作家でごはん!鍛練場
カリフラワーの存在価値について考える人

『星の鼓動』の呼ぶ声

 
 「星の鼓動がどくんとなった。
 それは確かに星の鼓動だったし、きっと、君の鼓動でもあったように思う。
 今にして思えば、だけど。街には雪が降っていた。
 列車の汽笛がごおごおと音を立てて、旅立ちの気配、それから、一つの赤いマフラーに
 二人して身を寄せあった母娘のたった二人の乗客のみを乗せて、街の外へとすべりゆく
 のだった。山を越えて、谷を越えて、錆びた車体はきしむような音を鳴らしている。
 車輪がレールを勢いよく叩くせいで、きしむ音はきっと君には届かない。
 それでも、おかまいなしに、列車はずんずんゆくのだった。
 山を越え、谷を越え、けれども、海を越えることは きっと、できはしないだろう」
   (スヴェトラーナ・ロジェストヴェンスキー 『星の鼓動』 冒頭部より)

 これは、20世紀の中頃旧ソビエト連邦の作家スヴェトラーナ・ロジェストヴェンスキーの遺作『星の鼓動』の冒頭部である。スヴェトラーナは1940年にサハ共和国の海辺の小さな町で生まれ、灯台守の一人娘として幼少期を過ごした。東シベリア海を臨む灯台にて、両親が灯台整備の仕事に勤しむその脇で、分厚い毛皮のコートと母が編んでくれた赤いマフラーに身を包み、霧深い海の上を船が往来するのをひとり眺める日々を送っていたという。港にやってくる船は、いつだって、まるで霧の怪物のようだった、と彼女は後に語っている。幼少期の多感な子供にとって、やってくる巨大な無機物は、雨の日に佇む公園のブランコに感ぜられる無機質感を引き合いに出すまでもなく、渇いた実在、として映ったことだろう。身近にありながら、決して自分とは相容れないもの、寄り添う影に対する根源的な恐怖や不安に対して、一般的に子供というものは、とても敏感であるのだが、スヴェトラーナの場合は、それだけではない特殊な事情があった。冬には氷点下30度以下になることも珍しくない極寒の町の状況を深い実感とともに理解するのは、我々にとってなかなかに難しいことではあるものの、厳しい自然がもたらす物理的障壁は、そのまま、心理的障壁になりうることぐらいは、推察可能であろう。灯台は、その存在からして、すでに物理的境界の象徴であり、その境界で日常を過ごした少女が、世界の縁を歩く少女が、独特の閉塞感を抱きながら、幼少期を過ごしたであろうことは、想像に難くない。すなわち、やってくる船は彼女にとって、いつだって、異邦のものであった。そのことを示す別の一節がある。

 「霧の海の向こうで徐々に輪郭を明らかにしていくものがあった。
 それが近づくにつれ、少しずつ町は大きな影に侵食されていった。
 君は、見ていた。それがやってくるのを、いつもとかわらない大きな亜麻色の瞳で。
 ほの暗い影のカーテンの向こう側の景色は、きっとわからない。
 けれども、ヨモギとトナカイのスープはすっかり冷えてしまっていることだろう」
   (スヴェトラーナ・ロジェストヴェンスキー 『星の鼓動』 p.24より)

 この一節には、日常に忍び寄る異邦のものに対する不安が非常に色濃く描写されている。まず、第一にヨモギとトナカイのスープである。温かいスープは、極寒の世界に生きるスヴェトラーナにとって、外界とは明確に区別される、いわば、こちら側のものであり、同時に、家族の温かさの象徴でさえある。その温かさが消えてしまう未来、すなわち、心理的障壁が異邦という巨大な力によって雲散霧消する未来に対する漠然としながらも極めて切実な恐怖がここに現れている。第二に、大きな亜麻色の瞳、がある。この場合、ことはより深刻である。大きな亜麻色の瞳とは、「君」の瞳であり、冷める可能性を予め内包している「温かいスープ」とは本質的に性質が異なる。すなわち、恒久であり、不変であって然るべきという信仰(少なくとも、そうあって欲しい、という心からの願い)の中に存在するものである。しかし、それすらも、脅かされんとしている。異邦に対して、ほの暗いカーテン、と否定的な形容をしながらも、その結果として見出される景色については、わからない、と結んでいる。異邦が異邦であるが故の不気味さは、それが敵性であるとは限らないが、取り返しのつかなさだけは間違いなくもたらされるということにあるのだろう。
 冒頭部に、鉄道を使って旅立つくだりがあるが、こにおける母娘の一方(もしくは、双方)は間違いなくスヴェトラーナ本人のことであろう。ここは解釈がいくつかに分かれている。母親については、作者であるスヴェトラーナ本人であるという見解でおおよその一致をみているのだが、娘の方は、幼少時のスヴェトラーナとする論説と、後に詳述するが、スヴェトラーナの実娘をする論説とが存在する。さておき、なぜ、鉄道なのだろうか? 答えは簡単である。それしか彼女には遣り様がなかったのである。海の向こうからやってくる影の侵略から逃れるためには、陸路を行くしかなかったのである。しかしながら、そのエクソダスはおそらく成功しないだろう。そのやり方では、海を越えることは決してできないということを、無意識からの声として、けれども、はっきりとした自覚されるべき言葉で、スヴェトラーナは記している。
 スヴェトラーナがこの作品を執筆したのは、世は東西冷戦の真っ只中、奇しくも、キューバ危機の翌年のことであった。その時、スヴェトラーナは娘を身ごもっていた。出産に対する不安、娘が生きていくであろう世界の未来に対する不安、自身の過去からの呼び水としての不安、数多の不安が渾然一体となって彼女を襲ったに違いない。スヴェトラーナと親交の深かった政治記者のエーヴァ・ウリヤノフによれば、当時のスヴェトラーナは精神的に衰弱した状態にあったのは確かだったと述懐する。そのときのエーヴァは、スヴェトラーナの状態をそれほど深刻に考えてはいなかったそうだ。初めての出産を控えた妊婦が当然抱える不安であり、それはかつてエーヴァ自身も身をもって経験したように、全ての妊婦共通の通過儀礼である、と楽観的に考えていたそうである。しかし、『星の鼓動』を書き上げ、出産を一月先に控えた1963年の年明けのこと、スヴェトラーナは身重の体で病院を抜け出し、自ら命を絶つことになる。奇しくも、ロジェストヴェンスキー家が代々守ってきたあの灯台から身を投げる形で。享年30歳であった。スヴェトラーナが、死に至るその直前に書きあげた、「星の鼓動」の最終節を以下に引用する。

 「霧の海の向こうで、空一面が真っ赤に染まっている。
 君は、赤いマフラーを小さな手でぎゅっと握って、きれい、と言った。
 君の亜麻色の瞳も、赤く染まっていた。君は、それから、わたし行くねと言った。くるしい、といった。
 数千のミサイルが勢いよく煙を吐きながら、町の空を埋め尽くしている。くるしい、といった。
 これはこっち、あれはあっち、それはあっち。赤いマフラーが棚引くにまかせて、行き先を決めるように、
 ミサイルは飛んでいくようだった。あの町も、その町も、この町も、どこもかしこも、
 そして、鉄道はおかまいなしにずんずんゆくのだった。君は、つめたい、と言った。
 町には雪が降っていた。けれども、ちっとも寒くはなかった。
 温かい暖炉の熱も、温かいスープの味も、温かい星の鼓動も、感じることができない
 けれど、へんね、ちっとも寒くないのよ。海だってこんなに晴れているし。
 こんなに明るい天気が続くなら灯台守のお仕事もあがったりね。
 君は、亜麻色の瞳の変わらないままの君は、灯台のたもとで、海をじっと見ていた。
 ねえ、お母さん、明日はちゃんと晴れるかな」
   (スヴェトラーナ・ロジェストヴェンスキー 『星の鼓動』 p.240より)

 この最終節に関しては、スヴェトラーナの精神混濁が色濃く反映されている所為か、表現もまた混沌としており、そこから直接的なメッセージを読み取ることは困難を極める。冷戦当時の世相における血なまぐささの象徴であるミサイル(おそらくは核ミサイル)という強烈な実在感をもった表現を用いながらも、もたらされる帰結は、冷たさも温かみもないもののどこかおだやかな世界のある抽象化された姿である。そのことの意味を、混濁した人称視点と併せて読み解く必要があるため、様々な論点に立脚した様々な解釈が存在し、今もなお、専門家の間で論争が続いているものの、ただ一つ言えることがある。すなわち、スヴェストラーナが生涯を賭して見つめていたものは、ごく当たり前の日常、ごく当たり前の平穏は、その実、隠された切実さに満ちている、ということである。このことは次のようにも言える。日常とはいわば泥濘であって、不安の塊を絨毯の下へと追いやった後の世界の姿である。隠された気配を決してやり過ごすことのない真実の瞳を持ち、そしてそれを持ち続けた彼女は、はたして、その先へと至る。安寧の世界にて、『君』は、語りかける。


~参考文献~
[1] 『サハ共和国の人々~極寒の地で生きるということ~』 宮原裕二 マルバツ出版
[2] 『レナ川の袂にて』 高梨耀子 宝海社
[3] 『シベリアを往く』 有栖川真 裳花房

『星の鼓動』の呼ぶ声

執筆の狙い

作者 カリフラワーの存在価値について考える人

 本作品は架空の小説の架空の書評の形式をとった小説である。スタニスワフ・レムの『完全な真空』の小説スタイル、そして、ヴァージニア・ウルフ『灯台にて』の灯台のイメージにインスパイアされ、書き上げた掌編である。嘘に嘘を重ねて書いたときに何が書けるかという実験でもある。皆様から皆様なりの書評をいただけると幸甚である。

コメント

\(^o^)/

 必要な箇所に読点がなくて読みにくいと感じました。そして不要な読点が多いと感じました。小説の書評という形にするなら、いかにもそれらしく見えるようにする工夫が必要です。

>列車の汽笛がごおごおと音を立てて、旅立ちの気配、(後略)。
 ↓
「汽笛がごおごお」って変ですね。ここで(架空であるにせよ)小説というリアリティが損なわれました。

>港にやってくる船は、いつだって、まるで霧の怪物のようだった、と彼女は後に語っている。

 発言内容を「 」で括ることをおすすめします。

>異邦に対して、ほの暗いカーテン、と否定的な形容をしながらも、その結果として見出される景色については、わからない、と結んでいる。

 引用箇所は『 』で括ることをおすすめします。

>異邦が異邦であるが故の不気味さは、それが敵性であるとは限らないが、取り返しのつかなさだけは間違いなくもたらされるということにあるのだろう。

 文章が回りくどく感じます。文中、「敵性」ではなく「適正」では? 

>さておき、なぜ、鉄道なのだろうか? 答えは簡単である。それしか彼女には遣り様がなかったのである。海の向こうからやってくる影の侵略から逃れるためには、陸路を行くしかなかったのである。
 ↓
 なぜ、鉄道なのか? 海の向こうからやってくる影の侵略から逃れるためには、陸路を行くしかなかったのである。

 回りくどくてまどろっこいので、不要な箇所はカットすることをおすすめします。

>しかしながら、そのエクソダスはおそらく成功しないだろう。

 キリスト教と絡めての書評ではないので、「エクソダス」の語をここで用いる必要性を感じません。「脱出計画」とか「脱出作戦」あるいは単に「脱出」や「避難」で良いでしょう。

>そのときのエーヴァは、スヴェトラーナの状態をそれほど深刻に考えてはいなかったそうだ。
 ↓
 当時のエーヴァは、スヴェトラーナの状態をそれほど深刻に考えてはいなかったらしい。

 書評らしい表現で統一しましょう。書評としてのリアリティが損なわれました。

>しかし、『星の鼓動』を書き上げ、出産を一月先に控えた1963年の年明けのこと、スヴェトラーナは身重の体で病院を抜け出し、自ら命を絶つことになる。(中略)享年30歳であった。

「享年30歳」ではなく、「享年三十」と表記します。本来「歳」は付けません。ところが、

>スヴェトラーナは1940年にサハ共和国の海辺の小さな町で生まれ、

 と冒頭にあるので、計算すると彼女は22歳か23歳で亡くなっている事なります。架空の話を真実のように書くならば、決して犯してはならないミスです。

>嘘に嘘を重ねて書いたときに何が書けるかという実験

 だそうですが、まったくリアリティのない話ができましたね。

群青ニブンノイチ

アイデアとしては奇抜なものなのでしょうか、よくわかりません。
要するに内容には興味が持てませんし、確かにあまりよく読んでもいませんが、面白いという意味ではなく文章的には端正であることは文面のみ眺めるだけでもよく伝わってくるように思います。


ときにこれというのはつまり、近頃このあたりでよく見かける投稿作本文よりも感想返しでの説明なのか弁解なのかただの言い訳なのかよくわからないけれど確実に本文よりは無駄に熱量がある本性の羅列、そんなパロディということであるなら、こんな端正さも相まって辛辣かつ性悪にして冷静な常識に触れさせられたようで、一抹の安堵を覚えないでもない気にさせられなくもないですが、それはわたしの勝手な誤解やら楽しみ方に過ぎないのかもしれません。

小説、と自ら名乗るにはこの場の性質を鑑みれば尚のことと思うのですが、些か腰の引けたような企みのように感じさせられなくもありません、といった言い方はもちろんわたしの性の根の悪さに違いないのだとは思いますが、やはり楽しくはありませんでした。

カリフラワー(以下略)

\(^o^)/様

 ご活躍はあちこちの感想欄で拝見しております。
個別の指摘に対して、カリフラワー(以下略)らしく、是なり否なりを論説を交えて返信として記してもよいのですが、読む側からすればさぞ鬱陶しかろうと思われますゆえ、なるべく簡潔にまとめて、返答することいたします。

 まず第一に、指摘にあった当方の明らかなミス、例えば、引用『』の入れ方、年齢のミス、享年の使い方等々については、指摘を指摘の通りに受け止め、反省したいと思います。

 第二に、読点の打ち方、シームレスな会話文の挿入、ごおごおなどに代表される固有の言葉づかいについてです。可読性や文章作法にどこまで順守するかは、状況に応じて時折ではありますが、ケースバイケースになりますゆえ、考察・検討が必要であると感じております。指摘があったという事実、それから、兎に角それらに違和感があったという点は受け止め、その手の表現の効用と違和のバランス検討のため、あえて保留とさせていただきます。言葉が何を引き受けるべきかという点は、一考の価値ありと思いますゆえ。このことは、言うまでもなく、当たり前の文章作法を軽視するものではありません。

 最後に、この返信の中でカリフラワー(以下略)にとって、最も重要な部分なのですが、ご指摘をそのまま質問に変えて返すようで恐縮なのですが、\(^o^)/様にとって、小説或いは書評における、リアリティとは、どのようなものなのでしょうか? リアリティのなさが問題であるということは理解しました。しかし、指摘のキーワードであるリアリティという言葉の中身が分からないのです。お手すきの時で構いませんので、リアリティについて、コメントなり補足説明なりを頂戴できれば助かります。

\(^o^)/

>小説或いは書評における、リアリティとは、どのようなものなのでしょうか?

 直接的な答えになってないかもしれませんが、私が前回指摘したのは単純なことです。
 架空とは言え刊行された小説の本文に「列車の汽笛がごおごおと音を立てて、旅立ちの気配、それから、一つの赤いマフラーに二人して身を寄せあった母娘のたった二人の乗客のみを乗せて、街の外へとすべりゆくのだった。」とあります。
「汽笛が」の述語が書かれてないからカリフラワー(後略)さんの書き漏らしなんだろうな、と判断しました。(「乗せて」「すべりゆく」の主語もありませんが、それは許容範囲かな?)
 冒頭文にこんな重大なミスを残したまま出版されることはまずありえないので、リアリティがないと書きました。
「汽笛が」の述語は「鳴る」ですよね? まさか「ごおごおと音を立てて」でしたか? そういう音の出る汽笛があるなら失礼しました。

 書評という体(てい)で書くならば、書評っぽい文章で統一する必要があると思います。一部、口語的表現になっていたのでリアリティがないなと思った次第です。

 以上のことは前回の書き込み内容から読み取れると思うのですが。それ以外の話をするつもりはありません。私は論戦を繰り広げたいわけではありませんから。

カリフラワー(以下略)

群青ニブンノイチ 様

 パロディといえばパロディということになるのかもしれません。このサイトにおける作品とは、投稿作と感想欄とあわせて一つのもの、と個人的には考えています。投稿作と感想欄との熱量の配分については、吸熱か発熱かといった具合に、見える熱と見えない熱とが混然としているため、その多寡を正しく分析し、あれこれ言う言葉をカリフラワー(以下略)は持ちませんが、その辺はまあどちらでもよく、それよりももっと重要なのは、投稿文と感想文という少し趣の違った二つの形式で、差し出されている二つ姿の対照が面白いということです。それとは別に、単純に創作裏話を聞けるのが楽しい、のは言うまでもなく、ありますが。熱を帯び本物となった仮面、さもなくば、(群青ニブンノイチ様の言葉を借りるならば)熱を帯びたことで暴き出される本性、どちらでもいいのですが、それらが二つの表現形式で語られることの面白さに、このサイトの価値を見出しています。こう書いてしまうとすでに悪趣味であり、カリフラワー(以下略)はやはり性悪であったかということになるのでしょうけれども、暴き出された本性云々は、意外と好意的に眺めていたりします。

 ご存知かどうかはわかりませんが、カリフラワー(以下略)を襲名した者として、それぞれの投稿作に論説を、実は結構な労力を使って書いているのですが、論説を書く最中に多かれ少なかれ、自作自演の感覚、に陥ります。題材こそ投稿者様に与えてもらったものの、人様の小説の中に勝手に見出したことに対して、自分自身でツッコミを入れるという形式に、最終的に到ってしまうからです。そうであるなら、いっそのこと投稿作と感想欄とを併せ持つ自作自演そのものをひとつ書いてみよう、と思った次第です。一応、文章表現については真剣そのものではあるのですけれど。芯の方に熱が通っていない感じが残っているのは、そういう不純な動機だからでしょう。腰の引けた企みというのは、まさに、そういうところに現われているのだと思います。

 折角お越し頂いたので、最後に余計なおせっかいを一つ。あちこちで目にする群青ニブンノイチ様の書かれる感想についてです。群青ニブンノイチ様の感想の土台となっている哲学や思想にカリフラワーが賛同できるかどうか(当然、できたりできなかったりです)は脇に置くとしても、書かれた文章はひとつ深いところで神経が通っており、ある側面においては、事象の照らし方が優れて鋭くただしいと感じることすらあるのですが(鋭さと正しさの偏りに、個人的な好き嫌いはありますけれども)、どうして相手に伝わる表現を選ばないのだろうと不思議に思います。普通に順を追って説明するだけで、十分相手に深く刺さるように思うのです。性悪である、と自身のことを仰っておりますが、群青ニブンノイチなる筆は、文書の響きの方に重点を置いていて、それを相手に伝えることにはさほど興味がない、という意味で、確かに性悪なのかもしれませんが、要するに、表面的な煽りの方に余計な熱量と分量とを割いてしまうものだから、肝要の核の部分が相手に届かず、そこで問答が立ち消えになってしまうのを度々目にします。折角の燃料が熱に変換されないままにただ捨てられているようで、いち野次馬としても、もったいなさを感じています。選んだ書き方が持つ功罪やら清濁やらを全部呑み込んだ上でそのように書かれているのならば、本当に余計なお世話でしかないのですが、そんなことを思っていたので、この機会に書かせてもらった次第です。

群青ニブンノイチ

お返事いただけないことはままよくあることなので期待していませんでしたが、つまらないことに陥らせずに頂けて嬉しく思っています。
感想は皮肉に過ぎたでしょうか、失礼しました。
作品そのものということよりも、その読み口が結局のところ化かしてくれる、そうとしか思わせてくれないようなことを案外信じたがるタチなものですから、わたしはそう感じさせられた、というだけのことでした。すみませんでした。
端正な文章については、個人的には突き詰めるものがないのです。



>どうして相手に伝わる表現を選ばないのだろうと不思議に思います。普通に順を追って説明するだけで、十分相手に深く刺さるように思うのです。


生憎私にはおっしゃられていることがわかりかねます。
順を追って説明してもわからない人にはわからない、という方が実際には近いという理解で普通に生きている気がしていますし、刺されとも、万人に伝われとも思ったつもりはないような気がします。
むしろやはり性悪なことに、わかるはずもないこの程度のくそ馬鹿風情に、くらいのことは常に思っているような気がします。
あるいは、伝わらないことこそを書きたがってばかりいる気も十分にしています。
タチの悪いことです。


恐らくは目的が違う、ということに過ぎないのだと思います。
わたしはあまり賢くないので、実は書きながら確認するようなところがあるというか、ほぼ書きながら浮かぶ答えに従っているようなところがあります。
つまり、何が書きたいのかは、書いてみないとわからないということです。
いい加減なまま書き終えるつもりはありませんが、わかったつもりで書く気もありません。
伝わらないのは、単に未熟だからということでしかなさそうです。



>要するに、表面的な煽りの方に余計な熱量と分量とを割いてしまうものだから、肝要の核の部分が相手に届かず、そこで問答が立ち消えになってしまうのを度々目にします。


言葉を返すつもりはありません。
むしろたぶん、こういうことに意識的に熱量を割いているつもりすらあります。
何ごとでもいいのですが、要するに足りないような気配に無自覚のまま甘んじていられるような人が個人的には嫌いなんです。
ただのお節介でしかないのですが、そんな調子の人が何を言ったところで取るには足りないものとしか思っていませんから、案外遠慮なくものを言って暴いてやろうとすら思っています。
くだらないことのほうが、見過ごせないような気がしてしまうのかもしれません。
その程度の価値しかない、という清々しさを理解したがらない人はほとんどのようですから、感じ悪く受け止められても仕方がないと思っています。
その程度のものに、それほど気遣う必要を感じていないのだと思います。
正しく熱量の高い人が好きなので、ダメだと思う人には所詮冷たいのだと思います。
近頃などはむしろ、馬鹿げた人ばかりで触れる気にもなりません。
所詮雑な人間なんだと思います。

カリフラワー(以下略)

\(^o^)/様

 カリフラワー(以下略)が掘り下げたかったのは、リアリティーをどういうものと考えるのかというリアリティの実体の方であって、リアリティーを感じない理由の方ではなかったので仰るように直接的な回答ではないのですが、それでも、お越しいただき補足説明をして頂いたおかげで指摘されていることの主旨がより明瞭になりました。
 要するに、文章作法的にまずい書き方の所為で違和感が先立ってそれっぽくない、ということが主旨だったわけですね。「リアリティ」よりは「それっぽい」という言葉に立脚していただいた方が、カリフラワー(以下略)的にはしっくりきます。「リアリティ」に比べて、「それっぽい」という言葉の方が、より客観性が高いです。なぜなら、「リアリティ」は個人の感じ方を、「それっぽい」はお手本スタイルとの類似性を指している言葉だからです。

 書評部分について指摘、つまり、口語調ではなく、より文語調であるべきだという指摘については特に言うことはありません。そのあたりの書き方の甘さについては仰る通りだと思います。

 「汽笛が」以下の部分については弁明にしかならないので、あまり説明するのをよしとはないのですが、具体例をあげつつ事細かに指摘を頂いているため、ちゃんと説明することにします。仰るように「汽笛」は「鳴る」ものです。立ち昇るのは列車の蒸気です。列車の蒸気の立ち昇る様を「ごおごお」と表現するのは許容範囲かもしれませんが大げさな感じがします。煙が「音を立てる」とするのは明らかに言いすぎです、場合によっては、煙が音を立てるのはおかしいです。一方で、状況はこうです。汽笛の音は煙の立ち昇るのに併せて一体となって鳴り響いている。何が書きたいかというと、汽笛の音の鳴る様子と列車の蒸気が立ち昇る様子とを渾然一体マリアージュさせ、列車の行くイメージが適切な臨場感とテンポで流れるように、主語や形容語を配置し、仕向けた結果ということです。主述の関係が若干ねじれているのも同様の理由です。ご指摘のように文章作法的には冒険しすぎたかもしれませんが、読むという行為と同期した情景イメージの流れを重視した結果、こういうのものも許されるのではと思った次第です。だからこそ、リアリティという言葉の実体に、ここまで敏感になっているわけです。作法を崩してもなおリアリティを損なわないとは、裏を返せば、作法を崩すことの正当化の担保に他ならないわけですから。
 
 要望に応えていただき、わざわざ再訪していただいたので、最後に一つだけ余計なおせっかいです。「それ以外の話をするつもりはありません。論戦を繰り広げたいわけではありませんから」といったような予防線は、この場合、張るべきではないように思います。折角挑発的なキャラクターを演じているのですから、安全圏を用意してから石つぶてを投げるのではなく、いっそ危険地帯にまで踏み込んで思いっきり投げて、投げ返されてこそ、そのキャラクターを演じ、素人の拙い作品を時間をかけて読み、そして、一生懸命感想を書いた甲斐があるというものではありませんか? 一つの観点から始まり化学反応し生まれるまた別の観点こそ喜びをもって迎えるべきではないでしょうか? 投げ返される石つぶての大きさ(反響の大きさ)が、石の種類・色・形はどうあれ、感想者側の成果の大きさであると個人的には思うものです。作者も感想者も、足腰の方こそまずは強く見せるべきだと、個人的には思います。添削自体はありがたいので頂戴いたしますが、\(^o^)/様の鍛錬的な意味でそれでいいのか? と。とまれ、最終的には個人の参加スタイルの問題ですから、余計なお世話もこの辺にしておきますが、そのように思った次第です。再訪ありがとうございました。

カリフラワー(以下略)

ギー 様

 作品とも作者とも無関係な個人同士の諍いに思えますゆえ、カリフラワー(以下略)は関与せず、黙して静観させていただきますことご容赦願います。

\(^o^)/

>折角挑発的なキャラクターを演じているのですから、安全圏を用意してから石つぶてを投げるのではなく、(後略)。

 私は挑発などしていません。感想欄で忖度したりお世辞を言ったりしませんが、誹謗中傷したり罵倒したりしたりもしてません。私を誹謗中傷する者には厳しい態度で望みますが、それでも誹謗中傷を返すことはありません。
 私がいつ安全圏内から石礫を投げましたか? 私が自分から攻撃を仕掛けることはありませんよ? そういう言いがかりを付けるのはやめなさい。傷付きますし、不愉快ですし、迷惑です。人様に言いがかりを付けるあなたは非常識です。
 あなたも持ってはいけないプライドを持っている人ですか? 思い上がりは身を滅ぼしますよ? そんな物はさっさと捨てて、身の丈を知りましょう。

カリフラワー(以下略)

群青ニブンノイチ 様

 余計なお世話は余計なお世話でしかなかったこと、申し訳ありません。ただ、その甲斐あって、群青ニブンノイチ様のスタンスが少し分かった気がします。

 文章の響きを重視しているわけでも、相手に伝えることを重視しているわけでもなく、少し遅れて像が反射される姿見として、文章を書いているわけですね。予め脳内にあるものを文字として転写するのではなく、書いている内に像が現われてくる。言葉で考える、といってしまえば当たり前のことになってしまいますが、ともあれ、その姿見発現の舞台としてこのサイトを活用している。感想欄におけるカリフラワー(以下略)の動機と、ある意味、とてもよく似ています。カリフラワー(以下略)の拙い論説は、小説を読んでその直後に感想を記すという臨場感に身をまかせて、書くようにしていますから。逆言うと、自分ひとりでは、到底思いつきもしない論説ばかりです。

>こういうことに意識的に熱量を割いている
 熱量を表面的なところにあえて捧げているのは、一種の義憤のようなものも少しは混じっているのですね。ただしく熱量の高い人のために怒っている。目的が違う、前段落とは手の平を返すようですが、確かに熱量の向かう先が違っていて、カリフラワー(以下略)と比べて、目的が違うだけなのかもしれません。
 熱量の向かう先という点に、便乗して書くならば、カリフラワー(以下略)は、熱量の高い人の熱量の高い言葉が、このサイトの価値そのものだと思っています。そのハンドルネームが演じる仮面のタチや品性の良し悪しとは無関係に、純度、という尺度で表わしうる素顔を、ときおり、熱量の奥に見つけることができるからです。この一点については、他者なしでは気づきえない類のことのように思います。
 
 最後に、本来語らなくていい心情まで吐露するように結果として仕向けてしまったことを申し訳なく思っています。再訪、ありがとうございました。

カリフラワー(以下略)

\(^o^)/様

 用事があって遅くなりました。

 最初に誤解なきように書きますが、誹謗中傷されたとも、罵倒されたとも、カリフラワー(以下略)は思っていません。ただ、以下のように、皮肉られている、ぐらいのことは察しました。

>「汽笛が」の述語は「鳴る」ですよね? まさか「ごおごおと音を立てて」でしたか?
> そういう音の出る汽笛があるなら失礼しました。

 指摘している内容については文句はないですし、ここも別に表だって挑発を書いているわけではないとも思います。でも、なんだか皮肉っぽいというか、相手を試すようなニュアンスが残っているとは思いませんか? ニュアンスはニュアンスであって指摘の中身が変わるわけではないので、カリフラワー(以下略)側としては苦味の効いたコメントぐらいに思っておけばいいのですが、こういう文章をわざわざ書くというのはすなわち、\(^o^)/様は挑発的なキャラクターを演じているのではと思った次第です。断っておくと、挑発的なキャラクターを演じることが、このサイトにおいて悪いことであるとは、必ずしも思いません。ただ、踏み込み方をちゃんとしないと、そのキャラに見合った見返りが得られないと思うのです。なぜならば、ニヒルキャラは表面上の印象にすでに毒がありますから、ぱっと見の印象だけで忌避されることもしばしばだからです。といった考察こそが感想を頂いたカリフラワー(以下略)から返せる正しい石礫であると考えました。
 なお、石礫という表現ですけど、カリフラワー(以下略)は石合戦こそがこのサイトにおける鍛錬そのものと思っているので、「石礫を投げる」という言葉の意味をかなり好意的に使っています。このあたり、深く切り込んだやりとり、ぐらいにとらえてくださればと思います。ただ、「石礫」という言葉の元々の印象が最悪であることにもっと注意を払うべきでしたけれども。

 もう一つ誤解なきように書きますが、\(^o^)/様の指摘の60%には同意しております。残りの40%は、\(^o^)/様の考えとカリフラワー(以下略)の考えとのどちらが正しいかという判断を保留しているだけであり、そのまま受け入れはしませんが、かといって、受け止めていないわけではないのです。繰り返しませんが、リアリティに関わる例のあの話です。
 
 最後に、「安全圏から石礫を投げる」はさすがに放言だったように思います。気分を害されたならば、申し訳なかったです。

\(^o^)/

「汽笛が」の述語は「鳴る」ですよね? まさか「ごおごおと音を立てて」でしたか?
そういう音の出る汽笛があるなら失礼しました。 
 ↑
 これは以前に私が書込みした内容です。

>【皮肉】られている、ぐらいのことは察しました。指摘している内容については文句はないですし、ここも別に表だって挑発を書いているわけではないとも思います。でも、なんだか皮肉っぽいというか、相手を試すようなニュアンスが残っているとは思いませんか? 

 思いません。私にはそんな意図はまったくありませんでした。
 初回で私が指摘したとき、あなたは納得しませんでした。「列車の汽笛がごおごおと音を立てて、旅立ちの気配」という自分の書いた文章を読み返してみてもどこがおかしいのか全然理解していませんでした。
 だから『ごおごおと鳴る汽笛がひょっとしたらあるかもしれない』と思ったのです。『私が聞いたことがないだけで、日本にはなくても外国にはあるのかもしれない』と謙虚に考えました。

>\(^o^)/様は【挑発】的なキャラクターを演じているのではと思った次第です。

 だけどあなたはそれを【挑発・皮肉】と捉えるんですね。どれだけ劣等感が強いんですか。それを僻み根性と言うのです。

『私が聞いたことがないんだから、そんな汽笛は世界中どこにも存在しない!』と結論付けるのは傲慢ですよね? 頭も悪いですし。
 私は間違って覚えてしまっていることが多々あります。つい先日まで川崎病とは神奈川県川崎市の公害病だと思っていました。ごおごおと鳴る汽笛が存在するのに、『ごおごおと鳴る汽笛はない』と間違って思い込んでるのかもしれないと思ったのです。

 私が親切でアドバイスしているのに皮肉と捉えるのなら、私が指摘したすべての箇所は一切訂正しないでください。そのまま恥を晒し続けてください。私は親切を施した人から逆恨みされて言いがかりを付けられ傷付けられました。あなたは恩人に恩を仇で返すとんだ恩知らずです。

 自分の犯した重大な間違い「列車の汽笛がごおごおと音を立てて」を決して認めず、尚も屁理屈を捏ねて正当化しようとするなど、往生際が悪くて見苦しいにも程があります。
 あなたは持ってはいけないプライドを持っているから自分の間違いを認められないのです。あなたは自分で勝手に大恥をかいたにすぎないのに、親切にアドバイスした私を逆恨みして私を悪者に仕立て上げて、私を攻撃しました。恥を知りなさい。

 あなたの書く勿体ぶった回りくどくていやらしい文章は、悪文のお手本です。自分には文才があるとでも思ってるんですか? 思ってるから書いてるんですよね、得意気に。みっともないからやめなさい。これは事実ですから誹謗中傷には相当しません。
 私を誹謗中傷したのは、あなたです。あなたは私に言いがかりを付け何度も私の心を傷付けました。あなたは罪人です。しっかり自覚しなさい。二度と人様に言いがかりをつけたり誹謗中傷したりしてはなりません。口先だけの謝罪などいりません。猛省しなさい。

スカイ画廊の父

カリフラワーの存在価値について考える人さん
『星の鼓動』の呼ぶ声
読みました。

意欲的な作品でした。
ただ過去にも同様な形をとった作品だったり、似たようなものだと自作に註釈をつけて註釈に重きを置いたものだったりと、そういうものが稀に投稿されていたのを思い出しました。
私の意見としては、書評でも註釈でも、その対象となる作品は架空の作品(自作)ではなく、商業的な作品で誰でも知っているようなもののほうが効果はあるだろうということです。
書評だったり註釈(御作は書評というより註釈的な意味合いが強いです)というものに限らず、作品は自由奔放に書かれたものよりもある規制がかかった状態のなかで書かれたもののほうがずっとおもしろいという、当たり前の話かもしれませんが、そういう理屈があると思います。
もちろん作品のおもしろさが単純に規制の強さに正比例するとは限りませんが。

カリフラワー(以下略)

\(^o^)/様

 返信を拝見して、烈火のごとく書かれていらっしゃるので、かなり当惑しております。どう返事をしたものか分からないですが、きっとごちゃごちゃ弁明しても屁理屈に映るでしょうから、簡潔に書きます。まず一つ冷静になって考えてみてください。\(^o^)/様への返信に、カリフラワー(以下略)は、言葉は悪かったですが、言葉を尽くして、それなりの分量の手紙を丁寧に書いているという事実の方もちゃんと汲み取って欲しいです。最初の返信で、年齢のミスや享年の使い方などの恥ずかしいミスについて認めているということも公平に取り上げてください。頂いた指摘の中に皮肉のニュアンスがあるとわざわざ紙面を割いて指摘したことの意図についても、逆恨みなどと物騒な一意に決めつけずに、もう一度、お考えください。その上で、ご自身の書かれている返信内容をもう一度読んでみてください。お互いの受け取り方にズレが見つかるはずです。

カリフラワー(以下略)

\(^o^)/様

以上は誤解を解くための弁明ですが、

理解のズレや当方の意図はどうあれ、「安全圏から石礫を投げる」を含め発端となった発言については、反省はしてまして、皮肉的なキャラクターということを支点に話を発展させるべきではなかったように思います。結果として、\(^o^)/様を皮肉的なキャラクターであると印象付けてしまうことになったのは大変失礼なことでした。すみませんでした。

カリフラワー(以下略)

スカイ画廊の父 様

 この小説の困難は、小説部と書評部の双方に馴染みを抱きにくいところにあります。つまり、普通、書評を読む時には、既知の小説の書評を読むわけですから、予め世界観に対する確実なイメージが読者にあり、書評を読むことで新しい発見をする。そこに楽しさがあります。仰るように世界観が予め存在しているという制約が、逆に書評のほうをより豊かにするといった性質はあるのかもしれません。
 
 この小説は、対照的に、小説部も書評部もどちらも断片的なんです。だから、全く異なる二つの形式から断片をかき集める必要があり、読者に相当な負担を強いることになります。世界観を実感するきっかけが少ないくせに、特に小説部は世界観があるふりをして全力疾走するわけですから。一方で、ここにこそ魅力が隠されているような気がします。通常の書評は、小説が主、書評が従の主従関係にありますが、このタイプの小説の場合は、小説と書評がお互い補う関係になります。うまく書ければ、二つの味わいで一つの世界観を構成できるはずですし、一つの世界でありながら語りの境界をらくらく超えることすら可能になります。小説内の一人称視点では知りえないことを、書評パートで豊かに記述する、ということができたりなど。そういう可能性を持ったものとして、存外、面白い形式なんじゃないかなと思い始めました。最も、ここにあげた小説は、その観点だと駄作もいいところかもしれないですが……。

 逆に、制約を少し緩めた形で選ぶというのもありですね。例えば、小説部をヒーロ戦隊ものにするとか。特定の作品ではなく、特定の誰もが想像しやすいジャンルにする。小説パートに魔改造の余地を残しながらも、世界観を馴染みやすいものになりますから、読書の負担を軽減できるかもしれない。問題は尺でしょうね。短すぎると断片的過ぎますし、長すぎると、書評部がダレますから。

 制約を考えるというのは、全然、考えてませんでした。このタイプの小説に限らず、制約ゆえに逆に豊かになるパターンはありますね。

 感想くださり、ありがとうございました。

カリフラワー(以下略)

\(^o^)/様

 一日冷却期間をおいて、自身を省みて、何がどうしてこうなったのかを考えてみました。これを反省文の代わりとして受け取ってもらえれば幸いです。論説っぽいので鼻につくかもしれませんが、カリフラワー(以下略)の悪癖ゆえの限界とご容赦ください。創作以外の話をこの場で展開するのは既に主旨を見失っていますので、これでカリフラワー(以下略)からは最後としたいと思います。

 今回の件で痛感したことがあります。言葉を文章で、中立且つ公平に取り扱い、読み取り伝えることの難しさです。

1) 言葉の受け取り方は決して中立ではない。
 文面から気持ちを読み取ることは、当たり前ですが、難しいです。一つの言葉が、思いもよらない勘違いを生み出すからです。文脈の全体の印象だけでなく、言葉じりの印象の方にも引きづられてしまう。カリフラワー(以下略)が\(^o^)/様の指摘に挑発のニュアンスを読み取ったように。

2) 言葉の取り上げ方は決して公平ではない。
 「ボケ、カス、好き、愛している」という言葉があったとします。文脈を全体的に眺めれば、不器用な人の親愛を表わす表現だとしましょう。しかし、「ボケ・カス」の部分だけ取り上げれば、ただ、悪態をついている人として印象付けられます。「好き、愛している」は公平でない取り上げ方をした場合、下手すると「ボケ・カス」という悪感情を補強するものとして使われます。「ボケ・カス」と罵倒した後に「好き、愛している」とはなんと白々しい、といったように。印象とはかくもたやすく操作されます。

3)誰が言ったか ということ。
 例えば、上司が言うバカたれと、親友が言うバカたれは、同じ内容を指していても間逆の印象を与えます。上司或いは親友という立場や属性がその言葉の印象を定めてしまうからです。これを逆手にとった技術として、マウントをとる、なんてものがありますよね。強い立場をもぎ取ることで言葉を相対的に強める方法です。このサイトの場合には各々の文体が宿すキャラクターが、ここでいう立場に該当します。「文は人なり」とはまことに至言であるように思います。ですので、自嘲気味に書くならば、小賢しくねじれた文章を書くカリフラワー(以下略)は小賢しくねじれた性悪な読み方をし、小賢しくねじれた性悪な書き方をする信頼のおけない奴となるでしょう。文は人なり。実際その通りなので、返す言葉はありません。

4)誤解は解けない、ということ。
 受け取り方に偏りがあり、取り上げ方に公平性を欠いた後は、そのバイアスに則った印象操作劇が繰り広げられるのみです。ここに至ったとき、最初の誤解は修復不可能になります。すでにどっぷりと印象操作劇の演者になってしまった者は、受け取り方の偏向も取り上げ方の不公平も改めて鳥瞰することはもうできないからです。であるならば、カリフラワー(以下略)の最後の弁明も、すでに別の印象操作劇における後付の屁理屈と堕するのみで、きっと届かないことでしょう。このことは残念ではあるけれど、自業自得なので受け入れるしかありません。

5)最後に
 最初から、言葉が違う、ということだけだったのかもしれません。小説創作者を気取っておいて、言葉の違い、に鈍感で迂闊だった自分を深く恥じているところです。

 長文失礼しました。よいお年を。

\(^o^)/

 犯罪者へ

 このページにおける問題発言については過日通報済みです。本日運営より質問メールが届いたので返信しておきます。年明けにでも処分が下るでしょう。

そうげん
121-83-151-235f1.shg1.eonet.ne.jp

星の鼓動、お腹のなかの胎児の鼓動とリンクしているようで、作中に置いて描かれる母と娘の存在が、スヴェトラーナとその母親との関係なのか、スヴェトラーナと生まれてくる娘との関係なのか、あるいはそのどちらとも取りうるようにも読めるところに、世代を超えて、これからもこの世界に生き残り、人生を繰り広げる存在自体に向けて、スヴェトラーナ自身が、憂えている文章のように読ませられました。

冒頭の一文「星の鼓動がどくんとなった。」は、誕生を示し、
作中作のラストの一文「ねえ、お母さん、明日はちゃんと晴れるかな」は、次の世代が抱く希望(ねがい)を示している。

ねがいで締めているところに、書き手であるスヴェトラーナ自身が、どんなに世上があれていようと、戦乱の風が吹き荒れていようと、最期の最期まで、この世の良くなることを願っていたのだと感じさせるものになっていると思いました。

霧の海であったり、ほの暗い影のカーテンであったり、不気味さを感じさせる字句は随所にあるのですが、スヴェトラーナには鉄道という移動手段を夢見ながら、実質は、灯台での生活のうちに精神は閉じられていた。その狭い空間から臨む下界、港であり、海であり、街でであるところの人々の生活の基盤と、自分の居場所との違いこそが、スヴェトラーナの書き手としての成熟のありようを決定したのだなと感じました。

「完全な真空」も「灯台にて」も読んだことはないのですが、わたしにはわからない部分もいろいろとあって、そのわからなさこみで、楽しめました。ありがとうございました。

カリフラワー(以下略)
dhcp.nipne.ro

そうげん様

返信がたいへん遅くなりましたこと謝罪申し上げます。
熱の篭った感想をくださりありがとうございます。

たいへん豊かな想像力で本作を眺めてくださったことを大変うれしくおもいます。このような形式を取る以上、特に小説パートは断片的にならざるをえなかったのですが、閉塞感それからそれを打ち破らんとする仄暗き希望の胎動を感じていただいたようで作者として大変うれしく思います。

引用にあります、「完全なる真空」それから「灯台にて」、本作とは比べものにならない良作であるだけでなく、実際は本作とはまったく質的に異なるものなので、一読してみてください。その二作品を引用したのはあくまで形式的な部分に対するオマージュであって、本作は本質的なテーマ性や小説としのて品質は、全然及ばないものです。特に、「灯台にて」などはそうげん様の琴線に触れるのではと存じます。

ありがとうございました。
また、改めまして、返信が遅れに遅れたこと謝罪申し上げます。

きさと
p7377122-ipngn33301marunouchi.tokyo.ocn.ne.jp

(幸運にも)「執筆の狙い」は最後に読んだのと、私の小説や作家に関する知識が乏しいのが相まって、正直架空の小説であることに気がつきませんでした。もっともらしい嘘がお上手な方だと敬服しました。
とはいえ物足りないのは、断片が断片として完結している、つまり「引用」部分にそこだけでは不明な、しかしその小説単体で読むだけで知れてくるはずの部分が少ないために、欠落した(引用されなかった)間の文章をどうしても想像したい、補完したい、という衝動が起こらなかったことです。引用された部分がたまたまそうだっただけかもしれずそこまで欲しがるのはがめついとも思いますが、一方で元の小説の方が、未来に書評を書かれやすいようにそうとだけ書いてあるような、おどろおどろしく妙な冷静さ、洗練ぶりを感じ取りました。

夜の雨
i223-216-201-83.s42.a027.ap.plala.or.jp

『星の鼓動』の呼ぶ声 、読みました。


「執筆の狙い」で、「本作品は架空の小説の架空の書評の形式をとった小説である。」と、書いておられますが、まず「架空の小説」といっても、限定された一部だけが書かれたもので、その内容から「スヴェトラーナ」が、何を書こうとしていたのか、わからない。
題材や世界観などが、わからないということです。
その「架空の小説の架空の書評の形式をとった小説である」ということなのですが、元の作品が、何を言わんとしているのかわからないので、その作品の「架空の書評の形式」は、もちろん、何を言わんとするのか、わかりません、ということになります。

「本作品は架空の小説の架空の書評の形式をとった小説である。」 ← この手の作品を書くのなら、元の『星の鼓動』という作品を意味が分かるところまで、御作の中で書く必要があると思います。
そのうえで、『星の鼓動』の「書評の形式をとった小説」を書くべきだと思いますね。

どうしたらよいかというと、『星の鼓動』こちらの作品をある程度、内容のあるものにする。そしてその作品の「書評」を主人公が書いていて、その主人公にも、ドラマを持たせる。
要するに、二重ドラマになり、その結果主人公の現実世界が意味のあるものになる。

『星の鼓動』(内容があるものにする) ← 『星の鼓動』の「書評を書いている主人公の物語」に、意味を持たせる。その意味の持たせ方が「星の鼓動」と、関連していると、なおよい。

というような感じですね。

私自身、二重ドラマというか小説の中に小説があり、中にある小説に、外側の小説が侵食されるというのが結構好きで何作かこちらのサイトに投稿しています。
この手の作品は、二つの世界が絡み合うので、結構面白いですね。

お疲れさまでした。

カリフラワー(以下略)
dhcp.nipne.ro

きさと様

感想くださりありがとうございます。

架空の小説の書評を書いた作品であるため、本体は書評の方にあるわけで、小説部はどうしても断片にしなければいけないのですが、それにしても断片すぎたように思います。また、断片を効果的に印象付けようとしたために抽象化著しくかえって想像するのを妨げてしまったようにも思います。もう少し具体的な情景描写やちょっとしたエピソードを添えて地続きの想像力が芽生えるように工夫すべきだったように思います。無駄に抽象的といいますか。「補間したいという衝動が起こらなかった」という感想が全てを表わしているように思います。短い描写の中でも語られない外の風景が見えてくるようななんらかの工夫はきっとできるのだと思います。

ありがとうございました。

カリフラワー(以下略)
dhcp.nipne.ro

夜の雨様

 そもそも断片的過ぎであったというのが問題点ですが、その上さらに、地続きの想像力が生まれるような書き方をする必要があったと思います。
>元の『星の鼓動』という作品を意味が分かるところまで、御作の中で書く必要があると
>思います。
というのはその通りだと思います。ここにくると書評の書き方に問題があったと思います。書評は引用部に対する考察という形式で書かれたもので、それが問題で、書評部の方で引用されていないところまで、うまいこと表現できたらよかったように思います。小説に対する書評を淡々と書くのではなくて、書評の方で架空の小説の内容が見えてくるように仕向けないといけなかったようにも思います。
 夜の雨様の指摘されたこととは少し意味合いがズレるかもしれませんが、結局、元の小説と書評との間の相互の作用を生むようになんとか構成する必要があったのだと思いました。
 二つの世界がからみあう話というは私も結構好きでして、面白いですよね。

 おかげさまでいろいろなことを気づくことができました。ありがとうございました。

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