作家でごはん!鍛練場
雷鳥

西行の筋

 西行に筋などない。
 まだ、西行もおのれも、俗の男であった。お互いに佐藤義清といい、源季正といった。
 その日、昼のうちから、雨になった。
「義清」
 時雨がぱらぱらと冠に当たる。
 日が傾くにつれて雲が出て、冷えた。都の冬はすぐに空がしまけて物を濡らす。洛南に拓けた鳥羽の地であるとて、さして気候は都と変わらない。ただ藪が多い。
 明けて正月十八日、内裏で賭弓がある。今日はそれの稽古だという。
 季正は友の方を振り返った。
「義清」
 今日、この男は出てくるのを渋ったのだ。
 友が呼んでいるというのに、義清は、声も出さずに、ちら、と目だけで見た。
 その指先が、黙って弓の弦を弾いている。
「今日なんかあったんか」
 義清は鬱陶しそうに目を細めた。
 びゅうっと風が吹いた。
「どうしたんや」
 わずか、義清が眉を寄せた。寒風に当たっているはずなのに、頬骨の辺りが青い。
 義清は何かしら物を思うところがあると、すぐに口を利かなくなる。
「なんか家から知らせやったんちゃうんか」
 ちり、と弓の弦が鳴った。
 最前、射場の松の向こうで馬が鳴いた。おや、と思った。鳴いたのは義清の馬だった。めずらしい。義清は馬の好きな男だ。手ずから馴らした馬は主に似ず、端から見てもわかるほど賢かった。それが鳴いた。嘶きではなく、なにか不思議な調子で、声を上げた。
 おや、と思った。
「義清、おまえもう言うといたるから帰れ。どうせこんなん稽古でもなんでもないんや。連中みんなで寄ってわいわいしたいだけなんやから」
「うん」
 その言い方が妙に素直で、季正は急に不安になった。
「……やっぱりなんかあったんか」
「うん」
 馬が鳴いたとき、その脇に男がいた。義清の家の男だ。息を切らせていたから、走ってきたのかもしれない。それが息を切らせたまま、飛びつくようにして馬の手綱を引いた。なんだ、と首を傾げた。別に公の行事でもない。兵衛の連中が寄って遊んでいるだけだ。用があるなら直に呼べばいいものを、と友を振り返って、ぎくりとした。
 義清は、まっすぐ前を向いていた。
「今、馬が鳴いたぞ」
 季正は、それだけ言えた。
「知ってる」
 応えたその面に、一瞬、異様な陰影が浮き上がった。
「聞いた」
 それだけ言って、義清は射場に向かった。
 佐藤は弓矢の家だ。義清の矢は、当然のように的の正鵠を貫いた。
 真っ直ぐに、ほんとうに真っ直ぐに、正中を飛んだ。
 季正は、ぞうっとした。
「どうしたんや」
 時雨が衣にしみる。少し怖い。
 向こうでは、まだ遊びの稽古は続いている。
 射場では的付係の扇が上がり、兵衛勤めの仲間が手を叩いて喜んでいた。とびきり下手くその矢がようやく的に当たったらしい。兵衛の連中は割に懐が深い。有象無象の血筋の男たちが寄り集まっているのだ。上手もいれば下手もいる。
 義清の指が弓の弦を弾いた。
 あまり、そういうしぐさをする男ではない。
 なんとなく気詰まりなまま、仲間たちの様子を眺めた。
 それぞれの矢がそれぞれの軌道で的を外す。どうにも下手だ。いざ戦となれば総員で乱れ打ちにするのだから、別段個々に精緻な腕は不要とはいえ、本当に当たらない。
 あくびが出た。
 そも、平安の世に戦などない。
「季正」
「ん」
 目を擦りながら返事をした。
「どうした」
 義清は困ったように眉を寄せた。
「さっき、娘が死んだ」
 ぽかあんと雲が切れた。
 雲が切れて、雨粒が光った。
 娘。
「うそやろ」
 なんで、と声になったかどうか定かではない。
「娘て……」
 絶句した。
 冠に時雨の粒が当たる。
「娘ておまえ……開子か」
 唇が震えた。
「死んだ」
「まさか」
 動揺した。
「なんで今日来たんや」
「うん」
 また義清の弓が鳴った。
「もう朝にはほとんどあかんかったから」
 はじけるように誰かが笑った。
 射場の方から的付役が二人を差し招いた。
「義清殿。本日最後の弓、いかがか」
 にこにこした男だ。仲間内から上手と下手を取り混ぜて、和やかに会をまとめている。本人は弓を苦手にしていたが、刀槍の類では頭一つ抜けている。
「季正殿も。われらは皆もう済んだ」
「そうや。おまえら二人、自分は上手と思って手控えとったやろ」
「そうやぞ、おれらがどんだけ外した思てんねん」
 笑い声が上がった。
「義清殿」
 男が義清を差し招いた。
「御家の家祖秀郷公の故事の通り、重代の勇士たる貴殿であれば、今日最後の矢を外されるようなことはありますまい」
 男はにこにこした。
「さ」
 血の気が引いた。
 手が震えた。
「いや——いや、足利殿、今日は義清、もはや無用に」
 声がうわずった。悟られてはならぬ。
「どうかなさったのか」
 言えぬ。
 娘が死んだ。義清の娘が。なぜ、と思う間に、ぐうっと胸が詰まった。
 生まれたのに、死ぬのか。
「今日は——」
「義清」
 仲間の輪の中から見知った顔が突き出した。佐藤憲康。義清と同じ佐藤の系列だ。この男の矢も的を外さない。佐藤はそういう家だ。歩くより先に弓を持って育つ。平将門を討った藤原秀郷から十代、武官の家ではあったが、佐藤の弓は、半ば呪具のように崇められた。
「この下手くそどもに佐藤宗家の腕を見せてやれ」
 憲康の目が、ちらりと季正を見て、義清を見た。
 膝が震えた。
 打てぬ。おのれなら打てぬ。
 しかし、義清は——打てぬでは通らぬ。
「季正殿、いつもながら義清が面倒をかけるな」
 憲康は飄々とした男だった。
「早く帰ってやれ」
 けれども、察するものがあるのだろう、憲康は少し顔を歪めた。知っているのか、とどこかぼんやり思った。それはそうか同族だ。知っていたか、と耳鳴りがした。
 さあ、と的付役が義清を招いた。
 義清はいつもの通り射場へ出て、いつもの通り、的の正鵠を得た。
 ただ終始、なにか夢でも見ているかのような不思議な顔をしていた。
 そうして随分してから、ようやく口を利いた。
「おれ、帰るわ」
 目が合わなかった。
「すまんな」
 去り際、義清がぼつりと言った。
 まだ、西行もおのれも、俗の男であった。お互いに佐藤義清といい、源季正といった。
「この前、開子にやれってたまごくれたやろう。あれ、まだ食わしてやってへんかってん」
 すまんな、と義清が言った。
 家芸の弓を外しもしなかったその手が、震えていた。
「頼業にも言っといてくれ。しばらく常盤の歌会には顔出さんへんて」
 かける言葉がなかった。
 開子が死んだ。
 四つだった。
「わかった」
 ごめんな、とうつむいた冠の先から時雨が落ちた。
 声が出なかった。
 息が詰まった。
「——季正殿」
 めいめい帰り支度をするのに紛れて、憲康が横に立った。
「何という顔をされている」
 背の高い男だ。憲康は少し困ったような顔をして、季正に肩を寄せた。
「あれに変わってお詫び申し上げる」
「……なにをでござる」
「聞かれたのであろう。そのような顔をしてくださるとは、身内としてもかたじけない」
 しばし沈黙した。
「あれも、どうしても貴殿には言えなんだのだ」
 わかっております、と返す声がかすれた。
「許してやってくれ」
 世は無常と人は言う。
 雨は、音を立て始めていた。
 ぼつぼつと落ちる雨粒が、天を仰いだ目玉に跳ねた。
 おのれが、妻に、と惚れた女は、皓子と言った。
「四つは……かなしいな」
 目玉の中で雨が光る。
 日頃人を人とも思わぬくせに、義清は時折、唐突に情の濃やかなところを露わにした。
「すまぬ」
 雨は勢いを増して体を叩いた。
 おのれが、妻に、と惚れた女は皓子といった。不意の垣間見に惚れて惚れて、惚れ抜いて、契って腹に子が出来た。朝な夕なと歌を送ってかき口説いた。本当なら、今頃おのれも、去年の秋に生まれた子を持っているはずだった。
 知らず、顔を覆った。
 夏の終わり、皓子は死んだ。
 子は生まれなかった。
「う」
 嗚咽が漏れた。
 雨で袖が濡れたのだと周りにはそう言った。
 義清の娘が死んだ。
 生まれたのに死ぬのかと、むなしさが胸を塞いだ。



 季正には言えなかった。
 あれは最近ようやく口を利くようになったのだ。この一年ばかり、問えば返事はしたが、何もかも手応えのない土くれのようなものだった。
 なるほど、心が失せるとはこういうことかと義清は思った。
 それほど季正は皓子に惚れた。
 朝な夕なに歌を送り、返しの有無に痩せるほど気を揉んで、結ばれた。
 そうと決まると季正はみるみる肌つやを増して、一晩のうちに見違えるように男振りを上げた。その様子があんまり面白くて、義清は、朝飯を吐くほど笑った。
 夏の間中、気が狂ったように歌を詠み、季正の恋は実った。
 とはいえ、そのうちの半ばはおのれと頼業が手を入れたと言っても過言ではない。
 義清は、源季正と藤原頼業と、同い年の二人を友として育った。元が皆、洛外の生田舎の出だ。義清が御室、頼業が常盤と住み処の近いところへ、ある日、季正が放り込まれてきた。虫が怖い、暗いのが怖いと生来の性根の軟弱なのを親が憂えて、かねて出入りの花園の神社に息子を叩き込んだらしい。哀れなことに、そこは二人の縄張りだった。
 二日で虫を握り潰し、親が迎えに来る頃には、鍋いっぱいの沢蟹をすり潰して喜んでいた。
 あやうく季正は双ケ岡に捨てられるところであった。
「めでたいな」
「やったな」
 そういうわけであったので、頼業と二人して広沢の池に出て、小さく祝宴を催した。
 月の美しい夜だった。
 まるい水面に月の影が金色に映っていた。
 幼連れ三人の中で、義清が一番早くに妻を持ち、子を得ていた。
 妻の名を戴子という。その頃、最初の娘が生まれて、ちょうど物を食べ始めた頃だった。開子は、娘に歯が生えてくるのを見てやろうと毎日のように口を開けさせるので、父親を見るとうれしそうに口を開けるくせがついた。妻は烈火のように怒ったが、義清にはその様子のいちいちがかわいらしくてたまらなかった。
 そういうことを話してやると、頼業は、うらやましい、もの悲しい、おれも恋がほしい、とぐねぐねとよじれて、池に落ちた。
 幸福だった。
 今、氷雨の中、屋敷の門をくぐる。
 都の南、鳥羽院の離宮近くに建てた屋敷は、藪と藪の間に挟まれて近在に人家の気配もない。雨でよかった。義清は手綱を離した。これだけ雨音が激しければ、もう誰を憚ることもない。噛みしめた頬の内にまで雨が流れているような気がした。
 何もかもが冷たい。衣が中から凍えてゆく。おのれの震えがおもしろいようにわかった。
 朝、最後に抱いた時のことが思い出された。
 死んだか、と、やはり、の間に、どうしよう、と痛恨が挟まった。何度も何度も、涌いて出た。まさか、やはりと、仕方ない、が交互に吐き気になった。
「今戻った」
 雨の中のまぼろしのような道を、愛馬はひとつの角も間違えることなく主を導いた。
 この期に及んで、まだ、うそであろうと、どこか思っていた。
 それはむなしいことであった。
 迎えの家人もあったろう。馬を下りもしたであろうし、装束を外しもしたと思う。
 けれども、ただ、何もかもを突き破るように駆け出してきた妻の姿だけが記憶にある。
 なぜか、火のように目に映った。
 戴子は子を抱いていた。腹が大きかった。
「すまなかった」
 開いた口が恐ろしい色をしていた。
「すまなかった」
 雨の中、妻はおのれにしがみついて声を上げた。真っ赤になった耳が光っていた。
 泣いているのだな、とその色を見下ろしながら思った。
 母の黒髪の乱れを掴んで、腕に抱かれた産毛の子が義清を見た。
「永子……」
 ほんのりと眉の上が赤くなっている。ついこの間、姉と遊んでいて互いにぶつけたのだ。
 まだ治らぬのか、とその額に触れた。
 娘たちは二人ともよく似ていた。
「あ」
 瞬間、涙が噴き出した。
 泣いた。
 声を上げて泣いた。
 娘が死んだ。
 妻は義清の胸に向かって叫ぶようにして泣いていた。とても一人の女の声とは思えず、ややあって、ようやくその声が、おのれの口から聞こえるのに気付いた。
 戴子は声の美しい女だった。
 ああ、それがおのれの胸に向かって泣くと、こんな風に聞こえるのか。
 思うと、泣けた。
 嗚咽の度、妻の声が途切れて、喉の奥でふくれた。
 もろともに抱いた腕の中では小さい方の娘が火のついたように叫んだ。
 そして、ひとかたまりのようになった二人の間で、硬く張った腹が暴れた。
「う、う」
 顔を上げた妻は、まぶたも頬もくちびるも、何もかも同じ色をしていた。真っ赤に腫れて、そのすべてが濡れていた。
「戴子」
 男である以上、せめて妻の様子よりは立派であろうとは思ったのだけれども、義清も結局は同じ有様なのがわかっていた。戴子も幼連れのようなものだ。まだ互いに振り分け髪の頃から知っていて、互いによく似ているから、一緒になった。
「すまない」
 頬を拭ってやろうと思ったのに、その上に涙を落としてしまった。
 絶え絶えに、細かく途切れる呼吸から熱いにおいがした。
 かなしい。
「——兄上」
 屋敷の階に立って、弟が裸の燈明をこちらに向けて差している。それが頼る物のない雨の中でとても明るく思われた。雨が頬を流れる。
「仲清、おまえも来てくれていたのか」
 はい、と燈明の火が震えた。
「皆、兄上のお帰りをお待ちしており」
 それきり仲清はうつむいて、小さな明かりを消さぬように高く捧げた。
「——戴子」
 今さらのように、妻が裸足であったことに気付いた。
「行こう」
 踏み出した一歩目が泥になって残った。
 濡れた黒髪が熱かった。妻の肌は赤く透けて鉄のようで、一番奥の部屋、その肌越しに見た娘は、疾うの昔に死んでいた。
「開子」
 その姿が、いとおしくてたまらなかった。
 よく生きていてくれたと伏し拝みたいほどの思いが込み上げた。
 ああ、狂ったな、と思った。
 なるほどこうして先人たちは狂ったのか。
 ひとごとのようだ。
 義清は娘の髪を撫でた。
「開子」
 春に生まれた子だった。
 産声を聞いた瞬間、目の前すべてが花になったかのように輝いた。
「開子」
 撫でた髪は朝と変わらないのに、その下の体が冷え始めていた。
「開子」
 心が形になって抜けた。
「今日は雨やったな……」
 わずかにあいた口もとから、白い歯が見えた。
 なんでやろうか、と義清は手を伸ばした。
 開子は、すくすく育った。乳を吸っては寝、起きては泣きの度に大きくなった。本当に面白いように大きくなった。あんまり義清がそう言うものだから、よっぽど特別に大きくなったものと思っていたらしい。季正や頼業が娘の顔を見に来て、並やな、と言った。
「なんやと」
 ひとしきり互いに罵り合ったが、頼業がかなり本気で心配していたらしく、牛のようでなくてよかったと言うもので、人の娘をなんだと思っているのだとまたひとしきり揉めた。
「まあ、戴子殿の子やしな」
 開子の頬をつつきながら季正は笑った。
「強い子やで」
 開子もうれしそうにきゃっきゃと笑った。
「おっ、この子もう歯の先見えて来てるやんけ」
 すごいな、と頼業が言ったのが、大変な褒め言葉に聞こえた。
「なんやろな、こういうの雅語があったら歌になるのにな」
「あるやん、瑞歯やろ」
「ちゃう、それなんかちゃう」
 そうか、と季正は気にするでもなく、娘を左右にきょろきょろさせて笑っていた。
「違うんや、なんかこう、ああ、芽が出てくるんやな、みたいな、あるやろ、ほら菖蒲の先が角ぐむみたいな」
 義清は笑った。
「それがぽんと出んあたりがおまえが葉室殿に負けるわけやな」
「アホウ、おまえも出んくせにやかましいぞ」
 春になって、頼業の妹が葉室顕広に嫁いだ。頼業の妹とは思えぬほど真心のあるよい人間であったから、顕広が兄弟の父を訪れて歌を学びに来る度、思いを掛けて結ばれた。
「おれではあの方には勝てん」
 開子の歯は、美しかった。
「葉室殿の歌はおまえの弓と一緒や」
 しばし、義清は口を閉ざした。
「ほんまに綺麗やんか」
 頼業は宝珠でも見るように目を細めた。
「歌のことやったら雅語でも古歌でも葉室殿にお聞きしたらなんでもお答えくださるやろうけど、なんか、いいやん。今これはおれらしか見てへんねんで」
 なんとなく、おのれも息を詰めて見た。
「光っとる」
 透けてるんやな、と頼業は囁くような声で言った。
「ずっとこのままやったらええのに」
 開子はまたきゃっきゃと笑った。季正がおもしろそうに指を握らせて遊んでいる。
「いいな、頼業が褒めてるぞ。開子はお口の中にいいものがいっぱいあっていいな」
 そうして、間を置かず、季正が恋をして、頼業が池に落ち、戴子の腹が大きくなって、また次の子が生まれた。その頃には開子は自分もこの前までそうであったくせに、妹が乳しかほしがらないことをしきりに怪しんでいた。父親と同じことをしている。
「いっしょにおいしいねってしたい」
 じきにできる、と抱いた子に笑った。
 その子は今、目を開けた人形のように死んでいた。
「……開子」
 自分の声が、まるきり子を亡くした親の声だった。
 とても悲しい。よくここまで我慢できたと思った。ずっと、雨の中は幻だった。門をくぐり、妻の声が熱が生身のにおいをもたらした。
 開子は死んでいる。
 頬がくぼんでいた。おのれの荒れた手で撫でると娘の肌が引き攣れるのではないかと悲しくなった。涙が筋を作る。嗚咽が他人事のように聞こえた。
「結局あれからもう気が付かれることはなく……」
 屏風の裏から老いた乳母の声が娘の最期を語っている。
「末期の息を大きくされて……」
 目が開いたままなのが可哀想だな、と思っていた。黙って押さえてやると、まぶたがかたく、手のひらに触った。いつもなら忙しなく瞬きをするはずのまつげがやわらかく潰れる。
「うん」
 口の端が開いている。
 隙間から見える舌が布のように白い。
 もうこの歯がすり減ることはない。
 ならいいか、と義清はその先に指をかけた。
「開子がごはん食べられへんくなる!」
 折ってやろうと思った。
 一生、二度と手放すまいと思った。
 頬を張られた。
 瞬間、ギャーッと人間の悲鳴が聞こえた。それが妻だとわからないほど、近くで聞こえた。
「馬鹿!」
 娘の上に覆い被さって、妻は夫をこぶしで殴った。さんざんに殴った。
「やめて!」
 妻は両手で義清を殴った。
「これからこの子はひとりでごはん食べなあかんのに!」
 号泣した。
「あんたがそんなんして開子が向こうで困ってたらどうすんの!」
 頬を張られた。
「この子は一人になるのに」
 あの世で、我が子が、困る。
 たったひとりで。
「……いやや」
「いややじゃない」
 戴子は、抱いた子の頭で涙を拭いた。
「開子、泣くよ」
 小さく、妹が母の髪をまさぐった。なぜか、それが、痛恨になった。
 誰か。
「絶対にあかん」
 滂沱であった。ぼたぼたと物が垂れた。
「戴子」
 雨に濡れた髪は熱かった。
 それを抱いて、泣いた。無性に泣けた。息をするだけで血が涙に変わってゆくのがわかった。もう何もかも涸れたと思う。それでも、涙が出たと思うだけで、次の涙が出た。
「——兄上」
 ようやく雨の音が聞こえるようになった。
「義姉上様も」
 衝立の脇から行燈の灯が差し入れられた。
「お体に障ります」
 弟の後ろに気配がした。
「仲清殿にお声掛けいただいた」
 瞬時、戴子が袖でおのれの乱れた姿を隠した。咄嗟に義清は己の不明を恥じた。
「……どなたか」
 束の間、声の主は言い淀んだ。
「今は空仁なる念仏僧である」
 じゃり、と数珠が鳴った。衝立の奥に柿色の衣が見える。それが小さく咳払いをした。
「奥方殿、顔を出してもよいか」
 おのれの背でかばうと、戴子は、明かりを消してくだされば、と囁いた。
「では」
 弟が燈明の芯を摘んだ。
「すまぬな、仲清殿」
 妻の手が呆然と開子の髪を撫でていた。ようやく肩を越したやわらかい髪だ。
 仲清が鼻をすするのが聞こえた。弟は明年十九になる。いつも実より年が近いような気でいたはずなのに、急に代を隔てて年が離れたような心地がした。
 これが彼岸、と顔を歪めた。
「これなるは空仁法師と申す者」
 禿頭の男が横顔を覗かせた。努めてこちらを見ぬようにしているらしい。
「俗名を大中臣清長と言ったが、今はこの通りである」
「おまえ……」
 呆気にとられた。
 剃り上げられた禿頭に覚えはなかったが、言われてみれば、知り合いの丸顔が遁世するだの何だの、そんな話は聞いた気がする。
「丸長、おまえ……」
「空仁法師である」
 再度、咳払いをした。
「仲清殿が駆け込んで来られたのだ。どうか姪御殿に経を読んでやってほしいと」
 すみませぬ、と小さな声がした。
「七つにならぬうちは弔いも不要とは言うが、いかんせん、弟君の心を考えると否やとも言えず、このように参上した次第である」
「それはありがたいが丸長……」
「空仁法師である」
 しばし沈黙があって、丸長は黙って経本を差し出した。
「拙いが、読める」
 その様子に、涙が出た。
「かたじけない……」
 元は伊勢の神祇官を務めていた男である。
「任せろ」
 義清は素直に頷いた。
「すまんが少し支度をさせてくれ。身なりを整えてくる」
「存分にせよ」
 兄上、と仲清が声を掛けた。
「奥の間にあたたかいものを用意してあります」
 どうぞ姉上も、と弟の声に、ほうっと長く息が漏れた。
「ありがとう」
 目と目が合った。
「う」
 たぶん、兄弟二人、おのれの泣き顔も弟に似ているのだろう。ぼろぼろと涙が落ちた。
「開子のところにいてもいいですか」
 仲清は床に突っ伏したまま、しゃくり上げた。
 身内の中でも、娘を一番かわいがっていたのがこの弟だった。母は十より前に亡くなった。それきり兄と弟、二人きりの兄弟だったせいか、仲清はよその家の兄弟が多いのをうらやましがった。童子の頃は季正と頼業の後をついて回り、戴子が義姉になると決まってからは、まるで家に菩薩が来たかのように敬った。
「あたりまえやろ」
 ふと、今気が付いた。
「おまえが一番頼りにされてるやないか」
 母は、産褥で死んだ。
 真っ白の屏風、真っ白の衣、何もかも逆さになった部屋の中で、念仏と叫び声と、おのれにしがみついた弟が泣いて謝るのがぐちゃぐちゃになっていた。母に自分も兄になりたいとせがんだらしい。うそですうそですとずっと震えていた。
 そして、一度も泣かなかったけれど、生まれたのは妹だった。
 仲清もおのれも、妹がどこにどう葬られたのか知らない。母の忌が明ける前、仲清が卒中のように倒れて熱を出した。それきり、弟の目は右の半ばからよく見えぬ。
 父は、必死になった。
「頼むな、仲清」
 この弟に官位を取ってやるのが父の悲願であった。
 そのためには、と義清は思った。
 子の死に接してなお、弓矢を外さぬ兄がほしい。
 弟は、やさしい男であった。
「すまん」
 涙が頬の筋を流れた。子の上に落ちそうで、義清はこぶしで押さえた。
「戴子、立てるか」
「でも」
 なすがままの妻の体を抱き起こす。ただ黙って、妻の腹を撫でた。
「戻って来よう」
 その夜、経を読み終わる頃には雨が止んでいた。
 どちらから言うともなく、娘の左右に床を伸べた。時折、妻の胸に抱かれた永子が乳ほしさにむずがった。妻も泣き疲れてぼんやりしているのか、されるがままに身重の衣をはだけて乳を含ませている。その様子を見ながら、娘の頭を撫でた。
 もう生きているあたたかさはなかった。
 それでも、気が狂うほどいとおしかった。
 横になったまぶたの上を、涙が音もなく流れた。
 かなしい。
 こんなにいとおしい娘のことを、誰もが忘れてしまう。義清は娘の体を抱き寄せた。
 七つにならぬうちは子など人の数にも入らない。生き、死に、いくら増えてもいくら減っても嘆きもせぬし、喜びもせぬ。いないもの、預かったものと思って暮らすのだ。そうでなければならぬと、皆そう思っている。
 けれども、悲しい。
 抱き寄せて、義清は後悔した。
 開子の耳は亡骸のにおいがした。
 あんまりかなしくて、義清は娘の手を握った。
 手のひらに触れる爪は、いつまで経ってもあたたかくならなかった。



 腹に穴が開いたような思いで日を過ごし、二日ばかりした頃、東寺の往来の辻で見知った顔に会った。佐藤憲康である。
「——この度は」
「いや、かたじけない」
 二、三言葉を交わし、すぐに気詰まりになった。
「……では」
「いやいやいや」
 季正が頭を下げて行こうとするのへ、憲康は苦笑するような調子で七条大宮の自邸へ誘った。
「貴殿、人から話を聞くのとでは、随分印象が違うのだな」
 もっと野人のようかと思っていた、と憲康はかわらけに盛った瓜漬けをばりばりと食った。
「幸い、凡夫でござる」
 ふうん、と季正の返答にはさして興味もなさそうである。
「皆凡夫よ」
「左様で」
 連れられた屋敷は思うよりも小綺麗だった。なんとはなしに佐藤の家は皆、庭に草藪ができているような頭があったのだが、この憲康の屋敷は築山も形通りに整えられ、訳のわからぬ蔓草が突き出しているようなこともない。季正は、やはり主によるのかと一律にしていた佐藤の連中への偏見を改めた。佐藤は藪が好きなのだと思っていた。
「口に合わぬかもしれぬが」
「いえ、瓜は好きであります」
 そのまま、ぱりぱりと食べた。
 一切れ食べ、二切れ食べ、美味いな、と思いながら、眉間にしわを寄せた。困る。この男と話すことがない。季正は口の中をもぐもぐした。
 屋敷の主は板の間にあぐらをかき、頬杖をついている。
「貴殿、蟹の他にも物を食うのだな」
「あ——」
 思わず声が出た。
「あれは他のことをしゃべらんのですか」
「よく知らぬ」
 憲康は次の瓜に手を伸ばした。
「あれは——義清はだいたい気に入りのことしかしゃべらんからな」
「おかげでおのれは世間から蟹しか食わぬ魔物のように思われております」
「とはいえ、食うのであろう」
 たしかに沢蟹は好きだ。茹でてもよいし、焼いてもよい。揚げてもなおさら、潰して汁を漉したのは格別という外ない。
「……下さるのですか」
「見つければ集めておく」
 かたじけない、とまた話が途切れた。
 仕方ないのでまた瓜を食べた。
「ところで、うちはだいたい男が早く死ぬのだが」
 ぎょっとした。
「まあ、そんなものだ。本家も先代の康清殿が不意のことで身罷られてから三年か。義清も無事左衛門尉の任官を受けて、今は鳥羽院の下北面。まあ、上手くやっているだろう」
「定命の短いのは武門の倣いでござる」
「無常の世よ」
 憲康は笑った。
「家祖、秀郷公は百を超えたとも聞くが、うらやましい話だ」
「まったく」
 義清から数えて十代、俵藤太と呼ばれた藤原秀郷公は、百足を討ち、大蛇を下し、ついにはかの平将門をも滅ぼした稀代の英雄である。嫡子嫡流は奥州藤原氏としてみちのくにあるが、佐藤の家は紀伊の田仲庄を預かり、都に暮らした。とはいえ、伊勢に暮らせば伊藤、近江に暮らせば近藤、尾張の藤原は尾藤になったらしい。もともとあまり家名に固執のない一族なのだろう。佐藤の佐の字は、都に住んで左衛門尉の身分を得たことによるという。もし内舎人であれば、内藤にでもしていたのかもしれない。つくづくその頃から、姓など物の書き付けくらいにしか思っていなかったのだろう。そも源平藤橘のうち、もっとも古いのが藤原なのだから、多いのも道理ではある。鄙の地なら、藤原を訪ねて行くのが一番確かだ。藤原はどこにでもいる。便利だぞ、と義清が言っていた。
「せめてその名残でもあればとは思うが」
「はは」
 季正は誤魔化した。
 義清は鳥羽院の下北面を務めている。もちろん気に入られてのことであるし、上皇のお側近くをお守りして力不足ということもない。
 何と言っても秀郷公は三上山の百足退治で知られる英雄である。一の矢、二の矢と射るも射通せず、三の矢を引き絞って見事息の根を止めた。その故事を忘れず、佐藤の男は皆、弓箭の道に精通している。そうでなければ佐藤の男ではないのだ。そして、佐藤の男に成れなければ、人の男ですらない。それくらいあの家のやりようは苛烈だ。目の当たりにしたおのれが言うのだから間違いない。
 もし、弓の道に鬼がいるのであれば、あの家から出たと思う。
 幼い稽古の日、義清の弓弦は、半ばが血染めの色をしていた。
「憂き世の常は皆、後になり先になりとは言うが」
 季正の弓の腕が伸びたのも、幼時、義清が苛烈な稽古を積んでいるのを、横で諸共に習わされたせいである。頼業は自分が文官の家系であるのをいいことに、逃げた。
 たしかに義清の父も祖父も早くに亡くなった。蹴鞠の名手で知られる源清経は義清の母方の祖父で、七十近くなってなお足腰も丈夫で健在であるが、そちらは源氏の家系である。
「この度は、まさかあれの娘が儚くなるとは思いもしなかった」
 憲康は、今さらのように長く息を吐いた。
「ほんの四五日のことだったのだ。まさか、まさかと思ううちに」
 儚くなった、と長身の背が傾いた。
 憲康は少し咳をした。
「季正殿、貴殿、今は親王殿下の侍所においでだと聞いているが」
「左様でござる」
「五宮様であるか」
「左様で」
 季正は頷いた。
 年が明けて、本仁親王殿下のお側にお仕えするようになった。鳥羽院と妃の待賢門院の間の五番目の親王殿下で、今上の弟君である。年は明けて十になられる。
 ふうん、と沈黙があった。
 憲康は黙って瓜を食っている。歯が丈夫らしい。ぱりぱりといい音がする。
 仕方がないので、季正は庭の木に残った紅葉を見ていた。霜枯れて、鳥の脚のように縮んでいる。人の指のようだ、とぼんやり思った。
 開子は、季正を見るとよく笑った。
「……単に」
 話そうとすると眉間にしわが寄る。
「単に」
 口に出して物を言うのが苦手だ。
「悲しいというだけです、ひたすら」
 風が吹いた。もう朝夕に霜が降り、冬の口に入った。
「うん」
 憲康はまた少し咳をした。
「七つまでは死穢のうちにも入らぬとはいえ、子であるからな」
 鳥羽院の時代になってから、政の潮目が変わった。世は平家である。鳥羽院の上北面は皆平家が占めていた。どの顔も煌々しくて眩しかった。おのれで言うのも何ではあるが、源氏はどうも田舎くさい。たぶん食っているものが違うのだと思う。
「もう開子の——亡骸は埋けたでありましょうか」
「どうだろうな」
 装束の袖を風が通る。今さらのようにまたせつなくなった。
「一人前であれば死ねば仏となるだろうが、童のうちは生まれ変わって戻るとも聞く」
「なるほど」
 来ますか、と暮れ始めた西の山を眺めた。
「ところで憲康殿」
 ぱり、と瓜の端を噛んだ。
「この瓜は嫁御が?」
「いや、おれが」
 言いさして、はっと気付いたように慌てた。
「違う、日頃の煮炊きは人がおる」
「はは」
 そも武門であれ文官であれ、屋敷に門を立てるような家はまず家人が厨に立つことはない。なのになぜか佐藤の家では、男も女も妙に食いものを弄りたがった。
 未だに子供時分に義清の家の厨で湯がいた、むきたてのたまごの味を覚えている。三人で藪の巣から小さなたまごを取ってきた。義清が真剣な顔で湯を沸かし、頼業が手慣れた様子で火にたきぎを放り込んでいた。互いに息をひそめてぐらぐらと湯立つ中から取り出して、こつん、とたまごの先を床に当てる。
 とろりとやわらかい黄身の中に、赤く雛の姿が透けていた。
 美味かった。
「粕に漬けるとなんでも美味くなるんや……」
「はは」
「壺に物を入れるくらい誰でも出来るからな」
「美味いです」
 憲康は照れたのか、横を向いて顔を擦った。
「近頃ようやく物に味がするような気がしております」
 ああ、と憲康は小さく声を漏らした。
「季正殿、先年からのご不幸、心中如何ばかりであったか、お察しするのも苦しいが……」
「はは」
 中有に浮いたような心地である。
 皓子は、消えた。
 ただ、ぼんやりと、未来がどこにもなくなったような気がしていた。
 春も夏もぼんやりと終わり、稲の垂れるのを見て、ようやく秋を知った。その秋も、既に果てた。からからと乾いた風に、紅葉の葉が揺れる。
「いかがでござる。嫁取りは」
 たしかまだ二月も経っていないはずだ。
 おのれで言う通り、憲康の父も早くに亡くなって、長く母と二人でいた。
「うん」
 たのしい、とその言い方が義清に似ていた。
「何より、母が喜んでたまらん。毎日毎日嫁がこんなことをさせてくれた、あんなことをしてくれたと嬉しがって嬉しがって仕方がない」
「はは」
 目に浮かぶ。さっきから屋敷の奥でこちらを窺う気配がする。思わず仰け反って笑った。
「うらやましい!」
「すまぬ、もう一年ほどになるか。貴殿のこと義清から聞いてはおったのだ」
「はは」
「わかるやろう、あれは同じことを何遍でもしゃべる……。おろおろおろおろと見苦しかったやろうが、あれでも本当に心底からいたましく思っていたのだ」
「承知でござる」
 胸が熱くなった。
「あれはおのれの友でありますから」
 静かな家である。繋がれた馬が土を搔くのを見て、腰を上げた。
「お祝いを申し上げるのが遅れました。憲康殿、おめでとう存じ上げます」
 かたじけない、と憲康は冠の縁を撫でた。
 この家はいい匂いがする。
 なんとなく気が晴れた。
「では」
「ところで季正殿」
 はっと憲康の声が変わった。
「遠回りしたが、貴殿に少し、力添えいただきたいことがある」
 仲清のことである、と憲康の目が光った。



 佐藤憲康の屋敷を出てまっすぐ、三条大宮を東へ行けばおのれの屋敷だったが、ちょうど辻の手前で荷車が往生していたので、季正はそのまま西へ折れた。
 そのまま道なりに延々と進めば常盤である。相変わらず、天神川より向こうは道だか溝だかわからないような有様だ。その辺りに生えている草は、どれもあんまり美味くない。
「これは異なり」
 馬を預けて、勝手知ったる常盤の屋敷の門をくぐると、庭先で丸い禿頭が声を上げた。
 ちょうど屋敷を辞去するところであったらしい。手にした笠をぶんぶんと振った。
「なんとこのような奇遇があるとは。仏縁であるな」
 南無阿弥陀仏、と合掌された。
「御坊……」
 季正は呆れた。
「そのお声、もしや」
 丸長殿、と季正の声を遮るように、柿色の僧形が南無と唸った。
「空仁法師である」
「はあ」
「空仁法師である」
 相変わらず丸い。髷も冠もないが、それでわかった。
「空仁法師殿」
 丸いですな、と言うのも憚られて、季正も南無と拝むと、丸い法師はうれしそうにした。
「奇遇であるな、季正殿」
「左様で」
 中大臣清長である。つい先頃まで伊勢の神祇官を務めていたはずの男である。
「御宗旨を変えられたのでござるか」
「仏性は万物に宿るゆえ、浮世の些事が純な発心に何の障りのあるものか」
「ないのでござるか」
「ない」
 感心した。
「それはいい」
「慈悲である」
 末法の世である。
 中大臣の家は、代々都に在して伊勢の神事を取り仕切る祭主の地位を務めていたが、それが揉めた。揉めて揉めてどうにもならず、埒があかぬと伊勢に出向いた当主が、わけもわからぬうちに人殺しで訴えられた。根も葉もないことである。しかし、神は仏よりも血に厳しい。権大副従四下、中大臣公長は神事への供奉を差し止められた。清長の叔父である。清長の父、定長は次代の伊勢神宮祭主として公長の養子に入っていた。何事もなければ、いずれこの男の上にも権大副従四下、神宮祭主の地位があったであろう。
 すべては無に帰した。
 中大臣の難儀は都の耳目を集めた。そしてどうなるか、と続きを聞かぬまま、今になった。
 遁世したのか。
 驚いた。
「して」
 話が途切れた。
 今日はおのれの幼連れに会いに来たのであって、遁世した知人と何を話すかなど心得ていない。季正は困惑した。
 気詰まりである。
「おっ」
「——頼業!」
 聞き慣れた声に、思わず縋ってしまった。
「いかにもこれなるは先年没した正四位下木工権頭兼丹後守たる常盤の藤原為忠が第四子、藤原頼業である」
 この男、おのが友ではあるが、相変わらずふるまいにぎょっとする。
「ちなみに兄は上から順に為盛、為業、為経であるが、本日は権大納言家にて歌合である。姉も妹も嫁に行き、弟は女のところへ夜這いに行った。よってここには誰もおらん、あはは」
 高らかに宣言すると、南無、と二人に向けて手を合わせた。南無、と空仁も生真面目に拝み返している。丸いのと細いので、たぬきといたちが向き合っているようだ。頼業は細い。
「まあ、季正も上がれ。空仁和尚も戻られよ。今宵は泊まれ」
「かたじけない」
 何が何だかわからないが、頼業は超然としている。季正は不安になった。
「頼業、おまえ、義清のこと聞いたか」
「聞いた」
 歌詠みの鑑のような張りのある声である。
「語ってやろう」
 思わず、かたわらの和尚を見た。空仁は柿色の衣の袖で涙を押さえている。
 緊張した。
「言葉を選べよ、頼業」
「アホウ。二十二の歳にもなって右兵衛尉の武官風情が将来の壱岐守を何と心得る」
「うるさいぞ代々生田舎の藤原が」
「あっはっは」
 頼業が奥に向かって叫んだ。
「源氏の御曹司は田舎の飯はいらんらしいぞ。和尚の分だけ出してやれ」
「あっ」
「ありがたし南無阿弥陀仏」
「あっはっは」
 奇矯な人間である。おそらく、義清と季正と、三人の中で一番たちが悪い。
 しかし、頭が切れる。
「飢えて死ね」
 物騒なことを言って、頼業は最前まで籠もっていたらしい持仏堂の扉を開け放った。
「上がれ」
 香の匂いがした。
「聞かせてやってくれ、空仁殿」
 友の話や、と冠の陰でわずか、頼業は顔を歪めた。



 夜が更けた。
 神仕えの一族だという割に俗な印象の男だとは思っていたが、法名を得てもさして中身は変わらぬらしい。
 空仁は勧められるまま杯に二三の般若湯を重ねて、餅と味噌と芋も食った。頼業がどじょうの汁をすすった時には、あからさまに喉を鳴らした。美味そうである。
 出家の前で平然とどじょうを囓って、頼業は椀を返した。
「美味いな」
 結構なことである。
 なんとついぞ季正の前には膳が据えられなかった。空腹である。憲康の屋敷で相伴に預かった瓜の味が思い出された。
 腹が鳴る。
「幼の亡骸を前に枕経とは、さても世にない哀れさに愚禿の胸も破れんばかりであった」
 法師はもう何度目か、乾いた杯を舐めた。
「悲しい」
 吐き出される息に、こもった熱があった。
「真実悲しい」
 鼻を赤くしてすすり上げる。
「んあ」
 まだ髷を蓄えていた頃のくせが抜けぬらしい。空仁は冠を直すようなしぐさをして、指先をおろおろと宙にさまよわせた。
「枕経なあ」
 頼業は下戸である。いつ注いでやるのかと見ていれば、ようやく思い立ったらしい。行燈油でもあるまいに、酒がどぼどぼと甁子の先から杯に落ちる。
「かたじけない」
「ええよ」
 頼業は妙にやさしい声を出した。
「かたじけない」
 空仁は杯の面を鏡のように見つめ、クッと喉を鳴らした。
「悲しい」
 杯を持つ手が震えていた。
「真実に悲しい。この度ほど、おのれでおのれの不出来が口惜しかったことはない」
 波立つ面にしずくが立つ。
「情けない」
 男は、ぼつぼつと涙を落とした。
「あの子にもっといい経を読んでやりたかった」
 頼業は黙って田螺の殻を噛んでいる。
「遁世、発心などとは言うが、髪を下ろす前と後で何も変わらん。なんにも変わらん。なんにも変わらんということがおのれでこれほど空しく思われたことはない」
 空仁は熱く悲しみを吐露した。
「なぜ真摯に行を積んでおかなんだのか」
 季正は目の前の男の様子に呑まれた。
「世に思うことあり、発心して日が浅いとは言え、たった一日でも、ほんのうつろいの間だけでも、せめて師に付き、御仏の前に伏して、わずかばかりでもその大慈悲心におすがりする法を学んでおかねばならなかった」
 酒はこぼれて、男の腕を伝った。
「ああ」
 とめどなく悲しみが出る。
 この男は、もはやおのれの知っている男ではないと思われた。
「なぜそんなことはないと言ってやれなんだのか」
 空仁は心からの悲嘆を発した。
 薄く燈明が暗闇を照らす。
「……仲清がな」
 聞いたらしいんや、と頼業は立て膝に顎をついた。
「まあ、別に読経の上手い下手はええやん。ちゅうかまず上手いわけがないやん。そもそもほんまは生まれてくるのが遅なるっちゅって子供には弔いをしたらあかんにゃて言うやろ。やから仲清もこのほやほやの和尚に駆け込んで行ったわけやんか」
 ほんまのお経を読まれたら困るから、と友の声が滲んだ。
「でも、辛いやん」
 わずか、その声が湿った。
「それでもまあ、つっかえつっかえでもお経は読めたんやって。一応出家やから。途中から家のじいさんが先導してくれたらしいけど。年寄りはさすが送ってきた数が違うな」
 空仁は岩のように唸った。
「やけど、仲清はな」
 ため息に紛れた。
「あいつ芯からあんなんやろ」
「真面目やな」
 燈明の穂明かりが揺れる。
「季正殿、侍の家の心というものは、あのように切ないものなのか」
 その表情に、虚を突かれた。
 すうっと何かが抜けたように、法師の姿が霞んだ。
「問われたのだ、彼に」
 見知っていたはずの男の顔に、異様な陰影がぬらぬらと涌いた。
「死んだ子は何の罪も犯しておらぬゆえ、必ず浄土へ行くであろう。であれば、この子は浄土で親を待たねばならぬかと」
 頼業は口を利かなかった。
「動転していた。冷静のことではなかった。けれどもおのれのおろおろの心の内を知られまいとおれは言った。いや姪御は幼いゆえに、じきにこの世へ立ち戻ってこよう。たとえ浄土の蓮のうてなに生ずるとも、瞬きの間であろうと」
 息が詰まった。
「すると」
 季正は魅入られるように男に引き込まれていた。
「すると彼はよかったと言った」
 なぜか剃髪の入道の姿にかぶさるように、有冠の頃の男の姿が映された。気弱で、軟質の、丸い姿の人間だった。時折、歌の場で引き合わせになることもあった。けれども、特段季正には美点とするところが思い出されず、近々の家の苦難もさして関心を惹かなかった。
「佐藤は代々の武門ゆえ、浄土には誰もおらぬからと」
 誰一人、と仲清は言った。
「佐藤は敵を殺して成り上がった殺生の家であるから、この十代、誰も浄土の露を受けた者はないだろうと」
 仲清は、目を悪くした。幼い日、いっそ仏門にという話もあったと聞く。
「姪が永遠に来もせぬ親を待つような苦行を受けるかと思うと哀れでならなかったが、じき現世へ立ち戻ってくるのであれば幸いである」
 鉄を嵌めたようなまなざしが季正を見た。
「いずれ地獄で会えますな」
 堂は、閉ざされて暗かった。その中で炎が高く燃えた。
「季正殿は源氏であったな」
 そうや、と頼業が低く答えた。
「侍とは、かくも哀れなものか」
 しばしして火が消えて、持仏堂には光が絶えた。
「……さて」
 暗い。
 いつの間にか、空仁の寝息がしていた。
「おれらも寝るか——季正」
 眉間のしわが戻らなかった。
「その顔やめえアホウ。老けて見えるぞ」
 口の中が苦い。
「ほっとけ」
 返す声が涸れた。
 義清んとこもな、と軋む廊下を踏む。
「男二人やからな。もっと兄弟がいたらよかったんや。男でも女でも、もっと数がいたら嫁でも婿でもやったりもらったりして身内ができたやろ。見ろや。うちなんか男だけでも五人もおるぞ。おまけに姉も妹もおる」
「結構な話やな」
「まあ、おまえは誰もおらんけど」
「はは」
 一人である。父も母も疾うにない。小さい屋敷だけが残って、季節ごとにこちゃこちゃと小さい花が咲いた。
「寂しいか」
 あまりそういうことを言う男ではない。
「うん」
 素直に声が出た。
 屋敷に帰っても何もせぬから、埃が溜まるばかりだ。母屋には何もない。本当に何もない。「がらんどうやな」
 そうか、といくつか戸口をくぐった。厨である。
「裏の家人の家の方が賑やかや」
「ああ、あのおっちゃんらな。元気か」
「おかげさまで」
「まあ、おれなんにもしてへんけど」
「ほんまやしな」
 父母の頃からのものを片付けた時には、全てが明るかった。そのまま、誰も戻らぬまま、日が暮れ、年が暮れ、月の影だけが埃の床を移ろっていった。
 ああ、夜も明るいんやな、と思った。
「おい、なあ、なんか食わしたろっか」
 驚いた。
「うそやろ頼業」
 がたがたと冷や飯の櫃を引っ張って、頼業が睨む。
「おまえおれのことなんやと思っとんにゃ?」
「友よ」
 すんなり声が出た。
「友よ、おれらは」
 格子からの月が、友の顔をまだらに照らす。
「……そうか、友か」
 ぱち、ぱち、と瞬きをした。そうしていると、彼の母の面立ちによく似ている。
「もう随分お目に掛かってへんが……母君はご健勝なんか?」
 月が傾いている。遠く西の山で小牡鹿が鳴いた。
「花園におる」
「今も待賢門院様の女房をお勤めか」
「せやな」
 しばし沈黙があった。
「……仲清か」
 頭のいい男ではある。
「佐藤は宗家の次男の官位がほしいんか」
 頼業は首を振った。
「無理や。佐藤はもうこの先の官位が買えるだけの金はない」
「そんなことあそこん家の者は重々骨身に沁みてわかっとるやろ」
「まあな」
 義清は十八でようやく兵衛尉に除せられたが、その前に十六の時に内舎人の任官を申請して蹴られている。成功の不足をあからさまに告げられたと、義清が言っていた。
「平家が頭を出してから、もう今までの成功では通らん」
 任官にあたって、自らの所領から私財を寄進することを成功と言う。それは単に米や金銀だけでなく、寺だの建物だのの普請を負うこともあった。頼業の父も、二条堀河に御殿を建て、堂を建て、三条烏丸の御所を造進した。
「苦しい」
 佐藤の預所は紀伊国田仲庄にあった。
「足りん。平家が増えよる。それを押しのけるほどの財力はもうどこもない」
 季正はおのれの膝を撫でた。
「おまえんとこでもか」
 頼業は笑った。
「なんのためにうちの姉が平忠盛殿に嫁いだと?」
「……すまん」
 頼業の姉は、黒々とした文字で快活な歌を詠む人だった。
「いや、別にええねんで。本人は熊野詣が楽しいらしいし。ええ縁組みやって」
 火に掛けた湯が煮える。
「一昨年か。義清のおっちゃんが死んだやろ」
「……頼業」
「しゃあないやん」
 頼業は義清の父の死を事もなげに語る。
「あれ殺されたんやろ。田仲で。刺されたらしいな」
 ため息が出た。
「頼業、言葉を選べ」
「しゃあないやん。おれ帳面専門の役人やぞ。ほっといてもいろいろ見るやん」
 無理したんやろな、と頼業の声に嘘はなかった。
「義清はようやってるで」
 外を風が捲く音がする。
「ようやってんにゃ」
 ただ、時勢がもう別の方へ傾いている。
「乱れとるわ」
 頼業は淡々と櫃の飯をすくった。
「そもそも義清も院の北面やろ。その佐藤憲康も、自分らこそ鳥羽院の北面なんちゃうんか」
 ため息が出た。
「あほたれ。北面にも上と下があるのを知らんのか。上北面なら御殿やが、下北面は築地の長屋やぞ。おまえは平家の公達を見たことないんか」
「あ、なるほどな。清盛殿は上北面か。おまえらとは違うわ。煌々しとる」
「おれら六位の兵衛尉と従四位下の肥後守を一緒にするな」
 ふうん、と頼業が飯を盛る。箸と椀を受けて、季正はあぐらを組み直した。
「まあ、おれも六位やけど。憂き世やな。生まれた年は同じやっちゅうのに、めでたくも清盛殿は肥後守に中務権大輔もご兼任や。平家万歳」
「言うても次おまえは六位蔵人で殿上やろ。そしたらすぐに従五位下で壱岐守で受領やろ」
「おっ、おれも煌々してるな」
 頼業は自嘲した。
「それはいいから。なあ、頼業。おまえ、姉上様はどうや。その煌々の平家の棟梁に輿入れしたんやろ」
「姉上様なあ」
 季正は冠の下に箸を差し入れた。渋い顔で髷をほぐす。
「言うても平忠盛殿の妻とは言え、正室は藤原宗子様やからなあ。姉は子もまだやし。ていうかそもそもねえちゃんおれのことめちゃくちゃ嫌っとるし」
 呆れた。
「おまえが人にやる文に虫をはさんだからやろうが。謝ってこい」
「いやや、どつき殺される」
 未だに季正はこの家の風を捉えかねている。
 それにしても、と季正は足先を擦った。冷える。ついこの間まで紅葉が残っていたと思ったのに、朝夕、西山の方から丹波の霧が都へなだれ掛かるのが見える。
 冬か、と衿を寄せた。
 息が白い。
 冷や飯に、塩と湯とをかけると、ほっと肩が緩んだ。
「寒なってきたな」
 頼業は不足そうに口を尖らせた。
「ふん、そういうことがわかるようになってきたかアホウ」
「なってきた」
 頼業が飯をすする。
「ようけ食えよ」
 割にやさしい男ではある。
「心配したんや」
 常盤木の林を月が移る。
 頼業は自分の爪をいじった。
「去年の夏からずっと、おまえ息してへんみたいな顔してたからな。冬の間に枯れて死ぬと思てたわ」
「はは」
「誤魔化すな」
 蹴られた。
「ほんまやぞ」
 直情な男である。
「なんやねん」
 湯漬けを食いながら頼業が唸った。
「なんやねん。おまえら地獄やったらほんならおれだけ浄土か。おまえらどっちも地獄でおれだけ浄土か」
 がぶがぶと飯を食う。
「そんなことないやろ。仲清も勤めに出てみろ。ようわかるわ」
 全員地獄や、と頼業は断言した。
「侍も文官も関係あらへん。あんなもん全員地獄じゃボケ」
「荒れとるなあ」
「乱れとるんや」
 乾いた米をかちかちと噛んだ。
「さればとよ、やからな」
「見るみる人のおちぞ入る」
「おほくの穴の世にはありける」
「佐藤兵衛尉義清」
 二人して友の詠んだ歌を諳んじて、なるほど、と無心に椀を空にした。
「そもそも穴てなんやねん」
「いや、義清はなんも考えてへんやろ」
「考えてへんのかい」
 頼業は塩を舐めている。そのままぼんやり月が格子の間を移ってゆくのを眺めた。
「開子が」
 死ぬとは思わんかった、と頼業は呟いた。
「まさかなと思ったわ。いきなりあの丸長が坊主頭で来たと思ったら、義清の娘に枕経を上げてきた。おのれの不徳を思い知った。法輪寺に修行に参るて言うねんで」
「……おまえ、空仁殿から聞いたのか」
「そうや、昼や」
 空の器に月影が映る。
 言葉が切れた。
「鳥羽院はな、そういう話お好きやからな」
 椀の縁を撫でる。
「女院の耳にも入るやろ」
 頼業は、本当に切ない顔をしていた。
「誰や、あれに入れ知恵をしたのは」
 季正は昼間訪れた屋敷の様子を思い出して、目を伏せた。



 翌朝、空仁は常盤の屋敷を発った。
 聞くと、やはり嵐山の法輪寺へ参籠して庵を結ぶと言う。
「法華経を学ばれるのでござるか」
「然り」
 法華経は、人は皆仏に成れると説くと聞く。
 笠を傾げて門を出た空仁は不思議と美しい顔立ちをしていて、季正は自然と手を合わせた。
「有り難うございます」
 その姿を、空仁は眩しいものでも見るように拝んだ。
「和尚」
 烏帽子が歪んでいる。片手に衣の包みを持っていた。
「これより冬である。常盤も冷えるが嵐山はなおさらや。供養と思ってこれ持ってけ」
「いや、入道の身にそのような」
 ええから、と頼業は目を擦る。あくびをした。
「……親父のなんや」
 だいたい頼業は寝起きが悪い。それがぼそぼそと湿った声を出した。
「父、為忠も入道の志はありしが、生前それを果たすこと叶わず。されど浄土への思い断ち難く、あさましながらいずれの日にか仏弟子となりて法華経を三昧に学びたいとの心あり、生前このように一式墨染めの衣を誂えおりし物である——よって俗人には無用」
 突き出すように空仁の胸に差し出した。
「寒いから。いらんかったら燃やしたらいいから。あったかいから」
「燃やすて」
 空仁は笑った。
「ありがたし、頼業殿」
 その日はよく晴れて、初霜が降りていた。
 空仁は暁天の下を西へ向かった。
「すぐに煙が上がったらどうしよ」
「アホウ」
 うそやって、と笑う友に見送られて、季正も常盤の屋敷を辞した。
「なあ、季正」
 馬上から振り返ると友の姿がなおのこと細く見えた。頼業は母親に似た。
「おれは開子のこと、義清から聞いてないからな」
 念を押された。
「わかった」
「義清は無二の友たるこの藤原頼業にも我が子の死を秘したんや」
 白い歯が唇を噛んだ。
「立派やないか。子の死の知らせを受けて尚いささかも気色に出さずに矢を射て、しかもそれを外すことがなかった」
「立派な友や。誇らしいな」
 弓の弦を鳴らすのを、鳴弦と言う。
「さすが重代の勇士の家の男に相応しい物語ではないか」
 季正は鳥羽のある南の方を眺めた。
「じき鳥羽院のお耳にも入るであろう」
 あの日、義清はずうっと弓の弦を弾いていた。
「——では」
 西の山に背を向けて、黙って東への道を辿った。
 それきり義清には会わなかった。代わりにその名をよく聞いた。
 そうしてかつがつ、雪になった。
 雪になった。



 年明けの前に生まれた子は男であった。
「安産を言祝ぐ」
 めでたし、といくつか産養の宴を張った。
 三日目の夜には問口の役と云口の役が、ぐるぐると屋敷を回ってまじないをした。
「この殿には夜泣きし給ふ姫君やおはします」
 啜粥という。
「この殿には、夜泣きし給ふ姫君も、これより東に谷七つ峯七つ越へてこそ、夜泣きし給ふ姫君はおはしますなれ、この殿には——」
 じんわりと手足が冷えた。
「この殿には、命長くつかさ位高く、大臣公卿になり給ふべき若君ぞおはします」
 霜が降り、露が凍り、紅葉が朽ちた。
「されば」
 一人目の時も、二人目の時も、同じまじないをした。
「されば甲斐の国鶴の郡に作るてふ永彦の稲の粥、永く啜らむ」
 甲斐の国、鶴の郡、永彦の稲。捧げ持った器の中身は、何一つまことのものではなかった。
「めでたし」
 もし、と思った。
 もし一つでも詞通りのまことのものであれば、真実に効果があるのだろうか。
 もはや最初のまじないは、遙かに遠い日のことのように思われた。
 これをすれば夜泣きをせぬようになると聞いたけれども、開子も永子もわんわんと泣いた。朝も昼も泣いたが、夜も泣いた。二歳と少し開いていたのに、開子が泣けば永子も泣いたし、そうでなくともよく泣いた。おもしろいように子は泣いた。
 なのに、一人になってから、永子はふっつりと泣かなくなった。
 時折、短い声を上げて、姉を探した。
「義清殿」
 めでたし、と祝いの物を受け、言祝ぎの文を返した。
「子はすぐに戻ると申しますな」
 まことでござる、と返した。
「ありがたい」
 幻の中で、幻の夢を見ているようであった。
「ますます御一門に弥栄の誉れの輝かんことを御祈念申し上げ」
「かたじけのう存じます」
 幻の中でも、冬は冷えた。
 いつの間にか、年が明けた。
「……戴子」
 風のない日は、雪が降った。
 妻は息子を乳母に任せたまま、娘を抱いて離さなくなった。
 口も利いたし、飯も食ったし、床上げをする前も後も、同じように一続きに見えた。
 けれどもなんとなく、火が失われた。
 陰影のない明け暮れがぼんやりと続き、屋敷はがらんどうのまま設えだけが変わった。
 永子は知らぬ間に歯が生え、やわらかい顔で短い言葉を話すようになった。
「うふ」
 年が明けて、数え二つになった娘は、転けつ倒れつで屋敷のあちこちをよちよちと回った。
「うーふー!」
 そして癇癪を起こしてはまた転がり、戴子に抱かれては癇癪を起こした。
「うううう——!」
 長男は、隆聖という名になった。
 乳の時だけ戴子の腕に抱かれて、後は籠の中で眠っていた。
 開子も永子も、戴子の乳を飲んで育った。細々とした世話は兄弟の乳母であった夫婦が助けてくれていた。けれどもさすがにもう乳は出ないと言うもので、義清は探すからと止めたが、戴子はおのれの乳を含ませた。その姿に義清と仲清が震撼した。
 乳を飲ませると女は痩せる。痩せれば病みやすく、病めば弱る。
 死ぬ。
 兄弟は奔走した。
 義清は、ぬくいもの、甘いもの、やわらかいものと、とにかくやたらとものを焼いて妻に寄越した。仲清は仲清で、義姉と姪の喜びそうなことに全力を尽くした。
「ありがとう」
 戴子は笑っていた。
「私らは大丈夫やからね」
 妻はそう言って、娘らをあやした。
「からねえ」
 娘が妹を抱いて笑う。
「えい、かわいいねえ」
 ね、と開子がにこにこと妹に頬をつけて笑っていた。
「おとうさん、かわいいね」
 胸が潰れるほどいとおしかった。
「大丈夫やからね。私らは大丈夫やからね。心配せんでいいからね」
 夫と、義弟と、二人の怯えが哀れだったらしい。
「大丈夫やで」
 幼い頃からほんのりと近く、友のように一緒になった。
 戴子は、貴族の出ではない。頼業の常盤の屋敷近くに住む子だった。
 ある日、村方からぴいぴいと鳴る麦笛の音がおもしろく、頼業と季正と三人で笛の主を探しに行った。頼業はその子を見つけたら笛を奪おうと言ったが、季正は皆で技を習おうと言った。おのれはただなんとなく、ずうっと横で見ていたいと思った。こんなにいろんな音を出すのであるから、きっとそのやりようもいろいろで、見ていて飽きぬだろうと思った。
「あ——っ」
「あっ」
 男ちゃうやんけ、となじったもので、頼業は思いきりぶたれた。季正が慌てて詫びたが、いーっと歯を見せられて逃げられた。義清はその子の笛が見たくて追いかけた。どうしても見たかった。きっと不思議な工夫のある笛なのだろうとわくわくして、驚いた。
 その手には、たった一本、美しい麦があった。
「……わあ」
 惚れた。
 それきり、何もかも、憂き世のすべてを共にした。
「戴子」
 歌はただ三十一文字の墨でしかない。
 けれども、その墨の跡が、狂おしいほどに輝いて胸を打つ。
「たい」
 命の筋を楽と言うなら、心の筋を歌と言う。
 青い麦の中を通り、黒い墨の裏を通り、この世の奥を流れてゆく。
「かいがいてよかったな」
 うん、と戴子の声がした。
「あく——」
 永子が姉を探しているのはわかっていた。
「む——」
 やっと呼べるようになったのに、姉がいない。
 あんなにいつもそばにいたものを。
 永子は、姉がいないと言って泣いた。
「あ——」
 声を上げて泣いた。
「ごめんね、ごめんね」
 身を反らして泣く娘を抱いて、戴子は震えていた。
「ごめんね、ごめんね、かい」
 雪は、深くは積もらなかった。けれども何度も降って、その度消えた。
 そしてその雪は、娘の亡骸を埋けた塚の上だけ、まあるく解けて、積もらなかった。まるで娘がひとりそこに立っているように、まあるく残っていた。
 それは無限に涙を誘った。
「……大丈夫やで」
 義清は妻を抱いた。
 永子がむずがって母の衣を掴んでいる。
 寝間に射し込む月影に、息子の眠る籠が見える。
「大丈夫やで」
 連れてくる、と義清は息子の体を抱き上げた。
 やわらかく動く小さな爪は、なつかしいにおいがした。
「ごめんね、ごめんね」
 戴子の涙が胸に流れた。
「ごめんね」
 息子は、そのいちいちが全て娘たちに似ていた。
「でもああ違うなって思うの」
「そうやな」
 隆聖は泣かなかった。
「違う子なんやね」
 泣きはする。泣きはするけれども、なぜか、ふっと最初の声を出す前に、ふわふわとなにかがくちびるに触れるようなしぐさをして、口を開けた。ああ、と思った。永子がよくそのしぐさをしていた。妹が泣きそうになると、開子が父の真似をして、妹のくちびるをちょんちょんとつつく。すると永子は口を開けて笑った。
 遊んでもらっとる。
 義清は、それを見た時に、ああ、開子は死んだんだな、と思った。
 もう帰って来ないのだと、じんわりと胸の中に満ちた。
 四つだった。
「寂しい」
「でも、いっしょやね」
 うん、とその夜見た夢はあんまり明るくて、喜びも悲しみも、同じくらいせつなかった。



 憲康は咳をした。
 相変わらず背の高い男であったが、咳をすると縮む。
「どうされた」
 季正の問いを制して、憲康はしばし袖の内側で咳いた。
「窶れでござるか?」
 いや、と憲康は息の乱れを整えた。
「そのように窶れなどというほど励んでおらん」
「はは」
 季正は笑った。
 年が明けてしばらく、佐藤の屋敷に知らせの使いが来て、仲清の官途が決まった。
 従一位、関白藤原忠通卿の随身である。かつて兄義清が随身を勤めた正二位、権大納言徳大寺実能卿をも飛び越えてのことであった。この世の人の身での官位の極みである。
 そして義清も歌を詠んだ。
 うらがへす小忌の衣とみゆるかな竹のうれ葉にふれる白雪、と土御門の里内裏に侍りし折りに楽人の神楽を見てのことであるらしい。青と袖と白と葉と、雪と鈴と神楽と舞とと、頼業に言わせれば、やかましい歌、であるらしかったが、季正は好きだった。頼業は単に葉室顕広が義清の歌を褒めたのにすねているのだ。頼業は本当に顕広が好きである。
 いい歌だと季正は思う。
「お母上も嫁御前も、お変わりないご様子でありますか」
「ないない。二人ともはじけるような具合だ」
「左様で。それは憲康殿のお疲れも無理もない」
 憲康もまんざらでもない顔をしている。
「残念。今が夏であれば籠にいっぱいの蟹を拾って届けさせましたのにな」
 結局、憲康から蟹が届くことなく、冬になり、年を跨いで、梅が咲いた。
「すまぬな、季正殿。沢蟹があんなにいつの間にかいなくなるとは、悔いであった」
「秋の果てる時はそんなものです。またじき出ますよ」
 この日、憲康とどこで話したのか、季正は思い出せないでいる。
「どのみち冬の間は岩の陰だの土の中だのにおるのです。春になればまた出て参ります」
 そうか、と笑って憲康は別れた。
「中ですっぽり眠っとるだけなんやったら、蟹にとっては蓮も穴も変わらんのかもしれんな」
 穴、と季正も少しおかしかった。
「——さればとよ」
 行き過ぎる背中に詠み掛けると、憲康は笑って返した。
「見るみる人のおちぞ入るおほくの穴の世にはありける」
 背の高い男であった。
「義清の詠やな」
 蟹の歌やったんか、と憲康は笑った。
「今日これから義清と会うんや」
 明日、二人して鳥羽院の御所で歌の遊びに参ると言う。
「おれは単なる添え物やけど、まあ、うれしいわな。家中で着物の箱がひっくり返っとる」
「はは」
 嫁と、母と、二人きゃっきゃと殿上の着物を選んでいるのだと思うとほほえましい。身丈のある男は濃い色の着物がよく似合う。
「おめでとうござる」
 憲康は照れたように頭を下げた。
「ありがとう」
 さらば、と間際の声が、妙に印象に残った。
 紅梅が咲いていた。芳しく香って、目の裏に色を留めた。
 佐藤憲康が死んだのは、その夜だった。



 朝、目を覚まさなかったのだと言う。
「……何や」
 訪い慣れた七条大宮の屋敷の前は、集った人が往来を塞ぐほどであった。
「何事か」
 愛馬の鼻先を人垣に差し入れるようにして、義清は人だかりを乗り越えた。
「憲康殿、これは一体」
 何が、と軒をくぐった瞬間、哀叫が耳を劈いた。
「……は」
 義清は己の口を押さえた。
 魂が、切れる。
 何事でござる、と皆が殿中を振り仰いだ。
 じき、春である。
 光は長くこの世を照らした。
「——殿は」
 その階に、ふと、影が差した。
 暗い。陰陽の逆転に義清は総毛立った。
 梅が紅に匂い立つ。
「殿は今宵、寝死にに死なせ給いぬ」
 女の声が地獄のように鳴り響んで、満ちた。
 佐藤左衛門尉憲康、二十七。
 妻を十九、母は五十余であったと、後の日に聞いた。
 義清は、目の前で崩れ飛ぶ女を前に、それを支える者が誰もないことに驚いていた。
 誰もない。
 本当にこの世に誰もない。
 憲康の他には。
 目が裂けた。
 漆黒の口を真っ赤に開けて、妻が苦しみに泣いている。母はおろおろと息子の亡骸に寄りついて、しきりと胸を押さえて子供にするように名を呼んでいる。
 背の高い男であった。
 義清より四つ年長の同族で、よくよく家の苦労をしてきた男だった。
「ああああああああああああ」
 女は崩れて紅と墨とを流した。
 老母は見る間の隙にも小さく縮れて消えてゆく。
「ああああああ」
 義清は、一心にただひたすらにおのれの魂を南無と留めた。
「あああ」
 十九の女は、春の日の中に、逆さに体をぶちまけた。
「——なにを」
 止める間もあらばこそ、ぎらりと光がその手に見えた。
 鋼。刃。
「待て」
 衆人環視の白昼に、女はおのれの髪を根元から断ち捨てた。
「お供致します、憲康様」
 ざんばらに黒髪が散って落ちる。
 義清の歯が鳴った。
 がち、がち、がちと鳴って、ただただ震える両手を合わせて南無阿弥陀仏と地獄を拝んだ。



 鳴弦の音が道の光を吸った。
 三条大宮の自邸から、佐藤憲康の屋敷まで、四条、五条、六条と大路を渡って、まっすぐに着いた。七条大宮の辻は、何もかも息吹の絶えたように閑散としている。
「——鎌倉二郎源右兵衛尉季正である」
 まだ日は傾いてわずか、鳴弦の音だけが光を吸って重い。
「この度は」
 鈍色の衣の男が頭を下げた。
「……しばらく見ぬうちに立派になったな、仲清」
「はい」
 秋に見た庭は霜も雪もなく、ただ平らに春を待っていた。
「この度は遙々故人の弔いにお参りくださいまして、まことにありがとう存じます」
「何を。おまえこそ」
 かけてやる言葉が見つからなかった。
「……すまぬ」
 鳴弦の音が響く。
 どの男も特別に美しい弓を持っていて、ああ、佐藤だな、と思った。
 今日この日の葬儀は、また都の人々に多くの墨と紙とを使わせるであろう。あの秋の終わりのこと以来、佐藤の武勇は宝珠のように人々に珍ぜられた。兵馬、刀槍は言わずもがな、何より弓が望まれた。
 重代の勇士の血脈である。
 それを憲康の死の物語が彩った。
 今日この日、静まり返った表の通りから隠れて、屋敷の裏には、びっしりと人々が集っている。びっしりとだ。屋敷の土塀、芝垣、乾いた溝の底まで、びっしりと人間が集っている。
 低く、念仏の声が満ちている。
 皆、西を向いて手を合わせていた。
「まだ日があるな」
 ええ、と仲清は目を伏せた。
「皆、日没を待っております」
「そうか」
 春が近いのだ。
「して、憲康殿は」
「兄がお体近くについております」
 鈍色の喪服は金色の光を弾き、仲清の姿を美しく見せた。
「そうか」
 西山に掛かっていた霞が晴れ、斜陽が季正の目を射る。
「ならば何も案ずることはないな」
 では、と一層高くなる民衆の念仏を聞きながら、薫香に混じるにおいを吸った。
 もう、しかばねなのだな、と奥の間を抜けた。
「これなるは鎌倉二郎源右兵衛尉季正と申す者にてござる」
 通された先の部屋は、ことごとく全ての調度が逆さにされ、うらうらと床の照り返しに光っていた。
「此度、常日頃見知り置きたる佐藤左兵衛尉憲康殿、不意のことにて身罷られたる由を聞き及び、遅れながらこれこのように参り馳せ参じたる次第にてござる」
 色とりどりの衣が、部屋中に掛け巡らされていた。
 赤色、青色、濃い緑の色。上物も薄物も何もかもが全て花のように故人の死の床を飾っていた。成人の葬儀の風である。仕舞う物を出し、立てる物を逆さにする。
 その中に墨染めの色のないのを見て、季正は憲康らしいと目を細めた。
 憂き世に背かぬ男であった。
「かんばせ、拝して構わぬか」
 斜陽である。
 射し込む落日を背にして、友が青朽葉の衣でそこにいる。
「是非とも」
 義清の声を聞くのは久し振りだった。
 差し出された燈明の火が揺れる。その火先越しに、薄青い陰が見える。
「焼くのか」
 翳した炎は、主の喉元に来ても揺れることはなかった。
「焼く」
 義清は言った。
「埋けんのか」
「埋けぬ」
 鳴弦の音が薄暮の光に満ちる。
 屋敷を囲む念仏の声が大きくなり、季正は手を合わせた。
 屋敷の外の人々は、皆、病の人であった。身の病、傷の患い、心の苦痛、皆一様に手を合わせ、西へ頭を垂れていた。
 佐藤は重代の勇士である。
 その弔いの日に鳴る弓弦の音が、生者の憂いを払わずにおくはずがない。
「南無阿弥陀仏」
 佐藤の弓は魔を破る。
 縁を跨いだ外の法師が、嗄れた声で仏を拝んだ。丸い禿頭に覚えがあった。
「……空仁上人殿であるか」
 薄い柿色の衣の姿に面影はあれ、一心に経を読む声は秋に常盤で別れた頃の名残はなかった。割れ果てて掠れ、真に仏弟子の行の厳しさが刻まれていた。
「ありがたい」
 我知らず、頭が下がった。
 大智徳勇健、化度無量衆と読む声は、たとえようもなく故あるものに聞こえて、季正の胸に沁みた。
「しゃあないよなあ」
 左兵衛尉義清は重代の勇士である。
 家富み、年若く、心愁えることもない。
 弓馬の技に優れて妻子もあり、鳥羽院の側近くに仕えて歌詠みの心を愛された。
「義清」
 そして、おのれの友であった。
「寂しくなるな」
 うん、と友は素直な声を出した。
「でもあの世に経文が届くんやったら、歌も一緒に届くやろ」
「はは」
 届くかな、と季正は笑った。
「まあ、言われたらそうかもしれん」
「うん」
 長く残照が伸びる。
 しばしして義清が口を利いた。
「何もかもこの世の紙に墨染めの筋を残せる業に変わらじ」
「う——ん」
 二三度瞬きをして、三十一文字を宙に描いた。上五が凡庸、上七にはもっと相応しい雅語が探せるだろう。結句の変わらじは別の字に開いてもいいかもしれない、と考えながら、季正はぽかんと肩の力が抜けた。
「はは」
 じきに春。
 蟹も蓮も冬は皆同じ土の中にいる。
「その歌、なんか詞書いるか」
 頼業は怒るだろうな、と思いながら季正は義清の顔を見た。
「やめろ、あいつの判は厳しい」
 そう言うと、義清は急に不安な声を出した。
「頼業には言うなよ」
「はは」
 笑って、涙が出た。
「憲康殿は埋けぬのか」
「埋けぬ」
 義清は言った。
「霊は父祖と同じ深みに落ちるとも」
 金色の光が射して照る。
「焼けば体は西へ行く」
 一際鮮やかな衣に、夕日が映えた。
 紅梅の色である。
 一枚それがひるがえり、西の山路に露が落ちた。



 のち、その年の夏、源季正は仏道に入る。
 醍醐寺理性院流祖賢覚より付法を受け、法名を受けた。
 西住という。
 勇武の声有りて人に知られ、その入寂の際には、かねて志した通り、西を向いて念仏し、少しも乱れることなく往生を遂げた。年の頃、五十六であったと伝わる。
 大原に住む法師が、その時の様子を詠んだ連歌が山家集に残っている。
 法名寂然、俗名を藤原頼業という。
 乱れずと終り聞くこそ嬉しけれさても別れは慰まねども、と詠じた。
 その歌に返し、この世にてまた逢ふまじき悲しさに勧めし人ぞ心乱れし、と一首が残る。
 詠み人の名を西行。
 俗名を佐藤義清という。
 西行はその生涯において西住を同行の上人と呼び、共に多くの旅をした。
 後世の物語に曰く、西行と一双なりとされた男であった。
 西行と寂然は寿永年間までは交流が見られるが、その後、寂然の事績が絶える。寿永元年三月には、賀茂重保が六十を超えた歌人らばかりを集めて、尚歯会という会を催す。この頃、寂然六十五。
 老いて尚歯が生えることを指して、瑞歯という。この会に寂然がいたかどうかは、今日ではもはや知られていない。
 やがて時満ちて文治五年二月十六日。
 釈迦の入滅に遅れること一日、西行法師没。
 七十三年の生涯であった。
 死に際しては、以下の歌がよく知られている。
「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」
 西行の死を悼んで歌を詠んだ人物がある。
 名を藤原俊成。かつて葉室顕広と呼ばれた男である。
 彼は西行を「歌よみ」と評し、その子、藤原定家は「歌作り」と評した。
 鳥羽、崇徳、近衛、後白河、二条、六条、髙倉、安徳と治天の君は移り変わり、鳥羽院の曾孫、後鳥羽上皇は「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出でがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず」と激賞し、「不可説の上手なり」と結んだ。
 もはや今日、彼らの集った常盤の屋敷は跡形も知れない。
 けれども京の都に春の花は咲き、重ねた歌の上に西行の筋が流れる。

西行の筋

執筆の狙い

作者 雷鳥
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佐藤義清(のちの西行法師)の出家前のエピソードを書きました。舞台は平安末期、京都です。

コメント

貔貅がくる
n219100087087.nct9.ne.jp

ざざーーっと最後まで見たけど・・

この内容なら、タイトルは『沢蟹』とかじゃないのかなー??


タイトル『西行の筋』って、てんで意味わからなかったし、日本語としての据わりが悪い。

で、書き出しの
>西行に筋などない。
>まだ、西行もおのれも、俗の男であった。お互いに佐藤義清といい、源季正といった。
からして、どうにもこうにも嫌な予感が 猛〜〜烈にした。

そして、ざざーーっと最後まで行って、「そこ」確認したら、案の定! だった。。


歴史に疎いワタシのような者は、「西行」はさすがに名前だけは聞き覚えあるけど、『西行が、もとは佐藤某なのか源名某なのか?』までは知らない。(知らない人の方が多いと思う)

そういう門外漢がこの原稿見ると、
冒頭記載:「>まだ、西行もおのれも、俗の男であった。お互いに佐藤義清といい、源季正といった。」の記載順で、
『のちの西行が佐藤義清で、物語の語り手:おのれが源季正なのだな?』と推察〜解釈して、読み進めることになる。

なるんだけど、、、
この訳わからんタイトルと、書き出しで、「作者がどうにも信用ならんかった」ので、
直観的に『源季正の方が、のちの西行になるんじゃあ??』と大いに怪しんだ。
ビンゴだった。



序盤の弓引いてるあたりは比較的難なく読めたし、印象は良かった。
でも……
確か一箇所?「的の正鵠を得る」とかなってて、その前後で、台詞の言葉がヘンテコに乱れてて…… そして「死んだ子供の名前と妻の名前の打ち間違い」があったあたりから、一気流し見になった。。

そのへんから、佐藤義清ん家に兄弟が二人出現して、下の子も入り混じって、名前入り乱れて、、、
読者は頭忙しくて大変になる。。


序盤の弓引いてる場面でも、すんげぇ気になったのが、
「しつっこく・ねちっこく念押しされてる、馬の鳴き声」。
あんまりくどくどしく、そして「場面の流れを阻害している」と映ったんで、
『もしかして、弓引いてる最中に馬が鳴くと不吉だとか、そういう迷信なり古事があるのか??』と考えてしまって、
『最後まで見れば、書いてあるのか?』と駆け足で確認。
肩透かしに終わった。


全体に文章が冗長・・だと思う。

>「この前、開子にやれってたまごくれたやろう。あれ、まだ食わしてやってへんかってん」
やれって・くれた・やろう??  で、食わして・やってへん・かってん???

>「頼業にも言っといてくれ。しばらく常盤の歌会には顔出さんへんて」
言っといてくれ、といきなり現代語??  で、出さん・へん・て???

>差し出された燈明の火が揺れる。その火先越しに、薄青い陰が見える。
>その弔いの日に鳴る弓弦の音が、生者の憂いを払わずにおくはずがない。
言いたいことは分かりますが、、、「頭痛が痛い」みたいな、重ね言葉?が多いのかなー。。


あと、序盤の方の肝心なところで、「開子が、生まれてすぐに(1歳未満で)死んだかのような書きよう」だったのが、とても気になった。

1歳児を亡くすのも切ないですが、「数え4歳、かわいい盛りに死なれる」ことの慟哭は、それ以上だと思うんで。

その開子の乳歯に手をかけようとする・・のは、とてつもなく不快だった。要らん! と思った。
そして、姉の開子が死亡時に新生児だったっぽい下の子が「姉の姿を探している」とかゆー下りも、アリエナイんで、、、とってつけた感がひどくて、個人的に不快だった。

貔貅がくる
n219100087087.nct9.ne.jp

あ、ごめんなさい、、誰が誰やらこんぐらがりまくってしまってたんだけども、

・源季正 =法名:西住。
・佐藤義清 =西行。

で、【冒頭の記載順は、ちゃんとしていた】んですねぇ。。失礼しました。


「二十七で死んだという、佐藤憲康」と すっかりこんぐらがってしまって、
上記の……勘違い感想になりました。


自分的には、『主だったエピごとに、章立て』してあった方が、ついてゆきやすいかなー。

現状だと、時系列がとっ散らかっていて、過去エピが ぼぼん! と挿入されてる箇所が平然とあって、
そこでため息つきまくって、集中力がブチ切れたんです。

雷鳥
flh2-133-206-132-160.osk.mesh.ad.jp

貔貅がくる氏

ものすごく苦手そうなのに、ありがとう!
読み返しまでしてくれているのに驚きました。
読んでいる様子が手に取るようにわかっておもしろかったです。
掲載媒体の性質や雰囲気もあるでしょうが、
「紙か画面か」で読み方が変わりそうだな、とコメントを興味深く拝見しました。
とてもおもしろかったです。
まさに「読者」を目の当たりにした気持ちです。
勢いに笑ってしまいました。
読んでくれてありがとう!

雷鳥
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お読みいただいてコメント頂戴できたらうれしいです。
よろしくお願いいたします。

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