作家でごはん!鍛練場
佐藤

望月、灰燼を照らす

 ぼろをまとったふたり組を、甲冑姿の男たちが、顔に笑みさえ浮かべて追い立てる。
「おらっ、もうすこし気張ってみせろや!」
 投げられた石が、一人の背中に当たった。それで倒れるということはない。だが、足取りは目に見えて鈍る。
「張粋(ちょうすい)!」
 先をゆく男が声を上げた。
「構うな! 行けっ!」
 痛みに顔をゆがめながらも、張粋は叫ぶ。
 迷ってなど、いられるはずもない。みるみる間に追っ手は迫り来る。
 張粋の言葉に、しかし男は従わない。タチドマリ、張粋の手を取りに戻る。
「ばかな、戴昱(たいいく)っ!」
 獲物が自分から向かってきてくれているのだ。喜ぶべき展開のはずである。だが、追手の目に浮かぶのは、失望。
 張粋がその表情に激高する――
 よりも、早く。
「相変わらずだな、ヘドが出る」
 声とともに、茂みから無数の矢が飛ぶ。
 追っ手の笑いはたちまち恐怖で凍りつき、脳天に矢を受け、崩れ落ちた。
 倒れたのは先頭の数人である。いまだ数人は残っていた。彼らはすぐさま円陣を組み、全方位からの襲撃に備えた。
 いや、全方位ではない。
「上だよ」
 声とともに降ってきた男は、降りしなに二人の、着地後には一人の首筋を懐剣で割いた。
 さらに二人が血の海に沈む。残るは、一人。
「あ、っあ、ああ……」
 腰が抜け、倒れる。ろくろく歯も噛み合わない。
 男が冷ややかに、相手を見下ろした。
「殺される覚悟もないわけか。気楽でいいな、北府の犬は」
 相手を蹴り倒すと、男は張粋らに振り返った。その立ち振る舞いはしなやかで、例えるならば、猫、だろうか。虎と呼ぶには、やや細きにすぎる。
 茂みからは七、八人ほどがあらわれる。めいめい、手には弓矢を待っている。
「災難だったな、あんたら。よく逃げてきた」
 男は張粋らの前で立ち止まる。血にこそまみれているが、そこにはもはや、先程までの獰猛さはない。
 張粋と戴昱は、慌てて拱手(きょうしゅ)した。左手を前に出し、そこに右手を覆いかぶせる形の挨拶である。
「っか、桓謙(かんけん)将軍が配下、張粋と申しまする! ともにあるは、戴昱。この度は誠に――」
「あぁ、かたっ苦しいのはなしで頼む。いいんだよ、俺らはやつらを殺しに回ってる。あんたらはそのついでだ。ついでなりに感謝してくれさえすりゃな」
「む、ついでとは、また難しくござる」
「俺もそう思った」
 男はからからと笑う。周りの配下たちも、合わせて笑った。
「っと、俺が名乗ってなかったな。姚係祖(ようけいそ)ってんだ」
 その弾けるような笑顔のまま、姚係祖は拱手した。

 馬に乗せられ、目隠しをさせられる。途中何度か降ろされたあと、その場で回らされ、足がふらつくかどうか、といったあたりで再び馬に乗せられた。
 それを五、六回繰り返し、ようやく姚係祖が言う。
「面倒かけたな。着いたぜ」
 目隠しを外せば、正面には、切り立った崖にへばりつくような砦が築かれていた。
「ここの場所知られちまうのは、いろいろやべえからよ。なんで、匿うやつにゃみんな、同じことをしてもらってんだ」
 姚係祖の声が聞こえていたのか、どうか。張粋はあんぐりと口を開け、断崖を見上げる。兀突(ごつとつ)とした巌は、その先で霞の向こうに隠れる。
 促され、砦の中に入る。
 中には、少なからぬ老若男女。新たな訪問者に、みなが好奇の顔を向けてきた。
「桓謙将軍が配下、張粋殿と戴昱殿だ!」
 姚係祖が怒鳴る。すると辺りは静まり返った。その中にあって、すすり泣く声さえ聞こえ始める。
「姚殿。ここにおられる方々は、一体、どのような……?」
「あんたらのお仲間さ。家族を殺され、家を、畑を焼かれた。北府軍、劉裕(りゅうゆう)のクソ野郎に」
 その声色に激したところはない。だが、目の奥には底暗い火がうかがえた。張粋は息をのむ。あらためて周囲を見渡せば、何人かが近寄って来ていた。
「よく生き延びた、同志! 虎狼のごとき北府兵、さぞ恐ろしかったろうに!」
 そう涙ながらに訴える壮年は、見れば張粋らと同じ仕立ての服を着ていた。
「あなたも、西府に?」
 壮年は涙も拭わず、二度、三度とうなずいた。
「わしの上官は、都に攻め上がらんとする劉裕めを阻まんとなされた。が、あえなく一刀のもとに斬り捨てられた。そのままやつらの軍勢に飲まれかけたところを、姚係祖様に拾っていただけたのだ」
「お、おい、おっさん! そういうこと言うんじゃねえよ!」
 慌てふためく姚係祖を見て、周りから、ぱらぱらと笑いが漏れる。「ったく、勘弁してくれよ」ときびすを返し、砦の奥に向かう姚係祖の振る舞いは、思った以上に、若い。
 壮年が言う。
「ああいうお人よ。自分のことなど顧みず、北府の敵を助けて回っておられる。武技だけではない。そのお心も強くおられる」
「な、なるほど……」
 遠ざからんとする背中が、ふと止まる。
「張粋! 戴昱! おまえらが食わんのなら、用意した飯は、俺が全部食うぞ!」
 すでに呼び捨てである。
 ふたりは見合い、苦笑し、付き従った。

 広間に食菜と酒とが散らばり、その合間に寝息を立てる者らが転がる。窓際にたたずまう姚係祖は、広間のありさまを見てまなじりを薄らがせると、くい、と手にした盃を口元で傾げた。
 そこに、張粋が歩み寄る。
「勘弁してくれ。そろそろ落ち着いた酒にしてえ」
「なに。もはや酒である必要もございますまい。古来より言われております、月は人を酔わせる、と」
 張粋から見て、姚係祖の、さらにその向こう。黒ぐろとした夜天に望月(ぼうげつ)が煌々(こうこう)と居ます。
 姚係祖は口をへの字に曲げ、足元に落ちる影を見た。
「おまえの言葉に悪酔いしそうだ」
 その渋面はやや、緩い。
 張粋は微笑むとひざまずき、姚係祖を仰ぎ見た。
「姚殿は、まこと命の恩人。この襄陽の張粋にできることであれば、何なりとお申し付けください」
「だから、そういうかたっ苦しいのは――」
 そこまで言いかけ、ふと、止まる。
 思案の後、張粋を見る。
「お前、文章はいける口か?」
「人並みには諳(そら)んじているかと思いますが、何故そのような?」
 言わねえよ普通、諳んじるなんて。姚係祖は笑う。
「俺がこんなんだろ? いねえんだよ、書けるやつが。どんだけ叫んでみたとこで、声じゃ一里がせいぜいだ。だが文章なら、あっさり百里を超える」
「百里……」
 杯を放り、窓枠から下りる。
 しゃがみ込むと、その目線の高さを張粋に合わせてくる。
「それで、劉裕は力を得ただろう? あいつは手前を正義だと言い切った。ふざけた話だ、あいつのせいでどれだけ死んだ? どれだけのやつが悲しみに、憎しみに暮れた?」
 静かで、だが、圧のある声。
「姚殿も、やはり劉裕に?」
 思わず、張粋の口から言葉がついた。
 ひとときの間が落ちる。ややあって、言っちまったか、姚係祖が決まり悪そうに頭を搔く。
「まぁな。俺の兄貴はな、地元領主の苛烈な取り立てに反乱を起こしたんだ。鎮圧に来た劉裕の野郎も、かなり苦しめたんだぜ」
 へへ、と自慢げに笑う。
 だが、すぐに沈む。
「が、そいつが仇になった。劉裕の野郎、別動隊に、兄貴の故郷を襲わせた。偶然俺は狩りに出てたから難を逃れたが――その代り、俺が村に戻って来た時にあったのは、村の焼け跡と、兄貴、家族の首なし死体だ」
 張粋は息をのむ。
「ここで山賊まがいのことやって、確かに今んとこはどうにかなってるさ。けどな、そいつにも限界がある。こっから先にゃ、言葉が要る。やつの仮面を引っぺがし、その醜悪な姿を世にぶちまけなきゃいけねえからな」
 そうして姚係祖は、再び笑顔を浮かべた。
 覚えず、張粋の瞳に涙が浮かぶ。慌てて袖で拭い、拱手と共に顔を伏せる。
「この微力、決して惜しみますまい」

 ――杼軸之悲、奈何建武為所云乎?
(杼軸の悲、なんぞ建武の云いたる所たらんか?)

 以後姚係祖が剣を振るった地には、必ずその書き込みが残されるようになった。
 杼軸(じょじく)の悲とは、編み物のための糸車に通す糸もないほど困窮している、といにしえの悲歌に残された句による。過去に劉裕が、西府を打ち倒さんと決起したときに題目とした言葉である。民を虐げる西府に、どうして義があろうか、とうそぶいたのだ。
 その劉裕が、各地での収奪をほしいままとしている。そのような暴挙、どうして許されようか? それが、書き込みの含意である。
 一向に進展しない状況に業を煮やした劉裕は、やがて対策を講じた。武康、即ち姚係祖らが根城としている地に、一人の将軍を派遣したのである。
 その名を、朱齢石(しゅれいせき)といった。


  ○


 武康(ぶこう)の中央に設けられた広場に、生首の山が積まれる。それぞれには名札がぶら下げられており、その中には、先の武康県令の名もあった。
 朱齢石は首塚を前に、伴もつけず正座し、正面をにらみ据える。半刻ごとに一度、そのよく通る声で、叫ぶ。
「民庶(みんしょ)を虐げ、はて、国は栄えようか!」
 それ以外のことは語らない。民は朱齢石を好奇の目で見、あえて近寄ろうとする者もいない。朝方から昼を過ぎ、夕刻になるまで、正座をしたままだ。そして日が暮れるとやおら立ち上がり、県令府へと引き返す。
 そのような振る舞いが、一週間ほど続く。
 姚係祖は主だった者ものを引き連れ、武康の町に赴いた。折しも雨が降り始めていたが、朱齢石はやはり正座し、虫のわき始めた首塚を前に、変わらず叫んでいた。
「張粋、どうだ?」
「間違いありません、朱齢石です。桓謙様のもとで共に働きながらも、裏切り、劉裕についた男」
 自らの肩を掴む張粋の手が、ぎち、と音を立てる。
「そうか」
 それ以上の言葉はない。
 その代わり、姚係祖は、ただひとり大股で首塚に歩み寄る。あまりにも自然なふるまいであったため、誰も姚係祖を止めることができなかった。
「ずいぶんと下品なあつらえものだ」
 笑みすら浮かべ、朱齢石に向け、言う。
 対する朱齢石の面持ちも、また柔和なものに転ずる。
「無論、趣味ではありませぬ。なれど、精算さるべきは精算されねばならぬのです」
 朱齢石が、懐から一本の竹片を取り出し、姚係祖に渡す。そこに記されていたのは「杼軸之悲、奈何建武為所云乎?」である。
 ぱきり、姚係祖の手元で、竹片が折れる。
「建武将軍どのかよ。ご健勝そうで何よりだ」
「車騎将軍は、義心をもって民庶と向かい合わんとなさっておられるのです」
 笑みをこそ残しながらも、両者はにらみ合う。
 ややあって朱齢石は立ち上がり、拱手をしてみせた
「姚係祖殿にございますな。お待ちしておりました。下官(わたくし)は、沛(はい)国の朱齡石と申します」
「ああ。で、何の用だ?」
「劉車騎は、姚係祖殿の登用をお考えでいらっしゃいます。曰く、蒙(もう)を啓(ひら)かれた、と」
 朱齡石の言葉は、姚係祖自身はさておき、その周りに侍る者たちを大いに揺るがすに足るものであった。
 演技がかったしぐさを交えながら、朱齢石は語る。
「武を以て天下に臨むに、ただ戈矛(かぼう)を振るうのみであれば、いきおい大義は損なわれましょう。なればこそ車騎は姚係祖殿の剣により、少なからぬ痛手を負われました。この点を、車騎は重く見ております」
 姚係祖は鼻で笑う。
「ずいぶんとうまい話だ」
「仰る通り。ならば、姚係祖殿のご判断に任せるしかございませぬ」
「なに?」
 いぶかる姚係祖に対し、朱齢石はくるりと振り返り、背中を見せた。
 天を仰ぐ。
「間もなく、この武康に車騎がお見えとなります。あなた様にとっての仇敵、怨敵が、いかなる貌(かお)で、何をお考えでいるのか。それを確かめるのに、この上なき期にございましょう?」
 ちらりと目のみで振り返り、挑むような、あざ笑うような、へつらうような、いわくし難きまなざしを飛ばしてくる。
「面白い。乗ってやろうじゃねえか」
 寸刻ほどの迷いもなく、姚係祖は答える。周囲からは口々に姚係祖をとがめる言葉が出るが、取り合おうともしない。
 そう仰っていただけると思っておりました、朱齢石はあらためて向き直り、姚係祖に拱手を示した。

 武康県令府に姚係祖と張粋が姿を現すと、守衛はうやうやしい拱手ののち、開門の号令を挙げた。
「不思議なもんだな。まさかこの俺が、お役所に歓迎されるなんてよ」
「何をのんきな……それに、どうして伴が私のみなのです」
「決まってんだろ、おまえが一番弱いからだ。朱齢石のやつは、それでもこっちに身一つをさらしてきやがった。だのに俺が護衛なんぞ付けられると思うか?」
「思いますとも」
 迷いなき即答に、姚係祖は大いに笑う。
 案内人に続き、館に入る。宴まで待つよう通された小部屋には、一切の飾り気がない。
 落ち着き払った姚係祖と、腰が定まらず、きょろきょろと周囲を見回す張粋。二、三度落ちつけ、と声をかけてみたものの、効果はない。そこで姚係祖は調子の外れた声で歌い始めた。突然のことに張粋は目を丸めたが、ややあって相好を崩す。
「まさかこのようなところで、姚殿の詩吟を聴けますとは」
「めったにない機会だぜ?」
 姚係祖はにやりと笑うが、すぐさまその目つきが厳しいものに変わる。入口に目を走らせれば、戸口近くに、足音。
「お楽しみを妨げてしまいましたかな」
 朱齢石だ。
「暇つぶしだ。待ち飽きたんでな」
「それは申し訳ございませぬ」
 戸が開くと、礼服姿の朱齢石が拱手姿で現れる。顔を上げると、意図の見えぬ笑顔を示す。
「宴の支度が整いましてございます」
「ああ」
 張粋が、ごくりと唾を飲んだ。立ち上がった姚係祖は、ぽん、とその肩を叩くと、先導する形で進む。慌てて張粋も従った。
 武康県令府は、さほど大きな建物ではない。廊下に出て十数歩も進めば、突き当りの扉に当たる。その扉が開くと、やはり飾り気に欠けた部屋。
 その上座で、男があぐらを組んでいた。
 側には給仕と思しき者が、二人。そこに姚係祖ら三人を加えた、以上が宴の顔ぶれである。
 男が、その厳めしい口ひげを持ち上げる。
「良く来た。儂が劉裕だ」
 劉裕は酒盃をぐい、と飲み干すと、目で席を示す。劉裕からすれば、多くの酒菜を挟んだ、その向こう。
 しばし固まった姚係祖ではあったが、意を決し、劉裕の正面にどっかと座り込む。拱手を示す。ただし高さは、胸よりも下。
「劉将軍、お招きに感謝する。しかし、まさかこうも質素なものとはな」
「好かんのさ。歌も、踊りもな。肴(さかな)なら貴様一人で事足りる」
 さきほど乾したばかりの酒盃に、劉裕は手ずから二杯目を注ぐ。ただし自ら飲むわけではなかった。姚係祖の眼前に突きつける。
「余計な小細工はせんよ。まずは飲み、食え。腕にはよりを掛けさせた」
 酒盃と劉裕の顔とを見比べた後、姚係祖は受け取り、やはり一息のもとに飲み乾す。劉裕はうなずくと箸を取り、料理に手を付け始めた。
「張粋殿はこちらに」
 朱齡石が示したのは、姚係祖らが向かい合うよりもやや手前、品数こそ主賓らには及ばないが、それでも色とりどりに取りそろえられた食膳である。
 先に朱齢石が上座側に着座すると、その手前に張粋を促す。
 一度、姚係祖を見る。
 振り返りはしない。
 どころか、そのうなじあたりに汗が滲んでいるのが見えた。
 姚殿、呻くように呟いたあと、恐る恐るの体で張粋も席につく。
「将軍、俺がここに来た理由は一つだ。あんた、本当に収奪をやめるのか? これ以上、民を苦しめることはねえのか?」
 料理には手もつけず、姚係祖が切り込む。対する劉裕は、箸も止めずに答える。
「ない。思い知らされたからな。貴様のような者を生めば、軍を強めるはずが、かえって被害を出す」
 それよりも食え、と劉裕が促してくる。
「それにな。収奪は割に合わん。あんな不安定なやり方に頼れば、得られる物資の見通しも立たん。これから儂らは外に打って出る。そのためにも体制を正さねばならん。此度はその、良き契機となった」
 姚係祖は相も変わらず、酒のみを流し込んでいる。
「礼を言われるようなことじゃねえ。俺はおまえに肉親を、仲間を殺された。なんだったら、今この場でくびり殺してやりてえくらいだ。だが、そんな俺でもわかることだってある。なら、おまえの代わりに誰がこの国を引っ張ってけんのか、ってのをな」
 だん、と、盃を置く。
「将軍。俺がおまえを許すこたあ、ねえ。だが、いま残されてるやつらが笑ってられるってんなら、話ゃ別だ。使いこなしてみろ」
 ふむ、と劉裕があごをしゃくる。
「自らよりも、ともがらのため、か。好ましいぞ、姚係祖。我よ我よと言い出す者は、とかくわずらわしいのでな」
 盃を置き、食膳を除け。
「ならば、貴様には話しておこうか」
 ぐい、と劉裕が、姚係祖に寄る。
「今の儂にはな、より強き将が要る。この国は未だ多くの外敵に囲まれている。やつらをねじ伏せおかねば、民の安寧などありえまい。貴様を招いたのも、そのためよ。そして直に語らい合い、はっきりと分かったぞ」
 劉裕が、姚係祖の肩に手を置いた。
 浮かべるのは、見下しきった笑み。
「――貴様十人ぶんの武で、朱齡石ならば、なお釣りが来る」


  ○


 姚係祖に振り向いた朱齡石の袖口から、三本の短刀が飛ぶ。腰元に、脇口に、そして腕に刺さる。
「!」
 苦悶の声を上げる姚係祖を、劉裕が突き飛ばす。立ち上がろうとする間には、すでに朱齢石が間に割り込んでいた。
 姚係祖の判断は素早かった。
「張粋!」
 朱齢石に肩をぶつけて押し飛ばしたあと、張粋を抱え、部屋から逃げ出す。
「出会え! 謀反者ぞ!」
 背後から朱齢石の叱咤が飛ぶ。合わせて、姚係祖らの前に兵士らが姿を表した。
 姚係祖は肩口に刺さった短刀を引き抜き、得物とする。真っ先に躍りかかってきた兵士の剣を短刀で受け、いなし、奪い取る。
 そして、斬り捨てた。
「よ、姚殿?」
「なにも考えるな! 逃げるぞ!」
 姚係祖の顔色は見るからに青く、短刀が刺さった傷口からの出血はおびただしい。
 行く手を阻まんとする兵士らは、姚係祖の相手にならなかった。姚係祖が雄叫びを上げれば兵らは怯え、あるいは退くものすら現れる。
 無人の野を征くがごとく、である。姚係祖の足取りは鈍らない。
 折しも物資の出し入れにぶつかったか、武康県令府の門は開け放たれていた。駆けつけてくる姚係祖らに気付き、慌てて閉めようとするも、遅い。
 姚係祖は一人を斬り伏せ、門にたどり着くと、後ろにつく張粋の襟首をむんずとつかみ、外に放り出した。そして自らは門の前に立ちはだかる。
「張粋! ここは俺が守る!」
「そ、そんな! 私などを――」
「黙れ! 行け!」
 有無を言わせぬ口調でありながらも、姚係祖の面持ちは、やや柔らかい。だが、それもわずかな間に過ぎない。
 朱齢石は、もはやすぐそばにまで迫る。
「おぉおおおおお!」
「う、うわぁああああ!」
 姚係祖と張粋、両者の叫びは絡み、しかしすぐさま離れゆく。
 脇目も振らず、張粋は走った。
 武康の町のうち、乱雑に小屋が建てられ、入り組んだ街路が形成された区画に入り込む。
 張粋を追い立てる声たちが小さくなる。力尽き、立ち止まったとき、近辺から兵たちの声は消えていた。
 肩で息をし、やがてその腰は砕け、路地に倒れ込む。
「おい、おやじ。どうした?」
 粗末な小屋の中から、ぼろぼろの衣を身にまとった男が出てきた。歩み寄り、張粋の肩に手をかけると、囁きかける。
「何が起こった?」
「――よ、姚殿が」
 張粋が言えたのは、それだけである。
 だがそれだけで、男――戴昱(たいいく)の顔つきは強張る。
「わかった。もう、何も言うな」
 周囲を見回したあと、男は張粋の肩を担ぎ、小屋の中に引き入れる。
 遠くでは、謀反者を追及する声が上がっていた。

 あれから、何日が経ったのか。
「なっ、貴様は――」
 小屋の外で、骨を打つ鋼の音がした。
 うつろな眼差しでいた張粋が、否応なしに目覚めさせられる。しかし身動きを取ることは叶わない。腰を浮かべこそしたものの、あえなく尻餅をつく。
 小屋の扉が叩き割られると、薄暗かった室内に容赦なく光が注ぎ込まれた。いちど張粋は目を背けたが、その手でひさしを作り、目を細めながら入り口に向き直る。
 後背より光を受け、そのすらりと伸びた上背は、しかし影の塊である。
 その後ろには血にまみれ、地に伏す戴昱の姿がある。
「しばしのお見限りでございましたな、張粋殿。お迎えに上がりました」
 影は慇懃に、甘ささえはらみ、張粋に呼びかける。
 声を上げる暇もない。張粋は組み伏され、縄をかけられた。その上で目隠しと、口には轡がかけられる。
 もがいてはみるものの、取り囲むのは屈強な兵たちである。数人がかりで担がれ、申し訳程度に寝藁の敷かれている監獄車に放り込まれる。
 先程の声の主、朱齡石が出立の号令をかけた。
 自らは馬に乗り、動き出した監獄車の隣に並ぶ。
「ようやく、張粋殿をもてなす準備が整いました。表向きは謀反人とせざるを得ぬため、乱暴な扱いになってしまいましたこと、お詫び申し上げます」
 一団は武康の町を出、東南に連なる山々に向かう。
「姚係祖殿は、まことに惜しき人材にございましたな。なれど、悲しきかな。その武では、かのお方の罪はあがない切れませぬ」
 進む道の左右を草木が覆うようになってきた。かたわらに流れるせせらぎは木漏れ日を受け、ちらちらときらめく。
 張粋にできるのは、うめき声を返すこと、くらいのものだ。
 朱齡石が張粋の轡に手を伸ばし、外した。
 しばし息を荒らげたあと、朱齡石の声がする方に顔を向ける。
「私を、どうするつもりだ」
「姚係祖討伐の補佐の功を以て、特別にその大罪を不問といたします」
「なんだと?」
 やがて一団は山道に差し掛かった。そう急峻な道ではない。だが、歩みはどうしても鈍らざるを得ない。
「車騎は仰りましたでしょう。下官の武が、姚殿を十倍して余りある、と。やや誇張はされこそすれ、それは揺るぎのなきこと。ならばなぜ下官が、あの場で姚係祖殿を討ちもらしたのでしょうか? どうして、あなたさまを見失ったのでしょうか?」
 小鳥たちのさえずりが辺りを彩る。合わせて辺りに充満していた草いきれに、異質なものが混じり始める。
 それは血と、肉の焦げた匂い。
「姚係祖殿を讃えるのであれば、その武よりは、むしろ己が足跡を隠し通される手立てでございましょう。事実我々は、姚係祖殿がどこに潜まれておるかを見いだせずにおれました――」
 車が、止まる。
「――あなた様が、お仲間に姚係祖殿の死をお伝えになるまでは」
 目隠しが、解かれる。
 飛び込む景色に、張粋は目を見開く。
 上げるのは、声ならぬ声。悲鳴とも言えた。
 正面にそびえる、切り立った崖。
 そこにへばりついていたはずの、砦がない。岩肌はすすにまみれ、そのたもとには未だ煙を立ち上らせる炭が散乱している。
 その手前には、人の形をした、黒い塊の山。
「お仲間は、我らの目から自由であったと思っていたのでしょうな。一切の謀りもなく、我らをこの地へと導いて下さりました」
 叫びやまぬ張粋が、監獄車より降ろされた。
 一人の兵から、腹に膝の一撃を受ける。
 かは、と息の塊を吐き出すと、張粋はうなだれた。
「失敬。話を進めねばならぬものでしてね。あらためて申し上げます、張粋殿の功績は並ならぬもの。なれど、あなた様が姚係祖と連れ立ち、反旗を翻してこられたのも、また事実。この点をいかに裁くべきか、車騎はお考えになりました」
 朱齢石は懐から竹片を取り出した。そこに記されていたのは、やはり「杼軸之悲、奈何建武為所云乎?」である。
「その車騎の目に留まりましたのが、こちらです。車騎は仰っしゃりました。含意を最低限の文字に込め、突きつける。その創意そのものは讃えるに値する。なれど、我が官位は皇帝陛下より賜りたるものである。我が官位を否定するは、陛下のお心を蔑ろとするに等しい。このような不遜なる句を綴る筆には、然るべき罰を下さねばならぬ、と」
 縄が解かれると、その両手を重ね、板の上に載せられた。更にその上にあてがわれるのは、朱齢石が抜き放った、白刃。
「まっ――」
 張粋が言えたのは、そこまでだった。
 手首より上、二寸ほど。
 ごり、という音とともに、張粋の四指が切り落とされる。親指もまた、つま先より、はじめの節までが。
「ああぁあああぁあああ!」
 激痛に、張粋がのたうち回る。動きに合わせて、周辺には血が飛び散った。そのうちのひと粒が朱齢石の頬につく。
 そこで初めて、朱齡石の笑顔が消えた。腹立たしげに舌打ちをすると、懐より手ぬぐいを取り出す。
 とは言え、拭き取ったあとにはもう、先程までの笑顔を取り戻す。
「以上で、裁きは終わりました。晴れてあなた様は自由の身。仲間と旧闊(きゅうかつ)を叙(じょ)するもよし、下山なさるもよし。我らがこれ以上、あなた様に関与することはございませぬ」
 のたうち回り、叫ぶ張粋に、その言葉はどこまで届いたのかどうか。そのありさまをしばし眺め、朱齡石はことさらにうやうやしく拱手する。
「それでは、息災にあらせられませ」

 どれだけの時間、張粋は叫んだことだろう。
 声と、涙。唾液と、血。あらゆるものが枯れ、もはや満足に身動きを取ることもできない。
 寝返りを打ち、仰向けとなる。
 とうに、夜は更けていた。
「――」
 何かを言おうにも、言葉にはならない。
 遠く、狼の鳴き声が岩肌に響く。近くでは、そこであった惨劇など知らぬかのように、虫たちが歌い上げる。
 いまし日の面影が、ことごとく喪われた中。
 望月だけは、変わらず天にて輝いていた。

望月、灰燼を照らす

執筆の狙い

作者 佐藤
i58-94-168-23.s41.a014.ap.plala.or.jp

自分の書くものが主観三人称に寄っていたので、最近は完全三人称を書く練習をしています。そのため地の文がやや硬くなっているかもしれません。物語の展開は問題なく頭に入ってくるでしょうか。また、どこかおかしな表現などはないでしょうか。ご教示いただけましたら幸いです。

コメント

松岡修子
136.205.49.163.rev.vmobile.jp

>タチドマリ、張粋の手を取りに戻る。
 なぜかカタカナ

>喜ぶべき展開のはずである。だが、追手の目に浮かぶのは、失望。
 張粋がその表情に激高する

 追手が失望するとなぜ追われている者が激高するのかがわかりません。

・追手、追っ手と表記揺れ

>追っ手の笑いはたちまち恐怖で凍りつき、

 追手はさっき喜ぶべき状況なのに失望していたはずなのに、ここでは笑っていることになっています。矛盾しています。

>その【立ち振る舞い】はしなやかで、例えるならば、猫、だろうか。虎と呼ぶには、やや細きにすぎる。

「立ち振る舞い」とありますが、「太刀さばき」と言いたかったのではないかと思います。
 ですが、使ったのは懐剣なので太刀ではないし、「剣さばき」が正しいのでははないかとも思います。
ところが日本の懐剣は片刃なので「剣」ではなく「刀」に分類されます。その場合は「剣さばき」は不適切なのではないかと思います。
 御作の舞台は中国のようですが、中国の懐剣が片刃なのか両刃なのかは知りません。もし両刃なら「剣さばき」が使えますが、片刃なら使えません。

 そして「立ち振る舞い」つまり所作を猫に例えていますが、これは問題ありません(とは言え「立ち振る舞い」は誤用)。しかし「虎と呼ぶには細すぎる」という箇所が問題です。あくまでも「立ち振る舞い」という【所作】を動物に例えていたのに、「細い」という【外見】が違うから似てないという主張になってしまっているからです。

>望月は煌々と居ます。
 なぜここだけ丁寧語なんでしょうか? もしかして「います」ではなく「きょます」と読むのでしょうか?

>姚係祖は主だった【者もの】を引き連れ、
 
 こういう言い回しを知らないのですが、「者ども」や「面々」ではないでしょうか?
 
>物語の展開は問題なく頭に入ってくるでしょうか。

 途中からわからなくなりました。短編なのに粗が多いのは見直し不足が原因だと思います。何度も見直ししましょう。

佐藤
UQ036011224162.au-net.ne.jp

松岡修子さん、途中までとはいえ、
校正のお手間を取らせてしまい恐縮です。

>タチドマリ
問題外ですね…

>追手が失望すると
 なぜ追われている者が激高するのかが
 わかりません。
怒りは「狩りを楽しんでいる」
ことに対するものですが、見えづらいですね。
セリフなどで描写を増やすべきですね。

>追手、追っ手と表記揺れ
お恥ずかしい。
見えておりませんでした。
ご指摘ありがとうございます。

>追手の矛盾
未整理ですね。整えたく思います。

>【立ち振る舞い】
この段階で戦いは終わっておりますので、
こちらは立ち振る舞い、です。
ただ、他で描写をドライにしているのに、
ここだけウェットになってしまっておりました。
その点も含め、見直したく思います。 

>居ます
こちらは自分に勘違いがありました。
「在(いま)す」、ですね。

>者もの
あえてこの表現にしてあります。 
 
>途中からわからなくなりました。
ご指摘を拝見し、確かににこれだけあると
物語どころではありませんね。
不完全なものに、それでもお目通し下さり
ありがとうございます!

上松 煌
p5943092-ipngn27701marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

佐藤さん、こんばんは

 拝見しました。
これは実にいいですね。
前作の恋愛物と違って、あなたの真骨頂が如実に出ていて、面白いです。
ただ、
タチドマリ=立ち止り
居ます=まします
余計な小細工はせんよ。まずは飲み、食え。=余計な小細工はせぬゆえ、先ずは飲み~
ですかね。

 姚係祖は最初のくだりに
   >>その立ち振る舞いはしなやかで、例えるならば、猫、だろうか。虎と呼ぶには、やや細きにすぎる<<

とあったので、
せっかちなおれは「姚係祖は女????」と思ったのですが、青年だったのですね。
確かに虎では壮健な壮年を思わせてしまう。

 首塚を前にしての奇行の主、朱齡石と姚係祖の対峙はこれからの展開の妙味を思わせてワクワクします。
また、劉裕との酒宴ですが、差された酒杯を姚係祖が疑いもなく飲んでしまうのは、展開としてどうでしょう?
酒杯の相手側の縁にのみ毒をぬり、毒殺という手もありますので。

   >>先に朱齢石が上座側に着座すると、その手前に張粋を促す。 一度、姚係祖を見る。 振り返りはしない。 どころか、そのうなじあたりに汗が滲んでいるのが見えた<<

 この怪しげな振る舞い。
先行きの伏線でいいですね。
案の定、策略があって姚係祖は傷つき、張粋は逃れおおす。

しかしながら、この辺りから展開の主旨が読者にはわかりにくくなります。
志を持って砦を築き、まるで梁山泊の宋江のように好漢たちを集めていた姚係祖があえなく横死????
そして砦は壊滅させられ、張粋は一命を救われるも手指を切られる。

 う~~~~ん、滅びの美学にしても、一矢報えないものですかね?
民衆を虐げる邪智奸ネイの輩が大勝利では、おれとしては不完全燃焼でした。
イントロが期待できただけに、竜頭蛇尾の気がしました。

佐藤
UQ036011224049.au-net.ne.jp

上松 煌さん。
いつもありがとうございます。

誤字についてはね……
見返し、微調整、を繰り返しているうちに
新しいミスを生み出してしまうとか、
なんともはやでございます。

居ますは「在(いま)す」、でした。
字を間違えて覚えておりました、
お恥ずかしい。

劉裕のセリフについては、
重厚過ぎないようにしたために、
あえて軽くしてあります。


物語の展開としては、
やや見えづらくなってしまったでしょうか。

もともとオチのために
書いていた話だったのですが、
想定外に序中版が膨らんでしまい。
そこをうまく接続しきれなかったな、
と悔やんでおります。

オチにつきましては、
「とにかく救いのないものを」という
暗い情念に突き動かされてしまったため、
あの結末となっております。

好きなのですよ、こういう、
巨大な力になすすべもなく
踏み潰される好漢、という図が。
あまり良い趣味でないのは存じております笑

ただ、読者に絶望させたければ、
もう少し緻密にラストに至るまでの
展開を細かく追うべきでしたね。
書き急ぎが出てしまったよう思います。


このあたりを踏まえ、もう少し
書き込んだ版も作っておかねばな、と
感じ始めました。

ありがとうございます!

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