作家でごはん!鍛練場
きさと

ケドゥラ人を殺す 三話

 カレンダーの赤い丸印が、私は目覚めてすぐのだるさにやられ、一瞬何だかわからなかった。和室の畳に敷いた布団の、しがみつかれるような心地良さ……天井の消えた電灯が見える。少し右下の壁に掛けた、モヘンジョダロの全景が克明に映った、カレンダーの真ん中の「10」の二文字、その右下の丸印……赤い油性ペンで、思い出せば私が丁寧に書き記した、それでも丸の書き始めと書き終わりが、少しずれてしまった残念な印……私の左に眠るリーの、かすかな、きれいな寝息を聞いた。残念などではない。残念なわけがあるか。私は飛び起きた。朝はやや寒かった。
 顔を洗い、歯を磨き、服を着替えた。居間の食卓にはもう朝食が用意されていた。昨日の朝食は一昨日の朝食より豪華だった。今日の朝食は昨日の朝食よりもさらに増して豪華だ。やはりやはり、陽子さんもこの日を待ちきれなかったのだ。
 けれども何かが足りなかった。
「……あれ、ケーキは」
 陽子さんはお盆に四杯の味噌汁を乗せ運んでいる。
「ありませんよ」
「冷蔵庫ですか」
 陽子さんはお盆を食卓に静かに置き、それぞれの椅子の前に並べられた、お米と、焼き魚と、おひたしと、麻婆豆腐のそばに味噌汁を並べ始めた。
「夕方、取りに行きます」
 陽子さんは台所へ戻っていった。少々気が早すぎたようだ。私は戸棚を開け、箸の入った容器を取り出し食卓の中心に置き、自分の椅子に丁寧に座り、指で服を適当に整えた。退屈な午前中が惜しむらくは緩やかに過ぎ去っていくのが、それでいて愉快に感じた。本日はリーの誕生日なのだ。
 午後三時を回ったあたりをもはや夕方の範疇と決め、先々週から買い備えていた紙袋のテープを引っ剝がした。青色に輝く星形の風船を七個膨らまし、細い糸を結わえ付け居間の天井に吊るした。両腕を力一杯伸ばしても、なおたわむほど長い青色のモールを壁に飾った。画鋲を使おうとしたが陽子さんに怒られたのでマスキングテープで留めた。「ハッピーバースデー」の英字が記された金色の王冠を頭にかぶった。私の頭には小さかった。リーと絵美ちゃんが学校から帰ってきた。私はとりあえず笑っておいた。
 ようやく待ちかねた夜になり、陽子さんがついにケーキを持ち帰ってきた。私は食卓に置かれたケーキの箱をさりげなく覗いた。薄暗い箱の中でもとびきり輝いた、もはや食べずとも美味いとわかるほど香り高いケーキ! 白いクリームが一面に塗られた、とびきり大きく円いケーキと、その上を彩る大量の苺……。
「デザートは一旦しまいますね」
 陽子さんがせっかくのケーキを持って行ってしまった。


 和室で懸命そうに算数の勉強をしていたリーを、私はこのさい邪魔した。
「リー、ちょっとおいで。ああ、ロメ。ロメ」
 リーは鉛筆を握る手を止めたが、私を見たがらなかった。机の上のノートを凝視し全身もろともびくともしなかった。そのまま斜めに立てていた鉛筆を、恐らく気付かれないよう徐々に、徐々に、倒していき、机の上に小さく音を立て置いたあと、しかし静止したままだった。うすうす予感はしていたことだ。私はリーの耳元に向かい手をかざし、
「ナム、ビー。ナム、ビー」
 と囁いてみた。


 少しうつむきつつ、でも着実に一歩一歩、居間へと歩いてくれるリーの足下を、段差も画鋲もないはずなのに、私は見ているしかなかった。リーは汗ばんだ左手を私に握られてくれた。リーの指先は冷えていた。私が熱くありすぎたからだ。
 では、リーも隅々まで熱々になれ。
「ハッピバースデーリー!」
 とにかく叫ぶのだ。
「キャー」
 絵美ちゃんは食卓の椅子に座り手に持ったフォークを揺らしている。陽子さんはその隣に立ち皆のグラスにジンジャーエールを注いでいる。食卓の残りの部分は見たこともない鮮やかな料理で埋め尽くされている。居間の照明がなぜだかやけにすごかった。とにかくすごく光っているのだ。
「誕生日おめでとー」
 絵美ちゃんは椅子から下りはしゃぎ、踊り、騒いでくれている。私もとにかく騒ぐのだ。
「ハッピバースデーリー!」
 私はソファの端のクッションの下に隠しておいたクラッカーを鳴らそうとした。クラッカーがなかった。それでもとにかく騒げばいいのだ。
「ハッピバースデーリー!」
 リーは半ば気を付けをしたまま立ちすくんでいたが、顔は決して悲しそうではなかった。それにほら、今だってまた、ぱっちりと、まばたきをしたではないか。
「ご飯食べようよ。おいしいよ」
 絵美ちゃんはリーの椅子を力いっぱい後ろに引きずってくれた。特別快い騒音が鳴った。斜めを向き止まった椅子を、私はきちんと整えてあげた。
 そうしてリーは、椅子に座ってくれたのだ。
「ふぅーってしないの? ふぅーって」
 リーの隣の椅子に、私も座った。目がちかちかする夕食と、念願のケーキが、食卓のまさに上に、確かに並んでいるのだ。本日はリーの誕生日だ。私が勝手にそう決めたのだ。私がリーと、あの何の変哲もない、ささやかな出会いを果たした……あの日こそが、私の眼中に、リーが誕生した記念日だとしているのだ。今日はあの日からちょうど二年目の、リーがめでたく、七歳を迎える日だ。リーは七歳だ。私が勝手にそう決めたのだ。
「ねえ、ふぅーってしないの?」
「サラダはこのお皿に取ってください」
 陽子さんは小さめの皿を皆の前に一枚ずつ置いてくれた。リーの皿のふちには、枝に実った黄色いミカンが、淡いタッチで描かれていた。私はケーキの上を飾っていた、長四角のチョコのプレートをつまみ、リーの皿の端のあたりに置いてあげた。リーはすぐさまチョコを指ですくい上げ、かどっこをちょびっとかじったあと、はっきりと朗らかな笑顔を見せ、チョコをまた皿に置き、ケーキのクリームが少しついてしまった指を軽くなめ、食卓の上にあった水色の布巾を指でこすりぬぐった。私はとうとう、心の底からこの日を祝えたのだ。


 恐る恐る目を覚ましたが、見えるものは普段と変わらず平坦な天井だった。私は少々名残惜しく深呼吸をした。喉が涸れ果てていた。唇の周りに唾液が乾いていた。
 リーの寝息も普段と変わらず爽やかに聞こえた。私は余計な音を立てないよう慎重に布団から抜け、和室の棚の大きな封筒から五十枚ほどある文書を取り出し、机に向かわせてもらい、やりかけだった英日翻訳の仕事を済ませてしまおうとした。私は無論、英文をなす一語一語を注意深く精読し、細心に訳語を選択し、丹念に紡いできていた。しかし正直つまらなかった。流れ作業に過ぎた。楽勝かと問われれば楽勝とも言えた。だが言語という巌々とした岩山の全貌を知り尽くしているわけはなかった。私が何の気なしに言語と戯れられるのは、他でもなく言語に内在するはずの本質の、それも本気で立ち向かうべき絶壁が果たして何であるのか、幸いにも判然としていないからだ。言語の違いというのが、すなわち何の違いであるのか、私はよくわからなかったのだ。
 布団が微かにざわめいた。リーが寝返りでも打ったのだ。
 しかし私はケドゥラ語を読めなかった。言い訳であるが、私は、ケドゥラ語とはもはや言語の枠組みを逸脱した、あらゆる現実的な事物を超越した、人間という無限をも遥かに凌駕した超無限な……。
 リーが私の肘を引っ張った。私はリーを振り返っていた。リーはまだ眠たそうにつぶれた目を片手でこすってみせた。私は訳文の最後の最後の句点をかつて以上にぐっと留めたあと、リーの青い水玉模様のパジャマの、一番下の外れていたボタンも留め直してあげた。


 静かな朝食を食べ終わり、昼になり、静かな昼食を食べ始めた。お米とか、味噌汁とか、野菜炒めとか、なんということはない献立の、けれどいつもと変わらず美味しい昼食だった。今日は土曜であるから、昼食さえもリーと一緒だ。リーはいつも通りに私の隣の椅子に深く腰掛け、背中をしゃんと伸ばし、右手に持った青い箸を器用に動かし、春雨サラダの器にへばりついた白ゴマを、出来る限りにすくっている。リーの正面に座る絵美ちゃんは、マヨネーズの少し乗ったレタスやきゅうりを桃色の箸でつまみ上げ頬張っている。
「ちょっと、味付け濃すぎましたね」
 陽子さんは少々しかめっ面で野菜炒めを食べていた。
「いえ、そんなことありません。美味しいです」
 十月にしては気温が高めな、よく晴れた日だった。何かの鳥がひよひよと囁いていた。多分宝石のように小綺麗な小鳥だと想像した。
「リーさんの親御さんは見つかったんですか?」
 私はリーを横目で見た。
「いえ、外に出るたびには、一応、色々聞いて回ったり、探しているんですが。牧……旦那さんにも、ときどき手伝ってもらいましたが、なかなか」
「早く見つかるといいですね」
「ええ」
 私は大方私欲から、リーを連れ帰ってしまった……誘拐したのだ。リーがなぜあの場所にいたのか、知りようがないが……知りようがないのが、もどかしくてたまらない。リーが本来いるべき椅子とは、私の隣の椅子などではないはずだ。私はリーが愛くるしかった。だから私は、このところ一晩中、リーの行く末を案じ続けた。是が非でもリーの両親を見つけようと思った。家の近所の緑が繁る巨大な公園の、テニスコートの傍のベンチに座るケドゥラ人の女性を、リーの母親だと錯覚しようとした。女性は唇を赤く塗り金色のイヤリングをしていた。どことなく高圧的な目だった。私は半ば死に物狂いで女性に声を掛けた。「アビード、ロメ、クル、ダイモ、リー、リー」と知っている「ケドゥラ語」を片っ端から連呼した。女性は私を一瞥し逃げていった。私は心の内が空白になった。家ではリーが目玉をくりりと煌めかせていた。私は自らの不甲斐なさを呪った。リーが両親の温もった胸の中へ抱擁される光景を夢見た。しかし私はリーが愛くるしかった。
「あ、リーさんが」
 陽子さんはリーの方を指差しながら呟いた。リーはやや上を向き、Uの字にした右手を顔に近づけたり遠ざけたりする仕草をした。
「ウーロン茶でいいか?」
 私は席を立ち、冷蔵庫からウーロン茶の2Lペットボトルを両手で抱え出し、台所の、流しの横に置いた。そうしてリー愛用のコップにウーロン茶を注いでいき……このコップは、牧山が雑貨屋で見つけてきたものだ。コップの側面には、ネズミや、アヒルや。犬をモチーフとしたキャラクターの絵柄が描かれている。コップをどういう向きで机に置いても、何かしらの可愛らしい、丸々とした輪郭のキャラクターが、こちらに向かいウインクなり、手を振るなりしてくれる、私が思うにコップとして一番の優れものだ。最大の特長は、コップの側面が二層になっており、層と層の隙間をもともと水が満たしているという点だ。コップを逆さにしたり、元に戻したりすると、水とともに隙間に入った、小さく黒い、または白い、はたまた銀色の欠片が、水の中を上下左右に浮遊し心地良いのだ。私はウーロン茶を注ぎ終えたコップを逆さにしかけた。
「奥さんもいかがですか」
「いえ、お茶は歯が黄色くなるので」
「そうですか」
 私はお茶のコップをリーの前に置いた。リーはみるみるお茶を飲み干した。空のコップを食卓に優しく置いた。リーは大変満足していた。そうわかる顔だった。
「このコップ、旦那さんが買ってきたんですよ。可愛いから、リーにどうかって」
 私はまた自分の椅子に座った。
「そうなんですね。あの人、子供っぽいから」
「そういえば旦那さん、帰って来ませんね」
バイクが通り過ぎる音が聞こえた。絵美ちゃんはブロッコリーをまるごと口に入れ、しばらく噛んで飲み込んだあと、輪切りにされたゆで玉子を二枚ずつ食べ、コーンの粒も一つ一つ食べていった。
「あの人は、いつもいないんです。だから、たとえいるときだって、いないと思っていた方が、いいんです」
「淋しくないんですか」
「あ、ほら絵美、口にマヨネーズついてるから」
 陽子さんはティッシュペーパーで絵美ちゃんの口を拭いていった。絵美ちゃんの口を塞ぐような剣幕に見えた。
「もういい!」
「あ、まだついてるってば」
 陽子さんはティッシュペーパーを丸め食卓に置き、桃色の布巾で自分の指を軽く拭った。少々舌が回りすぎたようだ。私は食べ終わっていた春雨サラダの器にへばった白ゴマをこまごまとすくい食べた。何の味もなかった。


 やわらかな指が転がるように絡まり合い、鍵盤が流れるように撫でられている。まろやかな耳触りをしたピアノの軽く輝くような快音に、私はまさに幼い頃のかの家の、母がよそったクリームシチューにそよと浮かんだパセリのような優しさを思った。絵美ちゃんはピアノが上手い。私などにもわかるほどだ。ときどき演奏が途切れるけれどもそれはそういう曲なのだ。
「じゃあ、やっぱり右手が少し滑ってるから、滑らないように弾こうか」
 陽子さんは絵美ちゃんの座る黒い椅子の隣に立ちながら、ボールペンで絵美ちゃんの見る楽譜になにやら文字や線を書き込んでいる。楽譜はもはやどこもかしこも音符なわけではなくなっている。ピアノの先生はああいう風に生徒にピアノを教えるというのか……私は食卓の上の湯飲みに注いだ煎茶を一口味わった。煎茶など音楽には遥かに適わないほど不味かった。
「ほら、ここでイ短調からハ長調に転調するでしょ。短調は悲しくて、長調は嬉しいってことだから、弾く人もそう思って弾くんだよ」
 居間のソファを挟んだ向こう側に、密かに展開されつつある甚だ難解そうなレクチャーが、案外楽しそうに聞こえてきた。
「ピアノって楽しいのに、悲しくならないとだめなの?」
「そういうふりをするの。音楽的演技っていうのかな」
「ふうん」
 絵美ちゃんは再び、鍵盤にごくごく小さい両手を走らせ始めた。細やかに、細やかに……極めて綺麗な音、程度の言葉では言い表せきれないほどの「幸福」が、「幸福」そのものが鳴りわたっている……細やかに、細やかに……ますます演奏に磨きがかかった、と私ですら評さずにはいられない……言うなれば例えば、部屋中を虹色の音符が縦横無尽に飛び交っている、といった漫画的な表現こそがかえって最適か!
「ここは和声の響きを大切にね」
 響き、という絶妙な語彙を私は何ゆえ絞り出せずにいたのか。
「うん。いいよ。じゃあはじめから通して終わりにしようか」
 絵美ちゃんは一回こく、とうなずき、ずれたお尻を整えるように座り直し、両手をまたふんわりと鍵盤に添え、かすかに息をしたあと、響かせ始めた。
「あ、ごめん。ここ、もっと感情をこめてもいいんじゃないかな。でも、ぶつけちゃだめ。ほら、もともと弱い指だから、乱暴に出したらうるさいでしょ」
 陽子さんは絵美ちゃんの手の間に右手を入れ、絵美ちゃんは両手をひざの上にのけ……
 陽子さんの響きは大人だった。私は心臓の裏側あたりを震わせた。
「こんな感じ。やさしく、こっそり、体重を乗せて」
「どういうこと? そこだけよくわかんない」
 絵美ちゃんは、恐らく関係のない高さの音を一本指で鳴らしてみせた。
「じゃあ、続きは明日、教室でね」
 陽子さんは楽譜を閉じ、譜面台を倒し、微妙に開いていたふたを閉め、赤く平長い布を鍵盤に被せた。鍵盤のふたを中間まで傾け手を離してしまった。ふたは緩やかに緩やかに閉まり、終わりの音を立てた。


 顎を回し、肘をひたすら上げ、ふくらはぎを指でひん曲げ、頭皮を爪で幾重にもなぞった。リーはしばらく私の動きを不思議そうに見つめたあと、合点がいったような顔をし、和室の机に乗せたノートの、文字で埋め尽くされた行の次の行に「まらぼ」と書き、私に見せてくれた。だからきっと、「痒い」はケドゥラ語で「マラボ」というのだ。
 私はこのように、リーからケドゥラ語を学んでいった。もっともなことだが、この学習法に正確性など保証できやしない。「マラボ」は「踊る」という意味かもしれないし、「痒い」は「マレボ」というのが正しいのかもしれない。しかしどれほど粗い、致命的な齟齬があろうが、私とリーの間の紐がどれほど脆く、弱々しくあろうが、私は不思議と満足だった。
「これはな、かゆい、と言うんだ」
 そうリーに教えると、リーは背筋をぐんと伸ばし、唇をあ、う、い、の形にくっきり示してくれた。リーの心の、それも一段と透き通った心の声を確かに聞いた。和室の窓の外から届く飛行機の轟音が虫の音よりかすかだった。
「じゃあこれは?」
 私は片手を空洞ができるほど軽く握り、口の前あたりに置き、適当に口をぱくぱくさせつつ四方八方様々な方を向いた。腹に力を込め声が漏れてしまわないほど強く息を吐き出した。肩が自然と揺れ、足もステップを踏んだ。自身の本当の声から甚だ遠く美しい声が頭の内側全体に響き渡った。
 私は近頃、聞こえないはずのものを聞くようになった。
 そういえば一昨日の夕方も、不可解なものを聞いた。私は二年前にリーと出会った県道を歩きたく思い歩いた。実際には一番歩きたくなどない道だった。しかし歩かないのは私の内の私でない何者かが許さなかった。だから私は私自身に歩きたく思わせるしかなかった。幅の広い割に閑散としすぎた道だった。白いような赤いような不気味な空だった。
 青年のケドゥラ人が一人、コンビニの自動ドアの真ん前に足を公差させ立ち、ゲーム機のようなものをいじっていた。青く透けた円くも四角くもないゲーム機に見えた。青年の目はゲーム機の画面を見ているようでどこでもない地面の一点をしどろに見ていた。自動ドアが開いたり閉まったりしていた。しきりに繰り返される入店チャイムがなぜだか、体中の皮膚を剥がすように気色悪かった。それでも私は青年に近寄り、
(このへんでいなくなった子供を知らないか?)
 と聞こうとしたが、
「インガ、ボル、ガシューム、あー、ソー、いや、ラミ、あー、えー、ココ、ココ」
 と、それらしい単語の羅列さえ至極不器用にしかままならなかった。青年は私の顔を細く、薄暗いくまの浮かんだ目で見つめたあと、またゲーム機の画面を向き、首を二回横に振った。私はそれを差し当たり、「いいえ」の意だと受け取った。青年はコンビニの、ドアから離れた壁の前まで移動していった。
 いよいよ近づきたくないあの例の、リーを見つけた横断歩道がますます近づくにつれ、なにかと物怖じし、歩幅が狭くなっていった。途中で曲がってしまおうと思った。どこまで行っても建物の切れ目が見つからなかった。曲がり角に思えた箇所で揚々と曲がるが駐車場だった。
 二人組の男のケドゥラ人が、電柱の傍にしゃがみこんでいた。同じような背格好の、同じような顔だった。私はせめて自分を指差し、
「ケドゥラ、ケドゥラ」
 と言った。二人組は口々の真っ暗な奥深くを露わにし、濁ったような低い声で
「バー」
「バー」
 と言った。私は「バー」の意味がわからなかった。けれども私はこの刹那、彼らの声の。潜在的な、喉の裏側に張り付いていたところからのし上がった、生黒い人間的な冷たさのような代物を感じずにはいられなかった。すなわち尋常ならない恐怖に全身を潰されたのだ。私は虚ろに彼らに背を向け歩き進んだ。
 惜しくも通り過ぎなかった。こちらの太々とした歩道の境から、向こうのより狭々しい歩道の境へ、元来灰色の車道の表面を、白い縞模様が未だ続いたままだった。縞模様は馬鹿正直に等間隔だった。私は目のやり場を失った。向こうのガードレールの黒さびがこちらからでさえ明瞭に見えた。黄色の点字ブロックがすぐ奥のアパートまで伸びていた。縞模様の角のあたりから、細く黒い電柱が垂直に伸び、黄色の押しボタンを通過し、真ん中あたりから分岐した先に、歩行者用信号機が赤く点り、より上から分岐した先に、車両用信号機が青く点り、電柱の最も頂は混沌としていた。縞模様の中心にケドゥラ人が正座をしていた。ケドゥラ人は寸分違わずリーの出で立ちだった。私の想像だった。想像上のリーが信号機をかわいく、かわいく見上げているようだ。リーはあそこに、あの硬く冷ややかなアスファルトに一体何を思っているのだろう。何を感じているのだろう。リーはどれだけ清らかな音に心を委ねているのだろう。私はどうしてリーを抱き上げたのだろう。乗用車が想像上のリーを通り抜けた。喧しい排気音を発し走っていった。私は傍に転がった小石をぶつけてやりたくなった。乗用車はすぐ先で左折し建物の陰に消えた。想像上のリーは依然あの場にじっとしていた。想像上のリーを想像上の車が潰していった。内蔵が圧搾される音を聞いた。
 リーは合点がいったような顔をし、和室の机に乗せたノートの、文字で埋め尽くされた行の次の行に「うたう」と書き、私に見せてきた。リーの筆致は未だに軟弱だった。
「……ああ、うたう、なのはそうだが、ケドゥラ語ではなんて言うんだ?」
 私がそう言うと、リーは机の上に積んであった教科書類の中から国語の教科書を引き出し、マイクを持った人間が歌うイラストと、その真下の「うたう」の文字が書かれたページを見せ、背筋をぐんと伸ばし、唇をう、あ、う。う、あ、う。と形をくっきり示してきた。リーは……ケドゥラ人は、歌うを知らないのか。ケドゥラ人は歌わないというのか。ケドゥラに歌はないのか。ではケドゥラ人は何に喜びを乗せるというのか。ケドゥラ人は無感情か。ケドゥラは真空か。私は微笑み微笑み微笑み微笑み微笑み……


 頑にリーと手を繋ぎ、近所の公園まで散歩に行った。なんのことはない、いつも通りの散歩がしたかった。リーの手が、いや私の手の方がじとと汗ばんでいた。しかし手を離すのは並々でなく恐ろしかった。ぬるい空気の夕方だった。
 公園の入口を改めて眺めたが、木や草や石に雑然とし、どこに着目し愉しめば良いのか、やはりさっぱりだった。草はまだ茂るものや枯れ果てなくなっているものがあった。石製の長い看板に公園の歴史が書かれていた。何べんも読み込んですでに知っている歴史だった。
 公園を進んですぐ、道が大きめに右に曲がっていた。私は大きめに右に曲がった。
 道沿いの、ほとんど地面すれすれのあたりに、狭いが花壇があった。多分秋の花なのだろう橙色の花が咲かされていた。花壇から少し外れた雑草の中に青色の花がいた。私は何かを思いそうになったが、何も思わないように留めた。
 若干幅の広い上り坂に差し掛かった。私は微妙な戸惑いを覚えたが、足が動くのを止めなかった。一応なだらかな斜面は歩き易くも難くもなかった。黄白色の砂の地面に土踏まずさえ圧し返された。
 人が後ろから追い越しすぐさま横道に消えた。微かに捉えた後頭部からおのずと笑顔が想像された。横道の遥か奥に紅葉の色が見えた。
 秋だと言って紅葉を見るのはしゃくだった。
 なんの実も花もない、なんの色もない木を私はきっと訪れたいのだ。なんの実も花もない、なんの色もない木は美しくない。誰しも看過を厭わない。私の見るべき木のはずなのだ。このなんの実も花もない、なんの色もない木の幹に縛りつけられた、円い木の板の、もはや白く消えかけ読めない文字を幾度も読もうと目を凝らす私の精神は異常だ。木は永久に木のままが良かった。
 ただ漠然と疲れた。
 やや開けた区画に低く水飲み場があった。ジグザグの石の台から一つは上に一つは横に蛇口が突き出していた。イガが刺さったように乾いた喉をなんとかしてみる手もあったが、汚そうなので止めた。
 公園を出た。
 女の人が犬を紐で繋ぎ歩いていた。犬は艶やかな茶色をしていた。犬は地面のところどころに鼻をかすめつつ、紐をぐいと引く女の人に従順だった。手を緩めた。リーは私の指先の下でわずかに空を掻いたあと、腕を下げ、少々早足で私の真横まで並んだ。


 家に帰るといよいよリーは駆け足に、玄関から台所まで上がっていったので、私は未だにもの寂しくも感じたが、私も負けじと上がっていこうと靴を脱ごうとしたところ、リーの履いていた青色の靴が、かかとをきっちりと玄関の段差に添え、綺麗に揃い置かれてあるのを見つけた。私は負けじと指を使い靴を脱いだ。
 リーが真っ先に台所へと向かっていったのは、間違いなく間違いなく、ウーロン茶を飲むためだ。リーはすっかりウーロン茶を好きになった。毎日外から帰るやいなや、コップに満杯のウーロン茶を、満開の笑顔で飲み干しているのだ。両足でしかと立ち、手を冷蔵庫に掛け、ウーロン茶のペットボトルを、それもリーが持ちやすいよう小さいサイズのを買うようにしたペットボトルを、てきぱきと取り出し、コップにウーロン茶を注ぎ、またてきぱきとしまい……リーが斜め上に傾けたコップから、ウーロン茶がリーの口へ、ありえない勢いで流れていくとき、私は確かに、がぶごぶ、がぶごぶ、と喉から響く気持ちの良い音を聞くのだ。私はこの日もそんなリーを横目に見つつ素知らぬ顔で、台所を通り過ぎようと思っていた。
 リーが台所で何かをうろうろ探すように動いていたので、
「どうした」
 と小声で聞くと、リーは顔の前で片手を適当に回したあと、再び何かをうろうろ探し出した。上の方ばかりを見回しているようだったので、私は当然、
「コップか」
 と閃いた。リー愛用のあのキャラクターコップは、やはりリーにとっても特別だったのだ。私は洗われ終わった食器類が積まれたスタンドや、乾いたコップが逆さに並んだ薄い台を半ば軽々と見渡したが、あのコップはどこにも見つからなかった。
「あれじゃないとダメだよな」大分火照った顔で言うと、私はその間リーを見られないまま器や皿しかないと知っているはずの戸棚の中までコップを探したが無論あのコップらしき影すら微塵も見当たらずいよいよ汗を出し始め、リーが私の足を手の平で浅く撫でるのを感じどうしようもなかった。
 そのときちょうど洗濯機が動き出し、隣の洗面所を覗くと、陽子さんが今まさに洗濯を始めたところだった。足下の黒く大きなカゴから洗われ終わった衣服が溢れ、長い袖が床に垂れそうな一着もあった。私は何も喋ってはならない気に苛まれたが、
「どうしましたか」
 と陽子さんが聞くのに思わず「あの、コップ、リーのコップ、知りませんか」と喋ってしまった。
「……あの色のついたやつですか」
「……はい」
 私は若干のへんてこな空気を感じ、恐る恐る下から陽子さんの表情を見上げていったが、陽子さんが眉をひそめているのが肩ぐらいまで見てなんとなくわかったので、目をリーに逸らした。
「……ごめんなさい。割ってしまったんです。洗い物してて、手が滑ってしまって」
 陽子さんは小さく言うと、リーの方を見下ろした。リーは私の体を押しつつ口をぱくぱくさせていた。
「……あ、そうでしたか」
 私はとりあえずそうとだけ返したが、陽子さんは未だリーを見つめ、手も、足もびくともせず、息さえしていないようにも見えた。陽子さんの指先がズボンを握っているのがしわでわかった。陽子さんはそのとき確かにリーを見ていたのだが(陽子さんの表情は前髪に隠れていたのに)(私は決して他人の顔など気にしないタチだったはずだというのに)私が見られているような心持だった。
「あ、そういえば」
 陽子さんは急に台所の白く目立つ調理台に寄り、引き出しを開け、割り箸や輪ゴムが大量に溜まったさらに奥から、青い筒のようなものを抜き取り、私に渡してきた。
 私がリーの誕生日のために用意した、いざ使おうとクッションをめくるも消えてなくなっていた、あのクラッカーだった。青地に水玉模様が鈍く溶け合っていた。
「掃除していたら、ソファの下から出てきたんです」
 私はなにがなんでもリーを祝したかった。祝さなければならなかった。私にとってリーの誕生は、リーとの出会いは、断じて不幸な、すなわち嫌な出来事であってはならなかった。だから私はこのクラッカーを、目にするのさえ初めてだったクラッカーを、盛大にやかましく、鳴らし響かせたかった。けれど私は、あまりに身勝手すぎた。
「あなたのものだと思って、とっておいたんですけど、違いましたか」
 私は、我に返り、陽子さんになにかしら、咎められるのではないかと正直怯えた。気が付けばクラッカーを両手で包み込み、徐々に回転させている私だった。
「……この前絵美……娘さんが弾いていたのって、何の曲ですか」
 なんの脈絡もない返事をしてしまった。
「ブルグミュラーです。うるさかったですか」
 陽子さんは案外そう言っただけだった。
「いえ、とても綺麗でした」
 陽子さんは小さく礼をしたあと、洗面所に戻り、音一つ立てず引き戸を閉めた。
 ……リーがお気に入りだったあのコップは、なくなってしまったのだ。しかし私は、リーが少なくとも、悲しんではいないということをいつからか知っていた。実際リーは、流しの横の、薄い台の上に逆さに乾かされた普通のコップに手を伸ばしていた。


 私は根っから甘えきっていたのだ。今更に家を出る決心をした。私はいつの間にやら、牧山家の元からの一員のような顔をし、家財の一部のような素振りさえし、リーと二人っきり和気藹々と悠々と馬鹿馬鹿しく暮らしてしまっていた。他人に隅々まで依存する人間など、人間たりえないのだ。
 急遽近所の不動産屋に赴き、リーの通う小学校からは出来る限り近場の、日当りの良いアパートを探してもらった。家賃等はなかなか安いとは言い切れない具合だったが、私の翻訳技術は恐ろしいのだ、リーを養う程度なら楽々稼いでみせるわい、と即断した。
 リーに、もうすぐ新しい家に住むぞ、と伝えると、リーは少し嬉しそうな顔をしたあと、少し悲しそうな顔をした。リーは黄色い鉛筆削りのハンドルを力いっぱい回していった。リーの通う小学校から、リーくんの苗字は判明しましたか、と電話があったので、私の苗字を教えておいた。


 とうとう運命の日がやって来てしまった。今日までの一日一日が無情にあっけなかった。何もかもなかったことにしたい気も起こった。馬鹿な抵抗だ。私とリーは今日、めでたく、家を出るのだ。衣類や日用品を詰めたダンボールの蓋をしっかりと閉めた。布団はこのさい処分し、和室に散った目に見える埃を指で拾い捨てる程度の後始末はした。
 窓の外は眩しかったが冷えこんでいたので、ジャンパーを羽織り、これで準備は整った。リーの準備を待ちかねていたがなかなか足音が聞こえないので、居間に行くと、リーはソファに座り膝の上に新聞を広げているところだった。着ろよ、と言ったジャンパーがソファの上にみだりに畳まれていた。リーは新聞のテレビ欄のどこかを指で触ったあと、正面のテレビの上に掛かった時計と、ソファの横の壁に掛かった時計を交互に見た。私は、向こうの家にもテレビはあるぞ、とその場しのぎの嘘をついた。
 リーが新聞をソファに置き、ジャンパーのファスナーをゆっくりとだが上げきったのを確認したので、和室に戻り、ダンボールを抱え持った。
 玄関まで歩いた。リーも玄関まで歩いてきた。私は靴を履こうとダンボールを一旦床に下ろした。リーは私の横をくぐり靴を履くはずだった。
 リーの靴が見当たらなかった。
 私は玄関にいくつか並んだ靴を見渡したが、リーの青い靴はやはりどこにも見つからなかった。私は無礼を承知で床から天井まで続く下駄箱を開けてみたが、靴すらもそれらしき形のものはなかった。
「もう行くんですか」
 陽子さんが丁度玄関に現れた。
「あ、はい、そうなんですが、リーの靴がなくて」私は慌てて下駄箱を閉めた。
 陽子さんはしっかりとした腕を伸ばし、下駄箱を開け、真ん中らへんの段から黄土色の箱を出した。古いような良い匂いがした。陽子さんは箱を開け、白地に青い線の入った運動靴を出し玄関に置いた。まるっこい、子供の靴だった。
「これ、買っておいたんですけど、どうですか」
 リーは瞬く間に運動靴を履き始めていた。
「あれ、前の靴は」
「汚いから捨てたんです。ごめんなさいね」
 ……なんということだ。リーの靴が汚れているとは気が付かなかった。
 陽子さんは立派な女性だ。
 リーは両足を靴に入れ終え、玄関を数歩回り履き心地を試していた。靴紐はまだ結べないようだったので、今回に限り私が結んだ。爪先が痛かったりしないか、と私が聞かぬ間に外へ出て行った。
 家の入口の黒いフェンスを、やむを得ずダンボールの側面で押し開け、敷地の外に出た。フェンスが聞いたことのない音で閉じたように感じた。私はおかしいを通り越していた。
 大きな家だった。頂上から左斜め下に屋根がゆるやかに下り、また頂上から右斜め下に屋根がゆるやかに下り、二階に縦に長い窓が二つあった。窓枠が太く出っ張っていた。一階の左側に大きな窓があり、向こう側に見慣れない部屋が透けて見えてきた。一階の右側の、壁がへこんだ奥の壁にインターホンが小さくくっついていた。その左手側に玄関のドアがあった。小さな階段を二段下がると枯れた芝生がいっぱいに広がっていた。フェンスまでいくつもの平たい石が埋められていた。背の高く細い木が葉を落としていた。陽子さんが見送りにでも出て来たようだった。私は無論何かを言わなければならなかった。お世話になりました、は完全なる大間違いだと思った。失礼しました、はかえって阿呆だと思った。何を言っても失敗のような気がした。
 陽子さんはフェンスのそばまで寄った。フェンスが開けられることはなかった。
「体に気をつけてくださいね」
 陽子さんのその一言に、私はとうとう泣き崩れそうだった。だがリーが私の隣に立ち陽子さんに向かい、小さく会釈をしているのが、抱え持ったダンボールの陰から微かに見えたので、私の方が先だ、とやや大袈裟に会釈をし返すのが精一杯だった。
 フェンスが開いた。絵美ちゃんが道路を跳ねるように駆け寄ってきた。絵美ちゃんはリーの真っ正面に立ち止まると、しゃんと気をつけをし、リーへなごやかに笑った。そうして目をつむり、口を短く突き出した。リーも唇をうぅと尖らせ返した。絵美ちゃんは目を開け、家の方へ顔を向けると、また跳ねるように去っていき、フェンスを開け、フェンスの向こう側にたちまち消えた。
「さ、絵美、入るよ」
 陽子さんの声が聞こえ、陽子さんと絵美ちゃんが、小さな階段を登っていく様子が、黒いフェンスの縦に空いた細い隙間から見えた。陽子さんがドアを開け、絵美ちゃんがそそくさと家に入り、陽子さんも家に入り、ドアがだんだんと閉まり際に、
「なんかやだ!」
 と女の子の声が響いてきた。
 十二月の初旬の、晴れの日だった。遠くの鳥のシーと鳴く声が清く美しかった。私は周辺の色あせた景色を軽く見渡してみた。未だ歩いた気のしない道をいくつか見た。私はそのうち一番遠くの分かれ道を目指し歩く。新たな家へと着くまでに、出来る限りに多く、遠回りをしてみよう。あの緑の消えつつあった巨大な公園の、まだ見ぬ区画のより奥を、あのはびこる雑木のもっと先を、少しだけでも見かけよう。





 ゴキブリが、やみくもに壁を這い上がり、天井から四角く突き出た無意味な部分に頭をぶつけ立ち往生していた。一番大嫌いな汚い虫だ。ゴキブリは、太った楕円の胴体を黒く照らし、数えるのが億劫なほどにたくさんの足を無駄に生やし、無駄な触角をへの字に曲げ、揺らし、揺さぶり、あたかも死んだように動かなくなった。私に見られているのを知っているようだ。リーは机に向かい勉強をしている。ゴキブリは、冷蔵庫の裏か、流しの下の隙間か、ゴミ袋の陰かどうせそのあたりにいなくなっていた。見えていなけりゃ死んだも同然だ。直接手を下さないのは賢明だった。無闇な殺生は毒だ。まさしく日本人的な発想だったとなかなか鼻が高かった。
 新たな住居は失敗だった。まず任意の所作が面倒だった。暖房をつけっぱなしに寝ていたことを悔やんだ朝はどの朝か忘れた。当然電気代のことと、悪い空気が直に体に流れているような予感にかえって寒気が走った。だがすぐには起き上がれなかった。頭の後ろがちくと痒くなり掻くと寝汗が酷かった。リーは依然、私の隣で寝ていたが、リーに臭い頭を嗅がすのが嫌という理由でしか起きなかった。
 洗濯物を干すのがだるかった。脇汗の染みたシャツは汚物に近かった。三日か、四日か、五日か溜めた下着やらバスタオルやら靴下やらを洗濯槽に滅茶苦茶にぶちこみ、林檎の香りの液体洗剤を目分量でだらだら入れ、洗濯機を始動させ、その後がた、がたと起こる震えがそのうち止むのが怖かった。洗濯終了のピーの合図に冷や汗をかき洗濯物が一枚増えた。洗濯槽の中に洗濯物を放置するとカビが生えるのは経験済みだったので、放置するのは一日だけにしておいた。絡まり合った洗濯物をほどく作業には腕力を要した。ベランダに出る戸は当初は普通だったがある日を境に建て付けが悪く変わり、うんと力を込めなければ開かなかったので、電車で十分の街で買い幾度も先端が地面に当たり傷ついてしまった、屋内用の物干し竿のような器具にぐちゃぐちゃに干した。バスタオルなどは部屋で使うだけなので、乾いていないことがあるぐらいでぐちゃぐちゃだろうが別に良かったが、たまたま履いたぐちゃぐちゃのまま乾いたズボンにどこからか現れた白い糸くずをこびりつけたまま出前を取ると、パスタを届けた若い女性に鼻で笑われ面白かった。
 流し台の隅に置き忘れていた塩の小ビンが、人知れずカビのぬめりにまみれていた。ときおりフライパンに油をひき、溶いた卵を適当に落とし、焦げない間に裏返し出来た黄色い何かに振りかける程度の用しか成さない塩だったが、フライパンの洗浄が億劫で、ほとんど満杯のまま放っておいた孤独な塩だった。私は小ビンを思わず手に取りすぐさま放り出し、指についた汚いものを水道の水ですすいだあと、そのうちなんとかしようと放っておいた。
 最も厄介な要素はシャワーだった。私が抱えるあらゆるストレスの元凶はこれだった。二日前に二度洗いした髪の毛も、その二日後には努力を無下にされたように脂ぎり、再度の洗髪を強いられた。リーが自分から入浴したいと申し出てくることはなかったので、リーの生活サイクルを私のそれに合わせた方が、水道代が無駄にならないと考えた。リーがノートを閉じたタイミングを見計らい、
「今日風呂入るか? 明日にするか?」
 と聞くと、リーは私を向かずに首を横に動かしたので、
「明日にするのか?」
 と確認すると、リーは首をより大きく横に振った。今日にするという意味の仕草であると伝わりにくかったのは残念だが、私の聞き方が悪かったのだ。
 先に述べた厄介さとはそのことではない。シャワーの温度が不安定なことの方である。リーは確か自分で服を脱げなかったような気がするので、私が上の服だけ脱がせてやったのだろう(ズボンを脱がせた覚えは不思議にないので上下とも自分で脱いでいたのかもしれない)。バスタブは存外ある家だったが、水道代のことを憂慮し、風呂とは呼びつつ風呂には入っていなかった。近所に公衆浴場の類いはなかったが、過度に汗をかくジムや運動場などもなかった(あったとしてもリーは行かなかっただろう)ので、体の洗浄という段ではシャワーで充分事足りた。ところがジャワーが曲者だった。お湯をかぶろうと水栓を捻っても、永久に冷水しか出ないのだ。水を出した直後に冷たいのは当然だが、温まるのをしばらく待ち、今日こそはシャワーの調子がいいか、と半ば期待しつつ細々と飛散する水に手をかざすと、
「ひゃっ」
 と、実際には言わなかったがそう言ってしまいそうなほど冷たいのだ。しかし先程「永久に」と述べたのは大仰であり、実際には、それからさらに辛抱強く温まるのを待っていれば大概、ものの見事に、
「あつっ」
 と実際漏らしてしまったほどの熱湯に早変わりし、またいつしか冷水に戻っているのであった。そうしてシャワーの水ごときに手を焼く私の後ろ姿は、傍から見れば子供が水遊びをしているようで大の大人として無様であったのかもしれない、と、これはそのとき忍者のごとく私の背後に身を潜めていたリーの生き生きとした目玉の奥を心なしか汲み取り思い出すことである。人の体のことに言及するのが失礼であるのは承知だが、この頃のリーの体は、脇から尻まで真っ直ぐ下に撫でられるほどで、つまり痩せ細りはせず過度に太ってもおらず、右手の親指の付け根にホクロが一つある以外は特に皮膚に目立ったシミなどもなく、(不潔で申し訳ないが)陰茎はちこんと付着している程度で陰毛は当然生い茂っておらず、要は確かに小学生をしていた。
 風呂が始まると、私はいていないようだった、とまで言ってしまうのは自虐が過ぎるのかもしれないが、その位リーは、私より幾分かは体を洗い慣れていた。リーはピンクのスポンジで体をこするのが好みのようだった。牧山の家にいた頃、使わずに余っていたのを頂いたスポンジだ。楕円形で厚みがあり、手で握って泡立てるのが楽しいよ、とリーが言っているような気分によくなった。その位リーは、自分の脇、胸、かかとを念入りにこするのだ。背中は洗いにくそうだったので、私がスポンジを借り手伝った。あるとき、
「これ、青が良かったんじゃないか?」
 と、今思い返せば何の脈絡もない変な質問を投げかけたことがあった。リーも答え辛かったのか、特に身振りはしなかった。述べる順序が逆になったが髪を洗う際は、シャワーから珍しく丁度良い熱さのお湯が出るわずかな時間を選り抜き、リーの頭にかけてやると、リーが、自分でやる、とでも言うようにシャワーノズルを奪って来たのは少々不快ではあった。


 買い溜めしておいた切手が底をついたので、駅から伸びる小道を東へ五分歩いた箇所に密かにある、郵便局まで仕事の書類を出しに行った。仕事は要件を完全に満たしたのは当然だが、最適な訳が上手くハマらなかった英単語が二つあり、私としてはまずまずの出来のような気がした。ついでに新しい切手と封筒を束で買ったあと、郵便局の真向かいにある、思うに老舗のパン屋へ寄り、リーの好きなパンを買って帰ることにした。私に寄られることを見越し建てられたようなパン屋だ。入口前の無用な段差を躓かないよう大股で越し、丁度開いた自動ドアから勢い良く店内へ入ると、私の来店を歓迎するチャイムが四音だけ鳴った。
 積まれた白いトレーの一つと、その上の細い棒に股がる形で引っ掛けられたトングを取り、目当てのパンがいつも並んでいる棚の前まで真っ先に行った。カレーパンやメロンパンといったたわいもないパンもあるが、私とリーが特に好きなのは塩バターパンだ。このパンはやはり人気なようで、朝の丁度焼き上がった頃に行くと他のパンより幾分多めに並んでいるのが見え嬉しくなる要素を持っていた。ところで人気とは、人々が同一のものを好むことに従う間接的な共同体の形成を欲した結果生じるのではないか、というそれらしい理屈も思いついたが今は忘れ帰宅してからじっくり考えることに決め、トングで塩バターパンを計二個掴み思慮深くトレーに乗せていった。塩バターパンは片手大で、形状はクロワッサンに最も近いが色はより白く、表面の溶けたバターの光沢がいかにもまろやかな口当たりを想起させる。さていよいよ食すかと軽くかじると、さくっ、と軽快に崩れる外側の塩味と、空気をたっぷり含んだ内側のバターのとろみの、「妙」な程度の釣り合いを味わう。そうして露骨に有頂天へは至らないうちに、最後の一片までかじり終わってしまう。それゆえ次こそはこのパンの真髄を知りたい、とまた同じパンを買いたくなるのだった。リーもまたそう思っているかは流石にわからないが、他のパンとともに買って帰っても必ず、真っ先に塩バターパンにかぶりつくという発見をすでにしていたので、リーも似たような思考を巡らせているに違いないという確信があった。私はパンを乗せたトレーを、店のお婆さんが会計を待つレジまで持って行こうとした。

 ケドゥラ人がいる

 なぜ他の国の人でなくケドゥラ人だとわかったのかはわからない。ケドゥラ人は、まさに私が先程までいた郵便局の真ん前で、そばの縁石の隙間からにょきにょき生えてきたかのようにご立派な仁王立ちを決めていた。生涯通し牛乳しか飲んでこなかったような長身だ。鉄材でも持ち上げそうなほどの筋肉質な腕、狭い路地など通りにくそうな分厚い胸板、胴回り……服は、私の持っているのに似ているがサイズが遥かに異なる水色のTシャツ、ベージュの短パン……すね毛がどれだけ生えているかは遠目ではよく見えないが、浜辺から走ってきたように白く汚れた、もともとは黒かったのだろうサンダルを履いていた。私がここまでケドゥラ人を注視するのもなかなかなかった気がするが、こうして改めて見ると、ケドゥラ人は確かに人であるのは違いないが、私と同じような人では有り得ないとはわかる、人種や内面の違いとはまた違った「違い」が漠然とあった。ケドゥラ人の顔までは見たくなかったので見なかったが、自動ドアの外から睨みつけられているような鈍い感覚にくすぐられ、私は危うくトレーを傾けパンを床に落としそうになった。
「ゴー! ステーション! ゴー!」
 怒った調子でそう叫んだのは、店のお婆さんだった。お婆さんは白い三角巾に白いエプロン、それに白いマスクといういかにも清潔な風貌をしている。お婆さんは私の後ろを回り店の外へ出て行くと、駅のある方を厳に指差しケドゥラ人を咎めているようだった。私は、早く会計をしてくれないものかと思った。
 少ししたのち、お婆さんが店の中に戻って来ると、お婆さんの帰還を祝福するチャイムが鳴った。店の人間が店を出入りする様子を目撃するのは珍しいことだと思った。
「あの人、お店入って来ていきなりパン食べ始めるんですよ。お金も払わないで」
 大変ですね、というのをなぜだか憚った。
「今日、あまり食欲ありませんか? いつもは四個ぐらい買ってくれるのに」
 今日はたまたま二個なだけだった。お婆さんがレジに金額を入力していくのを見た私は、各パンの値段を正確に記憶しているのは流石だと思った。
 店を出ると蒸し暑く首から頬へねばねばした空気が昇っていくようでだるかった。店に入る前もそうだった気もするが思い出す気が起きなかった。空を見上げ色を確認するのは俗物のやることゆえ頻繁に行うのは控えていたのにしていた。灰色の空を灰色の空と表現するのも陳腐だが他に気の利いた語彙を絞り出せなかった。
 デカブツのケドゥラ人は懲りずに郵便局の真ん前を(少し移動していたが)陣取り続けていた。店に恩を感じないわけではないが、私の方からこのケドゥラ人をどうこうしようとは思わない。挨拶ぐらいは出来そうな気もしたが、もし相当に腕っぷしが強かった場合、みだりに近づけば何をされるかわからない……いや、ほとんどのケドゥラ人が攻撃的でないとは信じていたが、絶対に攻撃的でないという確信が得られなかった。それに私は早く家に帰りパンを食したかった。私がパン屋に来たのはパンを買うためであって人と話すためではないのだ。
 腕に冷たい刺激を感じ雨かと怖くなった。今の今まで平穏だったアスファルトがたちまち多量の波紋に汚れ雨だと判明してしまった。頭が濡れ顔に垂れ、ズボンが足にへばりつくまで急激だった。俗に言うゲリラ豪雨というやつだと直感した。傘を持っていなかったのは知らされていないので当たり前だが、たとえ傘を差したところでこれほど激しい雨なら幾分かは濡れるだろうから同じことだ。気がつくと私は、
「ゲリラごうう、ゴリラげうう」
 というくだらない、どこかで聞いたような馬鹿馬鹿しい言葉遊びを苦し紛れにやらかしてしまっていた。私はせめて、買ったパンだけは濡れないように、パンの入ったビニール袋の口を、二回、きつめに結んだ。上手くほどけるのか心配だ。

ケドゥラ人を殺す 三話

執筆の狙い

作者 きさと
p97230-ipoefx.ipoe.ocn.ne.jp

一話・二話は以下のURLから読むことができます。

https://drive.google.com/file/d/1a0r4HpHxqTpXMCqX9f1ULT9kF8zvlQKN/view

登場人物の気持ちに寄り添うことを重視しました。
次話では、リーが学校に通えるようになった経緯やリーの学校での様子(授業参観)、リーとパスタを食べる模様を書くことは決まっています。

コメント

shion
KD027083171050.ppp-bb.dion.ne.jp

だらだらと小説を書く前にまず文章を書く練習をした方がいいと思います。論理的な文章が書けないのかもしれませんが、練習してましにはなるかもしれません。

きさと
p97230-ipoefx.ipoe.ocn.ne.jp

shionさん、ありがとうございます。

私は感情の流れを多分に盛り込んだ文章を書きがちなので、論理的に明快な文章を好む方の肌には合いません。

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