作家でごはん!鍛練場
工員

Outdated cafeteria

【二〇xx年五月十日 ふるや食堂 午前十時半】

 都営大江戸線・中野坂上駅の近く。カウンター席が六つ、テーブル席が二つという場末感漂う『ふるや食堂』。店の壁には古ぼけた映画ポスターが数枚貼ってあった。
 カウンター内のキッチンでコックの西村芳雄はキャベツを千切りにしていた。ラジオからダウンタウン・ブギウギ・バンドの『知らず知らずのうちに』が流れてくると西村は口ずさんだ。
「知らず―知らずのうちに―きみを―すぅきに―なってぇ―」音程は狂っていた。
 横開きの戸が開いた。
 西村は唄を口ずさみ続けた。「知らず―知らずのお―」
 西村はキャベツを切る手を止め包丁を置き、前掛けで手を拭った。「あ、いらっしゃい」
 「ケッ」若い男は店内を見渡した。
 紫の布に包まれた長いものを持っていた。店内に入るなり戸を閉め、カウンター奥に座った。
 西村はクリップボードを手にカウンターから身を乗り出した。「なんにします?」
「さぁてと、何を喰うかな」若い男は振り返り、貼られた品書きを見た。
「牛すじ煮込み定食をくれ」若い男は品書きを指差した。
 西村は首を横に振った。「ああ、出来ないんだよね、それ」
「じゃあ、なんで品書きに載せとくんだ?」若い男は西村を睨みつけた。
 西村は右こめかみを掻いた。「牛すじは昼定だから。ごめんね」
 若い男は西村を睨みつけた。
「で、でも十一時半になったら出せるよ。まだ十時半でしょ」
 若い男は右手の腕時計を見た。「今十一時半じゃねえか」
「そりゃあ、お兄さんの時計が進んでいるからじゃないの?」
 若い男も壁時計を見、自分の腕時計を見た。そして腕時計に耳を近づけた。若い男は腕時計を外し床に叩きつけた。
「ケッ、あんな壁のボロ時計のほうが、香港製のブルガリよりも性能が良いってか。お笑い草だぜ。じゃ、何が喰えんだ?」
 西村は品書きへ顎をしゃくった。「あすこに貼ってあるもんは何でも出せるよ。オムライス、ミートソース、ドライカレー。ピザトーストなんてどう」
「アジフライ定食をくれ」
 西村は再び首を横に振った。「それも『昼定食』って書いてあるでしょう」
「こっちが喰いてえもんはみんな出せねえってのか、え?ずいぶん高級な店なんだな、ここはよ!」若い男は野球帽を脱ぎ、カウンターに叩き付けた。
 西村は両手を振った。「と、と、とんでもない、定食ってものはさ、昼飯どきじゃないとか、数が出ないし、油の準備も出来てなくて。け、決して出し惜しみなんて―」
 若い男は西村の言葉を遮った。「ナポリタンにするわ」
「へっ?」西村は前掛けの裾を胸前で握りしめた。
「そんなら文句はねえだろ。さっさと出しな」
「ナ、ナポリタンね」西村は冷蔵庫を開けた。
 西村はお湯が湧いていた寸胴鍋にスパゲッティ二百グラムを入れ、その間にピーマンにタマネギ、ハムとマッシュルームを刻んだ。
 寸胴からスパゲッティ一本を抜き取り咥えると、西村は麺を笊で取り上げ湯を切った。フライパンに油をひき、煙が出た所で麺と刻んだ具を炒め、トマト・ケチャップを絡ませた。
「はい、お待たせ」西村は若い男の前にナポリタンを置いた。
 若い男は粉チーズとタバスコをかけ食べ始めた。皿の上にピーマンとタマネギを残し、黙ってナポリタンをゆっくりと時間をかけ平らげた。
 若い男は足を組み無言でマルボロ・メンソールを二本、時間をかけ吸った。吸い殻は携帯灰皿にしまった。壁時計の音が大きくなった。
 西村はフライパンを洗いながら若い男へ視線を何度か向けた。
「なに見てんだよ」若い男は西村を睨んだ。
 西村は首を横に激しく振り、手元のフライパンへ視線を落とした。「え、見てないっすよ」
「いいや、見てた。俺の格好がそんなに変か?」 若い男はサングラスを押し下げた。
「へ、変なんてそんな」西村はカウンターに置かれた野球帽を指差した。「そ、その帽子のマークがお、面白いなあ、と思ってさ」
 西村は泡のついた手で汗をかいた額を拭い、ハイライトを咥えた。
 若い男は野球帽を手に取った。「これはな、メジャーのキャップだ。まああんたに云ったところで、分からないだろうがなあ、ヒヒ」
西村はハイライトに火を点けた。「たしか、インディアンズだよね。どこの球団か忘れちまったけど」
「ほぉ、知ってるのか、おっさん。さてはあんた、大卒だな」若者はテーブルに肘をついた。
 西村は煙を吐き出した。「い、いやそんな大した代物じゃないっすよ」
「シカゴだ。最近はそんなに弱かぁねえけどな」若い男は野球帽の刺繍を指で撫でた。
 西村の吐く煙が輪になった。「シカゴはホワイト・ソックスかカブスじゃなかったっけ」
 若い男は眉間に皺を寄せ、野球帽を持つ手を肩まで上げた。
 西村の口からハイライトが落ちた。
 若い男は動きを止め、ゆっくりと野球帽を持った手をおろした。
「確かにそうだったよなあ、大卒のオヤジさんよ。勉強はいくつになってもしなきゃあいけねえなあ」若い男は八重歯をのぞかせた。
 西村は頷いた。「そ、そうだねえ」
 西村は落ちたハイライトを拾い咥えたが、壁時計を見るとハイライトを流しに吐き捨てた。
「おっと、こんな時間だ」西村は腕まくりをした。
 若い男は野球帽を被り、右肩を三度廻すと横へ腕を伸ばした。
「これから昼定食の用意するんだけどさ、何か他に注文は、あっ!」
 若い男が傍らの紫色の布に包まれたものから布をはぎ取ると、長い黒檀の木刀があらわになった。
「ひっ!」西村は三歩下がった。
「何だか分かるよな、大卒のオヤジさんよ」
 西村は食器棚に背中をぶつけた。「ななな何って、ぼ、木刀でしょ!で、みみ見た所ここ黒檀!そ、そうでしょ!」
「そうよ、たまんねえだろ、この色と艶」若い男は黒檀の木刀を左手で握り、刀身をゆっくりと右手で撫で、切っ先を西村へ向けた。「で、俺がこれから何をするかも分かってるようだな、大卒のオヤジさんよ」
「な何って、黒檀のぼ、木刀は結構値が張るんだよねででさ、そういえば噺の柳家小さん、ああ惜しい人亡くしたなあ、あの人たいそうな有段者だったんだよね。そういやギターの指板なんかにも使われててさ、ヴィンテージが最高だの抜かす青二才がメイプル張りだのローズウッドだのウンチク抜かしやがって、あそう云えば黒檀は英語じゃローズウッド、ニール・ヤングもさあ―」西村は汗だくになって言葉を吐き続けた。
「馬鹿野郎!木刀を見せびらかしに来たんじゃねえ!」若い男は柄をカウンターに叩きつけた。「俺はなあ、強盗なんだよ。ギャング、ワイズガイだ。キッチンから出な」
 西村はフライパンを持ってキッチンを出、店内に貼られた『俺たちに明日はない』『スカーフェイス』『ミーン・ストリート』等の映画ポスターと若い男を交互に見た。
「じゃあ、お、おれは―」同じく貼られた『狼たちの午後』のポスターを西村は見た。「ご、強盗に押し入られた、哀れな店主?」
「そうよ、ずいぶん物わかりがよくなったな」若い男は切っ先を西村に近づけた。
「で、でもさ、ちょっと違うんじゃないかい、お兄さん―」
「何だよ」
 西村は両手を激しく振った。「ええと、あんた、宝塚の光の階段から下りてきた座頭市みたいなもんだよ!」
「何いってんだ?」若い男は口を大きく開けた。
「ば、場違いなんだよ!レビューの階段をめくらの勝新が杖ついて下りて来たら乙女達が悲鳴をあげる―」
「訳の分かんねえこといってんじゃねえ!」
「だ、だからさ、強盗ってえのは普通、銀行とか郵便局とかに押し入るもんだろ、そっちに行ってよ!井筒和幸が監督した映画、『黄金を抱いて翔べ』観た?銀行の金蔵襲ってさ、男だったらあん位の大仕事しなきゃ。頼むからさ、金融方面に行ってよお願いだから」
「アホ云うな」若い男は横を向き、小声で呟いた。「いまさら入れるかよ、そんなとこ」
「じゃ、じゃあさ、コンビニに牛丼屋なんてどうだい、あすこには日銭がうなるほどある」
 若い男は首を振った。「あんたにタタキのイロハを聞きにきたわけじゃねえ。こんな男が店に押し入って来たら、店主としちゃあ、することはひとつしかねえだろ?ん?」
 西村は若い男に両掌を見せた。「す、する事、ええと、おいあんた、早まるんじゃない!道の無い奴にはやはりこれからもない、じゃねえや、ここで早まったことしてあんたどうなるか―」
「ごちゃごちゃ云ってんじゃねえ!金出せ!」若い男は怒鳴った。
「こっちは昼前に客一人のシケた店だぜっ!そんな店の稼ぎなんてた、多寡が!あ、そうだ、思い出した!ここで待っても図体のでかいスウェーデン人なんぞこない」
「うるせえ!売上げよこせ全部!おまえの金も、盲導犬育成募金の中身も、総てよこしやがれ!」若い男は木刀を振り上げた。

【同年同月同日 ちょいと後】

 戸が開き、食堂の数少ない常連であるタクシー運転手の堀秀平が扉を開け、店内に入って来た。
「こんちゃ、マスター。いつもの奴」
 堀はカウンター席に腰を下ろし、楊枝入れから楊枝を一本つまみ口にくわえた。「十二時間も転がしちまったよ、オレの愛車。どうせタクシーの運ちゃんやってるならさオレ、アメ公に生まれたかったなあ。ニューヨークかシカゴあたり流してよ、『いつか本当の雨が降ってクズどもを街から洗い去ってくれるだろう』なんか呟いて、いやあトラヴィス、憧れるねえ。で、お取り込み中かい?」
 西村は荒く呼吸をしながら堀へ顔を向けた。堀の後ろには若い男と黒檀の木刀、フライパンが床に転がっていた。
「や、やあ秀平ちゃん。し、仕事はハネたのか」西村は腕で額の汗を拭った。
 堀は若い男を指差した。「酔っぱらいか?オレたち真面目なタクシードライバーが夜なべで車転がして、ハネてから優雅なお食事楽しもうってな時間から酔っぱらいやがって。いいご身分だぜ」
 西村は帽子を被り直し、おぼつかない足で堀の前に行った。「こ、これは。あ、お疲れさん。いつものね。でもあんた、これから帰社だろ?まあ毎回云ってるけど」
「へへ、あれがねえとオレの一日が終わらねえや」堀の頬が盛り上がった。
「やっかい事は勘弁だからね、頼むよ」
 西村はキッチンへ戻り冷蔵庫から柚子を取り出すと、包丁で二つに割った。搾り器で汁を搾り出し、コップに柚子汁を注ぎ冷凍庫から取り出した氷を入れた。棚から泡盛の瓶を取り出し、栓を抜きコップへなみなみと注ぐとカウンターに置いた。
「はいよ、ふるや特製泡盛の柚子割り」
 堀はコップを取り、一気に飲み干した。
 堀は思い切り首を下げた。十秒ほどして顔を上げ、眉間に皺を寄せた表情で西村を見た。「ギムレットには早すぎる」
 西村はため息をついた。「もう、その台詞には手垢が付いてるし『ヴィクターズ』でやってよねえ。あるならだけど」
「へっへっ、これがないとオレの一日が終わらないって。ところでよ」堀は倒れている若い男を指差した。「そいつどうする?お巡り呼んでこようか、って交番に行くのに酒臭ぇのはまずいわな」
 西村の柚子の皮を生ゴミ入れに入れようとしていた手が止まった。
「それともどっかに運んで捨ててこようか?」堀は右人差し指を戸に向けた。
 西村は柚子の皮を床に投げ捨て、両手を振った。「い、いやその、こいつはさ、ええとなんだ。お、おれの甥、そう、甥なんだよ!」
「甥?そいつぁますます穏やかじゃないな」
「いやね、その。こいつは役者でね」
「役者?」
「こ、今度映画のオーディションがあるって云うんでさ」

【ふるや食堂 ちょいと前】

 カウンター席に西村は座り、ハイライトを吸っていた。
 若い男は左手に黒檀の木刀を持ち、右手で頭を掻きむしりながら左右を行き来していた。
 西村は中指で右親指を弾き音を立てた。「つかめたか?」
「まだだよ」若い男は行き来するのをやめ西村を見た。
 西村はゆっくりと煙を吐いた。「あまり根詰めすぎるのはよくないぞ」
「俺の演じる役はどんな人間だと思う?」若い男は左人差し指で眉間を揉み解した。
「そうだな。荒々しくて、破滅的で暴力だけが生き甲斐の、まさに狂犬だ」西村はハイライトを灰皿に押し付けた。
 若い男は左人差し指を西村へ向けた。「そうなんだよ!まだ俺はうわべだけで、そいつの本性をつかみきってないんだよ!」
「うむ。お前の芝居はそこらの若手より巧い。だが、その男から漂う、底知れぬ狂気というものが演技からは漂ってこない」
 若い男は笑顔を浮かべた。「やっぱり叔父さんにはお見通しだ」
「役柄になりきる、ってことは、その役柄の心理が憑依するようなものだからな。若い頃、おれはニコヨン労務者の役を演じるために三週間、山谷で日雇いの仕事やったり連中と焚き火囲んで安焼酎飲んだりして役を掴んだもんだ」
若い男は首を振った。「だけど、俺には時間がない。オーディションは来週、どうしてもこの役が欲しいんだ」
 西村は立ち上がった。「よし、おれは店にチンピラが殴り込みをかけに来たから抵抗する。お前は、ある男が命がけで守ろうとするものをためらいなく破壊しようとする冷酷な心理をシミュレイトするんだ。おれは必死で抵抗するからな、お前は徹底的に暴れてみせろ」
「わかった」若い男は唾を飲み込んだ。
 西村は再び指を鳴らした。「さあ、来い」
「いくよ」若い男は木刀を構えた。

【ふるや食堂 ちょい後】

「―てなわけで、熱が入りすぎちまってのしちまったのよ」西村の喉が鳴った。
 堀はコップの柚泡盛を飲み干し、腕を組んだ。「じゃあ、マスターの甥っ子は未来のデ・ニーロってわけか」
「そ、そんな大した代物じゃないけど」
 堀は大きく頷いた。「いや、感動したわ。こんな若造いや失礼、役者がスタニスラフスキの実践者なんてよ。最近の映画ドラマじゃあ、モデル上がりが役とホンに企画用意してもらって俳優きどりだぜ。おまけにハリウッド進出だってよ、冗談じゃねえや。ここはさしずめ、『ふるやアクターズ・スタジオ』ってとこだな」
「いや、おれも若い頃は『阿佐ヶ谷のストラスバーグ』なんて呼ばれてたからさ」西村は首をすくめた。
 堀はキッチンを見渡し、腕時計を見た。「この様子だとオレがミックスフライ定食にありつけるのは先になりそうだな」
「ご、ごめんねゴタゴタしちゃって」西村は両手を合わせると、コップをシンクに置いた。「で、今日も乗車?」
「今日も夜勤なんだけど、その前に」 堀は肩を震わせて笑った。「グロリアちゃんと映画観る約束してんのよ」
 西村は首を左に傾げた。「グロリア?」
 堀は人差し指を天井に向けた。「ほれ、前に連れていったろ、『パランタイン』のとこの娘」
「あ、ああ、新宿西口のキャバクラか。外人のねえちゃんなんてあすこにゃいたっけ」西村は腕を組んだ。
 堀は右人差し指を三度振った。「国産だよ。グロリアは源氏名」
 西村は首を捻り、少し上を見上げた。「ああ思い出した、あのぽっちゃりか」
「ひでぇなマスター、ぽっちゃりとは。グロリアちゃん、美大生なんだよ。いわゆるアート・シネマっての?ああいうのが好きなんだ」
「アートシネマねえ」西村は左鼻孔から鼻毛を抜いた。
「立教だかムサビだか知らねえけど、映画サークルのコンパによく顔出すらしいんだけどさ」堀は女の声色を不気味に再現した。「グロリアちゃん、『あの人たちのより、秀ちゃんの話のほうが面白ぉい!』ってよ、グフグフ」
 西村は深く息を吐いた。「単なるリップ・サーヴィスなんじゃないの。秀平ちゃんの観てきた映画って偏ってるからさ、ああいう若いねえちゃんには通じねえと思うけどな。熱く語ればそれだけ引くと思うがね」
「ケッ、小津だ溝口だゴダールだ何てどこぞの大学元総長の真似して能書きたれる若造どもとは年季が違うってことよ。ああいった若造どもは海が見えて市電走る街の踏切で8ミリカメラ回してりゃいいんだよ。『恋人たちの夏、あるいはまぐわりなしの十代』なんてよ、ぐはははは!これを下品と呼ばずにいられようか」
「な、なんか連中に恨みでもあんの?」
「青山真治とかああいう青二才が大嫌いでさ」堀は再び楊枝をくわえ立ち上がった。「じゃあマスター、ギムレットはつけといてよ」
「あ、あいよ。で、でさ、何を観に行くんだい」
「何観るかはまだ決めてねぇけどさ、上野国際に連れていくよ」
 西村は目を見開いた。「あんた、国際ってピンク映画の小屋じゃないのよ!正気か!」
 堀は舌を鳴らし、人差し指を降った。「へへ、マスターも古いねえ。今じゃあ日本のピンク・ポルノ映画が若い奴らにもはやっているんだよ、文化の殿堂、アテネ=フランセなんかでも特集上映会があったりさ。それでよグフフフ、オレのセンスの良さにグロリアちゃんもメロメロになるはずさ。ついでに興奮しちゃったりしてってマスター、何云わせるんだよ恥ずかしいなあ!」
 西村は首を左に傾けた。「あんたが勝手に云ってるだけでしょうが」
「じゃあマスター、またね」堀は戸を開け、店を出た。
 西村は帽子を脱ぎ溜息をついた。「文化の殿堂ねえ」
 転がっている若い男に視線を落とすと西村は側により軽く蹴っ飛ばした。

【過去 早明館大学キャンパス】

 広大な敷地面積を持つ都内でも有数の大学、早明館。ブックバインダでまとめられた教科書とノートを抱えた多くの学生たちが道を往来し、ベンチに座ってはおしゃべりをしていた。
 講堂前の広場の片隅で、十五名ほどの学生が集会を行っていた。集会の学生たちは角材を持ち、横二列に並んでいた。
 列の前でセクトの副委員長、野崎慎一郎が立ち、アジ演説を行っていた。列の最終に、加藤とも子と、若き日の西村が立っていた。
 とも子は工業用金属ベアリングを詰め込んだビニールホースを右手に持っていた。西村は大きなリュックサックを担ぎ、中華鍋につけた長いヒモををたすきがけにしてぶら下げていた。
 野崎は甲高い声で叫んだ。「諸君、私は諸君に誤らなければならない。それというのも、我々の指導者にして尊敬する委員長が先週、不当な暴力組織にして狡猾な官憲の手に落ちたという、その事実を伏せていたのだ」
 メンバー達の間にざわめきが広がった。
「諸君の怒り、憤りは痛い程分かる。彼、言云うまでもなく森下委員長は我がセクトの精神的・物質的支柱存在にして―」
 野崎がアジ演説をしている最中、とも子と西村は小声で会話をしていた。
 とも子は西村に耳打ちした。「パクられたの、森下」
「ああ、金曜日にな」西村は下を見続けた。
「へえ、やるじゃない。屁理屈ばかりこねる、いけすかない小心者のとっちゃん坊やとばかり思っていたんだけど」
 西村は溜息をついた。「何がやるもんかい。看護婦さんの寮にだな、女装して忍び込んでよ、ばれて看護婦たちにフクロにされて交番に突き出されたんだよ。あいつ、あの貧相な無精髭のツラで女装もクソもねえだろうに」
 とも子は低い声で笑った。「はははは!左翼冒険主義っての?体を張ったわけね、森下のとっちゃん坊やは」
「左翼っていうよりよ、左巻きっていうんじゃねえか?」
 野崎は甲高い声でアジ演説を続けた。「しかし!委員長が主戦をスライドし別の闘争を闘っているとはいえ、我々は彼の理論の忠実な実践者であることは疑いの余地はない!故に我らの闘争には何の支障もきたさないのだ、諸君!」
 メンバー達はシュプレヒコールを上げた。「異議なし!」
「反帝、反スタ!」野崎は拳を上げた。
 メンバー達は互いに顔を見合わせた「えっと、パンティ、パンスト!」
 集会の傍らを通る学生達は、顔を伏せたり笑いを殺して通り過ぎて行った。ベンチに座る学生は集会へ指を指し笑っていた。
 西村は右手で顎を摩った。「あんな連中が兆が一京が一よ、革命政府とやらのお偉いさんになったら、同志議長さまは林家三平がご就任するだろうよ、きっと」
「いいじゃない、アナーキーで」とも子は左眉を掻いた。
「冗談じゃねえよ。『どうもすみませーん』とか抜かして自己批判するのかよ」
 とも子は口元に笑みを浮かべた。「そしたらシベリア送りかもね、赤塚不二夫と一緒に」
 西村が無駄口を叩いていると、野崎と目が合った。
「聴いているのかね、西村君!」野崎は怒鳴った。
 西村は直立不動の姿勢を取った。「は!はい、聴いておりますとも同志副委員長どの!」
 野崎は溜息をついた。「君の闘争への理念に対して、時々疑念が生じるよ。だが君は、兵站いわゆるロジスティックの責任者たる立場だ。そのあたりを自覚してくれたまえ」
「わ、わかっておりますとも、同志副委員長どの」
 野崎はとも子を見た。
 とも子は細く鋭い目で野崎を見返し、口元に笑みを浮かべた。
 野崎は何も云わずに列の前方へ戻り、右腕を廻した。「諸君!我々はこれからキャンパスをひと通り歩き、一般学生へのオルグを開始する。自発的なエナジーはやがて一つとなるのだ!さあ皆、前進!」
 メンバー達は先頭を野崎にしてキャンパス内を、シュプレヒコールを叫びながら行進した。
 ほぼ同時に十三人の竹刀を持った剣道部員達が、横一列に並び近づいて来た。
 メンバー達は小声で云い合った。「臨戦態勢だっぺよ」
 西村は襷がけにした紐を引っ張った。「な、なんか不穏な空気が漂ってきたな」
「そのようね」とも子はビニールホースを握りしめ、満面の笑みを浮かべた。
 メンバー達と剣道部員達との距離が十メートル程になると、剣道部員達が怒号を発しながら向かって来た。
 野崎の腰が引けた。「け、権力の手先の犬の走狗どもの我が前衛諸君の宿敵で、ええとなんだとにかく敵だ! 皆、れ、列を崩すな!勝利は我らに!」
「おおっ!」メンバー達は右手を挙げ、角材とプラカードを構えた。
「と、いうことになったからおれは失礼する。じゃな」
 逃げようとする西村のリュックをとも子は掴んだ。「西村、あんた逃げる気!」
 西村はリュックを揺らし、とも子の手を緩めようとした。「逃げるんじゃねえ、転戦と云え。ああいったバカどもと戦を構えるのは懸命じゃないって孫子もクラウゼヴィッツも毛沢東も、ゲバラも云っているからな、あばよ!」
 西村はリュックから肩を抜き逃げた。
 とも子は地面に落ちた西村のリュックを蹴飛ばした。「この玉無し野郎!」
 一方の西村は集まった見物人の間に飛び込み、身を低くして走った。人ごみのなかで、西村は見物人の足に頭をぶつける。
「おっと、ごめんよっ」西村は詫びた。
 右によけ、進もうとする西村の進路を足が遮った。左によけ、進もうとする西村の進路をさらに足が遮った。
 西村は身を起こした。「通してくれよ!こっちは急いでいるんだよ!」  
 足の主を見上げるとそれは剣道着姿の黒崎剛一で、黒檀の木刀を左手に下げ立っていた。「く、黒崎!くんじゃないか!」
 黒崎は無言で西村を睨んだ。西村は後ずさりした。
 セクトのメンガーが西村と黒崎の周辺から離れ、円形の空間を造った。
「や、やあ黒崎君。練習かい?熱心だねえ」
 黒崎は黒檀の木刀を右手に持ち替えた。「西村」
「ぼ、僕はだね、これから詩のサークルの会合へ行かねばならないんだ。これで失敬するよ」腰を抜かした西村は、四つん這いになって黒崎の横を抜けようとした。
 黒崎は、黒檀の木刀を西村の眼前の地面に突き立てた。
「ぎゃ!」 西村は仰け反った。
 黒崎は黒檀の木刀を地面から引き抜いた。「何が詩だ、この糞野郎!貴様がサークルから追い出されたと知らないとでも思っているのか!」
 西村は身振り手振りを始めた。「いや、それは、ええと僕の都会的なセンスと彼らの頑固な伝統主義があわなくて、いわゆる方向性の違いって―」
「貴様から腐った詩の講釈なんぞ聴きたくないわ。貴様があのボロセクトの議長だということは承知している、この非国民が。多勢に無勢、ただ壊される為にいるハリボテ野郎だ」黒崎は西村の鼻先に木刀の切っ先を向けた。「伝統ある早明館大学の栄光を汚す時代錯誤の売国奴だ、貴様らは」
 西村は首を激しく振った。「ご、誤解だよクソ、じゃなく黒崎君。ぼ、僕は確かにそりゃ、セクトの関係者といっちゃあ関係者だけどさ、議長なんかじゃ。そんな大層なポストなんてないって、ここには」
 黒崎は無表情だった。「俺には関係ない。腹を決めて成敗されるんだな」
 西村は正座し、両手を地面につけた。「か、覚悟もなにも、僕は無理矢理引っ張られたんだよ!とも子、加藤とも子が、加わるかそれとも総括されるかどちらかを選べなんて不毛な二者択一を迫るもんだからさ―」
 西村は額を地面にこすりつけ、両手を合わせ視線を上げ黒崎を見た。
「とも子」潤んだ黒崎の両目がつり上がり、頬肉が盛り上がった。ビリケンをさらに不細工にしたような顔となった。
 黒崎の顔を恐る恐る盗み見た西村は吹き出した。
 黒崎は黒檀の木刀の柄を両手で掴んだ。「何がおかしい!」
「い、いえ、口に砂粒が入ったので、ペッペッペッ」西村は地面に唾を吐いた。
 黒崎は黒檀の木刀を一振りした。「そもそも貴様がとも子をたぶらかしたんだろうが!貴様が『今はセクト、運動がナウいんだよ』だの何だの吹き込んだせいで、あの純真なとも子は詩のサークルから飛び出したのだっ!貴様がとも子の溢れんばかりの文学の才能を潰したのだ!貴様が憎い、俺は!」
「なんたるフィクション!」西村は後ろに飛びあがった。
 黒崎は二歩さがり、木刀を青眼に構えた。
「そ、そのお話には多大な瑕疵と錯誤と偏見と妄想が入り交じっていると思われますが訂正は次の機会にするとして―」西村は跪きながら両手を合わせた。
 黒崎の充血した目が赤くなった。「次などあるかっ!」
「と、とも子いや加藤さんには、さ、才能なら今でも十分にありますよ、ええと、一芸は多芸に通ず、というやつですかね、あの粗野で何にでも反対することしか甲斐性のないという連中どもの中でも頭角を現して、今じゃあ行動部隊の実質的な隊長ですよ、といっても僕ら、十数人程のチンケな所帯ですがね、でも新撰組でいったら土方歳三か沖田総司、永倉新八モンですよ。ええと、ほら、あすこ」西村はメンバー達と剣道部員達との乱闘現場を指差した。
 黒崎は指差された方向を見た。剣道部員達は返り討ちにされ、地面に転がっていた。
 とも子は這って逃げようとする剣道部員の背中に、何やら叫びながらビニールホースで一撃喰らわせた。
 剣道部員は右手で宙を掴み、地面に突っ伏した。
 黒崎は左手で目を覆った。
 西村は何度も頷いた。「やはり才能のある人はひと味違うなあ」
「ふざけるな!あんなのは才能でも何でもない!とも子は文学あってこそ才能が煌めくのだ!セクトなんぞに入ると人づてに聞き、俺は必死に止めたのだ!」


【日時不明 キャンパス 夕方】


 夕日で赤く染まった教室に、とも子と学ラン姿の黒崎。黒崎は直立不し、とも子はピースを吸いながら机に腰かけていた。
 とも子は煙を吐き出した。「なんの用?忙しいんだけど、あたし」
「とも子、セクトに入るって話は本当か?」
「なんであんたが知ってるのよ」
 黒崎は頭を掻いた。「いろいろ調べた。詩のサークルの人間を有無云わさず片っ端から締め上げたんだり、セクトの人間を半殺しにして聴き出したり―」
「それだけじゃないでしょう。あたしの部屋のポスト、何度も荒らしてたのはあんたでしょ?あきれたわね」とも子は唾を吐いた。
 目を見開き瞼に手をあて、とも子の視線を一旦遮った黒崎は両手を必死に動かした。「いいかとも子、政治の季節なんてとうに過ぎた。安田講堂が陥落したのはもう昔話だし、赤軍は海外でお土産屋やっているらしいじゃないか。あんなのは一時だけのカンジタなんだ」
「それを云うならハシカでしょう」
 黒崎の顔が真っ赤にした。「い、一時期だけの熱にあてられてバカなことをするのはもったいないよ、とも子。そんなカン、ハシカのために、君の持つ、素晴らしい詩作と文学の才能が潰されてしまうことに俺は耐えられないんだ!」
「才能?あんたからどうだこうだ云われたくないわ。あたしはあたしで楽しくやってるんだから。それに、才能? そんな黒塗りの棒きれにしがみついて、男の自信のなさから目をそらすような奴に云われたかないわ」とも子は鼻で笑った。
 黒崎の体が揺らいだ。「と、とも子」
「体育会の筋肉バカには理解出来ないでしょうけど、刀とか武器とかは象徴なのよ、男根の」とも子は黒崎の股間を鋭い目で見つめた。「フロイトなんて知らないでしょうけど、あんたのコンプレックス、かなり強いのね。そんな黒光りした、太くて立派な黒檀の木刀に固執してんだから。ははは!」
 黒崎は俯いた。
 とも子はピースを床に落とし、爪先でもみ消した。「まあ、あたしはあたしで楽しくやっていくわ、左右関係なくぶちのめして。だからあんたもこれ以上つきまとわないでね。あたしあんたみたいに県人会に入ってないのよ、阿呆くさい。肥えくさい田舎者どもが」
「そ、そんな」黒崎の目が潤んだ。
 とも子は踵を返し、出入り口へ向かった。「じゃあ、あんたもせいぜい棒切れ振って頑張ってね」
「剣道は人生そのものなんだ、そんな云い方しなくたって―」
「訳のわからない紙が送られてきたの。贔屓目に見てやって、詩ね、胸くそ悪いけど。多分、幼稚園くらいの子どもか白痴が書いたんだろうけど、あんたなら知っていると思って。その人かどこぞの阿呆にこれ返しておいて」とも子は尻ポケットから紙を取り出すと便せんを宙に放り投げた。
 黒崎は宙に舞う便せんを必死で掴もうとしたが途中、椅子につまづき転倒し机の列に頭から突っ込み列を滅茶苦茶にした。
 とも子は甲高く大きな笑い声をあげながら教室を出て行った。
 嗚咽しながら黒崎はとも子、とも子、とも子と呟き続け、なんとか手にした便せんを広げた。
     
 加藤とも子さまへ

 丘の上の西瓜―T・Kに捧ぐ
     
  丘の上に西瓜 ひとつの西瓜
  丸くて可愛い 僕だけの宝物
  西瓜は君 僕は百姓
  待っていておくれ 収穫には早い
  誰にも渡すものか カラスに泥棒
  何が来たって 僕が追い返すのさ
  このクワと たくましい肉体
  摘み取れるのは 僕だけなのさ

        あなたの黒剣士 G・K 

【早明館大学キャンパス】

 西村と黒崎のいる場所から離れた所で、とも子がビニールホースを振り回しながら見物人の群れに突っ込むと見物人たちから悲鳴があがった。
「どこをどう見たら文学女に見えるってんだ。竹刀でボコスコ殴られすぎたのか」西村は小声で独り言ちた。
 黒崎は木刀を構え直し、西村の鼻先に切っ先を突きつけた。「何か抜かしたか、このゲゼン野郎!」
「そ、それは女衒、いや誤解だって。いやその、黒崎君にはすまないと思うよ、君の後輩たちがあんな目に―」西村は両手を合わせた。
 黒崎は西村を充血した目と頬肉が盛り上がった形相で睨んだ。「総て貴様のせいだ」
「い、いや、元々加藤さんとは同じアパートでさ、ある日顔を合わせたときに聞かれたんだ、『大学に入ってどうも同じ毎日でクサクサするんだけど、何か鬱憤ばらしできるとこってある?』と。僕は『そうさね、何か表現活動でもしてみたら。人生は暴力の一編の詩に如かず、って芥川龍之介もスカしたこと抜かしてたし』と答えて彼女は詩のサークルに入ったんだよ。過激で伏せ字だらけの詩を数篇作ってすぐ辞めちゃったけどね、黒崎君も知ってるだろうけど」西村は両腕を激しく動かした。「後で調べたら暴力じゃなくてボードレールだったんだけどさ。彼女に知ったかぶりを云ったことは誤りだったと認めるけど、人はそれぞれおのれの道を歩むときが来るんだよ黒崎君。僕にも当然あるし加藤さんはウーマン・リブの闘士、そして黒崎君は、ええと、その」
「俺は何だ。貴様は!」
 西村は腕を組み、考えるそぶりを見せた。「ええと、そうだなあ。僕は講談師、おっ、君にはぴったりのがあった!」
「云ってみろ」
 西村は両手を叩いた。「そりゃあもう、ピッタシ!君のふさわしい、人生を賭けるに値する輝かしい道はそれしかない、それは」
「何だ」
「筑波は蝦蟇の油売り!どう―」
 黒崎の目尻が切れんばかり目が大きくなり、切っ先を西村の喉元へ突き出した。
「ひゃあ!」
「貴様は俺の人生を狂わせた。貴様も死ぬが俺も腹をかっ切る」黒崎はとも子の方へ目を向けた。「さよなら、とも子。さあ西村、冥土へは一緒だ!」
 黒崎は木刀を振り上げた。

【ふるや食堂】
 
若い男の片目が開いた。何度も両腕を前に突っ張って、上半身を起こそうとしていた。
 西村は散らばった箸を拾い集め、箸入れに戻した。『臨時休業』と裏面に印刷のない広告チラシにヘタクソな文字をマジックで書いていた。
「う、うーん」若い男はうなり声をあげた。
 西村は男に目をやった。「お、若造。目が覚めたか」
 若い男は両目をこすり、うめき声をあげた。そして身を起こし、起き上がろうとした。
「おっと、動くんじゃねえ。入るとき、誰かに見られたか?」西村は若い男を睨んだ。
 若い男は首を振った。
 西村は戸へ向かい、内側から外の様子を伺うと、『臨時休業』のチラシを戸の外側に張り付け、戸を閉めると鍵をかけた。そしてカーテンを閉めた。
 若い男は両膝で上半身を起こしていた。「お、俺をどうする気だ?」
「へっへっへ、どう料理してやるかな」西村は振り返って若い男を見た。
 西村は黒檀の木刀を持ち若い男にゆっくりと歩み寄った。
 若い男は体を起こし、尻を床につけたまま後ずさりした。
「随分と値の張る代物だったろうよ、こいつは」西村は舌で上唇を舐めた。「この滑らかで柔らかみのある質感、堅固な拵え。こんな銘器でやられたら、どんな痴態を繰り広げるか、おれは見てみてえな」
 西村は満面の笑みを浮かべ、キッチンへ向かった。
 若い男は金切り声をあげた。「そ、そいつで俺をぶちのめすのか!」
「そんなバイオレンスな真似するか、おめえは知らねえだろうがな、この界隈では『ミッドナイト・スペシャル』てぇ云うんだ。差しつ差されつ、まさに男だけの世界。味わせてやるよ、これから」
 若い男は目を見開いた。「ま、まさか!そいつで俺の―後ろを―」
「心配すんなや、ちゃんとサラダオイル塗って入れてやるからよ。感じてみるか『処女の痛み』って奴をよ。それとももう経験済みか?」西村は黒檀の木刀とサラダオイルの缶を持ちキッチンから出、若い男へ歩みよった。
 若い男は右手を西村へ向け、左手で尻を押さえた。「あっ!や、やめろそれだけは!やめて!」
「レッザミッナイスペシャルゥシャイラノンミィ―」西村は鼻歌を唄いながらサラダオイルの缶の蓋を空けた。
「嫌っ、やめてお願い助けて!」
 西村は鼻唄を止め、無表情で若い男を見下ろした。
 若い男は壁際まで下がり、両手を合わせ題目を唱えていた。
「んなことするわきゃねえだろが。そんな趣味ねえよ、気色わりぃ」西村は黒檀の木刀を脇に投げ捨て、サラダオイルの缶をカウンターの上に置いた。
 若い男は壁に背をつけ、大きく息を吐いた。
 西村はハイライトを咥えた。「物騒なモン持ち込みやがって、このチンピラが」
「物騒なのはどっちだよ!死んだらどうすんだよ、うっ」若い男は両手で頭を押さえた。
 西村は若い男の前にしゃがみ込んだ。「勝手な事抜かすな。お前こそあのオモチャでおれを殺そうとしたろうが」
「こ、殺すなんてとんでもない!た、ただ脅すつもりで―」若い男は両手を振った。
 西村はカウンター椅子に腰を下ろし、ハイライトに火を点け煙を吐いた。「脅しだと?この若造が」
「お、おっさん、あんた、ただの安食堂のコックじゃねえな?」
「安食堂は余計だこの野郎!」西村は若い男へ火のついたハイライトを投げつけた。
 若い男は体を捩った。「ひえ!」
「今から三十年くらい前になるか」西村は若い男からキッチンに視線を移した。「大学んときにな、木刀で殺されかけたんだ、右翼のゴロツキ野郎にな」
 西村は再びハイライトを咥え、火を点けた。
「右翼?」
「その頃、おれは学生運動の―」
 若い男は手を叩いた。「ああ分かるよ。あんたはその反対、サヨクだったんだな」
「云い方が気になるが、まあそんなところだ」西村は若い男を睨んだ。
「知ってるよ、熱い時代だったんだろ!俺、『テロリストのパラソル』、あれ三回読んだんだ!俺ももっと早くに産まれて暴れたかったよ」
 西村はハイライトの煙を吐いた。「アレはあれでいいが、所詮おとぎ話だ。実際はもっともっと泥臭くてな、業と欲が入り交じる世界だった。確かにおれらも暴れ回ったが、もう学園闘争の季節は終焉を迎えていた。木刀のことだがよ、あん時おれらはキャンパスをオルグして廻ってた。その時、右翼風吹かした剣道部員どもが殴りこみかけてきやがってな、おれらと連中とで乱闘が始まった」
 西村は棚からサントリー・オールドのボトルを取り出した。
「こっちが流行と惰性で運動やってる、軟派野郎の烏合の衆だと舐めてやがったんだろうが連中はな、道場で棒切れ振り回してる野郎共とは踏んだ場数が違うわけだこっちはよ。おれは剣道部員どもを次々と血祭りにあげてやったんだ。素手でな」
 西村はカウンター上のグラス置きからサッポロビールの商標の入ったコップを取り、ボトルのキャップを空けた。
 若い男は西村の隣の椅子に腰を下ろした。
 西村の目が細くなった。「なんだお前、だれが座っていいと云った」
「ま、まあいいじゃないすか、が、学生運動の闘士とご同伴できて感動してんすから、俺」若い男は両手でボトルを持ち、ウィスキーを西村のコップへなみなみと注いだ。
 西村は口元にかすかな笑みを浮かべた。「見え透いた世辞抜かしやがって。おれと椅子を並べるのは二十年早い」
「ど、どうもすんません」若い男は頭を下げた。
 西村はウィスキーを一気にあおり、グラスを空にした。若い男は再び注いだ。
「で、何の話だったかな」西村はウィスキーを舐めた。
「剣道部員のお話ですよ」
「そうだったな。連中が総崩れになったときに、副主将の黒崎、って奴がおれの前にやってきた」西村は若い男の顔を睨んだ。「お前が持って来たのと同じ、黒檀の木刀をぶら下げてな」
 若い男の唾を飲み込む音が大きく鳴った。

【早明館大学キャンパス】
 
黒檀の木刀を下げた黒崎が、袴を季節外れの北風にたなびかせゆっくりと歩いて来た。
「ふ、副部長!」剣道部員たちは歓声をあげた。
 セクトの中心メンバーの保原と川内、並木が怒号を発し黒崎に襲いかかった。
 保原は角材を槍にし黒崎に突進した。「この右翼めっ!」
「チェストーッ!」川内は角材を上段に振りかざし黒崎の面に打ち込もうとした。
 並木は角材を振り回して、左から黒崎を攻撃しようとした。「お、思い知らせてやるっ!」
 黒崎は保原、川内を左右の抜き打ち胴で打ち払い、並木の右肩を一撃した。三人は倒れた。
 メンバー達は絶叫した。「く、黒崎だあ!」
 黒崎はメンバー達と剣道部員達の間をゆっくりと歩んだ。
 黒崎の前を野崎が立ちふさがろうとしたが、西村は野崎の肩を掴み後ろへ引き下げた。
 野崎は丸い目で西村を見た。「に、西村君」
「おれに任せな」西村は鼻の下を指で擦った。
 西村が前に出ると、メンバー達と剣道部員達、そして見物人達は黒崎と西村の周り丸く囲んだ。
 黒崎はゆっくりと周囲を見渡した。「好き勝手にやってくれたもんだな、この経済成長時代の床に蔓延る虱どもめ」
「いよいよ真打ち登場、ってわけか」西村は口元に笑みを浮かべた。
 黒崎は木刀を下段に構えた。「残念だったな、西村」
「何がだ」西村は腕を組み首を廻した。
「ふっ、俺が出てこなければ、無傷に、な。貴様とそいつら売国奴、アナクロ野郎どもが」
「こっちはいつお前が出張ってくるか待ちわびていたところだ」
 黒崎は黒檀の木刀を右、左と音を立て振った。「貴様も運がいい。この不肖黒崎に半殺しにされたとなれば、貴様の通うような安酒場での話の種になるだろうからな。もっとも、貴様ごとき虫けらの親玉を叩きのめしたところでこっちには何の得もない。清く正しい体育会だからな」
「ふっ、お前が入院したなら学校の事務部長あたりが見舞いに来てくれるだろうぜ、ビニールのおもちゃの刀を土産にな」西村は鼻を鳴らした。
「云いたいことはそれだけか」
「能書きはいいからさっさと来やがれ」
 黒崎は黒檀の木刀を八双に構えた。
 西村は右肘を脇腹につけ、左拳を額の上で固めた。
 数分間、両者はにらみ合った。周りの人間も固唾を呑んで見守った。
 突如、鳩が一斉に陸を離れ羽音が轟音となった。
 黒崎が構えをとき、上段の構えで西村へ突進した。「けぇぇぇぇ!」
「チッ!」同時に西村が前へ突進しようとした瞬間、右靴の紐が切れ体勢が崩れた。
 ひざまずいた西村の前で、黒崎は両手で青眼に構えた。「貴様らは総崩れだ!」
 黒崎は黒檀の木刀で突きをかましたが、西村は体を右に投げ出し一回転半すると体勢を整えた。
 黒檀の木刀は宙を突き、黒崎は前のめりになった。
 体勢をもとに戻した西村はすばやく黒崎のふところに飛び込んだ。
「き、貴様!」 黒崎は目を見開いて西村の顔を凝視した。
「お前こそ自慢になんぞするなよ、おれは名なんぞ売るつもりはさらさらねえ」
 西村は黒崎の右腹へフックを放ち、よろめいたところで左フックを黒崎の右ツラへ放ち、とどめのアッパーカットを食らわせた。
「ぐえ!」
 黒崎は後ろへ二三歩下がり、黒檀の木刀を杖にし体勢を維持しようとしたが吐瀉し、黒檀の木刀を放し吐瀉物の広がる地面へ顔面から突っ伏した。

【ふるや食堂】
 
西村はコップに口をつけた。「―てなことがあってな、それ以来おれは」
「す、すごいっすよ!おっさん、いやマスター」若い男は顔を引き締め、拾った黒檀の木刀を見つめた。「とんでもねえ人の所にタタキに入っちまった、俺」
「まあ、奴を血祭りにあげたことは確かだが、以来木刀を目にすると体が強張ってな。倒れる黒崎の野郎の形相が凄まじかったからよ」西村はウィスキーをあおり、コップを空にした。
 若い男はカウンターから、西村へ土下座した。「ほ、本当にすんませんでした!」
「まあいい、座れ。他愛もねえ昔話だ」西村は若い男へ視線を向けず、コップにウィスキーを注いだ。
 若い男は首をさげながら椅子に座った。
 西村はウィスキーをあおった。「まあ、おれも歳だからよ。あの頃のような無茶は出来ねえ。だがな」西村は目を細くし若い男を睨んだ。「お前のような若造の二三人が束になってこようが、おれの相手にはならねえ」
「も、もうこりごりっすよ」若い男は首を激しく振った。
 西村はカウンターに乗った黒檀の木刀をつかみ、水平にし眺めた。
「おれだってこりごりさ。だがよ、いくら平穏な暮らしを望んでいてもやっぱし体に染み付いたヤバい匂いに誘われて厄介事が起きちまう。因果なモンだぜ」
 西村は若い男へウィンクし、コップに口をつけた。

【ふるや食堂の外】

現在の加藤とも子が店の戸の前に立っていた。体型は若い頃と殆ど変化はなかった。『臨時休業』の張り紙を無表情で見つめていた。
とも子は張り紙を乱暴に剥がし、丸めて傍らに捨てた。

【ふるや食堂】
 
西村はウィスキーを呷る手を止め戸に視線を移した。「何か外で音しなかったか?」
「い、いえ何も聞こえなかったですけど」
「気のせいか。『臨時休業』の紙貼ってあっからな」
 西村はウィスキーを注ごうとボトルをコップへ傾けたが、空になっていた。「ちっ、あけちまった」

【ふるや食堂の外】

 電話中のとも子は、地面にしゃがみこみ皮ジャケットのポケットを探り、ショートホープのパッケージを取り出し一本抜き、咥え火を点けた。
「で、どんなものに、そりゃあ、タイトルがなんだろうが好き勝手に書くのが仕事、あたしのね、ええ、書けますよ。繰り返しますね、えっと、エロ69パーセント、バイオレンス30パーセント、純愛モドキ1パーセント、分かりました」

【ふるや食堂】
 
若い男は俯いていた。「あの」
「何だ?」西村は若者へ視線を移した。
 若い男はしばらくうつむいていたが、大きく頭を縦に振ると西村の方を向いた。「俺、自首するよ」
 西村はコップを床に落とした。「お、おめぇそりゃ、お巡りんとこじゃねえか!」
 コップが砕け、ウィスキーが床に広がった。
 若い男は頷いた。「ああ」
「そそれはまずい、行かなくてもいい、行くな!」西村は激しく首を振った。
「恥じてるんだ。あんたは男らしく、激しい時代を生き抜いてここにいる。それなのに俺は」若い男は拳を握りしめた。「タタキ一つ満足に出来ねえ半端モンだ。恥ずかしいぜ、ほんとに」
 若い男は野球帽を被り、立ち上がった。
「ここでケツまくったら一生立派な男、あんたみてえな男になれねえ。だから、犯した罪はきっちりとつぐなう」
「ま、待て!若いうちゃ誰でもな、一度や二度くらい誤ったこと仕出かしちまうもんだ!」西村は若い男の両肩を掴んだ。
 若い男はこめかみを掻いた。「そ、そりゃそうだけど」
「お、おれはこんな老いぼれで先も知れてる身だ。しかしお前はまだ若い、未来もたぶんあるだろ。だからよ、こんなセコいタタキくらいでおれのような日陰者の人生を歩ませたくねえんだ!例えば―」西村は唾を飛ばしながらまくしたてた。

【過去 新宿 路地裏 夜】
 
雨の中を若き日の西村が走り、若い警官が追っていた。
 警官は叫んだ。「止まれ!」
 西村は袋小路へ追い込まれた。振り返ると警官が震えながら警棒を構えていた。
「も、もう逃げられんぞ、に西村!」
 西村は無表情で若い警官を見つめ、両手を下げた。「見逃しちゃあくれねえか」
「よ、よし動くなよ。西村芳男、きき器物破損と暴行、そそそして公務執行妨害その他で―」若い警官の腰はひけていた。
 西村は若い警官を見つめた。「家に帰りゃあ可愛い奥さんと子どもがいるだろ?そんな大黒柱の身の上に何かあったら」
「うるさい!ほ、本官は独身だ!」警官は警棒を両手で構えた。
「そうかい。おれは捕まるわけにはいかねえんだ。しかし、おれがあんたをノシチまったら、おれはあんたの恋人か、親御さん、罪のねえ人まで哀しませちまう」
 警官は甲高い声で怒鳴った。「よよ余計なお世話だ、この暴力集団のはぐれ狼め!すべては貴様らのような、親から金だしてもらってる分際で学校通って暴れてる輩のせいだ!本官の見合いが上手くいかないのも、親父お袋から孫、孫、孫とやかましく云われるのも、すべて、すべて、畜生!」
 若い警官は右にあるポリバケツを警棒で殴りつけた。
 西村は俯いた。「そりゃ、悪いことしたな」
 若い警官は腰を引きながら西村に近づいた。「こ、これで本官のみ、道が開ける、署長賞総監賞、金一封、そ、そして嫁さん!神妙に縛に就け西村芳男!」
 若い警官は警棒を振り廻し西村に飛びかかった。
 西村は右腕で警棒の打撃を防ぎながら、若い警官の動きが止まった瞬間を見逃さず、左右のジャブを警官のツラに浴びせた。
「ぶ、ぶべば!」 警官は後ろに下がった。
 西村はさらに警官の躰に左フックを叩き込み、顎に右アッパーカットを喰らわせた。
 警官は声もなくのけぞり、路上に仰向けに倒れた。
 西村は倒れた若い警官を無表情で見下ろした。「悪くおもうなよ。おれにはやらなきゃならねえことが。まだよ」
 西村はポケットからトルコ風呂の割引券を取り出し、倒れた若い警官の手に握らせ、その場を去った。

【ふるや食堂】

「―てなことが日常茶飯事だった。だが主義主張は関係ないよなお前の行動に。だからよ」西村はレジへ向かった。
「で、でも」
 西村はレジを開け、数枚の札と硬貨を取り出した。「な、何も云うな。おれが黙ってりゃ済む事だ、な?ほれ、いくらか恵んでやる、だからおまえも今日あったことは忘れて黙ってろよ、いいな?」
 西村は若い男の手にくたびれた紙幣と垢と錆にまみれた硬貨を押し付けた。
「わかったよ、ここでやったことは誰にもしゃべらねえよ。それでいいかい」
 西村は頷いた。「清く、とは云わねえが骨太に生きろよ」

【ふるや食堂 ちょい後】
 
若い男はカウンターに置かれた黒檀の木刀を手に取った。「こんなこと云うのもなんだけど、わかんねえな」
「何がだ?」
 若い男は西村の顔を見た。「いや、あんた避けてるよな、サツを」
 西村は砕けたコップを掃除する手を止めた。
「ここまでのあんたの言い草聞いていると、サツをえらく恐れてる。そりゃあ、昔は暴れていたかもしれないけど、もうあんたの傷が塞がるくらいの年は経ってるだろ、指名手配にもなってなさそうだし」若い男は西村を見つめた。
 西村は若い男から目をそらした。「そ、そりゃよ、相性なんて合う訳がねえだろうが、お巡りどもとは。連中はこっちの敵だったんだぜ昔は。時代が変わろうが、おれの生き様は変えようにも変えられねえ。連中の態度と体質だってな」
「でも、運動やってただけで人殺しやったわけでもねえし、少し神経質すぎるんじゃあねえかと俺は思ったんだけどさあ、話聴いてて」若い男は腕を組んだ。
「あの頃の人間は、どいつもおまわりが嫌いなんだよ」眉間に皺を寄せた西村はハイライトのパッケージを取り出した。

【ふるや食堂の外】
 
とも子はガラス戸を叩き始めた。「居るんでしょうこのろくでなし!さっさとあけな戸を!」
 店内から騒々しい音がし、戸の内側のカーテンが開き西村の顔が現れた。目は赤く、引きつった表情をしていた。
「開けろっていってんだよ、この愚図が!早いとこ開けないと塩素と水素を混ぜた洗剤の瓶とバルサン放り込むわよ!」
 ガラス越しの西村は、鍵をぎこちのない手で開けようとするが上手くいかなかず戸は開かなかった。
 とも子は革ジャケットのポケットから鍵を取り出し、自分で鍵を開け、引き戸を開け店内に入った。
 西村は一目散にカウンターへ下がった。
 とも子は乱暴に戸を閉め、震える西村を睨んだ。

【ふるや食堂】

「や、やあとも子。講座は終わったのか、ご、ご苦労様、講師様」西村の声は震えていた。
 とも子は西村の所へ大股で歩み寄った。西村はカウンター椅子を引いた。
 とも子は黙って座り、ワインレッドの革ジャケットの内ポケットからショートホープのパッケージを取り出し一本抜き取った。
 とも子が咥えるや否や西村は火を点けたライターを差し出した。
 とも子は西村を睨みながらショートホープを深く吸い煙をゆっくりと吐き出した。
「どど、どうだい小説講座の方は。有望な娘はいるかい?しかし、真っ昼間から小説の講座に通うなんて、気軽な稼業ときたもんだ風俗たぁ」
 とも子は右手の指二本でショートホープをはさみながら西村を睨み続けた。
 西村は両手を振った。「い、いやおれは職業差別なんぞする男じゃあないぜ、まあ奉仕には違いない職業だ。そんな娘達が実体験もとにして小説書いて世に蔓延ろう、い、いや羽ばたこうだなんてニッポンの文学界は安泰だ、やっぱ顔じゃねえよな、作家てのは。どっかの版元みたいに親のワープロいじって他愛のねえこと書いたモンを小説に仕立て上げて、ツラが良いからってお抱え作家グループ作るなんて冗談じゃねえよなあ」
 とも子は目を細め、再びショートホープを吸い煙を吐き出した。
「文学は行間の隙間からナイフ投げつけるような覚悟と文体で勝負しなきゃならねえよな、フォークナーやスタインベックみたいによう」
 とも子は立ち上がり、西村の胸ぐらを掴んだ。「何がフォークナーよこのろくでなし!また店閉めてぐうたらと性懲りもなく!」
 若い男は突っ立っていた。
 とも子は若い男へ視線を向けなかった。カウンター上のボトルに目をやり、ボトルを左手で取り振ってみた。「全部空けたわねこのアル中。それにこれ、堀さんのボトルじゃないのよ」
「へっ?ああ秀平ちゃんのだったのか、まあ塩舐めながら酒かっ喰らう雲助だからよ奴さんは、だからよボトルの一本や二本くらい」西村は頭を掻き下を向いた。
 とも子は目を見開いた。「雲助?じゃああんたは何なのよ、この怠惰と堕落と白痴の産物、禁治産者!」
 とも子は西村を突き飛ばした。
 西村はテーブル席につっこみテーブルと椅子をひっくり返し、テーブルの上に乗っていた調味料類を床にぶちまけた。
 うめき声をあげながら鈍く起きる西村にとも子はカウンター上の割り箸入れを右手で掴み投げつけた。
 割り箸が散乱し、割り箸入れが西村の顔面に命中した。
「ぎゃあ」西村は再び転倒し、顔面を押さえた。
 とも子は西村のもとへ素早く寄り、ショルダーバッグで西村を殴打した。「ここの賃料の支払い誰がしてると思ってんだよこの屑!」
「そ、そりゃあなた様です!」 西村は頭を両手で抱えた。とも子の殴打に抵抗しなかった。
「聞こえないねえ、酒とタバコの入り口にしか役に立たないんなら焼ゴテ突っ込んで塞いでやろうかその腐れ口!」
 西村は声を張り上げた。「そそりゃ、偉大なる作家『山桜みさを』様です!」
 とも子は西村に何度も蹴りを入れた。「見え透いた世辞吐くんじゃないよどうせ腹ん中ではあたしのこと、いい歳こいたエロ売文屋とでも思ってるんだろうこの豚!」
「め滅相もない官能小説は芸術です!ペンネームの清らかさといったらどんな作家も霞んで」
「心にもないことをこの小心者の風見鶏が!」
 若い男が声を出した。「あ、あのすいません」
 とも子は西村を拳で殴った。「可愛い声だすじゃない、もっと痛めつけたらボーイズソプラノ並みになるかしら薄汚い蝙蝠男が!」
「いまのはおれのじゃありません!」西村は体を丸めた。
「あらまた汚い声に戻ったようねこの―」
「あ、あの」若い男は再び声を出した。
 とも子は西村を殴打するのを止め振り返った。若い男を見るととも子の目尻と口元に皺ができた。
「あ、あら嫌だとんだ所を、ほほほほ!あ、あなた何か御用、ってここはランチルームなんですもの、とにかくお座りに」
「そいつは客じゃねえよ、ああ痛ててて」西村は右手で額を押さえながらゆっくりと立ち上がった。
 若い男は深く頭を下げた。
 西村は顔と肩、腰に腿を摩った。「そいつはな、うちでタタキを働こうとした不埒な若造よ」
「何馬鹿なこと云ってんのよこの呑んだくれ!脳みそ溶けたんじゃないの!」 とも子は西村を睨んだ。
「う、嘘じゃねえよ!」
「こんな所に押し入って何が取れるってのよ!あんたが真面目に働いてさえいりゃ強盗でも窃盗でも歓迎するわよこのいんちきクレタ人!そもそも『ふるや食堂』なんて居抜きで借りたときのだせぇ名前をあんたがこのままにしたほうがナウいなんて抜かすからリフォームも客も」
「見てみろそいつをよく!ぼ、木刀なんて持ってやがる黒檀の!」西村は若い男を指差した。
 若い男はうつむきながら、後ろに隠していた黒檀の木刀を両手を添え前に出した。
 黒檀の木刀を目にしたとも子は目を見張った。
「お、おれはそいつに殺されかけたんだぞ。ま、まあそんな若造に負けるほどまだロートルじゃねえがおれは」
「お黙り!」とも子は再びバッグで西村を殴打しようとした。
 西村は小さな悲鳴をあげキッチンへ逃れた。
 とも子は若い男の顔を見つめた。「こんな時が来るとは何となく思ってたけど」
「はあ?」若い男は口を開いた。
 とも子は黒檀の木刀に視線を移した。

【早明館大学キャンパス】

剣道部員甲が悲鳴をあげながら、右手で竹刀を滅茶苦茶に振り回していた。
 とも子は満面の笑みを浮かべながら、剣道部員甲との間合いを詰めていった。
 剣道部員甲の一打がとも子の体を大きく外れると、とも子はベアリング入りビニールホースで竹刀を払い上げた。竹刀は剣道部員甲の手から離れ飛んだ。
 剣道部員甲は腰を抜かし、背中を見せ四つん這いで逃れようとした。
「この腰抜けが、それでもあんた男?本当に剣道部?体操部じゃないの?これでも喰らいな!」とも子はビニールホースを剣道部員甲の背中へ撃ちつけた。
「ぐぎゃあ!」剣道部員甲の体は反り返り、右手で空を掴み地面に突っ伏した。
「今度はバトン部に入りな」とも子は地面に唾を吐いた。
 とも子は周りを見渡した。目に竹刀と角材で鍔迫り合いをしている保原と剣道部員乙の姿が入った。
 とも子は藤圭子の『新宿の女』を鼻唄で唄いながらビニールホースをゆっくりと振り回し、彼らに近づいた。
 保原はとも子に気がついた。「おっおい早ぐ離れろおめっ!でさっさと逃げれ!」
「なにっ!」剣道部員乙は保原を睨んだ。
 とも子は剣道部員乙の斜め後ろから手を伸ばし竹刀を掴んだ。
 剣道部員乙は少し振り返り、目を見開き口から泡を飛ばし叫んだ。「ああああ!め雌牛!」
 とも子は剣道部員乙の手から竹刀をもぎ取り、投げ捨てた。
 剣道部員乙は保原から身を離し逃げ出そうとしたが、とも子に脇腹をビニールホースを撃ちつけられた。
「どぐわぁ!」剣道部員乙はすぐに地面に崩れ落ちた。
 とも子は辺りを見廻したが、立っている剣道部員はいなかった。
 野崎が鼻血を流しながら、とも子の傍らへ早足でやって来た。保原と川内、並木が続いて来た。
「か加藤君!やりすぎだよ!」野崎は甲高い声を出した。
 とも子は野崎の顔を見ず、肩と首を回した。
「君がそう、まさに般若の如く暴れるから敵の我々に対する弾圧が日に日に増すのだ!」野崎は頭を掻きむしった。
 とも子は無表情だった。「あたしは殺られる前に殺るだけよ」
「暴力は暴力産むだけだっぺよ」保原は呟いた。
 並木はタオルで顔を拭いた。「これは悲劇の連鎖だ」
 とも子は噛んでいたガムを吐き捨て、ポケットからピースのパッケージを取り出し、一本抜き取った。「森下の委員長さんも『学園闘争に終わりはない。混沌とする今、さらなる武装闘争の時代に突入した』っておっしゃっていらっしゃったじゃあないのよ」
「い、委員長のおっしゃった武装とは、理論による武装のことだ」野崎は下を向いた。
 川内と並木は野崎に同調した。「副委員長のおっしゃる通りでごわんど」
「その通りだ」
 野崎は首を上げ、とも子の顔を見た。「れ、連中だって我々を本気で潰そうと思っているわけじゃない」
「じゃあどうするつもりだっていうのよ。共存共栄?誰かマッチ持ってない?」とも子はピースを咥えた。
「そ、それは―」野崎の言葉が詰まった。
 並木がポケットからマッチを取り出し、とも子へ投げた。とも子はマッチを受け取った。
 とも子はマッチを摩ると火をピースに移した。「わかっているわよあんたの腹は、野崎さん。殴られ殴られ殴られ続けりゃあこっちに同情が集まるって寸法。他のセクトからノンポリ学生に至るまで」
 野崎はとも子に人差し指を向けた。「そ、それは違う断じて違う君の主張は根拠の無い仮説であり敗北主義者の」
「こ難しい理屈は結構、このマゾヒスト」とも子は煙を吐き出した。
 野崎の鼻孔から丸めた紙と血が飛び出した。「なんだと!」
 川内は野崎の腕を掴んだ。「ふ副委員長、落ち着きもんそ!」
 並木はアジビラをちぎり小さく丸めた。
「まあいいわ、野崎さん。あんたは殴られて快感あたしは殴って快感、異常性癖集団ね」とも子は指に挟んだピースで宙に円を描いた。
 野崎は丸まった紙を並木から受け取り、鼻孔に詰めた。
「じょ冗談はよしたまえ!我々に対する暴力は理不尽なものだ。それというのも君がいるからだ、加藤君」野崎は腕を組んだ。
 とも子は野崎を一瞥した。「あたしはあんたらを守っているつもりだけど」
「そ、そうですよぉ」とも子の後ろで仰向けに倒れている剣道部員丙が呻き声をあげた。
 とも子は振り返った。「何よあんた。まだやる気?」
 とも子はピースを吐き捨て、ビニールホースを握りしめ剣道部員丙に近づいた。
「かかか勘弁して!」 剣道部員丙は身をよじり、腹這いで逃げようとした。
 とも子は剣道部員丙の逃路を遮り見下した。
 剣道部員丙は両手を合わせた。「じ、自分も嫌だったんですよ、こんなこと!都大会も近いってのに!」
「だったら竹刀振るのは道場にしときなさいよ。こんな真似してあんたらに何の得があるってのよ」
 剣道部員丙は泣きだした。「み、皆もそう思ってます、でも黒崎さんが、『あの連中は屑だ、捨てておけん。俺らがやらねば誰がやる』って云って利かないですよう」
 とも子の顔が平坦になった。
「屑で悪かったな!」野崎は剣道部員丙を蹴飛ばした。
 剣道部員丙は悲鳴を上げた。「じ自分が云ったんじゃありませんよぅ!あ、あなたがたを痛めつければ、ナウくない学生運動なんかにか、加藤さんが幻滅するって、黒崎さんが、それに学校から貰う部の予算がアップすると、黒崎さん、黒崎さんが」
 とも子はビニールホースを剣道部員丙の横っ面に叩きつけた。
「びぐわ!」剣道部員は絶叫した。
「そのクソ名前二度と云えないようにしてやる!」とも子は剣道部員丙を滅多打ちにした。
「た助けてぇ、こ、殺されるぅ!」剣道部員丙は打たれながらも腹這いで周りに群がる見物人の中へ逃げた。
 とも子は雄叫びをあげながら見物人の群れの中へ突っ込んだ。
 見物人たちから悲鳴があがった。
 野崎はとも子に背後からしがみついた。「か加藤君やめろっ!」
 とも子は野崎にしがみつかれながらビニールホースを振り回した。メンバー達もとも子にしがみついた。
 保原がとも子の右腕を両手で掴んだ。「やめっぺ、加藤!」
「離せ!」とも子はビニールホースを振り回しながら絶叫した。
「ここらえたもんせ、みな加藤になんかかれ!」川内はとも子の右手を両手で掴んだ。
 並木は両足を掴んだ。「こ、これ以上やったら俺たちはおしまいだ!」
 徐々にとも子の動きが弱まり、肩を上下し呼吸をしていた。野崎を除きメンバー達はとも子の体から離れた。
 並木は周りを見渡した。「ひ、酷い」
「こげんおじこつ、クニのお袋にはまこて云えもはん」川内は呟いた。
 保原は川内に耳打ちした。「他のセクトに移らねが?」
 野崎はとも子の体にしがみつきながらため息をついた。「何て事だ。こんな状況を大衆が目の当たりにしたら、我々への支持が」
「いつあんた達を支持したの、その大衆ってのが。もう離してよ」とも子は野崎から身を離そうとした。
「口にはださないが、大衆は我々を求めている」野崎の左手がとも子の胸にかかっていた。
「離してったら」
「副委員長の権限を持って、今日限りで加藤君を我々のセクトから除名する。罪、とは云いがたいがセクトを暴力組織にした責任だ。しかし共に闘ってきた同志を失うのは」野崎は右こぶしを握りしめた。「ま、まことに慚愧に耐えないっ」
 野崎の左手がとも子の胸を握りしめた。
 とも子は野崎に右ひじ打ちを喰らわせ振り払った。「どさくさに紛れて触んじゃないわよ!」
 とも子は前屈みになっている野崎の横っ面にビニールホースを叩きつけた。
「ゔげっ!」野崎は地面に崩れ落ちた。ビニールホースが裂け、ベアリングが飛び散った。
「ふ、副委員長!」並木は倒れた野崎の傍らに跪いた。「し、しっかりして下さい!」
 川内は辺りを見渡し叫んだ。「息はあっとかっ!」
「ああ息はある!だれか水を!」保原は野崎の両頬を叩いた。
 とも子はビニールホースに残ったベアリングを振り落としホースを投げ捨て、落ちている角材を右手に、竹刀を左手に持った。
「除名でも何でもいいわよ。出て行くわ、こんな腑抜けどもの集団。置き土産といっちゃなんだけど、あの男があんた達にこれからは手を出さないようナシつけてやるわ」とも子は歪んだ顔で周りを見渡した。「黒崎はどこ?あいつを今日は見かけなかったけど」
「く、黒崎はあすごだぁ」保原は少し離れた所を指差した。
 そこでは黒崎は黒檀の木刀を振り上げていた。足下に、尻をついた西村がいた。

【ふるや食堂】
 
とも子はショートホープをふかしながら、若い男の顔を見ていた。
 西村はキッチンから出、若い男の背中を押した。「ほれさっさといけ。おれらに二度とツラ見せるなよ」
「待ちなさい」
 西村と若い男は振り返った。
 とも子は若い男の顔を見つめた。「あなた、本当に強盗だったの?」
「お、おうよ、だがよこの歴戦の猛者、西村さまが」西村は胸を張った。
「あんたに聞いてんじゃないわよ!」とも子は若い男を手で招いた。「ちょっとあなた、座りなさい」
「は、はい」若い男はカウンター席に恐縮しながら座った。
 とも子がカウンターの椅子に座り足を組むと、西村はブツブツ云いながらキッチンへ向かった。
「それで強盗?」とも子はショートホープを木刀に向けた。
 若い男は頷くとそのまま下を向いた。
「馬鹿ねあなた、こんなところに押し入って。店のツラ構えで普通は判断できると思うけど」
 若い男は腰を折った。「す、すんませんでした。サツに突き出されても文句はないです、自首しろっていうなら」
「云わねえっての!」西村は怒鳴り声を若者に浴びせた。
「悪くいけばムショ行きよ」
「でしょうね」
「覚悟は出来てんの?」
「しなきゃ、ならねえっすよ」
 とも子は笑みを口元に浮かべた。「生意気な事云って」
 若い男は頭を掻いた。「すんません」
「あなた、歳いくつ?」
 若い男は小さい声で答えた。「二十、三です」
「二十歳超えたんだから、分別のある行動しなさいよ」
「恥ずかしいです」
「そうだ恥を知れ」西村は声を出した。
「あんたが偉そうに云える身分なの!」とも子は西村の顔めがけてショルダーバッグを投げつけた。
 西村は短く悲鳴を上げ、頭を下げかわした。「す、すぐ暴力に訴えるんだからもう」
 西村はバッグを拾い、カウンターに乗せた。
「今度口挟んだらただじゃおかないから」とも子は若い男へ視線を向けた。「お巡りはいいわ」
 若い男は口を空けた。「マ、マスターもそう云ったけどやっぱ罪は罪で、罰は罰で」
「こっちが無かったことにする、って云ってんだからお巡りの出る幕はないわ」とも子はショートホープを灰皿に押し付けた。
 若い男は立ち上がり、両拳を握りしめた。「それじゃあ俺はいつまでたっても半端モンのままだ!」
 とも子は再びショートホープに火を点けた。「一度二度臭い飯喰えばいっぱしの男になれると思ってんの?はん、利いたふうな口利くんじゃないわよ」
「す、すんませんっ」若い男は深く頭を下げた。
「割と素直ね」
 若い男は右こめかみを掻いた。「い、いや素直ってわけじゃあ」
「素直ついでに白状してもらおうかしら」
「は?」
 とも子は素早く立ち上がり、黒檀の木刀をひったくると再びカウンター席へ腰を下した。
「あんたが黒崎の息子だってことをよ」
 西村は咥えたハイライトを落とした。
 若い男は口を開いたが言葉が出なかった。
 とも子は黒檀の木刀を数回、音を立てて振った。

【若い男の故郷】

田園風景の広がる田舎の一軒家の中、居間で若い男とその母が卓袱台をはさみ対峙していた。部屋の隅に仏壇があった。
 母は真剣な表情だった。「そう、行ぐのね東京へ」
「うん」若い男は頷いた。
「まあ若いんだからあ、やり直しは何度もきぐわよ。でも、もう駄目だ、と思ったらさあ、何時でも帰って来でもいいんだがらさあ」
「母さん、俺帰らねぇ、でっかぐなるまでよ」
 母は仏壇へ視線を移した。「大口はただがねえの。蛙の子は蛙なんだからさあ。それでいいんだ、あんだも」
「俺は親父とは違う。負けるもんが東京なんがに」若い男は首を振った。「親父の奴、酔っぱらうたびに東京がなんだ、東京がなんだっで云っで暴れやがっでよ」
 母は笑顔になった。「あんだにはつらい思いさせだぁねえ」
「つらいなんでもんじゃなかっだよ。母さん、親父に肘打ちとか膝げりとが浴びせで、ぶん投げたりしでよ、返り討ちにしだあど、いづまでも蹴り続けんだがらさぁ、親父を。めそめそ泣きやがって親父の奴。慰めるのが俺の役目だったんだぞ」
 母は若い男の視線を避けた。「わ、若気のいたりだっちゃ、ほほほほ」
「何が若気だよまったぐ」若い男は仏壇を見た。「親父、あんだがだらしねえがらだべ」
 母は立ち上がり、仏壇へ向かった。仏壇の前で合掌し、引き出しをあけ古い大学ノートを取り出すと、卓袱台へ戻った。
「恥ずかしい恥ずかしいなんで逃げ腰になっちゃあ駄目よ。何に対しでも」
 若い男は頷いた「分がっでるさ」
 母は大学ノートを若い男の前に置いた。
「何ごれ?」
「捨でられながったんでしょうね、あの人も。あんたのお父ちゃの青春」母は再び仏壇へ視線を移した。
 若い男は大学ノートを開き、捲りながらしばらく読んだ。「な、何だよこれ?」
「まあ恥ずかしいっぺなあ」母は顔を両手で覆った。
 若い男はノートを卓袱台に叩きつけた。「は恥ずかしいのは母さんじゃなぐで親父だっぺ!いや息子の俺も恥ずがしい!」
「捨でられなぐてね、笑えるでしょ。馬鹿で。そげなもんに較べりゃ、あんだが東京でかぐ恥なんて」
 若い男は卓袱台を叩いた。「わ、笑えるとが恥の問題じゃなかっぺ!いいのが母さん!あの親父許せんのが?いづまでも未練だらしぐこんなもん、後生大事に!」
「許す許さないも。所詮、お父ちゃんが東京の大学にいた頃の横恋慕だっぺさ」
 若い男は振り上げた腕を震わせながら下ろした。「そ、そりゃそうだけっども」
 母は湯呑みを手に取った。「全く嫉妬しない、なんで云えば嘘になるけどね。お父ちゃらしいじゃない?他にもいろいろ理由さあっだんでしょうが、恋にやぶれて都落ち、故郷さ帰っであたしと見合いして一緒になっで、あんたも産まれで。生きでる時は口さしながったわよ、一言も。ノートに書がれたその人への未練なんで」
 若い男はノートをゆっくりと開いた。ノートから色のあせた、若い女の写真が床に落ちた。
 若い男は写真を拾い見た「この人」
「奇麗でしょ、その女の人。恋するっでのは素晴らしいわね。お父ちゃのは邪恋だったけど」
「親父」若い男は写真を置き、開かれたノートに目を落とした。
 若い男の目が潤んだ。目から落ちた涙が、ノートに貼られた『丘の上の西瓜』の便せんに落ち、インクが滲んだ。
 若い男は仏壇横に立て掛けられていた黒檀の木刀を左手で持った。

【ふるや食堂】

「―てな訳で上京して来たんでしょ、上手く騙せたと思った?あんたが下手な小津の映画の真似事して故郷を逐電したことも、このオモチャ見てすぐ思い浮かんだわよ。モノ書きを甘く見んじゃないわよ」
 西村はキッチンから顔を出した。「とも子、おい、お前」
「く、黒崎って、あのマスターが」
「こ、この若造があの馬鹿の倅だと?おまえ惚けたんじゃないか?」西村はとも子の右肩に手を置いた。
 若い男は言葉を詰まらせた。「あ、あ、あの」
 とも子は黒檀の木刀で、カウンターに乗った胡椒瓶に醤油差し、割り箸入れをなぎ払った。
「答えなさいよ」とも子は黒檀の木刀の切っ先を若い男へ向けた。
「お落ち着けとも子さんよ、そんな訳が」
 とも子は右肘で西村の脇腹を突いた。「あんたも知っているでしょう、あの野郎の執念深さと妄想癖を!」
「あ、あの、云ってる意味が、俺よく分かんねぇんですけど」若い男はとも子へ近づいた。
 とも子は黒檀の木刀を両手で構え、若い男へ切っ先を向けた。「来るな!」
 若い男は止まり、両手を挙げた。
 とも子は若い男へ切っ先を向け続けた。「魂胆は分かってるのよ、あたしには!あんた、父親の悪霊から命じられたのそれとも自分の抑えられない情動?」
 とも子の手の黒檀の木刀の切っ先が、若い男の喉まで五センチほどの近さになった。
 とも子は黒檀の木刀で床を叩いた。「あんた、あたしを犯しに来たんでしょう!」
 西村はカウンターの仕切りに顎をぶつけた。
「この鬼畜の親子!」とも子は黒檀の木刀をテーブルへ振り下ろした。テーブルが乾いた音を立て、まっぷたつになった。
「ひえ!」若い男は床に腰を落とした。
 西村はぶつけた顎を摩りながらとも子に近づいた。「と、とも子、おめぇ、臑の毛抜いたホスト野郎に骨抜きにされたんじゃねえか?」
 黒檀の木刀の切っ先が、喉元から一センチ足らずとなった。
「父親の適えられなかった無念を息子が晴らす、まあ見上げた親孝行とは云いたいけど」
 若い男は震えながら後退りした。
「あの馬鹿面と違って母親がまあ並の顔の造りなのかしら?造りがあの馬鹿面と違って結構整ってるから、抱かれるのは悪くもないわ」とも子はワイシャツの第二ボタンを外した。「でも駄目。あんたは黒崎の息子だから。父親を恨むことね」
 若い男は壁に追い込まれた。「ささささっきから何訳の分かんねえこと云ってんだよあんた! ま、マスター何とかしでくれよあんた奥さんをよぉ!」
 西村は額の汗を手ぬぐいで拭った。「い、いやそのあの、こいつ女房じゃねえんだよ」
「なな!」若い男は口を大きく開けた。
 とも子は黒檀の木刀を振り上げ、声を張り上げた。「この色魔、変態野郎陵辱魔、女の敵ナンバーワンが!」
 西村は背後からとも子へ抱きつき羽交い締めにした「だが待てとも子!」
「離せ安食堂のコック!」
「こ、こいつを生かそうが殺そうがおれは構わねえけどよ」
 若い男は失禁し、泣き出した。「ひっひどいよマスター!」
「だがよその前にだな、おれの話を聴け!それから外でナマスに刻むなりモツ煮にするなり好きにしろ!」
 とも子は西村へ肘うちや踵でつま先を踏んだりして身を離そうともがいた。
「ぼ暴力はやめろって!どうどうどう」
 とも子は振り返って西村を鋭い目で見た。「あんたも総括かけるわよ!」
「聴けっての!少しは歳考えろ、痛えから!」
 とも子は抵抗するのを止めたが、黒檀の木刀の切っ先は若い男へ向いていた。
「もしこいつが黒崎のインポ野郎の餓鬼なら、いやインポ野郎なら餓鬼造るのは無理か、じゃなくてだな、そうしたら当然敵はおれだ、あの馬面の馬鹿倒したんだからなおれが」西村はまだとも子の躰から離れなかった。
 とも子は振り返った。「あんたを襲ったんでしょ!」
「ああそうだ、しかしこの若造はおれを襲った時『俺は強盗だギャングだグッドフェローズだ』と抜かしやった。そうだったよな?」
 若い男は泣きじゃくりながら答えた。「わ、ワイズガイですよぉ」
「黙れこの若造!おれが総括かけるぞ!」西村の顔が赤くなった。
「だから何よ!」
 若い男は両手で顔面を覆った。
「だ、だからよ親の敵討ちに来たんだったら開口一番―」

【ふるや食堂】
 
白い鉢巻き、白装束に白タスキ姿の若い男が黒檀の木刀を正眼に構えていた。
「やぁやぁ!我こそが黒崎剛一が一子、剛之介なるぞっ!今は亡き父の意趣晴らすべく参った!西村芳男、いざ尋常に勝負!」
 月代が伸び、よれよれの黒の着流し姿の西村が右手におたまを振り上げていた。
「ははは笑止!返り討ちにし父と同じ土の中へ送ってやるわ!」
 二人はにらみ合った。

【ふるや食堂】

 とも子は眉間に皺を寄せ怒鳴った。「いつの時代だと思ってるのよ!この時代錯誤!」
「と、とにかくだな、この若造はそんな恨み節ひとつ唱えずにまず、金をよこせとおれを襲おうとした。仇討ちが何故金なんぞ盗ろうとする」
「偽装に決まってるでしょ、ただの物盗りの仕業と見せかけるためだったのよ!」とも子の口調が冷めた。「その後であんたを殺しあたしを慰み者にしてから!この強姦強盗!」
「そんなつもりはなかったっすよ!」
「残念ね坊や、世の中はグルーチョ・マルクスの馬鹿映画みたいにそう上手くいかないのよ!」
 若い男は嗚咽した。「なな何のことだか、俺高卒だからなんのことだか分からねえよぉうっうっ」
 とも子の西村への肘打ちが激しくなった。「お、落ち着けっての!」
 とも子は後頭部で、西村へ頭突きを喰らわせた。
「ぐわっ!だ、だからよ痛ぇなくそっ、もしこの愚連隊の出来損ないがおまえの云うような偽装を考えていたのなら、ハナっから金を盗ろうとするか?そんなのおまえが云うように後にいくらでも出来るだろうが。おれを殺し、お前を慰み者に―」
 とも子の動きが止まり仰け反った。「あ、ああう」
「しねえだろうが、このボンクラはおれの武勇譚を聞くや心を改めてサツへ自首するなんぞ云い出しやがった。されたらおれが困るんだが、とにかく覚悟を決めてな。もしこいつが本当に復讐者だったんならよ、おれに復讐するつもりだったとここを出てく前に白状していくんじゃねえのか?」
 とも子は若い男を睨みつけた。
 若い男は両手を合わせ題目を唱えていた。
「分かったわ」
 西村は深く息を吐いた。「ようやく分かったか。これでおれも」
 とも子は踵で西村の股間を踵で蹴り上げ、体を大きくゆらし西村を振り離した。
 西村は悲鳴をあげながらカウンター椅子まで飛ばされ、椅子をなぎ倒した。
 西村は股間と尻を摩った。「ち、ちっとも分かってねえじゃねえか!」
「坊や。あんた、本当に息子じゃないのね、黒崎の」とも子は木刀を下げたまま若い男を睨んだ。
 若い男は首を激しく振った。「お、俺の親父は徳島の漁師だよう」
「間違いじゃないの、福島のお巡りの?」
「親父を間違えねえよう。それに東北なんて行った事ねえよぅ」
 とも子は黒檀の木刀を一振りした。
 若い男は叫んだ。「信じてくれよう」
 西村も叫んだ。「信じてやれよ!」
 とも子は黒檀の木刀を見、上を向き甲高い声で笑い始めた。

【ふるや食堂・しばらくのち】
 
雨が降っていた。
 西村はキッチンでハイライトを吸い、とも子と若い男はカウンター席に座っていた。
 カウンター上にはサイコロステーキ、半分残ったサンドウィッチ、サントリー・オールドのボトル、コップが二つ乗っていた。
「あれからセクトは解散、剣道部は廃部。黒崎とは学内でたまに会ったけど、いつも怯えた目をしてたわね。それで卒業。それ以来会ってないわ」とも子はコップに口をつけた。
 若い男はカウンターに両手をつき立ち上がった。「じじい!よくも俺を騙しやがったな!」
「昔話には多少の誇張があるもんだ。これはおれら世代の特権よ。若いおめえにはまだ分かるまい」 西村が吐いた煙が輪になった。
「こ、誇張だと?」
「おお、そうよ。だが事実だろ、おれが黒崎を倒したってこたぁ」
「開き直るんじゃねえっ!何が強烈なフックだ、アッパーだよ!」
 とも子はウィスキーをコップに注いだ。「まったく、どうしようもない与太助ね。あたしら世代の男どもの最たるものよ、このレオン爺ぃ。こんな純真で可愛い坊やをその気にさせて」
 とも子は若い男の膝に手を伸ばしたが、若い男は隣の椅子に座り直した。
 とも子は舌打ちした。
「なぁにが純真だ木刀ひとつでタタキなんて甘ぇこと思いつく餓鬼の。結果さえ正しけりゃ途中をどう変えて云おうがおれの勝手だ。おめえに四の五の云われる筋合いはねえ」西村はハムの塊を包丁で厚く切ると口へ運んだ。
「信じたんだぜ俺はあんたの武勇譚を!馬鹿みてぇだ、いや馬鹿だよ俺は、ちくしょう!畜生!」若い男はカウンターに拳を叩き付け、突っ伏した。
「それにしても、父親と息子が同じ得物でぶっ倒されるなんて、西村の与太より笑えるわ!ははははは!」とも子は仰け反って笑った。
 若い男は上半身を起こし、とも子を睨んだ。「息子じゃねえったら!」
「そ、そうだったわね、はははっケホッケホッ、はははは!」とも子は噎せても笑うのを止めなかった。
 西村はハムを噛みながら喋った。「まあ、若いおめぇにはショックだったろうが、おれらの世代が経験した挫折、ってのはそんなもんじゃねえ。それでも歳を経れば人間、おれ並に熟成するもんだ」
 とも子は鼻を鳴らした。「何を偉そうに」
 西村はハムを飲み込み、再び切った。「おい若造。なんか喰うか?詫びじゃねえがまた何か作ってやる」
「てめえの作ったものなんざ喰えるかよ!」若い男は西村を睨みつけた。
 西村は包丁をまな板に突き立てた。「なんだとこの餓鬼!さっきおれが作ってやったサンドウィッチ、おめぇ旨い旨いこれぞ革命の味だの何だの抜かしながらがっついてたじゃねえか!」
「てめえの素性知ってりゃその馬鹿面に叩きつけてたよ!ここで返してやろうか」
「おう返せ戻せ。掃除はおめぇがすんだぞ」
「知った事か」若い男は口に人差し指と中指を突っ込んだ「おえ」
「馬鹿なことやってんじゃないわよ!」とも子は西村めがけコップの中身をぶちまけ、若い男の背中を叩いた。
 若い男は指を口から抜き噎せた。
 西村は顔や肩を両手で拭った。「ひ酷ぇことしやがる」
「す、すんません」若い男はとも子に頭を下げた。
 とも子は若い男の背中を摩りながら、椅子に座らせた。「いいのよ。悪いのは西村、あいつなんだから」
「悪いのはそいつだろ、だいたい礼儀ってものの存在自体知らねえ。この馬鹿さ加減、やっぱりこいつ黒崎の息子かも知れねえぜ」西村は布巾で体を拭った。
「違うって云ってんだろ、じじい!大卒だからって好き勝手なこと抜かしてんじゃねえ!」
 西村は鼻で笑った。「へっ、悔しいか?だったらおめぇも大学出てからおれに偉そうな口叩きにくるんだな」
「何がセクトの闘士だよ!単なる雑役夫だったくせによ!」若い男は床に唾を吐いた。
 西村はキッチンを出ると若い男に詰め寄った「ざざ、雑役夫だと!」
「ぼ坊や、なかなかいい表現するじゃないの!雑役夫、ぴったしだわ!はははは!」とも子は口を大きく開けて笑った。
「お、おれはおれの流儀でた、闘ったんだぞ!おめぇのような若造に何が分かるんだこの野郎!」西村は若い男の胸ぐらを掴んだ。
 西村と若い男はもみ合った。「離せじじい!」
「この、この半端野郎!」
 とも子は笑い続けた。「に、西村は炊事で世の中と闘ったわけね、はははは!」
「お笑いぐさだぜ」若い男は口元に笑みを浮かべた。
 西村は若い男の胸ぐらを強く掴んだ。「わ、笑うんじゃねえっ!お、おれがやらねば誰がやった?おまえや野崎や森下の変態野郎に他の雑魚どもはおれがいたからこそお祭りできたんじゃねえかっ!学食どころか大学近所の食堂からも閉め出しくらってたおまえらが」
「いくら雑役夫だからって四六時中中華鍋持ち歩くこたねえだろ」若い男は胸ぐらを掴む西村の手をほどこうとした。
「なな生意気なことを抜かしやがって―」
「黒崎って奴がよっぽど怖かったんだな、おっさんはよ!いまだに見つかるのが怖えからコソコソ隠れて暮らしやがって」
「こ、殺すっ!」西村は若い男の喉へ手をやった。
 とも子は立ち上がった。「やめなさいよあんたたち」
「け、警察沙汰になったら黒崎に知れてここに来るぜ、い、いいのかよ!」
 西村の動きが止まった。
 若い男は西村の手を振りほどき、襟を直した。
 とも子は若い男を細く鋭い目で一瞥した。「そういった冗談云う子はお仕置きよ、坊や」
 とも子は黒檀の木刀に手を伸ばした。
「ごごご免なさい!」若い男は席に座り、カウンターに両手をつけ頭をさげた。
 とも子は隣に腰をおろし、ゆっくりとした手つきで若い男の頭を撫でた。
 若い男は震えていていた。
「黒崎って男はね、西村の上いくこれだったのよ」とも子は頭上で左手指を回し、手のひらを開いた。
 若い男は首筋を掻いた。「で、でもさ、さっきとも子さん云ったよな、黒崎っておっさんは福島でお巡りになったって」
「ええ。昔の仲間がそう云ってたわ」
 若い男は腕を腕を組んだ。「お巡り、っていっても県警勤務か駐在だろ?退職したかも知れないし。指名手配になんかなってないんだから、こっちで何が起ころうとそんなペーペーに分かる訳ないじゃん、あんたたちのことなんて。FBIかCIAじゃあるまいしアメリカの」
「この坊や、西村、あんたの数倍賢いわよ」
 西村は右腕を曲げ、力こぶをつくった。「こんな若造に何がわかるってんだ!男は平時であろうと常に戦さを」
「うるせえよ給食おじさん」若い男はざらついた舌を出した。
 西村の顔が赤くなった。「この野郎、人が下手にでてりゃあ図に乗りやがって!同じ目に遭わせてやろうかまた!」
 西村はキッチンへ戻り、フライパンを手に戻って来た。
「へっ、同じ手が何度も通用すると思ってんのかよこの耄碌ジジイ!」若い男は身構えた。
「この若造!」
 
【早明館大学キャンパス】
 
 黒崎は黒檀の木刀を振り上げた。「ナンミョウホウレンゲキョウ南無妙法蓮華経、日蓮大聖人様すいません!」
 西村は黒崎の斜め後ろを指差した。「あっ!あすこ可憐な加藤さんが剣道部員の毒牙にかかって裸にひんむかれ!」
「な何だと!」黒崎は黒檀の木刀を上段に構えたまま、西村が指差した方向へ首を向けた。
 西村は逃げ出そうとしたが、たすきがけにした中華鍋が膝の間に挟まり転倒した。「痛ぇ!」
 黒崎は再び西村の方を向き、逃げる西村を見た。
「どこだ、は、裸は西村!」黒崎はよだれを辺りにまき散らし叫んだ。
 黒崎は西村に駆け足で寄った。
 西村は這いつくばったままあたりを見回し、転がっている中華鍋を手にした。
「裸!裸は!」
「なな涙君さようなら!」西村は紐をちぎり、黒崎の顔面めがけて中華鍋を投げつけた。

【ふるや食堂】
 
フライパンが若い男の顔へ飛んでゆき、顔面に命中した。
「ぎゃ!」若い男は短く叫び声を上げ、仰け反り倒れた。

【ふるや食堂】
 
若い男は白い目をして床に転がった。
 西村は激しく呼吸した。「なんてぇ鈍くて馬鹿な野郎だ。通用したじゃねえか」
「何て事すんのよっ!」とも子は西村の胸ぐらを左手で掴み、右手で顔面を拳で殴った。
「ぐわ!」西村の上差し歯が二本抜け、床に落ちた。
 とも子は西村を殴り続けた。「このファシスト!殺してやる、あたしが殺してやる!」
「しゃ、洒落にならねえよおまえが云うと!」西村はとも子の手を振りほどき、キッチンへ逃げた。とも子は西村を追った。
 若い男はうめき声をあげながら、体を起こした。
 とも子はそれに気づいた。とも子は西村を追うのをやめ、若い男へ歩み寄った。
「大丈夫坊や?」
「も、もうフライパンはた、たくさんだ。痛ててて」
 西村はカウンター越しに大声を出した。「おめぇが生意気な口叩くからそういう目に遭うんだからな」
 とも子は若い男の傍らに膝をつき、フェンディのハンカチをジャケットのポケットから抜き出し若い男の顔を拭いた。
「まったく仕様がない男たちね。鼻は折れてない?歯は?」
 西村は顔をしかめた。「んなこと気にもしねぇで暴れ狂ってたくせに、昔はよ。『早明館の怒れる雌牛』も老いたモンだぜ」
「他に痛い所はない?」とも子の手が若い男の股間に伸びた。
 若い男は身をよじった「そ、そこは大丈夫」
「あら、そう」とも子は舌打ちした。
 若い男は鈍く立ち上がり、戸に向かってよろよろと歩いた。「こ、こんな目に遭うのは二度とご、御免だ」
「どこへ行くの、坊や?そんな体で。外は雨よ」
「駅と間違えて交番なんぞにいくなよ!」
 若い男は戸に手をかけ、振り返った。「ひとつ聞いてもいいかな」
「な何だよ」
 若い男は左手で首筋を掻いた。「あのさ」
「何。もしかしてここの人手は足りているかって?」
「何だと!」
「それなら大歓迎よ!坊やくらいの若い店員さんがいれば少しはここにもお客さんが入るかもしれないわ!」
「じょ冗談じゃねえこの店はおれ一人で充分だ!さてはとも子おまえ、こいつとねんごろになっておれを殺し、店を乗っ取るつもりだな!おれの、この店を!」
「何がおれの店よ!ここはあたしの名義でしょうが!」
「最近の郵便配達は一度しかベルを鳴らさねえんだからな!」
 若い男は声を張り上げた「そうじゃねえよ!」
 西村は若い男の顔を見た。「な、何だよ」
 「とも子さんと、おっさんは。夫婦じゃねえんだよな?」若い男は西村ととも子の顔を交互に見た。
 とも子は顔を歪めた。「誰がこんなろくでなしと!考えただけで吐き気がするわ」
「それで何十年以上も一緒なのか?」
「えっ」とも子は西村の顔を見た。
 西村はとも子の顔を見た。
「おかしいよ、あんたら、なんつうかさ。まあ、いいや」若い男は首を振った。
 若い男が引き戸を開くと、外から入る雨が床を濡らした。
 若い男は振り返った。「その木刀、黒檀のは二週間前、九段下にある剣道の道具屋で買ったんだ。値ははったけど、なんか欲しくなって。もういらねえや、あんたらにやるよ」
「お、おいおめぇ」
「二度と顔あわせるこたないと思うけど、元気にやっててよ、商売繁盛で」若い男は店の外へ出、引き戸を閉めた。
 西村ととも子はしばらく黙っていた。
 西村が口を開いた。「コーヒーでも飲むか?」
「濃いやつ頂戴」とも子は頷いた。
 西村は棚からコーヒー缶を取り出し、パーコレイターにセットする前にラジオをつけた。
 ラジオからフォーク・クルセイダーズの『悲しくてやりきれない』が流れてきた。
「胸にーしみる空のかがーやきー」
 外の雨が激しくなった。 荒々しく引き戸が開き、赤と黒のタータンチェックのジャケットを来た堀秀平が入ってきた。
 西村は椅子に躓いた。「び、びっくりした!秀平ちゃんじゃないのよ!」
 堀は手にしたよれよれの花束をカウンターに叩き付け、席に座った。
「畜生!畜生!畜生!」堀はカウンターに突っ伏した。
 とも子は堀の首にタオルをかけた。「どうしたの、堀さん?そんなずぶ濡れになって?」
「今夜は乗車じゃなかったっけ?」西村はとも子へ顔を向けた。「秀平ちゃんな、勤務前に新宿西口のキャバクラの娘と映画観に行ったんだよ、な?デートはうまくいったのかい」
 堀じゃ突っ伏したまま嗚咽した。「あのアマもただの女だったんだ畜生!あのアマ、アート・シネマ好きだって云うから上野国際に連れていったんだ!」
「あ、あそこは」とも子は口に手を当てた。
「そしたらあのアマ怒りだして『正気なの?こんなイカ臭いとこなんかで映画なんか観てらんないわよ!』なんて抜かすもんだからオレは『いやこれもアートだよ、君が顔出す立教サークルの先輩の黒沢清も周防なんとかもピンク映画で大きくなったんだよ』っていったら」
 西村は頷いた。「ま、まあそりゃそうだけど」
「あのアマ、『ふん、昔がどうだの云うのはオッサンの懐古趣味よ、あたし帰る』なんて抜かして帰りやがった、くそったれが!おのれ、売人からトカレフ手に入れてであのアマのどたまぶち抜いて」
 とも子は堀のジャケットをカウンター上にあった布巾で拭いた。「そんな物騒なこと云わないで。しょうがないわね、今度あたしの講座で適当な女の子みつくろって紹介してあげるから、もう泣かないの」
 堀は素早く身を起こした。「ほ本当か?」
「ま、まあ気長に待っててね。まあそんなケツの蒼い娘のことは忘れて、今夜の勤務に」
「そんな気にならねえよ!マスター、オレのボトル出してよ!今夜はしこたま飲んでやる」
「え?ああ、ボトルね、あれは」
 とも子はカウンターに乗っていた封の空いてないサントリー・オールドのボトルを取り出し、キャップを封のアルミごと右手親指だけで回し空けた。
「まあ気分変えて、新しいボトルで呑みましょうよ。西村、グラス三つ」
「あ、あいよ」西村はカウンターに新しいコップを三つ置いた。
 堀はコップ三つにウィスキーをストレートでなみなみと注いだ。 「マスターもつき合ってくれるよな」
「お、おう」西村はコップにウィスキーを注いだ。
「まあ、とにかく、堀さんに新しい彼女が出来ることを祈って、乾杯!」
「トラヴィスに乾杯!」
 とも子と堀はグラスを合わせた。
 堀はグラスを一息で空にした。とも子はウィスキーを少し口に含んだ。
 西村はしばらくコップを見つめウィスキーを半分空けた。「黒崎の野郎、今頃何してやがんのかなあ」
 ラジオからはフォーク・クルセイダーズの『悲しくてやりきれない』が流れ続けていた。
「悲しくてー悲しくてーとてもやりきれないー」
                               

Outdated cafeteria

執筆の狙い

作者 工員
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現在デハ、トテモツウジナイ噺ヲ。クヨウニ。

コメント

shion
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全体的に小説としては技術的に問題ないと思います。ただ物語や会話が雑に感じ、ある程度のおもしろさはあるのですが、もう少しまとまっているといいかなと思いました。

工員
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ありがとうございます。
雑なのは、力量不足です、って昔から進歩しておりません。
藤原伊織『テロリストのパラソル』をパロディにし、芥川龍之介『藪の中』にはまり記したのですが、
むつかしいです。あ、スタンリー・キューブリック『現金に体を張れ』も。

飼い猫ちゃりりん
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工員様
今回の作品の文章は洗練されていると思います。テンポの良い会話が描かれていると思います。
ただ個人的にハードボイルドっぽい小説は好きじゃないので最後まで読んでいません。ごめんなさい。

u
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小説としてはこなれてないんですけど、シナリオに書き換えられたらどうでしょう?
TVドラマ・映画
どちらかといえば映画向きかな
時代設定が古いですが、伊坂幸太郎ミタイナムードはあるかも

工員
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モトモト、シナリオ(コントか)として書いたモノです。サーキュラー・スタイル。
クーブリックやライオネル・ホワイト、ジム・トンプスン、大藪春彦、タランティーノの真似で。

世界観はdo古いです。先日行きつけのバーの<DJナイト>に行きましたが<ユーロビート>だの
<トランス>だのに、ついていけませんから。

u
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工員様
ユーロビート・トランスそれすら古いです(笑
御健筆を!

イカ釣りせんちょう
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わけえれんちゅう、には理解でできねえ。古かろうが、y

古い?しったことかバーロー!
だったらブレードランナーばりの世界観を構築し、してぃすぴーく、ばりの創造、をこさえてたもりゃんかい!!

 

工員
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いつ終わるか知らん、単調なビートだと飽きてくるんす。
ならばマイルス・ディヴィス、ピンク・フロイド、オーネット・コールマンなどの
演奏を聴いてたいモンだ。あ、スティーリー・ダンは結構好きかも。
・・・たれも「ヘミングウェイをパクったな!」との声が浴びされないのが、ちとカナシイ。

匿名希望★
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イチブブンシカヨメテナイケドオモシロカッタ

カンケイナイオハナシデスガゴクドウパラサイツトイウマンガガスキデス

アリガトウゴザイマシタ

匿名希望★
19.15.31.150.dy.iij4u.or.jp

やくざさんの漫画を奨めたら駄目だって言われてしまいました。
連投ごめんなさい。

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