作家でごはん!鍛練場
sin

悪夢の道程

 それは、質量を有した悪夢だった。

 当初彼女が見ていた光景は、家のすぐ近くにある、公園の脇の路地のものだ。通学の時に、いつも班のみんなで通っている道である。彼女は理由も分からずに、その道を歩いていた。時分は、昼下がり頃だろうか。奇妙な天気だった。暑くも寒くも、明るくも暗くもない。何もかも中途半端だ。空は、一応は雲もなく、確かにそこには陽という光源もある。しかし、どこかその明度は鈍い。ささやかな、翳りを帯びている。そのことについての疑問は、少女の脳裏には思い浮かんでこなかった。彼女はただ、慣れ親しんだ風景を自然な心で歩いており、これより彼女に降りかかる奇妙な現象の数々など、全く思考の外だった。
 それは、道の角に差し掛かった辺りで、予兆を見せた。角の向こうから、何か、奇妙な一筋の光線が差していた。少女はその正体に疑念を持ったが、警戒はしなかった。むしろ抑えきれない好奇心は、少女の足の運びを、早める作用があった。そして角を曲がると、そこには、あるはずのない風景が広がっていた。住宅街の風景とは全く違う、のどかな田舎道の風景だった。

 少女はこの田舎道の風景に見覚えがあった。彼女の母方の実家の、すぐそばにある道だ。彼女は母と共に実家に帰るたび、祖父母の散歩についていき、この道を歩いていた。田園に沿ったこの道は、脇に側溝を有しており、彼女の祖父はしばしばこの側溝でタニシを拾っていた。祖父は家で金魚を飼っており、水槽の水を浄化するために、タニシをその中に住まわせていたのである。そして今、彼女が側溝を見てみると、確かにそこにはタニシがいた。しかしタニシは、水の枯れた側溝の、アスファルト製の底に力なく転がっており、その様子はまるで小石のようだった。生き物らしい活力というものを、感じさせなかった。同様のことは、すぐそばにある稲穂にもいえた。秋晴れの空の下、こぼれ落ちんほどに実をつけた稲穂の海は、一切波打つことがなかった。風がまるで吹いていないこともあるのだろう。しかしそれにしても、田園の風景には一切の動きがない。まるで、額縁の中の絵画のようだった。少女は違和感を覚え、田んぼに近寄り水の中を見てみた。すると、水は一切枯れており、また土の表面にも生き物の気配はなかった。アマガエルや、オケラや、スズメや、その他種々の生き物たちの姿はどこにも見当たらなかった。田園の風景は、完全に枯死してしまっていた。 
 少女はそのことに、形容しがたい違和感を覚えた。どこかしっくりとこない、どこか引っかかる、あのもやもやとした感覚。記憶の中にある景色と、今目の前にある景色とでは、確かに隔絶があった。田園も、生物も、遠くの空に映える青々とした山並みも、全てが不愛想に冷たく横たわっており、物言わず少女を拒絶しているかのようだった。そんな感情を覚えつつも少女は、取り敢えず道を進んでいった。すると、途中で田園風景は途絶え、瓦葺きの住宅がまばらに建つ路地へと着いた。そして、路地の角を曲がると、再び有り得ないことが起きた。少女は、彼女が通う小学校の、教室がある廊下へと瞬時に移動していた。
 移動していた、という形容は、適切ではないかもしれない。少なくとも体感の上では、少女に転移の感覚はなかった。ただ自分の歩みに従い路地を曲がると、そこに新しい空間が広がっていた。そんな感覚だったのだ。少女は思わず後ろを振り向き、後背の風景を確かめようとしたが、もうそこに田舎道の風景はなかった。ただ、そこには、学校の一角の風景が、物言わずに佇んでいた。
 つぶさに観察してみても、今彼女がいる廊下の風景は、実際の廊下の風景と、寸分の違いもなかった。壁にテープで留められた、「ろうかをはしるな」と書かれた貼り紙。クリーム色の消火栓設備に取り付けられた、緊急用の真っ赤なボタン。そういった細部の特徴まで、完全に再現されている。少女は、窓から差し込む黄昏時の、オレンジ色の光の中に浮かび上がるそれらの景物を、しげしげと眺めながら廊下を歩いていった。
 この廊下には、三年生が用いる4つの教室が並んでいた。手前から順に、3-1、3-2、3-3、3-4の教室である。彼女が普段使っているのは、一番奥の3-4の教室だった。廊下の突き当りまで歩いていった彼女は、とうとうそれを見つけた。彼女は教室に備え付けられた窓から、それとなく教室の中を覗いてみたが、残念ながらこの窓はスリガラスになっており、中の様子は判然としない。それでも、おぼろげながら分かってくることもある。例えば、照明が点灯しているかどうかなどだ。ガラス越しに覗いてみたところ、少なくとも天井に備え付けられた6基の白色の蛍光灯は、いずれも点灯していないようである。また、教室の中から声が聞こえてくることもない。どうやら中には誰もいないようである。人の気配がまるで感ぜられないのだ。そのうち、彼女はふとムラムラと、心の奥から湧き上がってくる屈託のない好奇の念に背を押され、教室の引き戸をそっと開いてみた。するとそこには、黄昏時の光にぼんやりと照らし出された、人気のない教室の風景がもの言わずに佇んでいた。彼女のよく知る、慣れ親しんだ風景である。教室の奥のほうには、子どもらしいつたない筆致で書かれた、みんなの「2学期の目標」が張り出されているし、その中にはちゃんと少女が書いたものもあった。ロッカーの上には、図工の時間でみんなが作った、ゴミを再使用して作った工作がきちんと並べられていた。少女はこういった、いつもと変わらぬ教室の風景を見て、少し安心を覚え、教室の敷居をまたぎ中に入ろうとした。しかし、この時だった。一瞬にして世界は、その様相をすっかり変えてしまった。少女が足を踏み入れたのは教室ではなく、昔家族旅行の際に乗ったある列車だった。
 
 この現象は、臓腑を生温かい舌で舐められたような恐怖を、少女の無防備な心に与えた。彼女は恐怖に駆られ周囲を見回したが、やはり列車の風景だった。少女は目をギュッと閉じた。拳を堅く握りしめるように強く、そして、随分と長い時間。
 しかし、この行為は、無為だった。目を開けてみても、そこには表情を持たない乾いた現実が、当たり前のように奇妙な悪夢を展開するばかりだった。教室の前にいたはずの少女が、教室と廊下、その境目を超えた途端に転移したこと、その事実に変わりはなかった。彼女は依然として列車の中にいた。しかも、空間だけではない。時間の方も、瞬時の変容を遂げていた。今、列車内の時間は夜となっていた。そのことは、車窓に流れる風景から分かった。列車の窓から覗く風景は、確かに真夜中の都市のものだった。黒々とした、沈んだ都市の夜の底に、無数の光が散りばめられている。そんな、都会の夜の風景がそこにはあった。そして光の粒は、速度の流れに引き伸ばされ、無数の、流星のような軌跡を刻んでいた。
 少女はその光景を眺めているうちに、ある違和感を覚えた。それは、以前にもこれと同じ列車から見た、記憶の中の風景と現在の風景との比較のうちに、生まれてくる違和感だった。少女は、この違和感を語彙によって明白に表現する術を持たなかった。しかしそれは、少女の語彙の貧弱によるものである。大人が使うような言葉をもって説明するならば、少女にとって現在の車窓の風景は、以前見たものよりも、どこか「無機的」に思えた。これこそが、少女が今現在抱く違和感の源泉だった。言うならば少女は、写真そっくりに描かれた絵画を、本物の写真と偽られて目の前に呈示されたような、そんな違和感を覚えていた。
 少女は随分と長い間、車窓のそばに立ち、流れる風景に視線を留めていた。そうしているうちに彼女は、あることに気づいた。それは、これほど長い時間つり革も持たず立っていられるほど、この列車の内部は揺れが少ないことである。
 このことに気づいた上で、もう一度自分の身の回りの環境について観察を加えてみると、少女は更に新しい発見をすることが出来た。この列車の中には、速度の感覚がないのである。例えば、音について。あの列車が進むときの、ガタンゴトンという断続的な音響、それだけは聞こえる。しかし、あの列車が風を切って進んでいることを証明する、ビュッという鋭い音響。それが、少女の耳に聞こえてくることはない。ただガタンゴトンという音だけが、独立して耳に響くだけなのだ。
 途端に、ある疑念が少女の頭にもたげてくる。そしてその疑念の要請に答え、少女は再び窓の外の風景に目を凝らした。すると少女は、ようやくあの違和感の正体に、気づくことが出来た。少女は、開いた口が塞がらなかった。最初から、この列車は一切進んでいなかったのである。完全に静止していたのだ。それでは、なぜ車窓に映る列車の外の風景は、このように流れて見えたのか。それは、分かってみれば単純なことである。しかし、極めて常識の範疇から外れたことである。要するに、列車ではなく、風景の方が、高速で移動し続けているのだ。常識を捨て、よく目を凝らしてみてようやく分かることだった。列車は止まっている、完全に不動だ。しかし列車の外部の都市の夜景は、アニメーションのように、列車の進行方向と全く平行に、流れ続けているのだ。
 このことに気づいた少女は、新しい恐怖を覚えた。それは、怪異に遭遇したことから起こる、これまでとは一線を画す直截的な恐怖だった。真夜中のお墓で人魂に遭遇した時のような、理解を超えたものに対する本能的な恐怖。しかし彼女の場合はこれだけではなく、同時に、密閉の恐怖もあった。少女は慌ててこの列車の内部をくまなく捜索してみたが、開いている扉はただの一つもない。車掌室は、内側から鍵でも掛かっているのか、固く閉ざされている。そう、この時少女は初めて、列車の中に自身が閉じ込められていることに気づいた。列車の中は、不動の密室だったのである。
 とくんと、ひときわ大きく心臓が波打つ。悪寒が背筋を伝い、少女の心を襲う。まだ幼い彼女の掌に、冷たい汗が滲み出る。
この時、この電車が本当に完全な密室だったならば、少女の心は逃避に向かっただろう。要するに、全てを忘れて号泣し、思考を放棄していたのだろう。けれども、この時はまだ、すぐ近くに望みが残っていた。それは電車のドアである。電車の内部と外部を隔てる、このドアさえ開けば、少女はこの密室から脱出できるかもしれない。
 とはいえ、それをすぐに実行してのける勇気は、少女にはなかった。彼女は無意識のうちに、去年母と、自分と二つ下の妹と共に、電車に乗って旅行へ行った際のことを思い出していた。その時少女の妹は、つばの広い、白い帽子をかぶっていた。この帽子は彼女らの母が妹の誕生日に買ってくれたものであり、妹もこの帽子をとても気に入っていた。しかしこの帽子は、電車に乗った際、手違いによって失われてしまった。三人が、席についたときのことである。彼女らが座った席の脇にある車窓は、前の客が開けっ放しにしてしまっていた。そして少女の妹は、この時たまたま帽子をとても浅くかぶっていた。これらの悪い偶然が重なった結果、列車が発車した途端、帽子は窓からの風に巻きあげられ、窓の外まで飛んでいってしまった。彼女らの母親はそれにすぐさま反応し、車外へと手を伸ばした。しかし、もう手遅れだった。一度電車の外に出てしまった帽子は、慣性のはたらきから取り残されてしまい、あっという間に電車の遥か後方に飛んでいってしまった。少女はこの時のことを、今でも鮮明に覚えていた。ひとたび電車の外を出てしまえば、少女もあの帽子と同じように、遥か後方に吹き飛ばされてしまうのかもしれない。少女は、それにひどく怯えていた。
 けれども、これは結局推論に過ぎない。実際は、違うかもしれない。先程から彼女の身に起きているのは、普段の日常からは想像も出来ないような怪現象ばかりである。扉を開き外へと一歩踏み出してみれば、また別の世界へと転移するのかもしれない。その場合、少女の体は無事のままである。しかし勿論、保障はどこにもないし、転移した先でもっと恐ろしいものに少女は遭遇するかもしれない。完全なる暗中である。実際に何が起きるかは、試してみなくては分からない。
 
 少女は考えた。考えて考えて、それでもやはり、中々決断は出来なかった。
 少女は、これと似たような体験をしたことがあった。この時少女は、無謀によって飛び出した。三年前、少女が今よりも更に幼かった時のことだ。ある土曜日の夕方、二人の姉妹は珍しく休みの取れた母親と一緒に、家でのんびりと過ごしていた。三人の家族が住む家は、郊外に立つアパートの一室だった。狭く、またあまり整頓も行き届いていないが、それでも、住めば都とはよく言ったもので、少女はその家を随分と気に入っており、心安らぐ場所だと感じていた。 
 そんなアパートの一室では、この時平和な、一家団欒の風景が見られた。母親は少女らに、カップケーキを作ってあげていた。二人はこれを、インスタントコーヒーと共に、スプーンですくってもぐもぐと食べていた。そして母親は、テーブルの向かいに座りながら、頬杖をついて、幼子らしいのんびりとした表情でカップケーキを頬張る二人の様子を、さも愛しそうに眺めていた。
 しかしこのひと時の団欒は、突然として鳴り響いた、けたましい電子音によってかき乱されることとなった。
母親はすぐにポケットから、二つ折りの携帯電話を取り出した。これは彼女が会社から支給されている、業務用の安物の電話である。少女は一旦カップケーキから目を離し、通話する母親に視線を向けた。どうにも電話の向こうにいるのは、大人の男の人のようだった。そしてその口調は、硬質の、厳しげなものだったが、どことなく焦りを感じさせた。少女は少しずつ、これから起きることは嫌なことなのだろうという、不吉な予感を覚え始めた。そして実際、通話をする母親の表情は、徐々に厳しいものへと変わっていった。
 しばらくして、電話が切られた。母親は二人の娘に、急用が出来て、すぐに家を出なくてはいけない、すぐ戻ってくるから、二人はいい子にして待っていて、決して家を出ないようにと伝えた。彼女は大急ぎでスエットから会社の制服に着替え、化粧もせずに外へと出て行った。そして出発する直前、少女に対し、お姉ちゃんなんだから、ちゃんと妹の面倒を見てあげてね、そう言い残した。
 こうして、二人の幼い姉妹は家に残された。母親が、突然仕事に行ってしまったことに、少女は言いようのない淋しさを覚えた。母親が帰ってくるのが、待ち遠しくて待ち遠しくてしょうがなかった。この、母親を恋しがる思いのためか、少女はかなりの頻度で、ちらちらと壁の時計に目をやった。しかし、時計の針は遅遅として進まない。楽しい時はあんなにも早く進む時計の針が、待ち遠しい時は全然進んでくれないのである。少女は子ども心に、神様の残酷さを感じずにはいられなかった。
 このように、少女はひどく母親を恋しがっていた。しかし、少女より更に2才年下の妹は、いっそう強い淋しさを感じているようだった。妹は、まだ半分くらい残っていたカップケーキに、手をつけることすらやめてしまった。母親がいなくなってすぐの時点で、妹の表情にはぽつぽつと哀しみの兆しが表れ始めていた。途中でそれに気づいた少女は、必死で妹をなだめようとしたが、あまり効果はなかった。これまでは、妹のすぐそばに母親がいない時でも、代わりに幼稚園の保母さんや、母方の叔母など、大人の人が近くにいた。しかし今妹のそばにいるのは、大して年の違わない姉一人だ。まだ4才の妹は、周りの子と比べても特に、甘えん坊な娘だった。とうとう、妹はぐずつき始め、ついには大声で泣き始めた。もうこうなってしまうと、少女でもなだめようがない。むしろ、少女がなだめればなだめるほど、妹はいっそう声を張り上げて泣き叫ぶ。こうなってくると、段々妹の淋しさや悲しさが、少女の方にも伝染してくる。甲高い泣き声が、幼い少女の敏感な心を強く揺さぶっていく。とうとう、少女の方も我慢できなくなってきた。少女は、母親の言いつけも忘れ、妹を置いて飛び出してしまった。母親を望む心が、あまりにも昂りすぎたためだった。少女は自分で、自分の感情を制御出来なくなってしまったのである。とにかく少女は、どこかへ出て行ってしまった母親を探そうと、あちこちを走り回った。
 少女は暮れゆく街角を懸命に走り回った。必死の形相で駆けて行った。時分は晩秋だった。少女の呼吸が荒くなっていくにつれ、冷たい秋の空気が胸いっぱいに入り込んで、少女の肺を冷やしていく。そして、町内を一周したというのに、母親の姿はどこにも見つからない。少女は子ども心に、ひなびた絶望を覚え始めた。全身に、鉛のような疲労が重くのしかかり始める。ただ近所を一周しただけだというのに、少女は異様な疲労を覚えていた。
 そんな中少女は、ふと、置いてきてしまった妹のことを思い出し始めた。少女ははっとした。すぐさま、自分の無鉄砲な行為に対する後悔の念が、頭をもたげ始めた。少女は、町内を走り回っていた時とまったく同じ、いや、その時よりも力強く、素早く、一目散に家へと駆けて行った。妹の身に、何も起きていないことを祈りながら。
 アパートについた少女は、三階までの階段を必死で駆けあがっていき、自室の扉にぐっと力を込め、引き開けた。その時少女は、玄関を見て、あることに気づいた。そこには妹の靴だけではなく、出て行ったはずの母親の靴もあったのである。
 はっとした少女が顔を上げると、そこには母親が立っていた。
 「もう、何してるのよ……」
 母親の表情には、不安、怒り、焦燥、様々なものが混じっていた。しかし、そんなものよりも遥かに強かった感情は、娘が無事に帰ってきてくれたことに対する安堵だった。
 次の瞬間、少女は母親に抱き着いていた。力いっぱい抱き着いてくる娘を、母親もまた、力強く抱きしめ返した。

 この時少女の背を押したのは、母親を求める幼子の、背を焼くような焦燥と不安である。あの時少女は向こう見ずに、すべてを忘れて飛び出していった。しかし、今少女を縛っているのは不安である。飛び出してみなければ、ずっとこのままだ。この奇妙な現象の檻から逃れることはできない。そんなことは少女にも分かりきっている。けれども、一歩踏み出す勇気など、中々出せるものではない。どんな目に遭うか、まるで予測がつかないのだ。最悪の場合、あの帽子と同じように、吹き飛ばされてしまうのかもしれないのだ。
 激しい葛藤が、少女の繊細な心をむしばみ、不安に追いやった。助けてくれる人なんて誰もいない。全部自分で決断し、行動に移さなくてはならない。それはまだ8才の少女にとっては、とても酷なことだ。
 しかし……それでも……。少女は無意識のうちに、ある時の全校集会で校長先生が言っていた、「ピンチはチャンス」という言葉を思い出していた。逆境を乗り越えたときにこそ、人間は本当の意味で成長できるという、あの言葉を。
 少女は頭の中で、その言葉を必死に反芻し始めた。その言葉をお守り代わりにギュッと握りしめ、少女は電車の、扉の前へと歩いていった。決断の時だった。少女は恐怖を抑えるためギュッと目をつぶると、引き戸の取っ手を掴み、力強く左右に開いた。そして、その向こうへと自分の身を投げ出した。

 少女の賭けは成功した。勢いよく少女が身を投げ出した先は、変哲のないただの地面だった。少女は倒れ込んだ際、体にいくつかの擦り傷をつくってしまったが、吹き飛ばされるよりはマシである。少女は起き上がると、体についた土埃を手で払った。そして、安堵の溜息を洩らした。気づけば少女は無意識のうちに、自分の片手を胸に当てていた。胸部に掌の圧力が加わると、安堵の感情が温水のように広がっていく。なんとか、自分は脱出出来たのだ。そのことがはっきりと自覚させられ、少女のささくれだった心は平静を取り戻していった。
 しかし、まだ少女はこの「悪夢」から、覚めることを許されていなかった。彼女がいたのは、一本道の山道だった。道の両脇には鬱蒼とした森林が繁茂しており、道幅はひどく狭く、その上周囲には厚い霧がかかっており、まるで視界が効かない。どうにもあまり気持ちのよさそうな場所ではない。その上少女は、この山道についての記憶を何一つ持ち合わせていなかった。
 要するに、指針となるものは一つもなかったのだ。坂を上っていくのがいいか、下っていくのがいいか、それすらも分からない。坂の先に、何があるのかも分からない。だが、それでも少女は一歩を踏み出した。彼女はまっすぐ前方を向き、坂を黙々と上っていった。坂を上るか下るかで、前者を選んだ理由は特になかった。ただ、少女は自分の中の直感に従っただけだった。
 幸いなことに、坂の勾配は緩やかなままだった。歩いているうちに少女は、この森では鳥の鳴き声が聞こえることに気づいた。鳴き声の方向に視線をやってみると、そこには漆のように黒い毛並みを持つ鳥が一羽、枝の上で鳴き続けていた。ただその鳥の鳴き声は奇妙にかすれており、人の心を揺さぶるような愁いを感じさせるものだった。
 気づけば少女は、かなり長い時間山道を歩き続けていた。歩き始めた時は高く中天に昇っていた太陽が、傾きつつあることからもそれがうかがえた。少女は長い道程に、疲労を覚えない訳でもなかったが、それでも休もうとはせずに黙々と歩き続けた。彼女は疲労を、表情の上に出すことが全くなかった。そして、とうとう少女は、山道の頂上まで辿り着いた。
 奇妙な導きに手を引かれ、歩き続けた少女だったが、頂上にあったものは、特別珍しくも、恐ろしくも見えないようなものだった。そこにあったものとは、ちょうど人の背ほどの高さを持つ真っ白な岩だった。その表面はよく磨かれており、とても滑らかなものに思えた。碑銘を刻むのにでも、使われそうな岩だった。しかし実際には、岩の表面はつるつるとした綺麗なもので、人為的な装飾はまだ何も施されていなかった。
 このように、岩は大した特徴を持ってはいない。けれども少女にとって、この岩は何か、特別なものを感じさせる存在だったようである。気づけば少女は、金縛りにでもかかったかのように、岩の前から動けなくなっていた。しかも、それは、少女の心のうちから湧き出でる感情が、少女にそうさせているのだった。理屈を超えた奇妙な力が、少女を岩の前から動かさなかったのである。
 そのうち、分厚い雲が空を覆い始めた。水の匂いが立ち込め、空気は湿り気を帯びてくる。そして、雨がざあざあと降り始めた。
 雨の勢いはそこまで強いものでもなかったが、それでも雨にさめざめと打たれ、少女の衣服はぐっしょりと濡れてしまった。しかし、少女はやはり動こうとしない。時たま目元の水滴を袖で拭うが、結局袖も濡れているのだから、まるで意味はなかった。冷たい水が、少女の体に染み込んでゆき、芯まで濡らしてしまっていた。
 目の前の岩も同様だった。降り注ぐ雨を一身に浴びた岩の表面に、幾筋もの水滴が伝う。それらの水滴は岩の汚れを洗い落としていき、岩の白い光沢はますます混じり気のない、純粋なものへとなっていった。岩はまるで、研ぎ澄まされた氷の刃のような、冷たく鋭い光を放っていた。
 それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。雨脚は徐々に弱まっていき、気づけば雨はやんでいた。分厚い雲は風に吹かれて散り散りとなり、再び姿を現した陽は、哀しい緋色に染まっていた。もう、そろそろ、帰らないといけない、少女は空を見上げながらそう思った。何か、後ろ髪を引かれるような感情を覚えながらも、少女は岩に背を向けた。そして、元来た道を引き返していった。
 行きは随分と長く感じられたが、帰りはあっという間だった。ちょうど日が暮れた頃、少女は山道を下り終えていた。そこには、枯葉のような灰色をした、石造りの鳥居があった。
 鳥居の正面に立った時、少女は直感的にあることを感じた。鳥居の向こうへくぐれば、またあの、転移が起こるだろうということだった。しかし、もう少女はそれに怯えていなかった。少女は、宵闇の広がる鳥居の向こうへと、怯むことなく一歩を踏み出した。
 ――途端に、夢は幕を閉じていった。

 少女がまぶたを開くと、そこには見慣れぬ天井があった。何が起きたか分からず呆然としていると、耳元で声がした。
 「お姉ちゃん……」
 枕から頭を上げ、上体を起こし、声の方に視線をやると、そこにはなんとも不安そうな表情を浮かべた、少女の妹がいた。
 「すごくうなされてたみたいだけど……大丈夫?」
 妹の声色は、微かに震えていた。
 「だ、大丈夫だよ……」
 少女はまぶたを強くこすりながら答えた。寝起き、という感覚はあまりなく、意識はとても明瞭だった。ただ、ひどく気怠かった。心の中にぽっかりと穴が開いてしまったような虚脱感が、少女の体を鉛のように重くしていた。
 けれども、少女は妹の前で、なるべく気丈に振舞った。うなされていた、というのは本当らしかった。妹は、かなり不安げに見えた。少女は、その不安をなんとか払拭してあげようと思ったのだ。
 その甲斐もあったのだろう。しばらく他愛ない話をしていると、妹は少しずつ落ち着きを取り戻してきたようで、いつも通りの無邪気な笑顔を、少女に見せてくれたりもした。そして、のんきなあくびを繰り返したりもした。
 「眠いの?」
 少女が尋ねると、妹は屈託のない笑みを浮かべながら、首をこくんと縦に振った。
 「じゃあ、寝ましょうか」
 そういって二人の姉妹は、体をぴたりと密着させながら、再び分厚い布団の中に潜った。妹の方は、すっかり安心しきったようで、すぐにスヤスヤと寝息を立て始めた。しかし、少女の方は中々寝付けなかった。彼女は、見慣れぬ天井をぼんやりと見つめながら、夜の底にあれこれの想いを馳せていた。
 (私たち、これからどうなっちゃうんだろう)
 実は、今この二人の姉妹の眼前には、一つの大きな問題がぶら下がっていた。それは、姉妹らの母親が入院していることである。母親は一週間ほど前、職場で倒れ病院に運ばれた。医師は、ただの過労であり、重篤なものではない。ただ、念のためしばらくの間入院して、安静にしておいた方がいいと、姉妹らに説明した。母親は医師の薦めを受け入れ、一週間前からずっと入院していた。その間、姉妹の世話をしてくれる者がいなくなるので、現在二人は、叔母の家に引き取られていた。
 (お母さん、よくなってくれるといいなあ……)
 少女はそう思いながら、傍らで眠る妹を見つめた。闇に慣れつつあった視界に、月明かりを浴びて、ほの白く輝く妹の頬が浮かび上がる。妹の頬は、薄氷のように、色味というものを感じさせなかった。
 元々お母さんっ子であった妹は、母親が入院すると知った時ひどく泣いた。そして叔母の家に来てからも些細なことですぐにぐずつき始めた。その度に、彼女をなだめたのは少女である。少女は必死で、母親の代わりの役目を果たそうとしていたし、その努力は報われていた。昨日の昼、叔母から、母親の入院が延長されたことを聞かされた際、妹は案の定ぐずつき始めた。しかし、少女が必死で妹を慰めると、妹は何とか溢れかえろうとする感情を抑えてくれた。その時少女は、心の中でひそかな喜びを覚えた。そしてこれからも、母親が退院するまでは、自分が母親代わりとして妹の為に頑張ろう。そう、決意を固めたのである。
 (頑張ろう、お母さんがいなくても……)
 少女は妹の頭を優しく撫でながら、湧き上がる一抹の寂しさを、月明かりの中に溶かしていった。

悪夢の道程

執筆の狙い

作者 sin
softbank060155199121.bbtec.net

短編です。話らしい話のない話を書きたいと思い書きました。よければご一読ください。

コメント

偏差値45
softbank219182080182.bbtec.net

うーん、残念ながら何処が面白のか、分かりませんでした。
夢オチであっても、がっかりなのですが、読む前から「これは夢です」
と宣言をしているので、正直、しんどいですね。
読書は楽しむ為にあるのであるから、そこはもう少し頑張って欲しい。

気になった点は「彼女」とあったり、「少女」とあったり、ですね。
主語を規則性なく変えているようで拙く思えてしまいます。

>水は一切枯れており、
枯れていること自体、水分がないのですから、おかしな感じがします。
ガソリンがガス欠になってしまった、みたいですからね。

>しかしこのひと時の団欒は、突然として鳴り響いた、けたましい電子音によってかき乱されることとなった。

推敲しているとは思えない。
とはいえ、自分もやらかしてしまうので他人事ではないですけどね。
推敲にもう少し時間をかけても良いのではないでしょうか。

sin
softbank060155199121.bbtec.net

>偏差値45さん
ご感想ありがとうございます。確かに推敲がおざなりになっている節がありました。ただ、一応言っておくと、「突然として」は文法的なミスではありませんし、「水が枯れる」もごく慣用的な表現です。
 

匿名ではありません
124-144-112-119.rev.home.ne.jp

始めの方はやや助長的だった。文体や主語が安定せず不安だった。
全体的に見ても接続語や代名詞に違和感がある。そこが課題だと思う。
物語については特に問題もない。不思議な感覚を味わえて面白かった。

sin
pw126199144148.18.panda-world.ne.jp

>匿名ではありませんさん
 ご感想ありがとうございます。接続語や代名詞、文体など、その辺りは慣れでしょうね。怠けずキリキリと、数をこなしていきたいなと思います。

そうげん
58-190-240-140f1.shg1.eonet.ne.jp

文章を次の文章で受けるときに、接続詞等でつないでいる箇所が連続していると、すこしうるさく感じられました。また夢の中でさまざまなシーンを遍歴する彼女ですが、それぞれの道のりに必要な理由付け――そのシーンが小説の中において、しかるべき機能を果たしているかどうかについて、疑問を覚えるところがありました。シーンがいくつも連続しますが、そのうちのいくつかのシーンについては、大幅にカットすることもできるのではないかと感じたためです。文章を書くために文章を引き延ばしているように感じられました。省略をうまく用いられれば、緊張感の伴う、いい作品に生まれ変わる気がします。

一点。「ひなびた」は、鄙びるの過去形、「田舎じみた」というような意味ですので、別のことばに替えられるほうがいいかと思いました。

以上です。ゆっくり落ち着いて読めました。
では失礼いたします。

sin
softbank060155199121.bbtec.net

>そうげんさん
 ご感想ありがとうございます。作品を書いた際の意図として、緊張感はあまり求めておらず、またシーンの連続もアレゴリー的な意味づけがあったのですが、読み取っていただけなかったようで残念です。もう少し工夫すべきでしょうね。
 また「ひなびた」については意味自体は了承していたのですが、感覚的に使用してしまいました。「彼女は門前雀羅の微笑をした」といった具合でしょうか。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内