作家でごはん!鍛練場
そうげん

わたしのピングドラム

 センター試験の会場は地元の経済学部のキャンパスだった。前の夜に天候が荒れだして、一夜明ければ積雪は膝丈までになっていた。折あしく家の車は車検に出していて、父からは、四駆でない代車では雪道の運転は不安だといわれた。わたしはといえば、当事者であるにもかかわらず、なるようになるし、むしろどうでもいいとまでうっすら考えていた。半時間ほどして、いったいどんなふうに連絡がいったものか、近所の疋田さんのご主人が車で送ってあげますよと申し出てくれた。疋田さんの家族ともご主人とも、これまでに個人的な交流はなく、今回も母がしきりに頭を下げながら、すみません、助かります、を連呼していた。わたしも申し訳程度に、ありがとうございます、と口にして、自分なりに心をこめていると思っていたけれど、いま考えたら、たぶんほとんどこもってなかったんだろう。試験勉強に打ち込みもせず、適当に受けて、適当に点数を取って、取ったうえで願書さえ出せばあとはなんとかなると思っていたわたしは、窮極を言えば、センター試験に間に合おうが間に合わなかろうが、そんなことは別にどうでもよかった。間に合わなかったら間に合わなかったで別にかまわないのだ。
 雪道を車で送ってもらうときに、ドライバーとのあいだにどんな会話が持ち上がったか、もう憶えていない。実のある会話をした自信もない。
 車内は暖房が効いていた。その適度な暖かさは、疋田さんのやさしさだったのだろう。高校の三年間のあいだに、ほかの家の人の車に乗せてもらう経験は一年に一回あるかどうかくらいだったし、言葉もほとんど交わさない受験生の態度に、疋田のご主人はどんな印象を持っただろう。相手の発言でひとつだけ憶えている言葉がある。こんな言葉だ。
「大切なセンター試験の日に、えらい難儀やなあ。でもがんばりや」
 エールといってもいいだろう。受験を控える相手を刺激しないよう、おじさんなりの精一杯の言葉だったのだろう。これにどう答えただろう。はい、なのか、ありがとうございます、なのか、がんばります、だったか。でも、がんばることも、ふんばることも、自分をそう仕向けるだけの意欲がわかなかった。形式上の第一志望はあっても、それは自分にとっての最適解とは思えなかった。数学がつかえるから、文学部よりも経済学部志望のほうが合格に有利であること(偶然会場も経済学部だったが)。関西圏より関東圏に進路の希望のあったこと。その先の就職を見据えて進路を希望する同級生たちを目の当たりにして、学問のためにあるべきと原理主義的な考えを大学進学に求めていたわたしには、受験の現実にひどく心がさめ切っていたこと。三年生にあがってから、判り切っている授業は平気でさぼったし、午前中で早退して、近くの川べりのベンチに座って、ゆく川の流れに目をすえて、人生について考え込んだこともあった。どうとでもなれど、部屋に帰っては、「マスターオブモンスターズ」や「ルナティックドーン」に遊びふけっていたこともあった。受験勉強に打ち込む意欲がわかなかった。
 はじめて入る大学の敷地は、中学や高校のように限られた個数の棟とその周辺に道がついていて、庭があって、運動場があってというのではなかった。敷地の中に何ブロックもの駐車場が存在していて、ひどくゆったりした幅の並木道が続いていたり、木陰になりそうなところにベンチが置かれてあったり、各棟も、いろんな場所にばらばらに配置されていた。一面雪の世界だったけれど、絨毯のような白い厚みの下から、葉を落とした茶色い並木がすっくと伸びていた。ちょうど箒の先のように、細かに枝分かれしたさまが、多少さびしげでもあった。
 結論から言えば、二日目の時点で戦意喪失していた。ある科目のマークシートの二番目の項目以降、すべての項目を、ひとマスずつずらして塗りつぶしていたのである。試験時間のおわる直前にラストの問題まで行きついたから、ずれていることに気付いたときにはラスト一分を切っていた。あわてて最初の方から消しゴムで消して修正を加えていったが、間に合わない。大問1の終わりでタイムアップだった。
 肝心なときに締められない性格。おっちょこちょいは生来のものだけど、まさかこの日、このときにやらかすとは思わなかった。なんどか受けた模擬試験でも、ある国立大学の経済学部でAランクが出ていたから、センターが悪くても最悪、そこを受ければなんとかなると思っていた画餅がまさに崩壊し、センター試験自体を切るしかない、私立にしぼるしかないと思って、そこからは、やけになった。結局、センター試験について、いまも印象に残っているのは、慣れない車を出してもらった雪道と、会場のなかのスチームのむっとする暖かさと、回答のときにしでかしたミスマークの三点セットだった。私立もさんざんな結果がでて、わたしの現役受験はこうして幕を閉じた。

 受験は幕を閉じたが、わたしにとってひとつの時代が終わりを迎えたのは、震災が発生し、受験に東京に行って歩きもしていた土地に、その一か月後、地下鉄サリン事件が発生するという、偶然にしてはあまりに大きなニアミスが二度も発生したことによるショックからのことだった。いいわけにしかならないが、センター試験の翌日に震災が発生した。状況を知りたくても、わたしたち受験生は一か月後の二次試験、あるいは私立の入試に備えなければならない。ニュースでは東灘区の惨状が連日報道され、ボランティア活動への参加が喚起され、そのなかで受験勉強をしていることの意義が、これまでもあいまいだったのにさらにあいまいになっていった。3月。受験したすべての大学から不合格通知がとどいて浪人生活が決定したとき、一年間を勉強に費やす意欲をすでに喪失していた。学びたい気持ちはあっても、ひとつを選べばほかのすべてを選べなくなるし、これこそとひとつに絞るだけの知識も自分にはなかった。なにが学びたいのか、それが明確になるまでは勉強に打ち込む気もなかった。
 4月になってもテレビではさかんにサリン事件に付随して、オウム真理教がクローズアップされていた。テレビではとっかえひっかえ報道各社がレポーターを起用したり、インタビューをしたり、特集を組んでいた。新聞もテレビも控えめにしか視なかったから流れのほとんどは追えていなかったけれど、いまから思えばそういう情報にあえて触れないようにしていたのかもしれない。
 一箇月ほどは、英語や日本史の教科書を開いて復習をしていった。英語が苦手なので初歩に戻って単語から覚えようとした。しかし本当にこれをしたいと思うときにこそ打ち込むべきで、そうでないときは無理にしないほうがいいという持論を持っているために、これを途中でやめてしまって、自分は本当に来年また受験をするのかという疑問を抱きながらも、早々に一日8時間のアルバイトを決めてきた。引っ越し業者の運転手のバディだった。

     *

 7月末の夜9時、わたしは友人の運転するスープラに乗せてもらっていた。「ALONE」や「ZERO」を聴きながら車道の両脇をすべるように過ぎていく電柱の速さに圧倒されていた。
「B’zって、演歌みたいな感じがする」
 なんてわたしがつぶやくたびに、友人は返答に困っていた。
「歌い方に感情が乗ってる感じがする」と補足すると、なおも納得いかない表情を見せながらも、
「わからんでもないけど」と受け答える。
 このところ、8時半に家に迎えに来てもらって、夜のあいだ中、男二人でドライブすることが増えていた。春に引っ越しのアルバイトにさそったのが縁で夜な夜な遊ぶようになった。
 国道八号線を北上して、東に進路をとり、関ヶ原を抜けて岐阜市内に向かう。
 夜の揖斐川、長良川はおなじ黒でも、日によって表情がちがった。うるしのつやのように、こってりと月明かりを返す夜もあれば、さざなみだけの弱い小さな光の粒がかろうじて目に捉えられる夜もある。わたしが好きなのは、真っ暗闇の中にたぶんそこにはたっぷりとした水量が潜んでいるのだろう、あるかなきかの虚ろな暗澹とした不可視不可触の物質存在としての想定上の姿だった。あるとわかっていて確かめられないもどかしさ。助手席に座って音楽に耳を傾けながら目は夜景に沿わせ、浮かんでくる思いに気持ちをのせていく。
「圭ちゃんて、これからどうしようとか、あるん?」
「突然どうしたんや」
 不意のわたしの質問に、友人は戸惑った。
「前の仕事やめたやろ。いまは引っ越しやってるけど、そのあとどうしようとか」
「なんでも見つけるし、だいじょぶやて」
 つれない友人の言葉にも、なんの感慨も浮かばない。そうじゃない。本当に聞きたいことは別にある。
 あ、と友人が声をあげた。
 ハンドルを握る友人の手に力のこもるのが分かった。Tシャツの袖から伸びた二の腕にぴりっと線が入った。ふだんはきゃしゃに見える痩せ型の友人も、実は機敏に動くことの出来る筋肉質な体格をしていた。フロントガラスの向こうを観たり、左右のミラーを覗いたりしたけれど、異常は感じられなかった。疑問に思っていると、友人が口を開く。
「道のはじになんか轢かれとったわ」
 何が轢かれていたか気になったが別の質問をする、「圭ちゃんはなにか轢いたことある、これまで」
「それはないわ。でも、気ぃつけんとな」
 地元は、シカも出ればイノシシも出ればタヌキやテンやイタチなんかも道をわたる。油断していると次の瞬間には死体がひとつ作られる。子供の頃は近所の道路に惹かれた小動物を、場所を移して葬ってあげる篤志家のおばあちゃんもいた。ときおりそういう話も聞くけれど、家族も近所のひとも、それについてはよく思っていないようだった。
「受験――どうしようか、思てるんやけど」
 話すつもりもなかったことが口をついて出る。本当に話したいことは別にあるのに。
 友人は中卒だから勉強に関してを問うたところで明快な答えの返ってくるはずもなかった。むしろ、話題に挙げることで相手をいやな気持にさせる可能性だってあった。案の定、圭介は返答に困っている。やめればいいのに、さらに言葉を加える。
「学問ってもっと高尚なもんやと思うてた」
 実際に口にしてみると、思う以上にぼやく感覚がつよかった。
 圭介も即座に反応を返す。
「俺、そういうの、ようわからんけど。嫌ならやめればいいんちゃうか」
 そういうことやない、とわたしは思う。
「嫌なわけやない。ただ、なんのために勉強するんか、ようわからんようになってきた」
「そうか」
 間のあいた言葉のうちには、自分にはまだ酌み上げる度量のない、深い意味があるように感じられた。それでも自分に踏ん切りがついた感じがして、次の言葉をスムーズに口にすることができた。
「梱包担当の久美ちゃんとこの前話したんやけどな」とさりげなさを装ってつづけた、「あの人、オウム事件の報道を観るのが面白いいうててな。あの事件。圭ちゃんはどんな印象を持ってる?」聞いてみたかったことを素直に口にすることができた。助かったという気持ちになる。
「わからん――ようわからん」と圭介はいった、「あんなことできてまえる神経が想像もつかん」
 圭ちゃんはそういうけれど、わたしはそんな簡単な言葉に置き換えたくなかった。子供の頃、はじめて集団に属することになったころ、朱にまじわることを潔しとしなかった自分は、いきなり集団から疎外された。そのとき、集団に属するひとりひとりの顔にうかんだ色味のどぎつさは、いまでも思い出すたびに虫唾が走る。いまは余裕も出てきて、落ち着いて考えられることも増えたけれど、小学校の時分にも、悪辣な発言をぶつけられたり、無視を決め込まれたり、靴に画鋲をしこまれたり、机の中に虫の死骸をおかれたりもした。ひとつひとつの行為の残虐性よりも、自分の判断でそんなことまでしてしまえる集団の残忍さに、わたしは信じられない思いをしてきたものだった。
 人はどんな風にもなることができる。どんな行為だって、心持ちひとつで突き進んでしまえる自在さを持っている。その自在性ゆえに、適度に綱を引いて主体を制御することのできる自制心こそが成熟した大人には求められる。引き絞るべき手綱が本性に対して機能していなかったのではあるまいか。手綱を握るということ自体、おざなりにされてしまっていたのではあるまいか。
「実はおれ、仏壇にけっこう手を合わせるんよね。ほかの人のために祈ることが宗教のあるべき姿を思ってたんは、大きな間違いやったんかな」
 やっといいたいことをいえた。同年代の友人に、まじめな質問をする照れくささもあったし、こちらの真面目を相手がちゃかしたり、真面目に取り合ってくれなかったらとても恥ずかしいだろうなという気持ちもあった。相手の反応を待つ。
 カーステレオからはB’zが流れていた。夜な夜なのドライブが続いたせいで、すでに耳なじみになっていた。ふと、TMネットワークの「ゲット・ワイルド」を聴きたくなる。シティーハンターのエンディングテーマだった。小学生の時に夕方の再放送で流れていた曲だった。当時耳にしたものにも、ドライブを喚起する音楽がまれに存在した。車の話をする同級生はまわりにたくさんいた。隣の圭介だって人一倍車に関心を持っていたし、げんに、自分には手の出せないくらい高価な車をこうして運転している。
 学問はしたいのに勉強に打ち込む動機が見出せない。将来的につきたい仕事はないから、できることなら一生学び続けることを願っている。さらにいえば、知的探求心よりも、自分自身の未熟を鍛え直すような、精神の鍛練みたいなものを行動原理の第一に据えたい希望があった。
 思考の迸りのうちにも、友人の口から発される言葉に全神経が向かった。
「なんか違うんやろな。嘘っぱちばかりや。世の中嘘まみれで、簡単に人を信用するやつは阿呆やわ」
 友人の交友歴をわたしはよく知らない。以前教えてもらった友人の一人は、自分に不利益があると、すぐに《バック》を使うぞと人を脅していた。関わり合いにならないほうがいいと感じていた。これまでの人間関係のなかで、バックを使うと言い得る相手との接点はなかったから、その相手に対峙する度量というか経験値が自分にはまるで足らなかった。車に同乗するときは極力、口を開かないようにしてきた。
「受験ではじめて東京に行って、二月の末に渋谷とか青山とかを歩いたけど、まさか一ヵ月もしないうちにあんな事件が起きるて想像もつかんかった。現役の受験が終わって、テレビの報道を視てても、嘘みたいや。震災の状況を見ても、やっぱり嘘ものみたいにしか思われへん。しかもおなじテレビで、ルーズソックスがはやってるとか、コギャルがどうとか、やってるやん。同じ日本で、シビアなものと、軽いものが、入り乱れてて、そんななかでこれから勉強をしてどうするこうするっていうのがわからんようになってきた。かといって、事件を語る人らの口ぶりも受け入れにくいし、わからんことしかないわほんま」
「わからんことだらけなんは一緒や」圭介は手を伸ばしてステレオのボリュームを大きくした。
 音楽に聴き入ろうぜ、という合図とみたわたしは、すでに渡り終えて背後にした黒い川の流れを想像の中に見るような思いを抱きつつ、次第に目路にちらちらするとりどりの色の街明かりに関心を向けた。
 どこをどう走っているのか友人だけが知っている。車を運転しないわたしに土地感はないし、道を覚えるつもりもなかった。ただ走って音楽を聴いて外の風景を一晩眺めていられれば満足だった。どこを飛ばすかは友人に任せていた。圭介もわたしもどうせ家に帰っても手持無沙汰で時間を持て余すだけなのだ。余計なことを考えるくらいなら、目の前の夜景の変化に気持ちを紛らせてるほうがいい。そのうち真剣に考えなければならないことも出てくれば、大切な判断に迫られるときもやってくるだろう。いまこのときだけは、無軌道に時間を蕩尽していればいい。投げやりな気持ちに似ていた。なにかしたいけど、なにをすればいいのかわからない。したい気持ちだけはいっぱいなのに、それを導くための方法を持ち合わせていない。戦略なしの無軌道な横溢だった。
「でもな。ある日、普通に通勤とか通学していて、気がついたら気分が悪うなって、倒れてもて、運が悪ければ、再び目覚めることなく死んでまうんやろう。そういうなん、人が人にしていいことと少なくとも実行犯は思ってたんかな。思ってなかったと思うな。むしろ、粛清とか、見せしめとか、トップの命令に盲従することが生き抜く道やて思い詰めた依怙地な精神がちらちらするんよな。そうせんと、今度は自分の番や。集団の中での立場かな、それは精神のステージの話かもしれんし、ストレス的なものかもしれんし、そういう焦燥感、追い立てられる感覚って、俺らが子供の頃に見てきた、ひとりを寄ってたかって目の敵にして集団の連帯感を高めるやつらの眼付と一緒に見えるんな。行為を拒めばこんどは自分が非難の対象になる。集団がいつでも内部に秘めてるやつな」
 圭介は車内の音楽のボリュームも気にせずに、口を開くわたしの言葉に聞き入っていた。
「考えたい日なんやろな、きょうは」という、「俺も付きあおか」
「ほんまは、前から言いたかったんや、こういうこと。同年代はどう考えてるんかなって」
 口にしてみるとすんなり響くように感じられた。話したいのに話せなかった時期が長かったせいかもしれない。
「店入ろか」
 自分がおごるわ、といって圭介はこちらの肩を叩いてきた。
 深夜営業の吉野家に入って二人とも特盛を注文した。誰もが疲れているはずの深夜帯に店員はアルバイトだろうか、せかせかとひとり仕事にいそしんでいた。おれたちのバイトも人がいないところに間に合わせで宛がわれていることを痛感しているから、深夜バイトに対して妙な親近感を覚えた。
「さっきの話やけどな」
 圭介のほうから話を振ってくれる。もちろんそれについて語りたかったのだ。
「もう知ってる思うけど、俺が学校いかへんようになったんも、いじめがあったからやしな」
 圭介の経緯は知っていた。小学校の高学年で登校を拒否して以降学校で姿を見ることはなくなった。学校の厚意で小学校、中学校の卒業証書は授与されたと聞く。とはいえ、そんなものは、いまの生活になんの役も立ちはしない。
「個人が集団になったときの浅ましさな。おれ、どうしても許されへんのや」
 言葉がすんなり出てきたことに、自分の口が信用できないほどだった。
「集団を隠れ蓑にできるやつらが羨ましいのかな。なにせ考えんですむやろ。責任、取らんですむやろ。なにしろ生きてるのが楽や。俺だって安心感は得たいけど、どんなに努力しても、そういう安心の仕方は自分には与えられへん気がするんや。ひとりで過ごすことが多かったしな」
 話がどこに向かっているのか、自分でもわからなかった。
「淋しさをまぎらすために誰かを求めることってやっぱりあると思う。けど、自分の欠点を隠すために、誰かとつるんだり、頼り切ったり、依存したり、凭れかかったり、人が集まれば集まるほど欠点が欠点として見えなくなっていって、その大きさにばかり目が行って、内部にはびこっていく悪い根っこみたいなものに盲目になってく傾向ってある気がする。個人として耐えきれないつらさからの逃避とかそんなことを考えたくなる」
 圭介は牛丼を食べる手を止めて、器の中身をじっと見ていた。熱いお茶をすすって、なおも黙っている。
 こっちは一口、二口、口に運んだあとは、箸もおきっぱなしにしてずっと話していた。のどの渇きを覚えたが、お茶を飲むほどでもなかった。
「たとえば、急にここに毒液が撒かれたとする。たまたまここに居合わせただけやのに、それで命を落としたり後遺症だけが残ったりしてみいや。なんで俺が、ってなるやん。でも、子供のころ、毎日いろんなとこ駆けまわってたやろ。で、道を歩いてる蟻とか、草むらの中のバッタとか、ダンゴムシとか、ナナフシとか、そういうの踏み潰したことってきっといくらでもあるやん。サリンを撒くってとき、そいつらの頭の中では、普通に生活してる人間なんて、子供のときの俺にとっての、蟻とか、ダンゴムシでしかなかったんやないかな。いや、殺す意志があったからこそ、それ以下の存在に見えてたんかな、目の前に存在する石とか木とか鉄くずみたいなもんでしかなかったようにも思うんな」
「それはいいすぎや――」圭介はぎょっとしてこちらを見る、「でも、そうも言いきれんか。蹴られたり、殴られたりしたこともあったけど、相手の心のなかはどうなってるんやろうって思てたし。こちらにも感情があって、悲しさや、苦しさを抱える心があるんだってわかってたら、とても人を殴るなんてできんやろ。でもげんに相手は殴れるんや。蹴れるんや。なんでそんなことができるんかって、相手は、物を考えもすれば、いろんな感情を抱く存在だってことを忘れてしまえるところにその秘訣があるんやろな」
「鈍感、ってことかな」
 短い言葉でまとめると、圭介は一度だけ頷いた。
 頷く圭介の目じりにきらっと一粒が光った。嫌なことを思い出させたんだなとわかった。
「食べよ」というと、圭介は無言で碗をとって箸を動かし始めた。
 深夜に食べる牛丼は、背徳の味がした。ちゃんと三食を家で摂っているのに、本来食べなくてもよい四食目を口にしている。貴重なはずのアルバイト代を出してまで食べていることが背教のような、背徳のような、反社会的な行為の取っ掛かりのような気さえしている。米の風味、牛肉の脂の味、砂糖と醤油の味のしゅんだタマネギの甘味、どんな工程でつくられたものかは知らない。寸胴のなかに大きなお玉をつっこんで、その一杯を、碗によそったごはんのうえに、のっぺりとかけるだけ。深夜の1時、2時にも、アルバイトはもくもくとその単純作業を繰り返す。子供の頃は二十四時間営業でいつでもそこにいけば食事ができる場所があるなんて知らなかった。むしろ、深夜という時間がこの世界にあることすら知らなかった。
 無言でごはんを搔きこむなかに、つらつらとひとり考える。
 震災は、いつなにが起きるかわからない恐怖を日本人に与えた。でもそれが本当に地続きのこの社会の一部で起きたことだという実感がわかないままに半年が過ぎている。自分に恐怖が降りかからない限り、恐怖は現実のものにならない。サリン事件だってそうだ。でもそれは自分の身に降りかかる瞬間というのは、すでに進退もきわまって、どこにも逃げようのないときだろう。なにをしたくて、なにをしようとして、この十八年間、子供をやってきて、学校で学んできたんだろう。すでに学び終わった人たちが大人になって、なぜかバブルを崩壊させて、サリン事件に出くわして右往左往している。安定していると思っていた社会の安定こそ、まやかしだったんだろうか。半年後にまたセンター試験をうけて、進学を目指す理由が自分のなかで薄れていく。
 一方ではサリン事件の報道が面白いと言っている女の子がいて、他方では阪神大震災に被災して家の半壊した親戚がいる。わたしは本来、試験勉強についやすべき時間をアルバイトに打ち込んだ金で、深夜の一時に牛丼屋で背徳の味を楽しんでいる。試験会場まで送ってくれた疋田さんにはなにも返せていない。
 1995年。世紀末だって近づいている。
 なんにもできていない、なんにもなれていない自分に苛ついていいのかどうかすらわからない。そもそも自分はこれからどうしていくのだ?

わたしのピングドラム

執筆の狙い

作者 そうげん
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『輪るピングドラム』というアニメが大好きです。

コメント

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

誤字がありました

× ほかの人のために祈ることが宗教のあるべき姿を思ってたんは、大きな間違いやったんかな」
〇 ほかの人のために祈ることに宗教のあるべき姿を思ってたんは、大きな間違いやったんかな」

freename1
140-227-74-14.vpscloud.static.arena.ne.jp

ちょいちょい挟まる過去回想視点や含蓄は、一旦摘出して、
完全に当時目線で書いたほうがいいと思いますよ。
後半に行くにつれ小説風になってゆくし、最後も当時目線なので、
その方が締まるということに作者さんも感づいているはず。

過去回想視点を入れたままだとエッセイ風の気楽さはありますが、
本作はエッセイとしての着地点を備えているわけでも無いので、
この書き方のままだと読み手に与える一番の印象は「散漫さ」だと思います。

それに、以下の部分のようにアカデミックな単語を集中的に使うと、今現在も充分青臭いんだな、という感じがするので、回想にしてもメリハリが無いです。



形式上の第一志望はあっても、それは自分にとっての最適解とは思えなかった。数学がつかえるから、文学部よりも経済学部志望のほうが合格に有利であること(偶然会場も経済学部だったが)。関西圏より関東圏に進路の希望のあったこと。その先の就職を見据えて進路を希望する同級生たちを目の当たりにして、学問のためにあるべきと原理主義的な考えを大学進学に求めていたわたしには、

引用おわり



まとめ

普段の私なら、たとえばこの作品への感想なら、

『散漫さと書きましたが、それは言い換えると自在さです。
「自分らしく、肩を張らずに自分に対する嘘も無く、自分になじむ書き方をした先に、そのなめらかな文章で螺旋回廊を下るように自己の奥地へと到達し、そこに何がしかの、たとえば文学的な価値が~』

というような嘘を最後に書いて煙に巻くところですが、今回はやめときます。自分より少し年上で、小説に関して上を行ってそうな方が、「自分史文学おじさん」になりそうな気配を感じたので、そうなると自分に対しても希望がなくなるので、本音を書いておきます。
いくら「自分に対して繊細な」ものを追い求めても、それを他人に読ませようと投稿すればその行為の中に確かなガサツさが存在するというパラドックスがあると思います。おわり

松岡修子
129.67.239.49.rev.vmobile.jp

高校三年男子が「疋田さんのご主人」という表現をすることに違和感があります。主婦っぽい感じがします。もしくは母親のそういう言い方を真似た女子高生なのかと思って読んでました。

画餅がまさに崩壊とありますが、「画餅」を誤用してますよ。

現役受験はこうして幕を閉じた。
単に終わったのではなく、失敗してしまったのだから、「水泡に帰す」をおすすめします。

サリン事件に付随して、オウム真理教がクローズアップされ 
「付随」に違和感があります

テレビではとっかえひっかえ報道各社がレポーターを起用したり、インタビューをしたり、特集を組んでいた。
「レポーター」ではなくコメンテーターでは?

新聞もテレビも控えめにしか視なかった
テレビだけならともかく、新聞に「視る」は違和感

ほかの人のために祈ることに宗教のあるべき姿を思ってたんは、大きな間違いやったんかな

「ほかの人のために祈ることこそが宗教のあるべき姿だと思っていたのは、大きな間違いだったのかな」
という意味ですか? 一読してわかりにくいので、わかりやすく書くことをおすすめします。

「B’z」はB'zだと思います。

車を運転しないわたしに土地感はないし、
「土地勘」

戦略なしの無軌道な横溢だった。
「横溢」を誤用していると思います。

牛丼屋での会話の論旨がよくわかりませんでした。結果として作品の内容もわかりませんでした。
小説というよりも、とりとめのない思い出話のような印象でした。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

freename1さま

コメントをくださいまして、ありがとうございます。

はじめの章の時制は、※以降の7月末の時制よりも以前を想定していたので、それを明記しなかった自分の落ち度だと感じました。貴重なご指摘をありがとうございました。

>というような嘘を最後に書いて煙に巻くところですが、今回はやめときます。

ありがとうございます。なぜいまこれを書いたかは自分の中に理由もあるのですが、現代の下層社会も見据えてのこととだけ書いておきます。ありがとうございました。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

松岡修子さま

修正案、駄目だしをくださり、ありがとうございます。是々非々で考えたいと思います。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

>サリン事件に付随して、オウム真理教がクローズアップされ 
>「付随」に違和感があります

この部分、4月の段階では、どこまで捜査が及んでいて、
どこまで特定された情報が一般に公開されてたかを追っていくと、
このニュアンスも伝わるんだけど、すでに語られなくなった現代では、
この微妙な書き方は違和感でしかないのでしょうね。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

>テレビではとっかえひっかえ報道各社がレポーターを起用したり、インタビューをしたり、特集を組んでいた。
>「レポーター」ではなくコメンテーターでは?

上九一色村 サティアンなどで検索されるといいかと思います。

偏差値45
softbank219182080182.bbtec.net

うーん、なんとなく書いているのかな? そんな気がしますね。
ストーリーの核心的な部分が見えないですね。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

偏差値45さん

コメント、ありがとうございます。

小川
KD106180005167.au-net.ne.jp

なんというか、どうでもいいことをずっと話しているというか、上の松岡さんが言うように思い出話というか、飲み屋でほんのり酔って思い出話をしだして、こっちは気のない相槌を打つしかないといった感じです。

私も、なんとなく書いているように思いました。思いついたものを何でも描写する自分を許してしまっているように感じました。これは、自分の静謐な心から紡ぎ出される言葉は、すべて価値があるという思い込み、自己愛からきているのではないでしょうか。

コメントした人達に対して殊勝なお返事をされていますが、軽いお返事に感じます。あまり響いていないように見えます。悪く言われて糞という想いはあっても、根本から直そうと思ってないように思います。

テクニックやら文学観やら色々とたくさんの荷物を抱えておられるようですが、すべて捨ててしまっていいように思えます。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

小川様へ

問題意識を共有することのない相手に伝わるわけもなく、面白いほど伝わらないから、やっぱり面白いのです。
ありがとうございます。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

背徳の味 → 牛肉の「脂の」味、のっぺりとかける「だけ」、「もくもくと」「その単純作業を」「繰り返す」

いまにも通じるものを書いてるけど、伝わらないね。いいけど。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

ちなみに、うまいとは一言も書いてないどころか、味の評価は書かないである。

松岡修子
218.253.149.210.rev.vmobile.jp

本文
>サリン事件に付随して、オウム真理教がクローズアップされ

私の書いた感想
>「付随」に違和感があります

これに対するあなたの返信
>どこまで捜査が及んでいて、どこまで特定された情報が一般に公開されてたかを追っていくと、このニュアンスも伝わるんだけど、

まったく見当違いです。そんな問題ではありません。
あなたは「付随」という言葉を誤用しています。辞書を引いてください。
うろ覚えの言葉を使うときには、意味を調べてから使うことをおすすめします。

小川
150-66-75-41m5.mineo.jp

『知的探求心よりも、自分自身の未熟を鍛え直すような、精神の鍛練みたいなものを行動原理の第一に据えたい希望』があるのにブツブツ言うのは、当時よりずいぶん年月が経ったのにも関わらず成果が見られないようで残念です。

文章をうまいと言ってくれなかったことに不満のようですが、うまい文章を見せつけてやろうという態度が全ての原因ではないでしょうか。確かにうまいと思う文章は散見されました。freename1さんが言ったように、螺旋回廊を下るように自己の奥地へと到達しようという試みも素晴らしいと思います。誰よりも夢にすがりついて苦しい思いをしながら机に向かっているのがなんとなく伝わってくるから、最後まで読んでみようと感化もされました。

カッコつけ過ぎです。読み手が問題意識を共有していないから伝わらないのではなくて、しがないフリーターでありながら、社会の暗部に気づいている特別な存在である故の苦悩を皆に見てほしくて筆を執っているから伝わらないのではないでしょうか。

嫌味ではなく、「マスターオブモンスターズ」や「ルナティックドーン」のお話を書かれた方がいいと思いました。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

松岡様へ
付随は、つきしたがう、です。
それだけ。

(物事が)おもな事柄につれて動くこと。従的な位置にあること。

むしろ、あなたの小説に感想を書こうとしたが、文章が
ひどくて冒頭2行だけで指摘の山ですよ。
自分の言葉の問題に片を付けてからきてください。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

むしろ、自分は特別な存在でそれ以外の存在は虫けらに等しいとまで思い籠めたところに、人を人を思わない強行も可能になった。選ばれた人間と見捨てられた人間。というより、自分たちの側に来なければ世の破滅に巻き込まれるから、あなたたちを救ってあげるのです。救済です。だからわたしたち以外は生き残る必要もない。そんな犯行理由があるのではないか、くらいにもっと踏み込んだ感想があればわたしも返答のしようがあります。

感想未満に対応する時間が面倒です。

そうげん
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きのうも、首つり写真をとって、ツイッターに「ウケるんだけど」とか「w」とか書いてアップロードして炎上した人がありましたが(しかも複数人)、現今、感情が劣化した存在が増えすぎて社会に蔓延してるでしょう。そういうものに接したとき、ここの参加者さんはどんな【感想】をお持ちになりますか。感想とはそういうもので、文章がどうとか、指摘、駄目だし、校正、そんなものを交換することに大筋を踏み外している感がいなめないのは、わたしだけの感覚なのか。サルに文明の利器を持たしちゃいかんくらいのものでしょうか。さて。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

小川様へ

20年間に3万枚はすでに書いてますけど、文章のうまさを見せるというより、文章をきっちり決めて書いているのでなく、こんな書き方は書いているときの融通でなんとでもなります。そんなことよりも、もっと重くて深い部分へ行くために、宗教とか、集団の悪意とか、また現代の病根とかをつくために、準備段階としてこれまでに書いていないことを書いてみようと試みただけのことです。実際に起きた事件にどこまで触れて、しかもネットにあげることができるか、小さな一歩ですが、それをやっていく先に自分の書きたい目標もあると気づいているから、書かざるを得ないのです。そして、人は何を忌避して、何に触れないように努めているか、そこも見えてくればいいと思っています。わたしにとっては踏み込んだ内容です。ただ同じくらい、もしくは、こんなのは甘いともっと踏み越えた先を示してくれるような感想があればと期待しているだけです。

わたしにとっては、この文章をネットにアップすることができた時点で、目的の半分くらいは達成しています。

ただ小川様の感想に対して、先の返答は短いものにしてしまったことは、ここに謝らせてください。すみませんでした。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

ピングドラムはチェックされてるんだろうか、
執筆の狙いも捨てではないのだけどな。

松岡修子
21.200.49.163.rev.vmobile.jp

なぜ「付随」が不適切なのかわからなければ、国語が得意な人に聞いてみてください。
偏差値75以上ある人ならわかると思います。
日本語のセンスのない人に聞いてもわからないでしょうけどね。
ひょっとして帰国子女ですか?
日本語の勉強、がんばってくださいね。
逆ギレ禁止ですよ。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

「付随」は簡単に言ってしまうと、「ある事にくっついて起こる事」ということです。

わたしは文章に、

>4月になってもテレビではさかんにサリン事件に付随して、オウム真理教がクローズアップされていた。

と書いています。

『事件に付随してクローズアップされた。』

これが骨子です。
オウム特集が連日テレビで流れていました。
2時間番組とか、ほんとにそればかり。
そして、【あなたに】説明を求めます。
付随のどこが誤用であるのか。
言い逃げはやめてくださいね。

あの人がいっている、ではなく、自分の言葉でこたえなさい。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

あと言葉を因数分解できないようですね。
数学の勉強をどうぞ。

小川
150-66-75-41m5.mineo.jp

そうげん様

文章がどうとか、指摘、ダメだし、校正、そんなものを交換することに、この鍛錬場があるとは思いますが、私のはそれにも及ばない、ただの悪口でした。

わかりました。そうげん様の重くて深い部分に行くための前進を踏みにじるようなことを言ってしまって申し訳ありませんでした。

どんな理由があっても、その人の書く姿勢を馬鹿にすることは許されることではありませんでした。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

小川様へ

名前あてで書いていないコメントはぼやきでもありますし、小川様へつけたものではありません。
むしろ小川様はしっかり対応してくださっています。

>嫌味ではなく、「マスターオブモンスターズ」や「ルナティックドーン」のお話を書かれた方がいいと思いました。
わたしはファンタジーやアニメやゲームの好きですので、
ここの系列の「星空文庫」にも自作ファンタジー小説のスピンオフも書いています。
様子見程度に見てくださればと思い、URLを貼り付けておきます。

『しかたなく憧れて』
  ……冒険者宿の一日の風景。という、TRPGにでも出てきそうな光景から描きます。
https://slib.net/96474

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

 わたしはファンタジーやアニメやゲームの好きですので、
⇨わたしはファンタジーやアニメやゲームも好きですので、

小川
150-66-75-41m5.mineo.jp

そうげん様

ありがとうございます。
読ませていただきます。

九丸(ひさまる)
om126034099197.18.openmobile.ne.jp

拝読しました。

感想のタイミングが……。
そうげん様がいろいろ書いちゃったので、今更感があるのですが。

初見で感じたことは、『不透明』でした。
本来ならそんな先行き不透明なものをクリアにして、各々が好きな色を見られるのが娯楽含めた文化なんだと思います。
もちろん、それは仕事でも構わないのですが、先行きが不透明ならつきたい仕事、やりたい仕事を自分で立ち上げるなんて中々踏み出せるものでもなく、いや、これは例えバブルであってもそうかもしれません。思い通りの仕事になんてつける人は少数でしょう。それでも、目の前がクリアなら他で補える。もっと言えば、自力でどうにかできる人は時代なんて関係ない。
不透明な世相につけこんで、力を得たのがオウムだったりするのでしょう。高学歴からそうでないものまで、迷子に道を示してあげたのだから、考えることすら疲れた人達には救いだったのでしょう。楽になれるのだから。
何かにすがるのは悪いことだとは思いません。すがった先の見極めができないのは世の中が悪いのか、個人が悪いのか。それは大なり小なりの不満や不安を消化できるかできないかの個人差もある。消化できないのは個人の努力不足だ。これも正しいだろうし、消化できない個人にしたのは世の中だ。これもある意味正しいのかもしれません。僕は前者です。世の中のせいにはしたくない。そうは言っても流れもあるので難しいですが。
不透明な世の中だとしたら、はたして変えられないのだろうか? だから選挙行けよ。はい。毎回行ってます。僕の場合は仕事がもろに影響受けるので笑
選挙なんてまどろっこしい。今すぐにでも変えてやる。それには暴力なんて力技が手っ取り早いと考えたのがオウムです。まさに選民思想。世紀末なんて言葉に踊らされた典型だと思います。そんな言葉に踊らされないようにするには、ベタな言葉ですが、地に足つけて、軸をしっかり。言うは易しですが。まずは見える範囲からなんて考えてます。他人の心配するにしても、まずは自分から。なんて。見通せる人、見通せない人。でも、自分の足で立っている人は強い。そして、不思議と助けてくれる人も集まってくるような気もします。そうすれば視界良好になるはずと思いながら読みました。
新年の挨拶回りの帰り道。後輩が運転する車の中で書いてました。支離滅裂はご容赦ください。

追加
スマホバカの話ですが、古今東西、人の死は娯楽になりえます。どんなに道徳を説こうが、それはこれからもなくならないでしょう。一定数は必ずいます。それじゃあどうしようもないとは考えていません。もし自分の周りにいたら軽蔑するくらいしかありませんが……。たがら、そんな養分になるような死に方はダメだとも思います。そんな死に方を選ぶ人を減らすのが大事と思いました。

失礼しました。

松岡修子
21.200.49.163.rev.vmobile.jp

私は親切に教えてあげました。だけどあなたの知能では理解できませんでした。それは私の責任ではありませんし、あなたが理解できるまで教えてあげる義務はありません。
あなたには私に偉そうに命令する権利はありません。

どうしても知りたいのなら、「付随 付帯 違い」で検索しなさい。出てきたサイトを全部読みなさい。それでもわからないなら、あなたの知能の問題です。

身の程を知りなさい。駄文しか書けない自分を恥じなさい。あなたの文章からは卑しい品性が滲み出ているから、人を不快にさせるのです。あなたは身の程もわきまえず、思い上がりが強くて鼻持ちになりません。どんなに自分が間違ってても決して自分の非を認めない。感謝すべき相手に逆切れする。だからいつまでたっても駄文しか書けないのです。
素直に自分の非を認めなさい。謙虚になって学びなさい。そうすれば少しはまともな文章を書けるようになるでしょう。少なくとも、鼻持ちにならない傲慢さが文章から透けて見えることはなくなるでしょう。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

松岡様へ

鏡像段階ですか。自分の手を動かして、その動きを目で追う処からおはじめください。
はいた言葉は自分を映す鏡です。自分に向けられた言葉として読むと、なぜあなたがそのコメントをせざるをえなかったか、本質が理解できるでしょう。沈思ください。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

駄文書きに駄文と指摘される。悦ばしいことです。

松岡修子
21.200.49.163.rev.vmobile.jp

減らず口を叩いてる暇があるなら、さっさと検索しなさい。読んでも理解できないから降参ですか?
読んで理解できたのかできなかったのかを答えなさい。
それまでは返信禁止です。
屁理屈は一生禁止です。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

自分の世界しか見えないのですね。
ふつうの大人は、指摘される前に検索なんてとっくに済ませてるもんです。
そのうえであなたの意見待ちだったのですよ。
ちゃんと舞台をお膳立てしてましたのにね。

松岡修子
21.200.49.163.rev.vmobile.jp

検索しても誤用に気付けなかったのは、あなたの知能の問題であって、私の責任ではありません。
私に説明責任などありません。ありもしない責任を私に押し付けるのはやめなさい。
卑怯な自分を恥じなさい。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

誤用という判断に立ち至ったからには、誤りの根源を正しく射ることができるはずであろうに、あなたはそれを拒んでいる。
根拠が不明瞭である。正鵠を射さえすればこちらは考えを改める用意はある。それをしないのだから、互いに話は平行線とならざるをえない。それだけの話だ。

松岡修子
21.200.49.163.rev.vmobile.jp

以下が検索結果。
①ある物事に付き従って他の物事が発生することを表す場合に「付随」を使います。「Aが起こって、その流れでBが起きる」という関係です。 このように、自然と発生する事柄があることを「付随」と表現します。
②「付随」は「主たる物事にある物事が関連して発生すること」
③「付随」は「ある物事が他の物事に付き従っていること」という意味です。
④「付随」はある物事が他の物事について起こること」を表します。
⑤「付随」は「ある物事に関連して発生すること」
⑥「付随」は何かに関連して、ある物事が起こるときに使います。
⑦「付随」は自然に起こること・自然についてくるもの

以下はあなたが書いた本文。
>4月になってもテレビではさかんに【サリン事件】に付随して、【オウム真理教】がクローズアップされていた。

この本文の【 】内の語句を①から⑦に当てはめるとこうなります。

①ある物事【サリン事件】に付き従って他の物事【オウム真理教】が発生することを表す場合に「付随」を使います。「A【サリン事件】が起こって、その流れでB【オウム真理教】が起きる」という関係です。 このように、自然と発生する事柄があることを「付随」と表現します。
②「付随」は「主たる物事【サリン事件】にある物事【オウム真理教】が関連して発生すること』
③「付随」は「ある物事【オウム真理教】が他の物事【サリン事件】に付き従っていること」という意味です。
④「付随」はある物事【オウム真理教】が他の物事【サリン事件】について起こること」を表します。
⑤「付随」は「ある物事【サリン事件】に関連して【オウム真理教】が発生すること」
⑥「付随」は何か【サリン事件】に関連して、ある物事【オウム真理教】が起こるときに使います。
⑦「付随」は【オウム真理教】が自然に起こること・自然についてくるもの

これでもおかしいと気付きませんか? あなたが気付けなかったのは、私の責任ではありません。私に責任転嫁しないでください。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

松岡様

詳細な説明をくださいまして、ありがとうございます。
やはりそこですね。すでにわたしが書いた文章――

>わたしは文章に、
>4月になってもテレビではさかんにサリン事件に付随して、オウム真理教がクローズアップされていた。
>と書いています。
>『事件に付随してクローズアップされた。』


【事件(の発生)に付随して】、オウム真理教が【クローズアップされていた】

ということを強調するために二重かっこ(『  』)で示したつもりでした。オウム真理教自体はサリン事件が発生する前からメディアには露出がありました。朝まで生テレビもあったし、選挙への出馬もあったし、お笑い番組への出演もありました。クローズアップされたことこそが、重要で、サリン事件発生以降のメディア、報道番組の報道攻勢はすさまじいものでした。だからこそ、事件を起爆剤として報道各社が競って番組を制作したということを示しました。また、付随という言葉には、主に対する「従」の姿勢がつきまといます。だからこそ、社会を揺るがす事件が起こったことによって、あるいは仕方なく、やむをえず、必要に迫られて、ところてんのように、過剰ともとれる報道が日夜繰り広げられたというその印象も伴いながら、この部分に【付随】という言葉を用いています。違和感のある部分には、その語句を選択すべき事由があります。それを好まない人もあることはわかります。ただわたしはここでは付随をつかうべきという理由があると同時に、付随したのは、報道各社が対象を「クローズアップしたこと」。その過剰なほどの報道合戦のほうにウェイトを置いているのです。

そして作中に、ルーズソックスと、コギャルのことを書いています。これは震災と、サリン事件の重苦しさに耐えきれなくなって、メディアが逃げを打って、軽い物に過剰に入れ込んでいったという肌感覚から来るものを示しています。それは現在の、カワイイの文化であり、オタク文化であり、クールジャパンでありという傾向の萌芽であったと見ています。援助交際のことが話題になりだしたのもこれから以降がほとんどだと思います、つまり、社会が逃げを打っていったはじまりです。

小川
150-66-89-240m5.mineo.jp

そうげん様

『しかたなく憧れて』拝読させていただきました。

決してつまらなくはないのですが、淡々とした描写が続いて、淡すぎて残るものも淡いという印象でした。

こんなこと言ったら「へ?」と思うかもしれませんが、Twitterでつぶやいているそうげん様が自然体で一番良かったように思いました。

私はそうげん様のコメント欄でのやり取りで見られる、少し嫌味を含まれた態度や、毒のある、感情的なそうげん様の文章の方が人間味があって好きです。Twitterで好きな本やゲームのことを嬉々として語っている、文章文章していないときの方がいいなぁと思いました。

作品となると遠くの景色を眺めるような文章になるようですが、目の前のことに夢中になっているそうげん様の文章が好きです。

まあ、3万枚どころか3000枚しか書いてない人間の言うことですから、気にしないでください。

そうげん様の創作者としての態度は、人を惹き付けるものがあります。そのせいか、私のような小虫が光に誘われてやってきてしまうのでしょう。ありがとうございました。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

九丸(ひさまる)さまへ

感想をくださいまして、ありがとうございます。
返信にはもうすこし時間をください。
夜勤から帰ってきてからじっくりコメントを読み直して返信いたします。

夜の雨
i223-216-201-83.s42.a027.ap.plala.or.jp

読みました。
題材はよいのですけれどね、構成が悪いというか何やらだらだらと書いているようで、読みにくい作品になっています。

御作に何が書かれているのかというと。
大学受験に失敗した主人公と、自分たちにかかわった集団(学校)のなかでの「いじめ」と「オウム真理教」が「サリン事件」を起こした「集団」との比較。
主人公については、なるようになるという考えからなのか、目標はあるのだが、それに向かってまっしぐらに進んでいるとは、いいがたい生活を送っている。
日々が無駄にすごされている情景が描かれているので、ある意味「人間失格」にも似た世界観があります。

こういった主人公の生き方と似た生活を送っていて、共感する者も結構いるのではないかと思います。
その根底には小中学時代に集団から「いじめ」を受けていたとか、見ていて救えなかったとか、または、自分もその集団の中にいたとか、が、背景にあり、それと「サリン事件」を起こした「集団」とを比較している。
この比較に何の意味があるのかというと、世間を騒がした大事件と主人公たちの生活レベルの重大事件(いじめ)が、大なり小なり、「人間が起こした事」というレベルでは似ているのではないかという話。
主人公たちは、「いじめ」を身近に感じたわけなのだが、その彼が大学受験に失敗しても目標にまい進することもなく「だらだらと日常を送っている」という「人間失格」のような題材でした。

この作品は、人間を描いていることは確かなので、あとは、少しのアイデアと練りこみ次第ではないかと思います。


お疲れさまでした。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

九丸(ひさまる)さま

感想をくださいまして、ありがとうございます。
先行き不透明。そうですね。この先、どうなっていくのか、見透かすことができない靄の中に生きている主人公たちという感じがあります。でも九丸さまがおっしゃるように、地に足を付けて仕事に打ち込むだとか、ゆるぎない自分を確立するだとかしたのなら、社会の先行きがどんなに不透明で、不安定に見えたとしても、そういう人は強くなれると思います。

現在の自分のありようを、社会のせいにするか、自分のせいにするか、という責任の押し付け合いをしたところでどうしようもないですね。物事にすとんと納得のいく落としどころがほしいからこそ、不安な自分を慰めてほしくて、宗教に向かう人はいまもむかしも大勢いるし、選んだのがたまたまそこだったという人もある気がします。ただ納得の行き過ぎるものにはやはり懐疑の気持ちも持っておくべきでそれを手放してしまうことが、人の弱さを示しているようにも感じました。

選挙は三十代の前半までは行ったことがありませんでした。しかしここ五年ほどは毎回行くようになりました。自分はどこに投票すべきかというのが、自分なりに判断がつくようになってきたからです。

事件は選民思想もあるでしょうし、やはり、自分たちとほかの人たちの間に、区別、差別を設けていたのかなと思う面はあります。また、はじめに拷問で人が死んでしまったことを隠蔽するために罪に罪を重ねていって、のっぴきならないところにはまり込んでいったというのもあったように感じます。はじめはそんなつもりはなくっても、一歩を踏み越えてしまったら、それは後戻りのできない地獄への第一歩となってしまっていた。ということを思います。

たしかに自分が変われば、まわりも変わってくるように感じます。

>自分の足で立っている人は強い。そして、不思議と助けてくれる人も集まってくるような気もします。そうすれば視界良好になるはずと思いながら読みました。

とてもいい言葉だと思いました。


スマホバカのことですが、これを書いたときに、そういえば、パリでは当時、ギロチン処刑は見世物になっていたし、やっぱりそういうのを見るために人が集まってきていたというのを読んだことがありました。人の死は娯楽になるということでしょうね。わたしはまだまだしたいことがたくさんあるから、死にたくないし、殺されたくないし、だから、他の人もそういうものだと思うから、死なせたくないし、殺されることにないようにと願いたくなります。

では、ありがとうございました。
本年もよろしくお願いいたします。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

小川さまへ

読んでくださったのですね、ありがとうございます。
書き方が淡い、浅かったのでしょうね。淡々と書かれてあるという、たしかにわたしも前回コメントを書き込んでから自分でも読み直してみました。後半になるにしたがって、物事の進行だけを書いている感じがあって、舞台を立ち上げるように、言葉を重ねることを怠っているように感じられました。自分の作品なのに、どこか他人事のように書いていますが、もっと言葉を費やして、深く書ければよかったなと思いました。

ツイッターはネガティブなことより、ポジティブなことを取り扱おう、書くときの気持ちもポジティブなものを押し出そうという気持ちで書いていたりします。なので、これが好きですとか、これがよかった。こんなことがあった、みたいなことが多くなります。反対に、非難したりすることを少なくするようにしています。どんな文章でも自分の書いたものにちがいはなくて、小説よりも、ツイッターのほうがいいという意見も、わたしは素直に嬉しかったりします。ありがとうございます。

小説となると、遠くの景色を眺めるような文章になる。堅苦しい書き方にもなっています。頭を小説モードにしないという警句を、いぜん、作家さんの創作メモで見かけたことがありました。小説を書くときは頭が小説モードになってしまっているのでしょうね。ふだんの自分の書き方で、肩ひじ張らずに書けるといいのですが、全身、防衛モードで書いていることがよくあるので、気を付けないとと感じました。

読んだという報告をくださって、うれしく思いました。
ありがとうござます。

小川
150-66-65-75m5.mineo.jp

そうげん様

何度もすみません。普段はあまりコメントはしないのですが。

>誤用という判断に立ち至ったからには、誤りの根源を正しく射ることができるはずであろうに、あなたはそれを拒んでいる。根拠が不明瞭である。正鵠を射さえすればこちらは考えを改める用意はある。それをしないのだから、互いに話は平行線とならざるをえない。それだけの話だ。

これ、いいなと思いました。こういった短いコメントの中にそうげん様の見識や人間的な魅力が詰まっているように感じました。

心を砕いて創った作品よりも、コメントや呟きの方がいいといったら気を悪くされるのではないかと懸念しましたが、怒られなくてよかったです。

私がはじめにそうげん様に毒づいた内容を優しく言っているだけで、伝えてみたかった内容は何も変わってませんが、よく哲学する人は、哲学をやめたときに、いい具合に発揮されるのだと思います。そうげん様が目指していらっしゃる方面の真逆を勧めているので心苦しいですが、ゲーテも、シラーが哲学をやめたときの手紙が一番美しかったと言っていますし、そうげん様も同じタイプのように見えます。

小川
150-66-65-75m5.mineo.jp

>人はどんな風にもなることができる。どんな行為だって、心持ちひとつで突き進んでしまえる自在さを持っている。その自在性ゆえに、適度に綱を引いて主体を制御することのできる自制心こそが成熟した大人には求められる。引き絞るべき手綱が本性に対して機能していなかったのではあるまいか。手綱を握るということ自体、おざなりにされてしまっていたのではあるまいか。

これより、

>人の死は娯楽になるということでしょうね。わたしはまだまだしたいことがたくさんあるから、死にたくないし、殺されたくないし、だから、他の人もそういうものだと思うから、死なせたくないし、殺されることにないようにと願いたくなります。

こっちの方がいいと思うのは私だけではないはずです。パァーっと開けていくような感じがあります。

小川
150-66-65-75m5.mineo.jp

ほんっとーに、自分でも偉そうだなぁと思いますが、

エネルギーがある文章と、ない文章、
悪い言い方をすれば、生きている文章と死んでいる文章、文章の中に、光があるとき、ないとき、私はそうげん様の文章を見てすぐにわかってしまいますが、鬼のように文章と一緒にいるそうげん様が、ご自分で気づかれていないのはもったいなく思います。

オウムやスマホバカについて皆に投げかけて、難しく感想を考えるよりも、よく目を凝らして、どれが光っているか、いないのか、つぶさに研究されて欲しいなと思いました。好意的に受け取ってください。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

小川様へ

いまのところ、小説の文章は、自分の生き方にくさびを打ち込むような感覚で、苦行のように書き込んでいる姿勢が自分にあるから、ああいう形になってしまってるんだと思います。ふだんの生き方がかなり前向きなので、書くものについては地歩を固めるというか、かなり慎重に、自分を縛ってみたり、がちがちにしてみたり、ネガティブに近い物を含ませながら、自分にセーブをかけながら書いているという意識があります。

小川様の意見はわかるところがかなりあります。また自分が心の奥に秘めている部分のいいところは、ぜんぜん出す気が無いから小説はああいう形になってしまうんだと思います。弱い部分も微妙な部分も臆面なく出せればいいのですけど難しいですね。

日乃万里永
KD106160080156.ppp-bb.dion.ne.jp

拝読させていただきました。

人が皆、我慢をやめて、やりたいことをしようとすると、幸せになれる。

この頃ユーチューブのスピリチュアルに嵌っていて、誰もがそのようなことをおっしゃっています。

私も、確かにそうかもしれないと思います。
人間は不満には耐えられるけれど、不安には耐えられない。と言います。
不安に襲われるまで我慢し続ける人が立派だと言われますが、本当は間違っていて、不満を不満で終わらせてはいけないのです。
けれども現状はなかなか打破出来ず、おいそれとその環境から抜け出す勇気は誰にもありません。
我慢できるならば、不満を漏らしながらも現状に甘んじる人が大多数です。
私も私の家族も例外ではありません。 
けれども救いはあります。
今の若い人たちです。
今の若い人たちは、我慢をせずに本音をぶつけてきます。それでもまだ少数かもしれませんが。
会社は定時で退社し、残りの時間は自分の好きなように過ごす。無駄なことは極力はぶき、効率を優先する。
昔の人は、そのことに眉を顰めるかもしれませんが、そういう人たちがもっと増えたなら、きっと世の中は変わって行くと思います。
なので私は、まだまだ救いはあると思っています。

今はまだ、昔の考えを持った人たちのほうが数多く、なかなか若い人たちの考えを理解してもらえず、我慢しなければならないことも多いかもしれませんが、それもいずれ変わっていくと思います。

誰も、決して世の中の情勢に無関心なのではなく、まだそれを動かす力がないだけなんです。

読ませていただきまして、いろいろと考えさせていただきました。
ありがとうございました。 

水野
i114-183-75-23.s41.a012.ap.plala.or.jp

かくいう私も、小説の語りと普段インターネット上で用いている語りとが乖離している自分自身に大きな疑問を抱いていました。そこで書かれたのが『金髪エルフの美少女』という小説で、これは普段自分が用いている批評における文体をそのまま、小説の文体として採用したらどうなるかという実験でした。
何かしらの答えを出すというより、一つの問題提起として書いてみた次第です。どう受け止めるかは各々の読者に完全に任されていますし、「作者としての私がこの作品を一番に理解しており、あるいは誰よりも先にこの作品を読んだから、私の意見はおそらく正しい」というような優越権に浸るつもりもありませんので、これ以上自作品に関して語るのは止めなければなりません。
ただ、感想欄のやり取りを見ていて、私はすでに3ヶ月前にその手の乖離は乗り越えようとしたことがあったので、ある小説について感想を語ろうとする時、もっと先のところまで語れやしないだろうかという思いばかりがありました。

まず言えるのは、この小説が物語の体を成していないということです。良い意味でも悪い意味でも、どちらと捉えてもらっても構わないわけですが、「センター試験の翌日に震災が発生した。」という切り抜きの一文がまさに、物語の成立していない様子を如実に語ってしまっています。
「センター試験」と「震災」は、普遍的に繋がるものではありません。それはほとんど一回きりの繋がりで、小説内部とは別のところに、その繋がりの根拠を有しています。作者本人のものか誰かから聞いた話かは判断ができないわけですが、小説内で流れているであろう時間とは別の時間のところで、「センター試験の翌日に震災が発生した」という出来事そのもの、もしくはそれに似た出来事を体験した人間が確かに存在する。そうした現実存在が、ただ存在するという理不尽な根拠によって、「センター試験の翌日に震災が発生した」という一文が成立しえているわけです。それは物語ではなく、歴史に属することになります(歴史自体、理不尽な出来事の集積です)。
「理不尽な」というのはここでは二重の意味を託されています。なぜそれが起こったのか、出来事が起きた後に推論することしかその根拠を見いだせないことが歴史における理不尽さですが、歴史に属する出来事が、あたかも物語に属する出来事であるかのように小説において語られてしまうという理不尽さです。
読者としての私は、「センター試験の翌日に震災が発生した」そのものあるいはそれに似た出来事を、現実世界で体験していません。小説という媒体は、物語という形式を用いてその手の不可触性を取り払える力を有しているわけですが、先ほども申したようにこの切り抜きの一文は物語の体を成していません。物語であれば、語りの内部にその根拠が見出されてしかるべきですが、読んだところ根拠がなく、求めようとしたら、小説外部の現実世界の歴史を参照するしかないからです。

物語小説というより歴史小説に属する本作ですが、語り方としては一人称視点が採用されています。読む人によっては仰々しいとまで映りそうなこの文章表現は、本来であればまったく問題にはならないはずですが、主人公の年齢が18歳であるという事実がこれを主題化させ、ひいては語りそのものの問題を可視化させます。
前提として、「小説という物語におけるその人らしい語り方」というものが確かにあります(話し方、ではなく語り方)。小学生が語り手であれば、あまり難しい漢字を使わせるべきではないだとか。逆説的な例として、語り手が女性だった場合、「~なの」「~だわ」みたいな古くさい女言葉を避け、ごく自然な風に語らせるべきだとか。
本作の場合ですと、主人公は18歳です。これは微妙な年代であり、本作で採用されているような語り口がよしとされる場合もあれば、絶対にありえないと断固拒否する読者もあるかと思われます。
もちろん小説ですから、達者な日本語を解する猫を語り手にしても一向に構わないわけです。しかしあれが面白いのは、自分という猫が達者な日本語を解しているという事実を、自分自身がまず面白く思っているらしいことが、読んでいてわかるからです。「俺は猫なんだ」と信じようとするあまり、タイトルと冒頭に『吾輩は猫である』と言わせてしまう、その滑稽さが痛快だからです。
もちろん作者自身が猫であるわけがありません。同じように、『わたしのピングドラム』の作者も18歳でない可能性が高いでしょう。現在、私の頭の中にはVTuberというコンテンツが念頭にありますが、あれの面白さは『吾輩は猫である』を読む時の面白さと同質のものであると私は考えています。どちらも一種のロールプレイングであり、その場その場の出たとこ勝負という側面が強い。たまに滲み出てくる「中の人」自身の情報を、ああでもないこうでもないと、作者の手を離れたところで鑑賞者が勝手に考察する。
本作では、その手の面白さが取り払われています。作者が主人公と違う年齢であれば、自分とは年の違う人間を小説の主人公として語らせる、その驚きと滑稽さが本作にはほとんどないかと思われます。であればこそ、語り手と作者との近い距離感を意識せざるをえない。往々にしてあるように、語り手の権利を問題としているにもかかわらず、あたかも作者本人の権利が問題視されているかのように読まれてしまう一因です。

書き手としての私は、むしろ「サリン事件の報道が面白いと言っている女の子」にこそ興味を覚えます。なぜなら彼女は、性別もそうですが私自身とはまったく別の考え方を持っているであろう人間だからです。そして私は、そういう人物をこそ一人称視点の語り手に据え、彼女という人物の正体を小説にすることで暴きたいと思ってしまいます。
サリン事件という事件そのものを面白いと思っているのか、それともそれを報道するメディアを面白いと思っているのか。予想としてはおそらく後者なんじゃないかと思いますが、これは彼女自身になって書いてみなければわからないことです。バ美肉という手段を私はひどく嫌っていますし、私は私で別の目的をもって次の小説を書くでしょうが、そういう道も開かれているのではないかという感想を少しだけ持ちました。

鈴原
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こんにちは。拝読しました。「ピングドラム」とゆう言葉に目がとまって。

面白いと思いました。
なかなか読みづらいとおもったのですが、ローテンションのまま淡々と語られる口調はけっこう好みかもです。
良いと思ったのは、御作は弱いながらも「温もり」が感じられる点と思いました。
多くのアマチュアの作品は、たとえば例で、当ページの並びにある朱漣様の「坂の上の追憶」を読んでいただくとわかるのですが、「温もり」がなく、血の通っていないものがほとんどです。

ただ、御作は読んでいて頭に残りにくい感じがします。つまり文章をたどっていても、気づくと何をいっていたのか解らなくなるような感じがしました。
どうしてか考えたのですが、やはり、文章の並びが基本的によくない気がしました。

また、「わたし」が過去の当時の自身を語っていることを最初から明瞭に示したほうが分かりやすいのではと思いました。

たとえば、冒頭、わたしならどうするだろう。勉強のために考えてみました。
たとえば、書き筋やテンションを変えないように書くと、

 その日、夜が明けると積雪が膝丈にまで達していた。それは当時大学受験生であったわたしにとって、ひとつの時代の終わりを象徴する出来事の前触れであったのかもしれない。
 当日、わたしはセンター試験を受けることになっていたのであるが、試験会場である地元大学の経済学部のキャンパスまでは当初父の車で向かう手筈であったものを折あしく車検に出していたために父から四駆でない代車では雪道の運転は不安だと告げられた。一方わたしは当事者であるにも係わらず、なるようにしかならないのだと、むしろどうでもいいとまでうっすらと考えていた。半時間ほどして、いったいどのように連絡が伝ったものなのか近所の疋田さんのご主人が車で送ってあげますよと申し出てくれた。母はしきりに頭を下げながら、すみません、助かりますを連呼し、わたしも申し訳程度にありがとうございますなどと自分なりに心を込めた言葉を口にしていたと思っていたのだが、いま考えると多分ほとんどうわのそらであったような気がする。勉強に打ち込むこともなく、適当に試験受けて、相応の点数を取って、そのうえで願書さえ出せれば後はなんとかなると、そう考えていた。窮極を言えば、センター試験に間に合おうが間に合わなかろうが、さしたる問題ではなかったのだ。間に合わなかったら間に合わなかったで別にかまわなかったのだ。
 雪道を車で送ってもらうときに、疋田さんとの間にどんな会話が持ち上がったものか、もう憶えていない。わたしはこれまで疋田さんの家族とは個人的な交流はなかったし、そのとき実のある会話をしたかも自信がなかった。わたしといえば高校の三年間に他の家の車に乗せてもらうとゆう経験は一年に一度あるかどうかくらいだったし、疋田さんとは特に何も話すことがなく、わたしは車内で貝のように押し黙って、車窓から雪景色を眺めるだけであった。ほとんど言葉を交わすことのない受験生のその態度に、ご主人はどのような印象を持ったであろうか。ただ、車内はほどよく暖房が効いていたことはよく記憶している。今にして思えば、その適度な暖かさは疋田さんの優しさであったのかもしれない。そういえば疋田さんの発言でひとつだけ憶えていることがあった。こんな言葉だった。


などのように書くかもです。

鈴原
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失礼します。「ピングドラム」についてもありました。

今やオウムは本当に過去の話しなのかもですが、さまざまな作品、もっといえば一流の方の作品にまで影響与えた事件でったなと思えました。

オウムそのもがモチーフになったものや、要素の一つとして盛り込まれた作品ですぐに思いつくものは、
大江 健三郎の「宙返り」や村上春樹の「1Q84」(ノンフィクションは除外して)があるし、
サリン事件そのものをモチーフにしたものは、野田秀樹の「ザ・キャラクター」や御作の題名にあった「輪るピングドラム」などがありました。
なんだかんだいってもオウム事件は作品のモチーフとなりうる存在としては大きいものであったのだと感じる次第でした。

なかでも「輪るピングドラム」のすばらしさは他を抜きん出ているように思います。
「1995」とゆう「その日」をピクトグラムで示し、当時事件のあった路線とそれに係わる町を舞台に演じられる悲喜劇など。

良いと思えたのは、対象が「子どもたち」であるとゆう点で、あの1995年の事件の加害者の子どもたちを主人公にすることによって、この作品が深いものであったと思いました。
また、オウムの子どもたちが実は最大の被害者であり、さらにそれを通して現在の日本の子どもそのものが実は「オウムの子どもたち」であったと痛烈に批判しているところは卓越しているよに思いました。
しかし、加害者の子どもたちは、最大の被害者でありながら、彼らは最終的には馬鹿な親たちのように恨みや怨念を取るのではなく、「救済」を選択する。
その救済の表現は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をモチーフとしてもう一枚の救済のレイヤーが重ねられてるところがすばらしいと思ったのです。

作者様はどんなものなのでしょうか。

夜の雨
i223-216-201-83.s42.a027.ap.plala.or.jp

鈴原 さんの「感想」『失礼します。「ピングドラム」についてもありました。』を読んで、そうげんさんの「執筆の狙い」
>『輪るピングドラム』というアニメが大好きです。<
という意味が分かりました。

『輪るピングドラム』については、ウィキペディアで調べてから、私は、御作の感想を書いたのですが、ウィキペディアでは、「サリン事件」と関連しているようなことが具体的に書かれていなかったので、『輪るピングドラム』を頭において御作が書かれていたとは思いませんでした。
というか、『輪るピングドラム』というアニメも、ウィキペディアに書かれている内容では、面白さが伝わってきませんでした。

鈴原 さんの「感想」に書かれている。

>なかでも「輪るピングドラム」のすばらしさは他を抜きん出ているように思います。
「1995」とゆう「その日」をピクトグラムで示し、当時事件のあった路線とそれに係わる町を舞台に演じられる悲喜劇など。<

これを読んで、『輪るピングドラム』というアニメの内容がわかると同時に、作品を書くときに、大きな事件と関連付けて書くと、時代の生き証人のようで、それはそれで、面白くなるなぁと思いました。
まあ、戦争とかになると、事件などとは別物になるかもしれませんね。
個人や一組織が起こす事件と国家レベルとは、それを背景に創作するのは、別物のような気がします。

ということで、私が先に書いた感想は、 そうげんさんの「執筆の狙い」『輪るピングドラム』というアニメが大好きです。
は、まったく、頭に入っておりません。
純粋に、御作を読んでの感想になっています。

以上です。

そうげん
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夜の雨さまへ(――2020-01-08 20:26のコメントへの返信です)

二十年ほど前に刊行された村上春樹さんのインタビュー集『約束された場所で』を、この短編「わたしのピングドラム」を書き終えてから、読みはじめることにしました。信者、元信者へ村上さんがインタビューされて筆記された本なのですが、いったん自分ですこし踏み込んだことを書いてみたことで、それほど強い抵抗を感じることもなく読み進めることができています。

集団を形成するにしても、自己を喪失してしまうことによってどんな危険がもたらされるか、について注目してみたくなりました。「いじめ」が始まったところで、はじめの一人の、やめとけよ、のセリフがほぼ出ない。ブレーキを掛ける役目を果たす人がいない。教師への直談判を決行しても、あいまいな対応しかすることなく終わるから、いじめはさらにエスカレートする。

事件化したから集団が危険だと認定されることになったけれど、学校でも、会社でも、ひとりをその他大勢で追い詰めていく行為には、見過ごせない暴威があると思います。しかしその圧力にどのように対峙していくかという点において、人生について一種投げ出してしまっている、投げやりであるところが、この小説の主人公にはあったように思います。だから、太宰の「人間失格」のような題材という風に、夜の雨さんも受け止められたのかなと思いました。

主人公や圭介が経験した「いじめ」と、宗教集団の起こした「事件」を同等に扱うつもりはなかったのですが、ただ、集団と個人の関係については、人間の生き方という点において、本質的に同一視することのできる部分があると思っていて、そのために依存の関係にあることなどを作中、主人公に語らせもしました。つぎにこの種の題材を扱うときには、構成もきっちり絞りたいと思います。

がっつり描くのであれば、既存の固有名詞も使わず、フィクションとして別の設定で書きたいと思います。人間を描いていることは確かと書いてくださったことはありがたいです。たぶん、人を描いている、人を描いているという評を言葉でしっかりもらったことは、はじめてかと思います。ありがとうござました。

ピングドラムの関連についての返信は、書き込みの回をかえて書かせていただきます。

そうげん
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日乃万里永さまへ

万里永さん、あけましておめでとうござます。
読んでくださいまして、ありがとうございます。

我慢しなければならないことが多すぎると、不満がオーバーフローしてしまう。
気持ちが揺らいで、これでいいのだろうかと、不満は不安になる。

きょうも(というか数時間前ですが)、夜勤中に、わたしが読んでいる「約束された場所で」という村上春樹さんのインタビュー本の話を仕事の先輩にしていて、若かりし頃に遭遇した宗教の勧誘話だったり、極道の系統の人との軽い関わり合いについて聞かせてもらってました。

どうしてこういう事件が起きたんだろうということを、世間話レベルですけど、ちょっと話していて、それで休憩時間の大半を雑談で埋めていたのですが、誘う人はやっぱりそこらにけっこういて、セミナーだったり、道場だったり、そういうのが、わたしの住む近辺にも知らないだけでけっこうあるんだと知って、すこしびっくりもしました。いまの生き方に不満や不平や、あるいは不安を抱いている人がたくさんいて、その不満、不平、不安を解体することができるように見える、そういう効用があるとうたって、勧誘もするというのはよくある話でもあるようです。

でも最適なのは、自分自身で、そういう不満なり、不安なり、不平なりを解消できることだと思います。やっぱり我慢しすぎているんだと思います。

>我慢できるならば、不満を漏らしながらも現状に甘んじる人が大多数です。

わたしもどうにも我慢ならないことは考えないことにして、スルーしています。そのうえですべきこと(仕事等)に打ち込みながら、その分、満足に執筆の時間、読書の時間が取れないことに関してだけ、いまは不満を貯めているのです。

>今はまだ、昔の考えを持った人たちのほうが数多く、なかなか若い人たちの考えを理解してもらえず、我慢しなければならないことも多いかもしれませんが、それもいずれ変わっていくと思います。

変わる部分と変わらない部分があると思うけれど、以前よりは確実に良くなった部分はあると思ってます。すでに若い時期はすぎている年齢なので、できるだけ良い変化に自分の気持ちを馴らしていけるように心掛けたいと思います。

夜に働いて、朝昼は自由な時間があるという昼夜逆転生活は面白くもあり、それなりに満足している現状だったりします。いまあるものにできるだけ満足を見出し、そのうえで、こうであればいいよなという希望を失わないままに生活を続けていきたいと思ってます。

万里永さんもこつこつ書いていらしたのですね。
ひさしぶりに御作を目にすることができて、うれしかったです。
こんど、感想をつけさせてください。
ありがとうございました。

御廚年成
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あけましておめでとうございます。
貴兄の御健筆と御健勝をお慶び申し上げます。


さて、御作のファーストインプレッションですが、「もったいない」でした。

御作は、「受験」「就職」に悩む少年を描く作と思いますが、この二つの結び付きが希薄な気がします。少年たちの日常を描画するのみで、受験に失敗し目標を失う少年と浪人間をアルバイトで過ごす葛藤がリアリティーを持って感じられませんでした。


私自身、3流私大の付属中からの内進でしたので、受験について興味を持ったのですが、短く、肩透かしのように感じました。
また「就職」についてもOBからの引きで何となく決まってしまい、葛藤や苦悩のようなものを持っておりませんでしたので、この部分についてももっと掘り下げて欲しかったと思います。

益も無い事を申し上げました。
本年も変わらぬ御健筆と御健勝を重ねて祈念申し上げます。

そうげん
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水野さま

あけましておめでとうございます。すでにツイッターでやり取りはしてましたが、改めて言わせてください(そちらでは言ってませんでしたし)

語り手の視点と、書き手の視点と、主人公の立ち位置と、この三者のバランスが語りのレベルにおいて乱れている、特に年齢にそぐわない書き方がなされているのではないかという指摘として読み替えて受け入れるところからはじめました。

たしかに書いているときに、書き始めからして、書き手の側の気持ちとしては高校卒業して数か月というあたりを想定して書いてはいましたが、わたしの安直さでもあります、どこかそのあたりの出来事をぐわっと総括してしまっている傾向が出てしまっているようでした。

>同じように、『わたしのピングドラム』の作者も18歳でない可能性が高いでしょう。

そうですね、センター試験の二日目の翌日に震災が起こった、はわたしの同級生たちが等しく経験した事実であったりしますので、まさしくこれは歴史の側に属する事柄でした。

>前提として、「小説という物語におけるその人らしい語り方」というものが確かにあります

わたしは18歳の時には自己を語る、あるいは内面を語る言葉を持ち合わせていなかったので、当時は自分の言葉がなかったといえます。それから以降の年齢になってこしらえていった文体によって語るしかできないでいます。18の年齢を、いまの年齢の自分がどのような形式を採用して語っていくか、物語の手法の問題であり、ナラティブの採用についての問題だと思いました。今作はそこが不用意なままに書き続けられてしまったということなのでしょう。

このまえのツイートでも書きました。村上春樹さんは書くことがコンピュータのゲームを自分でプログラムしながら、自分がプレイヤーにもなっているようなものだという内容を文章に書かれていたと。VTuberと「猫」を同じレイヤーで語れるのが現代ならではだと思いますが、書くこともやっぱり一種のロールプレイングとしてみなせるとわたしも思います。現実とか歴史的なものを不器用に導入したことによって、語りの世界が奇態なものになってしまったということだといただいたコメントを読みながら感じました。

「サリン事件の報道が面白いと言っている女の子」は、そのあと、突っ込んだ内容もいくつか話してもらったことがありました。個人的にすぎるからやめてしまいましたが、「七三一部隊」のことも詳しかったので、その方面からの関心もあったのだといまでは思っています。(それでも肝心の部分は知らないままなのですが)それもこみで、想像を駆使して外部の視点から迫っていくというのは、小説の試みとしてありなようにも思いました。

今回水野さんのコメントを読んでいて、知らない言葉が出てきました――「バ美肉」です。検索したら、すとんと納得いきました。のじゃの人、わたしは当時面白いと思って見ていた人だったので、水野さんとはちがった意見を持っているように思います。ただボイチェンの声は苦手です。むしろ、ラジオで育った世代なので、ビジュアルはなくて、声だけのほうがいいと思うこともあります。物語も、ラジオドラマ(青春アドベンチャーやFMシアター)で聴いたものもいくつもありました。基本、耳から入ってくる音や声が好きみたいです。

かつては女性を主人公に据えた一人称小説も書いてましたが、さいきんはあまり書かなくなりました。ロールプレイングという点では、MMORPGで、絶対に敵を一体も倒さない平和主義者の女性キャラというのをやっていたこともありました。ごく親しい知人だけに正体を明かして、あとはずっと中の人も女性という設定でまったくばれずにチャットばかりしていたというプレイ活動もありました。それはセカンドキャラで、二窓をして、ファーストは戦場で戦いまくってましたけど。これも小説を書く前段階のことで、かなりの勉強になりました。

バ美肉という言葉からそんなことを思い出しました。

コメントをくださいまして、ありがとうございました!

そうげん
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鈴原さま

こんにちは。コメントをくださいまして、ありがとうございます。

「温もり」を感じてくださいましたか。うれしい言葉です。これまでにわたしがいただいたことがないタイプの感想なので、その点からも、今回はいままでとはちがった部分でひとつの要素が達成できたのかなと思えました。その代わりに、アンバランスな点が多いことは他の方のコメントにも複数見えているので、反省すべき点だと思っております。

内容が頭に残りにくいということ。細かな点では語順や、取捨選択の問題があるようです。それ以上に、これだけ短いものならば時系列で書いた方がすっきりするということかなと、書き直してくださった構文を読ませてもらいながら考えました。あえて書いて示してくださったことに感謝を申し上げたいと思います。手間をとってくださり、ありがとうございました。

オウム事件については、それをモチーフとして多くの作品で扱われてますね。少し前にようやく高橋和巳さんの『邪宗門』を完読しました。『燃えあがる緑の木』だったり、『1Q84』だったり、『宙返り』も読みました。終末思想をわたしたちの年代に植え付けたのは、マガジンに不定期連載されていた「MMR」のマンガが大きかったと思います。ノストラダムスとか、本気なのか冗談なのかわからないレベルで、日常会話のなかで盛んに不安を煽り立ててる同級生とかいましたし。

「輪るピングドラム」は、わたしは構成、配置、配色、音楽などのセンスに魅せられているほうが大きかったです。テレビ放送当時、毎週見ていたのですが、毎話、観ているうちに頭の中がハテナ(?)で一杯になってしまいました。三年ほど前にブルーレイボックスを買って、それ以来何度も観ています。加害者側の子供として、また、こどもブロイラーの存在や、なにものにもなれないや、それでもどうすればいいんだと悩んでいる姿が画面に映るたびに遣る瀬無い気持ちにさせられます。

鈴原さんの今回のコメントでとても気になった、《現在の日本の子どもそのものが実は「オウムの子どもたち」であったと痛烈に批判しているところは卓越しているよに思いました。》という言葉を見たときに、軽い脳震盪を起こしたような感覚をおぼえました。

わたしは何度見ても、いまだに自分の中にこれという見方が定まりません。りんごの半分を割って相手に与えるというモチーフが、しっかりと自分の中に入ってこないのです。大切に思う人と気持ちを分かち合うこと、これなのかと思うけれど、キリスト教のことを考えるとわからなくなってきます。でも、なんとなくぼんやりとらえているその見方でいいのかなと思いながら、何度も見てしまいます。

数か月前にようやく『ユリ熊嵐』のブルーレイボックスを買いました。まだ全部は視ていません。『さらざんまい』は仕事のために1クールの中の、途中の一話しか視られませんでした。たぶん、幾原さんの監督作品が好きなんだと思います。それはゲームでいえば神谷盛治さんだし(ヴァニラウェア社長)、小説でいえば村上春樹さんなのだと思います。クリエイターとして尊敬しているということだと思います。

>作者様はどんなものなのでしょうか。

と訊いてくださったのに、あいまいな書き方をしてしまいました。
わからない部分が多いから、繰り返し同じ作品を体験するのだと思います。
ありがとうございました。

そうげん
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夜の雨さま

再訪してくださいまして、ありがとうございました。
返信が遅くなってしまい申し訳ありません。

『輪るピングドラム』は地上波での放送当時から、毎週、放送が終わるたびに、むしろ放送を視聴中にいくつものハテナ(?)が頭の中に一杯になりまして、混乱しながら2クールの物語を見ていました。作中には、村上春樹さんの短編「かえるくん、東京を救う」のオマージュとして描かれ図書館のシーンもあり、事件と同じく95年に起こった震災についても暗に示していることがわかります。

おりしも、今日で震災から25年が経ちました。わたしは震災の起こったとき、その15分前に目が覚めて、遠くの方からごごごっと低い音が近づいてくるのを聴いてました。揺れはそれほど強くありませんでしたし、よくあるものかと思いましたが、センター試験の翌日で、学校は行かなくてよかった日だったのかな。ちょっともう記憶もあいまいです。電車通学だったので、東海道本線が動いていたかどうかも覚えてないから、たぶん、休みだったんだろうなと思うくらいです。

>作品を書くときに、大きな事件と関連付けて書くと、時代の生き証人のようで、それはそれで、面白くなるなぁと思いました。

わたしにとっては、社会的な事件を作品に書くという事自体、いわゆるタブー視している面があって、これまで書かずにきたことが多かったのです。ただ一年前に公募に出した作品ではじめてサリン事件という言葉を書いたこともあって、これまで書かなかったところまで踏み出してみようと思って、この作品を書きました。見ようによってはぜんぜん浅いのでしょうけれど、これまで書かないでおこうと思っていたことを書き始めてみようと考えられるように変化してきたことを自分としては喜びたいと思っています。

そのときに自分も同時代人として別のところでちゃんと生きていたんだという事を、書くことによって確かにしておきたい気持ちが、わたしにとっての執筆の動機となっているようです。ほんとうはひとりひとりのなかに、その事件に接しての思いというものがあるでしょうから、あまりに行きすぎたり、あまりに余計なことだったりに、書くものが偏しないように気を付けながら、これからもいろいろ書いてゆきたいと考えています。

「執筆の狙い」は特にこの作品を的にして書いたものではなく、書きながら結びのほうの言葉――

《なんにもできていない、なんにもなれていない自分に苛ついていいのかどうかすらわからない。》

の言葉が出てきた所以ですが、

『輪るピングドラム』の作中、こんな言葉があるのです。

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる」

この言葉を借りて、先の《 》の部分を書いたことから、「執筆の狙い」にピングドラムのことを書いたのでした。ともあれ、夜の雨さま、コメントを二度もくださいましてありがとうございました。

そうげん
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御廚年成さま

受験について、就職について。
たぶんレールを思いっきり踏み外した人生の道行きを進んできたので、これを題材に書けば、順当な道を進んできた人には、えらい奇怪なことになってるなとわかってもらえるかもしれないと感じています。

今作のねらいはそういった部分にはあまり重きを置いていなかったために御廚さまには満足していただけない部分が多々あったのだと思います。

高校の時分にたしかに自分で思っていたことです。このまま順当に大学、就職、結婚、そういう道に進むことが自分に最適な道とは思えない。あえて逆張り、逆張りで、行けるところまで突き進んでやろう。どうせ、命はひとつきりだし、自分に対して無責任に振舞いながら、どこまで行ってしまえるものか、ひとつ試してやろう。掛け金はこの命ひとつで十分だろう
、みたいなことを高校生のころにうすうす考え始めていたようです。でなければ、授業があるのに、二時間目の始まる前に保健室に行って、気分が悪いので帰ります、なんてことをいってないはずです。

いまもその行為は自分の中で正当化されているので、過去に後悔はほとんどありません。まあ、そのために現在でも非正規労働で、毎回夜勤で肉体労働ですけど、いまの仕事は運動不足が解消できてなかなかおもしろくもあります。

たぶん、身体が動く限り、かなりの年齢になっても労働はしてゆくことになるのでしょうが、自分の周りに用意されているもので、満足しながら、書きたいものを書いていく人生を維持してゆければ、それが自分にとっての幸せであるのかな、なんて思ってます。

コメントをくださいまして、ありがとうございます。
また機会があればご指摘をくださいませ。

カリフラワーの存在価値について考える人
dhcp.nipne.ro

そうげん様

 最初に、私の作品に頂いた感想にたいして返信が遅れましたこと、まことにお詫び申し上げます。また御礼申し上げます。その上で、忌憚なき論説を論じさせていただくことこそ返礼と思いますので、乱文、どうかご容赦願います。

 傍観者とは、すなわち、人や事象を記号的に眺める術を獲得した者のことを指す。鈍感とか、想像力の欠如とか、そういう次元の話は彼・彼女が当事者になれる資質があるからこそ成り立つものであって、傍観者を決め込んだ時点で、もっと能動的な意味を帯びる。すなわち、他者だけでなく自身をも記号的に扱う(自身の場合は記号的に振舞うといったほうが適切だが)、傍観者は敏感でもなければ鈍感でもなく、想像力がないわけでもなく、ただ、そういうものなのである。
 傍観者を決め込むことの醜悪、それを傍観的な立場で糾弾したとて、共感を呼び込むことは元来難しい。ここで注意すべきは、今作において糾弾する傍観者(つまり主人公)はあくまで醜悪に抗う正義の側に属するものであり、同じく傍観的であっても、本質を異とするものであるということである。しかし他方、同じく傍観的であるため、記号的側面を宿し、それゆえ届かないという点で、共通項を持ちうるものである。前に信頼できない一人称と言う言葉を使ったが、この作品も類似の問題を孕んでいる。語り部が過剰に傍観的である瞬間がところどころ存在するため、記号的で届かない、つまり生きた声として読者に響きにくい場面がある(もちろん全てではない)。等身大の考えだったものが、例えば震災を語るときには、妙に一般化され道徳的な言葉に置き変わる。主人公の生の声が、一般性を帯びた完全な中立者の言葉に変じうる。ただでさえ傍観的だった主人公が、傍観者そのものに置き換わる。あくまで傍観的なのは主人公の精神性ゆえである(このことは作品テーマ上極めて重要である)のであって、主人公は傍観者そのものでは決してないし、それどころか、傍観者と堕することを強く忌避するものである。にもかかわらず、主人公の声が、不要に一般化された声に変わり、忌避すべきはずの傍観者視点の見解へと堕するのである。この指摘は、語り部の視点に、『傍観度』という尺度においてブレがあると言った方が、よりシンプルかもしれない。
 もちろん、問題点ばかりがあるわけではない。この小説のひだの部分は非常に細やかだったように思える。主人公は閉塞感を抱えながらも、静謐なふりをして潜んでいる鬱屈や怒りをするどく感じ取っているように思えたし、記号化されることへの嫌悪感は強い問題意識として示せていたように思う。主人公の人生に限って語るならば、当事者にはなれなくても傍観者であってはならないという強い気持ちがあるように思えたし、また、「当事者になれなくても」という点に、主人公の青さやどうしようもない弱さが見て取れるようでもあった。個人的に特に印象的だったのは牛丼屋のシーンである。日常を司るという点でこれ以上ないぐらいに生きているシーン選択であったと同時に、人生の当事者になれない無力さ・むなしさが結晶化されているシーンでもあったと思う。泣きながら笑って牛丼をめいっぱいかっこむ一人の青年の姿をそこに見た気がした。ただ、惜しむらくは、このシーンはもう少しがんばって欲しかった。「おまえ、たまごもつける?」とか本筋とは無関係であって、なおかつ、二人の関係性を補強し、ある想像があたたかさの中で広がるような、そしてどこか空しさへと繋がるような、ちょっとしたシーンを。
 
 忌憚ない論説を論じさせてもらいました。参考になれば幸いです。

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