作家でごはん!鍛練場
うさみかずと

なんでもないんよ

あらすじ

 僕たち夫婦は結婚当初から子どもが欲しかった。
 入社13年目の僕は地域情報誌を作っている。主任として営業課のチームの動向を見ながら、既存客の更新や新規客の獲得に苦戦し、上手いように営業ノルマを達成できずにいた。妊娠ができなくて悲しむ彼女に当たり障りのない言葉しか言ってあげることができない僕は、いつものように営業エリアの葛飾区亀有を歩いていた。
「おう、まっつん。なんだ久しぶりだな」
目の前に、高校時代サッカー部のチームメイトだった佐伯比呂が現われて。
葛飾区亀有に住む佐伯比呂との再会が僕をちょっとだけ強くする。
そんな僕の物語。



























           1

 器用すぎることは、実は、とてもむなしいことかもしれない。
 マンションのリビングで机に肘をつきながら僕は、目の前にあるパソコンのディスプレイを眺めていた。スマートフォンのアラームが鳴る。もう夕方の六時だった。
 あと五分もしないうちに美玖が帰ってくるはずだ。「お仕事ひと段落できた?」と彼女はいつもみたいに臆面もなくとした口調で聞いてくるだろう。三十一歳の美玖は、僕より四つ年下で、僕の要領の良さもそのせいで物事をあっさり諦めがちな性格もよく知っている。
 だってなんとなくその先がわかるのだもの。しょうがないじゃないか。
 ため息をこらえながら、内心で、写真の中の父に語り掛けた。額に飾ってある家族写真に写った父は相変わらず眉一つ動かさないでこっちを仏頂面で眺めている。
「お前は器用貧乏だよな、勉強もサッカーもたいてい人並み以上にはできるけど、突出したものがない。なんかワクワクしないんだよな」
 厳格な父は生前、僕のことを特別悪く言わなかったが、特別褒められた記憶もない。ただずっと男の子を欲しがっていた父は、末っ子の僕を可愛く思っていたのは本当で、今思えばああ言って照れ隠しをしていたのかもしれない。まぁそのおかげで、僕はすっかり自分を器用貧乏なのだと頭に刷り込まされてしまった。
「でもお父さん、器用だといろんなことができますよ。だって不器用な人よりも選択肢が増えるのだもの」七年前、僕が美玖を両親に会わせた時の食事会でそう父に言い返したことがあった。父は美玖の返答に高らかに笑い、「美玖さんせがれを頼むよ」と満面の笑みで言った。僕は父が美玖を気に入ってくれたことをとても嬉しく思った。
 器用だから選択肢が増えてあれこれ考えることが増えるし、考え抜いて選んだ選択肢の先が必ず最善のものとは限らない。僕から言わせればそうだ。
「結果がダメだと分かっていてもいいじゃない。どうせやることを選んでも、選ばなくても答えが同じならやるだけやってみて後悔する方がいいじゃん」
 いつだったかな、僕は美玖に「その言い方じゃ君と結婚したこともいつか後悔するみたいに聞こえるんよ」と訊ねてみたことがあった。美玖はその時もあっけらかんとして、
「それは私が後悔しなければいいの、由紀くんに選択肢はない」
「なんだそれ」
 このままずっとパソコンとにらめっこしても、いい答えが出るわけでもない。立ち上がり、上半身を反らし、軽いストレッチをした。
 ハンガーにかけてあったジャンパーを取る。高校時代に使かっていたものではあるが部屋で着る分には使える。腕を通し、光をよく通すミラーレースのカーテンの向こうのベランダに赴き外に目をやる。全然興味もない高校野球のテレビ放送が終わると同時に夏が終わり残暑を残しながら日に日に秋の訪れを感じる。いまだって秋らしいひつじ雲が薄灰色の影をつくり横からの陽光に照らされて美しい姿を演出している。
 あぁそうかもう日が沈む。
 この年になって夕焼けがきれいだと知った。まるで僕や僕の周りの人間が目に見えない営業成績とか評価とかそう言った類のものに追われ慌てふためいている姿を、憐れんだ周囲の自然が皮肉なことに活き活きしているように見えるからかもしれない。
 風が吹き込んできて、コンロの上に置いた昨日の残りのカレーの匂いが鼻をつついた。
「ごめんまた生理来ちゃった」
 昨日、美玖がそう言ってきたのは、夕食を食べている時だった。
 僕は口の中に残ったカレーを水で流し込み「そうか」と続けた。
「なんで妊娠できないんだろうね、不妊治療だってしてるのに」
「うん、でも子どもってタイミングもあると思うし美玖が悪いんじゃないよ」
「でもさ、きっと私に原因があるんだよ。由紀くんはなんの問題もないって先生が言っていたし」
「それは美玖だって同じじゃないか」
「でも」
「・・・・・・病院かえてみよっか?」
 美玖は頷いた。僕は何一つ励ましの言葉が見つからずその後は黙々と味がしないカレーを食べていた。
「由紀くんあのね、今日仕事で面白いことがあったの」
 すぐに明るく話をする美玖の面白い話は特にオチがなく、とってつけたような内容で脚色も下手くそで全然面白くなかったが、彼女がつまらない話を一方的に話すときは、僕が決まって落ち込んだ時だった。
だから僕は必死に笑顔を作るんだ。と同時に妻に気を使わせてしまったことに情けなくなった。いっそのこと泣かれてくれた方がこちらとしては幾分気が楽になるものだ。
僕はその日の夜、美玖に寄り添ってその身体を抱きしめた。美玖の体温が静かに僕の身体に伝わりお互いの心臓の鼓動が合わさる感覚に浸っていた。
「くるしい」美玖は笑いながらそう言って寝がえりをうち僕に背中を見せた。僕は美玖の頭を撫でながら「大丈夫だから、大丈夫だから」と何回も意識が遠のいていくまでつぶやいた。

玄関のドアにかかってある市のゴミ回収の日にちを示すカレンダーにも赤ペンで丸印が書き込まれている。「大森レディースクリニック」最近できた婦人科の名前が美玖の字で書き添えてあった。
 
 
 外回りのため電車に揺られ、自分が営業担当する葛飾区のエリアに向かう。午前中は新規獲得のため在社しテレアポ架電を行ったが中々確度の高い案件はなかった。午後は既存のクライアントとの原稿の打ち合わせと更新のアポイントが二件入っていた。カバンの中に入れた今月号を携えて、今月の反響を聞き、良くないようなら昨日作った修正原稿を見てもらう。それが僕の仕事だ。
 僕は地域の情報誌を作っている、
広告プランナーだ。


       2



 中国では鳩を丸焼きにして食べるらしい。大学時代に中国からの留学生に教えてもらったことを思い出した。
 亀有公園のベンチに座った僕は、集まってきた鳩たちのエサをねだるわけでも、へりくだるわけでもなく自分を見上げるニヒリスティックな表情に苛立って、突発的に手をならすと鳩たちは勘づき、一斉に攻撃可能範囲から離れていく。その近すぎず、遠すぎずの絶妙な距離感は、反対に自分の方が軽くあしらわれた気分になる。
 鳩たちは先ほどまで僕に向けられた興味を失い、両津勘吉像が座っているベンチに歩き去っていく。今度はなんだか仲間外れにされた気分になって、ため息が漏れ、陰鬱を誤魔化すように周囲を見渡してみた。
 住宅街のためか、幼い子どもを連れた母親の姿が見受けられる。公園の端の方に遠慮がちに並んだ遊具が木漏れ日に淡く光っていた。昼下がりの公園は解放感にあふれ、子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。できることならもう少しここに居たい気もする。
 この子たちの父親は、きっと幸せなんだろうな。亀有駅についてここで美玖が作ってくれたお弁当を三十分かけて食べ、残りの三十分をベンチに座って過ごすのが僕の最近の日課だった。
 もちろん日々の疲れを少しでも癒すためでもあった。
 だがそれ以上に自身の心の奥に抑え込んでいたぼんやりとしたセンチメンタルの渦が、いつか制御できないものとなって暴走しだすかという不安で、腰を上げることが出来なかった。
「さてと、仕事に戻るか」
 自分を鼓舞する独り言が、いつだってやる気のスイッチを押すきっかけになっていた。横のベンチに座る両さんに笑いかけ、鳩が手の届かぬ高みに舞い上がっていく。飛び立った瞬間の躍動感ある姿を僕は黙って見上げた。
 

「そうなんです。今年の十月から新しくリニューアルしまして、はい、はい増税前のキャンペーンというものをご用意させていただきました。はい・・・・・・、ありがとうございます。それではこちらのプランで進めさせていただきます」
 一言一句間違えることがない営業トーク。このクライアントは十年以上もお付き合いがあり、僕が担当になって二年が経つ。時間の流れとは恐ろしいもので今ではお互いに趣味の音楽の話しで盛り上がったり好きな女性のタイプも知っている。
「松永さんこれ来月の新作なんだけど営業所の皆さんで食べてよ」
「いいんですか大野さん。それじゃ遠慮なくいただきます。新卒の子がパン好きなんで喜びますよ」
 大野さんは玄関先まで見送ってくれた。僕は頭を深々と下げ笑顔を作る。こうして三十分にも満たない商談で僕は売上を三十万ほど伸ばしたわけだがそれでも月のノルマ達成にはほど遠く、今月の営業日数は残り半分もない。まして作り笑いもいびつになってきて、今から飛び込み訪問をして新規のクライアントを捜す余裕もなかった。
 足音が近づく.
まるで自分に向けて響いていくように感じて、振り向いた。
走ってきたのはサッカーボールを持った少年たちだった。しっかりとコンクリートを踏みしめて風や光の中を駆け抜けていく。背中の面影にかすかな勇気を与えられた気がして僕は拳を握りしめた。

 越谷にある営業所に帰社してからは、メールチェックと原稿に追われていた。新卒の宇佐美がまだテリトリーから帰ってきていない。冗談を言う者や無駄口を叩く者がいない、殺伐とした雰囲気に苛まれながら僕は着実に自分の仕事をこなしていた。
「うっち―原稿の修正デザイン課から上がった?」
「さっき上がってたー」
 ディスプレイ上のデスクトップに表示された共有フォルダ―に上がってきたデザインを確認する。すぐにこれではダメだと分かった。
 キャッチコピーの位置や背景の色合い、何より画一的なデザインでは読者の関心を引き留めることはできない。
「うっち―だめだ。デザインの再修正今から申請すれば明日には上がる?」
「うーん、分かったよーラフ書いて渡してー」
 抑揚のない手短な会話は、うっちーの語尾の余韻を耳に残した。
 クライアントの意思に沿いながらそのイメージを実体化して人に伝えるもどかしさをもう何年も経験している。
「松永さんいいですか?」
 名前を呼ばれて顔を上げる。目の前には事務の藤本さんが困ったようなまなざしを向けていた。
「すみません、どうされましたか?」
「松永さんのお客様で未入金がでていまして」
「え、分かりましたすぐに対応します」
 僕は忙しなくパソコンのキーボードをたたいた。未入金を確認するとすぐに電話を入れる。社用のスマートフォン越しに聞える呼び出し音。二回、三回、四回・・・・・・。
 時刻はすでに定時を超えていた。

電車が最寄りの駅についたときには時刻は午後十時を回っていた。自動改札を抜けて駅前の大通りにはちょっとした広場があって、すぐ目の前にたむろする青年の粘っこい笑い声が聞こえてくる。いつからここは青年たちのたまり場になったのだろうか。
 僕は早くもスタンバイするタクシー運転手を横目に広場からまっすぐ伸びる遊歩道を歩いた。我が家まで十分程度の道のりを自動販売機の明かりに縋るようにして足を進める。
 朝から働き通しの一日がもうすぐ終わる。
 僕はいつの間にか大人になって今年で三十六になる。十五歳の僕からしたらてっきり三十歳になる前に自分は死んでいると思っていたから、それを思えば充分に長生きだと言えるだろう。
 もう二十年も前の話しになる。考えただけで背中がぞくっとしてしまう。


       


                3

 僕たち夫婦は結婚した当初から子どもが欲しかった。具体的には二人か三人。男の子と女の子、あと一人はどちらでもよかった。美玖はあまり年が離れすぎていると一緒に遊べなくて可哀そうだからとできるだけ歳を近くしてあげたいとまだ見ぬ我が子を思い描いて楽しそうに言っていたことを思い出す。でも妊活を初めて三年も経てば焦りもでてくる。それなりに準備や計算をしていたにも関わらず、上手くいかなかったからだ。
「なぁ念のために病院で調べてもらおうか」
 僕は美玖が悲しむ姿をこれ以上見たくなくて、ついに三年前に検査をしてもらった。原因が分かれば今の医学でそれなりに対処できるだろうし、解決する方法もきっとあるはずだ。僕は一人で問題の解決の糸口がつかめると思っていた。
「特に原因はないですね」
 不妊治療で有名な浦和区にある婦人科医は、僕と美玖の前でそう報告した。
「いや、先生そんなわけないでしょ。遠慮しないでいってください」
「そうは言ってもですね、お二人になんの原因もないんですよ。ご主人の方は一般男性の精子の数値よりも多いですし、奥様に卵子も特に問題はないんです。これはタイミングの問題としか」
 先生は曖昧な返答した。僕は納得がいかず無言で先生を見つめていた。
「しかし、もっと詳細な検査をすることで原因が見つかるかもしれません」
「どんな検査ですか?」
 美玖が訊ねる。
「その前にもう一度お二人の生活や仕事の環境など教えて下さい」
 それから僕と美玖は、最近の会社でのことやプライベートで気になった些細なことまで先生に話した。もし原因を強いて上げるとすれば美玖の職場の環境に問題があり、美玖はストレスを知らず知らずのうちに体にため込んでしまう体質で、その影響が卵子に悪影響を及ぼしていると言われた。
「由紀くんごめんね」
 病院を出た後で、美玖は僕に頭を下げた。
「どうしたよ、そんな謝ることなんかないじゃん」
 僕はどうしても納得できなかった。先生の言っていることが正しいなら僕らには何も悪いところはないし、悪いのは美玖の職場の環境くらいだ。決して美玖は悪くないのだ。
「やっぱり私に原因があるかもだし」
「そんなことないって、まぁ気楽にやっていこうよ。それにまだ俺たち若いんだしさ」
 無理に笑顔を作って美玖を励ました。こういう時さらっと気休めの言葉が出てくる自分に驚く。
「それに子どもができたら、美玖はどうせ俺より子どもに愛情を注ぐだろ、そうしたら俺はただ家庭に金を運ぶだけの存在になって、悲しくて死んじゃうよ」
「もう、なにそれへんなの」
「ねぇ、せっかくだからお茶してかない? さっき調べたらおいしいって評判のケーキ喫茶があるんだって」
 美玖はやっと笑顔になった。僕は気をよくしてその後はいつものデートでするような会社での愚痴や初めてのデートで水族館に行ったの話しをしていた。帰りの電車の中で美玖は「どうしよっか?」と僕に訊ねてきた。
「何の話し?」
「検査のこと」
 先生が言うには不妊の検査は何度もやるべきで、治療をすることで妊娠する確率は比較的に上がるという。
「でも問題がないならやる必要もないし、案外簡単に妊娠するかもよ」
「私は、やっぱり早く由紀くんの子どもが欲しい」
 美玖は視線を僕から逸らすことなくじっと見つめ、手を握ってきた。
「わかったよ、やってみようか」
「いいの? お金かかるよ?」
「一生懸命働いて出世する予定だから大丈夫だよ」
「検査だって楽にできるやつばかりじゃないかもよ?」
「つらいのは部活で経験済みだって、俺華奢に見えるけどけっこう骨太なんよ」
「でも・・・・・・」
「これ以上脅かさないでよ、大丈夫だって」
 そうして僕はPKを外したプレイヤーを慰めるように美玖の頭をポンと叩いた。この時僕はまだ妊娠についてそこまで深刻に考えていなかった。
美玖は三十歳を超えて僕たちは、タイムリミットが迫ってくる感覚に苦しめられている。
 

         

 4

 この会社に入社して十三年、思い返すといろいろなことがあった。高校までずっとサッカー一筋で地元埼玉の部員百人を超える強豪校に入学し朝から晩までボールを蹴っていた。中学のときから僕は県選抜や大会の優秀選手に選ばれていた実績があり、あの時は本気でJリーガーになる自分を信じて疑わなかった。しかし、高校二年生になると上には上がいることを切実に思い知らされ、どんなに頑張っても三年生の最後の大会でスーパーサブとして五分間しかピッチに立つことが出来なかった。三年分の五分と考えるととても短い時間だがそんな僅かな時間にもピッチにいられたことはすごく恵まれたことで、ベンチにすら入ることは出来ずに引退した同級生がほとんどだ。
サッカーでは通用しないと思った僕は、大学へ入学した瞬間に未練を捨て遊びまくっていた。今風に言えばチャラ男というやつだ。
 あの頃は毎日のように飲み会に参加し、気に入った女の子がいれば声をかけ、持ち帰り、抱く。そして使い捨てのティッシュのようにまた他の女の子を捜し、飲み会に参加して、を繰り返していた。    
高校時代に鳴らした爽やかな黒髪を金髪に染め完全にいきがっているだけの恥ずかしい勘違い野郎だったから、就活を意識する友人が企業のインターンに次々と参加する三年の夏まで僕はふらふらしていたっけ。その時、僕には将来を約束したステディーがいて、確かに僕らは真剣に愛し合っていたんだ。そのころの僕は本気で真実の愛を信じていたし、彼女も同じ気持ちだった。僕は彼女に言われるがままに、就活に勤しみなんとか今の会社に入社できた。僕はこの人と一生ともに生きていくと思った。
しかし、社会人一年目は覚えることが多く、すれ違いが増え彼女とは別れた。今となってはなんでもないことだが当時は一日外回りの営業をさぼって空ばかり見ていたと思う。
 
          5

 ゆうロードを歩いていると、前方に勢いよく迫ってきた自転車に思わずたじろぐ。危うくケガをするところだったので、一言文句を言ってやろうと顔を上げる。視線の先に見た人物は僕がよく知る顔だった。
「おう、まっつん。なんだ久しぶりだな」
 突然ブレーキをかけたので、つんのめりそうになっている。
「久しぶり、高校以来か」
「いやぁ、何年ぶりだぁ今何してんの?」
「仕事だよ、外回り中」
 佐伯比呂は高校時代、サッカー部のチームメイトで、そういえば地元は葛飾だった。十七年ぶりに見たかつての友人はところどころに白髪が混じり、眉間のしわが深くなっているせいか貫禄がある。しかし、どこなく陽気でお調子者だった彼の面影は相変わらず健在で、僕は少し嬉しかった。高校卒業後、彼は実家の家業を継いだ。
「あのさ、お前再来週の火曜日暇か?」
「暇じゃないけど、毎週火曜日はノーザンデーだよ」
「サッカーやらないか?」
 佐伯は高校の寮で三年間を過ごしサッカー部ではおもにBチームで僕とダブルボランチを組んでいた。昨今では日本代表で遠藤選手、長谷部選手と同じだ。チームの司令塔的な存在の中盤のボランチは激しくマークされながらも全体の動きを把握して、前線にいるフォワードの選手にバスを送るそれが僕の仕事だった。佐伯はメンタル面と守備面でチームを鼓舞するのが仕事で、僕たちは二人で一人前だった。Bチームでは、バチバチに決まっていた僕たちのコンビネーションもAチームでの試合では全く通用せずに、コーチからはBの二大将と揶揄され、悔しい思いをしていたことを懐かしく思い出す。
 それでも国立を必死に目指す高校であったので簡単にレギュラーになれるわけもないのは分かっていた。
「俺は今浦和に住んでんだぞ」
「まぁいいじゃねぇか、車で送り迎えしてやるからよ」
 佐伯は車のハンドルを握る仕草を得意になって見せた。
「いやそれは悪いよ、どうせ火曜日は近くでアポがあるしそのまま直帰すればいいからさ」
「ありがとう、メンバーはおれに任せろとりあえず近所のサッカー好きとか、この辺に住んでいる後輩とか連れてくるからよ」
 僕はとりあえず笑って「任せた」といった。
「佐伯お前子供いるか?」
 別れ際、僕は彼に訊ねた。
「おう、今年で五歳になる息子がいるよ。可愛くてな来年娘も生まれる」
「そうか」
 じゃあまた連絡する、とラインのIDを交換して自転車のペダルを漕いで、遠ざかっていく。
 取り残された形になった僕は、時間を確認すると早足でアポイント先に向かった。昔のチームメイトがすごく幸せに過ごしていることに少しわだかまりを残した。
不意にどこからか赤ん坊の泣き声が聞こえて立ち止まる。空を見上げて、早いスピードで動く雲を見た。
音もなく過ぎ去っていく季節の流れに身を任せているうちに僕は死んでいくのだろう。せめてその時が訪れる前に美玖に子どもを抱かせてやりたい。そんな思いが一層強くなった。
「さぁ仕事、仕事」
 拳を固め自分の太ももを軽く二回叩く。
 今日はなるべく早く帰ろう。急に美玖の顔が見たくなった。

 
            6

       
 社会人になって五年目の春、僕は美玖と出会った。
 僕は、退職した元同僚が開いた合コンに行くところだった。「ハンサムな男紹介しろっていうからとりあえず来い」というような雑な誘われかただったと思う。
 仕事をすませて大宮の支社からコンパの会場である渋谷に行くために僕はスイカをチャージしようと券売機に足を運んだ。そこで真新しいリクルートスーツを纏った。いや纏われたと言った方がいいかな。困ったように駅の券売機の前に立ち尽くしていた美玖を見つけた。
「どうしましたか?」
 後ろから急に声をかけた僕に美玖は少し驚いていた。
「北千住に行きたいのですが、スイカをなくしてしまって切符の買い方が分からなくて」
「じゃあ駅員さんに聞いてごらん」そう言ってあしらうこともできたが僕は声を少し震わせ不安そうにしている彼女を放ってはおけなかった。
「一度赤羽に出るにしろ、上野まで行くにしろ乗り換えがあるから切符はその都度買った方がいいよ。それに俺もスイカ家に忘れちゃったんだ。こういう時いつもスイカだから分からなくなるよね」
 嘘をついた。冗談交じりに笑ってみる。彼女も自分と同じ境遇の人を見つけて安心したのか落ち着きを取り戻しつられて笑みをこぼした。
 そこから会話が弾んでどういうわけか僕と美玖は同じ電車に乗っていた。そこの記憶は曖昧なのに美玖とのおしゃべりがとても面白かったことは覚えている。結局僕は渋谷には行かずにいつまでも美玖とおはなししていた。

 仕事がやりにくいと感じるようになったのは、食べログやホットペッパーなどのネット媒体が周囲に認知されてきてからだった。スマートフォンの検索エンジンで「飲食店」と打ち込めば近くのお店が大量にでてくる。誰が考えたか知らないが、飲食店の評判を採点化することで消費者に分かりやすく選んでもらえるシステムが確立した。ペーパーレスとはよく言ったものだ。今じゃ紙媒体は消滅の道を進んでいる。まして地域情報誌といったポスティングのフリーペーパーはピーク時に比べて顧客を失った。
「新聞も雑誌も売れなくなった。だからこそフリーペーパーには地域の情報メディアとして大きな価値がある」
 支社長は口を酸っぱくして言う。その通りだと思う。
 しかし、だからこそ頭を下げることに虚しくなってしまうときがたまにある。
「反響がなくたっていいじゃん、だってお客さんに殺されるわけでもないし、昔みたいに切腹なんてしなくていいんだからさ」
 切腹という言葉になんだか笑ってしまう。昔ってだいぶ前だぞ。それでも美玖の物言いには思いやりがあって僕をそっと包んでくれる。
「きっとうまくやれるよ」
「そうかなぁ」
「由紀くんは器用だから」
 美玖の言葉はいつでも僕を奮起させてくれる。僕はこれ以上彼女の悲しい顔を見るのは嫌だった。
 
            7


 亀有に赴くと必ず佐伯と顔を合わせるようになっていた。四代続く畳屋を営んでいる彼は正午になると僕が昼休憩で用いる亀有公園のベンチに両さん銅像と一緒に座っているのだ。
「よぉまっつん、お疲れさん」
「おう最近よく会うな」
「なぁこれこの前言ってたお前の記事か?」
 だらしない笑みを浮かべた。奴に自分の仕事のことをさりげなく伝えた気も、していな気もする。
佐伯は僕が担当している亀有・柴又エリアの情報誌を目の前にぶら下げて見せる。
 そう言えば九月号が発行されたばかりだ。
「久しぶりにポストに入ってたからもしやと思ったんだ」
「そりゃどうも、だけど全部が俺の記事ってわけでもないよ。供給もある」
 僕は肩にかけた仕事用のバックを右手に持ち替えて、両さん銅像を挟んで佐伯の隣に座った。
「なかなか面白いじゃんこのパン屋さんなんて近くにあるのに意外に知らなかった」
 指さしたのは、一ページを基準にして半分のサイズのパン屋さんの広告だった。それはつい最近まで僕がデザイン課と一悶着ありながらも締め切り日ぎりぎりまで消費者の購買意欲を促そうと奮闘していたものだった。
「今度クーポン使って反響出してよ」
 二割冗談、八割本気になってお願いしてみる。
「考えてもいいぜ、それともこれから二人で買いに行くか?」
 ポケットの中にいれておいたのか佐伯はどこからともなく取り出した小さなハサミでパン屋さんのクーポンの部分だけ切り取って、唖然としている僕に突き出して面白がっている。
「お前にはかなわねぁや」と舌うちひとつ。
八つ当たりチックにごチンと叩いた壊れかけのスロットマシーンはコインの代わりにため息を吐き出した。
「諸々大丈夫かよ?」
 膝の上にのせた空っぽのお弁当箱をバックにしまおうとした時に佐伯は囁くように言った。  
「なんだよとつぜん」
 おどけてしまわぬように平然を装う。
「いやなんとなくな」
 沈黙。もし両さんが銅像じゃなかったらきっと「ええぇいつまらんお前らワシの前で物思いに老けるな」と無理やりにも会話を再開させるだろう。
「いい街だな」
 たった今、公園に入ってきた若いお母さんと小さな子どもを見てつぶやいた。佐伯は僕の視線の先を凝視してうなづいた。
「葛飾区は子育てしやすいよ、支援や手当が充実してるし、家賃相場も安い。それに川に囲まれてるから水辺の公園も多い」
「そうじゃないよ」
「違うのか?」
「うん、なんていうか俺が欲しいものがたくさんあるんだ。この町に」
「そんなこともねぇだろ、人はなんでもない顔してみんな何かを抱え込んでいきてんのさ」
 それから一言も言葉を発することはなかった。ただベンチに座って雲の動きを休憩時間が終わるまで眺めていた。そういえば両さんは諸説あるが年齢は三十五歳くらいだと考えられている。もしそうであれば僕たちは同い年になるわけだ。
 今日はそんなどっちでもいいことですら興味深く感じる。




         8
 

 僕は仕事を早めに切り上げ、久しぶりに七時前にマンションに戻った。美玖には会社を出た時に電話をしたから、ちょうど彼女は食事の支度をしていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 僕は上着を脱ぎ、ハンガーにかける。
 美玖は、以前の会社を辞め、現在人材派遣会社で事務員をしていた。時短のパートだ。地元では有名な会社で、時給も良いらしい。昔は、男が外で働き、女は家を守るのが当たり前だったが、今の時代そういうわけにはいまない。
 僕が部屋着に着替えている間に、美玖は次々と食卓に運んでいる。
 茶碗が二つに、ハンバーグを載せた皿が二枚と箸が二膳。ハンバーグが食卓に並ぶのは久しぶりで大根おろしとポン酢でさっぱりした味付けだった。
「仕事はどう?」
 最後の一口を食べ終えた頃を、美玖が箸をおき、僕の顔を見た。
「順調だよ」
「本当にそう?」
「嘘だと思おうじゃん、ほんとうなんよ」
 もちろん嘘だ。今日だって新規客の商談は上手くいかなかった。既存客との更新は先延ばしにされた。営業課では主任という立場で、他の営業マンの動きを急かすことにも疲れ果て、自分の営業ノルマ達成に必要な数字に急かされることにも疲れ果てていた。外回りの営業中、とうとう先を行く誰かの影にさえそっと道を譲ってしまう始末だ。
美玖は始めから僕の答えを知っている口調で癪だったけれど、事実そう答えるのがいっぱいだった。
「ならよかった」
「なんだよ」
「なんでもない」
 食器を二人で洗い終わると今度は、テレビの前に二人で向かいあう。
 先々月、映画館に観にいった「トイ・ストーリー4」に僕たちはすっかりはまってしまって、時間がある時はTSUTAYAで借りた「トイ・ストーリー」シリーズを見返すのがここ最近の日課になっていた。再生されたシーンはこの前の続きでウッディバズを助けるところから始まる。物語のその先を知っている僕には二人が繰り広げた大冒険はほんの序章にすぎず、これから待ち受ける彼らの運命を切なく思う。
 スタッフロールが流れ出し僕はレコーダーからディスクを取り出す。
「静かな夜だね」
 美玖は網戸にしたベランダからカーテンを僅かに揺らす夜風を眺めながら、言った。本当に静かな夜だった。
 しかし、一歩外に出れば、犯罪や汚職、オリンピック後に訪れる不景気の不安に苛まれ、巻き込まれる人の悲鳴や、助けを求める叫び声がこの街の路面からじわりと滲みだし、それらが半永久的に聞こえてくる。
 それが今この瞬間に至っては、しんしんと静まり返っている。カーテンを閉め切っているこのマンションのリビングの一室は、まるで発進を心待ちにしているタイムマシーンのように感じる。宙に浮かび上がり、この夜空に漂っているのだ。街を見下ろし、三、二、一で何億光年離れた未来まで一気に駆け抜ける。だから、もうこの街の声は届かない。そう思いたくなるくらいだ
「ねぇ」
 美玖は僕の腕をグイっと引寄せ、片耳を自分のお腹の下にあてがった。
「耳を澄ましてみて、何か聞こえない」
 美玖は含みのある笑みを浮かべた。
 僕はじっくりとそばだてる。物音一つしない。美玖の鼓動だけが鼓膜を通って僕の狭い狭い頭がい骨の中で反響する。
「だめだ、なんも聞こえない」
 僕は上体を起こして微笑む。
「そう私には聞こえるの」
「何が聞こえるの?」
「なんだろうね、新しい命の鼓動とか」
 胃がキュッと締まるのが分かる。
 こうやって、僕たちが何年も悩み苦しんでいることが、理解できないほど子宝に恵まれる人たちがいることも知っている。あまつさえ、我が子に虐待を行い、心や体にひどい傷を負わせ、それだけでは飽き足らず、そのまま殺してしまう輩がいることも。僕たちは知っている。信じられない、人間じゃない、と詰りたくなるが、彼らを卑怯者と蔑んだことは一度もなかった。
「美玖は実際のところどう思っている?」
 探るように訊ねた。
「えっとね、早くトイ・ストーリー2が見たいなとは思ってるよ」
「俺もだよ、でもそうじゃなくてさ、その子供のこと」
「だと思ったよ」
 美玖は僕をまっすぐに見据えた。
 ここ最近、彼女にも薄っすら口の周りのしわが目立っているように見えた。美玖は三十代とはいえ、いまだに大学生に間違えられてもおかしくないほど若い容姿をしていて、まだまだ脂肪を持て余すような体型じゃない。だが、確実に年をとっている。そう感じた。心なしか、目じりにも線のようなしわが出来ている。
「なんか最近、忘れてたんだよ」
「何を忘れてたの?」
「エッチをしたら子どもができること」
「ごめん」
「違うの、由紀くん私が言いたいのは、そう言うことじゃなくて」
「・・・・・・」
「もし子どもができなくても今までの楽しい二人の生活が続くだけってこと」
 うーんと唸る。唸りながら僕は「子ども諦めるの?」と思わずにはいられなかった。
「由紀くん?」
「美玖、今その答えを出すことはできないよ」
「そうだね、由紀くんの言う通りだよ」
 そう返事をしてくれた。嫌悪感を示すこともなく美玖は僕の答えをいつまでも待ってくれる。頑張ろうの一言がここまで億劫になるなんて思いもしなかった。
「まぁとりあえず、俺はマネジャーになって給料増やすから心配すんな」
「おっ。心強いねよろしくお願いします」
「任せとけって」
 僕はわざとらしく拳を上に突き出した。






           9

 火曜日、僕は金町駅近くにある葛飾にいじゅくみらい公園のサッカーグラウンドで、久しぶりのサッカーを楽しんでいた。集まったのは、十人で、サッカーというよりフットサルといった方が適当だ。五対五のチームに分かれてキックオフする。
 懐かしい顔ぶれが揃ったなと思う。中には全然知らないおじさんもいたし、先輩が連れてきた小学五年生の息子さんもいた。
 広いグラウンドを少ない人数で駆け回り、ポジションも役割も関係なく攻守にあたるのは、本当にしんどい。気持ちは全盛期のイメージを再現しているが、体がまったく追いつかない。汗はとめどなく溢れ、息は切れ、足は速い段階でもつれ始めていた。
「パスくれ!」
「走れ、走れ!」
 味方に聞えるか分からないほど震えた声だったが、疲労よりも心は軽く、どこまでも走れる感覚でいた。
 はぁはぁと息を整えるのに時間をかけるおじさんたちを横目に先輩の息子はどんどん動きが良くなっている。僕たちはそれ以上の言葉は交わさなかったが、小学生にも負けないくらいこの瞬間を楽しんでいた。
 二十分ハーフで始めたのに、ストップウォッチを握っていた後輩がうっかり時間の経過を言い忘れていたのでいつの間にか先に二点取った方が優勝というルールに変更していた。一進一退の攻防が続きお互いに一点ずつ痛み分けをしたところで、先輩が右足をつり、その場に寝転んでしまった。治療という名目でそのままなし崩し的に僕たち休憩に入った。
 それぞれが足を引きずり、太ももを抑え、情けない笑みを浮かべながらグラウンドの外に出る。しかし誰一人として帰り支度を進める奴はいなかった。
「まっつん、やっぱフットワーク軽いな」
 佐伯としっかり話したのはその時だった。僕がベンチに座り、濡れタオルで首筋を冷やしていた時だ。
「冗談言うなよ、もう足パンパンだわ」
 佐伯のハードワークすぎる守備は健在で中盤で僕はまだ一度も奴を突破できていなかったが、当時のプレースタイルと変わらぬ、敵ながら安心感があり僕は嬉しかった。
「仕事は調子いいのか?」
「こんな時に仕事の話はやめてくれよ」僕は言う。
「じゃあ年下の嫁さんの話しをしてくれよ」
「なんだよ急に」
「いいから」
「まぁ、いい嫁さんだよ。俺にはもったいないくらいの」
 ポツリとつぶやく。零れた言葉に恥ずかしくなったりして。
「幸せなんだな」
「そうでもないよ」
 僕は手を小さく横に振った。
「ずいぶん謙遜するな」
「別に幸せだとは思ってないんよ、実際俺たち夫婦に足りないものはたくさんあるし、ただ、不幸ぶるのは柄じゃないからさ、こうやって笑ってるだけで」
「吉田拓郎の歌にそんな歌詞があったな」と訳の分からないことを答えた。
 目の前には人工芝のグラウンドが広がっている。グラウンドのちょうど真ん中にポツンとサッカーボールがキックオフの瞬間を心待ちにしていて、ゴールポストが照明に照らされぼんやり白く光っている。視線をかえれば東京理科大学のキャンパスが見えて、まっすぐ伸びた視線の先には暗闇に染まった中川が流れていた。川を横断するための線路は、レールと車輪が擦れる音を夜風にのせてここまで運ぶ。
 秋の夜は長い。灰色の雲が綿棒で磨り潰されたように薄く広く広がって伸びていた。大量にかいた汗が収まってきた。冷たい夜風が体を冷やす。今度は川のせせらぎが聞こえてきた。とくとくと脈をうつリズムとシンクロする。
 だめだな、また美玖の顔が浮かんできた。
 結婚してから子どもができなくて悩んでいることを佐伯に相談してみようかと口を開いた。
「なぁまっつん」
 僕よりも僅かに早く彼が口を開く。
「うん?」
「俺は幸せに見えているか?」
「いきなりどうした?」
「上の子の名前、俊介っていうんだけど」
 佐伯は立ち上がり遠くの空を見上げる。
「俊介は遺伝性の病気なんだ」
 そう言った彼の視線が試合開始を待ちきれずに一人ドリブルの練習をしている先輩の息子に移っていた。
「先天性の病気ってことか?」
「うん、しかもはっきりとした原因が分からない進行性、先天性ミオパチーって言うんだ。知ってる?」
 僕は静かに頷いた。いつか見たドキュメンタリーの番組で国内に数千人ほどしか確認されていない筋肉の難病だ。
「俺の夢は息子と一緒にサッカーをすることだったんだ。でもこればっかりは誰を憎めばいいのか分かんなくてさ」
「そうか、大変だな」
 気休めにもならない言葉をかけるのが精一杯だった。彼の横顔を見上げると不意に高校時代の佐伯比呂を思い出す。試合終了の笛がなるまで決して諦めずボールを追っていた彼の姿だ。二軍生活から抜けられず僕と一緒に苦汁をなめた三年間。最後にはお互いに公式戦のベンチ入りを競い合ったライバル。お前は俺がメンバーに選ばれた時、自分のことのように喜んでくれたよな。
「でもよ、俺は絶対不幸なんかじゃない」
「そうだな」
「俊介は病気を抱えているけど、俺は俊介のおかげで父親になれたんだ。これは強がりじゃないぜ、俺たちは楽しくこの街で暮らしてんだ。それに人生何が起こるかわかんないだろ、最後まで諦めなければ。なぁそう思うだろ」
「あたり前だろ」と僕は苦笑する。
「でもほんとのことを言えば最近まで不安で怖かった。今はよくても十年後、二十年後、その先の未来で俺たちが死んだら俊介はどうなるんだろうって」
 佐伯は少しだけ体を震わせていた。
「うん」
「そう考えると、不安で、怖くてさ。もう本当に愕然とするよな」
 僕は立ち上がり佐伯の顔をまじまじと見つめた。
「俺たちが生きている間は、どんなことがあっても俊介を守ってやることは出来る。その覚悟ももちろんあるよ。でも俺らが死んだら誰があいつを守れる? むずかしいよな」
「そうだな」
「それが俺と彼女の一番の悩みなんだ」
「うん」
「でもよ」
 佐伯はそこで言葉を一度止めた。振り返り視線を僕に向け、全てを悟った高僧のような優しい目を向けてきた。希望と絶望の間にあって半ば諦めに近い、それでも全てを受け入れる覚悟を持った人間の強い瞳だ。
「それもまた神様がくれた試練なんだ。俺たち家族がもっと強い絆で結ばれるための試練なんだよ。そう思うようにしてからすごく気が楽になってよ、だって試練を乗り越えた先に、俺たち家族は世界一の絆で繋がることが出来るんだぜ」
 胸が締め付けられる。上手く言葉を繋ぐことができない。僕は驚きと共に嘆賞に値する佐伯の力強さにまじろぐしかなかった。
「お前は強いな」
 どんなに逆境でもピッチの上に立てば誰よりも前向きにプレーしていたあの頃のお前と全然変わってないじゃないか。
「強いなんて思ったことないけど、昔見たくバカなだけだって、ただバカはバカでもあれだ」
「何て?」
「諦めを知らないバカだ」
 佐伯は高校時代の佐伯そのものに戻っていた。
 僕は自分の相談事をすっぱい唾液と一緒に胃の中にのみ込んだ。涙なのか、汗なのか区別がつかないものが、僕の視線を遮って、目の前をぼやかす。
 佐伯が一歩踏み出すと、示し合わせたように一人、また一人とグラウンドの中央にみんなが集まり始めていた。まったく、筋肉も心肺機能もとっくに疲れ果てているのに、まだ試合を続けようとしている。バカなおっさんたちだと僕は思った。そんなバカの一人としてこのグラウンドにいることを誇りに思った。 
 最後の一点を取り合う戦いのホイッスルが心の中で鳴り響く。
試合開始から十分後、後方から運ばれてきたパスを受け取ると、目の前に佐伯がいた。僕はもつれかけた足に拳を入れて、佐伯と対峙する。一対一だ。
「来いよ! まっつん!」
佐伯は嬉しそうだった。
お互いに戦うフィールドは変わり、もはや自分は一体誰と戦っているのかもわからないまま、勝った、負けたと日々を送っている。打ちのめされた昨日でも、また立ち上がれるのはきっと守るべきものがあるからだ。
 僕は佐伯を素早い切り返しで振り切り、その直後、渾身の力でゴールに叩き込んだ。大人げなくガッツポーズをしてみんなの元へ駆けて行く。僕の心にはもう迷いなどなかった。

 
 
         10

 家に帰ると、美玖が台所に立っていた。僕が帰ってくる時間に合わせてパスタを茹でている。同時進行で作っていたミートソースのほのかに香る酸味と焼けたチーズのいい匂いが漂っていた。
 シャワーを浴び、着替えると、自分がお腹を空かしていたことに気が付いた。食卓には大皿にのったパスタが一つある。体を目一杯動かした後の夕飯は食欲まで若返らせてくれる。
 掛け時計が指した時刻は午後10時をまわっていた。
「先に休んでいても良かったのに、明日検査に行く日でしょ」パスタを口に入れながら僕が訊ねると、美玖は口をしぼませて軽くうつむく。
「由紀くんに伝えなきゃいけないことがあってさ」そう言った。
 そうかこれは、僕はなんとなく悟った。美玖はきっと僕に思いのたけを喋るのだろう。いつもの僕であれば、彼女の意見を先に聞いて、それから彼女を傷つけないように自分の意見を言っていた。
「そうかもね」と、後から同調して美玖に合わせるのは気が楽だ。
 スイカをなくして、一緒の電車に乗った時や、病院をかえてみようかと提案した時と一緒だ。僕は美玖が言ってほしいと思っていることを先回りして言っていた。だからこそ今夜は、「先に言いたいことがあるんだ、いいかな」と思い切って、口に出した。
 美玖は首を傾げたがすぐに、「どうしたの?」と茶化すような口ぶりになった。
「やっぱり、もうちょっと頑張ろうと思ったんだ」
「頑張る?」
 僕は笑って、「子どものこと」と口にする。いつも通りの口調だ。
「子どものこと?」
「うん、二人でずっと暮らすのはもちろん楽しいけど、俺は、子どもがいた方がもっと楽しい気がする。いやきっと楽しい」
「簡単なことじゃないよ、何年も上手くいかなかったわけだし」
「そうだね、でもこれも神様が与えた試練だと思うんだ。俺たち夫婦がもっと幸せになるような」
 喋りながら僕は、パスタを口に運んだ。ミートソースが麺に絡んではっきりした濃い味が喉から胃へ流れていく。
「それになんか燃えるだろ。絶対試練を乗り越えてやるんだってさ」
 僕は佐伯の覚悟に後押しされたのか、それとも久しぶりに感触を楽しんだサッカーボールのどっしりとした重みなのか、どれがどうとかではないけれど、僕は決心した。背筋を伸ばした。心の中で父を思い浮かべる。
「結果がどうであれ、二人で頑張るんだ。仮に頑張っても、諦めても未来が変わらないのなら、やるだけやって後悔する方がいい」
 いつかの美玖のセリフを真似してやった。
「なにそれ、由紀くんらしくない」
 美玖は、笑いながら目じりを指でなぞった。
「いやいや、バカにしてる?」
 とりあえず反論する。昨日まではずっと、美玖がどうすれば悲しまずに笑顔になってくれるのかとか、どうすれば美玖の不安を取り除いてあげられるのか、そればかり考え、気にしていた。僕は知らず知らずの間に美玖に遠慮していたんだ。
「俺だって美玖との子どもが欲しい。三人で旅行に行ったり、サッカーしたりするのが夢なんよ」
 そう言うと美玖の瞳から涙の雫が頬を伝った。まるでダムの決壊のようにとめどなく溢れ出している。
「良かった」
 震えた声で言った。僕は美玖が落ち着くのを待って微笑む。
「由紀くんが私と同じ気持ちでいてくれてよかった。もしかしたら子どもが欲しいと思っているのは自分だけで、何も言わずに付き合ってくれる由紀くんに申し訳ないと思ってた。よかった、よかった」
 僕は驚いた。美玖がそんなことを思っていたとは知らなかった。
「ごめんな、もっと早く気づいてあげればよかった」
「ううん、大丈夫。今日由紀くんと同じ気持ちだって分かったから」
「俺たち夫婦なのにお互いに遠慮してたんだな、そうだなにか言いたいことあるって言ってたけどなに?」
「なんでもない」
「なんだよそれ」
 美玖は答えを聞けなかった僕を憐れむように優しい笑みを見せた。



11


 翌日、僕はいつものように会社に出勤した。いつものように既存客への営業周りで外に出る。サッカーによって生じた筋肉痛で動くのが億劫になっていたが、この全身を包む脱力感がたまらなく愛おしかった。
 今頃美玖は会社を早退して新しくできた病院に向かっているだろう。もしかしたら妊娠しているかもよと冗談っぽく言って僕を送り出した彼女の屈託のない笑みは、僕の脳裏を何度もループしている。僕は美玖と一緒ならどんな困難にも負けはしないのだ。
そして、いつか。そう遠くない未来に、何でもないことで快活に笑い、くだらないことで称え合い、三人で食卓を囲んでいる。十年後、子どもと向かい合ってサッカーをする僕だって容易に想像できた。「私もまぜて」と美玖が嫉妬して言うと「お母さんはへたっぴだからやだ」と生意気な口を聞く子どもと、二人をなだめる僕。そんなありきたりで、平凡な日常すら浮かんできた。
「はい、松永です。橋本様先日はありがとうございました」
 営業中に入ってきた既存客からの電話に謝りながら頭を下げる。
ため息のかわりにくつひもを結び、舌打ちのかわりにくつひもをほどく、あっけない幕切れを恐れながら僕は今日も歩き疲れるために歩き続けるだろう。でも、昨日覚悟を決めた僕なら、自分に自信を持って、僕はこの後を生きていけるのではないだろうか。

 僕が家に帰って来たのは10時を過ぎてからだ。「ただいま」と聞こえた玄関にリビングから慌ただしく美玖が迎えた。
「お帰りなさい」
 僕は顔を歪めた。嬉しさと照れ臭さ、それと彼女をいますぐに抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
「どうしたの? にやにやして」
「なんでもないんよ」
 僕はそう言って、美玖を抱きしめた。
「どうしたの由紀くん?」
 美玖は戸惑いながら背中に腕を回し、体を密着させる。
 神様がどんなに意地悪な試練を与えても二人なら乗り越えていける。僕は「有難う」と心の中でつぶやいた。
 

なんでもないんよ

執筆の狙い

作者 うさみかずと
60-61-59-30.rev.home.ne.jp

社会人になっていろんな人と関わっていくうちに、何事もない顔をして日々を過ごしているようで、みんなが知らないところで苦労して努力しているということを表現したかった。

コメント

松岡修子
117.179.138.210.rev.vmobile.jp

 わりと読みやすい文章なので最後まで読めました。ただし、ツッコミどころは満載でしたが。

>「お仕事ひと段落できた?」と彼女はいつもみたいに【臆面もなくとした口調】で聞いてくるだろう。
 誤用

>まるで僕や僕の周りの人間が目に見えない営業成績とか評価とかそう言った類のものに追われ慌てふためいている姿を、憐れんだ周囲の自然が皮肉なことに活き活きしているように見えるからかもしれない。
 ごちゃごちゃと長過ぎますし、わかりにくい文章です。読みやすく分割しましょう。

>「・・・・・・病院かえてみよっか?」
 中黒「・」ではなく三点リーダ「…」を使いましょう。

>亀有公園のベンチに座った僕は、集まってきた鳩たちのエサをねだるわけでも、へりくだるわけでもなく自分を見上げるニヒリスティックな表情に苛立って、【突発的に】手をならすと鳩たちは【勘づき】、一斉に攻撃可能範囲から離れていく。
 語句が不適切

>昼下がりの公園は【解放感】にあふれ、子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。
 誤字

>ディスプレイ上のデスクトップに表示された共有フォルダ【―】に上がってきたデザインを確認する。
「ー」と「―」の違い。以降の文章にも同様のミスあり。

>クライアントの意思に沿いながらそのイメージを【実体化】して人に伝えるもどかしさをもう何年も経験している。

>❴ゆうロード❵を歩いていると、前方に勢いよく迫ってきた自転車に思わずたじろぐ。
 誤字

>チームの司令塔的な存在の中盤のボランチは激しくマークされながらも全体の動きを把握して、前線にいるフォワードの選手に【バス】を送るそれが僕の仕事だった。

>僕は肩にかけた仕事用の【バック】を右手に持ち替えて、両さん銅像を挟んで佐伯の隣に座った。

>おどけてしまわぬように平然を装う。
 なぜおどけるんですか?

>「ええぇいつまらんお前らワシの前で物思いに【老ける】な」
 誤字

>「嘘だと思おうじゃん、ほんとうなんよ」
 どういう意味ですか?

>街を見下ろし、三、二、一で何億光年離れた未来まで一気に駆け抜ける。
 光年は時間の単位ではないので使えません。

>こうやって、僕たちが何年も悩み苦しんでいること【が】、理解できないほど子宝に恵まれる人たちがいることも知っている。
 助詞が不適当

>彼らを卑怯者と蔑んだことは一度もなかった。
 なぜですか?『虐待加害者や人殺しは卑怯者なんかじゃない』と思う理由は? 主人公は彼らに共感しているからですか?『彼ら(犯罪者)には正当な理由があったんだ』と彼らに理解を示しているからですか? それとも単に偽善者だからですか?

>ここ最近、彼女にも薄っすら口の周りのしわが目立っているように見えた。美玖は三十代とはいえ、いまだに大学生に間違えられてもおかしくないほど若い容姿をしていて、(後略)
 大学生に見えるほど若いという設定なのに、口周りのしわが目立つとは老けすぎです。かなり高齢の容貌です。

>「なんだろうね、新しい命の鼓動とか」
 これは通常、妊娠報告と解釈しますが、主人公はそうとは捉えず妻もそのつもりではなかったようです。読者には理解できません。少なくとも私には理解できません。

>治療という名目でそのまま【なし崩し的に】僕たち休憩に入った。
 誤用

>「それもまた神様がくれた試練なんだ。俺たち家族がもっと強い絆で結ばれるための試練なんだよ。そう思うようにしてからすごく気が楽になってよ、だって試練を乗り越えた先に、俺たち家族は世界一の絆で繋がることが出来るんだぜ」
 これだと「病人が一人もいない家族には、たいして強い絆がない」ということになってしまうので、暴論です。これをイイ話として描いてしまうのではないかとイヤな予感がしています。
 第一、神が試練として先天性疾患を与えることはありません。生まれる前の人間に試練を与える道理などありませんから。論理的に考えればわかることだと思いますが。よってこのセリフは神への冒涜でもあります。

>僕は驚きと共に嘆賞に値する佐伯の力強さにまじろぐしかなかった。
 イヤな予感が的中したようです。

>「由紀くんに伝えなきゃいけないことがあってさ」
 妊娠報告でしょうね。

>「(略)なにか言いたいことあるって言ってたけどなに?」
「なんでもない」
(略)美玖は答えを聞けなかった僕を憐れむように優しい笑みを見せた。
 イライラする女ですね。読者に気を持たせ過ぎです。

>十年後、子どもと向かい合ってサッカーをする僕だって容易に想像できた。
 妻が妊娠したとして、娘を生んだらがっかりするんでしょうね。この主人公なら。

>嬉しさと照れ臭さ、それと彼女をいますぐに抱きしめたい衝動を抑えるのに必死だった。
 息子が生まれて一緒にサッカーができるものだとすっかり思い込んでしまってるんですね。この思い込みの激しさは危険です。

>神様がどんなに意地悪な試練を与えても二人なら乗り越えていける。
 と、神を冒涜してハッピーエンド。

 イイ話として書くなら、整合性のある話を書きましょう。読者が作品の矛盾に気づいてしまうと感動できません。

夜の雨
i223-216-201-83.s42.a027.ap.plala.or.jp

読みました。

なかなか、良かったですよ。

>社会人になっていろんな人と関わっていくうちに、何事もない顔をして日々を過ごしているようで、みんなが知らないところで苦労して努力しているということを表現したかった。<

「執筆の狙い 」にかなり近い作品になっていると思います。

主人公たち夫婦に子供ができないという悩みだけと違い、幸せそうに見えていた「佐伯比呂」にも哀しみがあったというか、彼はそれを乗り越えようとしていたという人間ドラマがあり、読ませるものになっています。

「おう、今年で五歳になる息子がいるよ。可愛くてな来年娘も生まれる」 ←「俊介(五歳になる息子)は遺伝性の病気なんだ」

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10

「俺だって美玖との子どもが欲しい。三人で旅行に行ったり、サッカーしたりするのが夢なんよ」
 そう言うと美玖の瞳から涙の雫が頬を伝った。まるでダムの決壊のようにとめどなく溢れ出している。
「良かった」
 震えた声で言った。僕は美玖が落ち着くのを待って微笑む。
「由紀くんが私と同じ気持ちでいてくれてよかった。もしかしたら子どもが欲しいと思っているのは自分だけで、何も言わずに付き合ってくれる由紀くんに申し訳ないと思ってた。よかった、よかった」
 僕は驚いた。美玖がそんなことを思っていたとは知らなかった。
「ごめんな、もっと早く気づいてあげればよかった」
「ううん、大丈夫。今日由紀くんと同じ気持ちだって分かったから」
「俺たち夫婦なのにお互いに遠慮してたんだな、そうだなにか言いたいことあるって言ってたけどなに?」
「なんでもない」
「なんだよそれ」
 美玖は答えを聞けなかった僕を憐れむように優しい笑みを見せた。
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「10」のこの部分が御作のまとめのようですね。

主人公の「由紀」と妻の「美玖」との気持ちが重なっていることがわかる、エピソードだと思います。ラスト近くにこのエピソードがあるので、作者さんが何を書きたいのかが伝わってきました。

ほか
文章が荒いですね、細かいところでかなりミスっています。


お疲れさまでした。

群青ニブンノイチ
softbank221022130005.bbtec.net

タイトルでもある”なんでもないんよ”というセリフが度々出てくるのですが、単純に語感としてすわりが悪いというか、方言っぽいのか、単なるニュアンス的なものなのかも判然としない中途半端な感じがあまり心地よくなく、それは単純にその発言者である主人公の印象そのものにも影響を与えるのは当然ということで、つまり一読者としては何よりもまず主人公に対して好感あるいは共感のようなものを思いつけませんでした。

わたしはとにかく読むのが遅いのですが、それも場合によってのことではあるので、この作品については大体十分か十五分くらいで読めました。
文章的にはミスタイプなのか誤用なのかよくわからない表現や、活用としてそもそも間違っている表現などが多く見受けられて読みずらい以前に未熟な印象を受けました。
単純に、慣れない言葉を使うときは辞書で確認する習慣をつけたほうがいいです。

じっくりとは読んでいませんが、そんな読み方にあっても「なんでもないんよ」的な発言は都度繋がりの悪いような印象で、この主人公は相手の話すことをあまり聞かない人なのだなあ、といった余計な印象ばかりを思いつかされたような気がしています。
そんな印象は結局のところ物語の終わりまで変わることはなく、十分で読めるだけのことはある、なんて少し意地悪なことを言ってしまいますが、案外思慮の浅い、内容のない思考や物語に付き合わされる退屈さがかなりの割合を占めているような印象を受けました。

熱心に書かれているらしいことはわかるのですが、どうしてそれを書かなければならないのか、作者なりには必要なつもりということでも、実際にはそれがなくても物語は成立するらしい情報なり場面は多く見受けられる気がしますし、あるいは必要ないけれどあればあったで面白いようなことが書かれていないから、所詮退屈なんだと個人的には思っています。
主人公に職業は必要かもしれませんが、どうしてフリーペーパーのプランナーでなければならなかったのか、その必然性のようなものが個人的にはあまり伝わってきた気がしていないですし、近い将来消滅するには違いない職種に挫けず執念を燃やすことと、この先挑むことになるらしい妊活における「諦めても未来が変わらないのなら、やるだけやって後悔する方がいい」というお決まりらしいセリフとは、物語の結び的にも的確にリンクしているものとは思い辛い気がしますし、実際には先に言った通り、無駄な部分が多い気にさせられる時点でどこかがズレているのだと個人的には思っています。

不妊治療について書き手なりのリサーチの気配があまり感じさせられないことが、そもそもパーツ的な位置づけとして心許なく思わされる案外重要なポイントになってしまっているような気がします。
先天性ミオパチーという病気を、恥ずかしながらわたしは知りません。
それは単純にわたしの無知ということに過ぎないのですが、そんな人間でも知識の片隅にある不妊症のようなことについてはそのリアリティらしきにはあまり触れられていないのに、友人の息子が抱えているらしい稀な病名が突然降って湧いたように出現するという妙なリアリティバランスには何となく違和を覚えてしまう、というのは指摘として意地悪なものなのでしょうか。
終盤に主人公がまるきり自分本位のように語る、

>そうかこれは、僕はなんとなく悟った。美玖はきっと僕に思いのたけを喋るのだろう。いつもの僕であれば、彼女の意見を先に聞いて、それから彼女を傷つけないように自分の意見を言っていた。

というセリフを見て個人的にはさらにその印象を深めずにはいられなかったような気がしているのだし、せめて物語的に思いやるのであれば、この夫婦に子どもが出来ないのは所詮この独りよがりの如く思い上がるばかりの主人公のせいなんだな、と美玖の苦悩を慮るしかないような気分にさせられます。
良いお話、希望が覗くようなエンディングに見せかけてその実、この夫婦には終始一貫して何も主体的な変化は見られない気がしますし、その為の努力に挑んでいる様子も物語的には恐らく見受けられません、と言ったら気分を悪くされますか。
申し訳ないですが、わたしははっきりとそう思わされているからこそ、この作品を退屈と言っているのだと思います。
不妊などという面倒なわりに印象が薄いらしいネタを無理にねじ込まなくても、仕事に忙殺される主人公とその妻のすれ違い、という単純な設定でも恐らくは、同じ中身になり得てしまうもののような、その程度の内容に縮こまっている気がします。
そんなことをあえて狙いにあるような、

>何事もない顔をして日々を過ごしているようで、みんなが知らないところで苦労して努力している

といったスケールに落とし込みたいだけのものとしたがるのであれば、むしろなおさら不妊がどうのなどといったことはただ面倒なだけのお荷物のように思えなくもない気がしてしまうのですが、どうなのでしょうか。

一番ダメなパターンのやつだ、と普通の人なら当たり前に感じさせられることのはずですが、やはり佐伯の家庭事情からの主人公の美玖への向かい方はつまり、世間のダメなタイプの人が思いつきたがる一番ズルくて弱いメンタリティの展開の仕方には違いないはずで、そうしてただでさえ無駄が多いと感じさせられずにはいられないらしいこの物語がもっともらしくまんまと結びに向かいたがってしまうのは、書き手が意図するところとは違った意味でむしろ思惑通りといった至らなさに落ちている気がしてやはり、作品としての見通しや作品足り得るなりの企みのようなことに対して極めて意識が希薄なような印象を個人的には思いつかされます。

仲睦まじそうに見えてその実、ものすごく浅い理由を出汁にあっさりと離婚しかねないような寄る辺のない夫婦にしか見えないのはわたしだけでしょうか。
お互いの気難しさを思いやっているらしく振舞うことばかりを愛情らしく勘違いしているだけの所詮恋愛ビギナー諸君にありがちな精神的体力不足による不器用な混乱の日々、のようなどこか未熟な感じ、のどかな感じが物語として目論んだはずの共感のようなものをそもそも遠ざけてしまっている気がします。

不安やヒステリーも白状出来ないなんて、そんな程度の関係性で迂闊に子どもなんて欲しがらない方がいいんじゃないの、なんて個人的には結構好感の低いようなことをひらひらと思わされたりしています。

書きたかったはずのことをちゃんと支えられているのか、そういう意識を無駄な文章に費やして体裁ばかりを気取りたがるのではなく、例えば必要な理由や性質こそをちゃんとキャラクターたちに背負わせてあげるとか、考えるとか戦わせてあげてほしい気がします。

主人公たちが何もしない、変わらない話というのはそれなりの理由をよほど持たせない限り、基本的にダメのような気がします。

夜の雨
i223-216-201-83.s42.a027.ap.plala.or.jp

再訪です。

 A>器用すぎることは、実は、とてもむなしいことかもしれない。<

導入部でAが書かれているわけですけれど、作品自体がAになっているということかな。

つまりバランスよく設定の情報を書いているので、主人公である「由紀」と妻の「美玖」との現在の関係やら、どうして結婚に至るようになったとか。
また、主人公の仕事のことから、友人である佐伯との背景やら、何から何までバランスよく書いたので、「御作の設定の背景は、よくわかった」けれど、題材の突っ込みが薄くなってしまった。
なにしろ御作では主人公である「由紀」と父親の関係まで書かれている。

だから普通に読むと、うまく書かれているように見えるが、作者さんが「器用」に、バランスよく御作を書いていて、題材の突っ込みが薄くなっている、だから「実は、とてもむなしいことかもしれない」ということになり、作者さんの小説の書き方と、御作の内容が辛くも一致してしまった、という、とても、不思議なことになっているのかもしれません。
どちらにしろ「狙い目はよいので」、御作を「厚く描く」とよくなるのではありませんかね。
現在書いている枚数をもっと増やして、それぞれのエピソードを深くすると、作者さんが書きたいと思った今回の題材が書けるのではないかと思います。
または、短編にするのなら、余計な背景(設定)は書かないで、「主人公たち夫婦」の事だけを書くとか。

御作のあらすじなどもバランスよく書かれているし、導入部のAは作者さんのことかもしれませんね。

どうも、失礼しました。

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