作家でごはん!鍛練場

夜汽車で眠る 前編

 余命なんて聞き慣れない言葉で、一方で半年というとこれはまた半端なく現実的で、小学生の遊ぶバスケットゴールのように、頑張って手を伸ばせば届いてしまいそうなくらいの短い期間。その二つが並んで余命半年。
 これが所謂、晴天の霹靂つうやつですか。
 なんて。はは。呆然として、何故だか分からんが笑みがこぼれてしまいそうやった。
 もちろん嬉しくなんてこれっぽっちも無い。悲しい? そう問われたらそれもよく分からん。分からん、いうのが今のうちの純な気持ち。
「もってあと半年でしょう」
 上品な顔立ちをした医者。おそらく三十代後半やと思われるそいつが、おとんの病状について目を伏せて言う。
 それで目を伏せた顔がまた、悔しいくらいに上品やった。男性、それは異性という意ではうちはこういうタイプはあまり好きちゃうけど、ある種の上品さというものは自分には無いもんで、そういったものには無条件に憧れを抱いてしまう部分はある。それは性とでも言うか。
 初めて会ったのは昨夜やけど、うちはその医者のことを心内で勝手に「ぼん」と名付けて呼んでいた。もちろん直接声に出しては呼ばんが。それはさすがに失礼やん。ぼん言う理由は簡単で、何やぼんぼんっぽい見た目やから。育ちが良さそうやったから。ただ、それだけ。
「今後、ご家族の方にもいろいろとご決断をしていただくことになります」
 ご家族ね。うちは周りを見回して、自分以外、ご家族はおらんな、今、ここに。なんてことを改めて確認した。
 これは我ながらおかしな確認作業やった。この薬品臭い往診室に入ったのはつい二、三分前の出来事で、言うまでもなくそれから人の往来は無い。有ったら気づく。他にご家族なんてここにはおらんことくらい知っとるやろ。たはは。それなりに動揺していた。
「あの、決断と言いますと?」
 うちは深刻な顔で聞いた。何もふざけたわけでなく、自然と、マジでそんならしくない顔になったのだ。
「まず、このことをご本人にお伝えするかどうか……」
「あぁ」
 まぁ、それはそうやな、と自分の中で納得がいった。
「いいです。本人にはまだ伝えんといてください」
「そうしますか」
「はい」
 何故か迷いなく言った。
 それでぼんは大変申し訳なさそうな顔でうちを見る。
 いや、別にそんな顔せんでもええやん。あんた、何も悪ないんやから。それでなんやか腹が立ってきたような、そういうわけでもないような、よう分からんドロっとした何かがうちの感情とか理性とかを汚して、無性に怒鳴ってやりたい衝動に駆られた。
 しかしまぁ、冷静に考えたらぼんに当たるのもちゃうし、だからと言って心の中は洗濯機の中でごちゃごちゃに絡んだ衣服みたいに訳が分からんくなっていて、正解なんて分かるはずもなく、しゃあないからうちも黙って目を伏せた。
 往診室はクーラーが効き過ぎている気がして、そう思ったら急に気分が悪くなってきた。


 おとんが胸を押さえて「苦しい」なんて言い出したんは昨日の夕飯時のことで、我が家は今はおとんとうちの二人暮らしで、それももう八年目にもなると、おとんの扱いなんてのは、倦怠期の旦那やニートになりかけの馬鹿息子(どちらもうちにはそんなやつおらんがな)なんて比べ物にならんくらい雑の極みで、うちは「大したことないのに騒ぐなや」なんて冷たいことを言うてビールを飲んでた。
 でも、おとん、だんだん顔も青なってきて、待って、ちょっとこれはマジなやつかもなぁーと焦り気味にタクシーで急患に駆け込んだのは二十時半頃の話。
 それで夜は診察やとか検査やとかでばたばたなって、そんなこんなしてるうちにどうもおとんの苦しいのも治ってきたようで、「もう大丈夫そうやわ」なんて言うて、ほぅら、やっぱり大したことなかった、なんてうちは三白眼になってたんやけど、医者(ぼん)が念のため一晩入院していきなさいなんていうもんやから、まぁ、翌日は土曜日やったし、予定も無いしで、うちは久々に一人の夜を満喫しようとおとんを病院に預けて帰った。
 それで今日、ネットTVのアニメで夜更かしをした眼を擦りながら、おとんをピックアップするくらいの軽い心持ちで病院に来たらいきなり余命半年やと。そりゃ誰やってぶっ飛ぶわな。
 えっと、余命というのはつまり余った、命、というわけで、ってアレ? 余ったってなんかおかしない?
 余ったって、残ったならまだ分かるけど、余ったということはこれはもうロスタイム的な感じで、本質的なおとんの人生はもう終わっているということになる。ちょっと待ちいな。そんなこと急に言われても、困る。ロスタイム半年って。いやいや、勘弁してくださり。
 つうか死。
 死、なんて普段あんま考えへんけど。そりゃうちかて嫌なことあって死にたいなぁ、思ったことが無いわけとちゃうけど、それもそないマジちゃうかったし、何か寝たら忘れられたし、あんまり真面目に向き合ったことはない。
 そういえば「死は優しいな」言うたんはあれはバスタード? いや北斗やっけ?
 ちゃう、確かあれはカンナビスの台詞やわ。サイコメトラーEIJIの。全巻読んだのは高校生の時やな。でも死とは優しいって何? よう分からん。優しいのか?
 ぼんの言うことがほんまなら、半年後にはおとんがいなくなるいうことで、それはうちにとってはまぁまぁデカいことである。一応たった一人の同居人やし、というか、おとんというものはつまりはおとんなので、当然うちが生まれた時からそこにおって、うちの人生二十六年、おとんがおらんかった時間なんてものはただの一秒も無い。だからそれがどんなものなのか、急に言われてもまったく想像がつかなかった。
 想像がつかないということは恐怖だ。箱の中に手を入れて生暖かい感触を感じたら、蛇かもしんねぇ、蛙かもしんねぇ、と怖くなり、結果それががんもどきやろうとも分からんもんは分からんで怖い。
 往診室を出たうちはやっぱそれなりに動揺しており、特別行きたくもなかったのにトイレに入って小用を足した。
 手を洗っている時に鏡を見るとそこにはショートヘアの女の子が映っており、それは紛れも無くうちで、動揺している割には意外と普通の顔をしていた。
 すぐにおとんのおる病室に戻ろうかと思ったが、向かう足取りは重く、それはこの事実を一人で抱えていることへの重圧だということに気づき、と言うかああいう話を聞いた以上、残された他の家族二人にこのことを伝えるのはうちに課せられた義務な訳で、とりあえず東京にいるお兄に電話をかけた。
 日曜、真昼間。お兄は割とすぐ電話に出た。
「おとん、余命半年やって」
「は?」
 と、まぁ、お兄はそりゃそうやろうなぁ、というリアクション。電話の後ろ、妙に静かやった。これはまた休日出勤中か。
「やめろや、変な冗談」
「いや、これマジやから」
「何言うとんねん。だって、何でそんなん急に。どっか悪かったんか?」
 うちのただならぬ雰囲気からかお兄も動揺してきたようやった。
「昨日の夜、急に胸が苦しい言い出して病院行ってん。んで、いろいろ検査したら悪いとこ見つかって」
「病名は?」
「何やけ、ぼんから言われたんやけど。難しくて。肺がどうやとかウイルスがどうやとか」
「ぼん?」
「あ、医者のこと」
 それでお兄は少し考え込むように黙ったのでうちも黙った。じっとりした、嫌な間やった。多分うちらの今までの関係で一度もなかった種類の間。
「で、おとんは今はどうしてんの?」
「さぁ。うち、病院着いていきなり医者に呼ばれたから今日はまだ会うてない」
 うちがそう言うとお兄は電話の向こう、溜息をついた。いや、溜息つかれたって困るわ、といつもならば即座に毒突くところやけど、今日はそういうのは無しにした。
「とりあえず仕事まとめて近日そっちに戻る」
「うん。頼むわ」
 電話を切ると少しだけ気持ちが楽になった。張り詰めた糸が少し緩むような。やはりこれは一人で受け止める事実としては重過ぎた。
 で、うちには家族があと一人。
 事情が事情である。橙にも電話を掛けなければならない。
 でもうちの指は携帯の画面を前にピタリと止まってもうて、こんな状況でも橙に電話すんのは憚られた。いや、電話せなあかんねんけどな、普通に考えて。
 まぁ、でもとりあえずおとんの様子を見に行こうかなぁ、なんて。橙に連絡するんはそれからでも別に遅くはないやろうと、いったん病室へ向かう。
 病室。おとんはベッドに腰掛けて風に揺れるカーテンの外を見ていた。
 そのシチュエーションはいかにも入院患者という感じで、ぼんの言う余命半年という言葉をぐっと現実的なもんに感じた。
「おとん」
 うちが声をかけるとおとんはすっとこちらを向いた。
 おとんは背も高く、細マッチョでがっちりした男やったんやけど、歳のせいか、気持ちのせいか、四十年続けた仕事を引退してからはだんだんと細ってきて、今は何やかちょい優しめのおじさん言う感じになっていた。引退後も一応、シニア枠として仕事は続けているが、おじいさん、まではまぁ、まだいっとらんなぁ、と改めて今、木漏れ日を背負ったその無駄に神々しい病院着姿を見て思った。
「緑、煙草一本くれ」
 余命半年デビュー、第一声がそれやった。
「いや、あかんやろ。ここ病室なんやから」
 つうか、それ以前にその肺、煙草自体吸ったらあかんのちゃうんかと思ったが、これはもちろん言わんかった。
「ちょっとくらいええやろ。ちゃんと窓開けて吸うから、な」
「な、ちゃうわ。あかんて」
「何や、けちやの」
「けちとかそういう問題ちゃうわ」
 おとんは不貞腐れて後ろ手を組みベッドへ寝転がる。最近掛け始めた丸眼鏡。髪やてまだ半分以上は黒、死ぬにはどう考えてもまだ若い。半年後にほんまに死ぬんなら、病室やろうとぼんの前やろうと好きなだけ煙草を吸わせてやりたいとうちは思った。
「何や分からんけどしばらく入院してけって今朝医者に言われたわ」
 おとんはつまらなさそうに言った。
「うん」
「別にどっこも悪ないんやけどなぁ。苦しいんも、あれからは全然ないし」
 胸が痛んだ。指先でぐいぐいと突かれるような、そんな地味な痛みやった。
「ええやん。ちょうどいい機会やからゆっくり休んでいきや」
「まぁ、なぁ」
「人生にゆっくりできる時間なんてそうそう無いんやから」
 うちは無理して笑顔を浮かべて言った。


 ぶよぶよとしたゼリー状の何かが肌を包むようなこの嫌ぁな感情は月曜日の鬱。おとんが余命やとか半年やとか、そういうこととは関係なしにコイツは今週もやってきた。うちは会社が嫌いなのである。
 定時ぎり前に制服に着替えて自席へ行くと、いつものことながら同じ総務課のオヤジ二人はもう既に各々の仕事を始めていた。うちはぎりぎり聞こえるかどうかというくらいの声で「おはようございまぁす」言うて席に着く。オヤジ二人も同じくらいの声量で「おはよぉう」なんて返して、それで今日も変わり映えのない一日が始まる。
 うちの属するこの会社は一応大手一部上場メーカーにぶら下がった所謂グループ子会社であり、ぼやぼやしていても薄氷程度ではあるが毎年一応定期昇給させてもらえるくらいの安定感はある、まぁ世間一般で見ると悪い会社ではなかった。
 ただ、会社には細かな課題がまだまだあって、一例を挙げると、親会社から出向している人等と子会社採用の人等(うちはこっち)で給与格差があったりとか、誰々の残業が多いから人員体制をこれこれにするとか、労災やとか、そういったうちとしては別にどちらでもいいようなことの相談を受けたり、その他、雑多なシャー芯やガムテープ等の備品の補充、複合機を置いてるメーカーとのカウント料の交渉やらなんやらといったことまでを幅広く引き受けているのがうちとオヤジ二人の三人からなる人事総務課。
 同課の二人はとにかく暗い。話し声もぼそぼそやし、たまによう分からんとこで二人で笑い合ってたりしていてノリに付いていけない。
 とはいえうちは別に仕事に対してやる気なんてもんは元々持ち合わせておらず、どちらかというと、って言うか完全に、時計を横目で見て定時の到来をひたすら待っているような会社のお荷物なので、大っぴらに職場の文句なんて言わない。頑張ってる人等に失礼やからね。言えるはずがない。
 それは自分としても分かっているんやけど、それでもたまには声を大にして言いたくなる時がある。
 事務所の皆、あまり分かっていないと思うんやけど、会話のない島に一日中おるというのはこれは中々の苦行。少なくともうちにとっては苦行。基本的に内勤やからずっと三人揃って事務所におるし、おるのにほとんど喋らんし、静かやからお茶を飲む咀嚼音やとか、そう言ったちょい恥ずかしい音もやたら目立つし、そんなに課としてのコミュニケーションが不要なら、いっそもうバラバラでええやん、と思う。三人別々なって、島もそれぞれ孤島にしようや。なんてね。
 しかし、そんなん思うもそれはそれで大人の事情つうもんがあんのよね。できんのよね。てか会話が無いことに対して散々文句言うてるけど、多分あったらあったでそれもウザいんやろなぁ、とも思う。
 ほな、あかんやん。もう何をやったってあかんやん。なんて思いつつうちの日常は雨上がり、排水溝に消える水のように流れていく。悲しいかな今日も。
 それでうちは会社が嫌いなのである。
 でも嫌いな理由はそれだけではなく、実はもう一つあるんやけど。


 だんっ、と力強く誰かがうちの机に付箋を貼った。いや、これはもう貼ったというより叩きつけたと言う感じ。勝負所の麻雀リーチみたいに。見ると付箋にはクソ生意気そうな字で、「会議室に来い」と一言書かれていた。
 それですぐさま遠ざかる後ろ姿。
 橙やった。
 言われた通りに会議室に行くと、橙は先に入って待っていた。うちは先程の付箋を会議室の机に貼った。これはうちが二年前に発注した机やった。
「どういうつもりやねん」
 橙は長く茶の髪をかきあげて言った。アイシャドウ。吊り上がった目。相変わらず鼻につくキャリアウーマン感。言われることは何となく想像がついた。
「もしかして、おとんのこと?」
「それ以外何があんねん」
「何で知ってんの」
「昨日の夜に元基君から電話があった」
「まぁ、そやんな」
 元基というのはお兄の名で、現状おとんの話が漏れるのはそこしかあり得ないので、これは想定の範囲内。
「電話できてなかったんはごめん」
「ごめんで済むか、アホ。そんな大事なこともちゃんと連絡できひんのか、お前は」
 橙は相変わらずうちに対して口が悪い。
「いや、うちかてちゃんと電話するつもりやってんで」
 唇を尖らせて言うた。
 それは満更嘘でもない。当初はほんまにおとんの病室を出た後に電話しようと思ってた。でも何か、おとんの病室を出たら急に胸にぽっかりと穴が空いてしまったような感覚に陥り、考えもなくそのまま市営バスに乗って帰ってしまったのだ。それを、いや、すぐに電話せえよ、後回しにしとんちゃうぞ、言われたらそれはまぁ、確かにそうなんやが。
「実際してなかったら意味ないやん。言い訳すな」
「うるさいなぁ。だからちゃんと謝っとるやん」
「あんたの謝罪はいつも気持ちが入ってへんねん。だからイラつくねん」
 ねん、ねん、うるさいねん。ボケ。うちかてお前はみたいな奴嫌いやわ、と心の中で毒突く。
 橙。会社の同僚。所謂、同期入社。やけどそれだけじゃない。
 何を隠そう、こいつはうちの姉なのだ。
 ただ、姉言うても血の繋がりは無い。うちとお兄は前妻の娘。橙は後妻の連れ子やった。うちと橙は歳も同じで、うちが八月生まれで橙は四月生まれ。なので便宜上、橙が姉、うちが妹ということになっている。
 しかし後妻って、何となく印象の悪い言葉やな。後妻、何や若干遺産目当てな匂い、あるやん。世の後妻達に失礼やけども。
 ただ、我が家の後妻、橙のお母さんはそんなんちゃうかった。綺麗で、ひたすら良い人やった。血の繋がりのないうちやお兄にも分け隔てなく優しかった。おとんが再婚した時、お兄が十七でうちは十四やった。いろいろと難しい時期やったと思う。でもうちらは新しい母親をすぐに受け入れた。うちら二人を捨てて男と逃げたほんまの母親よりもずっと母親を感じた。
 それだけに亡くなった時、どうしようもなく悲しかったんを覚えてる。
「ほんで、おとんはいったいどういう状況なん?」
「何、どういう状況って」
 橙と話しているとその傲慢な話し方に段々と腹が立ってくる。
「何の病気やとか、これからどうしたらええかとか」
「詳しいことはよう分からん。とりあえず病室では煙草吸うたらあかんと、うちは思う」
「あんたさぁ」
 橙はイラ立って机を平手で打つ。
「ちゃんと状況分かってんの?」
「大きな声出すなつうの」
 と、うちも尖った声を出す。
 会議室、二人きり。橙は営業課で、うちは人事総務課。仕事上、こんな熱い論争を交わすことはあまり無い。つうかまず無い。皆無。
「ほんまに余命半年なん?」
「そう言われた」
「だって、あんな元気やのに」
「うちかて、そう思うわ」
 そう言うと橙は黙った。おとんが、うちのおとんであるように、連れ子とは言え、おとんは橙にとっても今現在唯一のおとんなのである。
「じゃ、話はほんまなんやな」
「当たり前や。誰もそんなしょうもない嘘なんてつかん」
 橙かてそんなこと分かっとる。ただ、信じたくないだけやった。
「あんた、何かあったらちゃんと私に言いや」
 自分は緑より使える、頭が良い、と言いたいばかりの言い方やった。
「偉そうに」
 橙の気持ちも分からんでもない。それでもうちは腹が立った。所詮、うちと橙は水と油。合わないのだ。これは昔からの話。
 居心地の悪いまま、会議室を後にした。廊下、トイレに立ったのであろう人事総務課長と鉢合わせた。オヤジの軽い会釈。何となく二人、それを無視した。


 旭と再会したのはその週の水曜日。病院のロビーやった。
「あんた、こんなところで何してんの?」
 うちはやや驚き、言うた。が、旭は割と冷静で、
「や、お見舞いやがな。病院なんやから」
 と、小さく笑んだ。って言われたら、奴自身は何ら健康そうやし、そりゃ、そーや。病院やもな、ここ。でも久しぶりやったから驚いたのだ。
 旭。高校の同級生である。二回ほどクラスも同じで、もう忘れたが、何かの実行委員を一緒にやって、割と仲が良かった。
 相変わらず背が高く、しかしながら小顔で、何やロッカールームのシャワーのような男やな、とこれはうちの奴の昔からの印象。
「高校卒業ぶりちゃうの?」
「そうかも。俺、同窓会とか行かんし」
「言うてうちも数えるくらいしか行ったことないけど」
 うちはおとんに着替えを渡した後やった。旭ももう今から帰る頃合いやったようなので、一緒に外に出る。
「なんか、腹減らへん?」
 夕暮れの赤茶ぽい光を西から浴びながら、風は微、旭はそない邪魔そうでもない髪をかきあげて言うた。他の人がしたらちょっとキザっぽい動作なんかもしれんが、旭がするとそうでもなかった。それは良し悪しではなく、現実そうやったからそうなんと。
「減ったかも」
 うちは健康体のやから、大概の場合、夕暮れ時にはお腹が減る。
「ほな何か食べに行こうや。それか、今から何か予定あり?」
「いや、無い。行こか」
 二人で近くのラーメン屋まで歩いた。
 そこは親の仇のように濃厚な、こってり豚骨スープを押している店で、今日数年ぶりに再会した若い男女が赴く食事のチョイスとしては若干どうなんやろか、とも思ったが、まぁ、旭には昔からそういう少し無神経なところがあることも知っとるし、別にこの食事に特別な意味があるとも思えんし、構わん、良しとして暖簾をくぐった。
「緑も誰かのお見舞い?」
 旭がグラスに水を注ぎながら聞く。ケトルの底には薄く切られた檸檬が転がっとった。
「うん。おとんのお見舞い」
「どっか悪いん?」
「余命半年なんやとよ」
 センシティブな情報にも関わらず普通に言うてもうた。
「半年かぁ。キツいな」
「キツいわ。ほんまに数日前、急にそんなことになったんよ。だから正直まだ心の整理が全然ついてへんわー」
「心の整理なんて、多分一生つかへんよ」
 旭はうちの目を見ないで言った。
 これはつまり、経験者は語るとでも言うんやろか、旭は高校時代に立て続けに両親を亡くしていた。
 店内、我らの頭上を微かに蔓延るもやもやを、誤魔化すようにうちは水をくびっと飲む。隣を盗み見ると、旭は自分の発言に傷ついているんか少し寂しそうな顔をしてた。
「旭は誰のお見舞いなん?」
「婆ちゃん」
「あぁ、お婆ちゃん。入院してはんねんな」
「うん。だから今、何気に人生初の一人暮らしや」
 そういえば旭は両親が亡くなって以来、お婆ちゃんと二人暮しやった。
「ちゃんと食べてんの?」
「まぁ、一応な。騙し騙し」
「お婆ちゃん、悪いん?」
「や、まぁ、ただの骨折」
「そっか」
 何か、変わらんなぁ、と思った。
 話す感じとか、空気もそうやけど、旭はほんまに昔のままやった。うちは脳裏、高校の頃の淡いブルーな感じを思い出す。懐かしいやんけ、なんて強がったりして。
「橙は元気?」
 ラーメンを食べてる時に旭が聞いた。橙もうちと同じ高校で、だから旭も橙のことを知っていた。
「まぁー、元気なんちゃうの。知らんけど」
「相変わらず仲悪いねんな。全然会ってへんの?」
「いや、毎日会ってんよ」
「は?」
「アイツ、今同じ会社に勤めとるんよ」
「何でまた?」
 旭はちょっと笑った。
「こっちが聞きたいわ。入社したら同期の中におった。何の因果か事務所も同じ」
「それ、偶然?」
「当たり前やろ。橙は高校卒業したらすぐ家を出てって、それからほとんど話してなかったからお互い入社式までマジで知らんかった」
「すごいな。会社の人はみんな二人の関係知ってるん?」
「いや、知らん、はず。あいつが言うてなかったらな。まぁ、言わんやろな。うちは橋本性やし、あいつは元の遠山性のままやから、気付かれようがない」
「あぁ、なるほど。しかし不思議よなぁ、自分等二人って、嫌い合ってんのにそんなふうに自然と引きあって。顔も似てるし」
 そう言って麺を頬張り旭は笑う。が、うちは笑えない。無表情でラーメンをすする。
 旭の言う通り、不思議なことだが確かにうちと橙の容姿はよく似ていた。それは自分でも思う。
 もちろん再婚同士、血縁なんて無い。一緒に暮らしていて、似通ってきたというわけでもない。記憶を辿らずとも、初めて会った時からうち等はよく似ていた。
「いい迷惑やわ」
「意外とちゃんと話してみたら性格合うかもしれへんで」
「無いって」
「でも、たった一人の姉妹やろ? 俺、一人っ子やからそういうの羨ましいけど」
「うち、お兄もおるから」
「あ、そっか」
 こってり豚骨スープは美味しかった。油断すると油でスープが固まってまう感じ。あかんと思いつつスープまで全部飲み干した。
 それで外に出るともうすっかり空は暮れていて藍、つうかだいぶもう黒寄りやった。空気は恐ろしいくらいに澄んでいて、ここいらの季節限定のそれやった。
「親父さん、しばらく入院ならまた病院で会うかもなぁ」
 旭は煙草をふかして言った。
「せやなぁ」
 と、うちもライターを擦る。
「あれ、煙草吸ってたっけ?」
「うん。けっこう前から」
「そか、そか」
「だって今日、高校以来やん。何年経った思ってんの?」
「まぁー」
「あの頃はうち、髪長かったやろ?」
 そう言ってうちは自分の短い髪先を持ち上げる。
「覚えてる、覚えてる。髪型も橙とよう似てた」
「またその話」
 似通うのが嫌で、うちは働き出してから髪を短くしたのだ。欠伸を一つして、また煙草の続きを吸った。
「旭のお婆ちゃんはいつまで入院してんの?」
「忘れたー」
「普通、そこ忘れるか」
 それに対して旭は何も言わんかった。
 歩道沿いを通り行く車のヘッドライトが、単調なペースでうち等の背中に色を塗る。遠くから笑い声が聞こえてきて、まだまだ夜は絶頂を迎えていない感じ。でもうちはもう、少し眠かった。病院は慣れない。分かりやすい愛の香りやとか、カーテンに透ける死の表情やとか、それらを受け入れる痛々しい壁の傷やとか。そう言ったものにほとほと疲れてしまう。
「食べるものに困ったらうちにきいや。すぐそこやから。多少のもんなら食べさせたるで」
「おお、力強い」
 旭はそう言って笑い、青の信号を渡る。少し後ろを歩くうちも来たる点滅に歩みを早めた。


 お兄が帰って来たんは結局その週の金曜の夜やった。
「遅っ。すぐ戻る言うてたのに」
 遠路はるばる東京から最終の新幹線で帰ってきたお兄への、うちの第一声やった。
「しゃあないやろ。今いろいろ案件が重なっとるんやから」
 お兄は東京で営業の仕事をしていた。アホのくせして一丁前なことを言いよる。
「ご飯は?」
「新幹線で食べた。疲れたから今夜はもう寝たい」
「ほな、布団引いといたるからその間にシャワーだけ浴びてきたら?」
「や、いい。今日はもうここで寝る」
 そう言ってお兄はソファに倒れ込む。ちょっと間放置していて覗き込むと、もう眠っていた。
 眠るお兄に毛布を掛けて、少しだけプレステをした後、その夜はうちもほどなくして眠った。
 翌日は昼前にお兄の運転する車で病院に行った。
「何してんねん。珍しいな」
 おとんはお兄を見て驚いた。それもそのはずで、お兄は普段、盆と正月、下手し一年に正月のみしか帰って来ないような薄情者で、こんな何も無い週末に顔を出すなんてことは日常まず有り得へんことやった。
 それでお兄はまたオーバーに「おとん、大丈夫か?」何て言うからうちはもう、気が気じゃなかった。病院に行く前にちゃんとお兄にもおとんには病状を何も伝えていないということを言うたのに。まぁ、気持ちは分からんでもないが。
「おとん、毎日何してるん?」
 うちは話題を変えたかった。
「何って、暇しとるんや。音楽聴いたり本読んだり。それはそれで好きなんやけど、いい加減もう疲れたわ」
 おとんは欠伸をして言う。ずっと何かしら動いていた人間にとって、止まることもそれなりに体力を使うんやろう。
「欲しい本あるんなら買うてきたるで」
 と、お兄。何や、うぜー。
「それもええけど、いい加減退院させろよ」
「まぁ、そうやんな」
 何とも言い難かった。なんせ今日で入院して一週間が経つ。いつまで誤魔化せばええねんな、なんて自問自答。自然と表情が暗くなった。お兄も口ごもり、やや邪な空気が流れる。
 その時、病室の扉が開いて誰かが入ってきた。
 橙やった。
「おう」
 おとんがそう言って手を挙げる。
「元基君、帰って来てたんや」
 橙はうちを無視してそう言った。
「うん。昨日の夜」
「そっか」
 お兄と橙は別に仲が悪くない。特別良いと言うわけでもないが、少なくとも悪くはない。悪いのはうちと橙だけやった。
「お父さん、大丈夫?」
「別に何も悪いことない。今日の午後からでも退院できるわ」
 親指を立てておとんが言う。自信有り気な顔やった。
「そうか」
「というか珍しいなぁ、家族が全員揃うなんて」
 おとんは嬉しそうに言った。
「まぁ、せやな」
 と、お兄はどこまでいってもぎこちない。
 それから四人で病室で話をしていたのだが、途中、ぼんが来てお兄だけを呼んで出て行った。
 お兄がいなくなるとうちと橙は仲介役を失い、途端に会話がぎこちなくなる。おとんにしてももともと口数の多い人ちゃうから病室には仕方なし、言う感じのその場凌ぎの気まずさが訪れた。
 最初はうちも我慢していた。カーテンを無意味に開いて閉じて、外の様子を見てみたり、「今日の昼御飯は何なん?」なんて当たり障りの無いことを言うて場をもたそうとしたりするも上手くいかず、橙は橙で諦めたように仕事用の携帯をいじくっていて協力的ではないので、とうとううちも諦めて、
「ちょ、煙草吸ってくるわ」
 と、言って病室を出た。
 病院の外にある喫煙所。端が割れた簡易なブルーベンチが適当に置かれており、コンクリートは沈んだ灰。寂れていた。旭、来とらんかなぁ、なんて思っていたが、喫煙所には誰もおらず、うちは一人煙草に火をつけた。それでふーっと煙を吐き出した時、どこかほっとしている自分に気づいた。
 その原因は橙。
 今日、久しぶりにまともに話したが、やはりうちと橙は合わん。前から分かっとったけど、そんなこと。やっぱりあかん。
 高校の頃から「何で自分等そんな仲悪いん?」と聞かれることが多かった。当時、何と答えていたかは覚えてへんけど、これは別に、何かきっかけがあってこうなったわけでは無い。ほんまに最初からこうなのだ。
 おとんが新しい母親を連れて来た時、傍らには橙がいた。自分によく似た女の子やな、というのが第一印象。そしてその時から既にうちは橙を、橙はうちを、何となく気に入らない奴やと思っていた。理由は分からんけど。そしてそれがただ何となく十数年も続いている。
 煙草を二本吸って病室へ戻るとお兄も戻って来ていた。おとんの傍らに座ったお兄は浮かない表情やった。そりゃそうやわ。この前余命半年言うてたんやから、今日ぼんの口から急にポジティブな話が出るとは到底思えへん。
「お前、強制禁煙の俺の前でよう煙草の匂いぷんぷんさせれんな」
 そう言っておとんがうちを小突く。顔は笑っていたが。むしろ怒った顔なんは橙の方やった。
 もう一時間程うだうだしてその日は病院を後にした。


 お兄が運転する車で病院から少し離れたファミレスに入ったのは十五時半頃やった。日差しが強く、まだ梅雨入り前にも関わらず真夏の様な太陽光が肌を焼く。じりじりとローストしよる。
 通された四人席、うちは迷わずお兄の隣に座った。
「何か食うやろ?」
 お兄はそう言って壁際のスタンドからメニューを抜き取り、うちと橙にそれぞれ配った。
 この時間まで何も食べておらず、確かにお腹は空いていたんやけど、なんせこのメンバー(てか家族)やし、メニューを見開いて「じゃあ、うちはこれにするからあんたのそれ一口ちょうだいや」とはならず、何となくうちも橙もメニューを手に持ったまま何も言わないでいた。
 すると何かを感じ取ったような、そうでもないようなお兄は、
「ほな、このポテトフライ頼んで三人で分け分けしよか。前食べたことあるんやけど、ぎょうさん入っとったし」
 と、女二人が何か言う前にポテトフライをさっさと注文して、ドリンクバーも三つそれに付けた。
 ポテトフライは、ほんまに注文を受けてから作ったんか? 言うくらいすぐに出てきた。ドリンクバーを取って戻った直後やった。うちとお兄はメロンソーダ、橙はアイスコーヒーを飲みながらポテトフライをつまむ。
「ポテトフライとコーヒーってどうなん?」
 何となく違和感があったからうちは橙に聞いた。
「別に、普通や」
 橙は目も合わさずに言うた。やからうちも「そうかぁ」なんて適当に返す。
「とりあえずなぁ、これからのこといろいろと考えなあかんねん」
 ポテトフライを頬張るお兄が神妙な面持ちで話し始めた。
「いろいろって?」
 うちもポテトフライを頬張り聞き返す。
「そりゃお前、治療の方向性とかそういうの、いろいろあるやろ」
「治療の方向性って何よ、具体的に言うと」
「化学療法とか、そういうのやるかとか」
「やったらええやん。それで治るなら」
「そんな簡単なことちゃうわ。副作用も当然あるやろし、お父さんの身体や気持ちのことも考えな」
 と、挟んだのは橙。
 それはまぁ、確かに。副作用。脳裏によぎったのは東京タワーの樹木希林。昔見た映画。
「橙の言う通りや。それにな、これだけはもうはっきり言うておくけど、治ることはまずない。今は元気そうに見えるけど、症状はかなり進行しとるらしいわ。正直、あとはどれだけ生きられるかという状態やと思った方がいい。化学療法、抗がん剤治療をしたとしてもその期間を延ばせるかどうかというレベルや」
 けっこうショッキングな話なんやけど、お兄が言うとどこか冗談ぽく聞こえる。でもこれは冗談ではないのだ。
「余命半年」
 うちは溜息をついて呟いた。
「あ、それがな、それは一つの考え方らしくて、なんやけ、えっと、そやそや、生存期間中央値言うてはったな。あくまで統計上の数字で、予測に過ぎないらしい」
「つまりは何よ?」
「まぁ、半年生きれるかもしれんし、もっと早いかもしれんいう話」
「何やはっきりせえへんなぁ」
 そう言ってうちはメロンソーダを飲み干した。舌、タートルズみたいな緑になってたら嫌やなぁ、と一瞬思ったけど、別に何も言わんしせんかった。
「とにかく状況が状況なんやから、いつまでもお父さんに黙ってるわけにもいかんやろ」
 橙が冷静に言うた。
「そうやんなぁ、やっぱり」
 お兄はそう言って頭を抱えた。
「入院して一週間やけど、もう誤魔化すのはだいぶしんどいで」
 うちはポテトフライでお兄を指して言うた。
「そうやんな。それは俺も感じたわ」
「こういうことはやっぱり元基君から伝えるのが筋ちゃう」
 橙がはっきりと言うた。うちもそこはそうやと思うからうんうんと頷く。
「やっぱりそうやんなぁ」
「お兄、さっきからそればっかやん。頼むで、しっかりしてくれ。長男なんやから」
 うちはなおもお兄をポテトフライでブイブイと指す。
「分かっとるわ。言うよ、俺からちゃんと」
「ほな、どうする? 明日また集まって三人で行こうか?」
 橙が言うた。
「や、ちょっと待て。明日はあかんねん。俺、仕事の関係で今夜には一回東京戻らなあかん」
「はぁ? こんな時なんやからちょっとくらい休ませてもらいいや」
 うちは呆れて言うた。仕事、仕事と何やねんなこの男は。島耕作か、半沢直樹か、金太郎かっちゅうねん。なんて心の中でディスった。
 お兄、昔はうちと同様に勉強嫌いやって成績も悪かったし、部活や何やらに打ち込むでもなく、放課後も家でゴロゴロと再放送のドラマやなんかを観とったクチやのに、働き出して数年経った頃から急に世間様に対してやる気を出し始めたのか、仕事が、仕事が、と忙しそうに飛び回り、付き合いもすっかり悪くなった。
 まぁ、しかし確かに頑張っているは頑張っているようで、前に偶然お兄と二人でおる時に会った会社の上司らしき人は「お兄さんは本当にすごいんだよ」と気色悪い標準語でお兄のことをうちに褒めとった。何がすごいんかはイマイチ伝わってこんかったけど、お兄、マジでちゃんとやってるんやなぁ、とその時初めてお兄のことを少し見直したんを覚えてる。
 が、それとこれとは別の話で、こんな時くらい仕事休めやと思う。うちなら百パー休む。大腕を振って休む。
「元基君、明日はしゃあないかもやけど、早よ伝えなあかんと思うで」
「せやな」
「あ、お兄、もしかしておとんに病気のこと言いたくないから先延ばしにしとるんちゃうやろな?」
「あほ、そんなんちゃう。来週末また帰ってくるから、その時に俺からおとんにちゃんと伝える。やから二人でこの一週間は何とかもたせてくれ」
 うちは、まぁあと一週間くらいならギリ何とかなるかなぁ、と思った。
 ファミレスを出て、車で橙を駅まで送った。
 橙が降りたあと、うちは助手席、お兄は運転席と並んで、特に話をするでもなく物静かに座っていたら、カーステレオから昔おとんがよく車で流していた曲が流れた。
 透き通った女の人の声、名前はもう忘れたけど、確か白のセーターを着た女の人が腰に手をあてたCDジャケット。車にいつも置きっ放してあった。幼少の頃の記憶。うちもお兄もおそらく小学生で、橙はまだおらんかった。夏っぽい感じの曲。まだ今の季節には早いが、爽やかな曲やった。
 うちは無意識のうちにその歌声に耳をすませて目を瞑っていた。若いおとんとまだ餓鬼んちょのうちとお兄が浮かぶ。曲が終わり、ラジオDJが不自然なくらい陽気な声で話し始めたところで目を開けると、隣でお兄は泣いていた。
 前を見据えたまま声を押し殺して、ぽろぽろと涙を零していた。こんなお兄を見るのは小学生以来やった。「何泣いてんねん」とはよう言えんかった。
 てか、それよりもまず思ったのは、何故にうちは泣けへんのか、いうこと。普通涙って女の子の方が先ってイメージ。でもお兄の涙を見てもうちの涙はその予兆すらもなかった。
 うーん。多分これは想像力の欠如やと思う。
 アホやしなぁ、うち。半年後におとんが死ぬなんて、全然想像できてへん。ほんまか嘘かも正直言ってまだ判断がついてへん。ぼんが嘘つく理由なんて無いし、ほんまなんやろけどな。せやかて、そう言われても何やかもうわけ分からんから。急にこんなことになって、そんなこと言われてもなぁ、いう感じではある。
 でも、お兄が今泣くのはそういったうちが分かってないだいたいのことが分かっているからで、分かっているからこそ想像してまうし、悲しいとか辛いとかいう感情が生まれるんやと思う。
 お兄はもう、昔みたいなアホやないんやな。そう思った。



 雨の少ない梅雨やった。
 空は毎日どんよりとしたねずみ色で、気分も天気も晴れないが雨は降らない、という何とも中途半端な日々。持ち歩くビニール傘の先が苛立ちで削れる。これはどうにも悪しき習慣。
 まぁ、それはそうとして、三人でファミレスで話し合った日から早二週間が経つ。
 お兄は未だに帰ってこない。
「案件が重なってる上にトラブルまで起こってもうて首が回らん。すまん、来週こそ必ず帰るから」
 昨日、電話口でそんなことを言うてた。
 うちは「アホかっ、一生帰ってくんな」言うてブチ切れて電話を切ってもうたんやけど、実際のところ、困る。一日でも早く帰ってきてほしい。
 正直、うちも橙もおとんを誤魔化すのも限界で、おとんの前、冷や汗をかきながら苦笑いを浮かべていた(ちなみに、あれ以来橙とは一緒に病院には行っていない。タイミングをずらして別々に足を運んでいるのだ)
 それに加えてぼんからも「そろそろ方向性を……」なんてチクチクと言われる。うちは困り顔で「ですよねぇ」なんて言うてるんやけど、これはおそらくお兄の方にも電話が入っていて、まったく話に進展がないわけでは流石にないと思ってる。祈ってる。

 帰り道、最寄駅で偶然旭に会った。
「今帰り?」
 この日も一日中ぐずぐずしていた割には結局雨は降らず、うちは持て余したビニール傘をぶらぶらさせて改札をくぐったところやった。
「仕事帰り。旭も?」
「うん」
「てか何の仕事してるん?」
「今は婆ちゃんの店手伝ってる」
「へぇ、お店って何?」
「所謂スナックつうの? 東通りでやってんねんけどな。多少は人雇ってたけど、婆ちゃんがほぼ一人で切り盛りしてたもんやから、入院後はしゃあなしで俺がフォローしとるんよ。退院してきて店潰れとったら婆ちゃん怒るやろからなぁ」
 そう言って旭は少し笑った。
「偉いな、旭」
「まぁ」
 駅前ロータリーは今日もシャープさを極限まで上げて光っており、青、赤や緑の電飾盤、信号すらも美しかった。この出口から見る最寄駅前の夜の光景をうちは密かに愛していた。
「ところで、ちゃんと食べてんの?」
「だからそこは騙し騙し。でもなぁ、最近ちょっと困ってるで」
 そう言って旭は意味有りげに笑った。
「ちゃんと覚えてたか」
 食べるものに困ったらうちにきいやという約束。笑ってしまった。
「ほんまにええの?」
「ええよ。うち、歩いて十分くらいのとこやから近いし」
「高校の頃と同じ家?」
「うん。相変わらずの実家暮らし。今は一人暮らしやけどな」
 二人で国道沿いのスーパーに寄り、適当な食材を買って帰った。街灯の照らす歩道を二人歩く。途中、自転車を漕ぐリーマンに追い抜かれたりしながら。その月影を見送りながら。
 って何やこれは。新婚カップルみたいやないかい。なんて思ったが何も言わんかった。そんなん言うても変に気まずくなるだけやし。言わんでもいい余計なことって、確かにこの世にはある。
 部屋の前まで来た時、中が散らかっていたらどうしようか、という考えが初めて頭に浮かんだ。考えても朝出た時の部屋の状態が思い出せへん。
「ごめん、ちょっと待っててくれる?」
「おう」
 それで部屋に入るも意外と中は片付いており、別に何かを慌てて片付ける必要もなく、これはいったい何の時間やったんやろかというくらいの短時間ですぐに旭を招き入れた。
「広いなぁ」
 中に入ると旭は驚いた様子で言った。
「まぁ、もともとは五人で住んでたからなぁ」
「入院してるお父さんと、緑と橙と、お兄さんがおるんやっけ?」
「うん。それとうち等が高校の時に亡くなった母親。それで五人」
「そのお母さんが、橙の実のお母さんなんやろ?」
「そう」
「なるほど、なるほど」
 少し悲しげな表情で旭は言った。
「ちょっとソファで適当にテレビでも見てくつろいでて。すぐにご飯作るから」
「ありがとう」
 一応男の子を招いて料理を振る舞うわけなので、少しは洒落たものを作るべきなんやろけど、うちのチョイスは親子丼、そしてお麩とわかめのおすまし。まったく可愛らしくない。まぁ、でもええやないですか。この前もこってり豚骨スープやったんやし。
 料理が出来上がり旭を見ると、ちょこんとソファに腰掛けて小さな音でテレビを観ていた。台所からはソファに沈んだその後頭部だけが見える。
「旭、ご飯できたで」
 背中に呼びかけるも返事がない。
 再度呼びかけても同じやったので見に行くと、ソファで落ちるように眠っていた。
「旭」
 少し肩を揺さぶってみると目を覚まして、
「う、あぁ。寝てた?」
 なんて寝ぼけ目で言う。
「完全に寝てた」
「ごめん」
「や、別にええけどさ。ご飯できたで」
「うん」
 それで旭はただの親子丼とおすましなのに、うちの料理をやたらと褒め、感動して食べてくれた。目を丸くして、
「緑、マジで美味しいな」
 なんて。
「オーバーやな。別に普通やて」
 うちは恥ずかしくなって言うた。
「ずっとこういう家庭的な味に飢えてた」
「何や、やっぱ自炊してなかったん?」
「してへんなぁ。てかそもそも料理なんて大してできひんしな。婆ちゃんが入院してからはレトルトと外食ばっかやった」
「全然騙し騙しちゃうやん。そんなんあかんで。身体に悪いわ」
 なんてうちはお母さん的なことを言う。
「それは分かっとるんやけどなぁ」
 親子丼、けっこうな大盛りやったのに旭は難なくペロっと食べた。多分うちの倍くらいは食べた。流石は男の子やなぁ、なんてうちは感心しつつ食後のコーヒーを淹れる。
「その後、気持ちは少し落ち着いた?」
 旭はコーヒーにミルクを入れながら聞く。
「落ち着いたかどうかと言われると、落ち着いてるつもりやねんけどなぁ。と言うかまだ実感が湧かんくて、悲しいって感情とか焦りの感情もまだない」
 それを聞いて旭は黙って頷いた。
「まぁ、うちがアホやからなんやろけどなぁ」
 そう言ってうちは煙草に火をつける。
「いや、正直半分くらいの人は緑と同じやと思うで。半年や言われても何やストンと落ちひんままその日を迎えて、それでいろいろなことに初めて気付くと言うか。だから別に緑がアホやとは俺は思わんけどな」
「そうかなぁ」
「そうやって」
 そう言って旭も煙草に火をつけた。
「旭の場合はどうやったん?」
 そう聞いてすぐ、やってもうたと思った。
 旭は何やかキョトンとしていて反応が読めへんかったがとりあえず、
「ごめん。変なこと聞いた」
 と頭を下げて謝った。
「いや、別にええよ」
 うちが急にマジな面持ちになったからか、旭は吹き出すように笑った。
「何か触れたらあかんとこ触れてもうたかなって」
「まぁ、確かにちょっと踏み込んだなとは思ったけど。別にええよ」
「やー、デリケートっすねぇ」
 そう言うと、なおも旭は笑った。
「まぁ、さっきの質問に対してやけど、俺も両親が死ぬまで何の実感もなかった。でもちょっと緑とは状況が違う。と、いうのも、うちの場合は二人とも自殺やったから。何の前触れもなかってん」
「マジで?」
 驚きで裏返ったような声が出た。旭の両親が立て続けに高校時代に亡くなったことは知っていたが、その理由までは知らなかった。
「病気か事故やと思ってた」
「普通はそう思うよなぁ。でもちゃうねん」
「辛かったやろうな。ごめん。うち、何かそんな普通のことしか言えへんねんけど」
「逆に普通のことの方が信頼できるわ。難しいことは言われても俺にはよう分からん。とりあえず辛かったし、悲しかったんは覚えてる」
 両親が立て続けに自殺。
 普通に病気でいなくなってまうだけでも辛いのに自殺なんて、多分その死に対して様々な感情が絡んでくる。素面ではいられない悲しみ。しかも旭はそれで一人になってしまったんやから。あ、お婆ちゃんはいたのか。それにしても親がいないのは辛いやろう。うちかて実の母親は途中からおらんかった。やからその気持ちは少しだけ分かる。
 その時、ふと前を見ると、窓の外を見る旭の目が恐ろしいくらい冷たい目になっていることに気付いた。
 背筋がゾクっとした。
 怖くて、声が出せへんかった。ぐっと固唾を飲む。
「どした?」
 少ししてそう言った時、旭はもういつも通りの旭に戻っていた。
「や、別に。何も」
「何か顔色悪いけど」
「そう?」
 鏡を見てへんから分からんが、多分悪いような気がする。
「まぁ、大丈夫ならええんやけど」
 それでうちは、はははー、なんて適当に笑って誤魔化した。
 けど、覚えてる。確かにうちは見た。
 今、旭の目は死を見つめていた。うちはそう思う。そしておそらくそれは間違いない。
「雨、降り出したみたいやな」
 旭にそう言われて窓の外を見ると、確かに暗い空から雨粒がぽつぽつと降り注いでいた。降り始めのようやった。梅雨のくせして久方ぶりの雨。
「すぐ止むかな?」
「さぁ、天気予報は見てへんけど、言うて梅雨やしな」
「そりゃそうや。傘あるん?」
「鞄に折りたたみがある」
 うちはコクンと頷いた。
 開け放した窓から雨の匂いがする。その匂いは、嫌いじゃない。うちは決して嫌いじゃない。街が雨に濡れる匂い。良い匂い。
 もう一杯コーヒーを淹れてみたが、結局その夜、雨は止まなかった。


 おとんが血を吐いたらしい。
 病院から電話が入った。
 そういうん、吐血って言うんやと思ってたんやけど、ちゃうくて、喀血言うらしい。喀血。響きがまず恐ろしいわな。
 うちは会社を早退してすぐに病院へ向かった。お兄は東京やし、橙もその日は運悪く遠方に出張に出ていた。
 慌てて病室に駆け込むと、驚くことにおとんがおらん。
 うちは空のベッドを見て咄嗟に、これはおとんはとにかく今マズい状態で、集中治療室的なところでギリギリの処置を受けてるんちゃうやろかと思い、またも慌てて今度はナースステーションへ駆け込んだ。すると、
「病室におらんかった? ほな、どこやろねぇ。もしかしたら売店にでも行ってはるんかもしれないですけど」
 なんて中年のナースは気の抜けた口調で抜け抜けと言うた。
「でも血吐いたって」
「まぁ、とは言え少量やったんでね。止血剤飲んでとりあえず休んでもらってたんです」
「はぁ」
 何やいい加減なナースやなぁ、とうちはその態度に若干イラっとしたけど、血吐いた聞いて勝手に慌ててぶっ飛んできたのはうちの方やし、何も言わんかった。
 で、売店を覗いたがここにもいなかった。
 となるとこれはもうあそこしかないと思い、外に出て病院の裏手に回る。角を曲がると最早お馴染みになりつつある寂れた喫煙所の風景。ブルーのベンチに座りおとんが一人煙草を吸っていた。
「よう」
 うちに気づき軽く手を挙げる。
「うん」
 煙草なんて吸うたらあかん、とは何故か言えへんかった。
「何や、まだ昼過ぎやぞ。会社はどうしてん? 社会人」
「抜けてきてん。おとん、血吐いたんやって?」
「うん。ビビったわ」
 おとんはそう言って煙を吐く。
「そりゃそうやわ。でも、ちょっとだけやったんやろ?」
 うちはおとんを安心させようと無理に笑って言うた。
「ちょっとや言うてもお前、血やで。真っ赤で、またシーツが白やからやたらええ色に見えるんよ。変な話、鮮血いうんか? ああいうの。焦ったけどな。なんじゃこりゃあ、て叫びたかったけど、他の人もおるからやめといたわ。普通にナースコールしたわ」
「あー、なんやっけそれ。松田優作? 探偵物語?」
 おとんはそれに対しては何も答えず、煙草を灰皿に押し付けて消した。
「お前さぁ、いやお前って言うか緑だけちゃうくて、橙も元基も、何か俺に隠してへんか?」
「な、何かって?」
 うちはなるべく平静を装って言った。
「別にええんやで、正直に言うてくれても。俺も歳は歳やし、気遣われるん苦手やし」
 そう言っておとんはもう一本煙草に火をつける。
「そんな、煙草ぎょうさん吸うたらあかんよ」
「何で?」
「おとん、病気やねんから。ごっつ悪くて、あと半年や言われとるんやから」
 自然と言葉が出てしまった。
 漫画の章と章の間のような空白がうちとおとんを隔てた。風がそっと吹いて煙草の煙が流れる。
「マジか」
 おとんは少し笑って言った。
「おとん、ごめん」
 その時、初めて目に涙が溢れた。
「お前が謝ることちゃうやろ」
「ごめん、ごめんな」
 涙がぼろぼろとこぼれる。わけ分からんくらい。止まらんかった。
 正直、何がごめんなんか自分でもよく分からんかった。それは雑になってしまっていたおとんとの生活に対してか、それとも病状を暫く黙っていたことに対してか、分からん。多分、そんなもろもろ全てに対してなんやろう。とにかくうちは謝りたかった。おとんにごめんって言いたかった。
「何も気にすんな、アホ」
 おとんは優しくうちの頭を撫でた。子供の頃みたいに。めっちゃ煙草臭かった。ずっと我慢しとったから、多分何本も吸ってたんやろな。それは紛れもなくおとんの匂いやった。
 そうしてこの日からおとんはほんまの意味で死に向かって歩き出した。


 週末、やっとお兄が帰ってきた。
 病院に行く前に一度三人で集まった。その時、病状をおとんに伝えてしまったことをうちは二人に正直に話した。
 予想した通り、橙は烈火の如く怒った。
「何のために元基君が帰ってくるまで頑張って誤魔化してたんよ。大事なことやからちゃんと元基君から話すって言うたやろ! なんであんたはいつもそんな勝手すんねん!」
 橙の言うことは最もやった。そういうふうに三人で決めていたんやから。うちは無抵抗で素直に「ごめん」と謝った。
 するとお兄が橙を手で制した。
「悪いのはなかなか帰ってけえへんかった俺や。二人とも、迷惑かけた。緑が耐え切れず言うてしまったんも仕方ないことや。だから橙、緑を責めるな。責めるなら俺を責めろ」
 お兄にそう言われると、流石の橙も引いて、それ以上は何も言わんかった。
「今日俺から改めて話すわ」
 それで三人で病院へ行った。
 おとんはお兄がいることに対して特別驚かなかった。「よう」と短く言うだけやった。
「緑から少し話は聞いたんやろ?」
 お兄はおとんのベッドの脇に置かれたパイプ椅子に座って言うた。
「あぁ、聞いた」
「一応医者からは半年言われてる。肺がだいぶ悪いらしいわ」
「そうか。まぁ、十代の頃から煙草吸うてたからなぁ」
 そう言っておとんは少し笑った。
 その笑顔を見て、うちの胸はまた締め付けられた。心臓を荷造り用の紐でキュッとやられるような感じ。窓から見える空はブルーで、気候も良く、文句なし。やけど病室の空気は曇そのものやった。壁の白が今日はグレーに見える。翳る。
「ちょっと、やっぱ悪いけど橙と緑は外してくれへんか? おとんと二人で話がしたい」
 お兄はうち等にそう言った。
 うちは一瞬躊躇ったけど、橙はお兄の気持ちを汲んで軽く頷き病室を出た。だからうちもそれに続いた。
 とりあえず二人、休憩室的な、本やテレビがある集合スペースに移動した。そこには他にも何人か入院患者やお見舞いに来たと思われる人等がいて、皆思い思いに何かをしていて小さいながらも賑わいがあった。その中でうちと橙は場違いな感じやった。
「お兄、どんな話してるんやろか? うちも一緒に話聞きたかったんやけど」
「元基君が二人の方が話しやすかったんならそっちの方がええやろ」
「まぁ、そりゃそうなんやけど」
 そんなことうちかて言われんでも分かってる。
「元基君なら上手く話してくれるわ」
 こいつはお兄をどれだけ高く評価しとんのか。多少はようなったかもやけど、言うて元はうちと同じアホやぞ、と言いたかったが何も言わんかった。と、言うよりこれ以上こいつと何も話したくないな、と思った。
 手持ち無沙汰になって、しゃあないからうちは付けっ放しで部屋の端に置いてあるテレビを見た。
 やっていたのはミステリードラマで、画質や出演者の服装から見て、おそらくかなり古いドラマの再放送のようで、知っている出演者(名前は忘れた)が二人ほどいたが、二人とも若かった。
 オーソドックスな、よくある昔ながらの展開で、明らかに怪しい男がやや煤けたうだつの上がらない中年刑事に現場? で見つかって、追いかけられて、ぜいぜい言いながら捕まって、「違うんだよぉ。俺はただ頼まれただけなんだよぉ」なんて、さっきまでの怪しげで不気味やった表情をくしゃくしゃにして言っていた。そしてやはり、と言うか、当然と言うか、その氏曰くの頼まれた相手のことは何も知らない。何の手掛かりもなし。なーんて、こんなコテコテな展開、最近もうないんちゃうの? こんなドラマさぁ、ツッコミどころ満載やわぁ、なんて昼下がりのおばはん主婦みたいな感想を抱いた。
 予想する。この展開、おそらくラストは崖や。多分犯人はあの気弱そうなお手伝いさんで、楽に十メートル以上はあるのではないかという白波立つ崖に立って「来ないでぇ」なんて叫ぶんやろう。中年刑事はその相棒のこれまた時代錯誤のカッコをしたオバさん婦警と二人、距離を置いて「早まるなぁ」なんて真剣な顔をして言うんやろう。それでもちろんお手伝いさんは崖から飛び降りたりせず、中年刑事の感動話に涙して、無事お縄に付くのだ。めでたしめでたし。で、エンディングの歌は中年刑事役の俳優さんが歌うんやろな。それでお終い。ほんまに教科書通りのミステリードラマ。
 橙も同じくテレビを観ていて、展開の稚拙さに溜息をついていた。うちかてこんなドラマよりアニマックスが観たいと思った。
「時間、かかるかな?」
「さぁ」
 橙はテレビから目線を外さずに言った。
「大丈夫かなぁ」
「うっさいな、もう。煙草でも吸ってくればええやん」
 そう言われてうちは、確かにそれはそうやなと、お言葉に甘えて席を立ち喫煙所へ行った。
 喫煙所には旭がいた。
「ういーす」
 旭はうちを見つけて敬礼みたいなポーズをする。
「元気?」
「まぁ、普通」
 旭は煙を吐いて言った。
「普通が一番」
 うちはそう言って溜息をついた。
「何やねんな。何かあったん?」
「何かなぁ、やっといろいろ実感が湧いてきたわ」
「お父さんのこと?」
 煙草を咥えてうちは頷く。
「この前いろいろあって、結局うちからおとんに病状のこと伝えてもうてん。事故的な感じで」
「そうか。それでお父さんは何て?」
「別に。案外普通やったなぁ。うちはめちゃ泣いてもうてんけど」
「その時初めて実感が湧いたんか」
 うちは小さく頷く。
 おとんに病状を話した時、砂時計の砂がさらさらと流れ落ち始める様が浮かんだ。暗いものが道の向こうで手招きをして待っている様が浮かんだ。そういうイメージ達。
「まぁ。つまりはさ、死ぬっていうのは明日からずっとその人がおらんくなるいうことなんやな。当たり前のことやねんけど、そう思った」
 旭はそれに対しては何も言わず、ずっと遠くの方を細目で見ていた。見上げると高い空を鳥達が飛んでる。
「今、お兄が病室でおとんに詳しい話してる」
「そうか」
「あぁ、そうや、今日は橙も来てるで」
「マジか。懐かしいな。会いたいわ」
 そう言われて無視するわけにもいかんので、うちは旭を連れて休憩室へ引き返した。何や余計なことを言うてもうたなぁ、と若干後悔した。
 戻るとお兄はまだ病室から出てきていないようで、橙は一人で紙パックのコーヒーを飲んで待っていた。
「旭」
 橙は旭を見て驚いて言った。
「この病院にお婆ちゃんが入院してるんやって」
 何故かうちが説明する。
「橙、久しぶりやな」
「高校ぶりや」
 橙はそう言って少し笑った。
「何や、大変らしいな。お父さんのこと、緑から少し聞いた」
「急過ぎて頭の整理がついてないわ」
「うん」
 橙も整理ついてないんやな、とうちはその時初めて知った。
「三度目やで。この歳で。どう思う?」
「多い。俺よりも多いで」
「何、三度目ってどういうこと?」
 二人の会話がうちにはよく分からんかったので聞いた。
「私のほんまのお父さん、お母さん、で、今のお父さんってこと」
「あぁ、そういう意味」
 忘れていたが、橙は実のお父さんも小学生の時に病気で亡くしていた。で、お母さん、そしておとん。それで三度目。確かにそれはちょっと、多い。
「私、やっぱそういう星の下に生まれたんかな」
「止めや、そんな言い方」
 うちは眉間にしわを寄せて言うた。
「てか、おとん、まだ死んでへんし」
 橙はうつむき、何も言わんかった。ちょっと後悔したような顔やった。
「またゆっくり話そうや」
 旭がそう言うと、橙は小さく頷いた。
 何や、うちはそのやり取りにちょっとした違和感を感じたんやけど、その時は何も言わんかった。
 旭はしばらくすると、お婆ちゃんの病室に行くと言って去って行った。それとほぼ入れ違いでお兄がおとんの病室から出て来る。
「どうやった?」
「まぁ、話は後や。入り」
 そう言われて病室に入ると、おとんは別にいつもと変わらん様子で、普通に「おーす」なんて言うが、うち等は少し気まずくて上手く反応できんかった。
 おとんは続けて、
「しばらく迷惑かけるわ」
 なんて言う。
「まぁ、とりあえず二人とも頑張るおとんをフォローしたってくれ」
 と、お兄もそれに被せるが、まだ何も聞いていないうち等は話の筋が全然分からん。おとんもお兄も昔からそうやって話をすっ飛ばす癖がある。
 まぁ、しかしうちも橙も何となく「頑張ろうな」的なええ感じになってる今の空気を壊すのも微妙やったので、「せやな。分かった」なんて笑顔で頷いた。
 相変わらず慣れん病室の匂い。窓の外には生い茂った緑が揺れていた。太陽の光、風。
 そう言えばもうすぐ夏が来るんやな。


 帰りの車で、お兄から話を聞いた。
 おとんは化学療法を受けることに決めたらしい。
 化学療法というのはつまりは抗がん剤治療のことらしく、ということはつまりはおとんはがんやということで、「がん」くらいいくらアホなうちでも知っとる。
 でも最初に説明受けた時、ぼんの奴、がんなんて言うてたかなぁ、思ったけど、まぁ多分言うてたんやろな。うちが動転して聞き漏らしてたんやろなぁ、と助手席、揺れる交通安全の御守り、そこは何となくそれで納得した。
 お兄曰く、おとんとしては抗がん剤治療を行い、少しでも延命、生き長らえたいと言うているようで、それはうちとしても大賛成やった。ただ、聞いていた通り抗がん剤治療には副作用があるようで、その症状は様々。辛い治療になるのは目に見えており、当面のうち等の役割はそんな治療に向き合うおとんの心のケアになるとのことやった。
「分かった」
 後部座席の橙はそう言って頷いた。
「あんた、ほんまに分かったん?」
 うちは後ろを振り向いて言うた。だって、うちはイマイチぴんとけえへんかったから。心のケアて何よ、具体的に。
「そりゃ、まぁ。何となくやけど」
 橙は怪訝そうな顔で言った。
「お兄、心のケアって何や?」
「それはつまり、おとんの気持ちを良い状態に保つためのケアってことや」
「いや、だからそれが具体的に分からんねんて」
 うちが素直にそう聞くと、橙が満を持してキレた。
「あんたなぁ。分からん、分からん、言い過ぎやねん。元基君かて私かて分からんことだらけなんやから。おとんの気持ちやってこれからどうなってくか分からんし、正解なんて無いわ。アホ!」
 自分の内側で何かがプツンと切れる音がはっきりと聞こえた。自分ではアホって自覚してても橙に言われたら腹が立つ。物凄く腹が立つ。
「誰がアホや、コラ。もうちょい具体的に言うてほしいって話やないか。お前こそ偉そう面で知ったかすな!」
「何でもかんでもすぐに聞きすぎやねん。もうちょっと自分でも考えろや!」
「なんやとぉ」
「こらこら、お前等こんな時に喧嘩すな」
 お兄はそう言って猛ったうちと橙を宥めた。それで何となくうちも橙もそれ以上は言わない。
 お兄がこういう穏やかな人間で良かったとうちは心から思う。お兄がおらんかったら多分、うちと橙、どちらかがどちらかを殺してた。いやマジで。
「仲良くやれや。先は長いんやから」
 先は長い言うても半年やん、なんて思ったが、言わんかった。口が裂けても今そんなことは言えん。うちかてそれくらい分かってる。
 あ、いや、でも抗がん剤治療したらもう少し延びるんか。それでも多分、そんなに長くはない。
 それでふと考えた。おとんが、例えば半年後、いや例え一年後でも、ほんまに死ぬとする。そうなると当然残されるのはお兄と橙とうちなわけで、おとんのいない三人の家族になる。この先ずっと、誰かが結婚したり、法事やとか、極端な話誰かが死ぬまでずっとうち等は三人で一つのチームなのだ。
 そんなことがほんまにできるんやろか?
 いや、できるできないちゃうくて実際、誰が何と言おうとそうなるんやけど。不安。つうか、成り立たないんとちゃうやろか、なんて。お兄は普段は離れてるし、よう分からんが忙しい人やし、うちと橙は近いけどこんなやし。いったいどうなってまうんやろか、我々は。


 夜、眠れんかった。土曜の夜。
 深夜。うちはベッドから起きだしてベランダに出て煙草を吸う。
 世界中の生物が皆熟睡しとんちゃうかってくらいに静かやった。ベランダから見下ろす景色、街灯だけが無機質に光っていて、それは何やか風景から浮いていた。ライターを点火するうちと同じくらい浮いていた。真っ暗でええのになぁ、なんて。目が慣れて見えるもんくらいが今のうちの気持ちには丁度良かった。
 頭の中がもやもやする。それは梅雨明け間近、もしかして明けたんか? いう際どいラインの今夜の気候と同じ感じ。原因ははっきりしていて、もちろん家族のことで、うち等、ほんまにこんな感じでこれから大丈夫なんやろかなぁ、なんて昼間に車で抱いていた考えを未だに引きずっていた。
 正直言うて、今までうち等が何となくながらも「家族」として体をなしてこれたんは、これはほんまにおとんの存在が大きかったからで、皆ばらばらながらも「おとん」という帰る場所があったから家族でいれた。ハブみたいやな。ネットのな。
 おとん、おらんくならんでくれ。
 うちは夏前の夜空に向けて切に願った。流れ星なんておらんかったけど、手を合わせ願った。
「何しとんねん」
 ガラっと窓を開けてお兄が顔を出した。
「わひゃあ」
 うちは驚きで飛び上がった。心臓が止まるか思った。
「びっくりしたぁ。やめや、急に」
「わひゃあ、言うてたで、自分」
 お兄はそう言って笑う。
 うちはバツが悪くなって煙草を灰皿に押し消す。この分じゃ願い事も聞かんわな、星も。多分。溜息が出る。
「もう三時やぞ。こんな時間まで何しててん? またわけ分からんアニメでも観てたんか?」
「わけ分からん言うな。てか今日はアニメちゃうわ」
「悩み事か?」
 そう言ってお兄もベランダに出てきた。
「煙草、一本くれや」
「あれ、お兄、煙草止めてたんちゃうの?」
「ええねん、もう。元々付き合ってた彼女に煙草ヤメテ言われて止めてただけやし」
「その彼女は?」
「とっくに別れた。会社の後輩やってんけどな、今はもう別の同僚と付き合っとるわ」
 うちは吹き出し、お兄の咥えた煙草の先端に火をつけてあげた。
「うまー」
 お兄は御満悦な様子で煙を吐く。
「そりゃー良かった」
「ついでに酒でも飲むか」
「はぁ? こんな時間に?」
「ええやん、ちょっとだけ」
 お兄はそう言って部屋に入り、冷蔵庫からさささっと缶ビールを二本持ってきた。二人、それを乾杯もせずに飲み始める。
「お兄、うち等このままやと実際ヤバいよな」
 言うてみた。
「何がヤバいねんな?」
「いや、何か上手くおとんの、その、何やっけ、あの、心の支え的なもんになれるんかなぁ、て。あと、ほんまにおとんがおらんくなってもうたら、その後うち等どうなってまうんかなぁ、とも思って」
「分からん、とは長男としては言いたくないけど正直分からん」
 お兄はそう言ってぐびっとビールを流し込んだ。
「お兄も、やっぱそうかー」
「でもな、お前と橙がもうちょい仲良うしてくれたらな、解決することは多いと思うで」
「それは無理。お兄かて分かるやろ」
「まぁ、昔からやもんなぁ。お前な、俺はそのせいで少なからず困ってんねんで」
「そりゃ、うちかてお兄には悪いと思ってるよ」
「今更やけど、何がそんなにあかんねんな。別に悪い奴ちゃうやん、橙は」
「そんなこと聞かれても最早分からん。とにかくあかんねん。多分、橙も同じような感じなんやろな」
 うちがそう言うとお兄は溜息のように煙草の煙を空に吐き出した。闇夜に白煙がよう目立つ。が、すぐに消えた。
「頑張ろうか。ギア入れ替えたわ。俺、今」
「はは、ええこっちゃ」
 笑う。
 缶ビールを一杯だけ飲むと、不思議なくらい上手く眠れた。
 でもほんまに不思議やったんはその夜ではなく次の夜で、うちは実に奇妙な体験をした。


 変な淫夢を見た。
 いや、淫夢って時点で十分変なんやけどな。
 専門学校時代の元彼が「おう、おう。緑、久しぶり」なんて言うて、とっくに別れているにも関わらず、馴れ馴れしくうちの乳に触れてくる。しかもくっそ、笑顔で。うちもうちで何故かは知らんが、あながち悪い気もせんくて、なされるがまま、さして大きくもない、つか小さい乳を彼に任せていた。
 目が覚めた時、辺りはまだ真っ暗で、携帯を見ると深夜二時。月明かりがカーテンの隙間からベッドに薄く差し込んでいた。
 身体中に嫌な汗をかいていた。
 まったく、何やってん今の夢は。うちはあんな男、もうとっくに忘れてたはずやのに。
 変に目が覚めてしまったので台所に行き、氷でキリッと冷やした水道水を飲む。すると靄がかった頭が少しずつ晴れていき、さっき見たいかがわしいアレは夢やったんやと、自分の中で何となく整理をすることができた。
 でもその瞬間、悪い胸騒ぎが私を襲った。
 おとん。
 それは直感としか言えへん。空のグラスをシンクに置いた瞬間、おとんの身に今何かが起きていると、何故だか強くそう思った。
 確証なんて何も無い。でも不安で仕方がなかった。なんせおとんは余命半年やし、化学療法やし、とりあえず良くない状態なのだ。居ても立ってもいられずおとんの携帯に電話をするも、出ない。
 うへー、なんて思ったが、冷静に考えたら今はもう深夜、えーと、午前二時なわけで、普通に考えたらおとんは確実に寝ている。で、例えばもしほんまに容態が急変していたりしてたらそれはそれで当然電話になんて出られんやろし、どちらにしてもこのタイミングでおとんが電話に出るはずはなかった。
「どうしよ」
 声に出してみるもそこは深夜の台所で、うち以外誰もおらず、か細い声は煙のように一瞬で薄暗に消えた。
 それでうちは居ても立ってもおれず、寝巻きのハーパンとティーシャツの上にソファに脱ぎ捨ててあったカーディガンを羽織り、そのまま家を飛び出した。自転車に乗って病院へ急ぐ。
 病院まではどんなに飛ばしても十五分はかかる。深夜やからか、行き道には誰もいなかった。それでうちはまた果てしない孤独を感じた。
 おとん。
 ちょい泣きそうやった。うちは全速力で自転車を漕ぐ。周りの景色は無数の横線になり、ぼんぼん後ろにぶっ飛んで行く。風は生温く、首筋をねっとりとすり抜けて行った。
 おとんがもし、もし今夜死んでもうたらどないしよう。
 ぼんに言われた「余命半年」の半年はまだまだ先の話。いくらそれがお兄の言うてた何やら中央値か知らんけど、あやふやなもんやとしても、いくら何でも早すぎる。が、うちは必死でペダルを漕ぐ。怖くて怖くてたまらんかった。
 辿り着いた病院は暗く、ほとんどの窓に明かりは灯っておらず、闇。非常灯の緑がホラー映画みたいにぼんやりと壁に映っていた。まぁ、そりゃ、そうやわ。今何時や思うとんねん。駐輪場に自転車を停めて、慌てて夜間受付へ走った。
 その時、病院の入り口の方から誰かが歩いてきて、不意に鉢合わせた。
 人物は、鬼の形相で駐輪場から駆け出してきた不審者(うち)を見て「ひっ」と驚きの声を上げた。けど、うちからしたら逆にこんな時間に病院の入り口をうろついてるあちらさんが不審者なわけで、うちも心臓が止まってまうんちゃうかいうくらい驚き、「うおっ」と可愛いない驚嘆声を上げた。
 ほんで、その不審者。
 見覚えのある茶髪。
「あんた……」
 自転車を飛ばしすぎ、息を切らすうち。不審者、橙は目を丸くしてそんなうちを見た。
「緑……何でおんの?」
「そんなん、こっちのセリフやわ」
 状況が理解できないままにうちは言った。
 それに対して橙は何も言わんかった。動揺しとるようで、月明かりのせいかもしれんけど顔色が真っ青に見えた。
 それでうちは思った。
「まさかあんたもおとんのこと……」
「ええからとりあえず中入ろ」
 橙は柄にもなく焦った声で言うた。
「うん」
 二人で深夜窓口の係員、こいつがまた無愛想で、まったく仕事のできなさそうな中年オヤジなんやけど、そのオヤジに事情を話して、中へ入れてもらうようお願いした。
「病棟の看護師に聞いたけど、おたくらのお父さん、特に問題もなく寝てるらしいけど」
 そうめんどくさそうに言った係員の態度は最悪やったが、うちはその言葉を聞いて少し安心した。
 隣の橙も同じようで、深く息を吐いていた。いつもの橙なら、確実にこの横柄な態度の係員にブチ切れている。基本的に短気やねんな、橙は。でも今はそんなことも気にならんくらいに緊張しているようやった。
「一応顔だけ見て帰ってもいいですか?」
 うちは係員に聞いた。
 係員はまたぶつぶつ文句を言うていたが、けっきょく病棟の中に入ることを許可してくれた。
 夜の病棟。昼間のそれとは違って当然誰もおらん。薄暗い廊下を歩いて行くと、病室に入る前からおとんのイビキが聞こえた。それで一気に気が抜けた。
 橙がカーテンを開けると、おとんはだらしなく口を開けて、家にいた時と同じような顔で呑気に眠っていた。
「元気やん」
 うちは情け無くて笑ってしまった。
「まぁ、良かったけど」
 橙がため息をつく。
「しかし相変わらずうるさいイビキやな」
 そう言ってうちは少し外れた布団をおとんに掛け直した。
「変わってへんなぁ」
 橙も少し笑った。
 小さな声で話していたつもりやったけど、付き添いの看護師さんに「静かにしてください」と注意された。
 うちは素直に謝ったけど、橙は若干毒づいて、それで何となくうちは、さっきまでは振り払ってもべたべたとまとわりついてきたあの死の感覚がいつの間にかもういなくなっていて、なんてことのない、いつもの夜に戻っていることに気づいた。安心した。
 二人で無愛想な係員にお礼を言って病院を出る。見上げると夏の星座。名前は知らんが、とにかく綺麗やった。
「あんた、自転車なん?」
 自然と駐輪場の方に足が向いていたうちに橙が聞く。
「うん。そっちは今どこに住んでんの?」
「大阪市内」
「は? ここまでどうやって来たん?」
「タクシーに決まってるやん。電車なんてもうとっくに終わってるし」
「マジ?」
 ここから市内まではまぁまぁな距離がある。よう見ると橙もうちと似たような着の身着のままという格好やった。たぶん同じように慌てて飛び出してきたんやろう。
「どうすんの?」
「駅まで歩く。それでタクシー捕まえて帰るわ。明日、月曜やし」
「いや、もう三時前やで。こんな時間にタクシーなんて捕まらんって」
「ほな、家まで歩くわ」
 橙は吐き捨てるように言って歩き出した。
「そんなん無理やろ。強がらんとうちに泊まっていけばええやん」
「あんたの家に?」
「他にどこがある」
 いくら嫌いな奴やからと言っても、こんな真夜中に女一人、放り出すわけにもいかん。うちの最低限の理性。
 それで、橙はなぜかうちを睨んでいた。
 いや、うちがそう感じただけで本人としてはそんなつもりちゃうかったんかもしれんけども。長年で培った偏見もあるんかもしれへんが、とりあえずうちにはそう感じた。
「言うて一応あんたの実家でもあるんやからな」
「まだあのマンションに住んでるんやな」
「あんたの部屋、割とそのままやで。あ、ベッドは持ってったんやっけ? まぁ、少なくともおとんの布団はあるから寝る場所はある」
 橙は携帯の画面を見てため息をついた。
「後ろ、乗り」
 自転車にまたがってそう言ってやると、橙は意外にも素直にうちの後ろに乗った。
 ちょっと気まずい感じのまま来た道を引き返す。
 誰もおらん道。何を話しても多分気まずかったけど、沈黙はもっと気まずかった。
「しかしまぁ、揃いも揃って勘の悪い姉妹やな」
 うちは後ろの橙に話しかけた。
「何が?」
「何がって、橙も感じたんやろ? 何となくおとんが危ないって。だからタクシーで市内から飛んで来たんやろ?」
「まぁ」
 橙は素っ気なく言った。
「不思議やな。二人とも何かを感じて、それで二人とも外れるなんて。普通、当たるやろ。漫画とかドラマなんかもしれんけど、そういうの。おかしない?」
「せやな」
「まぁ、今回は結果的に何もなくて良かったんやけど」
 それ以上の会話は無かった。
 マンションの前に着くと、橙は懐かしそうにその景色の全体を見回していた。
「全然変わってへんやん」
「家の中も変わってないで」
 部屋に入ると当然真っ暗で、明かりをつけると玄関には靴が散乱していた。これは整理が悪いのではなく出るときに慌てていて、並べてある靴を蹴飛ばしてしまっていたからである。
 うちがかがんで散乱した靴を直している間に、橙は中に入ってリビングの明かりをつけていた。
「懐かし。ほんまに驚くくらい変わってないやん」
「てかいつぶりよ?」
「高校出て以来やから、八年?」
「一回も帰ってないん?」
「うん」
「たまには帰ってあげえやー。うちがおらん時にでもさ、おとん喜ぶと思うで」
「お父さんとはたまに会ってたで。外でやけど」
「そうなんか」
 そんなこと初めて聞いた。まったく。それならそれでおとんも言えばええのに。
「なんか飲む? 言うてあんまりレパートリーないんやけど。コーヒーと、あと緑茶」
「こんな時間やし緑茶でいい」
 そう言われて今が深夜なことを思い出した。三時二十五分。明日は朝から仕事なのだ。しかも月曜。変な時間に変なことをしてしまったからか、まったく眠くなかった。緑茶を二つのコップに注ぎ、煙草に火をつける。
「家の中でも吸ってるんや」
 そう言って橙は怪訝な顔をした。
「うん。おとんも吸ってたし、もうええかなと思って」
「引くわー。家具とか全部匂いつくやん」
「慣れたらなんとも思わんよ」
 それでしばらくテーブルで向かい合ったまま黙った。
「元基君は帰ったん?」
 しばらくして橙が聞いた。うちはパチンと指を鳴らす。
「忘れてた。お兄まだおんねん。明日朝一、始発で帰る言うてたわ」
 それでお兄の部屋を覗くと、アホみたいな顔してぐーすか寝とる。口を開けた感じはおとんそっくりやった。
「まったく、男どもは呑気なもんやな。女陣がこんな慌てとったのに」
 うちは溜息をついて言うた。
「どうする? お兄やったら車出せるけど、起こして送ってもらう?」
「あんたなぁ、そういうところがデリカシー無い言うねん。こんな時間に叩き起こして運転してもらうなんて有り得へんやろ。ましてや明日始発で東京帰るんやから」
「そうか」
 橙の言うことも一理ある。
「親しき仲にも礼儀あり、やで」
「まぁ」
 うちはそう言って二本目の煙草に火をつけた。
「そう言えばちょっと聞こう思ってたことがあるんやけど」
「何よ」
 橙は頬杖をついて言うた。
「あんたと旭って昔何かあったん?」
「は? 何なん、急に」
 橙は驚いた様子やった。
「この前、病院で会った時の感じ見て何となく思っただけ」
「そんだけ?」
「うん」
「あんた、ぼぉっとしてるように見えて意外と鋭いとこあんねんなぁ」
 橙はそう言って目を丸くした。
「いらんこと言わんでええねん。何? もしかして付き合っとったん?」
「まぁー、そうやなぁ。高三の時」
「マジかぁー。うち、全然知らんかった。旭もけっこう仲良かったのに。てか言えや、二人とも」
 そう言っておいて、当時を思い返し、まぁ橙からは絶対言うてけえへんやろなぁ、と冷静に思った。
「そんなに長い期間ちゃうで。高校卒業するちょい前に別れてるし」
「何で別れたん?」
「何でもええやん。もうだいぶ前の話なんやから」
 橙は唇を突き出して言うた。
 まぁ、そりゃ言わんわな。
 てかマジで付き合ってたんかよ。別にうち、旭のこと好きとか特別な感情は何も無いけど少しだけショックやった。何でかは上手く言えへんけど。
 何となく手持ち無沙汰になって、緑茶を飲みきって一人、おかわりをした。さらにもう一本煙草に火をつける。その間、橙はうちの前でずっと頬杖をついていた。
 時計の針の音だけがコツコツ。そう言えばもうだいぶいい時間である。
「そろそろ寝る? 明日朝一回家帰るんやろ?」
「うん。始発で帰るわ」
「おとんの布団、橙の部屋に敷こうか?」
「ううん。もうええわ。そこのソファで寝とく。どうせあと一時間半くらいしたら出なあかんから」
「そっか」
「しかし今夜は怖かったなー」
 橙はそう言って身体を伸ばした。
「な、不思議な感じで」
 うちはそう言って煙草を灰皿に押し付けた。橙はそれを見て、
「あんた、あんま煙草吸い過ぎんなや」
 と言うた。
「あぁ、うん」
 これは意外な一言で、橙がうちを気遣うようなことを言うたのは、記憶している限りこれが初めてやった。
「いつかお父さんみたいに肺悪くしてまうで」
「気をつけるわ」
「橙も、煙草吸いなや」
「吸わんわ!」
 そんなことは分かっていたが、何か言わんとあかん空気やったのだ。
 やがてお互い眠くなって寝た。
 朝起きると橙はもうおらんかった。書き置きも、メッセージも何もなし。ついでにお兄の奴も消えていた。まぁ、それはどうでもええんやけど。
 数時間後、事務所で橙と顔を合わせたが、別になんてこともなく、いつも通りやった。
 寝不足で、その日は一日中眠かった。

夜汽車で眠る 前編

執筆の狙い

作者
om126211117213.13.openmobile.ne.jp

タイプの違う異父母姉妹が同じ職場、という妄想から始まりました。医療的な部分の裏付けも一応調べながら書いたのですが、最終的にどこか納得がいかず没にしました。後半もあります。全部で50000字くらいです。

コメント

松岡修子
169.253.149.210.rev.vmobile.jp

以下の文章に引っかかりました。

>分からん、いうのが今のうちの【純な】気持ち。

>それは性【とでも言うか】。 
「とでも言おうか」または「と言うか」

>この薬品臭い【往診室】に入ったのはつい二、三分前の出来事で、言うまでもなくそれから人の往来は無い。
「往診」の意味を調べましょう。

>それで【なんやか】腹が立ってきたような、そういうわけでもないような、よう分からんドロっとした何かがうちの感情とか理性とかを汚して、無性に怒鳴ってやりたい衝動に駆られた。

>【往診室】はクーラーが効き過ぎている気がして、そう思ったら急に気分が悪くなってきた。

>それで夜は診察やとか検査やとかでばたばたなって、そんなこんなしてるうちにどうもおとんの苦しいのも治ってきたようで、「もう大丈夫そうやわ」なんて言うて、【ほぅら】、やっぱり大したことなかった、なんてうちは【三白眼になってた】んやけど、医者(ぼん)が念のため一晩入院していきなさいなんていうもんやから、まぁ、翌日は土曜日やったし、予定も無いしで、うちは久々に一人の夜を満喫しようとおとんを病院に預けて帰った。
この一文は長すぎます。

>基本的に内勤やからずっと三人揃って事務所におるし、おるのにほとんど喋らんし、静かやから【お茶を飲む咀嚼音】やとか、そう言ったちょい恥ずかしい音もやたら目立つし、そんなに課としてのコミュニケーションが不要なら、いっそもうバラバラでええやん、と思う。

>そりゃ【誰やって】ぶっ飛ぶわな。
後の方で
>【橙かて】そんなこと分かっとる。
とあるので、「誰かて」と統一しましょう。

>【往診室】を出たうちはやっぱそれなりに動揺しており、【特別】行きたくもなかったのにトイレに入って小用を足した。
「特別」ではなく「特に」「別段」「たいして」をおすすめします。

>【髪やて】まだ半分以上は黒、死ぬにはどう考えてもまだ若い。
後の方で
>【橙かて】そんなこと分かっとる。
とあるので、「髪かて」と統一しましょう。

>うちの属するこの会社は一応大手一部上場メーカーにぶら下がった所謂グループ子会社であり、ぼやぼやしていても【薄氷程度ではあるが毎年一応定期昇給】させてもらえるくらいの安定感はある、まぁ世間一般で見ると悪い会社ではなかった。 
少額であることを表現したいのなら、「雀の涙」を使いましょう。使いたくなければ比喩を工夫しましょう。

>うちは【健康体のやから】、大概の場合、夕暮れ時にはお腹が減る。

>「余命半年【なんやとよ】」
 センシティブな情報にも関わらず普通に言うてもうた。
ご近所の噂話をするような、あまりに他人事のような話し方です。普通に言うなら「余命半年やねんて」とか「余命半年て先生に宣告されたんよ」では?

>「いや、毎日【会ってんよ】」
「会ってんで」「会(お)うてるよ」「会ってるよ」では?

>うちは橋本性やし、あいつは元の遠山性のままやから、気付かれようがない
 母は入籍したのに橙は養子縁組してもらえなかったんですか? 両親は事実婚だったんですか? 両親は離婚したんですか? 説明不足です。

>分かりやすい愛の香りやとか、カーテンに透ける死の表情やとか、それらを受け入れる痛々しい壁の傷やとか。そう言ったものにほとほと疲れてしまう。
唐突なこの文章、何が言いたいのかわかりません。

>「ほな、【布団引いといたる】からその間にシャワーだけ浴びてきたら?」
布団は敷く物です。

>お兄も口ごもり、やや【邪な空気】が流れる。
気まずい空気を表現したかったんですか? それを邪とは言いません。

>【大腕を振って】休む。

>【やから】二人でこの一週間は何とかもたせてくれ
後の方で  
>せやかて、そう言われても何やかもうわけ分からんから。
とあるので、「やから」ではなく「せやから」としましょう。「やから」は変です。

>車にいつも【置きっ放してあった】。
「置きっ放しにしてあった」「置きっ放にしてた」

ここまで読めました。ひっかかる点がなければもっと読めたはずです。読者がつっかえることなくすらすらと読める文章を書きましょう。

softbank060135195146.bbtec.net

松岡修子様

ご指摘ありがとうございます。
参考にさせていただきます。

群青ニブンノイチ
KD106161229070.au-net.ne.jp

とにかくこれだけの文字を費やしても未だに大した展開も、キャラクターのキャラクターたる片鱗の欠片も明かさず、それは異父母姉妹だからとかそういった設定の話などではなく、単純にこの不快な語り手のキャラクターそのものであったり、物語に準じたものとは受け止めがたいそれぞれの感情の動き、あるいはそれにあえて背きたがるらしいのかやはりそのキャラクターという意味での片鱗の明かし方のバランスの悪さというのか、つまりこれでまだ前半のみという不親切さ、作り手としての手の遅さケチ臭さに一体どれほどの人が付き合ってくれるものなのか、といった出来の悪さが感想の数にあらわれているのだとしたら気の毒なことですが、単純に五千字程度でも読むのが面倒なような参加者がほとんどだとは思うので、上手い下手の話ではないはずということにしてもまだ救いはあるということなのでしょうか。


何しろ一人称として漫然と失敗していることをまったく憚らずにいられる感じが単純に読み心地としてもかなり気持ちが悪いです。
関西弁がどうしたこうしたといったことはこの際どうでもいいのですが、どこかの馬鹿が”雰囲気好きです”とかすぐに言いたがるような馬鹿っぽさにまさに傾きすぎた鈍感さ、あるいは客観に欠けた操り損ね、といった印象に傾きがちであるらしいことについて、作者自身で理解するのは恐らく簡単なことではないのだろうなあと考えさせられます。
無自覚でなければ、ここまで澄まして書き進められるわけがない、といった感覚的な違和において言っています。

“作者が作品に入り込んではいけない”のようなことを勘違い甚だしく言いたがる人をここでも度々見受けますが、この作品の語りの性格はつまり”入り込んではいけない”という正確な意味における亜種のようなものと感じさせられていて、それは物語の世界に影響を与えると言った意味とは違う部分での話をしているつもりなので勘違いしないでほしいところです。

あえてこの語り口であって、どうしてこれを書かなければならなかったのか、といった観点において、地の文だけでも隅から隅まで精査して自覚する必要があるような気がします。
“入り込んではいけない”の亜種とはつまりそうしてようやく鼻につく部分のことを言っているつもりなのですが、わかるでしょうか。


文章については現時点で指摘しても所詮無理がありそうなのでやめておきますが、単純に物語の印象のみにおいても見通しが怪しくらしく、一読者として期待感は低いです。

>タイプの違う異父母姉妹が同じ職場、という妄想から始まりました。

とのことですが、そうしたアイデアの中から構成されたらしい平板と思えなくもない人物構成とその相関関係について、同じくお話の世界に没頭したがる人種として思いつかされた印象は、同じ舞台を描くにしても自分のほうが普通に面白く出来そうだ、といったまるきりのぼせたような観察だったりします。
どうしてこのキャラをこう動かすのか、そういう作り手目線としての不満や退屈がかなりあって、それを後半への伏線と言われてもどれほど期待できたものか、という疑いの方がよほど先に立つ気がします。

物語とは、上手く型に収めたがることですか。
齟齬なく、つっ込まれどころを極力塗りつぶすことですか。
見慣れた景色に、常識らしい有り様にすり合わせることですか。
そうしてキャラクターを所詮すべて同じ顔つきに切り揃えることなんですか。

地の文は足踏みのごとく余計なおしゃべりばかりに終始しながら、物語であったりキャラクターの性格や動きは鈍く平板な印象のまま延々と流れて、読者に差し出す前提としての面白みや企みといった魂胆をほぼほぼ感じさせられないままひたすらに付き合わされるだけのような気がしてしまうのはわたしだけでしょうか。
なぜ、こんなにもこの語り手ははすっぱな印象であるべきで、無駄におしゃべりであるべきなのか。
その必要は一体どこで、いつになったら然るべく明かされますか。
そもそもそのための設計は、意識はされて書かれていますか。

そんなすべてを託されるべきを“後半”と呼びたがるものらしいのですが、現時点ですでにその期待値あるいは信頼度はかなり低いのではないのか、ということを言っています。
“入り込んではいけない”の亜種、ということを相変わらず言っているのですが、わかりますか。

以前にも別ごとのようでいて所詮同じようなことを指摘した覚えがなくもない気がするのですが、あまり理解されなかった覚えでもありますし、あまり進歩した様子でもない印象を受けています。
人違いだったならすみません。
何が書きたくて、どうしてそれを書かなければならないのか。
マクロな観察としても、その一部としてフォーカスする意味においても、まるでクセのように精度に疎く、純度に欠ける印象が単純に濃い気がします。

アイデアはアイデアであって、体裁は体裁であっても、根本的な意図や目的が所詮ズレてしまっていることを作者は自分自身にこそ白状するべきのような気がします。
認めずとも自覚していることは明らかのはずですし、さもなければ狙いにある通り、物語にこそアイデアを灯したいつもりならこれまでの時点でここまで平板な書きぶりを許せるはずもない、と感じるのは作り手の端くれとして当然の感覚ではないでしょうか。

現時点で、この三分の一、四分の一に圧縮出来るような欲張りな作為を自らにたらし込めなければ、恐らく向いていないのではないのかと個人的には考えさせられます。
もっと意欲やそれを実現する労力をクオリティらしく集中させることを意識した方がいいような気がします。
文面がすかすかでだらしない印象であることは、せっかく思いついたらしい物語に対して単純に可哀そうな気がしてしまいます。

softbank060135195146.bbtec.net

群青ニブンノイチ様

厳しいご指摘ありがとうございます。いろいろ考え直してみます。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内