作家でごはん!鍛練場
きさと

マイクの冒険 (1)

 小学生になりたてのマイクに冒険など到底無理な話であった。マイクは有園一家の仔羊である。父親は有園家のイカれた当主有園曁生である。名の読み方は調べられていない。曁生はかつて日本と呼称されたアノ国において四十番目に有名な魔術師である。一方マイクはアノ国一番のうじむしである。昨日の夕刻手入れを忘れ荒れ果てた自宅の庭にさりげなく咲いた無色透明無味無臭の花の遠くで下から順にレタス、ハム、スクランブルエッグ、ハム、チーズ、レタスを重ねた直角二等辺三角形のサンドイッチを食べかけたところで突如上空四千メートルを飛行するAS332L1から裸で自由落下し無難に着地した白い動物にサンドイッチを口で奪われ白い動物が十八本の牙と可愛い前足でサンドイッチをむさぼり噛み砕き唾液で粘性の高い滑らかな塊にし飲み込みやすくしていくのをただ見るばかりで取り返せなかったぐずである。マイクは自宅に居候しているも同然だった。
 パナ姫がさらわれるのはよくあることである。パナ姫は顔の輪郭が丸く、瞳はつぶら、鼻もつぶら、唇もつぶら、あまり気にされないが耳も実際きれいでエロく、斜め後ろから見ると頬がぷっくらとし、体のことは知られていないが世の男共の八割が興奮する美女である。半年前の誘拐はスターク城での午後のお茶会の真っ最中であった。テーブル際でのエレキギターの搔き鳴らし、バリトンサックスの吹き鳴らし、特別に招待されたボーカリストの濁ったデスボイスによる発狂、鉄くずやドラム缶、潰れた自動車の残骸をスプーンで叩き散らした金属音、それらのほどよい塩梅により生成される芸術的な喧騒の横でアールグレイをちびちびと飲むなじみのスタイルのお茶会である。行き遅れた王と王妃はこの手のお茶会は嫌いであるので同席せず、この日はパナ姫が一番上座に座っていた。上座とは入口から最も遠い席であるので最も窓に近く、窓の外はオホーツク海に面しているので衛兵による警備が幾分手薄な側であるのが迂闊であった。
 窓側の壁が轟々と崩れ吹き入る強風で全員の髪と服が乱れ顔が冷え、頭、背中、四肢、尾が緑色、腹や翼が白色の髭面のドラゴンが、細く鋭い赤い目で人を睨み、丁重に伸ばしてきた髭を揺らし、腐った歯茎と真っ黄色い歯、それに寝心地の悪い絨毯のような舌を露わに神々しく吠え、早々に観念したパナ姫を、体に合ったお洒落な椅子ごと爪の尖った前足で握りあっという間に飛び去っていくのは場所は違えどよくあることである。同席者は皆ただ濃いだけの二杯目を味わった。お茶菓子として皿に盛られたマカロンも最中も、砂塵がかかり多くの人が食べたくなくなった。演奏には流石に支障があるゆえしばらくその場は静かになった。踊り手は踊るのをやめ、歌い手は歌うのをやめ、ベーシストは勢いで2弦3フレットのFの音を軽く出してしまうくらいであった。粉々の元・壁が散った方向には残酷にも青空が澄み渡っていた。
 のちほど適正な対処が講じられたのは言うまでもない。しかしドラゴンは強敵である。ドラゴンは、丸顔の男性が座る車椅子を細身の女性が歯医者まで運び、ピンクの長いスカートを履いた女性が茶色のダックスと散歩し、二人の子供が、我先に、と車通りの少ない道を駆けていく上空に突如現れ、晴れているのに無用な風を起こし、暑がりの人々を涼しくさせ、民家の庭先に巨大な影を落とし、物干し竿に丁寧に干された、洗濯物が乾いていくのを少し遅らせ飛び去っていく。またドラゴンは、生物学上は爬虫類に属しはするが、ごくまれに人間の言葉を話す、巨体を支えきれるとは考えにくい小振りな翼で思うがままに飛び回る、喉の奥あるいは腹の底から見るからに熱そうな紅蓮の炎を、焼いた方が美味い鳥に噴射する、などメカニズムが未知な身体機能をも携えている。それほど得体の知り尽くせないドラゴンに立ち向かうには当然勇者が必要だった。ところがアノ国は、勇者の欠乏に苦しんでいた。いくら甚大な旅費を払い、ドラゴンの住処に皮が剥がれながら行き着き、ドラゴンが先に死ぬか、自らが先に死ぬか、という無謀な賭けに残念ながら勝ち、姫を救出し連れ戻そうとその後日にまた別の色のドラゴンが姫をさらい、という終わりのないジレンマから逃れたがった勇者の辞職が相次いだためである。ある勇者の類いは度重なる冒険に心を患い四国の病院に入院し、またある勇者の類いは実家の母の危篤にかこつけ、未だ復興段階にある東京に帰省してしまっていた。業を煮やしたアノ国の政府は、臨時の勇者としてドラゴンを倒す冒険に出発する人間を、全国民の中から一人抽選で選出することに決定した。まず国民一人一人に固有の番号を割り振り、0から9まで印された紅白のルーレットに矢を放ち最も上の位の数字を決め、また別のルーレットで同じことをし次の位の数字を決め、……という幾分簡素かつ古い方式であるが、多くの観衆とテレビ中継・ネット中継に見守られていたので公正な抽選だった。とりあえずの一番手として選ばれたのがかのげじげじマイクであった。形の美しい北海道の西側の、人が集まる札幌の、中央区・北区・手稲区とだだ広い南区に押し潰されそうな西区の、たまに熊が下りてくる山から近くも遠くもない、無駄に豪勢だが内部や周辺の木の生え方などはたわいもない有園家の正面側の門の、右隣に縦に空いた膣口みたいな郵便受けにいつのまにやら届いていた、マイクの当選を知らせる赤地に黒字の紙を、有園家の執事、桐生が発見したのがつい一昨日の早朝である。


 桐生の車は後部座席の左側にドアがなく乗り降りしにくいという欠陥はあるが、桐生の他にマイクが三人乗れる程度の普通の軽ゆえ狭いところに停めやすく、ボンネットには誰もぶつかったことがない。色は、昼間車庫から出した途端に周りの景色が灰色がかり曲がって映り込む点を除けばほとんど完璧な黒である。マイクは桐生の車に乗るのが好きだった。それは小学校が終わり校門前までわざわざ迎えに来る桐生の車に図々しく乗り込む際の、案の定左側から乗ろうとするがドアがなく、一度車道に大きく飛び出し車の裏まで周り痩せた腕でドアを開け、車内に充満した、どうせマイクの手垢かよだれが腐った臭い(桐生の体臭ではないと願いたい)を吸い浮かんだ、あの口の端が斜めに引き上がった憎たらしい、変な、気色の悪い顔を見れば明らかである。
「学校、お疲れ様でした。また明日も学校ですね」
 マイクはよせばいいのに左側に座り、ランドセルを右側に置いた。ランドセルは青く、今日算数の授業始めに新しく配られた教材の分だけ登校時よりいっそう重く、背負っていると次第に肩を痛めていくのが良い気味だった。
「今日は、何を食べますか。何も食べなくても構いませんが、食べた方が、長生きはしやすいものです」
 桐生は昔よりも白髪が多くあと十数年で死んでしまいそうなのが残念であるが、縁が細く目立たない知的なメガネを掛け、髭は剃り残しがなく口臭もきつくない。がっしりとした温かみ
のありそうな両手は車のハンドルの上で交差されている。白いワイシャツを着た上にあえてネクタイを締めず、灰色のスーツは買いたてのようにうすら輝いており、一本二本のしわはあるが、有園家程度の家の執事として完全に正しい身なりである。
「うどん」
「分かりました。しかし私はうどんの店を知らないので、すぐさま調べてください。ちゃっちゃと調べてください」
 マイクは安い店で買ったのがバレバレなダサいズボンの右ポケットからスマートフォンを滑り出させ、本体右側面の細いボタンを長押しし電源を入れ始めた。マイクのスマートフォンはまだ電源が入るのに時間がかかるタイプのやつゆえじれったいことそこはかとない。マイクは所詮誰から電話もメールも来るでもないのに授業中は本体右側面の細いボタンを長押しし電源を切るなど一丁前に最低限のマナーをわきまえている。
「店を見つけたら言ってください。店を見つけたら言ってください」
 桐生はハンドルの上の左手に重ねた右手の中指を上下させ、左手を叩き音を出している。桐生は音楽性が豊かである。
 桐生は車を発進させるのが上手かった。
「とりあえず、家から遠ざかっていきます。店を見つけたら言ってください」
 車が動くにつれ、近くに見えていた小学校が、離れていくのは無論である。マイクが通う小学校は校舎がおおむね直方体で外見は白く、廊下は淡い水色で四階建てで、職員室は二階、音楽室は三階、体育館も三階にあり、マイクの教室も三階にある。また年に一回グラウンドに散らばった石を児童みんなで拾い集めわきによけ安全にする、近々に迫った運動会は事前に練習を充分に行う、などマイクが通うにはぬるすぎる。
「そういえば、昨日私が作って差し上げたサンドイッチ、美味かったですか」
 自分が作ったサンドイッチの是非を知りたいのは自然である。
「美味かった」
 マイクは嘘つきだ。
「そうでしょう。胡椒を加えたマヨネーズに気がつきましたか。ポイントは、レタスを四枚、ほぼ丸ごと使うことなのです。男は豪快がいいですからね。逆にハムは薄くした方がお腹にきません。チーズは別の容器で溶かしたものをかけるのが我流です。形も、本当は今風に違う形にしょうかとも考えましたが、元祖こそ最強と、思い直したのです」
 桐生は話が長い。
「そうだ、今度簡単な包丁さばきを教えて差し上げましょう。なにせドラゴンを倒す冒険に出る身ですから、道に佇むモンスターを、刃物を縦横無尽に振り回し切り刻むくらいの残忍さがないと、次のダンジョンに進めません。私は卓越したナイフ術を心得ているわけではありませんが、生魚くらいはさばけないと、海のダンジョンが長かったとき、食料に困ります」
 丁度車が進んでいくここ琴似は、特別派手なものが置かれているわけではないが、ずっと進んでいくとそのうち琴似から抜け出てしまうのがもったいなく感じさせる良い街である。乳白色の三階建ての家から二階建ての家がはみ出たような形状をしたまちづくりセンターは、入口横のシャッターに、豊かな自然と可愛らしい動物という虚構的な夢的な、それでいて世界のどこかにはありそうな景色が子供のタッチで描かれており、幼稚園か保育園のようでその実琴似を重んじる、大切な業務が執り行われているに違いない。その先に建つ歯医者は歯医者ゆえ痛そうだが、白地に水色の文字という爽やかで鎮静作用のあるデザインの看板は、治療中に思い出す余裕があれば痛みをいくらか緩和させるに違いない。さらにその先に建つメガネ屋は、赤地に白い文字という戦争的な看板ゆえよくずれる上質なメガネを売っていなければ変だが、この店のメガネをかけられる目のお悪い方々は、目の良い奴らより物事の核心をはっきり見ているに違いない。マイクはこれらを車のサイドウィンドウ越しに眺めているゆえ実物よりx%は歪んでいるので窓を開ければ真の意味で琴似を見たことになるが、四月の札幌の寒さを鑑みればそんな野蛮をしでかしていいはずがない。マイクは何があろうと窓を開けてはならない。
「いいですか。ドラゴンですぞ。姫を倒してはなりません。ドラゴンを倒すのです」
 ある朝人々が起きれば外は、はじめからなかったように雪がなくなり、いや今では歩道の、車道沿いにときどきひっそりかたまっている。丁度車が進んでいく道は、真ん中になにかを置くのを忘れたように幅が広く、遠くの施設か住居かまだ見えない建物が、きちんと小さくは見えるぐらいに真っ直ぐ伸びている。歩道で親身に育てられた、草の生えつつある木や、青い服を着た女性が、きっと遠くに電話をしている電話ボックスが珍しい。マイクは右奥から流れて来た、弁当屋、接骨院、携帯ショップ、クリーニング屋、出入口周りの木が多めな西区役所、オレンジ、緑、赤の縞模様が格好良くおにぎり(ツナマヨ)、爽健美茶、グミ、プリングルズ、ボックステイッシュ、ポケットティッシュ、ニンテンドープリペイドカードが簡単に手に入るセブンイレブン、ピンクの四角い建物が頭抜け実は特別派手であったイオンショッピングセンター、ツルハドラッグ、セブンイレブン、不動産屋、居酒屋に行きたいか行きたくないか考えるのが追いつかないうちに左奥へ流れていくのがもどかしいに違いないが、桐生が赤信号で車を止めるごとに、直交する車道の上にぷかと浮かぶ、はるか向こうのふわふわの雲に重なった、青信号というありふれた物体ぐらいは散々見ることができた。
「なにごとも、自分一人の力でできるのが理想です。生きるのは全員でですが、生まれるのも死ぬのも一人なのです。この車も去年買い替えたものですが、またもやハンドル付きのを選びました。やはり自分で運転した方が、かえって安心します」
 尖りがなく歩ける歩道の縁石につまずけば痛そうである。空を隠す建物群の後ろに何があるかは見えないが、少なくとも太陽を直視することはなさそうである。主に車の走る音と、何の音か聞き分けるのが難しい細かい音が聞こえる。ほこりの混じりが少なそうな澄んだ風が吹いているが、車の中ではマイクも桐生もそれを知り得ない。
「私は直進しかする気がありません。すでに通り過ぎた店や、道沿いにない店は駄目ですよ。それで、店は見つけましたか」
 マイクは、あくまでガラス越しに、壁がのっぺりとしつつ頑丈そうで窓が一つもない高いマンション、二十三時間営業のカラオケボックス、自宅に似ていない知らない人の家、それに段が整数でない数だけある階段を見ていた。


 八軒に新しくできたイタリアンレストランは屋根が斜めに傾いた茶色い小屋のような風貌ゆえ、遠目ではチョコレート製の愉快な家にしか見えずアリか汗をかいた肥満の男しか近付きたがらないのが難だが、地面よりひとしお高い入口まで上るたった五段の階段の横に、より緩い坂が併設されており足が快調でない人々にやさしく、また店内を存分に覗けるほど透け透けの入口のドアの前で、店で提供されうる全料理を記した大きなメニューを自由に閲覧できる点は賢い。桐生は店の前の、もちろん階段も坂もふさがない位置にスムーズに停め、シートベルトをスムーズに外し、車からスムーズに降りたのに対しマイクは性懲りもなく一度左側から降りようとしドアがなく、ランドセルを持ち汚い尻を這わせるように右側まで動くのにさえ総計二十三秒も費やすのろまの餓鬼のおがくずの痰である。
「さあ、着きました。ここが、私がはじめから連れて来たかった店です」
 桐生は右手の長い中指で知的なメガネのブリッジを上げたが格好をつけるなど俗物的な意図は断じてなく、単にずらしたメガネの重みを耳たぶで感じさりとて完全に自身の体の一部ではないと再確認したにすぎない。一方マイクはちっこい足を不器用に伸ばし車外に立つのもしどろもどろで、丁度札幌の東の果てから吹いていった清らかな風が、頬や首筋をなでていっても何の感慨も表さないほど情緒がなく、誰の許しを得て札幌に住んでいるのかまるで判然とせずむごたらしい限りである。
「私は家で夕食を食べるという職務があります。もう帰るので、帰りは一人で歩いてください。道はさっき散々見ていたでしょう」
 桐生は革の財布から出した千円札をマイクに与えた。
「これで、大好きなうどんを食べてください。余ったお金でミニカーを買っても構いませんが、バスに乗るのは楽なのでご法度です」
 桐生は革の財布を灰色のスーツの内ポケットにしまい、金などという人間の欲の象徴たる概念の気配を消し去った。マイクのぎとぎとの両手に握られた千円札は今日の札幌の弱めの風では角がめくれもしなかった。


 店に入った瞬間のマイクが先客らの気に障ったのは愉快である。現に、窓に近く最も外が見やすい(空か道路しかないが)席を陣取るおばさんは、生活習慣に運動が組み込まれていないせいで太っているが、いかにも高級そうな、ツガザクラが編み込まれたベージュのブラウスを端正に着込み、マイクのことを薄目で嫌そうに眺めながら、マイクの吐息を吸わないように息を止めている。その奥の壁際のおばさんは、後頭部に丸く束ねた色合いの綺麗な茶髪が、赤々とはしていないルージュと相性が良く、まつげを念入りに化粧することで目を大きく見せ、ダージリンティーがいっぱいのカップを、小さい握力で水平なまま持ち上げ、唇に添え軽くティーを飲みまたテーブルに戻すという一連の所作を、あたかも力を入れていないように自然に謙虚に披露しており、ちょうど後ろの壁の正方形の、夕方の田園で、赤ん坊が初めて白いウサギに出会う模様を描いた絵画から飛び出してきたような品格を携えている。その隣のテーブルのおばさんは、誰でも持っているノートパソコンを堂々と開き、かじられた林檎のマークを逆さまに見せながら、店がすこぶる混雑はしていないのをいいことにいつまでも居座り続けているが、その分当然、時間配分と内容量が厳正に配慮されたプレゼンテーション用の最高の資料を、ときおり大きな文字を駆使しつつ作成している。厨房間近の席のおばさんは、首に撒き散らした霊猫香の香水の蒸気が、厨房から運ばれる料理に溶け込み味を変化させているうえ、いちいちああだこうだと述べるのも煩わしい奇妙な格好を決めているが、その割に「北海道産うにのパスタ」という案外凡庸な料理を、大皿に顔をうずめる体勢で無心に貪っている。マイクは一番人がいないあたりの席に座った。
 マイクのひ弱で汚い手に掴まれた不運なメニューブックは表面が黒く石のように硬く六頁しかないが、例えば三・四頁目を開くと、『あさりと現金のペペロンチーノ……千六百円』といった新時代的に気の利いた料理の数々が、実際には斜体の横書きで、数字は当たり前だがアラビア数字で印字されており、真下に小さくイタリア語訳が添えられている点は余計であるが料理の写真を掲載しない分別を鑑みればよしとしてよい。『パスタ風饂飩……千円』という記載もあるが、マイクは算数の宿題中くり下がりのある引き算を間違える程度のふぬけた能無し蝸牛であるから『饂飩』を読めるはずがない。マイクは絶対に饂飩を食べることができない。
「啓介! もっと腕を振って走りなさい」
 信じ難いが若々しい声で咆哮したのは先の、奇妙な格好を決めていたおばさんである。あのおばさんは実のところ名を権田美(ごんだび)といい美人である(過度に近寄らなければ)。啓介と呼ばれた低身長の少年は、髪は逆立ち頬は骨ばみ目は細く、服やズボンは暗色のものを身につけているためあらゆる批評を妨げている。権田啓介は店内を、例えば母親から遠く離れた椅子の上を出発し、無関係の客のいるテーブルの下を経由したあと母親の膝元まで到着する、といった無秩序なルートで走り回り、ときどき奇声を発しては、最寄りの壁を手で叩き散らしたり、不格好な体勢のジャンプをしでかし壁の絵画を素手で触ったり、客の正面で唇を震わせ唾を飛ばしたりしている。傍若無人と言ってしまえばそれまでであるが美人が息子にやらせることゆえ重大な意義を内包しているに違いない。
「ママ! ほうびに食べられる粘土を買ってよ!」
 権田啓介は母親の太ももを両手で揺らし母親の食事の邪魔をしている。奴の声は焼酎でも飲み干したようにしゃがれ音質が悪いが、リバーブだけは一丁前ゆえ離れていても聞き取れないことはありえない。
 権田啓介はこっちを向いた。
「マイクゥゥゥゥゥ! マイクゥゥゥゥゥ!」
 奴の標的がマイクであったのはしめたものだが、奴が全速力で近寄って来るにつれ奴の目尻に粘る目やにから鼻の穴まで見えてしまうのは気分が悪い。
「観たよ。あれ、君の番号だろ。君のでたらめな、美しい番号に、拍手喝采だったね。パパも、ママも、ババも、ジジも、豆腐を食べながら発狂してた」
 権田啓介はマイクの向かいの椅子に腰掛けテーブルに肘をつきにやにやとしたり顔で微笑んでくる。
「なぁ、何食べる気? 述べろ」
 マイクは次に同じテーブルを使う客の清潔を顧みない横暴な性格ゆえメニューブックの一つの料理の名を下水まみれの指でなぞった。
「シチリアレモンの乗った大好きな食べ物」
「ああ、これ前食べてすげえ不味かったやつじゃん」
 マイクは突如ぎょろぎょろとした二つの目玉を北側の角の観葉植物の方へ、また厨房とホールの間の仕切りの方へ、さらに天井の円い薄橙色の電灯の方へきょろきょろ動かすという奇妙奇天烈な仕草を見せた。権田啓介は事実、学校の教室ではマイクの一つ後ろの席ではあるが、奴とは今日の担任の先生の、番号が素数の人にはビスコを配りますよ、という出任せにつられたマイクがポケットからこそこそ出した、自分の番号をメモした紙を後ろから盗み見られたり、奴が手から放った輪ゴム鉄砲がマイクの肘に当たったりといったぐらいの関わりしかなく、共通の趣味や最近あった面白い出来事など話の種として思い当たる節があるはずがない。酒や女の話をするには二人は若すぎる。マイクは話題を絞り出すのに大層苦しんでいるのである。
「七年前に誘拐されたクア姫がどうなったのか、詳細に教えろよ」
 マイクごときがよく頭を捻ったものだ。
「うむ。知りたくば教えてやるわい。クア姫は自身が王族に生まれたことを誇らしく思っていたが、ある晩珍しい味のヨーグルトを買いに行く途中で竜にさらわれ、一度は助けられたが、それから度々さらわれるのが嫌で王族を引退し、その後は、人工芝の豊かな丘で介護の仕事をしているとか、空港の薬屋でまともな薬を売っているとか、様々な目撃証言がネット上には蔓延している。よく似た顔の女優がいるとの報告もある」
 権田啓介の情報はマイクですら昨日スマホで調べ知っている事実の羅列でしかなく新規性に乏しいが、ちっぽけな人間の言えることなど所詮はそんなものである。
「俺、ナスってそれほど好きでも嫌いでもないわ。あと、ほうれん草もそれほど好きでも嫌いでもないわ」
 権田美が食事を終え会計を済ませれば親子は店からいなくなるのだ。ところが権田美は、『北海道産うにのパスタ』をおかわりしていた。前述した天井の電灯と全く同じ(あるいはやや明るい)色のソースが絡む太麺は、上から見る限りではうにの香りより細切りの海苔の陰気臭さが勝っているが、目をつむり麺を口にした人間は全員、アノ国の北の海の底の、棘を伸ばし穫られたくなかったうにを収穫し、自前の器具で殻を割り、内蔵まみれの精巣か卵巣をへらで搔き出す(遅くともこの瞬間までにはうには死んでいる)一連の過程を忠実に想像し、唇の周りに付着したソースを人目を気にしつつ舌で舐め、結果残った唾液の跡は自然に乾燥するのを待つか手っ取り早く服で拭うに違いない。しかし権田美の実際の挙動は、眉間を歪め口を阿呆らしく開き長いコップに注がれた水を狂った調子で飲んでいくという不自然かつ滑稽なものである。察するに、パスタを調理する過程においてコックがわざと混入させた、唐辛子の大きい欠片を期待通りに口に入れたとみてまず間違いはない。現在権田美の口内では例えば、赤熱した鉄の棒を舌に当てられているようか、あるいは舌を新品のつるはしで掘削されているようか、いずれにせよ舌全体を燃やし尽くされそうな苦しい感覚が引き起こっているものと考えられる。
「啓介! ドアに鍵を掛けなさい」
 権田美の美声もはや聞き飽きたが、命令を受け律儀に椅子から床に降り、店の真向かいの、ミズナラの若い木と、トタン屋根の普通の家を半分隠すドアの前まで颯爽と滑り込んだ権田啓介は犬だ。奴はドアに背中を向けズボンを下ろし、青地にヨットの柄のパンツを下ろし、恐らく歯ぎしりをしながら力むと、意外にも洗われた肛門から、人の腕の形状をした大便が伸びた。大便は茶色くもし指で押せば潰れそうに思える外見は平凡であるが、詳しく顕微鏡で観察すれば今朝奴が家で飲んだ塩胡椒の風味が丁度良いキャロットスープに含まれていた食物繊維が残っていると明らかになるものだった。大便の指先はドアの右上の鍵をつまみ、ひねり、鍵が確かに掛かったところで肛門のあたりからぷっつりと切れ、腕が床に転がった(大便)。結果店の入口が閉ざされたことでこの店は永久に利益を生めなくなった。汚染した鍵を十分に拭き消毒すれば開けることも出来たが、この店は紙ナプキンや手拭きの類いをあえて用意しない趣向だった。またドアの真横に設けられたもう一つのドアは、『従業員専用』の張り紙が示す通り客が使用することは禁じられていた。面接を受け従業員として採用されれば使うことも出来たが、生憎この店の従業員として人間は求められていなかった。よって客らは一生を店内で過ごすこととなった。
「ママ! うんちはね、もらすしかないんだよ!」
 ところで大便が乗っかっていない部分の床を見ると、店の下にもう一つ同じ店があるのかと妄想するほど艶があり客が土足で歩いた跡がまるで認められないと知れる。外はほとんど快晴に近いとはいえ店の周辺には生き生きとした柔らかい土もきちんとあり、店内を清掃員やロボット掃除機の類いが徘徊しているわけでもないのになぜこれほど不可解な現象が起こるのか全くの不明である。
「君が命より大切だという純金の木箱を見せてくれ。いいだろ?」
「無論」
 無駄に俊敏な権田啓介はマイクのいるテーブルまで戻ってきていた。マイクはひっそり床に置いていたのに惜しくも踏まれなかったランドセルを泥臭い両手でぎこちなく持ち上げ、中から純金の木箱なる物体を出した。純金の木箱はマイクが箱を軽く揺らすたびに黄色と茶色からなるグラデーションが流れるように移り変わるところは遠目で見ればきらびやかだが、表面の、邪魔っ気な大木から滅茶苦茶に伸びた枝か、腐葉土に群がる大量の蚯蚓を彷彿とさせる凸凹した装飾はいかにも悪趣味であり、入手経路など細々としたことは今は興味の範疇にない。
「綺麗だなあ。純金だなあ。銀すら入ってないんだなあ。絢爛とはこれだなあ。いいなあ。うらやましいなあ。ほしいなあ。くれないかなあ。今すぐくれないかなあ」
 権田啓介は細かったはずの両目を不気味に見開きよだれを垂らしそうな大口を開け純金の木箱を凝視している。コイツはのちに純金の木箱を盗むに違いない。
「ほしいほしいほしいほしいほしいほしい」
 権田啓介は床に仰向けに横たわり手足をしきりにばたつかせ床を攻撃し、要は一生懸命だだをこねている。奴の服についていたかいっても床に堆積していた塵が舞うのがよく見えるゆえ気管支の弱い人が近くにいれば怒鳴り散らしていただろう。
「あげる」
 マイクは純金の木箱を手渡した。
「わあい。純金だ純金だ」
 そのとき丁度従業員が、生ゴミがふんだんに入った袋の乗った台車を押しつつ厨房から出て来ていた。ちなみに生ゴミの内容は、うずらかにわとりかだちょうのばらばらの卵殻、にんじん・ごぼう・レタスの要らなかった部分、トマトのへた、えびのひげ、ずいぶん前から底にあったが何かの拍子で上がってきたもちもちしたもの、茶色いところが四分の一あるバナナの皮、魚の骨、由来が確かでない緑のねばねば、他各種というざらにある構成のものである。権田啓介は台車に駆け寄り純金の木箱を生ゴミに投げ込み、拍子で主にバナナの皮がひっくり返り箱にかぶさり、結果箱は完全なる生ゴミとして従業員専用の方のドアから店の外へと出て行けた。
「ママ! 念願の純金だよ! もう捨てたけど」
 アノ国の実情はこのようであるばかりか、各県、各市のあちらこちらでボヤ、強盗、ぼったくり、汚れた注射器の使い回しが頻発し、一部の歩道に空いた無数の穴の一つ一つからよく成熟した大人の陰茎が突き出しては、引っ込んでは、また突き出しては、と歩き辛くなっている。アノ国へはなるべく行ってはならない。

マイクの冒険 (1)

執筆の狙い

作者 きさと
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語り手が匿名ならば匿名ゆえに言いたい放題言ってもおかしくはない(むしろその方が人間的である)というインターネット的考えに基づきました。単なる架空の話としても、悪口・批評・偏見・憶測などについて追究しうるものとしても、それ以外としても読めるかもしれません。

コメント

\(^o^)/
219.252.149.210.rev.vmobile.jp

 冒頭を要約すると、
 仔羊のマイクは小一で、国一番の蛆虫、父親が国四十番目の魔術師。羊と思しき白い動物にサンドイッチを横取りされて取り返せなかったマイクは居候同然。

 小一なら稼ぎがないので扶養されています。それを居候と言う人はいません。それが羊なら尚のこと、稼ぐことはできません。いろいろ意味不明です。

 お茶会の途中でギブアップしました。冒頭の謎が明らかにされないまま、他の人物(姫)の話を読み進めるのは苦痛です。

スカイ画廊の父
sp1-72-9-242.msc.spmode.ne.jp

語り手の匿名性と、話の虚構性に関係はあまりないのではないのでしょうか。
設定が散らかり過ぎていて途中でだれるので、こういう書き方なら作者さんは身近なことを書いた方が面白いのではと感じました。執拗に細部を挿入するやり方とか戯画的なものは嫌いではないです。

きさと
p7377122-ipngn33301marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

\(^o^)/さん、ありがとうございます。

ご指摘の点に関して、詳しくは(2)以降で書いていくつもりではありますが、字面を見る限りではそう捉えられるのは当然で、不明瞭な内容の文章が読みづらいのももっともです。申し訳ありませんでした。

きさと
p7377122-ipngn33301marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

スカイ画廊の父さん、ありがとうございます。

根も葉もない悪口にはときに嘘八百や歪んだ視線が紛れ込むものです。拙作自体が語り手による未来の日本に対する誹謗中傷であるという設定にすれば、虚構性の共存も正当化できると考えました。
また、拙作は世界観を鑑みればもちろん嘘臭い話だと分かりますが、かといって完全に世界観に吸収させたくはなかったので、実はより身近なものをモチーフにしているつもりです。細部の描写も出来る限り世界全体を現実のレベルに引っ張っていきたく思い普段より重くしました。
(2)以降の筋はざっくりとしか決めていませんが、大まかに、抽選で選ばれずに済んだ周りの人々が、マイクの冒険のためにあれこれ手伝いや準備をしたり、試練を課したりしていく、というような感じにする予定です。そのため舞台は当然現実の色を帯びたものになります。

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