作家でごはん!鍛練場
工員

復讐されるはむべなるべし

 1

わたしが二十歳の頃だ。父は殺害された。場所は板橋区志村三丁目駅近くの人通りが少ない小路で、翌日の早朝発見された。首をピアノ線で閉められ、絶命したと云うのが警察の見解だった。財布に鞄、それどこか靴もなく、怨恨の線はなく物取りの犯行である可能性が高いとの報告をわたしは受けた。もちろん父は人から恨みを買うような人間ではなかった。ワイシャツの胸ポケットに入っていた名刺・所持していた手帳で身元がわたしの父である事が判明した。

 悲しかった。だが涙は流れなかった。堪え難い憎しみがわたしの心を支配したのだ。
 父の葬儀。わたしは幼少時に母を亡くしているので喪主を務めた。親族だけでとり行うつもりだったが、多くの方が参列に訪れて下さった。社の方はもちろんだが他業種と思しき方々にも多く参列して頂いた。その中で印象深かったのは、父が何度も我が家へ食事に招いた事がある、町工場規模の鉄工所の老人が、継ぎ接ぎだらけの作業服姿で、香典をよれよれの茶封筒に包んで来て下さった事だ。
 それともう一人。百八十五センチ程の身長で、たるみが殆んどない躰にフィットした茶色スーツを纏った上品な紳士だった。紳士はわたしに話しかけた。表情は険しかったが、取られる態度は実に柔和なお方だった。

「君のお父上の死は日本重工業界における大きな損失です。齢こそ若かったが、彼は傑出したエンジニアであり管理職でした。仮定の話で誠に申し訳ないが、独立して会社を創設しトップとなっていたなら、その会社の事業は必ず成功し、社員には安定した生活と仕事に対する熱意を与えていた事でしょう。今となっては結果論に過ぎないのだが、彼が興した会社と技術提携し、互いに切磋琢磨したかった。ですから彼のような素晴らしい人が無残な死を遂げたという事実を私は今でも認めたくない。そして許せないのです」

 そう云うと、老紳士は濃紺の袱紗と名刺をわたしに手渡し、頭を深々と下げながら後にした。わたしは目頭をハンカチで押さえつつ老紳士を見送った。眼を落とし、名刺を見た。
『株式会社 古田鐵工 会長 古田銀次』、裏には〈困った事があったらいつでもわしを訪ねてきたまえ〉との文言、そして携帯電話の番号が記してあった。父が勤めた会社の会長。社会人ではないわたしにとって驚く事であった。
 
 父が亡くなり一週間を過ぎた頃。愛読していたノン・フィクション作家ノーマン・メイラーが、ヘビー級ボクサーのモハメド・アリVSジョージ・フォアマンの試合を描いたノンフィクション『ザ・ファイト』を父の本棚から取り出した。本を開いたところ茶封筒が床に落ちた。中には手紙が入っていた。私は茶封筒から中身を取り出し読んだ。
 
 2 

娘へ

 この本に挟んだ手紙が見つかる頃には、私の人生は終わっているだろう。もっとも四十九日に一回忌、そして三回忌ーそんな事をしてもらわなくても結構なのだがーなどを経ても見つからず、いずれは古本として処分されるかもしれない。しかし、君が私の本棚からこの本を何度も読んでいた事は知っているから、手紙はいつか君の眼に止まるんじゃないかと勝手に憶測し、君にだけは真実を知ってもらいたくてこの遺書めいた手紙を書いた。内容を知ったからと云って何かをしてくれと頼むつもりは全くない。君を危険な目に遭わせる可能性が高いからだ。
 ではなぜこんな遺書めいた手紙を書いたのか。それは安手のスパイ映画のような出来事に巻き込まれてしまい、そこで味わった恐怖を紛らわせるためだ。私の同期入社に広田慎一と云う、製造部の部長がいる。わたしも広田も、若輩ながらも部長職に抜擢された。広田とは入社直後から気があって、随分と呑み屋で上司の愚痴や、将来の夢などを語り合ったものだ。君が知っている通り、私は下戸なのだが。
 時間とは残酷なものだ。人を安易に変えてしまう。昔の広田はおおらかな人柄で理想に燃えていた。しかし、今では別人だ。意固地で予算、金の事をまず口に出し、製造コストが少しでもオーバーしたら部下にあたり散らす、若手社員が嫌う〈頑迷で卑屈な管理職〉となってしまった。昔はコストの事など二の次で、面白そうだと思ったらすぐ行動に移し、責任が生じたら総て自分がとるといった〈俠気〉の塊そのものの男だったのだけれど。
 そんな広田が久しぶりに旧交を温め直そうじゃないかと私を呑みに誘った。同期入社の私なら諫言であっても少しは聞いてくれるだろうと期待して誘いに応じたのだ。それが間違いだったと今更愚痴を云ってもしょうがないが。行き先は銀座にある韓国クラブだった。私が最も苦手とするような場所だ。別に朝鮮料理が嫌いな訳ではないが、自分でも酒を呑まないのになぜホステスさんの呑み代を自分の懐から出さねばならないのか。私は貧乏性だが、がさつでも理想に燃えた若い社員と呑んだ時は、その性分を忘れ幾らでも支払って来た。
 広田はタクシーで向かったが、私は地下鉄を利用した。韓国クラブでは個室に案内された。そこには広田と韓国人ホステスがおり、それに面識のない男が同席していた。男は背小柄であったが強面で、私は胡散臭さと粗暴さを感じた。ホステスはコン・クンミョ、男は蛭沢と名乗った。マッコリを注がれ、乾杯したが私は口にする気になれなかった。
 私は下戸だし、広田はコン・クンミョにべったり、蛭沢は黙って鋭い視線で私を見つめているだけで、退屈この上なかった。
 そして酔った広田が私を韓国クラブへ誘った理由を語り始めた。自分は古田鐵所工が最近力を注いでいる、レアメタルに関する技術情報をコン・クンミョと蛭沢に売り渡し小遣い稼ぎをしている、それに私も加わって欲しいと云う、とんでもない話だった。具体的な買値は蛭沢が云ったが、小遣いなどとんでもない、べらぼうな値段だった。
 会長や社長、そして社を裏切る真似が出来る筈がない。あのような素晴らしい会社の社員末席として加えてもらった事が私の人生における二番目の誇りだからだ。当然私は即座に断り、広田をなじった。「入社した時、君につけられたあだ名を覚えているか。〈ディーゼル〉だ。理想に燃えていて猪突猛進だった。それが今は何だ、産業スパイそのものじゃないか」と。
「世の中綺麗事ばかりじゃないんだよ。お前は技術部、俺は製造部だ。技術部から下請け扱いされる屈辱がお前に分かるか。給料の殆どが別れた女房に持っていかれるから、今の給料だけでは俺の生活は惨めなだけだ。だから給料以外の金が必要なんだよ」広田は悪びれもせず云い放った。
 私は「我々技術部は君たち製造部、そして属する部員たちを下請け扱いした事はもちろん、優越感を持った事など一度もない。技術部は技術を考案するだけだが、製造部はそれをすぐに理解し用いて、非の打ち所のない完璧な製品を作り上げてきた。優秀な君、そして製造部部員たちの卓越したスキルと情熱、誇りがあったればこそ、長きに渡り古田鐵工は高い名声と信頼を得られ続けてこれたのだよ。この事は他言しない。だから昔の君〈ディーゼル〉に戻ってくれ」と広田に頭を下げ、財布から一万円札二枚をテーブルに置いてその場を去った。
 あとで思い出した事なのだが、蛭沢と云う男は確か以前、総務部で目撃した事があった。後で聞いたのだが、彼は武蔵尽誠会と云う暴力団の組員だった。蛭沢は韓国クラブでは隠そうとしていたが、両手の小指が明らかに欠損していた。我が社は反社会勢力との癒着はもちろんない。暴力団などの反社会組織は企業に因縁をつけ金を巻き上げようとする。その交渉をするのが総務部の行う仕事の一部なのだ。悲しい事に、世の中は綺麗事だけでは済まされないのだ、広田が云った通りに。むろん我が社の総務部は毅然とした態度で臨み、蛭沢の要求を拒絶した。
 私は旧友と暴力団員を敵に廻してしまった。その恐れを紛らわせようと拙い手紙をしたためた次第だ。君の父親は頭が硬い愚鈍な人間だったかも知れない。いやそうだ。しかし、あのような素晴らしい会社を裏切るような恥知らずなどではなかったと、ためらう事なく云い切れる。
 しかしこうなった今〈会社を裏切る謀議〉を知った一介の会社員である私を殺す事など、兇悪な暴力団員なら躊躇しないだろう。蛭沢がまさにその典型である事を私は見出した。死ぬ事はもちろん怖い。だが娘の君が生まれてから立派な女性に成長した今日までの日々の事を考えれば恐ろしさが晴れる。成人式で君の振袖姿を見て私が大泣きした事は君も覚えているだろう。あの時は恥をかかせて済まなかった。まだ仕事でやり残した事があると思うが、そんな事はどうでもいい。私は会社と家庭、どちらを選ぶと問われれば家庭を選ぶと即座に答える。不毛な二者択一だったね。
 私は幸せだった。亡くなったが母さんのような素晴らしい女性と知り合い、君のような聡明な娘を持ったのだから。それが私の人生における一番目の誇りだ。この手紙を君が眼にすると云う保証は全くないが、もしも読んだら焼き捨て、何もしないでくれ。数十年後、あの世とやらがあったのなら、君にそこで再会出来たらいいのだが。母さんとならすぐに会えそうな気がする。元気でいておくれ。

愚かなる父より

 3

 わたしは父の残した手紙を丁寧に折り、茶封筒へ戻すと部屋へ行きデスクの抽斗に入れ鍵をかけた。そして父の遺品であるメモ帳を開いた。昔気質の父はメモにIT機器など用いず、革表紙のメモ帳に万年筆で総てを記していた。何月何日、何があったなどと云った事に今は興味がない。知りたいのは父を陥れた製造部部長、広田の住所だった。手帳の尻の住所録を見るとすぐにわかった。広田慎一。江東区東陽町五丁目。以前の住所には二重線が引かれていたが、渋谷区富ヶ谷である事が分かった。とにかく東陽町へ行けば広田に対面できる。時間は午後六時で遅かったが広田と対面すべく都営三田線志村三丁目駅で地下鉄に乗り、大手町で東西線に乗り換え東陽町へ向かった。
 江東区東陽町五丁目。高校の近くに広田のマンションがあった。老朽化しており、とても一流企業の部長職に就いている男の住まいには見えなかった。
 父の手帳によればこのマンションの三階に広田の部屋がある。三階には幾つか部屋の窓があったが、明かりが灯っていたのは一部屋だけだった。広田の部屋に違いないが、いると決まったわけではない。わたしは三階に着くと、広田の部屋のドアフォンを押した。
「広田様のお宅でしょうか」
「は、はい、広田でございまする。どらちさんで、いらっしゃいましょうや」
 わたしは自分と父の名前を告げた。ドアはすぐに開いた。
 中から小太りで髪の毛が薄い男が現れた。これが広田。広田は酒に酔っているらしく、呂律が廻っていなかった。
「やあ、これはこれは。この度はお日柄も良く、じゃなくて御愁傷様、でございまする。あいつはいい奴だったなあ。ま、玄関では何だから中にお入り」
 広田はわたしの右肩に手を乗せた。
 わたしは左手で肩に乗った広田の手を払った。「ここで結構です」
 広田に酔眼でわたしは睨まれた。
「何でえお高く止まりやがって。人を小馬鹿にする態度はあいつにそっくりだわなあ」
「父は人を小馬鹿にするような人ではありません!」わたしも広田を睨んだ。
 広田は右手の焼酎の瓶に口をつけ呑んだ。「でで、何だ、くたばった技術部部長様の娘が俺に何の用だ?」
 わたしは拳を握りしめながらしばらく黙っていた。
「何だ、大企業である古田鐵工の製造部部長様を呼び出しておいてだんまりか?どうせ香典でもせしめに来たに決まってらあ。そんな金ねえよ。分かったらさっさと帰れってんだ、このアマ!」広田はおぼつかない足で踵を返し、部屋の奥へ行こうとした。
「コン・クンミョに蛭沢、そしてレアメタル」

 広田はいいちこのボトルを床に落とした。焼酎の瓶は砕け散り、酒の匂いがドアにまで漂ってきた。
「な、何の事でいお姐ちゃん。それどこの國の言葉でえ?」
 わたしはもう一度、今度はゆっくりと云った。「コン・クンミョ。蛭沢」
「し、知らねえなあそんなホステスにヤクザなんて」広田は肩を震わせながらゆっくりと振り向いた。その顔は減量で苦しんでいる最中のボクサーの様だった。
「本当にご存知ない、とおっしゃるのですね」
「知るわけねえだろうが、そんなヤクザに売女なんざ!」広田はシャツの袖をまくった。「カタギの俺がヤー公とつき合う訳ねえだろうが!それにな外人、とりわけ朝鮮人が大嫌えなんだ俺は!分かったらとっとと帰れ!」
 わたしは広田を上眼遣いで睨んだ。「ではお聞きします。なぜご存知ないのにコン・クンミョと云う人をホステスで外國人、それも半島出身の方だと即答出来たのですか?わたしはコン・クンミョと云う言葉を云っただけで、人の名とは云いませんでした」
「な、何だと!」広田は喉を詰まらせた。
 わたしは続けた。「蛭沢にしてもそうです。わたしは蛭沢がヤクザなどと一言も云っておりません。ヤクザなんて一般の社会人にとっては滅多な事がない限り遠くにいる、無縁の存在でしょう。結論を申しますと、あなたと韓國人ホステスのコン・クンミョに武蔵尽誠会の蛭沢と云うヤクザは、いわゆる〈不適切な関係〉にあった。否定出来ますか?」
 広田は床に腰を落とした。両手で顔を拭い、再び立ち上がった。
「し、証拠はあ、あるのか?」
「あります」わたしは胸ポケットを指差した。「父は、遺書ではありませんがあなたたちの黒い関係について詳細に記録した手紙を残しました。いずれもいわゆる状況証拠かも知れませんが、わたしはしかるべき所に提出致します。それではおくつろぎの所、大変失礼致しました。加えて今の会話はICレコーダーで録音しております」

 4

 わたしは踵を返し、ドアを閉めようとした。しかし、広田に両肩を強い力で捕まれ、動けなくなった。
「出すってどこに出すんだよ姐ちゃん。交番に出すのか?あんなペーペーどもに事の大小が分かるわけねえだろうが。所轄の警察、それとも警視庁か?警察は所轄、縄張り意識が強いからな、あんたがタレ込んでもあちこちへたらい廻しさ。それとも何か、俺んとこの古田鐵工に提出するのか?それが一番の妙案だし、俺のサラリーマン人生は終わるだろうよ。しかしあんたの親父が誇りを持ってやまなかった会社の恥部、俺が云うのも何だがな、それを世間に公表するのか?会社の評判は落ちるだろうぜ。それでも良いってのかよ!」
 わたしは動けなかった。父が好きでわたしも愛読したダシール・ハメットや池波正太郎の小説同様、悪党に報いを受けさせる、ただそれだけのつもりでいた。しかし現実の悪党は証拠を突きつけられてすぐに観念、罪を認め縄につく事も裁かれる事もない。広田のような実社会の悪党は簡単に己が自滅するなどつゆとも思わないのだ。わたしは現実と小説世界とを同一視していた、世間知らずの夢想家だったのだ。
「俺が云った事が理解出来たか?」
 わたしの沈黙は続いた。
「出来たんだな!なら、その〈親父さんが残した手紙〉を俺に渡してレコーダーのデータを消せ。べ、別にだな、俺は悪人には違いないが、あんたが思ってる程の極悪人ではねえんだ。善人悪人問わず、誰だって金は欲しいだろ?別れた女房に家を空け渡すわ金を送らなければならないわと、鬱憤は溜まる一方で、憂さ晴らしに韓国クラブに入り浸るようになった。そこでクンミョと知り合い、懇ろになった。使う金は増える一方で、闇金に手を出す寸前だった。それで現れたのが武蔵尽誠会の三下、蛭沢だった。クンミョの飼い主でよ、俺はハメられちまったんだ!それで取引を持ちかけられた。まともなオツムしてりゃそんなヤバい話には乗らねえ。しかし俺はためらいなく話に乗った。そう、金に目が眩んだんだよ!しかし、金は入るようになったが散財は前より酷くなった。でよ、もっと金が欲しいのなら、今よりも早く、より新しいデータを手に入れる必要がある、それならあなたの同期である技術部の部長引き込みなさいよ、と俺に吹き込んだのはクンミョだ。なぜクンミョがあんたの親父さんの事を知っていたのかは分からないが、もはやどうでもいい事だった。だから話を持ち込んだ訳だ。あんたの親父さんは気の毒だったが、俺だって蟻地獄に引きずり込まれている一匹の蟻だ。気の毒だろ?そう思うなら、親父さんと同期入社で青春を一緒に過ごした仲だと云うよしみで見逃してくれ。頼む!」

「あなたの転落がどこから、どうして始まったかなどわたしに分かる由はありませんし関心もありません。けれど」わたしは右脚をこまめに動かし、いざという時には広田の金的を踵で蹴り逃げるつもりだった。「父がわたしへ残した手紙には、技術部部長の父が製造部部長だったあなたに妬まれて悲しいと記してあったわ。父はそんな見下しの感情なんて一切なかった。手紙にはこう書いてあったわ、あなたにも云ったでしょうけど。〈我々は君たち製造部を下請け扱いし、優越感を持った事は一度もない。私たちの技術を君らが完全な製品として製造する。君の課に属する社員の情熱と卓越したスキル、そして誇りなくては我々の会社の信用はなくも等しかっただろう〉と」
 わたしの両肩を掴んだ広田の両手は、震えながらも力を増していた。
「確かに奴はバカがつくほどの良い奴だったからな!良すぎて俺の方は駄目になっちまったんだよ!奴が俺を馬鹿にした事など一度もない事は分かってる、分かってんだよ!だが奴が少しでも俺に優越感を見せてりゃ、俺は発奮して奴を見返してやろうと努力を怠らなかった筈だ、昔つけられた渾名〈ディーゼル〉のごとくがむしゃらにな!そうすればこんな汚れたクズにならずに済んだんだ!それなのに、それなのに!」
 広田はわたしを羽交い締めにした。そして部屋の奥に連れて行こうとした。
「お、大声出すわよ!」わたしは広田の腕を懸命に振りほどこうとした。
 広田は卑屈な笑顔を浮かべていた。「出してみろ、このボロ・マンションに俺以外いねえから、悲鳴なんざあげても誰の耳にも届きやしねえ。で、今夜からお前は俺の女だ。満足させてやるぜ、女子大生とは久しぶりだからな。その後は写真を記念に撮っておこうな、俺らの仲間となる証文代わりだ」
 わたしは右脚の踵で広田の金的を思い切り蹴った。
 広田は呻き声をあげ、羽交い締めを解くと前かがみになった。
 首に肘打ちを喰らわすと、わたしは広田を部屋内に突き飛ばし、玄関を出てドアを閉めた。

 父と広田の立場が逆だったら?父は広田が云う〈技術部にとっての下請け〉の製造部や営業部、流通管理部などの社員さんを家に招いては楽しく談笑していた。本心まで知る由はないが、彼らも終始笑顔だった。ゆえ下請けとして見下した筈はないし、むろん社を裏切る真似などしなかった筈だ。こんな時に何と云う愚問が浮かんだのだろうか。
 広田の部屋のドアが開いた。広田は廊下に出てきた。スタンガンを握ってだ。
 広田はスタンガンをバチバチと鳴らせながら近づいてきた。「小娘のくせに俺を散々小馬鹿にしやがって!もう許せねえ!殺しはしねえが、今夜からここで雌猫以下の扱いだ!日中は部屋に閉じ込められ、毎夜犯されるんだぞ!容赦は一切しねえ!」
 わたしは廊下の壁に追い詰められた。首には広田のスタンガンが迫ってくる。
 心の中でわたしは父に語りかけた。お父さん、手紙の忠告を無視して軽はずみな行動に出てしまったから、こんな結果となりました。ごめんなさい。わたしも近いうちにお父さんの所へ行く事となるでしょう。この下衆野郎に最期の一太刀すら浴びせられなかったのが残念でなりません。お父さん、待っててください。悲しい顔は決してしないで下さいね。
 わたしは口に布を当てられ、汚辱の部屋へ引きずり込まれようとしていた。
 
 5

黒い影が広田の背後に迫るのをわたしは見た。男のようだった。
 男は広田の延髄を左腕で打った。広田の手がわたしの躰と口から離れた。
広田は廊下に崩れ落ちた。
 男はポケットからハンカチを取り出し、広田の指の先を拭い両脇を抱えると階段へ蹴落とした。
 広田は踊り場まで転がり落ちた。ピクリともしなかった。
 男は音を立てず踊り場まで降りると、スタンガンを拾い広田の羽織ったシャツを脱がせ、丸めてスタンガンと共にたすきがけの布バッグにしまった。すると広田の頭を掴み強くひねった。わたしがいる広田の部屋前まで、ボキ、と軽い音が聞こえて来た。そして広田の髪を掴み、顔面を踊り場の壁に力強く打ちつけた。
 男は階段を上って来て、わたしに近づいた。
 わたしは後ずさりをした。
 男は口を開いた。「このマンションに入った時、誰かに見られたか?」
「た、多分見られてないと思う」わたしは首を降った。「わたしも確認したから」
「それはいい心がけだ。実生活でも役立つから覚えておくんだな」
 わたしは黙っていた。
「とにかくここを出るんだ。見られちゃまずいから、おれの側から離れるな」
男はわたしの右腕を掴んだが強い力ではなかった。そしてハンカチでドアノブを拭いた。
 男は三十秒止まり、辺りを見廻した。誰もいない事を確認すると下へ降りた。それを繰り返し、一階に着いた。集合玄関を出ても同じ事を繰り返した。男はわたしが生まれた年と同じ年に亡くなった、今も熱狂的ファンが多数存在する俳優、松田優作にどことなく似ていた。長身で細身、と云う所だけだが。

「目撃者はおれが見た限り皆無だった。あのブタ野郎は酒に酔って廊下に出て、階段を転げ落ち首を折って死んだ、そう報じられるだろう。おれの希望的観測に過ぎないが」男は右手首の腕時計を見た。「あんたはビクビクせず、胸を張って東陽町の駅まで歩け。なんならスキップ踏みながらでも構わん」
「あ、あの、あなたは」
「まだ仕事がある。今夜中に片付けないと、オヤジに怒鳴られる」
 わたしは男の両腕をつかんだ。「それは武蔵尽誠会の蛭沢と韓国クラブのホステス、コン・クンミョを殺す事。違いますか?」
 男は答えなかった。しかしわたしの視線をそらさなかった。
「父を謀殺したのは蛭沢とコン・クンミョです。あなたは広田を殺した。そしてまだ仕事があると云う。そうとなれば広田の仲間である二人を殺す筈です。わたしの推測でしか過ぎませんが、あなたは父の会社、つまり会社から、当然ですが不正データ持ち出しを繰り返した悪徳部長、広田を殺した。でも広田一人殺しても、それは単なるトカゲの尻尾切りで終わります。蛭沢とコン・クンミョが生きている限り、連中は会社の人を第二、第三の広田に仕立て上げるでしょう。その腐った根を断つには蛭沢とコン・クンミョをこの世から消す以外方法はない。間違ってますか?答えて下さい」
 男は相変わらず無言だった。
「あなたは蛭沢とコン・クンミョを殺しに行く。わたしも連れてって下さい。連中は父の仇です。わたしもどちらかを殺します。亡き父はそんな事をしても喜ぶ筈がない事はわたしにも分かります。しかし、いつになるか見当もつきませんが口封じの殺人は必ず行われ、広田のような、知った者に対し毒牙を向ける悪人が出現するでしょう。幸いわたしは無事でしたが、もしあなたがわたしを助けてくれなかったら、わたしは広田に犯され、監禁されていたのです。そんな卑劣な事は未然に防がなければならない。ですから殺す事を決意しました」
「断る。おれは別に、あんたを助けるために広田のブタ野郎を殺った訳じゃねえ。野郎を殺る、それがおれの仕事であって、あんたは偶然あの場所にいた。ただそれだけの事だ。あんたみたいな若い娘を連れて行けば足手まといになる」
「どうしても連れて行ってくれないのですか?」
「同じ事を二度云わせるな」
 わたしは男の眼を弱々しくだが睨んだ。「ではあの場で起きた事を警察に云って、広田の〈事故死〉について目撃した事一切を話します」
「おれはあそこに証拠を何一つ残してねえ。目撃者もいなかった。あんたを除いてだが。それは現場にあんたしかいなかった事を証明する事だ。サツは第一発見者であるあんたを容疑者扱いするかも知れねえ、いやするだろう」男は鼻で笑った。「何せあんたは広田に〈遺恨〉を持ってたんだからな。〈知らない男が現れて広田を殺した〉ナンざ信用しねえよ」
 わたしは俯いた。確かに男の云う通りかも知れない。
「おれは悪党しか殺らねえ。が、必要とならば目撃者も消す。自分の身が一番可愛いからな。だがなあ、おれはあんたとまるっきし無関係の人間とは云い切れねえ事情があんだよ。あんたを消したらおれが処分される。だからあんたを殺す気は全くない。それにな」男は右手で額を掻いた。「もう二十数年前になるが、あんたはおれの、って浮世のナシしてる場合じゃねえ。次の〈仕事〉にとりかかる」
「わたしを連れてってくれるのね?」
「連れて行くと決めた訳じゃねえ。とある筋に報告と相談をしてじゃないと決められねえんだ」男はこめかみを掻いた。「ともかくおれの車に乗れ」
 少し離れたところにあるコイン・パーキングにイギリス車のミニ・クーパーが一台停まっていた。旧モデルだ。
 男はポケットからキーを取り出し運転席ドアを開け乗り込んだ。車内から助手席ドアのロックを外し、布バッグを後部座席に放り投げた。
 わたしはミニ・クーパーのドアを開け、助手席に乗った。
「目撃者を消した事はある。だがこんな込み入ったケースはなかったしよ、参ったな」男は頭を掻きむしりながら携帯電話を取り出した。

 6

—トラヴィス・1973。
—Fか。
—そうだ。お休みのところだったら申し訳ない。
—いま会長室でDVDを鑑賞していたところだ。
—何を観ているんだ?
—サム・ペキンパー監督の傑作『ガルシアの首』だ。
—相変わらず趣味がいいね。おれもベニーみたいに白いスーツを着るかな。
—無駄話はいい。要件を伝えろ。
—ちょっと厄介な事が起きた。
—詳細に話して見ろ。
—今日のマトは広田、武蔵尽誠会のナンバー3の蛭沢、そして韓国クラブ勤務のコン・クンミョこと北朝鮮工作員のホ・ミョンファ。
—その通りだ。
—それでまず広田の野郎を事故による死に仕立て上げた。そこで問題が発生。
—目撃者がおったのか?
—正確に云やあ目撃者じゃねえ。殺る前の調べでは広田んとこに来客はなくいつも一人、むろんホ・ミョンファとも同居してねえし、する時はいつも女狐のヤサ。あのボロ・マンション住人は現在広田以外になし。だが今日に限って〈来客〉がいて、客は広田の部屋に引きずり込まれそうになってた。とっさに躰が動いちまって、おれは鉄骨仕込みの左腕を広田の延髄にかまし、失神した所を階段から蹴り落とし、踊り場で首の骨を折った。奴は泥酔状態だったから事故死として捜査は終了となるだろう。希望的観測だが。それで客を連れマンションを出た、って寸法だ。ガラは手元にある。
—フム、お前のやり方は間違ってはおらん。方策は二種類ある。口封じに大枚渡すか、消えてもらうか。わしは無関係な人間を殺めるのは禁ずるが、やむを得ない場合はどうしても生ずるだろう。何しろ現場の人間は命と躰を張って任務をこなしているのだから、わしだけ善人ヅラするつもりはない。F、お前はその目撃者をどうしたらいいと思う?お前の判断に委ねる。
—それがだね。現場にいた、と云うのは、例の板橋で絞殺された男の娘なんだよ。〈オヤジ〉も知っていると思うが。
—何だと!れ、例の彼か!ど、どうして娘が広田の所に?
—娘は父親の殺害に疑問を持った。そして、どのような手段を用いたのかは分からないが、広田と蛭沢のダニ野郎にホ・ミョンファが関与している事を突き止めた。それで広田がナニを、オヤジの言葉で云うなら〈亡國の徒〉にどもバイしていた事もな。さすがにホ・ミョンファが北朝鮮工作員だと云う事までは調べが及ばなかったようだが、それを詰問するつもりだったのだろう。
―ううむ、娘にしてはかなりの切れ者、と云ってもいいだろう。いや、娘だからこそか。
—そこでとんでもねえ事を云い出した。
—何と云っておる?
—自分も父親の仇を取りたい。だから蛭沢かホ・ミョンファを殺すと。
—何だと!いたいけな娘を、F、お前人殺しにさせる気か!
—だからオヤジに相談してるんじゃねえか。殺された男はオヤジのアレだった訳だし、おれもオヤジから〈顧問料〉を頂いているんだから。そんで、おれにも同情心が湧いて来ちまったのよ。
—ううむ、やむを得まい、連れて行け。目撃されたので消す、或いは共犯者にして口を閉ざさせる。どちらも汚い手段だが、娘の執念を思えばわしなら後者を選ぶ。
—おれもそっちの方がいいと思ってた。
—それを聞いて安堵したわい。娘の父親を当然わしは知っておった。非常に優秀なエンジニア兼管理職でな。その娘を消す事となれば、わしも広田と同類の最低な外道となる。尤も、こんな事をお前たちに命じているわしはすでに成り下がっているやも知れんが。
—そこまで落ちぶれちゃいねえ。していたらとっくにおれは足を洗ってる。その先に生があるのか、死神が手をこまねいているのかは分からんがね。
—娘に仇討ちさせる事は承諾した。ただし、残虐な手段で蛭沢とホ・ミョンファを処刑しろ。
—なぜだ。
—娘には殺し屋と云う者はフィクションの世界にのみ存在するのではなく、現実に存在すると云う事を知られてしまった。堅気の娘が知る必要のない、いや知られてはならない闇の中の事実だ。娘に殺し屋と云う者の存在を忘れさせるためには、殺し屋と云うのは本当に恐ろしい、二度と関わりたくないと思わせなければならないのだ。
—そうかね。逆に強烈な印象を心に焼きつけるかも知れないぜ。
—ならお前、娘に同情し、かつここまでわしの話を聞いた上で娘を消せるか。
—消せる訳がねえだろ。それに私情を持ち込むのはおれの好む所ではないが、娘が少し似てんだよ、ってンなこた関係ねえな。
―それ即ち、お前の初恋相手、って所かのう。
―ず、図星かよ!そうだよ、文句あっか!
—文句はないが、お前にもセンチメンタルな所があったとは意外だな。
—ほっとけ。ともかくだな、おれは女でも平気で殺るひとでなしよ。しかしだ、この娘を殺っちまったら、今はしなくともあとでこっぴどく後悔、しまいにゃ発狂だ。
—今度はハンフリー・ボガートか。わしの意見に同意するのだな。
—そうする。並みの人間なら失神しておかしくない程の残虐な手段で処刑する。ただし、躰をバラバラにしたりするのはご免だぜ。おれのゲロを現場に残すはめになるからな。おれは間違っても一流とは云えないが、鑑識か科捜研ですぐに判別されるような証拠を残す程の間抜けな殺し屋ではないつもりだ。
—そんな間抜けに亡國の徒どもを消す任務を与える程わしは耄碌しておらん。
—初めてオヤジに褒められた気がするぜ。
—別に褒めてはおらん。たしなめたのだ。
—どっちでもいい。任務を続行する。
—程度はお前に任せるが、そのためには武器の追加が必要だろう。今東陽町ならわしの所へは三十分もかからんだろう。お前は我が社の社員ではないが、警備員には〈季刊ロケット工学の須藤〉として知られておる。わしも警備員室に連絡しておくから上がってこい。ただし、娘をわしの所には連れてくるなよ。
—分かった。だが、あんまし残虐な様を見せつけたら、娘にトラウマが残るかも知れないぜ。
—その点はわしが責任を持って、一流の精神科医、むろん口が固い先生にメンタル・ケアを施させる。では任務を続行せよ。

 通話は切れたようだ。電話向こうの声ははっきりとわたしにも聞こえていた。男は携帯電話を内ポケットにしまった。
「あんたに仇討ちさせる許可を条件付きで取りつけた」
 わたしの眼がギラッとした。
「そのために、とある場所に行って武器を調達しなければならない。おれが車から離れている間は、中で待機している事。守れるか?」
「守ります」
「こっちもあんたの身を守る事を誓う」
 わたしはグラブ・ボックスにしまってあったアイ・マスクと黒い革手袋を渡された。
「悪いがこれをつけて何も見ないでくれ。おれがいい、と云えば外してもいい」
「分かりました」わたしは革手袋をし、アイ・マスクで視界を遮断した。「ところで」
「何だ」
「電話向こうの人。父の会社の人でしょう?」わたしは両手を握りしめた。「相手の方の声、確かどこかで聞いた事があります」
 男は答えず、ミニ・クーパーを走らせた。

 7

 ミニ・クーパーが止まった。ドアを開け閉めする音がした後、車内は当然無音となった。男はミニ・クーパーから出て行った。わたしは約束どおり、アイ・マスクは外さなかった。
 二十分ほどして、男が帰ってきた。ゴソゴソと音が聞こえた。男はミニ・クーパーのトランクに何かを入れているようだった。
「よし、これから悪党の残りを始末に行く」ミニ・クーパーは走り出した。
 ミニ・クーパーが走って約十分後、男の声が聞こえた。「アイ・マスクは取ってもいいぞ」
 わたしはアイ・マスクを取ると、グラブ・ボックスへ戻した。広田を殺した時は米軍ジャケットにジーンズと云うラフな格好だったが、今は黒いスーツを着ていた。
わたしは掠れた声で男に訊いた。「これからどこへ行くの?」
「神田美戸代町」男はわたしに地図を渡した。「こいつにはナビなんてモンはついてねえ。だから神田美土々町までのルートをおれに指示してくれ。おれは方向音痴なんでな。今中央通りを走っていて、三越を過ぎたばかりだ」
「分かったわ。わたしも方向音痴ですけど」
 わたしのナビが良くなかったせいで、到着するのに三十分程かかった。わたしも方向音痴だ。
「ごめんなさい、役に立たなくて」
「あんたのせいじゃない。事故もあったしな」
 男はミニ・クーパーを停車させ、左を見る様わたしに云った。「ここの一室がホ・ミョンファのヤサだ」

 それは〈プルンクフォル小川町〉と云う新築らしい綺麗なマンションだった。ラス・ヴェガス建築の様にお世辞にも趣味が良いとは云えないが、家賃は高額だろうと見た。賃貸ではなく、分譲かも知れない。
「さて、車はここから離れた所に駐車する」男はミニ・クーパーを運転し神田美土々町の中に入っていった。コイン・パーキングがあったのでそこに車を停め、男とわたしは降りた。そして十五分程で歩いてマンションの前に立った。
「集合エントランスか。こっちから中には入れねえ。それに防犯カメラがばっちしついてやがる。高そうなマンションだから全フロアにも防犯カメラがついてるだろうよ。ホ・ミョンファをヤサで殺るのは不可能だ」男は顎を撫でた。
「それでは、ホ・ミョンファが出てくるのを待つと?」
「そんな流暢な事してられねえよ。まあおれに任せな。あんたはおれの横にいろ」
 わたしと男はエントランスに入った。何と云うか知らないが、閉ざされた出入り口の横にあるパネルのボタンを押し、呼び出しボタンも押した。
二十秒程で返事がきこえた。「はい?」
「夜分、遅く失礼いたします。ホ・ミョンファ様でいらっしゃいますね」
「違います」
「誤魔化すのは止しましょう。わたくしは古田鉄工所製造部の者です。下っ端の社員ですが、広田の秘書的な仕事をしております」
「私、広田なんて人知らないわ」
「例の物をお届けに参りました」
「知らない云ってるでしょ。早く帰る。私パカにする、怖いお兄さん、ちゃなく警察呼ぶ」
 男は内ポケットから名刺を取り出し、フォンのカメラにかざした。
「この通り、古田鐵工製造部の者です。信用して頂けないのでしたらわたくしは退散致します、そのスジの方々は怖いですから。しかし警察に来られて困るのはあなたでしょう」
 フォンからは何も聞こえなかった。
男は続けた。「広田が本日階段から転倒し病院に運ばれたとの一報を受け、急遽わたくしが届けに伺った次第です。今回お買い上げになって頂くのは、現在我が國はむろん先進二十ヶ国にも技術特許出願予定の画期的なレアメタル採掘と精錬技術に関するデータです。特許権が付与されればむろん技術は我が社が独占し、権利者としての株式会社古田鐵工は実施権を独占的に行使可能なところか、その技術を使用したい第三者から特許使用料として莫大な利益を得られます。広田からお聞きになり、ご存知かと思いますが」

 またもフォンからは何も聞こえなかった。
「ともかくこれまでの極秘情報とは比べものにならない代物です。広田はあの通り目先の利益しか考えない男です。しかし、わたくしは臆病者ですから危ない橋は渡りたくない。帰れとおっしゃるのでしたらわたくしは退散致します」男は冷たい笑みを浮かべていた。
 フォンから耳慣れない言語が聞こえた。ならば向こうで喋っているのはフォ・ミョンファ、言葉は朝鮮語だろう。
「ミョンファさんがわたくしの声をお聞きになるのはこれが初めてですから、お疑いになられるのは当然かと思います。とりあえずわたくしはマンションの外、エントランス付近で十五分待つ事にします。過ぎたら取引はなしです」男はフォンから離れエントランスを出た。
わたしは男の後を追った。
「よし、餌は撒いた。これで女狐をいぶり出せるか」男は右手で左腕をさすった。スーツ姿であるが先刻同様、左腕に鉄骨を忍ばせているのだろう。
「それとも強行突破する羽目となるか。その時はおれの事ナンざ忘れて逃げろ。いいな?」
「ええ」わたしは頷いた。

 十三分後。美しい女が集合玄関から出てきた。ホ・ミョンファだろう。
 男は女に声をかけた。「ホ・ミョンファさんでいらっしゃいますね。初にお目にかかります」
「広田さんの秘書さんね。随分気が短い」ホ・ミョンファはシルク製と思しき光沢あるブラウスにスリム・ジーンズと云ったいでたちだった。「特許。ようはそれあれば大儲けできるのね」
「その通りです」男は煙草を一本取り出し、咥え火を点けた。「独占権の発生が出願した時点から、または付与された時点とする。國によって違いはありますが、ともかく権利の付与・取得は間違い無いでしょう。しかしまだ出願前です。ですからあなたの〈祖國〉がこの画期的な新技術を利用して潤い、それが古田鉄工所に知れる所となっても〈以前からこの技術に共和國は着目していた〉と云い張れば済む事です。あなたの祖國にも〈知的所有・財産権に関する法律〉はむろんお有りでしょうが、そう云った事実の改ざんや、言葉は悪いが〈開き直り〉に関してあなたの祖國にかなう國家はない。國連の世界知的所有権機関と云う団体があり、そこから何かしらの制裁があるかも知れませんが、わたくしには知識が皆無なのでうまくご説明出来ません」
「ふうん」ホ・ミョンファは腕を組んだ。「あなた、広田さんより使えそう。今度、私たちの取引、直接参加する出来るよう広田さんお願いするわ。ところであなたの隣いる女、誰?」
 わたしは頭を深く下げた。体の震えが止まらなかった。
「この娘は広田やわたくしとは別の部の者ですが、パソコンのプロ、つまりハッカーです。今まであなた方にお渡しした情報は、広田は役職ですから閲覧する事に問題はありませんでした。しかしこの事案はむろん最高機密、限られた者しかデータ・ファイルを開く事が出来ませんでした。しかしこの娘が何重にもかかっておりましたプロテクトを総て解除した結果、広田はこの技術情報を盗み出す事が出来たのです」
「そうたったの。むつかしい事分からないけど、娘さん私たちの仲間ね。これからも力なってちょうだい」ホ・ミョンファは弾んだ声をわたしにかけたが、冷酷さを感じさせる笑みを浮かべていた。
 わたしはゆっくりと背筋を伸ばした。袖で額の汗を拭いた。
「ところで、お金の方は」
「お金?どうして今払う?今までー」
「それは存じでおります。つまりあなたが祖國へ報告し、その見返りにあなたの祖國が〈あのお方〉に〈情報〉または〈物品〉を献上する。あなたの祖国はそれを元に莫大な利益を得る。広田への支払いは、そうしたプロセスを経た後だったと云う事を」
「その通りよ」
「今回に限り報酬は取引の際に頂く、と広田は申し上げた筈ですが」
「云ったかも知れないけと、おぽえてない。いつもの事たから」

「呆れましたね。では、取引は中止です」男は踵を返した。「無能な上司・広田をたぶらかしたのが、こんな軽率で低脳な女だったとはね。言葉も出ません。ではさようなら」
「ま、待って!」ホ・ミョンファは男の左腕を掴んだ。「これから蛭沢に電話、現金持ってくる様云って現金私のマンション持って来させる。新宿からたから、すぐに到着する思う」
「そうですか」男は笑みを浮かべた。「では待たせてもらいましょうか」
 ホ・ミョンファは携帯電話を取り出し、短縮ダイヤルを押した。「払う金額、はいつもと同じね」
「いえ。情報が情報だけに、いつもの値段と云う訳には行かないと広田は申した筈ですが。まあ覚えていらっしゃらないでしょうから、改めて申し上げます」
 男はホ・ミョンファの耳に口を近づけ囁いた。わたしには聞こえなかったが。
 ホ・ミョンファは口を押さえつつ言葉を発した。「ノム・ノプン!そ、そんな大金―」
「わたくしは格安な価格だと思っております。いえ激安、大サーヴィス価格と云えるでしょう」男は煙草の吸いさしを携帯灰皿へ押し込んだ。「ご不満であれば他國の然るべき機関と交渉致します」
「そ、それ困る!今夜情報手に入れること、〈組織〉知ってる!」
「それどころか〈共和國に莫大な利益をもたらす技術情報〉である事を既に察知していたらどうでしょうか?諜報機関は〈同志ホ・ミョンファの失敗は事故ではなく、日帝にたぶらかされた末での意図的な裏切り行為である〉と断定するでしょう。そして〈共和國の躍進を阻んだ重罪人〉であるホ・ミョンファは必ずや粛清されます。どこへ逃れようとも」
 ホ・ミョンファの躰は震えていた。
「しかしこの情報入手に成功すればミョンファさんの〈地位〉は上がります。それどころか〈党〉から最高の栄誉を持つ勲章を授与される事は間違いありません。」
ホ・ミョンファが持つ携帯電話から怒鳴り声が聞こえた。「おい、ミョンファ!聞こえてんのか!広田んとこの若造は幾ら欲しいと抜かしてる!」
 ホ・ミョンファは再び携帯電話を耳に当て、口を押さえこちらに聞こえない様話した。何度か頷いては首を振り、頷くと携帯電話を耳から離しボタンを押した。
「蛭沢、了解した。払うよ。でもお金かき集めるのに時間かかる。少し待つ」
 何度目だろうか、男は冷たい笑みを浮かべた。「信じましょう」

 8
 
 それから三十分程して黒塗りのクラウンがマンションの前に止まった。運転していたのは蛭沢に違いなかった。ハンドルを握る両手を見ると、確かに父の手紙通り、両小指が欠損していたからだ。車内には蛭沢以外、誰もいなかった。
 男が慇懃に頭を下げた。「わざわざのお越し、ご苦労様です」
 蛭沢は口を開いた。「話はミョンファから聞いた。でもよ、五千万ってのは高すぎやしねえか?特許だの知的財産権だの訳分からねえ事抜かしやがって」
 五千万。〈一國家に莫大な利益をもたらす技術〉に払う金額として安いのか高いのか、わたしには理解出来なかった。もっとも男が張った罠で、早口でまくし立てた話も事実ではなく、出まかせだろう。
「今回の情報に比較すれば、これまでのはけちな山師や鍛冶屋にとっての〈耳より情報〉に等しいと云えます。しかし、この度の情報は、云わば〈国際規模のイノベーション〉。上司に向かって云うのもなんですが、広田は守銭奴ですから一億を要求しました。ですが、わたくしは説得し半分まで値を下げました。長く深いおつき合い、これが広田よりもわたくしが願う事でありまして。広田はいつか必ず閑職に飛ばされます。その後釜がわたくしです」
「やるねえあんた。こっちこそそう願う所よ」蛭沢は首を左右に傾けた。「じゃあ取引といこうじゃねえか。ミョンファのマンションでな」
「それは駄目です」
「なぜよ」ホ・ミョンファは眼を吊り上げた。
「とある筋から、警視庁の公安と外事部などが動いている可能性が高いとの情報が入りました。わたくしの思い過ごしで過ごされる問題ではありません。もしかしたらミョンファさんのマンションは盗聴されているかも知れない」
「ウソ!」
「盗聴までいかなくとも、数人の刑事が我々を監視している可能性は高いです。ここでするのは危険です」
「そうか、じゃあどうする?」
「とりあえず」男は周りを見廻した。「見た所、刑事はいないようですね。でも本庁の人間、とりわけ公安はエリート集団、外事部は諜報活動のエクスパートです。我々が思いつかない奇策を用意してるかもしれない」
 イライラしていると思しき蛭沢は声を落として怒鳴った。「じゃあどうすりゃいいんだよ!」
「ともかく」男はクラウンを指差した。「ここ神田美土々町は区画整理が進んだとは云え完全ではなく、まだ空き地も多い。ゆっくりと走っていれば尾行はすぐに分かりますし、もしかしたらクラウンにつけられている可能性がある盗聴器が発する盗聴電波も、場所によっては障害を起こすかも知れません」
 蛭沢は頷いた。「とにかく、この辺を適当に流してりゃいいんだな?」
「お願いします。わたくしごとき若輩者が決めてしまい恐縮ですが、ここだ、と思う場所はわたくしが。そこで取引と参りましょう」
「分かった」
蛭沢がクラウンの運転席に座り、男は助手席に座った。ホ・ミョンファは後部右に、わたしは左に座った。
 蛭沢はクラウンをゆっくりと本郷通りを神田方面へ走らせた。その度に男は蛭沢を脅したり道の指示をした。同じ道を何度も通った。
男は言葉巧みに蛭沢を操った。つけるタクシーも車もありませんね。あのワン・ボックスカー、アンテナなんかつけてなんか臭いです。次の細い道を左折してください。おっと白バイだ。ラジオの電波が悪くなっていますね。ここらがチャンスかも知れない。
 道の先に、解体間際のビル三棟に囲まれた袋小路があった。男は袋小路を指差した。
「あそこなら尾行する官憲が接近すればすぐ気づきますし、ラヂオの電波状態も悪いですから盗聴機が発する弱い電波は傍受不能でしょう。蛭沢さん、あそこに車をバックで入れてくれますか」
「俺車庫入れは苦手なんだけどな」それでも蛭沢は袋小路にバックでクラウンを入れた。
 わたしは眼を疑った。袋小路から十メートル離れた所に男のミニ・クーパーが止まっていたのだ。
 男は笑った。「これで安心して取引が出来そうですね。ミョンファさんは最新技術を、蛭沢さんは〈半島の國家〉が気をよくして大放出する拳銃と覚醒剤を独占的に入手し密売出来る。わたくしも課長どころか部長の椅子を思った以上に早く狙えそうな気がしてきました。出世は能力だけで決まるものではありませんからね。まさに一石三鳥です」
「まったくだ。金と麻薬に拳銃、そして最新技術に國境がないからな。産業スパイに密輸・密売。どれも外道のする事だが」蛭沢も笑った。
 男は親指を立て、窓の外を指した。「これから取引に関する重大な話を始める。ハッカーは外に出てなさい」
 わたしはふてくされて車外に出ようとしたところ、大柄なスパナがシートの隙間に刺さっていたので、引き抜きウェストに挟み外に出た。

 五分後、男はクラウンから出てきた。
 わたしはあたりを伺った。通行人はいないし、窓が開いているマンションにアパートの部屋はない。
 出てきた男がクラウンの車内を指差すので、わたしは中を覗いた。叫び声が飛び出しそうになる口を押さえた。修羅場とまでは行かなかったが、当たり前だが見にした事がない光景を目にした。気を失っているのか死んでいるのかは分からなかったが、蛭沢の後頭部は血まみれでハンドルに突っ伏したまま動かず、ホ・ミョンファは震えていた。
 男はわたしにボストン・バッグを放り投げたので、反射的に受け取った。かなりの重量だった。
「これが、ま、まさかお金?」わたしは意味のない事を訊いてしまった。
男は頷いた。「悪党の銭だ、何に使っても構わねえよ。あんたが行なった調査費用の補填、親父さんの供養、学費、小遣い、寄付、起業、ブランド品の大奥買い、ホスト・クラブ通い、競馬、パチンコなどなど。景気良くパアッと使ってやれ」
「で、でも五千万円の大金なんか、と、とても」
「何なら松明として盛大に燃やせ、戦前の成金みてえに。ま、悪党の銭を浪費する、それは親父さんの仇討ちの一部とも云えるだろう。こいつらの懐を薄くしたどころかケツの毛総てひん剥いてやったんだからな。それよりも」男は長く細身のナイフをポケットから取り出し、ハンカチで磨いた。「これはホ・ミョンファが持ってたシロモノだ。あんたの復讐はまだ終わっちゃいない」
「終わっていない?」
「云うまでもねえだろう。あんたはまだ手を下していない。これで蛭沢を刺せ」
「ええ!」
「あんた、親父さんの仇を討つ、それもこいつらのどちらかを殺ると誓ったじゃないか」男は左肩を廻した。「あんたにどっちを殺らせるか、こっちで勝手に決めさせてもらった。おれは何とも思わんが、女を殺るのは誰でも後味が悪いからな、例え悪党だとしてもだ。おまけにあんたはまだ若いしトラウマとなる恐れ大だ」
「じ、じゃあ蛭沢はまだ生きているのね?」わたしの躰は小刻みに震えた。
「繰り返すが、あんたがまだ自分で復讐を果たしていないからだ。それが済んでからだ、ホ・ミョンファを始末し証拠隠滅の工作を行うのは」男は人差し指でナイフの切っ先をなぞった。「こいつらのような悪党を仕損じたら、いつかはお礼参りに来るだろう。復讐ってのはしくじったら報復が必ず待っている。すると決めた以上、禍のもとは確実に絶たねばならねえ。ここで殺らなかったら、あんたが今までした苦労は水の泡だし、こいつらにあんたの身元はバレちゃいないだろうが、調べ上げられたら狙われる。こいつらを殺ると息巻いていた時の気迫はどこへ行った?」
「わ、わたしは怖気ついた訳ではありません!」わたしはボストン・バッグを地面に叩きつけた。
 わたしは覚悟した。父はもちろん三途の川を渡りきってしまった筈だ。地獄へ堕ちる前にもう一度会いたかった。堕ちるのはわたしで、むろん父はそこにはいない。わたしは細身のナイフを受け取った。
 わたしは細身のナイフを受け取ると助手席からクラウンに入り、蛭沢の背をナイフで五回刺した。蛭沢は血を吐いて呻いた。
「上出来だ」男はクラウンの運転席を開け、蛭沢のジャケットの左脇を探った。「ナイフは刺したままにしておけ」
蛭沢のジャケットから抜いた男の手には拳銃があった。それを車内にあったタオルで拭き蛭沢に握らせると、左腕を後ろに曲げさせホ・ミョンファに向け蛭沢の指の上から引鉄を引こうとしていた。
 ホ・ミョンファは朝鮮語らしき言語で叫んだ。
 男の顔からはなんの感情もうかがえなかった。
「待って!」わたしは男の肘をありったけの力を込め掴んだ。
 男はくぐもった声で怒鳴った。「どう云うつもりだ!やっぱり女を殺るのは気が咎めるのか!」
「最期に聞きたい事があるの、ホ・ミョンファに」わたしはホ・ミョンファの顔を直視した。「だから殺すのは待って」
 ホ・ミョンファは眼をそらせた。
 男は頷いた。「まあ、好きにしろ。手短にな」
 わたしはホ・ミョンファの顔を直視した。「古田鉄工所の技術部部長を板橋で殺したのは、あなたでしょう?」
 ホ・ミョンファは横を向き、鼻で笑った。
 わたしはホ・ミョンファの筋の通った鼻をスパナで殴りつけた。
「アイゴー!アイゴー!」
 鼻からは血が流れ出した。ホ・ミョンファは鼻血を手で押さえながら低くうめき俯いた。
「もう一度訊くわ。殺したのはあなたでしょう」
「私ちゃない!殺したは蛭沢よ!」
「嘘ね」わたしはもう一度スパナを喰らわせた。今度は脛にだ。
 ホ・ミョンファは呻き声をあげた。「イ、キェヂバイガ!」
「蛭沢は暴力団員、ヤクザよ。絞殺を選ぶならネクタイかロープを使ったでしょう。けれどヤクザでなくても、ピアノ線なんか細くて握りづらい凶器は使おうなんて考えないでしょう。使えるのはおそらく何らかの特殊な訓練を受けた人間だとわたしは考えた。ピアノ線は滅多に切れる事がないので確実に殺す事が出来るから。あなたは特殊な訓練を受けた北朝鮮のスパイ、特殊工作員ね。繰り返すけど、父を殺したのはホ・ミョンファ。あなたね」
「そうよ!日帝息の根止める、手段選ぱない!」
 それからホ・ミョンファは朝鮮語でわめき散らした。恐らくわたしを罵ったのだろう。
「気が済んだか?」男はわたしからスパナを奪い、車内のタオルで丹念にスパナを磨きクラウンのグラブ・ボックスに入れた。
「ええ。大学で朝鮮語を履修しようと思ってたけど、しなくて良かった。大学レヴェルでは理解出来なかったと思うけど、理解出来ていれば一生心に残ったでしょう」
「意味は分からなくとも、女狐があんたを罵ったのは何となくわかる。学生の時分、朝鮮語の単位を落としたおれが云えた事じゃねえけどな」男は蛭沢の拳銃を持つ手を再びホ・ミョンファへ向けた。「今度生まれ変わったら〈偉大なる首領様〉なんてホラ吹きのドグサレ外道がいない國で安らかに暮らせ。キムィットンドケアムチョロ」
 ホ・ミョンファは後部ドアを叩いたが開かないと観念したのだろう、叫んだ。「キムヂョンウンチャングン、マンセ!」
男は蛭沢の指の上から引鉄を引き、ホ・ミョンファに全弾喰らわせた。躰は血で染まり、美しかった顔の左側にも命中していた。喰らった部分は砕け散っていた。
 
男は蛭沢の背中に刺さったままのナイフの柄を車内のタオルで拭い、ホ・ミョンファの両手に握らせた。
「これであんたの親父さんをハメた人間は総てくたばった」
「ええ」わたしは地面にへたり込んでしまった。
「だがな、最後の始末がある。あんたも見てるがいい」
 わたしは思い切って立ち上がり、黙って男の眼を見つめた。
「見たくないなら、小川町交差点近くの牛丼屋ででも待ってろ」
「いえ、最期まで見届けます」
「そうか」男は俯いた。どことなく寂しそうな表情だった。「でも下手すりゃ心に傷を残すかも知れないぜ。その手配は済んでいるが」
「構いません」
 男はミニ・クーパーの鍵をわたしに手渡した。「トランクを開けてくれ」
 わたしはミニ・クーパーに近寄り、鍵をトランクに差し込み開けた。そこにはポリタンクが一つ入っていた。
「あとは何するか分かってるな」
 わたしは頷いた。顔色は蒼白だったと思う。
 男はポリタンクを運び、悲運なクラウンに近づいた。ドアを開け、男は蛭沢とホ・ミョンファの死体にポリタンクの中の液体を目一杯かけ、残りを車内に満遍なく巻いた。空となったポリタンクはクラウンの奥に放りこんだ。
 それから男はポケットからゼンマイ仕掛けのおもちゃのようなものを取り出し、ネジを調整し、クラウンのダッシュ・ボードの上に置いた。
 男はポケットからハンカチを取り出し、顔全体をこすった。
「通行人はいなかったか?」
「見ませんでした」
「じゃあすぐに退散する。クーパーの助手席に乗れ」
 わたしたちはミニ・クーパーに乗った。むろんボストン・バッグを抱えてだ。
発車すると男は一方通行が溢れる神田美土々町を巧みに抜け、本郷通りに出た。そして小川町交差点で止まり、男は煙草のパッケージを取り出し一本咥えて火を点けた。
「なんて煙草ですかそれ」
 男は煙を吐いた。「〈アメスピ〉だ。無添加だからいつも健康だ」
「煙草は躰に良くないと思うんですけど」
「細かい事は気にしなさんな」
 それから爆発音が聞こえた。もちろん蛭沢とホ・ミョンファの死体があるクラウンの筈だ。見た目はおもちゃだがあれは時限発火装置だったのだ。

 ミニ・クーパーに乗り男とわたしは美土代町を去った。二十分ほど、お互い口を利かなかった。
「家まで送っていく。板橋のどこだ」男はカー・オーディオの再生ボタンを押した。
 ザ・ブルーハーツの『僕はここに立っているよ』だった。
「志村三丁目ですが」わたしは男の横顔を見た。「あなたもザ・ブルーハーツが好きなんですか?」
「ああ」男は頷いた。「飾りのない歌詞にはストレートなサウンドが合う。小沢健二なんか歌詞は優れていると思うが〈世界のオザワ〉の甥で東大卒なだけあってコード進行が複雑で好きとは云えない。おれが十代の頃、通ってた吹き溜まりの高校では、Xのリスナーが多くてな、ザ・ブルーハーツが好きだったおれはそいつらによく与太公扱いされたもんだ。〈ザ・ブルーハーツはロックを馬鹿にしてる〉とな。どっちが馬鹿なんだクソッタレが。別にXが馬鹿って意味じゃねえけどな」
「あ、あの、車線に寄ってますけど」
「すまねえ。今の話は忘れてくれ」男はハンドルを両手で握った。
〈飾りのない歌詞にはストレートなサウンドが合う〉。これを聞いたのは二度目だ。初めては数年前、わたしの親友の久世舞からだ。
 志村三丁目に着き、わたしはボストン・バッグを抱えミニ・クーパーを降りた。
「お世話になりました」わたしは運転席側へ行き、男に頭を深く下げた。
 男はアメスピを再び咥えた。「今夜の事は夢だったんだからな。落第生だったおれが抜かせる台詞じゃねえが、大学はちゃんと卒業しろよ」
「はい」わたしは返事すると同時に男に質問をした。「わたしたち、革手袋をしてましたよね?それは指紋を残さないようにするためでしょう」
 男は頷いた。「それが殺しの常識ってもんだ」
「でもあなたは触れたモノを必ず何かで拭っていた。指紋は残ってないと云うのに。なぜですか?」
「長年こんな稼業をしてると、やめようと思ってもやめられない癖が出来ちまう。あれがおれの癖だ。それか、汚れきっちまったこの手の汚れを少しでも落とそうと、おれの中に芥子粒並みに残っているかも知れない良心とやらがそうさせているのかも知れん。おれは精神医学関連の本など読んだ事も読もうと思った事もないので分からんがね」
「そうですか」わたしは何も聞かなかった。
「革手袋は細かく刻んで近所のコンビニのゴミ箱に捨てろ。じゃあ来世でな」
 ミニ・クーパーは走り去った。

 わたしの復讐は終わった。

復讐されるはむべなるべし

執筆の狙い

作者 工員
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コウトウムケイナハナシヲ、タマニハ、タマニハ

コメント

そうげん
58-190-240-140f1.shg1.eonet.ne.jp

読みました。面白くって、引き込まれて一気に読んでしまいました。
古田鐵工の会長さんが後の方で再登場してなにか物語に絡んでくるのかなと予想してもいたのですが、展開はスピード感もあって、十分にボリューム感も感じました。

夜の雨
ai207211.d.west.v6connect.net

6まで読みました。
ちょうど半分ほど。
主人公の名前が書かれていないのが気になりますが。

話は面白いです、若き日の宍戸錠が殺し屋で出てきそうです。
東映映画の路線(笑)。

今夜中に読了して、もう少し詳しい感想を書きます。

よろしく。

夜の雨
ai207211.d.west.v6connect.net

「復讐されるはむべなるべし」読了しました。

主人公というかヒロインの名前とうとうラストまで出てこなかった。
名前は父の葬儀の時に出せると思いますが。

内容ですが、チョイやばそうな話がよく書かれています。
産業スパイと某国がらみ、そこにヤクザとかが描かれているエンタメ作品でした。
上の感想で東映映画の路線と書きましたが、まんざら外れていませんでした。
東映映画といっても任侠道の高倉健が出てくるのとは違い、宍戸錠の殺し屋路線です。
ハードボイルド作品です。
御作を読んでいて、良くできていると思ったのは物語の細部の描き方に説得力があるところです。
だから読んでいても嘘っぽくなくて、ぐいぐい作品世界に入っていけました。
原稿用紙69枚でしたが、それぞれのエピソードがしっかりと書きこまれていたので、途中でだれるところもなくて気持ちよく読み終えました。
いろいろな意味でバランスがよかった。


気が付いたところ。
一人称の女性視点でしたが、かなり客観的な雰囲気が漂っていました。
せっかくヒロインの女性視点で書かれているので、文章に女性らしさの視点をいれておくと良いのではないかと思います。

方向音痴と言いながら方向音痴ではなかったというところが、凡ミスですか?
>「よし、これから悪党の残りを始末に行く」ミニ・クーパーは走り出した。<
このあと
>「神田美戸代町」男はわたしに地図を渡した。「こいつにはナビなんてモンはついてねえ。だから神田美土々町までのルートをおれに指示してくれ。おれは方向音痴なんでな。今中央通りを走っていて、三越を過ぎたばかりだ」<
ということで、男は方向音痴のはずですが、ラスト近くで
>発車すると男は一方通行が溢れる神田美土々町を巧みに抜け、本郷通りに出た。<
と、書かれています。
これだと、方向音痴とは、違いますよね。

作品全体ではとてもよかったです。

また、楽しませてください。

shion
KD027083171050.ppp-bb.dion.ne.jp

読みました。ストーリーもしっかりしてるし、展開なんかはかなり上手いと思います。面白く読める作品でした。

工員
softbank126159250089.bbtec.net

お読みに頂けまして、誠に光栄です。

しかし、宍戸錠は日活です。東映ではありません。
神田美土代町に到着して、足でルートを調査した。蛭沢のクラウンに乗っている時に道をある程度
把握した。工作員=殺し屋なら出来ても不思議ではないでしょう。

ともかく読んでいただきありがとうございました。

may
pw126193037169.28.panda-world.ne.jp

殺し屋。私大好きな、タイプの物語です。かっこいい。
ただ、これ小説にしてやばくない?て感じのリアリティがありました。

工員
softbank126159218092.bbtec.net

ありがとうございます。
まだまだリアリティが足りない、と反省しております。
荒唐無稽な話をわたしは書きますが、それを支えるのは徹底的なリアリティだと思っております。
ここで北朝鮮を「某國」なんて誤魔化したら、いっぺんに冷めてしまいますから。
あと、良し悪しはともかく、わたしは主人公に名前を絶対に与えません。突き離せるし、自由に
動いてくれますから。

祝歌
p1898208-ipbf2106sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp

プロなのではと思わせられました。引き込まれて一気読みしました。

タイトルが残念です。
「復讐するは我にあり」……を連想させられました。
主人公に名前を絶対に与えないというこだわりを持つ行員さま、作品の顔とも言えるタイトル、凡庸です。

祝歌
p1898208-ipbf2106sapodori.hokkaido.ocn.ne.jp

プロなのではと思わせられました。引き込まれて一気読みしました。

「復讐するは我にあり」……を連想させられました。
主人公に名前を絶対に与えないというこだわりを持つ行員さま、作品の顔とも言えるタイトル、凡庸です。

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