花
自動ドアが開かなかった。故障?同じ事が一日に二度。私に反応しないセンサーに、私はここにいるのか?と思ったりした。すれ違う人は皆、私と目を合わさない。一度目の不思議。二度目の疑い。三度目に私は何かを確信するのかな。鏡を見たら私が映っていなかったりして。
このあいだ気付いたのだけれども、満員電車も誰かと一緒なら楽しい。もちろんその誰かというのは限定されるけど。混み合っていて、話なんかできないけど、なんか、こんな沢山の人の中で一人だけ心が通じる相手がいるっていうのを感じるのは素敵なことだと思った。満員電車。今日もまわりに人は沢山いるけれど、今日は独りの満員電車。私は帰りの電車の中で三度目の存在証明の場を、家までの道のりの中で探していた。一つ先の駅で降りて、レンタルビデオ屋の自動ドア?それとも普通に降りて途中のコンビニに寄る?けれど、都心とは気温が二度下がる冬の多摩の街を歩いて帰るのは気が引ける。バスで帰れるとはいえDVDを借りても、今は読んでいる本があるから観る時間はない。私の今の周期は読書。先週までは映画だった。歩くのは寒いけど、コンビニでお酒とお菓子を買って帰るほうが今の私にとってはリアルな現実かな。ところが、もっとつまらない現実。当たり前のように開いたコンビニの自動ドア。鏡にうつらない自分を少しだけ期待していただけに、私はフキゲンになった。意味のわからないフキゲン。そんなフキゲンの繰り返し。結局、私はここにいるんだ。よくわからない存在のまま、私は普通にここにいる。
内定を断った。就職するのをやめた。
今年の春に大学を卒業する。今はまだ卒業制作の提出に追われ、先の事を考えずにすんでいた。学校もすでに授業はない。ゼミに週一で行くだけなので一週間をバイト三昧で過ごしている。
ゴールデンウィークの前に内定をもらった飲食サービス業の会社に就職をするつもりで、夏・秋を過ごしていたが、ふと、立ち止まってしまった。「いいのかな、それで」と。まわりがみんな就職活動をしていて、大学を卒業すると就職をするものだと決まっているようだったので、右にならえで就職活動をした。金髪も黒に染め直して就職活動を始めた。みんなと同じだ、何一つおかしいことはしていないし当たり前のことをしていた。リクルートスーツを着るよりも髪を黒く戻したことの方が恥ずかしく、バイトに行くのもためらわれた。すっぴんだとか、ロングをベリーショートにしたどころではない…そんな気恥ずかしさに、いつものように空を見ながら街を歩くことはできなかった。いったい街ですれ違うどれほどの人が私を知っているの?誰も知りもしないし私の変化なんかに気付いてもいない。どっかのアニメの主人公のようなそばかすの散った、そんな素顔よりも何よりも髪の色?不思議。
私は就職するつもりでいた。何度かの面接やその研修において出会った人達に魅力を感じた。話をしていて本当に魅力を感じたし、そんな人達と一緒に働きたいと思った。なにかしら、その会社にそこまで遠くではないけど、それなりの自分の未来を見た気がした。
うそ。魅力だなんて嘘。魅力?何それ。調子の良い勘違いを生み出す言葉だこと。私の話を真剣に聞いてくれて、私を気に入ってくれて、そんなふうに思ってくれた人の為に頑張って働いてみようと思っただけ。私を気にいってくれたことを魅力と感じただけ。思わされただけ。そう思っていたでしょ?わかっていたでしょ?
それに気付いたから、だからやめた。
人間の脳は、その八割が眠っていると言われている。それと同じで私も心の八割は人には話さない。けど、私にその八割の中の八割を話す人ができた。あの人と出会ってから、私の人生、少し変わるかもって思った。これから先の私の人生がどんなものなのか、もちろんそんなことわからないけれど、たとえあの人に出会っていない場合の未来と同じ未来がそこにあっても、私はその未来をあの人と出会ったからこその未来だと思えるのだと思う。望月さんは言ってた。「二十歳頃の時の自分と君は似ている」って。私はそれがよくわからなかった。それは当然で、だって私はその頃の望月さんを知らないし、それに私が知っている今の望月さんは私とは違う。いつも他の誰かが周りにいて笑っている。その笑いの中心に望月さんはいる。私はそれをいつも外から眺めている。
望月さんのそんな姿を見て、私と似ているなんて思うわけがない。
私と似ているという言葉、私は私だから私のことがそんなにわからなくはないけど…じゃあ、私は何年後かに望月さんのようになる素質?可能性?があるというのもいまいちリアリティがない。というか、ぜんぜんだ。
ハッキリ言ってしまえば、私は私のことがわからないから、望月さんの二十歳頃というのも皆目見当がつかない。ただ自分のことでわかるのは、一人でいるのがラクで、好きで、本を読むのが好きで、夏は暑くて陽に焼けるから出歩きたくない。それくらいだ。
何かといろんな話を聞いてくれた望月さん。
「内定とった会社、やめたい」
そんな私に、笑顔で「お前の好きにしな」って言ってくれたのは望月さんだけだった。一緒に働く仲間といくつかのオリエンテーションもした。いい人達だった。いや、それよりも誰よりも、この内定を誰よりも喜んでくれた望月さん。いくつものアドバイスと、それに向かう為の大きな勇気と自信を与えてくれた。そのおかげで勝ちとった内定。それなのに、望月さんは私がその内定を断る相談にも乗ってくれた。一緒に力を合わせて勝ちとったものを一緒に壊す話をした。いったい何をやっているの?私達二人は。それでも望月さんは真剣だった。すごくバカでバカで仕方ない子供な私の話を真剣に聞いてくれた。そして叱ってくれた。
望月さんの言葉。それは私が頷くような世界の言葉だった。
一緒に映画を観た時のこと。終わった後、その映画の感想を何も言わずに私達は別れてしまって、なんかそれがとても気になって「どうだった?」とメールをした。だって、一緒に観た相手がそれを面白かったか、そうでなかったのかってとても気になる。そうしたら「良かったよ」って返信が来た。けれど私は「本当に?」と聞き返した。だって、感動したような素振りは微塵も見せなかったし、本当に映画のことを何も言わなかったから、つまらなかったのかな?って、ずっと思っていた。ううん、違う。本当は、私はその映画をとても気に入ったから、望月さんもそうであってほしいと思っていた、だから聞いた。私の「本当に?」というメールの返事はすぐに来た。「だって、素敵だったろ?」って。「お前もそう思ったろ?」って、「同じように思ったろ?」ってそう言われたような気がして、私はすごくうれしくて、「うん」ってすぐに返事をした。「素敵」なんていう言葉はとてもあいまいな言葉なのかもしれない。それが青なのか黄色なのか緑色なのか、さらには彩度や明度、その「素敵色」は人によってぜんぜん違う。けれど望月さんが素敵と言ったコトに私は素直に頷いた。もしかしたら、その言葉の本当の意味は望月さんが言う〈それ〉と、私が思う〈それ〉とは違っていたのかもしれないけど、少なくとも、私が理解した中では〈それ〉を受け入れていた。そして私は望月さんを心の拠り所にしていた。〈依存〉そんな時期もあった。素直にそう思う。私は望月さんに恋をしていた。私から、「一緒にいたい」と告白したこともあった。でもそれはいけないことだった。私と望月さんは明るい空の下を堂々と手をつないでは歩けなかった。夜の街しか歩けない、そんな関係にしかなれなかった。そう、望月さんには奥さんがいたから。だから無理だった。私が望む関係にはなれなかった。それはいけないことだと思ったから、私はやめた。そして、それを終わりにした証が耳の軟骨に空けたピアス。空けてから痛みが続いた。諦めた恋の証は私の心を支えた。好きになってはいけない。私の価値観で決めた、諦めて終わりにした恋の証。けど、痛みが消えたら自信になった。痛みに耐えたこと。私は強いんだって。
ショーウィンドウには春物が並ぶ。もう二月。けれど、春にはほど遠い。春物の服を買う気にはなれない。春の私が見えないから?
その通りかな。日差しが若葉を透かす、やわらかい陽の光の中を歩く私の姿を思い描くことができない。春を待つから、夏を待つから、秋を待つから、冬を待つから、私たちはその季節を歩く為の服を買う。もう一つ、その服を着て春を歩きたいから、夏を歩きたいから、秋を歩きたいから、冬を歩きたいから、その服を買う。今の私はそうじゃない。このまま、冬がずっと続いて欲しい。春にはまだなってほしくない。時間があればどうにかなることではないのかもしれないけれど、でもやっぱり答え…じゃないよね、進路が決まるまでの時間が欲しい。心がそっちを向いて足が動き、勤め先が決まる。それって、最短なら一週間で可能かもしれないけれど、最長だったら、限りなく続く。終わりではない始まりまでの距離は私次第で永遠だ。でも、春まではもうあと少し。それは止められない。どうにもならない心のまま、春が来る。
どうにかしろ?だよね。きっとそう言うよね、望月さん。
「都会の空は狭い」ってみんな言う。でも実はそんなことってない。都会にだって広い空、キレイな空はある。そりゃあ、岩手のおじいちゃんちのような青い空はないし、私の住む多摩の空のような大きさはないけど、それでも思った以上の大きなキレイな空が都会の空にもある。見てないだけ。都心に出た時にそれを見ていないだけの話。
九段下で東西線に乗り換えて、竹橋で降りる。そこから大手町方面に向かって歩くとそんな空に出会える。歩き始めは、少しまわりの景色よりも沈んだ歩道を進む。4車線の道路に車が勢い良く走る。左手には毎日新聞社のビルが私を覆うようにそびえ建っていたりして、お堀の向こうの木々と都会の建造物のギャップの間を歩く変な違和感。それも独特の都会の景色だけど悪くはない。テレビで観たセントラルパークからのニューヨークの景色もそれと変わらない。都庁の展望室から観た新宿御苑のポッカリ都心に空いた緑の穴のような…そんな境目。
しだいに空が大きくなる。私とビルの距離が開き、木々と私の距離も遠のく。空が私に近付いてくる。四車線の道路とお堀の水面、両方のひらべったい真ん中に私はいて、さらに広い青い空の平さに挟まれた私は不思議な空間にいる。空に青いふたをされているようで、でも空のふたはどこまでも高く青い透明さをもって私を不安定な場所に置く。ふたなんだけど、ふたは無いみたいな、包まれているようで、けど、私がどこへ飛んで行くことも許してくれる。でも飛ぶことは出来なくて、あまりに広すぎて、どこにいたらよいのかわからないくらいに心が不安になる時もある。空があって、それを人が感じるのか。人の心があって、空を感じるのか。後者かな。だって、心に元気が無い時、空を見ないもんね。
車が何台もガードレールを挟んで私の横を通り過ぎるけど、私の周りはとても静か。音はある。ただ、それが近くだけど遠くに聞こえる。「雑踏」と一言にしてしまうのはなんだか味気ないかな。そんな沢山の人と物と機械が立てた音が直接に耳には聞こえない。電車のガタンゴトンっていう心地良い音。それと似ている。私はそんなBGMが聞こえる場所にいる。
どうしよ、私、これから。
誰が決めたの?春は新しいスタートの季節だなんて。四月?ウソウソ、みんな一月に調子の良いことを言うじゃん。新しい、新しいって。「新しい」を始めてまだ三ヶ月しか経ってないじゃん。それでまた「新しい」を始めるの?新しい気持ちで、新しい気持ちでって、年が明けたら、春が来たら、一ヶ月が終わったら、月曜日になったら、朝が来たら始めるの?去年のことは忘れて、先月のことは忘れて、先週のことは忘れて、昨日のことは忘れて…人はいつも調子良くリセットボタンを押して、新しい一日を始める。
なんてね。私もその一人。
でも、今の私は「新しい」を始められない。「ゼロ」を新しいというのか、「新しいもの」を新しいと言うのか。私の「新しい」は前者。何もないんだ。会社とか学校とか、何も無いもん。そんなだから新しい出会いだって期待も出来ない。もちろん、バイト先には新しいコ達が入ってくるけど…。「けど」だよね。
好きなコトって言われて、探して、ただ、やってみたいだけのもので心を支えてる。ははは、私、わかってるじゃん。自分のこと。
足踏みしてるな〜って思う。中華料理の回転テーブルの上で、方向も定められず…実際は足踏みなんてしてないか。その上で座ってる。膝を抱えてね。人が「あ、すいません」って回転テーブルのふちにぶつかって、テーブルは少しだけ回ったりして私が向いてる方向が変わる。
「今の自分を支えてるモチベーションって何?」
いつだったか、そんな質問を望月さんにされたことがあったっけ。
私はこう答えたのを覚えている。
「なんだかわからないけど、やらなきゃいけないと思わされてやってる就職活動」。支えてるっていうのとは違うけど、やらなきゃいけないことに無理矢理に生かされてるっていう感じ。ある意味、それは生きるモチベーションだよね。望月さんは案の定、そんなことを言った私を笑った。しかも「そりゃ、ご苦労さん」なんてセリフも付けて。
若い頃は小説を読みあさったり、映画を観まくったりして、テキトーにバイトしているだけでもいいって、望月さんは言ってたけど、でもそれじゃ、どうしようもないじゃん。ニートだとかなんとか言われてさ、開きなおっているっていうのも実はコンプレックスだよ。望月さんはそれで平気だったのかもしれないけど、私にはそうやって過ごした何年か後の自分がまるで見えない。「どうにかなる」なんて自信は私には無い。「成るように成る」なんて、本当に成るようにしか成らないよ。成さないと成らないもん。気付いているんだ。私、心の中で、なんか文句ばっかり言ってる。文句と「ははは〜、どうしようかな」っていう開き直れない弱っちい心。何かを始めるにも、自分らしさという言葉を頼りにしなければ何も出来ない自分。なんだ、よくわかっているじゃん、自分のコト。
夢を見た。
軟骨に空けたピアスの穴から芽が出た。
私は髪を耳にかけて、手鏡の中を横目でのぞいている。幼い頃、小学生の頃に観察日記をつけたアサガオのような芽?園芸の趣味など持たない私が、その芽が何の植物であるかなんてわかるはずがない。大きくなってからも、植物の芽なんて見た事も気にしたこともなかった。どんな花が咲くのかも、果たして花が咲くのかもわからない芽が私の耳から生えていた。
夢の中の私はその芽を大切にしていた。街に出る時は目立たないように髪をおろし、天気の良い日は人目を気にしながら芽を陽に当ててあげた。朝起きては鏡を眺め、夜寝る前にもその芽を見て、いつからか「おはよう」、「おやすみ」と語りかけるまでになった。その成長は明らかで、一週間で葉が4枚に増えた。私は喜んだ。朝、それに気付き、一階にいる母親に伝えようと思い階段を降りた。庭で植木に水をあげていた母を見て私はふとあることに気付いた。私はこのコに水をあげていない。あげたことがない。このコは何を栄養にして成長しているのだろう?立ち止まっていた私に母が気付いた。
「どうしたの?ルナ」
「え?」私は我に返った。
「あなた、少し痩せた?」
「え?」
二日前、ジーンズをはいた時、少しそう感じた。ウエストのあたり。昨日、友達に手首を掴まれた時、「細〜い!」と驚かれた。
体調は悪くないし、食生活は深夜のお菓子が相変わらず多いけれど、それも変わらずだ。理由もなく「痩せた?」と言われることに少し戸惑う。ただ、「そう?」と答える私。葉が大きくなり、6枚に増えた頃、もう一つ奥のベルトの穴を使うようになった。私は明らかに痩せていた。
耳に手をやると、そこにはピアスがある。鏡で耳を見ると、そこには何かが生えている。夢で見た、葉を6つ付けた植物が見える。手に触れるものはピアス。夢?夢じゃない、夢じゃなかった。
このコは私から何かを奪い、成長している。そしてそれは夢じゃない。
「あなた、最近…疲れてる?」
帰宅して部屋に向かう私の後ろ姿に向かって母が言った。
振り返り「そうかな?」と言って部屋に入った。
知ってるよ、人から見てそう見える自分に気付いていないはずはない。だって私は鏡に映るんだから。
一向に前に進もうとしない進まない私と対照的に、耳に生えた植物はつぼみをつけた。頭を垂れたゆりの花のような大きなつぼみ。春だ。花が咲くのは自然なこと。私ではない私が花を咲かせようとしている。その花が私の心であるとは思えない。だって、今の私は「ダメ」だから、花なんて咲くわけが無い。じゃあ、私から生えたこの花のつぼみは、私の何を栄養にしてここまで育ったの?どんな花を咲かせるの?私は毎朝、起きるとすぐに鏡の中の耳から生えた花のつぼみを見て、その成長をおいかけ、観察し続けた。街でもバイト先でも、手鏡をポケットに入れて持ち歩き、つぼみが開く日、花が咲く、その瞬間を待ち続けた。
「耳、どうかしたの?」
「え?ううん、なんでもない」
幾度となく、同じ言葉を人からかけられた。
人には見えないことはわかってる。
手で触れても、そこにあるのはピアス。鏡の中でしかそのコは見えない。
晴天でもない、雨でもない一日。そんな気にもかけない空模様の一日の夕方、つぼみは花を咲かせずに根元からポロっと落ちた。駅のホーム、ふと、疼く耳を手鏡で見た瞬間だった。
落ちた瞬間。つぼみを拾おうと手を出したが、それはすでに私の視界にはなく、足下を見回してもそれは見当たらない。即座に私はホームにしゃがみ込み、まるで透明な何かを探すように手で周辺を探った。当然だ、私にはそれが見えない。
私は地べたに両手両膝をついて這いずり回るようにしてそれを探した。ない、ない、どこ?どこに行ってしまったの?
ホームに入ってきた電車の扉が開き、沢山の人が流れ出る。かがんでいた私は飲み込まれて、目の前は人の足で真っ暗に塞がれた。
つぼみが、つぼみが…。
「やめて!つぶさないでっ!」私は叫んだ。
私の声に「ハッ」と驚き、わけがわからずに人は何かを避ける。けれど、その隙間は一瞬にして塞がり、また私を闇に閉じ込める。
「お願い…、やめて、つぶさないで…」
どうすることもできず、私はその暗闇の中に座り込んでいた。
「平気ですか?」目の前に女のコがいた。そのコが私に声をかけていた。誰?そのコは私のバッグを持っており、私はあたりを見回して、少しだけ明るくなっていることに気がついた。そうか、このコは私のバッグを拾いあげてくれたのか。そうか…そういうことか。私は立ち上がり、頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます」と言えたのかな。記憶にない。次に気付いた時、私はホームのベンチに座っていた。
つぼみはどこ?どこに行ってしまったの?つぼみは花を咲かせずに落ちた。なぜ?
花は咲くことが出来なかったの?それとも私は花を咲かせることができなかったの?どっち?私はつぼみが開くのを待ち続けていた。花は私から何かを吸い取り成長したのは確かだった。その「何か」はわからないけれど、それは間違いなかった。だから、つまり、つぼみを開く力、花を咲かせる力は私にはなかったということになる。私、何を期待していたんだろ。今の私にそんな力があるわけないじゃん。今の自分がどうしようもないことはわかっているくせに、自分に根をはった植物が花を咲かせることが出来るわけないじゃん。花を咲かせることなんて無理に決まってるじゃん。だって私、全然ダメじゃん、私、いったい何を期待していたの?頼っていたの?信じていたの?私、花が咲いたら頑張れるかも、なんて思っていたのかもしれない。ずうずうしいよね。そうだよね。私から僅かばかりの小さな元気を少しずつ感じ集めて、それを栄養にしてあそこまで育ったのに、私は最後の力を貸してあげることが出来なかった。力を持っていなかった。私、花を咲かせてあげることが出来なかった。あのコ頑張ったのにね。咲かせたかったろうにね。ごめんね。本当にごめんね。私はボロボロ泣いていた。両手を目に当てて。
翌朝、手鏡を手にとったのは耳を見る為と、夕べ泣き腫らした目を見る為だった。どっちもどっち。耳にはピアスがついていて、つぼみも葉もない。無い事の現実。泣き腫らした目はそれを失った事の現実。憂いは伏せた瞳の視線の遥か遠くに私を連れて行く。つぼみが花を咲かせずに落ちるなんて、そんな不条理はない。つぼみは咲くものなの、花を咲かせるもののはず。どうして、どうして?
ドアが閉まる音がした。
「母さん?いるの?」
返事はない。時計をみると十時を回っていた。
出掛けた母を確認してから一階へ降りた。こんな顔、誰にも見せられない。「告白でもしてフラれたの?」どうせそんなふうにしか思われない。幸い今日はバイトはオフ。外に出る用事はない。やかんをコンロにかけてリビングから外を見た。薄くくすんだ青い空はいつもの空。いつもと変わらぬ空。昔なじみのきれいな空。きっと智恵子さんが見た病室からの空と変わらない。なんか嫌ないい天気だった。悲しいほどお天気。とあるシンガーソングライターの曲名にあったそのタイトルを私はこんな日に使う。
やかんがカタコト音を立て始める、火をとめて母のインスタントコーヒーを拝借し、ミルクと砂糖を入れてコーヒーを持って部屋にもどった。そのままコーヒーを手にしてベランダに出る。目の前には空とか木とか家とか、物心ついてからの二十年間の見なれた景色がただあるだけ。手すりに手をかけて「なんか本当にいい天気だね」と独りごちる。手にしていたコーヒーを一口。少し苦い。あまり甘くなかった。どっち?少し苦いの?あまり甘くないの??…なんかよくわかんない。
私、不思議なさみしい体験をした。悲しく、さみしいと感じた。でもどうしたらよいのかは、やっぱりわからなかった。
私さ、いったいなんなんだろう。
あった。見つけてしまった。外にでる用事。昨日返却し忘れた望月V望月。返却しに行かなかったら、延滞料金が二日分になってしまう。延滞料金は三百円、六百円、九百円と増えていく。当たり前?
私の中の「何か」は減っていく。マイナスだけが増えていく。マイナスが増えるのだから、つまりは減っていくのか。私の「何か」。
ピアスの植物に吸い取られたのだから、もう私には何も残っていないか…。あ、だからマイナスか、マイナスが増える。ゼロ以下だから、そうだよね、だから身体が削られていった。私は痩せ細っていったんだもんね。
「どうするの?これから」
私にそんなことを聞ける人なんていない。母親だけかな。
友達は口を揃えてこう言う。
「いいのルナは。ルナはメルヘンの国の住人だから」
メルヘンの国?何ソレ。
コジコジの住んでいるあの国?
「いいの?私は?」いったい何がいいの?私はみんなと違うの?
「就職とかしないで、自由に生きてほしいの」
なぜ?どうしてそんなこと言うの?それに自由って何?
自由っていうのは自分が望むことをすることでしょ?私は自分が望むことが何かもわからない。みんなは自分の道へ進もうとしてる。それが本当の自由じゃないの?
ピアスの穴から生えた植物がつぼみをつけたのも私の意志ではない。あれは勝手に生えて、勝手に落ちた。
なんなの、アレ。わかんないよ、私。朝だけじゃない、私は何度も何度も鏡で耳をみていた。「無い」…よかった?残念?また生えることを期待しているの?また生えることに怯えている?昨日の夜も何度も目が覚めた。何度も夢を見るの。電車の中でも、あのつぼみの夢をみた。私、膝を抱えて座っているの。駅のホームのベンチに。終電近くみたいでまわりに人はいなくて、でもそれはホームのすごく前の方だから人がいないだけなのかもしれなくて。
だから本当の時間はよくわからない。駅の場所は隣駅の京王多摩センター。高台にあるホームから見える景色は黒い闇。電車が来ても、私はそれに乗らずにずっと鏡で耳を見ている。うつむいているの?首をかしげているの?つぼみはゆりの花のように頭をたれていて、私はずっとそれに話しかけている。「ねえ、どうしたの?」って。つぼみが風に揺れたことに私は「ビクッ」と異常に反応して身体をこわばらせる。本当につぼみが私に話しかけようとしたのではないかと思った。どうして黙っているの?あなた実は話ができるんじゃない?あなたはそこで何をしているの?教えて、口を開いてよ、あなたに聞きたいことが沢山あるの。折り重なる花びらは、まるで瞳を閉じているかのようだった。「眠っているの?」私は心の中で話しかけていた言葉をいつのまにか口にしていた。ホームのまわりは静寂の闇。私の声はあたりに響く。「起きてよ」「ねえ、起きて!」「起きてったら!」私はつぼみを揺らそうと、自分の頭を揺らす。「起きてよ、起きて!!」そして目が覚める。また同じ夢。
夢から覚めた私の目の前に座っていたのは一年前の私と同じ姿をしていた女の子だった。黒髪を後ろに束ね、黒のスーツに首から大きな白い襟。そのコは次の停車駅で下車すると、パンプスを鳴らして改札へ走って向かって行った。
「勝手だよね、私」件名も入れずにメールを送った。
ケータイを握り締めて返信を待っていた。一つ二つと停車駅を過ぎるごとに、つまらないメールを送ったと後悔の念を重ねる。元気のない私をわざわざ人に伝えてしまったのだから。「助けて」って言っているようなものだよね。きっと「どうしたの?」なんて返事がくる。そしてそれに対して私は「ううん、なんでもない平気!」なんて。そうしたら次は「いいから何でも言ってみろよ」かしら?「ちょっと疲れただけ」これで完結?そんなつまらないやりとりが日本で一日どれくらい行われているのだろう?そんな意味のない通信代で電話会社はどれくらい儲かっているのかな。ポケベルが流行った頃から、人の心ほどお金になるものはないと頭の良い誰かが気付いたのだろう。個から個へ、想いを伝えることが可能な文明の利器は、昔よりも人が心を誰かに伝えることを助長し、よくも悪くも人の心を解放させた。人に向かって外に飛び出すことだけが解放ではなく、誰かのケータイへ、誰かのパソコンへ、誰かのホームページへ、誰かのブログへ、人の心は解放されていった。見えないけれど、聞こえないけれど、人の心は私たちの周りを飛び交っている。もしも、電波に色があったら。人は網目の中を歩き、網に覆われた空を見て生活をしているのだろう。メールを送信するとアンテナから緑の電波が「ピーッ」と相手のケータイに向かって飛んで行く。そうすると、周りの人が「ジロッ」って私を見るの。電車内でも「電波色は周りのお客さまの迷惑になりますので携帯電話の使用はご遠慮下さい」ってアナウンスが流れる。そしてそれは環境問題になって、やがてケータイはこの世から無くなるの。ちょっとしたことを人にさりげなく、何気なく伝えるのって素敵なことかもしれないって思っていたのに、電波色が原因で人はまた殻に閉じこもるの。心はまた閉ざされて、人に想いを伝える大きな手段を失う。発明され、発売された当時はみんな「夢のような素敵な道具だ」って言った。人の心が七色の光で流れ星のように空を飛んで行くの。そしてその小さな流れ星が私のケータイ、胸に届く。
「君に送るメールはオレンジ色に設定しておくね」
ふと夜空を見上げると、オレンジ色の流れ星が私に向かって飛んでくるの。その日も空に沢山の流れ星。今夜もこんなに沢山の想いが夜空を飛んでいる。ステキだな。ステキだな、なんて。最初だけ、最初の数カ月だけだった。みんな静かな夜が恋しくなった。絶え間なく飛び交う光が煩わしく、新宿、渋谷、都会の喧噪の中にいるのと変わらない、独りの時間を持てない夜になっていたことに気付いた。それに誰かがこんなことも言っていた。「湾岸戦争の無数のミサイルが夜空を照らしていた映像を思い出すよね」なんて。みんながみんなそれに気付いて、電波色ケータイは無くなるの。
ケータイが鳴った。電波色は無いけれど、この着信音もそれとはさほど変わらないか。人の心が飛び交い、それが届いて音が鳴る。それの数だけ世の中に音が増えたことになるのだから。
「勝手すぎるよね、私」の返事だった。
「知ってる」と望月さんからの返信メール。
中身のない送信・返信の何回かのやりとりを想像していたとはいえ、たった一度の返信での完結メールは少しショックだった。「知ってる」って何ソレ?かわいい乙女のヘルプメールの返事がそれ?私は「パタン!」と大きな音を立ててケータイを閉じた。よろしくない着信があったのだと見え見えなリアクションに何人かの視線が私に突き刺さる。そーです、そーです、その通りでございます。おもしろくないメールが来ました。そりゃそうでしょうよ、ご存知でしょうとも、私が「勝手」なコトなんて。あなたが一番良く知っていますよね?部屋に閉じこもっているのも良くないと、新宿で買い物をする気になってサングラスまでして家を出たのに。気分が変わった。フキゲンになった。「終点、新宿〜」とのアナウンスも無視して、私は電車を降りずにそのまま折り返し電車に乗ってUターン。なんなのいったい。
急行の待ち合わせや、特急の通過待ちでの駅での停車時間。シートの端と端にしか座っていない乗客、エンジンを切った時の突然の静けさ、開いたドアから見える外の景色を遠い目で眺める。そんなのが好きで、新宿まで一時間かかろうが、私は各駅電車に乗る。外に見える景色はたいしたことはない。それは向かいのホームとその向こうにある有料駐輪場の屋根だったりする。ホームの屋根があるから空はそこまで大きくは見えない。トンネルの出口の少し手前から見たような視界が囲まれた狭い景色。そう、カメラのファインダーを覗いた感じなのかな。もしくは私はカメラのレンズの中にいて、そこから外を見ている。写真?つまり外の景色は写真なの?ま、いいや。とりあえず私はカメラの中から外に出た。笹塚を過ぎたあたりでお尻が痛いことに気付いた。一時間以上も同じ場所に座っていれば、それも当然であったりもして、おしりが痛いのが限界だったから、私は席を立った。桜上水で降りたことに理由はない。ただ、おしりが痛かったから。
この駅で降りたのはたぶん生涯2度目。一度目のそれも特に理由はなかった。そこが終電の終着駅だったから。それだけの下車。あの日、ここから多摩までのタクシー代はいくら?なんてことは考えなかった。何十キロあるかもよくわからないけど、歩いて帰ろうとかも思わずに私は駅に降りた。こんなコトになるくらいなら、終電でなんとかたどり着ける友人宅をさがせなかったのか?とかそういうことでもなくて、私が住む京王永山まで三分の一の距離にも満たない、たどりつけない最終電車とわかっていて、私は新線新宿駅、零時四十七分発の桜上水行きの最終電車に乗った。
随分とごちゃごちゃした街。駅から国道までの短い距離しか歩いていないけれど、それが2度目の下車の印象。一度目は忘れた。あの時もこの道を通ったのだろう、なんて思いながら商店街を歩いた。あの時は終電客をつかまえるタクシーが踏みきりをまたがって連なり、それが狭い商店街を勢い良く走り抜けるものだから、まわりに目を向ける余裕は無かった。商店街を抜けると中央高速と重なる甲州街道に出る。
終電の車内でウトウトしていた私だったが、猛スピードで走る車の轟音で眠気が覚めた。道路の上に重なる高速道路の天井に音が反射して音が空に抜けていかず、轟音が鳴り止むことはなかった。
「ははは…えらいトコに来ちゃったな。どうしよ」
タクシーに乗れば帰れた。財布にあるお金では足りなくても、家に帰れば父さんもいたからタクシー代もなんとかなった。でも違う。そういう問題なのだけれど、そういう問題ではなくて。あの日の私はとりあえず歩き始めた。とりあえず、新宿方面ではない西へ。
誰もいない道というのは実はとても恐くて、それが夜七時だとわかって歩くのと深夜二時というのを知っていて歩くのとは怖さが全然違う。同じ夜、暗さだって、もちろん部屋の明かりが消える分だけ暗くなるのかもしれないけれど、そこまで変わるわけじゃない。ただ、人が寝静まると思うだけで夜の街は姿を変える。深夜一時半を過ぎていた。車の数は少ないが一台一台が猛スピードで走り去る。心地良い静かな深夜の散歩というには程遠い。ましてや高速道路のおかげで空が塞がれ、国道沿いの雑居ビルが続く道は洞窟のようだった。車が通り過ぎる度に口笛はかき消され、それでも私は口笛を吹きながらその洞窟を歩き続けた。
今いる場所は全然知らない場所であるとか、果たして歩いて家にこのまま帰り着けるのか?とか、このままあとどれくらい自分は歩けるのか?とか、この道で本当に合っているのか?とか。何も考えていなかったから私は怖くはなかった。
深夜の街を歩いていた私。コンビニに寄ってお菓子を買って、ポリポリ食べながら歩いているうちは平気だった。上を走る高速道路は甲州街道から右に逸れ、私は洞窟を抜けて歩き続けた。途中、大きな陸橋をくぐり、「私、進んでる、進んでる」って感じていた。でも、私は急にダメになった。歩き始めて一時間以上経った頃だったと思う。なんでもない平な道で足がもつれ、恥ずかしいくらいに両腕と胸とおなかをアスファルトに叩き付けるように倒れた。私は疲れていた。バッグから中身が飛び出して、立ち上がってバッグの中身を一つ一つ拾い集めていたら涙がこぼれてきてしまって、最後まで拾い集めないうちに座りこんで泣き出してしまった。怖い、こんな場所知らない、帰れない、もう歩けないって気付いた。進んでいるのではなく、知らない道をさまよっているだけじゃんって。泣きながら、もう電話をしていた。「望月さん、迎えに来て」って。「空を飛べるって言っていたよね?何かあったらすぐに飛んで行くって言っていたよね?」って。深夜三時過ぎだった。そんな時間に人に電話するなんて、しかも「迎えに来て」とかあり得ない。しかも既婚者に。私はバカだから、頼りにする人が他にいないから、ごめんなさい、やっぱり必要だった、望月さんが。
「どこにいる?近くにコンビニあるか?そこにいろ」
嗚咽?私の言葉なんて、ちゃんと聞きとれなかったと思う。私、スゴク泣いていた。声も上ずって、しゃっくりもして、鼻水すすって。望月さんは場所だけ聞くと、それ以上は何も聞かず、「すぐ行くから待ってろ」と言って電話を切った。コンビニに戻って店員さんに「すみません、ここで待たせてください」って頼んで、コピー機の前で外を見ながら望月さんが来るのを待った。
外を見ていたけれど、外なんて見えなかった。窓ガラスが夜の闇に向き合う私を映し出した。鏡を見るのとは違う。服の色とか化粧とか、そういうのはまったくない。白とかそういう色でもない。透明な透き通った輪郭で描かれた私が私を見ているの。「こんにちは」、「どう?最近」、「楽しいコトあった?」、「少し髪伸びた?」私は私に話しかける。両手で後ろ髪をかきあげてみた。就活を始める前まではポニーテールが出来るくらいの長さがあった。しなかったけど。今は後ろで結ぶことも難しい長さ。理由もなく切った髪型が、半年経っても続いている。気に入ったわけでもない。髪を乾かすのが楽だからとかいう理由でもない。ただ、なんとなく、そのまま。かきあげた手を離して頭を振って髪を整える。そのまま、私、頭を振り続けた。「わかんないよ、わかんないよ」って涙をこぼしながら。
五ヶ月。あれから五ヶ月経つの?私はあの日と同じ道を歩いている。洞窟を抜けた。陸橋も越えた。夜と昼とが違うだけで同じ道を歩いている。同じコンビニにも寄った。歩きながら考える事も五ヶ月前と変わらない。友達はみんなどこかへ向かっている。彼女たちは進む道を決めて、決めようと、確かではないのかもしれないがそれに向かっている。私にはそんな道もなくて、ただフラフラしている。今歩いている道だって、決してまっすぐに歩いてなんかいない。もしもこの道が雪に覆われていたのなら、振り返ればきっと見える。私の足跡は右へ左へゆらゆら揺れて、歩幅さえも広く狭く、狭く広く、足跡かどうかもわからない何かを引きずったような跡もある。そして雪は溶けて、足跡は消えて、私が歩いた道には何の足跡も残らない。本当に歩いたことの現実さえも消えてしまう。何をしているんだろう、私。また呼ぶの?あの人を。
「送って行きますよ!私」免許をとって間もない頃だった。仕事が終わらず終電を逃した望月さんを家まで送ろうと決めた。車の運転はまだ怖いけれど、でも、変なテンションでカバー。深夜のドライブ、そんな憧れの響きだけで勇気なんて持てたりするものだった。でも実際は無理矢理。「しかしなー、お前…。」と断る望月さんを「平気、平気!任せて!」と有無を言わさず、しまいには「お願い!送らせて!」なんて頼み込んだ。正直、送り届けた後の帰り道が不安だった。夜の道は空いているとはいえ、横を走る車のスピードは昼間とは違う。視界も狭く、夜の車内は孤独。音楽なんて流した分だけさみしさは募る。直線距離にしても十五キロ近くはある。望月さんもそれを心配していた。だからせっかくの久しぶりの二人の時間も、「あそこまででいいから」「やだ」「そこまででいい」「やだ」「ここで降ろしてくれ」「やだ」それだけの会話?言い争い?で時間が過ぎていった。「せっかくの時間をこんなやりとりで潰すのはヤダ!二人で話すの久しぶりなのに!」我慢できずに叫んだ。その一言で望月さんは観念したかのように口を閉ざした。やっとドライブを始められる。そう思った矢先だった。
ニュータウン通りを抜け、関戸橋を渡り、甲州街道に入る交差点の手前、車線変更をしようとした時だった。私、後ろの車を見ていなかった。ウィンカーを出してハンドルを切った私の車の後ろからクラクションの音がけたたましく鳴り響いた。「待て!」望月さんの声に私はブレーキを踏んでしまった。クラクションとブレーキ音、バックミラーに反射するライトが私の耳と目を奪った。私は何が起こったのかわからないまま、ハンドルに顔を伏せてしまった。
ハザードランプを点けたトラックが前に止まっていた。そこには男の人が二人いて、一人は望月さんで、望月さんはもう一人の男の人に頭を下げていた。私はそれをフロントガラス越しに見ていた。少しずつ記憶が蘇る。左肩のあたりからしだいに身体が感覚をとりもどす。大きな音と強い光に怯えきって、ハンドルに覆いかぶさり震える私に「大丈夫、安心しろ。落ち着いて車を左に寄せて」と望月さんは私の左肩に触れて言った。私はゆっくりと顔を上げ、望月さんを見て頷いた。路肩に車を止めると後ろからトラックが追い越し、前に同じように止まった。ドアが開いて男の人が降りてくるのが見えた。「いいか、心配しなくていい。平気だからここで待ってろ」そう言って望月さんは車を降りた。トラックの運転手が大きな声で望月さんに向かって何かを言っている。窓を閉め切った車内からはよく聞こえない。男性は時折私に目を移して、私を指差して、そしてまた望月さんに向かって大きく手を広げて大きな声を出している。望月さんは安心しろと言わんばかりに目つきを変えて私を見る。望月さんは何度も何度もその男性に頭を下げていた。しばらくすると男性の身ぶり手ぶりはしだいに少なくなり、落ち着きを取り戻したようで小刻みに頷き、そして運転席に戻って行った。望月さんは振り返り、私を見て指でOKサインを作った。車に戻ろうとすると同時にトラックは走り出し、去って行った。望月さんが車に戻ってきた。
「ごめんなさい」私は泣きながら謝った。
「平気だよ、泣かなくていい。気にするな」
「だって、私、面倒ばかりかけてる。どうしようもないね。少しくらい役に立ちたいって思ってるのに」とめどなく涙が溢れ、涙で何も見えなくなった。
「俺がついていながら、ごめんな。怖い思いをさせてしまって」
私は何もこたえられず、ただ涙を両手で拭いていた。
深夜にも関わらず人が入れ替わり自動ドアが開く。
八人目が望月さんだった。自動ドアが開く度に我に帰り、慌てて笑顔を作ることを繰り返した。八人目ともなると、どれほどの笑顔を作ることが出来たのかわからない。でもそれは五秒が限界だった。乾いた頬がまた涙で濡れた。
「夜中に散歩するのはかまわないが、ずいぶんと色気の無いところを歩いているな」
迎えに来たら来たでそのセリフ。
「うるさい!」私は駆け寄り、望月さんの胸に顔をうずめた。
でも憶えている。あの時、望月さんは私を抱きしめてはくれなかった。何秒かはそのままでいてくれたけれど、「ぎゅっ」とはしてくれなかった。頭をなでて、「さ、いくぞ」ってそれだけだった。
車がスタートしてから、最初に口を開いたのは私が先。泣いていた私に気を使ってくれていたのか、望月さんは私がこんなところにいた理由を聞こうともしなかった。
「明日は仕事?」
「でなければ、これから海に行って、日の出でも見れたのにな」
望月さんはそんなセリフを吐いて、カーステレオに手を伸ばした。
「MISIAでいいか?」
望月さんは覚えているかどうか知らないが、あの時もたしかMISIAだったと思う。あの時も私は泣いていた。違うのは車と席。あの時は私が運転席だった。
車の中はハザードの緑のチカチカが点滅して、私は震えてた。あと数センチで接触事故。あと一歩間違っていたら、望月さんを巻き込んだ大きな事故になっていた。私のわがままで、また望月さんに迷惑をかけた。ダメ、ダメ、ダメな自分。どうしようもないよね、ごめんなさい、本当にごめんなさい。涙を拭いているのか?それとも濡れた手で顔を濡らしているのかわからないくらい顔は涙でいっぱいだった。望月さんは独り言のように話を始めた。きっと、傷付いた私を慰めるため、元気づけるため。望月さんは車で泣いた自分の思い出話を始めた。
「十八の頃かな。電話で別れ話をされてさ、なんか心を抑えきれなくて、今から電車に乗って出掛けたら帰りの電車が無くなるってこともわかっていて彼女の家に向かったんだ。もちろん行ったからってどうなるわけでもなくてさ、電話での別れ話が、会っての別れ話に変わっただけで、みじめにみじめを重ねた夜だったよ。会って何を話したかはまるで覚えてないけど、雨が突然降り出してさ。ずぶぬれ。「さよなら」って別れたのはいいけど、中央線は終電ギリギリでさ。家に帰り着くには八王子から電車で三鷹まで行って、そこから十キロ歩いて調布に行くしか方法は無かった。まあ、歩けない距離ではなかったし、タクシーで帰る手段もあった。でも、よくわかないけど、俺、兄貴に「迎えに来てくれ」って電話していた。兄貴は「わかった」って一言で電話を切って、車で迎えに来てくれた。家までの道のり、兄貴は助手席で泣いてる俺に何も聞かず家まで運んでくれた。車の中で話した言葉は、車を降りる時の「ありがとう」って俺の一言だけだった」
私は涙を拭きながらずっと話を聞いていた。話の内容とか、そういうのよりも私は望月さんの私を気遣う気持ちをすごく感じていたから、私はよけいに涙がでてきてしまっていた。
「ほらー、つまんねえ話をしてやったんだから、元気だせよ」って望月さん。頼んでないよ。そんな話をしてなんて。
「さ、話は終わりだ。今日はメガネが無いんだ。ドライバーはお前しかいないぞ。さ、Uターンだ」
「はい」私は素直に返事をした。
方向転換をするために、横道に入った。左、左、左、と曲がるうちに私は少し落ち着きを取り戻したようで「でも、どうするの?」と望月さんに尋ねた。「このまま、また多摩にもどるの?」戻ってしまったらスタート地点にもどってしまうわけで、望月さんが家に帰る手段は無くなってしまう。
「関戸橋まで行ったら、そこから一人で帰れるか?」
え?意味のわからない質問。どういうこと?多摩川の手前なんて何もない。どうするつもりなの?
「平気か?」望月さんは聞き返す。
帰れるか、帰れないかの質問に対して、私はとりあえず「はい」と答えた。すると望月さんは「じゃあ、そこで降ろしてくれ」って。
「え?でもそこからどうやって帰るの?」当然、私は聞き返す。
「心配するな、どうにでもなる」
「どうにでもなるって、どうするの?」
「平気だから、心配するな。家についたらメールしてくれ」
納得できるわけがなかったが、言われたままに車を脇に寄せた。
降りようとする望月さんは私が謝るよりも先にありがとうと言って私の頭をなでた。そして「気をつけてな」そう言って車を降りた。
望月さんを降ろしてからの家路はただまっすぐ。危ないことは何もなかった。手助けも出来ず、また迷惑をかけてしまったバカな自分の反省会と、あんな駅でも街でも民家でもないただの川沿いに降ろしてきた望月さんの心配を車の中でしていた。
家についた私は、私の帰りを心配して待っていた父と母に目もくれず、望月さんにメールをうった。
「無事に着きました。望月さんは平気ですか?」返事はすぐに来た。
「心配するなって言ったろ」
「でも」
「秘密を守れるか?」
「え?なんですか?」
「実は、俺、空を飛べるんだ」
「え?」
「気が向いたら飛んで帰る。だから心配はいらない」
返事に困った。返事が出来ずにケータイを握っていたら「信じてないだろ?」と続けてメールが来た。「そりゃあ…」コジコジは空を飛べるけど、メルヘンだとかなんだとか私に言うのは友達であって、私はメルヘンの国の住人でもメルヘンチックちゃんでもないの。心配をしているの。私のせいでこんなコトになって、どこを歩いているのかもわからないあなたのコトを。「ちゃんと答えてください、どうするの?平気なの?心配しているんです」高ぶる気持ちでメールを打つのが両手になる。まるでそのまま口にして伝えているかのように一瞬にして画面が想いで埋まる。
「信じないよりかは、信じた方が素敵なことが起こる」
そんな返事で一気に私の心はスローダウン。いつもこうだ、この人は。「じゃあ、今からそこに飛んで行ってやろうか?」それに対して私はすかさずメールを打ち返すつもりだったが、指が止まった。望月さんが不思議なのは「あの人ならもしかして」と人に思わせてしまうところだった。現にその時、望月さんの「飛べる」という言葉に対して私が感じたのは「飽きれた」とか「疑い」ではなく、「驚き」だった。というか、「空を飛べる」なんていう告白を私は生まれて初めてされた。そんなことを言う人はいないから、聞いたことがないから、え?本当?とか思ってしまった。「世の中にはしっぽが生えている人間が1000人に一人いるよ」なんて言われたら、ええ???それ本当?とか思ってしまう。だって、世の中ってまだまだ知らないことが沢山あるし、現に地球は丸かったわけだし。想像できることは現実に起こりうることだって、何かのマンガにも書かれていた。だから望月さんもそんな特別な中の一人なのではないかと思ってしまったわけで。だって超能力者っているし…。私は素直に思った。「この人は本当に空を飛べるのかも」そんなふうに思える人だからこそ、私はこの人に憧れたのかもしれない。「いい加減にしてください」とメールを打ちかけて止まっていた私。「今はいいです。本当に助けて欲しい時に呼びます。その時、飛んできてください」そう打ち直して送信した。それは私の本心だったと思う。
その後、お風呂でまた今日の自分のバカさ加減を思い出して、少し泣いた。風呂上がり、洗面台の鏡に映ったのはどしゃぶりの雨の中を歩いて来たような自分の姿。私に向かって「バーカ」とひとこと言って部屋に戻った。その後、本文受信もせずに放っておいた友達のメールをやっつけていたら、望月さんからメールが来た。「着いたよ。おやすみ」と。本当に飛んで帰ったかどうかはわからないけど、とりあえず私は安心した。「今日はごめんなさい。これからはちゃんと言うこと聞きます」返事にそうメールした。「ありがとう、うれしかったよ。素敵な一日でした」本当はすごく反省しなくてはいけないのに、そのメールを見てうれしくなった。両手でふとんを引き上げて頭までかぶった。自分の部屋だし、誰に見られるわけではないけれど、自分の笑顔に私は照れていた。結構、良い一日だったのかも…。「おやすみなさい」「おやすみ」長い長いRe:Re:Re:メールはそこで終わった。
「家にはちゃんと電話を入れたのか?」
「え?」
「え?じゃないだろ」
コンビニから車に乗ってどれくらい時間が経ったのか。気がつくと橋を渡っていた。「橋?」と私は口にした。
それに対して「あの時の橋じゃない」望月さんがそんな返事をしたことに私は驚いた。
「え?」同じ日のあの時のことを望月さんも思い出していた。思い出話を読み終えるのが私より少し早かったから。だから望月さんが口を開く方が早かったのかな。しまった…というような顔?眉を寄せて片目をつむるような表情を見せた望月さんは前を向いて運転を続けた。「なんか、懐かしいね」私も同じ日、あの時のコトを思い出していたよ、と答えたつもりだった。
「懐かしい?そうかな?」
え?予想もしなかった返事に私は望月さんに顔を向けて「なぜ?」とすぐに聞き返した。ハンドルに置いた手、その左手の人差し指をトントンと2回。走らせる道に目を向けたまま望月さんは答えた。「何か変わったか?」と。
ふとんの中へ隠した笑顔。私の中の思い出話のエンドマークはそこだったから、「なつかしいね」なんて、望月さんにしてみれば意味のわからないセリフを私は笑顔で言っていたのかもしれない。あなたのエンドマークは違ったの?「おやすみ」の後に何か続く話があなたの中にあったの?答えなきゃダメ?「何も変わってない」って。言わせないでよ、わかってるよ、そんなコト。
陽はまだ見上げる程に高い、少し汗ばむ5月の中を私は歩き続けていた。川を渡り、緩やかに下る坂道が続く。車道を走る車の勢いは深夜のあの日と変わらないが、その音は深夜の街を支配していたそれ一つだけではなく、街の音の一つとしてザワザワのBGMの中に溶け込んでいた。私の足音を含めての街の音、その中の一人の演奏者として存在する私。私は街の音を奏でる一人。そう考えると悪い気はしなかった、私はこのままもう少し先まで歩いて行こうと思った。未だに知らないあの時の望月さんのエンドマークは果たしてどこだったのか?「おやすみ」で終わったRe:Re:Re:メールには続きがあったの?私には届かなかったけれど、送信されなかったメールがあったの?実は私は未だにそれを知らない。そんなことを考えていたら、しだいに私の足音だけが街の音から浮かび上がり耳につくようになった。私の不規則な足音が聞こえる。そしてそれは次第に大きくなり、静かな中で私が歩くだけのような世界を作り出す。噴水の水の音に心を奪われるような、熱帯魚の水槽を覗いて空気ポンプの電気音に心奪われるような、その足音が私を運ぶ、そしてまたあの日の記憶に心が奪われる。
無音ではない無言の深夜のドライブが続いていた。膝を抱えてシートにもたれかかって、何を見ているわけではない宙ぶらりんの視線。流れる曲を聴いているフリをして、他のコトを考えている。それは私だけじゃない。きっと望月さんも同じはず。「何か変わった?」と言われて、返事が出来ないまま3曲が流れた。曲が終わった次の曲までの無音の時間。吐息さえもが真意ではない何かを伝えてしまうのではないかと、息を吸うことも指先を動かすこともできず、フロントガラスを越えての街灯と街灯との視点の合わない黒い空間から目を離せずにいた。そしてまた曲が流れ始める。曲が始まってくれた?曲がまた始まってしまった。曲数が増えるごとに望月さんとの無言の時間も増えていく。増えれば増えるほど、その時間を埋める言葉が見つからなくなる。どうしようもない。もう無理。下げないようにと頑張っていた視線だったけど、もう頑張れない。とうとう私はうつむいてしまった。意味のわからない頑張りだよね。いったい私は何をしようとしていたの?いいじゃん、どう思われようと。今さらどんな姿を見せるつもりなの?そうだよね、そうだよね、そう…だよね。そう、見てよ。今の私はこんな気分なの。前も見られず、膝を抱えて、うつむいている。どう?
「え?」突然、流れていた曲が止まった。いや、止められた。望月さんの手がそれを止めていた。え?何?
望月さんは他の曲を選ぶわけでもなく、その手をハンドルに戻した。何か、話を始めるの?大切な話?何か私に言ってくれるの?
私は待っていた。ずっと。望月さんが話しかけてくれるのを、口を閉ざしてからずっと待っていた。望月さんを見ることは出来ない。すがるような視線を望月さんに見せないことは私の最後のプライドだった。耳をすまして、それを待つ。鼓動だけが身体の奥に響く。
聞こえた。驚いた。
望月さんは歌を歌い始めた。語りかけるような口調で、いつもとは少し違う、丁寧だけど力を込めた声。きっとそれは元気な声って言われるもの。そんな声で望月さんは歌い始めた。
※《日曜日よりの使者》
この歌、知ってる。
あはは。大好き、この曲。
右に左に頭を揺らしながら歌う望月さん。
きっと私を元気付けようとしてる。
何もしてあげられないけど、でも、何かしてあげられないか?って。たぶんそんなことを考えて歌ったんだと思う。
ありがとう望月さん。
私も歌う。
一緒にバカみたいに大声で、身体を横に交互に揺らして歌い続けた。車の中は二人の歌声でいっぱいに、元気でいっぱいになった。
何をやっているのか意味はよくわからない。でも、楽しくて元気いっぱいになった。
何も解決なんてしてない。でも、それでも良かった。大切なことは「解決」じゃない。弱気な自分の心を吹き飛ばす、弱気な自分の心に負けないこと。それが「一歩」になる。でしょ?そうでしょ?
そうだよね?
ありがとう、私の日曜日よりの使者。
川があったから橋の真ん中でその先の流れを見ていた。私が五人くらい手を繋げば届くくらいの川幅。小さな川。川岸には緑がいっぱい。川は流れに沿って高い鉄製の柵に囲まれ、一つ向こうの橋には電車が通る。欄干にもたれてガタンゴトンを聞いていた。正確にはガタッゴトッガタッゴトッかな。流れと言う程に水量はなく、途切れ途切れの水たまりに鯉が何匹か泳いでいた。みんなあっちの大きな水たまりに行きたいでしょ?あっちのほうが広いし、仲間も沢山いるし、きっと楽しいよね。雨が降ったらそれとそれはつながって川に流れがもどるんだろうね。でもさ、また雨がしばらく降らなかったら、こうやってみんなとバラバラになって生活するの?晴れの日が続くとクラス替えでしばらくその部屋で生活。そして雨が降るとみんなと「久しぶりー」って。というか、水が流れていない川って微妙。癒して欲しいと思っているわけではないけれど、間違いなく癒されない景観。つまりこれって枯れかけている状態なわけで、「頑張って、鯉くんたち」みたいな。私、ここで立ち止まらない方が良かったんだろうなって、なんか今さらになって思い始めてしまったりして。まあ、「笑うかどには福来る」じゃないけど、こんな私がこんな眺めに出会うのはある意味、必然?
恵みの雨は…。私は空を見上げたが、誰が見ても雨が降らないことがわかるほどの青空。雨が降って欲しいなんて思うのもどうかと思うけれど、プールの苦手なコと鯉たちにとっては恵みの雨になる。
正直、私はてるてる坊主を逆さまにしてつったことが何度もある。それもチリ紙をテキトーに丸めて作ったものではなく、ピンポン球と余った布で製作時間三十分を越える作品。水色のレインコートを着せて、黄色のスカーフを巻いた。普通は「ニコッ」と、させる顔も目を閉じ、右目から涙を流している。名前もつけた。「レイちゃん、明日もよろしくね」RAINの「レイ」。レイちゃんは私のわがままな願いを叶えてくれた。レイちゃんはいつも世界を逆さに見ていた。いや、彼女がそれを望んでいたわけではなくて、私は彼女が世界を逆さに見ることしか許さなかった。晴れて欲しいと思って彼女を窓際に吊るしたことはなかったから。
今はもうレイちゃんはいない。どうしてレイちゃんを窓際に吊るすと雨が降るのか?そう考えた時に私は気付いた。世界を逆さに見る事しか許されず、空が泣くことを求められ、それを朝まで悲しみ続ける。だから泣いてしまうんだ、レイちゃんは。ははは、ひどいよね、私。ひどいと思ったからやめた。「ごめんね」って謝って、それ以来、少なくともレイちゃんが悲しんで雨が降る事は無くなった。
ケータイが鳴った。
「ピロロッ、ピロロッ、ピロロッ」って何の色気もかわいらしさもない着信音。何ヶ月か前まではこまめにダウンロードをして、気分を変えたりしていたけれど、そういうのどうでもよくなって今では「ピロロッ、ピロロッ、ピロロッ」。
メールは望月さんからだった。乙女のヘルプメールのアホ返信に少しは反省でもしたのか、「どこにいるんだ?」とメールが来た。
「わからない。橋の上」欄干に首をのっけてメールを打つ。
「野良猫」会話にならない返信が届く。
「にゃー」会話にならない返信を送る。
次の瞬間だった。私は後ろを通り過ぎる何かにぶつかり、その拍子にケータイから手を離してしまった。
「あっ!」ケータイがスローモーションで右手から離れていく。宙に浮いたケータイ。このままでは川の中に落ちてしまう。頭でわかっていても私は動けない。音を失い、時を失い、身体の自由を失い、ただ、それを眺めている自分。それが水面にぶつかり、水しぶきをあげて水の底へ沈んでいくのを一呼吸もせずに私は目にしていた。耳に音が入り込む、電車のガタンゴトン、車のクラクション。すぐさま後ろを振り返るが周りには誰もいない。橋を渡ったその先に、ハンドルに買い物袋をぶらさげてふらつきながら自転車を走らせるおばさんが見えた。いや、そんなことよりも私のケータイ!拾わなきゃ!どこか下に降りれるところ!
緑の茂る川岸には人が歩けるような草の生えていない道が続いている。どこからか下に降りることが出来るはず。私は橋を渡りきり、川沿いの道を流れに沿って小走りに進む。
ケータイが落ちた場所が次第に遠ざかる。柵越しに何度も落ちた場所を確認しながら走る。さっきまで眺めていた電車の橋を越えたところに、やっと柵が途切れて川岸に降りることが出来る階段を見つけ、私は駆け降りて橋の場所まで必死に駆け戻った。
どこ?あの辺??上を見上げて、下を見て、そのまま川に飛び込んだ。思ったよりも川は深く、足は膝まで水に浸かった。ゴツゴツ石の川底に足をとられながら進む。
あった!あっ!
川底に白くぼやけた影を見つけた瞬間だった。何も考えず、ミュールを履いたままで川に飛び込んだ私がバカだった。案の定、バランスを崩して、私は川の中にしりもちをついてしまった。胸のあたりから下すべてがびしょぬれ。いや、ずぶぬれになった。
橋の下でケータイを手にして地べたに座り込んでいた。というか、へたり込んでいた。ケータイはびしょぬれで画面はまっくら。
私もびしょぬれでお先まっくら。
ははは、だめだー。なんかさ、そりゃあ、頑張ろうって気持ちになることもあったし、あるけどさ、でもだめだよ。今の私、いよいよとうとう本当にびしょぬれのずぶぬれじゃん。空見て、川見て、海を見て。がんばろーとかじゃなくてさ、今の私に必要なのは…とにかく着替え!現実にそれがないと無理、どうにもならない。バッグに入っていたハンドタオルを取り出してみたものの…、こんな小さなものでどうしろっていうの?黄緑色のそれを両手で広げて空にかざす、右下に黄色い花の刺繍。まるでポロっと地面に落ちたかのように花は転げ落ちている。4枚の花びらのうちの2枚が色褪せていた。なんだかね、まったく…。
とりあえず、このままではどうにもならないから駅に向かうことにした。線路があるのだから、どちらかの方向に駅があるはず。濡れたジーンズも見方によっては、そんな色のジーンズ。ブルージーンズが、ちょっと濃いブルージーンズになっただけ。気にしなければ気にならない。とにかく私には目的が出来た。ふらふらぷらぷら目的もなく歩き続ける私に一つ目的が出来た。携帯ショップに行って新しいケータイを買うこと。
誰からの着信も入らない壊れたケータイを握りしめて立ち上がった。というより、立ちあがる時に手に力を入れたらケータイがあることに気付いた。そして気がつかなければ良かったことにも私は気付いた。その後、望月さんから返事はなかったのだろうか?「にゃー」の後に望月さんは私に返事を送ったの?それともあの「にゃー」で終わったの?私の壊れたケータイには何も届かない。それに気付いたの。誰かの語りかけに何も答える事が出来ない今の自分。返事がないから今は忙しいのか?バイト中か?それともつまらないメールにどう返事をしたらよいのか困っているのか?。それに対して怒っているのか?笑っているのか?泣いているのか?頷いているのかも伝えることが出来ない私。でも、そうか。喜怒哀楽なんて普段も大して人に見せやしないくせに、今さら何を言ってるんだろ、私。ずうずうしいか。普段も伝えたりなんかしないくせに、誰かからの語りかけ?誰かから語りかけられるなんて思っているんだもんね。ホントずうずうしいよね。
ケータイを握りしめる力が強くなる。
いつだって、なんだってそうだよね。失って初めて気付く。自分が必要なもの、求めていたもの。誰かに伝えたい、誰かに語りかけてもらいたい、誰かとどこかで繋がっていたい。その気持ちを満たしてくれるものって、ケータイだった。そんなことを考えながら、川岸を歩いて階段のある場所まで戻った。そして階段を一つ一つ、「よいしょ、よいしょ」って登りながら、頑張れー私、頑張れー私って。ケータイってさ、握っているだけで誰かと繋がっているような、そんなふうに思わせてくれるすっごいすっごい機械なんだね。
そか、だから街を歩く女のコ達はそれを握って歩いているのか。誰もがケータイを持つ時代になってさ、メールで用件が済むからわざわざ電話をして話をしなくてもいいとか、手紙が減ったとか、そんなことが言われて、寂しい世の中になったとか言われているけどさ、そんな事はなくて、ケータイって孤独で独りで生きている一人一人の人間がいつでもどこでも誰かと繋がっているってコトを感じさせてくれるすっごいすっごい温かな機械じゃん。他にある?こんな素敵なものが。ないない、絶対にないよ。他のどんな機械よりも、どんなアクセサリーや写真よりもケータイって素敵だと思う。人はケータイのおかげで昔より沢山他人と心をかよわせるようになった。孤独だって思っていた人もいくらか少なくなったはず。さみしい思いをしている恋人同士もいくらか減ったはずだし、それによって生まれる恋も増えたでしょ、だってケータイがあったら私はここにいる!って誰かに伝えられるじゃん。今の私にはそれが出来ない。私、どこにもいない。あはは、現代の独りぼっちってこういうことを言うのかな?
家にいれば起こらなかったこと、家にいたのなら考えなかった事、思い出さなかった事、新宿で降りて買い物をすれば桜上水で降りなければ、橋の上で立ち止まらなければこんな一日にはならなかった。昔、「スライディング・ドア」という、電車に滑り込みセーフの自分と、すんでのところで乗れなかった自分のその後の話が同時に進んで行く映画があった。あのまま家にいた私は今頃どこにいるんだろう。新宿で降りた私はどんな服を買ったのかな?私の分身たち、あなた達は今笑っていますか?少なくとも「このへんで一番近い駅はどこですか?」なんて「私は迷子です」みたいなコトを人に尋ねてないよね?「え?」とか言われて、同じセリフをそっくりそのまま繰り返してますから、私。だからー「このへんで一番近い駅はどこですか?」って聞いてるの!そんなにおかしい?私の質問!
いったいどこで間違えたの?今日一日。母さんのコーヒーを断りもなく飲んだから?それがいけなかったの?っていうか、あのデリカシーのないアホ返信メールでフキゲンにさせられたことも原因。私はケータイをジーンズのポケットにしまって、駅までの道を歩き続けた。
ランドセルを背負う子供達とすれ違った。
私は時間を確かめようとポケットにしまったケータイを取り出した。それを開いてから気付く。ケータイは真っ暗なまま。知っていたはずのバカな行動にまたイラつく。今の私は時間もわからない。私は使い物にならない小さな機械をポケットではなくバッグの中へ投げ込んだ。今の私のポケットには何もない。誰かと繋がる「心の支え」もポケットにはなく、ハンドタオルもなく、ポケットの中には本当に何もなかった。
「赤いライオンを知ってるか?」
いつも唐突、この人は。「あれは白いライオンでしょ?」慣れた口調で言葉を返す、「え?」なんて私は聞き返したりしない。いつもこの人は気まぐれで話を切り出す。
「いや、いいんだよ赤で。赤い小さなライオンだ」
「どこかでそんなライオンの赤ちゃんが産まれたの?」
「いや、昔、俺のポケットの中にいたんだ」
「え?」私はいよいよ聞き返した。
「何処から来たの?」
「忘れた」
「えーと、餌は?」
「忘れた」
「今は?」
「いない」
もういいか、付き合う必要はないか。
「勇気をくれたんだ」
「何ヶ月か前に図書館で絵本を読んでいた時に見つけた本にそれが描かれていて、それを読んだ時に、『あ、あれは夢じゃなかった、本当にポケットのライオンはいたんだ!』って思ったんだ」
ちょっと待って、そういう絵本があるのはわかった。赤いライオンがポケットにいたことも良しとしよう。けど、何ヶ月か前に図書館で絵本って…三十を越える子供もいない男が絵本のコーナーってどういうシチュエーション?いや、ポケットサイズのライオンもおかしい!よくないよくない。だめ、負けないで、混乱しちゃだめ。えーと…、
「絵本?」そう、たぶんそれでいい。
「ああ、『ラチとライオン』っていう絵本だよ、弱虫な男のコに勇気をくれるライオンだ」
「ポケットサイズ?」
「ポケットサイズ」
ライオンはポケットサイズらしい。
話を聞いた翌日、私は立ち寄った本屋で「ラチとライオン」を探した。それはついでで、決してそれが目的で本屋に行ったわけではない。大小横長縦長、いびつに並ぶひらがなだらけの本棚から私はそれを見つけだした。
「黒い本だよ」
聞いてもいないのに、そんなコトを言っていた望月さんのおかげで横一列をなぞっただけでそれを見つけることができた。私は手に取り絵本を開いた。この歳で人前で絵本を開くなんてはずかしかったりもしたけれど、でもなんか不思議なワクワク感。きっとさ、これを開くと動物がしゃべったり、物が笑っていたりしているんだよね。小説だらけの生活にはそんな空間はないから、知らない世界に足を踏みいれるようでドキドキしていた。
世界中で一番弱虫な男の子、ラチの前に突然あらわれた赤い小さなライオン。ライオンはラチに強くなる体操を教えた。ラチに勇気と強さを与えたライオンはラチのポケットから姿を消してしまう。また弱虫なコを助けにいかなくてはいけないんだって手紙を残して。ちょっと寂しいお話だけど、最後の一言は強い男のコになったラチは飛行士になる夢をきっと叶えるでしょうって、そんな話だった。
私のポケットは空っぽ。壊れたケータイはバッグの中。もちろんライオンも…ライオン?私は足を止めた。私の赤いライオン。私は私の赤いライオンに気付いた。あなたもいつか私の前から姿を消すの?。私が強くなったら、やっぱり姿を消して他の人のところへ行くの?というか、こんな弱虫野良猫には、もううんざりだよね。いつまでたってもぐるぐるぐるぐる、浮いては沈んでまた浮いて。ずーっとそんな調子だもんね。ケータイが使えるようになったところで、何も変わらない。知らない道を散歩していた私に戻るだけ。意味はないか。
踏み切りの音に気付いて顔を前に向けると、改札が見えた。柴崎。小さな駅だった。バスターミナルもなく、タクシー乗り場もない。ずぶ濡れ少女が立ち寄る駅には丁度良い。切符を買って、静かな駅のさらに静かなホームの一番前まで私は歩いた。ポケットの中に手を入れる勇気はない。ケータイがないことはわかってる。それはいいの。でも私は、私のライオンがポケットにいないコトに気付きたくなかった。いなかったらどうしよう。いなかったら私は本当に世界中で一番弱虫な独りぼっちだ。確かめる事もできない弱虫、信じる事も出来ない弱虫。弱虫ルナは家に帰る電車に乗ることしか出来ませんでした。
つぼみのない朝。望月さんの空を飛べるという告白。泣きながら望月さんを呼び出した深夜の散歩。一緒に歌った「日曜日よりの使者」。沢山のことを思い出した散歩道。川に落としたケータイ。ポケットのライオン。ずぶぬれの帰宅。沢山沢山感じて涙を流したこと、そんな体験を沢山してきたのに、私は何一つ変わっていない。成長とか新しい道とかそういうのまったくないじゃん。落ちたつぼみはそれを証明してくれた。胸に感じた沢山の想いはそのまま涙で流れ落ちてしまったの?このまま、私、家に帰らないでそのままどっかに行っていなくなってしまったら、どうなるのかな?そうだよ、困る人っていないじゃん。バイトのシフトに穴が空くけど、それは誰かが埋めたりしてくれてなんとかなるでしょ?私でなければいけないわけじゃない。母さんや父さんは心配する?当然だよね、親だし。でも他にいる?私のことが必要な人、探してくれる人、泣いてくれる人。誰もそうしてくれないんだったら、私ってここにいないじゃん。存在していないよね。鏡に映っていようが、自動ドアが開こうが、人にぶつかろうが、私なんていないじゃん。私、勝手に生きているだけなんだね。何もない場所で人にも気にされず、意志もなく、フラフラフラフラしているだけ。
どうなの?私。そうなの?私。私、私って。誰か呼んで、私を名前で。単純?名前で呼んでもらえるだけで、自分がここにいることを感じることが出来るの。はははー、ギリギリのラインだね、私。
シートにへたりこんで、ぼやけた視線の先に見たことのあるミュール。向かいに座る女のコのミュール。薄い緑と薄いオレンジのストラップに黄色い花をつけたミュール。女のコは大きな紙袋を胸に抱えて、耳の軟骨に大きな花のピアス…?え?私?目を疑った。目の前に私が座っていた。その「私」は正面に座る私を見ていた。
私は新宿で降りた私。あなたは降りずにどこかへ行った私ね?そんな目で私を見る。あなたが胸に抱える紙袋に入っているものは服?着て街を歩きたいと思った服があったの?どんな服を買ったの?「私」は「ピロロッピロロッピロロッ」との着信にメールを開いた。誰からのメール?今のメールは誰から?メールを読んだ私は笑顔になった。なぜ笑ったの?そのメールに対して返信を打つ私。何をその相手に伝えるの?そして何よりも私が気になるのは耳に花が咲いていた。大きな白いゆりの花が咲いていた。どうして私が花を咲かせているの?新宿で別れたあなたにはいったい何があったの?ケータイを取り出し、時間を気にしている私。誰かと待ち合わせ?私が目の前にいる。私は私ではないの?無意識に伸ばした手に、私は驚いて手を引っ込めた。透けていた…?私の身体が透けている!え?前に座る私が私で、私は消えてしまうの?足も身体も透けて、濃いピンクのシートが見える。手をかざしても、その向こうのドアが透けて見える。両手をかざして私はそれを交互に見る。消えていく、私が消えていく。
次の瞬間、花を咲かせた私が立ち上がった。え?この駅で降りるの?待って!私も降りる!私は「はっ!」と立ち上がり、急いで電車を駆け降りた。息を切らしてホームに降り立つ私。降りた瞬間にドアが閉まり、電車は動き始める。ホームが見えない、身体が邪魔をしている。ある!私の身体。透けてない!あ…!私は?どこ?
私はホームに降りた私を左右に首を振って探す。どこ?どこへ行ったの?時刻表の裏、反対側のホームにも目を向けるが、姿はない。改札へ降りる階段まで、というか、ホームには誰もいなかった。
何?…夢?夢なの?身体中の力が抜けて、私は横にあったベンチに腰を降ろした。そして大きく息を吸い込んで大きく息を吐いた。「ふーっ」って思いっきり。それは深呼吸ではなく、溜め息だったから、私の幸せはまた逃げて行ってしまったのかもね。
「タバコを吸っていると、いつも溜め息をついているようで嫌だから…それもタバコをやめた理由の一つ」、だなんて望月さん言っていたっけ。冬の吐息もそれと同じ。目に見えるから、溜め息をついている自分に気付く。どうせなら、その息でかじかんだ手を温めよう。いつからかそんなふうにも思った。残念ながら今の季節の溜め息は、吐き出した瞬間にカタチを失う。それを見送ることも吸い戻すことも出来ない。同じ溜め息だし、どちらが良い悪いはないけれど、吐息は見えない方がいいんじゃないかと思う。見えたら世の中真っ白でしょ。私の溜め息のつき方は昔から変わらない。昔と言っても高校時代からだけどね。上を向いて、空を向いて「ふーっ」って、つく。今も空に向かって「ふーっ」。もう一回、溜め息つこうか。今度も空に向かって「ふーっ」。ベンチの後ろ、次の電車がホームに入って来た。それに乗って帰ろう。家に帰ろう。家に帰って今日一日のことを日記に書こう。書ききれるかな?途中でやめてしまうかも?ま、それは書き始めてからのお楽しみ。私は立ち上がり、空に向かって、もう一度「ふーっ」。そして振り返り、停車した電車に身体を向けた。
電車に乗ろうとドアに向かった瞬間、ホームに駆け降りた男性とぶつかりそうになった。息を切らした目の前の男性。その姿に私は驚いた。え!望月さん?「何!何しているんですか?こんなトコで!」わけのわからない偶然に戸惑う私。
「あ!」望月さんは私を指差す。
「え?」
「お前こそ、声をかけても返事もしないでどういうつもりだ!周りの人にすげえ変な目で見られたんだぞ!」
は?何?意味がわからない。
「あれ?お前、紙袋は?」
望月さんは私から目をそらして私の手元を見る。「紙袋?」私もその目線に釣られて右手左手を交互に見た。
「っていうか、ジーンズ濡れてないか?」望月さんはそっちに気付く。「濡れてる」普通に答える。「なんで?」そりゃ当然聞き返すよね。
「川に落ちたから」当然そう答える。
「へー、そうなんだ。で、こんな駅で何をしてるんだ?お前の駅は次の駅だろ?」
そんなことはわかっている。けど、言えないでしょ。私が降りたから私も降りた。なんて、頭おかしい人じゃん。
「ちょっと待って!『そうなんだ』で終わりにしないで川に落ちた理由を聞きなさいよ!」
「え?ああ、なぜ?」
「川にケータイを落としたの!」
「え?さっき俺とメールしたばかりだろ?」
え…?あ、さっきの買い物帰りの私とのメールの相手は望月さんだったの?もう、何がなんだか…。
「望月さんはなんでこんな駅に?」
「だから、お前が降りたから俺は降りたんだ」
もー、会話がめちゃくちゃ…。私はあなたの乗っていた電車になんか乗っていなかったし、紙袋も持っていな…紙袋??
「電車の中で私を見たの?」
「だからそう言ったろ?」
お互いがお互いに訳のわからない質問をしていた。
訳のわからないことが二人にはあったみたいで、訳がわからないまま二人は出くわした。
かたや空を向いて「ふーっ」
かたや下を向いて「ふーっ」
さっきまで私が座っていたベンチに二人並んで腰掛けた。
二人同時に「よいしょ」なんて言うから思わず目を見合わせて笑ってしまった。空を飛ぶ鳥が2匹、左から右へと通り過ぎて行った。そんなのを眺め終わった後にポツリ。
「いろいろあったみたいだな」と、どこをみているかもわからない遠い視線で私を見ずに望月さんは語りかける。
「いろいろね」私は足を組み、顔を傾け、頬を手に乗せて、立てひじ。そして目を閉じて話しを続ける。
「ところでライオンに教えてもらった体操ってまだ覚えている?」
「ん?なんだ?突然」望月さんは私を見る。
「まずはそこから始めようかな…って」
「そりゃ、悪くないな」
望月さんは私から目を離さずに続けた。
「かわいいピアスをつけてるな。かわいい花だ」
え?今日は確か、小さな二つの流れ星のピアスのはずだけど。
耳たぶのピアスに手をあてる。
「いや、そっちじゃない」
「え?」
「上、もっと上」
「上?」手を当てると何かがある。え?私はバックから手鏡を取り出し、覗いた。すると、花が咲いていた。小さく白い花のピアスが私の耳についていた。「な、なにコレ!」それはとっても小さな白い花。でも、でも、私、花を咲かせていた。
今日一日、沢山の私が心を駆け巡った。そんな一日。そんな散歩の終わりに私は小さな花を咲かせた。
「さあ、じゃあ早速、教えてやろう」望月さんは急に立ち上がり、「よっ!」と言って逆立ちをして見せた。
待って!ここ、駅のホーム!
望月さんはおかまいなしに手を振上げて地面を蹴り上げ、逆さになった。そして一言「見たことあるか?この景色」と。
望月さんは逆立ちをして、今、私が目にしている空と大きなマンションの景色を反対から見ている。上下逆の世界。いったいどんな景色を望月さんは見ているの?
かけ声と共に望月さんは地に降り立つと「支えてやるから、やってみろ」と言う。それはそれでいいけど、でも、ここは駅のホームなわけで…。
「早くしろよ、ほら!」
「は、ハイ」
「しっかり手を伸ばす!ほら!足もしっかり伸ばせ!」
お尻を叩いて姿勢を直される。ちょっと!若い女のコになんてことをするの!く、苦しい、キツイ!目をつむって歯をくいしばる。手が痛い、手の平が潰れる!
「目を開けて空を見ろ!」
目?身体に力が入り過ぎて目を開くこともうまくできない。力を抜いたら良いのか入れたら良いのか?そんな中で私はゆっくり目を開いた。目の前に広がる世界の広さに私は震え、怯えた。
大地の見えない遥か空の上?底のない海?私は宙に浮いている。これって、飛んでいるの?あまりに深く広い世界に身体を投げ出している私。逆さにホームを掴んでいる手がなければ、私はこの終わりの無い深い空に落ちて行ってしまう。叫んだ。限界だった。
「助けて!」
「もう少し、そこにいろ。平気だ。俺が支えている」
抱きかかえるように望月さんは私をもとの世界にもどしてくれた。しゃがみ込み、両腕で両腕を抱えこみ、初めて知った空の広さに私は震えが止まらなかった。いくつかの呼吸を繰り返したあと、傍らに立つ望月さんを見上げた。あなたは、あの空を飛んでいるの?飛べるの?望月さんは言葉のない会話にニコっと笑った。
いくつもの電車をベンチに座って見送った。
今日あった出来事を望月さんにみんな話していたら、いつまでも終わらなくてね。私、ずっと一人で話していた。
私は一歩を始める。
そう決めた。
まずはその素敵な体操から。
明日からの私はもう少し大きな花を咲かせることが出来ると信じて。
執筆の狙い
初めて投稿させていただきます。
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とある女の子の旅を書きました。