作家でごはん!鍛練場
色葉月

黄昏の君

 

 あの人が現れるのは、決まって晴れた日の夕方だった。
 カフェの扉をゆっくりと開いて入ってくるのは、備え付けられた大柄なベルを鳴らさないようにしているためだろうか。それでもしっかりと役目を果たすベルの音を背に歩いて、窓際の決まったテーブル席に座る。
 注文するのはいつも、ブレンドコーヒーを一杯だけ。注文を受けに行った店員にメニューも見ずに伝えて、それ以降はずっと窓の外を見ている。
 いつもと同じ、上下とも黒のパーカーとスキニーパンツ。長い髪を髪留めで無造作にまとめ、白い肌は太陽の光を知らないかのように透き通っていた。
 彼女はずっと物憂う表情で、ただひたすらに窓の外を眺めている。そんな彼女のことを、僕は心の中で「黄昏の君」と呼んでいた。

 僕は高校二年生になった四月に、この喫茶店でバイトを始めた。働くのは学校が終わった夕方の六時から九時まで。週に四日くらい働く。
 朝晩と昼間の寒暖差が大きくなってきた秋の始まり頃、黄昏の君はいつものように夕暮れ時に来店した。日没と共に現れ、コーヒーをゆっくりと味わいつつ、太陽の光が完全に闇に溶けて星が見え始めると帰って行く。
 待ち人でもあるかのように、ずっと窓の外を眺めながら。
 雨の日は来店せず、やって来るのはいつも晴れの日だった。誰と言葉を交わすわけでもなく、黙々とコーヒーを飲みながら外を眺めるだけ。
 個人経営の小さな店内で、彼女は周りに馴染んでいるようでありながら、異色さも放っていた。
 だからこそ、気になる。聞きたいことも、日に日に増えていく。
 落ち着いた雰囲気から、大人の女性であることが伺えた。
 だとしたら、職業は? 仕事帰りの一杯ですか? 家はこの辺りですか?
 誰かを、待っているんですか……?

 黄昏の君がいる席の隣のテーブルを片づけながら、気付かれないように彼女を盗み見る。
 カップを持つ手は白く、指も長い。一口すする時は必ず目を伏せがちにしていて、長い睫毛が強調されていた。カップから口を離すたび、舌先が唇の上をゆっくりと端から端へ滑っていく。女性とは、存在だけでこんなにも魅せることができる生き物なんだろうか。それとも、黄昏の君だからこんなにも魅力的なんだろうか。
 僕の彼女を見る目が、特別なんだろうか。

「……何か?」

 彼女が、声を発した。注文の時だけ聞ける「ブレンドを」の一言以外で、初めて。
 黄昏の君が、僕を見ている。いつも窓の外だけに向けていた視線を、僕に注いでいる。彼女の世界に僕の存在が認知されたようで、なんだか嬉しかった。
 けれど、同時に恥ずかしさと焦りが襲ってくる。客をジロジロ見るなんて、店員としてあるまじき行為だ。
 どうにかして誤魔化さないといけない。

「い、いえ……おかわり、いりますか?」
「ここはおかわりもできるのか。じゃあ、頂こうかな」

 彼女の口角が上がっている気がする。薄い上唇と少し厚い下唇が、弓なりに曲線を描いている気がする。
 初めて見た、黄昏の君の笑みだった。

「す、すぐにお持ちしますね!」

 急いで片づけを終わらせ、カウンターの裏にいる店主、マスターの元へ急ぐ。
 口は整えられた顎髭の上で真一文字に結ばれ、注いでいる最中のコーヒーだけを見つめていた。この状態のマスターに声をかけても、集中しすぎて声が届いていないということはもうわかっている。
 片づけてきたカップや皿をシンクの中に置くと、横の方から深く長いため息が聞こえた。いい仕事ができたと言わんばかりの、マスターの達成感のため息だった。

「マスター、あのーー」
「うちはいつから、おかわり制になったんだかな」

 呆れたように、けれど目元には笑みを浮かべて、コーヒーを注いだカップをカウンターへ置く。マスターの言葉に、心臓が跳ねた。

「き、聞いてたんですね……」
「お前の奢りってことにしておく」
「はい、すみません」

 緊張して無いものを言ってしまった恥ずかしさを、笑って誤魔化す。マスターが彼女のために淹れてくれたブレンドコーヒーを、静かにトレーに乗せた。
 黄昏の君は、また窓の外を見ている。

「お待たせしました。ブレンドコーヒーです」
「ああ、ありがとう」

 コーヒー入りのカップと空のカップを入れ換えている間も、外を見ていた。
 お礼の言葉を口にしてくれた時、かろうじてこちらを向いてくれたけれど、それ以降は一度も目が合うことはなかった。
 二杯目のコーヒーを飲み干した彼女がレジへ歩いてくるのを見て、レジ前に立つ僕の手には汗が滲んでいた。初めて言葉を交わした緊張のせいかもしれない。心臓はまだドキドキと早鐘を打っている。
 そんなことを知る由もない彼女は、注文用紙とお金を同時に台の上へ置いた。
 硬貨の枚数が、見るからに多い。

「あれ……あの、これは?」
「何杯飲んでもおいしいと、店主に伝えてくれるかな」

 彼女は、その言葉とコーヒー二杯分の代金を残し、扉のベルを鳴らして夜の街へと溶けて行った。


   * * *


 あれからも、黄昏の君はいつものように来店してくれた。
 晴れた日の日没から、コーヒーを二杯飲み終わるまで。
 あの日以来、僕らはほんの少しずつ色んな会話をする仲になっていた。
 黄昏の君の名前は、美雪(みゆき)。天文学の研究をしているチームに所属していて、今は訳あって休職中らしい。
 美雪さんの話によれば、この店へ来るのは夜になるまでの時間潰し。いつも同じ席へ座るのも、西側に建物がなく空の色がよく見えるから。コーヒーを飲み終わると時間も頃合いで、店を出てからそのまま星を見に行っているそうだ。
 待ち人来たらず、というわけではないらしく、その部分にすごく安堵した。けれど、気になっている彼氏の有無は、まだ聞けていない。

「どうぞ、ブレンドコーヒーです」
「ありがとう」

 本日一杯目のコーヒーをテーブルに置くと、いつも窓の外ばかり見ていた瞳が、僕を見て微笑む。
 美雪さんの瞳の色がこげ茶色だと、最近になって知った。気付けるほどには目が合っているという事実に気付いた時、あまりの嬉しさに卒倒しそうになったくらいだ。
 もう、ただの店員と客ではない。近付いた距離が、とても心地良い。

「そうだ、風太(ふうた)くんに訊きたいことがあるんだ」 

 名前を呼ばれて、瞬時に胸が高鳴った。呼ばれたことは今までに何度かあったけれど、それでもまだ慣れない。

『風太くんか。私は風が好きなんだ。いい名前だと思うよ』

 あまり気に入っていなかった自分の名前も、美雪さんにそう言ってもらえただけで好きになれた。呼んでもらえるだけで嬉しくなって、自然と笑顔になる。

「なんですか?」
「君の次のシフトはいつかな?」
「えっ……!?」
「あ、いや……他意はないんだ。世間話くらいの感覚で。訊かれても困ってしまうよな。今のは忘れて欲しい」

 少し焦ったように、コーヒーを飲んで顔を隠した。ように見えた。
 どんな意図で、今の質問を僕に? ただの出来心というものですか?
 名前を呼ばれただけでときめいていた心臓が、今はバクバクと動いてうるさい。

「つ、次は明後日です!」
「そうか。ありがとう」

 美雪さんの唇と瞳が、緩やかに弧を描いている。美雪さんが僕のシフトを聞いて、嬉しそうに笑っている。心地良かった距離が、また大きく近付いた気がする。
 そんなこともあって気分は絶好調だったが、明後日である当日の天気は、朝から曇り。天気予報によれば、午後から雨だった。

「今日は、来てくれない……」

 僕が店にいることをわかって来てくれるはずの美雪さんに、会えない。寂しい、なんて言葉では言い表せないほど、胸の中もどんよりと暗くなっていく。そんな僕の心を表すように、ぽつりぽつりと降ってきた。粒だった雨が瞬く間に筋となって、僕の視界を覆って閉ざす。
 僕と美雪さんを隔てる雨のカーテンを取り除く術はなく、客足の遠のいた静かな店内で流れるBGMを聞いていた。

「降ってきたな。奥からタオルを何枚か持ってきてくれるか。お客さんも濡れたままじゃ、コーヒー飲んでも風邪引いちまう」
「はい、行ってきます」

 店のコーヒーを好きでいてくれるお客さんのために、雨の中でも来てくれたことへの感謝として、一人ずつにタオルを配る。柔らかく仕立て上げてあるタオルを数枚持って戻ると、ちょうどいいタイミングで扉のベルが鳴る。
 控えめなその鳴り方に、耳を疑った。

「美雪さん!?」

 雨のカーテンをくぐり抜けて来てくれた彼女は、走ってきたのか息を荒くしていた。
 髪や顎のラインから滴が伝って、扉の前に小さく水たまりを作っている。

「これっタオル! 使ってください!」
「あー、いや、今日はこのまま帰るよ。こんなに雨が降るとは思わなくてね。考えなしに飛びこんだから、床も汚してしまったな」
「床は僕に任せてください。またこの雨の中を帰るなんて、風邪引きます! タオルはたくさんありますし、とりあえず温まってください」

 申し訳なさそうに、いつもの席で髪を拭き始めた美雪さん。そんな姿に、改めて違和感を覚えた。
 雨の日に彼女を見たのは、これが初めて。傘も忘れ、濡れながらも走ってここまで来てくれた。
 その理由は、僕がここにいると知っていたから?
 普段見落とすことのない天気予報を見忘れるくらい、今日はここに来ると決めてくれていたんですか?
 答えを得られない質問が胸の中でくすぶっていて、トレーを持つ手に力が入る。

「どうぞ、ブレンドコーヒーです」
「ありがとう。さすがに秋も半ばだと、濡れれば冷えるな」

 コーヒーカップを両手で包み、暖を取る姿も初めて見る。
 今日は雨なのに、どうしたんですか? それを口にする勇気があるはずもない。
 二杯目のコーヒーを飲む頃には体も温まったようで、美雪さんはいつものように窓の外を見つめている。
 雨空を見る彼女の髪は乾いて少し広がっていて、僕はそれをかわいいと思いながら見つめることしかできなかった。


   * * *


 カラリと晴れた午後。
 コーヒーを飲む美雪さんの表情が、いつもより優れないように見える。
 窓の外を眺める時間が減り、手元のスマホを見つめていた。スマホをテーブルに置き、目元を押さえてため息をつく姿は、何かに悩んでいるようだ。

「美雪さん、そろそろおかわりですか?」
「あ、ああ。頂くよ」

 声をかけると、上を向いていたスマホを反対に伏せられてしまった。人のスマホの画面を見るつもりはないけれど、あえて隠されると気になってしまう。
 もしかして、彼氏……だろうか。

「あの、風太くん」
「はい」
「プラネタリウムのチケットが二枚あってね。もらってくれないかな?」
「僕に、ですか?」

 デートのお誘い!?
 その可能性を感じて、確信もないのに気分が舞い上がっていく。
 店の外で、美雪さんに会える。願っても叶わないことだと思っていた。

「好きな相手を誘って行ってくるといいよ」
「へっ? え、美雪さんは……?」
「私は、そうだな……プラネタリウムに興味のある友人もいないし。だから二枚も必要ないんだ。一人で二回見に行くのも、気が進まなくてね」

 僕を誘ってくれたわけじゃなかった。
 勘違いして、それで落ち込むなんて情けない。それでも、悲しさをこらえきれずに俯く。
 このまま二枚もらっても、僕にだって誘う相手はいない。それに、これはチャンスかもしれない。この機会を逃したらいけない気がして、拳を握って顔を上げた。

「僕と行ってもらえませんか?」
「風太くんと? それでは親御さんに面目が立たない。私なら、見知らぬ大人と出かけるなんて聞いたら心配するよ」
「僕が、子供だからですか」
「そうだね」

 働いているとはいえ、高校生で未成年。そのことを、美雪さんは懸念しているんだろうか。僕らが仲良くなっても、単純に出かけることすら後ろ指を差されるのだろうか。
 それなら、一緒に出かけることができないのならーー。

「じゃあ、一枚だけください。僕、次の土曜はシフト入ってないから休みなんです。昼の一時にここへ行きます。もしもここで会えたら、一緒に見てもいいですよね?」

 現地で偶然会えば、そうだったと言い訳ができる。それは事実だし、誰かに追求されても言い返せる。
 我ながら、子供的発想だけれど。

「……もしも、会えたら」

 顔を上げると、美雪さんは笑っていた。困ったように、仕方ないなと言うように。
 僕の意見を肯定してくれたとわかって、僕の頬もほころんだ。
 二人だけの秘密を共有しているような、くすぐったくて温かい気持ちが、胸の中で居心地が良さそうにくつろいでいる。ずっと胸の中にいてくれていいんだよ。こんなにいい気持ちなら、むしろずっとここにいてほしい。

 その感覚は、土曜の朝まで続いた。
 普段なら布団に包まれて微睡みを楽しむ朝の時間。今日は目が冴えて二度寝もできない。
 美雪さんとプラネタリウム。で、会えるかもしれない。そんな予定があるだけで、ここ数日は落ち着かなかった。
 美雪さんの隣にいてもおかしくないよう、入念にコーディネートした服が壁にかけてある。新調した紺のジャケットは、気合いが入りすぎだろうか。
 そもそも、本当に会えるのかもわからない。考えると不安になって、安心できる布団の中にずっといたくなる。
 期待と不安が入り交じって、それでもその感覚が嫌とは思えない。手放すことも惜しくて、ずっと感じていたい。
 この感覚も、感情も、今日美雪さんに会えば変わってしまうような、そんな気がしていた。それが良いことなのか、悪いことなのか、僕には判断がつかない。
 刻一刻と迫る時間を見て、早めに支度をしておこうと布団から抜け出した。

 少し早いけど、服を着ておこう。少し早いけど、家を出ておこう。
 少し、少しと行動していると、いつの間にか二時間も早く現地に着いていた。
 緊張して空腹も感じないし、美雪さんが来るまで心の準備をして待っていよう。
 まだ、来てくれるかもわからないけれど。

 入り口付近で待ちながら、たくさんの人が順々に建物へと入っていくのを見ていた。
 家族連れ、お年寄りの夫婦、若者の男女。皆楽しそうで、幸せそうな表情をしている。
 この中に、自分も混ざれるだろうか。入り口付近に立ち尽くしたまま、ただ時の流れを感じて終わるかもしれない。あの人ずっといるね、なんて笑われているかもしれない。
 それでも、僕がここへ立っていることには意味がある。
 美雪さんがくれたチケット、美雪さんと交わした言葉、美雪さんがいたから、今ここに僕がいる。何にも代え難い僕だけの思い出として、この日をずっと忘れないだろう。
 ……けれど、もしも彼女が来てくれたなら。僕だけではなく、二人の思い出になったなら。それは人生で最高の時間になるはずだ。
 来て欲しい。来てくれますように。そんな想いをこめて、手の中のスマホを握りしめて俯いた。連絡先も知らない。そんな当然のことが、今はすごくもどかしい。知っていたとしても、来くれますかと連絡する勇気はないんだけれど。
 今自分が身につけている中で最も高価な三万円の腕時計が、十二時を示そうとしている。まだ時間がある。不安をため息と共に吐き出すために、顔を上げながら息を吸い込む。

「早いね」

 息が止まった。心臓が早鐘を打ち始めた。
 視界の端がぼやけて、頭の中が白いモヤに包まれて消えていく。
 美雪さんが来てくれた。それを認識するのに、二秒はかかったかもしれない。
 人生の中で、一番長い二秒。

「み、ゆきさん……!?」
「こんにちは」
「こっ、こんにちは! えっと……偶然ですね!」

 もしもここで会えたら、なんて設定をこのタイミングでよく思い出せたと思う。
 僕が慌てているのを見て、美雪さんは口元を手の甲で押さえながら笑っていた。その顔を見ていると、不思議なことに緊張が緩んでいく。
 まっすぐに整えられた長い髪、スラッと伸びた黒いスキニーパンツ、カーキ色の薄手のコート。
 店で見たことのない服装が新鮮で、僕らが外で会っていることを再確認した。店員と客ではなく、風太と美雪として会っている。
 嬉しい。ただそれだけのことが嬉しくてたまらない。ニヤける顔を必死に我慢していると、また美雪さんに笑われた。

「ここで会ったのも、何かの縁だろうね。行こうか」
「は、はい!」
「プラネタリウムの上映時間まで、まだ余裕あるね。私は隣接してるカフェに行くつもりだったけど、せっかくだし展示を見てみる?」
「はい、見てみたいです。僕、こういう所って初めてでワクワクしてます」
「私はよく知っている場所だから、案内するよ」

 建物の中は暗い色を基調としていて、まるで宇宙の中を歩いているかのような神秘さを感じさせた。
 月面到着後の写真、アポロ十一号の模型、地球から星までの距離図。
 今までテレビで見ても気に留めてこなかった物を、美雪さんは一つ一つ簡単に説明してくれる。その表情は楽しげで、店では知り得なかった一面を見ることができて心が弾む。十分もしないうちに、僕の関心は美雪さんただ一人になってた。嬉しそうな美雪さんを見ていると、僕も笑顔になる。

「すまない。私ばかり喋ってしまった。退屈だっただろう」
「そんなことないです!」

 本当は話の内容は覚えていない。覚えていられない。
 僕の中は美雪さんでいっぱいで、美雪さんと並んで歩いているだけで気持ちが溢れそうだから。

「本当に、星とか好きなんですね」
「ああ、そうなんだ。星を眺めることが好きで、星座にも名前と意味があって。今見ている星の光が昔の光だと知った時は、何故か胸の高鳴りが抑えられなくてね。懐かしいよ」
「美雪さんにも、そんな時があったんですね」
「もちろん。風太くんくらいの歳だったかもしれない。きっと、今の君のような顔をしていた」

 美雪さんの言葉に、急いで顔を両手で覆った。
 今の僕は、どんな顔をしていただろう。だらしない顔だったかもしれない。
 でも、美雪さんが「今の君のような顔」と言ったのなら、変な顔はしていなかったはず。今すぐ鏡で確認したいくらい恥ずかしい。
 僕の心境を悟ってか、美雪さんは微笑んだあと展示に目を向けて、僕を視界から外してくれた。

「星は、晴れていないと見えないだろう。曇りの日は憂鬱で、雨の日なんて家から出るのも嫌だった」
「そうですよね。ずっと晴れていればいいのに」
「私もそう思っていた。風がある日は雲が流れて星が見えるだろう。風太くんに会った日の夜は、不思議と星がよく見えたよ。君の名前を知った時に納得してね。以前シフトを訊いた時も、実はそういう理由だった」
「雨が降るのに来てくれた、あの日ですね」
「そうだよ。曇りだったけれど、君に会えばどうにかなる気がしていたのかもしれない」

 いつの日かの謎が、今になって解けていく。
 美雪さんが何を考えていたのか、教えてもらって理解していくことが楽しくて、嬉しい。

「じゃあ、美雪さんを困らせる雲は、全部僕が吹き飛ばして守ってみせますよ」
「風太くんが?」
「あ、な、なんちゃって! アハハ!」

 美雪さんの少し見開かれた目にたじろいでしまった。
 ただの高校生が、何もできないくせに何を言っているんだろう。自分で言っておいて、恥ずかしくて情けなくて、美雪さんに否定されたくなくて、泣きたくなってきた。
 それを、無理やり笑って誤魔化して取り繕う。
 美雪さんのために何かしたいと思う気持ちに、嘘は一つもないんだけれど。

「そうか。そろそろ上映時間だ。行こうか」
「は、はい」

 並んで歩いても、席を探していても、隣同士で座っても、僕はまださっきのことを引きずっていた。
 あんなことを言っても、美雪さんに変化は見られない。最後に「なんちゃって」と誤魔化したのがいけなかったのだろうか。あのまま真剣に美雪さんを見つめていれば、彼女の中に何かを響かせることはできただろうか。

「照明が暗くなったら驚くと思うけど、なるべく声は上げないように」

 何に驚かされるのかわからないまま、美雪さんに頷いて見せる。
 優しいメロディが鳴ってから女性のアナウンスが聞こえて、照明が落とされ部屋全体が暗転していく。同時に、ゆっくりと背もたれが座席ごと後ろへ傾き始めた。
 とっさに掴まろうとした手が空をかいて、パシッと何かに捕まえられる。

「やっぱり、驚いた?」
「い、いじわるですね美雪さん。言ってくれたらよかったのに」

 小声でそう言えば、美雪さんも小声で笑っていた。
 初めて触れられた手は少し冷たくて、小さくて……。すぐに離れたはずの手の感触がいつまでも残っていて、正直プラネタリウムどころじゃない。隣の美雪さんに心臓の音が聞こえていないか、そんなことも考えた。

 けれど、天井に投影された星空があまりにも綺麗で、見とれているうちに心臓も落ち着いてくる。
 東から西へと動いていく星は、互いに距離を保ったまま、同じ速度で同じ方向へ移動している。
 僕らも最初は、この星と同じように一定の距離で過ごしていた。来る日も、来る日も、毎日変わらず。

 僕はもう、今までと同じではいられない。星と同じ、一定の距離を保ち続けるのは嫌なんだ。
 美雪さんも、そんな風に思ってくれていますか……?
 そんな思いで隣に目を向けると、美雪さんは長い睫毛を伏せて眠っていた。薄く開いた口元から、静かな吐息が聞こえそうなくらい、近い。
 初めて見る無防備な美雪さんから、目をそらせない。僕に気を許してくれている証拠だろうか。それとも、男として試されているのだろうか。わからない、何も。
 だけど、この寝顔を、幸せそうなこの人を、ずっと守りたい。そう、心の底から思った。

 東の空が紫色に溶け始め、夜空が明るくなっていく。
 夜明けと共に、美雪さんも思そうなまぶたを持ち上げた。

「ああ……終わってしまったか。もったいないことをした」
「昨日は眠れなかったんですか?」
「そうだな。考え事をしていたら、夜を越えてしまってね」
「徹夜だったんですね。すみません、僕一人で楽しんじゃって」
「風太くんが楽しんでくれたなら、来た甲斐はあったよ」

 元に戻った座席から腰を上げて、美雪さんは名残惜しそうに天井を仰いでいる。
 眠れなくなるほどの考え事って何だろう。
 僕と出かけることに対してだったら、それは良い意味だろうか。それとも……。
 確証もないのに、グルグルと回り出しそうな思考を払拭したくて、美雪さんの背中に声をかけた。

「また、一緒に来ませんか? プラネタリウムを見ながら、美雪さんの解説を聞きたいです」

 振り向いた美雪さんは、少し困ったように笑みを浮かべていた。
 困らせたいわけじゃないけど、この顔も好きだ。
 美雪さんが口を開いて、聞こえたのは男性の声だった。

「美雪!」

 スタッフルームから出てきた人が、小走りで駆け寄りながら美雪さんに手を振る。
 美雪さんは「ああ」と声を漏らしながら、右手を上げて応えた。
 男性が僕の顔をチラリと見て、美雪さんにニヤリと笑いかける。

「俺の渡したチケット、使ってくれたんだな。誘う相手がいなけりゃ、俺がお呼ばれしようかと思ってたが?」
「その心配は不要だったみたい」
「そうみたいだな。いつ戻ってくるんだ。皆、待ってるぞ」
「そのうち」
「そうか。残念ながら俺はこのあと予定があってな。また飯でも行こう」

 美雪さんの言葉も待たず、男性は去っていった。
 今のは誰だろう。話の流れからして、仕事仲間のような気がする。
 でも、名前で呼んでいたし、親しそうだし。俺よりも大人で、かっこよかった。
 腹の辺りがムカムカして、少し気分が悪い。

「すまない。今のは仕事場の同期だ。早く職場復帰しろと言われてしまったよ。チケットを渡してきたのも、戻りたいと思わせるための作戦だったのかもな」
「美雪さんのことを、心配しているようでしたね」
「妹がいるらしくてね。似たような感覚だよ、きっと」
「ここへも、一緒に来るつもりだったんじゃないんですか。あの人、美雪さんのことが好きなんじゃないですか? ……僕みたいに」

 まくし立てるように出てきた言葉に、僕自身も驚いた。ライバルの登場かと焦ったせいで。
 勢いで告白する気なんてなかったのに。する気があったとしても、今日じゃない、今じゃない。
 でも、もう言うしかない。今言わないと、後悔する。

「好きです、美雪さん。僕と付き合ってください」

 まっすぐに、美雪さんの目を見つめた。恥ずかしくとも、逃げ出したいほど感情が溢れても、この想いだけはまっすぐに届けたい。
 僕より少し低い背、思っていたよりもずっと華奢な体、好きなことには饒舌になる所、好きな場所にいるのに眠ってしまう所。
 まだまだ、美雪さんのことを知らない部分がたくさんある。僕が嫌だと感じる面も持っているかもしれない。
 けれど、好きな気持ちはきっと変わらない。誰にも美雪さんを取られたくない。
 僕が、美雪さんを覆う雲を晴らしたいんだ。

「……困ったな。ここで諭すのが大人なんだろうけど、私にはできそうにない」

 彼女の白い頬に、赤みが差していく。
 動揺を隠すように口元を手で覆う仕草も、美雪さんの全てがかわいくて愛おしい。
 今すぐ、抱きしめたい。
 その気持ちをぐっとこらえて、感情が高ぶって上手く回らない頭で、美雪さんの言葉を反芻した。

「そ、それは、つまり……?」

 美雪さんは誤魔化すように笑って、それ以上は言ってくれなかった。
 ただ、お互いに赤面して、笑い合って、それだけでも充分伝わっていたと思う。


   * * *


 あの日を境に、僕らの日常は戻ってきた。
 僕は相変わらず喫茶店でバイトをして、美雪さんは夕方になるとやって来る。
 けれど、今まで違うことも、もちろんある。
 今日、いつものように来店した美雪さんは、最近見慣れてきたスーツを着ていた。
 職場復帰して一ヶ月。いつもの席へ座る彼女は、ご機嫌だった。

「お仕事、順調そうですね」
「それなりにね。勘も取り戻してきた気がする。風太くんの方はどう?」
「え、頑張ってます、よ?」

 痛いところをつかれて歯切れが悪くなってしまった。ブレンドコーヒーをテーブルに置きながら、視線が泳ぐ。
 美雪さんの明るい笑い声が、僕の中に響いた。

「ちゃんと第一志望の大学に行けるように頑張れ」

 僕が大学に受かるまで、交際は先延ばし。
 それまで、美雪さんは職場に戻って頑張る、という条件で。

「わ、わかってます。必ず、美雪さんを迎えに行きますから!」
「期待して待ってるよ。君が来ると思えば、職場の嫌な人間関係も気にせずにいられる」

 毎日勉強に励みながらもバイトを続けているのは、美雪さんに会うため。美雪さんが僕に会うため。
 一番近くにいることはまだできないけれど、こうして会うことで美雪さんを笑顔にできるのなら、雲を晴らすという宣言は実行できているのかもしれない。
 あなたの隣に堂々と立てるその日まで、星空を待ちわびてたそがれるあなたと、今しばらくこの喫茶店での逢瀬を楽しみます。


end

黄昏の君

執筆の狙い

作者 色葉月
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初投稿です。
「星座・人間関係・社会人」の三つのお題で。
学生は社会人に対してどうアプローチするのか、という部分にリアルさを求めて書いてみました。
読みやすい文章を心掛けています。
足りないと感じる部分、良かったと感じる部分など、教えていただけると嬉しいです。
よろしくお願いします!

コメント

そうげん
58-190-240-140f1.shg1.eonet.ne.jp

「見上げてごらん、夜空の星を」というアドベンチャーゲームを遊んだことがあるのですが、プラネタリウムとか星空観測と恋愛を絡められる物語は、それを書けることも含めて雰囲気もよくて、いいなと思っているわたくしです。

このサイトではなかなか見かけないくらいの素直な気持ちを表出したかのような、とても心地よくて、しかも読み手を裏切ることのない、恋愛ストーリーだったと思います。

美雪さんの人物も、風太の人物も、ちゃんと際立っていたと思います。職場の元同僚が、プラネタリウムを視終わったあとに、二人の前に現れたとき、もしかして主人公はフラれてしまうんじゃないか、失恋するんじゃないかという危惧を覚えました。しかし二人の気持ちがちゃんと結びつくように、物語が展開されていて、この物語の長さにおいては、ちょうどよい展開だったと思います。

前述のアドベンチャーゲーム「見上げてごらん、夜空の星を」でも、元社会人として、早乙女美晴というキャラクターが出てきます。「暁斗(=主人公)たちの元担任だったが、学園が廃校後には実家に引きこもっている」というぐうたらフリーターというか、ニートみたいな存在で、御作の美雪さんとはかなりちがった異質のキャラクターですが、でも高校生にとっては、あるいは年上の女性というのは同級生とは異なる部分で惹かれるものがあるのかもしれません。ゲームでは一切、そういうことはなかったですが、美雪さんのように一種、ミステリアスな存在であれば、思春期の高校生には気になる存在へと昇格されるのはありえることだと思いました。

二人の距離の取り方も的確だったと思います。ちゃんと大学に行って、迎えに来てくれるまで、待っているという感じがよいなと思いました。

may
pw126233153249.20.panda-world.ne.jp

淡い!恋愛モノですね。いいね。
文章がお上手で、揺れ動く風太の心理描写がしっかりしていたと思います。美雪さんの魅力もわかりやすかった。二杯目奢らせると思いきやちゃんと払ってくれて次回からちゃっかり飲むコーヒーが二杯に増えている。粋ですね。
シフトを聞いたのに来ない、会えない、ときのもどかしさと、濡れ鼠で来てくれたときの嬉しさ、対比されていてよかったと思います。
プラネタリウムの合い方もナイス。社会人としてしっかりしている美雪さんは手を出さないし風太は偶然会えたらと提案してなんか可愛らしいなあ。同僚がきて、ライバルかと焦り勢い余って告白する時の言葉もいい、好きなの?僕みたいに。と、遠回しだけどはっきり告る、男らしいです。
と、恋愛モノとしてすごく淡くて社会人と学生だからこその難しさもよくわかりましたが、感想としては全体的につまらない、です。残念ながら。
何かインパクトに欠けますね。小説というよりはリアルにありそうな現実的すぎるお話でした。
スパイスが欲しかった。美雪さんの得意な星の話とかもっと詳しく、風太の人間性とかリアルに、があればよかったのかも。
何か足りないです。

匿名ではありません
124-144-112-119.rev.home.ne.jp

甘酸っぱい恋愛譚。しかし、そのスケッチは、どこかもやっとした、水彩画。ぼやけている。まだまだ、二人を問い詰められていない。まだ薄い。気がする。

色葉月
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そうげんさん、感想ありがとうございます!

もったいないくらいのお言葉をこんなにたくさん、本当に感謝しています。
アドベンチャーゲームも興味あります。プレイしてみたい!
探してみますね。
このサイトでは見かけないくらい、と言われドキッとしましたが、こちらでは恋愛系は珍しかったんですね。
受け入れてもらえて良かったです。
とても励みになりました。
ありがとうございました!

色葉月
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mayさん、感想ありがとうございます!

文章が上手と褒められたのは初めてです。
あぁすごく嬉しい。励みになります。
淡い、という表現はとても的確ですね。私もそう思います。
食べられるけど薄味、みたいな。
リアルに寄せることを意識していましたが、それでは小説としての面白さを出せませんね。
何が足りないのか自分では見つけることができませんでしたが、mayさんのおかげで星の話や人間性についての描写が少ない、足りないと気付けました。
ありがとうございます。精進します!

色葉月
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匿名ではありませんさん、感想ありがとうございます!

やはり薄いですよね。水彩画のぼやけた感じはあると思います。
もう一匙インパクトのある色を添えられたら良かったんですよね。
書いてる時はそこまで考えが至りませんでした。
波風の少ない物語を書いてみたかったんですが、楽しむためにはもうひと越え必要ですね。
もっと頑張ります。
ありがとうございました!

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