曲がり角
--それが言語をもつ者の悲劇なのだ、わが友よ。象徴的な概念でしかおたがいを知りえない者は、相手のことを想像するしかない。しかも、その想像力が不完全なために、彼らは往々にしてあやまちをおかすのだ--
耳鳴りが止まない
私は道を歩いていたが曲がり角というものは突然必然的に現れるもので避けようがないたとえばあの曲がり角を曲がればまた曲がり角が
何度行き来しても覚えられない何回そこには曲がり角が存在するのか
最初の曲がり角を一として次を二にするとじきに元の曲がり角に戻ることがあるそれはいくつめにあたるのかまったく見当がつかない
耳元から何かが囁く
--思考は言葉で組み立てます。現実は言葉で組み立てられておりません。この違いは、埋めることができないでしょう。でも、なんとか言葉で、というのが人間の気持ちなのかもしれません。ぼくもしじゅう残念な気持ちを持ちながら言葉で文章を組み立てています。しかし、言葉と言葉のあいだにある溝が、現実にはなかったものをも想起させることがあるので、現実にはなかったものが創造されることもあるという意味では、言語の可能性は無限と言ってもよいのではないかと思います--
曲がり角を反対方向から老婆が
ここで何かが閃く
老婆の背にぴたりとつき私は離れない
あの曲がり角を曲がれば老婆と一緒に私は曲がることを経験して子供の頃の記憶に繋がるそれは亡き母親の声
あなたは一人で歩いてはだめよここでは迷子になってしまう迷子になってしまうとあなたと会えなくなるの離れ離れになることはとても辛いわあたしと繋がりのあったひとたちはもうあらわれないここの曲がり角で曲がる回数を間違えてしまったからあなたが大人になったら曲がるときに必ず数を正しく数えるのよ
--ぼくの理想は、言葉と直接セックスすることである。言葉とのセックスで、いちばん頭を使うのは、体位のことである--
老婆の背にはりついて私は鉛筆でメモ帳に回数を書きつける正の字が増えていくほど記憶の母との距離が遠くなるような気がして私は知らない老婆の背を涙で濡らしていく
--二人の青年を好きだなって思っていたのだけれど、その二人の青年が同一人物だと、きょうわかって、びっくりした。数か月に一度くらいしか会っていなかったからかもしれないけれど、髪形がぜんぜん違っていて、違う人物だと思っていたのだった。太めの童顔の体育会系の青年だった。彼は立ち上がって、トランクスと作業ズボンをいっしょに引き上げると、ファスナーを上げ、ベルトを締めて、ふたたび腰掛けた。「なかなか時間が合わなくて。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ?」「たくさん出た。」「えっ? ああ。うん。」たしかに量が多かった。「また連絡ください。」「えっ?」思いっきりはげしいオーラルセックスをしたあとで、びっくりするようなことを聞かされて、ダブルで、頭がくらくらして、でも、二人の顔がようやく一つになって、「またメールしてもいいの?」かろうじて、こう訊くことが、ぼくができる精いっぱいのことだった。「嫁がメール見よるんで、すぐに消しますけど。」「えっ?」呆然としながら、しばらくのあいだ、彼の顔を見つめていた。一つの顔が二人の顔に見えて、二つの顔が一人の顔に見えてっていう、顔の輪郭と表情の往還というか、消失と出現の繰り返しに、ぼくは顔を上げて、目を瞬かせていた。彼の膝を両手でつかまえて、彼の膝と膝とのあいだにはさまれる形で跪きながら--
執筆の狙い
私の思考にはぼくがいる
ひとりの思考にもうひとりの思考が入り込むことを描いたらどうなるか
テキストは分裂し体裁など保てないのか