作家でごはん!鍛練場
跳ね馬

ワヤンとカルマと13人の公安 前編

【10/25 23時】

 水溜まりに駆け足が跳ねる。雨上がりの路地裏に響くは逃避の足音と息遣い。明滅する街灯は彼女の未来を暗示するかのごとく、次第に闇に従う時間を延ばしていく。
 白ずむ呼吸に悲嘆が滲み、ヒールの折れたパンプスが脱げた時には、もう道は残されていなかった。行き止まりの壁に背をぴたりと張り付け、コツコツと近づく音に足をすくませる。
「やめて……」
 死のメトロノームなんてものがあるなら、きっとこんな音なのだろう。一定の足音は背筋を冷やし、濡れた路面上でも渇いて響く。
「見逃して……」
 懇願を無視して暗がりに浮かび上がるは、縁のない眼鏡。まもなく照らされたスーツ姿と七三分けの髪型は、絵に描いたようなサラリーマン。だが彼女には人に見えなかった。男がどれだけ営業マン的な笑みを浮かべても、その震えを止めることはできない。
 男がどんな目的で自分を追ってきたのかを、彼女は知っているから。
「お願い……5歳の娘がいるの」
「娘の名前は?」
「……は?」
「娘の名前はキミが考えたの?」
 自分の次は娘を狙うつもりなのだろうか。そう懸念しては唇を結ぶ彼女に、男は想定外の話を続ける。
「僕、そういうの疎くてね。マニュアルに載ってた名前にしちゃったんだ。山田太郎」
 ズレてもいない眼鏡のブリッジを中指で持ち上げるのは、神経質な癖というよりも、ルーティンのようなものなのだろう。何よりその陽気な口調からは、殺伐とした感情は一切見出だせない。
 それが彼女には恐ろしく映る。山田にとって、これは日常的なのだ──。
 人を消すことが。
「名前ってのはちゃんと考えて付けるべきなんだろうね。おかげでよく偽名だと疑われる。もちろん僕だって"そういうこと"にこだわりたい気持ちはある。でも面倒でしょ? 最後までプレイするつもりのないRPGの主人公の名前を必死に考えるのってさ」
 街灯が夜に白旗を上げる。暗闇から聞こえる山田の言葉は、まるで闇と同化したみたいに、冷たく、渇いている。
「だから、その時が来るまでは何でもいいかなって」
 彼女は悟った。自分も、この黒に呑み込まれるのだろうと。
「大丈夫。怖がらないで」
 男が女に唇を重ねる時のように、山田は彼女の頬に優しく手をあてがった。
「恐怖も、苦痛も、なにもかも、みーんな消えてなくなるから」
 暗闇に沈黙が溶け込む。
 音を失った闇こそが、無。
「はい、お疲れ様」
 蝉の終末みたいに、街灯がもう一度だけ明かりを灯した。壁にいたのは山田だけで、彼女の姿は、もうどこにもなかった。
 脱げ落ちたパンプスすらも。
「さて、今度こそちゃんと名前をつけられるかな? なるべくカッコいい名前にしたいな」
 山田太郎。
 あるグループは、彼らをこう呼んでいる──。
「鴉くん。キミみたいなね」
 公安、と。



【同日 24時】

 蒸し暑かった昼間から一変し、秋雨の止んだ頃には冬が視察に来ていた。終電を降りた人々は晒された肌を擦りながら、それぞれの家路へと帰っていく。
 秋って季節はまるで職場と家庭に挟まれたサラリーマンだな。そんな思いで曇天を見上げる彼だけが、往来の流れに逆らい駅方面に向かっている。デニムにチェックの長袖シャツを着た青年。目にかからない長さの黒髪は、わずかに濡れて清涼なソープの香りがする。
 一見、どこにでもいる長身細身の若者。だがポケットに両手を突っ込み一定のペースで歩くその姿勢は、大樹のように泰然とし水のように滑らかだ。音のない歩調は針のように鋭角で、羽毛のごとく重さを感じない。睡魔にまぶたが垂れ下がった黒い瞳は、無関心を装いながらも、己の障害となる物を見逃すことはないだろう。
 アスファルトにへばりついた新聞の切れ端が目に入ったのも、そんな危機察知能力が働いたからだろうか。太文字の見出しには『行方不明者数が10年連続で8万人超』と書かれていた。
「8万で足りてりゃいいけどな」と彼は皮肉っぽく呟いた。
 人々は知らない。いつからいつまでが秋なのかを。報道されない人の存在を。世界の本当の仕組みを。
 そして、この青年のことを。
「鴉の野郎、こんな夜中に呼び出しやがって」
 立場的にも能力的にも、一般人とは明確に隔てられた存在──。
 その一人が彼。高崎シュウジ。

 名と実が釣り合わないことは珍しくない。深夜のファミリーレストランというのはその代表例だ。まばらに席が埋まった店内では、ファミリーよりも孤独や難民という言葉が似つかわしい。
 そんな空間だと、美男美女の組み合わせは嫌でも目立つ。隅のテーブル席に座るのは、柴犬みたいに人懐っこい童顔の男と、直線だけで描いたかのように刺々しい女。特に男のほうは後世に残り続ける美術品のごとく、その価値を論理的に語りきれない、人を惹き付けてしまう"なにか"を持ち合わせている。
 もっとも幼い顔立ちに似合う口調からは、その"なにか"を見出だすことはできないが。
「──キミたちいつ仲直りすんの?」
 男の質問に答える女の口調にも見た目通りの鋭さがあった。
「いくらあんたでも、この件に関しては口出し無用でお願いするわ」
「強情なところもアリサちゃんの魅力なのは知ってますけど、俺たちもう24だよ? も少し大人にならなきゃ」
「それ、あんたにだけは言われたくない」とアリサは鼻を鳴らした。
「だいたい何が気に入らんの?」
「私がワヤンが嫌いってのは知ってるでしょ」
「そら知ってるけど、今に始まったことでもないじゃん」
「そう。だから一朝一夕では考えを改められないから、口出ししないでって言ってるの」
「気まずい雰囲気に浸されるこっちの身にもなってほしいんですけどねー。おかげで生ぬるいビールが余計まずくなっちゃう」
「ファミレスで瓶ビールを傾ける奴の気が知れない」
「そのセリフどっかで聞いたなー。たしか──」
 来店を知らせるチャイムが鳴ると、男は子供のように手を振った。
「おっ、きたきた。シュウちゃーん、こっちこっちー!」
 アリサが薄目を向けながら言う。
「私たちいくつになったんだっけ?」
「これは個性だから。俺っちの千を超える魅力の一つ」
 高崎が対面に着くと、アリサは頬杖をついて窓を眺めた。お互い目を合わせようとしない。
 場を和ませるのはいつも相棒の役目だ。
「やっ、シュウちゃん。調子どうよ?」と高崎の肩に腕を回す。
「お前、鴉から鶏に改名したらどうだ? きっと運気も上がるし、ボロボロになった日記帳さながらに耄碌した記憶力も少しは多目に見てもらえるだろうよ」
 皮肉は高崎にとって口紅みたいなものだ。気難しい彼がその腕だけは払わないように、鴉も嬉しそうに答えた。
「んー、元気そうで何よりですたい。真夜中に呼び出すなって言われてたのはちゃんと覚えてるよ。でも、無性にシュウちゃんの顔が見たくなっちゃってねえ」
 その言葉に、高崎が確かめるように顔を向ける。短い視線の合致だった。鴉は彼の前だとひときわ饒舌になるが、両者の間に言葉は必要ないのかもしれない。
 男同士のアイコンタクトが済むと、鴉は満足した顔で瓶を持ち上げた。
「まっ、とりあえず一杯。飲みねえ食いねえ」
「見た目は一番の調味料、なんて言葉を知ってるか? フレンチのフルコースに高価な食器が欠かせないように、安いビールに合うのはネクタイを額に巻いたオッサンらが愚痴ってる居酒屋だ。ファミレスで瓶ビールを飲む奴の気が知れねぇ」
 ニヤニヤして見てくる鴉の脛を爪先で蹴るアリサ。高崎は気づかないフリをして続けた。
「それで、呼び出した"建前"は? 夕方のニュースではミサイルが降ってきたと叫んだアナウンサーはいなかったはずだけどな」
 まだ話を聞いていないアリサもきちんと座り直した。鴉は陽気なキャラクターだが、無意味に人を呼び出したりはしない。
 笑みを落ち着かせたリーダーは、一つ咳払いをしてから切り出した。
「ユキオがね、ワヤンを殺っちまったらしいんだ」
「なにそれ?」とアリサは眉をひどく寄せた。
「言葉のとおりさ。同棲してた彼女を自宅のアパートで滅多刺しにしちまったんだと」
「脳内で、じゃなくて?」
「残念ながら」とコメディアンのように肩をすくめる鴉。
「あんたなんでそれ早く言わないの?」
「シュウちゃんが来てから聞くって言ったのキミでしょーに。もーお、そういうとこだよ? 俺が言ってるのは」
 ため息をついて首を振るアリサに対し、表情がひどく乏しい高崎は皮肉まみれの唇をクールに動かした。
「それで、どうするつもりなんだ?」
「なんかいい案あります?」
「駅前で化石のように祀られてる公衆電話のボタンを110って押してやれば、世の中を掃除したがる奴らが涎を垂らして駆けつけてくれるだろうよ。やったやらないの駆け引きを楽しみたいんなら119がオススメだ」
「あはは。たしかに納税者としての権利を行使したほうがお得だよね。ただでさえ血税がアホどもの脂肪やウンコに変えられてる悲惨な世の中だし」
「もう帰っていいか?」
「まあまあ。俺もシュウちゃんと同じ気持ちだけど、ユキオが捕まったら何かと面倒でしょ。"リスト"も作りづらくなるし」
「御上も十分面倒だよ。特にこの国の警察はな。普段は寝転んでワイドショーを見てる主婦よりのんびりしてるが、一度でも尾を踏まれれば飢えた野犬よりもしつこく付きまとってくる」
「お巡りなら一目で分かる。たとえ制服じゃなくてもね。でも公安は違う。公安にとっちゃ犯罪者ってのは格好の目印だ。俺らがツルんでたことなんてすぐバレるし、そうなりゃ文字通り芋づる式に見つかっちゃう」
 アリサは高崎を睨みながらこう言った。
「だからワヤンなんかに関わるとろくなことがない」
 動じない高崎の代わりに鴉が「ごもっとも」となだめるも、アリサは言いたいことを言うまで口を閉じない女だ。
「あんたがそれ言う? とにかく、私は嫌だからね。戦って死ぬならともかく、ワヤンのせいで公安に見つかって消されるなんて絶対に嫌」
「だからそうならないようにしましょって言ってるの。ユキオの同棲相手のことは綿密に調べてある。行方不明になってギャーギャー騒ぐのはせいぜい一人か二人だ」
 乏しい交遊関係。ユキオの交際を許した理由には、そういった背景もあった。
「まあ何とかなるっしょ。死体かついで山中ハイキングするのは今回が初めてじゃないし。半年後にはきっと綺麗なお花を咲かせてるよ」
 頭を抱えるアリサをよそに、男二人はいたって平常だ。遠足の予定でも立てるみたいに死体遺棄を企てる。
「車は?」と高崎。
「山本が出してくれる。そろそろ着く頃だよ」
「今度から泥遊びをするなら風呂に入る前に誘ってくれ」
「あー、シュウちゃんはいいよ。顔見たかっただけだし。それにモモ一人でお留守番でしょ?」
 アリサが聞かせるように舌打ちするも、高崎はすました顔で質問を続けた。
「殺人犯は?」
「ウチにいる。まだ錯乱してるけど、ジュジュが付いてるから心配ない」
 アリサが嫌味を挟む。
「自分の彼女に面倒見させるあんたの神経のが心配だと思う」
「まあペナルティは事が落ち着いたらってことで。それまでは極力ワヤンとの接触は避けること。ただでさえアリサちゃんは害虫がまとわりつきそうなお顔してるんだから気をつけてね」
「私はちゃんとわきまえてる。忠告するならあんたの横にいる男にでしょ」
「アーリーサ」
「分かってるってば」
 鴉のスマホが鳴る。
「おっ、山本着いたってさ。そんじゃ深夜の遠足としゃれこみますかね。あ、アリサはシュウちゃん送ってってね」
「……それ、命令?」
「んー、じゃ命令で」
 アリサは車で来たことを後悔した。

 店先にはグレーのバンが停まっていた。ハンドルを握るのは短髪でガッチリした男。山本だ。肌は日に焼け、隆々とした二の腕は鴉たちの倍は太い。窓を開けては用心深い性格が反映された細い眉を寄せ、狐目をギロリと三人に向ける。特に高崎に対しては、その猜疑心をまじまじと見せつけた。
「道具は?」と鴉。
 山本は無言でスモークの貼られた後部座席に親指を向けた。不満たっぷりという顔だが、グループ内での上下関係は明白だ。
「おけおけ、そんじゃ行ってきますね。シュウちゃん、モモによろしくー」
 鴉が助手席に乗り込むと、バンは荒々しく公道に合流していった。
「最悪だわ」
 アリサはそう吐き捨て、運転席のドアを乱暴に閉めた。クリーム色の軽自動車は高崎を乗せ、雨上がりの秋夜を駆けていく。踏まれて散り散りになった新聞の切れ端は、それから誰にも読まれることなく、風に飛ばされてはどこかに消えた。



【同日 24時30分】

 ものものしい夜は時がゆっくり進む。それはどれだけアクセルを踏もうと変えられない理だ。時はいつだって幸福を毛嫌いし、険悪な空間に居座る。特にケンカ中の若い男女には目がない。
 高崎とアリサ。お互い話に花を咲かせたがるタイプではないが、沈黙に寄り添って生きるほど寡黙でもない。静寂の背景にはそれぞれの言い分と性質があった。
 最初にその性格を表に出したのはアリサだ。路肩に停車しエンジンを切り、無言の横顔を見せつける。
 イニシアティブはハンドルを握っているアリサにあった。高崎は観念したようにため息をついてから、話を切り出した。
「昔、こんな格言を聞いたことがある。落ちた実をまた枝に結んでも腐るだけ。プロ野球選手にはなれても160kmは投げられない、ってのと似たようなもんだな」
 彼の言う昔が"いつ"に当てはまるのかを、アリサはおろか鴉すら知らない。高崎の記憶を正確に知っているのは、高崎だけだ。
「運動会を楽しみにしてるガキなんかは、てるてる坊主を作ったりするだろう。今のご時世そんなガキがいるかはともかく、目的のために手段を講じるのはとても人間的だし社会的でもある。俺のしたこともそれと大差ない」
「つまり、仕方なかったって言いたいんだ」
「この国は袖を鼻水でかぴかぴにする小学生が縫った雑巾みたいなもんだ。一見まともだがひっくり返せばめちゃくちゃな縫い目が目立つ。時代遅れな公益法人や不倫に励む議員に高金が支払われても、両親を事故で失ったガキへの支援はいい加減なようにな」
「だからって、あんたが面倒見てあげなくちゃならないことなの?」
「誰しも名前や立場の奴隷だ。それぞれに相応しい役割ってのを強いられる。真夏の太陽の下で重労働させられるボランティアが無償で、そいつらを呼び掛けただけのCMタレントに高給が振り込まれるのはそういった理屈からさ」
 高崎のこういう老獪な言い回しが好ましく、また小憎らしいとアリサは思う。まるで年の差カップルだ。私はいくつになっても子供みたいに拗ねて、こいつに当たり散らしてる──。
 拗ねる……。そんな言葉にハッとしては、また苛立つ。どうしようもないことに腹を立てる自分にうんざりするも、それでも感情には逆らえない。
「……どうして?」
 だから結果が変わらないと分かっていても、問い詰めてしまう。言いたいことを言ってしまう。
「どうしてあんたが面倒見なくちゃいけないの?」
「俺は優れたメディアプレーヤーじゃないから同じ話を繰り返すのは苦手なんだ」
「あんたはワヤンじゃないのに」
「それも前に言ったはずだ。人種差別には興味ないって」
「ずるい……」
 アリサは言いたいことを言う女だ。そんな彼女が涙ぐむのは、いつだって、言葉にできない想いを抱えたとき……。
 高崎が中学一年生の妹を引き取ったのは、兄として当然のことなのだろう。それはアリサも分かっている。だが、はいそうですかとすんなり受け入れるには、感情が許してはくれなかった。自分は彼の恋人で、モモコはワヤンでもあったから──。
 そして、モモコとは境遇が似ていたから。
 張り詰めた沈黙をバイブレーションが振り払う。スマホ画面を一瞥した高崎は「まっすぐ家に帰れ」とだけ言い残し、ドアを開けてはそのまま夜街へと歩いていった。アリサはその背中が見えなくなるまで、ずっと目で追っていた。
 ファミレスで死体を埋めると聞いたとき、彼女の頭に真っ先に浮かんだのは父親。思い出したのは、ずっと鳥籠に閉じ込められていた、あの忌まわしき日々……。
 アリサの父親だった男は、現在、山中で綺麗な花を咲かせている。

 高崎は自宅アパートとは逆の方角へ向かっていた。賃貸住宅が立ち並ぶ閑静な細道を進む様は、やはりネズミ一匹見逃さないほどに隙がない。睡魔を忘れたまぶたは、薄闇に隠れたすべてを見通し、研ぎ澄まされた五感は、遠くの公園沿いに散った金木犀の香りすら捉えている。
「花の香りってのは、どこも同じだな」
 公道に出るまで、高崎は3組とすれ違った。一つは酔った若いカップルで、一つはジョギングをする中年男性。そして最後の一人は、メガネを掛けたサラリーマン。カバンも何も持たないスーツ姿の彼は、通り過ぎた男の背中をじっと見届けた後、深い息をついて、こう呟いた。
「……素晴らしいな」
 高崎と山田。
 二人が再会した時は、もう、すべてが違っていた。

 街灯が備えられた歩道橋は、渡る人の姿が遠くからでも視認できる。スマホが震えたのは、高崎がちょうど中間まで渡ったところだ。登録外からの着信。聞こえてきたのは若い女の声だった。
「私です」
「目標は?」
「現在移動中です。"私が"誘導します」
「鴉は何か言ってたか?」
「理想は生け捕りだと。車の手配はできてます」
「わかった」



【同日 24時30分】

 ものものしい夜は秒針がゆっくり進みがちだが、こちらの経過は平常だ。バンは路面の水溜まりを荒々しく弾かせながら、人気のない夜の公道を駆け抜けていく。
「だから俺は言ったんだ──」
 静かだが苛立ちを滲ませた声で山本が言う。
「ワヤンの女と付き合うなんてどうかしてるってな」
 鴉はダッシュボードに足を乗せ、空返事でスマホを取り出した。山本は危機感の見えないリーダーに眉を寄せ、さらに不平を並べていく。
「俺も中条も散々忠告したのにこのザマだ。まったく、嫌になるね。なんて平等な世の中だ。童話のお姫様でも恥ずかしくて聞いてられないような台詞でワヤンへの愛と俺たちへの献身を誓っておきながら、やってたことは過激なSMプレイ、終いには後始末をどうかお願いしますときたもんだ。何より感心するのは、そんなヘタレ王子を過保護に匿ってやる聖人様がこの世にはいらっしゃるってことか。毎日汗だくで働いてる安月給の土木作業員には何のおこぼれもないってところが最高だ」
 黙々とスマホをいじる鴉に、山本は感情を露にした。
「おい鴉、こっちは真面目に話してるんだ」
「まあまあ、起こっちゃったことは仕方ないじゃん」
「仕方ないで済んだら法律も死体処理班も必要ないだろう。糞を野放しにはしておけないから肥溜めや下水道が作られたんだぜ?」
「んー、キミの皮肉には何かが足りないのよねえ。知性? それとも美学かな? なーんか上手いこと言おう言おう感が端々に現れててちっとも面白くない。それに下品だしね」
「鴉」
「大丈夫だって。昨日も"リスト"で確認したけど、ここ数ヶ月はてんで変化なし。現に平和だったでしょ?」
 リストとは、公安の活動範囲を絞り込むプログラム。いわば、公安の痕跡の証拠だ。更新にはユキオかアリサの協力がいる。コールドストレージ(オフライン環境での保管)が前提なので、閲覧できるのは主に鴉を含めた三人だ。有事の際は暗号化した警報を一斉送信する手筈になっている。
 作り方は難しくない。両人から住民の個人情報をリークしてもらい、オフラインに保存。数日おきにそれを繰り返し、最新のデータと保存データを見比べる。前者と適合しない情報の持ち主が、公安に消された者としてピックアップされる。これでどこの誰がいつ消されたのかが分かる、という仕組みだ。
 だが、そんなデータなどしょせん気休めだと山本は言う。
「行動を控えて油断させる腹かもしれないだろ。この国の交通インフラは世界トップクラスだぞ? 昨日北海道にいた人間が今日沖縄にいても騒ぐ奴なんて一人もいない。人混みに紛れて背後から襲われたらどうする? 俺たちは相手の顔も名前も知らないんだぞ? そのリストだって間接的に操作される恐れも──」
「山本くーん、チミは図体の割に気がちっちゃいよねー。素性が分かんないのは向こうも一緒って前に話したでしょ。だから奴らはネットや犯罪者を監視してそれっぽいのを探してんの。道を外さず謙虚に誠実に生きてりゃまず疑われないよ」
「死体遺棄が誠実かは甚だ疑問だ」
「仮に狙われたとしても、PCのデリートキーを押してハイ完了ってわけにはいかない。実際にそいつのそばまで足運んでその手で触んなきゃいけないから、不意さえ突かれなければ余裕で撒ける。つーか前に気構えと護身のレクチャーしてあげたよね? 人の多いところに行くのは人生に嫌気が差した時だけにしてって教えたじゃんか」
「今、少しそんな気分だ」
「まあ、かったるいのは同感だけど、これも持ちつ持たれつだから我慢してね。俺は安全と情報を提供して、キミは俺の手伝いをする。ボールは蹴飛ばせば回るけど、社会は利害でしか回らない。これ世界の仕組み。あ、そこ右ね」
 渋々とハンドルを切る山本。年下にこき使われるのは癪だったが、従わないわけにもいかない。彼にとっても公安は危険だし、何よりその情報源が鴉しかいない。
 そもそも山本は公安を見たことがない。当人はおろか、人が消える瞬間も。もっともそれは彼だけに限った話ではない。アリサもユキオも、鴉と関わるまで公安の存在を知らなかった。
 にも関わらず鴉の話を信じたのは、彼ら自身が一番理解していたからだ。自分たちはワヤンではない。周りの人間とは違うのだ、と。己の主観以外何一つ根拠のないその感覚が、非現実的な公安の存在を肯定させていた。
 山本にとって鴉は、情報を引き出せる唯一の存在。それは言い換えれば、彼の目的達成まで欠くことはできないということ──。
「なあ、鴉」
 ゆえに、山本が危機を煽るのはある意味当然だ。
「もう金輪際、ワヤンなんかと親しくしないほうがいいんじゃないか?」
 鴉は口を開かず横目で山本を一瞥した。催促や腹の探り合いとは異なる、冷たい視線の動き。
 気づかなかった山本はさらに続けた。
「ワヤンとはいえ殺しちまったら罪に問われる。警察だってバカじゃないんだ。何度も山にゴルフバック背負って登ってたら、そのうちお縄になるぜ?」
「んー、まあそれぞれの事情もあるからね。とりあえずは様子見っしょ」
「何かあってからじゃ遅いんだぜ?」
「分かってるよ」
「分かってねえよ。現にお前はあのモヤシ野郎の交際を許可したし、あいつにはとことん甘い」
 鴉は表情を変えずに答える。
「あいつって、シュウちゃんのこと?」
「他に誰がいる」
 鴉はため息を挟んだ。
「……ユキオのことは、正直予想外だったよ。少し甘く見てた。でもその他は問題ない。シュウちゃんのこともね」
「問題ない? ワヤンと暮らしてる奴が問題ないって正気か?」
「あ、そこのアパート。3の番号に駐車して」
「おい、から──」
 バンが音を立てて急停止した。
「山本」
 蛇と蛙の対面を彷彿させる車内で、息も凍るほどの声が、山本の五感を弦のように震わせる。その音色と心拍が聞こえてきそうな静寂の中、獲物は己の立場をひしひしと自覚した。
 山本はワヤンではない。一般人とは違う人間だ。だが鴉は、そんな彼らよりもさらに異なる。まったく別の存在。まじまじと見開いた二重の、恐ろしいほど静かで、透き通るほどに冷たい輝きを放つ茶色い瞳が、圧倒的な根拠として山本には映った。
 睨まれた顔が青ざめていく。呼吸は乱れ、額には脂汗が滲む。心臓を直に握られたような、絞首台を目の前にしたかのような気分。山本はこの感覚に覚えがあった。まもなく脳裏に去来したのは、暗い暗い部屋。陰鬱にこもった、カビ臭い地下の空気。掲げたグラスの冷たさと、喉を焼き付けるくらい乱暴に流れ落ちていった、あの燃えるような液体……。
 肉体が予感した、死の兆候。グループのリーダーは、それをしっかりと味わわせてから、子供に言い聞かすみたいにゆっくり口を動かした。
「人間、ストレスとウンコを溜め込んでるとお腹壊しちゃうからね、多少の愚痴は大目に見るよ。空腹時以外なら俺への不満も聞き流してあげる。だけど、俺に意見するのは許可してないんだよね」
 承知の頷きを繰り返す山本に、鴉はさらに冷たい声で念を押した。
「山本、お前には目的があるんでしょ? 叶うかどうかはともかく、成就には俺の協力が欠かせない。違う? だったら今後は更年期のおばちゃんみたいに喚かず、黙ってお仕事に励みましょうね。人生に嫌気が差した時は好きにしていいけど」
 最後に、冷徹な瞳をその目に焼き付けさせるかのように顔を近づけた。
「わかった?」
「わ、わかった」
「そんじゃ3番に駐車して。深夜の掃除だ。隣人の迷惑にならんよう静かに済ませるよ」

 虫の知らせ、と言うよりも、第六感、が適しているだろうか。ユキオから預かったカギを差し込んだ時、鴉は違和感を覚えた。同サイズの他人の靴と履き間違えたような、ぴたりとハマるのにどこかもやもやする感覚──。
 何かが、展開していく。そんな予感。
 それはアパートの扉を開けた瞬間、確信に変わった。だが鴉は動じることなく、そのまま無言で先陣を切る。息をひそめ、足音を消し、逆手にペンライトを構えて各部屋をチェックしていく様はさながら特殊部隊の機敏さだ。素早くクリアリングを済まし、荷物を背負う大男をジェスチャーで誘導する。自身は廊下の奥へ、山本はリビングへ。
 とても静かだった。リビングの掛け時計の音が通路まで聞こえてくるほど。耳を澄ませば山本の息遣いまで聴こえるだろう。
 捜索が続いている。鴉は浴室の手前に洗面所を見つけると、念入りに物色を始めた。コップに立て掛けられた歯ブラシの本数と色。石鹸や化粧品など消耗品の種類を確認する。それから浴室にも同じようにライトを当てる。シャンプーの本数、種類を確認しては、静かに、ゆっくりと、鼻息をついた。
 その時だった。
「……鴉──」
 背後から、山本の消え入りそうな声が聞こえた。
「死体がない」
 秒針の音が強まる。
「鴉、死体がない」
 鴉は微動だにせず、背中にペンライトを当てられたまま問いただした。
「ちゃんと探した?」
「おかしいと思ったんだ」と山本は早口を震わせる。
「なにが?」
「風邪でも引いてるのか? 普通、人が死んでたらもっと充満するはずだ。死体特有の、嫌な臭いが」
 秒針が主役に代わる。10歩ほど進んだところで、鴉が「そうだね」と遮った。彼がどんな顔でそう言ったのか、山本には見えていない。
「死体がないんだ、鴉」
「それはもう聞いた」
「死体がない。でも」
「でも?」
「とにかく、見てくれ」
 案内されたリビングは整然としていた。テーブルもカーペットも、どこを照らしても争った形跡は見られない。だが山本がベッドの掛け布団をめくると、そこには赤黒い染みが広がっていた。
 鴉は鼻を近づけ、指で触れ、それを舌に付けた。紛れもなく、血痕。人の血。乾き具合や臭いから鑑みて、死亡推定時刻はユキオの自供のものと該当する。
 そして、彼の言うとおり腹部を何度も刺した場合に推定される出血量にも当てはまる。
 致死量の血痕。
 なのに、死体がない。
 山本はその事実に震えた。彼は知っているからだ。公安に消された者がどうなるのかを。
「どうしてだ……どうして血が残ってる……クローゼットには女物の服まであった……モヤシの自供は事実なのか……?」
 山本が取り乱す中、鴉は茫然と、リビングの隅の、闇の集まる、匿名的な部分に目を向けながら、こう呟いた。
「ジェネラル……」
「……なんだって?」
 黙って首を振った鴉は、取り出したスマホをなぞり、メッセージの宛先に高崎の名前をあてがった。ブルーライトに淡く照らされたその顔には、山本に不吉を思わせるには十分過ぎるほど不気味な、それでいて切り取った一枚の宗教画のごとく荘厳とした微笑が咲いていた。
「とりあえずベッドメイキングだけ済ませてずらかるよ。考察はその後だ」
 鴉がしたためたメッセージは、以下の一文。
『シュウちゃん GOだ』

 公安に消された者は、この世のすべてから消える。物理的な所有物はもちろん、ネットワーク上の情報、そして、人々の記憶からも。
 ただし、一つだけ例外がある。一部の、ある人間の記憶からは消すことができない。彼ら自身が記録した情報もまた同様だ。彼らだけが覚えていて、彼らだけが、公安の存在に気づくことができる。
 203号室から出てきた二人の男が、バンに乗り込み、アパートを離れていく。その様子を、無灯の室内から監視していた者がいた。額が後退したこの初老の男は、アパート在住の管理人。その佇まいや仕草は昆虫のように機械的で、渇いた瞳の動きは、精巧な人形かと錯覚するほど人間味が見られない。
 管理人は鳴ってもいない受話器を耳に当てると、抑揚のない声でこう言った。
「潜入者は男二名。うち一名は、プロファイリングに8割方該当する」
 受話器を戻すと、黒目がぐるんとまぶたの裏に隠れ、糸が切れた人形のように床に倒れた。早朝目が覚めた彼に、この夜の記憶は一つも残っていなかった。

 人々は知らない。いつからいつまでが秋なのかを。報道されない人の存在を。世界の本当の仕組みを。
 一部の者だけがそれを知っている。彼らだけが覚えていて、彼らだけが、その答えに気づくことができる。
 それが、鴉たち。ワヤンではない人間。
 公安は、彼らをこう呼んでいる──。
 カルマ、と。



【10/28 5時】

 火が長い間神聖視されてきた理由は、文明レベルを飛躍させたから、だけではない。利便性や宗教的観念以上の価値が火にはあったからだ。灯火。闇に対抗する唯一の武器となり得たからこそ、火は長く敬われてきた。それは同時に、闇を恐れてきた歴史でもある。
 人は皆、闇を恐れている。闇は人を盲目にするだけでなく、無をその眼に想起させることを、本能的に知っているから。
 人は闇を恐れる。なぜなら、遺伝子がそうさせるからだ。

 数時間ぶりに目を覚ました湊シンジも、恐怖に震えていた。それは両手足を椅子に拘束されていたからではなく、激痛が五感を妨げていたからでもない。目を潰されたことよりも、見えない、という事実が、ただただ怖かった。
 彼はこれまで何かに怯えたことはなかった。それはおそらく、この世のすべてを見透かしていたからだろう。正確には、そのつもりで生きてきた。ルールはすべて把握し、遵守してきた。
 ただ一つ、彼が把握できなかったものがある。それをどんな言葉で表現すればいいのか、彼にはよく分からない。分かっていたことは、眼前に広がるこの闇が、やがて己のすべてを呑み込んでしまうのだろうということ──。
 そして、その闇を自身に与えた者が、どれだけ自分たちにとって危険な存在であるかということ。

 ここは雑居ビルの一室。どのフロアもテナントはなく、薄暗い室内にオフィス用品は椅子が二つだけ。埃が溜まった隅には赤いポリタンクが並んでいる。
 着席しているのは湊だけ。吊るされた切り干し大根のように生気がなく、爪を剥がされた指先には針山さながらに釘を埋め込まれ、赤黒く濡れた目隠しの奥からは膿の腐る嫌な臭いが漂う。布を乱暴に詰め込まれた口を動かすことも許されず、渇いたうめき声が力無く上ずるだけ。縛られた先はどこも青白く鬱血し、すでに感覚はない。脳が活動を止めたがっているのは明白だった。
 それでも恐怖だけは、なおも渾然たる事実として彼の眼前にまじまじと広がっている。闇が生を実感させ、生が彼を苦しめる。生きるとは、死ぬとは、これほどまでに恐ろしいことだったのかと、膝をガクガク震わせる。
 その元凶が戻ってきたのは、朝鳥の鳴き声が聞こえてきた頃だ。現れたのは彼より少し年下の若者。口に詰めらていた物が引っ張り出されると、まもなく耳元に耐え難いおぞましさを感じた。
「やあ、気分はどう?」
 その陽気な声に、恐怖がさまざまな感情を従えて爆発した。窓にひびが走りそうなほどの奇声をもって、その名を口にする。
「がああああああ鴉ううううああああああ!」
「あら、まだ元気あるのね。それともイタチの最後っ屁ってやつかな? 言い得て妙とはまさにこの事ですな。弱い奴ほどよく吠える」
「消す、消す、消してやるぞ鴉うううあああああ!」
「はいはい」
 もう一度黙らせ、対面に座る鴉。ポケットから取り出したのは湊の社員証だ。暴れ悶える彼とその顔写真を見比べる。目隠しの上からでも分かるその形相の違いに、鴉は唇の端をゆっくり持ち上げた。
「やっぱキミたちって、利便性のある職業に就くんだねえ。多いんだよ、統計的に。学生、サラリーマン……どこにでもいそうな奴、それは言い換えれば突然消えても目立たないってわけだ。営業部を選んだのも何かと融通利くからなんでしょ? よく考えてるよホント」
 社員証をぐしゃりと丸めて放ると、鴉は神経を逆撫でさせるような嫌らしい声で続けた。
「ずいぶん人間味が出てきたねえ、湊シンジくん。長年キミたちの相手をさせてもらってるけど、キミのように感情的になってくれる公安は少なくてね。ついつい余計なちょっかいを出しちゃったりするのよ。めんごめんご、俺っちの悪い癖」
 言葉にならない罵声が口内でむなしくこだまする。
「でもだいぶ素直になれたでしょ。どっかの神学者がこんなこと言ってたよ、痛みは心を解き放つスパイスだ、ってね。まさにその通りなのかもね。3日前までは機械的だったキミも、今ではすっかり本能的だ。死を恐れて、生を渇望してる……ん、むしろ逆かな? それとも両方?」
 沈黙が訪れると、闇がねっとりと湊にまとわりついた。ガタガタと暴れていた椅子が落ち着き、ぴたりと止まる。しばらくすると、再び膝が胸の内を表現し始めた。
 耳元に囁かれるのは、そんな感情を助長するかのような冷たい声。
「死ぬって、どんな感じか分かってきた? 哲学的な表現だけど、見えなくなって初めて見えるものもあるんだよ」
 視界を奪われた湊が視えたものは、見えないという恐怖。見えないから、闇は広がっていく。
「キミはもともと怖くなかったはずだ。それはキミが持っていなかったから。無かったから。でも、もう分かったよね? 一番の恐怖ってさ、有るものが無くなることなんだよ。よーく思い出してごらん? これまでキミが見聞きしてきた、人の営みってやつを。繋がって、築いて、途絶えて、崩れる。そんな、社会の仕組み。でもそれは、無、じゃない。切れても、壊れても、消えるってことじゃあない。嫌われても、憎まれても、そいつの記憶や心には残る。でもキミの場合はどうだろう? キミが死んだら、湊シンジは不幸なサラリーマンとして人々の記憶に残るだろう、社会の記録に残るだろう、いずれは色褪せていくだろうけどね。でも"お前"は違う。このまま湊シンジのまま死んだらね、お前は無くなるんだ。だって、誰もお前を知らないんだから。お前を覚えている者はいないんだから。消えるってのは、そういうことなんだから」
 闇の先で、鴉はどんな顔をしているのか。それはもう、湊には分からない。
「キミたち公安ってそういうの希薄な連中が多いから、ついつい教えたくなっちゃうのよね。白馬の王子様に憧れてる女の子に芸能界のドス黒い裏事情を教えてあげたくなる週刊誌と一緒。まあ、俺の場合はそのほうが都合が良いからだけど」
 口を自由にされても、威圧する気力は残っていなかった。終末に備えて覚悟を決め、呼吸を整えるだけ。
 そんな潔さを、鴉はかき乱す。コーヒーにクリームを混ぜるような、穏やかな声で。
「取り引きだ。俺は"ゲート"の場所を知ってる」
 その単語に、割れんばかりの鼓動が湊の中に響いた。
「キミをそこに連れてって、助けてあげてもいい」
 突如差し出された逃げ道に走り出さない動物など、きっとこの世にはいないのだろう──。
「質問の答えを聞かせてくれるならね」
 動物、ならの話だが。
「三日前、どこで何をしていた?」
 奥歯を食いしばる口端から、ぶくぶくと、血の滲んだ泡がこぼれていく。
「林田キョウコを消したのは、誰?」
 ごくんと血唾を飲み込み、震える呼吸を何度か繰り返すと、前歯を見せつけるように唇のかたちを変えて、湊はこう答えた。
「カルマに教えることなど何もない」
「……本能的だねえ」と答えた鴉は、憐れみと称賛を孕んだ微笑を浮かべていた。
「お前たちもここまでだ……集まってる……仲間が"ここ"に集まってくるぞ……! 鴉、逃げるなら今のうちだ! 終わりだぞ! お前はここで消えるんだ!」
「集まってくる、か……」
 鴉は口を閉じさせると、赤いポリタンクの中身を室内に撒き散らし、その上に火のついた紙くずを放る前に、もう一度湊に囁いた。
 道化師のように、いかにも楽しそうで、いかにも皮肉に満ちた、嫌らしい笑みを浮かべながら。
「そ~れを聞きたかったんだよお」


 路肩に止まっていた白のミニバンは、ビルから煙が上がった時にはすでに走り去っていた。一仕事終えた顔の鴉を隣に従えてハンドルを握るは、眼鏡をかけた小柄な女。化粧気のない顔に、理容師学生が切ったかのように素朴な茶髪のボブカット、そしてセール品のデニムとパーカー姿が幼さを際立たせている。
 鴉は絵の具で汚れた袖口を目にすると、ため息混じりにからかった。
「なんかさー、売れないミュージシャンに貢いでる女の子の気分だよ。んにゃ、別にキミに才能が無いって言ってるんじゃないのよ。なんつーか、保護者的見地? こっちはまともな食生活してほしくてお金あげてるのに、全部絵の資材やらに注ぎ込んじゃうんだもんなあ。服も背中開けたドレス着ろとは言わんけど、せめて外出用と作業用くらいは着分けんと。つーか最近また痩せたよね?」
「恋人がスリムになるのを嘆く男って、あなたが初めて」
「女の子はもっと肉付けたほうがいいんだってばー。若い子なんか特にさ」
「そんなことより、情報は聞き出せたの?」
「案の定口は堅かったけど、オツムは緩かった。ユキオのことは"予想外"だけど、こっちは"想定内"だよ」
「じゃあ、ユキオさんの彼女はやっぱり……」
「そうなるだろね。こっから忙しくなりそうだ」
 車内のカーナビゲーションは二つの印を点していた。一つは時速60kmで進むこの車で、もう一つの印である目的地に向けて着々と移動している。
 その目的地を指すものが高崎のスマホであると知るのは、この世で、この二人だけ。
「捉えてる?」と鴉。
 女はアクセルを踏んだまましばらく目をつむり、交差点を一つ越えたところで「捉えた」と答えた。
「もう後戻りはできないよ」
「覚悟の上よ」
「よし」
 鴉は大きく息をついてから、高崎に電話をかけた。
「シュウちゃん──」
 鴉たちの敵である、公安。
 残り12人。
「GOだ」




中編に続く。

ワヤンとカルマと13人の公安 前編

執筆の狙い

作者 跳ね馬
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前中後編の三部作。
ええ、はい、色々と行き詰まってます。

コメント

hir
f79-pc222.cty-net.ne.jp

 水溜まりが跳ねる。足音が響く。で良さそうなところをあまのじゃくな書き方をしている。
 未来を示す。結末を暗示する。ではなく、不確定な言葉を二つ並べていたり、
 闇に従う時間。あたりで娘の名前を教える気はないのだとわかる。
 風景を擬人化している箇所が多くある分、人間の描写が単調になっている。
 これだけクセの強い文では物語が二の次になってしまいそう。

u
opt-183-176-87-74.client.pikara.ne.jp

読みました
文章はヘタじゃないけどお上手ともいえない、独特なのか? 気取っちゃっているのか?
地の文、台詞共になんだかくさみがあるというかwwwゴメン

それよりなにより本作の世界観というか設定がわからんので、ぶっ飛ばし気味にお話をすすめられてもいったい何のことやらみたいなwww ついていくのに苦労する 一つ一つの行動(エピ)自体はわかるのですが
登場人物も多いしネ 何の説明もなく冒頭からこの尺だとwwwww

これ前編となっているので次で本作の世界の説明があるの?

前中後編らしいので読んでみたい気もするのですがwww
御健筆を

5150
5.102.6.7

深くて、広い物語性を感じさせる作風でした。かなり独特のテイストが作品に漂っていると思いました。

ただ、確かにそういう独特で癖のある作品世界の中に入るのは、こちらでもそれなりの集中力を要します。とはいっても、こちらの読解力が低いため、というのもありましょうが。ごつごつした、ざらざらした肌触りの文章は、確かに取っつきにくい印象は否めません。おい、黙ってオレについてきな、と背中だけ見せて、連れよりも二、三歩前を早足で歩く、みたいな。振り返りもしない。なので、正直に書くと、追いかけるのに一苦労します。死体がない、あたりからようやく入り込めました。後半は非常に思索的というか、哲学的というか。このあたりは大好きです。

わかりやすく書け、というのは安易すぎる言葉なので書きません。というのも、どうやらこの独特の肌触りの文が作る雰囲気と、物語が相まっての、御作の魅力を生み出していると、少なくとも5150には感じられました。文体と物語の相互作用、というか。

作風は、これは枠組みと進み具合はエンタメですが、それだけでなく、どこかある意味で深い文学性も感じられます。というか、そういう融合を狙っているのか、とそんな感じを受けます。少なくとも、気軽に楽しむタイプではない、ということは言え、どちらかといえば、じっくり深く読み耽るものかな、と。

なんて、あくまで当てずっぽうで書いているので、作者さまはどう考えているかはわかりませんが。推敲はきちんとされている感じを受けますので、この文章やはり個性として捉えるべきだと思ったりします。もしかしたら、これに肉付けをしようかな、と考えているのかもしれませんし。あるいは意図なんかじゃなくて、あくまでスポンテニアスなものなのかもしれません。

ただ、すごくもったいないですね。特に冒頭は読者が入ってくるのをきちんと待ってあげられるような、入り方を研究をされてみてはと思う次第です。

なんて、上から目線でずけずけと書いてしまいましたが、ともかく5150には非常に興味深いテキストに思えましたので、あえてそのように書いてみました。続きを投稿されるようでしたら、読みたいと思わせる力作でした。

跳ね馬
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hirさん、ご指摘ありがとうございます。
具体例を挙げてくださるのはとても助かります。
参考にさせていただきます。


uさん、ご感想ありがとうございます。
今作は書かなければ(説明しなければ)ならない箇所が山程あるので、なるべく簡潔に早いテンポを心掛けたのが裏目に出てしまったようです。

自分としてはちゃんと説明してるつもりで書いたのですが、読者側と視点が大きく乖離していることが分かって良かったです。
もう一度、1から文章を勉強してみたいと思います。

跳ね馬
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5150さん、ご感想ありがとうございます。

まさに仰る通りで、他の方のご指摘にもあったように、文章が独り歩きしていたと痛感しました。
今作はキャラや設定が何かと混み合っており、情報を小出しにしていかなければ、という意図が功を奏しないどころか、読者様を置いてきぼりにしてしまう結果になってしまったようです。

>>正直に書くと、追いかけるのに一苦労します。死体がない、あたりからようやく入り込めました。

むしろそこまで追いかけていただいたことに感謝です。この前編は「起」の部分にあたりますが、そこで読者を掴めないと中々難しいですね。
物語はすでに最後まで構想済ですが、もう一度自分の文章をよく顧みたいと思います。
拙文にも関わらず、最後までしっかりと読んでくださってありがとうございました。

太郎仏
M014009196000.v4.enabler.ne.jp

まあ勧められたので読みましたが
最初の公安の殺しだけで挫折しました。
文章が独特っとか噂があったけど
(もちろん5ちゃんねるもチェックしてます)
僕はその文章や後半にあるという哲学に至る前にダメでしたね。

もっと読書と執筆をしないと文章力は上がりません。

さて何か文学上の特訓をご存知ないですか
僕はもうダメです
お母さん

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