作家でごはん!鍛練場
青木 航

竜の軌跡 第四章(歴史小説)

 37.決心

「皆、聞いてくれ! この将門、たった今、謀叛人と成った。成ってしまったものは悔いてみても仕方が無い。最早、この命捨てたも同然。だが、捨てた命なら己の思ったように使いたい。日頃、そう思いながらも、出来ぬと諦めていたことをやる為にこの命使いたいのだ。
 都から遣わされた受領(ずりょう)共が、坂東の民が汗と涙を流しながら生み出した米や布を、都に運び去って行く。それを、日頃、苦々しく思いながらもどうすることも出来なかった。いや、諦めていた。
 だが、命は捨てたと覚悟すると、出来ぬことは無いと思うに至った。
 麿がそれに値する者かどうか皆に問いたい。この坂東から受領共を追い出し、坂東の地が生み出す富は、坂東の為、坂東の者達の為にのみ使う! そう言う政(まつりごと)がやって見たくなったのだ。
 皆も知っての通り、麿は帝の血を引いている身だ。一時坂東を支配し、誰もが喜ぶ政(まつりごと)をこの坂東の地で行い、都の帝に、そのような政が出来ることをお見せしたい。そして、日本(ひのもと)の全てがそのようになるようお願いしたいと思う。
 例えこの身が謀叛人と呼ばれようとも、それまでは麿は死ぬ訳には行かぬ。捨てた命を生きる。
 この坂東を真に坂東の者達のものにする迄は死なぬつもりだ。だが、それは麿ひとりで出来ることでは無い。下総の者、常陸の者。民であろうが、国府軍として麿に対した者であっても構わぬ。麿と共に、この坂東を我等のものとする為に共に戦ってくれる者であれば拒まぬ。皆、麿に力を貸してはくれぬか! …… 
 もう一度言う。
 坂東の富を都から来た者には渡さぬと言う気概を持ち、この将門と共に戦ってくれる者有らば、声を挙げよ!」
 一瞬の静けさの後、将門軍から、
「うおーっ!」
と言うどよめきが上がっただけでなく、運良く国衙に逃げ込めた常陸の農民兵や土豪達の中からも、賛同の雄叫びが上がった。常陸の在地官人の中にも、顔を紅潮させる者が多く見える。
 都から派遣された受領である維幾(これちか)は、部下達までが将門の熱気に冒され、異様な雰囲気が作り上げられて行くのを肌身で感じ、正に失神寸前となっていた。
 突然、周り中が敵となってしまった恐怖。恐らく、革命やクーデターに晒された古今東西の王や独裁者が突然襲われる恐怖心に似たもので有っただろう。たった今まで、敵味方に分かれていた者達も、殆ど全てが、この坂東の地で生まれ育った者達なのだ。不満の大小、また、それを声高に叫ぶ者、じっと堪えて来た者、農夫と官人、様々な違いを超えて、
『坂東の富を都から来た者には渡さぬ』
と言う将門の主張が人々の心を捕らえた瞬間だった。

 この様子を、満足げでありながら、どこか冷めた表情を浮かべて見守っているのは興世王である。しかし、その表情の奥に、僅かな嘲笑が入り混じっていることに気付いた者は居ない。
 興世王は、将門にこれ程人の心を動かす才が有ったことに少し驚いていた。素直に見事と思った。人間、切羽詰まった時には意外な力が出るものだなと思った。
 己自身が都から遣わされた受領であり、ついこの間、不法な搾取をしようとして、武蔵竹芝と諍(いさか)いを起こしたことなどまるで忘れてしまったかの様である。将門の言葉ひとつで動かされた多くの者達に、ひたすら関心を寄せていた。

 だが、興世王の感覚からすれば、叱咤激励することは民心を操る為に必要なことではあるが、それは飽く迄、計算されたもので無くてはならない。ところが、将門は、己自身がそれに酔ってしまっている。将門の性格からすれば、発した言葉にいつ迄も引き摺られるに違いない。それが少々面倒だなと思った。

 夕刻近くなっても、尚、興奮は続いていた。日毎に寒さが増して来ている季節である。篝火、焚き火を炊かせ、兵達には夜営を命じた。そして、
「員経(かずつね)」
と、側に控えている伊和員経に声を掛ける。
「はっ」
「貞盛、維幾、為則ら、逃がすでないぞ」
「牢に閉じ込め、抜かり無く見張らせます」
「うん。後で、主立った者達を広間に集めよ。その前に、興世王を呼べ。維幾の居室を使う」
「はっ」
と答えてその場を離れたが、員経は首を捻った。将門が興世王を呼び捨てにするのを、初めて聞いたからである。

 興世王が居室の前に立つと、将門が上座に座り、目を閉じている。
「お舘、お呼びと聞いて参りました」
「座られよ」
 将門が、目を閉じたまま言った。暫し、二人は無言のままの対座となる。
 いつもなら、興世王の方から色々と話し掛けるところだが、そんな雰囲気では無いと察した。
 将門が静かに目を開く。
「お見事で御座いましたな」
 興世王は、そう言ってみた。
「皆の前で狼狽える訳には行かぬ。そう思って腹を決めたら、すらすらと言葉が口を突いて出て来た」
「口には出さずとも、日頃、腹に有った事だからで御座いましょう」
「かも知れぬ。だが、その後で一つ気付いた事が有る」
「何で御座りましょう」
「玄明(はるあき)をけしかけたのは命(みこと)であろう」
 そう言うと、将門は立ち上がって興世王の側まで進み、すらりと太刀を抜き、それを興世王の首に当てた。
『ひぇー!』
と声を上げ、腰を抜かすと思っていた将門の予想は外れた。
「お斬りなさるか?」
と、興世王は静かに言った。
「いや、殺しはせぬ。だが、麿を謀った事は許し難い。心根の良からぬ者は置いて置けぬ。追放する」
「追放されれば、最早、行き場の無い身で御座る。いっそ、お斬り下され。お舘が坂東を制し、良き政(まつりごと)を行う夢を見ながら、あの世とやらに旅立ちとう御座る」
「良き政?」
「はい。それを願う一心にてしたことに御座る。お舘の心の中に、日頃、その想いが有ればこそ、あの言葉となったのでは御座りませぬかな」
「それで、麿を謀叛人に仕立てたと申すか?」
「謀叛? 誰に対する謀叛で御座りまするか?」
「朝廷、帝に対するものに決まっておろう」
「今、日本(ひのもと)の実質的な主(あるじ)は帝では御座いません。お舘が憚っておられるのは、そのお方の方では御座いませぬか? しかしながら、天が地となり地が天となっては世が乱れます。本来、臣であるべき者が主(あるじ)となり、主(あるじ)の血を引くものが、その下で使われる。それこそが、世の乱れの元に御座います。
 麿に限らず、受領(ずりょう)となる者、公卿達に多額の賂(まいない)を送らなければその地位を得る事が出来ません。それを取り返そうと、武芝との間に、あの様な問題を引き起こしてしまいました。
 悪には違いありませんが、そうしなければ、公家として生きられぬ事も事実です。受領と地元の者達は争い。最終的に利を手にするのは、藤原を中心とする都の公卿達。長年、都に居らして、お舘もお気付きだったはず。だからこそ、あの様な言葉を発することが出来たのではないかと思います」
 将門は考えている。興世王は続ける。
「先程、藤原は臣下の身と申し上げたが、光明皇后以来、多くの帝の母系を辿れば、母后は藤原では御座らぬか?」
 興世王は、ここでニヤリとする。
「お舘。皇統とは言うまでも無く、帝の血で御座る。もし、母方の血を以て皇統とするならば、我が朝は、間違い無く藤原王朝と言うことになってしまいます。
 何故、藤原の氏長者(うじのちょうじゃ)は帝(みかど)となれぬのか? 
 正に、皇統とは、男系を指すからに他ならぬからです。だから、例え何十人の帝の母后が藤原であったとしても、藤原は臣下に過ぎぬのです。
 臣下が、実質的に政(まつりごと)を司っている。それが、世の乱れの元とは思われませぬか? 
 もう一度申し上げる。天が地となり地が天となっては、世は乱れます。帝の血を引くお舘に良き政(まつりごと)をして頂きたく図った事。なれど、お舘を謀(たばか)った罪は逃れられません。行くべき所とて無いこの身。どうぞ、お斬り下され」
「うーん」
と将門は唸った。
「分かった。謀(たばか)られた事は忘れよう。謀られついでに、坂東を変える事に命を懸けてみるとするか」
 将門が笑い、興世王も笑った。


 38. 先駆け

 こちらは、都。
 坂東から馬を乗り継いで駆け付けた使いの者。
 息も絶え絶えで馬から転げ落ちそうになったのを、師輔(もろすけ)の家人(けにん)二、三人が受け止めて水を飲ませる。
「これを、これを…… 中納言様に……」
 懐から取り出した書状を家人(けにん)のひとりに差し出す。
「一大事! 少しも早く、中…… 中納言様に……」
 裏を返して見ると『武蔵守・百済王・貞連』とある。家人は家司の許に走り、
「百済王・貞連殿からの急使。一大事とのことに御座います!」
と叫んで書状を渡す。
 家司はこんな時でも足音を立てず、摺り足で、小走りに師輔の居室に向かう。
「貞連より危急の報せに御座います」 
 師輔が自ら御簾(みす)を跳ね上げ廂(ひさし)に出た。家司が差し出す文(ふみ)を引っ手繰るように手にすると急いで開く。
「うーむ。抜かった。これほど早く……」 
「何が起きまして御座いますか?」
 家司が尋ねる。 
「悪狐が野犬をけしかけおった。将門が常陸の国衙(こくが)を襲い、印鎰(いんやく)を奪った。
 謀叛じゃ! 直ぐに参内(さんだい)する。支度せよ」

 同じ頃、太政大臣・忠平の許にも同じ報せが届いていた。
「ええーい。戯け! 戯け! 大戯け者めが!」
 文(ふみ)を叩き付け、将門に対する怒りと失望を顕わにして叫ぶ忠平に、忠平の家司は、まるで己が怒りの対象となって居るかのように身を固くしていた。
 まさか将門がこのような戯けたことを仕出かすとは、忠平の思いの外であった。
『無骨で気が利かぬ男。何かを企むような男では無い。ついこの間、謀叛の疑いを掛けられて弁明し、経基の誣告であることが分かって、濡れ衣を晴らせたばかりではないか。それが、今、何ゆえこんな真似を……』 
と思う。
「あ奴か!」
 興世王に思い当たった。その興世王が将門の許に転がり込んだと言う報せは受けていた。
『矢張り、すぐさま召喚すべきであった』
 忠平は唇を噛んだ。師輔の言うことが本当なら、将門を操るなど、興世王に取っては赤子の手を捻るに等しきこと。将門に最も近付けてはならぬ者であったのだ。
 時期も悪い。前伊予掾(さきのいよのじょう)・藤原純友と言う男が海賊を率いて瀬戸内を支配し、都に圧迫を加えており、おまけに、四月以来、出羽の秋田城に対する俘囚の反乱が続いている。朝廷はそれらの対策に苦慮していたのである。
 そこへもって来て、坂東で将門が謀叛を起こしたと言う。正に四面楚歌、朝廷の危機とも言える状況なのだ。
 忠平は、己が判断を誤ったことを悟った。だが、太政大臣たる者、何が有っても己の判断の間違いを認める訳には行かない。

 参内すると、帝(みかど)に形ばかりの報告をし、
「御懸念には及びませぬ。じきに鎮めますゆえ、御心安らかにおわしませ」
と自信たっぷりの様子で御前を下がる。

 そして忠平は、左大臣である兄の仲平と大納言である長男の実頼を呼び密談をする。
「今、追討軍を送ることは出来ぬ。純友の動きを警戒せねばならぬからな。都の目の前じゃ。手は抜けぬ。坂東に付いては、火が燃え広がらぬうちに近隣諸国の国司共をして、速やかに将門を捕らえさせる。
 兄上、そのように議を決し、早々に奏上するようお願い致す」
「うん。その様に致そう。実頼手配致せ」
 忠平の意向を受けて、左大臣・仲平が実頼に、公卿、参議の招集を命じる。

 再び坂東の常陸。
 将門の坂東独立宣言は、人々の口を介し、あっと言う間に広がって行く。
 そして、普段から国府と対立していた土豪達を中心に続々と将門の許へ駆けつける者達が集まって来る。
 これらの者と面談し、覚悟を質(ただ)し取り込んで行くのは良いのだが、この雑多な者達を軍として編成して行く作業は並大抵ではない。じきに将門ひとりでは手に負えなくなる。

 まずは、司令部とも言うべきものを組織しなければならなくなった。
 まず、将門は興世王と、すぐ下の弟・御厨三郎(みくりやのさぶろう)・将頼を補佐役とし、興世王には戦略面を、将頼には戦術面を補佐するよう命じた。そして、その人柄を見込み、玄明の伯父・藤原玄茂を副将格として登用し、従来からの腹心・多治経明をその補佐に付けることにした。
 万一の場合の玄茂の監視役でもあることを経明に伝え納得させた。
 他には、郎党の筆頭格である文屋好立(ふんやのよしたつ)、弟である相馬五郎・将為、相馬六郎・将武を加えた。五郎、六郎の二人は、伊豆・相模より駆け付けていた。

 軍の編成作業は将頼と玄茂、経明に任せるが、最終的に将門の了承を得ることにより決することとした。
 日々集まって来る者達との面談は、興世王と好立、将為、将武に任せた。しかしこれも、その日毎にまとめて将門自身が目通りし、必ず、直接声を掛けることにした。
 将門はその大綱を皆に示した。
「一.坂東各地の受領(ずりょう)を都に追い返し、この地を支配下に置く。
 一.公地・公田、荘園を接収し、その揚がりを政(まつりごと)の為の費用に充てることにより年貢を軽くする。
 一.兵(つわもの)達の領地争いに関しては、調整機関を設け裁定し、兵(つわもの)同士の諍いを無くし、その力を結集する。
 一.坂東を支配下に置いたとしても、将門を始め上に立つ者達は質素倹約を旨とし、財貨は坂東と民の為にその多くを使い、決して奢侈に流されぬこと。
 以上のこと、皆の同意を得たい!」

 将と成った者達の間に少しの戸惑いが有ったのは、領地争いの裁定機関を設けると言うことについてであった。言うは易いが、実際の運営となれば簡単には行かないことだ。下手をすれば、争いを却って拡大することにもなり兼ねない。 
「だが、実際の運用は先のこと、今は何より勢いを付けることが第一」 
と将門が続ける。皆もそう思い、
「承知!」
と声を上げた。

 ドタバタした状態が少し落ち着くと、将門は今述べた者達を集め、軍議を開いた。
「坂東の地から受領共を追い出し、坂東に住まいおる者達の為の政(まつりごと)を行うと決めたが、まず、どこを攻めるのが良いと思うか? 考えの有る者は遠慮無く申すが良い。麿には考えが有るが、皆の考えも聞きたい」
「宜しいかな?」
 まず、興世王が口を開いた。
「申されよ」
「まずは、武蔵を攻めるが宜しかろうと存ずる」
「理由は?」 
「武蔵には武芝がおります。武芝は、足立郡をしっかりと抑えているばかりでなく、武蔵全体に影響力を持っております。その武芝は、お舘に恩を受けている身。早い段階で我が軍に加えることが肝要かと。
 直ぐにでも駆け付けて来て可笑しくない武芝から、まだ何の連絡も有りません。或いは、武蔵の国府の厳しい監視の許に置かれているのか、ことに寄っては、捕らわれてしまっていると言うことも、考えられます。だとすれば、少しも早く救い出し、お味方に加えることが必要と思いまする」
「他に考えの有る者は?」
「下野を、まず攻めるべきかと」
 そう言ったのは御厨三郎・将頼である。
「何ゆえか?」
「下野には藤原秀郷が居ります。他を先に攻め、秀郷に兵を集める暇(いとま)を与えてはならないと思います。そうなれば、最も手強い敵となりましょう。秀郷の機先を制して下野を制することが最も大事かと」
「麿も三郎殿と同じ考えに御座います。この大事、成るか成らぬかは、下野の秀郷を制することが出来るか否かに掛かっていると思います」
 玄茂が将頼に同調する意見を述べた。
「三郎殿。麿はその頃、都に在り、噂に聞いただけではあるが、以前、お舘が良兼らを追って下野に入った折には、秀郷とやらは、尻尾を巻いて逃げたと聞いておるが……」
と将頼に質したのは、興世王である。
「秀郷は麿を恐れて逃げた訳では無い。あの男なりの計算が有ったと、麿は思うておる。追討官符を跳ね除けた程の男だ。得にならぬ戦(いくさ)を避けただけであろう」 
 将門がそう口を挟んだ。
「麿も秀郷を軽く見ることは危険と思います」
 文屋好立である。
「お歴々の意見良う分かり申した。やはり、ここは下野をまず攻め、秀郷を討つべきで御座るな」
 興世王は、あっさりと退いた。
「皆に問う。なにゆえ秀郷を討つべきと思うのか? 先程、興世王殿が申した如く、伯父・良兼を追って下野に入った際、秀郷は麿に敵対することは無かった。そして秀郷は、麿同様、追討を受ける身である。麿より先に謀叛を起こしていても可笑しく無い立場にあるのだ。むしろ、味方に付けるべきとは思わぬか? 
 手強い相手と言うことは、味方にすれば頼もしい者と言うことであろう」
 将門が、そう提案する。
「しかし、秀郷が素直に兄上に従いましょうか?」
 三郎・将頼が尋ねる。
「分からぬ。口先だけでは埒(らち)が明かぬであろう。
 麿の考えを申そう。まず、下野に軍を進める。もし、秀郷が刃向かって来れば戦わざるを得まい。麿に降ると申し出て来れば、もちろん受け入れる。静観したとすれば交渉の余地は有る。いずれにせよ、秀郷の出方次第じゃ。
 時を費やしてはならぬ。体制が整い次第、下野に攻め入る」
「分かり申した」
 それぞれが賛同の意を示す。
「輜重の用意は?」
「はい。それが、皆、持ち去られて、国衙の蔵は殆ど空に御座います」 
 五郎・将為が答える。 
「そうか、出来る限りで良い。早々に集めよ。後は下野で調達する。急げ」

 そんな折、出陣を目前にして大問題が起こった。多くの者達が加わったことに寄り、互いに見知らぬ者も多くなり、管理体制が整わぬ間の隙を突いて、貞盛と為憲が脱走したのだ。
 将門は悔しがったが、幸いにして維幾を逃すことは無かった。
 ここは常陸である。嘗て、貞盛の父・常陸大掾・国香に恩を受けた者が手引きをしたのかも知れない。将門に従うことを決めても、それはそれとして、人としての別の心情が働いた可能性も有る。貞盛と為憲の逃走を助けた者が居ると言う確信は有ったが、それを炙り出すことを将門は避けた。
 その詮索をすることで兵達の間にお互いに対する不信感が醸成されることを恐れたのだ。それよりも、今は次なる闘いに向けて士気を高めることが必要と思った。

 天慶二年(九百三十九年)十二月十一日、坂東独立を目指す将門軍は、まず下野に向けて進軍を開始した。
 それ迄にも、受領に対してそれなりの抵抗を示す者は少なくは無かったが、土地も民も全て朝廷のものであり、太政官から派遣される国司(=受領)がそれぞれの国を支配し、租庸調を課すと言う、律令制度の原則は建前としては、まだ、意識されていた。
 しかしこれは、それを真っ向から否定し、土地を耕す者、自らがその地を支配することを宣言した初めての出来事となる。坂東と言う限られた地域に於ける出来事とは言え、平安中期に、既に次の時代への萌芽が始まっていたと言うことである。
 実質的には律令制度の崩壊は、かなり以前から進んでいた。しかし、受領に対して抵抗はしたとしても、公然と制度そのものを否定した者は居なかった。
 武士と言うものが生まれる前夜のこの時代に於いて、兵(つわもの)とは、その出自に貴賎の差は有っても、実態は職業軍人では無く、農業経営者すなわち武装農民なのである。
 ごく単純化して言えば、官である極少数の貴族が、民である大多数の農耕者を支配し、その上前を撥ねて豪華で煌びやかな生活と文化を維持していた。それが平安時代と言うことになる。
 将門の坂東独立宣言に寄って、僅かだが、そこに一筋のひびが入った。この一筋のひびが広がって行くには、まだまだ時を要するが、時代の先駆けであったことは確かと言える。


 39.弘雅と完行

 下野の国衙。
 下野守・藤原弘雅と前下野守・大中臣完行(おおなかとみのまたゆき)が、人払いをし、顔を突き合わせて密談している。 
 常陸を占領し謀叛に踏み切った平将門が、坂東の独立と坂東各国の受領の追放を宣言し、次の目標として下野を定めて、出陣の準備をしているという報せを受けてのことだ。
「いずれ、朝廷より坂東各国に、将門追捕の詔勅が届くであろうが、各国の連携も出来ていない今、この下野を攻められたら、対処のしようが無い。如何にしたら良かろう。
 …… 戦わなければ、我等の出世の道が絶たれる。出来る限りの兵を集め、何とか食い止めながら、武蔵、上野からの援軍を待つべきであろうかのう」
 眉間に皺を寄せ、下野守・弘雅が悩ましげに尋ねる。
「うーん。容易ならざる事態で御座いますな」
 前下野守・完行も深刻な表情を見せ腕組みをした。三年前の承平六年(九百三十六年)六月、将門が良兼、貞盛らを追い詰めて下野の国衙を包囲した際、下野守として対応した男だ。任期が明けて、下野守の職を藤原弘雅に引き継いだのだが、引き継ぎ手続きが終わっていなかった為、まだ下野に滞在していた。
 正直、運が悪いと思った。下野を離れてさえいれば、何の責任も無い立場と成っていたはずだった。完行が小狡い男であったなら、弘雅が何と思おうと、引き継ぎの手続きを急かせて、
『自分には関係無い』
と、さっさと都に向けて旅立ってしまっていたかも知れない。退任した以上,ここに居さえしなければ責任を問われることは無いはずだから。しかし、完行はそんな男では無かった。
 承平六年の騒ぎの時も、将門を恐れること無く、言うべきことは言って将門に囲みを解かせている。
 大中臣氏は、藤原と同じく中臣氏の出である。文武(もんむ)天皇の頃、藤原不比等(ふじわらのふひと)の直系以外は,藤原姓から中臣姓に戻り、神事に供奉することとされた。しかし、その後、中臣意美麻呂(なかとみのおみまろ)の七男・清麻呂は政界に復帰し、神護景雲三年(七百六十九年)に中臣朝臣から大中臣朝臣姓に改姓し、光仁朝に至って、右大臣にまで昇進した。
 完行の父・安則も、神祇伯(じんぎはく)の時、伊勢権守を兼任し、従四位上にまで上った。
 完行は幼い頃より神祇の修行をさせられたが、その道には進まず行政官僚の道を選び、朝廷に出仕し、丹後守を勤めた後、下野守に転じていた。
「急いで集められる限りの兵を集めることにしよう。力を貸して頂けるか?」
 弘雅が完行に身を近付けるようにして言った。
「無駄なことはやめた方が良い」
と、完行が素っ気なく応じる。
「無駄と申されるか」
「如何にも…… この下野は実質、藤原秀郷に牛耳られておる。秀郷抜きにして兵など集めることは出来ぬ。この国衙の中にも、秀郷の息の掛かった者がどれ程おるか分からぬのじゃ」
「秀郷も謀反人同然と聞いておるが……」
「同然ではあるかも知れぬが、追討の官符を出された身ではあっても、謀反人では無い。不思議なことに、未だに、れっきとした下野少掾なのじゃ」
「良う分からぬ話じゃな。ならば、秀郷に兵を集めさせては?」
「朝廷の意向を受けて、今まで歴代の下野守が、どれ程、秀郷を目の敵(かたき)にして来たか、ご存知無い訳でも無かろう。今更、頼めた義理では無いわ」 
「…… うーむ。無理か……」
「それに、秀郷が将門に着かんとも限らぬ」
「前門の虎、後門の狼。どうすれば良い?」
「将門に降るしかあるまい」
と、完行は又も素っ気ない。
「何を言われる。そんなことをすれば、下野守としての面子(めんつ)が立たぬではないか、完行殿」
「弘雅殿は命と面子、どちらを選ばれるのか? 例え、秀郷のことが無くとも、二千や三千の兵では将門には勝てませぬ。
 三年前、上総介・平良兼がこの下野の国衙に逃げ込んで来た時も、こたびの、常陸介・藤原維幾も、三千の兵を擁しながら、あっさりと将門に打ち破られておるのですぞ。最早、将門に勝てるのは、古(いにしえ)の名将・坂(ばん)将軍(坂上田村麻呂)くらいしかおらんのではないかな。降霊の神事でも行うしか無いか。これでも、神事を司る家の出であるからな」 
「出来るのか? 田村麻呂将軍の霊(みたま)を降ろすことが……」
 そう大真面目に聞かれて、完行は弱った。
「いや、出来ぬ。神祇(じんぎ)の道に進むつもりなど全く無かったので、余り熱心に修行をしておらぬのじゃ。まあ…… 猫の霊くらいなら降ろせるかも知れぬがな」
「こんな時に、その様な戯言(ざれごと)を良うも言うておられるものじゃな」
「いや、済まぬ。しかし、良うお考えなされ。まず、戦わずして逃げれば、首尾良く都に辿り着けたとしても、国守の職を放棄して逃げたとして、処罰は免れまい。かと言って、戦っても勝てる見込みは無い。ならば、降るしか無いではないか」  
「戦いもせんで降るのでは、逃げるのと大差無い」
「それはそうだが、弘雅殿。今迄、命を懸けて戦ったことが御座いますのかな?」
「いや、それは無い……」
「確かに将門は、受領を追放すると言っており、殺すとは言っていない。そして、今までの戦いに於いても、源護(みなもとのまもる)の子息三人を除いて、将を殺したことは無い。ま、平国香に付いては、巻き添えで死んでおるがな。
 将門は今迄、捕らえた将を殺したことは無いのだ。
 だがそれは、身内同士の私闘だったからかも知れぬ。謀叛人と成った今もそうとは言えぬ。刃向かった者を殺さぬとは限らぬ。また、将門自身がそのつもりは無くとも、配下の者達に殺されるかも知れぬ。戦とは、その場の成り行きで何が起きるか分からぬものじゃ。
 三年前も、将門が引き上げるまでは、息苦しいまでの緊張の連続であった。正に、生きた心地がせぬとは、あのような状態を言うのであろうな。だから、適当に戦って、頃合いを見て降伏した方が、恰好が付くなどと甘いことはお考えにならぬが良い。命あっての物種じゃ」
「ふーん。出世より命か…… 確かに死んでしもうては出世も出来ぬな。当面出世から見放されたとしても、生きていれば、いつか挽回の機会を得ることが出来るやも知れぬということか……」
「将門と膝を突き合わせて話したことのある麿の言うことをお聞きなされ。あの男、降った者に無体な真似はせぬ」
「そうだ! 思い出したぞ。命(みこと)は、三年前には、将門の行為がやむを得ぬことであった旨、国庁の記録に残し、先(せん)立っては、武蔵での将門の行為が謀叛では無いとの証(あかし)を朝廷に対して送っている。言わば、将門に幾つもの貸が有る訳だ。刃向かいさえしなければ、将門が命(みこと)を粗略に扱うことは出来ぬと言うことか」
「将門がそのように思っているかどうかは、分からん」
「…… 命(みこと)は、麿が解由状(げゆじょう)さえ書けば、今、直ぐにでも堂々と都へ旅立てる身。将門に口添えして貰う訳にも行かぬな……」
 弘雅はわざとらしく困った表情を作って言った。  
「麿ひとり逃げるつもりは御座らぬよ。こう成ったら一蓮托生。地獄の底まで付き合い申そう」
「ま、真で御座るか。いやそうしてくれるなら心強い。完行殿、恩に着る」
「将門に降るのが良いと申した手前、知らぬ顔も出来無くなった」
 初めは戦うなどと言っていたが、実は弘雅が怯えているのを、完行は見て取った。


 40. 下野占領

 十二月の寒風が、上気した将門の頬にはむしろ心地良く感じられた。都での欝々とした日々も、胃の腑が痛むような身内との闘いの日々も、この日の為に有ったのかと思う。煩いも悔しさも身の奥から燃え上がって来る熱気と坂東の寒風に晒されて、霧散して行く。最早、恐れという気持ちは微塵も無い。己が決めた道を唯ひたすら駆け抜けるのみだ。命への拘りを捨てたことで、生きていると言う実感が沸き上がって来た。
 膨れ上がった将門軍は、怒涛の如く下野を駆け抜けて行く。それを遮る軍と言えるものは、その影すら無い。
 暫く行くと、右の二の腕に布を縛り付けて、道端に控えている男の姿が目に止まった。将門が右手を上げて隊列を止める。
 男は礼をして将門の近くに歩み寄った。
「安蘇郡(現・佐野市及び桐生市、日光市の一部を含む地域)に動きはありません」
 藤原秀郷の動きを探らせる為に、予め放って置いた細作である。
 元浮浪人の中から、各地を流れ歩き、地理及び各地の事情に詳しい者を選んで、将門は、最近、細作として使っている。右の二の腕に布を巻いているのは、報告が有る場合の目印である。
「そうか、ご苦労。戻って引き続き探れ」
「はっ」
と返事して、男が下がる。
「進め!」 
 将門の号令と共に、軍は再び動き出す。
 不安と恐れの表情を浮かべて田畑から見守る民達の姿を横目で見ながら、将門軍は東山道を駆けて下野の国府に至った。

 国衙の少し手前に差し掛かった時、将門が、右手を挙げて又軍を止めた。門が開け放たれ、人っ子ひとり居ない舘の前だ。秀郷の国府の舘である。
「秀郷め、又も逃げおりましたな」
 御厨(みくりやの)三郎・将頼が言った。
「この舘に踏み込むことを禁ずる。三郎、見張りを立てよ。兵を一歩も入れてはならぬ」
「えっ? 何故ですか? 『どうぞ、何でもお持ち下さい』と言っているようなものでは御座いませんか」
「だからだ。それに三郎、今後、麿の命(めい)は一度で聞くように致せ。いちいち問い返せば動きが鈍くなり、咄嗟の場合対処が遅れる。他の者達への示しも付かぬ」
「はっ。分かりました」
 将門は、秀郷の舘に見張りを残し、国衙に軍を進めた。
 国衙の門も開け放たれている。見張りの兵の姿も見えない。
「何だこれは? 最低でも、門を閉じての押し問答くらいは予想しておったのだが」
「お舘の威勢に恐れを為して、抗わぬ姿勢を示しているので御座いましょう」
 興世王が答える。
「兵を一人も損じずに済むのは良いが、何か薄気味が悪いのう」
「調べよ!」
 多治経明が命じると、五騎が駆け出して行った。二騎は左右に別れて双方向から、国衙の塀沿いに回り込んで行き、残りの三騎は、中に入って敷地内を駆け巡る。
「伏せ兵らしき姿は有りません」
「屋根、建物の陰に潜んで弓を構える者もおりません」
 戻って来ると、それぞれ、そう報告した。
 手前に軍をとどめ、将頼、興世王、玄茂と十数名の郎党のみを従えて、将門は下野の国衙に入った。
 国庁の入り口の前に、正装に威儀を正した二人の男が立っている。下野守・藤原弘雅と前下野守・大中臣完行だ。
 十歩ほど二人に近付いた所で歩みを止め、将門は馬上から二人を見た。
 弘雅は紫の布に包んだものを頭上に掲げ、少し下がって完行が、二人共少し腰を屈めて下を向き、将門の方へ歩み寄って来た。馬前に至ると二人とも地面に膝を突く。そして、神を崇めるが如く、地に付くほどに深々と三度頭を下げ、  
「下野の印鎰(いんやく)に御座います。どうぞお納め下さい」
と弘雅が大声で述べた。
 下馬した玄茂が受け取り、将門に差し出す。
 将門は無言で紫の布に包まれた印鎰(いんやく)を確認し、興世王に渡した。
「顔を上げられよ」
 完行と目が会った。
 既に転出して、居ないと思っていた男だ。悪い印象は持って居ない。
『そうか。完行殿が説得してくれたのか。お陰で無駄な血を流さずに済んだ』
 そう思って、感謝の念すら抱いた。本来なら、酒でも酌み交わしながら語り合いたいところだ。だが、相手は、任が明けているとは言え、追放すると宣言した受領の一人。皆の手前、そういう訳にも行かない。
「この将門、坂東を支配し政(まつりごと)を行うことに意を決した。従って、この坂東の物、米一粒たりとも都に持ち去ることは許さぬ。そして、その為に都より遣わされた受領共を、全て都に追い帰すこととした。立ち去れ!」
と宣する。
 弘雅と完行は無言でもう一度頭を下げ、立ち上がって、一度庁舎の方を振り返った。
 恐る恐る様子を見ていた従者(ずさ)や女子供達が、庁舎の中からぞろぞろと出て来る。将門の兵達が見守る中、追われた一行は国衙の門を潜り、顔を伏せるようにして、とぼとぼと歩き始める。
 ついこの間、馬や輿(こし)に乗り、供揃えをして煌びやかに下野入りしたばかりの弘雅と女(め)らは、寒風の中、惨めに徒歩で下野を後にすることになった。女達は袖で涙を拭う。
 ふいに馬を返して門を出た将門が、
「完行殿!」
と声を掛けた。
 振り返った完行が馬上の将門を見上げる。
 そのまま少しの間、将門は完行を見詰めていた。そして、
「気を付けて行かれよ」
とだけ言った。それだけで完行には、今は口に出来ない将門の想いが分かった。
 完行が黙って頭を下げ、それに答えるように、将門も馬上から僅かに頭を下げた。


 41. 両雄対面

 下野の国衙に入った将門は、その日のうちに、佐野の秀郷の許に使いを送る。
「坂東のことに付きご相談したい。国府までお越し願えぬであろうか」
と言うものであった。
 秀郷は即答を避けた。
 報告を受けた将門は,
「ふーっ」
と溜息を突く。
 動き出した以上、勢いを緩める訳には行かない。朝廷が手を打つ前に、何としても坂東を席巻してしまわなければならないのだ。秀郷が兵を集め対抗して来れば、その為に時を浪費し、朝廷に先手を奪われることにも成り兼ねない。秀郷が、このまま無視するようであれば、上野に進軍する前に佐野に向かい、今のうちに秀郷を潰してしまわなければならない。他の者達は、秀郷が将門との戦いを避けていることで甘く見ているが、逃げている秀郷を将門は、むしろ薄気味悪く思っている。
 国府と対立しながらも勢力を拡大し、追討を受けながらも跳ね返してしまった男だ。  
『自分を恐れて逃げ回っているだけとは到底思えない。或いは、同じ想いを持ち、自分を値踏みしているのではないか。だとしたら、腹を割って話し合うことに寄って、味方に迎えられるのではないか』
と思っていた。
 開け放たれた国府の秀郷の舘を見た時、その確信を持ったのだ。
 しかし、秀郷は誘いに乗って来なかった。
「佐野を一度訪ねてみようかと思う」
 興世王を呼んで、将門がそう切り出した。
「それはなりません。坂東の王となられるお方が、そのようなことをしては軽く見られます。佐野に向かうのであれば、秀郷を討つ為に向かうべきです。他の者達も恐らく同じ意見で御座いましょう」
「恰好など付けて見ても仕方が無い。麿は実力と真摯な心で支配してみせる」
「権威は必要なもので御座います。麿が権官(ごんかん)で、貞連が正任の武蔵守であったればこそ、麿は負けたのです。その力の裏付けが朝廷の権威と言うものです。麿と貞連の人としての力の差では御座いません」
『またそのことか』
と将門は思った。
「いえ、これは、お舘ご自身についても言えることで御座いまするぞ。お舘は、昔、都でご苦労されたと聞いております。お舘がこれ程大きな器の方と見抜ける者が居なかった為、認められず、不当な扱いを受けたのでは御座いませんかな。
 人の実力を見抜くことは難しゅう御座います。特に凡人には見抜けません。
 ただ、権威や見た目の威厳は愚かな者にも分かります。権威の実態ははこれからのこととしても、それなりの威厳を示すことは必要です。軽く見られては不要な戦いを増やすことになります。威厳を以て服従させることが出来れば、無駄な血を流すことも少なくて済みましょう」
 痛いところを突かれた。
 将門とて、戦以外の場での腹の探り合いが苦手なことは自覚している。
「麿とて無駄な血は流したく無い。であればこそ、秀郷と腹を割って話したいと思うのだ」
「秀郷の方から出向いて来れば、そうなさいませ。ですが、お舘から出向いては、見縊られることとなります。お分かり頂けますかな」
「うーん」
と将門は唸った。
「坂東の王となって、いきなり威厳が身に付くというものでは御座いません。今よりお心掛け頂くようお願い申す。
 戦に関しては、お舘に意見出来る者などおりますまい。したが、人の心の動きを読むことに関しては、長く生きてきた分、麿の方がいささか長じておると思うております。この献策、お聞き入れ頂くようお願い致す」
「分かった。心掛けよう」

 翌朝早く、将門が髪を梳(くしけず)っていると、興世王が入って来た。まずは、縁に出て辺りの景色をのんびりと眺めている。
「何か用ですかな?」
 将門が尋ねる。
「なに、身繕いをされているのなら、急ぐことでも御座いません」
「このままでも聞ける。申されよ」
「いや、一刻(三十分)ほど前に秀郷が参ったので、待たせております」
「何? 秀郷が参ったと。なぜ早く言わぬ!」
 将門は手早く髪を纏めて、烏帽子を被ろうとしている。
「慌てる必要は御座いますまい。暫く待たせて置いた方が宜しいかと」
 将門は、広間に向かい、走るように歩き出していた。
「お待ちを! そのように慌てては、秀郷に見縊られることとなりますぞ」
 興世王も急いで将門の後を追った。
「玄茂殿が面談しておりますゆえ、ゆるりと行かれませ。慌ててはなりませぬ」
 将門が一度立ち止まった。
「動作はゆっくりと。言葉は重々しく。宜しいな。慌てて駆け込んだりすれば、足許を見られてしまいますぞ」
「分かった。その様にしよう」
 そう言って将門は、今度はゆっくりと歩き出した。
 その後ろ姿を見て、興世王ははっとした。興世王に見せた顔の反対側の烏帽子の端から、数本の解(ほつれ)れ毛が垂れ下がっているのだ。
 声を掛けるには既に遅かった。将門は、秀郷の待つ広間にもう入り掛けている。老獪な秀郷のこと。慌てて出て来たことを見抜かれるのは間違い無い。
『しまった!』
と興世王は歯噛みした。
『秀郷を、ここで殺してしまわなければ』
と言う強い想いが沸き上がって来た。
 数人の郎等を連れただけの秀郷がそこに居る。こんな絶好の機会は二度と無いだろうと思った。
 将来に禍根を残さない為には、今、殺るべきだと思った。自分で討ち取る力など無いことは分かっている。将門の命(めい)と偽って誰かにやらせようかとも考えたが、そんな事をしたら、今度こそ将門は許しはしないだろうと思った。
 将門は意識してゆっくりと広間に入り、上座に腰を下ろした。
「良う参った」
と重々しく言う。
 秀郷が頭を上げる。
「参上するのが遅れて、申し訳御座いません。元よりこの秀郷、将門殿に盾突く気は毛頭御座いません。この坂東の為、将門殿が立たれたこと、下野の民に代わり言寿(ことほ)ぎ申し上げます」
「秀郷殿。その言(げん)、真に殊勝である。
 御大将に二心(ふたごころ)無く仕えると言うことであれば、名簿(みょうぶ)を奉られよ」
と言ったのは興世王である。臣従する証(あかし)として、身内、郎党の名を記載した名簿を渡すことが仕来りとなっていた。
 一瞬、秀郷が興世王を睨んだと見えたが、気のせいであったかと思える程の素早さで、その鋭い眼の光を消した。
「ははっ。これに持参致して御座います」
 秀郷が頭を少し下げて、名簿を両手で頭上に捧げる。興世王が目で合図をすると、郎党の一人がそれを受け取り将門に渡す。
「御大将。お言葉を」
 興世王が言った。
「確かに受け取った。かくなる上は、兵を纏め、少しも早く参陣せよ」
「御大将と戦うつもりなど毛頭御座いませんでしたので、兵は全く募っておりません。急なことゆえ、些か時を頂くことになりますが、早々に立ち帰り、兵を募って参陣させて頂きます」
「分かった。待とう」
 肩肘張っていた将門の表情がほっとしたように緩む。


 42.権威

 十二月十一日に下野に入った将門だが、その日の内に下野守らを追放し、翌日には秀郷が降ったことに因り、後顧の憂いが無くなったと見て、郎党のひとりに二百ほどの兵を付けて国衙に残し、同月十五日には早くも上野に向けて進発した。
 上野の国衙は固く門を閉ざして抵抗した。門を開くよう呼び掛けても応じず、
『国守が留守なので、無断で開門することは出来無い。国守が帰り次第報告する』
と繰り返すのみである。
「ふざけたことを抜かしおって、門を打ち破りますか? それとも火を掛けて炙り出しますか?」
 この日は、玄明が将門の近くに侍していた。
「まあ待て。朝廷から謀叛人と呼ばれようと、麿は坂東を支配しようとしているのだ。政(まつりごと)を行う者が無体なことをしては、民の信頼を得ることは出来ぬ。
 国衙を囲み、もし居れば逃さぬようにして、上野介・藤原尚範(ふじわらのひさのり)の居場所を探れ」 
 聞き込みをし探したところ、尚範は、国衙にはおらず、国司舘に居た。そして舘に籠り門を閉ざして抵抗した。
 塀を乗り越えて侵入した将門の兵達が、尚範を引き摺り出して来る。
「悪足掻きをしたものだな。舘に籠っていれば、麿が諦めるとでも思うたか?」
 引き据えられた尚範に向かって、将門が言う。
「謀叛人に従ういわれは無い。このようなことして、いずれ誅されよう」
 将門を睨んで尚範が言った。藤原冬嗣の曾孫であり、一方で、この頃、瀬戸内で反乱を起こした、藤原純友の伯父でもあるのだ。
「殺してしまいましょうか?」
 舘に乗り込んで尚範を引き摺り出して来た玄明が言った。
「いや、無用な殺生はせぬ。国衙に引き立てて行き、門を開くよう命じさせよう」
「断る!」
 尚範が将門を見据えて言い放つ。
「なんだと!」
 玄明が尚範の襟を掴んで締め上げる。
「やめよ! 玄明。直ちに追放する」
「しかし、こ奴、密かに国衙に戻り、抵抗するかも知れませんぞ。やはり殺してしまった方が……」
 多治経明がそう進言した。
「印鎰(いんやく)はどこに有る。
 国衙の中か? それも白を切るなら、皆の申す通り、今後の見せしめとして殺す。ここで甘い顔を見せれば、武蔵守・貞連も図に乗って抗って来るであろうからな。無駄な時を費やす訳には行かぬのだ」
 将門が尚範を脅しながら問い詰めていた時、
「有りました。印鎰(いんやく)が御座いましたぞ」
と、家探しをしていた郎党が、印鎰(いんやく)を手に飛び出して来た。
「すんでのところで命拾いしたな」
と尚範に言った後、将門は、
「逃さぬように兵を付けて、信濃の国府近くまで護送せよ。一旦陣を敷き、明日、国衙を開かせることにする」 
と三郎・将頼に命じた。

 その日の夕刻。『策を練る』として、将門はひとりで国司舘の奥に籠った。

「お舘の前で、皆の意見がまちまちと言うのは良く無い。時も無駄にすることになる。
 互いに意見を交わし合って、なるべく、一致した意見をお舘に進言出来るようにして置いた方が良いと思うが、いかがで御座ろうかな?」
 興世王が将頼に提案し、将頼も同意した為、会合が持たれることになった。
 この会合に将頼は、興世王の提案に寄り、弟の大葦原(おおあしわらの)四郎・将平を同席させることにした。
 四郎・将平は、武よりも文を好み、幼い頃より僧や学者の許に通って学問をし、将門の兄弟の中では最も博学であった。その為、将門も敢えて将とはせず、軍議には参加させていなかったが、仲は良く、四郎の話を聞くことが好きであった。
 将門は、日頃、将平から色々と話を聞き、歴史に付いてもある程度の知識を持っていた。中でも、将門が最も興味を示したのは、あの大唐帝国が滅びた後、耶律阿保機(やりつあぼき)という男が自らの国を建て、国号を遼とし、皇帝と成ったという話だ。
 将門に取って、それは衝撃であった。唐王室とは全く関係の無い一部族長が多くの部族を纏め、次々と周りの勢力を従えて、ついには皇帝と成ったのだと言う。この国に置き換えれば、土豪が帝になる様なものだ。そんな馬鹿な事が外国(とつくに)では起こり得るのだと言う事が、まず衝撃であった。将平に寄れば、大陸ではそれは当たり前のことなのだと言う。易姓革命と言って、天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、その王朝が徳を失った時、天がその王朝に見切りを付け、次の王朝が生まれると言う。
『天命を革(あらた)める』
 即ち革命である。
 天子が自ら位を譲るのを禅譲。武力によって追放することを放伐と言うのだそうだ。
「と言うことは、万世一系(ばんせいっけい)で続いていると言われる、この国の皇室は、嘗て徳を失ったことは一度も無く、神代(かみよ)から途切れること無く続いているということなのか?」
と、その時、将門は思った。
 男大迹王(をほどのおおきみ)の話を聞くよりも随分前のことである。
「いや、これは外国(とつくに)の話で、そのまま我が国に当て嵌まることではありません」
 真剣な表情で尋ねる将門に、その時、将平は笑って答えた。将門は、この時から歴史に興味を持ち、将平に色々と聞くようになった。

 そう言う話を将頼から聞いた興世王が、 
「将平殿も是非同席して貰いたいもので御座いますな」
と将頼に言ったことから、将頼が、四郎・将平も同席させることとしたのだ。

「麿は戦のことは分からぬゆえ、それは、お舘様やお歴々のされることを見守るより他に無い。しかし、ひとつの国を制すれば政(まつりごと)を行わなければならぬ。それがふたつみっつと増え、やがて坂東全体となれば、それを纏めることも必要と成る。
 大きな方向はお舘様がお決めになるであろうが、それに基づいた細かな決まり事などは我等が決めて行かねばならぬことになる。戦に勝つことが、まず何よりも大事ではあるが、その後のことも考えて置かねばならぬと思うが如何で御座いますかな?」
 最初に興世王がそう口火を切った。
「戦に関しては、兄上の下知に従って、命を懸けて戦うのみだ。それで間違いは無い。しかし、一国の政(まつりごと)となると、分かっているのは、興世王殿と常陸掾を努められていた玄茂殿くらいかのう」   
 将頼が言った。
「確かに、戦に関しては、互いに競い合って退けを取らぬ覚悟は有るが、細(こまごま)々としたことは苦手じゃな。一郷くらいなら何とか成るが、国となるとそうも行かぬであろうしな」
 多治経明が将頼に同調する。 
「どうであろう。興世王殿と玄茂殿に叩き台とも言うべきものを作って貰い、それを元に我等が話し合い、纏まったものを兄上に進言すると言うことではどうかな。戦以外のことで、兄上に余りご負担を掛けとうない」
「それで良う御座ろう」
と皆同意する。
「興世王殿、玄茂殿。お引き受け願えますかな」
 興世王は、嬉しさを隠して、
「うっ、ほん」
とひとつ咳払いをした後、
「戦では全く役に立たぬこの身、そのようなことでお役に立てるのであれば、喜んでお引き受け致す。玄茂殿、お力をお貸し下され」
と玄茂に水を向ける。
「麿などは微力では御座るが、興世王殿のご指導の下、力を尽くしましょう」
 玄茂も引き受けた。
「だがひとつ問題が有る。大きな問題じゃ……」
 興世王が急に渋い顔を作って、手を顎に当てて考える仕種を見せた。
「何で御座るか?」
 将頼が尋ねる。
「いや、ご承知の通り、国とは、守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)の四官に寄って統治される。
 親王任国に在っては、介が事実上の国守になる。だが、それぞれの権限と言うものは朝廷から与えられたものである。朝廷の権威が後ろに有ってこその国司の権威・権限じゃ」
「無位・無官の兄者が任じたのでは権威が無いと申されるのか?」
 将頼が興世王に鋭い視線を向けた。他の者達も訝しげに興世王を見る。
「いや、お怒り召さるな。お舘を謗るつもりなど毛頭無い。話は逆で、麿が申し上げたきは、お舘様に権威を持って頂く必要が有るのではないかと言うことで御座る」
「兄上は、誰よりもこの坂東のことを思っており、民のことを考えておる。その上、誰よりも強い。皆が慕えば、権威などそのうち自然と生まれて来る」
「申される通りかも知れませぬが、それには時が掛かります。権威が有れば、それだけで刃向かう者の数を減らすことが出来まする」
「聞こう」
「国司は除目(じもく)に寄って任じられ、その除目を行うことが出来るのは朝廷のみ、とは万人の知る処で御座います。
 面と向かって口にせぬまでも、お舘に寄って任じられた国司は、正式な国司では無いと、心の底で思う兵(つわもの)や民も少なくは無いと思います。それが、やがて綻びを生む元ともなりかねません。そして何より、恐らくは、お舘の心の奥底に尚もひっ掛かっているであろう謀叛人という負い目を、麿は取り除いて差し上げたいので御座いますよ。
 お舘は民達を新しき世に導く輝かしい星でなければなりません。そう成ってこそ、全ての者が敬い、恐れ、従うと言うもので御座います」
「で、どうしようと言うのかな。何か策が御座るのか?」
「些(いささ)か…… 仔細に付いてはお任せ頂けぬであろうか」 
 ひと渡り、他の者達の顔を見回してから将頼は、「分かり申した」と言った。 
「お待ちを」と声を上げたのは将平であった。
「興世王殿。何をなさるおつもりか、今少しお聞かせ願えませぬか」 
 将平の顔を見た興世王がニヤリと笑った。
「男大迹王(をほどのおおきみ)に成って頂こうと思うております。男大迹王もお舘様も、同じ五世の皇孫に御座いますれば」 
「その時とは違う。その時には後嗣が絶えていた」
「左様でしょうか? 五世の男大迹王より皇位に近い方がひとりも居なかったなど、凡そ考えられません。今の世で例えるなら、五世のお舘様は何番目の皇位継承権をお持ちと思われますかな? 
 …… 五世ともなると、失礼ながら、数えられぬほど下です。五世の男大迹王の他に位を継ぐ者が誰も居ない、と言うのは不自然とは思いませぬか。
 書紀に書かれたことは、後の者達に寄って都合良く書き換えられたもので御座ろう」
「麿は反対じゃ」 
「これは意外で御座ったな。
 易姓革命や契丹皇帝の話をお舘様にされた将平殿であれば、誰よりもお分かり頂けるだろうと思うておりましたが」
「それとこれとは別だ」
「まあ良い、四郎。後で話そう」
 将頼が割って入った。


 43.策略

 興世王と将平との会話に付いては、他の者達は殆ど意味が分かっていない。

 男大迹王(をほどのおおきみ)とは、この時より四百五十年ほど前に大王(おおきみ)と成り、後に継体天皇と謚(おくりな)された帝のことである。
 日本書紀が完成したのは西暦七百二十年であるから、この年・天慶二年(九百三十九年)から二百十九年前であり、男大迹王が即位したのは、更にそれを遡ること、二百数十年前のことになる。
 男大迹王は、応神天皇五世の子孫と称し、五世紀末の越前(現・福井県)もしくは、近江(現・滋賀県)を統治していた。
 西暦五百六年に武烈天皇が後嗣を定めずして崩御した為、大連(おおむらじ)・大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかひい)、大臣(おおおみ)・巨勢男人(こせのおひと)らが協議した。
 まず、丹波国に居た仲哀(ちゅうあい)天皇の五世の孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士を見て恐れを成して、山の中に隠れて行方不明となってしまった。
 そこで、次に越前に居た、応神天皇の五世の孫の男大迹王にお迎えを出したと書紀は言う。
 そして、翌年五十八歳にして河内国(現・大阪市)樟葉宮(くすばのみや)に於いて即位し、武烈天皇の姉(妹との説もある)に当たる手白香皇女(てしらかのひめみこ)を皇后とした。
 しかし、大和に都を移すことが出来たのは、実に即位十九年後の五百二十六年に至ってである。
 男大迹王のことを知識として知っていたのは、興世王と将平のみだから、他の者達に取っては、良く分からない話であり、皆、大したこととは感じていなかった。

「三郎兄、あの興世王という男、何を考えているか分かっておるのか?」
 皆が散ってから、将平が将頼に言った。
「何と無くはな。だが、実際にどのようにしてやろうとしているかは、分からん」
「あの男は、将門兄を帝(みかど)にしようと企んでいるのですぞ」
「かも知れぬが、良いではないか。今のままでは、どこまで行っても謀叛人の身。
 謀叛人では無く、新しき世を作る為に戦うのだと、兄上にも心の底から思って貰いたい。その方が兄上の為にも良い。
 念の為、皆の顔を見たが、異を唱えそうな者は居なかったぞ」
「皆どう言うことなのか良く分かっていないだけです。謀叛の上に、もうひとつの皇位僭称と言う罪を重ねることになるのですぞ! 
 この国に於いてそれが何を意味することなのか、三郎兄も分かっておらぬ」
「我等を罪人と見る朝廷に、今更義理立てしてみても始まらん。それよりも、この先どう上手くやって行くか、その方が大事だ」
 これ以上話しても無駄と思った将平は、踵を返して将頼の前を離れた。

 将平と将頼が話している頃、興世王は玄茂を誘って話していた。
「玄茂殿とはこれから親しく交わり、力を合わせて行かねばなりませぬな」
「はい。お舘様のお力になる為には、麿もそうしたいと思うておりました」
「命(みこと)は、戦ばかりでなく、政(まつりごと)の面でも、これからお舘の片腕となって頂かなければならぬ方。期待しておりますぞ」
「いや、麿など、ついこの間従ったばかりなのに副将という大役を頂き、ご恩に報いる為には、命懸けで働かねばなるまいと己に言い聞かせております」
「命(みこと)の器量と人柄を見込んでのことで御座いましょう。また、決断の時を得てとも言えまするな。
 国衙に逃げ込んだ後では、お舘もそうは考えられなかったと思う。決断の時というものは大事で御座いますな」
「いや、実は、玄明めの所業に寄り国衙内で肩身が狭くなり、正直、腹立たしい思いをしておりました。しかし、或る時、娘を人買いに渡すところに出くわしてしまいましてな。もちろん長年官吏をやっていれば、そんなことが、いたる所で行われていることは存じておりました。ですが、その場を目の前にしたのは初めてで、さすがに、その後で隠し米を家探しする気にもなれず、そのまま戻りました。
 戻ると、国守の維幾ばかりで無く、国司でも無い息子の為憲までもが一緒になって詰(なじ)る始末。
 その時、初めて考え申した。本当に玄明のやっていることは悪行なのかと。ひょっとしたら、受領達のやっていることの方が悪行で、長年、己はその手先となって働いて来ただけではないか。なぜか急にそう思ったのです。
 暫く欝々としておりましたが、三千の大軍がいともあっさりと打ち破られ、泣き顔かと思われるような表情で馬にしがみ付き逃げる維幾を見た時、憂さが晴れるような心地になり申した。玄明の為、一歩も引かずに一国の国府軍に立ち向かって来るお舘に、感謝と畏敬の念が沸いて来たのです。
 身の回りに居た郎党にのみ、『別行動を取るがその時は着いて参れ』と駆けながら声を掛け、城門から逸れた後、お舘に従うことを打ち明けました。声を掛けた者は皆着いて来てくれました」
「成程。賢明なご判断で御座ったな。 …… ところで、ひとつ相談が御座います」
「何で御座いますかな?」
「例え坂東を占領し力を示したとしても、朝廷がお舘を許すことは有りますまい」
 聞いた玄茂は驚いた。
「何と、以前、常陸で申されたことと違うではないか」
と少し気色(けしき)ばんだ。
「坂東だけ変えようとしても無理だ。何も変えることは出来ぬ。朝廷を倒さねば何も変わらぬ」
「恐ろしいことを申されるな」
「我等は既に謀叛人と成ってしまっているのをお忘れか? 謀叛とは即ち朝廷を倒すことでは御座らんのか。中途半端な謀叛など有り得ぬ。中途半端ならやらぬ方が良い」
 将門を謀叛に踏み切らせた張本人がそう言う。玄茂は暫く腕組みをして考え込んでいた。
 そして急に、「ふふふふ」と笑った。
「起きてしまったことを悔やむのは女々しいことですな。麿も一旦お舘に従うと決めた以上、命も名も捨てる覚悟はしたつもりでおった。それを今、何に怯えたのであろうか。どうせ従うなら、そのお方を帝にすると言うことは、男としてこれ以上大きな夢は無い。どうせ、大掾にも成れぬ身であった。この年になって大きな夢を見てみるのも悪く無いかも知れませぬな。一度は国守(くにのかみ)も務めてみたいものだ」
「お分かり頂けたか。さすが玄茂殿。ですが、夢では無い。麿は確かな絵図を描いておる。望みが国守など、小さい小さい。玄茂殿には、参議どころか、大納言にも右大臣にも成って頂かなければならぬ。そのおつもりでおられよ」
 玄茂は苦笑いをした。
「麿はそのような器では無い。ただ、お舘を帝にするということについては、体中の血が沸き上がるような思いが致す」
「頼もしい限り」
と満足げに頷いた興世王だが、直ぐに憂鬱そうな顔を作る。
「他の方々を説得する自信は有るが、問題はお舘ご自身だ。こうなった後でも、お舘には帝を崇拝するお気持ちは強く、旧主の忠平を憚(はばか)るお気持ちも強い。であるから、朝廷に取って代わるなど、到底受け入れて頂けぬであろう…… 如何したものであろうのう……」
「ふーん。お舘のお気持ちは分かる。だが、こうなった以上やる処までやらねば、唯の謀叛人として野に朽ち果てるのみ。確かにお舘の仰るように綺麗事で終わらせることは到底無理だ。
 …… だが、我等が何を申してもお舘のお心を変えることは難しかろう。天の声でもあれば別だが」
「ふーん天の声。それじゃ! それじゃよ、玄茂殿。帝の権威に勝るものは神しか無い。古今の書物を紐解いても、偉大な為政者が生まれる時には、必ず天の啓示が有る。天の啓示であれば、説得力は有る」
「お舘を謀れと?」
「お舘の為じゃ。決して私欲からでは無い…… それしか無かろう」
 大きく息をして、玄茂が頷く。
「それしか無いようで御座いますな。分かり申した。段取りは麿が致そう。お任せ頂けるか?」
「元より。お願い致す」
 興世王が満足げに会釈をする。

 44.天命

 上野介・藤原尚範を追放した将門だったが、翌日は、国衙を囲ませたまま動かず、国司舘に籠ってしまった。
 晴れ晴れとした気持で下野に軍を進め、下野守を追放し、秀郷も降って来た。この上野に於いても、既に受領は追放し印鎰(いんやく)も手中にしている。後は国衙を開かせ、追い払う者と従う者を選別すれば良いだけである。
 立て籠もっているとは言っても、指揮官も居ない烏合の衆。力攻めすれば、すぐにも決着は着く。気抜けする程あっさりとことは運んでいるのだ。切羽詰まって謀叛に踏み切った後は、何も考えずに済んだ。必死に、ただ前を向いて駆けていた。
 だが、坂東占領の見通しも見えて来た今、ふいに、将門の心に何とも言えない不安感が沸き上がって来た。振り切ったはずの『謀叛人』と言う言葉の響きが、やはり、心に重く伸し掛かって来る。謀叛の道を突き進んでいる現実とは乖離した心の叫びが奥深いところで渦巻いており、時々顔を出す。
『麿はそんな人間では無い!』
と突然叫び出したくなる。
『一時坂東を支配し、誰もが喜ぶ政(まつりこと)をこの坂東の地で行い、都の帝(みかど)に、そのような政が出来ることをお見せしたい。そして、日本(ひのもと)の全てがそのように成ることをお願いしたいと思う』
 それは、ただの願いであり、朝廷が理解を示すなどと言うことが起こり得ないことは、その言葉が口から出た瞬間には、既に悟っていた。
 しかし、その心の重さに耐え切れなくなってしまったら、従っている者達を裏切ることになり、見放されてしまうことだろう。最早、引き返す道は無い。心を強く持たねばならないのだ。
『大陸では、唐皇室とは無縁の耶律阿保機という男が、己の力ひとつで契丹(梁)と言う国を興し、皇帝と成ったと言う。
 麿は皇孫である。坂東くらい治めて何が悪い。良き政(まつりごと)を行えば良いのだ。そして坂東の者達が喜ぶなら、恥じることなど何も無い。豊かな坂東を作り上げさえすれば、後の世の者達は、もはや『謀叛人』などとは呼ぶまい』
 そう気持ちを立て直した将門だったが、気になる相手、心の中で無視出来ない存在が有った。
 旧主・藤原忠平である。忠平が自分を買っていてくれていたことは分かっていた。申し訳無いと言う想いが正直有った。
 将門は忠平宛ての書状を認(したた)めた。前半には言い訳めいた、謀叛に至る事情を記すも、締め括りとして、
『伏して家系を思い巡らせてみまするに、この将門は紛れも無く、桓武天皇の五代の孫に当たり、この為、例え永久に日本の半分を領有したとしても、強(あなが)ちその天運が自分に無いとは言えますまい』
と居直り、忠平への決別を宣言する。
 将門は、将平との縁で帯同していた僧・円恵を呼び、忠平宛ての書状を清書させた。将平の学問の師のひとりだが、小さな寺の住職で、決して高位の僧では無い。下総に於いては達筆として名が通っている僧だが、元は都で官職に就いていたらしい。しかし円恵自身は、決して嘗ての身分や過去を明かすことは無い。
 余程のことが有って、官職を捨て仏門に入り、色々有った末、坂東くんだりまで流れて来たのであろう。
 将門は常陸に於いて幹部を任命するに当たり、円恵を相談役に迎えようとした。
 しかし、
『その任に値する者では無い』
と、将平を通じて辞退したい旨、申し出て来たのだ。
「この文(ふみ)に付いて、貴僧はいかが思われる?」
 将門が円恵に尋ねた。
「拙僧は、ただ書写したのみ。お舘様に何か申し上げる立場には御座いません」
と円恵は意見を述べることを拒んだ。
「そうか」
とだけ将門は言った。覚悟を以て書いたもの。仮に円恵に意見されたとしても、変えるつもりは無かった。
 忠平に宛てた文(ふみ)を書くことに寄り、将門は拘りを完全に捨て去り、漸く本当の意味で心の整理を付けることが出来たのかも知れない。

 この手紙が忠平の許に届いたのは、それからひと月ほど後のことである。監視の目を掻い潜り、何とか京に潜入出来たとしても、謀叛人から時の権力の頂点に位置する太政大臣への手紙がそう簡単に届く訳は無い。使いの者は、殺されたか捕らわれたかしたのではないか。

 夕刻になり、興世王と玄茂が将門の許を訪れた。
「お舘様。常陸以来、慌ただしく、その暇も御座いませんでしたが、もはや、本気でお舘様に刃向かって来る者も見当たりませぬ。近くに八幡宮が御座いますゆえ、主な者を従えて、一度、戦勝祈願に参ってはいかがで御座いましょうか?」
 玄茂が言った。
「そうであるな。では、明日参ろう」
 将門自身も、最終的な覚悟が出来た以上、神仏に祈願し、士気を更に高めることが必要と思った。

 国衙の囲みは文屋好立(ふんやのよしたつ)に任せ、翌日、主立った者達を従え、将門は八幡宮を訪れた。大きな神社では無い。手配してあったのか、宮司が出迎え、恭しく挨拶する。
 本殿に通され、宮司がお祓いをし、祝詞(のりと)を上げた後、ひとりの巫女が現れ、手に鈴を持ち、楽太鼓(がくだいこ)に合わせて踊り始めた。
 巫女はドン シャンシャンシャン ドン シャンシャンシャンと規則的なリズムに合わせて踊っている。
 将門は、最前列正面に胡坐を掻き、少々退屈げにそれを眺めていた。何か想いに耽り始めたのか、目は開いているものの巫女の姿が、将門の意識から遠退き始めていた。
 そんな時、突然鈴の音が止まった。気付いた将門が見上げると、鈴を持った右手を挙げたまま動きを止めた巫女が、将門を見下ろしている。
『無礼な』
 そう思ったが、咎めるのも大人げ無いかと思いながら、巫女の目を見返す。その眼が普通では無い。将門に視線を投げながらも、焦点は遥か彼方に結ばれている。
 突然大声を出した。
「吾は八幡大菩薩の使いなり! 火雷天神をして蔭子(おんし)・平将門に天命を授ける。日(ひ)の本(もと)の新しき皇(おう)となるべし」
 それだけ言うと巫女は、全身が痙攣したかの如く伸びあがり、そして倒れた。
 そこここから、「おー!」と言う声が上がる。
 将門は訝しげな顔をして興世王を見た。
「なんじゃ? 今のは」
「見た通り、聞いた通り。天命に御座います」
 興奮気味に興世王が答える。
「八幡大菩薩が、菅原道真公の霊魂を通して、お舘様に、新しき帝(みかど)と成るべきこと命じられたのです。ゆめゆめ、お疑い召されるな」 
 そう付け加えたのは、玄茂である。
「皆、もそっと下がれ!」 
 そう言うと玄茂は、膝行(しっこう)で一間ほど後ずさりし、それに連れて他の者達も慌てて下がる。
 将門が向き直って皆と対面する。
「麿が新しき帝(みかど)に…… ?」
 そう言いながら将門が皆を見回す。
「数多(あまた)の臣に代わりまして、新しき帝の誕生を寿(ことほ)ぎ、幾久(いくひさ)しき弥栄(いやさか)をお祈り申し上げます。 
 是にて、我等を始め小者に至る迄、何の憂いも無く、新皇(しんのう)様の新しき世作りの為、命懸けで働くこと出来まする。お目出度う御座います」
 そう言うと、玄茂は床に着くほど低頭した。
「お目出度う御座います!」
 他の者達も揃って唱和し頭を下げる。
『そうか。皆の心にも、謀叛人の三文字は、棘となって突き刺さっていたのか』
と将門は思った。

 国司舘に戻った将門は、翌十九日に本気で国衙を開かせ、接収する旨宣言した。
 そんな将門を、将平が訪ねた。
「申し上げたき儀が有って参上しました」
 将平の用件は分かっていた。
「帝(みかど)の位と言うものは力ずくで争い取るべきものではありません。
 昔から今に至るまで、天下を自ら治め、整えた君主も、祖先からその皇基や帝業を受け継いだ帝王も、すべて是、天が与えた処であって、外から軽々しく図り議することがどうして出来ましょうか。そのようなことをすれば、きっと後世に人々の謗りを招くに違いありません。是非思いとどまり下さい」
「争い取るのでは無い。天命が降ったのじゃ」
「しからば、なぜ八幡大菩薩が、道真公の霊魂を通じて命じなされたのか?」
「そのほうに申すのも釈迦に説法のようじゃが、八幡神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、即ち応神天皇の神霊であり、欽明天皇の世に初めて宇佐の地に示顕した皇祖神である。
 また、道真公の霊魂を通じたのは、今の朝廷は藤原北家に牛耳られており、その罠に嵌って無念の生涯を閉じられた公を天が哀れみ、神とされたからじゃ。蔭子(おんし)たるこの将門に、道真公に代わって藤原北家を倒せとの御託宣じゃ」 
「道真公を神として祀ったのは、祟りを恐れた都の公家達で御座いますぞ。つまり、藤原北家そのものが、道真公を神として祀ったのです。八幡神とはなんら関わり御座いません」
「だが、火雷天神が、今や庶民の崇敬を集めていることは間違い無い。その無念を晴らして欲しいという願望も強いものがある」
「全く筋が通りませぬ。誰が、そのような……」
 八幡神を利用しようとした例としては、彼(か)の悪名高き弓削道鏡がおるのですぞ、と言いたかったが、それを言ったら将門を本気で怒らせてしまうと思い、やめた。
「四郎。麿はこれ以上、そのほうと議論するつもりは無い。どうせ、口では言い負かされるであろうからな。だが、そのほうが何と言おうと、今の考えを変えるつもりは無いのだ」 
 その時、いつも将門の側に控えているが、普段口出しをすることは無い小姓の伊和員経が口を開いた。
「お舘様、口出しお許し下さい。過ちを、主(あるじ)と争って迄も諫める臣がおれば、その主君は不義を犯すことは無いと言います。世に
『天命に逆らえば忽(たちま)ち災厄が降り、帝王に叛逆すれば即座に刑罰がその身に加えられる』
と言い習わしております。
 どうか新天皇、将平様の諫言に心をお留めになって、よくよく思案を巡らされて御裁断をお下し下さいませ」 
「員経、間違えるな。『天命に逆らう』のでは無く、天命に従うのだ。
 なぜ、麿を『新天皇』と呼びながら、『帝王に叛逆すれば即座に刑罰がその身に加えられる』などと申す。天命に因り、反逆では無くなったのだ。
 麿は桓武天皇五代の蔭子(おんし)として帝業を継ぐ。 …… 将平、員経、そのほう達が案ずる気持ちは分かる。だが、最早、進むべき道は決まっておるのじゃ」



 45. 天命 2

 翌日、介の藤原尚範(ふじわらのひさのり)を既に追放し、印鎰(いんやく)を押収したことを告げると、籠っていた者達はあっさりと降った。
 国衙を接収した将門は、入れる限りの者達を国衙に入れ、改めて、多くの者達の前で、神託を再現した。

 痙攣状態の巫女が
「朕の位を蔭子(おんし)・平将門に授ける。その位記(位階を授けるときに与える文書)は、左大臣・正二位・菅原朝臣の霊が捧げる処である。右の八幡大菩薩は、八万の軍を催して朕の位を授けるであろう。今、直ちに、三十二相楽を奏でて、速やかにお迎え申し上げよ」
と告げ位記を翳す。
 将門は位記を頭上に恭しく捧げ持って拝礼し、興世王と玄茂らが称号を奏上。将門を名付けて『新皇(しんのう)』と称した。
 驚愕と興奮が、居並ぶ者達の間に伝播して行く。どよめきが鎮まるのを待って、将門が語り始める。
「我等は既に反乱軍では無い。天命に因り世の乱れを正す、新たなる皇軍である。
 我等は八幡大菩薩の御加護を受ける身。運悪く肉体を失う者も、その霊魂は浄土へと導かれるであろう。天命を信じ、持てる力の全てを尽くし、働くが良い」
「おー!」と言う雄叫びが上がり、再びどよめきが広がって行く。

 因みに八幡神は、日本土着の神祇(じんぎ)信仰と仏教信仰が混淆し、一つの信仰体系として再構成された神仏習合の形態を取り、神でありながら菩薩でもある。それが、この時代に於ける八幡神の共通認識であったと思われる。

 どよめきの静まるのを待って、除目(じもく)が行われ、以下が読み上げられる。

 下野守 平将頼(将門舎弟)
 上野守 多治経明(常羽御廐別当)
 常陸介 藤原玄茂(常陸掾)
 上総介 興世王(武蔵権守)
 安房守 文屋好立(上兵)
 相模守 平将文(将門舎弟) 
 伊豆守 平将武(将門舎弟)
 下総守 平将為(将門舎弟)

 前夜の打ち合わせに於いて、興世王は、経験が有るとの理由で、当初、武蔵守を望んだ。だが、将門は、武蔵守に付いては腹案を持っていた。秀郷を待っていたのである。下野守とするのは、秀郷の力を更に増すことになるので危険と思った。
 そこで武蔵守をと思ったが、未だ参陣していない秀郷を指名すれば、物議を醸すことになる。その為、武蔵守に付いては、敢えて空席とした。
 しつこく聞いて来る者が有れば、当面自分が兼務すると言い繕うつもりでいたが、仮にも帝(みかど)を称した為か、問い詰めて来る者はいなかった。それに、興世王を武蔵守にはしたく無かったのだ。
 武芝との間で和議が成ったとは言っても、民は興世王の所業を忘れてはいない。上手く行く訳が無いと思った。
 興世王にしてみれば、武蔵守を拝して、貞連を追放することが出来たらどんなに気分が良いだろうかと思ったが、皆の手前、今の将門に表立って強く要求することは出来ない。作り上げようとしている権威に自ら水を差すことになるからだ。

 もうひとつ、皆の意見を抑えて、将門が己の考えを通した部分がある。都の朝廷に倣って親王任国の長官を、『介』としたことだ。
 これに付いては、異論も多く有ったはずだが、やはり、表立って反対する者は居なかった。
 しかし将門は、結果としてひとつの例外を作ってしまった。当初、四郎・将平を上野介とするつもりだった。しかし、夜半より将平の所在が掴めなくなっている。除目(じもく)に際してやむを得ず、上に上野守として多治経明を据えた。
 将平が出て来れば、そのまま上野介とし、多治経明は異動させる。最初の構想では、経明は蔵人頭(くろうどのとう)として手元に置くつもりでいたのだ。だから、上野守を置いたのは飽くまで繋ぎの処置で、太守である親王の権益を侵すつもりなど毛頭無かった。

 その将平は、八幡宮から戻った日の晩、密かに伊和員経と会っていた。
「員経。良う言うてくれた。お聞き届け頂くことは出来なかったが、兄上のことを思うてのそのほうの諫言、麿から礼を申す。その方こそ、兄上の真の忠臣じゃ」
「勿体無いお言葉、感じ入ります。しかし、お心が分かっていれば、もっと早く将平様にご相談申し上げるべきでした。僕(やつがれ)如きが申し上げるべきでは無いと堪えておりましたが、間違っておりました。遅過ぎました」
「いや、罪は麿に有る。戦に明け暮れるようになってから、兄上と話すことが少なくなっていた。もっと話すべきであったのだ。兄上をあのように導いたのは、やはりあの男か?」
 員経が黙って頷く。
「麿は、これ以上兄上に着いて行くことは出来ぬ。袂を分かつことにする。どうする? 麿に着いて来るか?」
 員経は首を横に振った。
「いえ、例えどのようなことに成ろうとも、麿は、命尽きるまでお舘様の側におるつもりで御座います」
「そうか。ならば、他人(ひと)に見られぬうちに戻れ。兄上のこと、頼み置く。お考え承服出来ぬとは言え、兄上のご無事を願う心に変わりは無い。大事を耳にすれば、そなた宛に使いを送る。その時は、兄上の耳に入れてくれ」
「畏まりました」

 甲斐、信濃の国府と連携を取り、将門と対抗することを模索していた百済王・貞連が、上野陥落と将門が除目(じもく)を行ったことを耳にし、遂に逃亡した。将門の側近に興世王が居ることを考えると、他の国司達のように追放だけで済むとは思えなかったのだ。

 以後、坂東の情勢は、信濃からのみ、都に齎されることになる。

 伊豆守、相模守は、常陸での将門の蜂起を知った後、早々と逃亡している。常陸とは離れているが、以前より、将門の弟・六郎・将武が伊豆、相模に勢力を広げていた為、危機感を抱いたのだ。
 安房守は、上野陥落後、海路、伊勢に向けて逃亡。貞連の後任の上総介は、まだ赴任していなかった。

 その頃、都は大騒ぎになっていた。 
 庶民の間では、将門が、数万の大軍を率いて明日にでも都に攻め上って来るかのような噂が飛び交っていた。そして、その噂が貴族達をも怯えさせる。
 私闘を戦っていた頃、上洛し、都で持て囃された将門の噂を皆覚えている。実際には負け戦も有ったが、噂としては無敵の猛将である。
 その将門が謀叛を起こしたとなれば、明日にでも都が火の海になるのではないかと恐れるのだ。
 遠く離れた都での噂は、将門の実態とは掛け離れたものになっている。

 確かに将門は強かった。
 それは、源扶(みなもとのたすく)らに常陸の野本で待ち伏せされた時の戦闘や、八十人もの騎馬武者に石井(いわい)の営所を急襲された時、僅か十人ほどの人数を率いて打ち破っていることを見ても明らかだ。
 ただ、軍を率いての戦闘となると、将門が強かったと言うより、いずれも、呆れるほど相手が弱かったと言わざるを得ない。
 どの物語を読んで見ても、ここに登場するような、弱くてだらしない軍が登場することは無いだろう。情けないとさえ思える程だ。
 何度も述べている通り、平安初期に国軍が廃止されて以来、それまで、定期的に行われていた農民兵の軍事訓練は全く行われなくなって久しい。
 そう言う、いわゆる一般人が、志願した訳でも無いのに突然戦闘に狩り出される。自分の身に置き換えてみれば、その恐怖心たるや想像出来る。時代や戦に関する考え方は相当違うにしても、命の危機に際しての人の反応に、そんなに大きな違いは無いと思う。普通の人が、敵を殺し、命の危険を顧みず戦えるように成るには、相当な教育と訓練の繰り返しが必要だ。それが全く無かったし、思想も無い。ちょっとしたことで逃げるのは当然なのだ。
 国軍を廃止する代りに、少数精鋭を標榜して設けられたはずの健児(こんでい)にしても、時代を経るに連れ形骸化し、張り子の虎となっている。
 寄せ集めの土豪達に忠誠心などは無く、一旦不利と見れば、迷うこと無く逃げ去ってしまう。そして、こんな構成の軍を指揮する受領はと言えば、軍人では無く文官である。戦闘経験、指揮経験も殆ど無い。初めから、まともな戦など出来る訳が無いのだ。軍とさえ言えない。
 そう言う意味で、実際のところ、秀郷らと戦うまでの将門の指揮能力に付いては未知数と言っても良かった。
 将門謀叛の噂が飛び交うと、それ迄も悪かった都の治安は更に悪化した。
 盗賊団が昼間から我がもの顔で洛中を闊歩し、荒らし回る。火付けも頻発し、いつ御所が焼けるかも知れない有様だ。公卿達の中にも、財宝を密かに運び出し、どこぞに隠そうとする者が居る。その数、ひとりやふたりでは無い。

 そんな折、信濃の国司より、将門が下野、上野を制し国司を追放し、印鎰(いんやく)を奪ったばかりで無く、新皇(しんのう)と称し除目(じもく)を行ったらしいということが報告される。
 忠平に取っては、将門謀叛の報せ以上の衝撃であった。朝廷の権威を根底から揺さぶり兼ねない。その上、藤原純友の部下の藤原文元(ふじわらのふみもと)が備前介・藤原子高(ふじわらのたねたか)と播磨介・島田惟幹(しまだのこれもと)を摂津国・須岐駅(すきのえき)(現・兵庫県芦屋市付近)で襲撃し、純友も謀叛に踏み切ったとの報せも入って来る。
 何を優先するべきか。忠平は究極の判断を迫られていた。
 都には、官位を得られずに欝々とした日々を送っている、主に五位相当の地方豪族の子弟が数多く居ることを承知していた。本来なら、蔭位(おんい)として得られるはずの官位、官職を得られず、公卿達に無償で奉仕しているのは、それより他に出世の道が全く無いからに他ならない。それを、将門は骨の髄まで承知している。
 もし将門が都に向けて進撃を開始し、その途上でそれらの者達の親である土豪に、息子達に官位・官職を授けると言って取り込んで行ったら、全国の兵(つわもの)共が雪崩を打ったように将門の許に集まるということも起こりうるのだ。
 さすがに忠平は、庶民や多くの公家達のように、将門が明日にも攻め上って来るなどとは思わない。だが、長期的に見れば、将門の謀叛が成功する可能性が、決して小さいものでは無いことを予見した。そして、将門を討つことが何を置いても最優先の急務であると決心したのだ。
 何としても純友を懐柔し、和議に持ち込むこと。もはや崩壊してしまった坂東諸国の国府軍に代えて、速かに将門追討軍を送ること。民心の安定を図る為、諸国の神社・仏閣に将門調伏の祈祷を命じること。将門の謀叛が現実化してしまった今、誣告の罪で受牢している源経基を、ただちに解き放ち、その名誉を回復した上、褒章を与えること。
 忠平は、それらの対策を次々に打ち出し、太政官をして驚くほどの速さで実行させて行った。
 ただちに諸社諸寺に調伏の祈祷が命じられ、天慶三年(九百四十年)一月九日には、源経基が賞されて従五位下に叙された。
 一月十九日には参議・藤原忠文が征東大将軍に任じられ、追討軍を募りながら坂東に向かう為に、帰宅することも無く、陣定(じんさだめ)の席からそのまま京を出立した。
 征東大将軍の人選に付いては、野宰相と呼ばれ弓馬を良くした小野篁(おののたかむら)の孫で、自身も右近衛少将を務めたことの有る正五位下・小野好古を送るべきという意見が出たが、忠平は、六十八歳になる正四位下・藤原忠文で良いと指示し、そのように決しさせた。
 余談だが、好古は歌人・小野東風の兄でもある。
 公卿達は、高齢の忠文では心許無いと案じ、忠平の意向を訝ったが、やむ無く太政大臣の意向に従った。
 講和が成ったとは言え、都が軍事的空白地帯と成れば、純友がいつ再び反乱するかも分からない。忠平の考えとしては、数少ない軍事に秀でた者達は都に残して置きたかったのだ。そして、成り行きに寄っては将門に付く可能性も有る土豪達を、いち早く追討軍に取り込んでしまおうというのだ。
 朝廷の威光の許に兵を招集する為には軍事的な才能よりも、正四位下・参議兼右衛門督(うえもんのかみ)という肩書が物を言う。実際の戦闘指揮は、誰よりも将門を知る平貞盛に執らせれば良いと師輔の進言により決めており、忠文にもそう伝えた。実態的に忠文は、最初から名目上の将軍であったのだ。

 忠平は、既に貞盛に与えてある『将門召喚状』に代えて追討の官符を発行し、潜伏している貞盛を探し出して手渡す為の急使を坂東に送った。
 土豪達を追討軍に取り込み、又は反将門勢力とする為に、忠平は、更に画期的な一手を打った。
『その身分に関わらず、将門を討った者は五位に叙す』と全国に告知したのである。
 五位と言えば国守に相当する官位である。そして、五位以上が貴族と称される。どこの馬の骨とも知れない土豪でも、いきなり貴族にすると言うのだ。
 結果として低い身分から大功を賞せられ貴族に登った者は少数居るが、初めからこんな約束をするのは前代未聞である。その家柄に寄って代々貴族階級を引き継いで来た者達に取って、到底容認出来ることでは無いはずだ。
 現代の官僚でも、階層としての既得権益を侵されるかも知れないとなったら、大同団結して徹底的に抵抗するだろう。現代に例えるなら、高卒のノンキャリア平職員でも、いきなり局長級に登用すると言われたような衝撃だったに違いない。

 忠平はそれも抑え込んだ。公卿達も、いかに太政大臣の意向とは言え、平時なら到底容認出来ないことであるにも拘わらず、将門に対する恐怖心から承服した。結果として、これが功を奏することとなる。

竜の軌跡 第四章(歴史小説)

執筆の狙い

作者 青木 航
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 10/28の続きです。いよいよクライマックス。将門は謀反に踏み切り、天命が下ったとして、新皇を称し除目を行い坂東各国の国司を任じます。

・将門には朝廷を倒すつもりが有ったのか?
・何故、武蔵守を空席としたのか?
・親王任国の中で、何故、上野のみ『守』としたのか?
・秀郷が打倒将門に意を決する迄の経緯

 この章ではそれらが語られます。
 敬遠されていた方にも、この章からは読んで頂ければとの想いは有りますが、世の中そう思惑通りには行かないことも分かっています。
 ただ、もし、『歴史にも将門にも興味は無いが、読んでみてやろうか』という奇特な方が居らしたら、wikipediaで結構ですから、『承平天慶の乱』或いは『平将門』、『将門記』何れでも良いので、さらっと目を通して頂いた上で読んで頂くと、流れも入って来るし、違う部分にもお気付き頂けると思います。
『そんな手間掛けてまで、お前の作品を読もうなんて物好きは居ないよ。そんな事までしなきゃ分からないようなもの書くな』
 何処からか、そんな声が聞こえて来そうですがね。

コメント

青井水脈
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読ませて頂きました。クライマックスだけあって、これまでよりハラハラする展開となっていて、読み応えがありました。
特に初めは、「」の」が無い?と思ってしまいましたが、時代劇なら役者泣かせ(笑)の長台詞で。

>いわゆる一般人が志願した訳でも無いのに、いきなり戦闘に駆り出される。(中略)そういう意味で、実際のところ、秀郷と戦うまでの将門の指揮能力については未知数と言っても良かった。

へえ、なるほど。

気になった箇所が一つあります。↓

>『その身分に関わらず、将門を討った者は五位に敘す』
ここから五位と言えば、説明が入りますね。こういうことは当時でも前代未聞で、貴族階級の者から反発も必至だと。
それから高卒ノンキャリア職員、など現代のワードが出てきて、それまで将門記として読んでいただけに、少し違和感ありました。無論、例えとしてわかりやすかったのですが……(汗)

青木 航
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 青井水脈 前回に続いてお読み頂き、本当に有難う御座います。
 当分、誰も読んで頂けないだろうと思っておりました。


>それまで将門記として読んでいただけに、少し違和感ありました。

 仰る通りだと思います。明らかに邪道です。当時の人がどんな感覚で受け取ったか。それをダイレクトに感じて頂く為の策です。
 ここで、誰か公家を登場させて、
『何をお考えなのか? 何処の馬の骨か分からぬ者でも五位に除すじゃと。聞いたことも無い。そんなことをすれば、世の理(ことわり)が根本から崩れてしまうと、太政大臣様はお気付きにならんのか』
と言う公家のぼやきでも入れた方が良かったですかね。それよりもシンプルで実感し易いと思ったのですが、矢張違和感が有りますか?
 実は私、この手法、時々使っています。

青木 航
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青井水脈様、急いで打ち込んだ為、継承

青木 航
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 慌てると駄目ですね。言うそぱから、ミスを重ねてしまいました。

青井水脈様、急いで打ち込んだ為、敬称が抜けてしました。お詫びします。

茅場義彦
M106072175192.v4.enabler.ne.jp

まだ全部読んでないんですが

上手いとは思います よく書けてる

でも 他のキャラのほうがいいかも

将門負けるから可哀想。。。

青木 航
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茅場様 有難う御座います。

青井水脈
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そうです。現代の官僚でも〜という例えで、コメントに書かれた公家のぼやきよりダイレクトに伝わりました。
違和感というのか、それが巻末の解説に書かれていたらしっくりくるかも、と思いました。
ネット小説ですし、物語の"〜了〜"の後とか。こちらでは、執筆の狙いで説明してみるとか?
読み手次第と考えますね〜。それこそ天慶の時代の下野や都にタイムスリップしたかのような臨場感を持って読んでいたら、醒めてしまう方もいるのではないかという懸念も。


この章はどよめきと共に緊迫感が伝わり、これまでで一番テンポ良く読めたので、もっと多くの方に読んで頂きたいと一読者ながら思いました。

青木 航
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 青井水脈様 有難う御座います。
 成る程。しかし、
>それこそ天慶の時代の下野や都にタイムスリップしたかのような臨場感を持って読んでいたら、醒めてしまう方もいる。

 もし、そい言う読み方をして下さる方がいらっしゃれば最高ですが、正直、自分には人を引き込むほどの力量は無いと思います。

 しかし、高見を目指さなければ意味がないので、アドバイス有り難く受け止めさせて頂きます。

鳩ミイル
i220-108-121-218.s42.a014.ap.plala.or.jp

私も歴史に興味があり、歴史を題材にした小説を書いてみたいなと思っていたのですが、
知識が少なく、書くまでにいたっていませんでした。
青木さんの小説はその意味でとても参考になりました。

この作品についての感想ですが、
漢字も多く、若干、難解な感じもしました。
私の日本史のレベルは低い方なのですが、
もう少し漫画っぽい方が、私のレベルにはちょうどいいかなと思いました。

でも、内容的にはいろいろなことが盛り込まれており、歴史の勉強になると思いました。

青木 航
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実は、『なろう』に『新・将門記』と言うタイトルで書いた稿には、スペースバンバン空けて、ルビも振りまくっています。中、高校生に読んで貰いたかったもので。

hir
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 冒頭の宣言が、殺人の容疑をかけられたから人を殺しても問題ない。くらいのノリに聞こえます。
 途切れ途切れに読み進めた印象ですが、将門は周りの状況や意見に流されやすく、徒党を率いる人物には思えません。
 人物や場所の情報が多岐にわたり、敵、味方の判別できない。内容が入ってこないから、セリフがどれも取り繕っているようで、盛り上がらない。
 大河ドラマでも教養番組でもなく、平将門に興味を持ってもらう、その入門書としては厳しそうです。
 逆に、平将門を何十年も研究している人が読んだら、どういう反応をするか気になります。

青木 航
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hir様 ご感想頂き有難う御座います。

 下記は、他サイトに連載中色々アドバイスを頂いた方に対する謝辞です。

>城元太様には、終始、貴重なご意見、アドバイス、また、誤字のご指摘等も頂きました。
 将門研究家を自認する城元太様のご協力、ご指導が無ければ辿り着けなかったゴールと思っています。

 ただ、正直、承平天慶の乱、或いは将門に付いての基礎知識をお持ちの方でないとお楽しみ頂けない内容だったと反省しております。

 ご指摘の
>殺人の容疑をかけられたから人を殺しても問題ないくらいのノリに聞こえます。

は少し検討違いと思います。もし読み直して頂ければ、そんな表現には当たらない事をきっとご理解頂けると思います。

>人物や場所の情報が多岐にわたり、敵、味方の判別できない。

承平天慶の乱をざっとでもご存知の方なら、決して、そうはならないと思います。
 矢張、白紙の状態からでもご理解頂けるようなものが書けなかったことは、ひとえに私の筆力不足であると認めます。申し訳有りませんでした。

 土台、『執筆の狙い』に書いたことは、元が分かっていなければ、比較も違いも、疑問に対する回答も成り立たないし、面白さも伝わらないと分かりました。重ねて申し訳有りません。

 刃を突き付けられた興世王が平然としていることひとつも、実は意外な展開と取る方が多いのです。

 お読み頂いたことに、改めて御礼申し上げます。

青木 航
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 hir様 言葉が足りなくて申し訳有りません。将門が謀反に至る経緯は、第三章に書きました。いきなり第四章を読まれたのであれば、寄せて頂いた感想の冒頭のような印象を持たれても仕方無いと気付きました。

 また、人物の相関関係についても、伏線を含めて、今までの章で記載しております。
 かと言って、最初から全部読んで下さいなどと不遜な事を申し上げるつもりは有りません。
 解り難くかったのであれば、素直にお詫びします。

青井水脈
om126194254147.10.openmobile.ne.jp

再訪失礼して、質問よろしいでしょうか。
作品のタイトルを決めたきっかけ、由来は何かありますか?平将門、承平・天慶の乱とウィキペディアの記述、こちら本編を読んでも、竜というイメージが沸かなかったので。それにしても平将門というと、怨霊と書かれたサイトばかり出てくること(笑)
合戦の様子そのものか、"龍虎相打つ"から取ったのかと個人的に推測してみます。

青木 航
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青井水脈様、何時も有難う御座います。

 元々のタイトルは『新・将門記』でしたが、『新平家物語』など大作が有るので、おこがましいかなと思って改題しました。

 竜は天に昇ろうとする将門のイメージで(失墜してしまいますが)、それまでの道程という意味で『軌跡』と付けました。

 このタイトル、ラノべみたいで内容を誤解された方も居たと思いますので、余り良いとは言えませんでした。

 都で認められない儘鬱々とした日々を過ごしていた時死んだのなら恨みを残したかと思いますが、失敗したとは言え、将門は己を解放し、目指す方向に突き進みながら死んだのですから、私は恨みを残して死んだとは考えていません。

 将門を怨霊としたのは、公卿達の恐怖心であり、『太平記』であると思っています。

 とは言え、将門と言えば、今や最強の怨霊と言うことになってしまっています。
『虚』が繰り返されることによって、いつか『実』になって行く、平安時代では無く、正に今、SNSの世界で起こっている事ではないでしょうか?

 リツイートには気を付けましょう。

青木 航
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 一章から読んで頂くようお願いする訳にも行かないので、ざっと『あらすじ』を載せておきます。

 都で思うような出世が果たせず、思い悩んでいる平小次郎・将門。

 そんな時、伯父逹が私領を横領しているとの弟・三郎・将頼からの手紙を受け取り急ぎ帰郷する。

 伯父のひとり国香との話し合いは進展せず、もう一人の伯父・良兼との揉め事が始まる。

 将門は、幼馴染みである良兼の娘・君香を略奪し妻とする。

 伯父逹三人の妻の父・前常陸大掾・源護の子・扶らの待ち伏せを受けた将門は、事前にそれを察知し、扶らを撃ち取ったばかりでなく、一挙に護の本拠地に攻め込んで壊滅させてしまう。

 だが、その際、護の舘に滞在していた伯父の国香をも焼死させてしまったことには気付かなかった。

 父が将門に討たれたと知らされた従兄弟の貞盛は、急ぎ帰郷し経緯を調べるが、将門が意図して討った訳ではないことを知り、将門と和睦しようとする。 

 伯父の一人・良正は将門に戦いを挑むが、敗れ去る。

 良正が良兼に助力を求めたことにより、上総介という立場上、将門との全面対決を避けていた良兼も重い腰を上げる。

 心ならずも二人の伯父に引き込まれるようにして、貞盛も将門との対決に巻き込まれて行く。

 三千もの兵力を以て将門に戦いを挑んだ良兼であるが、不可思議な作戦により初戦に破れ、下野国に逃れて国府に逃げ込む。

 下野の国衙を包囲した将門は、下野守との交渉により、囲みを解き、良兼らを解放するが、良兼らが将門を攻めようとしたことが原因との記述を下野の国庁の記録に残させた上、引き揚げる。

 源護が太政官に訴え、弁明の為、双方上洛するが、将門の武名は既に都にも達しており、私闘であり微罪であるとして、将門有利な裁定が下る。

 恩赦により解放された将門は、公家たちに持て囃され、あちこちの公家に呼ばれては馳走になるという日々を送る。

 だが、帰郷した将門を待っていたのは源護と伯父逹の報復であった。

 都での馳走攻めの日々を送った為か、将門は脚気を発症する。

 将門が陣頭指揮を出来ない上に、良兼らが祖・高望と将門の父・良将の木像を掲げて戦いを挑んで来た為、郎等逹が動揺し、将門軍は破れる。

 良兼は将門の本拠地を焼き払い、将門の妻・君香を拐って引き揚げる。

 将門の妻は、幸いにも、良兼の息子達。異母兄弟である公雅、公連の力を借りて脱出し、藤原玄明によって、九月十日に豊田に送り届けられた。

 一旦は、山中に隠れた将門だったが、やがて復活して、再度、伯父逹に戦いを挑む。

 そして、弓袋山で良兼を破る。また、良兼らが官牧である常羽御厨を焼き払ったことの罪を将門が訴え、それが認められて良兼らに追捕官符が下った。 
 しかし、国司達は良兼追悼に動かず、様子見を決め込んでいた。

 良兼は将門の駆使・子春丸を裏切らせ、石井(いわい)の営所内の情報を手にした上で、80騎を以て夜襲を掛けるが、僅か10人の将門勢に破れる。

 この敗戦により希望を失った貞盛は、将門を訴える為都に向かって旅立つ。
 一方、高望王と将門の父・良将の木像を掲げて戦ったのは貞盛の進言との噂を耳にした将門は、怒り頂点に達し、100騎を率いて貞盛を追う。

 信濃で貞盛に追い付いた将門は、滋野一族の応援を得た貞盛と戦い、激戦の末、これを破る。
 破れた貞盛は、生き残った郎等達ともはぐれ、単身、信濃川を泳いで渡り、信濃の国府を頼る。
 国府の援助を受け、貞盛は都へ向かい、私君・藤原師輔を頼る。

 丁度その頃、武蔵では、新任の国司・権守・興世王と介・源経基が、不法な搾取を企んで足立郡司・武蔵武芝と争いを起こしていた。

 追い詰められた武芝は、その頃、下総、常陸、上総にまで影響力を広げていた将門に仲裁を依頼することにした。

 武芝の依頼を受け武蔵に入った将門。

 将門を恐れ、且つ、この先利用出来るのではないかと考えた興世王はあっさりと将門の仲裁に従う。

 一方、将門への対応を巡って興世王と対立した経基は、国司舘に戻り、引き込もっていた。
 武芝との手打ちの祝宴が催されていたが、事情を知らない酔った兵達が、経基の従者達を誘おうと、松明を手に経基の国司舘に向かった。

 これを、攻撃と思った経基は逃亡し、都に向かった。

 都では、太政大臣・藤原忠平が将門を使って坂東を安定させようと考えていた。

 それに反対の忠平の次男であり中納言の師輔は、貞盛からの要請により将門召喚状を出すよう忠平に働き掛ける。
 そんな時、武蔵介・源経基が都に逃げ帰り、将門、興世王、武蔵武芝らが、謀反を起こしたと訴え出る。

 将門召喚状を手に入れることが出来た貞盛は坂東に戻るが、将門に追われ潜伏せざるを得なくなる。

 推問使が派遣され、将門は無実の証明として、坂東五か国の国司達の証明を添えて、弁明書を提出する。

 将門の無実が認められ、源経基は誣告の罪で拘束される。

 中納言・師輔が太政大臣・忠平に、興世王が盗賊と繋がりがある疑惑が有ると伝える。

 忠平は直ちに興世王を都に召喚しようとするが、証を得るべく探っているので、召喚は少し待ち、そこ代わり、興世王を武蔵の政から直ちに外すよう献策する。

 師輔の献策により、正任の武蔵守として、百済王・貞連が着任し、興世王を政から排除する。
 興世王は失踪し、将門の許に転がり込む。
 その後、常陸介・藤原維幾の圧迫を受けた藤原玄明も将門を頼って転がり込んで来る。

 将門に追われた貞盛は、叔父である維幾を頼って、将門召喚状を提示する。

 将門を攻め玄明を捕らえる大義名分が出来たことを喜んだ維幾は三千の兵を集め、下総に攻めいる準備を整えるが、察知した将門は、千の兵を率いて常陸に攻め入り、対峙した国府軍に打撃を与える。

 多くの兵が逃亡し、国府軍の主力は国衙に逃げ込む。
 国府を囲んだ将門。怯えた維幾は、自ら門を開いてしまう。
 将門は、維幾、為憲、貞盛らを捕らえるが、玄明が印鑰を持ち出したのを見た為憲が『謀反だ!』と叫んだ為、それは、兵達の知るところとなってしまう。

 衆人の知るところとなり、『謀叛』は取り消すことの出来ない事実となってしまった。
『印鑰を奪ったということは、即ち謀叛と言うこと。この上は、坂東を制覇した上で様子を見たら』と興世王が提案する。

太郎仏
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感想返しということで読んでみましたが、なんとなく読み飛ばしました。
それは筆力もありますが多分先程レスバした経験から将門に対する史料をちゃんと漁ってない気がしたからです。
将門は祟らない人間というのは定説ではないですが、オカルト小説「帝都物語」に出てくる平将門の逸話や、今でも東京のオフィス街の将門伝説だと祟ってる面が多々あるわけです。
そういういうのを覆すほどの史料を読んだのかというとしてないでしょう。資本論をカッコつけて入門書や中級書に頼らず一読しているような中途半端はもうやめて、まずは速読術や読書術を身につけて例えば唯物論でも金銭欲や権力欲は出るんだけども、そこを史料を読み込んでフィクションでずらすということはできうるのでやった方がいいんじゃないのかなと思います。とにかく読書が弱い気がします。読書術の本を三万円いろいろ買って読み比べてみるのをお勧めします。もちろん図書館でも構いません。

青木 航
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太郎仏様。コメント有難うございます。

>将門は祟らない人間というのは定説ではないですが、オカルト小説「帝都物語」に出てくる平将門の逸話や、今でも東京のオフィス街の将門伝説だと祟ってる面が多々あるわけです。

 「帝都物語」を根拠にされても困るのですが、『でも東京のオフィス街の将門伝説だと祟ってる面が多々あるわけです』は、東京のオフィス街の将門伝説だと祟ってる面が多々ある"と言われている" わけです』としなければ、正確な表現とは言えません。

 ま、それに付いての見方は、次の最終話に記載しています。

 何でも決め付けるのがお好きなようですが、『将門記』の読み下し、現代誤訳を読み込み、手元に置いて確認しながら書いたものであり、また、将門研究家を自認する城元太さんという方とやり取りしながら、疑問点を確認しつつ書き上げたものです。
 勿論、小説も読んでいますし、『公卿補任』『尊卑文脈』その地、その時代の周辺事情に付いての著作にも目を通しています。

 勿論、『人物が描けていない』とか、そう言う評は今までにも頂いており、それは、自分の筆力の無さと自省しています。

 基本的には『将門記』の流れをトレースし、疑問点については自分なりの見方を入れているという形式です。

 歴史小説に興味の無い方、承平天慶の乱をご存知で無い方には解り難かったようです。特に、敗戦後、貞盛が将門に追われて上洛する下りと、武蔵で興世王らと武芝が揉めるあたりが同時期とされているので、話が、行ったり来たりして解り難かったようです。

 そう言った反省点は多々ありますが、『ろくに知らないくせに』みたいな言い方をされるのは、心外です。

 話は飛びますが、『生産手段の社会化』に付いては私に知識が無かったことを認め、お詫びします。

 日本共産党の綱領に書かれており、赤旗にも記載されているものだったのですね。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-04-08/2006040812_01faq_0.html

 日本共産党に全く関心が無く、赤旗も読んでおりませんでしたので、知識が有りませんでした。赤旗で理論武装している方と共産主義についてディベートしようなどとは身の程知らずでした。

 売り言葉に買い言葉で、みっともない方向に行ってしまったことは反省し、お詫びします。

青木 航
sp110-163-225-178.msb.spmode.ne.jp

飛んでもない誤変換がありました。

>現代誤訳
→現代語訳

突っ込みどころ、自分で作ってしまってますよね。
 お詫びして、訂正します。

青木 航
sp1-75-8-209.msc.spmode.ne.jp

 またもや、誤変換に気が付き目が覚めてしまったので、訂正します。

×『尊卑文脈』→『尊卑分脈』 

だらしないことでお恥ずかしい。

青木 航
sp1-66-98-79.msc.spmode.ne.jp

✳️参考に城元太氏からのアドバイスの一例を添付しておきます。

>やっぱり将門関連を語り合うのは楽しいので長くなってしまいます。
 ご質問の一連の日付問題に関しては、先にご紹介した『平将門と天慶の乱』に考察がまとめて掲載されています。

①まず貞盛の出立の記述が938年2月とした場合、これは938年「12月」の書き間違いだと推測しています。理由は将門記の抄本や『将門純友東西軍記』にも「12月」と記載されていること。そして当時富士山噴火をはじめとした一連の天変地異によるものか、将門記の日付の記入が他にもことごとく誤っている、ということから。

②そして三日間で届いた経基の告訴状のカラクリについては、
938/12月;貞盛脱出⇒京都到着。
939/2/11;貞盛の訴えにより(!)、将門召喚の使者派遣を太政官が決定。『貞信公記』
939/3/3;経基、京都到着。
939/3/25;経基の訴えにより(!)忠平の家司、中宮少進多治助真(助縄)が推問使任命される。
939/3/28;貞盛の訴えによる使者が(!)将門の下に到着(経基の訴えによるものに非ず)。

 としています。非常にスッキリと理解できると思います。
 著者の乃至政彦様とはよくツイッターで遣り取りしておりますし、国王神社のアカウント(なかの人は東京在住の国王神社の氏子さん)ともお付き合いしていますので、よろしければツイッターの方もご覧ください。

 次回の更新をお待ちしています。

~~~~~~✴️~~~~~~
 但し、こういったアドバイスに全て従った訳では無く、自己の発想で、敢えて違う内容としている部分も多くあります。

太郎仏
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再訪します。
こちらの将門記の方は十分な取材があったの事ですので、
それを見越せなかったのはお詫びします。

青木 航
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 有難う御座います。

太郎仏
M014009196000.v4.enabler.ne.jp

ただしですね。
親心と思って指摘しときましょう。もちろん下心もありますが。
まず負けず嫌いなのは結構なことです。それは作品の上達に活かせばいいでしょう。
ただ私はね。正直思うのですが将門専門家の方に色々将門の記録を調べてみたのだけど、この解釈でいいのか?
と聞いて将門があっぱれに戦ったから清々しいので良いのだ。
と言われたとも思わない。
それは独自解釈な訳でしょう。
独自解釈だけど筆力があったらそれでもかけますけどそうじゃない。
結構マルクスの考えでもあなたには独自思考で満足してたけど。
取材として爪が甘いんじゃないのかなとも思う訳です。
これは推論です。私が決めつけたように思えるのはマルクスの資本論の一件から推理も入ってるのです。他にもあなたはよく決めつけと言ってましたが、要するに文章から人間観察して推論することが重要な訳です。人間観察は作家の仕事だと言いますよね。
つまりマルクスの資本論の読み方にしても正直メチャクチャな訳です。その読書法からして将門の本を読み下して果たして読み取れるのかなと。
褒めるべきは将門専門家に教えを乞うたことですけど、
一見専門家に教えを受けたからいいように思えるけど、それをまた見直す訳です。
で取材が十分にできてるか虚心にチェックする。
でチェックができたら、取材が万全なのに筆力の問題。
これは読書と執筆の量が足りてないからです。特に面倒ですが写経というプロの作品を書き写すトレーニングは有効と言われてます。
あとマニュアルですね。
「ベストセラー小説の書き方」クーンツ
「小説家になる!」
「1週間で学べる小説基礎メソッド」
タイトルはやや不正確ですがこの辺りの技術書を読むとやっちゃいけないことを結構やってるから文章が下手で読まれず感想がつかないと思われます。
一応ごはんのセオリーも書くと
基本一枚でいいんです。短いのが好まれます。長いと読んでもらえないので、
で長いのを投稿したいとなるともっと工夫がいる。
投稿の目的に書くとか面白いのを書くとかそういうことですね。

そうやって虚心に学ばないとプロには絶対なれません。
実際に私はプロじゃない。私以上の認識じゃないとプロにはなれないのでプロの敷居というのはもっともっと高いと思う。あとプロになっても続きません。
そこら辺はプロの大沢在昌さんや高橋源一郎さんや村上春樹さんが小説執筆について描いてますから
精神書的にも読むべきだと思います。
私は写経以外は全部やってますがそれでも一次選考も怪しい次第です。
そういう立場からして私は自分が努力するだけではなく、ごはんを利用するならごはんの利用者を感想でレベルアップしなければ無理なんじゃないかなと思った次第です。
この感想もあなたがレベルアップして、ごはん自体をレベルアップしなければ無理なんじゃないかなと思い描いています。
そういう意味で私は大人しく礼儀を守るよりはむしろ喧嘩しあって学んだ方がいいのではないかと思う訳です。

それとですねこれは全員に聞きたいのですが
あなたがこれだけやったらプロになれると思うけど自分ではできない
トレーニングとかありますか。
例えば私はですね。リライト百回という目標を立てていますが、
この手の類です。
素振り千回みたいな、こういうハードなトレーニングがあったら作家になれるだろうなというトレーニング案があったら教えていただきたいです。もちろん思いついたもの、イメージできるものでも結構です。

青木 航
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 どうも、作品を書くよりコメントを書く方がお好きなようですが、説明無しで皆が分かるご自身の作品を書くことの方に力を注いだ方が良いと思いますよ。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

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