作家でごはん!鍛練場
20

終わりがけ

 元来泣き虫であった私は何かにつけてよく泣いた。目から溢れるあれは力を持っていて、周りの人間の表情を柔らかくしたり歪ませたりした。女優になれそう、と言われ一時期その気になったが、私はいつでも泣けるのではなく、泣くことへの抵抗が低いだけであった。……ところで、あの言葉は皮肉だったのかな。小学校、茜さす教室、グラウンドから聞こえてくる歓声。やっぱり泣いてしまった日の放課後、二人きりでおしゃべりをしていたときに「いつでも泣けるから女優になれそうだね」とあの子は言った。テレビドラマでよく見るお姉さんたちを思い浮かべ、女優かぁ、と私は笑った。泣き過ぎだよ、という非難だったかもしれないな。
 時にうっとうしがられるほどにはよく泣いた。喜んで感激するときにも、怒りに震えるときにも。しかし、やはり一番は悲しみに暮れるときだった。ほんのちょっぴりの悲哀が涙腺の蛇口をひねり、ぽろぽろと泣きそぼり、ごうごうとむせび泣いた。ということは、さっきの私は悲しくなかったということだろうか。私は私の死を悲しまなかったから泣かずに逝ったのか。
「なんてね」
 声が出て、驚いた。喉も舌もないのに。先ほどの死の一部始終も肉体を脱ぎ落とす過程もよく覚えている。今はただの私という存在となってどこかをさまよっている。
 脳もないのに思考しているのだから声が出たりそれを聞けたりするのもおかしくはないか。どうせ死んでいるのだから常識は通じない、と私は目を、開いた。自分が居る場所を初めて見た。
 そこは白っぽい空間だった。
 父の車で富士山に連れて行かれたときに霧に巻かれたことがある。霧の中でまだ果てしない山頂を仰ぎ見た。得体の知れぬものへの畏怖と不安に襲われ、私はやはり泣いてしまったのだった。あの場所に似ているが、ここの霧はもっとずっと深い。そして今、胸中は静かだった。不安なことなどもうないからだ。
 あまたの涙滴を流し、世界に水溜りを作り続けるような人生だった。いつでも少し所在なく、いつでも少し息苦しかった。
 ふわん。ゆったりと前へ進んでゆく。進んでも景色は変わらないし、前と言うのはあちこちを指す。随分と自由な世界だ。
 自分のことがうっすらと嫌いだった。学校に居るときも家に居るときも、周囲とずれているように感じていた。でも今、自分のことが好きだ。私だから、好きだ。
 くるりと一回転すると、ミルク色の視界が渦を巻く。
 そう、海の底に沈んでいるように感じることが多々あった。他人の声はくぐもって聞こえ、体は重く疲れていたから。ときどき全てがクリアになっても、そのうちに潜ってしまう。薄暗い世界で毎日を歩んでいた。泣くことが、つまり生きるのが嫌になったことはない、それが普通だったから。
「ああ、やっと死ねた!」
 叫びながら辺りを見渡すと、三七七六メートルよりずっと遠くに何かがきらめく。
 涙の海を泳いで、深い空の彼方へ潜り始める。それじゃあね。

終わりがけ

執筆の狙い

作者 20
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死を題材にする作品は安直で嫌いなのですが、書いてしまいました。

コメント

大丘 忍
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死後の世界を死んだ自分が書くという題材は私も嫌いです。全く、リアリティがないことですから安易に書けます。

自分は子供時代から泣き虫であったという出だしで、この泣き虫がどう成長していくのだろうと期待を持たせますが、死んだ後のこととなれば全くの作り事でどんなに面白く書いても説得力がありません。似たものに「夢オチ」と言うのがあります。いろいろ面白いことを書いて、あれは夢だったとオチをつけることです。読者の興味を引くことを書く場合には、それが現実であるからこそ作者はそのリアリティに苦慮するのです。夢だったとか、死んだあとだったとか言われると読者はがっかりしてしまいます。

偏差値45
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ストーリー性がないかな。心象風景にしても、ありきたりです。
なにか独創性が欲しいところですね。

20
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大丘 忍 さま

夢落ちは拍子抜けというか期待外れのものになってしまうんですね。
ありがとうございました!

20
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偏差値45 さま

ストーリーがないですよね……。何が起こるだろうか、と考え、何が起こるのも陳腐だな、と終わらせてしまいました。
ありがとうございました!

そうげん
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泣くというアクションを引き起こす原因を克服する物語として、流れを描く、主人公の心の変化を描く、変わっていく過程をつぶさに記す、そういう形式であれば、成長物語として前向きに読むことが出来るのに、という気持ちになりました。泣けてきてしまうその原因を回避するままに、避けて、避けて、脇へ脇へ、低く、狭いところに潜り込んでしまって、そこでひとり自足してしまっている閉塞感をおぼえました。しかし壁にぶちあたっても、そこを乗り越えよう、克服しようという意志を捨て去らざるを得なかった魂が多いからこそ、精神的なひきこもりは現代の社会に多く存在することになったのだろうし、周囲に他者がいない状態に自足することを良しとすることも、あるいは今の社会に生きる人には、近しい思いのする心持なのかもしれないな、なんてことを感じました。ちなみにわたしも性別は男ですが、子供の頃から泣き虫で、よく泣いてました。そのわりに人との争いになかなか折れることができなくてしょっちゅう衝突してました。いまもその余波が残っていて、感動的なコンテンツに出会うと目から涙がこぼれやすい体質です。泣いたら頭も心もキャンセルされるので、ふたたび困難に立ち向かう心根が準備できるという、泣くことの利点を最大限活用させてもらってます。泣くことに対する受け止め方もひとそれぞれなのかなと思いました。それでは読ませていただきまして、ありがとうございました。

5150
5.102.1.246

全体的にはいい感じだったと思います。

>>時にうっとうしがられるほどにはよく泣いた。喜んで感激するときにも、怒りに震えるときにも。しかし、やはり一番は悲しみに暮れるときだった。ほんのちょっぴりの悲哀が涙腺の蛇口をひねり、ぽろぽろと泣きそぼり、ごうごうとむせび泣いた。ということは、さっきの私は悲しくなかったということだろうか。私は私の死を悲しまなかったから泣かずに逝ったのか。

読んでいて一番よくないなと思ったのは、この箇所でした。

特に
>>さっきの私は悲しくなかったということだろうか。

この一文、あるいは後に続く一文を、説明で直接伝えずに、文で繋いで、読んだ後で、読者に思わせるのが一番の理想形だと思います。と、言ってみるだけなら、ものすごく簡単ですが、実際やるとなるとかなり高度な技術が必要です。なので、さっきの私は 〜の前にいくつかの描写文を入れてから、さっきの私の〜 の文を入れると、読んでいる側は変化していた現状を自然に受け入れやすくなると思います。見ている世界観が大きく変わるところなので、いきなりではなく、ゆっくりと誘導することが必要かと。ここに説明的な文は厳禁です。あるいは、入れる場合は最低限にしておくか。
個人的に思うのは、悪名高い夢オチは、夢オチだからというわけではなくて、せっかく読者が見ている世界をいきなり変えられたから、のような気がします。安易な夢オチは避けるべきです。いきなり変えるなら、その道のりをちゃんと作って、見ている世界の違和感をズレさせるか、あるいは前の段階で伏線を複数入れるか、です。まあ、逆にミステリーならば、世界観ががらりと変わる分だけ満足度は高くなりますが。でも、ミステリーになると読者の納得のいく伏線が絶対条件になります。

20
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そうげん さま

そうですね! 泣く=カタルシスで、この行為によってわれわれは精神を安定させるらしいですね。
成長物語の方が読んでいて楽しいですかね。

ありがとうございました!

20
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5150 さま

アドバイスに納得させられました。突然夢だと白状されると白けますよね。
ミステリーは読むのは楽しくとも産み出す側に立てる気がしません。どうやって書いているんだろう。

ありがとうございました!

夜の雨
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「終わりがけ」読みました。

御作を読んで「なるほどなぁ」と思いました。

私はいつでも泣けるのではなく、泣くことへの抵抗が低いだけであった。
           ↓ ↓ ↓ 
私はいつでも「死ねる」のではなく、「死ぬ」ことへの抵抗が低いだけであった。

こういった個性の主人公だから、死ねたわけですね。
女優さんなどの話を聞いていると「悲しいことを思い浮かべると、涙が出る」ので「ドラマなどで必要な時に泣くことが出来る」というようなことをテレビ番組で聞いたことがありますが、たぶんその女優さんも「泣くことへの抵抗が低い」のだろうと思います。

 あまたの涙滴を流し、世界に水溜りを作り続けるような人生だった。いつでも少し所在なく、いつでも少し息苦しかった。 ← たしかに、「死ぬ」ことへの抵抗が低い主人公ですね。

泣くことが、つまり生きるのが嫌になったことはない、それが普通だったから。 
           ↓ ↓ ↓ 
泣くことへの抵抗が低いので、「死ぬ」ことへの抵抗が低いだけ、それが普通だったから。

 涙の海を泳いで、深い空の彼方へ潜り始める。それじゃあね。  ←「それじゃあね。」が、ラストだからなぁ(笑)。軽い、生死が。

作品としては「よく書けている」個性のある「人間」が、と思いました。

以上です。

鯨飲
124-18-26-79.dz.commufa.jp

この文章を読んでいて20さんは比喩を隠しているときとてもワクワクしていたのではないかと思いました。私も小説を書き始めたころは、比喩に読者が気ずくかどうかや、自分だけがマジックの種を知っていてショーを行っている気分が楽しかったです。でも、友達に見せるとまったく気ずいてもらえないことも多く寂しい思いをしたことがあります。
それと夢落ちも決して作品としては悪いものではありません。しかし読者にナチュラルにそれを受け入れさせる文章力や、ときにはかれらが抵抗を感じさせないほどのスピード感が必要です。私もそういう小説を何度も書こうとしたのですが、やはり難しく簡単ではないと感じました。また、そのような技術をお持ちの小説家さんの作品を読むと、なるほど!となり勉強になります。(ご存じかもしれませんが森見登美彦さんなどとてもその様な文章がお上手です)それらの作品を読み技術を真似するだけでだいぶ格好がつくと思います。技術がついたらまた終わりがけを推敲してみてください。もっと面白くなると思います
「終わりがけ」設定、ふくせんなどなど面白かったです。頑張ってください。

水野
i114-183-76-253.s41.a012.ap.plala.or.jp

小説を書く歓びに満ち溢れていて、読んでいるこちらが嬉しい気持ちにさせられました。題材は死、終わりといった陰鬱なものである一方、これらについて語る語り手はどこか幸せそうで、彼女なりの考え方や生きる姿勢が、直接には語られないでも言葉の端々から浮き上がってくるようです。

「元来泣き虫であった私は何かにつけてよく泣いた」「私はいつでも泣けるのではなく、泣くことへの抵抗が低いだけであった」などの文章表現はやや硬めですが、その後に続く、「あの言葉は皮肉だったのかな」「泣き過ぎだよ、という非難だったかもしれないな」は柔らかめです。
私が小説を読むとき、語り手がどのような方法を用いて、誰に対して語っているのかを語り手自身がきちんと意識できているかどうかを重要視していますが、第一段落のやや硬めの文章表現はおそらく書かれるようにして語られた言葉であり、柔らかめの文章表現の部分は、語り手の頭の中に湧き上がってきた想念である、というふうに予想します。文章を書いているうち、自身の表現に記憶の思わぬ部分が触発され、心象風景に意識を奪われるといったイメージです。

「ほんのちょっぴりの悲哀が涙腺の蛇口をひねり、ぽろぽろと泣きそぼり、ごうごうとむせび泣いた」。蛇口をひねるという比喩の用い方は一般的ではありますが、この一文はなによりリズムに優れたものに感じられます。
加えて次の文では、「ということは、さっきの私は悲しくなかったということだろうか」と言われています。自身の文章表現の鋭さなどまったく意に介していない様子です。優れた文章を書こうとし、これを後々になって読むであろう不特定多数の読者の存在を意識しての所業ではなく、息をするようにして自然に発せられたものに違いないと私は踏んでいます。上記の一文だけ行を変えるなどして、少しでも色気を出していれば、私はここまでの評価をしなかったと思います。

物語が進むにつれ、彼女は自身がどのようになってしまい、どんな場所に存在するのかを把握していくことになりますが、「進んでも景色は変わらないし、前と言うのはあちこちを指す」は言い得て妙だと思いました。
この時彼女は、「喉も舌もないのに」「肉体を脱ぎ落とす」と言われているように、自分の身体を持っていない状態です。前に進むといった動作を完遂してくれるようなものはそこにはありません。声を出そうにも、声を出すものはそこにはないですから、語り手が聞いた「なんてね」は誰の声だったのかという疑問は残ります。前に進むという行動が、左右にも後ろ向きにも進むという意味合いを同時に持ってしまわざるを得ないように、「なんてね」の声も、まったく関係のない誰かの声を、可能性として無限に内包するだろうからです。
すると、語り手自身の存在も、自分ではない他者の存在をも同時に含むことになりえます。「なんてね」の声は、語り手自身のものであったかもしれないし、他の誰かの声であったかもしれない。
ここで、「自分」と「私」の区別が重要になってくるように思えます。少なくともこの小説では、「自分」が語り手自身のことを表し、「私」が語り手を含む全ての「私」を表しているのではないかという兆候が見えてきます。「でも今、自分のことが好きだ。私だから、好きだ」の一文が決定的な証拠足りえるかもしれません。

肉体を脱ぎ落とす前の語り手には、「他人の声はくぐもって聞こえ」ており、「ときどき全てがクリアになっても、そのうちに潜ってしま」っていた。しかし、肉体を離れ、語り手以外の自分を含む広い意味での「私」になったことで、語り手は「涙の海を泳いで、深い空の彼方へ潜り始める」ことができるようになった。
空に潜っていくというのもあべこべですが、この小説で語られている世界では普通に起こり得ることです。「ああ、やっと死ねた!」と終盤に発される声は、語り手以外の声を含んでおり、「ああ、やっと生きることができる!」という意味を内包します。遠くは近く、深いは浅い。そんな世界が舞台だからこそ、小説の言葉も歓びに満ち、のびのびしていたのだろうと考えます。

20
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夜の雨 さま

その通り、少し白けた性格の主人公ですね。それじゃあね、で終わるのは気に入っているというか、好きな小説に影響を受けまくっています。

ありがとうございました!

20
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鯨飲 さま

ポエミーでまわりくどい表現が受けないことは分かっているのですが、やはり書いていて楽しいです。

森見登美彦、好きでした。最近読んでいなかったので熱帯を読んできて唸りました。

ありがとうございました!

20
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水野 さま

なんて優しいコメントですか。恐縮です。書き手が考えている以上に深いところまでお読みになっていただけたようで、思うがままに書いた私は今ちょっと恥ずかしい。

確かに楽しかったです。私の夢のようなものを言語化したので。

ありがとうございました!

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