ひまわり
実家に帰省して二日が経った。窓の外にはひまわりが咲いているのが見える。風に吹かれてゆらゆらと茎が揺れていた。夏の太陽の日差しが辺りを照らしていて、世界はどこか白く見える。
その奥は緑色の木々が表面を埋め尽くす山になっていて、それは僕のいる町を囲んでいた。昔から見てきた光景のせいかどこか安心する。
高校を卒業してから東京で過ごしてきたが、毎日ビルやマンションなんかが立ち並ぶ世界を見てきたので、いつも以上に窓の外の景色がいいなと思った。
僕は東京の大学に通い、同じゼミで知り合った女性と付き合っていた。彼女の名前は直美という。彼女は今、心臓の病気で入院していて、それからちょうど一年が経とうとしていた。僕は休日になると、よく彼女の病室にお見舞いに行った。僕にとって、彼女は初めてできた恋人で、僕は彼女のことが好きだった。長い黒髪や大きなくっきりとした目や白い肌を今も鮮明に思い出すことができる。
部屋の中でぼおっと窓の外の田園風景を眺めていた。
「圭介。いる?」
ドア越しに姉の声が聞こえた。姉は地元の不動産会社で働いている。僕より三歳年上だった。
「いるよ」と僕は返事をした。
「夕飯の買い物してきてほしいんだけど」
「わかった」
僕は床に置いてあった財布を持って部屋から出た。階段を下りていくと玄関がある。小さい頃からこの家で暮らしてきた。僕の父親は公務員で母親は教師で、小さい頃は何不自由なくこの家で暮らしていた。
外に出ると夏の日差しと熱気ですぐに体が熱くなる。額に汗がにじんだ。もし彼女が病気じゃなかったら、今頃、二人でどこかに旅行していたかもしれない。
彼女の心臓の弁には異常があるらしく、入院してから何度も手術をしていた。入院してから彼女は痩せ、以前のような快活さはなくなっていた。
彼女のことを思い出しながら田んぼの広がるのどかな町の中を歩いた。大きな入道雲が空に浮かび、風に乗って少しずつ移動している。太陽は強い光を放ち、まぶしすぎて直視できないほどだった。
一年前、僕と直美は同じ大学に通い、付き合い始めてから半年が経ち、一緒にいることが多かった。
「私、心臓の病気になったの」
大学で僕らは同じゼミに所属していて、ゼミが終わった後、二人でキャンパスを歩いているときに彼女はそう言った。
彼女の瞳は暗い色で、ずいぶん特徴的な目だと思っていた。
「心臓の病気?」
「そう。心臓の弁に異常があるんだって。手術をしなければいけないみたい」
僕はその時、一度手術をしたら、きっとよくなるのだろうと楽観的に考えていた。彼女の表情を見る限り、元気そうに見えたし、いつもと変わらない気がした。
「夏休みが終わったら休学することになったの。そうしたらお見舞いに来てくれる?」
「もちろん」
僕らはキャンパスを通り抜けて、駅に向かっていた。彼女は僕より少し先を歩き、振り向いた。その顔は夕日に照らされていた。ふと辺りを見渡すと家々が見えて、遠くにオレンジ色の太陽があった。もうじき日が沈もうとしていて、なんだかいい景色だなと思った。
「ねえ。明日、海に行こうよ。入院したらしばらく行けなくなると思うから」
「いいね」
直美は僕に微笑んでいた。僕は彼女のことが好きだったが彼女は僕のことをどう思っているのだろう。僕らは一応付き合っていたが、彼女が僕のことを好きなのかは僕にはよくわからなかった。
暗い瞳の中にどんな人がいるのか僕には見当がつかなかった。
夏の太陽の日差しが海面を照らし、きらきらと輝いているように見える。海は真っ青でところどころに人がいて、皆楽しそうに見えた。僕と彼女は並んでレジャーシートに座って、海を見つめていた。いつもとは違って彼女は寡黙だった。もしかしたら病気のことが不安なのかもしれない。
彼女はいつも結構饒舌で、みんなで話をしていても中心にいるような人だった。僕はそんな彼女の能力をうらやましく思ったものだった。
「ビールでも飲みたいな」
ぼそっとつぶやいた彼女は僕の目をじっと見つめていた。僕は少し照れくさくなって視線をそらした。
「買ってくるよ。せっかくだし焼きそばも食べよう」
僕はそう言って海の家に歩き始めた。砂浜にはたくさんの観光客の姿があった。子供が母親と手をつなぎ、僕の隣を通り過ぎていく。皆、何を考えているのだろう。僕は直美の病気が大丈夫なのかずっと気になっていた。
海の家は木造の小さな建物で、ペンキで塗られた看板が立っている。店の前には五人ほどの人が並んでいた。
「ビールと焼きそばを二つずつ」
店の人は白い袋に焼きそばと缶ビールを入れた。僕は袋を手に持ち、直美のいるレジャーシートのところまで歩いて行った。
直美はじっと海の方を見つめていた。その顔は無表情だった。いったい何を今思っているのだろう。彼女が病気になったという実感はあまりなかった。
「買ってきたよ」
僕は声をかけた。彼女の顔は急に表情を取り戻した。いつもの優しい顔に変わった。一人の時あんな表情なのかなと僕は思った。
僕らはレジャーシートに座ってビールを飲み、焼きそばを食べた。味はなんだか外で食べるせいかいつも以上においしく感じた。
直美と僕はレジャーシートの上に座ってじっと海を眺め続けた。潮風の匂いがして、海を見ているとこの世界はとても大きいのだなと実感した。
「きっといつかまたこの景色を思い出す気がする」
日が沈み、観光客が帰り始めるころ、直美はそう言った。水平線の向こうにオレンジ色の太陽が見えた。
買い物から帰ってくると、窓の外は暗くなって、太陽は見えなくなり、世界は深い青色に見えた。僕は実家の部屋の中で、一年前、二人で海に行った時のことを思い出した。別になんでもない記憶なのに、今はその時の海や彼女の表情が懐かしく感じた。
ポケットの中のスマートフォンが振動したので、電話に出ると、直美だった。
「もしもし」
特徴的な高い声がした。
「元気?」と僕は聞いた。
「あんまり元気じゃないわ。でも今ね、病院の屋上にいるの」
「屋上に?」
「そう。暗くなってきてね、月が見える」
電話越しに風の音や車の通る音がしていた。
「今、実家に帰っているんだ」と僕は言った。
「実家か。夏休みだもんね。どう? 楽しい?」
「まぁまぁかな」と僕は笑った。
「さっきまで、私、眠っていたの。手術で体力が落ちていて、昼寝していたんだけど、起きてからしばらく、小さい頃の情景が頭に浮かんできてね。なんだか綺麗な景色だったなと思って」
直美は静かな声でそう言った。
「僕はさっき一緒に海に行った時のことを思い出していたんだ」
「ああ、一年前のことね。私も覚えている」
「なんだかありきたりな記憶だけどね」
「ねえ。私の病気がよくなったら、また海に行こうよ。約束ね」
直美は少しうれしそうにそう言った。彼女は最近元気がなかったので、僕はうれしかった。彼女の病気がよくなればいいなと思った。人生は辛いこともあるけれど、楽しいこともあるはずだ。彼女が元気になって、また以前のように明るく笑っていてくれたらと思った。
電話が切れると僕はふと部屋を出て、階段を下りて行った。姉がキッチンで料理をしていた。僕の両親は今日二人で箱根に旅行に行っていた。
玄関のドアを開けると、涼しい風が吹いていた。コオロギの鳴き声が聞こえて、空には月が浮かんでいる。
直美も今こんな空を見ているのだろうか。星が空に散りばめられた宝石のように見える。月は大きく、大きな雲が頭上を移動している。深呼吸をすると肺の中に草の匂いをまとった空気が入ってくる。
しばらくの間、僕は空を眺めていた。そして直美の病気が治ることを願った。彼女と過ごした日々は小さい頃の情景のように懐かしいものだった。
風に揺れるひまわりが、月の光に照らされていた。どうしてこれほどまでに彼女のことを思い出し、彼女と過ごした情景を思い出すのだろうか。
執筆の狙い
特にジャンルを決めずに、無難な小説を書いてみようと思いました。