せつなき、
自宅のソファーでごろりとしていたさなか、人生で79857回目のあくびをふわーっとかましたその瞬間に、あたくしは雌猫に転生していたのです。
ふわぁーっとあくびのまったりした調子と雌猫の優雅な表情がマッチして、あくびが終わったころには鏡に映った自分の猫っ面を驚きの表情で眺めていたのです。
その驚きの表情の猫っ面がまた見事な猫っ面で、耳は頭蓋骨の上にどーん、目はぱっちり眉毛とヒゲはびよーんでアゴが無いのです。
あたくしったら夢を見てるんだわ、やあねえこんな昼下がりに猫になっちゃう夢を見るだなんて、とタカをくくっていたんですがちっともこの夢から覚めないまま1257回目の朝を迎えました。
家族の者が毎日あたくしの餌を用意してくれるのはいいのですがあたくしが食べたいときに食べたいタイミングでなかなかくれないもんであたくしはこの欲求不満を爪とぎとか噛みつきとか鰹節の袋をびりびりに破るとかそういうもので発散していました。
なー、はやく、めしをくれー、と何度言ってもあたくしの家族は「にゃー、にゃー、にゃー」と翻訳するのです。
ばか、かー、おまえらー、と何度言っても「にゃー、にゃー、にゃー」とこんな調子であたくしの顔を覗き込むのです。
そして頭をなでるのです。
あたくしは、まぁ、頭を撫でられるのは嫌いじゃないもんだからこう、頭を撫でられるとむすむすしてきて、顎の下からごろごろ鳴らして喉のあたりとかをさわさわされたくなってくるのです。
そして、頬のあたりをぺんぺんされるとこう、眠くなってきて大きなあくびをするのです。
ああこれで人生で99999回目のあくびだなぁと思いながらふわーっとかましたその瞬間、
最高潮にまったりした気分になれたものだから、
これであたくしは人間に戻れると思ったのですが、
そうはいきませんでした。
雌犬になっていたのです。
あたくしは嫌だったのです、犬だけは。
猫ならいつでもあくびをしてもいいけど、犬だけは、犬が生意気にあくびをするのは優雅ではないのです。
犬は人に見られながら堂々とあくびをしてはならんのです。
犬を見るとどうにも、社畜とか弱虫とかいじめられっ子とか卑怯者とかそういううじうじした奴の姿を思い浮かべるのです。
人前であくびも出来ない犬に生まれ変わってしまったあたくしは、いっそ死ぬことにしたのです。
そう決意して琵琶湖まで歩いてきました。
あたくしの情けないアホの犬っ面が琵琶湖の水面に映し出されております。
ああ醜い。
おぞましい。
ぽちゃん、と足から琵琶湖の冷たい水がしみわたります。
おとうさま、おかあさま、先立つ不孝をお許しください。
死ぬ前にこう申し上げたのですが、偶然これを聞いた人間が居たとしてもどうせ「わん、わん、わわん」と翻訳されるのです。
アホの犬だから仕方ないのです。
「おいアホー」
後ろから人間の声がしたので死ぬ前に振り返ってみました。
すると、
「やいアホ犬ー」
ああ、なんということでしょう!
あたくしが学生時代好きだった男の子が、(ちょっと禿げて太ったみたいですが)、あたくしをアホ犬呼ばわりしてこちらに石を投げているではありませんか。
(コロナの影響でしょうかね、きっとストレスです)
なんというタイミング、なんという奇跡でしょう。
こんな醜い雌犬の姿で好きだった男の子に石を投げられるなんて。
本当にもう死ぬしかないですわん。
「さようならヒロトくん。もうあたくしは死ぬときめたの」
そう言って琵琶湖に入水していくあたくしですが…、ヒロトくんには「わん、わん、わわん」としか聞こえていないはずですん。
こんこんと琵琶湖の水が染みわたります。
ああ、もう肉球が地面につかないくらいの深さまで来てしまいました。
ああ、ぶさいくな鼻に琵琶湖の水が染みて鼻水が噴き出てまいりました。
いよいよ呼吸が苦しくなってきました。
ウォオオ、目をつむってより深く、深く、もう浮かびあがってこれない深さまで自ら犬かきをするのです。
――意識が遠のきます。
このまま深く、暗い穴へ。
ヒロトくん。
こんな姿でも、最後に会えてよかった。
―――
――――
―――――
「さぁ始まりました第1回チキチキドッグレース、ゼッケン1番ポチくんすごいスタートダッシュです、さぁゼッケン3番ポンタくんも追い上げる、ゼッケン6番チャオちゃんも早い、早い!」
ポチーっ!いけーっ!
「チャオちゃん早い!ポチくんピンチ!ポチくん逃げ切れるか!」
ポチー!なにやってんだ石投げるぞこらー!おらー!
「おーっとポチくんの飼い主さんこれはいけません、投石でわんちゃんを追い込むのは人道に反します、動物愛護団体に当大会が訴えられてしまいます故やめてください!やめていただきたい!」
うるさい司会者!うちのポチが一番なんですの!ポチが一番じゃないとだめですのん!だめなんですのん!
「とにかく石を投げるのはやめてください!失格にしますよ!」
うるさいですのーん!アガメムノーン!
ポチは一番じゃないとだめなんですのん、なぜならポチはきっとあのヒロトくんの転生した姿なんですのん、だけど所詮は犬だからわん、わん、わわんとしか言えないのですのん!
ポチがヒロトくんだっていう証拠ならあるんですのん!あたくしがこうして琵琶湖で人間の姿に戻って、その時溺れてた雄犬を救ったんですのん!
だからこの雄犬はヒロトくんで間違いないのですの、
「あーポチくん抜かれたー!ゼッケン6番チャオちゃん!1位!ゴール!おめでとう!」
ががーん!何やってんのヒロト…。
「おう誰かと思ったらアケミじゃん!久しぶり」
あれー?!ヒロトくんじゃん?!、(あの時よりデブハゲちょっと進行してる)、えーどういうことじゃぁあの犬誰…。
「お前もこの大会出てたのかー、奇遇だなー、ていうか俺さー結婚したんだけどさー紹介するよこいつ俺の嫁」
えっ、急に何、って(嫁めっちゃブスじゃん何こんなのと結婚してんの、何のためにいい大学行ったんだろこいつ…)
こんにちわーはじめましてー、ヒロトくんと同じ大学だったアケミですぅ、(つい最近まで雌犬でしたぁ)
(その前は雌猫でしたぁ)、
「子供もいるんだけどさー、見てくれよかわいいだろー」わーかわいいー!女の子かしら?(ブタ鼻で気持ちわりいガキだなあどうせオスだろう)。
「うん!女の子。いいだろー!ところでアケミお前は?結婚とか?」
………
………
………け…っ…こん…?
…………あ?黙って聞いてりゃ結婚とか?だと?おいこら腐れポンチ黙って聞いてりゃ堂々とハラスメントかましてんじゃねぇぞこのやろう、調子こきやがってよぉ、
こちとらおめぇが子作りにせっせと励んでいる時雌猫の姿でにゃーにゃー泣きわいて家族に飯の催促して、やっと飯もらえたかと思えば人生で99999回目のあくびの時にくそ醜い雌犬に転生して琵琶湖で入水する前におめぇに
石投げられて溺れて死んでたんだぞこのやろう、生類憐みの令で終身刑にしてやろうかてめぇ、一生臭い飯食ってろブスな嫁と豚みてぇなガキも道連れによぉ、なぁ!
へこへこあたくしの前に堂々と姿晒してんじゃねぇぞこら!
きいてんのかおい!!
…ってな感じでかましてやったわけですがヒロトくんはぽかーんとした顔してました。
復讐したり過去を振り返ってもなんにもなりはしないと、犬がでっかいあくびした後みたいな顔になってるヒロトくんを見て、あたくしは悟ったわけです。
うっそぴょーんとか言っといて適当にごまかして、
ヒロトくん一家と一緒にファミレスいってご飯食べた。
ブス嫁と豚みてぇなガキの箸の持ち方が下手すぎてもう見てられなかったです。
げらげら。
でもグラタンがおいしかった。
帰り道、ヒロト君一家と別れた後なぜかまっすぐ帰りたくなくて商店街のBARで飲んでしまったのです。
歯医者さんみたいなニオイのするウイスキーをロックで、飲んでしまったのです。
さよなら初恋の人…。
ふんだりけったりだな…。
ねこふんじゃった、うるさい
ニャア…。
そうだ説明忘れてたあたくしウイスキー飲むと雄猫に変身する体質なのです。
今から野良の発情雌猫を探しにいくのです。
それでは。
執筆の狙い
どうしようもないせつない気分を描きたかったのです。