ふゆみかん(つづき)
父は作家でした。小説を書いていました。でも、作家でご飯を食べていたわけではありません。文具メーカーの営業の仕事で暮らしていました。
書いている父に、
「どうして小説家じゃないの?」
と幼い私が尋ねると、父は決まって、
「作家っていうのはね、職業じゃなくて生き方なんだよ」
と応えていました。
「お父さんの小説が読みたい」
とねだると、
「どうしても?」
と父は尋ね、私が頷くと、
「じゃあ一つだけだよ、一つだけ読ませてあげる、君がお嫁に行くときに」
と約束してくれました。
いくつもの夏が来て、いくつもの秋が来て、恋をして、心を決めて、実家で過ごす最後の夜になりました。
すべての準備を終えてから書斎に行き挨拶をしました。
「育ててくれてありがとう」
すると父はオレンジ色のフラッシュメモリを一つくれて、それから言いました。
「全部が全部本当のことってわけじゃない」
でもね、と父は続けました。
「書かれてる言葉は残らず本当のホンモノなんだよ」
本当の、ホンモノ?
ウイスキーグラスの氷がからんと鳴って、父は深い色の目で私を見ると、
「結婚おめでとう」
と言ってくれました。
父の丸い瞳、いろんなふうに見える瞳、大好きだった瞳。
「ありがとう、お父さん」
頷く父に、
「おやすみなさい」
と告げてから書斎を出て、裸の机とベッドだけになった自分の部屋に行き、荷づくりしてあったノートパソコンを取り出し机上に置いて、もらったばかりの記憶装置を挿しました。
画面に表れた言葉たちを残らず読み尽くしたら……、と祈るみたいに思いました。朝、父に、いつもの調子でおはようって言おう。
旅の途中なんです、ってオイラ応えた。何してるの? って訊かれたから。
ファミレスの裏で残飯あさってたんだ、野良猫みたいに。だから咎めて言ったんだと思う、ウェイトレスさんは、何してるの? って。
「旅」
と彼女は、クエスチョンマークなしで言った。自分に確認してるような言い方だった。
「旅です」
ってオイラもう一度言った。
「どっからどこまで?」
ってまた訊かれた。
近づいてきたウェイトレスさんのおっぱい、わりとおっきくて、気になっちゃって、だから慌てて応えた。「こっちからあっちまで」
変な返事になっちゃったって思った。
まるでありんこね、って笑ってからお姉さんは、「入りなさい」って言ってオイラを裏口から事務所に入れてくれた。
走って逃げてもよかったんだけど、お姉さんの笑顔が優しそうだったからオイラ言われるがままに入ったんだ。
殺風景な、図工室みたいな部屋でカップラーメンご馳走になった。ラーメンは埃を振り掛けたような味がした。オイラの味覚が、まあおかしくなってたんだろうな。もう三日もまともなもの食べてなかったから。
「学生さん?」
「元、です」
「いくつなの?」
「十八歳」
本当は十五歳だ。
「お家の人は?」
「家なんかないし、家族は死にました」
これも嘘。オヤジもオフクロもアネキもちゃんと生きてる、荒川区の公団住宅で。
ウェイトレスさんはテーブルに肘ついて、でもってふうっとため息なんかついてオイラを見た。なんだよ、その迷子の相談室の係の人みたいな感じ。
ふんっと思って横向いたら、壁には鏡が掛かってて、そこにオイラが映ってた。
なんてこった、山猿みたいに真っ黒だ、炎天下うろうろしてたから。家出する前から伸ばしてた髪、うしろで馬の尻尾っぽく束ねてるんだけど、これはまあ似合ってるな、とか思う。ひょいひょいっとした眉の下で、何考えてんのかわかんない感じの目がビー玉みたいに光ってて、変なやつ、と思ったら、鏡の中で口が漢字の一になった。
「かわいいわね、いい目をしてる」
と、お姉さんが言った。見ると、オフクロが友達とデートに行くときみたいな目してるじゃないか、ちくしょうめ。
よく言われたよ、かわいいわねって、ちっちゃい頃から。タンポポ組の先生にも言われたし、アネキの友達とかにも言われた。
それってオイラの武器だ。大事に使わなきゃいけない。でも今、目の前のこのウェイトレスさんに使うのはどうなんだろ?
おっぱいおっきすぎるし、オイラを見てる目の上の、眉の形とか八の字だし。よくないな、危険かも。
だからオイラ、ごちそうさまでした、って大声で言って、で、自分のトートバッグ掴んで立ち上がった。
「どこに行くの?」
答えられない。行く先なんてないから。
「あっちに行くの?」
そうだ、あっちだ、とにかく、ここじゃないどこかに行くんだ。
「どこで寝てるの?」
河沿いに旅してる。橋に着いたらその下がその夜のホテルだ。トートバッグに入ってるアルミマット敷いて寝てる。明け方はちょっと寒くなってきたけどまだ平気だ。
「構わないでください」ってオイラお願いするように言った。
「ほっとけないでしょ」ってお姉さんは言った。「とりあえず、私の部屋にいらっしゃいよ」
やなこった、って思ってドアに向かった。そしたら背中で声がした。
「通報するわよ」
何だって?
「お家に連絡、嫌でしょう?」
夕方まで事務所で待たされたあと、逮捕されたみたいに下向いて、お姉さんのあとくっついて山手線に乗った。切符は買ってもらえたから財産に痛手はなかった。
高田馬場で降りて二十分くらい歩いたら早稲田大学だった。冠みたいなのかぶってる時計塔、写真とかで見て知ってた。そのすぐ裏手に、お姉さんの部屋はあった。
みすぼらしい建物だった。
狭い階段で、「早稲田大学出身なんですか?」ってお尻に尋ねたら、「なわけないでしょ」って応えが笑いと一緒に降ってきて、なんでだろな、嬉しかった。安心したんだ。
二階建ての二階には部屋が二つあって、手前の部屋からは変な匂いがして、そこ通りすぎた奥の部屋がお姉さんの部屋だった。
女の人の部屋に入るだなんて生まれて初めてで、どんなふうにしたらいいのかマジわかんなくて、でもまあ一晩泊めてもらえそうだし、それってとても助かることだから、この際お行儀よくして親切にしてもらおうって思った。
おじゃまします、とか言って入ったら、ひどく素っ気ない部屋だった。部屋というか倉庫というか。育った団地以下だ、って思ったね、正直言うと。でも口では違うこと言った。
「素敵なアトリエですね」
アトリエだなんて気取った言葉を、って言っといて照れた。でも咄嗟に出てきたんだよ、三脚の上の絵を見たら。
ヌードだった。メロンみたいなおっぱい。ゲージュツ的で目のやり場に困った。
「この三脚の上の絵……」ってオイラ言った。
「三脚じゃなくてイーゼルっていうのよ」
「イーゼルの上の人は……」
「私よ、自画像なの」
言われなくてもわかる。お姉さんの絵だ。絵筆持ってる上半身。でも裸だ。なんで?
「上手ですね」って言ってみた。
「あら、ありがとう」
本当に上手だったんだ。画用紙の中の人は生きてるみたいで、お姉さんにそっくりで、そんでもって裸で……。
「隠しときましょか」って言ってお姉さんは、絵に布掛けてくれた。
ほっとしたよ、だってすごく本物っぽい絵だったから。
「ここって元は美術部の部室だったの」
「美術部?」
「早稲田の美研」
だからアトリエ風なのかな。
「でもって隣はブッカ部の部室、あっちは今でも活動してるみたい」
「ブッカ部、ですか」
「あ、物理化学部。部屋でケミカルガーデンとか作ってるみたい」
ケミカル……?
「なんか、薬品とか混ぜ合わせて作るやつ。化学の庭なんだって」
よくわかんない、でも変な匂いがしてた理由はなんとなくわかった。
「で、お名前は?」と、両手を腰に、前ならえの先頭の人っぽく当ててお姉さんが訊いた。口をすぼめて、ちょっとひょっとこみたいにしてる。
用意してた嘘の名前言うべきだったんだけど、なんでだろ、本当の名前言っちゃった。
「ヒロです。寛大の寛って字でヒロ」
「昔飼ってた猫とおんなじ」
「そうですか、光栄です」
「私はリカ、リカさんって呼んで」
「どういう字ですか?」
「字なんてどうでもいいでしょ? 文通するわけじゃないんだから」
後日わかった。果物の梨っていう字に花って書いて梨花。でも、リカって響きで十分だった、確かに漢字なんてどうでもよかった。
「じゃ、行きましょうか」
「はい?」
「まずはお風呂でしょ」
「……くさいですか?」
「自覚ないの?」って言いながら洗面器を手にしてリカさんは笑った。
恥ずかしくなって下向いた。床板のささくれとか足の親指でいじりながら思った。どうしてこんなことになってんだろ? 旅ってやつは油断がならない。
銭湯のお金払ってくれた。タオルも買ってくれた。助かる。けど、でも、と思った。カップラーメンもご馳走になっちゃったし、あとが怖いんじゃないか。
心配しながらもごしごし体洗った、この先いつ風呂に入れるかわかんないから。たくさん垢出た。鏡に映ったオイラ、少しやせちゃってたけど、力こめたらまだちゃんと腕にこぶとかできた。リカさんは今のとこ親切だけど、でも大人の女だからな、いざとなったら自分の身は自分で守らなきゃいけない。十五歳にもなって何言ってやがる、って思われるかもだけど、切り札として大事にとっときたいんだよ、そういうのって。だけど大事なとことか一応丁寧に洗っといた。
脱衣場で牛乳飲んでるおっさん見て、平和だなあと思った。オヤジは相変わらず飲んだくれてんだろな。だなんて家族のこと考えたら気持ち悪くなった。あったまりすぎたのかもしんないけど。
リカさんが出てくるの待って、夜風に吹かれて、そしたらいくらかましになった。もう家族のことなんて考えるのよそう、と思った。リカさん、ピーナッツのTシャツ着てた。スヌーピーもウッドストックも宇宙ヘルメットかぶってて、バックの紺色がほんと宇宙みたいだった。オイラ、宇宙飛行士になりたかったんだ。高校中退じゃもうなれないかもしんないな。
帰り道、気がつくとリカさんはオイラの手をごくごく普通に握ってた。なんか親戚の姉ちゃんみたいだった。おっぱいがおっきすぎるから警戒してたんだけど、案外いい人なのかもなって思った。
明るいうちは聞こえてた蝉の声がもう聞こえなくて、代わりに秋の虫なんだろか、鈴虫だろか、鈴虫はチンチロリンだから違うかな、ともかく虫が鳴いてた。さわさわって感じで鳴いてた。なんか予感みたいに思えたんだ。いい予感。そんなの感じたのめちゃくちゃ久しぶりだった。もしかしたら中学の真ん中へんくらい以来かもしんない。
「夏も終わるわねえ」
リカさんの声が風みたいだった。オイラ、なんて返事したらいいのかわかんなくて黙ったまま頷いた。暗いからたぶん気がついてもらえなかったんじゃないかって思った。でもそうでもなかったのかな、リカさんの手にちょっとだけ力がこもった。だからオイラまた頷いたんだよ。
部屋に帰るとリカさんはカレー作ってくれた。大盛りのご飯にレトルト二袋も掛けてくれたんだ。
「いくら払えばいいですか?」って思わず尋ねちゃった。そんなふうに言うのってよくないとは思ったんだけど、だってカップラーメンに続いてカレーだぜ、しかも大盛り。
「出世払いでいいわよ」って言ってリカさんは笑った。中卒のオイラが出世するわけないじゃんか、と思ったけど、面倒なこと考えてる場合じゃなかった。リカさんの気が変わらないうちにって慌ててスプーン突っ込んだ。あったかいカレーはヤバかった、うますぎた、涙出てきた。スプーンが止まらない、涙も止まらない。泣きながらがつがつ食った。この味は絶対死ぬまで忘れないだろうって思った。
あっという間に平らげて、顔上げたらリカさんがこっち見てた。また八の字の眉してた。そんで食べてる途中の自分のカレー指差して、これも食べる? とか言ったんだ。そんな意地汚いこと、って思った。思ったんだけど、首は横じゃなくて縦に振られてて、その首を知らない誰かの首みたいに感じながらオイラはリカさんの分も食べちゃった。
二日分くらいは食いだめできたなって思った。さすがに満腹だった。食べ終わったら急に眠たくなった、プールの授業のあとみたいに。
差し出してもらった歯ブラシで久しぶりに歯を磨きながら、戸棚ごそごそやってるリカさんの背中見てたら、そしたらなんだろ、すごく申し訳ない気持ちになってきた。
「ごめん」
ってオイラ、だから言ったんだけど、聞こえなかったのかリカさんそれについては何も言わず、陽気な感じで振り向いて、「これで寝てくれる?」とか言ったんだ。
真っ赤な寝袋貸してくれた。冬用の立派なやつ。景色描きに行くときとかに使うんだってさ。
「潜るとね、きっとまだ暑いから、だからそのまま敷き布団にして寝たらいいよ、で、はい、これバスタオル、タオルケットの代わりに掛けなよ」
ありがとうございます、って言って寝袋広げてみた、寝てみた。ふわふわだ、サイコーだ、コンクリートに慣れた背中がびっくりしてるよ。
そのときだった。
「じゃ、私の布団敷くから、これこっちに……」とか言いながらリカさんがオイラのトートバッグ掴んだんだ。
「あ、それ大事なもの入ってるから」ってオイラ急いで言った。でもそしたらリカさん笑って、「大事なものってこれのこと?」とか言いながら百均のアルミマット引っ張り出した。
床に財布と、あれが落ちた。オイラが持って出た二つの貴重品。
黒い財布じゃなくて紺色のあれを、やっぱりリカさん拾いあげた。
そして黙ってる。ちょっと待ってみたんだけど何も言わない。
「中学入ったとき行ったんです、グアム、家族で」って説明した。
「グアム」と、リカさんはまたクエスチョンマークなしで言った。
「そんとき作ったんです、パスポート」
リカさんは、中をあらためたりしないでそれを返してくれた。で、静かに自分の布団敷いてから、冷たくないけどあったかくもない声で「おやすみ」って言った。
おやすみって返事したんだけど、何か言わなきゃいけない気がして、だから言った。「いつか外国行きたいから」
リカさん黙ってる。
「少しでも遠くに行きたいんだ」
って独り言みたいにまた言った。そうだ、家族から少しでも遠くに離れたい。
「明日仕事休みだから」とリカさんは、林の木っぽく立ってるイーゼルたちの向こうで言った。「だから洋服買いに行こう」
見ると白い布団が南極とかの氷山みたいだった。闇に浮かぶ白い島。ちっこいペンギンたちが登ったり降りたりしてるとこ想像して、気がついたらもう朝だった。
リカさんに連れられてジーンズショップに行って、リーバイ・ストラウス一本と、三枚入りの白Tと、それからブリーフも三枚、ソックスも三足買ってもらった。
お店の人は親切で、更衣室でソックスもパンツもはかせてくれて、でもってそのまま帰っていいよって言ってくれた。ぴかぴかのジーンズと白Tのオイラ、鏡で見たら、なんだよなかなか悪くないじゃん。
古い服でトートバッグが豚のように膨らんだ。なんか急に財産が増えた。
それだけじゃ終わらなかった。会計してから気がついたみたいにリカさんは、「これから涼しくなるわね」とか言って店内に戻って、そんでグレーのパーカーも買い足してくれた。
なんだってそんなによくしてくれるんだろう? 通報するつもりならTシャツもパンツも一枚ずつでいいはずだ。着替えも買ってくれたってことは旅を続けていいよってことだ。リカさんは変な大人だ。
ジーンズショップを出たら隣のシューズマートに入ってスニーカーも買ってくれた。そんないいのじゃなくていいです、ってオイラ言ったんだけど、これが似合うよ、って言ってリカさんは本物のスタンスミス買ってくれた。かかとが紺色のやつ。
「あとは散髪かな」とかリカさん言うから、慌てて首を横に振った、馬の尻尾はお気に入りだから切られたくなかったんだ。
帰りにコーヒーショップに入った。
「いつもこんな贅沢してるんですか?」
って、アイスコーヒー飲みながら尋ねてみた。あの汚い部屋に住んでる人にそんなお金があるとは思えなかった。
「背伸びしてるの」
って言ってリカさんは大人の顔で笑った。
つらいな、って思った。こんなふうに優しくされちゃうと別れがつらくなる。でも贅沢な悩みだった。リーバイ・ストラウスとスタンスミスで旅を続けられる。心の底から感謝した。行けるとこまでまた行こう。
店内にはきらきらしたお姉さんたちがいっぱいいた。黒いTシャツに黒いデニムのリカさんは、お葬式の人っぽくて、ちっともきらきらしてないはずなんだけどでも店の中で一番目立ってた。ファミレスの制服着てるときよりずっとよかった。普通に美人っていうんじゃなくて、いくらか宇宙人みたいな顔してて、そう、ヤモリっぽく見えなくもなかったけど、でもそれがおしゃれに思えた。おっきいつり目も、少し上向いた鼻も、アヒルみたいな口も、映画館で見た外国の女優さんみたいに見えないこともなかった。それはオイラにとって新しい何かだった。親戚の姉ちゃんのような気さくさと、メロンみたいなおっぱいと、ときどき見せる八の字の眉と、それから外国の女優さんみたいな珍しさ、どれもこれも悪くなかった。変な大人だけど、たぶんリカさんは魅力的な大人なんだと思う。
「でね、これ」と声がして、びっくりして思いから覚めた。
テーブルの上に鍵があった。
「二つあるの、だから一つ使って」
鍵?
「明日からまた私仕事だし」とリカさんは当たり前みたいに言った。「あんな部屋だけど、出掛けるときは一応鍵して出てね」
明日? 出掛けるとき?
オイラの思い、顔に出たのかな、リカさんはオイラを安心させるような言い方で言った。
「一緒に暮らしましょうよ、あったかくなってまた橋の下が恋しくなるまで」
拾われたんだ、って気がついた。
店内のざわざわした声が潮騒みたいに聞こえた。河を下って旅をしてたら海に出た、ってそんな感じだった。
「嫌かしら?」
って訊かれて、首しっかり横に振った。拾ってもらえなかったら冬を越せなかったかもしれない。越せなかったら公団住宅に戻るかあの世に戻るかどっちかだった。どっちも嫌だった。春になるまでアトリエにいよう、と思った。でも、それなら働かなきゃいけない。家賃や食費の何割かだけでも稼がなきゃ駄目だ。
出入口のとこにあった求人情報誌を一冊もらって店を出た。
アトリエみたいな家に帰って、情報誌めくってみたけど駄目だった、年齢制限に引っ掛かって何も見つからなかった。
財布の中のお金じゃどうにもならなかった。でも、ただで置いてもらうわけにはいかない。
焦りながら顔を上げると、リカさん、お月さまみたいに優しく笑ってた。ますます焦る。
どうしよう?
そしたら急にリカさん、尻尾がはえてる悪い女っぽい顔になって言ったんだ。
「カラダで払ってもらおうかしら」
電撃が走ったよ。そんなことそんなふうに言われるなんて思わなかった。
動揺してオイラ下向いて、で言っちゃった。
「あの、本当は十五なんです、十八歳じゃなくて。だからインコウ条例に引っ掛かります」
言ってからリカさんを見ると、月の顔に戻って笑ってて。なのに言うんだ。
「シャツを脱いでみて」
真剣な口調。
わかったよ、とオイラ思った。世間は甘くない。カップラーメンもカレーもうまかった。寝袋ふわふわだった。春まで屋根貸してもらえるんだし、だから……、こんなの安いもんだ。
買ってもらったばかりのTシャツ剥ぎ取るように脱いで、リーバイ・ストラウスのボタン外した。
「下はいいのよ、脱がないで」
手を止めてリカさんを見た。
知らないリカさんがそこにいた。
「こっちに来て」
イーゼルの林の向こうに招かれた。
「ここに座って」って言いながらリカさんは、ボクサーが座るみたいな丸椅子を、上にあったギリシャ人の上半身どかしてオイラにすすめた。
言われたとおりにした。
「こっちを見て」
リカさんを見た。
手の甲を口に当ててリカさんはオイラを見てた。
そして横にあったイーゼルに向かった。
「足を組める? そう。体は窓のほうに、そうよ、捻るみたいに上半身だけ、いいわ。そしたらね、ダメよ、眠そうな目をしない、いつもの目で、そう! その目。その目でこっちを、そうそう、それでいいわ、完璧、思ったとおりよ、動かないで」
長いことそうしてた。目を開けたまま寝そうになった。もしかしたら寝てたのかもしんない。
カラスの声が聞こえたような気がしてびくっとした。「まずはここまで」
なんだ、リカさんの声か。
終わった、と気がついた。オイラすっかりくたびれてた。動かないって大変なんだ。
で、ため息ついて、首とかこきこきしてたら急に言われた。
「あなたと契約したいわ、月額で三万払います。ここの家賃と同じ額」
えっと、どういうことだろう?
「絵のモデルをやる気はない?」
ってことは……。
「是非お願い」と真剣な顔してリカさんは言った。
仕事にありつけた?
立ちあがり、イーゼルの横のリカさんのとこに行った。
胸がばくばくしてたけど、ありがとうございます、ってちゃんと言えた。家出して、河を下って拾われて、そしたら仕事に恵まれた。なんてラッキーなんだろう。
オイラ、モデルになっちゃった。
はっと気がついて、リカさんの手もと覗いた。
リカさんに見えてるオイラどんなかめちゃくちゃ気になった。
描かれたばかりの線を見た。とても上手なデッサンだった。だけど、あれ? おかしいな、と思った。
絵の中の男、オイラに似てたけど、でもずっと歳上に見えた。それに……。
「二十年後のあなたよ」
二十年後、と思った。そう言われるとそうかもしれない。三十五歳になったらこんなふうになるかもしんない。でもそれはともかく、そんなことより、とまた思った。
「目がない」
と、思いがそのまま口に出た。男には目玉がなかった。
「いつか描けるようになりたい」とリカさんは言った。「それが私の夢なの」
夢、と、クエスチョンマークをつけないで思ってみた。リカさんの夢。
「美術の学校に通いたくてね、だからお金貯めてるの」
学校に通いたくて……か、不登校だったオイラとずいぶん違うな。
「おかしいよね」と、ちっちゃな女の子みたいな声でリカさん。
「通ったらいいですよ」ってオイラ言った。「こんなに上手なんだから、学校なんて行かなくてもいいかもだけど、でもちゃんと学校とか行ったらもっと上手くなるかもしんないし、そしたらすごいから、それってすっごい夢だから、だから学校行ったらいいですよ」
「そう?」
うんって強く頷いた。
「ありがとね」
窓の向こうのオレンジを、カラスがさっと黒い線になって横切った。
こういうのって何?
小さかった頃に聞いた豆腐屋さんの笛を思い出した。林間学校のキャンプで歌った唱歌を思い出したりもした。
響くメロディみたいな何かにくるまれて、世界が突然、ぐっと押し寄せてきた。波のようなそれに乗って、かっこよく立ち上がって、風を切れたら気持ちいいだろう。
感謝いっぱい、そんな気持ちでリカさんを見た。
リカさんはやっぱりお月さまみたいに笑ってた。
よし、オイラ頑張らなきゃ、モデル頑張らなきゃ。リカさんの夢、かなえる手伝いなんだから頑張らなきゃ。
「頑張ります」
って声に出してきちんとリカさんに約束した。
翌朝、パン一緒に食べて、それから玄関でリカさんを、事故とかに遭いませんようにって祈りながら見送った。
窓からも見送った。リカさんはこっち見たりしないですたすた行っちゃった。
リカさんがいなくなると、ちょっと不気味なくらいにしんとなった。
八畳くらいあるのかな、わりと広い部屋。茶色い板の床、茶色い板の壁、冬になったら寒そうだ。
西向きかな、太陽が沈んだ方向だからきっとそうだよな、うん、西向きの窓が一つあって、アルミの柵がついてて、そこに靴下がぶら下がってた。
広い押し入れがあって、上の段にはリカさんの布団が、下の段には着ない服とかストーブとか入ってた。
クーラーはなくて扇風機があって、ちっちゃな冷蔵庫があってテレビはなかった。
風呂もトイレもなかった。でも流しはあった。ぴかぴかだったよ、そのへん彼女わりとちゃんとしてるんだね。
玄関側の半分が御飯するとこ、ちゃぶ台立てたらオイラの寝るとこ。窓側の半分はリカさんが絵描くとこ、そんで夜になったら布団敷いて寝るとこ。オイラの側とリカさんの側の間にはイーゼルたち。絵が掛かってるのもあれば掛かってないのもあった。裸のリカさんの絵も目玉のないオイラの絵も部屋の真ん中にあったってわけ。
あと隅っこにギリシャ人の上半身があった、絵描きさんがモデルにするやつ、つまりオイラのライバル。
昼間っから薄暗くてさ、裸電球つけたくなったけど節電することにして暗いままでいた。
窓から野良猫見たり、口笛でロックンロール吹いたり、昼御飯の菓子パンをフライングでかじったりしたけどまだ全然お昼にならなかった。
ヒマだと人間ワルになる、ってそんな格言があったよね、なかったかもしんないけど、オイラ悪いことした。布めくっちゃったんだよ、裸のリカさんの絵の。玄関見て天井見て、そんで横目で絵を見てそれから正面から見て、とうとう近づいて見ちゃった。
やらしいなあ、と思った。なんたって裸なんだぜ。エロ本の女とは違うよ。だってリカさんなんだから。乳首だってちゃんと描かれてる。本当にこんなおっぱいしてんのかなあ。
そのときドアが叩かれた。
夢中になってたから聞こえなかったんだ、階段上ってくる足音。
リカさんが帰ってきたのかと思った。慌てて布かぶせた。心臓すごいことになってる。
またドアが叩かれた。
「はい」
オイラの声、知らない誰かの声っぽかった。
「春日さん?」
って声がした。リカさんじゃない。男の声だ。春日って誰だ?
「いらっしゃいますか?」
また言った。
そうか、春日さんっていうんだ、リカさんは。リカさんのお客だ。
「あの、春日さんは留守です」
って言っちゃった、黙って居留守してればよかったのに。
「そうですか」って声がして、それからちょっと困ったみたいな調子であとが続いた。「お土産をですね、買ってきたんですけど、あ、千葉の実家に行ってたんで、だから春日さんにお土産を……」
リカさんにお土産? お土産って何だよ? こいつ、リカさんの何なんだ?
なんでだか急に勇気が湧いちゃって、玄関行ってドアに向かって言った。「どちらさまですか?」
「あ、西村です、隣のブッカ部の、西村って言います」
怪しいやつではなさそうだ。
ドア開けた。
ひょろっとした人が立ってた。髪が長くて眼鏡掛けてて、なんだかバッタみたいに見えた。
オイラが子供だったからだろう、バッタのやつ、あれ? って顔してから背筋伸ばして、口に拳骨とか当てて少し咳き込むようにした。そんで言った。「春日さんはお留守かい?」
「仕事に出てます」
「ファミレス?」
「そうです」
「今日休みの日じゃなかったかな」
「休みは昨日でした」
「そうだっけ。で、君は留守番?」
「まあ、そうです」
「これ、お土産なんだ」
そう言って袋をくれた。わりと重くて冷たかった。
「サバなんだ、千葉で獲れたばかりの。あぶらがのってておいしいよ」
袋とバッタ交互に見て、嘘じゃなさそうなんでありがとうございますってお礼言った。
「冷蔵庫にしまっておいて、で春日さんが戻ったら渡してくれるかい?」
頷いた。
「西村からだ、って」とまたバッタが言った。
もう一度頷いた。それでドア閉めようとした。
だけどバッタは、「もしよかったらなんだけど」って言ってドア押さえた。「流しと包丁を貸してくれないかな?」
包丁?
「部室に包丁なくってさ。ワタ取っといたらあとが楽だろ? ほら、魚のワタってさ、女性にはちょっとね?」
ちょっとね、って言い方がなんかダサかったけど、確かにそうだなって思った。リカさん疲れて帰ってくるだろうし。
「いいかい?」
「どうぞ」って言って閉め掛けてたドア開けた。「入ってください」
バッタは背が高かった。並んだら首が痛いほどだった。
バッタは流しのとこ行って、すっと包丁を手に取った。まな板を敷いた。慣れてる感じだった。前にもここに入ったことあるな、って探偵みたいに推理した。
包み開いて、きらきらしてる魚取り出して、それからバッタはオイラに訊いた。
「親戚の子かい?」
リカさんが親戚の姉ちゃんに思えたこと思い出した。
「まあ、そうです」って応えながら思った。オイラさっき何してたんだろ、親戚の姉ちゃんみたいなリカさんをやらしい目で見て……。
「今日は学校休みかい?」
嫌なこと訊くなあ。「創立記念日です」
「学校は楽しいかい?」
「まあ、そうですね」
「勉強、好きかい?」
そうか、バッタめ、こいつ早稲田大学なんだ、偏差値高いんだ。「偏差値四十くらいです」と応えてから尋ねた。「お兄さんは七十くらいですか?」
きょとんとした顔で振り向いてバッタは歯を剥き出して笑った。
イケてない笑い方だ。
「好きな科目は何だい?」
「国語です」
嘘じゃない。国語の点数だけはずっとよかった。
「ほう、すごいね。僕なんか国語は苦手だな。人間の言葉ってやつは、これ、僕にはどうにもよくわらかない。曖昧だし、錯綜してるし、割り切れないから嫌になる。言語ってやつは実にカオスだ、化学式なんかに比べてね。あ、化学式はもう習ったね?」
「えいちつーおー」
「うん、そうだ。水素二つは酸素一つと化合して水になる。これだ」と言ってバッタは蛇口を捻って水を出した。魚のお腹を洗ってる。
「えいちつーおーとかよんぱいあーるじじょーとか呪文にしか聞こえないです、バカだから」
それには応えず、「よしできた」と言うとバッタは戸棚開けて皿出して、魚を乗せてラップでくるんだ。包丁やまな板洗って、取り出した内臓を魚が入ってた袋に入れた。
手際がいい。
「いつもそんなふうにやってくださってるんですか? 姉ちゃんのために」
「うん」って言いながらバッタは冷蔵庫に行って魚しまった。
なんかすごく変な感じだった。
「お茶でも飲みますか?」
なんでオイラそんなこと言ったんだろう、自分のお茶でもないのに。
「お、いいかい?」って言ってバッタはまた歯を剥き出して笑った。
冷蔵庫の中から麦茶が入ってる容器出して、コップと一緒にちゃぶ台に並べた。
バッタの向かいに座ってから、気がついて立ち上がり、裸電球をかちっとつけた。
明るくなるとバッタは少しだけ人間らしく見えた。眼鏡の向こうの目がよく見えるようになったからかもしんない。
「春日さんは偉いよね、よく働くね」と目を細めるようにして彼は言った。
あんたは親のお金でお勉強か? って意地悪く思った。ケミカルガーデンだか作っていい気なもんだ。
そしたら西村、空気漏らすみたいに言った。「親もいないし、身寄りもないって聞いてたけど……」
オイラを見た。「親戚の子がいたんだね?」
親がいない?
知らなかったけど、知ってるふりして頷いた。だって親戚の子なんだから。
リカさんも独りぼっちなのかな。
網戸にしてる窓から、秋の始めらしい風が入ってきた。どこかで感じたことある風だ。ずいぶん前に、どこかで……。
麦茶のコップをかたんと置いて、その音に弾かれたみたいに西村が言った。
「恋を知っているかい?」
恋?
訊いといて西村は自分で答えた。「鯉はコイ目・コイ科に分類される魚で、川や池、沼や湖に生息する淡水魚だ」
麦茶をごくりとしてやった、わざと音が出るように。
「っていうのは冗談だよ、魚のことじゃない」
そりゃそうだろ。
「人をセクシャルに好きになったときにね、陥る心の状態を恋というんだ」
「知ってます」ってオイラ言った。
「お、知ってるかい?」
「ヘッセが書いてます」
「ヘッセ?」
「ヘルマン・ヘッセです」
「車輪の下、だったかな」
「はい、車輪の下、デミアン、ナルチスとゴルトムント、荒野のおおかみ、そしてガラス玉演戯……」
「おいおい、すごいね」
「中学では文芸部の部長でした」
「そりゃ恐れ入ったね」と言って西村はあごを上げて笑った。今度の笑い方はそんなにダサくなかった。
「じゃあ、教えてくれるかい?」
何を?
「好きな人がさ、もしも他の人を好きだったら……」と言う西村の目は真剣で。「どうしたらいい?」
コップを強く握って考えた。西村はたぶんリカさんが好きなんだ。……ってことはリカさん、好きな人がいる?
麦茶の茶色がちょっと濃くなったように見えた。
「ごめんごめん、子供に尋ねたってわかるわけないよな」
「水になればいいんじゃないですか?」
「何だって?」
「水ですよ、酸素一つと水素二つが化合したらいい」
西村の丸い目眺めながら冷蔵庫のぶうんって音聴いた。勝利の音色だ。ざまみろ、って思った。
「ヘルマン・ヘッセの言葉かい?」
「青山寛の言葉です」
思いついたこと適当に言っただけだけど。
「水ってのは何の喩えだい?」
「あるべき状態の喩えです」
西村は考えてるみたいだった。でも何もわからなかったんだろう、首を横に振って笑った。
「難しいね、人間の言葉ってやつは」
「よんぱいあーるじじょーの方が難しいですよ」
「いや、球体の表面積ならここで求められる」と言って西村は自分の頭を指差して、それから続けた。「でも恋の答えはここで求めなきゃならないからね」
胸を痛そうに押さえて彼は小学生みたいな目でオイラを見た。
大学生ってこんなもんか。
「さて」とか西村は呟いて、胡座にしてた足いったん正座にしてから背筋を伸ばし、「お茶をごちそうさま」って言ってオイラを見た。
「お構いもできませんで」
立ち上がって彼は、「サバ、春日さんにね」って言って、バッタに戻ったみたいなぎくしゃくした歩き方で玄関に向かった。
恋する大人の背中ってやつを観察した。あんまりいい眺めでもなかったな。
「じゃ、春日さんによろしく」って魚の内臓が入った袋を振るようにしてバッタは言った。
「さよなら」って言って見送った。
春日さん、春日さん、春日さんか、って思いながら部屋の真ん中に行って裸電球をまたかちりと消した。
リカさんに好きな人……?
イーゼルのとこ行って布外して裸のリカさんを見た。薄暗い部屋の中の白い体。
なんでかな、もうリカさんはやらしく見えなかった。寂しそうだった。おっぱい見て、おっぱいあーるじょ、っとか言ってふざけてみたけど面白くもなんともなかった。玄関の前に戻ってちゃぶ台どかして寝転んで、天井見ながら窓からの風を感じた。
橋の下で拾った子だよ、って声がした。そうか、この風、あの日の風に似てるんだ。
バスタブに沈められて息できなかった。もう少しで本当に死ぬとこだった。
オイラ小学一年生だった。
オフクロを迎えに来たボーイフレンドの車、めちゃダセえって言ったらオフクロに頭掴まれた。
一緒に風呂入ってたんだよ。で、向かいで揺れてるおっぱい見ながらオイラ言ったんだ、めちゃダセえって。
ほんとのこと言うと車はカッコよかった、赤くて平べったくて宇宙船みたいだった。でも嫌だったんだ。学校から帰ったらそれ団地の前に停まってて、横でオフクロが短いスカートの裾揺らしてた。
お姉ちゃんが帰ったらおやつもらいなさい、って言い残してオフクロはボーイフレンドと一緒に行っちゃった。オイラ自分の鍵で家入って、テレビ観ながらクラッシュデニムのボーイフレンドのこと呪った。あの車が事故りますようにって思って、でもそしたらオフクロもヤバいって気がついて慌てて呪い直した。クラッシュデニムだけがもっとぼろぼろになりますようにって。
小学校に上がってもオフクロと風呂に入ってた。アネキはそんなの変だよって言って、友達もおかしいよって言ったから一人で入りたかったんだけどオフクロは一緒に入るって言ってきかなかった。いつも頭を洗ってくれた。お湯が入らないようにってぎゅっと目を閉じてると、オフクロの匂いが目開けてるときよりもっとはっきりわかった。
いつ頃からだろう、たぶんオフクロがボーイフレンドと遊ぶようになってからだ、匂いが少し違うみたいになった。新しい匂いがあんまり好きじゃなかった。なんでだかボーイフレンドの匂いのような気がしたんだ。
その日オフクロは二時間くらいでデートから戻って、まだ明るいうちからお風呂沸かして、オイラに服脱ぎなさいって言った。アネキはテレビ観てて、オヤジはもちろん仕事から戻ってなかった。
すごく嫌だったの覚えてる。デートから帰ったばかりのオフクロと風呂入るだなんてめちゃくちゃ嫌だった。でもオフクロって気に入らないことあるとすぐきいって怒るから、だから言われたとおり服脱いだ。
やっぱりだった。オフクロからは嫌な匂いがした。頭洗ってもらいながらはっきり感じた。その匂いは赤いスポーツカーを思わせた。クラッシュデニムを思わせた。
バスタブの中で向かい合ってたら、お湯の中で揺れてるおっぱいがなんだか憎らしくなって、だから言ったんだ、あんな車めちゃダセえって。
頭掴まれて沈められて、上から押さえられて息ができなかった。手を伸ばしておっぱい掴んだ。そんでぎゅって力込めてやった。
押さえが緩んだ。頭を突き上げた。
浮かび上がったら目の前に知らない女がいた。よその知らない母ちゃんとお風呂入っちゃったのかなって、ガキだったオイラマジそんなふうに思ったくらいだ。
「おまえなんて要らない」
ってそいつは言った。オフクロの声で言った。
オマエナンテイラナイ?
「おまえなんて橋の下で拾った子だよ」
ハシノシタ?
目にお湯が入ったのかな、って思った。ぼやけて世界がよく見えなかった。
風呂から出されて、体乱暴に拭かれて、それから茶の間に連れてかれて裸のまんまベランダに出された。
アネキがすごく驚いてたな。
団地は三階で、外を行く下の人から見られないように、サッシにぺったり背中つけてオイラ震えてた。
まだ夏の雲だったけど、お日様は沈みかけてた。遠くのビルの向こうに沈んでくとこじっと見た。これが沈んだらもう夜なんだ、って思った。
知ってるかい? 太陽ってさ、上の方にあるときは止まって見えるだろ、でも沈んでくときってすごく速いんだ。逃げるみたいに隠れるみたいに慌てて沈んでく。あのときもそうだった。あっという間に沈んじゃった。
そしたらビルの上あたりオレンジになった、空の高いとこはまだブルーだったんだけど。オレンジとブルーがきっかり分かれてて、でもおんなじ空だってんだから不思議だったな。知らない世界が見えた気がした。
オレンジに溶けるみたいにビルがぼやけた。お湯が入ったんじゃなかったんだって気がついた。世界が歪んで見えるのはオイラが泣いてるからだ。
カラスが鳴いて、一本また一本って感じで黒い線になってどっかに帰ってった。帰るとこあんだね、って羨ましく思った。ここは家だから、オイラの家だから、ここからどっかに帰るなんてできないんだって思った。
橋の下で拾った子だよ、って声が蘇った。
いつかもっとおっきくなったら、って思った。そしたら帰ろうオイラ橋の下に。
そのときだよ。風が吹いたんだ。昼間の熱風じゃない。やさしい風だった。それはオレンジの向こうから吹いてきたんだ。
どっか遠くにきっとある、って思った。オイラの本当の家があるって思った。
そこにはほんとの母ちゃんがいて……、とかガキだったオイラ呟くみたいに思った。
空の上の方、まだブルーなとこに羽根っぽいのが見えた気がして、よく見たら小指の爪みたいな三日月だった。白いそれをオイラじっと見た。なんだか月もさっきの風みたいにやさしかった。ほんのりだけどやさしかった。ほっとした。歪んでた世界も徐々にくっきりしてきて、だからオイラ思った。負けないぞ、って思った。いつかオレンジの向こうの世界に帰って本当のホンモノの母ちゃんにただいまって言うんだ。
裸の体が冷えきったころ、オフクロがサッシ開けて、入りなさいって言った。いつものオフクロに戻ってたけど、騙されないぞって思った。そこにいるのはもうニセモノの母ちゃんだった。
それ以来風呂は一人で入った。
二年生に上がってからも、三年生になってからも、いろんな色の車がやって来たけど知ったことかって思った。
学校が終わると一人で図書館に行った。本の隅々までを調べまくった。頁のあちこちでホンモノの欠片がみつかった。集めた欠片をジグソーパズルみたいに組み合わせたら秘密の地図ができそうだった。オレンジな世界に帰るための地図。少しずつわかってくるこの世界、それから向こうの世界、ブルーとオレンジのように混じり合わないで二つはあった。
風が迎えに来てくれるのを待ってた。そしてついに風は吹いた。だから財布とパスポートをバッグに入れて家を出た。途中の百均でアルミマット買った。河に出て、橋を目指した。
次の橋では大切な誰かに出会える、そう思って歩いた。けど、暴走族の人やホームレスさんに会えただけだった。
何してるの?
って訊かれて、
旅です。
って応えたあのときまで、オイラまだオレンジな世界の存在を半信半疑に思ってたような気がする。でもリカさんに拾われて始まった、本当の旅が始まった。
もう団地には帰らない。オイラ行くんだ。外国にだって行って、世界の果てにだって行って、そんで帰るんだ、本当のホンモノの世界に。
西の窓から日が射して、プラスチックの目覚まし時計の針見たら四時だった。夕方になったらお願いね、って言われてた買い出しに行かなくちゃ。
渡されてたメモ確認する。
・じゃがいも1袋
・にんじん1袋
・たまねぎ1袋
・トリムネ大1パック
・ブタヒキ大1パック
・カレールー1箱
・シチュールー1箱
・ポン酢大1本
・トイレットペーパーシングル6ロール1袋
※野菜とお肉はなるべく値下がりしてるやつ(値下がりしてなかったら一番安いやつ)
※ルーだとかトイレットペーパーの種類は何でもオーケー(安いやつ)
と書かれてる。で、その下にスーパーまでの地図があった。
リカさんの字あんまり綺麗じゃない。絵はあんなに上手なのに字はオイラの方が上手いかもしんない。なんだかおかしかった。
預かったお金とメモをリーバイ・ストラウスのポケットにしまって、エコバッグ持って、玄関の鏡に馬の尻尾映してみてからスタンスミスはいた。
ちゃんと鍵掛けて、ブッカ部の前はしのび足で歩いて、階段ぎしぎしいわせて、それから一階のドアもやっぱりぎしぎしいわせて外に出た。
赤トンボが進んだり止まったりしてる。
地図見て歩き出す。すぐに気づいた。昨日までの世界とは違う世界にオイラいる。荒川区からそんなに離れてないはずなのになんでこんなに違うんだろう。
考えてみてわかった。世界が変わったんじゃない。オイラが変わったんだ。なんせオイラってば同棲してる。昔の文豪みたいに歳上の女性と暮らしてる。こういうのってゲージュツ的だ。
昨日までのオイラあんなにゲンジツ的だったのに……、って振り返る。お巡りさんに怯えてこそこそしながらトイレや水道ばっかりさがしてた。夜は寒くて、コンクリ痛くて、虫に刺されてなかなか寝つけなかった。眠れてもホームレスさんに起こされたりした。そんで叱られた。一升瓶で殴られそうにもなった。
三人のおじさんに囲まれてたとき、助けてくれたのが暴走族だった。すごい音させてやって来て、ひげもじゃのおじさんたち追っ払って、そんで目つきのよくないリーダーがコンビニでコーラと菓子パン買ってくれた。嬉しかったけど、リーダーの人も子分の人たちも、座って話するでもなくパラリラって音させてすぐにどっかに行っちゃった。菓子パン野良猫に分けたげようとしたんだけど、ぷいって知らん顔されて寂しかった。
持って出たお金の残りと、これから寒くなる季節のこと思ったら暗い気持ちになった。
死にたくなんかなかったけど死んじゃいそうだった。ゲンジツは厳しかった。
でも旅をやめるわけにはいかなかった。団地に帰るくらいならあの世に帰ったほうがましだった……。
だなんて思ってるうちスーパーに着いて、またメモ引っ張り出して自分に言い聞かせた。これもゲンジツだ、しっかり役目果たさなきゃ。旅ってやつは遊びじゃないんだ。
にぎやかな音楽と主婦の人たちにまじっていろいろ買った。役目があるっていいもんだ。
膨らんだエコバッグとトイレットペーパー手にスーパー出ると、色つきの風が吹いてた。うっすらした茶色。守ってくれてるみたいな色だった。
リカさんが帰ってきたら、おかえりって言おう。
ヤバいな、って思ったときには遅かった。帰ってきたリカさん、部屋の真ん中でちょっと立ち止まった。どうしたのかな、って背中見て気づいた。あの絵を見てる。裸の自画像。オイラ布掛け忘れたんだ。こっそり見てたってバレちゃった。
でもリカさん、何も言わずに振り向いて、今夜はシチューがいい? それともまたカレーがいい? とかオイラに尋ねた。
そうだ、って思い出した。
「冷蔵庫にサバが入ってます」
ってオイラ言った。
「特売だった?」
「そうじゃなくって」って説明した。「隣の西村さんが、千葉の実家に帰ってたみたいで、そんでそのお土産にリカさんにって」
「西村くん」って言ったリカさんの顔、ぱっと明るくなった。嫌だった。
塩焼きにしちゃおっか、とか歌うように言いながらリカさん、冷蔵庫行って魚出して、さばいてくれたんだ、とか呟いて、お魚好き? ってオイラに尋ねた。
まあまあです、って応えた。西村の魚はあんまり好きじゃなかったんだ。
そんでいきなり訊いちゃった。
「好きな人いるんですか?」
オイラの声にびっくりしたのはオイラだった。なんでそんなこと訊いちゃったんだろう。
きょとんって顔してからリカさんは、どうしたの? って感じの浅めの八の字を眉で描いた。
「いえ、いいんです」
ってオイラ言った。なんか声が震えてた。
そしたらリカさん、きっぱり言った。
「いないわよ、好きな人なんて」
いないのか、って思ってリカさん見た。
「いないわよ」ってまたリカさん言った。
なんか引っ掛かる感じもあったけど、とりあえずほっとした。西村の勘違いなんだろう。西村に恋愛相談されたことは内緒にしといた。
「西村くんちね、海そばなんだって。いいわよねえ。で、ときどきお魚くれるの。器用にさばいてくれちゃうし、助かるわあ」
流しに向かってる背中見ながら思った。オイラも魚さばけるようになろう。魚屋でまるの魚買って、流しでさばいて調理して、お膳に並べてリカさん迎えよう。
サバの塩焼き、複雑な気分で食べた。味がよくわからなかった。
「味噌煮がよかった?」
ってリカさん尋ねた。
首横に振ってオイラ、ごめんなさい、って心の中で言った。裸覗いてごめんなさい、西村憎んでごめんなさい。
天井見上げて思った。オイラってば電球にたかってる虫くらいちっちゃなやつだ。
自分を励ましてサバ褒めてみた。「あぶらのってますね」
そしたらリカさん、それには軽く頷くだけで応えて、深呼吸するみたいにして別なこと言った。
「ピクニックに行かない?」
ピクニック?
見るとリカさん、いたずらっ子のような顔で笑ってて。
「お台場の芝生に寝転んで、雲見て歌っておにぎり食べて、夕方の海見て帰ってこようよ」
なんだよそれ、すごく楽しそうじゃんか。
「どうかな?」
訊かれてオイラ変なふうに応えちゃった。
「高校、入学式しか行ってないんです、それで旅に出るまでずっと家にいて……」
どうして? とか訊かれなくてほっとした。リカさん頷いただけだった。
「だから友達いなくて。だもんだからピクニックなんて……」
「嫌?」
「嫌じゃないです!」ってオイラ叫ぶみたいに言っちゃった。「すごく嬉しいです。そんなのもう一生できないと思ってたから」
リカさんの八の字深くなって、それ見てたらなんかオイラ泣きそうになって、だからごまかすみたいにまた大声で、ありがとうごさいます、って言ってみた。
そしたらリカさん、泣き笑いみたいな顔になって「どういたしまして」って言った。
オイラぎりぎり泣かないで済んだ。
片づけしてからリカさん、歯磨きしながらラジオのニュース聴いて、そんで流しでうがいしたあとオイラに言った。
「ニュースにはなってないみたいね」
ニュース?
「ヒロのこと。お家の人が捜索願い出してると思うんだけど……」
「出してません!」
リカさん黙ってオイラを見た。
「出してないです、あの人たちは」
「なんでそんなこと……」
オイラなんて死ねばいいって思ってるに決まってる。
「家族、嫌いなの?」
「嫌いです」
「憎んでる?」
「憎んでます」
「だから捨てるの?」
「はい、捨てます」
「一人で遠くに行っちゃうの?」
なんだよ、責めるみたいに。リカさんらしくない。
「帰りたいんです」
ってオイラの声が聞こえた。
そうだ、帰りたいんだ。
「……どこへ?」
黙るしかない。
「お家に?」
「……そうです」
「お家を出て?」
「そうです」
「それはどこなの?」
応えられなかった。それは、どこかだ。あそこじゃないどこかだ。待っててくれる人がいるどこかだ。
「去られて家族は泣いてるわ」
「泣いてません」
「泣いてます」
「泣いてなんかいません」
「泣いてるわよ!」って急に大きな声でリカさん。
「なんであんたにわかんだよ!」
って思わず言い返しちゃった。
すごく後悔した。だってリカさんったら、「泣いてるんだってば!」って言って泣き出しちゃったから。
すごい泣き方だった。赤ちゃんみたいな泣き方だった。
ちゃぶ台を、時計の針のように回ってリカさんのとこ行って、肩のとこぽんぽんってした。
もう泣くな、って思った。悪かった、だからもう泣くな。
いつだっけ、前にもこんなことあったような……。
だなんて思った途端、胸がげぷってなった。サバの味がして、西村め、って思った。なんだか西村が好きになれそうだった。だってリカさん、くすって笑ったから。
普通に戻ったリカさんと部屋半分こにして、電気の消えた天井じっと見た。サバや化学式やトイレットペーパーのことがぐるぐるした。
「ピクニック楽しみだね」
ってリカさんの声がした。
うん、って頷いてから気がついて、聞こえるように「うん」ってちゃんと言った。
三日くらい経って、山手線で新橋まで行って、開通したばかりのゆりかもめってやつに乗り換えた。
リカさんに借りた黒いリュックには、弁当とお茶とアルミマット、それから鉛筆とスケッチブック。
リカさん手にバイオリンケース持ってた。やっぱり黒くて、がっちりしたやつ。朝、押し入れの奥から出してきたの見て、弾けるんですか? って訊いたら、ちょっとだけねって言ってリカさん笑った。
ゆりかもめが傾くと、ケースの二つの留め金が一度にきらって光って、すごくいいことの前触れみたいだった。
橋を渡った。レインボーブリッジってやつかな。立派な橋だ。ちょっと前まで橋の下うろちょろしてたのに今は橋の上優雅に走ってる、不思議だな、って思った。
お台場海浜公園ってとこで降りた。少し歩いて公園に向かう。空が広い。心まで広くなる。
でもパトカーが巡回してるの見たら、広くなったはずの心がまた狭くなっちゃった。 リカさんが笑って言った。
「保護者同伴だから大丈夫よ」
保護者か、と思った。そんで気軽に訊いちゃった。
「リカさんって何歳なんですか?」
「女の人に年齢訊いちゃうの?」って言ってちょっと笑ってからリカさん、「何歳だって思う?」って尋ねた。
西村のこと西村くんとか呼んでたからなあ、って推理した。西村は大学生だから二十歳くらいで、それより上だから……。
「二十三歳?」
「外れ」
「二十二歳」
「また外れ」
「二十一歳」
「なかなか紳士ね」
オフクロが三十七歳だから、と考えた。その十歳くらい下かな?
「二十七歳」
「お弁当なし」
なんだよ、女の人の歳なんてわからないよ。
「二十五歳よ」って言ってリカさん、手をパーにした。「ヒロよりちょうど十個上」
アネキより八歳も上なんだな、って思ったらちょっと驚いた。
公園に着いた。すごくいいとこだ。芝生の匂いに混じって潮の香り。
リュックからアルミマット出した。オイラが使ってたやつ。久しぶりにばさって広げた。
「おじゃまします」って言ってリカさん、靴脱いで、それから靴下も脱いでシートに座った。隣でオイラも胡座かいた。
弁当の入った包みと水筒出した。水筒の蓋外して麦茶注いだ。どうぞお先に、ってリカさんに差し出した。
「レディファーストかしら。やっぱり紳士ね」
お弁当のおかずは、アスパラのベーコン巻き、タコさんウィンナー、それから玉子焼き、チーズとミニトマトのピンチョスだった。朝リカさんが作ってくれた。
「豪華だなあ」って言うと、「ちょっと頑張ってみた」ってリカさん言った。
おにぎり手にして空を見た。神さまにお礼が言いたかった。飛行機が見えた。
「どこ行くのかな」
「外国かしらね」
「遠くに行くんだなあ」
九月の空は高かった。
おにぎり、すごくおいしかった。コンビニのと全然違う。
「お塩をね、両手にたっぷりつけて握るの。しょっぱすぎるかな、ってくらいにね。そしたら食べるときちょうどよくなるの」
そういうもんか、ただ丸めりゃいいってわけじゃないんだな。
おかずもおいしかった。ばくばく食べた。
「久しぶりだなあ、タコさんウィンナー」
「お母さんが作ってくれた?」
そうか、オフクロが……、あんなオフクロだけど昔はタコさん作ってくれてたんだ。
「手紙書いたらどうかな?」ってリカさんが言った。
「誰に?」
「お母さんに」
「なんて?」
「元気ですって」
そうしたほうがいいのかな、って少し思った。元気ですって書いて、捜さないでくださいって書いて、で、幸せですって書こうかな。あなたから離れて、素敵な人に拾われて、だからとっても幸せですって、そう書いてやったらオフクロどう思うだろう?
「考えてみます」って応えた。
リカさん真面目な顔して頷いた。
風、熱くもなくて冷たくもなくて、からっとしてて気持ちいい。リカさんといるといろんなことがちょうどよく気持ちいい。リカさんちの子になれたらいいのに、って思った。思ってから気づいた。リカさんは十歳しか上じゃないんだから母ちゃんって感じじゃないよな、十個上くらいだったら恋人でも変じゃないかもしんない、オイラがもう少し大人になったら、そしたら……。
「どうしたの、またそんな目しちゃって」
はっとした。オイラ変な目で見ちゃってた?
「なんか、すごく切ない目をするよね」
切ない?
「郷愁、みたいな」
言われて、ヘルマン・ヘッセの小説のタイトルを思った。
「あとで描かせてね。でもその前に……」
そう言ってリカさん、黒いケース抱えて、で、ぱちんって開いた。
バイオリンだって思い込んでた。でも違った。出てきたのはちっちゃなギターだった。
「ウクレレっていうのよ。弦がほら、一、二、三、四、四本なの」
テレビで観たことあった。ハワイかどっかの楽器だ。
ぽろぽろってリカさん、指の先で摘まむみたいにして弾いた。鈴が鳴るような音がした。
「風に負けちゃうわね」
そう言ってリカさん、指をぶつけるみたいにして今度はじゃかじゃかって弾いた。スペインとかメキシコとか、よくわかんないけど、そんな感じの音がした。
公園が急に外国のようになった。
しばらくじゃんじゃか弾いてから、それからオイラも知ってる歌謡曲とか弾いてくれた。で、リカさん歌った。風みたいな声がオイラをなでた。
それからロックンロールが始まった。オイラの好きなやつだった。
「ご一緒に」って言われてオイラも歌った。聴いてるだけよりもっと気持ちよかった。汗もかいた。
離れたとこ歩いてたおじさんとおばさんがこっち見た。
二人に向かって手とか振っちゃった。そしたら手を振り返してくれて……。なんかすごいな。
「ぶたまんまんの歌、やっていい?」
って弾んだ調子でリカさんが言った。
ぶたまんまん?
「ちっちゃい頃ね、ダディが歌ってくれたの」
ダディってお父さんのことかな。
オイラ頷いた。
リカさんは女の子みたいに歌った。
ぶた まーんまん ちちっちちち
ぶた まーんまん ちちっちちち
マントをとったら ただのぶただよ ピンクのぶたまんまん
「おしまいっ」って言ってリカさん、照れたように笑った。
面白い歌だ。
「ぶたまんまんって何ですか?」
「ダディが作ってくれたキャラ、ピンク色しててね、で、マントつけてるの」
「お父さんって面白い方なんですね」
リカさん頷いた。親がいない、とか西村言ってたけど、それもあいつの思い違いなのかもしれない。
「もう一つ歌ってもいい?」
「歌ってください」
膝立てて、ウクレレも立てるみたいにしてリカさん陽気に歌った。
ぶったまん だっいすきさあ おおお
キャッラメルも すきだよ おおお
みったらしだんごも
チョッコレートパフェも
なんでもたべたいよお たたたたたた
ぶたまんまんっ!
「おしまいっ」
拍手した。愉快だ。「ぶたまんまんって食いしん坊なんですね」
「そうなの、甘いものが大好きなの」
「ウクレレ、お父さんに教えてもらったんですか?」
「うん」
嬉しそうなリカさんの顔、なんだか小学生のように見えた。
かわいい、と思った。リカさんが子供だったらよかったのに。もっと歳が近かったらよかったのに。そしたらオイラ……。
とか思ってたら、リカさんの眉ぴいんと跳ねた。
「その目、いいわね、そのままでいて」
そう言ってリカさんウクレレ置いて、リュックからスケッチブック出して真剣な顔になった。
オイラぴたりと止まった。仕事の時間だ。
車の走る音が聞こえた。遠くではしゃぐ幼児の声も聞こえた。ぶたまんまんの歌みたいに平和だった。
オイラを見つめてるリカさんの瞳。ちょっと赤茶色の瞳。よく見たらその中にオイラがいた。
ずっとこのままでいたいって思った。
紙をなでる鉛筆の音。少しずつ描かれてくオイラ。
見ないでもわかる。紙の上のオイラには目がない。
どのデッサンもそうだったし、色が塗られ始めたイーゼルの上の男にも相変わらず目はなかった。
オイラの目がいいってリカさんは言う、言ってくれる、なのになんで目は描かれないんだろう?
訊くと、いつもおんなじ返事だった。いつかは描けるようになりたい、ってそんなふうな。
わかったよ、って思う。オイラはモデルだ、だからじっとしてる、リカさんがいいって言うまで動かない。ずっとリカさんを見てる。見つめられながら見つめてる。
目なんて永久に描かれなくて構わない、っていうか描かれない方がいい、描かれたら終わってしまうから。おしまい、って言われてしまうから。だから完成なんてしなくていいんだ。
そう思いながらじっとしてた。時間が、前じゃなくって、どっか上の方に進んでくみたいだった。
その日の沈む太陽を、海に面した建物の高いとこから見送った。
で、建物出て、パーカーのジップ引っ張り上げて潮風の中歩いた。リカさんの肩、オイラのすぐ隣にあった。
左手にはコンクリのガードがあって、その向こうに暗い海があった。
店の灯りは百メートルくらい後ろと百メートルくらい前とにあって、右手は倉庫かなんかなのか黒かった。
黒い方から声がした。
「金と女を恵んでくだせえ」
ふざけたみたいな言い方だった。
そっち見た。
暗くてもわかった。熊みたいにでかい。
オイラ大きいほうじゃない。痩せっぽちだ。背だってリカさんとそんなに変わんない。だから狙われたんだ。
「行きましょう」
って言ってリカさんオイラの手握った。
「行かせねえよ」
とか熊が唸った。
目が慣れてきたのか人相がわかった。冗談じゃ済まない顔してる。
「なんだよ、ガキじゃねえか」って言って熊は笑い、「財布出せよ、それから姉ちゃんは……」ってリカさんの手元指差すみたいにして言った。「そのケースもこっちに寄越せ」
どうしたらいい? ゴルトムントならどうする? ってヘッセの小説の登場人物とか思った。
「嫌です」
ってリカさんきっぱり言った。
熊が息吸い込むのがわかった。
「ケースは渡しません」
「渡さねえってんなら奪うまでだけどよ」
「絶対に渡しません」
ごつそうな手がオイラのパーカーのフード掴んで引っ張った。 酒くさい。
「女の子みてえなかわいい面しやがってよう」
足の一つでも踏んづけてやりたかったけどできなかった。オイラ怖かったんだ。
「その子に手を出さないで」
「じゃ、財布とケースを置いてけよ」
材木が当たったみたいな痛み足に感じた。
コンクリートの地面にひっくり返ったオイラのこと見下ろすようにして熊が言った。
「おまえも早いとこ財布出せ」
ゴルトムントならやり返す、とか思いながらもできなかった。ヒップポケットから財布引っ張り出そうとした。
そのときだ、倉庫の方からまた声がした。
「遅えよ」
別のやつが近づいてくる。怖くてそっち見ることもできなかった。
じゃり、とか近くで音がして、それから変な沈黙があった。
なんか空気が変わったのがわかった。
倒れたまま見上げると、熊の横に見たことある顔があった。
あれ? 誰だっけ?
向こうも気づいたみたいだった。
「あんときの小僧じゃねえか」
助かったかもしんない、そう思って頑張って半身起こした。
「キョウタの知ってるガキかよ?」って熊が言った。
キョウタって呼ばれた人は暴走族のリーダーだった。菓子パンとコーラ買ってくれた人。
オフクロのボーイフレンドがはいてたような擦り切れたデニムすがるような気持ちで見つめた。
「こいつからは盗れねえ」ってキョウタさん言った。「他さがしてこい」
熊よりもなんだかキョウタさんの方が強そうだった。
「ったくしょうがねえな」とか言いながら熊、らしくない素早さで闇の向こうに消えた。
助かった。
「家に帰ったのか?」
ってキョウタさんが訊いた。
なんのことか一瞬わからなかった。
「あの、どちらさまですか?」
ってリカさん尋ねた。
やっと頭が整理できてオイラ言った。
「えっと、家には帰ってません、この人に拾ってもらったんです」ってキョウタさんにリカさん紹介して、「橋の下で助けてもらったんです」ってリカさんにキョウタさん紹介した。
短い沈黙のあと、「拾ってもらった?」ってキョウタさんがリカさん見て言った。
「服とか買ってもらって、部屋に置いてもらって……」ってオイラ説明した。
「未成年者略取じゃねえか」
って、すごく冷たい声でキョウタさん、またリカさんに向かって言った。
海風がリカさんの髪揺らしてた。
「甘えたことしてんじゃねえぞ」ってキョウタさんは低い声で言い、それからオイラのこと睨むように見て、でもオイラには何も言わず、そんでリカさん見て、「次見掛けたら海に叩き込む」ってちょっと独り言みたいに言った。
で、もうオイラを見もしないであっち向いたまま静かにどっかに行っちゃった。
ともあれ嵐は過ぎ去った。
頼りになんなくてごめんなさい、って言おうとしたら、「ごめんなさい」ってリカさんが先に言った。
リカさんの声、知らない誰かの声みたいだった。
「ウクレレ、形見なの、だから……」
西村が言ったの本当だったんだ、って思った。お父さん死んじゃってたんだ……。
「それからね」ってかすれたような声がした。「明日電話するね」
電話?
「ヒロのお母さんに」
真っ暗な空を真っ黒なカモメが横切るの感じた。
オイラ縦にも横にも首振れないまんま固まってた。
電話機の前に座ってリカさんとオイラめちゃくちゃ緊張してた。
平日の午前中、どっかで地面でも掘ってるのか、電気ドリルの音が、どるる、どるる、って響いてた。
オイラが言う番号にリカさんが掛けた。
受話器に向かってリカさん、もしもし、って硬い声で言った。
「はい、青山ですが」
って大きな声が受話器の外まで聞こえた。オヤジの声だ。
会社どうしたんだろ?
突然すみません、って苦しそうに言ってからリカさん、春日梨花と申しますが……、って名乗った。
受話器の向こうは疑わしげに黙ってる様子だ。
「実はお宅の寛さんを、あの、お預かりしてまして……」
身代金とか要求したら誘拐電話になっちゃいそう、ってオイラはらはらした。
反応がないんだろう、リカさん言いにくそうに続けた。「ご家族に連絡もせず何日も……、本当にすみませんでした、それで……」
遮るように声が響いた。
「構いませんよ」
受話器の外まではっきり聞こえた。
なんか気持ちのこもってない感じの声だった。
「いえ、あの、すみません……、今日中に寛さんをご自宅に……」
「及びませんよ」
リカさん黙った。そんでオイラを見た。で、気を取り直したみたいにまたオヤジに言ってくれた。
「ご自宅にまで私が責任をもって……」
「いや、だから」とオヤジ。「及びませんよ」
オヨビマセンヨ?
「そうおっしゃいますと……」ってリカさんも困ってる。
受話器から漏れる声に耳を澄ませた。
「今年度は休学してますから。だから来春までに戻してくれたらいいです」
どるる、どるる、って窓の外からドリルの音。
「なんならずっと戻してもらわなくても構いません。家内も同じ考えです」
「いえ、そんな、待ってください、あの、寛さんに替わりましょうか……」
「息子は元気なんですか?」
「あ、はい……」
「じゃ、ご迷惑お掛けして申し訳ありませんが、なるべく長いことよろしくお願いします、帰ってこられても困りますんでね、知らないとこで知らない誰かとまあ元気にやってくれてるならそれが一番ありがたいですから」
どるる、どるる。
リカさん、もうオイラを見なかった。「本当に?」って受話器に向かって寂しそうに言った。
「あなたがどこの誰かは存じませんが……」
「あ、こちらの連絡先を申し上げますね……」
「要りません」
リカさんの手、震えてる。
「なまじ連絡先なんてうかがっちゃうとね、こちらにも責任みたいなのが生じちゃう気がして……」
「……責任」
「知りたくないんですよ」
「お父さんでいらっしゃいますよね」
「だったら何ですか?」
リカさん黙った。
「警察とかね、あと学校とかには言わないでくださいよ、体裁悪いんでね」
折れた花みたいに下向いてリカさん動かなかった。
「養育費とか払えませんからね、本当に申し訳ないんですが、一つよろしくお願いしますよ」
長い沈黙のあとでリカさん、小さな声で言った。
「わかりました」
ぽちゃんって落ちた水滴みたいだった。
それで電話は終わった。
受話器戻してリカさん、オイラの顔見ないままオイラのこと抱き締めた。何も言わずに抱き締めた。
リカさんの体温がありがたかった。
リカさんの部屋から見下ろす向かいに小さなトラックが来てた。引っ越しのトラックだった。家具や荷物が車から出てく。
見上げると水色の空。
気分上々、って思った。
オヤジとの電話終えたあとリカさんは午後からのお勤めに出掛けた。
大丈夫 ? って何度も訊かれて、大丈夫、って何度も応えた。
リカさん行っちゃったあと、寂しくなるかな、って思ったけど全然ならなかった。
なんてことないさ、って思った。
むしろ嬉しかった。解放されたように感じた。オイラ自由なんだ。もうこそこそしないでいい。警察も学校も見張ってなんかいない。
始まるんだ、って思った。オイラの旅が、オイラの暮らしとイコールみたいになってこれから始まるんだ。
リカさんと、って思った。にやけてるのに気づいて、ははって声出して笑った。
あっ、って気がついた。雲かと思った。雲じゃなかった。白い月。しばらく眺めてから窓辺を離れた。
ラジオ聴いていいよ、って言われてたこと思い出した。音楽聴いてみることにした。
DJのおしゃべり、なんだか親切に聞こえた。団地にいた頃はあんなに意地悪に聞こえたのに。
旅立ちのロックが掛かった。オイラの好きなナンバーだった。リズムに合わせて首縦にぶんぶん振りながら、全肯定、って思った。激しく頷きながらオイラご機嫌な気分だった。
天気予報になった。ずっと南の海上で台風が発生したらしい。本州上陸のルートだって言ってる。
こんなに空は青いのに、って窓の向こうを見て不思議な気分になった。
翌日にはもう天気崩れた。二日目には雨嵐になった。で、三日目の夕方台風が直撃した。
リカさん部屋にいて、オイラと一緒にラジオ聴いてた。で、「怖いね」って言った。
「怖いですね」
って応えたけど、お台場の熊とかに比べたら台風なんてちっとも怖くないって思った。
「食べるものはちゃんと買い置きあるから」ってリカさん言った。
なんかキャンプみたいでオイラちょっと楽しかった。
そのときドアが叩かれた。台風よりも嫌なのが来たな、って思った。いらっしゃいますか、って西村の声がしたから。
リカさん立ってドア開けて、この前はお魚ありがとね、とか西村に言った。
「電車止まっちゃって」って西村の声。「だから今夜はブッカ部に泊まろうかと思って」
「あら大変ね、部室寒いわよね」
「やかんあるし、ストーブないけどシュラフあるし」
「上がってく? たいしたものないけど、よかったら夕飯食べてかない?」
「とか言ってもらえるんじゃないかと思って、これ」
「わあ、すごい」
ビニールのくしゃくしゃいう音がして、それから靴脱ぐ音がした。
「あれ?」って西村が言った。オイラ見て驚いたみたいだ。
「こんばんは」
ってオイラ、陽気にでもなく陰気にでもなく普通に言った。
「親戚の子が来てたんですね」って西村、リカさんに向かって言って、「だったらこれはまずかったかな」って続けた。
見るとやつは手にお酒の瓶持ってた。オヤジの一升瓶を一回り小さくしたような瓶。
「ヒロには麦茶飲んでもらうから」ってリカさん言った。「西村くんは遠慮しないで飲んでいいのよ」
そうですか、みたいに言いながら西村やって来てちゃぶ台の向こうに腰下ろした。そんでオイラに、やあ、とか言った。
「この前はサバありがとうございました」
ってオイラ言った。
「君も食べてくれたんだね」
「あぶらのってておいしかったです」
社交辞令ってやつだ。こうしてみんな大人になってくんだろう。
「千葉っていいとこだよ、魚も肉も野菜もおいしい。道路は広いし空だって広い」
「高田馬場には本当の空がない」
「なんだい、それ?」
「智恵子抄です」
「ああ、レモンをがりりって噛んだ人の言葉だね」
「なんかレベルの高い話してるのね」って言いながらリカさん、お盆を手にやって来て、で、「失礼します」って言って座った。
「やだな」って西村。「失礼しますだなんて、春日さんの部屋だし春日さんのちゃぶ台じゃないですか」
なるほど、さすがは大人だ、それなりなこと言う。
「君はちょくちょくお邪魔してるのかい?」
って西村オイラに向かって尋ねた。
「一緒に暮らしてるの」
ってリカさん応えた。
「え?」って西村驚いてオイラに「学校ここから通ってるの?」とか尋ねた。
「来春までお休みなの」ってまたリカさんが応えてくれた。
「どうして?」
「いろいろ事情があってね」ってリカさん。「あとね、親戚の子じゃないのよ」
目を丸くして西村、オイラ見てなんにも言えない様子だった。
オイラ、うんって力強く頷いてやった。
「じゃ、どういう関係の……」って西村、蚊取り線香にあぶられた蚊みたいに弱々しく言った。
「秘密の関係なの」ってリカさん西村に言って、それからオイラ見て、「ね?」って言った。
痛快、って思った。西村の顔がなんだかかわいそうに見えてきちゃうくらい。
「っていうのは冗談で」って、オイラのコップに麦茶注いでくれながらリカさん。「本当は創作工程上のパートナーなの」
「ソウサクコウテイジョウのパートナー?」って西村、頭の周りにいっぱいクエスチョンマーク散らして。
「専属モデルなんです」ってオイラ解説した。
「で、一緒に住んでるの?」って西村。
「住み込みなんです」ってオイラ。
「まあ、そういうわけだから」ってリカさん。「このお酒ありがたく……、って、あら、純米大吟醸ですって、上等ね」
ラベル見てリカさんそう言って、それから西村の茶碗と自分の茶碗に瓶傾けた。「グラスも足りないしお猪口もないのよ、だからお茶碗で申し訳ないけど」
「あ、いえ、恐縮です」とか言って西村正座になった。
「じゃあ乾杯ね」って弾けるように言ってリカさん茶碗持った。「お隣同士の絆と、台風五号の上陸に」
オイラたち乾杯して、それから窓のがたがたいう音聴いて少し黙った。
外もう暗くなってた。すごい風、化け物みたいにぴぃぷぅ叫んでた。おんぼろな下宿が耐えきれるのか心配だった。大人の二人も心配だったのかもしんない。不安ごまかすみたいにお酒飲んで、そんでそれからエンジンぶんぶんさせてしゃべり始めた。
「東林の焼き鳥、春日さん好きでしたよね」
「うんうん、ありがと、ぼんちりも買ってくれたのね」
「ぼんちりって何ですか?」ってオイラ。
「ひよどりのお尻だよ」
「貴重な部位なのよ」
大人の世界ってワンダーランドだ。知らないことばっかり。
西村、透明のタッパー開けて箸突っ込んだ。「春日さんの常備菜いただきます」
「カレーの残りの野菜で作ったポテトサラダなの、あとこっちのこれは大根の葉っぱ塩漬けにしたやつ」
「ヒロくん、飲めなくて残念だね」
「飲ませちゃ駄目よ、未成年なんだから」
「いくつなんだい?」ってオイラに西村。
「十五歳なの、私より十歳若いのよ」
「春日さんだってまだまだ若いじゃないですか」
「やあね、からかわないでよ」
「からかってなんかないですよ、あ、こっちの缶詰めもよかったら」
「ありがと、缶切り持ってくるわね」
「君もよかったら、ほら、ポテチもあるよ」
とかなんとか、大人ってなんだってお酒が入るとこうなるんだろう。オヤジとたいして変わんなくなる。
缶切り取りに立ったリカさんの背中見ながらオイラ、西村に小さな声で教えてやった。「好きな人とかいないみたいですよ」
「好きな人?」って大きな声で西村。
もういいや、放っとこう。
「何、なんの話?」って戻ってきてリカさん。
コンソメ味のポテトチップスとイワシの缶詰めと、タッパーに入ったリカさんの常備菜と、なんとかって店の焼き鳥食べながらオイラ麦茶飲んで黙ってた。
オイラの知らないいろんななんかを背負って大変なのかもしんない、って大人にちょっと同情した。だからたまにお酒飲んだりすると、揃ってこんなふうに変になっちゃうんだろう。
とはいえ、って思った。お酒の匂いは好きじゃない。しゃべりすぎる大人も苦手だ。
これがあとどのくらい続くんだろ、ってうんざりした気分で天井見た。
そしたら、びっくり、まるで神さまがそうしてくれたかのようにふっと電気が消えた。
一瞬とても静かになってから、「停電だ」って西村の声がした。
真っ暗になった。
窓の外がまたぴぃぷぅって鳴った。
オイラ口笛でぴぃぷぅって真似してみた。
リカさんも西村も笑わなかった。
暗くなったらお酒の匂いもっと強くなった。なんだかな、って思ってまた口笛でぴぃぷぅってやった。
ろうそく持って、その光でオイラ、リカさんのお尻照らしてた。闇の中でジャージねずみ色してた。
「ごめんね、ヒロも中入っちゃってくれる?」
言われてオイラも押し入れの下の段に潜り込んだ。
「僕も何か手伝いましょうか?」って西村の声がした。
「ありがとね」ってリカさん。「でも、のっぽさんが活躍できる状況じゃないみたい」
押し入れの中でリカさんと並んだ。
「それでね、前の方照らしてくれる?」
ろうそくが何かに当たらないよう気をつけながらゆっくり手を伸ばした。
「ここらへんにあるはずなんだけど……」ってごそごそしてからリカさん、「あったわ」って言って何かを引っ張り出した。
ちゃぶ台に戻ってそれを照らした。ブリキかなんかでできた箱だった。触るとひんやり冷たかった。
ぱかんって音がして蓋が開いた。
中から出てきたのはランタンだった。ますますキャンプだ、ってオイラ思った。
西村とリカさんが何やら手際よくやって白い光が輝いた。
しゅうう、みたいな音が、飛行機に乗ってるときの音のようにずっと続いた。なんかカッコいい。
丸く照らされたちゃぶ台見ながら空想した。ここは無人島だ。オイラたち漂流者なんだ。力合わせて生き抜かなくちゃ。
幸い食糧は豊富だ。流しの蛇口捻れば水にもありつける。満ち潮の不安もないし毒蛇の心配もない。
だなんて頭の中で冒険ごっこしてたらリカさんが言った。
「キャンプファイヤーの夜みたいね」
なんだよ、スケール小さくなっちゃうなあ。
「ちゃぶ台の周りで踊りますか?」
って西村馬鹿なこと言った。
そしたら「そうだ」って西村に応えるみたいに立ち上がってリカさん、「ちょっと灯りを借りるわね」って言ってランタン提げて押し入れに行って潜ったかと思うと例の黒いケース抱えて出てきた。
「機関銃ですか?」って西村。
「まあ似たようなもんね」
歌うつもりだ、って思った。まあいいか、お隣の迷惑になるわけでもないし。
輪になって座った。
西村、丸いちゃぶ台の向こう側オイラの正面にいた。ランタンの光で明るく照らされてる。
ちゃぶ台左のちょっとオイラ寄りに、ウクレレ抱えてリカさんがいた。横目で見るとリカさん三日月みたいに光ってた。
なんかいい配置だな、って思った、よくわかんないけど。
出し抜けに化学式が思い浮かんだ。えいちつーおー。
リカさんが歌い、西村が歌い、オイラも歌った。まぜこぜみたいになって歌った。
大人二人はお酒飲んだけど、なんでだろ、匂いがもう嫌じゃなかった。オイラも陽気な気分になった。酔っ払いの気持ち少しわかったような気がした。
「またやってくださいよ」ってリカさんにリクエストした。「ぶたまんまんの歌」
「ぶたまんまん?」って西村。
左手横からリカさんオイラ見て、えへへとかそんなふうに笑ってそれから言った。
「じゃあ今夜はぶたまんまんじゃなくてヒロの歌ね。……そうだな、何か怖いもの言ってみて」
怖いもの? って考えてから言った。
「お化け屋敷とか」
「それから?」
「ゴキブリ」
「それから?」
「えっと、ジェットコースターかな」
「オッケー」
見ると西村正面でまた目を丸くしてる。
じゃ、って言ってからリカさん早口言葉みたいな調子で歌った。
おばけやしきとゴキブリとそれからジェットコースター たたたたった
オイラそれがちょーっとこわいんだ、ふああ
おばけやしきとゴキブリとそれからジェットコースター たたたたった
かんがえただけでふるえてきちゃうー
「おしまいっ」
西村が拍手した。「すごいですね、即興じゃないですか」
オイラ驚いた。
「すごいよね? ヒロくん」って西村。
うん、すごい。でも……って思った。即興とかそんなことより、いったいどうして?
「どうして?」ってそのまま言葉になった。
左横からリカさん、ん? って顔でオイラを見る。
「なんでオイラって……」
「あ、嫌だった? オイラって歌われて」
言葉に詰まった。
「ごめんね」って言って八の字眉になったリカさん、なんでも知ってる神さまみたいに見えた。
「オイラってのはあれだ」って正面から西村が言った。「江戸前の言葉だね」
「そうなの?」ってリカさん。
「江戸時代に使用されてた一人称ですよ」
「方言とかじゃないのね」
「東京の言葉です、今でも下町じゃわりと普通に遣われてますよ」
そうだ。
「そうなんですよ!」ってオイラ言った。大きな声に西村もリカさんもびっくりしたみたいだった。オイラだってびっくりした。
「荒川区で生まれ育ったんです」
「ザ・下町」って西村。
「はい、だからオイラちっちゃな頃からオイラのことオイラって呼んでて……」
リカさん、びっくりした顔してる。
「オフクロなんてオイラのことオイラくんって呼んでて。だからオイラ喜んでオイラオイラって言ってて。でも……」
でも? って顔、リカさんも西村もした。
「オフクロのボーイフレンドがダサいって言って、下品だって言って……。そしたらオフクロ、オイラ禁止令とか出したんですよ。で、オイラのこともうオイラくんって呼ばなくなって。おまえ、って呼ぶようになって……」
ランタンのしゅううって音が大きくなったように感じた。
「でもオイラはオイラだから。だもんだからオイラ、心の中ではずっとオイラのことオイラって言ってたんです」
「なるほど道理で」って西村言った。「僕とも俺とも言わない子だなって思ってたよ」
「なのにリカさん、オイラのことオイラって歌ったから……。知らないはずなのに……」
「なぜかしらね、そんな感じに思えたのよ、ヒロならなんとなくオイラかなって」
「全然下品なんかじゃないよ」って西村。「オイラって自分を言って似合うだなんて、僕は断然カッコいいと思うな、実に羨ましいくらいだ」
リカさんも頷いてくれた。
「これからはオイラくんって呼ぼうか?」って西村。
「素敵ね」ってリカさん。「オイラくん、ってかわいいかも。ヒロが嫌じゃなかったらオイラくんにしちゃう?」
そう言ってオイラを見た。
嫌なわけない。だってオイラはオイラなんだから。オイラって言えたらどんなにいいだろうってずっと思ってたから。
「じゃオイラ、今からオイラくんになります」って言った。
「復活のオイラくん」って言って西村笑った。
西村っていいやつだ。
と思ったら、ぱちって電気がついた。
「電気も復活した」って言って西村また笑った。
なんだろう、西村が違う人に見えた。そのままそう言った。「西村さんがなんか違う人に見えます」って。
そしたら西村ブッカ部らしく言った。「ケミカルな反応が起こったんだ」
ケミカル、って思った。よくわかんないけどなんとなくわかった。
オイラたち今夜混ざりあって、そんでがっちり結合したんだ、たぶんすごくいいバランスで。
「西村くん、シュラフ持ってきちゃいなよ」ってリカさん言った。「今夜は川の字になって寝よう」
そんなわけでその夜オイラは川の字の真ん中になって寝た。
リカさんも西村も新しい家族みたいだった。台風の夜にすごく感謝した。
執筆の狙い
つづき書き足しました。改稿もしてます。
冒頭の新しく書き足したとこ、『タイトルは挿入、テーマは別れ』ってコンテストへの応募を兼ねさせてください。気が向いたらマルとかバツとか付けてやってください。