挿入
引き裂かれるような切なさ。
単純に言えばそんな感覚かも知れない。
量販店の立体駐車場。営業車の狭い車内。
抱き締めた細い肩。僕は震える声で「友美なら大丈夫」と繰り返した。
妻帯者である自分には彼女の選択を否定する資格はない。
「ただの勘違いかも知れないし、単に身体目当てかも知れないし、これからどうなるのかなんて分かんないから…」
「大丈夫。友美を大切にしてくれるさ」
彼女の言葉を遮って自分に言い聞かせる。
本気で彼女の幸せを願うなら決して引き止めてはいけない。
「同級生って今から重ねる必要のない記憶を沢山持ってるって事だよ。友美が失った時間を取り戻すには丁度いいよ」
言いながら内臓がえぐりとられるような痛みが胸の奥に押し込まれて弾けて鼓動が乱れる。無力な自分を殴り倒したい。
もしも、もっと早く独りになれていたら彼女が他の男の元に行くことを止められたのだろうか。無意味な考えが頭の中を駆け巡る。
「もしも、裏切られたりしたら…」
「友美を傷付けるヤツはいないし、きっとその人は誠実だよ。それに」
「それに? なに?」
「俺とは違う」
言葉にすると酷く虚しい。当たり前の事だが、正義とは正反対の場所にいる自分は悲しいほど滑稽で情けない。
「夢をみたの」
腕の中で小さく呟いた彼女が僕を見詰める。
「どんな夢だったの?」
「泣いてた」
「俺が?」
頷く彼女自身が泣いてしまうような気がして彼女の頭を撫でる。大好きな香りのする細い髪が指先を滑る。記憶の中に焼き付いている彼女の全てを少しも消さないように、どんなに辛くても全てを受け入れたい。
最後くらいは今まで重ねてきたワガママとは違う何かを差し出したい。
「泣いてるから、抱き締めてあげたの」
本当に大切な人に巡り会える幸せをくれた女性。
それが、今、腕の中から消えようとしている。
それでも、煙草の紫煙が宙に溶けて消えるように自分にはどうすることもできない。
「そっか、正夢だねきっと」
彼女に微笑みを向けたつもりで張り付けた歪んだ表情。
言葉なんて全て捨て去ってしまいたくて、手離さないで済む術はないかと見苦しく足掻いて泣き叫びたい。
彼女との出逢いは僕の殆ど全てを変えてしまった。
彼女は僕にとって唯一無二の絶対的な存在だった。
それまでの僕は、適当に生きていた。彼女と出逢う前にも妻に対して誠実ではない関係を僕は複数持っていた。友人に恋愛依存症だと言われる度に「将来小説家になるから、そのネタさ」と嘯いた。
それは少しだけ本心で、残りの全ては自分の中に満たされない部分があることを確信していたからかも知れない。
彼女が営業部にやって来たのは丁度一年前の事だった。新人の教育係りみたいな役割が僕に押し付けられたが、僕は彼女に然程興味はなかった。適当に続けてきた不誠実な関係の女性からの離婚を迫る熱心な好意に神経をすり減らしていたから。
僕が足りないと感じていた日々は結局、自分自身が妻やその他の女性に対して真っ直ぐに向き合っていなかったからだと彼女を好きになってから気が付いた。
軽そうに見えた彼女。付き合いが深くなるほどに本当の彼女が沢山の傷を隠すために意図的に軽く振る舞っていることに気が付いた。
その傷はとても深くて、いつまでも痛くて、彼女の言葉をねじ曲げて綺麗な彼女の内面を覆い隠す。手軽に寝れそうな。愛情に無頓着な女性を演じることで彼女は更に傷付く事から必死に逃げていた。
本当の彼女は本質から目を逸らすと、直ぐに見えなくなってしまう。
初めてキスした日も彼女は僕に 「今、ここでキスしたらどんな感じだろ」と言って目を閉じた。それは命令するような口調で、とても軽くてどうでも良いように聞こえたけど細い肩は小さく震えていた。言葉は本当の事なんて何も伝えていない。彼女を知りたいなら彼女の全てを真っ直ぐに見詰めないといけない。
初めて彼女を抱いた日もいつものように「私は上が好きなの」と言って主導権を握りたがったけど昇り詰めた後に、何度も僕に「気持ちいい?」と聞いて泣きそうな表情を浮かべていた。
そして、僕が「愛してる?」と訊くといつでも「嫌いじゃない」と答えた。
言葉は気持ちを伝えるけど万能じゃない。彼女のことを知りたいなら尚更言葉は完璧じゃない。
気持ちは自然と伝わる事が全てだと彼女が教えてくれた。
僕は至極自然に彼女の全てが欲しくなった。自分の持っている不要なものが明確に見えてしまった。
直ぐに不誠実な関係を断ち切ろうとした。勿論、そんな事は簡単には出来ない。
それまで適当に生きてきたツケは簡単には精算出来なかった。
そして、今でもそれは消えそうで消えなくて僕に絡み付いている。
僕は最近、妻にも自分の本当の気持ちを伝えている。
本当の自分でいる為に、この環境にはいられない。
それでも、今、抱き締めた温もりが消えてしまいそうで僕は泣き叫びたい。
彼女の全てが欲しくて、全てを捨てても良いと思っていた。
それが誠実に向き合う事なのだと思っていた。
それでも、僕は思った刹那に捨ててしまう事は出来なかった。
自分が抱えた責任を放棄する事が出来なかった。
彼女の本当に欲しかったものが過去の傷から逃れる為の明確な形だと分かっていて棄てることが出来なかった。
「今度は、エッチするかもね」
腕の中から見上げる愛しい眼差しが苦しくて堪らない。彼女が僕に何を言わせたいのか分かっている。
それでも、それを口にすることは出来ない。
彼女が選ぼうとしているのは全ての条件で悪くない男だ。何より独身で誠実なハズだ。
「じぁ、いつもよりも控えめにしなきゃね」
「なにそれ? 悪口」
「男は真剣な相手には従順でいて欲しいから奔放過ぎると引いてしまうかも知れないだろ?」
自分で口にした言葉が心臓近くの隙間に酷く鋭利な何かを押し込める。鋭く痛くて息が詰まりそうになる。
奪われたくないなら今すぐに全てを捨ててしまえば良いと心に巣食う弱い自分が叫んでいる。責任を放棄しろと、彼女に無責任な自分を押し付けて誤魔化せと叫んでいる。
バカげている。初めから全てが僕自身のワガママだったことは明らかだ。
「本当にするかも」
彼女がもう一度呟いた。
彼女の言葉は本当の事全てを伝えない。伝えたがらない。
それでも、彼女の幸せを望むならこれから先は真っ直ぐに見詰めてはいけない。
彼女を手離さないといけない。
だからもう、僕が彼女を手に入れる事は出来ない。自分の言葉を素直に受け入れる男性に彼女は巡りあった。僕にはもう彼女に触れる事さえ出来ない。
「友美の香りが好きだったよ」
髪に触れて鼻先を押し付ける。思い出す沢山の強烈な想い。
「甘い声と対になるハスキーな声が好きだったよ」
「まだ…」
何かを伝えようとする彼女の唇を指先で撫でて塞ぐ。先に何かを言葉にされると泣いてしまいそうな気がした。
「小さな乳房も、優しい微笑みも大好きだったよ」
ふざけて上着の上から胸の小さな膨らみに手を添える。
彼女は何も答えずに僕を見詰めている。
「ありがとう」
そこまで言って声が消えてしまった。
次の言葉は見あたらない。
時間の感覚が失くなる。
僕は泣いている自分を悟られないように彼女を強く抱き締める。
意味なんてないものを抱き締める。
不倫なんて何も生み出さない不確かでふわふわとした冷たくて温かい無意味なものだ。
二人が、もしも出逢いを間違えていたとしても、愛してるならスタートラインまで自分自身を戻さないといけない。それが出来ないなら無意味な感情や記憶を増やしてはいけない。
僕は、彼女との沢山の思い出を忘れたりしない。
それでもきっと、こんなにも苦しくて哀しくて虚しい気持ちだったことはいつか思い出せなくなる。
彼女がくれた愛しさ全てを思い出せなくなる。
躊躇いと陽炎の中にしか存在出来ないカタチのものになる。
量販店の立体駐車場。営業車の狭い車内。彼女を抱き締めて泣いている僕を誰かが観ている。
惨めで情けない僕を観ている。
【おわり】
執筆の狙い
たった一瞬を文字にすれば、最近の自分自身は瞬間にとても多くのものを失って代わりに大きな喪失感を手に入れました。
僕は、感想でも小説擬きでもストレスを吐き出す為に書いてる気がしてます。
可能であれば🌑❌を下さい