作家でごはん!鍛練場
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冷たいボディ

 片山がその日職場から帰宅したのは、午後七時前のことであった。マンションの三階にある自宅の玄関ドアを開けると、外気よりも幾分暖かい空気と、我が家の馴染みある匂いとが彼の顔を撫ぜた。つるりとした石造りの沓脱場には、娘の高校の指定ローファが整えて置いてあるのみで、他の靴はなかった。
――百合子は帰っているのか。そう思った片山は、「ただいま」と、明かりがついている気配のない我が家の、その闇に向かって呼びかけた。返事はない。大方、娘は部屋に籠って、電気を消した暗闇の中、イヤホンで音楽でも聴いているのだろうとあたりをつけた片山は、返事がないことに特に疑問も抱かず、寝室へ向かい、スーツを部屋着に着替え、それからリビングでテレビを観始めた。
彼は今日一日を総括するニュース・トピックスが、要約された形で報道されるのを眺め、あと数分でバラエティ番組の開始されるのを、暇つぶしのように待っていた。今日は水曜日であるから、妻の紗枝はパートの帰りにスーパーマーケットに寄って帰ってくる。この日は、毎週のように夕飯が少し遅れる日であった。平常の運転であれば、もうじき紗枝も帰ってくることだろう。片山はそう思って、空腹を耐えていた。
やがて妻は帰宅した。片山のいるリビングにも、彼女の帰宅を知らせる、疲れきった声が聞こえた。スーパーマーケットの買い物袋が、がさと音を立てているのも同時だった。
「おかえり」と片山は返した。妻は玄関より直接にキッチンにやってきて、買い物の荷物を置いた。
「ゆりは?」妻は、娘の名を略した愛称で、そう尋ねた。
「見ていないが、靴があるから……」片山はそう返事をした。妻は「部屋かな」と、独り言なのか片山に同意を求めたのか曖昧な発言をして、そして実際に娘を確認することはなく、着替えるために寝室へ向かった。
 それからしばらくして、その日の夕食は準備された。カレーライスだった。娘に夕食を知らせるために、彼は少し張った声で、彼女の名を呼んだ。「ご飯だよ」そう付け加えてから、まるで犬を呼んだかのような気分になって、少し口を歪めた。
 返事はなかった。明かりのついたリビング・ルームから伸びる、玄関へと向かう廊下は次第に闇の領分を増やす形に暗がりを拡大させていて、娘の自室に近いところまで来ると、ほとんど異界ともいえるほどの暗さとなっていた。
「イヤホンだわ、聞こえてないのよ」妻は言った。
 片山は、座卓の前に置かれたカレーライスに早く手を付けたい一心で立ち上がった。彼らの家庭には――特殊の事情がない限り――誰かが先に食事を始めるということ習慣はなかった。
 裸足がフローリングの廊下に、ついて離れるぺたぺたとした独特の足音を立てながら、彼は異界に踏み込んでいった。部屋の、閉じられたドアの前で、一度名を呼ぶ。年頃の娘の、その部屋に勝手に侵入するというのは、片山の常識からすれば、気を使って避けるべきことであった。実際彼は、幾度か娘のヒステリックな反発を受けたことがあった。
 しかしやはりというべきか――呼びかけに対する返事はなかった。片山は若干のもどかしさを感じながら、木製の薄いドアをノックした。優しい音だった。「百合子、ご飯だよ」今度は犬を想起することはなかった。
 ここまでやれば、部屋に入ろうとも、その言い訳がきく。そんな風に考えながら、彼は娘の部屋のドアノブを掴み、そして力を込めた。
 ドアは何らかの力が内側から掛かっているらしく、開かなかった。ドアノブのひねりは自由であったが、そこから、ドアを開こうと押すところで、強い抵抗があった。ただ、少しだけ開いて、その数センチ分の開きの範囲においては、ドアに許された可動域とでもいうのか、それでも普段にまして相当の抵抗があるものの、ドアは動くのであった。まるで何かがドアののしかかっていて、それでその何かが、つまり部屋内の本棚か机かとにかく部屋にあるものにひっかかるか、つっぱるかして、ドア解放の邪魔をしているらしい。
 片山も、これには少し苛立ちを感じて、そのわずかな隙間の闇の中に(娘の部屋のあらゆる電灯は、オンされている様子はない)、先程と同じ調子で、ご飯だよと言葉を投げかけた。それら一連の異変に不安を感じた妻は、「――どうしたの」と片山の後ろについた。
「なにか引っかかってるみたいだ。それに百合子は、どうやら深く眠っているらしい」
「普段、あの子がこんな時間に眠っていたことはないわ。どうしたのかしら」妻は首を傾げた。
そこで初めて、片山は、娘の部屋の空気が、異質のものに成り果てていることに気が付いた。それは温度や匂い、湿度などとして現れるものでは決してなかったが、明らかに部屋の空気は、廊下側のものとは一線を画した性質を備えていた。べったりとした、重い、まとわりつくようなねばっこさのある空気が、片山の気管に流れ込んできた。それはある種の、予感や直感といったものに近い感覚だった。
 片山は、その青ざめた頬と、肩とをドアに押し付けて、身体全体でドアを押すように力を込めた。ドアは、先ほどの小さな可動域を超えて、少しずつ開き始めた。やがて開いた隙間の、ごく低いところから、娘の白い腕が力なく垂れているのが現れたので、妻は絶句して、その場に立ち尽くした。力任せにドアを押し開け、夫婦は真暗の室内に踏み込んだ。廊下から差すぼんやりした明かりによって、それは照らされていた。そのようにして夫婦は、ドアノブに制服のスカーフを用いて、低い姿勢によって縊死を図った娘の冷たい身体を発見したのであった。

 娘の日記から、学校での同級生によるいじめをほのめかす文言が見つかった。それは葬儀の終わったあとのことで、母親は、いきりたって弁護士事務所に駆け込んだ。インターネットで、いじめ被害に特化した弁護士がいることを、調査した上での行為だった。そして、弁護士から学校に文書が送られ、学校での調査が始まった。テレビ局の人間が、片山のマンションや娘の学校に押し寄せ、一度か二度、全国区の夕方のニュースで娘の自殺が取り上げられることになった。
 妻は、いじめを看過していた担任教師や、いじめの主犯格であった数名の少女たちから多額の賠償金をせしめることに躍起になっていた。彼女は片山に言った。
「わたしは金なんていらないのよ。あの子が傷つけられて、そして死んでしまった分の傷を、責任ある人物に受け取ってもらうだけ。百合子の人生の破滅に加担した人間に、その重みを背負ってもらうのよ。あの人たちが、百合子と私たちの人生を曲げたわけだから、その揺り戻しがあって、しかるべきでしょう?」
「それは、復讐じゃないか」片山は、彼女の言葉に――少しばかり戦きながら――そう返した。
「そのとおりよ。あたりまえだわ」母親はつっぱねるように言った。
 片山は、とても妻のような考え方をする気分になれなかった。娘を失ったことは、彼にとっても、心を大きく傷つけられる出来事になったし、彼女の死が(間接的であれ)誰かによるものであったのなら、その原因を作り出した人たちに対する、怒りを理解することも可能だった。もちろん彼自身にもそういった怒りの感情はあった。だが、実際に行動を始めるだけの気勢を奮い立たせることはできなかった。彼は、おれはもう疲れたのだ。と思うようになっていた。どんな言葉を使うよりも、「疲れた」という表現が今の気分にもっとも適していると、彼は思っていた。
 娘の死が発覚した夜、片山は泣いた。彼は、もう最後に涙を流したのが、いつだったか思い出せないほど、しばらく泣いていなかったのだが、その夜はとにかく泣いた。大声を上げるのではなく、静かに、さめざめと、無限にも思えるほど長い時間、彼の双眸からは涙が流れ続けた。彼の胸の奥の、そのなにかの核のようなもの――心と呼ぶべきか――が、青い炎を灯し続けた。その青い火は延々と彼の胸の内側で燃え続け、彼は涙を流している間ずっと、胸にその熱を感じ続けている気分を味わっていた。やがて涙は涸れ果て、その青い火も消え去ったとき、片山の心に残ったのはがらんどうの穴であった。娘の死がもたらしたその空白がそのまま、彼の実質を奪い去ってしまったかのように、彼の体重もまた激しく減少していた。空白の穴を風が通るたびに、呻きとも、嘆息ともつかない悲痛の音が身体中に鳴り響き、そして無気力が彼を満たしていった。一度枯れた涙は、もう二度と、その姿を現す気配がなかった。



 時刻は十二時を過ぎ始めた頃で、作業がひと段落付いた者たちから、弁当を広げたりオフィスを出たりするなど、各々が昼休みを取り始めた。片山もまた、淡いベージュのコートを羽織って、大通りへ出た。会社のすぐ近くにあるが、一見では見つけづらいところにある定食屋が、彼の行きつけであった。入社して十数年の間、彼は、週に一度はその店を訪れていた。
 定食屋の、煙草と油の混ざったような重い匂いの中で、片山はカウンター席に腰かけた。彼は注文をしなかった。ただ座って待っていた。するとやがて、彼の隣の座席に幼い少女がやってきて腰かけようとした。少女の背丈には、カウンター席の座席は高すぎるので、片山は座席を変更して、テーブル席についた。ツインテール・ヘアの、小学校低学年と思しきその少女も、それについてきた。少女は、片山の向かいに座った。
「百合子はなんにする?」片山は少女に尋ねた。
「百合子はね、オムライスがいいな」
薄汚れた冬の定食屋は、暖かみを持った明かりに包まれたファミリーレストランに移り変わっていた。片山は、プラスティックの呼び出しベルをかちりと押して、ウエイトレスを呼んで注文をした。百合子には「キッズ・サイズ」とメニューに記載のあるオムライスを。自分には、チキン・グリルを。やがて料理が運ばれてきた。二人は手を付け始める。百合子が、片山のチキンを物欲しそうに眺めていたので、彼はチキンを二切れ分けると、彼女のオムライスの皿にのせてやった。
――パパありがとう! 百合子がそう言うのに、片山は微笑んで返したオムライスの皿の縁には、なぜかイタリアの国旗が料理を囲うよう、いくつも並んで描かれていて、その単一の模様に興味を持ったのか、娘は父に尋ねた。
「これなに?」
「これは国旗だよ。イタリアの国旗」
「イタリア?」
「そう。遠いところにある国だよ。ピザとワインがおいしいところだね」
「百合子はワイン飲めないよ」
「そうだね。なら、ぶどうジュースもおいしいよ」
「じゃあ行きたい!」
「大きくなったらね」
 食事を終えてから、二人は近所の公園でフリスビーを投げ合って遊んだ。初め、百合子は真っすぐ片山に向けて赤い円盤を投げることができなかったが、次第に、コツをつかんだのか、平べったい山なりの軌道を描くように、フリスビーは片山の手元まで届くようになっていた。
――もっと遠くに投げて! 百合子が言った。片山はそれに応えて、大きく、だが、彼女がちゃんとキャッチできるほどには近い位置に向けて、大げさなスロウ・モーションでフリスビーを放った。円盤は、片山の想定よりも、ずっと遠くへ飛んで行ってしまった。柔らかな動きで、果てしなく飛び続ける円盤に、歓喜の声をあげた百合子は、駆け出してそれを追いかけていった。
――百合子。片山が呼びかけても、百合子は止まらず走り続けた。無限に飛び続ける、赤の原色の円盤を追って。やがて百合子はその姿が片山には見えなくなるほど遠くまで行ってしまった。そのようにして、片山は百合子は失われてしまった。だが片山は、そのことについて深く悲しむわけではなかった。なぜなら、それは平日の昼間の出来事であって、当然、百合子はこの時間、小学校で授業を受けているべきであるからだった。百合子は学校に戻ったんだ。そう納得した片山は、公園を去った。徐々に傾きつつある太陽が、明るく芝生を照らしていた。その日差しは、片山の右半身を、強く燃やしている。

 片山には一時期、自殺に心惹かれた時期があった。それは、世間でよく言われるように、「多感なお年頃」であったときのことで、つまり十七歳、高校二年生にあたる時期の精神態度であった。しかし彼の場合それは、思春期にある子供らの――そして決して少なくない数の――いくらかが、自分の人生のあり方の、その息苦しさや誤魔化しようのない痛みに耐えかねて、自身の内に芽生えさせる陰鬱の願望とは、趣を異にしていた。彼は、自分の人生に、任意のタイミングを以てその終りを迎える手法としての自殺に、ある種のロマンを感じていたのである。
 人間の、長ければ数十年にも及ぶ生命期間が、死と呼称される終結によって終わる。そのようにして主観が、「己の人生」が終わるのだとすれば、その終りをデザインすることこそ、人間に与えられた最期の《人間的選択》ではないかと彼は考えたのである。苦痛からの逃避という形ではなく、たとえば、自分が人生を通じて執筆してきたような、長い長い小説の、そのラストシーンを彩る最後の締めくくりとして添える一文に、とっておきの、まさに一回きりのそれをもってくる……。そんなイメージだった。
 しかし、当然のように、片山におけるその自死への憧れは、実現という形をとることはなかった。あくまで彼は、若者特有の、退廃的な思想や言動に感じるロマンチシズムに酔いしれていただけなのである。そういった非日常に近づこうとする思考は、彼にとってはゲームとして存在するのみで、やがてそれも、「青春」の多忙の中に埋もれてゆくことになった。高等学校を卒業し、大学に入る。そこで無為の日々(のように見えてそれは、やはり彼にとっては、人生に不可欠な時期であると思われた)を過ごし、卒業。就職。やがて結婚。そういった《人生》の数々の節目に、かつて己が夢想した、《人間的選択としての死》は、その頭ももたげることすらなかった。
 だが彼は、フリスビー遊びの途中で百合子と別れたあと、自宅のリビングでテレビを見ているそのとき、ふと、自分がかつて、自死についてそういった奇妙な考察をしていて、少なくとも否定的なスタンスで人間の自殺というものを認識していたわけではなかったことを思い出していた。
 午後三時の自宅には、片山のほか人間はいなかった。紗枝は何をしているのだろう。そう考えると、彼女は今、裁判の準備で忙しいのであったことを思い出した。なぜあれほどまでに懸命になれるのか、片山には不思議だった。そしてまた、片山には、妻が何の裁判を起こそうとしているのか、さっぱり思い出せなかった。たしか、それは民事訴訟であったはずだ。そして彼女が原告であったはずだ。――はて、いったい彼女はなぜ、そして誰を、訴えようとしているのか……。
 昼過ぎのTVワイドショーでは、漠然としていて、そしてどこか既製品じみた温かさを感じさせる内容が放送されていた。それは老人が映っているようでもあるし、子供が映っているようでもあるし、また知的障碍者が映っているようでもあった。リビングには暑苦しいほどの陽光が差し込んできていて、片山はそれに表しようのない不安を感じていた。少なくとも、歓迎すべきような類のものだとは感じていなかった。
 静かに時間が過ぎていった。やがて、妻が帰ってきて、夕飯の準備を始めた。キッチンからは、音や気配はするものの、彼女はなぜか片山には話しかけてこなかったし、また片山からも、彼女に話しかけることはなかった。妻が夕食をテーブルに並べるときには、もう外はすっかり暗くなっていて、家の中は、室内電灯で照らされてはいるものの、夜に独特の暗さを滲み出していた。その日の夕食はカレーライスだった。その皿を見て、片山は重要なことを思い出した。そうだ。夕飯だ。部屋に居る百合子を呼んでこなければ。片山は、椅子から立ち上がって、リビングと玄関を繋ぐ廊下に目をやった。廊下は明かりがついていないので、リビングの方向から娘の部屋に近づくにつれて次第にその電灯の光を失っている。そして一番奥のところ、百合子の部屋のところで、闇はある種の完全性を保った形で、そこに渦巻いているように見えた。片山には、その闇へと向かうグラデーションが、ひどく恐ろしいものに感じられた。記憶の底で、警鐘が鳴っているような……。――部屋のドアを開けようとしてはいけない。片山はその発想に同意した。その通りだ。おれは、あのドアを開けようと試みてはいけない。あの部屋には、見てはいけないものがあるのだ。だが一方、片山にはこういった思考も同時に強く存在していた。我々は、家族全員で食事を食べなくてはいけないのだから、お前は部屋のドアを開けて《娘》を呼んでこなければいけない。彼女を抜きにしての、我々の家庭の食事は許されない……。
 片山は二つの命令に苦悩した。おれは、ドアを開けて百合子を、娘を呼んでこなくてはいけない。だが、あのドアを開けるのには、胆気が不足している。あのドアの奥にあるものが、おれには恐ろしい。それは間違いなく彼の世界の秘密を孕んでいて、それに触れることは、片山の精神の完全な崩壊をもたらすことになるはずであった。彼はそれを直感していた。あああ、と片山は恐れ戦いた。そういった夫の、明らかな異変に対しても、妻は一切関わることはなかった。また片山の方も、苦悩に揉まれ妻の存在を失念していた。
 片山は、自己の中にある矛盾、その両方からの要求に打ちひしがれていたのだが、やがて苦痛と恐怖に歪んだ顔を、廊下の奥、娘の《部屋》のドアに向けた。う、う、う、と喉の奥から漏れる嗚咽を聞きながら、ゆっくり、一歩ずつ、闇に踏み出してゆく。娘を呼んで来い! 食事の時間だ! それは片山もよく知っている声だった。片山はその声に従って、《部屋》の前まで来た。
「百合子! ご飯だよ!」片山はドアに向かって叫んだ。やはり、返事はなかった。片山は、自分の恐ろしい予想が一つ的中したことに、心底震え上がった。――そう、返事はない。百合子は居るのに、返事はない……。
 片山は神経質に、ドアをノックした。――百合子! 彼女の部屋に勝手に入ることは許されない。このあいだ十七歳になった彼女は、厳格に自分のプライバシーを主張するようになった。母親でさえ、無断の侵入は許されていない。父親である片山は、基本的に入室を禁じられていた。同じことを何度か繰り返したものの、部屋の中からの応答はなかった。
 彼女はイヤホンを装着して、音楽を聴いているのだ。片山はそう思った。だから、おれの言葉が聞こえない。それで、返事をできないのだ。百合子は返事ができないだけで、ちゃんとドアの向こうにはいる。いるはずだ。
 片山の立っている場所、つまり《部屋》のドアの前には、明かりが点灯されていなかった(片山自身にも、スイッチをつけるという発想が浮かばなかった)。ただ唯一の灯りとして、背後のリビングからの心許ない、冷ややかな白光が闇を際立たせるばかりだった。俯く片山は、自身の足元に、背の方より迫る白色電灯の明かりを見ていた。そしてそれを遮る己自身の身体の影が、ドアに形を落としていた。《部屋》の方から、廊下に漏れ出ているような光はなかった。それは、《部屋》の中では一切の明かりが点灯されていないことを示していた。明かりはない。では、百合子は眠っているのだろうか? 彼はそんな風にも考えた。
 ドアの前で、じっと、貝のように押し黙る時間が過ぎていった。それは片山にとって、とても長く感じられた。ドアは開かれねばならない。開けるのはもちろん片山自身であることを彼は自覚していた。ドアノブに手をかける。片山は、《部屋》の中にいる(はずの)娘に呼びかけた。「入るよ!」そしてドアノブをひねり、体重をかけ――。

「パパ!」
 背後から、聞きなれた声が掛かった。片山は救済を受けたかのような気分で、ドアノブから素早く手を引きそして振り返った。振り向いたその先では、リビングの方から、娘がこちらを心配そうに見ていた。
「ああ、百合子」片山は嘆息した。おれは今にもドアを開けようとしてしまうところだった。そう、そして、開けようとするのだがやはり、なぜだかドアは重く、開かないはずなのである。その奇妙な予感について、これもやはり具体的な理由が分からないのだが、彼はその実現を無性に恐れていた。
「ご飯だよ! カレーだよ。早く食べようよ」百合子が、その小さな身体を飛び跳ねさせて言った。小学校に入学したばかりの娘は、母親の作るまろやかな甘口のカレーライスをひどく好んでいた。
「うん、カレーを食べようね」片山は、恐怖に疲弊した表情を、幼い娘に読み取らせまいと、徹底した微笑みを作ってから、闇を抜けてリビングへと向かった。



 満員の車両の中は人間が集まったときに独特の湿気と熱で、息苦しいほどの環境になっていた。自宅から職場へ向かう朝の電車の中、片山はなんとか手元の携帯端末で主要の――つまりそれは世間にとって主要の――ニュースを追っていた。しかしそれらの情報は、視覚データから言語的な、概念的な理解として片山に理解されることはなかった。
片山は、今自分の置かれた満員電車の、その苦痛的状況に耐えるのに必死だった。苦しみを紛らわすために情報の理解に集中しようとするが、やはり肝心の文字や写真は、ぼやけてうまくインプットできない。
確かに、今日の電車の混み具合は異常だが、そんなことで、携帯の画面が見えにくくなるだろうか? 奇妙な状況に片山は自問した。目がかすむわけでも、物理的に画面を遮断されているわけでもないのに、全く意味不明の要因のせいで彼は端末に表示されているはずの、複雑とはいいがたい情報体系が、まるで難解さだけを追求した数式のようにしか認識できなかった。目には映っているのだが、理解できない。彼は自分の脳機能に若干の疑いさえ持った。
 携帯端末が不要物と化したいま、彼の意識は早く電車を降りることに向かった。今はどこの駅だ? 片山は、人をすし詰めにしたその揺れる箱の中で、首をよじって電光板に視線をやったが、他の乗客の頭で隠れて、今電車が向かっている駅名は読めなかった。《次は……》 
次はどこだ。おれは××で降りるんだ。次はどこだ? ここはどこだ? 通いなれた路線であるから、外の景色を見ればすぐに、どこの駅と駅の間を走っているのか分かるはずだが、なぜか片山にはガラス窓の外をうまく認識できなかった。もどかしさに、彼は身もだえだ。      
その奇妙な限定された不可知は、まるであらかじめそのように規定されていたように、片山の知覚を阻んでいた。また携帯端末の情報が認識できない状況も、それに酷似していた。端末の画面と、外の状況は認識できない。そしてこの悪夢的な窮屈は、いつまでも続くかのような予感があった……。
やけに暑い。それに湿気も異常だ。片山は唸った。汗が身体中から噴き出して、それがコートの中で蒸れて、肌着やシャツをべったりと湿らせた。普段よりずっと混みあっている車内では、身体の痒みに応えてやるために手を伸ばすこともできない。背中や、わき腹、膝の裏、様々な箇所が一斉に痒みを訴え始めたが、手足は拘束されているかのように自由を制限されていた。痒みがどんどん強まるが、片山は顔をしかめるほかない。やがてのぼせてきたのか、意識が朦朧としてきた。身体中、ぼんやりとした熱を帯びているのがわかった。
――ああ、これはいけない。おれは体調不良だ。このままでは、倒れてしまう。命にかかわるものかもしれない。
片山は、携帯端末を落としてしまった。少し重みのある、ごと、という音が足元から聞こえた。拾うために屈もうとしたが、車内は自分の身体も搔けないほどの混み様である。端末を拾うことはできなかった。精神的なもどかしさと、肉体的不快が混ざり合った混沌の意識の中、片山は突如として、一つの予見をした。――おれはこれから一人の男に出会うだろう。そして彼はやってきておれに事実を示す。つまり、それは百合子のことだ。そして紗枝のことでもある……。
不意に、ばしゅう、という車両の扉が開く直前の、空気が抜ける音がした。電車はどこかの駅に到着していた。箱から流れ出てゆく人波に揉まれ、片山も車両から飛び出してしまった。外は冷気に満ちていて、心地よい冷たさか火照った彼の身体を包んだ。安堵の気分と同時に、片山は車両の床に落としたままの携帯端末のことを思い出した。プラットフォームにひっくり返っていた彼は、すぐさま車内に戻ろうとするが――そして彼自身、なんとなくこうなることを予見していたのでもあるが――電車はそのドアを閉じて、ゆっくりと進め始めてしまった。問答無用の頑固さを思わせる発車の笛は、彼の耳に激しく響いていた。リズムを加速させる機関駆動音は次第に彼から離れていって、やがて聞こえなくなるところにまで過ぎ去ってしまう。
 冷たいプラットフォームの、タイル張りの床の上で、膝立ちで立っている片山が途方に暮れていると、彼に呼びかける声があった。
 片山が振り向くと、そこにいたのはXだった。Xは片山の小学校と中学校の通年の同級生で、彼らは別段仲のいい友人というわけではなかったのだが、何度かクラスメートの関係にもなったことがあったことから、少なくとも顔見知りではあった。
片山が見るに、Xの姿は小学校の頃からなにも変わっていなかった。さっぱりとした坊主頭と、切れ長の大きな目が印象的である。声さえも、少年のものだった。しかし彼らは同級生であるから、共に四十近い年齢になっているはずであった。
 よう、とXが笑った。――ああ。片山は、感嘆なのか返事なのか分からないような声を挙げて、彼に応じた。

 教室の中は暖かな陽光で満たされていた。片山の前に立つ少年はXである。彼は意地悪い顔で笑っていた。
「ここでなにしてる?」Xはやはり笑う。
「なにって、掃除しないと」片山は応えた。今は掃除の時間だった。四時間目の授業が終われば給食を食べる。そのとき、クラスの半分の人間は、給食当番であるから給仕を担当することになる。そして残りの半分が、給食のあと、教室を掃除する掃除当番になる。片山もXも今日は掃除当番だった。クラスのみんなは、ほうきや雑巾を握ってせわしなく動いていた。幾人かは、掃除せずに走り回って遊んでいた。
 Xは何も持たずに、両手をぷらぷら遊ばせて、そしてずっと意地悪く片山を見つめている。彼の前歯は、一本だけ抜けていた。笑うとそれが目立った。
「仕事は? 電車が行っちゃったのに。遅刻やん、カタヤマ」責めるような口調で、Xは言った。片山はそれがとても嫌だった。――Xはただの嫌な奴じゃない。それなりに賢いから、ちゃんと理屈でおれをいじめるやつだ。片山は、自分をよくからかうXのことが嫌いだった。それをやっと思い出した。
「おまえ、今何してんの?」Xが尋ねた。片山は、Xに揚げ足を取られないよう、ゆっくり言葉を選んで言った。「今は、普通に働いてるよ」
「大学はどこやっけ?」いやらしい笑みで、Xは言った。片山は自分の出身大学を答えた。それは、地元から少し離れたところにある、ランクでいえば中堅に位置する私立のものだった。――あっそ。Xはそう言い捨て、それから、片山が高校時代に第一志望にしていた県立大学よりも、さらに数ランク上の大学の名前を挙げて、自分はそこに通っていたのだと言った。よく名の知れた大学だった。日本では、一流大学と並び称されるようなグループに属している大学だった。
「へぇ。すごいね」片山はXを称賛した。本当は今すぐにでも、家に帰りたかったのだが、あいにく今は掃除の時間だった。掃除のあとは、五時間目と六時間目の授業が控えている。帰ることはできない。
「うん、まぁ、お前よりは」これはXの口癖だった。彼はよくそう言って、自分より格下だとみなす人間のことをけなして遊んだ。片山はその対象の一人だった。
 ――そうだ。小学校の頃から、こいつは、Xはいつもこうなんだ。おれが何をしたでもないのに、暇を見つけてはちょっかいをかけてきたんだ。おれが、怒らないのを知っているから、いくらでもからかっていられるんだと思っている。嫌なやつだ。おれはこいつが本当に嫌いだった。いいところなんか一つもないんだ。ずっとおれをいじめるだけのやつなんだ。そしてこいつは、これからもおれをいじめようとしている。今から、小学校や中学校のときなんか目じゃないほどに、意地悪なことをいうつもりなんだ。おれにはわかる。そんな気がする。Xはこれから、すごく嫌なことをおれに言おうとしている。
 片山の、その奇妙な予見を見透かしているとでも言うように、声を出さずにXは笑った。歯抜けと八重歯の、幼稚さと邪悪さを兼ねた独特の笑みだった。片山は、本当にこの場所にいるのを苦痛に感じるようなっていた。しかしやはり、去ることはかなわないのである。掃除当番を放棄することを、彼の生真面目が許すはずもなかった。
 Xは口を開いた。だが、それは少年の声ではなかった。しばらく聞いていなかったが、それは確かに、片山の精神の奥底で、常に目を光らせ続けるあの声だった。
 ――おまえも知っているのだろう。忘れるはずもない。十七年間、ずっとお前は悩み続けてきただろう? 十七年前の、ちょっとした気がかりが、いつまでたっても消えなかった。お前の神経質がそれを許すはずもない。だがまた、お前の気概ではことを明らかにすることも、できない。――なぜ、子が一人しか出来なかったのか。お前は忘れ去ったつもりででもいたのか?
「やめてくれ!」片山は叫んだ。
 片山の激しい拒絶の感情に、かき回されるように、教室の景色とXはどこかに吸い込まれていって消えた。それはまるで、空間その者を吸入する掃除機が、彼の拒絶そのものを体現して、彼が拒んだもの全てを強引に何処かへ押しやったようにも見えた。あとに残ったその場所は、冬の早朝の、冷たいプラットフォームの上だった。寒々しい白を基調としたそこには、片山が一人、冬の装いで立ち尽くすばかりである。



 昼前に起床した片山は、軽くシャワーを浴びたあと、遅い朝食をとった。妻の作り置きの、冷たいそれらを食べた後、彼はリビングでソファに腰かけながら、本を読んでいた。だが、その内容は奇妙にもさっぱり、彼の頭の中に入ってくることはなかった。本を読んでいるという状態を、ただ実行しているような気分であった。またその情報に対する漠然とした感覚は、時刻についても同じことが言えた。昼前、というのは確定的であった――空気は朝の冷ややかな感じを残していて、それでいて明るい日差しがリビングに差し込んできていたから――のだが、では実際に部屋の中の時計で時刻を確認しようとすると、どうもそれをうまく読むことが、片山にはできなかったのである。
 そうしていると、娘の《部屋》の方から、誰か出てくる音がした。ドアが開き、彼女の軽い足音が聴こえ始める。片山はなぜか、ドアが開くその瞬間の音に、一度だけ身をすくませた。
 三人掛けのソファの、片山が腰かけていたその反対側に、百合子が座った。グレーのスウェット生地のパーカーと、ピンクのショートパンツという恰好だった。前を開けたパーカーから見えるTシャツの柄は、彼女が熱狂的に支持している、ガールズ・バンドの名前がプリントされている。片山も彼女たちの音楽を聴いたことがあるが、その曲を、彼は理解できなかった。そうして、自分が百合子と同じ、十三のときに、同様に彼が熱中していたロックバンドを、父や母は理解していなかったことを思い出した。そのことが、つまり、両親が自分の好きなものを理解してくれないことが、十三の片山には、なぜだが悲しい感情を起こさせるものとなっていた。想いがむなしく空振りするような感覚だった。そのことを、当時の友達に話すと、当然のようにからかわれ、またそのことが片山の以後の親への態度を形作ることになっていった。ただ、そういった自身の人格の形成については、片山本人は無自覚であった。
「ああ、やっと起きたんだ」百合子が言った。
 片山は昔の思い出から引き戻された。――ああ。
「仕事は行かなくてもいいの?」
 会社の昼休憩から抜け出してきたっきり、オフィスに戻っていなかったことを片山は思い出した。ああ、やってしまった。そう唸ったが、片山には今このリビングから出ていくことや、百合子以外の他の人物と接触するようなことはできそうになかった。それは奇妙な感覚で、この世界そのものがそういった作りにしかなっていないというイメージ……。片山は、会社のことを深く考えなかった。その必要もなさそうに彼には思えた。
 百合子がテレビの電源を入れた。片山には、画面に映し出される映像が、やはり、あいまいな光のモザイクにしか見えなかった。音声も、どこかくぐもっていて、それらは情報としての意味を持っていない。
 二人でテレビを見ていると、突如百合子が、パーカーを脱いだ。彼女はそれを床の上に丸めておいた。半袖のプリントTシャツと、ショートパンツだけの恰好になった彼女は、その白い肌を露わにしていた。大腿には青い静脈が幾本、透けて見えている。彼女はそんな片山の視線を気にすることなく、テレビ画面を見つめ続けていた。片山は娘の剥き出しの肢と肩に、ひどく注意をひかれた。それらは、決して完璧のものではなかった。肩には、幼いころのBCG注射の痕が残っていたし、膝やすねには、細かい傷やしみがあった。それはありきたりな、十三歳の女の子の身体だった。だが片山には、それらがとても新鮮なものに思えた。
いつだったか、彼は百合子とは一緒に風呂に入らなくなった。それはどんな家庭でもよくあることで、娘の方からの拒絶だった。初経があったのか、それとも陰毛が生え始めたのか、
片山には分からなかったが(彼は娘の初経を知らない。いつのまにか、それは始まっていたのだと、妻のほのめかしで知った)、とにかく以来彼は、娘の身体についてその成長をみることはほとんどなかった。外見的な変化を、日々の暮らしの中で見てとることは可能であったが、娘から拒絶されたという事実が、娘の、彼女自身の性徴へのデリケートな態度を思わせ、片山もまたそれに触発されてか、娘の身体を意識的に見ることがなくなっていった。そのような背景があって今、片山は娘の身体を見ているわけだが、どうにも彼女の、十三歳という年頃は、その腰回りや、胸部に、子供から女へと向かう発達段階を感じさせるものであった。
 タイトなTシャツの、肩や背には、はっきりとブラジャーのベルトが浮き上がっていた。そして、正面には、青く、そして硬く酸い果実を思わせる、生育途上の乳房がかすかに存在を示そうとしているのがわかった。
片山が、同世代のころ、自身の性器の小ささを、ひどく気にやんでいたように、彼女もまた、自身の乳房の大きさを不満に感じているのかもしれない。彼はそう思った。もし、娘が、おれと同質の魂を継承しているのなら、彼女もまた、自分の身体のことで悩んでいるのかもしれない。
ショートパンツから伺える腰の形からも、それが少女の形を脱ぎ去ろうとしつつあるのがわかった。尻は彼女の身体つきにしては、やや重そうな具合の肉の付き方をしていた。それは彼女の意図とは無関係の大きく膨れ上がっていくのだろう。そして彼女は、またもやその大きさに、――乳房の場合とは逆に――苦悩するのかもしれない。片山は、娘の身体にそんな感想を持っていた。大きくなりつつある尻から、その生命のエネルギーを引いてきている大腿もまた、豊かさを予感させる独特の形へと変貌しつつあるのが見られた。
やがて片山は、自分が娘を性的な意図によって見ていることに気が付いた。そんな願望は、今までの(父親としての)人生でおくびも顔を出すことはなかったのだが、今に限れば、確かに彼は、自分の娘を性の対象として認知しているのである。いつのまにか、陰茎には勃起を予兆する――彼らにはおなじみの――やわらかな熱が宿り始めていた。
その願望は純粋な性欲から来るものだった。ただ娘の身体に、その少女と女の境界にある身体に片山は欲情していた。そして、通常の社会通念――と表現されることのある曖昧な概念――からもたらされるような違和感や、嫌悪感、罪悪感を覚えることは一切なかった。特定の場所ではないどこかで、なにげなく見かけた、それもどうという事のない女に、ふと激しく催すときのような感覚――。
百合子は、父のそのような異常の目線に気が付いたらしく、特に咎めるような表情ではないのだが、じっと片山を見つめ返した。その頬と額には、少しばかりのにきびが散らばっている。目つきは、片山にはどうにも挑戦的なものに思えて仕方がなかった。彼女はソファの上で、膝を抱え、身体はテレビの方を向けたままのだが首だけをひねって、自分の隣に座る男を見つめていた。座高の差から生まれる目線の違いが、奇妙でありまた、独特の魅力を持った上目遣いになって、片山を射抜いていた。
 百合子の口が、少し開いた。だが、そこから何か言葉が出てくることはなかった。薄い赤色の、淡白なつくりの唇の間から、白い歯とその奥の舌のくねりが見えた。
 片山が百合子に覆いかぶさったときには、既に彼女は全裸になっていた。また片山の下半身も、解放されていた。いつの間に自分たちが服を脱いだのか、まったく彼には覚えがなかった。しかし、そういった事実の整合性はもはや彼にとっては重要ではなかった。
 会話も、前戯もないセックスが始まった。まったくの突然であったが、挿入に抵抗はなかった。百合子の内部は温かく、そしてみだらな潤いに満ちていた。片山の経験上、最も早くに彼は射精してしまった。避妊具を付けていない彼から、娘へと直接、精液が流し込まれた。娘に挿入したまま、片山は彼女の顔を見つめていた。百合子は、非難の声も、快楽の呻きも上げることはない。ただじっと片山を見つめて返していた。娘を犯したことについて、片山はなんら後悔することはなかった。ただ欲望の充足を感じるのみである。陰茎には温かい感覚があって、それはまだ肉の硬さを女の身体の中に残している。
「ずっとこうしたかったんでしょ?」百合子は、挿入されたままの姿勢で言った。その声には、どこか、老成の気配があった。
「そうだ」片山は答えた。
 百合子は父親の身体を優しく押しのけて、ソファから降りた。彼女には尻にも赤いにきびが一つあった。そして娘は、真裸で家の廊下を歩きだした。
片山もそれについていった。そして夫婦の寝室の前まで来た。片山と、その妻の眠るベッドが部屋の中にはある。
寝室のドアは閉まっていた。《閉まっているドア》というイメージは、少し片山を怖気付かせたが、全裸の娘は、それを開けるよう彼に促した。
ドアは簡単に開いた。小さく開かれたドアからは、ベッドの端に横たわる、女の裸肢が覗いていた。それは、小刻みに揺れていた。その動きに合わせて、べッドも揺れていた。もちろん、その肢が妻の紗枝のものであるのは明白だった。一人の揺れ方ではない。片山はそう思った。

安価なラブホテルに特有の、あの狭いベッドの上に、二人の男女がいた。然るべき場所では然るべき行為が行われている。裸の二人は、濃厚に身体を絡ませあっていた。そして片山は寝室のドアの隙間からそれを盗み見ていた。
控えめな茶色に染められたセミロングヘアの女と、坊主頭の長身の男だった。女の方は、四十手前くらいで、男の年齢は一見した感じでは判断がつかなかった。女は、片山にも馴染みの小さな乳房と大きな乳首を持っていた。行為は佳境に差し掛かっていた。女の吠える声は、性の歓喜に震えていた。その体位や、動きのリズムは、片山とその妻のものとまったく同じだった。片山のセックスを他の男が代替わりしていた。
男の射精の前に、片山は気づいた。男はXだった。顔は陰っていて、こちらからはうまく見えないが、彼はXである。それには証左を必要としない確信があった。彼はXなのである。そうでなくてはならない。
やはり妻は不貞をしていた! その相手はXだった!
失望や怒りの一方、片山は奇妙な安堵を感じていた。それは、彼が長い間、背負い続けていたどろりとした思考の、その強硬な抑圧の解放を意味していた。
もう全裸の娘は傍にいない。彼は一人で、妻と間男との不貞の現場を見守っていた。

片山と紗枝は新婚の夫婦であった。大学を卒業し、民間企業に就職したばかりの片山と、短大を出て、OLをしていた紗枝は、共通の友人の紹介で出会った。惚れたのは片山の方だった。だが、紗枝もまた片山に対し、好意を持っていた。だから二人の距離は比較的早くに縮まり、交際が始まった。そして知り合ってから一年と三か月の後、二人は結婚した。紗枝は勤めていた建設会社の事務員を辞め専業主婦になった。片山は、まだ新入社員に毛が生えた程度というところで結婚を決めたので、職場では目立った存在になった。なにかと結婚生活を理由にからかわれることもあれば、会話が弾み仕事が上手くいくこともあった。一つの問題を除いて、二人の結婚生活は順調であった。
二人の間には、いつまでたっても子供ができなかった。それは外部の人間から見れば、よくある家族計画の一つのように見えたが、その実、二人は結婚以来――妻の月経期間を除いて――毎晩の性交を欠かすことはなかった。片山も、紗枝も、子供を作ることには前向きであったといえる。
結婚して三か月が経ったころ、妻から毎月の如く月経が始まったと聞かされたとき、片山は、妻の、子を為す機能を疑った。――もしかして彼女は、彼女さえも気づいていない事実として、生殖機能に問題があるのではないか、と思い始めたのである。ある日、片山の、保守的な思想を持つ上司は言った。「結婚したんだから、さっさと作っちまえばいいのに」片山は妻の機能不全を外に向けて示唆したくなかったので、それに誤魔化しの返事をした。
片山は、妻の不全を漠然と思考の片隅に留めながら日々を過ごした。彼には、自分の推理――彼にとっては「残酷な事実」というような認識である――を妻に突きつけることはできなかった。彼は妻を傷つけたくはなかった。これは小心とは別の問題だった。しかし、その代わりとして、彼は内心に妻を責めていた。それは日々の振る舞いの細部にさえも現してはいけないもので、本人にも明確な形で自覚されることはない、ほとんど彼の内で抑圧されている感情だった。
――紗枝が不全なのならそれは仕方のないことで、我々の家庭には子は望めないわけだが、我々というのは、そのようなことで破綻してしまうような夫婦関係ではない。片山はそのように、この一連の不幸に自分一人で決着をつけた。同時に彼はこうも思った。――このことはいずれ、夫婦の共通の認識になることであろうが、それをこの時期におれの口から、一つのきっかけとして出すのはふさわしくないだろう。おれから不全を指摘することで、紗枝はかえって罪悪感や、己への失望感を増してしまうかもしれない。事実がある以上、それらは避けられぬものではあるのだが、その苦しみを最小にしてやることがまた、おれの役目なのである……と。
そういう、運命的悲劇と並行して、また別の疑いが片山の中には渦巻いていた。妻の不全、そしてそれによる妊娠可能性の消滅よりも、もう一つのその疑いの方が、片山にとっては致命的なものであり、また同時に彼をひどく悩ませるものともなった。
その《疑い》の、のちに悪質で強健な蔓となって片山の精神を長年に渡り絡めとることになる子葉の芽生えは、とある日曜日の午後にあった。夫婦の初めての子供である娘の百合子が生まれる二年ほど前で、二人が夫婦になってから半年ほどが経った時のことになる。

その日の昼頃、片山は休日にのみ許される遅い目覚めを堪能していた。前日の夜に同僚と酒を飲み、午前一時を過ぎてから、泥酔の赤ら顔と酒気を振り回して帰宅した。彼はスーツのまま、リビングのソファの上で眠った。その夜、妻はちょうど月経期に差し掛かっていた。彼はそのように聞いていた。だからこそ片山は遅くまで酒を飲んでいた。片山は不妊を承知しながらも、月経期を除く毎日の性交を欠かさなかった。だがそれは少しずつ、義務的なルーティンとしての性格を持ちつつあった。そしてそのことを、夫婦はお互いに感じ始めていた。子供の出来ない不思議に対し、内心、妻の機能不全として責任の押し付けをしていた片山はなおさら、快楽と愛だけのセックスに退屈を感じていた。二人の交渉は、刹那的な快楽のあとにぼんやりとした諦念が漂うだけの、もの悲しい儀式と成り果てていた。その、夫婦には一般にありがちな状況は、夫も妻も互いの退屈が感じ取れるからこそ、さらに営みへの引け目を生むというネガティブな循環に入りつつあった。なんとなく片山は、じきにセックスの習慣はなくなるだろうという予見をしていた。もちろんそれを妻に言うことはなかった。
顔面を覆う柔らかな陽光が暖かく、彼はそれに目覚めた。片山は口の中のひどい乾燥を飲み込みながら、身体を起こした。彼はやはり、白のワイシャツとブラック・グレーのスラックスという恰好で、リビングのソファに横たわっていた。TVラックの上に置かれた大きな電波時計は午後十二時と少しを示していた。午前中をまるっきり睡眠に費やしていたことが分かった。 
体調は悪くなかった。こんなに長く眠ったのは久しぶりだった。いつもなら、どれだけ疲れていても明るくなると自然に眠っていられなくなったのだが、その日は、なぜか深く長い眠りについていたらしい。安物のソファの上の、泥酔に任せた乱暴な睡眠のはずが、片山は確かな睡眠の満足を覚えていたのである。
 ソファから立ちあがって伸びをすると、身体中の関節が、穏やかな心地よさを讃えるように、細かな鳴き声をぽろぽろと漏らした。子気味良い音だった。それは骨と、肉と血、そして空気を伝って、片山の鼓膜を震わせた。片山は、不思議な活力に満たされたような気分になった。このまま突如として家の中を全力で駆け回ることすら可能に思えた。
 キッチンへ向かい、妻が常温で備えているミネラルウォーターを、グラスに注いで飲んだ。柔らかな潤いが、喉を通過していった。酒に乾いた喉は、やはり無味の水を求めていた。無限に飲めると初め思われたものの、二杯目を飲み切ったところで、もう十分であるとわかった。渇きが取り除かれると、彼は便所で小便をした。立ったまま、洋式の便器に向かって放尿した。日頃妻からは、常に座って用を足すよう言い聞かされていたのだが――そして彼もまた、その慣習にすっかり順応していたはずなのだが――そのときは、迷うことなく、立ったままの放尿をした。左手で陰茎を軽く握って、右手はスラックスのベルトに親指をかける形で手を添えていた。濃い色の尿だった。一見それは彼を驚かせるものだったが、しかしてそれは、不健康や大病の兆というよりも、身体の絶好を示すものとしか思えなかった。濃い尿が、便器の中の、初めから入っている分の水を染めてゆくのを見て、片山は確信した。
 ――ああ、今日おれは、調子がいいんだ。
 そのあと、彼はTシャツと、部屋着のスウェットパンツに着替えてから、簡単なストレッチをした。ラジオ体操一番を、中学校以来のおぼろげな記憶をたどりながら、丁寧に実行した。それが終わったところで、激しい空腹を感じた。玉ねぎを切って、ツナ缶をあけ油を落とした。米は昨晩妻が炊いておいたものがジャーの中に残っていた。彼はまたおぼろげな記憶を頼りに玉子丼――それは彼の母親がよく作ってくれたものだった。母親は今も大阪で、一人暮らしをしている――を作った。
玉ねぎと、ほぐしたツナを割り下で煮込んで、玉ねぎの色が程よく染まったら、鶏卵を二つ使ってそれをとじる。大きなどんぶりに、多めに飯をよそってから、その上に、できるだけつゆが飯にかからないよう注意して、ネタを乗せた。最後に揚げ玉と刻みねぎ少し振って、食べた。全てを食べきるのに五分もかからなかった。そして確かな満足を得ることが出来た。食べ終わってから、ようやく彼は気が付いたのだが、どうやら、妻は外出しているようだった。家中には気配がなかった。
 ――日曜の昼間に、どこに行っているのだろう。片山は疑問に思った。だが腹の底から緩やかに湧き上がる満腹感が、彼の論理的な思考を塗りつぶした。温かな柔らかい泥が彼の脳内を満たしていった。それは眠気とは違った、ある種のトランスに近いものだった。リビングのソファの上で、空になった丼が置かれた座卓の前で、彼は部屋中が光に満たされてゆくのを感じていた。無意識に目は閉じられていたが、その爆発的な広がりの光を身体が受け入れていた。やがて光が収まり、頭の中の泥が耳から抜けていったとき、片山の性器はこれ以上ないほどに硬く勃起していた。それはスウェットパンツの内側から、残酷なほど力強く己の存在を主張していた。
 久しぶりの自慰だった。その類の気力は夜に妻との分として取っておく必要があったから、結婚して以来、一切彼はその自涜をしなかった。それは妻との行為の前に一度射精すると、妊娠しにくくなるような気がしたからでもあるし、いつまでたっても妊娠しない妻のことを思うと、性に対して距離を置きたくなる気分になったからでもあった。だがその時片山は、激しい情欲を持て余していた。――紗枝がいれば良かったのに。今は妻が月経中で、また血の出る中での性交を拒んでいたのは片山の方でもあったのだが、それでもこの時に限って、片山は強く妻を求めていた。
そんなことを考えていると、ある一つの滑稽なアイデアが彼の意識を占めた。彼は夫婦の寝室にある箪笥の、一番下の引き出しを開けた。そこには、妻の下着が詰められていた。引き出しの中には、色とりどりの、丸められた布の一群があった。その一つ一つの全てが、デザインとして洗練されている――言い換えるならば、扇情的である――わけではなかったが、片山にはその全てが、奇妙な魔力を帯びているように思われた。彼の片手は、既に行為を始めている。
 そして片山は、引き出しの奥に詰められた、紫の下着に手を伸ばした。その一つは、他のものとは一線を画した生地の美しさをしていた。丁寧にたたまれたそれを解いて、下着を広げた。美しい造形をしていた。それは紫というより、深みのある菫色だった。生地の縁は均整なレース模様でかたどられていた。それが一品としての美しさではなく、女体との調和の上で真価を発するものであることは、一目にとって分かった。片山は、その小さな美を纏う妻を想像して、目的の興奮を得ていた。彼は下着を片手にことを続けた。しばらくして射精が始まった。激しい快感だった。もしこれが本当のセックスによる射精なら、不全の妻も、あるいは子を為していたかもしれないと思うほど、強力な快感だった。
 処理を終え、自分の行為に冷ややかな自虐の笑みを浮かべていた片山は、一つの事実に気が付いた。それは、先ほどの紫の下着を、彼は初めて目にしたということだった。
 ほとんど毎晩、二人は身体を重ねるわけだが、そのときにはやはり互いの下着を目にするわけである。片山の妻は下着には他の衣服以上にこだわりがあるらしく、多種にわたるバリエーションに片山は退屈しなかった。それはつまり、下着の入れ替わりは頻繁に起こるという意味でもあった。生地がくたびれて見劣りする前に、彼女は新しい下着を手に入れ、古いものはどれだけ気に入っていたとしてもそれを穿き続けることを認めなかった。その廃棄時期の判断は、片山には一切分からなかった。彼の感覚なら、まだ穿けるだろうというほどのものでも、妻は棄ててしまうからである。片山は、それをほとんど趣味に近いものだと捉えていた。実際、片山の給料から配分される妻の「お小遣い」の半分以上は、下着代になっているらしいのであった。そんな妻であるから、当然、初見の下着が箪笥に収められていたとしても何ら不思議はなかった。だが片山には、普段の彼にはおよそ備わることのないような思考が展開されていた。それはその下着の質に由来する違和感だった。――紗枝は、身の丈に合わないものを欲しがるタイプではない。だから、いくら下着にかける気持ちが強かろうと、それは予算内でのやりくりに終始するはずだ(これはおれの甲斐性の問題でもあるが)。だから、彼女はこんなに高価な下着を買うはずがないのだ。この下着は、彼女が日頃愛用するブランドや、少し背伸びをしたときに購入するものとは、明らかに別次元のものだ。たとえ紗枝が、小学生のようにせっせと貯金をして、ようやくこの、素晴らしく美しい下着を購入したとして(この仮定にもかなり無理があるが)、彼女がこれを、俺に自慢しないわけがないのだ。片山とて妻の下着を全て把握しているわけではない。だがこんなにいいものを手に入れたなら、彼女の性質として、それを夫に見せないわけがない。
――だとしたら、夫に見せられない下着って、なんだ?
 過剰に飛躍した、馬鹿げた推測だと、あまりにくどいこじつけだと、彼自身も思った。だがリビングに戻って、ソファに深く腰かけた後もなお、その推測は彼の意識の大部分に残り続けた。自分が生み出した妄執に彼は囚われてしまった。
そして午後四時を過ぎた頃、妻は帰宅した。スーパーマーケットのビニール袋をいくつもぶら下げていた。「今日は、すき焼きだよ」彼女は言った。それは片山の好物でもあった。牛肉のパックが、半透明のビニール袋を透かして、その姿を片山に見せつけていた。片山は、妻の顔を見た。冬の、凍えた外気に曝されていたことを示すその赤く火照った顔をした妻は、自分の顔をじっと見つめる夫の奇行に、驚くこともなければ、恐れることもなかった。ただにこりと笑って、もう一度、まるで子供に聞かせるかのような優しい声で、言った。「すき焼き、好きでしょ?」
――そうかぁ、今日はすき焼きかぁ。自分でも驚くほど間抜けな声で、片山は嬉しそうに言った。
その日の夜、夫婦の慣習的性交は行われなかった。そしておおよそ一か月後、夫は妊娠の報告を、妻から聞かされた。二人は手を取りあって喜んだ。



「おう」と玄関先から声がして、片山は自分の背がきっ、と伸びるのを感じた。母親が台所から、「彼」を迎えに行った。片山は一人、居間で児童小説を読んでいた。挿絵の中では、黒装束の忍者と、二刀流を構える侍が対峙している。物語はクライマックスに至ろうとしていた。だが片山の全ての神経は、玄関先に向けられていた。
重みのある足音が、廊下から伝わって来る。片山は無意識に膝を抱えた。開け閉めする度に、がたがたと大きな音を立てて住人を苛立せるので、開けっ放しになっている引き戸が、居間と廊下を繋ぐところにあった。片山は静かにそこを見つめていた。やがてそこから、父親の大きな頭がぬっと出てきて、少し飛び出した具合の大きな目玉が彼を見つめた。
「おかえりなさい」片山は普通の返事をしたつもりだったが、声がかすれていた。
「おう」父親は、入って来たときと同じ調子でそう言った。父親が座卓(天板を返せばラシャを張った麻雀卓になるし、冬には電気こたつとしても使うことができる)に着くやいなや、片山は台所へ向かって、酒瓶と小さなコップを取りに行く。それから、座卓の上にコップを置いて、酒をそこに注いだ。「うん」と父親は頷いてから、それを飲んだ。片山が酒を用意している間に、もう既に父親は煙草に火をつけていた。そして、ふと思いついたように彼は息子に尋ねた。
「哲夫、今日は、学校はなにやった」
片山は逡巡のあと、「枕草子」と答えた。父親は、酒の入ったコップをじっと見つめたまま、「ああ、『まくらのそうし』か」と、ぼんやりした感じで答えた。父親は知ったふうで答えたが、その実、彼は中学の勉強の何一つとして、それらを知らない。父親は中学校には行かなかった。そういう生き方がまだ広く通用した時代に、彼は子供をしていた。
「お前はちゃんと勉強せぇよ。しっかり勉強して、賢なれよ」
 その言葉は、片山少年にとって一種の脅迫ともなる威力を持っていた。――うん、俯いて少年は答えた。
 台所からは魚を焼く匂いが漂ってきていた。じゅうう、と切り身が焼ける音もある。夕飯の時間だった。座卓には続々と皿が並べられた。味噌汁と焼いたさわら、そして白飯にほうれん草のおひたし。あとは母親と片山少年が茶を飲むコップが一つずつ。相変わらず父親は、酒をやっている。
 すべてがそろったところで、父親は、「いただきます」と大きく言った。その後を追う形に、片山少年と母親も「いただきます」と言った。そうして三人は食事を始めた。
 いつも通りに、片山少年は残さず食べきった。白飯は一度お代わりをした。片山少年がよく食べていると、父親は機嫌がとても良くなったので、そういう嬉しさのためにも少年はたくさん食べるよう努めていた。食べたいだけ食べることができるくらいには、経済的な余裕のある家に彼は生まれついていた。ただ食うには困らないが、贅沢はできないという具合だった。それでも、両親の一番の楽しみは片山少年の成長であったから、彼のために金を惜しむということは滅多になかった。それは決して少年を甘やかしていたというわけではない。三食確かにを食わせて、毎日を欠かさず学校に行かせる。それが、父親の愛情と矜持の全てだった。これができない家も、その時代には少なからずあった。父親自身、自分が学校に満足に行っていないことのせいで、社会に出た後に何度も悔しい思いをした。父親にはそういう自覚はなかったが、自分の劣等感を補完するという意味でも、彼は息子の教育――特に学校教育――には強い執着があった。
 食事が終わって、家族は居間で各々のことをしていた。母親はぬか床に野菜をつけこんでいた。それは母親の数少ない趣味の一つだった。かなり生活に結びついた楽しみであった。父親は、酒と煙草を飲みながら、麻雀の教本に食いついていた。彼は漢字を多く読めないので、専らとして上がり役の図柄を覚えるようしていた。それでも職場の鉄工所ではよく勝っていた。片山は先ほどの小説の続きを読んでいた。侍は忍者の卑劣な火薬攻撃を見事に受けきり、一瞬の隙をついてその悪い忍を袈裟切りにした。浪人であったその侍は忍者を打ち取った功績で殿様に気に入られ、お城に仕えるよう頼まれるのだが、彼はその国からは去ってしまった。そこで小説は終わった。片山少年は自分も大きくなったら侍になりたいと思ったが、もう侍の時代は終わっていた。代わりに似たような仕事があればいいとも思ったが、思いつかなかった。小説は連続もので、また続編が学校の図書館にあるのを知っていたので、明日借りてきてまた読もうと考えた。明日が楽しみになった。
 三人で風呂屋に行って帰ってくると、さっさと床を敷いて寝た。居間の中三人が、川の字になって眠った。息子が隣にいようといまいと、父親の気分一つで夫婦は性交をしたため、片山は居心地の悪い、どこか胸のむかつくような嫌悪を感じることが度々あった。その日はすぐに父親のいびきが聞こえてきたので、少年は安堵した。
 なかなか眠れなかった。父親の、リズミカルでいながらも生物に独特の不規則があるいびきに耳を澄ませていると、不思議と目が冴えてしまった。いびき以外にも、虫の鳴き声や、どこかの家で人が大きな声を出しているのが聞こえた。家の周りを誰が歩いているような音も聞こえた気がした。だが布団の中に収まっているのであれば、自分は安全であるという幼稚な確信のおかげで、奇妙な音も、恐怖の妄想も平気だった。早く明日になれ。と片山は思った。小説の続きが気になってしょうがなかった。
あの侍は次どこの国に行くのだろう。二刀流というのは、剣士としては珍しいのだと小説に書いてあった。あの剣豪、宮本武蔵も二刀流であったという。片山は二刀を巧みに振るい、複数の悪漢を一人でなぎ倒してゆく侍の姿を夢想した。眉にしわを寄せたその上背の侍は、しかめっ面で山賊や、悪僧、武士を斬る。時にはやんごとなきものでさえ、ためらわず斬る。そして斬ったあとには決まって、少し哀しげな顔をする。そのように小説にはある。片山はそういうあの侍の心持に陶酔していた。決して勝ち誇らず、どのような悪人であれ死んだ後には、哀れみをかけてやる懐のその深さは、片山の生きる時代にはあまり見られるものではなかった(それは、侍の時代も同様であったかもしれない)。片山は思った。――ああいう大人にならねばならない。あんな風にかっこいい侍に。侍でなくとも、ああいう強さと優しさのある人間になりたい。

「哲夫」
 不意に、父親の声が聞こえた。片山は暗闇の中ぼんやりとある天井を見つめていたところで、その呼びかけは聞き間違いだと思った。しかし二度目のそれがあると、やはり覚醒した父が寝床の中から彼を呼んでいるのだと確信できた。片山は「はい」と返事をした。
 しばらく沈黙が続いた。父の呼びかけは尋常のものでないのは明らかだったし、子供というのは往々にして親に叱られる原因のようなものを常にいくつも持っているわけだから、片山は雷が落ちるのを今か今かと待ち構えていた。暖かい布団の中の身体は固くこわばっている。
 やがて、父のいびきがまた聞こえ始めた。片山は自分の身体に充溢していた緊張が、末端で堰き止められ、行き場を失い、身体中を駆け巡らんとしているのを感じていた。息が漏れた。胸の早鐘は、喉のあたりまでその鼓動を感じさせる。このまま死んでしまうかもしれないと、ふと思った。それでも死ぬことはなく、片山は寝入るその瞬間を待っていた。

 すばやく上半身を起こすと、片山は突如叫んだ。――ぼくが悪いんと違うんや。
「ぼくは普通にしてたんやもん。妊娠せん紗枝が悪いんやんか。それでもぼくはそんなん言わんと優しくしてたのに、やのに、他で好き勝手してたんは紗枝やんか。ずっとそう思ってたのに、ぼくは黙ってみんなに優しくしてたんやんか。百合子にも優しくしたったんやんか。もしかしたらちゃうかもしれんって、思いながらそれでも百合子に愛情注いどったんやんか。それで、しかも百合子はいじめられとったんやんか。ぼくのせいで死んだんちゃうわ。なんでぼくやねん。なんでぼくが悪いことになってんねん。ぼくが一番しんどいのに、なんでぼくがわるもんやねん」
 ――哲夫! ついに父親は布団から飛び出て怒鳴り声をあげた。そのあまりの音量と気迫に、片山は震え上がった。覚悟はあったとはいえ、恐ろしくてたまらない。母親も、身体を起こして、恐る恐る、彼女の怒れる夫を見つめていた。この家庭において、怒りに任せる父親の暴走を寸前にでも阻止することもまた、母親の役目であった。
 その父親の怒りは、やはり片山にも予見しうるものだった。それは片山に長らくの不安を覚えさせ続けていた、彼にとってあまりにも巨大な意味を持つ表象であった。片山は少年らしく、恐怖の対象を強く見つめたまま泣いた。なにか訴えんとするものがあるのだが、それを言葉として、誰かを説得する力を未だ持たないといった悔しさのある表情だった。
 ――なんでお父さんはいっつもぼくを怒るねん! ぼくが悪いんちゃうやんか!
 噴き出した感情をぶつけると、父は、息子の頬を平手で打った。憤怒の表情で、父は子を激しく睨み付けた。片山は布団の上にひっくり返ったまま、声を上げて泣いていた。――いっつもぼくが怒られるねん。お父さんは、ぼくの味方はしてくれへんねん。お父さんはぼくのこと嫌ってるんや。せやから、ぼくのことどつくんや。そう思うと、悔しさと怖さと、そしてもう拭いようのない悲しさが彼の心の内を満たしてしまった。
 少年は暗闇の中に膝を抱えてうずくまった。その心の中には、暗く、目を背けたくなるような願望が、湧き上がっていた。恐ろしいものであると同時に懐かしいそれは、内側から彼を苦しめたが、やがてどこかに姿を隠すように消えていった。



 大学時代のあるとき、片山は初めて会った男と酒を飲んだ。今ではもはや、片山は彼の名前を憶えていない(故に便宜上ここではZと記す)。片山とZには、共通の友人がいて、その紹介で知り合ったのだが、三人の酒席だと思いきや、始まってしばらくすると友人が急用にて飲み屋を去ったので、その男と二人で飲むことになった。安酒とちんけな料理を出す学生向けの店だった。共通の友人は抜け出す前に、少し多めに自分の代金を置いていったので、もうしばらくはうまい酒が飲めると二人で笑っていた。片山は薄いハイボールを飲んでいた。Zはビールとジンジャエールの混ぜものを傾けていた。そのなんとかという酒の名前は、Zの名前と同様に片山の記憶からは葬り去られていた。そんなけったいなもの――片山は酒の名前を聞いたときからそう思っていた――を飲んでいたのは彼の人生において後にも先にもZだけだった。
 片山もZも同じ大学の法学部に属していた。片山は政治系の講義に集中していて、一方Zは法律系の講義を主に習得していた。Zは、――自分は租税法をやっていて、それで大学院にまで行くつもりである。と言った。学者になるのかと片山が問うと、まだわからない、と返した。片山には大学を出てからの将来の展望が一切なかったので、Zの話を聞いていると不安になった。そのせいか、普段よりも酒が進んだ。Zは熱心な男で、知識的教養に長けていた。自分の専門以外のことにも強く興味を持っているらしく、片山も講義で耳にしたことがあるような政治学や哲学の古典を、それらのいくつかを読んだと言った。
――何某の某説は知っていたかね。あれは素晴らしい。革命的なアイデアだよ。我々の生活の根底に疑いを向けるあの視点は、天才的と言っていい。
片山には、彼の話のほとんどが不明だった。曖昧な相槌を打っていた。場を紛らすために、また更に多くの酒を飲んだ。Zの衒学に辟易するよりも、自分の不勉強を強く感じさせられた。はっきりとした劣等感や敗北感を、舌を痺れさせるアルコールで飲み込もうとした。それに合わせてZもまた酒をあおった。より彼は饒舌になり、次から次へと、片山の知らない思想家の名前と理解不可能の説を並べてゆく。――もう聞いてられない。そう思うのが六回を過ぎたころ、ようやくZはその場をお開きにしようと促し始めた。勘定を済ませ、二人は店の前で別れた。時刻は午前一時を少し過ぎていた。
片山は歩いて下宿まで帰った。十分ほど歩いたところに古いアパートがあって彼はそこに住んでいた。
その帰路、彼はZから植え付けられた奇妙な感覚をずっと舌の上に転がしていた。自分は、そこまで学問に熱心ではなかったし、大学という不思議な世界に身を置いて以来、Zのような類の人間はいくらでも見てきた。知識の見せびらかしに快感を覚え、それに執着する人間にいちいち心を動かされるようなことはもうないと思っていたはずが、そうではないらしい。酒と油ぎった料理のせいか、胃が激しくむかついた。
空には星一つ見えない。等間隔に建てられた街灯の、冷ややかな灯りが道を照らしていた。やがて商店街のアーケードまで来た。店のシャッターはみな降りていた。道の端に死人のように横たわる者があった。服の汚れ方からして浮浪者だとわかった。眠っていた。それを無視して、四つ角を壁にもたれるよう左折すると、出会い頭に誰かとぶつかった。二人ともひっくり返った。タイル敷きの冷たい感触が、手のひらと尻に伝わって不快だった。
――すみません。そう謝ろうとしたところ、相手の男は酒気を振りまいて怒鳴りだした。その怒鳴り声の、しゃがれていて、呂律の回らない、舌足らずな、そして少し関西弁の混じったようなイントネーションを持つところに、なぜか片山は激昂のスイッチを押された。
 男は三十代前半かそれより少し老けた感じで、顔はよく陽に焼けていた。肉体労働者だろうと片山は思った。髭を多く生やしていて、髪は短く刈り上げられている。冬だというのに一枚しか着ていない薄手のシャツの胸ポケットには煙草が入っていた。片山は自分でも不思議に思うくらいその男が気に入らなかった。その男の全てが片山の神経を刺激するエッセンスで構成されているようにさえ思えた。
「ぶっ殺してやる」そう言ったのは片山の方だった。片山は、予想外の敵意に驚いていて目を丸くしていた男の胸倉をつかむと、そのまま彼の顔面を殴打した。しかし、いくどか殴ったところ、男は唸るのみで、さほどのダメージはないようだった。やがて男の方が片山の腹に、膝を突きこんできた。片山は自分が何をされたのか分からないうちに、息の詰まるような苦しみの中、その場に伏せ込んだ。呼吸ができず、身体の全部の筋肉が、さっぱり動かなくなった。――ぼけがぁ。と男の怒号が聞こえた後、横っ腹に鋭い痛みが走った。蹴られたのだと分かった。蹴られた勢いでその場にひっくり返ると、憎たらしい男の、自分を見下ろしている顔が見えた。死んだ昆虫が手足をぎゅっと縮めて固まるのとよく似た様子で、片山も手足を腹部に折り込んでいた。いつまでも腹を蹴られた苦しさが残った。
 そのあと何度か、肩や腹、顔などを蹴られた。酒のせいで、聞き取れないほど曖昧な発音になった罵倒が片山に投げかけられた。身体を丸めて、頭を膝の中に抱え込み、暴力に備える体勢のまま、彼は時間が過ぎ去るのを待った。財布が尻のポケットから抜き取られ、それから、現金を回収された後の、カード類のみが残る革製の袋が投げつけられた。笑い声も聞こえた。気配から、男が去っていくのが分かった。
 乾いた冬の空気が、彼の切れた口内に染みた。疲労感と、先程までの酔いも相まって、片山はしばらくそこで眠った。だがあまりに寒く、直ぐに起きてしまった。身体中の軋みと、殴打の残滓である鈍痛を引きずりながら帰宅した。帰るとそのまま、寝具に身を包んで眠った。
 片山は満足感を覚えていた。それがどういった由来をして生まれるものなのか、彼には到底見当がつかないわけだが、それでも、男に掴みかかったときから、自覚なしに自ずから期待していた顛末に、心の充足を感じていた。安らかに眠って、次の日の朝まで起きなかった。


 
 片山が仕事を終え帰宅すると、玄関には娘のローファがあった。ただいま、と家中に声をかけたが、返事はなかった。娘は自室で音楽でも聴いているのだろう。空腹を堪えながらテレビを観ているとやがて妻が帰ってきた。彼女は帰って来るや否や夕食の準備を始めた。キッチンから、肉や野菜の炒められる音と、その香りが、片山のいるリビングに流れ込み始める。
 油の弾ける音がやけにうっとおしく感じられた。普段通りの夕食前のはずが、片山にはなにか心の一端にこびりついたような不安があった。それを感じながら、料理ができるのを待っていた。
夕食はカレーライスだった。片山がテレビを見ていると、妻がその皿を持ってキッチンからやって来た。座卓にそれを並べると、彼女は言った。
「百合子を呼んであげて」
家族全員で食卓を囲むのが、片山の子供時代から続く彼の家庭のルールだった。それは片山の父から、片山に受け継がれ、そして、核家族的に生活を営む片山と妻と娘とのこの家にも、確かに継承されていたものだった。
 片山は、リビングのその温かな空気で満たされた食卓の隅から続く廊下、その奥にある、娘の部屋のドアを、暗闇の中に眺めた。そこは冷ややかな闇の帳が降りたように暗く、リビングとそこでは果たして同じ家庭なのか疑わしくなるほどに、陰鬱な雰囲気を醸し出していた。
 片山は立ち上がって、そこへ向かおうとした。すると、先に座卓について、家族が揃うのを待っているXが、くすくすと笑っている。早く呼んで来いよ。彼はそう言った。Xと妻は不倫の関係にあるのだから、その連関より、彼が今我が家で夕餉にあずかろうとしていることは、片山にとって、さほどおかしなことではなかった。片山にとっては、Xは不快な存在であるし、この状況とて、ひどく彼を焦燥(なぜおれは焦っているだろう?)させるものではあったが、Xの、彼のパーソナリティとしての図々しさから鑑みるに、やはりそれは特別の疑問の対象になることではなかった。
――ああ、いつもこうだ。こいつはおれがやらなきゃいけないことを知っててこんな風に言うんだ。言われなくたってやるのにさ。
懐古に近しいもどかしさを感じながら、片山はXを無視して冷たい廊下を歩いた。冬の板張りの廊下はひどく冷え込んでいた。その悪夢的な低温度は、片山の歩みを阻むように、裸足の肌をじくじくと凍えさせた。
見た目数メートルというその冷たい廊下を、随分と時間をかけて歩いた。それはわざとではなかった。普通に歩いているはずが、なぜかどれだけ歩いても娘の部屋の前には辿り着かなかったのである。目の前に見える景色は、我が家の、暗澹としたその最端であるのだが、そのドアはいつまでたっても目の前には来なかった。廊下の、板張りの床の木目は進む。薄汚れた壁の、乱雑にみえてその実は、工業的な大量生産製品に独特の、規則的な模様をしている壁紙も、彼の歩みに合わせてその進んだ。しかし目的地であるかの部屋には、やはり到達し得ないのであった。駆け出せば一瞬で到着しそうなほど近い場所にそのドアはずっと見えているのだが、ドアは頑なに片山の接近を許さなかった。悪夢的な整合性の無さだった。現代的な教育を受けてきた片山には、今起きていることが不可思議でたまらない。だが、事実、無限の廊下を歩かされているという状況はそこにあった。著しく冷え込んだ廊下を、限りなく歩かされる苦行が続いた。
――なにしてんねん。早く呼んで来いよ! Xが背後から吠えた。
真暗の廊下の、その半ばで立つ片山は、振り向いて声の方を見た。リビングで、電気絨毯に腰を下ろし、いつも片山が飯を食う場所にどかりと我が物面で座るXの上半身が見えた。下半身は、廊下の縦長の方形に区切られているせいで、こちらからは伺えない。壁の向こうに隠れている。Xは丁度、座りながら身体を反らして、上半身のみを壁の終りから突き出している体勢だった。
 ――早くしろよ。みんな、待ってるんやから。Xはやはり、少年の面持ちでいたずらぽく笑う。片山はその笑みに、自分への嘲りを思わせるものがあって、それで昔からXのことを嫌っていた。今も、もちろん、その嘲りもあったし、嫌悪もあった。片山は言った。
 ――その下半身で、今なにをしているんだ! お前は、いま何をしている! おれは知っているぞ。お前と紗枝が不貞を働いていることはよく知っているぞ! どうせ、今おれの方から見えないその下半身は、紗枝がしゃぶっているかしているんだろう。X、お前は、おれが見えていないのをいいことに、おれのすぐ近くで不貞をして喜んでいるのだ! どこまでも未熟な奴め。おれがそんな幼稚な嫌がらせに、苦しむとでも思うのか? 百合子を呼んで来たら、すぐさま貴様など、この家からたたき出してやる! それから、紗枝にもたっぷり罵声を浴びせてやる! 養わせてもらっている身分で、何を勝手なことをしているのだ。ブッテやる。不能者の、女非女めが! 子も為せないその下腹に、なにを含ませてやがる。お前たち。おれが、百合子の、娘の前であの子のことを思って手加減するとでも思っているか? 大間違いだ。あの子を部屋から呼び出して座卓の前に座らせたら、その目の前で、全てを明るみに出して、追及してやる。覚悟しておけ! あの子が泣こうと続けるぞ。あの子を連れだしたら直ぐだ。それまで待っていろ。
 片山は思いの丈を吐き出した。だがしかし、それはなぜかくぐもった音声にしか聞こえなかった。流れるように罵声が飛び出たが、それは彼の耳に届く前に、意味を拡散させた曖昧模糊の音声となってしまった。Xは、それが聞こえているのか、聞こえていないのか、どちらともいえない表情で、へらへらと憎たらしく笑っている。その眼は確かに、片山を捉えていた。――あの子を連れだしたら、直ぐだ。片山は自分にそう言い聞かせて、ドアの方に向き直った。すると、さきほどまではいくら歩こうと縮まらなかった、幻想的無限の距離は消滅していて、娘のドアの前に、彼は到達していた。彼は、背に、悪寒が走るのを覚えた。
 娘の部屋のドアは鍵さえない、薄い木製のドアである。だが片山はそれに触れるのに著しい抵抗を感じ、まずは声で呼びかけた。――百合子、ご飯だよ。すると、犬でも呼んでるようだね。とXの笑い声が聞こえた。片山はそれを無視して娘の返事を待った。――やがてドアの向こうから、がさ、ごそ、といった感じの、人間が動いている音の後に、娘が、長すぎる午睡か何かのせいで、意識を朦朧とさせた表情を持ち上げ、ドアをゆっくりと開く……。
 そんな妄想を浮かべたのだが、それは当然、妄想に終わるものだった。ドアの向こうからは、無生物のみが奏でうる、沈黙が返ってくる。
 片山は、先ほどの焦りの正体――と言えども、正体はやはり依然不明であるのだが、どうやらこの部屋が根源であるらしいこと――を感じ取っていた。――俺はこの戸を開けなくてはならないのだが、それはひどく恐ろしいことで、開けた先、この部屋の中には、暗闇と同居して、あれがあるのだ……そう、やはりおれは、あれと対面しなくてはならないらしい。あんなに、恐ろしいものであるのに、あれと……。
 壁や天井、床など、彼の今立つ世界を構成しているすべての平面から、神的なほどにまで強い力で圧縮されたかのような、鋭く、痛ましい軋みの音が聞こえ始めた。片山はその音を聞いていることに激しい嫌悪を感じた。彼には、その音が、まるで彼個人をなんらかの責から糾弾しているようにしか思えなかった。やがて、壁には大きな亀裂が、追及の声と共に走った。壁の、圧倒的な破壊によって生まれたその亀裂の奥は、外界ではなく、全くの無を指し示す暗闇だった。そして暗黒のその隙間からは、青白いXの、少年のその顔が現れ、こちらを覗いていた。白っぽく薄い唇の間から、黄色い前歯が醜く光っている。歯が一本抜けていて、口内の暗闇がわずかな隙間から存在を訴えていた。真白の顔面に穿たれた歯抜けの黒が、著しく目立った。それは片山に、間抜けな印象を与えると同時に、痕跡としての嫌悪を味あわせた。
 片山はどうにも、ドアを開ける気になれなかった。手を伸ばして、ノブに触れることさえ憚られた。おれがこんなとき、いつも親父はおれを怒鳴っていたな。片山がふとそう思った瞬間、片山の鼻腔は、懐かしいあの、体臭とやにの混ざった空気を捉えた。片山は、Xがいるはずの亀裂に目をやった。そこにいたのは、Xではなく、彼の父だった。若い頃の姿をしていた。今ではもはや、片山の方が年長になってしまっている。彼の父親は早世であった。当然、年老いた父の姿を、片山は知らないのである。
壁の亀裂から、父が彼を怒鳴りつけた。――哲夫! さっさとあけんかい! 片山は身を竦めた。何よりも彼は父親を恐れていた。――哲夫! と怒鳴られる度に、電流が走るが如く、身体が震えた。――お父さん、ごめんなさい。関西弁の訛りが、思わず飛び出た。
片山にとって父は恐怖の対象だった。父親が生きている間は、父に叱られないよう日々を過ごすことが彼の人生における重要なポイントになっていた。父は、片山を叱る時に手をあげる男だった。それが過剰な暴力であったかどうか、片山には判断がつかない。今となっては恐怖の思い出は、そのまま記憶の闇に葬られていて、父への恐怖だけが彼の心に残っていた。
――わしが死んだときも、お前は、ほくそ笑んどったんやろ! 親不孝モンが! そんなに、わしが嫌いか。
 ――ちゃう、ちゃうねん。ぼくそんなん思ってないねん。お父さん死んだときも、悲しかってん。ぼくもお母さんと、一緒に泣いてたんやもん。
 彼らにとっては、随分懐かしい問答が始まった。片山が、父と母と、三人で大阪府の田舎で暮らしていた十数年の間に、こういった不毛なようで、互いに愛を求める、歪で、畢竟、傷つけあった事実のみが残るようなやり取りが、何度も行われた。
片山が十五のときに、父親は酒に酔った若者と、自身も酔っぱらった状態で喧嘩をした。若者を叩きのめしたあと、彼は自分の足に躓いて転び、コンクリートの縁石に前頭は強くぶつけ、そのまま冷たくなっていった。乾いた冬の夜だった。読売新聞の朝刊を配っていた少年が、一人アスファルトに横たわる彼を見つけた。十五の片山は、自身の言う通り母親とともに泣いた。だが、同時に安心や、嬉しさのようなものも感じていた。奇妙な感覚だったが、そのどちらもがやはり、本統だった。
 激憤を顔面に捉え続ける父と、号泣を滴らせる子の睨み合いは、いつまでも続いた。支離滅裂の罵声が、息子に投げかけられた。一方息子のほうも、頑なに父親の言葉を否定した。 
――ぼく、お父さん好きやもん。嫌いとかちゃうもん。そんなん言わんとってよ。ぼくがお父さんのこと死んだらええって思ってたなんて、言わんとってよ。
片山がそれを言葉として表出した瞬間、生首としてだけ、壁の亀裂に出現していた父親の顔は、驚異的な膨張を始め、壁の亀裂を満たし得る大きさになった。巨大な頭に付属する、バスケットボールほどの目玉が、片山を捉えた。壁からは、新たな亀裂が生まれ、そこからは太く短い、だがやはり顔面に比例して巨大な指が飛び出してきた。その指は真っ赤に腫れあがり、そして爪は黄色く変色しながらも、厚く硬く指先にへばりついていた。古傷がいくつも見られるその巨大な手の一部は、壁を強く握りしめ壁材が破断される音が片山の鼓膜を叩く。それらの音は、宿命的な執着を以て彼を非難した。真暗の廊下に、巨人と化した父親が、その顔面を突っ込んでいる。そして、間近の落雷を思わせるような、激烈の叫びで、片山の名が叫ばれた。
片山は恐怖の限界に達し、駆け出した。件のドアを開け、その中に飛び込んだ。いつだったか、このドアは随分と重く、しっかり体重をかけて押した末にやっと開いたのだったというような記憶があったが、今回は、開けて部屋の中に入るのに、なんら抵抗はなかった。

部屋の中は静かだった。先ほどまでいた、あの廊下のように、壁や床の軋む音もしなければ、父親の恐ろしい恫喝もない。だが片山は、もっと恐ろしいものが、ここに潜んでいることを知っていた。冷たく身体を濡らされて、そして感覚が失われていくような恐怖がここにあった。薄暗い空間の奥から、こちらに歩いてくるものがあった。片山は娘だと思った。その推察は正しく、やはりそれは娘の百合子であった。
十七の百合子は、髪を肩までの長さに切りそろえていた。生きていた当時には、前髪が長くなったり短くなったりと、頻繁に推移していたように思える。そこには、年頃の娘にしか分からない微細から生まれる美があるのかもしれない。今は少し長めで、眉を覆い隠すほどになっていた。高校の制服であるセーラー服を着ていた。今頃セーラー服とは珍しいと、彼女の入学の時に片山は思っていたので、そのデザインはよく覚えていた。濃い紺色の制服に、真っ赤なスカーフ。スカートの丈は、膝頭を隠す程度だった。受験期に太ってしまった彼女は春休みの間に猛烈なダイエットを実行して、それを成功させた。余計な間食は絶ち、朝夕のジョギングを欠かさなかった彼女を見て、自分にはない努力の因子が彼女にはあるのだと感心したことを、片山は思い出した。ほっそりとした足は白のソックスに包まれ、もちろん靴は履かないで床に立っていた。彼女のまるっとした鼻の形や、横に開いてついた耳が、妻に似ているなと、片山は思った。切れ長の目や、狭い額、薄い唇は彼女に現れたオリジナルの形質のように見えた。少なくとも、片山の遺伝に由来するものではなさそうだった。片山は少し時間をかけて、じっくりと娘の顔を眺めたが、自分の顔面と彼女の顔面とに、共通するものを見つけることができなかった。
娘は、やはり特別の感情をもたない様子で、父親を見つめていた。その瞳には光がない。
「私はお父さんみたいに、死ぬのもいいと思っていたわけじゃないよ」と娘が言った。片山はその言葉に意味を捉えようと、しばらく考えた。やがて、自分が若い頃に思い至った、どこかロマンティックなあの思想に思い至った。人生の終りを自分でコントロールするという意義においての自死。彼女がそれを否定するということにどのような意味があるのか、片山には痛いほどそれが分かっていた。
「お前、いじめられていたんだろう」片山は言った。娘は答えなかった。
「私は、お父さんの家に生まれてよかったよ」娘が言った。片山は、それは嘘だと思った。
 自死をした年頃の娘が、そんな言葉を吐くはずがなかった。言ったとしても、それは精
神を美化させるための感傷でしかない。片山は自分の中から生まれた、醜い願望を突き付
けらているのを自覚した。
――この子はなぜこんなことを言うのだろう。なぜおれはこの子にそんなことを言わせているのだろうか。おれはこの子の考えていることが、ずっと分からなかった。この子が死んでも、死んでからも何一つ娘の心を理解できた気がしない。おれはこの子と、何か人生において肝要なものについて語りあうことがあったろうか。何かを伝えたことは、例えばさっきこの子がおれに思い出させた、あの死についての幼稚な考察についてでも話してやったことがあっただろうか。おれはこの子に冷静を失うほどにまで激しい怒りをぶつけたことはあっただろうか。親父はおれをよくぶっとばした。あれは衝動的な暴力で、おれはそれがある度、酷く泣いて恐怖したものだったが、それでもあそこには愛があった。おれは彼と同様の情熱を、はたして娘に向けてやれていたのだろうか。
 ――いつだったろうか。ふと片山は生前の父に激しく叱咤されていたときのことを思い出していた。あれは、自分が、まだ幼い時分のことであったはずだ。そう、あのとき自分はこう思ったのだった。その推察は、幼い子供にとって、それなりに現実味のある疑いだった。  
――こんなに怒るなんて、きっとぼくは、お父さんのほんもののこどもじゃないんだ……。
 片山ははっとした。これは長年、彼の意識から排除されていたはずの思考だった。こんなにも、残酷で衝撃的な発想のこれを、なぜ自分はこの齢になるまで、ずっと忘れていたままだったのだろう。
 涙をぬぐうことはなかった。両の目から溢れる透明の血は、彼の頬を走っていた。
 ――そうだ。おれがそう思っていたのだ。おれがそう思っていたのだから、この子だってそう思わなかったわけがないではないか。親がその疑いをもっているのだから、子供が自然、それにたどり着かないわけがない。子供のころに抱えて、どこかにうちやったつもりの、この思考は、時間を跨いでもなお、おれの根本にあったのだろう。それをこの子もまた、知らずのうちに継承してしまったのだろう。そうであってもおかしくはない。では、おれはずっとこの子を苦しめていたことになるのではないか。おれがこれを持ったまま、この子を愛しようとしたものだから、この子もおれと同じ残酷に至っていたのだ。おれの一番つらい残酷を、おれはやはりこの子に背負わせてしまっていたのだ。
 娘は、黙って父を見つめるのみであった。父はその涙を止めるに能わず、いつまでも泣き続けた。枯れの気配を見せていたはずのその涙は、彼の血液を枯渇させんばかりに続いている。

 やがて気づけば、片山は娘の部屋の前に戻っていた。もう恐ろしい父の姿も、忌まわしい旧友の顔もなかった。薄暗い、我が家の廊下の終りだった。片山は、ドアノブに手をかけて押した。重かった。しっかり体重をかけて押すと、少し開いた。娘のスカートの裾が見えた。白い肢が部屋の内部に向かって伸びているのも見えた。泣きながら片山は戸を押し開いた。そうして再び、父は娘の冷たい身体を発見した。ドアに背もたれる形で、床に腰を下ろすような姿勢をとる娘の身体は、どこを触っても本当に冷たかった。
 なきがらのそばに跪いた男の、その喉から、嗚咽が漏れた。

 目覚めた片山は、自分の眼が濡れていることに気が付いた。それをパジャマの袖で拭って、布団から起き出た。娘が死んで一週間が経った日の朝だった。夢の内容は忘れていた。しかし涙するような夢であったのだから、きっとそれは娘に関係したものなのだろうと、彼は思った。
彼は娘の葬式を終えて、次の日からは勤めに出ていた。そして、夢に涙したその日もまた、出勤していた。やはり、まだ同僚や上司の態度はぎこちないものだった。気遣いの色が出ていた。片山は、それもまた、彼らの優しさなのだと思った。

 家に帰ると、妻は訴訟のための書類をまとめていた。片山は、コートを脱ぐや否や、彼女に抱き着いた。初めは何かの冗談かと思った妻だったが、やがて片山がその気であることを悟ると、抵抗の意を示した。片山は、普段なら引くところを、強引に彼女を組み伏せた。肩を噛まれたが、それでも続けた。しばらく床の上で揉み合って、そして妻は抵抗に疲れたのか、大人しくなった。しやすいよう、自分から身体の向きも動かした。しかしその表情は、今の状況を心から受け入れているとは言えないものだった。片山はそれを無視して、彼女に挿入した。互いに服は着たままだった。
 興奮が高まるにつれ、片山は、妻がいつもよりずっと良く感じていることに気が付いた。声音や、息のリズムが、これまでにない切迫を孕んでいた。それに中てられてか、片山も、いつもとは比べようのないほどの性感を味わっていた。妻の方が先に果てた。片山が初めて聞いたような絶叫があった。それからすぐに、片山も達した。もちろん避妊はなかった。

 性交のすぐ後の、その余韻が終わらないうちから、妻は泣き出した。短い声が漏れた。遠慮なく鼻をすする音がある。片山は何も言わなかった。
 夫婦は、冷たい床の上に並んで転がっていた。妻の、押し殺した声が、時折響いた。
片山には、この性交から産まれる子供があるような予感があった。根拠はない。ふと妻に目をやると、彼女もこちらを見ていた。

冷たいボディ

執筆の狙い

作者 irenta
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特別に書きたいもの・伝えたいものというのはなくて、イメージや言葉を文章を起こしているうちに、「ああ、そういえばこんなことも書けるな」という感じで物語に中身が入っていきます。読み返すと、とっちらかってるな、とも思うし、まぁうまくやれてんじゃないの、とも思います。この物語に一番親切になれるのは私ですが、私では絶対に読みだせないものがあるので、ひとの感想を聞きたいと思います。

コメント

松岡修子
85.203.49.163.rev.vmobile.jp

娘の死後、夕食のカレーライスを見て主人公が娘を呼びに行ったら後ろから小学生の娘の幻に引き止められるとこまで読めました。その後少しんで飽きてしまい、斜め読みになって下へ下へとスクロール。
多分、現実逃避として娘の幻を見続ける描写が延々続くんだろうなと思いました。
読者を飽きさせないように妻の奮闘ぶりを書けば良いと思います。一方、夫は現実逃避という対比効果が狙えます。
下読みも人間ですから、飽きたら読んでくれません。下読みは全部読んでから判断してくれるわけじゃありませんよ。ですから飽きさせない工夫が必要です。

「撫ぜる」ではなく「撫でる」をおすすめします。撫ぜるは訛り・老人語なので、特にそれを強調したいのでない限り使わないほうが良いです。

沓脱場とありますが、「沓脱」という日本語がありますのでそれを使うか、「上がり口」を使いましょう。この作品の場合、上がり口で良いと思います。

>「ゆりは?」
本名が百合子なので、愛称としてなら「ユリは?」とするのが一般的です。

>それは、世間でよく言われるように、「多感なお年頃」であったときのことで、つまり十七歳、高校二年生にあたる時期の精神態度であった。
「精神態度」に違和感があります。

松岡修子
85.203.49.163.rev.vmobile.jp

少し訂正です。

娘の死後、夕食のカレーライスを見て主人公が娘を呼びに行ったら後ろから小学生の娘の幻に引き止められるところまで読めました。
その後少し読んで飽きてしまい、斜め読みになって下へ下へとスクロール。

irenta
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松岡修子さん 感想ありがとうございます。内容に惹かせるものを持たせるというのは、読んでもらうための重要な課題であると感じました。また言葉遣いについてのアドバイスも参考になりました。ありがとうございます。

群青ニブンノイチ
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狙いに書かれていることがすでによくわからない程度の読者が言うことです。

基本的に物語の時間設計とかそれを正確に表せる筆力と言うよりは単純な俯瞰目線ということなのですが、個人的にはそれが疎かのような文章は大概馬鹿にして掛かるタチのものです。
ですが、この作品については端からそんなことを気にしたものなら読めたものではないことは明らかなモチーフですからつまり、かなり興味が持てないような、当てにしないような意識で読まされることになるのですが、それは誰よりも作者自身が心得た上での設計であるはずですから、読み飛ばそうが斜め読みであろうが不愉快を思いつかれる筋合いはないつもりでいます。

こういうの、三人称一元視点とでも言うのでしょうか、一部視点が逸れた箇所もあったはずですが、概ねはそんな感じであったものと理解しています。
個人的には、そんな体裁こそが作者の性質も含め悪さを仕出かしてしまうらしい、というのが全体としての感想で、つまらない面白い以前に、目的から怪しいものだ、といった意味においてこちらに差し出された性格の読み物ではなかったような印象でいます。

>「ああ、そういえばこんなことも書けるな」という感じ

というのは作者が勝手に思うことであって、「何とでも書けるではないか」と読者が思いつくことにも意識を働かせることは必要なように思います。
夢落ちを白状されまくるままひたすらに妄想染みたご託にただただ付き合わされるのはなかなかの拷問で、そのうえようやく付き合ってみればこれといって珍しようなことは何一つ書かれていた気はしませんからつまり、様々な意味で無駄の多いことだと思わされたということには違いありませんでした。

お節介なことですが、作者の調子から思いつかされる性質と、この度のような三人称の使い方は極めて悪癖に結び付きやすい相性のように思わされて、お世辞にも小説的な効果としての見込みはそれほど高くないような印象を思いつかされます。
見飽きた景色を嬉々として歩き続けられる執念深さ、というよりは無知でいられる変わり者の視点というか、そんなタチの悪さを思わされないでもありません。
そんな有り様について、例えば”つまらない”と一口に済ませることは、特に珍しいことでも性格の悪いことでもないような気がします。
とはいえ、一人称向きなのかと言えばそうとも思えない気がしますし、むしろそういった感覚的なそぐわなさの根本は体裁などといった建前のようなことではなくもっと基本的な、例えば時代感覚とか、目指すなりの意義とか需要とかそんな客観、努めて作者自身のあらゆる理由を離れなければならないような部分における性格的な見通しの悪さのようなことが悪しく振舞われているような、個人的にはそんな印象に見受けられます。

上の方にある、地の文が無意味におしゃべりなわりには何の役にも立っておらず、手薄いセリフで曖昧にしか物語が進められないタチの作品があれば、この作品のように地の文が不必要に興味を捻じ曲げたがるばかりの客観不足のような欲求ばかりにまみれたようなものもあって、つまり見通しの悪さのようなことというのはとても厄介なことだなあと、自戒を込めて思わされます。

夢落ちであることとはまったく無関係な意味において、この作者が書く文章の一つ一つの多くが、文章が単純に所有する時間とか体感のようなものをかなり滑りがちな性質であるらしいことに、作者は気付いているでしょうか。
それは物語の進行とはまったく別の話なので、もしかしたらこの作者には感覚として理解することは難しいことなのかもしれないとも思いますし、それを矯正する方法は案外単純のような気はするのですが、それがこの作者にはどうやら容易な感じでもなさそうだ、といった印象であることを個人的には先に言いました”悪癖”と表現したいつもりでいるのだと思います。

ご自身の文章の基本的な性質とか性格のようなことを、客観的によく観察されてみた方がいいような気がします。


あと、タイトルのセンス。
どうなんでしょうか。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

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