作家でごはん!鍛練場
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 わたしがフリー・ライターとしてだが世話になっている雑誌『月刊アンバー』に、人気ユニット『ヤン・コワルスキ』のギター兼ヴォーカル・久世舞のエッセイ連載が決定した。



 わたしは甘糟書店のビルがある神保町から九段下で東西線に乗るため靖國通りを歩いた。九段下駅で東西線に乗り、日本橋へ向かった。
 久世舞。わたしの親友。初めて言葉を交わしたのは高校二年の時だ。今でも舞はその頃の容貌と大して変わりはないが、とても可愛い女の子だった。
 内気な娘だが男子に人気があるのを妬んだ同学年の三人組が、公園で舞をいじめているのをわたしは目撃してしまった。その三人組は勉強に関しては優れていて、学内のテスト結果表では常に上位に名を連ねる優等生だったが、人間としては最低のクズだった。仮にそいつらがヤンキーならば、男子に人気があると云っただけで内気な舞の様な娘をいじめる様な真似はしない。ヤンキーにはヤンキー独自の仁義と云うものがあるのだ。スカした奴にはヤキを入れると云った、理解不能なものだが。しかしその優等生三人組は、成績さえ良ければ男子の人気を得られると云った噴飯モノの価値観を持っており、奴らにとって成績は表立つ程優秀でない舞が男子の人気を集めている事が許せなくて、陰湿ないじめに及んだのだ。ちなみにその三人組の容姿、とある芸能プロ所属の芸人さんの名誉のために描写はやめておく。
 公園で舞は優等生三人組から、暴行までは行かないが執拗な罵倒と扱いを受けていた。
「てめえ、少しばかり男子に人気があるからって、チョーシこいてんじゃねえの?」
「私たちは学内でもトップの優等生よ。あんたなんか並、いやそれ以下じゃないの。そんな人間に何で私たちが見下されなくちゃならないのさ?」
「べ、別に見下してなんてー」舞の反論は弱々しかった。
「勉強も出来ねえくせに優等生ヅラすんじゃねえよ!円周率を云えるだけ云ってみろ!どうせあんたなんて3・14まででしょうよ。あたしは小数点以下20まで云えるんだ!」
「源氏物語を書いたのは紫式部、枕草子を書いたのは清少納言、じゃあ土佐日記を書いたのは?答えなさいよ。こ・た・え・な・さ・い!」
 わたしは腹が立ってきた。円周率?そんなもの普通に生きているうえじゃあ無用の長物でしょう。源氏物語?あんな血統の良さだけで女を喰い物にした奴が何しようと関係ない。土佐日記?いくら官職にいた人間が書いたとしてもたかが日記でしょう。そんな事知っている知らないだけで、人間の優劣を図る事が出来るの?
 そして三人組の一人が舞のカバンを奪い取り、中身を漁った。
「へえ、あんたピアノ弾くんだ?馬鹿にすんじゃないわよ!あたしだって譜面みてドレミファソラシドが分かるんだから!」
「あんたの家、父親がいないんでしょう?だからピアノ弾ければ男子の人気が集まると思ってるだけでしょうが!」
 舞は弱弱しく答えた。「い、いえ、母がピアノ講師をしているから、いつか私もー」
 ドグサレ三人組の一人が譜面を地面に叩きつけ、踏みにじった。「てめえみたいな貧乏人で頭が悪い女がピアノ?どうせ『猫ふんじゃった』位だろ、弾けるのは!」



 こいつらを始末してやる。わたしの父は暴力を嫌うが、東映の任侠ヤクザ映画が大好きで、DVDで健さん主演の映画を何本も持っていた。子供向けではないが、わたしも一緒に観て興奮したものだ。ちなみに祖父は石原莞爾とフィデル・カストロを尊敬すると云った、少し変な人だった。

『金子組の親分さんですね?渡世の義理だ。死んでもらいやす』

 わたしはドグサレ三人組の方に足を向けた。頭の中には藤純子が歌った『緋牡丹博徒』が流れていた。
 だが三人組に近づいた途端、『緋牡丹博徒』が『仁義なき戦い』のテーマ曲に変わってしまった。「こんなら、何さらしておるんじゃこら!」
 三人組は振り向いた。わたしはヤンキーではない。三人組は一瞬凍りついた様だったが、すぐに優等生特有の高慢さでわたしに突っかかってきた。
「何だてめえ、こいつの友達か?」
「あんた確か隣のクラスの。だったら関係ないわね、すっこんでな!」
「それとも何か、あんたも痛い目にあいたいの?」
「関係はないとは云えわたしも同じ学校で机を並べる身。決して無関係じゃござんせん。無法に対し黙って見過ごす程の利口さは持ち合わせちゃあありません」わたしは極めて冷静な口調で答えた。「おまはん方の所業はまさに悪。しがない日陰の身の上でござんすが、毒には毒を持って、と云うじゃあござせんか。だからおまはん方には償ってもらいやしょう。唐紅の死の花で」
「あんた、頭おかしいんじゃないの?」
「そ、そうよ、あああ、あたし達にし、死ねと?」
「殺しはしねえは人の常。けれど場合によっては閻魔様のお使いになりますぜ。決めたからにゃあ修羅の道。かかってきなせえ存分に」わたしは完全に酔っていた。
「ハッタリかましてこの馬鹿が!」
「そんなにそんなに死にたいならば、叶えてみせましょ存分に!」
 ドグサレ娘のうち、二人がわたしに飛びついてきた。だがわたしは二人の手首を掴み投げ飛ばした。段位など持っていないが、わたしは武闘派の祖父に幼少の頃から合気道を叩き込まれて育ったのだ。
 二人は地面に叩きつけられ、痙攣し始めた。
 わたしは残る一人に近づいた。「あとはおまはん一人でござんすね」
 最後の一人は土下座した。「い、いえ抵抗は致しません!」
 舞はぽかんと見つめていた。何が起きたか理解できなかった様だ。
 わたしに投げ飛ばされた二人が身を起こした。わたしが睨むと悲鳴をあげた。「こんなら、雁首そろえて並ばんかいこらあ!」
 ドグサレ三人組はすぐに並んで土下座した。「すすす、すいませんでした!」
 わたしは土下座するドグサレ三人組の前で下着が見えるのも気にせず胡座をかいた。「おどりゃあ、こんワシの眼の前でようもふうがええ真似さらしとったの。それはワシの庭でワン公がババ垂れてるをなげるちゅうこっちゃ。分かっとんのかわれえ!」
「わ、分かりません、いや、分かります!分かりますとも!」
 分かるはずがない。『仁義なき戦い』で会得した、滅茶苦茶な広島弁で脅したのだから。
「ワシは喧嘩は好かん。ほいじゃがのう、えずくないのはなげる訳にゃいかんのじゃ!」
 三人組は額を地面にすりつけた。「おっしゃる通りでございます!」
「そこでね」共通語に戻した。「一方的に弱い相手を小突き回す、これはみっともないとわたしは思うのよ。だから、あなた達の苛立ちの原因を少しは知っている。けれど、いじめなんかじゃなくて他の手段で見返したらいいと思うんだけどな、わたしは」
「その通りです!」
「じゃあ、もう二度といじめはしない、と誓って欲しいの」
 三人組はそれぞれ顔を見合わせて答えた。「ち、誓います!もう二度といじめたりしません」
「約束よ。破ったら殺す」わたしは無表情で言い放った。
「はい、絶対破りはしません!」一人は小便を漏らしていた。
「それを聞いて安心したわ。わたしも面倒な事に首を突っ込みたくはないから」そして息を大きく吸って怒号を発した。「分かったんならはよいね!こんぱーぷーどもが!」
「分かりましたあ!」
「ママー!」
「あ、あたしは貝になりたい!」
 ドグサレ三人組は散り散りに逃げ去った。
 わたしは厄介ごとには巻き込まれたくない。しかし、前日にDVDでだが深作欣二監督、萩原健一主演のヴァイオレンス映画の傑作『いつかギラギラする日』を観て興奮冷めやまぬ時だったから、柄にもなく軽はずみな行動をとってしまったのだろう。
 舞の方を見ると、譜面の本の土埃を払っていた。わたしはそのタイトルを見た。
「フ、フレデリク・フランコイス・チョピン?」
「いえ」舞は笑いをこらえながら答えた。「フレデリック・フランソワ・ショパンよ。あ、笑ったりしてごめんなさい」
「別に気にしないわよ。へえ、何語か分からないけど、あのショパンは正確にはこう記すんだ。わたしこそ勉強になったわ」
 そうして舞とわたしの交流が始まった。
 


 舞はわたしと同じく九歳の時に親を亡くしている。わたしは母を、舞は父を。そんな偶然が磁石のごとく、二人を近づけさせたのかも知れない。音楽の趣味は全く異なったけれども、舞は少しも偉ぶる事なく、ここが良いだのここが弱いだの説明する事なく、学校の音楽教室のピアノでエリック・サティの『ジムノペティ』や坂本龍一の『メリー・クリスマス、ミスター・ローレンス』をわたしのために弾いてくれた。
 わたしは不器用なので楽器は弾けないし、音楽の難しい事は分からないが、映画音楽についてなら少しは語れる。舞にわたしが好きな映画音楽の巨匠を教えた。アンジェロ・バダラメンティ、ジェリー・ゴールドスミス、バーナード・ハーマン、エンニオ・モリコーネ、ハワード・ショア、伊福部昭、芥川也寸志、武満徹など。彼女は手帳に記した。そして舞が好きな作曲家についてのエピソードを話した。
「イタリアの有名な映画監督で、ルキーノ・ヴィスコンティと云う人がいてね」
「ふんふん」
「彼が撮った映画に『ヴェニスに死す』って映画があるんだけど」
「確か、ええと、ドイツだったかな、トーマス・マンの小説にそんなのがあったような」
「そう、その通り」
「知ったかぶりだけど、あれは確か、老作家の少年愛についての物語だったような。あんまり記憶に残ってないけど」
「それがですな久世舞君。ヴィスコンティはそれを老作曲家にしたのだよ」
「音楽家と作家。遠くて近いような気もする」
「鋭いですな小林少年。その老作曲家のモデルは、聞いて驚くなかれ」
「もう、じれったいんだから。誰なの?」
「その人物。それは、マーラー。劇中音楽もマーラーが作曲したものよ」
「ウソッ!グスタフ・マーラー!大好き!」
「わたしはクラシックの知識は皆無だけど、映画についてなら少しは語れる。その映画の中で、主人公の友人兼ライヴァルが出てくるんだけどそれがシェーンベルクと云う作曲家」
「アルノルト・シェーンベルク!十二音技法を体系化した作曲家よ!」
「まあ、難しい事は理解出来ないからその話は次の機会にゆっくりと」
「観る!あたし絶対その映画観る!」
「傑作よ。で、後日談があってね。『ヴェニスに死す』はカンヌ映画祭でも賞を取る程優れた映画で、大手の映画制作会社の重役が観て感動し、こう云ったの。『次の新作映画には、このマーラーと云う作曲家に音楽を担当させよう』と。マーラーはとっくに亡くなっているし、作曲させるには墓を掘り返すしか方法はないわね」
「もう、口が悪いんだから、明智さんったら」
 わたし達は笑った。



 そんな付き合いが続き、ある日、我が家に舞と彼女の母を招いて夕食会をする事となった。舞はもちろん、彼女の母も喜んでお邪魔致します、と答えた。
 夕食会の夜、わたしは初めて舞の母を見た。美人だった。ショート・カットで黒のブラウスとスカート。云い方は古いが〈深窓の令嬢〉。右手にはケーキと思しき小箱を、左手には何かのボトルと思しきものを持っていた。
「お招き頂き誠にありがとうございます。娘が大変お世話になっております」
 父は彼女を一眼見て背筋を伸ばした。体を突いてみると、硬直していた。
「よ、ようこそお越しく、下さいました。こ、この様なあばら家ですが、お、おくつろぎして頂けたら幸いであります」
 その夜、何を食べたのかは覚えていないが、わたしと舞はもちろん、舞の母とわたしの父も楽しげに会話をしていた事は覚えている。食べ終わった後、片付けと食器洗いをしようとしたが父が自分でやるから、と云うのでわたしの部屋に舞を連れて行った。
 あれこれお喋りし、話題が尽きたので、息抜きにわたしはザ・ブルーハーツのCDをかけた。父から取り上げたものだが。
 舞は聴くのが初めてだったようで、じっと耳を傾けていた。そして、とある一曲を聴くと、プレイヤーのボタンを押した。「もう一度聴かせて」
 それは、『世界のまん中』だった。



 川の流れの激しさに 足元がふるえている
 燃える炎の激しさに 足元がふるえている
 僕が今見ているのが 世界の片隅なのか
 いくら捜したって  そんな所はない



 ザ・ブルーハーツを聴き終えて舞は呟いた。「飾りのない歌詞にはストレートなサウンドが合うのね」
「難しい事は分からないけど、舞の云う通りね」わたしは舞の直感力に驚いた。
「あたしもギター、演ってみようかしら」
「で、でも舞はクラシックの道にー」
「ピアノは続けるわ。でも、あたしが偉そうに云える事ではないけど、優れた音楽にクラシック、ロックとジャンル分けする事は無意味だなあ、って感じたの。あたしはギターを始めるわ。となれば買うためにアルバイトしなくっちゃ。校則では禁止されてるけど」
「舞ならすぐに弾けるようになるわよ。じゃあ、わたしも舞と同じ所でアルバイトしようかしら」
 そこで、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい?」
「私だ」父だった。



 ドアを開け父の様子を見ると仰天した。あの父が顔を真っ赤にさせている。息もお酒の匂いがする。おそらく舞の母が持って来たのはワイン・ボトルだったのだろう。それにしても下戸の父がお酒を口にするなんて。明日、空からカエルが降ってこようと、豚が降ってこようと驚かないだろう。
 しかし父は普段の口調だった。「いや今日は本当に楽しかった。舞ちゃんとお母さん、君たちが来てくれたおかげだ」
 舞は立ち上がって頭を下げた。「いえ、あたしも楽しかったです。久しぶりに笑いながら夕食をとる事ができました。おじさま、ありがとうございました」
「そりゃ良かった。いつでも遊びにいらっしゃい。何だかもう一人、娘が出来たみたいだ」父はハンカチで額の汗を拭った。「乙女たちの話に首をつっこむのは大の男がする事ではないが、何の話をしていたのかね?云いたくなければ無理には聴かないが」
「それがねお父さん」舞がギターを始める事に決めた事、そのためにアルバイトをする事を話した。
「私はアルバイトをする事に反対ではないよ。最も勉強をおろそかにしない限りでだが。アルバイトに勝る社会勉強はないからね、学生にとっては。ところでギターだが」



 父は部屋を出て、すぐに大きなケース入りの何かを持って来た。座った舞の前に父は大きなケースを置いた。「開けて見なさい」
 舞はケースのフックを外し、蓋を開いて眼を丸くした。「わっ、ギター!」
「これは私が学生の時分に手に入れ愛用していたものでね、レス・ポールと云うモデルだ。ただしコピーだけどね。本物のレス・ポールはアメリカのギブソンというギター・メイカーが製造している。でもギブソンのレス・ポールは高くてね、貧乏学生だった私に手が出せる筈がない。それでも形が好きだったから、中古楽器店に行って見つけた掘り出し物がそれだ。製造元は國内のギター・メイカーのグレコという会社だ。でもコピーで、それも國産だからと云って舐めたシロモノじゃないんだよ。オリジナルのレス・ポールは重い。女の子が取り扱うのは大変だ。しかしグレコのレス・ポールは軽い。持って見なさい」
舞はギターを持って上げ下げした。「あっ、本当に軽い!」
「軽いだけじゃない。挫折したギター学生が云うのもなんだけど、本物よりもいい音がする、と今でも一部ではコレクションにしてる人も、使っているプロもいるらしい。とりあえず、これで練習してみてはどうだろうか?上達したら自分好みのギターを買えばいい」
 舞の眼はグレコのレス・ポールに釘付けとなっていた。「ありがとうございますおじさま!大切に扱います。そしてマスターしたらお返しします」
「返す必要はないよ。これは君にあげるんだから」
「そんな!このようなおじさまが大切にしてたものを!」
「大切にしていた、なんて云われると恥ずかしいな。実は書斎に置いたままで、ここ何年も弾くどころか蓋も開きもしなかったんだから。ギターにとって弾かれる事なく放置されていると云う事は、囚人もおなじだ。ならば、必要としている君の手元にあった方が、グレコも喜ぶだろう。だからこれは私からのお願いとして、受け取ってもらえないだろうか?」
 舞はしばらく俯いて、顔を上げた。「では、頂きます!ありがとうございます!」
 父は頭を掻いた。「君のものになったんだ。どうかバリバリ弾いてもらいたい。それと娘の事を、これからもよろしく頼むよ」
「はいっ!」舞は元気よく返事をした。
 そして舞と舞の母が帰る時がやって来た。
「本日はご馳走になった上、あなた様が大切にしていた宝物を娘にお譲りして下さるなど。感謝の仕様もございませんわ」舞の母は腰を折り深々と頭を下げた。
 父はまた硬直していた。「た、宝物など滅相もない。ただの骨董品ですよ、価値もない。こ、こちらこそ娘さんにお、押し付ける形となりましてー」
「いいえ」舞の母は凛々しい眼差しで父を見た。「価値など問題ではありませんわ。娘はこうしてギター・ケースをずうっと抱きしめております。ハンドルがあると云うのに。それは娘がこのギターに惚れ込んだと云う事ですわ。私が責任を持って、弾けるように教えます。それほどでもありませんが、私も若い頃はギターに熱中した事もございますので」
「そ、そうですか。別に壊れても私、一切気になどしませんので存分に使ってやってください」
 舞の母は微笑んだ。「分かりました。つい長居させて頂きました。本日は本当に楽しかったですわ。今度は私の家においで下さいませ」
「は、はい!そうさせて頂きます!」
 母娘は駅に向かって歩き出した。父は見えなくなるまで見送った。
 これは邪推だが、父は舞の母に一目惚れしたのではないか。舞の母は父をどう思っていたかは分からない。それでも父と舞の母が結婚、いや再婚していたら、わたしと舞は姉妹となっていた。それも悪くなかったと思う。

10

 舞のギター修行が始まった。そしてベーカリーでのアルバイト。もちろん二人でだ。わたしは初の給料で、小型アンプのピグノーズを買い舞にプレゼントした。舞は「可愛い」とすぐに気に入ってくれた。
 場所はシフトが入ってない放課後の音楽教室。コード表を一晩徹夜で読み弾いてみただけてすぐに覚えてしまった。これもピアニスト、あるいは他の楽器に精通する者ならば当然なのだろうか。舞は十八番であるエリック・サティや坂本龍一を一度演奏しただけで、わたしにとっては難解なコードの曲を弾くのをやめ、スリー・コードの曲に〈転向〉した。それはブルーズだった。確かにブルーズは単純と云えば単純だが、奥が深いと云えば奥が深い。見事に坂本龍一の曲を弾きこなしたと云うのに、なぜブルーズを。わたしは舞に聞いた。舞は答えた。
「だって、ブルーズなら一人でも演奏できるじゃない。それに飾りのない歌詞にはストレートなサウンドが合うから」
 舞はブルーズの古典をレンタルで片っ端から借り、聴きまくった。そして弾きまくった。ロバート・ジョンスン、チャーリー・パットン、サン・ハウス、ブラインド・ウィリー・マクテルなどのブルーズ黎明期あるいはデルタ・カントリー・ブルース群。マディ・ウォーターズ、ハウリン・ウルフ、サニー・ボーイ・ウィリアムスンⅡ、リトル・ウォルターなどのシカゴ・ブルーズ群。ジョン・リー・フッカー、ライトニン・ホプキンスなどの一人弾き語り群。B・B・キング、アルバート・キング、フレディ・キングの〈三大キング〉。マジック・サム、バディ・ガイ、オーティス・ラッシュらの〈第二世代〉のモダン・ブルース群。ベッシー・スミス、ココ・テイラー、ビッグ・ママ・ソーントンなどの女性ブルーズ群。ポール・バターフィールド・ブルーズ・バンド、ジョン・メイオール、ジョニー・ウィンター、スティヴィー・レイ・ヴォーンなどのホワイト・ブルーズ群。次々とマスターしてゆき、打ち込む音数も多くしていった。

11

 そしてわたしたちは高校卒業の時期を迎えた。わたしはW大学文学部へ進学したが、舞は新宿の運送会社に入社、事務員として働いた。昼間は当然働き、夜はリハーサル・スタジオで練習した。だがたった一人でスタジオとはもったいないと、アンプのボリュームを低くし、路上で演奏するようになった。場所はJR新宿駅南口前の甲州街道の歩道。なるべく目立たないように外れの方で演奏し、投げ銭を取るなど内気な舞はしなかった。最初は耳を傾ける者などおらず、聴衆はわたし一人だったが、そのうち、人には小柄な舞が派手でもない、シンプルなブルーズを弾いているのが珍しかったらしく、二、三人と顔なじみの聴衆が現れ、そして多くても最大で十人ほどだったが、常連の聴衆となった。
 その中にある男がいた。長い髪を後ろで束ね、夜でもジョン・レノンがかけていたような丸いサングラスをかけ、上下はヨレヨレの麻の上下。最初は〈地廻りのヤクザさん〉かとわたしは舞の横で身構えていたが、どうやら違ったようだ。舞が新宿路上で演奏するのは水、金、土と決まっていたが、その男は舞が来る前からそこにいて、「よっ元気か?」と声をかけるだけであとは無言だったが、最初から最後まで腕組みして聴いていた。終わると「良かったよ」と云うだけで立ち去った。
 ある水曜日、演奏を終えた舞に男が近寄り、名刺を渡した。
「私はこう云う者だが」
 名刺には『株式会社ワイルド・アット・ハート 代表 丹羽秀虎』と記してあった。所在地は渋谷宇田川町。
 聞けば丹羽はインディーズのアーティスト、バンドのマネジメントを行なっている会社の社長だと云う。
「ちっぽけな事務所だが、興味があるなら一度、遊びに来なさい」そう云うと丹羽は踵を返し立ち去った。

12

 その夜、舞はわたしの家に遊び兼相談をしに来た。もちろん、グレコのレス・ポールにピグノーズのアンプを持ってだ。
「こんばんは、おじさま」
「やあ、いらっしゃい。今晩はお母さんと一緒じゃないのかな?」
 わたしは父の隣でニヤリとしていた。
 夕食後、舞は父の前で『ローリン・アンド・タンブリン』『ブーン・ブーン』『モジョ・ハンド』『イッツ・マイ・オウン・フォルト』などと云った、ブルーズ・スタンダードを弾いた。もちろん舞のアレンジを加えてだ。
 演奏が終わるなり父は拍手した。「いやあすごい。アメリカだったら即デビューだったろう。かの地じゃあブルーズ・ファンが多いからね。日本にもいる事はいるが、そんなに多数じゃない。でも気にせず、自分が信じた道を行きなさい」
「はい!」
 そして父に、舞がスカウトされた事を知らせて、もらった名刺を見せた。
「ううん。どこかで聞いた事があるようなないような」
「インディーズの事務所らしいのよ」
「どうしたらいいかしら、おじさま?」
「そうだねえ」父は腕組みした。「大手はもちろんインディーズでも、芸能事務所には変わりはない。だがねえ、有頂天になった娘さんを、いわゆるその、いかがわしい映像にー」
「アダルト・ヴィデオでしょう?」わたしは眼をギラッとさせた。
 父はハンカチで汗を拭った。「そうだ。そんなのに出演しろと強引に迫る業者もいるからねえ」
 舞は父の眼をまっすぐ見つめた。「あたし、金曜日に会社を早退し、尋ねようと思ってるんです」
「だったら私も一緒に行こう。何なら私の友人の弁護士にも立ち会ってもらう」
「まだ時期早々よ。まずは敵情視察から。わたしが舞に付き添う。相手が明らかな悪い奴だったら投げ飛ばしてやるわ。どちらか判断つかない、あるいは良さそうな人だったらお父さんと弁護士さんに来てもらうから」
 父はしばらく無言だった。そして口を開いた。「よし、虎穴に入らずんば虎子を得ず、だ。だが君たちはまだ若い。念のため友人に連絡しておく。少しでも危険だと思ったらすぐに逃げる事。その社長とやらの背後には、その筋の怖い連中がいるかも知れないからね。生半可な腕の過信は怪我の元だから。これだけは約束してくれないか」
「わかったわ」わたしは頷いた。
 舞は頭をちょこんと下げた。「でもおじさま、弁護士さんに同伴してもらう、って事は仕事を依頼する事でしょう?一時間何万円する、って聞いた事があります」
「それは大丈夫。私の友人に藤堂慎吾と云う、民事専門の弁護士がいるんだが、彼は私には逆らえないんだ」
「まさかお父さん、弁護士先生の弱みを握っているとか?」
「その通りだ」
「それじゃ、訴えられたら大変じゃない」
「そんな大したものじゃないよ。高校時代、藤堂は部屋の掃除を母親に任せていたのだが、週末は徹底的にやる、と母親に云われて青くなった。それは彼が大量の、いわゆるその、まあ、い、いかがわしい漫画、雑誌、写真集を隠していたからだ。困った彼は私に相談して来た。これは大事なものだから、預かってくれないか、と。私も朴念仁ではないから、当然引き受け、見させてもらった。その感想は云わない。とにかく、彼、藤堂慎吾は母親から大目玉を喰らう事を避ける事が出来たって訳だ。高校時代からの友人だからかなり時間は経っているが、藤堂はちょっとした問題ならタダで私の相談を聞いてアドヴァイスしてくれる。だから、今回はちょっと危ない可能性もあるからタダと云う訳にはいかないが、高校生の小遣い程度で彼、藤堂は動いてくれるだろう。もちろん脅し付きでだが。〈今の君が、弁護士と云う栄誉ある仕事に就いているのは、私が少し手助けしたからだよ。忘れてはいないよね〉と」
「もう、今度は訴えられるわよ。うちには財産なんてないのに」
 わたしたちは笑った。

13

 金曜日。わたしは渋谷宇田川町のビルにある事務所『ワイルド・アット・ハート』へ舞と行った。道中、舞は小刻みに震えていたがわたしは殴り込みをかける気でいた。父との約束を破る事となるが、相手が二人までだったら男でも投げ飛ばす自信があった。過信などしてはいなかった。相手はかつて舞をいじめたドグサレ三人娘ではない。ヤクザ者で、刃物の一、二本は隠し持っているかも知れない。だから投げ飛ばしたらすかさず舞をつれ逃げ、二度と渋谷には足を向けない。いや向けられなくなるだろう。
 事務所についた。五階建ビルの最上階だった。わたしはエレベーターの中で、両方のほっぺたを二、三度叩いた。
 五階につき、『ワイルド・アット・ハート』のドアフォンを舞が押した。
「はい?」男の声だった。
「あ、あの、あたし久世舞と申します!先日、社長様に声をかけてもらった者です。ご連絡も差し上げずいきなりお訪ねした事、お許しください!」
「おお、君か。まさかとは思っていたが、こんなに早く来るとは。とにかく入りたまえ。鍵は開いているよ」
「で、では失礼します」
 わたしと舞はオフィスに入った。外見よりも広々とした空間で、オフィスにあるのは応接セット、社長の木製デスク、スチール製のデスク三台、文字がびっしり書き込んであるホワイト・ボード、アンプ数台、ギター・ケース数個、キーボード二基など、シンプルと云うのか殺伐と云うのか、わたしにはどう表現すればいいのか分からなかった。
 社長の丹羽秀虎はデスクから立ち上がり、わたしたちをソファへ座らせた。
「半信半疑だったよ。こんな胡散臭い所にまさかやって来るとはね。来たからには、ウチの世話になる、と云う事だね?」
 舞はうつむきながら答えた。「ええと、き、興味はありますが、まだ決めかねておりましてー」
「その前に社長、質問させていただいてよろしいでしょうか?」わたしはサングラス越しの丹羽の眼をまっすぐに見つめた。
 丹羽は無表情だった。「確か君は、あの時、ギタリストの彼女の横にいた娘さんだね」
「はい」
「何だ、もうマネージャーがいたのか。これじゃあ契約は無理だな。金の卵を取り損ねちまった」
 わたしは首を振った。「わたしはマネージャーなどではありません。舞、いえ久世舞の高校時代からの友人です」
「そうか」丹羽はサングラスを下にずらし眼を見せた。鋭い眼差しだった。「昼間こうして見ると、君もなかなかの個性の持ち主と私は見た。どうだろう、二人でユニットでも組んで見る気はないかね?」
「いえ、わたしは楽器も弾けませんし、歌もかなりの音痴です。ですからそれはお断りするとして、先ほど申した通り、質問がございます。よろしいでしょうか?」
「何でも聞いてくれたまえ」
「失礼ではございますが、本当に社長様は音楽関係の仕事をなさっているのですか?もしかしたらここはアダルト・ヴィデオ事務所じゃないんですか?まあ楽器類が置いてあるのですから音楽に関する仕事はなさっているかと思いますが、カモフラージュなのでは?」
「ちょ、ちょっと!云い過ぎよ!」
 丹羽は一瞬あっけにとられた顔をしていたが、すぐに笑い出した。
「アダルト・ヴィデオ事務所?ははは!面白い事を云うお嬢さんだね。でも、むしろそいつらより私の稼業は汚い。貧乏でプロに憧れている若いミュージシャンをだまくらかして金をせしめる悪徳商売人だよ私は。所属ミュージシャンに大手事務所からウチに来ないかとのお声がかかったら移籍金として金をふんだくる。大手レーベルからだったら契約金をピンハネする。モノにならないと判断したらためらいなく解雇を云い渡す。そうやって生きてきたんだよ私は。でもねお嬢さん、これは私の勘に過ぎないが、モノになると見たミュージシャンへの投資は一円たりとも惜しまない。生活費が足りないと訴えれば援助する。欲しい楽器があると云えば社内備品と云う名目だが買って貸す。手元に置きたいとねだられたら無利息ある時払いで渡す。それは情熱にほだされただの、熱意に負けただのと云った綺麗事ではない。総ては金のためだ。つまり青田買い、先行投資と云う奴だ。投資した金はきっちりと回収する。もちろん利子をつけてだ。ここからメジャーとして出て行った奴らは私に義理を感じる事はなく、さぞや守銭奴、金の亡者と今でも恨んでいる事だろうよ。そんな汚れきった男を信じろと云うのは、あのチャップリンが愛妻家だったと抜かす馬鹿を信じろと云うのに等しい。私についての説明は以上だ。こんな男の事務所に所属する気は失せただろうが、もしお嬢さんが所属契約を結ぶとなれば、私もやりがいがあると云うものだ。大金がそのうち転がり込んでくるからな、はははは!断るのなら、私のためにタバコに火をつけギムレットを注文して、総てを忘れてくれ。おっと、古い古い、キザな台詞だったな」

14
 
この男、丹羽秀虎は信用できる。直感に過ぎないがわたしは思った。だが内気な舞にはそれこそ地獄の日々が待ち構えているだろう。わたしは推すか引かせるか迷った。
 わたしは舞にささやいた。「この人、ワルぶっているけどかなりのやり手だとわたしは思う。決断は舞がする事だけど、もしわたしが舞だったら世話になるわ」
「あたしもそう思った。何度も泣いちゃうと思うけど」舞は丹羽に頭を下げた。「お世話になります。どうかよろしくお願いします」
 この時、わたしと舞は二十歳を迎えていた。

15

 翌日、父の友人である藤堂弁護士立会いのもと、契約書に舞はサインをした。
 所属事務所『ワイルド・アット・ハート』は丹羽を入れて社員が四人という、本当にちっぽけな事務所だった。だがそこで舞はギタリストの竜崎憲三と出会った。竜崎は舞に匹敵する程のシャイな男だったが、ギターの腕は確かで、わたしにはギタリストHやユニットBのギタリストよりも凄腕で、Charに劣らないギター弾きに思えた。愛器はギブソンのファイヤーバード。過去アメリカへ無謀なヒッチハイク旅行の最中、質屋にぶら下がっていたのを二束三文の値段で手に入れたと云うシロモノだ。無口だが教え上手で、舞も竜崎の指導でさらにギターの腕を上げ、オリジナルの作詞・作曲も始めた。そして付き合いが始まった。
 二年後、二人は結婚した。舞は二十二、竜崎は二十五だった。同時にユニットを組んだ。名前は『ヤン・コワルスキ』。ポーランド人にはありふれた名前あるいは偽名の代名詞で、日本では『山田太郎』、アメリカでは『ジョン・スミス』に当たる。控えめな二人にはぴったりの名前だった。
「夫婦ユニット、そしてありふれた名前。似た者同士の君たちにはもってこいのユニット名だ。これは話題になるぞ。私の元にも大金が転がり落ちる。どんどん好きな事をやれ。わはははは!」丹羽は結婚についてもお咎めなしで、笑いっぱなしだったそうだ。

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 ライブ・ハウスを中心に活動していた『ヤン・コワルスキ』にツキが訪れた。アメリカの若手だがヴァイオレンス映画に定評がある國際的人気監督クィント・トマシーノの犯罪映画『カンザス・ブラッド・マネー』のサウンド・トラックに舞が作詞・竜崎が作曲した『Everybody smokes in hell』が起用されたのだ。ヴォーカルが舞、竜崎がギターを担当したこの曲名はアメリカの犯罪小説作家、ジョン・リドリーが書いた小説の題名を拝借した。今では絶版になっているかもしれないが、日本では『地獄じゃどいつもタバコを喫う』と云う題名で、十六年くらい前に角川文庫から出版された。とても面白い犯罪小説だった。その前は『Stray Dogs』邦題『ネヴァダの犬たち』と云う、やはり面白い犯罪小説が日本では出版されている。のちにオリヴァー・ストーン監督により『U Turn』と云うタイトルで映画化されたが興行的に失敗したらしい。わたしはDVDで観たが、とても良く出来たフィルム・ノワールだった。
『カンザス・ブラッド・マネー』はカンヌ映画祭でも上映され、世界的成功を収めた。予告編ではメイン・テーマの如く流された。メジャー・デビューもしてないのにも関わらず『ヤン・コワルスキ』はイギリスのプロモーターに招かれイギリス各地で演奏した。なんと舞の母もキーボードとして参加した。最初は小さな小屋だったが各地を廻るにつれ会場は大きくなり、ツアーは大成功をおさめた。ちなみに舞が一貫して使用していたギターは、父が舞に贈ったグレコのレス・ポールだった。

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 帰國後、『ヤン・コワルスキ』はメジャー・レーベルからCDを出す事が決定した。海外での評判もさる事ながら、所属事務所社長の丹羽秀虎の力量と云うか豪腕ぶりが十二分に発揮された。丹羽はメジャー・レーベルからのオファーを吟味し、最も契約金が高く、優秀なスタジオ・ミュージシャンを集める事が出来るレーベルを選んだのだ。
 録音はほぼワン・テイクで済み、メジャー・デビューCDはすぐに完成、発売された。タイトルは『公営放送の集金人は午後七時半に来る』。わたしがつけさせてもらった。由来は分かる人にしか分からないだろうが、犯罪小説家のジェイムズ・M・ケインの傑作『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』を真似たものだ。イギリスでも同時に発売された。オリコン・チャートでは四位、UKチャートでは八位と云った、新人ユニットとしてはまさに快挙だった。
 丹羽は『ヤン・コワルスキ』を大手事務所『ソフトマシーン・インダストリー』に移籍させた。もちろん多額の移籍金をふんだくってだ。竜崎は「俺は嫌だ。オヤジはいつも俺たちの事を気遣ってくれた。俺たちの人気はいっときのもの、一発屋として消えていくかもしれない。だったらその間は稼ぎまくって、オヤジに受けた恩を少しでも返さなけりゃならないんだ」と云い、舞も「あたしも同感です。才能についてなど云える身分ではありませんが、社長はあたしを見出してくれました。社長が声をかけて下さったおかげで、メジャー・デビューを果たす事が出来たのですから!あたしは引き続きこちらにお世話になりたいと思ってます。お願いです、ここに置かせてください!」と涙ながらに訴えた。
 丹羽は口元に笑みを浮かべつつ鋭い眼つきで云い放った。「恩?世話?冗談じゃないよ。私は恨まれこそすれ、恩義を感じさせる事など何一つやっちゃいない。義理人情?そんなものは犬に喰わせてやれ。総ては金のためだ、君たちが放つ金の匂いにつられ博奕に出て、ライブ・ハウスでの出演料を大幅にピンハネして来た訳だ。メジャー・デビューを果たすと云う予感は的中したが、まさか海外でも認められる程の腕前になるとは計算外だったな。だがそれで私は大儲けした。君たちを大手の『ソフトマシーン・インダストリー』に売り飛ばし、また大金をせしめる事に成功したのだから。したがってもう君達『ヤン・コワルスキ』と私は一切関係ない。小金を稼ぐミュージシャンのマネジメントは簡単だが、君達は大きくなりすぎてもはや私の手腕ではどうする事も出来ない。だから消えてくれないか、私の前から。これからも私はミュージシャン志望の田舎者をだまくらかし、搾取しなければならない。でも最後に一つ云っておく。金は確かに大切だが、君達アーティストは全く、とは云わないが金の事を考えるのは事務所に押し付けて、良いと思った作品の事だけ考えてこれからも活動してくれ。私の云いたい事はそれだけだ。分かったのなら、さっさと新しい事務所へ挨拶してきたまえ」
 竜崎と舞は下を向いた。「でもー」
「未練がましい奴らは嫌いだ。仁義を忘れた奴と別れる方法は知っているが、未練がましい奴らと別れる方法は発見されていないんでな。おっと、これは手垢のついた台詞だったな。じゃあ、夫婦仲良くな。ではアウス・ヴィダーゼーヘン、リーベ・マイ、リーバー・ノリミツ!」

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 そのやり取りは舞から聞いた事だ。それから半年後、丹羽秀虎は酔って階段から転落し、この世を去った。事務所『ワイルド・アット・ハート』は廃業、負債はあったが丹羽の所有するビルを売却する事でカタはついたらしい。彼の葬儀には國内の有名ミュージシャンが多く駆けつけ、海外からも弔いの電報、手紙が多数寄せられたと云う。それで複数の音楽雑誌で『丹羽秀虎とは何者だったのか?』と云った特集が組まれた。特集では、表立つ事が何よりも嫌いだった丹羽の意に反する事となったが、有名ミュージシャンが顔出し名前出しでいかに丹羽秀虎に世話になったか、自分たちが今あるのは丹羽社長のおかげだ、などと感謝と彼との思い出が載せられていた。あとで知った事だが、丹羽秀虎はかつて大手レーベルのディレクターで、今でも有名なミュージシャンのアルバムやシングルを担当したが、自分の企画がなかなか通らない事に業を煮やし、飛び出して事務所を立ち上げたと云う事だった。偽悪ぶっていたが、本当に音楽を愛し、所属するミュージシャンを身内のように可愛がる男だったのだ。

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 その後の『ヤン・コワルスキ』は一発屋で終わる事なく、発表するアルバムは常にオリコン・チャートのベスト・テンに入った。人気が出ても武道館や東京ドーム、横浜アリーナと云った大きなハコでは演奏せず、常にライブ・ハウスで演奏を続けた。大きなハコと云ったら日比谷の野外音楽堂くらいで、ライブ・ハウスにダフ屋が現れると云った珍妙な事が起きる程『ヤン・コワルスキ』の人気は沸騰した。舞と竜崎夫婦は奢る事なく、二人が同棲していた高円寺に住み続けた。もっとも賃貸ではなく分譲マンションへと変わったが。二人の仲は円満そのもので、舞は二十八で待望の赤ちゃんを出産した。男の子だった。二人は息子の名前を『一哉』とした。二人らしい、失礼な云い方だがシンプルな名前。竜崎一哉君が将来どのような道を進むか、二人には分からないだろう。わたしにも分からない。でも二人の血を引き継いで生まれたからには、立派な少年、青年そして大人へ成長するだろう。余談だが舞は、父が贈ったグレコのレス・ポールを、わたしがプレゼントした小型アンプ、ピグノーズをいまだに愛用してくれている。

 父は微笑んでいるだろう。ここよりも、日当たりの良い場所で。

執筆の狙い

作者 EADGBE
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AO KUSASA YUE GOMI NI SURU MAE NI

コメント

日程
p2447147-ipngn200806osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

EADGBE 縣 読ませてもらいました。
作者さんはすごく音楽に詳しいですね笑
舞が音楽の道で成功するまでの様子がよく描かれていたと思います。
強いて言うなら最初のドグサレ3人組の台詞にあまり現実味がなかったです。
あと主人公の性格が、最初はかなり変人なのに後半普通に変わっていた気がします。(あえてやったことならすみません)
他の音楽に関する所はどこも良かったと思います。ただ僕自身に造形がないので、もっと音楽を知っている人なら更に楽しく読めるんだろうなと羨ましく思いました。

EADGBE
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THANKS A LOT. MAJIME DAKENO NINGEN HA KAKITAKU NAKATTA NO DE SU.

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