作家でごはん!鍛練場
sin

跫音

 悪魔がやってくる足音が薄暗い屋敷に響いているのを私は聞いた。聞いた?跫音は空気の震えを伴うこともない。電気信号を伴わぬ第六の官界がそれに触れたのだ。私は怖気を覚えた。神経がたちまちのうちに強張り、心臓の拍動はその速度を増していく。耳鳴りのように鼓動が体の内側から響き渡る。ミシミシと骨が軋み肉が細かく震える。今にも全身がバラバラに裂けてしまうような感覚のうちに、私は激しい昂ぶりを見出した。溶岩のように湧きたつ血脈と、尖鋭に研ぎ澄まされていく精神。恐怖と緊張の砥石が心を磨いたのだ。
 研ぎ澄まされた五感が外界を捉えた。埃と黴の混じった饐えた臭いと、薄暗がりにぼんやりとのぞく調度品の輪郭。引き戸を開き廊下に出る。木目の床の冷たい感触が、足の皮膚越しに伝わってくる。思わず寒気を覚え、自然と体が小刻みに震える。
 ずん、ずん、ずん。長い廊下のずっと向こうから跫音が聞こえる。重く鈍い軋むような音響。額に汗が滲み出る。頭に血が昇り、脳が煮沸されているかのように熱い。握りしめた拳の内側に、生ぬるく脂っこい汗が滲む。
 ずん、ずん、ずん。跫音がやってくる。ゆっくりと、しかし絶えず私に接近し続けてくる。それを感知し神経はますます強張っていく。私はひとりでに笑っていた。半開きになった口の端から剥き出しの白い歯がのぞく。薄闇の中で歯の白さばかりが際立つ。
 ずん、ずん、ずん。やってくる。それはゆっくりとやってくる。いよいよ緊張は窮まり精神が弛緩していく。思考が立ち消え、極度に薄くなり張り詰めた神経が私の精神の総体となっていく。
 ずん、ずん、ずん。闇の中で蠢く何かを、とうとう私の官能が捉えた。瞠目。そして、沈黙。私も悪魔も静止した。静止したというのに跫音は耳鳴りのように、鼓膜に固着しいつまでも残り続けた。それはおそらく残響だったのだろう。
 私の体は石のように強張っていた。そして双眸はまっすぐ正面へと向けられており、眼前の悪魔を虚ろに見つめている。悪魔もまた沈黙し、静止し私と対峙している。悪魔の姿は判然としない。薄闇の中ただ輪郭のみがぼんやりと浮かんでいる。
 ずん、ずん、ずん……。耳鳴りのような跫音がおぼろな、遠いものとなっていく。脳裏が白濁するのを私は感じた。じじじ、と、羽虫が耳元で飛んでいるかのような耳障りな音が聞こえる。私は何かおぞましいものを見たかのような錯覚に囚われ寒気を覚えた。肌が冷え切って鳥肌が立つ。私は口をぽかんと開けた。目の焦点が合わず、視界が淡くぼやけていく。半開きになった口の端から、一筋の唾が垂れ床に染みを作った。まるで白痴のように間抜けた様だった。
 目の前の悪魔が笑ったように思えた。その時私は初めて、自分の呼吸が止まっていたことに気づいた。私は糸の切れた人形のように後ろ向きに倒れた。体が床に叩きつけられる乾いた音が、屋敷の静寂を鋭く破ったかと思うと、生ぬるい液体が後頭部を濡らしていくのに気づく。微かに鉄の匂いがした。私は自分が血を流しているのだと理解した。
 悪魔が一歩を踏み出す。悪魔は地に臥す私の前に立ち、真っ白な歯を闇の中に剥き出しにしながら冷然と笑っている。
 ずん、ずん、ずん。跫音が再び聞こえ始める。しかし跫音は近づいて来るのではなく少しずつ遠ざかりおぼろになっていく。そして最後には、無音の闇のみが残った。
 もう私の眼前に、悪魔の姿はない。彼は去っていった。いや、去っていったのではない。感知できないほど深く潜りこんでしまっただけなのだ。割れた頭蓋の間隙から、気流のようにその肉体を不定形のものとして、私の体内に侵入してきたのである。
 その日以降、私は慢性的な耳鳴りに悩まされるようになった。

跫音

執筆の狙い

作者 sin
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ショートショートです。内容の解釈などは、読者の想像に委ねます。

コメント

縄跳び
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難しい言葉遣いから、自然と物語に引き込まれ、余韻だけが残る。読者に解釈を委ねるやり方は見事に成功していて、私は好きです。

sin
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>縄跳びさま

感想ありがとうございます。評価をいただけ何よりです。

偏差値45
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なんとなく白紙の原稿を埋める為に文字をならべた、という印象がありますね。
はっきり言ってしまえば、中味がほとんどない。
費用対効果が悪すぎるので、読まなければよかったレベルかな。残念。
個人的な感想なので悪しからずです。

sin
pw126233169064.20.panda-world.ne.jp

>偏差値45さん

感想ありがとうございます。感性の感度には人によって振れ幅がありますから、そういった感想もありかもなと思いました。

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