作家でごはん!鍛練場
飼い猫ちゃりりん

きららの夢

 年末は昼間から高架下にある「角打ち」に出掛けた。「角打ち」とは、酒屋が営む立ち呑み式の居酒屋のことである。
 昔は父に連れられてよくその酒場に行った。父は常連だったが、私はそこのコロッケくらいしか楽しみはなかった。寂れた港町の吹き溜まりのような雰囲気が好きじゃなかったし、いい年して父親と一緒にお酒を飲むことが恥ずかしかった。父が大きな声で、「なあ、きらら」と話し掛けるたびに私は顔を赤くしたものだ。

 大晦日は朝から灰色の寒空が広がっていた。高架の横の歩道を歩いている人は数えるほどで、上を走る電車の人影も疎らだった。臨界鉄道だったその単線は、今では港で働く人夫たちや、開発された港町に住む人々の脚になっていた。
 昨年の暮れに両親を亡くしてからといもの、一人でその酒場に行くようになった。一年が過ぎても悲しみは癒えず、寂しさは増すばかりだった。
 がらがらと引き戸を開けると顔馴染みの常連はもう出来上がっていた。
「きららちゃん。元気?」
「心配してくれるの?」と返すと、「もちろん!」と彼は笑い、大将が、「いつもので良いの?」と私に聞いた。
 コロッケを肴に酒を飲み、酔いが回ると大将に愚痴を溢した。
「自分の名前が嫌だった。子供の頃、それでよくいじめられたしね」
「良い名前だと思うけど」
「キラキラネームのおばさんでも?」
「娘が可愛くて仕方なかったんだよ」
 箸の先でコロッケの端に触れて、そうね……とつぶやくと、車輪がレールを叩く「がたんごとん」という音が店に響いた。列車が過ぎてから古びた木のカウンターにコップを置いて、もう一杯ちょうだいと言うと大将は、ほどほどにねと言って酒を注いでくれた。「あたし、もう一人ぼっち……」とこぼすと、大将は、「みんな、そんなもんさ」と言った。

 去年の暮れに母が逝くと、父もその後を追うように逝った。私は晩婚の夫婦にようやくできた一人娘だったから、四十路を過ぎる頃には両親はもう年老いていた。
 心臓を患い入院していた父は、大部屋で「きらら!」と私を呼んだ。周りに迷惑だからと言うと、大丈夫さと父は笑った。疲れていたせいか、つい酷いことを言ってしまった。
「この名前あんまり好きじゃないの」
悲しみを帯びた父の眼差しが、私の心を深くえぐった。

 子供の頃、母に名のわけを聞いたことがある。学校から戻ると台所に立つ母に向かって、「なんできららなの?」と涙を拭きながら聞いた。すると母は手ぬぐいで手を拭いてから、「星みたいに、ずっと輝いていて欲しいからよ」と答えた。
「なら陽子の方が良かった。太陽の方が明るいもん」
「お父さんと二人で一生懸命考えたのよ」
「普通の名前が良いもん!」
私は母の腕の中で泣きじゃくった。

 私は母を自宅で長らく介護していた。父のこともあり、母に介護施設を勧めたことがある。しかし、母は昔から他人に心を開かない人だったのだ。
「お父さん入院しているし、お母さんの面倒ばかりみていられないの」
「人様に世話をしてもらうのは嫌! 母さんは、きららが良いの」
母は子供みたいに泣いた。その姿に、お菓子売り場で母を困らせた自分の姿が重なり、「わかってるよ。お母さん」と言ってしまった。

 十二月半ばの寒い日のことである。港町のデパートで買った電気毛布で母の体を温めていると、母が急につぶやきだした。
「きらら、遠足の準備はできた? お菓子は入れた? お母さん、おにぎりをつくったから。三つもつくったから。でもコロッケが。どうしよう。あなたの好きなコロッケ……」
母の手を握りしめて、「お母さん! しっかりして!」と叫ぶと、母は、「ごめんね。きらら……」と言って息を引き取った。

 その頃には父も随分と弱っていたから、時機を見て母の死を伝えた。父は、「そうか……」と言って黙り込むと、降る雪をただじっと見ていた。
 その日の夜中に、病院から緊急の連絡が入った。父の元に急いだが看取ることはできなかった。死因は心臓発作だった。看護婦が、父は最期まで私の名をつぶやいていたと教えてくれた。私は静かに眠る父の耳元で、「ごめんね。お父さん……」と嗚咽を漏らし、泣き崩れた。

 「がたんごとん」がまた店に響いていた。それが止んでからコップをカウンターに置くと、大将は、「きららちゃん。ほんと飲み過ぎだよ」と心配をしてくれた。「大して親孝行もしなかった。可哀想なことをしただけで」と溜息をつくと、その酒場で「先生」と呼ばれている初老の男性が私の方を向いて話し始めた。生前父は、「あの人は歌人なんだ」と言っていた。独特の雰囲気がある人物で、普段言葉を交わすことはなかった。
 彼は言った。
「きららさん。唐の詩人はこう言ったんだ。空蝉の世は仮宿、時は永遠の旅人、人生は夢に過ぎないってね。きららさんのおかげで、御両親は素敵な夢を観ることができたんだよ」
 そう言うと彼は隣にいる連れに、「おい酔っぱらい。飲んでばかりいないで何とか言えよ」と文句を言った。その連れが、「きららちゃんは、夜空に輝くお星様!」と声を上げると、ふざけるなとそれを嗜め、「なら太陽だ。俺達の太陽だ!」と声を上げると、「そうだな。どん底を照らす太陽だな」と彼は言った。
 「じゃあ、そろそろ帰るわね。皆さん良いお年を」と言うと、大将がチジミを一枚包んでくれた。

 店から出ると、いつの間にか青空が広がっていて、脇に植えられている常緑樹の葉がきらきらと輝いていた。そこに咲いている寒椿に小鼻を寄せると、「ニャァ」と鳴き声が聞こえた。茂みの奥を覗き込むと、座布団ほどの隙間がぽっかりと空いていて、猫の親子が日向ぼっこをしていた。子猫は母猫の腹に顔をうずめて眠り、母猫がその体を舐めていた。

 輝々し 名つけ給ひし 父母は かかれとてこそ 生ほし立てけむ
 きらきらし なつけたまひし かぞいろは かかれとてこそ おほしたてけむ
 きらきらと輝く名前をつけてくださった両親は、私にこうあってほしいと思い育てあげたのだろうか…… (作者不明)

 終わり

 

きららの夢

執筆の狙い

作者 飼い猫ちゃりりん
123-48-118-85.dz.commufa.jp

すごく短いです。約2000字しかありません。サラっと読んで感想等を聞かせてください。

コメント

大丘 忍
ntoska314132.oska.nt.ngn.ppp.infoweb.ne.jp

 なんだかホロリとするお話ですね。きららという名前からたぶん女だろうと思いましたが、たぶんではなく冒頭で女だと読者にわかるようにした方が良いですね。昔の名前は、男なら○○雄、女なら○○子と決まりきっていたのですが、最近のしゃれた名前では男か女かわからないものが多いので、やはり読者にはっきりイメージできるような何らかの表現が必要だと思います。
 また同じことで、年齢もはっきり想像できるようにすべきですね。本作の場合は、冒頭では子供と推察しましたが、父に酒場に連れていかれたころは小学生か、高校生ぐらいかわかりませんでした。いきなり四十過ぎの老嬢になったので、おや?という違和感がありました。
 このような小説では、読者にそのような情報を早めに与えておくことは必要だと思います。作者には分かっておりますので、ついうっかりすることがありますが、読者は白紙の状態で読むことに留意してください。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

 この短さでまとまっているのは変わらずの優れた筆力であるなあと思いますが、書きたい印象的なシーンだけを書くという臨み方がやっぱりよろしくないように思います。
印象的なシーンはタイミングこそが命なんだと思います。人は欲しいタイミングで欲しい言葉がくるから感動できるのだと思います。欲しいタイミングだから装飾も感動増幅エンジンになるわけです。演出ってのはタイミングだと思います。印象シーンは数撃ては中るどころが、その重なりが白々しさとして映ってしまいます。どうしても入れたいならば、入れ子構造にするといいのかもしれません。父との別れの部分は、店での会話のバックグランドの中で処理するとか。

 表現で伝えるべき情緒と情報量はこれほどまでに洗練・選別されている(この点は素直に驚嘆しています)のに、その動機の部分に根本的な問題があるように感じるのがもったいないなと思います。個人的には。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

ちょっと決めつけるように書きすぎました。すみません。
泣きじゃくるシーンの連続で、そのどれもが小さなクライマックス足りえる印象を与えるわけなのですが、その構成に対する感想でした。

飼い猫ちゃりりん
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大丘 忍様
読んで頂きありがたく思います。
御指摘の点、敢えてやってみたのですが、やりすぎでしたか。年齢は文脈の中で想像できるようにしたつもりですが、読書がある程度好きに設定して楽しめるようにもしたかったのです。
「きらら」で男はないと思って書いてました。読書は女性だろうなって思いながら読み進めると。

飼い猫ちゃりりん
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アリアドネの糸様
 いつも読んで頂き感謝しております。
涙、涙、涙で、最後はすーっと終わるという構想でした。(長嶋監督みたいな表現でわかりにくいですね。苦笑)
 最後の猫のシーンがクライマックスのつもりでした。(飼い猫ゆえに)

ライダー
KD175134225224.ppp-bb.dion.ne.jp

飼い猫ちゃりりん様

拝読しました。

両親を亡くした寂しさが良く伝わってきます。

私は冒頭の「角打ち」で、主人公が父親とお酒を飲むシーンが好きです。立ち飲み屋で女の人が飲むというのは、結構勇気がいると思いますし、好きじゃない、と言いながら父親に付き合ったことで、この主人公の優しさや父親への愛情が良くわかるように思いました。もうちょっと書き込んでもよかったんじゃないかな、もったいない、と思いました。

逆に、あまり好きじゃないところ。

>母の手を握りしめて、「お母さん! しっかりして!」と叫ぶと、母は、「ごめんね。きらら……」と言って息を引き取った。

変にドラマチックで、嘘っぽいのです。もし、作者がこのような体験をされているのならば、的外れな感想になってしまいますが。突然に認知の症状が出て、その直後に感動的な言葉を残して死んでしまう、なんか、今まで頭の中で作り上げてきた世界が一挙に壊されてしまうようでした。

ラスト、店から出て青空が広がってるところ、いいですね。私にとっては、ここがクライマックス、と感じました。

次回作、期待しています。

飼い猫ちゃりりん
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ライダー様
「きらら。ごめんね……」は、遠足に行く娘のお弁当を用意する母親が、娘の好物であるコロッケを用意することを忘れてしまい発した母親の言葉でした。大人きららに対する別れの言葉ではありませんが、嘘っぽかったですか……

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

飼い猫さま

そういえば、飼い猫さんの意見をちゃんと聞いたことがなかったので、あえて踏み込んで聞いてみたいのですが、

今作で言えば、例えば、

父が亡くなるシーンと母が亡くなるなど、死を取り扱ったシーンが連続すること。
息を引き取る直前の母が様子が定められたかのように必要な言葉を必要なだけ発し、定められたかのように息を引き取ること。
嗚咽のシーンを情感たっぷりに描くこと。泣きじゃくる、泣き崩れるなど強調表現を使うこと。

などは感動バラエティのエピソード再現映像の演出っぽいとアリアドネは思っていて、それが小説として書かれると興がそがれるという感想を書かせてもらったわけですけど、毎回こういう演出を入れるのは何かこだわりがあるのでしょうか?
あるいは、小説における演出についてどうお考えなのでしょうか?

演出過剰だなんていつも書いているけど、もしかしたら、アリアドネの感じ方はかなり極点なのではと思い始めています。

これとは別に、どの作品でも必ず「死」を扱っていますよね。飼い猫さまの中にそのあたりテーマみたいなものがあるのでしょうか?

飼い猫さまはアリアドネとはまた違った観点でものを見ている気がするんですよね。だから、そのズレを理解したくなってきたのです。よければ、でいいので。

夜の雨
ai197188.d.west.v6connect.net

「きららの夢」読みました。

高架下の居酒屋での交流を概して、名前に絡んだ親子の気持ちの流れと、ドラマがありますね。

四十路を過ぎた主人公の女性の語りということで、いろいろと考えさせられます。
導入部が高架下の居酒屋で昼間から酒を飲んでいる主人公ということですが、年末というあわただしさもあろうと思うのですが、イメージが浮かびます。

「角打ち」という立ち呑み式の居酒屋の常連と化しているきららという主人公は、そこでほかの常連や店主と人生談義をしていると思われますが、そのなかで「名前にまつわる話が展開されて」「ほかの常連から良い名前だよと、元気づけられる」のですが、「母と父が相次いで亡くなる話」や、父母を病院や介護施設にうんぬんというエピソードの書き方が、親子の情愛みたいなものが作品の背景にあるなぁと感じた次第です。

>名前にまつわる親子の気持ちの流れ

>高架下の居酒屋で常連たちと昼間から酒を飲んでいる四十路を過ぎた女性の主人公という映像が、浮かんでくる世界が庶民的で考え深い。

>主人公と父母の関係性が軽くではあるが、深いところを描いている。


 >輝々し 名つけ給ひし 父母は かかれとてこそ 生ほし立てけむ
 きらきらし なつけたまひし かぞいろは かかれとてこそ おほしたてけむ
 きらきらと輝く名前をつけてくださった両親は、私にこうあってほしいと思い育てあげたのだろうか…… (作者不明)< 

 上のラストは、わかりにくい。
起承転となり、「結」のラストで締めくくるので、最後は、わかりやすくしたほうがよいと思いますが。
それまでの人生ドラマの流れが、ラストまで来て急に中断されます。


全体では父母と、高架下の居酒屋の店主や常連たちとの交流があるドラマになっていますので、それぞれのエピソードをしっかりと書きこむと良いのではないかと思いましたが。
現状では、「内容の割に短すぎる」気がします。
「北日本文学賞」向けに、原稿用紙30枚にしてみてはいかがですか。かなり掘り下げられると思いますが。

それでは、頑張ってください。

ライダー
KD175134225224.ppp-bb.dion.ne.jp

飼い猫ちゃりりん様

うーん、それならまだ分かるかな。

ただ、私は祖父母4人、両親、叔父、伯父、伯母と9人の死を見てきましたが、亡くなる前に、こういう遺言めいた言葉を発してその後すぐ亡くなったというのは一人もいないのです。亡くなる前には意識がもう無くて言葉を発することもなかった、または眠っていると思っていたら、朝になって亡くなっていた、と気づいたとかでした。事故などで亡くなる方ならば、まだ、死に際の言葉が存在するのかもしれませんが、病死の場合、亡くなる寸前まで言葉を発する体力があるって珍しいんじゃないのかなと思います。逆に言えば、人間、しゃべってる限りはまだ、死なないってことなんですが。

ごめんなさい、私の経験から、なんか嘘っぽいなと思ってしまいました。

ラストの青空は、主人公の気持ちが吹っ切れたようで気持ちよかったです。
また、御作を読みたいです。

飼い猫ちゃりりん
KD106128193065.au-net.ne.jp

アリアドネの糸様
 御質問に真摯に答えたいのですが、現状の自分の表現能力では誤解を与える危険が大き過ぎます。
 「死ネタ」があまり良いネタじゃないことも知っています。

 芸術に敵対する最たるものは理性だと思っています。しかし、その敵がいなければ芸術は滅んでしまう。
 理性を一種の精神病と解しています。そして理性は火ではなく死を発見したことで飛躍的に進化(不健康化)したと考えています。しかし、死は亡霊に過ぎない。そんなものはこの世に無いのです。生命は生き終えるだけです。

これで説明になってますか?

飼い猫ちゃりりん
123-48-127-3.aichiwest1.commufa.jp

夜の雨様
 読んで頂き感謝しております。
 起承転結に関しては、正直あまり重視していないのですが、わかりやすくするならもっと意識して書くべきですか。
 長編も考えていますが、自分のペースだと半年かかりそうです。

飼い猫ちゃりりん
123-48-127-3.aichiwest1.commufa.jp

ライダー様
再訪ありがとうございます。
なるほど。現実の死の描写ではないですね。死の直接描写は慎重にするべきでした。御指摘の点大変勉強になりました。

細井ゲゲ
p4346061-ipngn25201marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

読ませていただきました。
全体的に柔らかい文章で、物語の世界観とマッチしている印象です。

1つの物語としてしっかり完結しており、特に言うことはないですが、読者目線だと、きららを好きになれないという感想を抱きました。

何と言うか悟り過ぎというか、可愛そうな自分に酔いしれてるようで、、、気取るんじゃねぇよ、と思ったのが本音です。

いや!ぼくの読解能力がなさ過ぎただけかもしれません。感想を書く経験が少ないものでして、、、、気を悪くされたら申し訳ございません。

また新作などあれば、読ませてください!

青井水脈
om126194102052.10.openmobile.ne.jp

いやいや、ちゃりんさんは一人でも二人でも、読者をなんだがホロリとさせられる人ですよ。これがアリアドネさんの仰った"優れた筆力"なのか。

角打ちのコロッケ、大将が包んでくれたチヂミ、それから猫の親子。この一連の流れが好きです、映画で言えば、独自の演出力が評されるでしょう。

飼い猫ちゃりりん
106171067161.wi-fi.kddi.com

細いゲゲ様
 読んで頂き嬉しく思います。
 きららを好きじゃなくても全然okです。たぶん飼い猫も好きじゃありません。確かに、周りのオッサンみたいにもっと下びれば良いのにとも思います。それに、猫の親子にチヂミをあげるべきです。

飼い猫ちゃりりん
106171067161.wi-fi.kddi.com

青井水脈様
 ありがとうございます!と喜んでばかりいられないのが現状の私の筆力であります。アリアドネの糸様とライダー様の御指摘には共通項があるように思えます。
 私の死生観として「死」は当たり前のであり、重くも軽くもなく、普通のもの。
 ちなみに前作『ごき太を慰めた佳代ちゃん』では、少女を一兆回殺しています。苦笑

アン・カルネ
219-100-28-76.osa.wi-gate.net

森鴎外も子供につけた名前はあの時代ならキラキラネームですよね(笑)。

さて。
うーん…。内容的には良かったような気もするんですが、ただきららさんが40過ぎの女性だと思うと、この心情はどうなのかなあ、と…。親の介護で結婚を逸した独身女性? 仕事は? なんとなく精神年齢が低いように思えてしまって、でもラストに突然、学があるところが出てくるあたり、ここは作者が顔を出したって感じかなあ、と思えてくるし…。
お母様の死に際のコロッケ云々はちょっと饒舌かなあ、と。
言葉が無かったからこそ遺族は囚われるってことありますから。そうなると40を過ぎても心は親を失った時のまま時間が止まっているのかもしれないな、と思わされてくるかな、と。そしてだからこそまた独身でいるのかな、とも思ったり、ね。
愛されていたのに、それが不確かなものだったのかもしれない、とそこに囚われたまま同じ場所で暮らすきららさん、って思えると、でも実は両親にも周りの飲み仲間にも恵まれて孤独じゃないよねって読む側は思えて、より味わい深い読後感に変わるかなあ、なんて思ったりしました。

飼い猫ちゃりりん
KD106128192206.au-net.ne.jp

アン・カルネ様
 読んで頂きありがたく思います。
 あれ?きららに学がありそうな感じしましたか?きららにも飼い猫にも学はありませんが……

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

質問にお答えくださりありがとうございます。
飼い猫ちゃりりん様の芸術観は正直難しくて、理解できてないのですが、死はふつうのことであるということ、それから、死は特別な意味をもたない理性が定めた便宜上の考え方と思っているらしいことは理解しました。だから、死が毎回出てくるのは、それがふつうだからで、それをテーマとして取り上げているのではないわけですね。最後の質問の答えとして理解しました。

先の感想、一つ聞き方を誤ったところがありまして、実は、死を題材にすることが演出としてどうかということを、問いたいわけではありませんでした。
題材はなんであれ、小説における演出のあり方について聞きたかったのです。
だから、「死」というワードをとっぱらって、再度引用しますが、

>母が様子が定められたかのように必要な言葉を必要なだけ発し、定められた
>かのように息を引き取ること。
というシーンの繋げ方は確かに効果的・印象的なんですが、作劇の都合が見えすぎてはないか?

>嗚咽のシーンを情感たっぷりに描くこと。泣きじゃくる、泣き崩れるなど強調表現
は、情感のある描写を重ねすぎ、強すぎではないないか?

ということを思っていたのですが、これらについて、いやいやこれぐらいした方が味わいがあっていいのだ、とか、実はこういうこだわりがあってここは外せないとか、そういった類のことがあるのではと思って、聞きたかったのです。
だから、

> 小説における演出についてどうお考えなのでしょうか?

というのが本題でした。

飼い猫ちゃりりん
123-48-129-96.stb1.commufa.jp

アリアドネの糸様
 御質問に回答します。
 演出は作品と調和していれば、美しくても醜くても、濃くても薄くても、わざとらしくても、なんでも良いと考えています。
 小説も音楽も絵画も、芸術(生命)の法則性があり、個々の作品には固有の流れがあり、それを逸脱しないことが重要です。よって、極論小説の結末は最初の一行に拘束されるとも言えると考えています。

アリアドネの糸
dhcp.nipne.ro

飼い猫ちゃりりん様

ご丁寧な返答ありがとうございました。

二つの収穫がありました。

1)飼い猫ちゃりりん様とアリアドネで、作品と調和する演出の種類が異なるということ。 
 アリアドネにとっては演出過剰表現に見えても、飼い猫ちゃりんりん様にとってはちょうどいい塩梅の表現であるということですね。好みの問題といえばそれまですけど、アリアドネの好みもだいぶ偏ってしまったので、聞いてみました。


2)飼い猫ちゃりん様とアリアドネで、小説観が異なるということ。
 人によって小説観が違うのは、別に当たり前のことなので、ことさらに強調する必要もないのですが、丁寧に回答いただいたので、この点に少し触れておくと。個々の作品には固有の流れが存在するだろうという点は同意見です。ですが、芸術の法則なるものが裏でつよく働いて、流れをつくって、その後に続く言葉をも拘束するとまで言えるかどうかは、アリアドネには分かりません。
 一つ目の理由は、飼い猫ちゃりりん様の仰る芸術という言葉の実感がアリアドネにはピンときていないのが一つ。だから、芸術なるものに寄りかかることができないのです。二つ目の理由は、こっちはアリアドネが個人的に思うことなのですが、小説の場合は、吐き出された言葉はそれが吐き出された瞬間には、全然信用の置けないものだから。だから一つの言葉はすなわち全という感じにはならないように思ったりします。けれども、全ての言葉は神経網として繋がっているので、一つの言葉が全体に地味に効いてくる毒みたいなものではあるかもしれない。まあ、結局これも言葉遊びみたいなものかもしんないけど。

 ありがとうございました。

飼い猫ちゃりりん
KD106128195175.au-net.ne.jp

アリアドネの糸様
私は芸術作品は作家が作るものではなく、生むものだと考えているのです。つまり、芸術作品を生命と同じもの、つまり「内蔵」を持つものだと考えているのです。
だから作理性的装飾は芸術に敵対するものと言ったのです。
(その点、母が死ぬシーンに理性的装飾が混ざったかもしれないですね。)
「内蔵」を持つ芸術は生き残るし、「内蔵」を持たない芸術は「お前はもう死んでいる」つまり御人形です。
その「内蔵」を私は芸術的法則性と考えているわけです。その「内蔵」を表現することが芸術の目的だと考えているわけです。

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