作家でごはん!鍛練場
ナナシログミ

前兆

雨でじっとりと湿りを帯びた空気に、空から圧をかけられているような気怠さを感じる。私はいつも履いているヒールの音がやけに鈍く響くのが癪に触った。
今日に限って外出の仕事だ。全くもってついてない。書類は嵩張り、鞄の容量を無視して形状は崩れている。私の肌よりもハリがある。なんとも腹立たしい。
事務所でデスク仕事なら、脚をほっぽってでも楽に過ごせたろうに。
外の重い空気は呼吸を荒くさせ、独り言は頭の中でぐるぐると尽きることなく悪口となって駆け巡る。

ポケットが震えた。電話だ。
「おはようございます、山下です」
電話先から、外の空気に負けず劣らずの重々しい低音の声。
「おはよう、山下さん。今日、大木さんと打ち合わせだったよね。僕も同行したいから、一旦打ち合わせしよう。事務所着いたら声かけてくれるかな」
「一緒に来られるんですか? そうですね……、大木さんに話し通しておかないといけないので、一報してから伺うようにします」
「頼むよ。じゃあ、また後で」
上司の川田。私一人で十分な打ち合わせなのに、なんでわざわざ着いてくるんだ。今日は一人で動いている方が気が楽だというのに、余計な気を遣わせるようなことさせないでくれ。
頭の中では愚痴が止まる事なく溢れてくるし、肩にかけた鞄は時間が経つにつれてずれて落ちてくる。もう、どいつもこいつも大人しくしててよ。
足早に事務所に向かう。肌に張り付くタイトスカートは歩幅を狭めてくるけれど、強引に大股で歩いた。音は相変わらず鈍く響く。

事務所に到着した頃には、額に薄く汗をかいていた。脇も少し湿っている。
時間を見たら始業12分前。とりあえず冷えたコーヒーを買ってこよう。
「お、山下。おはよう」
喫煙ルームから出てきた近藤の頭は寝癖を隠し切れておらず、ワックスで整えている割に一箇所膨らんでいた。
「おはよ。早いのね。もう今日は雨降らないで欲しかったわ。打ち合わせ、代わってよ」
「いやいや、俺も今日、外なんだよ。ま、車だけどね。頑張れよ」
「そっちもね」
簡単な挨拶を交わし、近くの自動販売機でアイスの缶コーヒーを買った。デスクに戻らず、その場で缶を開けた。
事務所に着いたばかりというのに、もう帰りたい。4階の窓から見える外の景色は忙しなく歩き回る人たちで溢れ、目を瞑りたくなる。あの集団を私服でかき分けて、笑顔を貼りつけて自由を見せつけてみたい。

自分のデスクに戻り、とりあえずメールを開く。今日も何十通というメールが目の前で流れていく。これが全部ラブレターだったら、なんともときめく話だ。
そんなわけもなく、とりあえず件名を流し見て、急ぎの連絡に返信をする。大木さんに電話連絡し、思ったよりあっさりと話が通り、川田の元へ向かった。
「川田さん、おはようございます。大木さんに話ができましたので、打ち合わせをお願いできますか」
「山下さん、おはよう。早速ありがとね。さて、会議室が空いてるようだから、ちょっとそこを借りて話をしようか」
整ったデスクから迷うことなく書類を手に取り、私を会議室へ促す。こういうところは流石だな、と自分のデスクをチラッと見てため息をつく。
「すまないね、急に決めてしまって。大木さんには挨拶をしておきたかったのもあってね」
「いえ、問題ないです。今日の打ち合わせの資料ですが、今、目を通されますか?」
「そうだね」
私から受け取った書類に目を通している間、私はじっとりとした肌にストッキングが張り付く感覚が嫌に気になり、机の下で足を組んだり解いたりしていた。
「内容はこれでいいと思うよ。とりあえず大木さんの反応を見て、だね」
「そうですね。これまでにも話は何度もしているので、大きな変更は出ないと思いますが」
川田の書類の厚さが目につき、書類の話を持ちかけた。
「ああ、これね。今まで大木さんとはやり取りも長くてね。うちの関心のありそうなものを選んでお勧めしようと思ってるんだよ」
聞いたものの、ただの営業活動のための資料だったことに途端に興味をなくした。そんなの私もしてるに決まってるのに、貴方がしなくてもちゃんとしてるって。
「川田さんがいてくださると、大木さんも前のめりで検討してくださるでしょうね」
この皮肉が伝わるかしら。
打ち合わせも終わり、デスクでの仕事が片付いたところで移動することになった。
車で行くほどの距離でもなく、今日は歩きだ。傘が鉄でも握っているかのように重く感じる。
傘の生地に隠れて川田の表情は見えないが、とりあえず世間話で話を合わせて息が詰まる時間を過ごした。

終始、穏やかな川田の声を聞きながら空気の重い時間を過ごしたこの日。
川田はその一週間後、会社からいなくなった。

前兆

執筆の狙い

作者 ナナシログミ
ai126151195178.55.access-internet.ne.jp

実は、前にもこちらのサイトに投稿させていただき、様々な意見を頂戴しながら物を書くことを楽しんでいたのですが、しばらく一切書くことをしなくなりました。
自分が何か楽しんで読んでもらえるものを書くことができるか、今一度挑戦してみたいと思い、ショートショートのような文量で書いてみました。
山下をどう表現して、最終的にどうさせたい? 1日でどんな出来事を仕掛けようか? なんでなんで、ともう一度話の流れを読み返してもらえたら、と考えながら書いてみました。
まだまだ流れを作ることや表現は未熟ですが、率直にご意見をいただければ嬉しいです。課題として自分には何が今欠けているか、などもお伝えいただければ幸いです。
少し、ドキドキしています。よろしくお願いいたします。

コメント

一ノ瀬 香
p1856121-ipngn201009tokaisakaetozai.aichi.ocn.ne.jp

“山下”自身がよく表現されていて内容も読みやすくてとてもいいと思いました。
改善点は
電話先から、外の空気に負けず劣らずの重々しい低音の声。という文章
山下『が』「おはようございます。山下です」と言ったのに、電話先から…重々しい低音の声。というのを見ると、電話から自分の声が聞こえてくると解釈してしまいます。なので、そこらへんに気をつければ完璧だと思います!頑張ってください!

ナナシログミ
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一ノ瀬 香 様

お目通し、ありがとうございました。
とても優しいお言葉と、丁寧なご指摘に嬉しく思います。

改善の文の流れですが、改めて確認してみると、確かに発言主と表現の流れが噛み合っていませんでしたね……。

返事を書いてからの描写にした方が適切でした。とてもすっと入ってきます。
ありがとうございました。

読んでいただき、とても嬉しかったです。コメント、ありがとうございました!

夜の雨
ai199202.d.west.v6connect.net

「前兆」読みました。

「前兆」の意味は、「川田」が会社からいなくなるという話だと思いますが、それが書けていません。

重要な登場人物は主人公の「山下」と「前兆」のテーマになっている上司の「川田」です。

「山下」のキャラクターはおおむね書けています。雨の中を外回りの仕事とか上司の川田との行動とかに嫌気がさしている雰囲気はあります。

●問題は上司の「川田」が、一週間後に会社からいなくなる前兆の伏線の仕掛け方です。
たとえば川田が使えない上司(会社から不要と思われている)という展開なら、そういった伏線が要ります。
川田の「噂」を主人公の山下が聴くとか。
具体的には、取引で会社に損失をさせたとか。会社の金品を使い込みしたとか。家庭か何かに問題があり鬱(うつ)になっているとか。先日、通勤電車で痴漢して捕まったとか。その他もろもろ。

そういった噂を山下が聴いていた上に、会社のデスクで川田がかかってきた電話にペコペコしているのを山下が見た。
そこに「主人公の山下と一緒に川田が急に大木さんと逢うことになった」となれば、一週間後に川田が会社から消えても「なるほど」と、思います。
この「なるほど」は、読み手が勝手に想像力を膨らまして川田が会社から消えた理由を考えた結果のなるほどです。

「主人公の山下と一緒に川田が急に大木さんと逢うことになった」 ←これにも、理由付けが要りますけれどね。どうして急に川田が参戦する必要が出たのか?

●不思議系の話で川田が一週間後に消える場合は、言動がおかしくなるとか。いつもの川田ではない雰囲気を醸し出せば、それが伏線になりますが。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――

●>「すまないね、急に決めてしまって。大木さんには挨拶をしておきたかったのもあってね」<

●>川田の書類の厚さが目につき、書類の話を持ちかけた。
「ああ、これね。今まで大木さんとはやり取りも長くてね。うちの関心のありそうなものを選んでお勧めしようと思ってるんだよ」<

    ↑
伏線がどうたらと散々書いた後に、いま気が付いたのですが、これが川田が会社から消えた伏線でしたか。
伏線にしたらちょっと弱いので、「終始、穏やかな川田の声を聞きながら空気の重い時間を過ごしたこの日。」このラストに、川田が会社を去ることを匂わすような、ささやかなエピソードを書きこんでおいた方がよいですね。
疲れている主人公の山下が気が付かないような、ささやかなエピソード。


それでは、頑張ってください。

ナナシログミ
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夜の雨 様

しっかり読み込んでくださった上でのコメントで、大変嬉しく思います。
実は伏線を仕掛けるのも、かなり薄く散らしているつもりで、デスクが整っているのも、普段の描写はないものの、実はこれも退職につながるひとつの伏線の予定でした。

川田さんの普段の描写を省いたのは、読者の方の想像力に依存している部分が大きいです。
どこを伏線と捉えていただけるか、とこれも楽しんで頂ける要素になるか、私の雑さも露呈はするのですが、挑戦でした。

雨でどんよりしたこの日、打ち合わせで外出というタイミングの悪さも絡めて、悪い予兆のようなものを感じていただければ嬉しいです。

夜の雨様がおっしゃた通り、伏線の設定と回収の甘さが今回の課題です。
「なるほど」と思わせ、読者の惹き付けが出来るようになれば、また一層味わい深いものになったかもと思うと、もう少し構成を練ってみたいと思います。

疲れた山下を活かすアイデア、盲点でした。ここは肝になりそうです。折角、山下さんには疲れてもらっているので、うまくこの設定を使わねばもったないですね!

素敵なアドバイスをありがとうございます!
再考して、伏線をうまく作り出してみます。
読んでいただきありがとうございました!

みたらし団子
14-132-30-132.aichiwest1.commufa.jp

拝読させていただきました
以前、私は営業の仕事をしていたことがあるので、これを読んでいるときに何の仕事をしているのだろう?と思いました。
きっとあえてそのことについてか書かなかったのだろうと思いますが、この物語は職場での話しなので、何の会社なのかが分かるとイメージしやすかったかもしれません
例えでいうなら、飲食店の話しなのに、何のお店かわからないような感じです
まあそれが味があるといえばそれもありかもですが
自分なら、やたらと川田が優しくしてきて仕事のことをフォローしてくれたり、案件を譲ってくれたりした
オチは、会社のお金を横領していたことが発覚
引き継ぎ後、解雇になったとするかもしれません
ぜひこれからもいい作品を書いて下さい!

ナナシログミ
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みたらし団子 様

読んでいただき、ありがとうございます!

ご指摘の通り、業種などを明確にしなかったのは”あえて”ではあったのですが、この点が物語で重要と思えず、
つい省いてしまったという裏面もあります。
また恥ずかしながら、無知ゆえに矛盾が生じることを恐れたこともあります……。
ですが、おっしゃる通り、描写としては丁寧さに欠けてしまいました。
全てを不透明にしすぎたのは雑さにつながってしまうかもしれません。

川田さんの退職の背景は私も実は定めていません。
というのも、読んでいただく人の人生観から想像できる物語の違いで楽しみ方が変わるのかもしれない、
そう思ったからです。

川田さんはもしかしたら、日常ではもう少し語調の強い人であったかもしれないのに、
今日の山下さんのコンディションでは川田さんの穏やかになった変化に気づくことなく、前触れなくやめたように感じている。
なんて、私の想像力では物足りないくらいの川田さんのストーリーがあったらいいな、と思いました。

川田さんがお金の横領をしていた、私の想定になかった物語を教えてくださったこと嬉しく思います!
もう少し私の中でも描写を丁寧にして、話を作りこんでみます。

物語の見せ方を共有してくださり、ありがとうございました!

偏差値45
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一言で言えば「退屈」かな。
日常でありそうな事柄の羅列ですからね。うーん、刺激が足りない。
少なくとも冒頭、グッとくるようなツカミが欲しいですね。
「この後、どうなるのだろう?」そういう期待値が低いんです。

ナナシログミ
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偏差値45 様

読んでいただき、ありがとうございます!

そうですね、まさにその通りなのです。
文量を多く書くことができずショートに逃げるのですが、そこでも仕掛けが弱く雰囲気で楽しんでしまうのです。

刺激、掴み、期待値、どれもグサッとくる私に欠けるキーワードです。
もっともっと文と向き合わねばなりませんね。

改めて逃げていた自分に気づけた気持ちです。
お言葉、しっかりと受け止め、向き合ってみます!
ありがとうございました!

shion
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会社員の一日という感じですね。これはこれでいいと思うのですが、何か読者の気を惹く出来事や物語があるといいかもしれません。

ナナシログミ
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shion 様

読んでいただき、ありがとうございます!

かなり平坦な文が並んでしまいました。
イベントなど思い切って入れていかないと話としても退屈になってしまいますね。
もう少し山下視点で展開できるイベントを考え直してみます!

ありがとうございました!

R
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>その一週間後、会社からいなくなった。のは登場人物4人のうち誰がそうなってもおかしくない流れになっています(つまり、誰かが誰かと入れ替わっても話は成立する)。私はこれを読んでいて、いったい何を読まされているのか、わからない、といった気分でした。どんな作品でもその根底には、筋というものがあって、言い換えると、作者が何がやりたいか、という動力が感じられるものです。もし筋がない、何も意図されていないものであるならば、それは、あえて筋をなくしたり、意図を消したりしているに過ぎません。御作には動力が働いていない、じやあ動力をつけるために、川田がいなくなる理由やその伏線をうまくはればいいんだという発想も、それは話のつじつま合わせに終始する、という意味で、ほんとうの動力にはならないと感じます。なぜ、作者はこの短い話の中に4人も登場人物を出したのか、なぜずっと雨を降らせて、みんなのやる気を削いでいるのか、そういった細かいことの奥には、きっと作者の無意識が働いているはずで、そんな重箱の隅に追いやった無意識にこそ、ほんとうの動力が隠されているのだと思います。

ナナシログミ
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R 様

読んでいただき、ありがとうございます!

動力などは全く意識していなかったと思います。
意図して書いた、というよりも頭に描いた一部分の映像を模写するように辿った感覚に近いかもしれません。
この場面を描いたことも無意識に隠れた動力によるものなのでしょうか……。

なぜ4人もいるのか、確かにそう聞かれてしまえば意図はそこにあったのか私にもわからなくなってしまいました。
この作品との向き合い方で今後の書き方が変わるのかもしれません。

何かヒントというか、自分に向き合うことを考えるコメントを頂戴したように感じます。
お言葉、ありがとうございました!

アリアドネの糸
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具体的なお話の割には不透明でもやっとしました。というのも、具体的な描写が状況を書くという意味でしか働いていないからだと思います。本筋とは無関係に思えるところをほど、状況ではなく舞台を描くように意識する必要があるように思えます。舞台が見えないから、本当に察するべき前兆の方に集中するのが難しかったです。

大丘 忍
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私はこのようなビジネスの世界とは無縁の生活を送っていたので、川田が一週間後に舐めた理由がさっぱりわかりませんでした。

ナナシログミ
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アリアドネの糸 様

コメント頂いていたのに、気づくのが遅くなり、返信が遅れましたことお詫び致します。

具体的な描写は出来ていた、この点はいい点として受け止めたいと思います。

ただ本筋に対して舞台を描く、ということろについての意識は非常に希薄だったのは反省すべき点です。
舞台を見せるという作る側の考えが根本的に無かったという私自身の問題と気付かされました。

作品を作る上での考え方を見直してまいります。

読んでいただき、本当にありがとうございました!

ナナシログミ
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大丘 忍 様

コメント頂いていたのに、確認が遅くなり返事が出来ておらず申し訳ありません。

読み手の経験を考えず、一気に走った限定された描写になっていました。
折角読んでいただけたのに、申し訳ない思いです。

共感や想起、そういった事を読み手の経験に頼るばかりではいけませんね。
せめて、そういう仕掛けを出来るくらいに書き手が頑張らねば…と反省です。

読んでいただきありがとうございました!

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