作家でごはん!鍛練場
ピム

曲がり角

--それが言語をもつ者の悲劇なのだ、わが友よ。象徴的な概念でしかおたがいを知りえない者は、相手のことを想像するしかない。しかも、その想像力が不完全なために、彼らは往々にしてあやまちをおかすのだ--

耳鳴りが止まない

私は道を歩いていたが曲がり角というものは突然必然的に現れるもので避けようがないたとえばあの曲がり角を曲がればまた曲がり角が

何度行き来しても覚えられない何回そこには曲がり角が存在するのか

最初の曲がり角を一として次を二にするとじきに元の曲がり角に戻ることがあるそれはいくつめにあたるのかまったく見当がつかない

耳元から何かが囁く

--思考は言葉で組み立てます。現実は言葉で組み立てられておりません。この違いは、埋めることができないでしょう。でも、なんとか言葉で、というのが人間の気持ちなのかもしれません。ぼくもしじゅう残念な気持ちを持ちながら言葉で文章を組み立てています。しかし、言葉と言葉のあいだにある溝が、現実にはなかったものをも想起させることがあるので、現実にはなかったものが創造されることもあるという意味では、言語の可能性は無限と言ってもよいのではないかと思います--


曲がり角を反対方向から老婆が

ここで何かが閃く

老婆の背にぴたりとつき私は離れない

あの曲がり角を曲がれば老婆と一緒に私は曲がることを経験して子供の頃の記憶に繋がるそれは亡き母親の声

あなたは一人で歩いてはだめよここでは迷子になってしまう迷子になってしまうとあなたと会えなくなるの離れ離れになることはとても辛いわあたしと繋がりのあったひとたちはもうあらわれないここの曲がり角で曲がる回数を間違えてしまったからあなたが大人になったら曲がるときに必ず数を正しく数えるのよ

--ぼくの理想は、言葉と直接セックスすることである。言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである--

老婆の背にはりついて私は鉛筆でメモ帳に回数を書きつける正の字が増えていくほど記憶の母との距離が遠くなるような気がして私は知らない老婆の背を涙で濡らしていく

--二人の青年を好きだなって思っていたのだけれど、その二人の青年が同一人物だと、きょうわかって、びっくりした。数か月に一度くらいしか会っていなかったからかもしれないけれど、髪形がぜんぜん違っていて、違う人物だと思っていたのだった。太めの童顔の体育会系の青年だった。彼は立ち上がって、トランクスと作業ズボンをいっしょに引き上げると、ファスナーを上げ、ベルトを締めて、ふたたび腰掛けた。「なかなか時間が合わなくて。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ? ああ。うん。」たしかに量が多かった。「また連絡ください。」「えっ?」思いっきりはげしいオーラルセックスをしたあとで、びっくりするようなことを聞かされて、ダブルで、頭がくらくらして、でも、二人の顔がようやく一つになって、「またメールしてもいいの?」かろうじて、こう訊くことが、ぼくができる精いっぱいのことだった。「嫁がメール見よるんで、すぐに消しますけど。」「えっ?」呆然としながら、しばらくのあいだ、彼の顔を見つめていた。一つの顔が二人の顔に見えて、二つの顔が一人の顔に見えてっていう、顔の輪郭と表情の往還というか、消失と出現の繰り返しに、ぼくは顔を上げて、目を瞬かせていた。彼の膝を両手でつかまえて、彼の膝と膝とのあいだにはさまれる形で跪きながら--

曲がり角

執筆の狙い

作者 ピム
sp49-98-145-103.msd.spmode.ne.jp

私の思考にはぼくがいる
ひとりの思考にもうひとりの思考が入り込むことを描いたらどうなるか
テキストは分裂し体裁など保てないのか

コメント

太郎仏
M014009196000.v4.enabler.ne.jp

なんか上手な人が一発書きしたような気がしました。
以下妄想ですが
多分村上春樹さんがなんかの用事で今日は宵っ張りだったのでしょう。
そもそも村上春樹さんは短眠を身につけているのかもしれません。
それで捨てアカウントを作ってるごはんを除くと
僕の作品を見て、生産手段の社会化は完全競争市場であるかもしれない。
むむ、やるな。
相手してやろう。
で宵っ張りになって仮さんや
桃さんや
あなたになって相手した。
というのはどうでしょう。
なかなか乙な妄想かと。

太郎仏
M014009196000.v4.enabler.ne.jp

まあ上のはあくまで私の妄想ですが、正直村上春樹さんが悪戯したと言ってもおかしくないくらいお上手ですよ。
本当うまいですね。

ピム
sp49-98-145-103.msd.spmode.ne.jp

太郎仏さん。褒めてもらってありがたいのですが、悪いところや改善点等のご指摘を頂きたいです。村上春樹の悪戯ではなく、さきの新潮新人賞三次選考落選作品の、私が一番問題点だと感じた一部分を投稿しています。あと基本的に感想返しをしますが、21世紀キョウサンゲリオンには書けそうにありませんすみません。

太郎仏
M014009196000.v4.enabler.ne.jp

なるほど問題点ですね。
オリジナリティとテーマじゃないですかね。
新潮の三次ということで作品のできだとかそういうとこではいいせん行ってたわけです
ただしこれ村上春樹の亜流と言われそうでしょう。
そういうところが引っかかるんじゃないですかね。

夜の雨
ai211220.d.west.v6connect.net

「曲がり角」読みました。

執筆の狙い
>私の思考にはぼくがいる
>ひとりの思考にもうひとりの思考が入り込むことを描いたらどうなるか
>テキストは分裂し体裁など保てないのか

という興味深い題材ですが、御作に何が書いてあるのかというと、「一人の人物を『私』と『ぼく』と呼び名を変えて書いてあるだけ」で、二つの違った思考が入り込んでいる、という世界のようには、感じませんでした。
どうやら、「御作は作品の一部」のようなので、こちらのラスト「G」の部分は、それまでの構成からして、破たんしているのではないかと思いましたが。
作品全編の投稿だと、御作を判断しやすいですけれど。

以下、分析しましたので、参考になればと思います。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
A 私より、または、第三者より。

--それが言語をもつ者の悲劇なのだ、わが友よ。象徴的な概念でしかおたがいを知りえない者は、相手のことを想像するしかない。しかも、その想像力が不完全なために、彼らは往々にしてあやまちをおかすのだ--
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
まず、このAは、私により、書かれているものと思われるが、第三者の言葉としても理解できるので、誰が、書いているのかをはっきりとさせた方がよい。
私が書いたとした場合は「わが友よ」というのは「自分の中のもう一人の人物である『ぼく』と、解釈できる。
すなわち自分の中のもう一人を理解できているのか、わからないという話である。
「象徴的な概念でしかおたがいを知りえない」から、相手を想像するときに想像力が不完全だと過ちをおかす。
「彼らは往々にして」と、あるので、第三者が「私」と「ぼく」という一人の人物を評価しているともとらえることが出来る。
●誰が、何の目的で、書いているのか、はっきりとさせる。
はっきりとさせない意味があるのなら、それでよい。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――
B 私より。

耳鳴りが止まない

私は道を歩いていたが曲がり角というものは突然必然的に現れるもので避けようがないたとえばあの曲がり角を曲がればまた曲がり角が

何度行き来しても覚えられない何回そこには曲がり角が存在するのか

最初の曲がり角を一として次を二にするとじきに元の曲がり角に戻ることがあるそれはいくつめにあたるのかまったく見当がつかない
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「私」が、人生を書いた物だが、「曲がり角」は、先が見えないので、人生に迷うというような事だと思う。
多数の曲がり角があるので、迷いながら進むが、同じところを何度も行きかいするような場面がある、という話だが、覚えられないので、似たような間違いをおかすということなのだろう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
C ぼくより。

耳元から何かが囁く

--思考は言葉で組み立てます。現実は言葉で組み立てられておりません。この違いは、埋めることができないでしょう。でも、なんとか言葉で、というのが人間の気持ちなのかもしれません。ぼくもしじゅう残念な気持ちを持ちながら言葉で文章を組み立てています。しかし、言葉と言葉のあいだにある溝が、現実にはなかったものをも想起させることがあるので、現実にはなかったものが創造されることもあるという意味では、言語の可能性は無限と言ってもよいのではないかと思います--
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「ぼく」が、書いている。
「言葉」と「言葉」をかけると、新しい言葉が生まれる、というような話。
当たり前といえば当たり前だが、文章でこのように書けば、新しい発見のように思えるから不思議だ。
もちろん、言葉以外にも世の中のありとあらゆるものが「かける」ことにより「新しいものが生まれる」のですが。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
D 私より。

曲がり角を反対方向から老婆が

ここで何かが閃く

老婆の背にぴたりとつき私は離れない

あの曲がり角を曲がれば老婆と一緒に私は曲がることを経験して子供の頃の記憶に繋がるそれは亡き母親の声

あなたは一人で歩いてはだめよここでは迷子になってしまう迷子になってしまうとあなたと会えなくなるの離れ離れになることはとても辛いわあたしと繋がりのあったひとたちはもうあらわれないここの曲がり角で曲がる回数を間違えてしまったからあなたが大人になったら曲がるときに必ず数を正しく数えるのよ
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

「私」が、書いた。
人生の曲がり角は注意しなさいよ、というような話。
私は、母に言われた言葉を思い出して老婆の背中に張り付いて、一緒に曲がり角を曲がる。
母が、曲がり角で迷ったので、つながりがあった人たちと逢えなくなったという話。
なので、大人になったら、曲がり角の数を数えて「うんぬん」だから、人生のうんちくを述べている。

―――――――――――――――――――――――――――――――――

続く

夜の雨
ai211220.d.west.v6connect.net

続き

E  ぼくより。

--ぼくの理想は、言葉と直接セックスすることである。言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである--
――――――――――――――――――――――――――――――――
「ぼく」が書いた。
言葉とセックスするのが、理想という話です。
体位に頭を使うとあるが、「体位」が「言葉とのセックス」する、なんたるかが、書かれていない。
また「言葉とセックス」するとは「どういうことなのかが書かれていない」。

――――――――――――――――――――――――――――――――
F  私より。

老婆の背にはりついて私は鉛筆でメモ帳に回数を書きつける正の字が増えていくほど記憶の母との距離が遠くなるような気がして私は知らない老婆の背を涙で濡らしていく
―――――――――――――――――――――――――――――――――
「私」が書いた。
老婆の背中で「メモ帳に回数を書きつける正の字が増えていくほど記憶の母との距離が遠くなる」これは、老婆と一緒に人生の曲がり角を進んでいるのだから、時間(年月)が経過していくのだから、母の記憶が遠くなるのは当たり前です。
「私は知らない老婆の背を涙で濡らしていく」人生無常でいいですね。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――
G 第三者より。または「ぼく」。

--二人の青年を好きだなって思っていたのだけれど、その二人の青年が同一人物だと、きょうわかって、びっくりした。数か月に一度くらいしか会っていなかったからかもしれないけれど、髪形がぜんぜん違っていて、違う人物だと思っていたのだった。太めの童顔の体育会系の青年だった。彼は立ち上がって、トランクスと作業ズボンをいっしょに引き上げると、ファスナーを上げ、ベルトを締めて、ふたたび腰掛けた。「なかなか時間が合わなくて。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ? ああ。うん。」たしかに量が多かった。「また連絡ください。」「えっ?」思いっきりはげしいオーラルセックスをしたあとで、びっくりするようなことを聞かされて、ダブルで、頭がくらくらして、でも、二人の顔がようやく一つになって、「またメールしてもいいの?」かろうじて、こう訊くことが、ぼくができる精いっぱいのことだった。「嫁がメール見よるんで、すぐに消しますけど。」「えっ?」呆然としながら、しばらくのあいだ、彼の顔を見つめていた。一つの顔が二人の顔に見えて、二つの顔が一人の顔に見えてっていう、顔の輪郭と表情の往還というか、消失と出現の繰り返しに、ぼくは顔を上げて、目を瞬かせていた。彼の膝を両手でつかまえて、彼の膝と膝とのあいだにはさまれる形で跪きながら--
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

「第三者」または「ぼく」のどちらかが書いている。

「二人の青年」が出てきて「その二人の青年が同一人物」ということになるので、この「二人の青年は『私』と『ぼく』ということになるから、「第三者が書いていると思って読んでいると」後半で「ぼく」が、書いていることになっている。
この「ぼく」は私ともうひとりの「ぼく」ですか。
それとも第三者の「ぼく」ですか。ということになる。
誰が書いているのか、わかるようにしたほうがよい。

●また、「オーラルセックス」が突然出てきましたが、今までの流れが急に中断されました。
「私」の曲がり角の人生とか「ぼく」の言葉のマジックとかと、かけ離れているし、説明というか、エピソードも何もない。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――

御作を上に分析して書きました。
こうやると、御作で、何が問題になっているのかが一目瞭然だと思いますが。

AとGが、誰が書いているのかが、わかりにくいので、わかるように書く。
構成上ではGがそれまでの流れを壊しています。何の意味があるのかということですGは。

B、D、Fの「私」のパートですが、「曲がり角」うんぬんの道を歩いているわけですから。風景を描写すると色気が御作に出るのではないかと思いますが。
人生いろいろな道があるので、淋しい道なら寂しい風景描写、楽しい道ならウキウキするような描写とか。春秋秋冬、いろいろな道がある。
この風景描写ですが、現実的な描写よりも、絵画的な描写が御作の世界観に合っているのではないかと思います。

●ひとりの思考にもうひとりの思考が入り込むことを描いたらどうなるか

入り込んでいませんけれど、ここに投稿されている部分では、「私」「ぼく」どちらかひとりの思考で、書かれているものと解釈できます。
「ひとりの思考にもうひとりの思考が入り込む」というのは、「私」「ぼく」に、対立が発生するので面白くなるのですが、御作では、「私」「ぼく」に、対立は発生していません。
別の事柄を考えているだけです。

それでは、頑張ってください。

地蔵
133-106-68-150.mvno.rakuten.jp

作品の一部をピックアップしたものとのことで、非常にわかりにくいです。
逐一指摘してもしょうがないとは思いますが、冒頭の発言がまず誰が誰に向けて発せられたものかわからない。また内容がとても抽象的で言わんとすることは何となくわかるが読み手にストレスを与えるスタイルです。
人間の認識とは何ぞや? 認識に関与する言語の可能性と限界とは? みたいな哲学的なテーマがモチーフなのでしょうか?
次に出て来る曲がり角の話は何かのメタファーだと思いますが、よくわかりませんでした。
母親が離れ離れになるのは辛いから曲がる回数を数えるようにと言いますが、私はメモ帳に曲がる回数を書きつける度に反対に母親との距離が遠くなると感じる。どういうことでしょうか?
唐突にまた別の話が始まります。誰が誰に語っているのかわかりませんが、別人だと思っていた二人の青年が同一人物だと知って驚いたというもの。人物の認知能力に混乱が見られるようですが、ひとつのメタファーとして閑却できない重要な何かがここにはある、と読者に思わせることができなければ失敗だと思います。
バラバラのピースを繋ぎ合わせて一つの筋の通った意見として受け取る喜び、知的な推理の楽しみというものはあると思いますが、私の理解力が足りていないのか、本作が長い作品の抜粋のためかわかりませんが、ただただ理解し難い作品でした。

ピム
sp49-98-145-103.msd.spmode.ne.jp

つまり、わかりやすく書けということですね。

地蔵
133-106-68-150.mvno.rakuten.jp

私個人の意見ですが、知的な推理の楽しみというのは小説にとって有効で、必要なものだと考えます。
謎は作品に牽引力を与えるための重要な要素ですが、あくまで二義的なものだと思います(それを全面に押し出したものが推理小説で、これは常に娯楽作品として軽く扱われます)。
メタフォリカルな謎めいた表現の奥にある何かを探ろうとして読者は推理する。それがわかりにく過ぎるとダメだし、わかりやすいのもダメ。料理の味付けと一緒で、塩をドバドバもダメだし砂糖をドバドバもダメ。一流のシェフはちょうどいい塩梅を知っている、そういう認識です。
推理の果てにたどり着いたものが正鵠を射たものであり、新たな認識や視点を与えるものなら、読解の喜びはさらに増す。難解なものを読まされてもストレスはそれほど感じないでしょう。
おそらくないとは思いますが、そもそも明確なテーマがなく、作者自身よくわかっていないものを、もっともらしい煙に巻くようなやり方でダラダラと書く場合、それは低級なものと呼ばれなければならないと思います。

夜の雨
ai210137.d.west.v6connect.net

再訪です。

ピム
2020-11-23 11:50
sp49-98-145-103.msd.spmode.ne.jp
太郎仏さん。褒めてもらってありがたいのですが、悪いところや改善点等のご指摘を頂きたいです。村上春樹の悪戯ではなく、さきの新潮新人賞三次選考落選作品の、私が一番問題点だと感じた一部分を投稿しています。


>悪いところや改善点等のご指摘を頂きたいです。
>私が一番問題点だと感じた一部分を投稿しています。
―――――――――――――――――――――――――――

だから、御作を分析して書いたのですが、「つまり、わかりやすく書けということですね。」と、一行で片づけるとは。

「ピム」さん、あなた、自分自身を裏切っていないですか。

御作をより良い作品にしたいと思っているのなら、私が書いた分析に真剣に対応するべきだ。

つまり「曲がり角」という作品は「ピム」さん、自身を書いているということになる。

なぜなら、「太郎仏さん。褒めてもらってありがたいのですが、悪いところや改善点等のご指摘を頂きたいです。」と言っておきながら、「現実には『つまり、わかりやすく書けということですね。』と、わずか一行で逃げている」

●ここに、「対立があるので、御作の心理が、書かれている」ということだ。
●つまり、あなた自身を小説として書けば「今回の題材である『私の思考にはぼくがいる』
『ひとりの思考にもうひとりの思考が入り込むことを描いたらどうなるか』『テキストは分裂し体裁など保てないのか』ということになる。

わかりましたか。

以上。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

 読み手にとっての意識の流れとの接点を作らずに、象徴表現を重ねたとき、その出来事は徹頭徹尾、読み手にとっての地下一階の出来事に過ぎません。そして読み手は最初から地下階にいるわけではないと思います。地上階から地下階に潜れるように促す、そういう機能があるような言葉を、小説においては、象徴表現と言うのだと思います。言葉が地上階にいれば意識が浅く、地下階にいれば意識が深いというようなことではなくって、仮に言葉が最終的にチープなところに落ち着くのだとしても、一度は地下階に手をのばし横断したということ、梯子をなしたということこそが重要なのではと思います。文脈のわかりやすさの問題ではなく、接点の問題。仮に抽象的でぶっとんだ内容であっても、接点があれば読み手は理解はできなくても意外と感得できたりするものだと思います。地下一階に生きる作者さまにとって地上階を行ったり来たりする表現は中途半端な生ぬるい表現なのかもしれません。けれども、理解につながる一本道よりも、誤解につながる回り道の方が意外と大切だったりから小説はあなどれない。影をみて太陽の位置を探ったっていいはずだ、なんて思います。
 以下は殆んど同じ事を書いているような気がしますが、総体としての必然性がよくわからないなとも感じました。つまり、物語があって、その必然として、ある象徴表現が選ばれるはずで、なもんだから、象徴表現ってのは内奥と表層の二重写しになると思うんです。でも、御作の場合は、今のところ、書きたいことの象徴として表現をあてがっているという作為的な匂いが強く、象徴が元来持つはずの小説的な豊かさを感じづらいように思います。また、それゆえ、表現に裏切りが少ない。作為によってグルーピングされた同属の言葉たちに過ぎないので。裏切りがないと響かない。だから、理解と感得の両面において難しさを感じる小説です。
 などとこまっしゃくれたことを書きましたが、アリアドネの小説観もかなーり狭いしそれほど確信をもって書いているわけでもないので、あんまりアテにはなんないすってことだけ最後に書いておきます。実際、御作のようにストーリーよりも概念を表象することを中心に置いた小説も世の中にはあるからねー。

ピム
sp49-97-107-102.msc.spmode.ne.jp

アリアドネの糸さん。数学の計算のように最後の答えだけが問題なわけではなくて、答えようとする道筋、もっと言ってしまえば、作り手読み手関係なく、世界への不可解さを何らかの形にするところまでしか小説の仕事はないと個人的には思う。わかる、わからないの二元論で語ろうとするのは小説に対する最高の裏切りだ。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

>作り手読み手関係なく、世界への不可解さを何らかの形にする
に個人的にビビッとくるものがあって再訪しました。

 表現は最後には書き手の意図から自立しないといけなくて、それはつまり、作為から離れるってことなんだと思います。わかるように書くという姿勢は、その根っこが作為でできているわけだし、そもそも捉えたい対象と向き合っていないのでよろしくないとか、そんなことを仰りたいのだろうなと思います。

 アリアドネの感想がわかる・わからないというところに寄ってしまったはよくなかったです。反省。

 世界の不可解さを何らかの形にするためには、象徴表現でもって内側に潜んでいる図式を描くのではなく、図式を生むように描かないとなんじゃって思います。ピムさんが仰るように「最後の答えだけが問題なわけではなくて、答えようとする道筋」が大事であるならば、探り当てようとする言葉の働きの方がより大切になってくるわけですから。
 象徴表現って言うぐらいですから、そういう表現はなんらかの図式やら模様やらを効果的にシンボリックに伝えるための方法には違いないのだけど、小説における象徴表現ってのは実はその逆で、逆説的ではあるけれど、象徴した後に図式が生まれてくる類のものように思います。(思いますって言い切ったけれど、よくわかんないんだよなー。このへん)

 それに、図式ありきで成された象徴表現ってのは、書き手の意図から自立しきっていないようにどうしても思えてしまう(ちなみに、その表現が図式ありきで成されたかどうかを中立に判断するのは難しいです。読み手の好みや背景知識とかも関係しますから)。とまれ、表現が表現として重層的に一貫して自立してこそ、ぼくらはそこに勝手に図式やら模様やらを読み取る。重層的ってことが結構大事。理解するより先に感得できるってのはそういう言葉の力のなせるわざとか、そんなふうに思います。ただ、この考えは、あくまで読み手の椅子からみた風景に過ぎないので、やっぱり、アリアドネが言いたいことはどこまでいっても読み手に寄り添った、わかる・わからないっていう二元論でしかないのかもしれないです。

 小説の感想ではなく、頂いた返信から受け取った自問自答の開陳になっちゃいましたが、そこはご容赦ください。

ピム
sp49-97-107-102.msc.spmode.ne.jp

みなさん感想ありがとうございます。

これは202枚あるうちのたった2枚、つまり1/100の分量しか提示していないのですが、それでもどこから切り取っても金太郎飴のような作品を理想として書いたので、これがここまで評判が悪いとなれば、新潮の下読みがよほど寛大な人だったのかと思います。


さて、まず僕が目指したものを、作品論的に言及できる所としては、意味に還元されない言葉たちが、意味を超えて迫ってくるという感覚が今一番近いです。この点を僕もここ数年ずっと追い求めていて、いわゆるそれが僕なりの「読書という体験」という言葉で指し示している事だったりします。片仮名風味に表現すると、「ナラティブ」っていう新しい感情を表現する言葉があって、それを読み手の中に喚起させること。これが最近よく僕が考えていることです。ただ、この感慨を狙って打ち出すことは非常に難しくて、というか書き手と読み手の相性問題というのは明確にあるだろうなと思っています。作者としては、なるべく最大公約数的に的を広げていきたいなとは思っているのですが、技術的にそれを達成するための道筋は見つかってません。(的を絞って狙い撃つには、多分本作のような書き方が望ましいのかなとは思いますがね。)そういう意味で僕はこれを投稿してストレートな感想が欲しかったし、願わくば具体的にこれをどうよんだか、つまらなかったとか面白かったとか単純な意見を言っていただければなと考えていました。このジャッチメントは僕の中で適当に下しても、それは元あるセンスの中で下された判断になってしまうので当てにならないからです。僕は自分の感覚というものをそこまで信頼していません。
結果的に、本作に対して三名の方がコメントを下さったので、読み手の皆さんには感謝しかなく、もらった感想を元に次作をどう組み立てていくべきか毎日考えております。という訳で、いつもだったらさらっと流して感想返して終わってしまうのですが、自分の考えをなるべくストレートに書かせていただいている次第です。僕も自分の考えが正しいとは思っている訳ではないのですが、その考えを検証する為にも言語化して皆さんのレスに真剣に答える事は無駄だとは思ってないですし、これはせめてものお礼を含んだ返レスであるという事をご理解いただけますと幸いです。
これを書こうと思った契機と理由、それから選択した技法についてなるべく開示しようと思います。まず、僕はここ数か月くらい色々な投稿作品を読ませてもらいました。投稿作品は正直全部音読したと思ってますし、全て熟読した訳ではないのですが、出来る範囲内で読解させていただきました。その中で強く感じた事は、文章の持つ音の威力という事です。
次に、最近書いた自分の作品が、どちらかというと、真面目に書きすぎてしまったり、語彙を意図的にセーブして使っているなという思いがありました。
ですので、本作のコンセプトは以下の通りです。

➀全面的にふざけた作品を作る
②でも音はしっかり作りこむ

➀のベースとして利用しようとしたのは、過去の自分の作品でした。(今は掲載していたサイトが消えて見れません)具体的に言うと「夜を走る」という作品なのですが、高校生の時に作ったものなので、中身という意味では今思うと出来がよくないです。でも色々と形を変えていたり、「ー」で会話文を挿入していたりと、今の自分に比べて何のしがらみもなく自由に作っていたなという覚えがあって、小説を書き始めた時の初期衝動を思い出すように即興的に言葉で遊んでみようと思いました。一番最初の段落は見た目の面白さと②にかかるようにこの文の語りにこだわりました。
後は、これは普段あまりやらないようにしているんですが、今回は敢えて試した事があって、自分の中にたまってきた、インプットされた情報をそのまま吐き出すことによって意味不明さを前面に押し出すことによって②の要素を引き立てようとしました。そういう意味でこれはそもそもの成り立ちとして秘私性の比率を高めています。意味不明な文章の根底には僕がインプットしてきた情報の連想が海底山脈のようにつながっていますが、それを知りうるのは多分僕だけですね。という自覚を持って敢えて書き込むことによって、ナンセンスな物事のつながりが意味としてはつながらないけど、何かしらのイメージを持って読者にカチコミに良くみたいな事態が発生すればいいなと思いました。
ですので、ある意味これは僕のオナニーみたいなものであると揶揄されてしまったら、それはその通りだとは思っていて、読み手に対してちゃんと目を向けているかというとそうではなく、ある意味では意図的に、無意識的に外している自覚を持ってこれは作りました。

一言でいうのであれば、音やイメージだけを楽しむ文、意味を伝達するという視点から一回外して物を書いたり読んだりすることを再考しなおす為の作品だという感じかなぁ。

無論、ここに僕が出した作品は読みやすさと読みにくさの淡いを結構徹底的に狙うように書いてきたという自負があるので、これが僕の全てのスタイルという訳ではありません。多分これはこれとして僕の中の肥やしとなってまた別の作品を作り始めるだろうし、無限にあるアプローチを一つ一つぶしていく過程の中の消し炭の一つになるのかなとは思っています。あるいは消し炭にするためにちゃんと真っ向からもう一度このスタイルに挑戦したというだけかもしれません。




作品を一発で読み切れる人間なんてそんないないと思っているし、ここはそういう意味で情報交換しやすい場だと思っているので、喧嘩にならない程度に交流する事は悪くない事だと思います。

僕も、中々コメントの返信するのに考えちゃうタチなので、ゆっくりやり取りする事になってしまうとは思っていますが、こうしたやり取りを真剣にするのは楽しいと思ってます。というかこういう事がしたかった。

ありがとうございました。

地蔵
133-106-68-150.mvno.rakuten.jp

>もらった感想を元に次作をどう組み立てていくべきか毎日考えております。

軌道修正されるのか今作と同様の試みをいっそう押し進めるおつもりなのかわかりませんが、作者様の考えに触れていろいろと考えさせられました。

>書き手と読み手の相性問題というのは明確にあるだろうなと思っています。

同意します。私の感想はやはり小説に物語性を求める者の感想でした。
スタンスの違いでしかないと。新潮新人賞の三次落ちとのことで、純文学の領域ではこういった試みは有意義なものなのだろうと思います。
難解なテキストに接した時に、嫌気をもよおすタイプと、がぜんやる気の出るタイプがあるのだと思います(後者は謎解きやパズルが好きなタイプでしょうか?)。読者として高等なのは後者かもしれませんが、私はメッセージを広範に伝えるということに価値を見出しています。
ナラティブという言葉を詳しくは知りませんが、私の解釈では詩やラップに近いものという感じがします。ライブ感とかグルーブ感、身体性、即興性、人間の本性とダイレクトにつながったもので、それはまあ、少し大げさに言えば、自然に対する信頼や帰依のようなものとも関係しているかもしれません。目に見えるこの世界の背後に確実にあるはずのよくわからないドロドロとした黒い何か、これに触れたいという思い。
ナラティブという言葉を私は大江経由で知ったのですが、彼はエロやグロのワードを方法的に用いて異様な印象を喚起することに成功していました。これがナラティブに該当するのかわかりませんが、何かとてもおかしなもの、強い印象を与えるものに触れたという感覚がありました。
御作では男同士のフェラチオの場面が出てきますが、これは異様なもので、人によっては不快感を抱くものでもあると思います。もちろんフェラチオそれ自体を描きたいわけではないということはわかります。何かを象徴しているのでしょう。つまり高度な意図が込められた文学作品を読解する場合、こういった素朴な印象は本来問題にならないはずですが、私のように小説に意味や物語性を求めるスタンスの人間の場合、こういった尋常でないものが描かれる場合には、事前に(もしくは事後に)十分な説明が欲しいのです。物語において読者をあっと驚かすものを突然出すことは難しくなく、それを違和感を生じずに出すのが難しいのですが(例えば伏線の技術がこれを可能にします)、その物語作者として問われている技術を示すことができずに、ただいたずらに飛び道具的なものを連発する場合、その作品は通常奇をてらった拙い作品と評価されがちです。
私のスタンスですと、こういった場面が唐突に出て来た場合に、しかも何とか意味を読み取ろうとしてもメタファーとしてあまりにも抽象的過ぎる場合に、肯定的に評価するのはとても難しい。このことをわかっていただきたいのです。ところが、私が先ほどナラティブという言葉に関して述べた際の感覚で当該箇所を読めば、私のような人間でさえ、「ん? 何だこれは? よくわからないが何だかすごい」という感想になるのはわからなくもありません。客観的事実として御作は新潮新人賞の下読みから評価されていますし、この方向をそのまま追求して行くのが正解のような気もします。何とも言えませんね。

>最近書いた自分の作品が、どちらかというと、真面目に書きすぎてしまったり、語彙を意図的にセーブして使っているなという思いがありました。

もともとオーソドックスな小説(物語性重視の小説)を書かれていたのであれば、今回の試みによってある程度の結果が出て、手ごたえを掴まれたわけですね。気分を害されたら申し訳ないですが、この成功体験は、長い目で見れば、結果的に作者様の活躍の場を狭め、可能性の芽を摘むことになるかもしれません。売れることが全てではないですが、こういった趣向の小説を好む人間の絶対数は明らかに少ないでしょうから。作者様ご自身、

>消し炭にするためにちゃんと真っ向からもう一度このスタイルに挑戦したというだけ

このようにおっしゃっていますから、余計な一言かもしれませんが。

ブロンコ
softbank221022130005.bbtec.net

言葉とセックスしたいのはわかります。
あたしもずっと、言葉でイキたいって言い続けてるんです。
でも、これに共感はないなあ、申し訳ないんですけど。
セックスなんて面倒ですよ、実際。

上に似たモンいますけど、付き合わせなくていいんですか?
ちゃんと格好つきますか。
何しに来てるんですか。
期待してるんだからちゃんとやってくださいよ、せっかくなんだから自己満足戦わせて見せてくださいよ。
こんなとこ、便乗馬鹿しかいないんだから遠慮することないですよ。
わかってるから夜雨日暮シカトしたんでしょ?
アリアドネなんてただの卑怯者ですよ。
地蔵とか捨てハンは相手にすんな。
援護するから面白いこと撒いて下さいよ。
刺激になるから。

macoリカ
p73186-obmd01.osaka.ocn.ne.jp

ピムさん

>テキストは分裂し体裁など保てないのか

こういうスタイルを採用していながらなおも体裁を保つ意思があるのが驚き。でもそういう執筆の狙いが手引きみたいになってるので、なんとかチューニングを合わそうと努力して、みた。
で、挿入もそうでしたけど、今作も小説というより、演劇みたいなものとして、入ってくるんすよね。というかそういう形でしか自分の中に落ち着く場所がない、のでした。劇を見るようにして読む。ふだん演劇に馴染んでる人間ではないですけどね全然。

挿入は板尾さんの一人芸に見えてしまったらもうほかの見え方はできなくなったんですけど、今作は小劇場の舞台で塀で囲った四角形があって「私」(女)が無言でその周りを歩きつづけている図が思いうかんで、そこに音声のみで「ぼく」(男)のセリフがかぶさってくる。まあ意味はよく分かんないけどなんかそういうものとして世界が成立している。で、いったんそう受け入れてしまうと、もうほかの見え方はできない。分裂はおれの中でこういう形で、分裂のまま統合され、体裁はこういう体裁として成立してしまった感じ。

その上で眺めてみれば、この掌編はなによりも、それこそ言葉に頼らない、象徴的な概念に頼らない想像力を発動させる力があるよなと思う。もはやフィジカルとの境が不分明な領域の話だと思う。
そもそも、きわめて思惟的な匂いが強い作品なのに、頭でっかちな感じがないってのは興味深いんすよね。だからこそ読んでみようと思ったんだし(いくら五感や身体感覚を描写しても頭でっかちでしかない作品はたくさんあるけど、そういうのとは真逆)。
感覚的には、言葉が身体感覚に侵入してくる(それは挿入のときにより強烈に感じたことで、言葉でできた生々しい芋虫が前進してゆくみたいな感触。こういうふうな形で言葉と体が融合しうるんだなあというのは、新鮮でした)、そんな奇妙な感じ。

でも、頭でっかちではなくても、言葉でっかちである。そこは逃れ得てないんじゃないかと思う。

>なんとか言葉で、というのが人間の気持ちなのかもしれません。

なんてことには個人的にまったく同意できないですね。なんとか体で、がおれにはふつうだし、そうじゃないならその世界は狂ってるくらいに思ってます。もちろん言葉でしか、それも詩的なあるいは小説的な言葉でしかたどり着けない世界があるのは実感していて、それがまさに、

>言葉と言葉のあいだにある溝が、現実にはなかったものをも想起させることがあるので、現実にはなかったものが創造されることもあるという意味では、言語の可能性は無限と言ってもよいのではないかと思います

言葉は想像力を発動させるスーパー装置みたいなもんで。言葉のそういう機能は図抜けている、まちがいなく。でもたとえば体だって想像力を発動させる装置であって、我々を土台で支配するニュートン力学により誠実であろうとすればするほど、身体感覚を研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、意識という領域に入っていかざるをえないし、そこでは想像力が発動される。体と言葉は遠いどこかの想像力という地点で収束される。もちろんセックスもそう(こちらの方が他者がテコみたいになってくれるので、たぶんより発動されやすいすよね)。

ところが御作ではセックスのそういう一面は完全スルーで。端的に、

>言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである

こんなこと言うヤツは本当には言葉とセックスしたいと思ってるわけがないよな、と思う。言葉とのセックスは体位なんてものはすっ飛ばしてもっと深いところに繋がるものだから。もしこそっと入れたギャグだとしたら、ツッコミ待ちのうすいギャグだし(ヘタしたら言葉ではなく文字とのセックスを想起させてしまう。いやそれはそれでおかしいけど、より深いおもしろさにとっては邪魔になっちゃう)、板尾さんだったらボケの荒野をずんずん行き、小道具もない舞台上で例えば黙って言葉に亀甲縛りをするだろうし、「ほら。ここの膨らみが、ええんですわ」としみじみ語るだろうし、そのあとふうっとタバコをひとふかしするだろう。語り手と対象との距離の問題。腰が引けてませんか。

最終パラグラフもそう。ここは巧くて彩りがあるパラグラフでこの掌編を支える役割も果たしていると思うけど、想像力という観点では拍子抜けです。セックスをふつうに(毛色は変わってるけど)人間間のフィジカルな出来事に収めちゃってる。別の認識的な問題が生じちゃっているからそっちに行かざるをえない、というのはあるにしても(というか作品全体ではそっちこそが重要なのかもしれないけど)。
でもふと思った。この掌編ではひょっとしたらセックスは、想像力を発動させるものというより、むしろ言葉を手放すために必要な行為なのかもしれないなあ、と。
そもそも、言葉というものが、武器であると同時に、枷にもなってしまっている人の言葉、みたいな匂いが作品全体から漂うですよね。最終パラグラフの、どこかユーモラスで生き生きした感じは、セックスが言葉の枷から離れた自由なところにあるから、なのかもなあ。



>私の思考にはぼくがいる

という執筆の狙いに誘導されてしまったのだけれど、私(と私の母)以外の語り部分は四つあるけど、最初おれはそれがぜんぶ「ぼく」という同一人物だと思いこんだまま読みました。でも途中からあれ「ぼく」はそれぞれ別人かと気づいた。というか、ふつうに別人でしょ。というか、いやいやまさにこの作品が言及しているようにある人物とある人物が他人なのか実は同一人物なのかってことがそもそも怪しいし、揺蕩ってるものだよなと思った。
という感じで、当初演劇めいたかなりスクェアな形でしか受け入れられなかったこの作品が、受け入れたあとでおれの中でどんどん変容してゆくのでした。移植のために一旦根を切られた植木がまた新たに根を張り出し、樹形も変わってゆく感じ。
こうなると当然もう舞台、なんて設定は要らなくなる。ただ曲がり角を曲がりつづける女がいる。母との約束をやぶってしまうことに怯えている女の頭の中に男のポリフォニーな声が聞こえる。それはもはや空間だけでない時間の曲がり角かもしれないし、声は風の嘶きだったりするかもしれない。世界はおれの中でそういうものとして揺蕩っている。そういえばこれとちょっと似たような受容の仕方をしたなという作品で思い出したのが『ペドロ・パラモ』。

そうやってこの掌編がおれの中でさらに自立性を増したところでもう一度客観的に眺めれば、「私」パートには、やはり夜の雨さんがおっしゃってるように、一行でもたとえば風の描写とかあった方がいいと思った。たぶん掌編全体の生命力が増すと思う。

なんて感想を書こうとしてまとまらないうちに、作者さんによる総括めいた感想返しが出てしまった(真摯かつ興味深い内容すね。開示してくれてありがとうございます)。いまさらですけど、ま、とにかくおれはこんな雑感を抱きました。

豼貅を待ちながら
bb121-6-158-213.singnet.com.sg

『言葉とのセックス』なんてぼくら世間一般の読者には語り手の意図をつかみあぐねる表現なばかりか日常には到底ありっこない出来事といいきれるのだけれど、たとえば先の『挿入』でもちいられた『記録』という言葉のありようをおもいかえせば、『体位』がどうして重要なのかもふくめて語り手のいわんとすることがわかる気がする。
物語における自己同一性については、すでにベケットによってあるべきかたちが内側から否定されてしまったのだから、あるべき同一性が内側から否定されたところからのさらなる敷衍(時代をさかのぼってプルーストがすこしばかり触れているように考えるけれどどうでもいい)があってもいいようにおもう。そういえば疑似化学の域を出ないものでAB型の人が思考するさい絶え間ないダイアローグがくりひろげられているというようなのがあったように記憶しているがどうだったか。ところでぼくはどんな書き手だって義務やら伝統やら潮流やらから解放されるべきだとおもっていて、読み手にしても同様だ。これは伝統やらが大事なぶんだけひとしく大事なのだ。必要だとおもわれるなにもかもをわすれて本作をながめていると、どういうわけかこの支離滅裂なことばの連鎖が現実味をおびてくる。二日ほどまえの夢のなかで徒歩で曲がり角をいくつもまがって西落合のファミレスで夕食を摂った。なにかほかの夢をはさんで帰りは路面バスをつかって東中野の自宅にむかい、やはり最初の曲がり角にいきついたのだけれど、ぼくの記憶はほかの思考にじゃまされてしまったためか曲がり角がいくつめだったかおぼえていなかった。現実の世界であっても旅行先などの記憶のたしかでない土地でこれをおこなったら、やはりすっかりわすれているようにおもう。この曲がり角のくだりはかなりベケットっぽいとおもった。そういえば地元の路面バスにはよく飛ばす運転手がいる。つり革や手すりに触れていてもまっすぐ立っていられないくらいのものすごい急発進と急停止をやってのけるのだ。曲がり角の曲がり鼻にはなにか人の気持ちを昂らせる作用でもあるのか。もしそうだとしたらいくつもの曲がり角を知っているぼくらはどんな物語を書きたくなるのだろう。わすれるという行為はぼくのような記憶力に難のある人間がうっかりしてしまうものと、もうひとつ別なかたちのものがあって、それは多分、目的を持ってわすれていたんじゃないかとおもう。人間の営みにはほんらい消極的でないかたちでの『忘れる』があったのを、舗装された路面で曲がり角をいくどかまがるさなか、読者はあのくだりをおもいだしつつ、想像するのではないか。

豼貅を待ちながら
bb121-6-158-213.singnet.com.sg

訂正
×疑似化学→○疑似科学

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内