作家でごはん!鍛練場
られんか

海の雷鳥

 「なあ真中(まなか)……」
 夕刻を過ぎた保健室。窓から入ってくる夕陽の光をカーテン越しに浴びる先生と私。中学二年生の私は、大きくなった胸を制服のブラウス越しに揉まれながら先生とベッドで戯れている。
 奥塚(おくづか)先生は爽やかなカッコよさで女子生徒をはじめ、学校の女という女、あらゆる女たちから好意を向けられている。幼い頃に、テレビで見た土井先生のようなお人好しで、私はそんな彼が担任をするクラスの生徒だ。
 戯れるなか、視界で一瞬見えた時計の針は十八時十分を指していた。ああ、今日は帰りの時刻を過ぎてしまった。それでも先生の柔らかい手に揉まれる胸はどこかくすぐったくて、子供の頃には決して味わえなかった甘い気持ちに蝕まれている。
 この感覚がずっと続けばいいのに。そう思いながら夕陽を浴びる先生を少し見る。夕陽越しに光がさして、先生が仏様のように見える。まあ、彼がやっていることは犯罪だけど。
「せんせ、キスしよ?」
 私がトロンとした瞳の上目遣いで先生を眺める。すると先生は優しい瞳から己の影を出してニヤリと笑った。
「もちろんだろ? 真中」
 先生に上唇をはまれた私は一瞬体をピクリと動かした。いや、まさか好きな先生に唇を食まれるなんて。そんな簡単に甘噛みして、甘い果実をしゃぶるような感覚で教え子の唇を蹂躙して。
 この先生、いやこの男。優しそうな外見に反して案外プレイボーイなところがあるなあ。
 私はプレイボーイのキスを受け入れながら、先生のシャツを掴んでキスを受け入れた。春の日差しが暖かくて、頭がやられてしまったのか。私は先生の口の中に自分の舌を差し入れて、先生が私にするように蹂躙しようとした。
 だが先生がそれを悟った様子で私の舌と自身の舌を絡ませて、唇からふたりの唾液が一本の糸となりこぼれ落ちる。まるで蜘蛛の糸のようだ。この欲望の糸にしがみついて、私と先生はひたすら快楽の頂点を目指している。
「お前もなかなかやり手だな……」
「先生がうまいだけだよ」
「じゃあ、その上手いキスを受け入れろよ」
 私が受け入れる前に先生は私の唇を舐めて、鼻を甘噛みして、上へ上へと頭の頂点までその口と歯で私の汗を舐め、お互いの額を合わせる。
 すると、私と先生はお互い目を見開いて、一瞬黙り込む。それから私が事態を察すると声を出さないように笑い出す。そうしたら先生もつられたのか笑い出し、私と先生の唇を重ねた。
「ここで今日は終わりだな」
「ええ、そうですね。でも今日は帰りたくないなあ」
 私がベッドの上で座り込む隣で、先生が私の顔を見て笑う。笑った先生はそうしてできたエクボが可愛らしい。アーモンド状の少し吊り上がった大きな瞳は小学校時代、毎日見ていたアニメの先生みたい。
 茶色に近い黒髪は少し痛んでいて、喉仏も少し大きいけど男らしく筋肉のついた腹筋と、大きく張った胸板。それでも服さえ着れば笑った童顔が可愛らしくて、それでいて先生らしい落ち着いた声が私の心を揺らがせる。
 二年C組の私は変な性格と空気を読まない態度でよく相手を怒らせ、授業では目立ち、昼食に誘ってくれる友達一人居ない、いわゆるぼっちだ。生徒会に親戚の瑠月(るつき)はいるけど、彼女はプライドが高いから。私がお昼を誘っても色々言って断ってくる。
 そんな中今年の春、私は関東の私立男子校からやってきた奥塚流(おくづかながれ)という先生に一目惚れした。幼い頃によくみた公共放送のアニメに出てくる先生によく似ていたからだ。
 その上私がお昼を一緒に食べてくれる人を諦めて食堂で弁当を食べれば、先生が隣に座って母さんの作った弁当を褒めてくれる。
 本当は国立の中学を目指していたのに、両親に反対されて私立であるこの学校を受験したという私の愚痴から、可愛い四歳の弟が機関車トーマスを見て「ヘンリー、らいぞーの声だ!」と私に言って笑ったこと。
 色々家で起きたことを話題に出すと、先生は話を聞いてくれて、うんうん頷いてくれて、「わかるよ」と言ってくれる。そんな先生が好きで、私も次第に先生が話す生活の話を聞くようになった。
「最近東京に住む彼女が浮気しているみたいでさ。俺のlineを既読無視してもう何日も経つんだよね」
「校長先生って話が長いよね。十五分の礼拝時間で何分を説教に費やしてるんだよ」
 そんな愚痴をこぼす先生に私も思わず笑って、こう言ってみせた。
「先生ってやっぱり若いですね」
 そう言うと、先生は苦笑いして私に答えた。
「当たり前だろ? まだ三十になってないんだから」
「ですよね」
 そう言って私は何となく言ってしまった。ご飯を食べたあと、ウィンナーを口に運ぶ前に先生の目を見て、はっきりと。
「先生の笑う顔が好きだなあ。東京に住む彼女さんから奪っちゃいたいな」
 そう笑って本音を吐くと、先生が私に顔を向けてくる。赤い顔をして、どこか様子が変だ。周りには私たちを一瞬見る女子生徒が何人かいた。だが私たちはそんなことも気にせず、話しを続ける。
「……俺も、お前の笑う顔が好きだ。一緒にごはんを食うときも、同じ教室にいるときも」
 私の心が一気に湧き上がって、先生の唇にキスしたくなるがそんな衝動を抑えて先生の耳元にささやく。
「……放課後、共用トイレに来てください」
 ああ。と先生が小さくうなずいた。それから放課後、私たちはお互い初めて危険な恋を始める儀式をして今に至る。まあ、お互いの好きなところを言い合ってキスするだけだったけど。
 さて、それから保健室にいる今。私たちは別れのキスをしてさよならを言った。けどまさかこれが最後の恋になるなんて、思いもしなかった。
 実は告白からずっと私たちを監視する女子生徒たちがいて、とうとう音のでないカメラアプリで現場の写真を撮られてしまった。
 奥塚先生はクビになり、私は学校中から「ビッチ真中」と呼ばれるようになった。それでも私は先生とlineをして、その中で聖ビルギッタ学園の柚木という教師のことを知った。どうやら先生の大学時代の友人らしい。
 彼は誘拐事件を起こし、逮捕されたがそれからのことが全くネットで調べても出てこない。被害者の桜野琳音(さくらのりんね)が私の地元である藤峰(ふじみね)にて開業医をしている円(まどか)という男に引き取られたようだが知らないか。
 そんな話をされて、私は困惑した。円医師の息子さんって売春して自分の病気を客に移したとか、大津で起きた強姦傷害事件の被害者だとか色々噂の絶えない人間だからだ。だが、地元にいても私は彼の姿を見たことがない。
「知りません」
 そうテキストメッセージを送ると、それから先生の返信は来なかった。
 これが私の悲しい結末で終わった初恋。それでもきっと誰かに上塗りされて忘れていくのだろう。
「真中ってビッチだよなあ」
 電車で痴漢してきた男に私は車内のトイレで体を触らせ、先生と楽しんだあの頃の快感を感じようとする。だがなかなか感じることができず、結局男から数千円を受け取ってそのまま家に帰る。
「あー、あの野郎……。ニーソに出しやがって……」
 電車を降りると土砂降り大雨。私はそんな雨に自身の穢れもニーソの汚れも綺麗に洗ってもらおうと、汚れを受け取った傘をゴミ箱に捨ててそのままコンビニに向かったのだった。家に帰るための傘を買いに。

 琳音<<りんね>>くん。私の友達、私の勝手に片想いしている相手、私の大事な人。そして、自分も片想いを引きずっている男の子。いや、女装しているから男の娘なのかな……。
 私が琳音くんと初めて出会ったのは十四歳の時、最寄駅に近いコンビニで大量のお惣菜やお菓子を買い込んでいる子がレジに並んでいた。その子がレジの店員と顔を合わせた時、後ろにいる私は彼の赤いレインコート越しに、その顔を見た。
 弧を描く円のように丸い額に少し太く描かれた眉、キッと吊り上がった大きな猫目に光る虚ろな輝き……。長い黒髪がレインコートから伸びている。もう言葉では表現できないほどの美しさと儚さをオーラとして身にまとうその姿に、私は一目惚れした。
 なんて言うんだろう。もう見た目だけで誰からも愛されそうなその姿に、誰も惚れないわけがない。きっと私のような状況になったら、誰でも琳音くんに一目惚れするだろう。
 そんなわけで大雨がザァザァと大きな音を立てているにも関わらず、買ったばかりの傘をさすのも忘れて外へ出た。先に用を済ませて外へ出た琳音くんの後をこっそりつけて、駅に近い公園へ道沿いへと歩いていく。
 緊張感が強かったのか、私はイヤホンを付けて、胸からこみ上げてくる感情の様々をごまかす。人形特撮劇のテーマソングを聴きながら、私は琳音くんの後をこそこそ付けていく。まるでストーカーのように。
 十分ほど歩くと、琳音くんがふと立ち止まる。何が起きたのか分からず、私はじっと彼が自分のもとを振り向くのを待っている。どうしてだろう。音楽を聴いているにもかかわらず、冷や汗は流れるし足も動かない。
 私が緊張したまま立ち尽くしていると、琳音くんが後ろを振り返って大きな声で叫びだす。
「ちょっとそこのお前、なんで俺をつけてるんだ?!」
 『俺』? 待って、そこに立っているのは長い髪の女の子。それもスカートを履いて、赤いレインコートを羽織った可愛い子。琳音くんの放った一人称で、私の脳内はこんがらがった。すると、彼がまた私に何か話しかけてくる。
「俺男なんだけどさ、知らないでついてきた?」
 自分から名乗ったよ、この子。自分が男だって。それでも私は必死に何か話そうと、脳内で言葉を探す。
「あっ、あなたが可愛いからつけてきちゃったの! ごめんなさい」
 そう謝って私が立ち去ろうとすると、琳音くんが私に返してきた。ふたりの距離感はおよそ二十メートルほどだろうか。大きな声で彼は私に手招きしてきた。
「お前びしょ濡れじゃねえか! 公園のトイレで雨宿りしよう」
 赤いレインコートの少年は、私が思うよりも積極的な子で私はその力強さに惹かれ、思わずついて行ってしまった。

「なあお前、びしょ濡れじゃねえか。傘持ってんのに、なんで使わねえんだよ?」
 傘を手に持っていた私に、琳音くんが睨みつけて私に質問してくる。腰に手を当てて、片足を前に出すその姿勢がまるでモデルのようで、本当に綺麗な男の子だと思わされる。
「ねえ、さっき『俺男だけどなんで付けてきた』って言ってたけどさ、あれどういう意味?」
「……たまにつけられるんだよなあ。変なおっさんとか、ヤンキーの兄ちゃんに。そのたびにあいつらは言うんだよ。『可愛い子だねえ』って」
 つまり私は変質者と同じ扱いを受けていた。いや、受けているということか。自分のしたことに恥ずかしくなって、私は思わず顔を赤くして、両手でもじもじしだす。
「お前名前は?」
 琳音くんが近づいてくる。睨みをきかせたその顔も綺麗で品がある。本当にいつまでも眺められていたい。それなのに私はその眼に映る自分が恥ずかしくて顔を潜める。こうして何秒も続く沈黙に、琳音くんもイライラしだしたのか、さらに睨みを強くする。
「……ねえ、やめて。話すから」
「じゃあ話せよ」
「まなか。千代真中<<ちしろまなか>>っていいます……。十四歳です」
 すると琳音くんがレインコートのフード部分から顔を現して、その長い髪をフードの中から出した。その仕草にさえ私は見惚れてしまう。
「…………」
「なにジロジロ見てんだよ。俺は円琳音<<まどかりんね>>」
 こうして私は琳音くんの名前を知って、すっかり舞い上がってしまった。それから琳音くんは私にどこか不思議そうな表情で訪ねてくる。
「真中、お前寒くねえの? ずっと大雨だったのに傘さえささないで……」
「じゃあ脱ぐ? 私、何も拭きものを持ってきてないの」
「……お好きに」
 それから琳音くんは私に話しかけるまでもなく、私をじっと見つめている。その視線から目を背けるように、私は黒いレースのブラジャーが透けているブラウスのボタンに手をかけた。
 だがただ脱ぐだけではつまらない。いたずらっ子の気質のせいか、私は琳音くんの目の前でブラウスを半分だけ脱ぐと、琳音くんに近づいてその手に自身の片胸を当てた。
「ねえ琳音くん。私の胸、どうかしら? Fカップなのよ? クラス一大きいの」
 できるだけ艶かしく言って、琳音くんの気を向けようとする。すると彼は私の胸を無表情で揉みはじめて、その感想を言う。
「うーん。確かに柔らかい」
 でも俺の求めてるのはこう言うことじゃねえんだよな。そう言い放つ琳音くんの冷たい瞳からは、涙がかすかに浮かんでいる。
「どうして泣いてるの?」
 すると琳音くんは俯いて、私の乳を揉む手を止めた。まるでその姿は涙が流れるのを隠そうとしている子供のよう。
「真夏<<まなつ>>だったら……。喜んでお前の胸を揉んでるだろうなって……。そう思うとなんだか悔しくて、悲しくて……」
 あっ、ヤバい。なんだか気まずい雰囲気になってきた。とりあえず真夏というのは男の子? それとも物好きな女の子? 私はそっちの方が気になって、思わずきかずにはいられなかった。
「真夏って……男の子? それとも女の子?」
「男に決まってんだろ。バカ」
「……ごめん。それで、真夏って子は琳音にとってどんな人なの?」
 すると琳音くんは一つ間を置いて、ゆっくりとその正体を話し出す。
「俺が苦しかった時に、心の支えになってくれたやつ。俺に人を愛することを、初めて教えてくれた人。もう最後に会ったのは四年近く前なのに、今でもあいつのこと、恋人だって……」
 とうとう感情が決壊してあふれ泣き出す琳音くん。私は少しでも慰めになればと思って、ブラウスもブラジャーも脱ぎ捨てて生肌で琳音くんの背中に胸を押し当てる。
「……どう、あったかいでしょ?」
「…………」
 琳音くんの胸に両手を回し、私は彼の低い体温に触れた。そして首筋にひっそりと知られないようにキスをする。琳音くんの肌は陶器のように白くて冷たい。そして桃のように柔らかい。
 私の唇はたとえこれからどんな人と口づけをしても、この肌の感触を忘れることは決してないだろう。琳音くんが真夏という恋人を忘れられないように、私も琳音くんの真夏になりたい。そう思わずにはいられなかった。
「……それで、いつまでこの体勢なの?」
「あっ、ああっ! ごめん、つい感極まっちゃって……えへへ」
 私は慌てて琳音くんから離れると、彼がレインコート を脱ぎ捨ててそれを私に渡した。
「ほらお前だって、いつまでもトップレスのままだと恥ずかしいだろ?」
 赤い顔をして、私から目を背けながらレインコートを渡すその様子に、思わず笑みがこぼれる。
「ふふふ」
「何がおかしいんだよ?!」
「いやだって、琳音くんも赤い顔して目を背けるんだなって思うとさあ、男の子なんだなって」
「だからなんだよ! ……まあ、面白いやつだとは思うけどな、お前のこと」
 『面白いやつ』……。初対面にしてはまあまあの評価ではないかな。私はそう思って笑い出す。それにつられてか、琳音くんも唇に手を当てて静かに笑い出した。
「ふふふ。こんなに面白いのに遭遇したの、久しぶり」
 さっきまで泣いていた琳音くんが嘘のよう。少し瞳を細めて笑うその姿に、私は思わず胸が高なった。美しい宝物を壊さないように、これから彼と仲を深めて真夏のようになろう。そう思わずにはいられないのだった。

「なあお前、今日はその姿で家に帰んの?」
 琳音くんが、赤いレインコートを羽織った私に話しかけてきた。私はすでに母親に「歩いて帰るから」とスマホで連絡は取ったが、やはりよく濡れた制服で自宅に帰るのはまずいだろうな。
 そう思って回答に困っている私に、琳音くんはまた縹渺とした顔で聞いてくる。彼は蓋の閉まった便器の上に座って、足を組んでいる。
 その青いワンピースから伸びた細い脚が羨ましいと私は心の底から思う。
 なぜなら私は胸が大きくてよく最寄駅に降りると、中学生なのに高校生からナンパされるからだ。……胸が制服のブラウスからはちきれんとばかりに目立つからだ。彼らは私にいやらしいニタリ顔を向けて、こう言い出す。
「胸がエロいねえ……俺と遊ばない?」
 その割には尻はいわゆる安産型で、太ももも太くて憧れのスキニージーンズも、ミニスカートを履くこともできない。まあ、制服のスカートは短くしてニーソ履きなんだけども! 
 そのせいか、スッキリした脚をした琳音くんが羨ましくてたまらなかった。葦のように細いその脚は、少し力を入れて逆方向に力を入れただけで折れそうだ。
 女子はきっと、太ももにもあまり肉や脂肪の溜まっていない琳音くんの脚に憧れるだろうし、男子もきっとそうなのかもしれない。それでも私は、自分の脚に自信を持った様子の琳音くん自身にも憧れるのだが……。
「そういえば琳音くんってどこに家があるの?」
 私が何気なく聞くと、琳音くんは眉を潜めて私に少し睨みつける。その瞳の向ける視線がどこか重くて、辛く感じる。
「あー……、駅前の産婦人科」
「ああ! まどか産婦人科……。だから円(まどか)さんなのね!」
「駅前だけど、来てみる?」
「なんだかさっきとは違って、割と積極的になったわね」
 すると琳音くんは少し口角を上げて、眉も下げて落ち着いた様子で私に答える。
「だって服を乾かさないと、お前が風邪ひいちゃうじゃん」
「じゃあ、服が乾くまでお世話になろうかな……」
 私はレインコートを脱ぎ捨てて、そのまま濡れたブラウスを絞って水気を極力省こうとした。だが水をかなり吸ったブラウスは重く、なかなか上手く絞れない。
 するとそれを見ていた琳音くんが私のブラウスを奪うように手に取ると、その細い腕からは到底出せると思えないほどの力でブラウスを絞り、そのブラウスからは大量の水が落ちてくる。まるで滝のようだ。
「やっぱり琳音くんも男の子なんだねえ」
 私が感心して言うと、琳音くんは少し嬉しいのか、私に笑いかけて答えた。
「だろ? これでもむかし、握力は強い方だったんだ」
 だがそれでもブラウスは濡れたまま。私はブラジャーをつけて水気の残ったブラウスを羽織ると、琳音くんに赤いレインコートを畳んで渡した。
「これが無いと琳音くん、お家に帰れないでしょ?」
「あ、ああ……」
 琳音くんの顔にはどこか寂しそうな感情が、普段から鈍感な私でも読み取れるほど滲み出ていた。うつむいて、琳音くんの長い髪が私が表情を見るのを拒絶しようとしても、私は琳音くんの顔に触れて微笑みかけた。
「冷たっ」
「琳音くん、家に連れてって」
「……分かった」
 そのまま私は琳音くんの家に連れて行かれることにしたのだった。さて、家に向かう道中、琳音くんとはこんな話をしていた。
「ねえ、琳音くんは何が好きなの?」
「何って……なんだよ?」
「例えば趣味とか、好きなアイドルとか、好きな食べ物とか!」
 私は琳音くんの考え込む表情を隣でじっと見つめている。眉を潜めて、瞳をつぶってまで考えこむその本気さに、私への態度の真摯さというものを感じとった。
「まあ、好きなもの……。今の中学生が知らないとは思うんだけどさ、サンダーバードって特撮があって、好きなんだよなあ……」
「イギリスで作られたやつ? 確かお金持ちのアメリカ人が、世界中の危機に瀕する人たちを助けるってやつだったよね。あれ小さい頃好きだったなあ……」
 するた琳音くんが明るい表情をして、私に少し切羽詰まったような様子で色々なことを尋ねてくる。さっきの冷静な姿とは違って、まるで趣味の合う同志を見つけたオタクのようだ。
「じゃあジェリー・アンダーソンって知ってる? ペネロープの声がその奥さんだったことも。モグラジェット機が日本映画の機械を基に作られたことも」
「ちょ、ちょっと琳音くん……。落ち着いて。私は小さい頃の再放送でしかサンダーバード を見てないの。でもテーマソングは好きだよ」
「ちゃんとバリー・グレイの作ったクラシックみたいなの? 日本語版の歌詞付きのものはやめてくれよ」
「バリー・グレイのやつ。軍歌みたいでどこかカッコいいよねえ」
「ああ。サンダーバードみたいな人形劇、他にないかなあ……」
 琳音くんが俯くと、私は少し前にテレビで日本語版を放送していたリブート版のことを思い出して、琳音くんに聞いてみた。
「ねえ、『サンダーバード・アー・ゴー』って3Dアニメみたいなの、知ってる?」
 すると琳音くんが目を丸くして、それからすぐガッカリした様子で私にリブート版のサンダーバードを嫌う理由を答えた。
「アレって実質的に3Dアニメじゃん。現代の技術でいかにもリアルっぽく見せようとしてもさあ……。それにジェフが、司令塔が行方不明なんだぜ? 十代くらいの子供が宇宙や地球の危険な出来事を解決する、ってのも納得いかない」
「じゃあ琳音くんは日本のアニメより、海外ドラマの方が好きなのね」
「……かもな」
 すると目の前にはまどか産婦人科の少し大きな建物がそびえ立っていた。その裏口には鍵がかかっているが、琳音くんはその鍵を開けて中へ入る。
「真中、早く入れ!」
「は、はあい!」
 広い庭には日本庭園があり、池の中では鯉と思われる魚が何匹も泳いでいる。手入れされた桜の木はすっかり葉桜になっており、夏の始まりを告げていた。
 瞬間的に私が見たのはこれだけ。どうやら円先生はかなり稼いでいるらしい。私はその中にこれから入っていくわけだけど、これからどうなるか。
 不安になりながらも、琳音くんの住む家の中へ入り込むのだった。
「おじゃましまあす……」


「おじゃましまあす……」
 見知らぬ人の家に無断侵入するかのような申し訳なさを覚えながら、私はこっそりと琳音くんの家に入っていく。少し古い建物の匂いが玄関に入ってから、鼻腔に入り込んでどこか懐かしい気持ちにさせられる。
「ほら、何ノロノロやってんだよ。早くしろよ」
 先に靴を脱いで上がっていた琳音くんは私を見下ろして、少し眉を潜めて睨み付ける。私はその視線にどこか恐怖を覚えつつも、若干の愛らしさを覚えていた。
「ニヤニヤしないでくれよ」
 どこか引いたような表情が可愛らしい。さっきまで綺麗なガラス細工のような表情をしていたのに、今ではアイドルのような表情を琳音くんはしている。
 きっとアイドルに夢中になって、彼女たちとの恋愛や結婚を妄想するアイドルファンはこんな気持ちなのだろうな。そんなふうに思いながらも、そのアイドルにもガラス細工にも変化してしまう琳音くんの顔に思わず見惚れる。
「ご、ごめん……」
 靴を脱ぎ終えた私は反省してうつむく。好きな人にまた気持ち悪がられてしまった。その事実にまたショックを覚えて、思わず悲しい気持ちになる。好きな相手に気持ち悪がられることへの悲しみ。それがどんなに辛いことか。
 私は思わず何かがこみ上げて、気がついたら目に浮かぶ涙を流していた。
「いっ……、ひっ……」
 すると琳音くんが慌てたのか、私の背中をさすって涙声で謝りだした。濃い紫を少し含んだ髪色をした長い髪から、桃のような桃花の匂いがする。
「ごめんよ……。したくないことをしちまったよ。ああ……」
 ふたりで泣き出して訳がわからない状況に陥っていると、家の奥にある玄関と思しき部屋から女性が姿を現してきた。視界が歪んで分かりにくいけど、黒髪を後ろに結って琳音くんを抱きしめた。
「どうしたの、琳音……?」
 すると琳音くんは女性をドンと押して、私を抱きしめて謝り続けた。
「真中、俺の顔を見てくれ。お前を悲しませて、俺も悲しくなっちまったよ……。真夏ならこんなことはしなかったのに……」
 真夏。まなつ。マナツ。琳音くんの思想の根底には、真夏という恋人が根底にある。私はこの根底になり代われるようになろうと決意した。そのはずなのに、そのはずなのに……。
 私は琳音くんを泣かせ、気持ち悪がらせ……。最悪だ。その様子を苦そうに見ている女性はその横で、私たちを眺めている。だが数分泣き合うと、女性は私の肩を叩いて聞いてきた。
「あなたは誰?」
「……へ? えっと……、琳音くんに誘われてこの家に来た友達です……」
「まあ、まだコンビニで会ったばかりだけどな……」
 少し涙を拭いて女性を見る琳音くんは彼女を睨みつけて、私の手を繋ぐ。薄暗い家からは相変わらず木の匂いがする。
「真中、もういいよ。行こうぜ」
「うん。琳音くん……」
 私は琳音くんに連れられるがまま二階に行く。
 二階に行くあいだ、私は琳音くんの部屋がどんなところか気になっていた。ワンピースの袖から覗く包帯には生々しい赤黒い地の跡が残っている。もしかして汚い部屋なのか……? そんなふうに邪推していると、琳音くんの声が聞こえて目の前には木製の立派な入口がそびえていた。
「真中、着いたぞ」
「……えっ、ここが琳音くんのお部屋……?」
「ああ。早く行こうぜ」
 琳音くんが金で縁取られた龍が付いたドアノブを手にする。そこから琳音くんが少し考え込むように時間を置く。その時間が去っていく間、私は色々考えては邪推する。
 ドアが開けられる。すこし開かれると、中には大きな窓から雲の灰色をした光が入って、薄暗い。部屋の片隅にはノートパソコンを置いた机と椅子があり、パソコンについたカメラには薄い布が被せられている。
 壁紙のすぐ隣には大きなベッドがあり、ふたりでも寝られそうだ。そこには向かい合うように大きなテレビとDVDプレーヤーがひっそりと置かれていた。
「ここでサンダーバードを見るんだ」
 そういうと琳音くんは泣き上がりの笑顔で私に普段していることを紹介しながら、ベッドに座った。フワフワで横になったら五秒で眠ってしまいそうなほど気持ちよさそうだ。
 でも、こんなベッドで好きな人と一緒に……好きなものを見る……好きな人が普段眠るベッドの上で……。そう考えると、胸が高鳴って、心臓部分に触れていなくても自分の興奮が嫌なほど伝わってくる。
 私がもじもじしていると、その間に琳音くんが私のためか、女の子の服を用意してくれた。やはり白いワンピースで、どこか懐かしい匂いがしてくる。
「これは……。俺が真夏のそばにいた頃に着ていた服なんだ。女の子は久しぶりだから着せてみたくなっちゃった」
 苦笑いしながら琳音くんが私に服と、新品の下着を渡しながら言ってきた。私は真夏がいたころ並みに小さかったのか……。そうしみじみと思いながら、私は琳音くんの言われるがまま服を着た。
 琳音くんの目の前でブラウスのボタンを外しかける私だけど、琳音くんは顔を赤らめることなく私が服を脱ぐ様を見ている。
「ちょっ、恥ずかしいんだけど……」
「おお、さっきのお前にはそんな羞恥心なんか無かったのに。分かったよ、後ろを向くよ」
 琳音くんが後ろを向く間、私は急いで服を着替える。ブラジャーを外して、少し生地の厚いワンピースを着る。裾が大きく広がるワンピースで、小さなフリルが何段にも渡ってついている。
「ちょっと子供っぽいな……」
 そう独り言を言うと、琳音くんが私の方を向いて睨みつけて言う。
「いやなら脱いでもいいぞ」
 だが、その怒りにさっき家に入ってきたときのような重い怒りは入っていないように思われた。私は思わずクスッと笑ってワンピースの裾をゆっくり上げていく。
「じゃあ、脱ごっかな」
 大人を翻弄する悪戯っ子のノリで服を脱ごうとすると、琳音くんは顔を真っ赤にして「やめてくれ」と私に頼み込んだ。初めて私が勝利した瞬間だった。
「嘘よ。冗談冗談」
 そう言って私は琳音くんの隣に座る。やはり外見のようにフワフワしたベッドは横になると、眠気を誘ってきそうな感じで少し怖い。
「サンダーバードさあ、何話目みる?」
 子供のように嬉しそうな顔をした琳音くんを見るのが嬉しくて、私も思わず笑顔になってくる。せっかく琳音くんから誘ってきてくれるのだから、私も頼めるなら頼まないとな。
「やっぱり一話目。サンダーバード二号の力を借りて胴体着陸するやつ!」
「やっぱりそうか。あれはジェリー・アンダーソンが実際に見た話を基にしてるんだってよ」
「おお、マジか!」
 サンダーバードの第一話は、東京からロンドンまで一時間で着くのが速い原子力飛行機が中に仕掛けられた爆弾をなかなか取り除けない中、家族で運営している国際救助隊の力を借りて、サンダーバード二号とともに胴体着陸する話だ。
 二号の中には色々な機械が入っていて、実にカッコいい。幼いころに再放送を見ていた私は懐かしさと機械についたリアルな埃を思い出して興奮する。
「やっぱりイギリス……。トーマスを作り上げただけあるわね」
「だな。そんなトーマスの監督もサンダーバードで仕事をしていたんだぜ?」
 ああ、だからサンダーバードも機関車トーマスもあんなにリアルだったのか。私は納得して、第一話が始まるのを好きな人の隣でじっと眺めるのだった。

『ファイブ・フォー・スリー・トゥー・ワン』
 国際救助隊の司令塔、ジェフ役の声優が規則的にカウントダウンをする間、テレビの音響機器からはデーンという効果音が流れる。サンダーバードがとうとう始まった。
 それぞれ『サンダーバード』という名前に数字の付けられた乗り物が、カウントダウンされる数字ごとに現れるが、それにしても使い古された感じのする埃具合がたまらない。
「ねえねえ琳音くん。レトロな感じがしてカッコいいね」
 私が興奮した面持ちで琳音くんの横顔を見る。やはり弧を描くように丸い額に、綺麗なおでこにキッと吊り上がった大きな猫目にはサンダーバードの映像が映し出されている。私ではないのだ。
 外国の特撮劇に心を奪われている片想い相手。瞳に映って欲しいのは私だ。そんなふうに思ったのか、琳音くんの手元にあったリモコンの一時停止ボタンを押す。
「ねえ、どうして私の話を聞いてくれないの?」
 すると琳音くんはハッとして、私の方を振り向いて睨みつけた。それと同時に彼はリモコンを私から奪い取って、私がそうした理由を聞いた。
「逆にお前に聞くよ。なんで停止ボタンを押したんだよ?」
 琳音くんの睨みに私は弱い。そのことを琳音くんは知っている。さっきトイレで私が体を震わせながら「睨むのをやめて」と、弱々しい声で懇願したからだ。まあ、それでも私は琳音くんの睨みも、笑顔も大好きだけれども。
「だって、サンダーバードの機械にばかり目をやられてさ……。私の話なんて全然聞いてくれないじゃない」
 すると琳音くんは少し驚いた様子で、私の手を包んで謝罪した。
「お前、俺に話しかけてたのか。それは悪いことをしたな。すまねえ」
「まあいいけど……」
 琳音くんは申し訳なかったと眉を下げ、口元も下げて申し訳なさそうな顔をする。そしていつも私に向けていた怒りや睨みの表情が少し和らいで、どこか優しくなった。
「サンダーバードって、本当に古い特撮だからさ。こんな田舎に『サンダーバードを好きだ』って言ってくれる奴を見たこともなかったから。俺、趣味の合う友人ができたような気がして嬉しかったんだ」
「だから私を家に上げてくれたんだね」
 すると琳音くんは頬を少し赤くして、私の視線から目を逸らして少し話すのを躊躇う。しかし、そこには確かに心の底から友人ができたことを喜ぶ琳音くんがいた。
「ま、まあ……。まさか女の子だったとは思わなかったけどな……」
「私も最初、琳音くんのことを女の子だと思ってたし、同じようなもんじゃない?」
「……かもな」
 プッと思わず吹き出して、笑い出してしまう。お互い、「出会うだろう」と思っていた友人は想像と全く違っていて、好きなものも年齢とはほど遠いほど古い。だが、『好き』の方向性は少し違っていた。
 琳音くんはサンダーバードに出てくる機械や乗り物の造形やカッコ良さ、スタッフたちの裏話などを好んで話す。一方の私はリブート版も楽しむ、機械よりも劇中の音楽が好きなオタク。
 それでも、好きなものは一つなのでお互いの好きなところを話し合う時に方向性で喧嘩することもない。
「なあ真中、そろそろサンダーバードに戻ろうぜ。俺、字幕版で見るのが好きなんだ」
「えっ、じゃあ字幕版で再生してるの?」
「ああ。登場人物たちの舌や唇が生の英語を話しているかのように動くからな。その姿を俺は見たいんだ」
 琳音くんの瞳は虚ろに光っている。だけど、どこか希望にも満ちている。琳音くんのカーディガンの袖からチラチラ見える包帯は赤黒い血の跡で汚れ、手のひらにも小さなためらい傷ができている。
 彼はいわゆる『メンヘラ』で、今は金曜日の午後四時半なのに家で出会ったばかりの友人(私)と好きな特撮劇を見ている。おそらく不登校なのだろう。
 病んでいる琳音くんを守っていたのが真夏という琳音くんの恋人で、私はその恋人に成り代わろうとしている。それが一体どんなに大きいことか。サンダーバードという古い特撮劇がそれを教えてくれた。
 私がその事実に気付いて衝撃のあまり、暗くなっているところを琳音くんは明るい顔で背中を叩いてくる。
「再生するぞ。いいか?」
「い、いいよ……。いつでも……」
 私は何とか正気を保ちながら、テレビ画面を見る。するとそこには確かに、英語を話す口調で唇が動く人形たちが劇を演じていた。
「……ねえ、これってどういう仕組みなの?」
「確かあらかじめ台詞を声優たちに演技させておくんだ。それを収録したテープが電磁波で、人形の中に組み込まれた装置に伝わる。それで唇が動くんだよなあ」
「……へえ、時代が時代だけに、かなりリアルに作ろうと頑張ってたんだね。ジェリー・アンダーソンって人は」
 私が相槌を打つと、琳音くんはその手を胸に当てて、瞳を瞑って悟りを開いたかのように語り出す。それでも私が気になるのは、その手から腕へ繋がる手首だ。琳音くんは一体どうして、自分の手首を切るほどの苦しみを味わっているのだろう。
 普段ならメンヘラを「可哀想」と思うことはない私だけど、この時ばかりはどうしても琳音くんのことが心配で、琳音くんの手を取った。
「……なっ、お前」
「琳音くん。吐きたいことがあったら私に言ってね」
「もしかしてお前、俺の手首をずっと見てたのか……?」
「うん。手元のリモコンを取ろうとした時からずっと」
「…………」
 琳音くんの手が固まり、表情も凍ったかのように固まる。やがてその手は震えだし、琳音くんは私から自身の手を奪い返すとそのまま自分の胸に手を当てた。
 顔をうつむかせて、自分の表情を悟られまいとするその態度に、私は思わず悲しくなった。まだ出会ったばかりだけど、友人なのだ。そんな友人にさえ話せない過去があるの……? 私はその思いで胸がいっぱいになり、琳音くんの顔を見ようと、その長い髪を彼の耳にかけた。
 すると琳音くんはすがるものを失った狼のように泣いていて、大きな涙の粒をその両眼にためて涙をこぼし続けている。部屋が薄暗いせいでもあるが、赤みのないその白い頬が琳音くんを人形のようにも見せていた。
『涙を流す人形。精巧な作りをしたそれは、生きて人生に絶望した人間のようだ』
 そんな文章さえ書けてしまいそうなほど生気を失った琳音くんの背中を私はさする。それくらいしかできなかった。
「……ねえ」
「……なに」
「はじめてお前と出会った時も、こうして泣いてたよな。俺って……。ここに来て三年は経つけど、俺ってお前の友達でいいんだよなあ……?」
「そうに決まってるじゃないの! 琳音くんは確かに泣きべそかいて、真夏のことばかり言ってた。でも私はそんな琳音くんが好きなの! サンダーバードだって私、好きだし琳音くんと趣味も合うと思う。だから付いてきたの!」
 琳音くんは私のこと、友達だと思ってたの? とうとう私も涙が止まらなくなって、何を話しだしたか自分でも分からなくなっていた。
「琳音くんが友達だって思ってくれた。そう思って嬉しかったけど……。人との距離感ってどう掴めばいいか難しいね……!」
 私は自身の思いを吐き出すと、とうとう琳音くんを抱きしめてお互い声を上げて泣き出してしまった。さっき玄関で泣いたように。もうなんだろう。自分でも分からないほど、今日はよく泣いている。
「琳音くんはサンダーバードの人形じゃないんだよ。上から糸を垂らされてないの。立派に動ける人間なんだから、自由に生きて……」
「真中ぁ……」
 それから琳音くんは涙を拭って、私に自身の過去を少しずつ吐き出した。サンダーバードが進行しながら聞く物語は、実に歪な形をしていて私にはいまいち理解できなかった。
「俺、太陽を浴びることができないんだ。インデル症候群って、分かる?」
「う、うん……。患者さんのことを『レッテ』って呼ぶんだっけ?」
「そう、レッテ。その中でも『インガ』って呼ばれる奴らがいてさ」
 インガ。Inga。スウェーデン語で否定するニュアンスをさらに強調する言葉だ。日本語では「~ない」とも言うそうだ。
「数年前、社会問題になってたよね……。レッテの施設で選別されて、戸籍さえもらえなかった人たちだよね」
「ああ。俺も最初はレッテだったんだけどな……。父親が俺を戸籍登録しなかったから。それでこそこそ隠れて、昼はマンションの暗い部屋で過ごしてたんだ」
「レッテなら割とありそうな光景じゃない?」
「まあ、ここからが大事な話なんだ。父親がベビーシッターを連れてきて、そいつが俺の願いを叶えてくれた。『外に出たい』って言ったらレインコートと日傘を用意して、外へ出してくれた」
「優しい人だね」
「ああ……。でも外に出ると、周りの目が冷たくてよお……。『レッテはあっち行け』って。そう言われたこともあったな」
「…………」
「で、世間の厳しさを知ったわけだが、それからすぐ父が目の前で殺されて、俺も左眼をえぐられた」
「なにそれ、ひどくない?」
「みんなそう言うよ。それから引き取られた施設ではスカリフィケーションって皮膚をメスで切られて、数字の羅列がされたケロイドが首筋に。義眼にも微妙に瞳の色と違うものをあてがわれてさあ……」
 そこから肩を震わせて、琳音くんはまた泣き出した。今度は声を上げて、「いや」「やめて」とわめきながら私の横で震えている。
「琳音くん、真中だよ。私。施設の人じゃないから」
「真中……? ああ、さっき会ったばかりの……」
 琳音くんに私の顔をよく見せて、私は彼に教科書の入ったリュックサックに入れていた飴を一つ、差し出した。
「はい。佐久間ドロップみたいでしょ!」
「……俺、これ食えるかなあ……? 病気のせいで食えないものがあるし」
「大丈夫。これ、レッテでも食べられるから」
「そう……」
 一言いって、琳音くんは飴を口にしてそれを舌で転がしはじめた。その飴はとても美味しかったようで、琳音くんの涙も次第に止んで口の中で飴を転がし続ける。
「真中、話を聞いてくれてありがとうな」
「いえいえ! 元は私が原因だし」
「そう言うなよ。……あっ、サンダーバードがいつの間にか終わってる」
 終盤のエンドロールを私たちは眺めながら、お互いのしたことを反省し合う。
「結局、きちんと見れなかったね」
「ああ。もう一回みようか」
「うん!」
 それから私たちはサンダーバードの同じ回をもう一度見るために、リスタートボタンを押してその始まりをじっと見守る。
 隣の琳音くんはさっきの笑顔とはまた違った笑顔でテレビ画面を見つめている。虚な瞳ではあったが、希望の他に優しさも込められた瞳で琳音くんが見つめるサンダーバード。もう一度見ることになるとはいえ楽しかったし、お互いを知ることができた上での再視聴だったから尚更、古い特撮劇を子供らしい瞳で見つめる友人の姿を見ることができて私は多幸感に満ちていた。
「真中、なに笑ってんだ?」
「ううん、なんでもない」
「ふうん。変なやつ」
 琳音くんがどんなことを言っても、琳音くんが笑って隣にいる。それだけで私は笑みをこぼしてしまうのだった。
 *
「…………」
 私が目を覚ますと雨の明けた空は茜色に染まり、さっきまで薄暗かった部屋をオレンジ色に染めていた。
 隣では琳音くんが私の腕に抱きつきながら眠っている。サンダーバードもDVDでの試聴時間を超えてすっかりテレビの画面が真っ暗だ。
 そういえばさっき、琳音くんに寄ってきて押しのけられていたあの女性<ひと>、どんな立ち位置の人なんだろう。まどか産婦人科には何度かお世話になったことがあったが、あの女性の姿を見たことは一度もない。
「そういえばあの人、美人だったなあ……」
 私が何気なく独り言をつぶやくと、琳音くんが寝起きの声で私に話しかけてきた。彼は自分の体を起こすと背中まであるその髪をかき上げてゴムで結った。サラサラな髪が一本一本、エアコンの風に揺れて靡いているのがどこか性的な感情を昂らせる。
「なあ真中、誰が美人だって?」
「ああ、さっき琳音くんが玄関で泣いてたときに、琳音くんを心配してやってきた人」
 すると琳音くんは眉を潜め、頭を抱えながらあーと少し小さめの声で叫びだす。さっき琳音くんが押しのけていたのをみると、仲はそんなに良くないみたいだけど……。
「あいつは俺を引き取った夫婦の片割れ。妻の方だよ」
 彼女のことを教えるのさえ吐き気がする。そんな空気感を醸し出しながら、琳音くんは私の肩を叩く。私が隣に座る琳音くんの顔を見ると、どこか疲れたような顔をして、目を細めて微笑んでいる。なんて言うんだろう。ジト目で見られているようだ。
「……どんな理由かは知らねえけどさあ、俺、関西出身なんだ。事件が起きてから夫婦に引き取られたんだよなあ。でも、あの夫婦のことを信じたことは一度もない」
「えー、どうして?」
「さっき義眼の話をしただろ? どうやらその義眼に、俺の本当の父ちゃんが隠した財産の隠し場所が示されてんだとよ」
「でも、円<まどか>先生は稼いでそうじゃない?」
 すると琳音くんはどこか考え込んだ様子で、口元に手を当ててそれから沈黙しだす。片腕を組んで考えるその様は、まるでどこかの名探偵のようだ。
「……じゃあなんであの夫婦は俺を引き取ったんだろうな」
「さあ。でも今は理由を考えるよりも前へ進むことが大事だと思うよ」
 私がさっき琳音くんにされたように、微笑んで彼の肩を叩いてみせる。すると琳音くんは大きな猫目を細めて私に笑いかけた。
「さっきの俺の真似か?」
「うん。今の琳音くん楽しそうだし」
「楽しそうか。おおそうか、ならよかった。お前にそう見られて嬉しいぜ」
「で、本音は?」
「もう夕方だよな。帰っちまうのか?」
 私がスマホの電源を入れて、時刻を確認する。十八時十五分。そろそろ日も沈むし、家族も心配するだろう。
「うん。もう帰らないと。服は洗って返すね」
 私が帰りの準備をしようと乾かしてあった制服や靴下を片付けようとベッドから降りる。その途端、琳音くんの細い腕が私の片腕を押さえてきた。
「帰らないでくれよ……。毎日夜が来るたびに怖くて仕方ないんだ」
 琳音くんがうつむいていたその顔を私に見せつけてくる。その顔にはこれから夜が訪れることへの不安や恐れ、悲壮感などが混ざり込んだような顔をしていた。
「じゃあ、私の家に泊まる?」
 何気なくそう聞くと、琳音くんは少しうつむいて私に聞き返す。
「……いいのか?」
「家族に聞かないと分からないけど。とりあえず電話してみるわ」
 だから待ってて。私がそう言うと琳音くんはベッドの上であぐらをかいて、結果をただひたすら待っている。私は好きな人とお泊まりできるかもしれない。そう思って家族に電話をかけた。
「もしもし、母さん?」
 電話に出たのは母親の理香子だった。母はどこか落ち着いた様子で、私の話を聞いてくれる。
「さっき円先生の息子さんと知り合ったんだけど、私の家に泊まりたいって。いいかな?」
『急にそんなこと言われても、ダメに決まってるでしょ』
「えー! ケチ。でもすぐ家に帰るから、待っててね」
『あいよー! じゃ』
 私が電話を切ると、噛み付くような勢いで琳音くんが私に聞いてくる。
「どうだった?」
「やっぱりダメだった……」
「そう……」
 ふたりともそれぞれ別の意味で落ち込む。だが私は妙案を思いついた。
「琳音くん、lineもってる?」
 すると琳音くんも頭の上の電球が光ったようで、すぐにハッとして急いで自身のスマホを探し出してlineのアプリを起動させる。
「私の電話番号は070の……」
 出てきた? 琳音くんに確認をとると、彼はどこか安堵した様子で涙目になり、私にさっきのように微笑みかける。
「出てきた……『まなか』で合ってるよな?」
 すると私のスマホがピコンと鳴り、琳音くんの本名そのままのユーザー名が出てくる。
「メッセージ送るよお!」
 私がそう言うと、「こんにちは」とだけメッセージを書いて送る。すると、すぐに琳音くんのスマホからもピコンと音が鳴り、お互いメッセージを確認する。
「こんにちは……、これお前が送ったの?」
「そうだよお」
 やっと琳音くんはほっと一息胸を撫で下ろして、疲れた顔で私に微笑みかける。だがその微笑みは心からの安堵と感謝の意図が含まれていたように、私は思える。
「琳音くん、何かあったらlineにメッセージを送ってね。私が駆けつけるから」
「うん……」
 新しい友人が追加されたばかりのlineの画面をじいっと、どこか誇らしげに見つめている。そんな彼の一方で、私は乾ききったとはいえない制服をリュックサックに入れて、帰りの準備をする。
「じゃあ、帰るね」
「うん。じゃあまたな」
 私は後ろを振り返って琳音くんの様子を見る。少し寂しそうにした彼は、笑いながら私に手を振っている。
 果たして大丈夫だろうか。私は不安になりながらも、派手なドアノブを回して家に帰ったのだった。

 平成の大合併の時、藤峰町だった時に町内唯一の中学校で合併後の市名を考える会が催された。候補は『米里市』と『峯里市』の二つ。このどちらにするかでとあるクラスは拮抗していた。すると、とある生徒が提案したのだ。
「この藤峰町には先代の町長、峯浦正治(みねうらしょうじ)が工場を誘致して大手企業やインデル症候群の患者たちと初めて和解した功績がある。その名字である峯浦から市名を取ったらどうですか?」
 確かに、峯浦が町長として君臨していた二十五年は、国内の大手企業を誘致するのに成功したり、当時社会的に差別された上に閉鎖的な社会を作り出していたインデル症候群の患者たち--通称レッテ--との和解に全国で初めて成功した時代だった。
 現在でも住民の一部はレッテたちに差別的な視線を向けるが、レッテや彼らの一部であるインガは狭い町内で普通に生活し、普通の子供たちと同じ学校に通う子供たちもたくさんいる。
 峯浦は彼らに手を差し伸べて、一般人から差別心を無くそうとした町長として、レッテをはじめ、工場誘致もあり、地元住民の間でも尊敬されていた。
 そのことを知っていた当時の中学生たちは「いいね」とばかりにその命名案に賛成し、国内では珍しく人名の付いた『峯浦市』という、県内で一番大きな市が誕生した。
 そのひ孫である峯浦瑠月(みねうらるつき)が自宅に来ていた。町長を辞めた後の峯浦は新幹線の走る駅のある街に餅屋を開いた。
 その餅屋の経営を任されたのは関西から、東北大学の農学部でイトミミズについて研究していた大森浩(おおもりひろし)だった。彼は婿入りして峯浦の孫娘、早月(さつき)との間にふたりの女の子が生まれた。その内の妹が瑠月、ポーランド語で『人間』を意味する単語から由来した名前だが、姉のひづるは普通に女優の高千穂(たかちほ)ひづるからそのまま取られている。正治がその女優のファンだったのだ。
 さて、こうして浩が峯浦家に婿入りしてから娘二人が生まれたわけだが、浩と彼女たちはどうしてか十五歳までには髪の毛が頭から毛先まで白くなっていた。
 この奇怪な現象は浩の、若くして亡くなった母までに渡るわけだが浩は自身の母を知らない。浩を産んで、母の秀子は電車に飛びこんで亡くなったからだ。
 そういう理由で、峯浦家の一族は浩たちの髪について触れてはいけない、という暗黙のルールさえできている。私は千代真中(ちしろまなか)だけど、亡くなった曽祖父が峯浦家と縁類関係にあったという理由で今も交流が続いている。
 震災で田んぼが使えなくなった父は峯浦家の土地を借りて稲作を行い、私は浩おじさんに頼まれて上杉学院に中学受験をして入った。どうやら瑠月には友達がいなかったようで、その仲間として当時地元の小学校でいじめられていた私が選ばれたのだ。
 そのせいか、瑠月は新幹線で通学しているのに私は在来線で、朝六時半の電車に乗って通学している。せめて毎朝行われる礼拝には間に合うようにしないといけない。一時間ほど電車に揺られてから、さらにバスに乗って三十分は経たないと学校に着かないからだ。
 そんなお嬢様、瑠月が自宅に着くと私を見てぶっきらぼうに「おかえり」と言ってきた。彼女は強い。
 瑠月は白髪に染まっていく髪を入学当時にからかわれても、自身のスピーチ力と貴族的風格で周囲を圧倒し、生徒会長にまで上り詰めた。これには、まあ、姉のひづるが先に生徒会長をしていた縁で、姉妹揃って生徒会長を務めているのだが。
「生徒会長様がなんで障害者の家にいるの?」
「あんたが発達障害を持っていたって関係ないでしょ。私は父さんも母さんも、結婚二十五年目を記念した旅行で不在なの。よって三日間、あんたの家にお世話になるから。よろしく、真中」
 障害のある無しは人と接する上では関係ない。親戚なら尚更、その仮説の強さが強調される。瑠月は私の障害で、具体的にどこが障害に見えるかを教えてくれる。たとえば。
「まなかー。おばさんがごはんだって」
 先程まで初対面の美少年に誘われて彼の部屋で、サンダーバードを見て一緒に寝た。その上lineまで交換したことは瑠月には内緒にしないと。そうしないと、瑠月に取られるかもしれないから。まあ、琳音くんとの関係は誰にも教えたくないけど。
「んー。ねえ瑠月、あんたなら好きな人に『助けて』ってlineが来たらすぐ駆けつける?」
「はあ? そんなの、人によるじゃない。好きな人でもどんな危機に瀕しているかによるわ」
「はーああ。だから生徒会長様は彼氏ができないんだよ」
 すると瑠月は私にグサっと心に刺さる言葉を突きつけてくる。
「あんたも付き合ったことないでしょ……。でもそんな会話をするってことは、彼氏ができたの?」
 ニヤついてしまっていた私の顔を見ながら、生徒会長様は悔しそうな顔をして私を指さす。
「あー! 先を越されたあ……。真中のくせに……」
 そう言って畳の上に倒れこんで悔しがる彼女に、私はピースサインをして付け加えた。
「まあ、まだ友達だよ」
「あんたの『まだ友達』は信用できない。だってそのうちキスをするんでしょ? 知らない男と」
「まーた勝手に空想して! 私はそこまで自分を安売りするようなビッチじゃないから! 学年の噂だけで片付けようとすんな!」
 はあ……。瑠月の妄想にはイライラさせられる。イラついてため息をつくと、私のスマホがポケットの中でピコンと鳴る。
 もしかして琳音くんかも。そう思ってアプリを開く。すると、そこには琳音くんからのテキストメッセージがたった数文字書かれていた。どうやら今、かなり切羽詰まった状態にあるらしい。
『助けて』
 この数文字だけで、私は行く決心を固めた。横になってジタバタしている生徒会長は放っておいて、早く家を出て琳音くんを助けなきゃ。そう思って外へ出ようと玄関に向かうと、瑠月が起き上がって早速聞いてくる。
「彼氏からのライン?」
「まあ、それに似たものだけど、付いてこないでよ」
「はいはい」
 そう口では答えつつも、瑠月は立ち上がって私の後をつけてくる。私はサンダルを履いて、家の精米をする作業場にある自転車に跨る。すると後ろの荷台に瑠月も座って私にささやいた。
「あんたの彼氏、見てみたいから」
 そのどこまでも私についてこようとする精神にイラつきは頂点に達して私は隠し事をあきらめた。
「まだ彼氏じゃねーよ! 法律違反が怖いなら自転車から降りな。琳音くんを助けに行くのに邪魔だから」
「邪魔は言い過ぎ! それに私は頭の回転ならあんたより速いんだから!」
「はいはい。じゃあ地獄の底まで付いてこいよ。バカ!」
「あいよ!」
 自転車に乗ってふたり乗りで琳音くんのもとへ向かう。だがどこへ行けばいいかわからない。そのことにすぐ気づいたのは瑠月だった。
「真中! どこに行くの?! どこに琳音くんがいるのよ!」
「あ……」
 私はそのまま土手道を止まる。その調子で瑠月の頭とぶつかって後頭部にじんじんと痛みが広がっていく。
「瑠月、スマホで聞いて」
 ポケットに入っていたスマホを瑠月に手渡して数十秒。ピコンと通知音が鳴る。完全に暗くなった夜道を女ふたりで自転車にふたり乗り。どう考えても危険なのはわかるが、私にとっては琳音くんの無事を確認すること、助けることが先だった。
「『藤峰駅の男子トイレ』だって」
 私はそれだけを聞くと、急いで自転車を走らせる。土手道を一キロほど走ると、藤峰駅の向かい側と駅をつなぐ階段にたどり着く。だがその一キロを走らせるだけでも、私にとっては体力的に苦痛だった。
 瑠月を荷台に抱えて、人一人分の重さがギアに負荷をかける。ふたり乗りが初めてだった私は平坦なアスファルトを、何度も転びそうになって瑠月に運転を代わってもらう。
 すると瑠月はスイスイと私を乗せて目的地まで自転車を進めてしまう。ああ、これが帰宅部と陸上部の違いか……。私は自分の体力のなさを痛感しながら、自転車の荷台で悔しがっていた。
 さて目的地に着くと、急いで階段を駆け上がる。さっきまでのヘトヘト感が嘘のように無くなっていた。脳内は琳音くんのことでいっぱいで、その隣には瑠月がついている。
「早く!」
 そう急かされながらも、無人となった駅のホームを通って待合室の隣にある男子トイレのドアを開ける。何も考えずに開けたからか、そこには体の大きな男が琳音くんを今にも強姦しようとする様を理解するのに時間がかかった。
 私たちと男は数秒、顔を合わせる。それから私が慌てて男の頭に思いっきり蹴りを入れる。
「痛え!」
「真中……!」
 琳音くんの泣き声が小さく聞こえる。
 彼の散乱した下着や、別れ際に琳音くんが着ていたワンピースを瑠月がかき集めて三人で一緒に逃げ出す。
 腰を抜かして歩ける様子でない琳音くんを背負って私は必死に外へ助けを求める。だが、駅前には普段止まって客を待っているタクシー運転手さえいない。外にはネオンの消されたカラオケスナックの看板があるばかりだ。
 自分より大きな体をした琳音くんを背負うのはもちろん体力を消費するが、何が起きているのかわからない私たちはコンビニに助けを求めに向かう。だがそのためには、さっき登った階段をまた上がらないと行けない。いや、選択をしている暇はない。
 私たちは慌てて階段を駆け上がり始める。だが、琳音くんがその時私の背中から降りたいと言い出した。私が降ろすと、彼は私の手を繋いで階段を駆け上がっていく。そこを後ろに、瑠月も衣類を持ったまま走り出す。
「テメェらぶっ殺してやる!」
 声のする方を振り向くと、そこにはさっき私が蹴りを入れた男が追いかけてきていた。そいつは明らかに私たちよりも速い脚力で階段を上がってくる。しかも一段一段ではないのだ。二段、三段と一気に複数段を上って私たちに追いつこうとする。
「瑠月! どうするよ?!」
「あんたの彼氏でしょ! あんたが何とかしてよ!」
「地獄の底まで付いていくってさっき言ってたじゃん! 言葉の重みを考えなさいよ! あんた生徒会長のくせに……」
 そう言うと、瑠月は手に持っていた琳音くんの衣服を男の頭めがけて投げた。あと数段で彼女は足を掴まれるところだった。そのくらい近い距離だったからか、男の頭に白いワンピースがかかって、男は階段を踏み外してそのまま頭から下へ落ちていった。
 男が落ちていく様子を眺めつつも、「逃げなきゃ」と私はふたりにけしかけて階段を慌てて降りていく。そして数百メートル先のコンビニへ駆けていく。
「裸の彼氏ってアンタ恥ずかしくないの?」
「今はそれどころじゃねえだろ!」
「ふたりとも仲良さそうにしないで!」
「今はそれどころじゃねえよ! バカ!」
 琳音くんと瑠月、両名に罵倒されながらも私は明かりのする方向へ走っていく。光が近づいてくる。あと百メートル。コンビニはもうすぐだ。そう希望を感じながら必死に明かりに近づいていく。
 だが後ろでバタンと人の倒れる音がする。振り向くとそこには、男に足を掴まれて倒れた瑠月がいた。
「テメェら、よくもオレの人生をめちゃくちゃにしてくれたなあ……。こうしてお前らを血祭りにあげることで、オレも報われるぜ……」
 何やら訳のわからないことを呟きながら、琳音くんと私に近づいてくる男。瑠月は倒れたまま立ち上がらない。頭を打って気絶しているのか。
 ヤバい。本当にヤバい。語彙力が崩壊した脳内で、私と琳音くんは抱き合って男からの復讐をただ待つことしかできなかった。ジリジリと近づいてくる男と縮まる距離に、冷や汗をかきながら私は理不尽な制裁を待っていた。
 すると刹那、男の首元から血飛沫があちこちに散り、首を失ったその大きな体は私たちめがけて倒れてきた。
「うわあ、死体だあ……」
 私がその失血死した男の死体を倒すと、何やら少し低めの女性の声が聞こえてきた。暗闇の中、目を凝らしてみるとそこにはスタイルの良い外国人女性が、金髪を二つのお団子に結って構えていた。彼女の着ている白いノースリブには、男のものだろう。返り血が付いていた。
「蹴りで男の首をねじ切ったの……?」
 首を探すと、向こう側に残っていた田んぼの中に、男の首が浸かっていた。その首を女性は両手で拾い上げる。そして倒れていた男の死体の上に乗せると、瞳をつぶって黙祷し始めた。
「うわっ、ミス・リーだ……」
 裸の琳音くんが私の後ろから彼女の顔を確認して口にした。
「ミス・リー?」
「……カワシタくん。かわいそうに。あんな奴らの実験台にされて、働けないまま人生を終えるなんて……。どうか天国で神様に救われますように……」
 それから数秒後、琳音くんを見つけたのか、ミス・リーは彼に声をかけてきた。どこか琳音くんや私を心配する様は、服や体についた返り血に似合わないほど優しい。
「琳音くんだよね、キミ? 覚えてる? 聖ビルギッタ学園で教育実習生だったリンダだよお!」
「ああ……。覚えてます。お久しぶりですね」
「無事だった? かなり追い詰められてたみたいだけど……」
 眉を下げて心配そうにする青い瞳は、後ろで倒れたままの瑠月に気付いていない。それともわざとか。
「あの……、後ろで女の子が伸びてるんですが……」
 私が怖れながら指をさすと、ミス・リーはそれに気付いたそぶりをしてスマホで一一九番に電話をかける。
「女の子がインガに捕まって、頭を打ったんです……。ええ、場所は鷺沢のコンビニ付近です。丘を降りてすぐなので分かると思います……。はい、分かりました」
 すぐに電話を切った彼女は、後ろに立っていた私に優しく諭しながら一一〇番に電話をかけるように頼む。
「電話をかけてもらえない?」
「はあ……」
 私は震える指先で電話をかけ、そのスマホを彼女に渡す。
「もしもし、岡野さんを呼んでもらえますか? ……はい。お願いします」
 ミス・リーはまたすぐに電話を切った。そのスマホを私に返すと、私や琳音くんを襲ってきた男について語り出した。
「この人はね、可哀想な人生を歩んだの。両親に捨てられて、施設で不良品のように選別されて……。色んな実験のマウスにされた。普通ならインガは若いうちに死ぬけど、実験が逆にカワシタ君を普通の人間以上に強くしたの。そのまま大人になったはいいけど、彼に自活するためのチャンスは与えられなかったわ……」
「じゃあ、リー先生もインガだったの?」
 琳音くんが震える唇と舌で聞く。私は彼らがどのように生きているか、生活しているかあまり分からないので会話には入れない。
「……ええ」
 すると後ろから救急車のサイレンが聞こえてくる。どうやら倒れた瑠月を助けにきてくれたようだ。ミス・リーの顔に、返り血の赤がサイレンの光に反射して陰影を作り上げている。
 琳音くんはそのまま私に肩を預けると、震える声で自分たちの境遇を嘆いた。
「どうしてインガって、こんな目に遭わなきゃいけないんだろう……?」
 その問いに、私は何も答えることができなかった。


 例の事件から数日経った。不思議なことなのだが、駅のトイレで少年を強姦しようとした上に中学生の少女に全治二週間の怪我を負わせた男の死に様が報道されることがなかった。
 地元の新聞、TwitterやFace BookをはじめとしたSNS、挙げ句の果てには掲示板のスレッドでもこの事件にまつわることが一切取り上げられない。
 その理由を琳音くんと瑠月、私の三人で男を殺した張本人の住む借家に聞きに行った。彼女は体重百二十キロの鍛えられた体を持つ男の首を、その細い脚で蹴って首を捻じ切ったのだ。
 彼女がスタイルのいい体を保つために鍛えているとはいえ、「体格のいい男の首をねじ切るほどの脚を持つ彼女はまともな人間じゃない」と、三人で語り合っていた。
 月曜日。私は警察からの事情聴取を済ませて警察署で、休暇を上司命令で取ることになったという彼女の車を待っていた。隣にはセーラー服のような服を着た琳音くんと、左眼の上にタンコブを作った瑠月が私の名前を呼ぶ。
「あっ、真中」
「琳音くん、大丈夫だった?」
 すると彼は事情聴取で何を聞かれたか、事細かに話し出した。落ち着いていた彼の様子がどこか変だ。肩を震わせて、虚無の表情になりながら彼はものを話す。
「男の警察官がさ、まず聞いてきたのは俺が女装してる理由だったよ……。四年前の事件でも性的暴行を受けていたみたいですが、その時もしてたみたいだよね。なんで? ……って。俺は生まれた頃からこの格好なんだよ。そう答えたらさ、レッテは女装するのか、変態だなとそいつは返事した。目線が冷たくてよお……、お前みたいに甘い奴じゃなかったんだよ……。レッテは、インガの中には健常者に殺しの対象として狙われないように、幼い男子に女装させて育てる文化ができちまってんだよ。あと同じレッテから殴られたり、いじめられたりしないようにって意味もあるのに……」
 琳音くんは初めて私と会ったときのように泣くことはなかったけど、声は震えていた。まるで死刑宣告を受けた冤罪の殺人犯のように、その身を硬くしてじっとその身を守るように肩を抱いている。
「琳音くん、酷い警察官に当たったんだね。この地域の警察は本当に当てにならないから、気にしないで。私も痴漢された時に警察は行ったけど、まともに相手にしてもらえなかったから」
 そこに自販機で買った炭酸ジュースを口にしていた瑠月が突っ込んでくる。前髪を作らずに額を出して、白髪になり切った髪を三つ編みにまとめた彼女はどこか大人のような顔をして、冷静に物事を分析する。まあ、眼の上のタンコブが痛々しくて見ていられなかったけど。
「自分のトラウマを詳細に語らされて、落ち着ける人なんてそうそういないよ。私もあいつに足首を掴まれたときの感触について聞かれたら、体の芯から震えて寒気さえ感じるもの」
「まあ、私も襲われそうになってからの首切断だったからね……。でもホラー映画で見たような感じのグロさって感じで、あまり怖くないよ」
「それにしても首を蹴りで切断した女教師か……。強すぎてその人、絶対インガの時に人体実験させられたでしょ」
「確かに」
 私は未だに体を固くした琳音くんの隣に座って、瑠月の言うことに同意しながら彼を慰めていた。
「……スマホでサンダーバードのテーマソング、聴く?」
「……うん」
 私はスマホのイヤホンの左右部分をを琳音くんの両耳にはめると、ミュージック機能の中にあるループ再生設定にして瑠月の話を聞くことにした。琳音くんは馴染みの音楽を聴いたからか、少し落ち着きを取り戻し始めた様子で瞳を閉じ、自分の世界に浸っている。
 私が幼い頃に世話した幼い弟のように、眠るように落ち着きを取り戻しているその様子に、私は安堵する。琳音くんの林檎のように赤い唇が少しふっくらと膨らんでいる。口づけしたら砂糖のように甘そうな唇だ。
 そんな彼の顔を見てうっとりする私を見てか、瑠月が私をなじってきた。
「面食い真中が。惚気んな」
「まあ、面食いなのは否定しないけど……。琳音くん、なかなか可愛いでしょ? ネットで誰かが流出させた写真でも、『かわいい』とか『ちんぽしゃぶらせたい』とか言われてたんだから!」
「……お前は男か」
「でも私も男だったら琳音くんにお金払ってちんぽしゃぶらせたい! バキュームフェラしてほしい!」
「まあ、男受けしそうな顔ではあるよね。特にこの大きな猫目とかさあ、絶対この形の目に整形する人とか出てくるでしょ。コイツがアイドルだったら」
「でしょ。きっと真夏もこんな気持ちだったんだろうなあ。初めて琳音くんと会った時……」
 すると瑠月が苦笑いして、私にこんな提案をしてくる。
「真夏くん、だっけ? 琳音の初恋相手。あんたネットが得意分野なんだから調べて会わせてあげればいいのに」
 何という私の恋を全否定する言葉。私は真夏のように、琳音くんの心の支えになることを決めたのに。
「それはイヤ!」
「寝とるのかよお。男子から男子を」
「まあ、そういうことかもね」
 私もさっきの瑠月のように苦笑いしながら、タンブラーの中に入れたお茶を口にする。ルイボスティーは口に風味が広がって、舌が幼い私にはちょっとした爽やかさと苦味を口内にもたらす。
「苦っ」
 そう私が口にすると、落ち着いた女性の低い声が私を呼んだ。その声は聞き覚えがある。
「千代さん、だよね。隣に座ってるのが琳音くんで、向かい側が峯浦さん」
「そうです。数日ぶりですね、えっと……、リンダさん」
「リンダ・ヘルストレム。フルネームは長いから、リンダでいいよ」
 落ち着いた女性らしさで、その柔らかい表情と大きな丸い瞳は青い。髪はやはりお団子ヘアーで、洒落っ気というものがあまり感じられない。綺麗な顔をしているのに、もったいない。
「これから私の家に連れて行くけど、いいかな? ちょっと聞いてほしいことがあって」
「はあ……。違う学校の先生が、こんな中学生にする大事な話ですか? そんなに大事なら、いいですよ」
「ちょっとココでは話せないから……」
 私と瑠月に聞こえるような音量で話すリンダさんは、どこか署内の誰かを警戒しているようだった。あたりを見回して、よほど聞かれたくない話らしい。
「それって私にも大事な話ですか?」
 瑠月がリンダさんに噛み付くように聞いてくる。椅子から身を乗り出して、あまり乗り気ではないようだ。
「特に峯浦さんにとっては大事な話。だから話したいの」
「そうなんですか……。まあ、それなら」
「琳音くーん。リンダさんの家に行くよ」
 そう言って私は彼の両耳から自分のイヤホンを外した。すると彼は先ほどとは違って、どこかスッキリしたような顔をして私に笑みを見せてきた。
「いーよ」
 そういうことで、琳音くんを連れて三人でリンダさんの話を聞きに彼女の自宅へ行くために、車に乗せてもらう。十五年落ちのフィットはその年月に反して、とてもよく綺麗に洗車されている。まるで歪な形に私たちを写す鏡のようだ。
「さっきまで太陽が昇ってたのに、雲に隠れてる。まるでスウェーデンの空模様みたい」
 リンダさんのそう言った何気ない一言が、私の脳裏に焼き付いて忘れられない。藤峰学園中等教育学校のスウェーデン語教師、リンダさん。彼女の正体はインガだったという事実以外、何も分からない。
 丘の上にある県立病院に隣接した小さな学校なのは知っているが、レッテの子供たちが基本的に通うため、具体的にどんなことを教えているのか不明だ。
 車に揺られること二十分。私たちは彼女が借りている借家に着いた。車を降りて、赤いレインコート を羽織った琳音くんは、日光がそんなに暖かくない暗い空なのにも関わらず、深くフードをかぶっている。
「琳音くん、曇りだよ?」
「あのなあ、曇りでも空が明るい限りは太陽が昇ってるの!」
 どこか怒りのこもったような顔で怒られて私は一瞬しょげる。そんな中、リンダさんが琳音くんに怒る。
「もっと自分を大事にしてくれる子を大事にして! じゃないと離れていっちゃうんだよ」
「……はあい」
 幼い頃からリンダさんと親しかっただけあってか、琳音くんも私のようにどこか悲しそうな顔をしてうつむく。
「本当に上手くやっていけるのかしら、このふたり」
 横で瑠月が独り言をつぶやく。随分嫌味ったらしいなあ。カチンときたところでリンダさんが私たちを先導して、玄関まで案内した。
 玄関前で鍵を探すリンダさんをよそめに、私と琳音くんはヒソヒソ話をする。
「リンダさん、レッテなのに何もかぶらないし、ノースリーブだよなあ。どこかで太陽を克服できたのかな?」
「実験ってやつじゃない? それが成功して今こうして外にいるのかも。普通に生きて、普通に働いてる」
「それができればなあ、オレにも……」
 そう力なしげに話す琳音くんの顔が、どこか寂しそうだ。太陽の下を歩くことは、レッテの本望なのかもしれない。私がレッテだったら、当然そう思うけど。
「あっ、鍵が開いた。さあ皆さん、中へどうぞ」
 そう誘われて、私たちは中へ入る。玄関からは花の匂いがする。どんな花なのだろう。そう思って玄関に飾られた花を見ると、花が一つの茎から二つに分かれている。不思議な花だ。
「不思議な花だ、って思ったでしょ。リンネソウって言って、スウェーデンでは愛される花なのよ。まあ、これは造花だけどね」
「じゃあこの花の匂いは……?」
「普通に芳香剤よ」
 なんだか肩透かしを喰らったような、ガッカリとさせられたような気持ちになって私は肩を落とす。
「ガッカリさせてごめんなさいね」
 そう言って笑うリンダさんは、どこか子供らしい雰囲気をその笑顔に残していた。それから私たちは彼女に進まされるがまま、和室の茶の間に一つ折りたたみ式のテーブルが置かれただけの寂しい部屋に通される。
 そこで私たちはあぐらをかいたり、正座をしたり好きなように座る。リンダさんがお盆に麦茶を四人分運んでくるまで、私たちは何も話さずにじっとしていた。
 とにかく彼女はどんな話をするのだろう? そんな気持ちでいっぱいだったからだ。
 やがて小さなテーブルに正座したリンダさん。さっきの優しそうで柔らかい顔とは違い、彼女は少し暗い面持ちで物事を話し始めた。
「まず私の生い立ちから。これ一応、KUNGARの機密事項の一つだから」
「KUNGARって、レッテ社会を統括する組織でしたっけ」
「そう。私は学校だと常に監視対象になっていて、唯一くつろげるのがこの家だけなのよ」
「でも盗聴器とか仕掛けられてたらどうするんですか?」
「それは定期的にみてもらってる」
「で、生い立ちから話すって何か理由でもあるんですか?」
 私が怪訝する顔で聞くと、彼女はクスリと笑って話し始めた。
「私はねえ、スウェーデンの都会で生まれたの。父はKUNGARみたいな組織の幹部で、主に情報を管理する立場だった。でも私が七歳の時に亡くなって、私は母親の再婚のために来日したの」
「へえ、誰とですか?」
「……琳音くんのお父さん。どうやら母は北朝鮮でいう喜び組みたいな組織にいてね、日本のKUNGARとスウェーデンの組織が提携した時に、贈り物的な感じで若かった琳音くんのお父さんに当てがられたみたい」
 どこか変な話だ。だって、もしそうならインガとして実験台にされたり、監視対象にされるわけないからだ。
「なんか変な話ですね。それならどうしてリンダさんはインガにされたんですか? インガって日本で生まれた時に、施設で生み分けされた人を指すんですよ?」
「まあ、ハーレムっていうか、大奥っていうか。そんな組織ってのは女たちの愛憎があって、蹴落としがあるわけよね……」
「ああ、妻の地位にいる人が何人もいて、そこから蹴落とされたってことですか」
 瑠月が妙に納得すると、リンダさんはそうだと言って話を続ける。一方の琳音くんは表情を凍らせている。
「それからは私も幹部候補の義理の娘から、厳密に言えばインガではないけど、戸籍上から抹消されて、色々な実験のマウスにされたわけ。人間の通常の何倍もの力を出すための手術や薬を投与されてね……。その中でカワシタ君と、リカルドって子の三人しか生き残らなかった。十五歳の時の話だったわ」
 新たな登場人物の登場に私が困惑する中、琳音くんと瑠月はよく理解しているようだ。そのまま黙って話を聞いている。
「リカルドは太陽のように明るい人だった。カワシタ君みたいなすぐ八つ当たりする人間じゃなくて、冷静に、よく考えてから物事を発言する人だった。でも笑うと太陽のように周りが明るくなって、実験室の中で私たちは恋に落ちた」
「実験室の恋かあ……。盛り上がりますね」
「うん。まあそれがバレて。彼は処分された。私が力を上げるために必要なタンパク質として」
 すると途端、琳音くんが聞いた。震える声で、何かを恐れるように。
「それってまさか……、遺体を食したということですよね……? 病気になりますよ」
「ええ……。蛆虫の沸いた彼の遺体を食べた味は忘れないし、あなたの父親のしたことだから」
 すると琳音くんはうつむいて、手をついて涙を流してリンダさんに謝った。
「父がそんな恐ろしいことをしていたから僕は……。ごめんなさい……。父の罪を知らないまま笑顔であなたに接していた。……自分の恋人を殺した上に腐っていく彼を食べさせた男が……、その息子が笑顔で接してきて、虫唾が走りませんでしたか? どう償えばいいのか、分からないです……」
「もしかして『血縁の罪』とかいう糞理論? あんなの詭弁だから。気にしないで。それなら私も同じだから」
 震える体でリンダさんは手をついて泣き続ける琳音くんを抱きしめた。人種が違うのに、まるで実の姉弟のやりとりに見えるそれは、どこか胸にくるものがあった。
 決して美しい光景ではない。それなのに、一人の男に振り回された人物が二人いるだけでこんなに胸に来るものがあるのだろうか。
 だが私はふと、リンダさんの優しさと琳音くんの罪悪感を思うと寂しさも感じた。レッテの、それもインガにしか分からないものがある。私はのけものにされたような気がしたのだ。
 それで、私は悔しかったのか、面倒だったのか。「さっさと話を進めてください」と感極まっていたリンダさんにけしかけた。
「ああ、ごめんなさい。つい嬉しくなっちゃって。あいつに振り回された人が目の前にいたんだって」
「はあ……」
「それで峯浦さん。頼みがあるんだけど、あなたのひいお爺さんがKUNGARと和解した時、浩さん、あなたのお父さんに会ったのだけど、私が今から伝えることを伝言してくれない? 『ひづるは元気か』って」
「どうして姉の名前が?」
「ああ、あなたは知らない方がいいわね。いいの。伝えなくてもいいよ」
「じゃ、じゃあ……。伝えないでおきますね」
「でも、ひづるが幼い頃、彼女が白血病だったことは覚えておいて」
「……分かりました」
 瑠月も黙り込むと、とうとう気まずい空気になって全員黙り込んだ。だが最初に私が疑問に思っていたことを、沈黙を破るために自分でぶつけてしまった。
「リンダさんはレッテだったんですよね? じゃあ、太陽の下を歩けるのはどうしてですか?」
 すると彼女は一つ、間を置いて一言口にした。
「そういう実験があったのよ」
「それは誰が担当してたんですか?」
「名前は忘れたけど……、当時高屋敷琳という人がいて、琳音くんのお父さんの愛人がいたのよ。でも彼女はその医師の方にゾッコンで、こっそり付き合うために私は手紙の使いをさせられたわ」
 誓ったの。琳の名前は覚えても医師の名前は忘れてやるって。それくらい覚えていたくない記憶よ。
 そういうと彼女は、一口麦茶を口にした。
 さて、それから私たちは心の中にしこりを残したまま、藤峰駅で下ろしてもらった。時刻は十五時二十四分。瑠月は電車で乗り換えて帰らないといけない。私と琳音くん。二人で沈黙したまま、瑠月を見送った。
「……なんか、ごめんね。リンダさんの話」
「いいんだ。……いいんだ……」
 琳音くんはうつむいたまま、何も話さない。私はそれから黙って、彼の肩を叩いて笑ってみせた。
「今日曇ってても、明日はきっと晴れるよ。信じて前へ進むしかない」
 そう言ってみせると、彼はゆっくりと口角を上げて、微笑んだ。
「お気楽だなあ、お前は」
「それが主義だからね、私は」
 誇ることじゃねえっつーの。そう言って笑った彼の泣き笑いを私は忘れないだろう。太陽はすっかり落ち、夕焼けが私たちを赤く染めていた。
「じゃあね。また土曜日、公園で」
「ああ。またな」
 私はそこから彼と別れて、駅の駐輪場に置いていた自転車に乗った。どうしてだろう。近所に住んでいてSNSで繋がっているのに、一生会えないような人と別れるような寂しさは。こみあげてくる感情に涙を流しながら、私は自転車を自宅へ走らせるのだった。


 土曜日の昼、私が誰もいない台所で昼食を取っていると、突然スマホからピコンと通知音が鳴った。その通知音はlineのメッセージが来たことを告げるものであり、瑠月以外に誰がいるかというと……。
「琳音くんだ」
 私はさっそく喜んでお茶碗を洗ってメッセージを開く。すると、こんなメッセージがシンプルな文体で書かれていた。
『今って藤峰公園のトイレに来てもらうことはできる?』
 「どうして?」っと……。私は理由を聞くためにその短い返事を送った。すると数分後、琳音くんが返事を返した。
『先週の金曜日にあったこと、話したいから』
 先週の金曜日……。琳音くんがカワシタという大男に犯されそうになったのを、私と瑠月、琳音くんの三人で町を逃げ回った事件だ。
 ちょうど瑠月がカワシタに足首を掴まれて倒れてしまい、私と琳音くんが男の制裁を待っていると、地元の私立学校の教師、リンダさんが男の首を蹴りで捻じ切った。
 そもそもの疑問なのだけど、どうして琳音くんはあんな大男に襲われたのだろう? カワシタが人体改造される事件の首謀者が琳音くんの父親だったのはわかった。
 だが、その息子にまで復讐しようとするものだろうか? カワシタは生活保護とKUNGARから支払われた一時解決金を合わせて月額二十五万ほど受け取っていたとリンダさんから聞いたが、それでもやはり腑に落ちない。あと『血縁の罪』とは一体なんだ……?
 様々な疑問が脳裏をよぎって消えることがない。私は琳音くんに『すぐ行く。三十分くらい待ってて』とメッセージを送って、今度は公園まで歩くことにした。
 公園までの道は平坦で、それでいて長い。街の繁華街から少し離れたところにあるが、国産品やレッテでも食べられる食事を扱うスーパーとその隣にはコンビニが数軒建っている。
 私はそういったところさえ無視して奥に入っていく。病院や駅の駐車場を通り抜けて、一キロ近い道をずっと歩いていく。
 その間、私はずっとサンダーバードのテーマソング集を聴きながら道を歩く。葉桜がたくさん並んだ公園のトイレにたどり着くと、そこはなんだか公衆トイレらしい汚さの含まれた刺激的な臭いがする。
「琳音くん、いる?」
 すると琳音くんは妙に驚いた様子で両手を頭に当てて、私を警戒していた。
「何だ真中かよ。驚かすなよ……」
「ごめんごめん。それでずっと私のことを待ってくれてたの?」
「……うん」
 琳音くんは頬を赤く染めて、私の手を握った。外は晴天、この上ない幸せが空から降り注ぎそうなほどに晴れ渡った青い空が、私の心を前向きにしてくれた。
 だが晴天こそ、レッテにとっての敵なのだ。日光が平気なレッテもたまにいるがそれは少数であり、ほとんどは琳音くんのように何かしら太陽から身を守る格好をして外へ出る。
 だから琳音くんも赤いレインコートにニーソックスを履いて私を待っていた。赤いレインコートを脱いだ琳音くんはいつもとは違って、黒い長袖のロリータ衣装を着て、ガーターを付けている。
 いつもの清楚なワンピースとは違って、どこか毒々しいその姿に私は思わず一瞬怯んだ。だがすぐ琳音くんの気持ちを察して、作り笑いでその服を褒める。
「今日の琳音くんって黒いロリータ衣装かあ……。とても可愛いしオシャレ。それに、服を着せるためのモデルじゃなくて、琳音くんのために作られたロリータみたあい!」
 わあ……。私が羨望と引きの気持ちで言った一言に、琳音くんはどこか嬉しそうな顔をして言った。
「だろ? 特注品だぜ」
「えー、なんだあ。円先生ってこういうのも買ってくれるんだね!」
「えっ、俺の金だけど」
 琳音くんは経済的に自立していた。しかしまあ、どういう方法でロリータの特注品なんてものを買うんだろう。
 私は琳音くんを不思議な表情で見上げる。それからなんと言えばいいかわからずに黙り続け、琳音くんも察したのだろう。
「売春じゃねえぞ。海外の人気作品を翻訳して、それで稼いでる」
「へえ……。翻訳本って儲からないって聞くけどねえ」
「そんなに疑うなよ。映画化された小説を翻訳するんだ。ミステリーとか。スウェーデン語や英語から翻訳するのは俺の特技なんだ」
 スウェーデン語や英語から翻訳するのが琳音くんの特技。それも出版社に翻訳依頼されるほどの実力を持っている。それなのに、この子がいま置かれている状況を見ると……、なんとも言えない気持ちになってしまう。
「琳音くん……」
「なっ、なんだよ真中。そんなに人を見て……」
「前に琳音くんが売春した客に病気を移したって噂があったから、そんなことなかったんだって。よかった……」
 思わず笑みがこぼれる。私は琳音くんをじっと見つめる。すると彼は俯いて、トイレの汚い泥が乾いた部分を見つめている。
「……いや、事実だけど」
 あっさりと口にした黒歴史。琳音くんは売春したことがあるのだ。その上、客にインデル症候群を移した過去があった。ああ神様、この哀れな少年に救いを……。私は心の中で神に祈らずにはいられなかった。
「えっ……と……?」
「いまのお前、なんと言えばいいか分からないって顔をしてるな。まあそうだよな。売春して病気を移した奴って、それだけでもレッテが差別されるきっかけになるもんな。仕方ない」
「も、もしかしてカワシタに襲われたのは売春の件もあったから?」
 怖気付きながらも質問した私に、琳音くんは私の頭を撫でながら微笑む。その微笑みは、まるでこの世を達観したような感じで、どこか諦めの気持ちが込められているようだ。
「カワシタは俺の客だった。アイツは俺の過去を知っていたみたいでさ、『この町で平和に生きたかったらオレとやらせろ』って。事件が既に有名なものなのに、顔も知られているのに平和もクソもねえっつの」
「それで、やったと……」
「ああ。一万円もらってしゃぶった。アイツのペニスって普通のオッサンより大きいし、『二十センチある』とか誇ってたからもうしゃぶるのが大変で……」
「他の人ともやったの?」
 すると琳音くんは一瞬表情を凍らせると、便器の上に座って私に手招きした。この蒸し暑いトイレの中で一体なにをするのだろう?
「はやくこいよ」
「来ましたけど……」
 すると琳音くんは私の耳元で自分の過去をささやいた。
「……あるよ」
 ああやっぱり。売春したことがあるんだ、このレッテ。私は唖然としながらも、彼の話を聞いてやることにした。
「ある日健常者の暴漢に襲われてよ……三万受け取って。それからホテルで落ち合って盛りあったもんだ。そのおっさんはネットで俺が地元にいるってのを知って探してたんだと。ほとんど俺が食べられないご馳走を食べて、ゴムしないと移るって何度も俺が言うのに、生でやるのをやめないし……」
「単なるバカじゃん。自爆しに行ってる」
「だろ?」
 思わずおっさんのことを考えると、私は吹き出さずにはいられなかった。自ら病気になりにいく奴がいたのか。そう思うたびに、私の脳裏に電車の痴漢がよぎる。
 私の胸を揉みながら、『真中ちゃん』と眠る私を起こし、トイレの中で体を触らせさせようとする。実際私は触らせるとお金がもらえるのを知っているから、体を触らせて秘密の花園に手を差し出させたこともあった。
 だが実際そういうのをするとエスカレートしていくもので、私は擬似性交をその痴漢のおっさんとしてニーソに精液がかかった。その汚れを流すために土砂降りの中、コンビニに向かい、そこで琳音くんと出会ったわけだが、琳音くんも似たようなことをしていたのか。
「今はしてない?」
「してないよ。だって、新しい稼ぎ方を見つけたから」
 ピースサインして目を細くして笑う琳音くんに、私も思わず感情が昂って彼を抱きしめる。それを琳音くんはただ一心に受け止めて、お互いの肌の柔らかさや体温を感じ合う。
「……なんで襲われたの、金曜日」
「分かんねえ。多分、俺が体を売るのを断ったからかな」
 体を買うのを断られた腹いせに襲ったのか。そしてかつての仲間に首をねじ切られて、田んぼにその首が落ちる有様。きっと辛い幼少期だったには違いないが、私は忘れていない。男たちが中学生くらいの男女を殺そうとしたことを。
 腹いせで自らの命を失うなんて、本当にバカだなあ。
「ふふ……」
「なに笑ってんだよ、真中。気持ち悪いぞ」
「だって、カワシタの死に様を想像したら。体を買うのを断られてキレただけじゃん。それを自分が生きていけない理由とすり替えて、最後は仲間だった人に首を切られるんだよ? 笑えないわけないじゃん」
「……ハハッ。そう考えると笑えなくもないな」
「笑ってんじゃん」
 お互いに笑い合うと、私と琳音くんは抱き合ったその体でお互いの瞳を見る。琳音くんの瞳には虚ろな輝きが宿っている。一方、私の瞳にはなにが宿っているだろう?
 数秒間黙り合うと、琳音くんが吹き出して笑い出す。その瞳には涙が溜まっている。一方の私も笑い返し、二人とも笑い袋状態になった。
「ああ……ついてねえ人生だあ……」
「私もなにやってるか分かんねえわ……」
 お互い人生への鬱憤を口にしながらいつまでも抱き合うのだった。

海の雷鳥

執筆の狙い

作者 られんか
KD106132084109.au-net.ne.jp

カクヨムで連載中の小説です。
読者からみた客観的な、奇譚のない感想がほしいと思い投稿させていただきます。
特に琳音が読者から見ても綺麗な美少年として写っているか、また真中に感情移入できるかどうかが特に気になります。

よろしくお願いします。

コメント

そうげん
58-190-240-140f1.shg1.eonet.ne.jp

琳音くんの名前が出てくるところまで読みました。丁寧に書かれてあるのがわかる筆致でした。描こうとする作品世界に関して、ちゃんと作者様が熟知されて描いてくれている安心感が感じられます。内容的にわたしはここまでにしておこうと思います。面白いのだけど、いまのわたしにはこれ以上に読んでおきたい世界の物語があるので、仕方なくここまでにしておくという話です。

わたしに時間と余裕がもっとあれば、これ以上に読み進めていたと思います。内容に関してつまらなかったとかそういうことではありませんので、誤解はしてほしくありません。人物についても、作者様にとってとても大切な存在なのだろうなという印象を持ちましたし、そこについてマイナス評価をつけるつもりもありません。

この作品はカクヨムで連載されているのですね。わたしもカクヨムですこしだけ作品をアップしています。いろんなところに外部との通路を持っておくのは必要なことだと思います。

られんかさまのこれからの執筆の進展を切に祈っています。では失礼いたします。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

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