作家でごはん!鍛練場
青木 航

竜の軌跡 第二章(歴史小説)

 16.貞盛の帰郷

 京の水が合い、毎日が楽しくて仕方なかった。土臭い坂東から出て来たが、直ぐに都風の着こなしや振舞いを身に着けることが出来た。他人が何を考え、何を欲しているのかが良く見えた。それに答えてやれば気に入られ、気に入られれば、どこに居ても居心地が良い。
 気に入られる為には財が必要だが、父・国香に頼めば相当な無理も聞いてくれた。周りへの気遣いは相当必要だったが、こうすれば願いを聞いてくれるだろうという目算を立てて実行し、それが当った時を思えば、苦痛となるどころか、わくわくするような快感であった。
『麿には京の水が合っている。あんな泥臭い坂東で、腕尽くの争い事を繰り返しながら一生を終わるなど真っ平だ。麿には才覚が有る。この京でもっと出世して見せる。常陸の所領は、繁盛と兼任に任せて、ずっと京に残れるよう、折を見て父上にお願いしてみよう』
 そんな風に考えていた。
 小次郎がまだ都に在った頃、たまにに会うと、哀れに思えて仕方なかった。せっかく、左大臣家に仕えることが出来ていると言うのに、それを生かす才覚を全く持ち合わせて居ない。取るに足らぬ者達や家司(けいし)の言動に気を病み、要領良く立ち回ることが出来ない。
『矢張、あの男は坂東に在るべき者なのだ』
 そう思った。
 帰郷する時、その理由を、なぜか小次郎は、貞盛に告げなかった。
 帰郷は、小次郎に取って良い選択と貞盛は思っていたので、その時は、敢えて尋ねようとも思わなかった。小次郎が坂東に帰ってから後、特に文のやり取りをすることも無かった。父からの便りにも、小次郎の消息が書かれていたことは無い。
 勤めや雑事に追われ、小次郎のことを殆ど思い出すことさえ無いまま、四年の歳月が過ぎた。

 ところが、そんな平和な日常が、ある日突然に破られた。
 馬を乗り継いで駆け、消耗し切った郎等が都に辿り着き伝えたのは、貞盛に取って余りにも衝撃的な内容だった。
 父・国香が小次郎に殺された。
 郎等から、まず、そう伝えられた。
『そんな馬鹿な。何故?』
 小次郎と父が揉めていることすら貞盛は知らなかった。郎等の説明に寄れば、父が源護の舘に滞在中、突然襲って来た小次郎が一帯に火を放ち、護の三人の子と父を殺したのだと言う。
『そんなことをしでかすなど、小次郎は気が触れたのか?』
 そう思った。
『兎に角、直ぐに坂東に帰って欲しい』
 郎等は繰り返しそう懇願した。
 疲れ切った郎等を休ませ、居室に戻った貞盛は考えていたが、郎等の説明だけでは、納得出来るものではない。
『だが、少なくとも父が死んだことは事実だろう。しかし、小次郎に殺されたということが俄には信じられない』
 もし、事実であれば勿論許し難い。怒りが沸き上がって来ると言うよりも、己の目で、耳で、事実関係を、まずは確認しなければならないと思った。
 その晩のうちに休職願と帰郷の許しを乞う上申書を書き、翌朝、左馬寮に提出した。
 父の死去が理由とあって、翌々日には帰郷の許可が下りた。

 石田の舘に戻ると、源護の長女である亡き父の妻(め)が泣き崩れながら、
「直ぐにでも将門を討って欲しい」
と訴え掛けて来た。夫と三人の弟たちを同時に失ったのだから無理も無い。
『義母(はは)上、安堵なされ。この太郎・貞盛が戻った以上、直ぐにでも軍を起こして小次郎を討ち取り、我が父とそこもとの弟たちの恨み晴らしてくれよう』
 そう言ってやることが、この女(ひと)を宥める唯一の方法であるとは思うが、貞盛は冷静だった。
「義母上、ご心中お察し致します。麿とて思いは同じで御座います。事情を調べた上で、今後のことを決めたいと思いますので、暫し時を下され」
 国香の妻は、恨めしそうな眼差しで貞盛を見た。
「麿は、突然に何もかも失ってしまい、やつれ果てた父の顔をまともに見ることさえ出来ないのです。太郎殿とて父上を討たれた身で御座いましょう。次郎殿、三郎殿も、太郎殿が帰られ次第将門を討つと息巻いておいでです。なのに、太郎殿からお力強いお言葉を頂けないことを麿は残念に思います。
 事情を調べた上でなどと他人事のように仰せですが、殿と我が弟逹が将門に討たれたことは、紛れも無い事実では御座いませんか。都の官人(つかさびと)とも成られると、肉親の情さえも忘れるものなので御座いましょうか?」
「お方様。ちとお言葉が……」
 郎等が口を挟んだ。
「ご無礼致しました」
 そう言うと、国香の妻(め)は貞盛の居室を出て行った。

 貞盛は、弟逹と郎等逹を広間に集めた。
「太郎様、申し訳御座いません。我等の手落ちにより始まったことに御座います」
 父の一の郎等が貞盛の前に進み出て頭を下げる。
「どういう事じゃ」
「はい。あの前日、前(さきの)常陸大掾様より使いが有り、翌日、改めて迎えの者が参りました。
 お供をしようとしましたが、
『隣の舅殿のご機嫌伺いに行くだけだ。迎えの者まで差し向けて来ている。帰りも送ってくれるだろう。大事無い。大仰にしては、舅を信用していないようで具合が悪い。その方らも他にすることも有ろう。供は良い』
 そう仰せられたので、お言葉に従い、先方の郎等衆に任せてしまったのが悔やまれます。
 我等がお供していればこの様なことにはならなかったのではと思うと、申し上げるべき言葉も御座いません」
 一の郎等は、そう言って床に頭を擦り付けた。
「そなたらの罪とは思わぬ。それよりも、父上は小次郎に斬られたのか?」
「いえ、火に巻かれて亡くなったということです。前大掾様の郎等から聞き出したところでは、将門が焼き討ちを掛けた際、女逹は我先に逃げ出してしまい、舘内には案内する郎等の一人も居なかったとの事」
「どういうことじゃ。郎等逹は、父を放ったまま皆外に飛び出し、小次郎と戦っていたと言うのか。父上は、そんな騒ぎの中、ただ舘の中に居て火に巻かれたと言うのか。馬鹿な」
「それが、別の郎等の言に寄れば、三人のご子息方は、多くの郎等逹を引き連れ、将門を討つ為に出掛けており、そんな時、折悪しく別の所で騒動が起こっているとの報せが有つた為、前・大掾様は、残っている郎等逹全てを引き連れて鎮圧に向かわれたとか。その留守中のことと聞きました」
「何? 護殿の方から先に小次郎に仕掛けたのか?」
「はい。そのようで」
「ふーん。小次郎め、気が触れたのかと思ったが、そう言う経緯(いきさつ)であったか。
 で、扶(たすく)殿逹は、何故小次郎を襲ったのだ」
「そこまでは、分かりません」
「分かった。調べてみよう」
「兄上」
と重盛が口を挟んだ。
「小次郎が焼き討ちを掛け、その結果、父上が亡くなられた。それで十分では御座いませんか。父上の無念も晴らさず指を加えていれば、我等は世間の笑い者に成ってしまいますぞ」


17.良正

『将門を討つべし』
との周りの声を抑えながら、貞盛は自ら独自の調査を進めた。そして、小次郎本人にも密かに詰問の書状を送った。
 小次郎からの返事は直ぐにあった。詫びの言葉と共に、国香の焼死を全く知らず、後から知ったとのこと。扶(たすく)らとの戦闘に至った経緯も、簡潔に記載してあった。
 他の筋からの情報を得ていなければ、単なる言い訳とも取れる内容ではあるが、貞盛が独自で調べた内容と大きく違うところは無かった。
『小次郎の性格からしても、嘘は有るまい』
と貞盛は思ったが、義母や弟たちをそれで説得することは難しいと思った。

 小次郎と戦わずに都に帰る方法は無いものかと貞盛は考えた。小次郎が意図して父を討った訳では無いと分かれば、一時の怒りを鎮めることも出来た。
 それよりも何よりも、事態を早く収拾して、一刻も早く都に戻りたいと言う気持ちの方が、遥かに強い。争いに巻き込まれて、場合に寄っては何年も坂東で過ごさなければならないようなことになれば、貴重な時を無駄にすることになる。

 小次郎との戦いは避けたかった。
 それは、単に小次郎を憎めないと言う理由からばかりでは無い。正直、小次郎という男に恐れを抱いていた。
 都での出世争いになら勝てるが、武力を用いての戦いとなると、全く勝てる気がしない。
 別に一騎打ちをするする訳では無いのだから、小次郎個人の強さなど関係無いとは思う。しかし、幼い頃から染み着いた観念を抜き去ることが出来ない。敵に回したくは無かった。

 貞盛は、義母(はは)を宥めながら、護と小次郎との争いと、親族間の領地争いを切り離すしかないと考えた。
 護が没落してしまった今、義理立てして、敢えて小次郎と戦う必要は無いと説得出来るのではないかと考えた。
 伯父達は、兄である父・国香を討たれたと主張するだろう。しかし、討たれた訳では無く、巻き込まれただけということを力説し、嫡子である自分がそう納得していることを伝えれば、戦を仕掛けることを阻止出来るのではないか。そう考えた。
 だが、所領の争いについては、小次郎に相当譲らせる必要がある。それが出来なければ、伯父逹は納得すまい。
 父に出来なかった交渉だが、自分なら小次郎を説き伏せることが出来ると貞盛は思った。
 一旦、伯父逹の顔を立て小次郎に譲らせ、父の遺領を相続した後、見合う分を補填してやれば良いのだ。都での生活を続ける為には、相続を放棄しても良いと思っていたくらいだから、そのくらいはどうと言うことは無い。それよりも、問題を解決して、一日でも早く都に戻ることの方が、貞盛に取っては、遥かに価値の有ることなのだ。
 密約など小次郎は嫌うであろうが、利害得失を説き、誠意を以て説得すれば、小次郎を納得させることは出来るだろうと思った。
 貞盛は、密かに小次郎と連絡を取り、提案に対する小次郎の反応を探ることから始めた。

 貞盛が、周りの声を抑えながら、将門と交渉しようと動き始めた頃、水守の良正が動き始めた。
 三人の弟たちが討たれ、実家が焼き討ちに会ったことを知ると、護の次女である妻(め)は、将門を討って欲しいと、激しく良正に訴えた。
『兄・良兼とも相談し、貞盛も引き込んで討つ積もり』
との良正の答に妻(め)は納得しなかった。
「石田の姉上と文(ふみ)を交わしましたが、石田は、太郎殿の帰国を待たねば動けないとのこと。
 また、武射の義兄上はお立場を気にして、関わりを避けようとしていると聞いております。姫を強奪されたと言うのに、ほんに情けない話で御座います」
「そう申すな。兄には兄の都合が有る。既に相談は持ち掛けておる。返事待ちじゃ」
「さて、ご返事はいつのこととなりますやら。
 申し上げ難い事では御座いますが、この際、思い切って申し上げます。
 二人の兄上方の陰に隠れてお舘の影が薄いとの風評を聞く度に、麿は悔しい想いを重ねて参りました。石田の兄上様が亡くなり、武射の兄上様の動きが鈍い今、貴方様が石田の兄上と我が弟たちの仇を討ち、父の恥辱を晴らして下されば、世間の見方は変わります。名を上げる何よりの機会とは、お思いになりませぬのか?」
 痛いところを突かれて、良正は少しムッとした。しかし、同時に、姉妹逹に対しての対抗心がそう言わせているのだなと思った。
「父を討たれた貞盛の立場も考えてやらずばなるまい。貞盛が父の仇を討つと言うのであれば立ててやる積もりだ。しゃしゃり出て、己の名を上げようとは思わん。暫し待とう」
と妻(め)を抑える。
 ところが、帰国した貞盛に動きは無く、
『帰国したばかりで、色々と確認を進めているので、暫しお待ち頂きたい』
と煮え切らない返事が、返って来た。
 良兼からも良い返事は得られなかった。
 そればかりでは無く、
『貞盛は、将門との和解を模索しているのではないか』
との情報が、石田の郎等を姻戚に持つ一人の郎等から齎されたのだ。
「腰抜けめが。父を討った小次郎と和解するだと…… 何を考えているのだ」

 貞盛や良兼の態度に業を煮やした良正は、承平五年(九百三十五年)十月、将門を討つべく単独で兵を挙げた。しかし、それを察知した将門も直ぐさま出陣し、十月二十一日、常陸国・新治郡・川曲村にて戦闘となった。
 双方激しく戦ったが、将門の勢いは強く、良正は敗走した。六十人余りが討たれ、逃亡した者は数知れないという有り様であった。


 18.それぞれの想い

「人の本心などというものは、普段は中々見えて来ぬものだが、この様な時にこそ知れる。そなたのみが、麿の心を汲み、いち早く立ち上がってくれると言うか。頼りにしておる。伜逹の無念を晴らしてくれ。一生恩に着る」
 良正から、将門を討つという決意を聞かされた時、護は、両の手を取って涙を流しながら喜んだ。しかし、その良正も敗れ去った。
 二ヶ月ほど後の承平五年(九百三十五年)十二月二十九日。源護(みなもとのまもる)は、太政官宛に、将門を告発する書状を送った。

 こうなると、負けた良正より、貞盛と良兼に周りの非難の目が向けられるようになる。
「水守(みもり)の良正殿はお気の毒で御座いましたな。力を貸す方が居れば、敗れることも無かったかも知れませぬのに」
 亡父の妻は、明け透けに貞盛に嫌みを言って来た。
「そこもとの父上が、朝廷に訴えたそうに御座いますな。そのお裁きが出る前にこちらから事を起こせば、当方の落ち度となりましょう。まずは、お裁きを待たれるのが筋ではあるまいか」
「口は便利なもの。麿など田舎者ゆえ、都の官人(つかさびと)殿にはとても敵いませぬ」
 そう言うと義母は、くるりと背中を向けて自らの居室に向けて去って言った。

 源護(みなもとのまもる)の訴えは半月ほどで都に届いたが、正式に受付られる前に、左大臣・藤原忠平の私邸に回された。
「前常陸大掾・源護からの訴えに付いて、審議に掛ける必要が有るか問い合わせが参っております。
 と申しますのは、源護が訴えて来ている者は、当家の元・家人(けにん)にて、下総に住いおります平将門という者に御座いますゆえ、まずは、御前のご意向を伺った上で、と言うことに御座います」
「何? 当家の家人…… 平将門?」
 家司(けいし)から言われて、忠平は少し考えた。
「ああ、あの男か。官人(つかさびと)としては、どうにも使い難そうな男であったな」
「はい。頑ななところが有り、家中の評判を聞くと色々と問題がありましたので、確か、滝口武者としたと思います。腕は立ちましたので」
「その将門が、何を仕出かしたと言うのじゃ」
「はい。護の訴えに寄れば、所領に侵入し、護の子ら三人を始め多くの郎等を殺し、焼き討ちまで掛けたとの事に御座います」
「何! それだけ聞けば極悪非道、お上(かみ)をも恐れぬ所業であるが、理由は?」
「それが、訴状には『怨みを以て』と有るだけで、子細は分かりません」
「そこまで恨まれる、何をしたか書いてはおらぬのか? 仮にも我が家の家人とあらば、公(おおやけ)に審議して不都合が有るといかん。
 まずは、秘かに調べさせよ。喚問するかどうかはその後で決める」
 役人では無く、私的使用人を坂東に派遣して調べさせたところ、仕掛けたのは護の息子達で、奇襲を掛けようとして見破られ、逆襲を受け本拠地まで焼き払われたと言うことが分かった。
「己の仕出かしたことの始末を朝廷にさせようというのか。源護。虫の良いことを…… 暫く放って置け」
 忠平は、忌々しげに、そう言い捨てた。
 そんな訳で、承平五年(九百三十五年)十二月二十九日付けの護の書状が正式に受け付けられ、公文書に記載されたのは、実に、八ヶ月以上後の六年九月七日なのである。

 一方良正は、上総の兄・良兼に訴え、共に将門と戦って欲しいと頼み込んだ。
 良兼も放って置く訳にも行かなくなり、貞盛にも加わるよう説得に乗り出したのだ。
 貞盛は、良正の要請に応じ、上総から出張って来た良兼に、水守に呼び付けられた。
 この時貞盛は、和睦の方向で、逆に伯父逹を説得するつもりでいた。しかし、良正が将門に戦いを仕掛けてしまったのは、将門との和解を進めようとする貞盛に取って、大きな痛手であった。
 敗戦に寄って小次郎に対する恨みを募らせている良正が、簡単に和睦に応じるはずは無い。しかし、立場を弱くし、信用を失ってしまっていることを考えれば、良兼さえ説得出来れば、良兼に良正を説得して貰うことは可能なのではないかと思えた。 
 貞盛の要請を受け、まずは良正を外しての談合となった。
「良正には、暫し待つよう申して置いたのだが、聞き入れず勝手に事を起こしてこの様だ。
 しかし、こうなった以上、もはや放って置く訳にも参らん。このままでは、我ら高望王に連なる坂東平氏の全てが世間から侮りを受けることになる。我等の手で将門を討ち、一族の団結を図るより仕方あるまい」
 良兼は冷静な態度で話し始めた。
 貞盛は、
「伯父上の申されること、ご尤もとは存じます」 
と、まずは良兼の言い分を肯定し、 
「しかし、事が大きくなれば、朝廷への聞こえも悪くなります。また、小次郎に心を寄せる者がこのところ急に増えております。下手をすると、我等一族の争い事にとどまらず、坂東をふたつに分けての大きな争いとなる恐れが有ります」
と、朝廷を憚っていると思える良兼の感情に訴え掛けようと試みる。
「なればこそ、そうなる前に小次郎を叩いてしまわねばならんのじゃ。恥は雪がねばならぬ」
 良兼は、そう言って貞盛を見据える。
「一挙に叩けましょうか?」 
と貞盛が問う。
「何? 麿を誰と思うておる。上総介・平良兼じゃ。小次郎如き青二才に負けるはずが無いではないか!」
「水守の伯父上も、同じように申されて兵を挙げられました」
と貞盛が返す。良兼はムッとした。 
「貞盛! 貴様、父を討った将門に味方したいのか?」 
「我等が互いに殺し合って、亡き御爺様(平高望)が喜ばれますでしょうか? 喜ぶのは他の者達ではありませんか?」
 そう追い打ちを掛ける。
「…… 長年京におると口が巧くなるものじゃな。ならば聞こう。汝(なれ)はどうしたいと申すのじゃ」
「小次郎と和睦致します」
「戯けた事を」
 良兼は顔を背け、不快な表情を見せる。
「我が父・国香は小次郎に討たれた訳では御座いません。運悪く居合わせた護殿の舘で火に巻かれて死んだものと分かりました。そうと分かれば、麿に小次郎を深く恨む気持ちは有りません。嫡男である麿が仇と思っていないのであれば、仇討ちということにはなりますまい。
 後は、伯父上方に取っての舅に当たる前常陸大掾殿に対する義理立てということになりましょうが、一族を二つに割っての殺し合いと引き換えにするほどのことで御座いますか? 
 最早あのお方の影響力は失われております。今は、我等、高望流平氏一族の結束を図るべき時とは思われませぬか?」
「確執を忘れ、小次郎と和睦せよとの事か?」
「はい」
「条件は?」 
 良兼は、貞盛の話に乗って来るかのような素振りを見せ始めた。
「所領は全て返してやりましょう」
「何! それでは、我等が小次郎の軍門に下ったも同然ではないか。その様な事出来るか!」 
「小次郎には、それなりの対価を払わせます」 
「それを、あ奴が聞かぬゆえ、話が拗れたのであろう」 
「小次郎は、父や伯父上方の申し出を聞かなかったとのことですが、麿には、小次郎を説き伏せる自信が御座います」 
「例えそれが出来たとしても、そなたを含め、我等の面目はどうするつもりじゃ。良正はこのままでは納得せんぞ」
「ですから、伯父上に水守の伯父上を説き伏せて頂きたいのです。父・国香については、平正樹と源護殿の争いに巻き込まれ、運悪く命を落としただけで、小次郎に我が父を討とうなどという気は無かったことをお伝え下さい。小次郎から、詫びのひと言も言って貰えば、麿は忘れるつもりです」  
 ここに来て、良兼は首を横に振った。
「話にならぬ。そのようなことでは我等の面目は立たんし、良正は元より、そなたの弟達でさえ納得せぬであろう」
「面目、面目と言っていては、何も始まりますまい。内輪揉めをしておれば、坂東に於ける我等の力を損なうことになりましょう。伯父上であれば、それをお分り頂けると思うておりましたが……」
「それは、分らぬでも無い。…… じゃがなぁ」
 否定しながらも、良兼の心が少し動いたように見えた。
「それに、甚だ申し上げ難いことですが、伯父上に今ひとつお願いせねばならぬことが御座います」
 ここぞと、貞盛が畳み掛ける。
「何か?」
「甚だ僭越とは存じますが、伯母上を護殿のところへお返し頂く訳には参りませんでしょうか?」 
「何ぃ?」
「事を収めるには、我等一族の揉め事と、護殿と真樹との揉め事とを分ける必要が御座います。一族の揉め事、所領の件については、麿にお任せ下さい。必ず小次郎を説き伏せます。…… 更に、もし、伯父上に前大掾と縁を切って、真樹殿との確執を修復して頂ければ、事は全て収まると思うのですが……」
 理詰めで説いた積もりでいたが、良兼の顔が見る見る紅潮して来た。
 貞盛は、都での気配りを忘れ、事を収めたい一心で策に走り過ぎてしまっていた。
『しまった。言い過ぎた!』
と、直ぐに気付いた。
「…… 貞盛! 言わせて置けば勝手なことを抜かしおって。読めたぞ。貴様、小次郎が怖いのであろう。戦いたく無いから何のかんのと屁理屈を捏ね回しておるだけであろう。この臆病者めが!」
 良兼が、これほど護の娘に執心していたとは、貞盛の思いの外であった。 
 婚姻は政略であり、護が没落した今、縁を切ることにそれほどの拘りは無いのではないかと踏んだのが、大間違いだったらしい。
『麿としたことがなんということを言ってしまったのだろうか。もう無理だ』
 そう思って、貞盛はがっくりと肩を落とした。少なくとも、甥が伯父たる者に言うべき言葉では無かった。


 19.良兼出陣

 今や父・国香に代わって氏(うじ)の長者、即ち一族の長(おさ)たる立場に在る良兼なら、当然一族の利益を優先するだろうとの読みが見事に外れた。己には才が有るとの想いから、つい言い過ぎてしまったことが、貞盛を苦境に追い詰めて行く始まりとなった。

 しぶしぶ挙兵に同意した貞盛だったが、やるからには勝たねばならない。戦では、兵力ばかりでは無く、敵の心を読み、その裏を掻くことで勝利が得られる場合も多い。
『一騎打ちなら兎も角、ひとの心を読むことに於いて、小次郎に退けを取るはずが無い』
 そう思って良正を加えた軍議の席で、貞盛は良兼に策を献じようとした。
「兵は多いに越したことは御座いませんが、特に雑兵(ぞうひょう)などは、心の持ちように因って、強兵にも弱兵にも成り得ます。我等に義が有ることを、ひとりひとりに至るまで信じていれば強兵となりましょう」
「ふふ。貞盛、誰に物申しておるのか? 
 そのようなこと、今更、そのほうに言われるまでも無く、麿も良正も疾うに承知しておるわ。
 出陣に際しては、我等に義が有ることを説き、氏の長者たる吾に背いて、我等の立場を危うくしている将門を討って、祖・高望王の残されたものを守らねばならぬことを、良っく言って聞かせるわ。そのようなこと心配せず、黙って麿の下知(げじ)に従っておれば良い」
「そうじゃ、貞盛、そなたは戦に慣れておらぬ。ここは、兄上にお任せするが良い」
と良正も被せて来る。
『形として、もっと誰の目にもはっきりと分かるようにしなければなりません』  
と言いたかったが、良兼は、国香の後を受けて、自らが氏の長者たるべきことを示そうという強い欲望に駆られていた。貞盛の提言に、もはや耳を貸そうとはしない。
 軍議は専ら良兼主導で進められ、貞盛が口を出す余地は無くなっていた。
「良正」
と良兼が呼び掛ける。
「はっ」
と緊張した表情で良正が返事する。
「小次郎め、たまたま勝ちを拾ったことで図に乗っておる。人も集まっていると聞くが、我等が力を合わせて掛かればどれほどのことも無い。吾には策も有る。任せておけ」
「はっ。お力添え頂き、忝なく思っております」
「うん。後は黙って麿の下知に従っておれば良い。国許(くにもと)に立ち戻って、早急に軍備を整える。その方らも抜かり無く準備して、我が下知を待つが良い」
「貞盛、良いな。亡き兄上の名を汚すような所業は許さぬぞ」
「ご案じ無く。やると決めたからには,勝つ為に全力を尽くします」
「うん。その心忘れるで無い」

 良兼が兵を集めているという情報を、小次郎は早くから掴んでいた。
「そなたの父上と戦うことになるかも知れぬ」
 夜具の用意をしている君香に、小次郎がボソッと言った。君香は手を止めて、少し空(くう)を見詰めていた。やがて、小次郎を見る。
「水守の伯父と争った時から、覚悟はしておりました。父を説得して止(や)めさせることも出来ず、申し訳無く思うております」
「父上の意に背いて麿の妻(め)となってくれたのだ。そなたにその役を求めたりはせぬ。
 実は、太郎と連絡を取っており、止めてくれることに少しは期待しておったのだが、どうやら取り込まれてしまったようだ。使いもぱったりと来なくなり、こちらの密使も石田に近付けなくなった。そこへもって来て、上総で、かなり大規模に農夫を徴発しているという報せが入って来た。
 水守の伯父が泣き付いたのであろうが、出来れば避けたかった」
「最早、麿はこの家(や)の者、お舘の妻(め)に御座います。麿へのお気遣いの為、後手を踏まれること無き様お願い致します」
「以前からの揉め事とは、此度は訳が違う。そなたの父か麿の、何れかが死ぬ事になるかも知れぬ」
「お舘のご無事を祈るのみに御座います」
 小次郎は少し目を閉じ、その後、歩み寄って君香の肩を抱いた。

 四年前から、小次郎は、積極的に浮浪人たちを取り込み、新田開発などに投入して来たが、荒々しい者逹を選んで戦闘訓練もしていた。四年の間に稔りを齎す田畑も少しづつ増えて来た。その上、源護の勢力を壊滅に追い込んで以来、手土産持参で将門と誼を通じようとする土豪逹が急に増え、良正を破った後には更に増えた。
 また、流れ込んで来る浮浪人逹も、農夫ではなく、その殆どが荒くれ者に変わって来ていた。
 また、些細な揉め事の仲裁を頼まれる機会も増え、小次郎の仲裁と聞いただけで、その多くが解決に至り、礼物も入るようになった。ひと言で言えば、小次郎の勢力は飛躍的に拡大し、戦力も増していた。そんな事実を冷静に把握することもせず、情念だけで戦いを挑んだ良正が敗れたのは、謂わば必然と言える。
「他人の揉め事は仲裁出来ても、己のものは解決出来ぬ。だらしの無いことよのう」
 小次郎は、良くそんなことを言って、郎等逹を笑わせていた。
 
 翌、承平六年(九百三十六年)六月二十六日、良兼は三千の大軍を集めて挙兵した。
 将門の当時の本拠地は下総国・豊田郡・鎌輪(現・下妻市)であり、良兼の舘は、上総国・武射郡(現・千葉県山武郡)に有った。 
 普通ならば、良兼は南又は東から、良正と貞盛の連合軍が北から、将門の本拠地・鎌輪を攻めて、挟み撃ちにするべきだろう。しかし、本格的な戦いは、なぜか遙か北、下野との国境(くにざかい)近くで始まるのだ。

 良兼は、常陸国・真壁郡の羽鳥(現・茨城県桜川市真壁町羽鳥)にも領地を有しており、舘も持っていた。この辺りは、源護と平真樹が鎬(しのぎ)を削っていた地域に隣接しており、護、凋落後は、正に濡れ手に泡といった感じで真樹に侵される心配が有った。真樹に圧力を掛けようとしたのか、或いは、良正、貞盛の連合軍が真樹に背後を衝かれることを恐れたのか、良兼は北上したのである。
 或いは又、威風堂々の行軍をすることで、周りの土豪達に、
『上総介殿が乗り出して来たからには、将門に着いても勝ち目は無い』 
と思わせるのが狙いだったのか、それは、分からない。まずは北上して、下総の香取(現・千葉県香取市)に進軍した。ここから西北に進めば、将門の本拠地・豊田郡に至るのだが、大軍は西には進まず、『香取の湖(うみ)』を渡り常陸国・信太郡(現・茨城県稲敷郡)に至った。
『香取の湖』とは、当時の常陸国南部から下総国北部に渡って存在した巨大な湖のことである。現在の霞ヶ浦、北浦、印旛沼、手賀沼を含んでなお余り有る大きさを持った湖沼で、海のように広がっていたのだ。湖、沼、川が入り組んで繋がっているような形状で、円形や楕円形では無い。  

 水守か石田に終結して、護、良正、貞盛らと合流し、平真樹に対する手配りをした上で、一挙に南下して将門を討つ心積もりだったのだろう。軍は桜川沿いに水守に向かった。 
 ところが、そんな行軍に恐れを成したり、指を銜(くわ)えて見ていたりするような将門では無かった。小次郎は、僅か百騎ほどで、良兼の軍に奇襲を掛けた。  

 広い街道では無い。狭い田舎道に長く延びた列の中程を分断するように駆け抜けて、また、風のように去ってしまった。十七人を殺し、五十名ほどの者に深傷(ふかで)、浅傷(あさで)を負わせた。  
 軍全体から見れば些細な損害である。しかし、兵達に恐怖心を植え付ける為には十分な攻撃であった。何しろ、狩り出されて、碌に訓練も受けずに連れ出された農夫達が殆どなのだ。奇襲を受けた途端に混乱が広がり、僅か百騎の将門軍を包囲することも追撃することも出来なかった。
 小次郎が去った後、その恐怖心は隊の前後にじわじわと伝染して行き、今まで胸を張って行進していた大軍が、まるで落ち武者のように、きょろきょろと周りを気にして足早に歩こうとする余り、前を行く兵にぶつかってしまう者が続出する有様となった。早く将門の領地近くから離れたかったのだろう。隊列は乱れに乱れながら北に向かった。


 20.強兵弱兵

 良兼は、水守(みもり)に集結して体制を立て直そうとした。だがそこに、平真樹の動きが慌ただしいという情報が入る。
 将門軍の百はすべて騎馬武者だった。
『与力の土豪達やその郎等が混じっていたのは間違い無い。とすれば、その土豪達の兵を含めた歩兵がどこかに終結し、こちらに向かっているに違いない。水守に居ては、南北双方からの攻撃に備えなければならなくなる』
 そう考えた良兼は、良正の軍を併合して、貞盛の拠点である石田に向かった。
 だが、物見から入る報せに寄ると、将門軍は思いの外、早く北上を開始しており、しかも駆け着ける土豪達も増えていると言うのである。
 既に敗軍のような雰囲気を漂わせながら石田に辿り着いた良兼の軍を見て、貞盛は落胆した。
「これは、軍などでは無い。烏合の衆だ。これでは、南から来る将門と東から来る真樹を同時に迎え撃つことなど無理だ」
 そう思った。良兼も同じように感じていたのだろう。
「軍勢を立て直す為、一旦、下野に退くことにする」
と言った。
「しかし、伯父上。勝手に下野に入るのはまずいでしょう」
 貞盛が懸念を良兼に伝える。
「下野守殿には、麿から使いを出し、事後の了承を得る」
『しかし、下野に土足で踏み込むような真似をしたら、秀郷が黙っているはずが無い』
 貞盛はそう思った。
 藤原秀郷は、国府の命(めい)に服さないため、国守(くにのかみ)が、近隣諸国の応援を得て捕縛しようとしたが果たせず、追討令まで出したが、討つことも出来なかった男である。
 不思議な事に、未だに健在で、下野各地に影響力を行使し続けているにも関わらず、国府は、何ら処分を行えないまま、見て見ぬ振りをしていると言って良い。
 貞盛の母の腹違いの兄、即ち叔父に当たる。
「しかし……」
「何じゃ貞盛。秀郷が黙っておるまいと言いたいのであろう」
「はあ……」
「その方の叔父であろうが。秀郷には、使いを出せば良い」
『そうか。下野に入ってしまえば、小次郎は追って来れまいと思っているのだな。戦う前から負けている』
 貞盛はそう思った。
 仕方無く秀郷に使いは出したが、その返事を待つことも無く、軍は常陸と下野の国境(くにざかい)を越えた。
 良兼も兵達もほっとした。いかに将門でも、下野にまで侵入して来ることは有るまいと思っていたのだ。常陸、上総、下総は、高望流平氏が多くの領地を有している為、国境を越えるにしても垣根は低い。だが、下野となると、他人の家に勝手に入り込むような感覚となる。良兼は軍の再編に取り掛った。だが、隊列を整え終わるのと、将門軍が姿を現すのとはほぼ同時だった。

 歩兵のみの前軍である。やはり、予想外に数は多い。
 とは言っても、良兼、良正、貞盛の兵に加え、護の僅かな残兵をも取り込んだ連合軍に比べれば、六分の一以下でしかない。
 将門軍は、やはり、国境の手前で止まった。良兼軍は盾を並べて攻撃に備える。
「小次郎の本隊が到着する前に、あの先鋒を叩いてしまおう。麿が行きます」
と良正が言った。
「麿も参ります」
 貞盛も進み出た。
「いや、待て」
「何故?」
 良正と貞盛が同時に声を上げた。
「下野には、入って来れまい。今、こちらから国境を越えて常陸に戻ってはならん。ここから動かず、矢合戦で痛めつけ、浮足立ったところへ総攻めを掛け、一挙に豊田まで追撃する。もそっと近付くのを待て。まだ距離が有り過ぎる」

 将門軍の動きが慌ただしくなった。
 伝令らしき者が走り回り、太鼓の音が鳴り響いたと思ったら、駆け足で矢頃に入って来た。
「来たぞ、構えよ!」
と良兼が叫んだ。
 将門軍は、次の太鼓で立ち止まると同時に、一斉に矢を放っていた。隊列は整然としており、且つ動きは機敏である。一方、大軍である良兼軍の反応は鈍かった。矢を放つのが遅れたのである。
 周りの者がばたばたと倒れるのを見た兵達に、恐怖心が甦ってしまった。逃げ出そうとする者が、あちらに一人、こちらに一人。伝播することを恐れたのか、そのひとりを郎党が斬り捨てた。
 それがいけなかった。斬られた兵の周りの者達が十人、二十人という単位で逃走し始めたのだ。

 将門軍は、太鼓の音で立ち止まって矢を射ると、直ぐさま駆け足で前進し、鉦(かね)の音で又立ち止まり、太鼓の音でまた射掛けて来る。良兼軍は、ばらばらに応射しながらも、ずるずると後退を始めた。
『騎馬武者なら兎も角、同じ農夫であるはずの歩兵に、何故これ程の差が有るのか!』
と貞盛は思った。その差は、質と訓練にあった。

 軍を編成するに当たって、郎等逹の居並ぶ中、小次郎はまず、寄宿しているならず者逹五十人ほどを集めた。
「聞け! その方らは、日頃喧嘩に明け暮れ、盗みを働いたり、中には人を殺して追われている者さえいる。にも関わらず、その方らを庇護して来たのは、ひとえにこの日の為である。命を省みず働け」
「おー!」
と一同声を上げる。
「働きに寄っては、郎等に取り立ててやる。但し、好き勝手に動くことは許さん。麿若しくは、麿の命(めい)を受けた郎等の指図には絶対に従え。命(めい)に背いた者は、例え大将首を獲ったとしても罰する。
 今まで、誰の命にも服さず、好き勝手に生きて来た者もおろう。他人の指図など受けずとも、手柄くらい立てて見せると思う者が居たら申し出よ」
「お舘。吾は、憚りながら、今まで喧嘩で負けた事は一度も御座いません。郎等衆の指図など受けずとも、一番の手柄を立てて見せますぜ」
 体の大きな悪党面をした男が、そう申し出た。
「そうか。それは頼もしい。これへ参れ」
 男は、小次郎など恐れてはいないと言わんばかりに、肩を揺すりながら、小次郎の前に進み出た。小次郎と目が合っても、反らさない。小次郎は、素早く太刀を抜き、いきなり、その男の胸を差し貫いた。
 ならず者逹にどよめきが走る。小次郎が男の体から太刀を引き抜くと、男は足元に崩れ落ちた。
「『命(めい)に背いた者は、例え大将首を獲ったとしても罰する』と、今申したばかりだな。
 ところがこの男は、麿の言葉を真剣に受け止めなかった。こう言う者が一人でもいれば、戦いに敗れる。戦は喧嘩とは違う。軍全体が恰も一人の人間であるかのように、一糸乱れず動かねばならん。
 もし、己の左右の手足が、意に反してバラバラに動き出したらどうなる。それと同じこと。除かねばならん。他に、麿の下知に従えぬ者はおるか?」
 今まで、薄ら笑いを浮かべていた者も含めて、ならず者逹に緊張が走る。誰もが、真剣な眼差しを小次郎に注いでいる。
 ならず者逹の表情を一渡り見回し、小次郎が続ける。
「汝逹それぞれに、十人づつの農夫を預ける。鉦(かね)、太鼓の音に合わせて素早く動けるよう訓練せよ。そして、麿の下知に従って動けば必ず勝てると繰返し、恐怖心を除け。
 但し、汝(なれ)逹と農夫とは違う。農夫とは、麿も汝達も生きて行く為に必要な食い物を作る大事な者逹だ。殴り付けて言う事を聞かそうとしたり、まして、殺すなど、絶対に許さん。
 汝逹の中には、日頃、舎弟や配下の者を脅したり、殴り付けて言う事を聞かせている者も多かろう。どうだ。怒りを抑え、辛抱強く教える事が出来るか? 出来ぬ者は外す。
 郎等に取り立てる者は、単に強いだけでは無く、また、手柄を立てたと言うだけの者では無い。麿の命(めい)に従うことが出来る者で、かつ、人を教え導ける者だ。無理と思う者は申し出よ。罰したりはせぬ。単に外すだけだ」
 三人が辞退した。
 足りない分は郎等を当て、一人の小頭が十人の農夫兵を率いる、総勢五百五十人から成るの歩兵団を作り、訓練を重ねたていたのだ。

 実は、貞盛自身も、答は分かっていた。数は少なくとも、小次郎自らが、普段から訓練を施している兵逹だ。何も分からないまま掻き集められた兵とは違う。 
 その上、待ち伏せを受けながら、護の三人の息子達を討ち取り、護を凋落させた上、良正まで粉砕してしまった小次郎は、既に兵達に取っては英雄なのである。自力救済が掟となってしまっている坂東では、強い者に従うことが、己が生き残る道だ。小次郎の軍には、必死に戦おうという機運が漲(みなぎ)っている。もはや、京で梲(うだつ)が上がらなかったなどと言う、将門の過去に関心を持つ者は殆ど居ない。貴種の出でありながら、農夫と一緒になって畚(もっこ)を担ぎ、田を耕す。下賤の者も分け隔てせず、気楽に話し掛けてくれる。そんな小次郎の人柄が、やや誇張気味に兵達の共有する処となっているのだ。


 21.包囲

 貞盛が秀郷に出した使いが戻って来た。
「秀郷様の舘は蛻(もぬけ)の殻です。辺りで聞いてみると、殆どの郎党を連れて佐野に引き揚げたようです。留守居の者は僅かに残っているようですが、堅く門は閉ざされています」
 使いの者は貞盛に報告していたのだが、口を出したのは良兼だった。
「何! 秀郷が尻尾を巻いて逃げたと申すか? …… いや、佐野に戻って兵を集めようとしているのかも知れぬな」  
「どちらでも御座いますまい。秀郷殿は、それでなくとも朝廷から目を着けられています。他家の揉め事にかかずり合って、口実を与えたくは無いのでしょう」
 貞盛がそう説明する。
 そうこうしているうちに、遠くに幟(のぼり)が見え、将門の騎馬隊が姿を現した。良兼方の兵は、もう、歯止めが利かない。逃亡兵が加速度的に増えて行く。放置すれば、軍は崩壊する。
「ひとまず、下野の国府まで退く! 続け者共!」
 良兼は叫ぶと同時に馬の腹を蹴って駆け出していた。仕方無く貞盛も続く。 

 真岡を抜け東山道に至ると左折し、真っ直ぐに下野国府を目指し逃げる。最初、少しだけ躊躇した小次郎だったが、一旦、国境を越えると、何の迷いも無く良兼らの軍を追撃して来た。
 貞盛が走りながらちらりと見ると、兜(かぶと)の間から見える護の顔が苦悩に歪んでいる。恐らく、あの野本の戦い後の惨劇が甦って来ているのだろう。将門に一矢(いっし)も報いることが出来ずに逃げる己の姿を、どれほど情け無く思っていることか。その気持ちは、貞盛にも痛いほど分かった。

 連合軍はひたすら逃げ、その間にも逃亡兵は続出し、国府を目の前にした時には既に千人足らずしか残っていなかった。良兼は、そのまま国衙(こくが)に駆け込んだ。
 門前に出て警備していた国衙の兵達は、最初止めようとしたが、その数と勢いに押されて、直ぐに両側に開き、道を空けた。九十メートル四方程しかない築地塀で囲まれた国庁域の中に千人余りの兵が雪崩れ込んで来たのだ。押し合い圧し合いし怒号が飛ぶ。
「ええい! 静まれ、静まれーっ! ここは下野の国衙だ。迷惑を掛けてはならん。静まれーっ!」
と良兼が怒鳴ったが、既にこれ以上の迷惑はあるまい。下野守・大中臣完行(おおなかとみのまたゆき)が飛び出して来た。
「これは何事か!」
 良兼が慌てて下馬し、走り寄る。
「これは、下野守殿。ご迷惑をお掛けして申し訳も御座いませぬ。使いの者を以てお願い申し上げた通り、やむを得ぬ仕儀により、お膝元をお騒がせ致す」
「待たれよ! 麿はまだ、何も了承してはおらぬ」
 見ると、使いに出した郎党が、完行の後ろで、良兼に向かって土下座している。交渉は不首尾に終わったらしい。
「恥かしながら、ここにおられる前常陸大掾・源護殿の子息らを殺し、焼き打ちを掛けた不肖の甥・将門を討とうとして不覚を取り申した。ひと時の休息を取らせては頂けまいか?」
「将門は暴虐の輩(やから)。麿からもお願い申す。何卒(なにとぞ)お匿い下され」
 護が、そう口添えをした。
「迷惑じゃ。早々にお引き取り願いたい。そもそも、身内の争い事をこの下野に持ち込むとは、いかなるお考えか? 野本のことも、護殿の方から仕掛けたものと聞いておる」 
 完行は退かない。
 困った良兼が門の外に目をやると、そこには既に将門軍の姿が有った。
「何卒! 何卒、門を閉めて下され」
 外を見た大中臣完行の目にも動揺が走った。
「門を! 門を閉じよ!」
 完行が怒鳴った。
 門が閉じられ、良兼軍も完行を始めとした国衙の役人達も、外の様子に聞き耳を立てた為、辺りはしんと静まった。
 やがて、将門の声が響く。完行は兵達を搔き分け、南門に近寄った。
「国庁にも下野国にも、害を及ぼすつもりは毛頭御座らん。良兼、良正、貞盛、護の四名をお引き渡し下されば、早々に引き揚げまする。不作法は幾重にもお詫び致すゆえ、曲げてご承諾願いたい」
 完行にすれば『はいそうですか』と引き渡す訳にも行かない。千人の兵が入っているのだ。将門に引き渡そうとすれば、逆に、良兼に殺されてしまうかも知れない。
「窮鳥懐に入らば…… の例えも有る。国衙を囲むなど、不埒千万。貴公こそ早々に引き揚げられよ」
 下野守・完行は突っ張った。少しの間、返事は無かった。 
 やがて、
「それならば、西の門を開いて良兼らの軍を外にお出し下され。手出しは致さん。その者達が去るのを見届けたら、我等も引き揚げ申す。元より、国守様始め、下野国に対して無法を働く存念は毛頭御座いません」
「下野国内で再び争わぬと誓えるか」
「お誓い申す」
 完行が良兼を見た。
「西の門を開けよ!」
と国衙の兵に命じる。
 兵達が慌てて門を開く。
「う……」 
と声を出した良兼だったが、最早どうしようも無い。瞬時、目を閉じ、覚悟を決めたのか、
「常陸に引き揚げる! 続けーっ!」 
と声を上げた。
 通り道は空けられているが、将門軍が作る人垣の間を、良兼を先頭に連合軍が進む。
 ともすれば早足になりそうになるが、良兼は、逸る気を抑えて、馬をゆっくりと進める。みじめな気持ちに変わりはないが、せめてもの威厳を保とうと、胸を張って真っ直ぐに前を見詰める。人垣の終わりに小次郎の姿が有った。良兼は目を合わせようともしないが、護は恨めしげに将門を見た。将門は無表情に軍列を見ている。貞盛と小次郎の視線が合った。小次郎が更に大きく見え、その姿は、京に居た時とは別人のように自信に満ちている。貞盛の方から視線を外した。悔しさの中に、ほんの少しだけ、
『やはり汝は坂東に生きる男なのだな』
と言う小次郎への想いが混じっていた。

 小次郎は約束通り追撃して来なかった。
 しかし、良兼らが去った後、小次郎は、下野守・大中臣完行に経緯(いきさつ)を詳しく語り、良兼に非が有る事を、記録として書き残すよう依頼し、完行もそれを了承した。
 良兼は、常陸に入った処で軍を解散し、上総には戻らず、常陸国・真壁郡・羽鳥(現・茨城県桜川市真壁町羽鳥)の舘に向かった。そして、貞盛は石田に、良正は水守にそれぞれ引き揚げた。

 物見の報告に寄ると、良兼、貞盛らが下野から出た暫く後、小次郎も下野から常陸に入り、真っ直ぐ本拠地の下総・豊田に引き揚げたという。数日、様子を見たが、将門に動きは無いとのことだった為、貞盛も軍を解いた。だが、今後、小次郎がどう出て来るかという不安は残った。 

 そんな不安な状態の中、九月になって、梨の礫(つぶて)だった朝廷から護に召喚状が届いた。当然、小次郎にも届いているから、弁明の為、都に上らなければならないはず。当面、攻撃される危険が遠退いたことになる。貞盛はほっとした。

 小次郎の上洛は素早かった。それに続いて平真樹も上洛したという。しかし、源護はぐずぐずとしていた。私君・源是茂からの報せで、不利な状況にあることが分かっていたからである。護は、今回、将門が下野の国府を囲んだことを持ち出し、有利な裁定を得る為、良兼らと口裏合わせを重ねていたのだ。


 22.貞盛の奇策

 承平六年(九百三十六年)九月七日。
 護、小次郎、真樹を都の検非違使庁に召還する太政官府が、近衛府番長(このえふのつがいのおさ)英保純行(あほのともゆき)・英保氏立(あほのうじたち)・宇自加友興(うじかのともおき)らによって齎された。

 小次郎は直ぐさま上洛し、十月十七日には検非違使庁で尋問を受け、朝廷はこれを微罪とした。
 敵愾心が無かったとは言え、下野国府に上総介を追い詰め国庁を囲んだのだ。謀叛の疑いを掛けられ兼ねない。 
 小次郎が迅速に上洛し、大した罪にならなかったのには、二つの理由があった。
 良兼軍が去った後、嫌疑を掛けられた場合の証(あかし)として、この戦いが良兼に寄り仕掛けられたものであることを、下野国守・大中臣完行に文書で証明して貰った上引き揚げていたこと。
 もうひとつは、小次郎の主筋に当たる藤原忠平の存在である。 

 忠平は、摂政、左大臣に加えて、承平六年(九百三十六年)より太政大臣をも兼ね、朱雀天皇の叔父として、権力の頂点を極めていた。
 承平七年正月二十二日に左大臣を兄・仲平に譲るまでの間、最高位の三職を独占していたのだ。
 左大臣は太政官の最高位であり、太政大臣は位人臣を極めた者の就く最高の名誉職。そして、摂政は元服前の幼い帝の代理として決済を行う役職だ。
 つまり、左大臣が太政官を指揮して作り上げた奏上文を、帝の実質的な代理として摂政が決済する。その両方の職に在るということは、朝廷の意向とは、即ち、忠平の意向そのものなのである。
 田舎から出て来て家人の端に連なっている無冠の若者などと直接言葉を交わすことは無い。
 新たに、勤めることとなった若者達五ー六人に目通りを許した時のこと。一番田舎臭い格好をして、緊張の余り口上も真面(まとも)に述べられなかった男、それが小次郎だった。
『これは、番犬くらいにしか使えぬ者だな』
 そう思って、むしろ、京の官人(つかさびと)としては使えぬ男という意味で、印象に残ったのだ。小次郎が、賊を斬って手柄を立て、目通りを許した時には、さすがに緊張こそしていなかったが、融通の効かなそうな印象は変わらなかった。しかし、源護からの訴状の真偽を密かに調べさせたところ、護に非が有ることが分かっただけでなく、将門の強さも印象に残った。
「己の仕出かしたことの始末を朝廷にさせようというのか。源護。虫の良いことを…… 暫く放って置け」
と護の訴状の審議を後回しにさせた。
 その後間も無くして、今度は、将門を討つべく軍を興した平良正をも打ち破ったという報せが忠平の許に齎された。
『将門。思いの外強いのう。都では到底使い物にならんと思うておったが、坂東でなら案外使い道が有るかもな……』
 坂東は、朝廷に取って支配し辛い地域である。将門を上手く使えば、坂東を安定して支配することに役立つかも知れないと思い付いた。
『隠れて色々やるような男ではない。少し目を掛けてやれば、喜んで働くだろう。これは、坂東を安定化する絶好の機会かも知れぬぞ』
 忠平はそう思った。
 将門は大結(おおゆい)馬牧(現・茨城県結城郡八千代町大間木)と長洲馬牧(現・坂東市長須)の管理をしていたが、改めて別当に任じ、移牒も遣わすよう手配させた。
 直ぐに、小次郎から礼状が届いた。礼の言葉を重ねた上、
『太政大臣様の為に力を尽くす所存』
と結んでいる。 
 下野との国境を越える際、躊躇した小次郎だったが、仕掛けて来たのは良兼の方であること、下野に入ったのも良兼軍が先であること。このことが、弁明すれば分かって貰えると思う根拠ともなっていた。
 一方、囲みを解いて良兼らを見逃したのも、大中臣完行に証拠となる記録を遺すよう頼んだのも、忠平を憚ってのことである。

 翌、承平七年(九百三十七年)正月七日に朱雀天皇が元服し、四月に恩赦が出された為、その適用を受けて罪を許され、半年ほど都に滞在した後、小次郎は東国へ帰った。小次郎としては、万善の手配りをして、思惑通り実質無罪を勝ち取り、憂い無く坂東に帰ることが出来た。
 しかし、良兼、護、良正の怨念は、小次郎の予測を超えていた。 
 良兼側は、小次郎が大中臣完行に、小次郎に有利な記録を遺させていたことも、太政大臣・忠平が小次郎に肩入れしていることも知らなかったのだが、裁定が不利になりそうなことだけは予測していた。しかし、それで意気消沈して諦めてしまうほど、坂東武者と言うものは体制に従順では無い。小次郎不在の間に、再び、戦の準備を始めていたのだ。
「今度こそ、小次郎を葬って見せる」
 上洛前の護とも打ち合わせを行っていた良兼が、良正と貞盛を羽鳥の舘に呼び着けて打ち明けた。
「ふん。朝廷のお沙汰など朝令暮改じゃ。こちらが決定的に有利となれば、いつでも変わる。小次郎が滅んでしまえば、我等全てを処分することなど出来ぬ。勝てば良いのじゃ」
 何と、この時点での構図を見る限り、小次郎が体制側であり、反対に、良兼は反体制的な動きを見せ始めており、秀郷も、相変わらず朝廷から危険視されている存在なのである。
 さすがに懲りたのか、良兼も、兵の数さえ揃えれば良いという考えからは脱し、訓練の重要性に目覚めたようである。貞盛は、朝廷の沙汰に逆らうような方針に不安を覚えたが、負け犬のまま京に戻っても、最早、出世の目は無くなるだろうと言うことも考えた。しかし、今度こそ絶対に勝たなければならない。負ければ全てが終わると覚悟した。  
「伯父上。麿に必勝の策が御座います。曲げてお聞き入れ願いたい」   
と強く良兼に迫った。 
「必勝の策? …… 何じゃ」 
 良兼は、貞盛がまた愚にも付かぬことを言い出すのではないかと思った。
「御爺様・高望王の木像を作り、軍の先頭に掲げて下さい。我等が坂東平氏の正統な後継であることを、敵味方にはっきりと示すのです。さすれば、小次郎もその郎党達も、木像に向かって弓引くことを躊躇することでしょう。敵の士気は下がり、味方の士気は上がります。木像だけでは心許無いので、『高望王御姿』と書いた大きな幟(のぼり)を作り、傍に掲げるのが良いかと思います」
「うん! それは良い。それは良い策じゃ。貞盛、何故もっと早く言わぬ」
『以前、提案しようとした際には全く耳を貸さず、無様に負けたのは、一体どなたでしたか?』
 そう言いたかったが、貞盛は堪えた。
「貞盛。そちの策、中々良い考えだが、更にその効果を上げる方策が有るぞ」
「と申されると、更なる工夫がお有りとのことでしょうか?」
「うん。良く聞け。良将の木像も作り、高望王の木像と並べて掲げるのじゃ。己の父、己の主(あるじ)には、尚更、弓を向けられまい。…… どうじゃ!」
 貞盛は呆れた。
『高望王の木像を掲げることには、"一族の正統な後継者である"と言うことを示す大義名分が有るが、我等が小次郎の父の木像を掲げるなど、何の大義も名分も無い。確かに効果は増すかも知れないが、それでは、只の嫌がらせに成ってしまうではないか』
 そう思った。


 23.将門復活

 五月十一日、ほぼ己の言い分が通ったことに満足し、小次郎は帰郷した。
 しかし、不都合なことがひとつ起こっていた。脚気を発症していたのである。後に天下の謀叛人として京人(みやこびと)に恐れられることになる小次郎だが、この時の上洛では、実質、罪を着ることが無かったばかりで無く、大歓迎を受けていた。向うところ敵無し、小次郎の不敗神話が形成されつつ有り、その噂は既に京の都にも届いていたのである。そして、あちこちの公家に呼ばれては馳走になり、『兵名を畿内に振い、面目京中に施し』意気揚揚と故郷に引き揚げて来たのである。
 全く受け入れられること無く、失意のうちに坂東に戻った頃のことを想うと雲泥の差が有った。小次郎は、心に突き刺さっていた刺が抜け落ち、傷が癒されるのを感じた。
 だが、京は、やはり小次郎に取っては鬼門だったのだ。坂東に居て、玄米や雑穀も食している限り罹ることの無い病に侵されてしまった。もちろん、当時その因果関係が解明されていた訳では無いので、なぜ罹ったのか、小次郎自身には分からない。只、ついていないと思うのみだ。そんな訳で、馬に乗ることもままならなくなってしまった小次郎は、早く治さなければと思うのみで、兵を訓練する余裕も無くなっていたし、良兼らの動きを監視することも怠っていた。

 そんな中、恨みを募らせ、着々と準備を進めていた良兼が、八月六日、再び戦いを仕掛けて来た。その少し前に、さすがに気付きはしたが、兵を集める暇も無くなっていた。
 前の戦いで懲りたのか、良兼軍は、衣川(きぬがわ)の上流を回るような面倒なことはせず、小貝川を子飼いの渡しで渡り低湿地を進んで、豊田郡の本拠に正面から攻め寄せて来た。策は図に当たった。
 高望王と良将の木像を先頭にして進んで来る連合軍に、小次郎の郎党達は明らかに動揺を示し、攻撃することが出来ない。その上、必ず陣頭指揮を取り、真っ先に突っ込んで来るはずの小次郎の姿がそこに無い。
『勝てる!』
 貞盛はそう確信した。時を掛けて訓練した成果も有るのか、相手の動揺を目にした兵達にも落ち着きが見て取れる。
「射よ!」
の号令と共に、良兼軍の矢が降り注ぐが、小次郎方は射返せない。
 小次郎が先頭に居て、『ええい、退くなーっ! たかが木像。不敬には当たらん。構わず射よ!』とでも、兵を励ましていたら、或いは流れは変わったかも知れない。小次郎のカリスマ性は、既にその域に達していた。しかし、軍の先頭に小次郎の姿は無い。
「掛かれーっ!」
 良兼の号令と共に、兵達は一斉に突撃を開始した。そして、あの将門軍が脆くも崩れ去ったのだ。

 良兼軍は、豊田郡の来栖院(くるすいん)・常羽(いくは)の御厩(みまや)(現・茨城県結城郡八千代町大間木ー尾崎)始め、百姓(ひゃくせい)伴類の家を焼いて廻った。
 この辺りには、下総国・大結牧(おおゆいまき)や製鉄施設が有り、これは、小次郎の戦力を壊滅させる為の徹底的な焦土作戦であった。小次郎の焼き打ちを受けた途端に凋落してしまった源護に付いては何度か触れている。しかし、小次郎は、この時に於いても非凡であった。

 八月十七日には、倍の兵力を集め、下大方郷・堀越渡(現・茨城県つくば市大方)で良兼を待ち伏せた。だが、脚気が治っていなかった小次郎は、カリスマ的に軍を統率することが出来ず、再び敗れ去り、伴類は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。勢い付く良兼は、小次郎の本拠地である豊田郡を焼いて廻った。取り入れ間近な農作物も焼き払った。豊田郡は壊滅的な打撃を受けた。

 小次郎は、妻子を幸島郡(さしまごおり)・葦津江の畔に舟に乗せて隠し、自らは山を背にした場所に潜んでいた。誰しもが、『これで将門も終わり』と思うような絶望的な状況である。
 良兼勢は、翌八月十八日、小次郎に見せ付けるかのように、幸島郡の道を上総に向けて凱旋して行った。
 小次郎に取っての悪夢は更に続く。良兼側に兼ねて内通していた者の手引きで、妻が生け捕りにされてしまい、二十日に上総へ護送されて行ったのだ。良兼の娘であるから殺される心配は無かったが、小次郎の怒りは頂点に達した。
 小次郎の妻(め)は、幸いにも、良兼の息子達。異母兄弟である公雅、公連の力を借りて脱出し、九月十日に豊田に送り届けられた。
 公雅、公連の兄弟は父を裏切った訳では無い。ただ、幼い頃から面倒を見て貰った腹違いの姉に同情しただけだ。さすがに自分達で姉を小次郎の許に送り届ける訳には行かず、たまたま、乱行に寄って、常陸介との折り合いが悪くなって上総に避難していた藤原玄明に頼んだ。
「分った。やりましょう。麿も、将門という男の(つら)、一度見てみたいと思うておったところだ」
 そう言って快く引き受けてくれた。
「済まぬ。この恩、生涯忘れぬぞ!」
 妻(め)を届けた時、小次郎は目に涙を滲ませて玄明の手をきつく握った。
 粗食を余儀無くされたことで、脚気の症状がだいぶ軽減した小次郎は力を取り戻し、散っていた兵達が小次郎の許に再び集まり始めた。これは、驚嘆すべきことである。つまり、将門軍の強さは、全て小次郎の個人的資質に由来しているということなのだ。例え全てを失ったとしても、小次郎が健在である限り、奇跡は再び起こると皆が信じていればこそ、集まって来た。そこが源護との違いである。

 千八百の兵を集めた小次郎が、良兼が常陸国・真壁郡・羽鳥の舘に出向いたという情報を得て、再起の軍を興したのは、妻(め)を取り戻してから十日も経たない九月十九日のことである。
 小次郎が再起したという情報を得て、良兼は筑波山の東に有る弓袋山(ゆぶくろやま)の南に陣を敷いて待ち構えた。季節は収穫期、稲を泥に踏み込みながらの戦いとなった。小次郎有利な展開となったが、良兼を追い詰めることは出来なかった。

 再び小次郎に風が吹き始めた。承平七年(九百三十七年)十一月五日。良兼らに追捕官符が下ったのだ。先程も述べた通り、是即ち忠平の意向である。様子を見ていた忠平が、小次郎が再起したのを知って、後押しの手を打ったものだ。上総介の任に在りながら、私的遺恨を晴らそうと兵を集め、他国の国府に侵入したばかりで無く、官牧である常羽御厨を焼き払ったことの罪を上げていた。追捕の対象は、良兼、その子・公雅、公連、源護並びに貞盛、秦清文となっており、近隣諸国の国司に対して、小次郎をして良兼らを追捕させるので協力せよ、との官符である。
 ところが、そんな追捕官符一枚で慌てふためいて協力する程、坂東の在庁国司達は素直では無い。じっと様子を見ているだけで、一向に動こうとしないのだ。忠平をしても、坂東の経営は難しい。だからこそ、忠平は一本気な小次郎に目を着けたのだ。

 十二月になって、危機感を募らせた良兼が動いた。
 小次郎に仕え、農事の傍ら、農夫を使って小次郎の石井(いわいの)営所(現・茨城県坂東市岩井千六百三の一)で荷運びの仕事をしていた駆使の丈部(はせつかべの)子春丸という男が居た。下総国・豊田郡岡崎村(現・茨城県結城郡八千代町尾崎)に私宅を持ちながら、石田荘の田屋に通っていたと言うから、駆使とは言っても底辺に生きる者では無い。女が居たのだろう。良兼は、この子春丸に罠を仕掛け、脅した。そうして置いて、相手が十分に恐怖心に駆られているのを確認した上で、
「言うことを聞けば、許すばかりでなく褒美も与えよう」 
と誘った。
 練絹(ねりぎぬ)一疋を与え、『内応すれば、乗馬の郎党に取り立ててやる』と約束した。子春丸は落ちた。
 この頃、小次郎の本拠は豊田(現・茨城県常総市豊田(向石下))であるが、鎌輪(現・茨城県下妻市鬼怒)、石井(いわい)にも営所を持っていた。そして、この頃小次郎は、石井営所に移っていた。

 良兼は、農夫ひとりを子春丸に与えた。実は、良兼の密偵である。
 翌朝、子春丸は農夫を連れ、炭を担って石井営所に行った。作業は泊まり込みになる場合が多い。一日二日宿泊しているうちに、農夫に化けた密偵に、武器の置場、小次郎の寝所、東西の馬場、南北の出入口を悉く見せた。この上無い情報を得た良兼は、十二月十四日の夕方、石井営所に向けて、一騎当千の兵八十騎ばかりを率いて侵攻した。
 亥刻(午後十時)頃、結城郡の方城寺の辺りに至る。良兼は、最後の段取りの確認を兼ねて、ここで休憩を取ることにした。
 藤五と呼ばれる小次郎の郎等が居る。藤原五郎某と言うのが本名なのだろうが、縮めて『藤五』と呼ばれているのだ。藤五は良将時代からの郎等で、陸奥にも行っていた猛者である。兼ねてから患っていた伯父が危篤に陥ったと言う知らせを受けて駆け付けたが、その伯父が息を引き取った為、葬儀の相談などをしていて夜になってしまった。方城寺の辺りに差し掛かった時、チラチラと灯りが見える。用心しながら少し近付いて見ると、大勢の武者が屯っている。馬が小さく嘶(いなな)く声、鎧(よろい)の擦れる音。人の話し声も耳に入って来た。
『これは、只事では無い』
 藤五は下馬し、松明の火を消し、馬を引いて一団に近付いて行く。薄雲が掛かってはいるが、満月に近い月が出ているし、勝手知った道。松明を消しても障りは無かった。
 間も無く、一団が動き出した。三つほど点っていた松明の火が次々と移され、火を持った武者逹が乗馬して行く。
「良いか。此度こそは、必ず小次郎を討ち取る。良いな、続け」
 圧し殺した声ではあるが、静寂の中で響いた。じっと潜んでいた藤五も乗馬し、列に近付いて最後尾に着く。甲冑姿の武者逹の中に、直垂(ひたたれ)姿の男が一人。誰かが振り向けば直ぐに気付かれる。だが、誰もが間も無く始まる命を懸けての戦いに意識を集中させており、藤五に気付く者は元より、振り向く者さえ居ない。無言の一団は粛々と進んで行く。鵝鴨の橋を渡ったところで藤五は列を離れ、林を抜ける近道に入つて、駆け出した。
「注進! 夜襲、夜襲だ!」
 藤五は、そう叫びながら石井(いわい)の営所に飛び込んで行く。とっくに就寝していた小次郎と郎等逹が、間も無く飛び出して来る。その数、僅か九人。藤五を入れても十人である。
「敵は騎馬武者多数。お逃げ下さい。一刻も早く」
 藤五がそう訴える。
「待て! 馬に鞍を置くなど手間取っておれば、逃げ切れぬ。皆、有るだけの矢を持って屋根に登れ。引き付けて、松明の火を狙って射まくるのだ。良いな!」
「おう」
と返事をすると、皆一旦中に戻り、箙(えびら)に入った矢束を積み上げ、先に屋根に登った者が下ろす縄に結びつける。そうやって引き上げた矢束を脇に置き、皆が弓を持って待ち構える。
 間も無くチラチラと松明の火が見え始め、蹄の音が徐々に近付いて来た。
 一隊を敷地内に呼び込んでから射始めた方が効率は良くなるが、松明を投げ込んで、焼き討ちを掛けて来るかも知れない。
『門前で一度隊を止めて、号令を掛けるはず。その時を置いて外に無い』
 小次郎は、そう考えた。門前に至り、右手を挙げて、良兼が隊列を止めた。
 その時、小次郎の声が響いた。
「今だ! 射よ!」
 松明を持った者を含めて、七、八人が射落とされる。
 驚いた良兼が振り向く。
 だが、それだけでは終わらない。屋根の上の小次郎逹は、次から次に矢を放って行く。
『太刀打ちに移った時、これだけの人数を相当数減らして置かなければ、とても勝てない』
 そう思っているから、兎に角必死になって、次から次へと射続ける。射落とされる者が、十人、二十人と増えて行く。野本の戦いの時もそうであったが、奇襲を掛けようとした者が逆に奇襲を受けたのだ。混乱はより激しくなる。
「ええぃ。一旦退け」
 良兼が、この命を口にするのは何度目だろうか。馬首を返して撤退に掛かる。屋根から下りた小次郎逹は、乗り手を失った馬を捕まえて、追撃に掛かる。
 やはり、小次郎は強かった。逃げ出した良兼軍を追撃し、良兼の上兵・多治良利を射殺した。良兼軍は、結局八十人中三十余人を殺され、他は逃げ散った。襲う場所の詳細な情報を、事前に手に入れた上で急襲したににも関わらず、小次郎逹は、八十名ほどの乗馬の精兵を、僅か十名で撃退してしまったのだ。またひとつ、小次郎の不敗神話が増えた。病を患っていた小次郎が負けたことは、仕方無いことと思われるようになった。
 いずれの戦いにも、貞盛は良正と共に参戦していた。今回の戦いは、今迄の戦いとは違い、雑兵を指揮しての戦いでは無く、それぞれの郎党と与力の土豪らの騎馬武者のみで襲撃を掛けたのである。さすがに護には外れて貰った。結果は、急報を受けて待ち構えていた、小次郎を含むたった十人の武者に打ち負かされてしまったのだ。高望王の木像を掲げる策が当たって勝ったのも束の間、小次郎を討ち漏らしたが為に弓袋山で反撃され、また今回は、下調べをし、策を使って小次郎を急襲したにも関わらず惨敗した。貞盛は希望を失った。

 そして承平八年(九百三十八年)、『やはり、京に戻ろう』と心に決めたのである。
 その頃小次郎は、高望王と父・良将の木像を掲げたのは、貞盛の進言によるものだったと言う噂を耳にした。敵軍に加わってはいたが、小次郎は貞盛に対する信頼を完全に捨てていた訳では無かった。敵が和睦を求めて来た場合には、交渉相手として貞盛を指名しようとさえ思っていたのだ。しかし、父の木像が貞盛の進言によって掲げられたとの噂を聞いた途端、信頼感は消滅し、激しい怒りへと変わったのである。貞盛が都へ向かったことを知った小次郎は、すぐさま追撃を開始した。


 24.滋野三家

「兄者。我等を見捨てて、ひとり都へ逃げるつもりか?」
 京へ上ると伝えると、弟の繁盛は、そう言って貞盛に詰め寄った。
「違う。小次郎を訴える為だ」
「訴状で済むではないか。それに、朝廷は小次郎に肩入れし、我らを追討しようとしているのだぞ」
「小次郎は太政大臣様の従者だったからな。その筋からの圧力であろう。普通に訴状を出しても、護殿の時のように暫く放って置かれるのが関の山。だから、上洛して直接訴える」
「そんな事してみても決定は変わるまい。太政大臣の意向ではな」
「我が主(あるじ)・師輔(もろすけ)様は学問に優れ荒事を嫌うお方だ。父上である太政大臣様でさえ、その見識には一目置かれていると言う。主に訴え、召喚状を出して頂けるよう取り計らって頂く積もりだ。武力を用いての争いが有れば、双方召喚して事情を聞くのは常道。我等に対する追討も取り消して頂けないか探ってみる積もりだ」
「そんな事、出来るのか?」
「結果的に罰せられてはいないが、武を用いて勢力を拡大し続けている小次郎をこのまま放置すれば、やがて、朝廷に取っての脅威になり兼ねないと訴えれば、あのお方なら、理解して下さると思っておる」
「兄者は目を掛けられているようだからな。だが、聞いてくれたとしても、太政大臣を説得出来るものかな」
「出来る出来ないを案じるのは意味の無いことだ。やるだけのことをやってみるしか無い」
「分かった。確かに、このままでは、小次郎を葬るどころか、こっちが葬られかねん。今は、兄者のその言葉を信じ、頼るしか無いな」
 繁盛らを説得し、承平八年(九百三十八年)二月半ば、貞盛は都に向けて出発した。従う郎等は十五人。
 一行は、下野から東山道に入り、都に向かう。下野を過ぎ、上野から信濃に入り、峠に差し掛かった時、貞盛が何気無く下を見ると、綴れ折りの遥か下の方に連なって早足で登って来る騎馬の一団がある。視界に入る限り騎馬の一団は途切れない。
 何とも言えない戦慄が走る。
『小次郎だ。小次郎に気付かれた! しかも、あの人数は何だ! 何としても麿を討つつもりか?
 いや、殺さず生け捕りにしようとしているのだ。あ奴の父の、木像を掲げたことへの怒りか? それとも、提訴を恐れてのことか?』
 そう推察した。
「者共急げ! 小次郎に気付かれた」
 郎等逹も一瞬下を見てそれを確認し、馬の腹を蹴って一斉に駆け出す。急ぎ足となり駆け、駆けながら考えた。
 急ぎ足とは言っても全力疾走と言う訳には行かない。登り坂で全力疾走したりしたら、直ぐに馬を潰してしまう。
『下り坂になるまでは抑えなければならない。だが、間も無く峠を越える。峠を越えれば小次郎を引き離すことが出来る』
 そう考えた。
 だが、小次郎が下りに掛かれば、逆に、差は縮まって来ることになる。
『都までこのまま逃げ切るのは無理だろう』
とすれば、差が開いた時を利用して策を講じなければならない。滋野を頼るしか無いか』
 そう思い付いた。
「他田(おさだ)、他田三郎。近う!」
 貞盛は駆けながら叫んだ。
 間も無く、
「他田三郎・真樹(まき)、此れに居ります」
と近付いて来た郎等が応じる。
 信濃国・小県郡の郡司の家系の生まれだが、若い頃、常陸に移り、貞盛の父・国香の郎等となっていた。平高望が、勅命を受け坂東に下る際、滋野一族が持て成し、良馬を献上したのが縁の始まりである。他田は、同じく小県郡を拠点とする滋野三家筆頭の海野と深い縁を持っている。
 その後、高望も国香も、滋野一族を通じて良馬を求めるなど縁は続いていた。海野古城を拠点とする滋野氏は、信濃国内の御牧全体を統括する牧監でもあった。
「先に行き、海野殿に会って、滋野一族の助力を頼んでくれ。この人数では、追い付かれればひと溜まりも無い。辿り着くまで持てば良いのだ。馬を潰すぎりぎりまで駆けさせろ。我等も直ぐに行く」
「畏まって候。『はいっ!』」
と鞭を当て、真樹は先を急いだ。

「他田三郎、火急のお願いあって罷り越しました。お舘様にお取り次ぎを!」
 下馬すると、真樹はよろめきながら走り込んだ。
 郎等が奥に走って行き、間も無く、当主・海野義治が現れる。
「如何した、三郎」
「火急のことゆえ、挨拶抜きで率直に申し上げます。我が主が、百を越える将門の軍に追われております。我等・手勢、僅かにて、とても太刀打ち出来ません。どうかご助力を。
 主も間も無く此方へ参りますので、子細は後程。時が有りません」
「分かった。誰ぞ、望月と根津に走れ。今居る人数だけで良いから、郎等を引き連れて直ぐにも駆け付けて欲しいと伝えよ。三郎の兄・郡司殿にも使いを出せ。後の者は急いで戦支度致せ!」
 普通、こんな風には行かない。まずは説明を求められるだろうし、一族の他家へ使いを出すにしても、又、行き先でも、それなりに事情を説明する必要が有るだろう。そこには、滋野一族の特殊性がある。

 滋野三家は非常に緊密な一体感を持っており、様々な時代の流れの中でも一族が分かれ戦うことが非常に少なかったことでも知られる一族なのである。三家の何れかが戦う時は、他の二家は、事の是非を問う迄も無く参戦するのが前提となっているからこそ、出来ることなのだ。
 それに、義治は、噂の範囲では無く、正確に坂東の状況を把握してもいた。
 海野氏は、信濃国・小県郡・海野荘(現・長野県東御市本海野)が発祥の地とされ、滋野則重の嫡子・重道から始まる。三家の中でも滋野氏嫡流を名乗る東信濃の有力豪族である。
 真樹は、海野義治が二つ返事で引き受けてくれたことで、ひとまずほっとした。後は、将門が現れる前に、どれだけの応戦体制が取れるかということである。
 間も無く、貞盛と他の郎等逹が辿り着いた。


 25.千曲川残照

 貞盛に取って幸運なことが起こっていた。
 小次郎は、物見を放って、一度は貞盛逹を確認していたが、日理(わたり)駅(現・上田市諏訪部)を過ぎて暫く行っても追い付かない。おかしいと思い、再度物見を放つが、錦織(にしごり)駅(現・四賀村刈谷原町)を過ぎても尚見当たらず、見失ったようだとの報告が入った。
『そんな馬鹿な。何故だ』
 少し考えて思い当たった。
『都へ向かうと言う前提で、そのまま東山道を進んだが、貞盛に気付かれたのだ。とすれば、街道を反れ、海野を頼ったに違いない』
 そう気付いた。滋野と石田の関係は小次郎も知っていた。
「止まれ! 引き返す。敵は海野に向かった」
 小次郎率いる一隊は、小諸の西、滋野の総本家・海野城(現・東御市本海野三分)に向う。
 小次郎が一時貞盛を見失ったことが幸いし、貞盛方は、滋野一族が集まる時を稼ぐことが出来た。
 貞盛と滋野一族は、北上し、信濃国分寺付近、千曲川沿いに陣を敷き、小次郎を待ち構えていた。
 滋野一族の戦いは、誰が主体となるかで陣形が決まっており、海野が主体となる戦いに於いては、中央;海野、右翼;根津、左翼;望月となる。貞盛は海野隊に加わっている。

 矢頃手前で右手を挙げ、小次郎が軍を止める。
 敵の数は凡そ百二十。前面に盾を並べ、旗を靡かせ、弓を構えている。
「流石滋野一族。結束が強いとは聞いていたが、僅かの間に、良くもこれだけの人数を集めたものだな。見るところ陣形もしっかりとしておる」 
 一渡り見回して小次郎が呟く。
「しかし、判断を誤ったと言うことですな。貞盛に助力して我等に立ち向かうとは」
 多治経明が言った。
「経明。増長はいかん。苦い敗戦を忘れたか。我らは滅びの淵に立たされたことが有るのだぞ」 
「あれは、我等が至らなかったゆえの負け。申し訳有りません。しかし、お舘が陣頭に立っての戦いで負けたことは御座いません」
「その意気は買う。だが、我も人。化け物ではないぞ。油断するな」
「はっ」
 弓を構え、ゆっくりと矢頃に入って行く。
 鏑矢が唸り、矢合戦が始まるが、小次郎が予期せぬ展開となった。
 最初の矢を射たのは、海野隊のみだったのだ。海野隊は、射終わるや否や盾の陰に身を伏せ、その瞬間に右翼の根津隊が射る。そして、根津隊が伏せた瞬間に望月隊が射て来る。そして又海野隊が…… 
 小次郎方は矢を番(つが)える暇も無く、何人もが餌食になって行く。
「退け! 一旦|退いて矢頃を離れる」
 将門軍が退くと、その分、滋野は押し出して来る。小次郎は、少し後方に居る貞盛を狙って矢を射た。普通なら、とても届く距離では無い。小次郎の強弓(こわゆみ)を以てして始めて届く距離である。
 小次郎の放った矢が、放物線を描いて貞盛の胸に迫った時、その軌道を遮って飛び出した男が居る。
 他田真樹は、背中に矢を受け崩れ落ちた。
「三郎! 三郎! しっかり致せ」
 しゃがみ込み、倒れた真樹を貞盛が抱き起こす。
 矢は、背後から真樹の心の臓を貫いていた。真樹が飛び出さなければ、矢を受けたのは貞盛だったはずである。恐怖と悔悟の念がいちどきに貞盛を襲った。
 動揺したのは貞盛だけでは無かった。他の将逹も、己が将門の射程距離内に居ることを思い知らされた。
 一瞬の隙を突いて、射ながらの将門軍の突撃が始まった。滋野軍も怯まず応戦する。
 一気に突破と言う訳には行かなかった。少し退いて、又、将門軍が攻撃する。
 そうしている中で、将門方の上兵・文室良立(ふんやのよしたつ)も矢を受けた。
 だが、幸いなことに矢は急所を外れていた。
「好立、後ろへ下がれ。誰ぞ好立の手当てを致せ」
 一人が手綱を取り、もう一人が落馬しないよう好立を支えながら後方に下がって行く。
 押しつ押されつしているうちに、滋野方の被害が徐々に大きくなって行き、貞盛の郎等逹も次々に討たれて行く。流石の滋野一族の陣も遂に崩壊した。
 残った郎等を集める暇も無く、貞盛は命からがら山中に逃げ込み、辛うじて難を逃れた。
 春まだ遠い二月末のこと。食料も無く、泥にまみれ、寒さに震える貞盛の苦難の逃避行が始まった。

 一方の小次郎。幾つもの首を上げた。
 信濃くんだりまで追って、追い着いたものの、貞盛を討ち漏らしてしまったことが何としても思い切れず、悔いとして残った。

 山に残照が映えている。
 時を同じくしてはいるが、別々の場所で、小次郎、貞盛の二人はそれぞれの想いを抱いて、同じ光景を見ていた。


 26.動き出す運命(さだめ)

 将門が引き揚げた後、貞盛は千曲川を泳いで渡り、凍える身に鞭打ちながら歩いた。
 信濃の国府に辿り着いたところで、一度迷い、考えた。追討の官符が出されている身だ。国府を訪れたら、そのまま拘束されてしまうのではないかと恐れた。しかし、身体はぼろぼろであり、食料も無く、このまま歩き続ければ、命をも失ない兼ねない。
『ええいっ! 儘よ』
と不安を振り切った。

 門衛は、最初胡散臭げに貞盛を見たが、亡き常陸大掾の嫡子と名乗ると取り次いでくれ、待たされたが、信濃守と面談することが出来た。追討官符は信濃には届いていないようだ。それどころか、小次郎との戦いを承知していて、労いの言葉を掛けてくれ、将門の暴挙と断じた。
 恐らく滋野一族や郡司からの報告を、既に受けていたのであろう。当然、反将門の立場からの訴えである。事情聴取は受けたが、信濃守・藤原良載は好意的で、貞盛に休息と食料と衣服を与えてくれた。
 
 上洛すると、一応笠で顔を隠し、貞盛は単身、主・藤原師輔を密かに訪ねた。
 四つ有る母屋のひとつに通され、庇に控える。
 御簾(みす)は巻き上げられており、一畳だけの畳が敷かれた御座の横には、三尺几帳が置かれている。
 やがて、師輔が表れ、貞盛が低頭する。
「面(おもて)を上げよ」
「麗しきご尊顔拝しまして、臣・貞盛、無上の喜びに御座います。
 御前様には、上洛以来変わらぬご恩顧を賜りながら、久しくご無沙汰のこと、お詫び申し上げます。また、此度は、追討の官符を受けし身を省みず、御前(おんまえ)に罷り越しましたること、万死にも当たる所業と心得ますが、お許しのほど、伏してお願い申し上げます」
「うん、その事な。此度の父上のお考え、お止めすべきと思うたが、お止め出来なかった。許せ。
 だが、暫し待て。将門と申すか。武力のみを頼る、あの様な野良犬を利用しようとすることが、如何に危ういことであるかを、繰り返し父上に申し上げ、そち逹への追討官符も取り消して頂こうと思うておるところじゃ」
「臣がお願い申し上げたきこと、既に全てお察し頂き、貞盛、ご聡明さに感服するのみに御座います」
「何もそちの為だけにしていることでは無い。野良犬を手懐けようとして、手を噛まれることになりかねん。そう案じておるのじゃ」
「御心(みこころ)に甘え、今一つだけ、お願い申し上げて宜しいでしょうか」
「何か?」
「将門に召還状を出して頂けませんでしょうか? 前(さき)の件では許されましたが、将門は、その後も、武に訴える所業を繰り返しております。武力による争いが有れば、双方を呼んで審問するのはご常法。それに付いては、太政大臣様のご承認を得られるのでは御座いませんでしょうか」
「申すこと道理じゃ。だか、今日、明日と言う訳には行かぬ。暫く舘におれ。折を見て、父上に申し上げてみる」
 貞盛は師輔の舘内に寄宿し、結果を待つことになった。

 話は少し戻る。
 丁度、貞盛が都に向けて旅立った頃、常陸の西隣の武蔵で、一つの事件が起こりつつあった。
 この事件は、後に小次郎の運命に大きく関わって来る権守・興世王と介の源経基と言う二人の男が、武蔵の国司として赴任して来たことにより始まる。
 この二人。着任早々に検注を行おうとした。 
 検注とは、年貢などの租税を収取する為に土地の面積などを計測するものだが、住民側は、活動費や飲食・宿泊の面倒を見る他、検注に掛かる諸費用一切を負担する必要があった。
 その上、検注の結果確定された年貢などの租税額は、豊作・凶作を問わず原則的には毎年定額を徴収されることになる。結局増税となるので、在地の者逹に取っては阻止したいことなのだ。 
 興世王は権守(ごんのかみ)、即ち権官(ごんかん)である。
 権官とは、正規の員数を越えて任命される官職であり、平安時代に入って急増し、代理、補佐その他色々な立場で常態的に任じられるようになっていた。
 興世王の場合、正任国司の任命又は赴任が何らかの理由で遅れていた為、先に赴任したものだ。
 武蔵では、慣例として、正官の国司赴任以前には検注は行われないことになっていた。その慣例に反して、興世王は検注を強行しようとしたのだ。
 隠田(おんでん)の発覚や租税の増徴の切掛けになることへの危機感が有ったことから、この時代各地で、様々な駆け引きが展開された。 
 勘料・伏料(ふくりょう)といった形で米や銭を渡し、手加減をして貰ったり検注そのものを中止して貰ったりすると言うことが常態化していた。要は賄賂である。興世王らが狙ったのはこれである。検注など面倒なことをやるよりも、やるぞと脅して勘料・伏料を出させて儲けるのが目的だった。しかし、正任国司が着任した時、
『そんなことは知らん』
と言って、もう一度同じことをやられたのでは、たまったものでは無い。そう思って足立郡司・武蔵武芝は、検注も、勘料・伏料を出すことも拒否した。
 これに対し、興世王と経基は兵を繰り出して武芝の郡家(ぐうけ)(=郡役所)を襲い、略奪を行った。
 武芝は山野に逃走、幾度と無く文書で私財の返還を求めたが、興世王らは応じないどころか合戦の準備をして威嚇した。そして、二人の国司(興世王、経基)は、武芝を無礼であるとして、その全財産を没収する。
 武芝は、自力で解決することの困難さを悟り、当時、武名を欲しい儘にし、下総、常陸、上総にまで勢力を広げつつあった将門に調停を依頼することを決心した。

竜の軌跡 第二章(歴史小説)

執筆の狙い

作者 青木 航
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 9/28掲載分の続きです。
 タイトルについて不適切とのご指摘を頂き、「そうか』とは思うのですが、途中で変わってしまうのもまずいと思ったので、不細工ですが、後ろにカッコ書きを付けました。 

 第一章冒頭の『琵琶湖』の名称が当時使われていなかったことを『貔貅がくる』様のご指摘により気付きました。痛恨の極みです。
『淡海』若しくは『近淡海』と呼ばれていたようです。お詫び申し上げます。

 下記のような事に関心をお持ちの方には、或いは興味深く読んで頂けるのではないかと思っています。

 将門に朝廷を倒す意図はあったのか? 
 除目に於いて、何故、武蔵守を空席としたのか?
 親王任国三か国のうち、何故、上野のみを『守』としたのか?
 興世王は、正任国司である百済王貞連と対立したとは言え、何故、仮にも国司たる者が、出奔し将門を頼るまでに至ったのか?

 そんな『将門記』の数々の疑問に対する、私なりの答を模索して書いてみました。

コメント

茅場義彦
M106072175192.v4.enabler.ne.jp

1より読みやすいっすな よく書かれてるわ

青木 航
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茅場嘉彦様、有り難う御座います。
 今回は、二週間の間恐らくコメントゼロではないかという気がしておりました。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

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