作家でごはん!鍛練場
三枝松平

余韻

「あのう、こんなことお尋ねして失礼かもしれません、加納誠一様ではございませんか?」

 主人と有楽町の駅で別れ、買い物のついでにふらりと寄った銀座のギャラリーでは写真展が行われていました。
 見るとはなしに、人々の流れに乗り会場に入ってみると、
「百人展」と銘打った百枚の写真展でしたが、全国から集まったアマ、プロの作品群だけあって、それぞれが目を見張る素晴らしさでした。
 さらに、今日が開催初日なのでありましょう、作者と思われる人々やその関係の人で会場はとても賑やかで、そして華やかでした。
 作品群に心を奪われながら中ほどをわずか過ぎたところで、私はある作品に釘付けになりました。
 山岳の一部を切り取った写真なのですが、目を見張る鮮やかさという景色ではありません。
 流れゆく霧の中、見え隠れする雪の山肌が何とも言えなく爽やかで、そして目が釘付けになった理由は、タイトルの下に書かれた作者名でもあったのです。

 もう四十年にもなろうかという昔のことです。
 栃木県の女子高校を卒業した私は、東京に本社がある菓子メーカーに就職しました。
 自身の就職の条件は、まず寮があること。そして接客が無いことでした。
 特に栃木弁がひどかった私は、地元の人以外との会話が怖かったのです。
 最初は地下鉄茗荷谷駅近くの寮から工場に通い、菓子製造の見習いのような仕事に就きました。
 特別不満も、明るい未来も感じないまま一生懸命寮と工場を往復していましたが、自分の言葉に対する不安は残ったままでした。
 それでも一年くらいがあっという間に過ぎ去り、工場の同僚や寮の仲間にからかわれながらも、わずかながら栃木弁は解消されたように思われました。
 東京での生活にも多少自信がつき、通勤以外の外出も少しずつ多くなってきた十一月のある日、寮の友人に誘われて池袋のマンモスセンターへスケートに行くことになりました。
「大丈夫かなあ、私スケートしたことないもん」
「大丈夫よ、怖かったら手すりにつかまりながら歩いていれば、すぐに滑れるようになるわよ」
 スケート靴を借り、リンクの入り口まで来ると日曜日のせいか場内は人々でごったがえしています。
「ほら、私の手につかまって、そうそう体を固くしないでもっとリラックスして」
 と友人は言うのですが、言葉通り簡単にいくわけでもなく、二~三歩足を出しては尻餅をつく、そして起き上がってはまた尻餅。
 比較的混みあっていない手すりの付近が私の居場所になってしまい、私の相手に退屈した友人は一人リンクの流れに入ってしまいました。
 友人から解放された私は逆にほっとし、そろそろとよたよたですが独り歩きができるようになってきました。
 ごうごうとリンクを回る音がする中、何分費やしたのか相変わらず手すりの付近をのろのろと、やっと一周したのです。
 その間、友人は何回も私のところに立ち寄り
「すごいわ、上達早いわね」と言いながら私のお尻をポンと叩き、また流れに乗って行ってしまいました。
「少し休もうか」
 約二周していた私のところに汗をかいた友人が戻ってきました。
「康子さんすごいわね、私初めてで、疲れたけど面白いわ」
「ふふ、悦ちゃん運動神経良いもの持っているわよ」
 と言いながら私のお尻を見て
「痛くない?明日色が変わっているかもね」
 と笑いました。

 一休みの後は康子さんの言う通り、手すりに摑まる回数は激減しました。
 少し滑れるようになってくるとますます上手にできるような気がして、だんだんと手すりを離れリンクの流れに近い方へ入って行ってしまったのです。
 調子に乗って、しかしへっぴり腰で滑っている時、突然隣を滑っていた人がよろめいて私の肩を掴みました。
 私自身やっとのおもいでバランスをとっているところでしたからたまりません。
 片足が宙を舞い、両手は抵抗の無い空気を掴もうとぐるぐる回したその時、私の体がふわーっと空中に浮かびました。
 そして空中に浮かんだまま人々の間を縫うように進み、手すりの近い空間にそっと軟着陸したのです。
 両脇にがっしりとした大きな手が添えられているのが分かった時、何事が起ったのかすべてが理解できました。
 振り返り、何か言おうとしたのですが、大きながっしりとした手の人は私のお尻をポンと叩き、また流れの中に入って行ってしまいました。

 手すりに摑まり、予期せぬ出来事に呆然としているところに康子さんが戻ってきました。
「どうしたの?大丈夫?でも良い男だわね」
 康子さんは私の方ではなく、助けてくれた人を目で追いながら言いました。
「うん、転んじゃうかと思ったら空飛んじゃった。びっくりしたー」
 私はそれどころではなく、転ばなくて済んだのと、初めて経験した空中遊泳にただただびっくりしていたのです。
「悦ちゃん可愛いから」
 ぽつりと康子さんが言いました。
 確かに、可愛がってくれた祖父母からも「色白七難隠す」と言われ、小さいころから肌の色の白さは自覚していました。
 しかしそのことと、転びそうになったのを彼が助けてくれたこととは別なことだと思いたかったのは事実です。
 二人は並んで手すりに摑まり、リンクを自由自在に滑りまわる男の傍観者になりました。
「悦ちゃんお礼は良いの!」
 けしかける康子さんでしたが、素直になれない心の底はやはり栃木なまりでした。

 池袋で別の予定のある康子さんと分かれ、地下鉄に乗ると疲れがどっと出てきましたが、心は助けてくれた彼の手の感触でわくわくしていました。
 もう二度と来ることが無いような瞬間の出会いだったのだけれど、何か小さい希望のようなものが心の中に湧いてくるような、そんな気持ちでした。
「まもなく茗荷谷、茗荷谷」
 アナウンスで我に返り、いつもの人々の流れにのる現実はお尻の痛さで倍加してしまいました。
 駅の長い階段をやっとの思いで上がっている時、不意にお尻をポンと叩かれました。
「お尻痛いの?」
 えっと思い振り返ると、なんとあの助けてくれた彼の顔が目の前にありました。
 スケート場ではもう少し大きな人だと思っていたのですが、会談で一段下にいる彼は丁度私と同じ目線にあったのです。
 雑踏の中、ぽっかりと小さな空間ができました。
 あわててぴょこんとお辞儀をしてお礼を言おうとしましたが何も言えず、またぴょこんとお辞儀をしてしまいました。
「茗荷谷なんだ」
「え、ええ」
「俺もそう、すぐそこの会社の寮」
「……」
「ほっぺ赤いよ」
 思わず両手でほほを覆いましたが彼はただ笑って、私の顔を見つめていました。
 いつまでも階段の途中に留まっているわけにもいかず、少しずつあとずさりすると彼が横に並びました。
 スケート靴を脱いで若干背が低くなったように感じられたのですがそれは私も同じで、頭一つ大きな彼と残りの階段を、今度はうきうきと、それこそ足に羽が生えたように上がり切りました。
「俺こっち」
 と指さす方へ彼が歩き出そうとしたとき、私は何か言わなくてはと思いながらもじっと彼の顔を見つめ、たたずんでしまいました。
 すると彼は私の心の中を見透かしたように
「スケートまた行くの?」
 といたずらっぽく私の顔を覗き込みました。
「いいえ、行きません」
 思いもよらぬ心とは反対の言葉に、言った私自身もびっくりしたのですが、彼は何事もなかったように
「そう、じゃあ」
 と踵を返し、小さく手を上げて行ってしまいました。
 青い鳥はあっという間もなく飛び立ってしまったのです。

 年が明け、人事異動がありました。
 住んでいる寮は俗にいう「下駄ばきビル」なのですが、二階と三階が会社の女子寮、四階五階は賃貸アパート、一階が貸店舗になっていました。
 工場勤務だった私は、一階の販売部兼販売店舗に移動になりました。
 通勤の煩わしさは無くなったものの、工場とは違った仕事や雰囲気にしばらくはなじめず、無我夢中の日々が続きました。
 一~二か月があっという間に過ぎ去り、ようやく環境に慣れてきたころ
「小杉君、来月から休日の変更があります。毎月一回だけ日曜日の店舗に出ていただきます。その代わり通常の日に休日を取ってください」
 辞令はいやも応も無いものでした。
 自分ではだいぶ少なくなったと思っているなまりなのですが、まだまだ同僚にからかわれているのが実情なのです。

 五月の連休を前にしたある日、店を開けて間もなく一人の客が飛び込んできました。
 同僚が接客をしたのですが、その客の声は私の背中を思いきり叩き、衝撃は全身に電気を走らせました。
 彼だ!
 スケート場で助けてくれたあの彼が来たのです。
 金縛りにでもあったように体が硬くなり、ようやく振り向くことができたのは彼が
「これとこれ、それからほら、すみませんそっちの」
 とショウウィンドウの前を私の方へ歩いてきた時でした。
「いらっしゃいませ」
 まぎれもなく茗荷谷の駅前から飛んで行ってしまった青い鳥でした。
「ええーっ!ここだったの?」
 彼はショウウィンドウに大きな両手をつき、日焼けで真っ黒になった顔でじっと私を見つめました。
「いつもここにいるの?」
「いえ、月に一回不定期です」
「次はいつ?」
 同僚には見向きもせずに畳みかけてきました。
「次はいつ?必ず来ます」
 同僚が
「ほかにご注文は」
 と対応するのですが
「これだけで良いよ、いくら?」
 と私から目を離さずに言いました。
「来月は、八日です」
 小さい声で言うのがやっとでした。
 勘定を済ますと、紙包みを小脇に抱えた彼は扉を開けて、外に出た後もう一回私の方を見て、ちょっと手を上げ足早に行ってしまいました。

「悦ちゃん彼氏?知らなかったわ」
 同僚は探るような眼でじっと私を観察していましたが、彼と初めて会ったスケート場での出来事を説明すると
「なんだそうだったの!でもまた来るよねきっと」
 とひやかすように言いました。

 八日の朝は特別早起きをしてしまいました。
 前日美容院に行った顔の点検からお店の掃除、特にショウウィンドウをピカピカに磨き上げ、ガラスというガラスはそれこそ存在がわからなくなるくらい奇麗になりました。
 表通りを人が通るたび追う目線はずっと彼を見つけようと緊張していました。
 午後になって、やや緊張が緩んできたころ、変な彼が現れました。
 顔のあちこちは赤い色でいっぱい!
 あの大きな手は包帯でぐるぐる巻きになっていました。
「どうされたのですか?」
「こんにちは、俺山岳部。山で少し近道しちゃった」
 勝手に説明してくれた内容は、連休にクラブの訓練で丹沢に出かけ、沢を十メートルくらい滑り落ちたらしいのです。
「おまちどうさま、三百五十円いただきます、気を付けてくださいね」
「はいよ、ありがとう、で次はいつ?」
「来月は十二日です」

 そんなことが二か月続き、周囲は夏休みに入りました。
 菓子業界は水と氷に押されて少し暇になります。
 社員もかわるがわる交代で夏休みを取り、お店も一人勤務になりました。
「おーす暇?」
 彼がやってきました。
 顔は真っ黒に日焼けして、笑うと白い歯が目立ちます。
「休み無いの?実家へ帰るとかさ」
 彼との会話も少し抵抗が無くなってきました。
「あなたは?」
「俺はねえ、忙しいの。山へも行かなきゃあならないし」
「でも日曜日はここへ来るでしょ」
「だから忙しいじゃん、山へは違う休みに行くように調節しなくちゃ」
「へーそう?」
「栃木県?」
 いきなり彼が聞いてきました。
 少し会話に慣れてきて自信がついたと思っていましたがやはりなまりは残っていたのです。
「わかる?」
「会社に栃木出身のやつがいるんだ」
「いやーねえ、最初からわかったの?」
「ううん、何もしゃべらなかったじゃん!でも心配しなくて良いよ、俺信州!山の中でねタヌキやキツネの方が下に住んでいるんだ」
 急速に気持ちが近付いているのがわかりました。

 都会の街の中でも秋の気配はそこここに漂い、私と彼のお付き合いは、お店での会話だけなのですが、それなりに進んでいました。
 そんなある日、普段とは違う真剣な顔をした彼が来ました。
「少し出られない?話があるんだ」
 私は黙って首を横に振ったのですが、彼は私の顔から眼を離しません。
「夜なら…」
 言うのがやっとでした。
「終わるの何時?」
「八時、でも出られるのは八時半」
 ドキドキは頂点に達し、立っているのもやっとでした。
「ほっぺ赤いよ」
 言い残して彼が帰っていきました。

 お店以外でのお付き合いが全く無かった私達は、ほんのちょっとの短い会話でもそれなりに心を通わせていました。
 しかしなかなか二人きりになる機会がなく、少しマンネリ化していたのかもしれません。
 お店を終え、一旦部屋に帰った私はちょっとよそ行きの服に着替え
「えー!?逢引」
 と言う同僚の言葉を後に寮の外に飛び出しました。
 彼は寮の入り口から少し離れた角に立ってました。
「公園に行く?」
 こくんとうなずいたような気がしましたが、とにかく歩き出した彼にくっついて近所の公園に着きました。
 二人とも無言で、石段で三つくらいに分かれた真ん中の段にあるブランコに腰をかけました。
 息苦しいくらいの沈黙が続いたとき
「あの」
 二人がほとんど同時に口を開きました。
「えっ何?」
 彼が先に聞きましたが、私は彼の「話があるんだ」と言うのが最初から気になっていて
「話があるってどんなこと?」
 と聞いてしまいました。
「うん、親父がね先日倒れたんだ。田舎で少し商売をしているんだけど」
「帰らなくていいの?」
 彼の言おうとしていることは「帰る」とか「帰らない」とかのことではなく、もっと違うことのように思えましたが、今はいろいろ考える余裕はありませんでした。
「帰れば引き留められるし」
 その答えもわかっていました。
「悦ちゃん」
 立ち上がった彼が突然私の両肩を掴みました。
「……」
 瞬間、私の頭の中をいろいろな光景が駆け巡りました。
 それはこの後あ起りうるであろう様々な光景でした。
 体を固くし、期待とも恐れともつかない気持ちでじっとしていると、ブランコに座ったまま体を引き寄せられました。
 手に力が入り自由は奪われましたが抵抗はしませんでした。
 彼の手の力が次第に抜け、肩から背中の方に回りました。
 私の小さな体は彼の大きな胸の中にすっぽりと入ってしまいました。
 私の耳に彼の大きくそして早く打つ鼓動が伝わってきました。
 こころなしか彼の手が震えているようでした。
 どのくらいの時間が経ったのでしょうか、公園の下の方から誰かが駆けてくるくる足音で二人は我に返りました。
「だから、とにかく一回帰ってみるよ。詳しい様子のことはまた話すから」
 取ってつけたように彼が言いましたが、私の耳には良く聞こえませんでしたし、どちらでも良いような気がしてしまいました。

 部屋に帰ると同僚も出かけていて、一人になった私はそっと洗面所の鏡に顔を映してみました。
 そこには今まで見たこともないような淫らな私がいました。
 目はぎらぎらと、上気した顔は女性の本性なのかずっと大人びた私になっていました。

 一か月があっという間に過ぎて、また真面目な顔をした彼が来ました。
「行ってきました?」
「うん」
 彼は適当に注文して上の空で料金を払いました。
「どうだったの?」
「うん、それもだけどどこに住んでいるの?」
 私は黙って上を指さしました。
「二階?」
 こくんとうなずきました。
「一人?」
 またこくんとうなずきました。
「角?」
 その通りだったのですが、二階は女子だけの寮で男性は入れません。
「上は女子寮よ、男の人は入れません」
 冗談とも拒絶とも思える曖昧さで答えたのですが、彼はそれには答えずに帰っていきました。

 翌月、お店を閉める直前に彼がやってきました。あわただしく買い物をした後
「ふん」
 と言って、ちょうど枕くらいの大きさの荷物を渡しました。
「あとで中身見て」
 すこし重いごつごつした変なものでした。
 店が終わり、部屋に帰って渡された荷物を開けてみると、中身は山で使うものなのでしょう一本のザイルでした。
 そしてそのザイルと共に入っていた手紙には
「大切な話があります。十二時になったら、窓の横の菅具に二重にしてこのザイルを垂らしてください。一生のお願いです」
 彼の風体からは想像もつかない奇麗な字で書かれていました。
 カーテンを開け、窓を開けて一メートルくらいのテラスに出てみると、なるほど縁にしっかりとした鉄の金具が埋め込んであり、棚になっていました。
 いつ調べてのか彼の手紙の金具はこれだとすぐにわかりました。
 いそいで簡単な夕食を取り、部屋の片付けをいると大きなため息が出ました。
 話の内容はおおよそ予測ができる気がするのだけれど、ザイルで男子禁制の部屋に忍び込もうなんて、そして私もその片棒を担ごうとしている。
 
 あと二時間、あと一時間とその時は確実に近付いてきます。
 このまま知らんふりをしていようかしら、でも彼の必死の思いを無碍にもできません。
 残り三十分くらいになりました。
 意を決した私は部屋の電気を消し、そっと窓の外を覗いてみました。
 通りは薄暗く、誰もいる気配はありませんが、あと三十分で彼は現れるのです。
 そろそろとザイルを袋の中から引き出し半分にしてみました。
 そして手紙の通り、金具にまたぐようにかけ、少しずつ下ろしはじめました。
 ドキドキと胸は早鐘を打つように打っています。
 ザイルの両端が地面に付きそうになったその時ふっと黒い影がザイルに近付き、かかり具合を確かめるように二~三度引っ張りました。
 自身のしていることが急に怖くなった私は、慌てて部屋に戻り、かけてあったコートを頭からかぶり、部屋の隅で小さくなっていました。
 ざっざっとザイルを伝わって登ってくる音がしだいに大きくなり、ザイルをたぐる音がしています。
「悦ちゃん」
 彼が小さい声で呼びました。
 ふるえている私は返事ができません。
 黙ってさらに小さくなっていると部屋に入ってきた彼は電気をつけようとしています。
「つけないで、私はここにいます」
「どこ?」
 手探りの彼の手がコートの上から私の頭を押さえました。
「何してるの、怖いのか、大丈夫何もしないから」
 でも私はコートの中から出ようとはしませんでした。
 怖いのではありません。
 生まれて初めて男性を自分の部屋に招き入れた恥ずかしさと、暗い中とは言え真近にいる彼にそんな顔を見られたくない一心でした。
「じゃあそのままでいいよ、聞くだけ聞いてね。先日親父が倒れたことは話したよね。俺長男だけど元々家業を継ぐ気が無くて東京に出てきたんだ。でも親父が俺の顔見たらすっかり弱気になっちゃって」
 暗い中彼は部屋の真ん中に座り込んで話し始めました。
「弟はいるんだけど、おれ小さいころから親父っ子だったんだよ」
 私はいつまでもコートの中で隠れていられなくなり顔だけそっと出してみました。
 暗さに慣れたせいか、窓から入るわずかな光が彼の横顔を照らしています。
 心なしか少しやつれた彼がそこにいます。
「なあ、俺と一緒に田舎へ行ってくれないか」
「行ってどうするの」
 いつかはこんな日が来るのだろうとは思っていたのですが、こんなに早くストレートに言われると
「えっこんなに簡単に」
 と思ったのが本音でした。
「でも、急に言われたって、心の準備何も無しだもの」
「そうだよなあ」
 彼は今すっかり消沈し、シルエットも小さく見えました。
「帰ったらもう来られないかもしれない」
 少しの沈黙があり
「俺のこと好きか」
「うん」
 また沈黙がありました。
 彼は必至で何か考えているようでしたが、私にはそれが何なのかわかっていました。
 彼を招き入れた時からすでに覚悟は出来ていました。
 早く来て、来てくれれば決断できる。
 私はじっと待ちました。
 ふいに彼が立ち上がりました。
「悦子」
「ん」
 一言私の名前を呼んだきり、後は何も言わずあのがっしりとした手で私の両肩を掴みました。
 暗闇の中でも、彼の目から涙がこぼれているのがわかりました。
 彼はそれをぬぐおうともせずそっと私を引き寄せました。
 彼に抱かれたのは二度目だけれど、彼の腕の中にいる私に不自然さは微塵もなく、もうずっと以前からこうなっていたような気がしました。
 そしてこのまま時間が止まってくれれば、と思った時
「ありがとう」
 聞き取ることがやっとのような彼の一言でした。
 彼は私を離し、黙ってザイルを掴むとそのまま窓の外に出ました。
 突然私の目から涙があふれ出ました。
 私の青い鳥はザイルを伝わって行ってしまいました。


 写真展の、華やかな輪の中心にいるのは間違いなく彼です。
 白いものがだいぶ混じり、精悍だった顔にはしわが増え、すっかり柔和になっているのだけれど、あの大きながっしりとした手はそのままでした。

「そうですが、どなた……悦ちゃん、悦ちゃんだね!」
 彼はあの大きながっしりとした手で私の両肩をしっかりと掴みました。

                  おしまい

余韻

執筆の狙い

作者 三枝松平
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前回投稿したあとの稲刈りで体調をくずしてしまいました。
今作もたぶん推敲不足のところがあると思います。
短いですから気楽に読んでいただきたいです。

コメント

大丘 忍
p1793091-ipngn200202osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

私のようなボケかけた老人にもすんなりとよめる文章でした。このような青春時代のほのかな思い出。こんなのは大好きです。これが書けるということは三枝さんも歳をとったからと言えるのでしょうか。ありがとう、よかったですね。

三枝松平
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大丘先生ご無沙汰いたしました。
無理して田んぼで活躍しすぎて、周りに迷惑かけちゃいました。
今日は今日で、これから白内障の手術です。

趣味はいろいろあって、それなりに大変ですが小説もけっこうエネルギーいりますね。
まあ、何とか書けるうちは書き残して行こうかと(苦笑)
ありがとうございました。

u
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三枝松平さん読みました
稲刈りで体調崩したのね ご自愛ください

本作ですが
なんちゅうかノスタルジア、チュウカ、昭和チュウカそんなんメッチャ感じました

なんなんでしょうね?
男も女もおくゆかしいテカ?
ここいらへんは若い人には描けないでしょうねwww

感想なので不満点
過去と現在が交錯するわけですが
そこら辺の書き方もう少し練った方が良いかもね

三枝松平
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u 様

 田んぼで張り切りすぎちゃいました!
 もう無理が利かない年なんですね。

 コメントの通りでございます。
 昭和真っただ中、東京オリンピックの頃、都電(路面電車)は15円だったし、池袋にスケート場がありました。
 話とは別ですが、千葉県の稲毛や幕張は潮干狩りで賑わっていましたし、両国橋を渡ると佃煮の香りがあちこちから(笑)

 男女のお付き合いも、簡単にはエッチしませんでしたね。

 まあ、時代が交錯するところは、自分で読んでも少し雑かな?
 

もんじゃ
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 三枝松平さま

 拝読しました。

>友人から解放された私は逆にほっとし、そろそろとよたよたですが独り歩きができるようになってきました。
 ごうごうとリンクを回る音がする中、何分費やしたのか相変わらず手すりの付近をのろのろと、やっと一周したのです。

 そろそろ、よたよた、ごうごう、のろのろ、の密は狙っておられますか?

>もう四十年にもなろうかという昔のことです。
 栃木県の女子高校を卒業した私

 とあるので語り手は五十代後半にさしかからんとするおばあちゃん。
 なるほど、その年齢のおばあちゃんが確かに言いそうな形容ですね、そろそろ、よたよた、ごうごう、のろのろ。
 こういうあたり、小説が語りであることを熟知されておられるのだな、だなんてわかったようなことを感じてしまいました。
 青い鳥、っていうのも、時代を表してるように感じました。ザイルにも、なんか、時代を感じたような、もちろん今でもザイルは使われているのだろうけれど。
 今の五十代が高校生だったっていうと、八十年代でしょうか、『今日から俺は!!』の時代ですかね、となると、どうなんだろう、青い鳥やザイルはもっと古い時代の何かなんじゃないかな、とか。六十年代くらい?
 だなんて時代考証してしまいました。語り手の奥さん、七十代とかに設定したほうがベターだったかも?

 話はほんわり、牧歌的にも感じられるよいテイストであったかと。面白かったです。読ませていただきありがとうございました。

三枝松平
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もんじゃ 様

 読んでいただきありがとうございます。

 時代考証ですが、私(えっちゃん)が栃木県の女子高を卒業したのは、u様への返事でも書きましたが東京オリンピックの頃なんです。
 私は茗荷谷駅からほど近い、大塚窪町(当時)にしばらく住んでいまして、茗荷谷駅から池袋に通っていました。
 茗荷谷駅の前に5階建ての下駄ばきビルがあり、そこのパン屋さんで良くパンを買いました。
 そのころを思い出して物語にしてみました(笑)
 当時私には跡見学園に通う彼女がいましたが、何事もなく(ここ肝心)別れてしまいました。
 当時の男女の仲って、そんなの珍しくなかったですね。

 ありがとうございました。

(仮)
240.133.31.150.dy.iij4u.or.jp

感想を書かせていただこうか、かなり迷ったのですが……。

ほのぼの、と、トキメキました……!
それはいいんだけれども、女主人公さん、他の男性と結婚されちゃったの!? いやーん。ショック!
こういうのが、恋愛小説の醍醐味というものでしょうか……いやはや。

そうそう、一点気になった点があるのですが……。
読点(、)の打たれ方が私には合いませんでした。それが独特の雰囲気を醸し出されていた気持ちもしますが、読みにくくて、そこだけが残念でした……。

全体的に可愛らしくて、引き込まれてしまいました。ありがとうございました!

三枝松平
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(仮) 様

 読んでいただきありがとうございます。
 また、感想もいただきありがとうございます。
 もう、何十年も昔の話ですからピンとこない部分もあったのかと(笑)

 読点の打ち方のご指摘ですが、私の弱点ですね。
 基本的な勉強がまるでできていません。書くたびに悩んでいるのですがご迷惑をおかけしています。
 
 ともあれ、読んでいただいただけでもありがたく、御礼申し上げます。

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