く見えた。風に乗って走っているはずの矢が、何故かゆっくりと飛んで来る。
将門は余裕を持ってその矢を払った。その筈だった。
漆黒。
…………
漆黒と静寂の世界が、突然、轟音と目映い光の中に変わる。
ゴーと言う耳をつんざくばかりの轟音。
何もかもが、下から上に、凄まじい勢いで吹き上がって行く。
いや、違う。吹き上げられているのは将門自身だけだ。
遥か下に数百の人影が見える。
太刀を振り上げている武者の兜(かぶと)は、確かに秀郷。
その前に横たわっている武者の鎧(よろい)は……
幼い君香が、
『遊ぼ』
と手を差し延べて来る。
出世の望みも何も無い若者達が、愚痴を溢しながら、酒を食らっている。
目映いばかりの、錦糸、銀糸の衣装を身に纏って階(きざはし)の上に立つ忠平。
その遥か下で、土に両手を突いて見上げる己自身。
父、母。
そして、国香、良兼、良正。伯父達の顔が次々と現れ、そして、消えて行く。
恨めしげに見詰める源護の目。
無数の顔が現れて、漂っている。
何を思って生きてきたのか、どんな家族が居たのか、それすらも知らず、ただ、数としてのみ存在した雑兵達の顔か。
見(まみ)えたことも無い帝(みかど)の姿は、遥か彼方に朧気(おぼろげ)である。
憎っくき奴、許せぬ男であったはずの貞盛。
『もう一度、笑って話したかったな』
『馬鹿な、何故そう思うのだ』
全てが消えた。
-無-
天慶三年(九百四十年)二月十四日夕刻。
朝廷を震撼させた男が、遂にその生涯を閉じた。平・小次郎・将門。享年不祥。
野本の戦いから五年。新皇(しんのう)を称してより、僅か三ヶ月足らず後のことであった。
武家政権への先駆けとも、逆に『朝敵は滅びる』と言う社会通念を醸成し、武家社会の到来を遅らせたとも評される。
将門は、己が死ぬことを意識する暇も無いまま、左米噛みに矢を受けて死んだ。
貞盛の射た矢に当たったとも、流れ矢に当たったとも言われる。
しかし、貞盛とは正対していたにも関わらず、米噛みに矢を受けていると言うことは、
『将門さえ殺してしまえば終わる』
と確信していた秀郷が用意した刺客の放った矢によるものだったと考えられないことも無い。
そして、将門は、怨みを事を念じる暇も無く死んだのだ。
『最強の怨霊・平将門』とは、貴族達の恐怖心が産み出し、『太平記』などに取り上げられたことにより定着した幻想に過ぎない。
科学の発達した現代でさえ、将門怨霊説は定着してしまっているかに見える。
正に人々の口によって産み出され、それが何かの媒体を介して一旦定着してしまうと、消えること無く、それ自体が命を持って生き続ける。
怨霊よりも悍ましきもの。それは、現代に於いても、今この瞬間にも産み出されて続けている。
都で認められる事無く鬱々とした日々を送っていた頃の将門は、多くの怨み辛みを内に秘めていた事だろう。
しかし、己の想うところに向かって突き進んでいる魂に、怨み辛みなど入り込む隙間は無い。まして、将門は、その目的が半ばにして潰えた事さえ意識すること無く死んだのだ。
『直ぐにも、貞盛、秀郷の二人を射殺し、勝利を得る事が出来る』
それが、将門の最後の意識であった筈である。
数日後、将門終焉の場所に立ち、経をあげる一人の僧の姿が在った。
僧は笠の前を上げて辺りを見回す。
将門の遺体は勿論のこと、雑兵達の遺体に至るまで既に片付けられている。
黒く変色した血の痕は数多く見られるが、物と言えば、折れた矢などが散乱しているばかりで、形の整った物は何一つ残っていない。恐らく遺体が片付けられる前に、数知れぬ野盗や戦場稼ぎの民達が現れて、武器は勿論のこと、鎧兜(よろいかぶと)から、衣服に至るまで悉(ことごと)く持ち去り、裸の遺体は兵達によって荷車に積み上げられ、何処(いずこ)かに運び去られたのであろう。
主立った者の首を除いた多くの遺体は、大きな穴に放り込まれて埋められるのか、或いは、積み上げられて火を掛けられるのか。
『何れにしろ、戦はこの世の地獄だ』
と僧は思った。
寺に戻ると僧は本尊の後ろに隠してあった頭陀袋を持ち出して来て、口を開く。
中には、かなりの量の木簡を紐で繋げたものが入っている。
束を引っ張り出すと、途中の紐を解き、少しの別の木簡の束を間に挟んで結び直す。
足した木簡には、
『去んぬる天慶元年、六月中旬を以て、京を下るの後、官符を懐(いだ)きて相糺(あいただ)すと雖(いえど)も、而(しか)も件(くだん)の将門は弥(いよいよ)、逆心を施して、倍(ますます)暴悪を為す』
との文章が刻まれている。
同じ様にして、数ヶ所に木簡の束を挟んで繋ぎ直して行くのだが、その何れの部分にも、将門を悪人と罵った文章が刻まれている。
僧の名は円恵。四郎将平の師である。
将門の戦いの経緯を、将平や他の者達からの聞き取りを元に記録して来た。
これを持って都に上ろうと思っているのだが、調べられた時のことを考えて、将門を悪人として罵る部分を挟み込むことに寄って、一味と見られることを避け、また、木簡を没収されることを避けられるのではないかと考えてのことだ。紙に起こす機会があれば、そこは除く積もりだ。
円恵自身、決して安全な身では無い。断りはしたが、将門から側近として仕えるよう言われたことが有り、忠平への文(ふみ)の清書もしている。
それが突き止められれば、捕縛の手が伸びよう。だから、少しも早く坂東を逃れて都に上りたい。しかし、気に掛かるのは将平のことである。
将平は、将門の新皇(しんのう)僭称に反対し袂を分かったとは言っても、将門は朝敵たる謀叛人である。成人の兄弟であれば、一族誅殺の対象に含まれていることは間違い無い。
唯一、助ける方法としては、頭を剃り僧体とさせた上、密かに坂東を脱出させて比叡山に入れてしまうことだ。そうなれば、朝廷とて手が出せなくなる。だが、将平の行方は知れない。
『自分を頼って、密かに会いに来てくれれば何とか出来る』
それが、円恵が直ぐに逃亡せず、危険を冒して寺に残っている理由である。
ー完ー
執筆の狙い
燃え尽きた魂に悔いなど有り得ない。
誰が将門を最大の怨霊としたのか?
幻影に怯えた貴族達か? 『太平記』か?