正解はベンツで昼食を
最近昼時に食べるのはレタス二枚と生ハム一枚が挟まった(この店オリジナルのシーザードレッシングもかけてある、これがまた美味い)ベーグルと、ブラックコーヒーの組み合わせだ。全国でチェーン展開しているDコーヒーで、ほぼ毎日俺がここに来ていることを知ったら、会社の奴らは驚くことだろう。この俺が、庶民的なカフェをヘビーローテーションしているのだ。店内の居心地も良い。客の誰も彼もが他人に興味がなさそうに一人でスマホを見つめている。薄いノートパソコンを持ち込んで仕事に没入しているリーマンもいる。俺も一人で入る。だが、店を出るときはなぜか連れがいる恰好となる。そろそろ来るか――俺が腕時計に目をやったちょうどそのとき、向かい側の席に奴が座った。
「本田さん、今日も決まってんね」
「は? 何が?」
俺が不愛想に返事をすると、気にした風もなくマツダがニコッと笑う。
「そのスーツ、アルマーニだろ。時計はオメガで、メガネはトムフォード。顔も良いね。昨日は七時間眠れたね」
おちゃらけた口調ですべて言い当てられ、俺は苦笑するしかなかった。生まれも育ちも立場も全く違うこんな奴が一番俺を知っているんじゃないかと錯覚してしまう瞬間だ。俺の作る隙を見逃さず、マツダはさっと席に座った。彼は手ぶらだ。着ている服は昨日と同じ。
「これから時間ある? ちょっとだけで良いんだ」
マツダが上目遣いで俺を見る。大きな目だ。マスカラをしている女よりも長い睫毛が上瞼に影を落としている。鼻は高くないが形は整っている。栄養が摂れていないのか、唇はカサついてひびわれている。それでもキスしてみたいと思わせる魅力があった。
白状しよう。俺はゲイで、マツダは俺の好みど真ん中だった。
俺より十センチ背が低く華奢な体型で、でも病的な細さではなく。そこそこ日焼けしているところが健康的で好ましい。
こいつが俺の前に初めて現れたのは二週間前。出会ったのはちょうどこの場所。今みたいに俺は一人でベーグルとコーヒーを腹に収め、スケジュール帳を眺めていた。午後の仕事を効率よく行うために脳内でシミュレートしていたのだ。
「相席良いですか」
他の席も空いていたのに、俺の向かい側の席に勝手に座った。俺の返事も聞かずに。
相席は嫌いだ。俺はスケジュール帳を鞄の中にしまい席を立とうとした。そのとき彼が声を発した。
「ベンツ買いませんか」
俺の任務は至ってシンプルだ。とにかくベンツ。本田がいま乗っている国産車からベンツに乗り換えさせること。しかし、シンプルだけど簡単じゃない。
今まで失敗続きだった。一人目は本田に馬鹿正直に事情を話して撃沈(だろうな)。二人目は本田を拉致監禁してその日一日外出させないように、三人目は本田を一週間拉致監禁する任務だったようだが結果は変わっていないからダメだったんだろう。四人目は女(モデル並の美女)だった。本田と親交を深めて外車(ゴルフかBMW)を勧める算段だったが、どうもうまくいかなかったらしい。そして五人目に俺だ。本田がゲイの場合を想定して、バイの俺が選ばれたわけだ。俺が失敗したら控えている六人目が投入される。だからそこまでプレッシャーを抱えてはいない。気楽にやるよ。
俺が本田の前に座ってから一分以上経っている。それでも嫌がらずに彼はゆっくりとコーヒーを飲んでいる。ベーグルは食べ終えている。俺を見る目は、二週間前のそれより優しい気がする。
「ベンツ見に行かない? 渋谷にディーラーがあるから」
「またベンツか」
本田が嫌そうに顔を歪め、肩を竦める。そういう表情も所作も格好良いから同じ男として憧れるものがある。
「一時間以内に済ませるから」
あんたがすんなり買ってくれればね。
金があるのは分かっている。なんせ本田製薬の社長の御曹司だ。三十歳という若さで副社長に就任して二年が経ち、その経営手腕に身内からも外部からも一目置かれる存在になっている。そんなハイクラスの男が、こんなカフェで一人でランチなんて大丈夫なのかと思う。それに。
「あんたいつもベーグルとコーヒーだよな。すぐ腹減るだろ」
「昼は少なくていい。眠くなるからな」
本田が言って、コーヒーの最後の一口を啜る。形の良い――だけど少し酷薄そうな唇に目が吸い寄せられる。低い声も良い。店内の喧騒の中でもしっかり聞こえるクリアな発音も好きだ。それにしても、沢山食べると眠くなっちゃうから、なんて可愛い理由だな。つい笑ってしまうと、「なにがおかしい」と本田が顔をしかめた。
午後一時過ぎ。俺はまんまと渋谷に赴いていた。自分の運転で、マツダと共に。店に行く途中に電話で予約を入れ、着いたときには三人の店員に迎え入れられた。
マツダは勝手に展示されている車を見て回った。「あっちの、かっこいいよ」と、俺の腕を引っ張っては、俺と販売員の会話を中断させた。
「やっぱりこれが一番いいなあ」
マツダが一台の車の前で立ち止まったまま動かなくなった。そろそろ帰りたいと思っていた俺は、仕方なく彼の隣に立ち、件の車を眺めた。たしかに、良い、と思った。
俺はこれまで、所有する車に拘りを持ってこなかった。運転しやすければ良い。どうせすぐ買い替えるのだから。それに――いまどき、持っている車で高ステータスを示したい輩なんているのか? いや、いるにはいるが、俺は違う。そんな虚栄心を満たす行為が何の役に立つ? 世の中のためになるのか?
人影が映るほど磨きこまれ光沢のある黒。フロントからボンネット、リアシートと続く美しい曲線を描く車体。フロント部分に誇らしげに輝くベンツマーク。
「本田さん、これにしたら」
マツダの指先が、そっと俺の手に絡んでくる。俺は振り払うことができない。
「そう簡単に言うなよ。いくらすると思ってるんだ」
「一千万ぐらい、あんたなら簡単に出せるだろ」
マツダが無邪気に笑った。
「ねえ、買おうよ」
絡んだままのマツダの指に、力が入った気がした。まるで脅しだ。俺は降参するしかない。そうだ、俺にとって一千万(ただしくは一千三百万だが)なんて大した額じゃない。
メルセデスベンツSクラス、セダン。
店員に見積の作成を依頼し、試乗、商談の予約を入れて、この日は店を後にした。その後、弁護士にも車の買い替えに関する書類作成、手続きを頼んだ。
手続きは滞りなく進み、今乗っている車も買い取り業者に高値で引き取ってもらえることになった。弁護士のお陰だ。
二年乗った愛車(というほどでもなかったが)を手放す前日、俺はマツダと二時間ドライブを敢行した。行き先は近場の海だ。本当は関東圏から出たかったが無理だった。俺は仕事で忙しく、このところ週末もまともに休めていない。それでも時間の合間を縫ってマツダと会うようにしていた。毎日Dコーヒーでランチの時間に喋り、仕事が終わったら、俺の会社のロビーで座って待っているマツダに声を掛け、自宅のマンションまで三十分ほど、一緒に歩いた。彼は部屋に入りたがる素振りを見せなかったので、俺もあえて誘う事はしなかった。
海岸入り口付近に車を止めて、俺たちは砂浜を歩いた。歩くたびに足が沈み込んでいく。なんとなく隣を歩くマツダの手を取った。迷いなく、彼は俺の手を握り返してくれた。なぜだろう。なぜこんなに、マツダは俺に従順なのだろう。
十一月の寒々しい灰色の空を見上げても、自分にとって都合の良い答えは帰ってこない。
わかっている。本人に直接聞くしかないってことは。深呼吸をしてマツダを見る。と、彼もこちらを見ていて、目が合った。気まずそうな顔を一瞬させたあと、マツダは笑った。
「仕事、大変そうだね。七時間眠れていない顔」
「ああ。ここのところ、社内で色々あって――」
俺は言葉を濁した。話したくても話せない。すべて企業秘密だ。
会社の業績自体は良い。赤字を出している部門もない。目下の悩みは、経営方針が違う叔父の派閥とどうやって折り合いをつけていくか、だ。新薬開発の研究費削減を唱える叔父と、それに反対する俺は、犬猿の仲になっているのだ。彼の顔を思い出すのも嫌だ。うんざりする。
気分を変えよう。俺はマツダの肩に腕を回し、彼の髪に鼻先を埋めた。フローラル系のシャンプーの匂いがした。良い匂いだ。
「お前、どこに住んでるんだ?」
出会ってすぐの頃のマツダは、身だしなみに気を遣っていなかった。同じ服ばっかり着ていたし、風呂も毎日入っていなかったはずだ。
「ネカフェだよ」
「――俺と出会ったころは?」
「どこにも」
「どこにもって」
「路上生活ってこと。夜中はコンビニで立ち読みしたり、ファミレスでドリンクバー飲んだり」
金が全くないわけではないようだ。だが定住するための金はない。
「ネカフェって住み心地良いのか」
自分でも何が聞きたいのかわからない。
「まあまあかな。悪くはない」
マツダが繋いだ手を前後にブラブラさせる。俺の手も揺れた。砂浜には俺たち以外誰もいない。海の中には数人がサーフィンをしている。風はなく、波も高くない。サクサクと歩を進める音が響く。
「あのさ」
ぽつりとマツダが呟く。
「これから言うことはどうせ信じられないだろうから信じなくてもいいけど、聞いてほしいんだ」
マツダが立ち止まった。ゆっくりと顔を上げ、俺の目を見つめた。凛とした瞳で。
「俺ね、二年先からここにタイムスリップしてきたんだ」
「――は?」
「今から二年後――2022年から今にやってきたんだって」
マツダが歯がゆそうに言う。真面目な表情を崩さずに。
「タイムスリップ?」
「そう。二年後にタイムマシンができたんだ。それに俺は乗って来た」
俺はつい笑ってしまった。
いくら俺がマツダに惹かれているからといって、そんな話は信じられるわけがない。あと二年でタイムマシンが開発されて時間旅行ができる? あり得ない。
「信じないなら信じないで良いってば。俺はあんたにベンツを勧めるミッションを負ってたんだ」
「なるほど」
俺はそれだけ返して無言になった。マツダのいう事は信じられないし、俺にベンツを押し付けてどうしたいのかも分からない。
「タイムマシンを開発した人にスカウトされたんだ。そのときも俺、路上生活しててさ。親も兄弟もいないし、結婚もしてないし。失う物もなくて怖いもの知らずっていうか」
マツダが自嘲気味に笑って俯いた。砂浜に落ちた影がやけに薄い。俺は目を擦って、彼の存在を確かめた。マツダの艶のある髪とつむじを見下ろす。
彼はため息をひとつ零してまた顔を上げる。
「ベンツ、いつ納車されんの?」
「明後日だ」
「そう」
あさって、とマツダが確認するように囁いた。
「一か月かかったね。長いような、短いような」
くすっとマツダが笑って、また歩き出した。俺もつられて歩く。
波打ち際までもう少しだ。隠れていた太陽が雲の隙間から顔を出している。
「車が来たらお前も乗るだろ? お前が買えって言ったんだからな」
「もちろん乗る!」
マツダが破顔して繋いでいた手を離した。ぴょんと大きく飛び跳ねて砂浜に着地する。が、バランスを崩して体が傾いだ。手を差し伸べようとして俺はやめた。マツダはよろけてそのまま砂浜に尻もちをついた。
「家がないならうちに来れば」
俺は屈みこんで、マツダの頬に手をあてた。思っていたよりずっと柔らかい。陽光を浴びた肌はきめが細かく、産毛が金色に輝いている。
「あんた、警戒心なさすぎ。それで副社長?」
マツダが呆れたように笑う。でも、目尻が少し赤い。
「お前がいると面白い」
「今まではつまらなかった?」
「そうだ。退屈だったんだ」
どこにいても誰といても。だから一人が良かった。この海に訪れるのもいつも一人でだった。海に行こうと誘われることはあっても、連れて行きたいと思う相手はいなかった。マツダだけだ。
「俺もあんたといるのが楽しい」
照れたように笑って、マツダが俺の肩に手を回してくる。とたん胸のあたりがざわっとして、全身があからさまに熱くなるのを感じた。やばい、三十過ぎてるっていうのに。こいつを今すぐ抱きたい、なんて思っている。
「お前はベンツ目当てだろ」
俺が言うと、マツダがかぶりを振った。
「デート商法みたいなことしちゃったけどね、時間がなかったから」
「今は? 時間はあるのか?」
「さあ。俺にも分からない」
投げやりに笑うマツダを抱きしめた。
俺もわからない事だらけだ。でも不安はない。
「本当に住んで良いの? 本田さんの家」
胸の中に収まったまま、マツダが上目遣いになって尋ねてくる。
返事の代わりに、俺はマツダにキスをした。
ことん、と何かを置いた音がして、俺の瞼は勝手に開く。路上生活の賜物だろうか。些細な音にも体が先に反応するのだ。
周りは薄暗い。隣に本田の姿はない。体を起こそうとしたが、力が入らない。シーツが背中に直に触れている。俺は裸だった。
左側は壁しかない。右側に首を緩く動かすと、本田はいた。こちらに背を向けて、デスクでノートパソコンを開いている。キータッチの音が微かに聞こえる。
俺はゆっくりと体を起こした。ベッドから静かに出て本田の元に向かう。注意深く歩いた。気を抜いたら脚から力が抜けて転びそうだったからだ。
ゴールの逞しい背中に抱きついた。本田は上半身裸で、ジーンズだけ穿いていた。そんな恰好も決まっている。
「おい、びっくりさせるな」
全然慌てた様子もなく、本田が振り返った。
「大丈夫か」
「え?」
声をだしたとたん咳込んだ。
「だいぶ男としてなかっただろ」
言い当てられ、気恥ずかしくなった俺は本田の頬を軽く叩いた。
男としたのは本当に久しぶりだった。高校を出て以来だから、六年のブランクだ。
自然と俺たちは顔を近づけあって、唇を重ねた。五回目のキスのあと、「もう終わり」と本田が言った。照れたように短髪の頭を掻いた。
「まだ仕事があるんだ」
本田がまたパソコンと向き合った。デスクをちらっと見る。ことん、の音の正体がわかった。コーヒーが入ったマグカップ。
俺は彼の肩を揉みながら、先ほどベッドで話したことを反芻する。
お互い二回達したあと、息を乱したまま本田は囁いてきた。俺の体を名残惜しげに撫でながら。
「仕事してないんなら、俺の秘書でもやるか」
それって公私混同じゃねえの、と苦笑しながらも、俺は「いいね」と答えていた。
「でも、今の秘書はどうするの」
「今はいない。最近辞めたばかりだ」
「そうなんだ。どうして辞めたの」
「俺の事が好きだって告白してきたんだ。男が好きだからって断ったら辞めますってさ」
その声が寂しく耳に響いて、俺は体を反転させ本田と向き合った。
「辞めてほしくなかったんだね、本田さんは」
「そう、だな。長い付き合いだったし」
俺が話を促すと、本田は素直に語りだした。
前の秘書は女性で、本田がまだ部長の時から部下として仕事を支えてくれた人だった。その有能ぶりを買って、副社長になったときに彼女を秘書に抜擢したのだ。
仕事のパートナーとして最も信頼していた人物なのだろう。恋愛感情が絡んだせいで、その関係が終わってしまったのだ。
肩揉みを終わらせ、本田の背中にもたれる。
「本当にあんたの秘書にしてくれるの?」
俺は大学を出ていないし、大した職歴もない。正社員で働いていたのは二年ちょっとだ。営業職だったが辛くて辞めた。その後はバイトを転々としながら食いつないでいた。それだけじゃない。家賃が払えなくて部屋を追い出されたこともあった。そのときは、街でナンパした女の部屋に転がり込んでヒモ状態(最低だよな)。不安定すぎる生き方だ。
「ああ、ちゃんと給料も払う」
「ラッキー」
本田の耳元で囁き、耳たぶを軽く噛む。と、彼がびくりと体を揺らした。刺激が強かったか。
「お前、服着ろよ。もしくはベッドで布団被ってろ」
「良いじゃん。別にこのままで。着るのかったるい」
「俺が落ち着かない」
本田が怒ったように声を荒げた。こちらを見ようともしない。だけど彼の耳はほんのりと赤い。
急遽リモート勤務を行っていた本田は、夜の八時に強引に仕事を終わらせ、また俺をベッドに連れ込んだ。
翌朝の八時半。
俺はあまりの怠さに唸りながらもベッドから出た。室内に本田はいない。とっくに会社に出勤している。
俺は裸のまま、書斎を兼ねている寝室を出て、二十㎡あるかないかのリビングダイニングに足を踏み入れた。黒いシンプルなテーブルがあって、そこには本田が用意してくれた朝食がある。数種のサンドイッチと、生野菜のサラダだ。マグと個装のドリップコーヒー、ステンレスポットまで置いてある。本当に準備が良い。
だが今は食事をするよりも優先することがあった。
俺はクローゼットを開けて、本田のカラーシャツを一枚拝借した。案の定ブカブカだったけど気にしない。ボトムは昨日穿いていた自分のジーンズ。
玄関のドアを開け外に出る。今日は朝から日が差していて明るい。
昨晩もらった合鍵を使って戸締りをして、俺はいつもの場所に行く。
本田のマンションからニ十分ほど歩くと、地下鉄O線の新しくできたばかりの駅がある。洗練された場所だ。高架下にはテナントが十四店舗並んでいて、どこもセンスの良い店構えだ。高架下前の空きスペースではマルシェ(朝市)が開催されていて、結構な賑わいを見せている。俺も色鮮やかな紅いリンゴに食欲を刺激され、つい一個買ってしまう。
リンゴを齧りながら、車道沿いの歩道を歩き、高架下出てすぐの電信柱の前で止まる。
それには黒いサインペンで数字が書かれている。俺の目線から下に向かって、1、2、3、4、5。見慣れている。毎日見ているんだから当たり前だ。
俺は毎度のことだが、ホッとした。まだ俺が書いた5で止まっている。6はない。
電信柱の次に、右の車道を眺める。白と青の配色の運送会社のトラック、黒のSUV、白いミニバン、グレーのセダンが続々と俺の横を通り過ぎていく。
ここだ。ここで事故は起こるはずだ。
俺の依頼人がそう言っていたし、新聞も見せてもらって確認した。
「終わったらどうするかなあ」
自分の声が残念そうな色に染まっているのが悔しい。
明日、ベンツが納車されれば、俺の任務は終わりだ。きっと無事に成し遂げられる。それは分かっている。問題はその後だ。
俺は車の流れを眺め続ける。
ここで本田は事故に遭って死ぬことになっている。二年先の未来で、俺はその事実を知ったのだ。
俺が知っていることは少ない。
俺は二〇二二年の十一月三日から、二〇二〇年の九月十五日にやって来た。俺の前任者は九月十四日に、その前の奴は十三日に着地している。つまり、新たに雇った人間を投入するとき、前任者より一日後にタイムスリップするよう、依頼人は移動先の年月日を設定しているのだ。
今日は二〇二〇年、十一月一日。俺が失敗したのなら、六人目はとっくにここに来ているはずだ。これまでの決め事の通りなら。でも楽観はできない。他の可能性だってある。例えば、依頼人が未来を変えることを諦めたとか。タイムマシンが壊れたとか。もしくは、六人目が数字の記入を忘れたとか。
まだ油断はできないんだ。十一月三日が無事に終わるまでは。
俺は今一度、祈るような思いで、電信柱を見る。5で終わっている落書き。このまま6が足されなければ良い。
リンゴの、最後の一口をゆっくりと味わう。甘酸っぱく、すっきりした後味。
本田にも一個、買って行こう。
十一月二日。午前七時過ぎ。
俺はマツダの準備してくれた朝食もそこそこに、顔を突き合わせて座る彼のことばかり見てしまう。
昨日、理容室で切ってもらったばかりの髪をムースで整え、俺が贈ったスーツを身に着けているマツダは見違えるほど洗練され、俺の周りにいるエグゼクティブに引けを取らない立派な風貌に成り代わっていた。ただ一つ、ネクタイを着けていないのが惜しい。
「ネクタイしろよ。渡しただろ?」
俺は四つ切にされたリンゴを食べながら言った。リンゴはシャキシャキした歯ざわりで噛んでいて気持ちがよく、味もちょうどいい。甘すぎず、酸っぱすぎず。
「うまく着けられなくて」
マツダがバツの悪そうな顔をした。
「したことないのか?」
「あるけど、ずいぶん前だし」
そういえば俺は、マツダの過去をあまり知らない。興味がないわけじゃない。二人でゆっくり話し合う時間が圧倒的に足りないんだ。それに、マツダから俺のことを聞いてくることも少ない。
俺は腕時計を見た。まだ時間がある。
「このリンゴ、どう? 昨日朝市で買ってきたんだ」
マツダがリンゴを摘まみながら聞いてくる。
「美味いよ。わざわざあの駅まで行ったのか」
「用事のついでだよ」
「用事って?」
なんとなく聞いてみただけなのに、マツダは困ったように眉を寄せた。口をつぐむ。回答が遅い。
「何の用事だ?」
もう一度聞くと、マツダは「買い物」と呟いた。嘘だと思った。
「マツダ」
つい声がきつくなった。
「買い物だって。昨日の夕飯の買い物」
開き直ったように言いきって、マツダが立ち上がった。俺もつられて腰を上げる。
マツダはソファの背に掛けていたネクタイを手に取り、襟に通した。が、その手つきはあやふやだ。うまくノットを作れない。
「貸せ。俺がやる」
ネクタイを奪い取り、マツダの後ろに回り込んだ。その方がやりやすい。自分がやるときと同じ要領でネクタイを結ぶと、マツダが「すげー」と感心したように俺を振り返って来た。嬉しそうな、素直な表情だ。
「ありがとう」
屈託なく言われ、俺はマツダから目を逸らしたくなって、でもやめた。
「リンゴ、ありがとな」
さっきのリンゴは、俺に食べさせたくて買ってきてくれたのかもしれない。そんな予感がした。
「よかった」
マツダが嬉しそうに笑った。胸のあたりが痒い。ふと、三澄に告白された経緯を思い出す。あの日彼女は、退勤する間際に俺に話しかけてきたんだ。
「最近、笑顔が増えましたね」
最初は明るい表情だった。
「そうか?」
心当たりがなかった。いつもと同じ表情しかしていないと思っていたが。
「好きな人でもできたとか?」
不意打ちの詮索に、俺は気の利いた返事ができなかった。
「やっぱり好きな人ができたんですね。最近、会社のロビーに若い男の人が来てるけど、まさか」
途中で言葉を切り、三澄は唇を噛んだ。彼女の顔が強張った。唇は震えている。不思議に思ったとき、彼女が俺に告白をしてきた。
そのあとはマツダに話した通りだ。
今までの俺は仕事人間で、俺を一喜一憂させるのも仕事に関わることだけだった。なのにこの様だ。秘書に勘づかれるほど、俺は恋をしているオーラを出していたらしい。
そうだ、認めるよ。俺はマツダに恋をしている。
この日の十八時過ぎ、俺とマツダは渋谷のディーラーに向かい、手続きを済ませてベンツを受け取った。
俺は運転席に、マツダは左側のリアシートに座った。
「ドライブでもするか」
シートの高さを微調整しながら俺が問うと、マツダは「帰ろう」と一言。
彼は座り心地を試すように、何度も角度を変えて尻を弾ませている。子供みたいだ。
「脚伸ばせる。ファーストクラスみたい」
「乗ったことあるのか」
「ないけどさ」
口をとがらせて見せたあと、マツダが背後から、俺の首に腕を回してきた。
「帰ったらドラレコつけたい」
「ドラレコ?」
「つけて置いた方が良い。ベンツみたいな高級車は嫉妬されて煽られたりするし」
「――帰ったらって。買ってないぞ、そんなもの」
「俺が揃えてる。必要なものは全部。配線も俺がやるから」
やけに準備が良い。案外マツダは用心深い性質なのか。いや、そうじゃない。
マツダは俺に言えない秘密を抱えているんじゃないか。そんな気がする。
俺が口を開こうとしたとき、まだ車の脇にディーラーの店員が立っていることに気がついた。何か不具合でも? と聞いてきそうな、怪訝そうな顔をしている。
俺はとりあえず車を出すことにした。
「マツダ、座ってシートベルトしろよ」
「わかった」
俺は初めての左ハンドルに違和感を拭えず、慎重に運転し、自宅へと車を走らせた。
俺のマンションの駐車場に無事、車を止めたときだった。マツダは車から出ずに、コンソールボックスを跨いで、助手席に移ってきた。
「なんだよ、ドラレコ持ってこないのか」
ここに着いたらすぐにでも部屋に戻って取ってくるのかと思ったが。
「後でいいよ。それよりさ、話がしたいんだ」
「それなら部屋で」
「二人で部屋に戻ったら話どころじゃなくなるだろ」
マツダが言いたいことはすぐわかった。
俺たちは部屋の中で二人きりになると、まずキスをして、それでは足りずにセックスになだれ込んでしまうのだ。一昨日、昨日がそうだった。
俺は黙って、マツダを見た。彼にしては真剣な目をしていた。
「あんた結構、会社で嫌われてる?」
身も蓋もない言い方に、俺は笑いそうになった。出社初日で、マツダは職場で洗礼を受けたようだ。俺や、俺を取り巻く連中の噂話。
「そうだな。嫌われてるよ」
「専務とそりが合わなくて、そいつの派閥からも目の敵にされてるって聞いた」
「ああ、そうだ。俺は気にしてないけどな」
入社八年で副社長に就任した俺のことが邪魔でしかたないのだ。俺の叔父は。
「あいつは社長の座を狙っているからな」
親父は俺がMRだったころの実績を認めてくれているが、叔父はそうではない。副社長なんてあってもなくても良いお飾りのポストだとか、若造に何ができる、と言われたこともあった。だが俺は、そんな煽りに乗ったりはしない。叔父を失脚させたい理由は他にある。彼が不正を働いているからだ。
「これからも上手くやっていけない感じ?」
マツダが控えめに聞いてくる。
「ああ、無理だな」
俺があいつの意見を素直に聞く傀儡にならない限り。
「そのこと、誰かに相談できない? あんたの母親とかさ」
「俺の母親? 相談できるような相手じゃない」
俺はマツダの提案を一蹴した。
「あの人とは十年以上顔を合わせてない。親父と離婚してからは一切」
「あ――離婚してたんだ。ごめん」
「謝る必要はない。離婚してくれて良かったんだ」
俺はタイガーマザーの典型である母親のことが大嫌いだった。小学生の頃から俺に、全教科クラスでトップを取ることを強いてきた。それができないと「お前は出来損ないのバカだ」と罵られた。家ではテレビや漫画を禁止され、課外活動もさせてもらえず、友達と遊ぶことも許されなかった。俺の放課後のスケジュールは、ピアノとヴァイオリンのレッスン、英会話教室、塾で埋め尽くされていた。
中学、高校時代は人並みに親に反抗したりもしたが、結局は落ち着くべきところに落ち着いた。俺は東大に次ぐ私立大の経営学部に入学し、首席で卒業した。
「じゃあ他に相談出来る人は」
マツダがしつこく聞いてくる。
俺は首を横に振った。
「三澄も辞めたしな」
つい俺が独り言ちると、マツダが顔を強張らせた。
「ミスミさんって――俺の前任者だよね」
「そうだ」
「髪の長い美人」
「まあ、美人だったな」
「社内報に載ってた。ミスミさん。性格も良かったって」
三澄のことも職場の人間にあれこれ聞かされたのか。辟易としてくる。
三澄はたしかに性格も良かった。本人は学歴もルックスも高レベルだったが、だからと言って周りの人間を見下すことなく誰にでも平等に接していた。グレて高校のときに家出した弟のことを、家族の中で唯一見捨てずに、今でも交流を図っている、ということを聞いたことがある。
「その通りだ。情も深かった――まだこの話は続くのか」
マツダを軽く睨むと、彼は肩を竦めた。
「もう良いよ。これ以上聞いたら怒られそうだし」
一つため息を吐いて、マツダは俺の背中に腕を回してきた。
「本田さんこの前、ずっと退屈だったって言ってたじゃん」
「ああ」
「俺、あんたがインタビュー受けてる経済誌、何冊か読んだことあるんだ」
「そうなのか? 意外だな」
マツダはそんなの読みそうにないのに。
「意外そうな顔するなよ、失礼だな。まあその、それを読んだときに思ったのは」
一度言葉を切って、マツダが俺を見上げてくる。
「退屈っていうより、寂しそうな顔してるって」
言ったあと、マツダは目を伏せた。
俺は返す言葉を見つけられなかった。背中に回ったマツダの腕に力が入った。温かい。
目を閉じる。息が漏れた。遅まきながら、マツダを抱き返す。お互い無言。
ずっとこうしていたいと思った。
昨日会社から貸与されたばかりのスマホを繰って、俺は宝くじや競馬のサイトにアクセスした。結果、俺が思っていた通りのことが起こっていた。キャリーオーバーで十億近くに膨れ上がった当選金を、ロト7、ロト6で見事に手に入れた人物がいる。万馬券を当てて二千万以上儲けた奴がいる。
俺より前にタイムスリップした一人目から三人目の誰かだろう。そういうことをしそうな面構えだった。写真しか見ていないけど。
散髪していない頭、無精ひげ。生気のない目――。三人、いや、俺を含めた四人の共通事項。
俺だって金は欲しいけど、事前に調べてこなかった。ロトの当選番号も、三連単の馬券の買い方も――親父がギャンブル狂いだったからな。あいつのせいで俺の人生は台無しになったし、だからこそ俺は、絶対に賭け事はしないって心に決めている。
それにしても怪しい、と思う。俺の前にタイムスリップした男三人は、本当に任務を果たそうとしたんだろうか。せっかく二年前に跳んでチート機能が使える状況になったのに、経費として依頼人に渡された十万程度で、わざわざ面識のない男を救おうとするだろうか。お人よし過ぎないか? 一人目の任務の内容は、本田にその日、命が危ないから車に乗るのを辞めるように説得することだった。これぐらいなら変な人扱いされるだけだろうからやるかもしれないけど。二人目、三人目は、大企業の副社長を誘拐、監禁して彼の行動を抑止することだった。そんなこと馬鹿正直にやらないだろう、普通。警察に掴まって自分の人生が詰む。
四人目の女性は任務ではなく自分の思惑ありきでここに来たに違いない。依頼人に見せてもらった写真の中の彼女は、俺たちみたいに人生を捨てているような風貌ではなかった。整えた眉、凛とした目、意志の強そうな口角、手入れの行き届いた長い黒髪。
過去を変えたいというより、守りたい今があってタイムスリップに挑んだのかもしれない。
ただ、彼女がどうやって依頼人とコンタクトを取ることができたのかが分からない。俺は依頼人と、公園の炊き出しの場で出会ったんだ。
ふいに肌寒さを感じた。と同時にくしゃみが出そうになって手で口を押えたものの、やっぱり声は出た。
ガサガサと布団の動く音がした。
「熱心に何を見てるんだ?」
背後から腰に腕を回される。本田の寝起きの声は掠れていてイヤらしい。
「エロサイト」
振り返らずに答えると、本田が「まだ足りない?」と色っぽい声を出すから、俺はまんまとその気になってしまう。
スマホの画面はとっくに黒くなっている。ホームボタンを押す。眩い光に目を細めながら、今が夜中の二時過ぎだということを確認する。
またやりだす前に、本田が問いかけてくる。
「俺が寂しそうな顔をしてたって本当かよ」
少し拗ねたような声が可愛い。だいぶ本田は素の顔を見せてくれるようになった。
「雑誌を見たときはちょっと違った」
俺が依頼人に見せてもらったのは、新聞社が発行しているお堅いビジネス誌だった。二ページにわたって本田のインタビューが載っていた。彼は髪を撫でつけていて今より落ち着いた雰囲気があって、仕立ての良いスーツを完璧に着こなしていた。自信に満ち溢れていた。でも、表情からは違う印象を受けたのだ。
「物欲しげな感じがした」
雑誌の中の本田と目が合った気がして、その時俺はドキリとした。
「実際会ってみてわかった。欲しがってるんじゃない。寂しいんだって」
真面目な話は好きじゃない。ふつうに恥ずかしいだろ。
俺は本田の背中に腕を回した。でも彼は抱き返してこない。
「それはお前も同じだろ」
静かな、優しく諭すような声に、俺の体は痺れる。心まで持って行くなよと思う。
「俺は寂しくないよ」
ずっと一人だったしな。両親揃って仕様もなくて、物心ついたころから高校を卒業するまで施設に預けられていた。孤独にも差別にも慣れているんだ。
「強がるな。ずっと一人だったんだろ」
ようやく本田が俺を強く抱きしめてくる。
俺は察した。本田は俺の身元を調べたんだと。提出した履歴書をもとにして。
追加のセックスを終えると、すぐに本田は寝息を立て始めた。俺はベッドから抜け出して、いつもの場所に行く。
ふだんは賑わっている朝市のスペースも、いまは暗く静まり返っている。車も人も通っていない。当たり前か、まだ深夜の四時。俺がここにタイムスリップした時刻と同じ。タイムマシンを他者に目撃されないようにと設定された時間だ。
例の電信柱にスマホの光を当てて、5までしか書かれていないことを確認する。辺りを見回す。タイムマシンが出現することもない。ホっとする。俺の嫌な予感は当たらなかった。
電信柱に背を向け、本田のマンション目指して歩く。帰る途中にあるコンビニでピザまんでも買って帰ろう。そんな呑気なことを考えた矢先だった。
背後で足音が聞こえた。
俺は反射的に電信柱を振り返った。
女が電信柱にスマホの光を当てて立っていた。
考えるより先に脚が動いていた。
女に向かって走る。夜の冷えた空気に頬を擦られる。
ハッとしたように女が俺を見て、体の向きを変え逃げようとする。
「待てよ! あんた三澄さんだろ?」
俺は名前を呼びながら、彼女の手首を間一髪で掴んだ。
逃れようと激しく振られていた手が、一瞬止まった。
俺はスマホを女の顔の近くに持って行く。
やはり三澄だった。
「なんで私の名前」
彼女が俺を見上げてくる。大きな目がより大きくなる。
「俺が五人目だからだよ」
「あ――そういうこと……」
彼女が納得したように息を吐いた。彼女も前任者の顔写真を見てからタイムスリップしたのだろう。
俺はまだ三澄の手を解放しなかった。彼女が握っているのは、黒いサインペンだった。これは依頼人がくれたものだ。過去に着いてすぐ、現場に数字を書き込むために。
「あんたは本田に死んでほしいの?」
彼女が6を書き込むつもりだったのは明らかだ。それ以外に彼女がここにいる理由がないだろう。ということは――五人目の俺に「あんたも失敗したよ」と嘘の情報を伝え、任務遂行を諦めさせようとした、ということだ。
唇を噛んだまま黙る三澄に、更に聞く。
「本田のこと、好きじゃないのかよ」
「今は違う」
彼女がきっぱりと言いながら、俺の手を振り払った。
「もう私は、違う人と結婚してるし、子供もいる」
自由になった手の薬指を、もう片方の指で擦りながら彼女が続ける。
「相手は本田製薬の専務の息子。出会いは本田副社長のお葬式だった」
お葬式、のフレーズに、思いがけずにショックを受ける。胸から肩にかけて痛みが走った。
そうだ、本田は、本当に死んだんだ。俺がいた2022年にはとっくに故人になっている。彼が死んだあと、本田製薬の専務が副社長に就任し、経営の指揮を執った。(本田の父親である社長は、相変わらず存在感がないらしい)本田が推し進めていたすい臓癌の新薬の研究をストップさせ、この年に流行したウイルスのワクチン開発に予算を割いた。
だから依頼人は、本田を助けたいのだ。本田が生きていれば、依頼人の母親はすい臓がんで命を落とさずに済むかもしれない。
「だから何も変えてほしくないの。副社長が死ぬのも、私とあの人が出会うことも、子供が生まれることも!」
三澄が俺を睨みつけるように見つめてくる。強い意志を持った目だった。
俺は即座に言い返せなかった。
俺が本田を助けたいように、彼女だって自分が築いた家族を守りたいのだ。
依頼人もそうだ。新薬の治験が始まるまでに母親の命は持たないと悟った彼は、私財を投げ打ってタイムマシンの現実化に奔走した。もともとタイムマシンの設計図はできていたが、実際に出来上がるのは十年も二十年も先になると見越していたものを、二年弱で完成させたのだ。
俺は彼の熱意に心を打たれたんだ。見返りを求めない親への愛情――それは俺にはないものだ。
「お願い、過去を変えないで」
必死な形相で三澄が言い募ってくる。俺は彼女から目を逸らした。
三澄の気持ちはわかる。でも、俺だって大事な人を守りたい。死なせたくない。
「俺はもう任務を果たしてるんだ。あとはなるようにしかならない」
本田が事故に遭う運命は、彼が生まれたときから決まっていて、人間の手でおいそれと変えることはできない。そんな予感がする。(ファイナル・デスティネーション的な何かか?)だから依頼人も、本田を事故から回避させようとはせず、彼にベンツを買わせるように俺に指示してきたのだろう。
「どんな任務だったの?」
三澄が探るような目で問うてくる。俺は首を横に振った。
「そう、だね。私に言えるわけないよね。なんでこの仕事引き受けたの?」
「あっちに未練がなかったから。いつ死んでもよかった。投げやりだったよな。三澄さんは? 依頼人とどうやって知り合ったの」
これは聞いておきたいことだった。
「私の弟、住む家もなくて、街をブラブラしていたら、依頼人に声を掛けられたんだって。弟はタイムマシンなんてって本気にしないで断ったけど、弟からその話を聞いて、私は気になって」
それで彼女は、自ら依頼人に会いに行ったのか。
「ここに来てから、何してた?」
「何も。色々やってみたい事があったはずなんだけど、実際は何をするのも怖くて。ホテルに閉じこもってるか、この場所で数字が書き込まれるのを待つぐらいしかできなかった」
そうだよな。俺もそうだったんだ。自分の些細な言動で、未来が大きく変わる(そういうのをバタフライエフェクトって言うんだっけ)のが怖くて、本田以外の人間とあまり話さないようにしていた。――いや、でも、すでに俺の存在のせいで未来は変わってるんじゃないか?
「三澄さんって、二年前会社辞めました?」
「は? 辞めてないけど。だから副社長のお葬式に出たんだし」
「俺がここに来たことで変わったんだ」
「そんな――じゃあお葬式であの人と会うことはなくなっちゃうわけ?」
急に彼女が険しい顔になって、俺の胸倉をつかんできた。
「どうすればいいのよ、私は」
今度は泣きそうな顔になる。どんな表情をしても美人は美人だな、と場違いにも感心してしまった。
「自分で考えろよ。頭良いんだろ? 違うやり方で旦那と出会う努力すれば良いじゃん」
話している途中で、俺は閃いた。
俺が三澄に協力する代わりに、本田を説得してもらうんだ。今日は一日、事故に遭う可能性があるから車に乗るなって。本田の信頼を得ている三澄が言ったら、彼は渋々にでも承諾してくれるかもしれない。
名案だと思った。だけどすぐダメなことに気がつく。
今日のスケジュールは頭に入っている。朝から隣県の研究センターに赴き視察をし、その後に行われる会議に出席する。すい臓がんの新薬開発をこのまま進めるか、やめるのか決めるのだ。部長以上の面々で。
俺と三澄が研究センターに行くなと言っても、本田は受け付けないだろう。彼は大事な局面に立たされているんだ。
それに、やっぱり俺は、三澄を本田に会わせたくない。彼女はもう、本田の優秀な秘書ではないし、信頼の置ける人物でもないんだ。
さっき俺は見たじゃないか。自分の未来を守るために、本田の死を願う彼女の険しい顔を。
三澄と別れたあと、俺はマンションに戻り、ベッドにもぐりこんだ。本田はまだ熟睡している。
なるようにしかならないんだよな、本当に。
俺はため息を吐いて、幸せそうな顔をして眠っている本田に軽くキスをする。
運命は些細な選択の違いで変えられるかもしれないし、どんな手を打っても変えられないかもしれない。
本田の生死も神のみぞ知る、だ。
だけど俺は決めた。どんなことがあっても、俺はベンツの助手席に座る。本田の隣に必ずいよう。
六時半に起きた。
シャワーを浴びて、シャツとスラックスを身に着け、朝食の準備をしてから寝室に入ろうとドアを開けたときだった。目の前に半裸の本田が立っていて、危うくぶつかるところだった。
「今日はどうした? やけにシャキッとしてるな」
そういって短髪を掻きながら、彼が欠伸をした。鼻の下が伸びているはずなのに相変わらずの格好良さで、ずるいと思った。
「今日は大事な視察と会議があるんだろ」
「ああ、そうだ」
本田が笑い、俺の頬を軽く叩いた。
「秘書っぽい顔つきになったな」
「まだ二日目じゃん」
「だな」
俺たちは目を合わせて笑った。
今朝はマツダが、予想外に早く起きて食事の準備をしてくれた。そのお陰で、だいぶ余裕をもって、家を出ることができた。
地下の駐車場までエレベーターで下り、俺のものになったばかりのベンツのロックを解除して、中に入る。マツダもすぐに助手席に座った。
「安全運転でお願い」
「もちろん」
昨日運転したから左ハンドルにもだいぶ慣れたが、普段より慎重になる必要がある。なにより隣にはマツダがいる。
シートベルトを締めて、マツダも締めているのを確認してから車を発進させた。直進とカーブを二回繰り返して地上に出る。
外は秋だった。マンション出てすぐから続く街路樹の足元にはイチョウの葉で埋め尽くされている。風に吹かれ地面を這う黄色い落ち葉は、車道へと恐れることなく流れてくる。
俺は幼い頃、イチョウの木が沢山ある公園で、どんぐり拾いに夢中になったことを思い出す。この二十年は公園になんか行ったことがない。でも、と隣を見やる。マツダと一緒なら行っても良い。
今日のマツダはいつもより真面目というか、しっかりしている。顔つきが、行動が。ネクタイもピシっと結べた。
前を向き、日差しの強さに眉をしかめた。サンバイザーの角度を調節する。
がら空きの対向車線に比べ、俺側の道はそれなりに混んでいる。通勤の時間帯だから仕方ない。余裕をもって家を出て正解だった。
片側一車線道路を進み続けると、地下鉄O線の最寄り駅付近に来る。そういえば、高架下にある店の前では市場が開かれている。いつも人がけっこう集まっている。
俺は速度を落とした。マツダに安全運転と言われたばかりだしな。
気を引き締めて、ハンドルをしっかり握りなおした時だった。対向車線を走ってくる赤い車が、黄色い中央線を大幅に超えるのが見えた。俺は咄嗟にブレーキを深く踏み込む。車が振動する。耳をつんざくようなブレーキ音。
「本田、後ろから来る!」
マツダが叫ぶ。前方の車がこちらに向かって突進してくるのを見ながら、俺はハンドル左に切る。――いや、ハンドルが勝手に動いているような感覚を覚える。尻と背中を突き上げてくる衝撃。と思ったら前からも衝撃を受ける。体が前後に揺れる。俺側のミラーが割れる。エアバッグに顔が埋もれる感触。それが最後。
気を失っていた時間は一分にも満たなかった。
俺はハッとして助手席に首を振る。彼は座っている。エアバッグに顔を埋めながらも。
「マツダ、大丈夫か」
まだ頭はくらくらしているが、意識はしっかりとしていた。マツダの肩に手をかける。
「大丈夫」
マツダが顔を上げる。
「本田さんは?」
掠れてはいたが、しっかりした声で聞き返され、俺は心底安堵した。
車のスピーカーからは、自動音声が流れている。保険会社に勝手に通報してくれている。
「大丈夫。外に出よう」
外に出ると、散々な光景が広がっていた。
対向車線から逸れて突進してきた赤い国産高級車は、さっきまで俺が走っていた道に到達していた。半壊している。
後ろから頭突きしてきた車は、ベンツに並ぶ頑丈な輸入車だった。ボンネットが凹んでいる程度。
「国産車だったら、俺たち死んでたな」
俺が呟くと、隣に立つマツダが相槌を打った。無駄口は叩いてこない。
お互い疲れていた。
とりあえず俺は、マツダの手を握った。彼も握り返してきた。
ほどなくして、赤い国産車と輸入車から運転手が外に出てきた。
四方八方から野次馬が集まってきて、その喧噪を破るように、背後からパトカーと救急車のサイレンが聞こえてくる。
俺のベンツはというと、ボンネットがガードレールに突っ込んでいて、フロントガラスはひび割れている。
その先には市場だ。大きな段ボールに、溢れそうに積まれているリンゴが目に鮮やかに映った。
Dコーヒーでテイクアウトしたベーグルとコーヒーで俺たちが昼食を摂っていると、サイドガラスを叩かれた。三澄が自慢げな顔をして立っていた。
俺が少し窓を開けると、興奮したような声で、三澄が話し出した。
「これから勇樹さんと、指輪を見に行くんです。副社長、本当にお世話になりました。あ、マツダもありがとね」
俺と本田への態度の違いに苦笑しつつ、会釈して去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、素直に良かった、と思った。
三澄はちゃんと、専務の息子(ただしくは元専務の息子だが)に出会えたのだ。
もちろん本田の葬式ではなく。三澄が彼に頼み込んで、未来の夫を紹介してもらったのだ。
いま乗っている車は、新しい二台目のベンツだ。事故に遭った一台目はちゃんと保険が下りた。
本田と犬猿の仲だった元専務は、あの事故が起きてすぐに、専務の職を解かれた。表向きの理由は、彼にインサイダー取引の疑惑が掛かっていたから、ということだが。実際は違う。
対向車線から突進してきた赤い国産車は盗難車で、持ち主は元専務の愛人の関係者だったのだ。その事実を調べ上げた本田は、元専務に退職を勧めたのだ。素直に辞めてくれれば事故のことは不問に付すと約束して。
だから今、憂うことはあまりないんだ。俺も本田も生きていて元気だ。ただ、気がかりが一つある。この世界に、もう一人俺がいるはずなんだけど、どこかでバッタリ会ったらおかしなことにならないか? どちらかが、いや両方消滅したりして? それとも共存できるんだろうか。
タイムパラドックスのことを考えると、悶々としてくる。でも明確な答えなんて出やしないんだ。
俺は一週間前に車の運転免許を取ったばかりだ。本当は無理だろうと諦めていたんだけどな。俺は身分証明書の類を持っていなかった。パスポートも保険証をもともとなかったし、マイナンバーカードも、2022年から持って来られなかった(未来で発行したものは過去に持って行けない決まりがあったため)から、高校のときの学生証と、ビデオのレンタルカードを持参して、区役所で住民票をとったのだ。
とりあえずまともな身分証明書が持てて一安心している。三澄も然り。いや、彼女なら俺よりも器用に、したたかに今を生きていくだろう。
ベーグルを食べ終えてコーヒーをゆっくり飲んで味わっていると、本田がジッと俺を見てくる。
「なに?」
「いや、お前ってもしかしたら、本当に未来から来たのかもって思ってさ」
「だから本当だってば」
俺は可笑しくなって笑った。今まさにそのことを考えていたから。
「――じゃあいつか元の時代に戻るのか」
「さあ、俺も分からない」
この時代に跳んだとき、タイムマシンを確かに見たはずなんだ。俺はそれに乗ってここに来たんだから。なのに記憶が曖昧で、思い出すのが難しくなってきている。大きさも形状も。
ちらりと本田の顔を見る。ちょっと不安そうに眉を寄せている。ほんと、可愛い表情ができるようになったな、この人。
「もし迎えのタイムマシンが来たとしても、俺は帰らないから。安心してよ」
依頼人の母親がちゃんと助かったのか知りようがないし、俺ともう一人の俺が対面する可能性がゼロではないし、あの日俺が未来を変えたことで不幸になっている人がいるかもしれない。
それでも俺は後悔していない。
俺はまだ不安そうな顔をしている恋人に微笑みながら、自分のコーヒーを彼に飲ませてやった。
そうだ、俺の中では決まっている。
本田のベンツで、こうやって二人並んでチープだけど美味しいランチを毎日食べる。
こういうのが良い。俺の幸せなんだ。了
執筆の狙い
SF要素(タイムスリップ)のあるBL(ボーイズラブ)小説です。
男同士がいちゃついている描写がありますので、苦手な方はご注意ください。
文章や、内容、設定の粗など教えていただけると嬉しいのですが、それとは別に、これがBLではなく男女ものだったら抵抗なく読めた、とか、BLじゃなくてブロマンス(男の固い友情)までなら良いのに、など忌憚のないご意見が頂けると幸いです。