作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

権田医院診療録ーー咳を止めるな

 入学試験も終わり、塾は新たな体制に入ろうとしている。僕の所属している塾に「東大・京大進学コース」を設置したのだ。これまでの高校進学を目的とした中学生のコースから、大学の、それも東大とか京大を目標にした高校生のコースを設置したのだから、塾の講師にも高度な知識が要求される。僕も、その何コマかを担当することになり、予習が欠かせない。僕は大学英文学科の卒業だから、英語にはかなり自信はあるがそれでもある程度は勉強しておかなければならない。小説ばかり書いている暇はなさそうだ。
 そんな、春のある時、ちょっとした風邪を引いた。熱が三八度近く出たが、悪寒は無くすぐに熱も下がったので、権田医師が言う、いわゆる「傷寒」ではないらしい。しかし咳が一週間も止まらない。痰が絡んで、咳が出始めると講義にも差し支える。これはどうしても権田医院に受診して早く咳や痰を止めて貰う必要がある。
「おや、今日はどうしました?」
 顔なじみになった看護師の藍ちゃんが笑顔で尋ねた。藍ちゃんの笑顔はいつ見ても可愛らしい。お年寄りの中には、孫娘のような藍ちゃんの笑顔を見るのを楽しみに通院している患者もいるのではないか。
「風邪で、咳が続いているんでね」
 何人か患者が待っていたが、最後に呼ばれた。また例によって漢方談義が弾むと考えて他の患者の診察を済ませたらしい。
「咳が続くんやて?」
 権田医師が例によって丸っこい顔に笑顔を浮かべた。
「風邪ですけど、咳や痰が治りません。傷寒やないと思うんですが」
「どんな咳かな。痰はどうや」
「咳は一週間続いています。この頃は痰が出るようになって……」
「どんな色の痰や」
「粘っこくて黄色みがかっています」
 権田医師はうなずいて、咽喉を見、胸部に聴診器をあてた。
「やっぱり、普通の風邪やろ。風邪から気管支炎を起こしている様やね」
「そんなら早く咳の止まる薬を下さい」
 権田医師が厳しい顔をした。
「この咳は止めたらあかんのや。だから咳を止める薬は出しません」
 え? 何故?
 咳を早く止めてもらうために受診しているのに、咳を止めたらいけないだって?
 僕の不満そうな顔を見て権田医師が言った。
「咳が出るのは何故だと思いますか」
「それは風邪を引いたからです」
「だから、風邪を引いたら何故咳が出るのかということですよ」
 傷寒のときと同じ質問である。なら、同じ答えをしておけばよいだろう。
「生体防御のためです」
 権田医師はにやりと笑った。
「生体防御の為ならとめない方が良いのと違いますか」
 僕は何と言ってよいのかわからない。咳や痰が何時までも続く状態がただ事とは思えない。権田医師のようにのんびり構えてよいものだろうか。
「でも、何か重大な病気であれば大変ですから」
「重大な病気とは?」
「肺がん、肺結核、肺炎なんかでしょう」
「そう、その通り」
 権田医師はケロリとしている。僕は一番肝心な質問をした。
「なぜ、この咳や痰を止めたら駄目なんですか」
 いよいよ権田医師の土俵に踏み込んでしまったらしい。権田医師は足を踏み変えてこちらを向いた。
「風邪の咳は、ほっておいても十日か二週間で治りますよ。咳が一カ月も二カ月も続く場合は、肺がん、肺結核などを除外しなければなりません。その手始めは胸部のレントゲン検査ですね」
「では、レントゲンを撮って下さい」
「君にはまだその必要はありませんよ」
「はあ? 何故ですか」
 僕は肺がん、結核、肺炎を心配しているのだ。
 権田医師は、例によって本格的に説明する気になったようだ。
「咳や痰が出る。これは、咳をすることで痰を外に排出しようとするからでしょ」
「そうだと思います」
「では、身体が痰を排出する事を止めてしまったらどうなります?」
 痰が出なくて、肺に溜まってしまったら……。これは肺の方が困るに違いない。家にゴミをためてゴミだしを禁止するようなものだ。
「痰は、気道粘膜、つまり肺の気管支の粘膜を覆っている粘液が、上皮細胞の繊毛(せんもう)の動きで上の方に押し出されたのが咳によって外に放り出されたものですよ」
 つまり、バイ菌やウイルス、埃など、肺に入ると困るものを粘液にひっ付けて中に入らないようにし、その粘液を痰として外に出すのである。そのように説明を聞くと、なるほど、咳を止めるなという権田医師の言い分も理解できる。
「では、薬なしでこのまま自然に治るのを待つのですか」
「いや、薬は出します」
 咳や痰を止めないで、身体の外に排出するのを待つとすれば薬は不要だと思うのだが。僕の疑問を感じたのか、権田医師は更に説明を加えた。
「咳嗽反射を止めるのはマイナスですが、痰の流動性を高めて外に出しやすくするのは良い事です。さっき、君は黄色い痰が出ると言ったでしょ。黄色い痰はなんやと思う?」
 痰の色の意味なんて考えたことも無い。肺の中で濃縮されると黄色になるのではないか。
そのような意味の事を言うと権田医師は首を振った。
「化膿して膿がたまった所を見たことがあるやろ。膿の色は何色やった? おそらく黄色やったでしょう。この膿は、バイ菌を白血球が食べたあとの白血球の死骸の色なんや。つまり、黄色い痰が出ると言う事は、気管内にバイ菌、つまり細菌感染が起こっていることを示す。となると、抗生物質でバイ菌をやっつける必要性があるということになる。だから抗生物質を出します」
「では、痰の色が白っぽいか透明な場合は抗生物質は不要なのですか」
「多くの医者は、咳や痰が出ると、何も考えずに抗生物質を出すが、僕は必要な時にしか抗生物質は出さない事にしているね。不必要な抗生物質の投与は有害無益、耐性菌を作るだけだからね」
 今迄、ほかの医者で風邪のときには解熱剤と抗生物質を貰って、風邪が治ったように思ったが、抗生物質を貰わなくても風邪は身体の防御力で治してくれるのだ。どうも、西洋医学しか知らない医者は抗生物質に頼るが、漢方を知っている権田医師は生体防御に重点を置いているらしい。昔のように、色々な新薬が無かった時代だから、生体防御に重点を置くのは当然かもしれないし、その方が身体には良い事だろう。
「では、清肺湯(せいはいとう)と、抗生物質を出します。清肺湯は痰を出しやすくする作用があり、また抗生物質と併用すれば、肺に抗生物質が移行する作用を高めることが現代医学的に証明されています」
 薬を数日服用すると痰が白っぽく透明になり、咳や痰もほとんど消失した。
 もう権田医院に受診する必要はないのだが、藍ちゃんの笑顔が見たくて、咳が止まったことを報告するために権田医院を訪れた。
「咳が止まって良かったですね。これで小説の方も頑張れますね」
 なんと、藍ちゃんは僕が小説を書いている事を知っているようだ。いつ言ったのだろうか。僕は覚えていないのだが。
 公募には向かないが、習作として藍ちゃんと僕のロマンス小説を書いてみようかなと思った。そんな事をしたら藍ちゃんに怒られるかしら。
 ついでに、権田医師に会って、咳に使うその他の漢方薬に関して色々質問した。将来漢方医学を小道具にした小説を書こうと思っているがその為の取材である。
「漢方薬が発祥の頃の病気と云えば、現在のような臨床検査によって診断する病気の概念は無く、熱とか、痛み、下痢、咳、痰、倦怠感、その他身体に感じる症状を示すものだけが病気と考えられていたんだね。一番、多かったのは、やはり感染症だと思われる。何しろ、その頃は人間の平均寿命が短かったため、現在のような生活習慣病や認知症などの、比較的高齢になって起こる病気は殆ど病気として認識されなかったと言ってよい。発熱や咳などはその頃の病気の主流だから、色々な処方があるね。おそらく、現在の健康保険で使える医療用漢方薬の中で、咳に対する処方が一番多いのではないかな。この中で、僕が良く使うのは、空咳には麦門冬湯(ばくもんどうとう)。これは気管粘膜が乾燥して過敏になり咳が出ると言うことで、気管粘膜を潤す作用があって咳を抑えると言われている。だから、眼の乾燥、口の乾燥などの、いわゆる乾燥症候群にも使われて、かなり効果が認められているようだ。鼻水が出るときは小青竜湯(しょうせいりゅうとう)、麻黄附子細辛湯(まおうぶしさいしんとう)、これは花粉症にもよく使われる。痰のでる咳には清肺湯以外に色々あるがね。ここで一々説明する事は出来ないが、また機会があれば説明する事にしよう。ところで、小説の方は進んでいるかね。僕の知人が、太宰治賞で一次選考を通過して喜んでいたがそんなものかね」
「太宰治賞の一次選考通過は、素人作家にしては大したものですよ。これの賞で受賞してプロ作家になった人がいますから、登竜門の一つですね。実は、ぼくも一次通過しました」
「ほう、それは楽しみだ。鶴崎君には藍ちゃんも期待しているようだから頑張りなさい」 
 帰りに、お寺の屋根の鬼瓦を見ると権田医師が笑っているように見えた。

                  了

権田医院診療録ーー咳を止めるな

執筆の狙い

作者 大丘 忍
p1611005-ipngn200303osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

権田医院シリーズです。私の知人に太宰治賞を受賞した方があります。鶴崎君にも早く受賞してもらいたいですね。

コメント

偏差値45
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冒頭の二、三行、ちょっと伝わりにくい、という印象。
とはいえ、指摘する程のことでもないのかもしれない。

内容は、塾講師がせき、たんの症状から病院に行って、
せきは止めないと言われて疑問に思う話。

小説の中でいくつかの正確な解釈できない医療の用語もあり、
個人的には少々問題ですね。
もちろん、ネット検索を使用して理解する気はありません。

全体としては、面白味は理解できるし、経験上納得できる点もあり、
共感はできます。

>権田医院シリーズです。私の知人に太宰治賞を受賞した方があります。鶴崎君にも早く受賞してもらいたいですね。

うーん、自慢話として受け取られてしまう可能性があるので、要らないかな。

大丘 忍
p1611005-ipngn200303osakachuo.osaka.ocn.ne.jp

偏差値45様

コメントはないものと思っていましたが。

難解な漢方医学的考え方をいかに理解しやすく述べるかが目的です。小説風に書けば理解しやすいのではないか考えました。
漢方医学の考え方はややこしいので、権田医師に優しく解説してもらえると言うのがこの小説の目的で、漢方医学的には正しいことを述べております。これで少しでも漢方医学に親しみを持っていた抱ければと思っております。

知人が太宰治賞を受賞したことは自慢にはならないけれど嬉しいことは確かですね。

カルナック
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作品の批評ではなく、すみません。

新型ウイルス蔓延の今にあって、内容そのものが参考になりました。
こちらを読んでから、たんの色を毎回確認しております。
軽く咳が出ても、たんは透き通っているのでまだなんでもないかなーとか。
日本でもいまや、報道されている数以上の新型罹患者がいそうです。
それにしても、中国の死亡者数の多さは、単純に患者数の違いだけとは思えませんね。日本では重症化している人すらあまりいないのに。この差は何でしょうね。

大丘 忍
ntoska043001.oska.nt.ngn2.ppp.infoweb.ne.jp

カルナック様

読んで頂き有り難うございます。
新型肺炎は憂慮すべき状態ですね。私はまだ診ておりませんが、聞くところでは致死率
はインフルエンザと同じくらいとのことで、それ程高くはないのですが、なにしろ伝染
病ですから早く収束してもらいたいと思います。
幸いに、日本での死亡率はあまり高くないのですが、罹患者の年齢や基礎疾患の有無も
関係していますから、一概には言えませんが、日本では伝染病に対して神経質に対応し
ていることが関与しているのではないかと考えます。

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