作家でごはん!鍛練場
u

愛ターン 友ターン 

放課後、部活が始まる前に涼子に屋上へと誘われた。
屋上のフェンスの前に二人で立つ。遥か彼方に四国山脈の山々が曇り空の下ぼんやりとモノクロームの色彩で見える。
九州地方の梅雨明けは昨日だった。四国のそれももうすぐだろう。
「今日、屋上で告白するって言いよったんと違うん?」私は期待感と不安感がないまぜになった言葉を涼子に投げる。
「ジン君もするでしょ告白。予行練習しよ」悪戯っぽく言う。「その前にここでお互いの好きな人の名前あかせへん? 目をつむって、イチニノサンで」私の反応を楽しむように微笑む。
私の心臓は百メートルをマッハ3で走ったようにドコドコと踊る。
意を決して目を閉じる。
二人で声を合わせ「イチニノサン!」
「リョウちゃん!」私の声だけが屋上に響く。
私は「ずるい!」言って目を開ける。
「約束と違……」彼女に向けた非難の言葉はフェイドアウトする。
私の目に飛び込んだ映像。
涼子は右手の人差し指を私の鼻先に突き付けていた。顔には微笑みがあった。

これは後で聞いた話だが、涼子も入学当初から汽車通学で顔を会す私のことが気になっていたのだという。何かの機会に話しかけようと思っていたそうだが、私にも涼子にも、いつも連れ立った友達がいる。それに――と、涼子は言った。「ジン君なんだか冷たい雰囲気というか、クールな感じだった」付き合ってくださいと意を決して言っても、ごめんなさいと即座に断られそうな。
 二年になってクラスが同じになり話をするようになった。
「冷たいと感じていた部分はジン君の落ち着き――大人――上手く言えないけど」よく考え、言葉を咀嚼して外に出す。無責任な台詞は吐かない。そうかといって冗談などこれっぽっちも言わないというタイプでもない。「段々分かってきた。そして好きになった」
 涼子も悩んだのだという。心から私を消し去ろうとしたこともあったそうだ。しかし、そうすればそうしたで反比例して心の中の私が大きくなっていった。やはり私はジン君が好きなのだと思った。
そして初めて二人で駅前の喫茶店に入った。あの時は悩んでいた。落ち込んでいた。
その時の心境が逆に触媒となって、私に対する心を加速させたのかも――と言う。  
あの時、抽象画のような「好き」が具象画のそれになったのだと言う。
「人と人の距離って大事よね。だって同じクラスにならなければ好きになっていたかどうか……」涼子は言った。

 二人は二階の私の部屋に居た。両親は酒屋に出ていて、弟の忠孝はまだ学校から帰宅していなかった。
ベッドの端に掛け、涼子はため息をつく。
「私なんかほったらかし。将来、嫁に行く女の子には興味を持っていないのよ」諦めたように言う。「そのくせ厳しいんだよね。大学は県内にしろって。県外での一人暮らしなんてもってのほか。ジン君、絶対東京でしょう」
涼子の父は開業医だった。二歳違いの弟がいた。父母は男の子に期待をかけているのだという。弟に医者として後を継がせる。弟には小学生の時から、当時としては、そして田舎では珍しい家庭教師をつけていた。
 三年の夏休み前。そろそろ各自の志望校の絞り込みが始まっていた。
私は二年の時から狙いを定めた東京の大学を第一志望としていた。その他の選択肢は考えていなかった。
何となく工学部を志望していた一年生の頃、ある建築家が書いた書物に出会った。今では当たり前のコンセプトだが、その建築家は建造物と人、自然との調和をテーマに据えていた。斬新だった。阿久悠が「津軽海峡」と「冬景色」の間に「・」を打ったぐらい斬新だった。つのだひろが「つのだ」と「ひろ」の間を「☆」で飾ったぐらい斬新だった。著者の手がけた建造物にも心惹かれた。この建築家がいる大学で学びたいと思った。
涼子は県内国立大学が第一志望だった。
両親に懇願した。東京の大学へ行かせてくれと。
父親は聞く耳を持たなかった。母親がとりなしてはくれたのだが、夫に逆らってまで娘の意見を押し通す力を母は持っていなかった。
「ジン君と一緒に東京へ行きたい。私、ジン君と離れるのが怖い」目を伏せ、産まれたばかりの小動物が身震いするようにかぶりを振る。
「大丈夫。俺は東京へ行っても変わらないし、いつもリョウちゃんのことを思っている」私は助けを求める子羊を慈しむように言う。
「そうじゃないの。ジン君のことは信じている。そうじゃないの。私自身が怖い……」好きだから余計。語尾が震えた。
「俺は休みには帰って来るし、電話もする。手紙も書く。何も心配することはない」勇気づけるように言う。
「ジン君はやっぱり男の子やね」寂し気な笑みを私に見せる。「男はいつも空を見ているのよ。私は女だから地面ばかりを、足もとばかりを見ている」
「どうゆうこと?」
「男の目は未来をいつも見つめている。女は今だけを見ようとしている」自嘲気味に笑う。
先程セットしたラジカセからビートルズの曲が小さな音で流れている。二人は黙りこくって聞いていた。二人を残したまま曲は先へ先へと進んでいく。
「ジン君。……しようか」涼子は唐突に言った。声が喉元に引っ掛かり、少しかすれ、目は揺れているようだった。
涼子とは二年生の秋に初めてキスをした。
学園祭の準備で遅くなり、私は涼子の降りる駅で途中下車し、家まで送った。医院の門前で肩を抱いた。唇を重ねた。涼子は驚いたような丸い目で私を見て、やがてニコリと笑った。「また明日」と、言った。それ以来キス以上には進まなかった。きっかけがなかったのかも知れないが。
終わったあと涼子は「ありがとう」と、恥ずかしそうな小さな声で言った。目が濡れていた。
      7
満席だった店内はいつの間にか私達二人と、カウンター席の真ん中に陣取った三人連れだけになっていた。三人連れは先程からプロ野球談議に花を咲かせているようだった。
加賀さんはジョッキの底に少しだけ残ったビールを飲み干し、端月さんも――と言い、二人分のお代りをオーダーした。
「實平局長と、その中倉さんですか。それと端月さん。接点は何もありませんね」私の話を聞き終え、彼は言葉を探すような口ぶりで言う。
「その年の夏休みに九人で一泊二日の剣山登山をしました。その中に私、中倉さん、そして實平さんがいました。接点としてはそれぐらいしか考えられません。それと――」私は中倉涼子と實平さんが中学校の同窓生だったことを付け加えた。
「話の中で、中倉涼子さんがある男の子の告白を断った件。確か中学生の時にも告白されたと言っていませんでした?」加賀さんは斜め上に首を傾げ、遠い目をして考える。「その男の子が實平局長だったとか――」合点したようにひとり頷く。
「分からない。私も聞かなかったし、彼女も言いませんでした。その時、彼女は告白を断ったことを悩んでいた。自己嫌悪とでもいうのでしょうかねえ。でもそれは彼女のせいではないし」
「そのあと付き合い始めたのですよね」加賀さんは言葉を切る。暫しの沈黙のあと、続ける。「振られた男を實平局長だと仮定しましょう。振られた直後に中倉さんはあなたと付き合い始めた。實平さんにとっては大きなショックだった。振られたとはいえ中学の時から思いを寄せていた女性ですから、そう簡単には諦めることはできない。ところが自分が振られた途端にあなたが登場したわけです。逆恨みの要素がないわけじゃあない」ビールを一口飲む。
私もつられてジョッキを持ち上げる。加賀さんが続ける。「だから實平さんの頭の中では、あなたが中倉さんを奪い取った。寝取った。許さない。そんな妄想に発展した。私が聞いたのは、かなり酔っ払っていた時ですから、そんな大袈裟な言葉が出たとしてもおかしくはないでしょう」一応の説得力はあるだろう。
加賀さんは推理を続ける。「昨年、あなたが奥さんと一緒に農業委員会に来た。これ幸いと、立場を利用してあなたに悪さをすることを思いついた」それがあの一連の対応ではなかったのだろうかと、言う。
しかし四十年近く前の話だ。それを今頃になって意趣返しもないのではないか。そんなことをして何の得になるというのだ。あとで舌を出して「端月め! ざまあみろ」とでも言って溜飲を下げたのだろうか。人は色々だから考えられないことじゃあないのだが。
「實平局長ね。去年の忘年会だったか、こんなこと言ってたんですよ。あなた――端月さんのことです。局長、端月さんの奥さんに会ったでしょ」
實平局長は加賀さんをつかまえ「端月の野郎、若い時から美人にもてやがって」そう言ったのだという。
「實平さん結婚はしているのでしょ」私は聞く。
「していたそうです。結婚は遅かったらしいのですが、子供さんが出来て直ぐ離婚した。何でも嫁さんと姑さんの折り合いが悪かったそうです。實平局長、母ひとり子ひとりだった。子供の親権は妻の方に取られ、なんでも養育費は送っていたみたいなことを言っていたような……」母親は亡くなり、今は独り暮らしをしているそうだ。
そんな現状だから、私と妻が仲良く農業委員会を訪れたので、悪戯心が起こりうっぷんを晴らした。そんなところではないかと、加賀さんは言う。「幼稚といえば幼稚なんですが」
私は言う。「しかし酔った上の言葉とはいえ、私が中倉涼子を殺した。いくら何でもそれは言い過ぎ――いや暴言でしょう」涼子は交通事故で亡くなったのだ。それも私と別れたあとで。
「その殺したという話。私ね、端月さんが車を運転していて事故を起こし、同乗していた中倉さんを死なせた――そんな風に考えたのです。しかし……」私はその時も今も運転免許は所持していない。
            8
カウンター席中央の三人連れが出ていき、入れ替わりにサラリーマン風の男が入店した。この人も加賀さんの顔見知りらしく、暫し二人のとりとめのない会話が続いた。
私はひとり涼子との思い出を頭に巡らせていた。

私は第一志望の大学に受かり、涼子も地元国立大学に受かった。
遠距離恋愛はやはりきついものがあった。
電話ひとつとってみてもそうだ。今なら携帯電話でダイレクトに話が出来る。
当時は下宿の廊下の片隅に置かれた公衆電話で、空しくコインの落ちる音を聞きながら、お金の残り額を気にしつつ、近況を手短に連絡し合う。そうするしかなかった。
涼子のいる時間帯を狙って電話をするのだが、いつも彼女が電話に出てくれるとは限らないのだ。二人が付き合っていることを涼子は両親にそれとなく話していたそうだが、涼子の家に電話をする私としては、両親が――特に父親が出てくれませんようにと願いながらダイヤルを回したものだ。
手紙は頻繁に二人の間を往復した。いろんな事柄をお互いが記した。しかし、これも二人が顔を会わせて話し合うことに比べると、喉の奥に刺さった魚の骨がいつまでも抜けないような、鉄の鎧の上から痒いところを掻くような、そんなもどかしさがあることは否めなかった。
休みには帰省し涼子と出来るだけ会うようにした。やはりフェイスtoフェイスなのだ。電話や手紙とは違う。言葉を発しなくともお互いのことは顔を見つめるだけで理解できた。 ただ丸々いっぱい休みを故郷で過ごせるかというとそれは出来なかった。学校のこともあったし、バイトのこともあった。
二人の遠距離恋愛は大学二年の春まで続いた。
そして私は涼子に振られた。
手紙が届いた。別れようと書かれていた。私には信じられなかった。
ずっと愛していたし、これからも思いは変わらないと思っていた。涼子も私と同じ気持ちだろうと思っていた。
電話をした。「ごめんなさい」彼女は湿った声で謝った。
私は、俺が嫌いになったのか。新しい恋人が出来たのか。一体どうしたのだ。矢継ぎ早に質問した。
彼女は「私が一方的に悪い。私の我儘。ジン君は全く悪くない」そう言った。
「会って話がしたい」私は言った。

花は既に散り、葉桜の季節だった。
わたしと涼子はP市の南、四国山脈の麓にある山林公園にいた。
当時としてはよく整備された舗道の両脇に桜木が植えられ、花見の名所として知られていた。桜の終わった今の季節、人影はなかった。
木製のベンチに座った。彼女は淡々と心境を語った。
「別にジン君を嫌いになったわけではない。新しい恋人ができたわけでもない。でも私駄目なの。ジン君が傍にいてくれなけりゃあ。多分、私はいつも傍にいてくれる、いつも私の傍らに立っていてくれる、そんなジン君を好きになったのだと思う。一年間徳島と東京に別れて思ったの。この距離は二人にとっては――特に私にとっては、とてもとても耐えられない距離だって。ジン君が休みに帰省してくれた時、涙が溢れるほどうれしかった。でも東京へ帰ってしまわれると、涙が枯れるほど悲しかった。ジン君に徳島へ帰ってとは言えない。私が東京へ行くとも言えない。私これから何年間かこの状況に耐えられる自信がないの」だから別れてと涼子は言った。
私はどうか思い直してくれ、私の君を想う気持ちは今もこれからも変わらない。たとえ遠い遠い火星に住んでいたとしても、私の気持ちは惑星が太陽の周りを廻るのと同じように絶対に変わらない――そう言った。
「私も好き。だってジン君は私のはじめての男(ひと)だもの。私だってこれからもずっと好きだと思う。でも好きだからこそ別れて欲しい。これ以上付き合うと私、ジン君にどんな無茶な要求を突きつけるとも限らない。だから……」
私は釈然とはしなかった。でも涼子の言っていることも何となくだが分かるような気もした。私だって会う時は嬉しい、反対に別れるときはその何倍も悲しい。できればこのまま東京なんか帰りたくない。そう思う。
話し合いは平行線のままだった。ただ彼女は頑なだった。もう手紙は書かない。電話はしないでと言った。
最後に言った。「ジン君ありがとう。楽しかったよ……。私いつまでも忘れない……」あとは言葉が続かなかった。綺麗な瞳から涙がこぼれた。葉桜が風にサラと揺れた。

彼女の訃報は弟の忠孝からもたらされた。七月の初めだった。
弟も彼女が交通事故で亡くなったことは数日知らなかったのだという。
彼はその頃、高校に通っていたのだが、その同級生から聞いた。その級友は中倉医院の隣の家の子だった。
近所でも彼女の美しさは評判だった。特に若い男の関心は高かった。
「隣のお医者の綺麗な娘さんが交通事故で亡くなった。自殺だったとの噂もある」
弟はその名前を聞いて驚いた。兄貴の彼女!
弟と涼子は何回か会ったことがある。私と涼子が別れたことを知らない弟は慌てて知らせてきたのだった。
私は夏休みに入って帰省した。中倉医院を訪ね線香をあげさせてもらった。仏壇の遺影が寂しそうに笑っていた。悔しかった。堪えようとしたが涙が流れた。
涼子から別れを告げられ僅か数か月。人ってこんなに突然に、こんなに簡単に死ぬのだと思った。
自殺だったとの噂を弟に確かめた。
警察は交通事故として処理しているが、その事故を起こした運転者は彼女が信号を無視し、横断歩道にふらふらと入って来たのだという。夜の人通りの少ない場所で目撃者はなかったそうだ。
「彼女は男に振られて自殺した。あんな綺麗な娘だから、振られたのが余程ショックだったのだろう」そんな根も葉もない噂が一時流れたそうだ。
「俺、兄貴が涼子ちゃんを振ったんかと思うた」涼子に私が振られたことを知らない弟は、私を気遣ってか静かな声で言った。
          9
「私はリョウちゃん――中倉涼子が自殺だったとはその当時も今も思っていません。多分、彼女を轢いた運転者は自分を正当化するために彼女が信号無視で横断歩道に入って来たと言ったのだろうと思います。目撃者もいなかったというし。彼女は自殺をするような人ではなかったと信じています……」
加賀さんは黙って頷く。やや考える風に二、三度うなずいて言葉を発する。
「端月さんのお話伺っていて、私もその中倉涼子さんは自殺をするような人じゃないと思いますよ」いったん言葉をきり、喉を湿らすように残ったビールを飲み言葉をつなぐ。
「彼女は強い人だと思います。自分から別れを切り出したんですからね。これはかなり勇気のいることだと思います。お互いにまだ好きだったんでしょう。嫌いになって別れてしまう場合は、相手に対する嫌悪も憎悪もある訳ですから、その行動をすんなりと自身の心に受け入れることが容易ですからね。好きなのに別れるのはつらいことです。でも彼女は自ら行動した。そこに至るまでに重い心の葛藤があっただろうとは思いますが。……中倉涼子さんは強い女性(ひと)です。絶対に自殺じゃありません!」最後の言葉は私を励ますように強く発声する。
「そうですよね。……でもねえ……。私もね、彼女が別れてすぐに亡くなったのでそりゃあショックでした。彼女が切り出した別れを必死で拒否すればよかった。東京に来いと言えばよかった。私が徳島に戻ると言えばよかった。でもそれは到底出来ないこと――私にも彼女にも。……彼女が今も生きている、最悪でも何年か時間が経った後で亡くなったのであれば、これほど心には重荷として残らなかっただろう。今でも心の隅がきりりと痛い時があります」私は言う。
「お気持ち分かります。でも、お話聞けて良かったです」加賀さんが頷き「私、實平局長が言った、端月さんが恋人を殺したという話が無茶苦茶気になっていたのですよ。その点は安心しました。それにしても實平局長、なんであんなことを言ったんだろう」私の話に対する同情と、實平局長に対する疑問がないまぜになって顔に広がる。暫し考える風をする。ややあって口を開く。
「自殺。事故。……もうひとつ可能性が残されていますよねえ」言って私の目を覗き込む。
「いや。……しかし、それは……」私はジョッキに残ったぬるくなったビールを飲み干す。
「事故は夜中に起こったんですよねえ。なぜ中倉さんはそんな時間に出かけたんだろう。当時はコンビになんて無かったんでしょう。端月さん、彼女がどんな用で出かけたのか中倉さんの家族から聞いていません?」
 私は目を閉じ、その当時の事を闇の中から引っ張り出そうとする。時間が過ぎる。
 頭の中で遠い記憶のかけらが不確かな形で蘇ろうとする。私は口を開く。
「彼女が亡くなった年の暮れに、帰省していた私は彼女の墓参りをしました。その時墓地まで案内してくれたのが彼女の弟でした」
「その時に何か聞いたのですね」
「なぜ彼女は夜中に出かけたのだろうと、たぶん私が弟さんに聞いたのだろうと思うのですが、夜中に電話がかかってきて、直ぐに帰るからと言って出ていったそうです」
「電話の相手は男でしたか女でしたか」
「いや、そこまでは……。当時の私の頭の中では、交通事故だったのだと納得していましたから……。まさかその呼び出した相手が……。」私は加賀さんの顔を見る。
 加賀さんは暫し考える風をして、慌てたように「いやいや。ちょっと考え過ぎてしまいました」と言い、顔の前で大げさに手を振った。顔には笑みが浮かんでいた。
「私ミステリー好きなもので。すみません、今の話は忘れてください。……でも、これで中倉さんが自殺じゃなく事故だったって、はっきりしたじゃあないですか」
「どういうことです?」
「中倉さんが何の用事もなく夜中に家を出たなら、自殺の可能性もあるんですが、彼女は誰かに呼び出され、家族には直ぐに帰ると言って出ていったわけですからね」
「なるほど」私は頷く。
「實平さん県内の大学でしたか? 私同級生なのですが彼の情報は何もなくて」私は思いつくことがあり加賀さんに聞く。
「確か県内の私大を出て、市役所――いや、当時は町役場です。――に入ったと聞いています」加賀さんは記憶をサーチしながら言う。
「ということは……涼子が事故で亡くなった時、地元にいたわけだから、あの自殺かも――という噂を知っていた可能性がありますね」
「ひょっとして、あなたに対する腹いせで實平さんが流したとか」
「いやあ。それはないでしょうが……。こんな風に考えられませんかねえ。實平さんは当時私と涼子が付き合っていたことは知っていたわけですから、男に振られて自殺したという噂を本当だと思った。つまり私が涼子を振って、それが原因で彼女が自殺した。つまり間接的に私が涼子を殺した」
「うん。そのように思った可能性はありますね……」
客は私達二人だけになっていた。
店の前の歩道を行く酔客の話声が引き戸を通して聞こえた。
    10
五月二十五日の農業委員会開催日に間に合うように、伊東書士が裏技で考えた理由書をつけて、保留していた申請書類を提出した。
實平局長は加賀さんが先月言っていたように地域課へ移動となった。課長としての横滑り人事だそうだ。
新しい局長は以前も農業委員会を経験したことがあり、加賀さんの言葉では、酸いも甘いも噛み分けている人だそうで、今度は大丈夫、通りますと、伊東書士を通じ太鼓判を押してくれたのだった。
裏技は伊東書士が考えた。
駐車場の時、蒲池さんが提出したのと同様の理由書を提出する。ただし、その理由書の提出者は蒲池さんではなく私の名義にするのだという。
伊東さんが原案を書いた。
現在違法状態の農地部分――つまり宅地へ入る通路の一部のことだが――私が購入後その違法状態を解消します。おおよそ、そういった内容の文言だった。
違法状態を解消するためには二通りの方法がある。ひとつはその部分を分筆して地目を農地から雑種地等に変更する方法。もうひとつは現状の通路を潰し、公図通りの農地に原状復帰する方法。伊東さん曰く、その二つの選択肢を後で選ぶことが出来るように「違法状態を解消します」と、ぼかして作文したのだという。
「分筆して地目変更するほうが現実的やけんど、どっちにするかは端月さんの好きなようにして」伊東さんは言った。
「蒲池さんには?」
「わしの方から連絡しといた。お任せしますって言うとった。ただし、蒲池さんには違法部分の土地の測量費と、端月さんが分筆を希望するのなら、その後の法務局での分筆費用は持って貰いますって言うとうけんな――ただ、この部分のお金はわしが儲けるわけと違(ちゃ)うけんな。司法書士さんの領域じゃけん」伊東さんは笑いながら説明する。「ほなけんど除外申請はせないかんけん。一年以上かかると思うわ。ほんま農地が絡んだらややこしいんよ。――あっ、この除外申請の手続き費用はわしの儲けじゃけんどな」笑う。
私は伊東さんに質問する。「私はまだ買っていないのだから、今現在の所有者は蒲池さんですよね。その理由書を今現在所有権のない私の名前で出して、たとえ購入後違法状態を解消しますとの条件付にしても、法律的に有効なのかどうか。蒲池さんの土地を私がどうこうしますというのは、私自身に権利がないことを理由書上で約束することになりませんか」
「端月さんなかなか鋭いでえ。まあこれも以前言うた表と裏ですわ。J・Ⅰライダーとは話が出来とんよ。加賀君な、一か月遅れたこと気にしとってな。ライダー通して局長にも――。まあ三条申請を通すための方便と考えてくれたらええわ」
「じゃあ、買ったあとで私の名前で農地法の四条申請をするというわけですね。但し費用は蒲池さん持ち」
「そうゆうこっちゃ。端月さんもだいぶ分かってきたでえ。奥さんもあんたも苦労したけんなあ」ほんとに苦労した。私は苦笑いに近い微笑みを伊東さんに返す。
「伊東さんにも農業委員会の加賀さんにもお世話になりました」頭を下げる。
「わしは商売じゃけん。ほだけんどライダー加賀はようやってくれた。まあ彼も、實平さんのあんたらに対する最初の対応があったけんなあ。あの子は真面目やけん、それを気の毒がっとったわ」
「私と實平さんとのことを何か聞いたのですね」私は伊東さんの目を窺う。
「端月さんと實平さんが高校の同級生ということは知っとうけんど」笑いながら言う。他に何か聞いたという顔だ。
「それだけ?」
「前にも言うたやろ。聞かないかん話と聞かんでもええ話があるって。この齢になるとなあ、脳細胞がだいぶ減ってきとうけん。容量が少のうなっとんよ。どうでもいい話聞いたら必要な話忘れてしまう。パソコンでいう――何ちゅうんかいなあ――。そうそう上書き。いらん話を上書きしたらいる話が消滅してしまう」頷きながら続ける。「ほだけん、端月さんの若い頃の悲しい恋の話や聞いとらんでよ」聞いてるじゃないか! イトジイ!
伊東さんはすました顔で笑っていた。
     11
上村司法書士事務所の応接室はフルハウスだった。伊東さん、蒲池夫妻、そして私達夫婦の五人。
上村司法書士は事務机から事務椅子を持ってきて隅に腰かける。
和美は数回会っているものの私自身は今日初めてお会いする。
上村さんは六十歳半ばぐらいだろうか、中肉中背で温和な感じの人だった。
ターコイズのボタンダウンシャツに、少し細めの同系色のネクタイを締めている。和美の話では、いつもスーツかブレザーにタイを締めたいでたちだそうだ。
電話でのやりとりは最初に蒲池さんがしたのだが、彼も会うのは初めての筈だ。
上村さんの奥様だろう、冷えたお茶を全員に出したあと、奥の二つ並んだ事務机に引っ込み何やら書類をつくっている。
六月に入り湿度と気温の高い天候が続いている。特に今日は蒸し暑さが最高のようだが、事務所は程よく空調が効いており多人数でも心地よい。
「端月さんも蒲池さんも農業委員会が通って良かったですね」上村書士は私達に視線を回す。
「ほんま時間がかかったけんど、これにて一件落着じゃわ」伊東さんが私達に代わって言う。「今後は上村はんの出番じゃけん。わしもやっとバトンタッチじゃ」
「本当にすみませんでした。私達が至らないばっかりに、端月さん、伊東さんにはお手数をおかけしました」蒲池さんがすまなそうに目を伏せる。「大阪なので動くに動けず、ご面倒を」奥さんの浪子さんも今日は機関銃トークのなりはひそめ、しおらしい。
「とんでもない。私も一時は諦めかけたこともあったのですが、伊東さんをはじめ家族や会社の人、近所の人、それと農業委員会の加賀さんなんかに協力頂いて……。本当に皆さんのおかげです」私はこれまでの紆余曲折を頭の中で反芻しながら言う。
横から伊東さんが口を挟む。「端月さんの奥さんがよう動いたわ。わしは仕事やけんなあ」「ほんなことないよ。イトジイいろいろ裏技出してくれたでえ。それとライダー加賀もよう協力してくれた。ほんま、みんなのおかげやわ」和美が言う。
上村さんと蒲池夫妻は「イトジイ」「ライダー加賀」という意味の解らない単語に「何のこと?」という顔で和美を見る。私と伊東さんは苦笑いで顔を見合わす。
「本当に和美がよく動いてくれました。私などは妻の半分も動いていませんから」私は一同を見回して言う。。
 和美は顔の前で掌を振る。「あなた、そんなことないって。あなたの一番の功績は私の永年の夢を実現するために、故郷に帰って家を買おうと決断してくれたこと。あなたはあなたにしかできないことをやってくれた」私の顔を見て微笑む。和美の胸の中にもこれまでの出来事が去来するのだろう。
少し間をおいて、軽い嫌悪と薄い憎悪を顔面に滲ませ和美は続ける。「ほんでも腹立つんはあいつなんよ。偉(エラ)エロ局長の實平さん。ほんま腹立つわ」
蒲池夫妻は「エラエロ局長」にも目を白黒する。私とイトジイはまたまた苦笑い。
「うちの旦那の高校の同級生だから我慢してたんやけど」
「その局長ってサネダイラさんて仰るのですか。端月さんの同級生?」蒲池さんが私と和美を交互に見る。
「昨日、伊東さんからその局長のことはお聞きしました」蒲池夫人も横から口を挟む。「その人の意地悪で端月さん苦労されたんですってね」
蒲池さん夫妻は昨日来県した。伊東さんの事務所を訪ね、これまでの経緯とか、今後の――測量のこととか四条申請について相談したらしい。伊東さん、農業委員会での経緯は話したようだが、局長の名前とか、彼と私が高校の同級生であることは言っていなかったみたいだ。
「實平って珍しい名前ですよね」蒲池さんが言う。「徳島ではよくある名前なのですか」浪子さんが言葉をかぶせる。
「さあどうなんでしょうねえ、珍しいとは思います。通常はサネヒラと読むのでしょうが、サネダイラと読むのはかなり珍しいのじゃあないでしょうかね」それまでやりとりを聞いていた上村さんが、首を捻る蒲池さんに言う。「何か気になることでも?」
「いえ……ね。以前、何処かで聞いたことがあるような。……あれは誰に聞いたのか?」浪子夫人に「お前覚えていないか」というように目を向ける。
浪子さんも記憶を手繰るような目で夫の顔を見返す。
「私も珍しい名前なので聞いたことはある気がするのですが……。アラマー齢をとると駄目ですねえ、もの忘れがひどくなって」口に手を当てて笑う。
「端月さんは高校の同級生だったとか。實平さんてどんな方なのです?」蒲池さんが私に顔を向ける。
「いやいや、同級生だったことは確かなのですが、昨年暮れに農業委員会で会うまでは全く私の記憶からは飛んでいまして、その時もすぐには思い出せなかったくらいです」私はライダー加賀から得た情報と、今迄に私自身が思い出した数少ない記憶を継ぎ足して蒲池さんに告げる。
「そうなんですか。實平局長、母ひとり子ひとりだった。……實平さんの父親ってどんな……」
 蒲池さんは首を傾げながら私の顔を見る。
 そういった類のことは加賀さんからは聞いていなかった。加賀さんもそこまでの情報を持ち合わせていなかったのだろう。
「何故か気になるのですよね」蒲池さんは思案顔で言う。
首を捻って暫し黙考していたのだが「サネダイラ……?」そう言って言葉を切る。やがて気を取り直すように口を開く。「そのうち思い出すでしょう。すみません。話を横道に逸らせてしまいまして」蒲池さんは首を捻りながら頭を下げ、冷たいお茶に手を伸ばす。
上村さんが全員の顔を見回し、それではと言って、今後のスケジュールを説明する。
「蒲池さん権利書と印鑑証明お持ち頂きましたね。端月さんの方は住民票」私と蒲池さんが頷く。「本日、契約書にご署名ご捺印いただきます。契約書は農地、宅地と家屋の全てをひとつに纏めています。売買金額の六百万円はトータルでの金額として書いております。ただし内訳として宅地部分が四百五十万、農地部分が百五十万となっています。売主、買主と税務署へ提出する分――都合三部に署名捺印をお願いします」
蒲池さんは老眼鏡をかけ契約書に子細に目を通す。
私達はそれぞれ署名捺印を行う。上村さんが三部の契約書の確認をし、一部は残し、これを税務署に提出しますと言い双方に一部ずつ手渡す。
「これで契約は結ばれましたということですが。ただ、まだ代金の授受が出来ていませんので契約成立完了とはなっていません。お金の受け渡しは両者でご相談なすって下さい。私は法務局へ参りまして手続きをいたします。約一週間かかると思います」
その点は私方と蒲池さんの間で既に話はできていた。登記の登録を確認した時点で蒲池さんの口座に全額振り込むということになっていた。伊東さん、上村さんへの費用も折半という話はできていた。
「あと農地法に違反の部分――例の宅地への進入路なのですが。これは農業委員会の承認が下りてからの話になります。分筆は今すぐにでも出来るのですが、地目の変更は農業委員会の許可が下りてからでないとできません」伊東さんに顔を向ける。
「昨日蒲池さんと話して、測量は今月の末にすることになっとんよ。その時点で名義は端月さんに移っとおけん、端月さんにも立ち会うてもらわないかんけんど」伊東さんが言う。
「昨日、測量会社にお願いしてきました。今月末は確かなので、日時が決まったら端月さんには電話で連絡いたします」蒲池さんが私に頭を下げる。横の浪子さんも「端月さんみたいないい人に買って頂いて良かったです。有難うございました」言葉を重ねる。
「今回は売り手と買い手の波長がぴたっと合って売買が成立したわけです。売り物件いっぱいありますけど、なかなか契約が成立しないらしいですよ。不動産屋さん嘆いていました」上村さんが言った。
「蒲池さん。運が良かったんでよ。そらまあ、いろいろあったけんど」伊東さんが言葉を添える。
蒲池夫妻は今一度頭を下げた。

Interval
 やっと契約にこぎつけることができ、安堵した反動なのかどうなのか、ひとつの不安が私の頭の中を黒い霧のように浸食し始めた。
『自殺。事故。……もうひとつ可能性が残されていますよねえ』居酒屋で加賀さんはそう言った。
『もう一つの可能性』それは、つまり殺人! いや、いや、それは無い。ライダー加賀も『私ミステリー好きなので、考え過ぎてしまいました』と、すぐ打ち消したではないか。あの場では、二人して、涼子は事故死だったという結論に達したのだ。
中学生の時と高校の時との二回、涼子にふられたのは實平局長だったのではないだろうかというのが加賀さんの推理だった。
局長は、数十年ぶりに私と再会し、昔を思い出し、幼稚な意趣返しをした。
涼子が交通事故で亡くなった時、自殺ではないかという噂があった。
徳島県内で住んでいた實平さんは『涼子はふられ、悲観して自殺した』その噂話を思い出し、『俺の恋人の涼子を端月に奪われた』『端月が涼子を殺した』そういった極端な、酒の上でのほら話を、妄想を、ライダー加賀にしたのではなかったのだろうか。それが、私と加賀さんのあの居酒屋での結論だった。
しかし、私の想像は際限なくふくらむ。頭の中の黒い霧はそこばかりに留まらず、私のあまり強靭ではない心の内までも蝕み始める。
私は東京、涼子は地元徳島。そして實平さんも徳島在住。實平は涼子に近づくチャンスだと思ったのではないだろうか。
實平さんは中学校の時から涼子を好きだった。告白したが二度ともふられた。諦めきれない。恋敵の私は遠く離れている。
そこで二人に何らかの接触・動きがあったのではないのだろうか。實平局長の一方的な行動かどうかは解らないのだが。
思い起こせば、涼子が私に別れを告げた時、あまりにも唐突ではなかったか?
涼子と實平は私には言えぬ何らかの秘密を共有してしまった。涼子はそのことを苦に、私に別れを告げざるを得なかった。
そして、あの居酒屋で加賀さんが言及した『中倉涼子さんはなぜ夜中に出かけたのだろう』『呼び出しの電話は誰からだったのだろう』との疑問は、未だ解決していない。
電話の主を實平と仮定してみよう。
涼子と實平は何らかのトラブルを抱えていた。實平は涼子を呼び出す。夜中のことだ、余程の事、余程の関係性がない限り、若い娘が一人で出かけることは、考えられないのではないか。
二人は争いになった。故意であったか恣意的なものだったかはわからない。實平は涼子を突き飛ばす。そこへ車が――。運転者も、涼子が横断歩道に飛び出してきたと証言していたではないか。ライダー加賀が言った『自殺。事故。……もうひとつ可能性』が具体性を増すのではないか。
いやいや、ここまで想像を膨らませてしまうと、もはや推理というより妄想に近い。
疑問点を確かめるべきだろう。
私はスマートフォンで中倉医院を検索する。
「医療法人双葉会中倉病院」と名前を変えたページのtelマークをタップする。

徳島―夏
                1
床の間がある八畳間に買ったばかりの座卓を置き、夏用のいぐさカバーの座布団――これも来客用にと急遽買ってきた。
未だ完全に引っ越しは終了してはいないのだが、蒲池さんのたっての頼みということで私は場を設えた。
エアコンはまだ設置されていない。しかし東と南の窓を全開にすると水田の上を渡る風が吹き込み心地よい。
東と北と西の三方は水田に囲まれている。南側は庭園の植樹を隔て、宅地に隣接する畑だ。和美の植えた数々の野菜が芽吹き始めている。コンクリートやアスファルトに囲まれた場所に比べると格段に涼しい。
床の間を背に實平さんが恐縮したように座っている。その隣に私。対面に蒲池さん。その横に今しがたお茶を持ってきた和美。四人とも神妙な顔つきである。
蒲池さんは六月末の測量のためご夫婦で帰って来たのだが、その時から数え七日ぶりの来徳であった。今回は蒲池さんひとり。
六月末の測量立会いの後、蒲池さんから折り入って頼みがあると言われた。
市役所の實平さんとの対面をセッティングしてもらいたいと言う。私はどういうことなのかを尋ねた。蒲池さんは少しくぐもった声でとんでもないことを言った。
「實平さん、私の……、私の弟かも知れません」

お茶を飲み、やがて決心したように蒲池さんが切り出した。
「實平さん初めまして。蒲池と申します。お忙しいのにすみません。実は……」そこから言葉が続かない。時は止まる。
 開け放された窓のレースのカーテンが、敷地の東側の水田を渡る微風で揺らぐ。
 蒲池さんが顔をあげ口を開きかける。それを制するように實平さんが言う。
「私と母のことですよね」實平さんが蒲池さんを覗き込むように見る。「母とあなたのお父さんのことですよね。私の父でもある」
 蒲池さんは目を見開き、あんぐりといった表情で対面の人を見つめる。
蒲池さんの驚きの表情をスルーするかのように、一息つき實平さんはぽつりぽつりと話し始めた。
「私の父の名が蒲池であるということを母から聞いたのは、母が病に倒れ死ぬ間際でした――五十歳半ばの若死にでしたけれど――それまでは私がいくら聞いても父の名前は明かしてくれませんでした。ただ徳島県内の大きな会社の社長をしている。小さなときからそう聞かされました。成長するに従って父親のことを知りたいと切実に思うようになりました。自分の父親がどんな人なのか、自分なりに調べたのですが、しかし子供の調査能力などは高が知れています。母が常々言っていたのはバイタリティに溢れたやり手の実業家だった。母を心から愛してくれた。ハンサムではないが男らしい人だった。だから女性によくもてたそうです。何故別れたのかは言ってくれませんでした」
       2
實平さんの母親は豊子といった。豊子さんはある生命保険会社の外交員をしていた。今でいうセールスレディーだ。
高卒で事務員として入社したのだが、所長に見込まれ外交員に転向したそうだ。
所長の目は確かだった。時を経ず県下でも売上ナンバーワンに成長した。まだ二十歳そこそこだった。
蒲池社長と知り合ったのもその仕事の関係だった。
社長に病弱の妻がいることは知っていた。それでも二人は愛し合った。年の離れたカップルであった。しかし長くは続かなかった。二人は別れた。
別れたあとに身ごもっていることが判明した。悩んだ。でも産もうと思った。ひとりで育てようと思った。
蒲池社長から別れる時に幾ばくかのお金は貰っていたし、仕事で稼いだ蓄えもあった。子供をひとりで成人させる自信もあった。産休で休んでも当分の生活には困らないだろうと豊子さんは思った。
ある日、六十過ぎの綺麗な老婦人が豊子さんを訪ねて来た。彼女は蒲池ですと名乗った。蒲池社長の母親だった。彼女は言った。「私の家で子を産みなさい。私は一人暮らしなので何も遠慮は要らない」
豊子さんは有難い言葉だとは思ったが、その申し出をお断りした。ひとりで産みます。
蒲池社長の母親は言った。「産まれてくる子は私にとっても孫です」とても捨て置けない。豊子さんは蒲池社長の母親の申し出を了承した。蒲池邸に移り住み、そこで子を産んだ。
蒲池社長の母親は親身になって産前産後の面倒をみてくれた。豊子さんは子供が一歳になるまで老婦人と一緒に暮らした。
「これね、母から聞いた話と私が調べたこと、それと多分に私の想像も入っています」實平さんは私達を見回し言葉を切る。
「その話聞いたことがある」和美が遠慮がちに實平さんと蒲池さんを交互に見る。最後に私に目を向ける。私が和美に代わって言う。
「私の母から聞きました。この土地を買おうか買うまいかと相談していた時なのですが。私が生まれる前後に、この蒲池邸にお婆ちゃんと一緒に若い女性が住んでいたそうです。母はお手伝いさんだったのだろうと言っていましたが――。それが實平さんのお母さんだった」
「私と端月君は同級生ですものね。端月君のお母さんの言ったことは本当です。ただし、お手伝いさんではなかった」頷く。
 私の顔に視線を置いたまま和美が實平さんに尋ねる。
「ちょっと待って實平さん。疑問があるんですけど――蒲池のおばあちゃんはあなたのお母さんが妊娠していたこと、その子供の父親が蒲池社長だということ、どうやって知ったんだろう」實平さんに視線を移す。
實平さんは暫し考える風をして、おもむろに口を開く。
「わからないんです。母からはそういったことは何も……。これは私の憶測ですが」と前置きし、言葉をつなぐ。
「母が蒲池社長と別れてからも、母の同僚は蒲池社長の会社には仕事でお邪魔していた。そこらへんから漏れ聞いたのかもしれない。社長はそのことをおばあちゃんに伝え、援助を頼んだ。そして、おばあちゃんは母に手を差し伸べた。まあ、都合のいい私自身の推測です」
實平さんは言葉を切り、微風で揺れるカーテン越しに、緑がまし始めた庭園の木々に視線をまわす。少しばかりの沈黙の時間が経過する。
ややあって言葉をつなぐ。「私、この家ね。幼い頃母に連れられて何回か訪れたことがあります。お前が産まれた家だよって言ってね。記憶は微かなのですが。でもひとつだけ今も残像が残っていてね。暑くなると記憶が鮮明に蘇えります。夏だったのだろうと思います。おばあちゃんがスイカを綺麗な形に切ってくれて――」甘いよ。さあお食べってね。
實平さんは俯き加減に机の端に目をやり、遥か昔を思い出しているのだろうか、唇の端をもたげるような彼独特の微かな笑みを浮かべる。目を上げて言う。「蒲池さんは私のことを何処でお知りになったのですか」対面に座る人に視線を注ぐ。
「前々回でしたか、端月さんとの契約に伺った時です。あなたのことを聞きましてね。珍しいお名前なので気にかかったわけです。その時、何処かで聞いたような記憶が甦りまして。でも思い出せない。どうも気になったもので、大阪へ帰って妻と一緒に考えました。」
蒲池さんは自分の齢の離れた弟かも知れない男を、どう表現して良いか分からないような表情で見る。 
「たまたま姉から電話がありましてね――。聞いたんですよ私。姉は言いました。實平豊子さんは父の女のひとりだったって。珍しい名前なのでよく覚えている。――それと、その頃、姉と殆んど齢の違わない女(ひと)だったのではっきり覚えていると。姉は父のそういうところを非常に嫌がっていましたからね。私、實平さんが端月さんと同級生ならば年齢的には合うと思ったのです」対面に座る私と實平さんを順繰りに見る。
「失礼とは思いましたが、あなたとあなたのお母さんのことを調べさせていただきました」言葉を切り實平さんに視線を注ぐ。
「お母さんの實平豊子さんと父、そして祖母との関係が分かりました」蒲池さんは私に視線を向ける。「端月さんにこの家を会談場所に提供してくださいと、前回お願いしたのはそういった事情からです。この家で私と實平さんが会うことが大切だと思いました」
「そうだったんですか」私は和美と顔を見合わせた。
 蒲池さんは視線を實平さんに移し言葉を続ける。
「實平さんの身体つきとか顔つきとか――そう思って見れば父の面影があります。私は若い頃から母親似と言われていました。あなた姉に似ています。姉は父親似ですから」
時が滞る。暫くして口を開く。
「父はあなたを認知しなかったのでしょうか」
「母が死ぬ間際に明かしてくれました。蒲池社長からは私が産まれてしばらくして認知したいとの申し出はあったそうです。母が亡くなる前にそういったことを蒲池さんの名前と共に打ち明けてくれました。私は母が亡くなった時には、結婚し、子供ができ、そして離婚をしていました」實平さんは昔を思い出すように目を天井に向ける。
「母は自分の死期が分かっていたんでしょうね。私達が離婚した原因の一端は自分にもある。良一ごめんなさいってね」
             3
實平さんは豊子さんが亡くなる数年前に離婚していたのだという。
結婚は三十を過ぎてからだったのだが、嫁は母の豊子さんと折り合いが悪かった。
何事もてきぱきと自分で決める豊子さんには、嫁のおっとりとした性格が優柔不断と映ったのだろう。
それと、母ひとり子ひとりの長い生活が嫁という部外者に壊されてしまうような、そんな気持ちを持ったのかも知れない。父親なしの生活が豊子さんの子に対する愛情を変形させていたのかも知れなかった。
實平さんが言う。「母は私に父の分身として愛情を注いでいたところもあったのだと思う。無論、私自身もそれが当たり前と思っていました。離婚の原因は私自身にもあったのでしょう」声が湿っていた。視線を座卓の上に落とし考えを巡らすように暫し時間をとる。
實平さんの話は自分が産まれた頃に遡る。
 仕事の上で豊子さんは非常なやり手であったのだという。
實平さんを産んで職場に復帰した豊子さんは、支社長の薦めでP市に支部を立ち上げた。若干二十数歳だったという。セールスウーマン二十数名を擁し、その外交員も自らスカウトした。
幼子は今でいうベビーシッターの女性を雇った。蒲池社長の母親が保育所に行けるようになるまで面倒をみると申し出てくれたのだが、それは丁寧にお断りした。
家を提供してくれ、そこで出産させてくれた。何くれと世話を焼いてくれた。それだけでも感謝の言葉が出ないくらい有難かった。いっそ好意に甘えるべきだろうかとも思った。しかし、その思いは断ち切るべきだと思った。
蒲池老婦人は残念そうに言った。「何時でもおいで。何か困ったことがあれば及ばずながら力にならせてもらう。時々、孫の顔を見せに来ておくれ」豊子さんは老婦人の言葉に気持ちがぐらつくのを感じながらも、これからはひとりで生きて、この子を育てようと思った。
 暫くして、蒲池老婦人からの提言もあったのだろうか、蒲池社長から子供を認知したいとの申入れがあった。豊子さんはそれを断ったのだという。
「認知の話をなぜ断ったのかを母は明かしてはくれませんでした。多分ひとりで育てる自信を持っていたのでしょう。別れた男への意地みたいなものもあったのかもしれません。母は今でいうキャリアウーマンでした。それも凄腕の――。蒲池社長と懇ろになったのも、片やばりばりの企業経営者、片ややり手のキャリアウーマン――そういう共通部分で結ばれたのではと、私は思います」
「今更言っても詮無いことですが、父は無理やりにでも豊子さんを説得してあなたを認知すべきだった」蒲池さんは絞り出すような声で言う。
「母が亡くなる前」實平さんは蒲池さんに視線を注ぐ。「一通の通帳と印鑑を渡されました。私の名義になっていました。五千万円以上の預金残高がありました」
 豊子さんは死の間際に通帳を手渡し説明した。「これはあなたの父が毎月入金してくれていたもので、生まれた年から大学卒業まで欠かさず続いた。私は一銭も手を付けなかった。このお金はあなたのものだから自由に使いなさい」
 通帳には未開封の手紙が添付されていた。蒲池社長が書いたものだった。宛名は實平良一様とあった。
           4 
この手紙をあなたがいつ読むかは私には分からない。手紙をあなたに託す時期は豊子さんに任せている。
私が唯一心配するのは、あなたに父親がいない寂しい思いをさせたのではないかということ。この件に関し悪いのは私ひとりで、母親の豊子さんは全く悪くない。私はあなたに恨まれても構わない。だが母親を恨まないでほしい。
お金で割り切れる問題ではないかもしれないが、せめてもの私の気持ちだ。
どう使ってもらっても構わない。どぶに捨てられても文句は言えない。
豊子さんにはこの金を生活の足しに、あなたの為に使ってくれとは言ってあるが、多分豊子さんは使わないだろう。
私と豊子さんの間に何があったか、どんな原因で別れたか、多分これも豊子さんはあなたには話さないだろうと思う。だから私も書き記すことは留め置くこととする。
ただ一つだけ、私と豊子さんが何故つきあうようになったかを記しておきたい。
この話は家族にも、もちろん豊子さんにも話したことがない。私としては誰にも言わず、あの世まで持っていくつもりだった。しかし、私も一個の弱い人間なのだろう。この手紙の中だけで告白することを許して欲しい。
豊子さんとつきあうようになった遠因は、私が戦争中、軍属として関東軍に出入りしていたことに関係する。
終戦間際のある時、私が軍に収めた物資が原因で事故が起こり、三人の兵士が亡くなった。その犠牲者の一人が豊子さんの父上だった。
むろん私自身は、一兵卒である彼らを知る由もないのだが、その当時、犠牲者の名前は聞いていた。特に「實平」という珍しい名前は私の頭に残った。
豊子さんが保険の外交員として、私の会社に出入りするようになり、しばしば話をする機会があった。
身の上話を聞くようになり、豊子さんが事故の犠牲者である、あの「實平」上等兵の娘であることがわかった。千に一つ、万に一つの偶然。いや果たして偶然だろうか。天が仕組んだ必然ではなかろうかと、私は思った。
最初は自分の娘に対するような接し方だったし、気持だった。子供に対するような愛が、男と女のそれに変わったのは何時のことだっただろう。
私は豊子さんを愛してしまった。そして豊子さんも私を愛してくれた。
私にはそれまでつきあっていた女性がいたのだが、すべて清算した。
あなたに分かって欲しいのは、私も豊子さんも真剣に愛し合ったという事実だ。この手紙をあなたが読んでいる今は、私のことを幾分知った時ではなかろうか。私の艶聞も耳に入っているかも知れない。私は耄碌しているかもしれない。あるいは既にこの世を去っているかも知れない。
ただ声を大にして言えるのは、私はあなたのお母さんを心から愛していた。
そして、あなたをも。
                    父より
                  5
「姉から当時聞いた話ですが、父には数人のそうゆう女性がいたそうです。姉も私もそれが原因で父とは疎遠になった時期があったのです。その当時、母は入退院を繰り返していましたし――。そして私達姉弟も若かったですから」蒲池さんは当時を振り返る。「父は数多いるガールフレンドの中から豊子さん――實平さんのお母さんを選んだ。遠因が父の軍属時代にあったとしても、本当に愛し合っていたのかもしれません。しかし、その本当に愛する人とは一緒になれなかった。思えば不憫ですな。父は母にも早く死なれ、愛する豊子さんとも一緒になれなかった。私達姉弟からは一時にせよ嫌われた。あなたとは親子の対面もせず亡くなった。自業自得と言えばそうなのでしょうが」
「私ね、蒲池社長とは一回だけ会っているのです。ここで――」實平さんは開け放たれた窓に目をやり庭を見る。
蒲池さんはエッ! と、いうような顔をして、まじまじと實平さんの顔を見つめる。私と和美も顔を見合わせる。

町役場に就職した實平さんはその頃水道課に配属されていた。
ある日、蒲池社長から電話があった。彼はその頃、社長職を辞し会長をしていた。
蒲池社長は言った。「母が亡くなり暫くは空き家になっていたのだが、来月から私が住むので上水道を再開してほしい。手続きはどうすればよいのか」
蒲池の婆ちゃんが亡くなったのはその時より三年程前であった。葬儀は当地ではなく県庁所在地の徳島市の大きな葬儀場で行われた。
實平さんはひとり一般参列者に紛れ、お婆ちゃんを見送った。
豊子さんは「幼い頃可愛がってくれたお婆ちゃんだから、お前ひとりで行きなさい」今にして思えば、血を分けた祖母の見送りを實平さんひとりでさせたかったのだろう。それと、豊子さん自身は、蒲池社長と顔を会すことを避けたかったのかもしれない。

實平さんは書類を持ち蒲池邸を訪れた。七十歳を少し出たくらいの老人がいた。
實平さんは何故かその人に懐かしさを感じたのだが、それは幼い頃、母に連れられ婆ちゃんを訪ねた、懐かしいこの家のせいだろうと、その時は思ったのだった。
「私、その時は全く知らされていませんでしたのでね。対面している老人がまさか自分の父親だとは思いませんから」
 老人は實平さんの説明を聞き終え、帰り際にぽつりと言った。「大きくなったなあ」實平さんは何のことかわからず、ただ老人の顔を見たのだった。
「今にして思えば、父親は陰ながらにも私を見ていてくれた。ずっと私のことを気にかけてくれていた。そしてその証が預金通帳と手紙なのではないでしょうか。いくら離れていたとしても親子の縁は切れることはない。そしてね――私は図らずも離婚によって父親と同じことをしてしまった。子供がひとりいたのです。元妻が親権を取りました。因縁なのでしょうかねえ」自嘲気味に唇の端を持ち上げて笑う。
「今お子様は……」蒲池さんが遠慮気味に聞く。
「もう成人しました。妻は私と別れたあと暫くして再婚しました。それまで続けていた仕送りは必要ないと言ってきました。しかし私は子供が成人するまで僅かではありますが養育費を送りました。考えてみれば私、父親と同じことをしていたのです。血は争えないというか……」
 暫しの間沈黙が支配した。
両脇に引いたカーテンが揺れ、東の窓から風が吹き込み、淀んだ空気を押し出すように南の窓へ吹き抜けた。
        6
ややあって實平さんは話を再開した。
「母が死んで、父の名を知り、幼い記憶の中の優しいお婆ちゃんが私の祖母であったことを知り、私は悩みました。父に会うべきかどうか。でも結局会わないことにしました。会えば会ったで、父を非難するかもしれない。なぜ母を捨てた。本当に愛していたのか。その他大勢の女のひとりではなかったのか。そんな言葉が私の口から出るのではないだろうか。いっそそれなら会わずにおこう。母が生前言っていた、そして父の手紙に書いてあった『二人は心から愛しあった』その言葉を信用しようと思いました」言葉を切り、冷めたお茶を口に含む。
「蒲池社長が亡くなった時、確か顧問をやっていましたよね」實平さんが言い、蒲池さんが黙って頷く。「葬儀は社葬でしたよね。お婆ちゃんが亡くなった時同様、私は一般参列者として参列させていただきました。その時、あなたにお会いしていたかも知れませんね」蒲池さんを見る。
「そうかもしれませんな」蒲池さんが相槌を打つ。
「蒲池社長が亡くなって、この家が空き家になっているのは知っていました。でもメンテナンスはできているようだった。その頃には娘さんと息子さんがいることは承知していました。私の齢の離れた腹違いの姉兄。どちらかが帰って来るのか。それとも売りに出すのか。気にはなっていたのです。父親が残してくれたお金は手つかずでした。どうせならそのお金でこの家が買えたら――そう思ったのです。お婆ちゃんもひとりで暮していた。父親もひとりで暮していた。私もこの家を買って二人のように独り暮らしがしたいと思うようになったのです。売りに出ているとは知らなかった」首を回し私の顔を見た。
「それで、農業委員会での一連の対応ということになったのですね」私は聞く。
「最初はちょっと邪魔をすれば、端月君は直ぐに諦めると思ったのです。P市にはこのような物件は掃いて捨てるほどありますから。でも奥さんが熱心だった」和美を見る。
「實平さん。私は気にいっとったけん、そうそう簡単には諦められんかったんよ」和美が真面目な顔をする。「でも今の實平さんの話聞いたら、あんたに買うて貰ったほうが良かったかもしれん」
「いやいや、奥さんそれはいいんです。端月君に買ってもらって良かったと思っていますから」實平さんは顔の前でひらひらと手を振る。「端月君が農業委員会に来て、物件名を見た時、何かめぐりあわせというのですかね、因縁とでもいいましょうか……。驚いたのは事実です」
「でも、何年も会ってないのによく私だと分かりましたね。珍しい名前だというのに、あの時私はあなたのことをなかなか思い出せなかった。」私は疑問点を口にする。 
 實平さんは薄い笑いを口元に浮かべる。質問をした私の顔は見ず、和美に視線を移す。
「奥さんねえ。端月君は高校の時はイケメン君ビッグスリーに入っていたんです」また、にやりと笑う。和美の顔をさらに伺う。
和美は視線を實平さんに返し、すまし顔で言う。
「卒業写真見たけど、うちの旦那が断然トップワンやわ。それもダントツの」平気な顔でいけしゃあしゃあと言ってのける。
實平さんは苦笑いを禁じ得ない。困ったように言葉をつなぐ。「そ、そうですよね。だからその――トップワンのイケメン君を忘れる筈がない。ただ私にはもうひとつ忘れられない理由があってね。端月君、細川亮一覚えている?」覚えていた。確か一年生の時クラスが一緒だった。イケメン君だった記憶がある。
      7
 實平さんと細川亮一は小、中、高と同級だったのだという。
字は違うのだが同じリョウイチだった。中学校の時にはリョウイチ一号・二号と呼ばれるほど仲が良かった。勿論、一号が細川で二号が實平さんだったのだが。
そのリョウイチ一号が、中学の時と高校二年の時、同じ女の子に告白して二回とも即座に振られたのだという。
一号はイケメン君だったので余程自信があったのかも知れないが、二回の失恋に大きなショックを受けたらしい。特に二回目は中学生の時どころではなかったそうだ。その愚痴を聞いてあげたのが實平さんだった。
 これは多分、中倉涼子が絡む話だろう。そして私自身も絡んでくる。以前ライダー加賀が推理したのとは様相が違ってきた。加賀さんは振られた男の子は實平さんではなかったろうかと推理したのだ。
「端月君、これ言ってもいいのかなあ?」私を見ずに和美を見る。これって、いつぞやのパターンだ。
「實平さん言ってもいいのかなあ、と言っておいて、いつも直ぐに言うじゃないの」 
どうせ中倉涼子が絡んでくる話だ。和美の前だが心を決めた。私はゆっくり頷く。蒲池さんには関係ない話だが、ここは絶対に聞いておきたい。
 實平さんの話では、中学校で同級だった中倉涼子とは普通の友達だったという。例の剣山登山も涼子に頼んで参加したのだという。
もちろん美人の彼女に対する憧れはあったのだが、最初からムリムリと諦めていたそうだ。だがイケメンと自他ともに認める細川は違った。親友だったのでなにくれと協力は惜しまなかった。しかし一号の恋は二度とも実らなかった。
高校二年の時の落ち込みは酷かったらしい。
告白した時、涼子から言われた。「あなたとは絶対無理」冷たい声だったと言う。
リョウイチ一号は「誰か好きな子がいるのか」と執拗に聞いた。涼子は私の名前を挙げたのだという。
實平さんの言では、相手が私だということが一号のショックに輪をかけた。
涼子が好きな人がイケメン君のトップを争う私だったのだから。他の男ならそれ程の落ち込みもなかったかも知れないと言う。
もちろん私自身はイケメントップを争っているなどという意識は全くなかったし、涼子が私を好きだということはその時点では知らなかった。彼女と付き合いだしたのはもう少し後のことだった。
「じゃあ、酔っ払って加賀さんに喋ったことも……」私が聞く。
「そうです。私自身の経験でも思いでもありません。細川亮一の受け売り。申し訳ありません。酔った上での冗談――いや、端月君に対するやっかみみたいなものも多少はあったんです。この家と土地の件も、伊東書士のいわば活躍で、あなたと奥さんに有利に運んでいましたしね。酔った上での軽い憂さ晴らしのつもりだったのですが。しかし加賀君があんなに気にするとは思わなかったのです。だから翌日に聞かれた時は慌てて否定したのですが。誠に申し訳ありません」實平さんは面目ないといった態で頭を下げる。
 實平さんがそういったことを喋ったのは蒲池邸を私が諦めればとの思いだった。私に対する邪意などはなかった。蒲池邸を買い取り、そこに住みたいというその時の願望がそういった言動となって表れたのだった。
 涼子が交通事故で亡くなった時、私が殺したのだという話も、その当時、細川良一が言っていた言葉なのだという。
「中倉さんは自殺じゃないだろうかという噂は確かにありました。その噂話に細川君が脚色を加え、端月君が中倉さんを振った張本人だ。そのせいで彼女は自殺した。――そんなことを言っていたのを思い出しまして。その頃、彼も私も県内の同じ大学に通っていましたから」
話が自殺云々、殺した云々になったので私は蒲池さんの隣で黙って座る和美を見る。
彼女は別に驚いた様子もなく、ふんふんという風に頷きながら聞いている。
蒲池さんにとっても初めて聞く話だ。わけは分からないなりに興味深く聞いているようだ。
私は實平さんに顔を戻す。
「私、中倉涼子に二回振られたのは實平さんではなかったろうかという、加賀さんの推理に少しだけ傾いていたのですが、それにしては動機としては非常に弱いかなとも思っていました。私に対する高校生時代の恨みですからねえ。四十年も前の話だ。その恨みだけでこんなことをするわけがない。そんなことをしてもお互い何の得にもならないのじゃあないかと」
「まあ、そのとおりですね。でもねえ端月君。その当時、恨みというのでもなかったのですけど、端月君に対する――なんていうのかなあ――やっかみみたいなものはあったのですよ。細川君は小学生からの親友だったし、中倉さんとは中学時代から普通に話せる女友達だったし。取られたって感じはあったですね。まあ端月君ならしょうがないかって、諦めみたいな気分もあったのですけどね」實平さんは苦笑いをする。
               8
 開け放ったはきだし窓から網戸を通して風が吹き込む。風にはわずかな熱気と水田の水の匂いが乗っかっている。レースのカーテンを揺らし南の窓へ吹き抜ける。庭園の伸び始めた枝垂れ梅の柔らかい青葉がはらりと揺れる。
「今日あなたのお話が聞けて納得しました」私は實平さんの顔を見て言う。「あなたの言動には、もっと深い、あなたの出生やあなたの両親、この家に住んでいたおばあちゃん。そして蒲池さん。遠い昔の物語が深く絡んでいたのですね」
 私の言葉に實平さんは頷き、目を閉じる。遥か昔を回想しているのだろう、頷きながら唇の端に薄い笑みが浮かび上がる。
私は蒲池さんに顔を向ける。「それにしても―蒲池さんと實平さんがご兄弟だったとは……」
 蒲池さんも黙って頷く。實平さんが異母兄弟だと確定したことで、思いを馳せる諸々のことが胸に去来するのだろう。
和美が蒲池さんと實平さんを交互に見る。「今日の實平さんの話、前に聞いていたら私、實平さんにこの家譲ったかも」
「いえいえ、それはもういいんです。私は小っちゃい、いじけた男なのでしょうね。父も母もそしてお婆ちゃんも、素敵な人ばっかりだったのに、私はこんな……」實平さんの声が沈む。
「いや。私に歳の離れた弟がいることが分かって良かったと思います。たとえ腹違いでも兄弟は兄弟です。實平さんありがとうございました。そして端月さんと奥さん、私の無理を聞いていただきこの場を提供下さって感謝申し上げます。私と實平さんにとって、この家の中で話せたということに意義があります」蒲池さんは深々と頭を下げる。それに呼応するかのように實平さんも頭を下げた。 
「落ち着いたら、蒲池さんも實平さんもご兄弟揃って遊びに来てください。私の育てた野菜で手料理ご馳走するけん。美味しいんじょ」和美が笑う。
二人はどこか恥ずかしげな、少しぎこちない笑顔を投げ合っていた。
          9
私が和美に聞く。「今日の話聞いて、びっくりしなかったね」和美の顔を見る。
「なんでー。メチャびっくりしたわよ。だって蒲池さんと實平さんが異母兄弟だったなんて、メガトン級のびっくりと違(ちゃあ)うん」またそっちかい。私は實平さんが語った中倉涼子のことを聞いたつもりだったのだが。
「こんな偶然ってあるんやろか。話が出来過ぎって感じやわ。ほんま私びっくりしたけん。前回、蒲池さんから弟かもって聞いていたけど、まさかって思うとったもん。あなたと實平さんが同級生で、しかも私達が買おうとした土地家屋が蒲池さんのもので、實平さんと蒲池さん二人が異母兄弟だったなんて。實平さんは丁度、農業委員会の局長だったし」
「天の配剤というやつかなあ。少し違うか。でも三人ともこのP市に係わりがあった。小さな街だから、可能性としては……」
「まあ、そうかも知れんねえ。ところであなたが聞きたかったんて、中倉涼子さんのことと違うん?」すました顔で私を見る。
「そ、そうなんだ。あのう……今日聞いていて全然驚かなかったじゃあないか」
「あなたと中倉涼子さんの恋愛話(こいばな)は知っとうけん」平然と言う。こちらがうろたえてしまう。
「ええっ、誰に聞いたの! 加賀さん、それとも伊東さん」
「違(ちゃ)う、違う。もっと前から知っとった」すまし顔。「昔、新婚当初、実家へ二人そろって帰省したやろ。その時に忠孝さんから」
「弟から……?」
「そう。私と忠孝さんとであなたの卒業アルバム見てたんよね。その時誰が一番のイケメンかって話になって……。当然あなたが一番だった。他にも二、三人イケメン君がいたけど、あなたがダントツだった。その中に今日、實平さんが言っていた細川さんもいたのだろうけどね。それから話の流れで、じゃあ一番の美人はってことになったわけ。中倉涼子さんが群を抜いた美人だと思った。他にも可愛い子は三、四人いた。でも中倉さんは女の私が見てもすごく魅力的だった。私がすごく褒めたからかなあ、忠孝さん自慢顔で自分のことのように言ったのよね。『涼子ちゃん、兄貴の彼女だったんだよ』って。その後『しまったー』って顔になった。口が滑ったのね。『兄貴には言わんといて、俺、義姉さんに告げ口したようになる。兄貴に殺されるかもわからん。マジで』忠孝さん、そう言って私に懇願したのよ。だから、あなたに言わないことを条件に涼子さんのことを色々教えて貰った」
「忠孝の失言を捉えて交渉するなんて、君もなかなかじゃないか」私は言う。
「そうなんよ。こう見えても、昔から私はデキル女なんよ」したり顔。 
私は吹き出しそうになるのをこらえて言う。「で、彼女と私の話を聞いてその時どう思った」
「そりゃあ、ショックだったわよ。でもその後、その中倉さんが交通事故で亡くなったと聞いて、違った意味でのショックがあった。そっちのショックの方が大きかったかも。あなたがその時どんなに悲しんだかと思って。そして忠孝さんそれに追い打ちをかけるように言ったのよね。『兄貴、涼子ちゃんに振られちゃったんだよ』って。なんか、あなた凄い恋をしたんだなーと思って。振られた後、中倉さんが亡くなったことも含め、その時若かったのだから、あなたの心の中を思うと……。多分私だったら耐えられなかっただろうなあって……」自分の身に置き換えて、しんみりとした声になる。
「知っていて、そのことを今までひと言も聞かなかったよね。気にならなかった?」
「忠孝さんとの約束もあったしね。気にならなかったわけじゃないのよ。でも、心にしまっておきたいことって、誰にでもあるのじゃあないかなーと思って。過去のことだしね。それに言うじゃない。『死んだ人には適わない』って。私ね、涼子さんが私に似ていたらあなたを追求したかもしれない。でも写真で見た限り、それと忠孝さんから聞いた彼女の性格なんかも考えあわせると、私とは全く違った人みたいだったから。涼子さんの面影があなたの心に生きていて、私の中に涼子さんを見て私を好きになったのだったら許さなかったかもしれない。あなたを追求したかも。でもね、あなたは涼子さんの身代わりじゃなく、私を私として好きになってくれた。それだけで十分だった。それと……」考えを巡らせるような目をする。「中倉さんて高校一の美人だったんだよね。そんな人に惚れられたあなたを素敵だと思ったの」 
「当時、私も彼女のことが好きだった」私は当時を思い出しぽつりと言う。
「それ、なんていうの……昔のことわざで。よく玲香さんが言っている。ええっと……相思相愛涙(なだ)そうそう―」あのなあ! それはことわざではない。四文字熟語だ。それに「涙そうそう」を付け加えたら、玲香さんのいつものギャグになってしまう。
「別れてすぐに亡くなったと聞いた。あなたの心に多少なりとも傷が残っているのじゃないかと思った。あなた優しい人だから」言葉を切る。静寂が流れる。コーヒーでも淹れようか? 立ち上がる。
 コーヒーの芳香が漂う。ブラックで一口飲む。和美はいつもミルクを入れたシュガーレス。話が再開する。和美が口を開く。「まあね、若い頃の恋愛なんて誰にでも十や二十くらいあるわよ。こう見えても私にだって‥‥」十も二十もあるのか! お前は寅さんか。
「涼子さんには適わないけど、私も若い頃は美人の誉高々だったのよ」自分で言うな。それに「誉高々」って、それ何なのだ。
「振ったこともあるし、振られたこともある。でも、そういう若い時の経験が心を大きく豊かなものにする。心を強くする」
和美は若い頃どんな恋をしたのだろう。聞きたい気はするがそれはまあいい。言わぬが花、聞かぬが花という言葉もある。
和美が微笑みを満タンにした顔で言う。「イケメン君とか美人さんとかいうけどね、人は見た目じゃないからね。見た目に心が備わらなくちゃ。私ね、今日の實平さんの話の中で、中倉さんが細川君ってイケメンを二回振ったって話があったよね。その細川君って心がないイケメン君だったんだよ、キット。中倉さんはそのことを分かっていた。だから心を持っているあなたを好きになった。昔、忠孝さんから聞いた話だけれどね。中倉涼子さんって、昼間の太陽のような面と、夜の月のようなところを合わせ持った不思議な魅力を持っていたって。こうも言っていた。大空のように青くて何処までも広い。かと思うと、山奥の誰も知らない、小さくて小さくて深い深い湖。――そんな人だったって。そんな素敵な中倉さんが好きになってくれたんだから、結果的には振られたとはいえ、あなた日本一の幸せ者よ。それに加え、私みたいな素晴らしい伴侶を得たんだからね。あなたは世界一の幸せ者」今日のところはそういうことにしておこう。
蒲池邸――いや、端月邸の夜は更けていく。
明日には引っ越しが完了する。そして私と妻の新しい田舎暮らしが始まる。
           (了)

Appendix 

キャスト 端月仁義
     中倉院長(故中倉涼子の弟)
     中倉院長の妻(故中倉涼子の大学の先輩)

中倉病院の院長室。部屋中央に応接セット。
端月と中倉が差し向いに座っている。

中倉「端月さんでしたね。高校時代、姉の涼子と付き合っていただいていた。あなたとは実際に2度お目にかかっていますよね。最初は姉が亡くなった直ぐあと、初七日がすんだ少しあとに尋ねてこられた。次はその年の冬だったか? お墓まで案内させていただいた」

端月「よく覚えておいでですね」

中倉「そりゃあ。姉の事故死は私も大きなショックでしたので。1週間くらいは姉の死を受け入れられなくて……あの当時、姉と私の部屋は2階にあったんですが、朝、目覚めるでしょ。あれ姉ちゃん未だ起きてないのかよって、ドアをトントン叩く。叩いている途中で、そうだ姉ちゃん死んじゃったんだ、もういないんだってネ」

端月「お察しします。私もこの歳になって、身内を亡くす悲しみ、やっとわかるようになった。自分の父と妻の両親の死に立ち会いましたので」

中倉「でも、あなたは姉が亡くなった時、お参りに見えられて、線香を仏壇に供えながら声をあげて涙を流していた。母と私が立ち会ったんです」

端月「あの時は人ってなんでこんなに簡単に死んじゃうんだよ、なんて思いましてね、悔しくて悔しくて、つい……」

中倉「今でも覚えているのですが、姉のお通夜、お葬式には中学校、高校、大学の友達なんかは沢山来ていただいて。女性で泣いている方は大勢いました。でも男の人で声をあげて泣いてくれたのは端月さん、あなた一人だった」

端月「お恥ずかしい」

中倉「とんでもない。涙は恥ずかしいことではないと思いますよ。ところで、何か姉に関してのお尋ねとか」

端月「はい。もしお判りになるならばということなのですが、2点ほどございまして――」
 
院長室のドアが開き、院長の妻が入ってくる。湯呑をお盆にのせて携えている。

妻「まあまあ、お茶も差し上げず失礼いたしました」

 妻、応接テーブルに端月、院長の順に湯呑を置く。

中倉「妻です。こちら姉の高校時代の同級生の端月さん」

妻「ええっ、涼子さんの同級生の方ですか。それはそれは」

端月「はじめまして。端月と申します」

中倉「妻は姉の、大学の先輩でして。おまえも端月さんのお話お伺いしていけば。懐かしいだろう」

妻「涼子さん……。ほんとうに懐かしい。端月さんご一緒させていただいても」

端月「勿論です」
 
妻、中倉の隣に座る。

端月「質問なのですが――實平さんは御存じでしょうか?」

中倉「實平? ああ確か、姉と中学校で同級だった。高校も同じだったのかなあ。私も中学校は姉と同じ学校に入学しましたのでね。私が一年の時、姉と實平さんは三年生でした。その實平さんがなにか?」

端月「こんなことお聞きしていいかどうか……」

中倉「私の知っていることなら何なりと」

端月「それでは不躾承知の上でお伺いしますが、中学・高校通じて、あるいは高校卒業してから、涼子さんと實平さんが付き合っていたなどということは?」

中倉「アハハハ! それはない。絶対にない。確かに實平さんと姉は、中学時代から仲のいい友達だったと思いますけど」

端月「かなり自信満々におっしゃる」

中倉「そりゃあ姉弟ですから。姉はネ、ああ見えてもかなりの面食いだったんです。女の子の友達が多かったとは思いますが、中高通じて實平さんともう一人……男の子の友達がいました。ええーっと……確か實平さんと下の名前が同じだったことは憶えているんですが、すみません、なにぶん昔のことなので。その子はなかなか男前だった。姉がボーイフレンドに選ぶなら、そっちの方だろうと当時私は思ったもんです。高校の時だったと思うのですが、『例えばなんだけどさあー、實平君みたいなブサイクとは絶対キスできないよね、ムリムリ』みたいなこと、笑いながら私に言っていましたから。姉ってね、そうゆうところもあったんです。マア―普段は明るくて人当りもよくて……。何しろ美人でしたしね。胡麻化されてしまう。特に男性は」

端月「そうなんですか。なんだか、私の知らなかった涼子さんの一面というか‥‥」

中倉「人間って誰でもそんなものじゃないでしょうか。良いところがあり、悪いところもある。それらを加減乗除したのが人間なのでしょうね」

端月「確かに。正面から見るか、後ろから見るか、上から見るか、下から見るか、斜めから見るか――ものの形って違って見えますものね」

中倉「ごめんなさい。話の腰を折ってしまって。あなたの姉に対するイメージを壊したかもしれない。私は姉を好きだったんですよ本当に。自慢の姉でしたから。ただ、端月さんよりはマア過ごした時間が長い。だからそういったマイナスの部分も姉の一部だったことは、あなたよりはわかっている。端月さんは高校時代から姉が亡くなるまでの付き合いだったんですよね」

端月「私、高校2年の時から涼子さんと付き合い始めて、大学時代は徳島と東京に離れてしまいまして。いわゆる遠距離恋愛というやつだったんです」

中倉「存じ上げております。姉はあなたと付き合っていることを、家族に隠していませんでした。あなたの東京からの電話を私、姉に何回か取り次いだことがありました。あの時の姉の嬉しそうな顔。今でも思い出しますよ」

端月「このまえ、涼子さん――お姉さんのことを思い出す機会がありまして、その時の相手の方のちょっとした発言が今でも引っ掛かっていまして」

中倉「どういった」

端月「その人の推理では、中高の2回、實平さんは涼子さんにふられた。ここからは私の想像というか、妄想に近いのですが、實平さんは涼子さんを諦めきれず、私が東京にいることをさいわいにお姉さんに近づき――」

中倉「アハハハ! 無いですよ。實平さんはそんな人じゃない。これは自信をもって言えます」

端月「というと」

中倉「姉の通夜に實平さんみえられましてね。近所なもので。その時實平さん、しみじみおっしゃっていました。中学校の時から僕みたいなやつと仲良くしてくれて、涼子さんとはこれからもいい友達でいたかった。なんで二十歳そこそこで死んじゃったんだよ。悔しいって」

端月「そうだったんですか。妄想が過ぎました」

中倉「いえいえ。疑念は心のうちに溜め置くと、よからぬものに成長しますから。私の解答で納得いただけましたか」

端月「はい、實平さんに関しては。もう一つ質問がありまして。涼子さんが事故に遭われた夜、電話があり家を出た。電話の相手は誰だったか御存じでしょうか」

中倉と妻、顔を見合わす。

中倉「私も後で知ったんですが……」

妻「あなた、その件は私の方から。あの晩、涼子さんに電話をしたのは私なんです」

端月「そうだったんですか!」

妻「涼子さんと私は、大学のあるサークルに所属していまして。私のほうが1年先輩だったのですが、彼女とは気が合うというか、仲が良かったんです。あの晩涼子さんに貸していた資料が急に入用になって。私は取りに行くといったのですが、涼子さんは私が無理いって借りたのだから、先輩勉強中でしょ。持っていきますって……」
 
妻、涙ぐむ。

妻「あの時私が電話しなきゃ……涼子さんはあんなことには……」
 
中倉、妻の背中を優しく撫でる。

中倉「葬儀の時、大きく嗚咽している女性がいました。それが妻だったのですが……。初七日にお参りさせて貰えないだろうかと、後日電話がありました。父母と私はその時に事情を知らされまして。妻の落ち込み方は酷かった。かえって私たち家族のほうが気を使うほどでした。慰め役にまわったのは歳の近い私でした。妻は度々我が家を訪れるようになりましてね。私は当時、医学部を目指す受験生だったのですが、英語が苦手でね。両親を説得して、妻に家庭教師をやってもらったんです」

端月「そして、二人に恋が芽生えて……」

中倉「そういうことなんですが、まあ、私たちの話は……。私たちにも色々ありましたからねえ。結婚に際し父に猛反対されたり‥‥」

妻「こういうこと言うと不謹慎かもしれないのですが、涼子さんの事故は私たち二人を結び付けてくれたかもしれない」
 
妻、目じりを指先で拭く。

中倉「そうかもしれないね。人と人の縁って不思議なものです」

端月「そうですね。私だって今回、涼子さんのことを思い出すことが無かったら、こうしておふたりにお会いすることも無かった」

妻「涼子さん、幸せ者だと思いますよ。どういったきっかけだったかは存じ上げませんけど、数十年前のことを端月さんに思い出していただいたのだから。ありがとうございます」

端月「いえいえ。もうすぐ涼子さんの祥月命日ですよね。お墓参りさせてもらっても」

中倉「ありがとうございます。姉もきっと喜ぶでしょう」

 3人お互いに頭を下げる。
     (暗転)
     True end

愛ターン 友ターン 

執筆の狙い

作者 u
opt-220-208-9-188.client.pikara.ne.jp

いま3面・2面にある前々回、前回投稿の続き――トータル300枚ほどのエンタメ短編です。
ほんで今回で完結。32300文字です。
よろしくお願いします。

コメント

夜の雨
i118-18-72-209.s42.a027.ap.plala.or.jp

読了しました。

ラスト近くでまさかの展開。
○○さんと○○さんが兄弟だったとは。
そういえば、一作品目か二作品目で伏線が張ってありました。
そのほかの重要問題もうまく練りこんであり、違和感なく解決しています。

全体の感想は「うまい」の一言。
三回に分けての投稿で原稿用紙300枚ほどあると思うのですが、人間ドラマが絶妙に書かれていました。
主役やらわき役の登場人物、すべてにわたり魂が入っています。
だから物語に奥行きがありました。
ミステリーのテクニックを使ってうまく謎の部分を創り、話を展開させているので、読んでいて飽きませんでした。ユーモアもあるしね。
この作品を書くのに、相当準備をしていると思いました。
問題を感じたのは一作品目の前半部分だけです。

で、この作品どうして一人称で書いたのでしょう。
ところどころ怪しい文章がありました。
三人称のほうが書きやすいと思いますが、多くの人物が出てくるし、おまけに説明やらいろいろとあるしね。
それにしても、これだけ物語を書くのがうまいとなると、公募とかも出すのなら楽しみですね。
御作、十分に楽しめました。

本編以外のシナリオの部分はまだ読んでおりませんので、また、感想書きに来ます。
長い作品で奥行きも深いので、雑談がてらに何回か再訪すると思います。

お疲れさまでした。

夜の雨
i118-18-72-209.s42.a027.ap.plala.or.jp

Appendix 読みました。

中倉涼子の死にまつわる謎の部分が書かれているわけですが、収まるところに納まったという感じですね。
「中倉病院の院長室」で端月仁義、中倉院長(故中倉涼子の弟)、中倉院長の妻(故中倉涼子の大学の先輩)という具合に三人の会話が交わされます。
涼子は電話がかかってきたあと出かけて、交通事故に遭います。
なので、この事故は仕組まれていたのではないかとも考えられていたのですが、涼子の大学の先輩である「中倉院長の妻(A)」が結婚する以前に資料を貸していて必要になったから電話をかけたというような展開になっています。
Aが資料を取りに行くといったわけですが、涼子が借りていたので、持っていくということで外出して交通事故に遭った。
これで、本文に書かれていた謎の部分が解明されたわけです。
つまり實平と小、中、高と同級であるイケメンの「細川亮一」も関係なかったことになり、御作のミステリー部分はすべて平和裏に解決しました。
この涼子の死には、Aが、涼子の弟と結婚するきっかけを与えたことになり、作品の完成度に花を添えている。

ここまで練りこんでいたのかと、思わず笑ってしまいました。

お疲れさまでした、面白かったです。

u
opt-220-208-9-188.client.pikara.ne.jp

夜の雨さま お読みいただきありがとうございます

>そういえば、一作品目か二作品目で伏線が張ってありました。そのほかの重要問題もうまく練りこんであり、違和感なく解決しています。
あたし基本的にはノープランでは書きませんので、本作もかなりの個所に大小含めて伏線は張ってあります。

>主役やらわき役の登場人物、すべてにわたり魂が入っています。だから物語に奥行きがありました。
ありがとうございます。あたし描いているうちに、キャストの生い立ちとか家族とか、今迄の歴史が浮かんできて。(たとえチョイ役でも)
それで、彼ら彼女らをもう少し描きたいと思ってしまい、ついつい(笑
それの失敗例が冒頭登場した池波さんなんです。

>ミステリーのテクニックを使ってうまく謎の部分を創り、話を展開させているので、読んでいて飽きませんでした。
本作のメインストリはUターンして、田舎で家畑を買う苦労話なので、余りお話としては一般受けしないのではないかと思い、ミステリー要素を加えることで、なんとか読んでいただこうという魂胆です。

>この作品どうして一人称で書いたのでしょう。ところどころ怪しい文章がありました。三人称のほうが書きやすいと思いますが
主人公視点の1人称にしたのは、メインテーマ――田舎の過疎とか農業政策とかその他諸々を主人公の口でダイレクトに喋らせることにより、インパクトが出せるかなー、切実さが伝わるかなーナンテ思ったものですから。

ただ、物語を進めるにつき、主人公がかかわってない部分(例えば蒲池さん、實平さんの過去話とか)は1人称では書きずらい。従ってメインは1人称。その他一部は3人称みたいな多分中途半端な描きかたになってしまったのかなーとは思います。

>三人称のほうが書きやすいと思いますが、多くの人物が出てくるし、おまけに説明やらいろいろとあるしね
そうですね。マアこういう書き方もありかなと思い、1人称3人称ごちゃまぜ手法を使ったのですが、3人称オンリーのほうが描きやすかったと思います。

Appendixについて
以前、本作が8割がた仕上がっていた時、このお話の1部を使ってミステリーが描けないかと思い、あたし短編(50枚公募用のプロトタイプ)をごはんにUPしました。

結末(落ち)が中途半端だというご意見が多かったので、感想諸氏のご意見を参考に本番は書き直して出しました。その時夜雨さんも貴重なアドバイスいただいたように記憶しています。

謎を残したままで終るのもミステリーの手法の一つではありますが、あたしの腕ではマダマダと思いまして(笑。
やはり、ミステリーは最終でがっちり全ての謎を回収しなければならない。
本作もそういった意味で最後にこの項を持ってきました。

ありがとうございました。

白い部屋
124-241-072-122.pool.fctv.ne.jp

読了しました。
すでに投稿済の1,2も含めてコメントさせていただきます。

まずオチが素晴らしいと思いました。
なぞに対してきれい落としていて、また爽やかに物語を閉じているなという印象です。読後感がいいです。
前半の蒲池家のエピソードが最終的にここで効いてくるのかと驚かされました。
また爽やかに物語を閉じていると言いましたが、その印象はu様が非常に丁寧に各登場人物と舞台となった土地を描いているところに起因しているのではないでしょうか。本作品全体を通してされていた細やかな描写も、最終的にこの読後感に一役買っているのではとも思います。

ただ、もう一点言わせていただきたいことがあります。
私が本作を読んでいてターニングポイントになった部分があります。
それは、2回目の投稿分、徳島秋16の中にある、伊東行政書士が話した言葉、

>暫しの時間があった。首を捻る。ややあって言う。
「ほんまに一か月で許可が下りるって言うてましたか」更に首を捻る。
「はい。大丈夫だと」和美も私の言葉に合わせ頷く。「事務局長の實平さんから直接聞きました」
「おかしいなあ。わしも齢やけん、頭が多少惚けてきとるけんど。ほだけんど、ここは……。ちょっと待ってよ。農業委員会に電話してみますわ。誰かまだ居るやろか」

この部分で初めて「お!」と思いました。實平さんがなにか怪しいということが暗に、もしくは勿体つけたかたちで表現されております。私はこういう部分が好きです。
読者は読みながらそういう部分を常に探していると思いますので、こういう箇所にはすぐに飛びつきます。エンタメ系だと特にそうではないでしょうか。この箇所で初めて、物語の流れが『田舎で土地を買いたいが、誰かが何かの理由で横槍を入れてきている』というものになり、では『誰が』『なぜ』『この土地、家になにか因縁があるのか』『中倉涼子とは』『實平さんとは』想像しだしました。先を読み進めたくなりました。

逆にいうと、この箇所までが正直きつかったです。ある程度忍耐しました。
1,2のコメント欄で文の書き方について批評ありましたが、文体・文章というより構成の部分に問題があって読み手の推進力を阻害しているのではと感じました。上記の伊東書士の言葉があるまで、私はこの物語が一体どういった方向性のものなのか、わからない状態で読まされました。これがつらいです。読み手は贅沢なもので、『先の読めない展開を期待しつつも物語の大まかなガイドラインはほしい』『ある程度は先を想像させながら読ませてほしいが、最終的にはその想像を裏切ってほしい』なんて思う部分があるのではと思います。ミスリードしてほしいのです。
そういった観点からいうと、本作の前半部分に一考の余地があるのではと感じました。

ただ最初にも申しました通り、最終的にはきれいに物語が落ちております。ですので前半部分は全く冗長とも思えないのです。紀行文的な文体は、最終的にこの土地とそこに住む人々を上手く表現していると思います。さらに各登場人物に対する丁寧な描写がそれに説得力をもたせているとも思います。物語の奥深さを感じさせているのもu様の丹念な描写にあるのかなと。平坦な展開と良い人しか登場しない物語も、あのオチなら逆にありなのかなと思います。その土地の人々のおおらかさがあってこそのあの読後感といいますか。

ここら辺が私もどう伝えればいいのか迷うところです。シュリンクを必要とする部分はありますが、取捨選択が難しいです。

以上、私が読んで感じたことをコメントいたします。
ご参考になれば。ご健筆を願います。

u
opt-220-208-9-188.client.pikara.ne.jp

白い部屋さま 全てお読みいただいたのですね(^^♪
長いのに ありがとうございます

>その印象はu様が非常に丁寧に各登場人物と舞台となった土地を描いているところに起因しているのではないでしょうか。本作品全体を通してされていた細やかな描写も、最終的にこの読後感に一役買っているのではとも思います。
お褒めの言葉いたみいります。うん。端月の故郷、しかも蒲池さんの土地とかが舞台設定ですので、そういった感想を頂いて描いたかいがあったなーと。

>徳島秋16の中にある、伊東行政書士が話した言葉 この部分で初めて「お!」と思いました。實平さんがなにか怪しいということが暗に、もしくは勿体つけたかたちで表現されております。私はこういう部分が好きです。
あざーす! 本作かなりの数の伏線を張っています。あたし、エンタメ好きですので伏線は大事かと? 
その一つに引っ掛かっていただいて(失礼な言葉かも)やったー! みたいな。しかもそれまで読みずらかった本作の次読もうとの推進力(大げさ)になった。

>1,2のコメント欄で文の書き方について批評ありましたが
いやいや。あたし文章下手自覚してます(笑。

>構成の部分に問題があって読み手の推進力を阻害しているのではと感じました。上記の伊東書士の言葉があるまで、私はこの物語が一体どういった方向性のものなのか、わからない状態で読まされました。これがつらいです
ありがとうございます。他の方の感想――文章力の問題なのか、構成の問題なのかはさておき、エンタメは先を読ませて、読んでいただいてなんぼ。ここら辺が本作の課題ではないかと思いました。

>『先の読めない展開を期待しつつも物語の大まかなガイドラインはほしい』『ある程度は先を想像させながら読ませてほしいが、最終的にはその想像を裏切ってほしい』
これはエンタメに限らず小説として重要な部分だと思いました。

ありがとうございました。

九丸(ひさまる)
om126034099197.18.openmobile.ne.jp

拝読しました。

なるほどな結末でした。
嫌な人間を作らなかったのは、なんか救いがあって、ほっとしました。
伏線も回収してあり、キャラの背景も無理なくそこに折り込まれていて、ああ、納得だわ。そんな読後感です。
投稿されるごとに読み易くなっていってるように感じたので、読みかえしてみると、やっぱり最初徳島にくるまでの話がもっとコンパクトでもとなおさら思ってしまいます。いや、それでもこの結末を読めたので満足なのですが。
涼子さんの話も、ちょんと回収されていたので嬉しかったです。本編に組み込むよりも、後日談みたいに別添えなんてパターンもありなんですね。本編の流れに無理に組み込んでよどませるよりは、余計にじーんときました。
エンタメしてました。ミステリーしてました。
だから、きっとまだ手直ししながら育つような気がします。いや、育てて欲しい。なんて思ったりした次第です。

失礼します。

u
opt-220-208-9-188.client.pikara.ne.jp

九丸(ひさまる)様 全編お読みいただいたのね
長いのにありがとうございます

>読みかえしてみると、やっぱり最初徳島にくるまでの話がもっとコンパクトでもとなおさら思ってしまいます。
そうなんでしょうね。九丸(ひさまる)様のご指摘はごもっとも。あたし池波さんのエピは遊び過ぎてしまって(笑
他の方からの感想もこの部分ダメダメ。
でも、もったいないので別の作に使おうと思っているんですよね。50~100ぐらい短編書けるかもね?

>涼子さんの話も、ちょんと回収されていたので嬉しかったです。本編に組み込むよりも、後日談みたいに別添えなんてパターンもありなんですね。本編の流れに無理に組み込んでよどませるよりは、余計にじーんときました。
時系列でいうと別添付録Appendixは幕間Intervalに続くエピなのですが、最後に持ってきたのはマアいやらしい姑息な演出ですwww
ただ、こういう設定をとったことで、九丸(ひさまる)さんに〈余計にじーんと〉なっていただいたことは良かったかなー。ありがとうございます。なんせ、エンタメなんで(笑

うん。育てます!
ありがとうございました

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内