作家でごはん!鍛練場
北条かおる

ある歌人の遺書

           
      (一)
                   
 高梨康彦の葬儀は、いかにも彼にふさわしかった。シティホールの最も小さな部屋で、会葬者もわずか七人という寂しさだった。おまけに雨の朝ときている。
「さて、と――。悪いが、仕事を休むわけにはいかんのでね。俺、これから会社に行くよ」
「ああ、俺も」
 四人が同じような返事をして、腰を上げた。
「申し訳ないね。何もかも広田さんに任せてしもて」
「いや……。構いませんよ。私は休みをとったから」
「じゃ、悪いけど僕らも」
 他の二人も座を立って、残ったのは広田一人になってしまった。
 広田も身内というわけではない。短歌を通じての親しい友人に過ぎなかった。親兄弟のない天涯孤独だと自嘲気味に言っていたから、高梨康彦が死んだことを、どこにも伝えられなかったのだ。
 高梨康彦は孤独死だった。左京区松ヶ崎の自宅マンションで倒れているところを、たまたま訪問した広田が発見した。事件性はなかった。三十六歳という若さながら、死因は急性心筋梗塞で、哀れにも前日に死亡していたらしい。
 広田と高梨康彦のつき合いは、もう十五年になる。大学の文学部で短歌を研究していた高梨と知り合い、広田のほうが五つ年上だったが、すぐに親しく話すようになった。
 京都市内の出版社に勤務している広田は、当時、すでに短歌の同人誌(霧)を主宰していた。
 高梨は、自分のことをあまり話さない男だった。親しい友人といえば広田しかいなかったようだ。
 葬儀に義理で顔を出し、先ほど帰っていった連中も、みんな(霧)のメンバーだった。広田を中心にした、いわば友人葬といった形である。
 広田は、あぐらをかき、花に埋もれた祭壇に目をやった。遺影すらない質素な祭壇だ。
 三十六年の短い一生に、恋愛などの彩りは、高梨にはなかったのだろうか。広田の知っている十五年間にはなかった筈だ。
 高梨は(霧)の熱心な寄稿者だった。恋人も友達もなく、短歌だけの生涯だったとすれば、
(悲しみと屈折の日々でしかなかったのではないか)
 そんな気がしないでもなかった。
 それからの広田は忙しかった。ともかく、高梨の人生の後始末をしてやらなければならない。
 遺骨は、広田の菩提寺・西福寺に事情を説明して、仮に預かってもらった。いずれ折を見て、無縁墓におさめるしかなかった。
 出身地すらも不明なのだ。それほど高梨康彦は自身のことを秘匿した。
 マンションの遺品を引き取ったのも広田である。
 男の単身者のことで、残された家財道具などは知れている。衣類も多くはなかった。
 単身者といえば、広田もまた独身だった。妻は四歳の娘を連れて出て行った。二年前のことだ。道楽でしかない(霧)の発行に、生活費までつぎ込む夫に我慢しきれなくなったのだ。
 今は岐阜県の親元にいる。妻の両親は、
「二年なら、まだ取り返しがつかないものでもないから、とにかく話し合いに来なさい」
 と、しつこく言うが、広田はなかなか腰が上がらなかった。出て行く時の、(霧)に対する妻の罵倒と捨て台詞が、今でも尾を引いている。二年くらいで許せるものではなかった。
 百歩譲って、復縁したとしても、いずれまた口論になるのが目に見えている。父と母の激しい争いを、娘には二度と見せたくなかった。
 松ヶ崎のマンションから運び出すのに汗をかいたのは、厖大な書籍だった。ダンボール箱が十個にもなった。さすがに短歌や詩歌の評論や研究書が多い。高梨は(霧)のメンバーの中でも、一番の勉強家だった。
 とりあえずは引き取るが、後々、市の図書館に寄贈するつもりでいる。
 机の引出しに、自作の歌稿の束が残されていた。かなりの作品数で、未発表の歌も多かった。
 それらもダンボール箱に投げ込んで、いったん広田が持ち帰った。
 その夜……。
 広田は寝る前に、高梨の手書きのノートをパラパラとめくってみた。
 恋の歌のページだった。広田の知らない短歌ばかりだった。

       
 君恋へばこころ乱るる、春の夜にふさはしからぬ白き月かな

      
 風の夜の一人寝こそは寂しけれ、君なくて何の花の頃かな

           
 春の夜の苦しき酒に一人酔ひて呟きてみる、わが由紀子よと

        
(ほう)
 なんとなく広田は嬉しかった。一緒に飲んだ時でさえ、広田に打ち明けることはなかったが、どうやら高梨は「由紀子」という女性に恋をしていたようだ。
 たとえ片思いでも、孤独死した高梨康彦にも幸福な一時期があったというものだ。
 高梨の歌稿は、後から手を加えた形跡が少ない。きれいで読みやすいノートだった。
 だが、三番目の歌は推敲されていた。「由紀子」の人名の箇所が、一度は塗りつぶされている。黒く塗りつぶされた横に「由紀子」と書き直されていた。
 未発表の短歌に目を通しながら、
(そうだ。次は追悼号でいこう。高梨康彦の特集だ)
 次号の(霧)の編集を思った。(霧)は年に四回、四季ごとに発行している。来月が、ちょうど秋季号の予定だった。
 残されたノートの中から秀作を拾い集め、遺作の歌集を作って掲載しよう、と広田は決めた。
(きっと高梨の供養になる)
 それこそが真の葬送だと思った。
 広田は、高梨の短歌の才能を買っていた。彼の作品の整理をするのは楽しみな作業だった。
(おや?)
 ダンボール箱の底から、一冊のノートが出てきた。
 表紙に高梨の筆跡で、「花苑」と書かれている。表題の横に、(樺島由紀子嬢に捧ぐ)とあった。
 高梨自身が構成し、直筆で書いた歌集だった。
(ははあ。樺島由紀子という女性か)
 高梨康彦の幻の恋人が、少しずつ姿を現し始めた。
「花苑」は小さな歌集だった。数えてみると、掲載された歌は三十一首しかない。
 だが、紛れもなく高梨康彦の遺作であり、歌集としてまとまっている。追悼号には、この「花苑」を載せるべきだった。
 その心づもりで、広田は小さな歌集を読み始めた。そうして、すぐに、
(…………?)
 首をひねった。あまりの出来の悪さに、広田は理解に苦しんだ。
 この三十一首の短歌は、本当に高梨が詠んだものだろうか。筆跡は確かに彼のものだが、しかし――。
 こんな愚作ぞろいの歌集を、追悼号に載せるわけにはいかない。読者に彼の才能を疑わせるだけだ。
 やはり、広田が一首ずつ選び出して、高梨康彦の遺作にふさわしい歌集を作っていくしかなかった。
         
 短歌同人誌(霧)の高梨康彦・追悼号は、さっそく翌月に発行された。
 主宰者の広田が出版社に勤めている有利さで、その小冊子は、近畿一円の書店に配送されている。
 発売日の二日後――。
 本業の編集会議から戻った広田に、外部から電話がかかってきた。奈良の高梨貴玖子という、未知の女性からだった。
「高梨?」
 ハッと思った。高梨康彦の血縁者だと直感した。
 案の定だった。高梨康彦の義姉だという。購読している(霧)の追悼号で康彦の急死を知り、発行人の広田に問い合わせてきたのだ。
 高梨康彦が奈良の出身だったと初めて知った。興福寺や春日大社から少し南に下った閑静な高畑町のはずれで、新薬師寺の近くだそうだ。そんな話すら、高梨康彦はしてくれなかった。
 ともかく、高梨貴玖子に会うことにした。
 翌日――。
 約束の時間に、高梨貴玖子が出版社に来てくれた。社の応接室で面会した。
 高梨貴玖子は着物の似合う、日本的で清楚な美人だった。奈良の女性だけに、広田は(飛鳥美人)と心の中で形容した。少なくとも、そのDNAを継承しているに違いない。
 奈良市内で華道教室を主宰しているそうだ。道理で和服の着こなしが自然だった。
「――ははあ、十年もですか」
 広田は驚いた。高梨康彦と貴玖子とは、奈良と京都という近距離にいながら、もう十年も没交渉だったという。
 貴玖子は、康彦の兄・新太郎の妻だった。新太郎は、十年前に病死している。康彦が奈良の実家に戻って来たのは、その葬儀が最後だったそうだ。
「お恥ずかしいことですが、康彦さんの現住所を、教えてもらっていなかったのです。ただ、大学を卒業してから、そのまま京都にいるのだろうとは思っていました」
 季刊(霧)を購読していて、毎号掲載される康彦の短歌を読み、元気で暮らしていることだけは知っていたという。
(…………)
 広田は、ふと不審に思った。
 康彦が住所を教えなかったのは、この義姉とうまくいっていなかったのではないだろうか。
 それに、義姉の貴玖子にしても、康彦の住所を知りたければ調べることができた筈である。(霧)の奥付には、出版元も発行人も明記されている。広田に問い合わせればわかることではないか。
 十年もの疎遠には、隠された理由がありそうだった。
 だが、立ち入ったことは聞けない。広田は、話題を明るいものに変えた。
「どうやら康彦君には、恋人がいたようなんですよ。どこの誰かは不明なんですがね」
 樺島由紀子という女性のことを伝えた。
 貴玖子にも心あたりはなかった。だが、孤独な人生ではなかったと知って、なんとなくホッとした様子が窺われた。
 自筆の歌集を贈ろうとしていたのだ。かなり深い慕情があったに違いない。
「広田さん。もしその方がわかりましたら、ぜひお知らせ下さいませんか。おつき合い頂いたお礼も申したいですし、お望みなら康彦さんの形見もお分けしたいと思いますので」
「はあ。では(花苑)だけは、しばらく僕に預からせて下さい。いや、小さな歌集ですから、コピーでけっこうです。何かヒントでも発見できればいいんですが」
 樺島由紀子がどんな女性か、広田も知りたい気持ちはあった。
 その後、自宅と西福寺に案内して、遺骨と遺品を貴玖子に渡した。重い書籍類は別に送り届けることにした。
 あらためて奈良の実家で葬儀を営むそうだ。
 義理の姉とはいうものの、貴玖子は若く見えた。それを言うと、
「康彦さんとは幼なじみで、同級生だったんです。小学校から高校まで、ずっと一緒でした」
「そうでしたか」
 この美貌なら、さぞマドンナ的な存在だったろうと思う。それが兄の女房として家に入って来たのだ。果たしてどんな気持ちで受け入れたのか。
 広田の想像できることではなかった。
      
      (二)
       
 それから一週間――。
 広田のもとに、またしても奈良からの訪問者があった。事前の連絡はなかった。いきなり出版社を訪ねて来た。
「いやあ、お忙しいところをすみませんねえ。たまたま高梨貴玖子さんから、あなたのことを聞きましてね」
 風間刑事は、そう切り出した。日焼けした四十がらみの、農夫のような風貌の男だった。
 何の用だか知らないが、警察と関わって、ろくなことはない。編集部の同僚の目をはばかって、広田は、近所の喫茶店で話を聞くことにした。
 風間刑事は、高梨康彦の京都での暮らしぶりを、根掘り葉掘り訊いた。広田の他に、親しい友人はいなかった。
「――ふうむ、なるほどねえ。短歌ひとすじ、といった生活だったんですなあ」
「そうです。(霧)の熱心なメンバーでした。しかし、刑事さん。奈良の警察が、なぜ高梨康彦を調べてるんです?」
「いや、調べとるわけではないです。捜査に関することやから、言うわけにはいかんのですが」
 そう言いながらも、風間刑事は、けっこう詳しく話してくれた。
「実は、二ヶ月ほど前のことなんですがね」
 奈良で起こった殺人事件だった。
 激しい雨の夜、猿沢ノ池のほとりで、山芝哲也という男が刺し殺された。行きつけのスナックで飲んだ帰りだった。雨ではあったが、自宅までタクシーに乗るほどでもない。店の話では、傘をさして一人で徒歩で帰っていったという。
「夜半で、しかも雨ということもあって、目撃者がありませんでね。現場も雨で洗われとったし、難航しとるんですわ。山芝哲也という男は、まともに働かんダニみたいな奴でしてね。ま、土地の嫌われ者やったんです」
 やくざな交友関係から、すぐに犯人は割れる、と捜査本部は楽観視していた。ところが、思惑通りにはいかなかった。さしたるトラブルもなく、人に恨まれることもなかったのだ。
 捜査は行き詰まった。だが、捜査本部の方針は変わっていない。今でも山芝哲也の周辺を洗い続けている。
 どうやら風間刑事は、捜査本部とは別の考え方をしているようだ。ひょっとしたら、今日も上司に内緒で来たのかも知れなかった。
「ですが、その奈良の事件と、こっちで死んだ高梨康彦と、どんな関係があるんです?」
「被害者の山芝哲也は、ほれ、高梨貴玖子さんの実の兄なんですわ」
「え?」
「貴玖子さんの旧姓は、山芝――そういうことなんです。そやから、高梨康彦さんと無関係でもないんですな」
 風間刑事の話は、意外な展開になった。
 山芝哲也は遊興費欲しさに、素封家の嫁になった妹の貴玖子につきまとい、苦しめていた。
 山芝哲也の周辺から容疑者が浮かんでこなかったこともあって、警察は当然ながら、動機のある貴玖子を調べている。
(まさか)
 内心、広田は失笑した。一度会っただけだが、あの高梨貴玖子が兄殺しの犯人などとは、想像できるものではなかった。
「高梨貴玖子さんには、立派なアリバイがありました。幸いなことに確たるアリバイがね」
 風間刑事も、本気で高梨貴玖子を疑っていたわけではなかったようだ。
 事件が発生した時間は、午後九時――。ちょうどその時分、高梨貴玖子は、自宅でピザの配達人と会っていた。
「ピザ、ですか」
「そうです。これが注文間違いでしてね」
「高梨貴玖子さんは注文した覚えがない、と?」
「そうです。ですが、心の優しい人ですからなあ。押し問答の末に、結局、気の毒がって、そのピザを買い取ったそうですわ」
 捜査は、いよいよ頓挫した。それで、十年も音沙汰のなかった高梨康彦にまで目をつけたものらしい。
「いやいや、目をつけたというほどでもないんです。被害者と高梨康彦さんとは、ほとんど面識がなかった筈ですからね。たまたま貴玖子さんから、今度の広田さんとのことを聞いたもんですから、まあ一応は話を聞いておこうかと、その程度のことなんです。いや、どうもお手間を取らせましたな」
 風間刑事は、あっさりと腰を上げた。
 山芝哲也が殺された事件に関して、高梨康彦は、完全に捜査圏外にいたのだ。
         
 奈良で起こった事件など、広田には関係がない。興味もなかった。
 関心があるのは、歌集(花苑)だった。高梨康彦が密かに恋焦がれていた(樺島由紀子)という女性は、どこにいるのか。どんな交際だったのか。
 だが、何度読み返しても、手がかりになりそうな表現はなかった。
 疑問は、もう一つあった。
 なぜ(花苑)の短歌が不出来なのか。このことだった。才能ある高梨康彦が詠んだ作品とは、とうてい思えない。
 広田は、毎晩、ビールを飲みながら(花苑)を読んだ。
(花苑)は小さな歌集だった。その三十一首の短歌は、すでに頭に刻み込まれている。
(三十一首……?)
 おや、と広田は思った。頭の中で、何かがはじけた。口に運びかけていたビールのコップを、テーブルに戻した。
 三十一首――ひょっとしたら、三十一文字をあらわしている?
 短歌は「五七五七七」の三十一文字だ。そこに何か意味がありそうな気がした。
「伊勢物語」に、在原業平の有名な歌がある。

          
   から衣 
   きつつなれにし 
   つましあれば 
   はるばる来ぬる 
   たびをしぞ思ふ

     
 五七五七七の頭の文字を拾い出すと(かきつばた)になる。
 また、紀貫之には、

       
   をぐら山 
   峰たちならし 
   鳴く鹿の 
   へにけむ秋を 
   知る人ぞなき

              
 という和歌もある。これは頭の文字に(をみなへし―女郎花)が詠み込まれている。
 おそらく平安時代の貴族の間で流行していたのだろう。和歌の知的な遊びだった。
(そういうことか? この歌集には暗号文が隠されているのか?)
 かきつばた流に解読してみよう。広田は、それから二時間、(花苑)の短歌を白紙のノートに書き写していった。
 それぞれの短歌に通し番号を打ち、五七五七七と五行に分けて書き直した。そうして、文字を一つずつ拾い上げていった。
(うわ、これはまた、なんという……)
 広田の息づかいが、興奮で荒くなっていた。
       
      (三)
        
 奈良は三年ぶりだった。近鉄奈良駅を出ると、広田は深々と息を吸い込んだ。若草山から吹く風も、京都とは匂いが違っている。
 時間も、ゆったりと、鷹揚に流れている気がする。京都が「平安の都」なら、奈良はさらに古い「天平の都」だ。歴史の重みに大きな差があった。
 天平の風の匂いに誘われて、奈良公園に足を踏み入れた。一頭の鹿が歩み寄って来る。もの問いたげな目で、広田を仰ぎ見た。
 鹿には幸福な頃の思い出がある。
 前回、奈良に遊びに来たのは、まだ娘が一歳の秋だった。三人で鹿と戯れた。家庭に波風は立っていなかった。妻もよく笑ったものだ。
 それが急に破綻をきたした。笑顔の陰で、妻はじっと我慢を重ねていたらしい。気楽なことに、広田は、妻の沈殿した不平に気づかなかった。
 家庭を顧みなかった反省はある。だが、岐阜の実家に迎えに行くには、相当な決断が必要だった。
(…………)
 思い出にふけっている場合ではなかった。
 名刺を見て電話をすると、風間刑事は、すぐに出て来てくれた。
「やあ、先日はどうも――。今日はまた何かお話があるとか」
「はい。ぜひ聞いていただきたいことがありまして」
 ついに歌集(花苑)の謎を解いたのだ。喫茶店の片隅などでできる話ではなかった。
 十一月の末だというのに寒くない。だんだん時期がずれてきて、興福寺や東大寺の森も、今が紅葉の盛りだった。
 広い奈良公園をゆっくり歩きながら、広田は、在原業平の和歌から順を追って説明した。
「ははあ、かきつばたの歌ねえ。それなら私も知ってはいますがね。その(花苑)とやらいう歌集が、高梨康彦氏の遺書だと?」
 それがどうしたと言わんばかりだった。殺人事件の捜査に関係があるとは思えなかったのだろう。
「ここにコピーを持って来ました。ああ、あそこに座りませんか」
 枯れた芝生の中に、木製のベンチがあった。落ち葉を払って腰を下ろすと、
「いいですか、風間さん。ここの文字を拾い出していくんです」
 広田の指示に従ってコピーに目を通していくにつれて、風間刑事の目の色が変わってきた。
 すべての説明を聞いて、
「こりゃあまた大変な歌集ですなあ。なるほど、遺書といえば確かに遺書だ。あんたもよく気がつきましたねえ」
 もう一度事件を調べ直さにゃならん、と風間刑事は気負って言った。
 歌集の意味を解いてみると、事件の様相がおぼろに見えてきた。雨の夜、猿沢ノ池のほとりで山芝哲也を刺殺したのは、
(高梨康彦ではないのか)
 という疑惑が浮上してきたのだ。
 被害者の妹である高梨貴玖子が捜査の対象になった際に、当然警察は、高梨康彦のことも一応は調べていた。
「――高梨と貴玖子さんが恋仲だった?」
 幼なじみで同級生だったとしか貴玖子は言っていなかった。
「はあ、そうらしいです。二十年も前の高校時代のことですがね」
 煙草をくわえて、風間刑事は言った。
 その証言は、貴玖子の友人たちから得たものだった。
 高梨康彦と旧姓・山芝貴玖子が交際していたことは、友達の間では有名だった。二人はいずれ一緒になるものと友人たちは思っていたそうだ。
 山芝貴玖子は、校内のマドンナだった。勉強もできるし、華道部での活動も熱心だった。
 高校を卒業して、高梨康彦は京都の大学へ行き、山芝貴玖子は地元の小さな会社に就職した。その頃はまだ高梨康彦も、頻繁に奈良に帰省して、貴玖子とデートしていたらしい。
 ところが、二人の恋は実らなかった。急遽、貴玖子に縁談が決まったのだ。
 高梨康彦には、新太郎という、三つ上の兄がいた。役所に勤める、真面目一方の男だった。
 どんな運命の巡り合わせか、貴玖子の相手というのは、その新太郎だった。
(山芝はなあ、不動産の取引に失敗して、借金まみれやったんや。金のために貴玖子を高梨新太郎に嫁がせたんやで)
 陰ではそう噂されていた。そして、それは事実だったようだ。
 一時は逆上したものの、結局、高梨康彦は貴玖子を責めなかった。ただ、その時から、奈良の実家には寄りつかなくなった。兄と貴玖子の結婚式にさえ顔を出していない。
 それから十五年――。
 康彦が奈良に帰って貴玖子と顔を合わせたのは、結婚三年目に高梨の両親が相次いで死んだ時と、さらに二年後、新太郎が病死した時の二回だけだった。その時ですら、二人の間に会話らしい会話はなかったらしい。
 その後、貴玖子は、華道教室を主宰するかたわら、広い屋敷に一人で暮らしている。
「京都と奈良は遠くないですからね。今日だって電車で一時間もかかりませんでした。やはり高梨は、何度も、密かに奈良に戻っていたんですよ」
 広田には、高梨康彦の哀れな心情がよく理解できた。
「ただ、貴玖子さんのいる実家に近寄らなかっただけなんです。おそらく、遠くからそっと見つめていたんでしょう」
「そうですな。あんたのお説の通りやろと私も思います。兄嫁となった貴玖子さんへの思いは、少しも変わっとらんかったんですなあ」
 風間刑事も頷いた。
 捜査本部は、まだ山芝哲也の黒い交友関係に固執している。
「この歌集が出てきた以上、もういっぺん上司に話さにゃならんですなあ」
 風間刑事は、その困難を予想して、気鬱そうに言った。どうやら頭の凝り固まった上司らしい。
 高梨康彦がその暗い噂を耳にしたのは、両親が亡くなった時だったか、あるいは兄・新太郎の葬儀の時だったかはわからない。それともそれ以後のことだったのかも知れない。とにかく高梨康彦は、山芝哲也が貴玖子に金の無心を繰り返していることを知ったのだ。
 貴玖子は苦しんでいた。
 内緒で様子を探り続けていた康彦は、
(ダニを除いてやらなければ)
 と考えるようになった。最も効果的な方法は、というと――殺害しか思い浮かばなかった。
 おそらく、それが事件の真相やと思います。風間刑事はそう言った。
      
      (四)
        
 風間刑事と別れたその足で、広田は高梨貴玖子の家を訪ねた。
 奈良公園の飛火野から、馬酔木の森を抜け、高畑に出る。国宝の十二神将で有名な新薬師寺の近くに高梨家はあった。
 夕方から華道教室に行く貴玖子は、着物姿で広田を迎えた。華道教室は奈良駅前のビルにあるのだそうだ。
「康彦さんの歌集が暗号に、ですって?」
 広田を居間に案内して、貴玖子は性急に聞いた。
「そうです。(花苑)には、重大なメッセージが隠されていました」
「では、樺島由紀子さんとおっしゃる方のことも?」
「はい。わかりました。間違いなく高梨君の恋人でした」
「そうですか。では、康彦さんも幸せだったのですね」
 貴玖子は、安心した表情になった。
「その方は今どちらに? 康彦さんが亡くなったことはご存知なのでしょうか」
「ええ。知ってますよ」
 広田はガラス戸越しに庭に目をやった。大きな池があり、中央に松の木が植えられた小島があった。池泉回遊式を模した日本庭園だった。やはり高梨康彦の実家は富裕だったのだ。
「最初から順序立ててご説明しましょう」
 テーブルの上に(花苑)のコピーを広げた。
 さすがに貴玖子は、在原業平の「かきつばた」の歌も、紀貫之の「女郎花」の歌も知っていた。
「すると、この歌集も、同じ方法で意味が込められているとおっしゃるのですか」
「そうです。平安時代からある(冠歌―かむりうた)という遊びの技法です」
 頭の文字を(冠)、最後尾の文字を(沓―くつ)と称する、と広田は教えた。
「この歌集に限って、康彦君らしくない作品ぞろいでした。暗号としてメッセージを織り込んでいたのですから、彼の才能をもってしても、短歌の完成度が低くなったのもやむを得なかったのです」
「メッセージ――? どんな内容だったのですか」
「一篇の詩でした。康彦君の創作した五言詩です」
 広田は、バッグから数枚の紙片を取り出した。
「これは僕が、それぞれの短歌を五行に書き直したものです。(冠)の五文字を拾ってみて下さい」
「…………」
 貴玖子は、手渡された紙片の、第一番目の短歌を読んだ。

      
   わが胸に
   今朝降る雪は
   黙しつつ
   名を呼べばなほ
   君は去りにき

    
「……わけもなき?」
 貴玖子は、思わず声に出して言った。
「そうです。全作品が、そのような冠歌になっているのです。歌集の順番通りに番号を打っておきました。その順に従って、どうぞ全部を読んでみて下さい」
「はい……」
 広田は、庭を眺めながら、貴玖子が歌集を読み終えるのを待った。
 読むにも煩瑣ではあるが、高梨康彦の遺した小歌集を、ここに記しておかなければならない。
          
    歌集~(花苑)
           
①   わが胸に         
   今朝降る雪は       
   黙しつつ         
   名を呼べばなほ      
   君は去りにき       
            

②   秘めやかに
   愛(を)しと思ふ心
   すでに深く
   この夕暮れに
   死を願ふのみ

③   閑(しづ)かさや
   小舟(をぶね)の上で
   かき抱けば
   君がまぼろし
   手より消ゆるか             

④   よしやわれ
   乙女の君を
   なくすならば
   今朝も作らむ
   苦しき恋歌

⑤   にぎやかに          
   春は来にけり       
   かの人よ        
   庭に出でては       
   春を楽しめ        
           
⑥   感傷と
   別離の日々よ
   竜胆も
   恋の氷雨に
   濡れてあるのみ  

⑦   咲く花は       
   竜胆の花         
   しづ山に          
   日を送るとは           
   惜しむべきものを     
              
⑧   猫柳
   手に折り取れば   
   春は来ぬ
   洩る月影に 
   触れし心地す    

⑨   手にしたる      
   丘辺(をかべ)の花は      
   毒々しと          
   理非なく裂けば      
   手には恋の果て      
         
⑩   夜半(よは)ごとに
   炉に寄るわれの
   恋心 
   ひたすら恋へば  
   白雪ぞ降る 

⑪   平安の        
   尼僧の経ぞ        
   忍び寄る         
   ひたぶる哀し       
   野路歩むまま       
          
⑫   春は来ぬ
   留守をかまはず
   野に出でて
   恋探すなり
   酔(ゑ)ひて死すまで

⑬   君なくば      
   水の音さへ   
   悲しからむ    
   滝の声といへば   
   めづらしきものを  
          
⑭   水の上に
   千鳥啼くなり
   にぎわしく
   寺の甍に
   照る月もよし

⑮   後々(のちのち)に 
   別離は来むと   
   野に泣けば    
   雲早きかな    
   さわらびの里  
           
⑯   なぐさめよ
   乙女子を恋ひ
   妻にせむと
   枕を濡らすも
   無理からぬかも

⑰   花のもと    
   名を呼べばなほ   
   野の春は      
   かぐはしきかな  
   春に君を恋ふ   
          
⑱   草枕
   連れなき旅ぞ
   歴史ある
   寺にて詠める
   もの想ふ歌

⑲   留守居しつつ     
   凛々しき恋を     
   軒に捨てて    
   いたづらかなや   
   炉辺に詠む歌  
         
⑳   経(へ)し時は
   闇の夜に似し、
   似しといへば
   ああ、われに似し
   竜胆の花
         
㉑  木戸を出て    
   見るはかそけき  
   かの人の     
   胸のおもかげ   
   寝てさへもまた 
         
㉒  花の色も
   つらきわれなり
   洛北の
   月を見てさへ
   ときに涙す

㉓  瑠璃草は    
   稜線に溶けし   
   空の色を   
   映せりとぞ言ふ  
   春待ちながら   
        
㉔  野路の春
   二月の雪も
   去りがてに
   今朝戻り来し
   理由なきままに
 
㉕  今宵こそ    
   ひとめ逢はむと  
   矢のごとく     
   ここまで来たりぬ  
   日々に哀しく    

㉖  ひたすらに
   時は過ぎ行きぬ、
   目を閉ぢて
   泣きつつわれは
   苦しみを知る
        
㉗  遠山に       
   牡鹿(をじか)鳴くなり 
   たちまちに       
   手は掴みゐし   
   照る春の日を   
          
㉘  髪の色
   野路のみどりに
   染まりゐて
   野に遊ぶ人は
   柔草(にこぐさ)ぞ今

㉙  春や春   
   いたづらに来て  
   理知を覚ます   
   立木の下の  
   羊歯は濡れつつ  
          
㉚  寥々と
   背に聞く風は
   いたづらに
   涙干しつつ
   木々揺らすもの
          

㉛  ぬくもりの
   鈴の音色を
   ひとしきり
   遠くに聞くは
   春の楽しみ

       
 貴玖子は読み終えて、ホッと溜め息をついた。
「どうです? これが康彦君の遺書ともいうべき(花苑)に隠された五言詩です。ここに書き抜いたものがあります」
 広田は、別の紙片を取り出した。

        
➀ わけもなき    わけもなき
➁ ひをすこし    日を過ごし
➂ しをかきて    詩を書きて
➃ よをなけく    夜を嘆く。
➄ にはかには    にわかには
➅ かへりこぬ    帰り来ぬ
➆ さりしひを    去りし日を
⑧ ねてはもふ    寝ては思(も)ふ。
⑨ てをとりて    手を取りて
➉ よろこひし    喜びし
⑪ へにしひの    経にし日の
⑫ はるのこゑ    春の声。
⑬ きみかため    君がため
⑭ みちにてて    道に出て
⑮ のへのくさ    野辺の草
⑯ なをつまむ    菜を摘まむ。
⑰ はなのかは    花の香は
⑱ くつれても    崩れても
⑲ るりのいろ    瑠璃の色
⑳ へやにあり    部屋にあり。
㉑ きみかむね    君が胸
㉒  はつらつと    はつらつと
㉓  るりそうは    瑠璃草は
㉔  のにさけり    野に咲けり。
㉕  こひやこひ    恋や恋
㉖  ひとめなく    人目なく
㉗  とをたてて    戸を閉(た)てて
㉘  かのそのに    かの園に
㉙  はいりたし    入りたし。
㉚  りせいなき    理性なき
㉛  ぬすひとは    盗人は。

       
「――これを康彦さんが創作したのですね」
「そうです。なかなかの力作でしょう。かつて愛し合っていた女性を想い続けているという意味の五言詩です」
「樺島由紀子さんのことですね」
「そうです。しかし、これはまだ隠された秘密の第一段階に過ぎないのです」
「え?」
 まだ別のメッセージが隠されている、と広田は言った。
「この歌集が、三十一首の短歌で構成されていることに注目して下さい」
「三十一首……?」
「そうです。三十一――短歌は三十一文字ではありませんか。これは、あなたがご自分で文字を拾い出したほうがわかりやすいと思います」
 広田は、貴玖子にペンとノートをすすめた。
「やはり一番から順番に、頭の一文字だけを書き出してみて下さい。(わが胸に――)の(わ)、(秘めやかに――)の(ひ)というふうに。これは五言詩の頭の文字でもあります」
「はい」
 貴玖子は、美しい文字で書いていった。
 書き進めるにつれて、貴玖子の頬が紅潮してきた。

        
「わひしよにかさねてよへはきみのなはくるへきはるのこひとかはりぬ」
         
 わびし夜に重ねて呼べば君の名は来るべき春の恋と変はりぬ

        
「…………」
 貴玖子は驚きを隠さなかった。
「この一首の短歌が、込められた秘密の二つ目です」
「明らかに樺島由紀子さんへの恋歌ですわね。康彦さんが、その方を心から愛していたのがよくわかります」
「いや、貴玖子さん。驚くのはまだ早いんです。第三の秘密があります。今度は(沓―くつ)の文字を拾ってみて下さい」
「くつ?」
「そうです。一番から順番に、歌の最後の文字を書き抜いてみればよくわかります。(――君は去りにき)の(き)、(――死を願ふのみ)の(み)です。さあ、どうぞ」
「はい」
 貴玖子は、先ほどと同じ作業にかかった。

        
「きみかためみをすてるまでをしともふたたひたすらにくるをまつのみ」
      
 君がため身を捨てるまで愛(を)しと思(も)ふ、ただひたすらに来るを待つのみ

     
「こ、これも康彦さんの恋のメッセージではありませんか」
 貴玖子は、声をふるわせた。
「そうなんです。これらの隠された二首の短歌に気づいた時、僕も驚き、感動しました。この歌集(花苑)は、高梨康彦という歌人の遺書というよりも、樺島由紀子さんへ捧げた熱烈なラブレターだったのです」
 広田の意見に、貴玖子も深く頷いた。
「この歌集を作るのは、かなり困難だったろうと思います。実を言うと、初めてこれを読んだ時、僕は違和感を覚えました。彼の作品にしては、決して上出来とは言えない。むしろ駄作ぞろいだ、と――。無理もありません。これほどの暗号を埋め込んでいたのですからね」
 広田は、話を変えた。
「こちらに伺うまえに、風間刑事さんに会ってきました。警察の風間さん、ご存知ですよね」
「え、ええ」
「僕も猿沢ノ池の事件のことを、風間さんから聞いています」
 広田は、慎重に言葉を選んだ。なにしろ、殺された山芝哲也は、風間刑事の言葉を借りれば、
(まともに働かんダニみたいな奴)
 とはいえ、貴玖子にとっては実の兄だったのだ。
「康彦君は、あなたの窮地を救いたい一心だったのです」
 広田は、高梨康彦が犯人であると、はっきりとは言わなかった。貴玖子のことだ。すぐ察してくれるに違いなかった。
「いずれ警察は、あなたに疑惑の目を向けるかも知れない。実際、そうだったようですね。その事態に備えて、あなたが無関係であることを証明するものが必要だった。それがピザの誤配だったのです」
「ピザ? ええ、ちょうどその時間に、私は宅配ピザの人と押し問答をしていて――」
 貴玖子は、ハッとなった。
「で、では、わざとそうなるように――」
「そうです。アリバイのために、康彦君が仕組んだことでした」
「待って下さい」
 貴玖子は、眉を上げて反論した。
「失礼ですが、それではお話の辻褄が合いませんわ。この(花苑)は、樺島由紀子さんとおっしゃる方に捧げられた歌集ではありませんか。いったい、私とどんな関係があるのでしょうか」
「関係、ですか。大いにあるんです、きわめて重大な関係が――。すなわち、樺島由紀子という女性は、貴玖子さん、あなたのことだったんですよ」
「え?」
「あなたに対する康彦君の恋心は、高校時代から少しも変わることはなかったんです。あなたが彼のお兄さんと結婚して高梨姓になっても、康彦君にとって、あなたは山芝貴玖子さんであり続けたのです」
 説明しながら、広田は、こうまで一人の女性を愛し続けられた高梨康彦が羨ましくてならなかった。
「証拠は、ここに埋め込まれています。見て下さい。アナグラムです」
「アナグラム?」
「そうです。綴り換え文字のことです」
 広田は、二つの名前をローマ字で書いた。
              
  KABASIMA YUKIKO
                     
  YAMASIBA KIKUKO        
                   
「アルファベットの文字を比べてみて下さい。この二つの名前は、過不足なく並べ替えられるのです。歌集の表紙に、(樺島由紀子嬢に捧ぐ)とありますね。この歌集は、あなたへ宛てた最後のラブレターです。貴玖子さん。康彦君は、あなたが新太郎さんの妻となってしまってからも、ずっとあなただけを愛し続けていたのですよ」
「…………」
 貴玖子は、何も言わなかった。黙ってローマ字の名前を見つめていた。
「そうそう、彼の未発表の歌稿に、(花苑)とは関係なく、こんな短歌がありました」
 広田は、別の短歌を見せた。
     
           
 春の夜の苦しき酒に一人酔ひて呟きてみる、わが由紀子よと

             
「由紀子という人名の箇所です。ここが一度は塗りつぶされていますね。そうして横に「由紀子」と書き直されています。透かしてみてもわかりませんでしたが、僕は、康彦君がうっかり「貴玖子」と書いてしまったのではないかと思っています」
 これも、いわば情況証拠の一つだった。
「さて、と――。私の用件はこれで終わりです。ずいぶん長居をしてしまいました」
 広田は腰を上げた。
「歌集(花苑)には二重、三重の暗号が隠されていました。あなたへの恋を訴えたものばかりです。しかし、アナグラムはともかく、歌の中にあなたを指す明確な言葉はなかった」
「ええ……」
「ですが、康彦君の意思は明らかにされているんですよ。あなたは、まだお気づきになっていないようですが」
「え?」
 貴玖子が顔を上げた。
「さきほど(花苑)の三十一首からあぶり出した、冠と沓の短歌です。この二首の恋歌に、あなたへの決定的なメッセージが含まれているのです。どうぞご自分で解読なさって下さい」
 そう言うと、広田は部屋を出て、後ろ手に障子を閉めた。
 貴玖子が、すぐにペンとノートをとった気配がした。
                 
(冠の歌)         (沓の歌)
わびし夜に         君がため
重ねて呼べば        身を捨てるまで
君の名は          愛(を)しと思ふ、
来るべき春の        ただひたすらに
恋と変はりぬ        来るを待つのみ
          
 (冠)わかきくこ    (沓)きみをたく
         

 (わが貴玖子、君を抱く)

        
「ううっ……」
 広田は背中に、貴玖子の激しい嗚咽を聞いた。
 奈良の町に、暮色がただよい始めていた。
 徒歩で近鉄電車の駅に向かいながら、広田は、
(岐阜に電話してみようか)
 妻と娘の笑顔を思い浮かべて、そんなことを考えていた。

                         
          (終)

ある歌人の遺書

執筆の狙い

作者 北条かおる
softbank060108036165.bbtec.net

北条かおるの「遊びごころ」の産物です。お目通しいただければ嬉しいです。
検証される向きには、ややエネルギーを要するかも知れません。
途中に出てくる小歌集は飛ばして読んでも意は通じます。どうぞよろしくご一読をお願いします。 

コメント

ラピス
sp49-104-60-158.msf.spmode.ne.jp

いやもう、ちゃんと読めます。短い中に綺麗に起承転結ついてて、人物も書き分けられて人間関係が分かり、いつもながら品があり、文章も良く、、、
ただ、ミステリーとしては弱いかなあ。話が短いせいか、一本道で意外性がありませんでした。思った通りに進んでしまいます。
もう一捻り欲しかったです。
主人公の妻子にまつわるドラマも、もっと描いてあれば感動したかも知れません。けど、枚数がないから仕方ないんでしょうね。
話の短さが勿体ないです。

夜の雨
i223-216-205-231.s42.a027.ap.plala.or.jp

「ある歌人の遺書」導入部(一)、まで読みましたが、何やら人生の何たるかが描かれているようです。

「高梨康彦」の人生に広田の人生。
この二人は短歌を通じての親しい友人ということで、高梨康彦の孤独死から葬儀の手続きやらをしていた広田が、康彦の短歌を詠み、追悼号を出すに至り、そこから康彦の義理姉から連絡がくるという展開で、話はスムーズだし、短歌に詠まれていた、樺島由紀子という女性の存在も御作を深くしそうです。
(二)以降、ラストまで読むのが楽しみです。

一応、(一)を読んだ段階で気が付いたのは、下記です。

高梨康彦、広田、高梨貴玖子が、一部人生が垣間見られている。
「樺島由紀子」は、現段階では全くの謎で、高梨康彦が短歌で詠んでいるとはいえ、未知数の面白さがある。
「遊びごころ」の産物です。 ← とあるので、もしかしたら「樺島由紀子」は「高梨貴玖子」だということも考えられる(笑)。
何しろ貴玖子は康彦と小学校から高校まで同級生だったとか、その上、美貌の持ち主と来ている。
兄の嫁とはいえ、康彦が貴玖子のことを想っていたとしても何の不思議もない。
もしそうだとしたら、康彦の貴玖子への愛情は屈折したものなのかもしれません。
貴玖子の名前をそのまま出すわけにはいかないので、樺島由紀子という名前を使ったとか。
想像が膨らみます、私もミステリーは好きなので、いろいろな展開を考えたりします。
広田に影があるのもいいですね、離婚していて、その原因が短歌だとか。四歳の娘もいるとか。
背景があるので、なかなかいいですね。

文章もかなりのものだと思いました。
すっと、御作に入り込めます。
書かれてある「短歌」も、わかりよいです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――

(一)までの感想でしたが、10日(金曜)夜までには、御作を読了して感想を書きたいと思います。


お疲れさまでした。

夜の雨
i223-216-205-231.s42.a027.ap.plala.or.jp

読了しました。

まさかの殺人事件が絡んでいるとは思いませんでした。
(二)になり、刑事が出てきたのには驚きました。

「山芝哲也」という男が殺されたという展開なのですが、この男は「高梨貴玖子」の実の兄で、まともに働かない「ダニみたいな奴」という設定です。
この展開は非常に面白かったです。
また、この時点で高梨康彦が殺したであろうことは、容易に理解できました。
高梨康彦は自分の生い先が短いのがわかっていたので、愛する高梨貴玖子のために、ダニを処分したのでしょうね。
これは高梨康彦に愛する家族(結婚して妻子)がいたのなら、できなかった代物です。

ということで、御作の背景などはよくわかりました。
また短歌に込められた暗号ですけれど、頭の一字ずつをとり、文章にするトリックも理解できましたが、わかりにくいのは、第二のトリックと第三のトリックですね。

冠と沓の短歌 ←これなども、理解できませんでした。ちなみに御作の登場人物である「風間刑事」にしろ「高梨貴玖子」は、短歌のことを知っているようなので、設定としては問題ありませんが。
御作のトリックをひも解くには、短歌の基本部分を知っている必要がある。または、トリックを理解できるように書く必要が出てくると思います。
ちなみに私はNHKの日曜にやっている短歌番組は観ているので、投稿されている短歌の意味合いなどはわかります。

まとめ

導入部の(一)から(二)の刑事が広田のところにやってくるところまでは、話が意外な展開に進み、面白かったです。
登場人物などもよくわかりました。
また、御作で何が起こっているのかなども理解できました。

問題は、短歌に込められたトリックですね、この部分を短歌に不慣れな者にも理解できるように書く必要があると思います。

>検証される向きには、ややエネルギーを要するかも知れません。<
ああ、なるほど、たしかに「検証」すれば、理解できると思います。


前作の「酔芙蓉の寺(43枚)」よりは、こなれていると思いました。

また、気が付いた部分があれば、再訪します。

ありがとうございました。

大丘 忍
p1611005-ipngn200303osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

ミステリーも書くとは予想外でしたが、面白く拝見いたしました。
奈良の高畑。若い頃、無給医局員時代で、アルバイトとして奈良逓信診療所の医師を勤め、高畑の電話局長官舎に三年ほど住んでいました。その後は近くの民間病院に変わりましたが。高畑の官舎の傍に「ささやきの小道」というのがありましたね。そこから京都の大学病院に通っておりました。それを思い出して懐かしく思いました。小説とは無縁の感想ですが……。

北条かおる
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ラピス様
お読みいただきありがとうございました。
本作には確かに反省点が多々あります。物語、ストーリー性よりも歌集の暗号に重きを置いたせいだと自覚はしています。やはりアマチュアの腕のなさでしょうか。
ありがとうございました。

北条かおる
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夜の雨様
重要なご指摘をありがとうございました。これはお愛想でも外交辞令でもありません。

>兄の嫁とはいえ、康彦が貴玖子のことを想っていたとしても何の不思議もない。
もしそうだとしたら、康彦の貴玖子への愛情は屈折したものなのかもしれません。

この屈折という部分、ハッとしました。心理としてまったくその通りだと。ここは掘り下げて加筆したほうが完成度が高まります。
それならば京都から奈良へ頻繁に、ただこっそりと様子を窺いにも行っていたことでしょうし、そんな状況も書き込みたくなりました。いつも有意義なコメントに感謝しています。
今は京都も外出するのが怖いですから、この週末も家にこもって推敲を考えたり新作の構想を練ったりするつもりです。
ありがとうございました。

北条かおる
softbank060108036165.bbtec.net

大丘 忍様
私も奈良は好きです。時々ふらりと行きます。空気の流れ方が違うような気がします。
奈良公園から春日大社のほうへ行けば必ず「ささやきの小道」を歩いて高畑から新薬師寺へ行きますよ。
志賀直哉旧居がありますね。一度は入ってみたいとは思いますが、入場料1、000円がばかばかしくていつも引き返します。ぼったくりです。500円なら入ります。
ありがとうございました。

北条かおる
softbank060108036165.bbtec.net

大丘 忍様
書き忘れました。
前回読ませてもらった時もそうですが、「こだわり」一番ウケました。
私もショートショートを書きたいと思うことはありますが全然ダメです。キレのいい短いものが書ける人は頭脳が柔軟なのだと思います。ご健勝のほどを。

ドリーマー
pdcd36aee.tubecm00.ap.so-net.ne.jp

お久しぶりです。拝読しました。

読後に幾つかの引っ掛かりを覚えました。遊び心で書いた作なので、細部には目をつぶって欲しい、ということでしたらすみません。どうも気になってしまったので……。

まず主人公が康彦の葬儀と遺品整理を行う件。これ、法的にNGではないでしょうか。
マンションで遺体を発見したら、まずは警察に連絡しますよね。警察は事件性の有無を調べると同時に、故人の遺族を探します。康彦も家族には住所を知らせていなくても、役所には住民登録をしているでしょうから、戸籍をたどれば容易に見つかると思います。
同様に故人の遺産・遺品整理をする場合、身内でも法的な手続きが必要です。もちろん赤の他人の主人公が、たとえ親切心からでも、勝手に整理することはできません。
要するに主人公が正当な手続きをして、故人の葬儀や遺品整理をしていたら、このお話は成り立たなくなってしまうんですね。手続きなしでは、そもそも火葬もできませんから。

ミステリーが主体なら、主人公が『花苑』を手に入れることが必要です。この場合、康彦の遺体を発見した主人公が警察に連絡、その後、遺族に連絡が付き、短歌仲間として葬儀に参列する流れになると思います。康彦が話さなければ、彼のプライベートを主人公が知らなくても不思議ではありません。
貴玖子一人では遺品整理が大変ですから、主人公が手伝ってもいいですし、その時に『花苑』を形見分けに貰えばいいのではないでしょうか。

次に康彦の兄が十年前に亡くなっているという件。
兄が亡くなり、跡を継ぐ子供もいないとなれば、弟の康彦が継ぐのが自然ではないでしょうか。高梨家は資産家ですから、兄の葬儀が一段落したら、遺産相続の話も(親族から)出ると思います。場合によっては、貴玖子との結婚話が出るかもしれません。康彦は弟として、今後の高梨家を担う責任がありますし、彼なら貴玖子が困らないように対処するはずです(彼女のために殺人を犯すくらいですから)。もし康彦が跡を継がないなら、跡を継ぐ養子を迎えるか、貴玖子が高梨の家を出て親族の誰かが継ぐ、などの話し合いをすると思います。
何もしないで実家に背を向けていたとしたら、あまりにも大人気ないですし無責任です。その辺りのことはどうなっていたんでしょう。

高梨家には某かの収入があって、貴玖子が働かなくても生活には困らないのかもしれません。だから兄は貴玖子を頼ったのでしょうか。華道教室は、(家元クラスなら別ですが)普通に生徒を取って教えた場合、生徒が百人いて月収十万円くらいなので、もしかしたら貴玖子はそれを兄に渡していたのかもしれませんね。

>主宰者の広田が出版社に勤めている有利さで、その小冊子は、近畿一円の書店に配送されている。

これはフリーペーパーのように、無料で配られているんでしょうか。書店側が売れる可能性の少ない同人誌を売り場スペースに置くのは考えにくいですが(せいぜい文芸コーナーの目立たない片隅とか)、フリーペーパーなら目に付く場所に置きますから、貴玖子の目にも留まりそうです。

家の事情で心ならずも康彦の兄に嫁いだ貴玖子の心情と、そんな彼女を妻に迎えた兄の想い。そして二人の幸せのため(?)に、実家に背を向けた康彦の想い。
しかし兄の死によって状況は変化しました。それなのになぜ、康彦は実家(貴玖子)に背を向け続けたのか。そこが書かれていないので、どうも釈然としませんでした。
康彦は高梨家の正当な跡継ぎです。貴玖子の兄を殺さなくても、法的手段に訴えるなど、男として貴玖子を守る方法があるはずです。
いったい彼は十年間も何をしていたんでしょう。

由紀子の正体はすぐに分かりましたが、暗号は楽しめました。
書き方次第で深みのある人間ドラマにもなりそうなのに、もったいないと思いました。

なんだかダメ出しばかりですみません。
自分のことは棚に上げて勝手なことばかり書きましたが、少しでも参考になれば幸いです。
失礼しました。

北条かおる
softbank060108036165.bbtec.net

ドリーマー様
ほんとお久しぶりです。
いただいたコメント、大ショックでした。なるほど、これは初めから破綻していました。小説になっていません。
これはそもそも短歌による暗号がまずありまして(以前に趣味というか遊びで作ったものです)これを無理やり小説に仕立てようとしたのが大失敗の原因です。

>遊び心で書いた作なので、細部には目をつぶって欲しい

これだけは強く否定しておきます。北条かおるの辞書には決してない言葉です。

>まず主人公が康彦の葬儀と遺品整理を行う件。これ、法的にNGではないでしょうか。
>康彦も家族には住所を知らせていなくても、役所には住民登録をしているでしょうから、戸籍をたどれば容易に見つかると思います。
>赤の他人の主人公が、たとえ親切心からでも、勝手に整理することはできません。
>高梨家は資産家ですから、兄の葬儀が一段落したら、遺産相続の話も(親族から)出ると思います。場合によっては、貴玖子との結婚話が出るかもしれません。
>書店側が売れる可能性の少ない同人誌を売り場スペースに置くのは考えにくいです

ご指摘のすべて、ことごとく、全部、何から何まで、言い訳不可でその通りです。ご指摘を受けて、言葉のアヤでなく、ほんとに呆然としました。
何度も読み返し、推敲したのになぜ自分で疑問に思わなかったのだろう。

短編小説をずいぶん書いてきましたが、これほど決定的な破綻作はおそらく他にはない筈です。
いったん破棄して作り直すか、完全に自作リストから抹消してしまうか、じっくり考えます。
とりあえず、こんな失敗作をここに恥さらししておきたくないので、規約を読んでみたところ、投稿者自身による削除依頼はできないのだそうです。穴があったら入りたい心境です。
ドリーマーさんには教えてもらってばかりですね。重大なご指摘ありがとうございました。

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