作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

濁流

 ぐずぐずと続いていた雨が、いつの間にか雷を伴う豪雨に変わっていた。テレビの天気予報は、近畿地方の梅雨の終わりが近いことを告げている。
 風呂場で音がして、悲鳴が聞こえた。辰雄が駆けつけてみると、美千代が浴槽の縁にしがみついて、浮いた体を立て直そうともがいている。
「気をつけんと危ないやないか」
 辰雄は美千代の脇に手をかけ、浴槽の底に尻が落ちつくように体を引き上げた。
 激しく咳込みながら美千代が辰雄の手にすがりつく。
「どないしたんや。滑ったんか」
 美千代の萎えた両足がホテルにあるような長い浴槽に、だらしなく沈んでいた。
 お湯で濡れて、顔にまつわりついている髪の間から、美千代の目が不気味に光っている。
「どないしたんや」
 顔を被っている頭髪を分けて、顔が見えるようにしてやった。美千代の目が濡れているのは、涙の為であることに気がついた。
「お湯に沈んだら死ねるかと思うて……」
「なんやと?」
 意外な言葉に辰雄は美千代を抱える手に力を入れた。
「うち、早よう死にたいんや」
 呟くように言って美千代は目を外らせた。
「あほう」
 美千代の体を揺さぶって辰雄が怒鳴った。
「そやかて……。うちはこんな体や。この足は治らへんのや。一生歩けへんのや。これから死ぬまで、たっちゃんのお荷物になるだけやんか。それやったらはよ死んだほうがましや」
 一息に喋って美千代が咳込んだ。
「あほか、お前は」
 辰雄が呆れたように美千代を見る。
「うちはいつもたっちゃんに済まんと思うてるんや。何にもしてあげられへんやろ。うちが死んだら、たっちゃんはまた新しいお嫁さんを貰ろうて幸せになれるんや。うちがたっちゃんにしてあげられることは、早よう死ぬことだけや」
 美千代の目から涙がこぼれた。
 手早くタオルを絞って、辰雄は美千代の顔を拭いてやった。
 一瞬窓が明るくなり、激しい雷鳴が続いた。
「お前、ほんまに死にたいんか?」
 美千代がうなずいた。
「ほんなら、いま死んでみい」
 顔をこわばらせて辰雄はその手を離した。美千代の体が湯に沈みそうになり慌てて浴槽の縁にしがみつく。
「どうした。そんなに死にたければ死ねばいいやろ。はよ手を離さんか」
 美千代の目が大きく広がった。
「自分で死ねんのなら、手伝うたるで」
 辰雄は浴槽にかけていた美千代の手を外した。美千代の体は水中に沈み、慌てて浴槽の縁を手で探る。
 水面を打つ手がしぶきを飛ばせて辰雄のシャツが濡れた。すぐに美千代の体を引き上げる。 美千代が激しく咳込んだ。
「どうしたんや。死にたいんやろ。そんなら死ぬまでじっと沈んどらんかい」
 そう言いながら辰雄がまた美千代の体を突き放した。美千代の手が伸びて浴槽を掴もうとしたが、その手が滑って頭が沈み込んだ。水面から出た手が宙をまさぐる。辰雄の手を探り当てると必死の形相で水面に顔を出した。
 辰雄は濡れた髪をかき分けて、顔が出るようにしてやった。
「どうや。もう一回沈んでみるか。今度こそ本当に死ぬんやで」
 恨めしそうな目付きで慌てて美千代は辰雄の手にしがみついた。
「死にたいんやろ。今度は手を出したらあかんで」
 辰雄はゆっくりと美千代の手を外そうとした。美千代はその手に力を入れて外されまいとする。
「たっちゃんの意地悪!」
 美千代の顔がくしゃくしゃに歪み泣き声に変わった。
「たっちゃんのあほ」
 しゃくりあげながら、辰雄の手に頬を擦り寄せた。
「なんや。死ぬの止めるんか?」
 辰雄の手を握る美千代の手に力が加わった。
「死にたいのか。死にとうないのか。どっちなんや」
 無言で見上げる美千代の目が激しく瞬いた。
「死にたいんやろ」
 美千代は僅かに首を振った。
「ほんなら、死にとうないんやな」
「死にとうない」
 消え入るような声で呟いた。
「絶対、死なんと約束するか?」
 美千代がうなずいた。
「ほんまやな。絶対死なへんのやな」
「ほんまや」
 その言葉が終わらないうちに、辰雄の手が伸びて美千代の体を浴槽の外に引きずりだし、そのまま抱きしめた。
「あほなんはミッチーのほうや」
 辰雄の涙が、美千代の裸の肩を伝って流れ落ちる。
「ミッチーの命はな。ミッチーのもんだけやないんやで。半分はわしのもんや」
 辰雄に縋って美千代が号泣した。
「うちは何にもしてあげられへん。たっちゃん、かんにんやで」
「そんなん、気にせんかてええんや。何も遠慮することはあれへん」
 濡れた美千代の水分を吸って、辰雄のシャツが体にまとわりついた。
「こんな濡れてしもうて、わしも一緒に風呂へ入るわ」
 浴場には足の動かない美千代が安定して座れるように大きい台が置いてある。その台に美千代を座らせて、辰雄は大急ぎで濡れた衣服を脱ぎ捨てた。
「ミッチーの体、隅々まで磨いてやるでえ」
 辰雄は笑いながらタオルに石鹸をつけた。
 美千代の首から背中、腰の周りをタオルで擦る。
「足、開いてみ。そこも洗ろうたるわ」
「そんなん、恥ずかしいわ」
「かまへんやろ。女房やんか」
 美千代は恐る恐る股を開いた。
 石鹸を塗り、辰雄の手が茂みを探る。美千代が身をよじらせた。
「女房言うたかて。女房の務めも果せへん女や。たっちゃん、辛抱できんときは遊びに行ったかてかまへんで」
 美千代があえぎながら言う。
「あほ、男にはちゃんと自分で始末する方法があるんじゃ」
 美千代が自分の股間を注視しているのに気づいて辰雄は慌ててタオルをかぶせた。そのタオルがテント状に突き上がっている。
「たっちゃん」
「なんや」
 美千代はタオルを払いのけた。
「なにすんねん」
「うちを抱いて」
「なんやて?」
「これを入れてほしいんや」
 美千代は辰雄の股間を指差した。
「入れてやるけど、その体では……」
「あかんのは足だけや。ここは大丈夫や思う。いま気がついたんや」
 美千代はじれったそうに自分の股間を押えた。
「なっ、はよ入れて」
 辰雄の逞しい腕が、小柄な美千代の体を抱き上げ、あぐらをかいた自分の膝の上に引き寄せた。
「ほんまに入れてもええんやな?」
 美千代がうなずき、腕を辰雄の首に回した。萎えた美千代の両足を開き、そっとその腰を下ろす。硬い肉塊が美千代の股間に滑らかに滑り込んだ。
 ああ、と美千代が声をあげた。
 窓が光り、一瞬置いて雷鳴が続いた。

              ◇           ◇

 国道沿いの、長距離トラックの運転手達が立ち寄る飯屋で美千代は働いていた。小柄であるが、むっちりとして愛くるしく、男好きする風貌が、運転手仲間で人気を呼び、美千代目当ての運転手がその店に殺到した。
「ミッチー、ええケツしてるやんか。どや。今夜わしと付き合わへんか?」
「まあ、遠慮しとくわ。鏡で自分の顔見て言うてんか」
 美千代が笑顔で応酬する。
「やっぱりわしではあかんか」
 中年の男が苦笑する。
 そんなある日、辰雄が店に入ってきた。均整のとれた体型、眉が濃く精悍な顔の若者である。
 辰雄は隅のテーブルに座って美千代に目で合図をした。
「ねえちゃん、カツカレー頼むで」
 美千代はカレーを運んでテーブルに置きながら、
「にいさん、初めてやね」
 と声をかけた。辰雄は一瞥しただけで、黙ってカレーを引き寄せる。
「おおきに」
 食べ終って立ち上がった辰雄は千円札をテーブルに放り投げた。
「あ、お釣りを……」
 札を持って追いかけようとした美千代に、
「釣りはええ。ねえちゃん、貰ろうとき」
 辰雄は振り返って白い歯を見せた。美千代はその後ろ姿がトラックの運転台に消えるまで見送っていた。
 辰雄と美千代が所帯をもったのはそれから半年後である。
 五年後に大阪府の北の方、淀川近くに小さいながら一軒家を持つことができた。
 新居に引っ越してしばらくした頃、仕事から帰った辰雄を迎えて、美千代が自分のお腹を押えた。
「たっちゃん、できたらしいで」
「できたって、まさか」
 驚く辰雄の手を取って自分の腹に導いた。
「そや、ここにややこができたんや」
 辰雄がうおーと叫んだ。
「そうか。わしもとうとう親父になるんか」
「そや。たっちゃんはもう三十二やろ。遅いくらいや」
「そうやな。わしら、自分の家を持とうと思うて働きずめやったからなあ」
 辰雄は思わず美千代を抱き上げた。
「ややこがおるんやで。腹、押えんといてや」
「そうやった。うっかりしてた」

 辰雄は分娩室の前の廊下をせわしく行き来している。美千代が分娩室に入って半日が過ぎた。
 中から出てきた医師に、
「どないなってますんや」
 心配そうに辰雄が訊ねた。
「えらい、難産ですねえ。まだしばらくかかるでしょう」
 医師は気の毒そうに辰雄に言った。
「美千代の命には別状ありませんか?」
 辰雄が気負って聞く。
「今のところ、大丈夫やと思いますが、なにしろ難産ですから」
「先生、よろしうお願いします」
 拝むように医師に頭を下げた。
 しばらくして看護婦が分娩室から駆出し、年輩の医師とともに慌ただしく分娩室に入った。
 辰雄が息を呑んだ。分娩室のドアに耳をつけ中の様子を窺おうとする。器具のぶつかる音、低い話声が僅かに聞こえるだけである。
 ジリジリするような時間が過ぎた。ドアが開いて、看護婦の緊張した顔がのぞいた。
 はじかれたように辰雄が駆けよる。
「ご主人、ちょっと先生から話があります」
 辰雄の顔から血の気がひいた。
「お気の毒なことですが」
 年輩の医師は緑色のガウンのままで言葉を切った。
「美千代が死んだんですか」
 辰雄の悲鳴が響いた。
 医師は首を振った。
 体をこわばらせて辰雄は次の言葉を待った。
「赤ん坊は駄目でした。色々手を尽くしたのですが」
 辰雄の足から力が抜ける。足が震える。
「それで美千代の方は?」
「相談したいのはそのことです」
「えっ! 美千代も助からんのですか!」
 思わず辰雄が叫んだ。
「いや、大丈夫です。ただ、子宮からの出血がひどくて、このままでは危険です」
「それで……、美千代は助かりますやろか」
「命を救うには、子宮の全摘をしなければなりません。この点をご了承して頂きたいのですが」
「子宮を全部とるちゅうことですか?」
「そうです。それしか方法はありません」
 辰雄は絶句した。青ざめた顔が赤くなった。
「よろしゅうお願いします。それで美千代が助かるなら」
 それだけ言うのがやっとであった。
 医師は看護婦を振り返り、
「オペの準備」
 と叫んだ。
 手術は終わった。坦送車にのって美千代が出てきた。
「大丈夫です。命は助かります」
 続いて出てきた医師が辰雄に告げた。
 美千代は呼んでも答えなかった。
「先生、美千代は生きてるんですやろな?」
「大丈夫ですよ。麻酔が醒めたら話せます」
 病室に帰って辰雄は待った。美千代は眠り続けている。白蝋のような美千代の頬に手を触れてみる。じっとりと湿って冷たかった。
「ミッチー」
 耳元でそっと呼んでみる。呼吸の度にわずかに動く胸の動きが生きていることを伝えてくれる。
「ミッチー」
 また呼んでみた。美千代がかすかに目をあけた。
「ミッチー、わしや。わかるか?」
「たっちゃん」
 かすれた声で辰雄を呼んで手を伸ばそうとした。腕に繋がれた点滴瓶が揺れる。
「動いたらあかん」
 辰雄はあわててその手を押さえた。
「うち、どないなってるんや?」
 美千代は痛そうに顔をしかめた。
「下腹がえらい痛むわ」
「それ、手術した傷の痛みや。しばらく我慢せなあかんで」
「え? 何の手術したんや?」
「お前、何も聞いてへんのか?」
「うち、途中で気い失のうてしもうて何にもわからへんのや」
「ほんなら……」
 辰雄が言い淀んだ。
「あかんぼ、どないやった? もう見たんやろ?」
 いつもの明るい声に戻っていた。
「いや、それがなあ。あかんかったんや」
「あかんて……」
「あかんぼは助からんかったんや」
 美千代がひぇーと悲鳴をあげた。
「あかんぼは助からんかったんや」
 辰雄の繰り返した言葉に美千代が身を震わせた。
 向こうを向いて、美千代は唇を噛みしめて涙を堪えようとしている。
「それになあ。ミッチーの出血がひどうて、子宮を取る手術をしたんや」
「えぇーっ? 何でうちの子宮をとったんや」
 美千代が大声をあげて向きなおった。
「そうせなミッチーの命が危なかったんや」
「子宮がなかったら、次の子供でけへんやんか。あんた、それを承知したんか?」
 美千代に見据えられて、辰雄の唇が震える。
「仕方なかったんや。ミッチーの命が大切やから」
「うちの命なんかどうでもええのや。子宮がなかったら赤ちゃんが生めへんやんか」
 涙を浮かべた美千代の叫び声が空しく病室に響いた。
 一週間経って抜糸をした。
「もう歩ける筈ですがねえ」
 医師が首をかしげた。早ければ術後四、五日で歩く人もいる。
「足が動きませんのや」
 医師は美千代の足を持ち上げて手を離す。大根を放り投げるようにその足がベッドに落下した。
「産後に一時的に下肢麻痺を起こす場合がありますので、もう少し様子をみましょう」
 医師は美千代を慰めるように微笑んで見せた。
「先生。私の子宮が無くなって……。それで、でけますやろか?」
 子宮がなくなれば子供は出来ない。それは仕方がないことだ。しかし以前のように辰雄を受け入れることが出来なくなれば……。
 部屋を出ようとした医師が怪訝な表情で振り返り、
「子宮がなければ出来ませんよ。お気の毒ですが諦めて下さい」
「あのー」
 美千代の呟くような声が聞こえなかったのか、医師はそのまま部屋を去った。
「やっぱり、辰雄ともでけへんのか……」
 美千代は放心したように天井を見つめた。
 辰雄が病室に入ったとき、横を向いて美千代は眠っていた。目の下の枕が濡れている。
「ミッチー」
 辰雄は小声で呼んでみた。
 美千代が目をあけた。
「たっちゃん、もうあかん」
 美千代が死にそうな声をだした。目から枕に涙が流れ落ちる。
「大丈夫や。すぐに歩けるようになるで」
「足のことと違うねん」
「ほな、なんや」
「あれや。あれ、もうでけへんのや」
「あれちゅうと」
 辰雄があっと声をあげた。
「そや。もう、たっちゃんとはでけへんのやて。先生が諦めろ言わはったんや」
 美千代は駄々をこねるように辰雄の手を掴んで振った。
「うちはいやや。たっちゃんとでけへんのなら死んだ方がましや」
 興奮して叫ぶ美千代を辰雄は悲しそうに見つめていた。
「でけへんのか。そうか……」
 辰雄は椅子を引き寄せ、がっくりと腰を落とした。
 一ヶ月経っても美千代は歩けなかった。神経内科に受診して調べても原因がわからない。
「脊髄炎なのか、神経炎なのか。いずれにしても不思議ですなあ」
 主治医が首をかしげる。
「ミッチー。リハビリしてみよう。歩く練習してみるんや」
 辰雄が美千代の手をとって歩かせようとしても、
「あかんねん。足に力が入らへんねん」
 と歩こうとしなかった。
「そのうち良うなるやろ。それまで車椅子を使うたらええ」
「うち、たっちゃんに抱いて貰われへんのや。それやったら早う、死にたい」
 なぐさめる言葉もなく辰雄は美千代を見詰めるしかなかった。
「うちが死んで子供を助けたらよかったんや。なんでそないにせんかったんや」
「そないにいうても、わしには美千代が一番大事やからな」
「子供も生めへん。たっちゃんに抱いてももらわれへん、こんな女の屑なら死んだほうがましや。うちが死んだらまた新しい嫁さんを貰うたらええやろ」
「わしはなあ、みっちーでないとあかんのや。わしはみっちーが好きなんや」
 辰雄の言葉が口の中で消えていく。
 主治医が辰雄を呼んだ。
「奥さんは抑欝状態がありますね。足の方はこれ以上入院していても同じですから、退院して気分転換してみたら如何でしょうかね」
「歩けるようになる見込みはあるんですか?」
「私は心因性の要素が強いと思うんですがね。だから、何かのきっかけがあれば、また歩けるようになるかも知れません」
「心因性ちゅうと?」
「心の問題です。奥さんは色々のことがあり過ぎましたから」
「それでですか。死にたい言うてますんやがな」
「それは抑欝状態が強いためです。自殺にはくれぐれも注意して下さいよ」
「えっ? 本当に自殺することがあるんですか?」
「あります」
 辰雄は黙り込んだ。ポケットの中のタバコが握り潰されていた。
 車椅子で退院したのは夏の最中であった。辰雄は自宅を車椅子で入れるように改造した。風呂場も萎えた足が伸ばせるように長い浴槽に取り替えた。車椅子の生活ながら、二人に平穏な日々が戻ったように見えた。
 辰雄が夜遅く帰ると家の灯が消えていた。
「ミッチー、もう寝たんか」
 返事はない。辰雄は慌て台所の電灯をつけて立ちすくんだ。台所の片隅で車椅子に身を縮めて美千代がいた。床の上に茶碗や皿のかけらが散乱している。
「どないしたんや。こんな散らかして」
 辰雄は床を片付けようとした。
「たっちゃん」
 美千代の声に辰雄はぎょっとしたように振り返った。美千代の目が妖しく燃えた。
「なんや。恐い顔して」
「あんた、女と居てたやろ」
 辰雄はかけらを投げ捨てた。
「友達と飲んでただけや。女は関係あらへん」
「うそ言うたかてうちにはわかるんや」
「うそやあらへん」
 茶碗のかけらを避けながら辰雄は車椅子に近づいた。
 美千代は辰雄を見上げた。
「うちがはよ死んだらええと思うてるやろ」
 美千代はいきなり車椅子から立ち上がろうとした。力を失った両足はだらしなく崩れ美千代は床に倒れた。
「そんなわけないやろ。みっちーはそのうち歩けるようになると思うているで」
「歩けても、うちはもうたっちゃんに抱いてもらわれへんのやで。抱かれへん女なんてたっちゃんのお荷物になるだけや」
「悪かった。もう遅うまで飲まへん。仕事が終わったらすぐ帰ってくるからな。堪忍してや」
 辰雄は美千代を抱き上げて車椅子に戻した。

 その秋、長雨で淀川が増水していた。水が見たいと美千代が言い出して、淀川河畔にでかけた。車椅子を水辺に近寄せて、こわごわ水面をのぞき込む。
 濁流が白い牙を剥きながら流木を押し流した。辰雄が石を流れに投げ入れた。石は濁流に跳ね返って飛んだ。
「面白い。もっとやってみて」
 子供のようにせがまれて、手ごろな石を探しに車椅子から離れた辰雄の目に、車椅子が滑るように動くのが映った。
「ミッチー、危ない!」
 辰雄は拾った石を投げ捨てて叫んだ。
 美千代は必死で濁流に向かって車輪を回している。
 猛然と駆け戻った辰雄の目の前で、岩につまずいて車椅子が転倒し、美千代が投げ出された。椅子はそのまま一回転して濁流に呑込まれた。
「あほう!」
 美千代を抱きかかえて怒鳴る辰雄の胸を、
「うち、死にたんいんや。なんで死なしてくれへんの」
 泣きじゃくりながら美千代は叩き続けた。
「死んだらあかん言うてるやろ」
 美千代を草の上に座らせて擦りむいた額や肘の血を拭いてやる。
「見いな。美人台無しやがな」
「うち、美人やあらへん」
「そんなことない。ミッチーは美人や」
 美千代は辰雄の手をはねのけた。
「うちなんか、歩かれへんし、女の半端もんや。はよ死んだ方がええ女や」
「なんやと!」
 辰雄が怒鳴った。
「もう一遍言うてみい」
「おお、何度でも言うたるわ。うちなんか半端もんや。はよ死んだ方がええんや」
「あほう!」
 辰雄の手が美千代の頬を打った。
「痛いやんか」
「世の中にはな。手と足が動かんでも、立派に生きてる人が幾らでもいるんやぞ。ちょっと足が動かん位で何が半端もんや」
 美千代が頬を押えて涙をこぼした。
「生きてりゃ痛いのは当り前じゃ。なんぼでもどついたるで」
 もう一度平手打ちが飛んだ。
「痛い!」
「言うてもわからん奴はわかるまでどついたる」
 涙を流しながら、辰雄の平手打ちが続け様に飛ぶ。
「たっちゃんっ。もうかんにんして」
 美千代が辰雄に抱きついて大声で泣きじゃくった。
 辰雄は美千代を抱いて立ち上がった。
「叩いたりして悪かったな。さあ、家へ帰ろう」
 しっかりと辰雄の首に腕を巻き、美千代はしゃくりあげながら辰雄の胸のシャツで涙を拭いていた。
「ミッチー。お前が死にたいと思うのは病気のせいなんやで。お前の本心とは違うんや。病院の先生がウツ状態や言うてはったやろ。そのためなんや。ウツさえ良うなりゃあ、死にたい思うことはあれへんのや」
 自分の胸に頬をつけている美千代の顔を辰雄はじっと見つめた。美千代は目をつむっている。
「まるで子供を抱いているみたいやな」
 美千代が目を見開いて辰雄を見据えた。
「うち、たっちゃんの子供を生めん体なんや。やっぱり半端もんや」
 辰雄は慌てて美千代の顔を自分の胸に押しつけた。
「悪いこと、言うてしもうた」と呟き、
「子供なんて、要らへん。わし、子供嫌いなんじゃ」
 と大声で言った。
「そんな嘘言うてもあかん。たっちゃんが子供好きなのはようわかってるんや」
「違うっちゅうのに」
 辰雄が弱々しく呟く。
 美千代は辰雄の胸で泣き、辰雄は黙って歩を運んだ。

              ◇       ◇

 浴槽の窓が光り、一際高い雷鳴が轟いた。雨足はやや遠のいたようであった。
「たっちゃん」
「なんや」
「どないやった?」
「ああ、よかったで」
「うちの、あそこの具合いのことやで」
「ああ、そりゃあ最高や。昔とちっとも変わらへん。昔よりようなってるかも知れんな」
「そうか。うちもえろう感じてしもうた」
 辰雄は美千代を膝から下ろそうとした。美千代が辰雄の首に腕をからませて離れまいとする。
「どうしたんや。もう終わったんやで」
 美千代がいやいやをした。
「もっとこのまま入れててほしいんや」
「ちぇっ、しょうがない奴やな」
 辰雄は座ったまま美千代を抱きしめて、背中を愛撫した。
「うち、あほうやったわ」
「なんで?」
「子宮とってしもうてるやろ。そやから、でけへんと思うてたんや」
「子供がでけへんでも、気にせんかてええで」
「子供のことと違うねん」
「ほな、なんや」
「鈍いなあ。このことや。うち、先生が子供がでけへん言うたのをセックスと勘違いしてたんや」
 美千代は腰を上下させてみせた。
 萎えて抜けかけたものが元気を取り戻す。
「たっちゃん」
「なんや」
「もう一回して」
「えー、また?」
「以前は何回もしてくれてたやろ」
「そうやな。ミッチーはすけべやったからなあ」
 美千代が辰雄の背中を叩いた。
「たっちゃんこそすけべのくせに」
「すけべのとこも昔のまんまや」
 笑いながら辰雄は美千代を下から突き上げる。美千代が大きく声をあげた。
 翌日は、梅雨明けを知らせる豪雨が上がって、増水した淀川の河川敷には朝から夏の陽射しが照りつけていた。堤防を走る道路から河川敷にライトバンを下ろして、辰雄が車椅子を組み立てた。
「やっぱり朝は涼しいなあ」
 辰雄は大きく伸びをして助手席から美千代を車椅子に乗せる。
「ほんま、風があって涼しいわ」
 川面から遮るものなく吹きつける風が二人に涼を運んでくる。
 髪がなびく。美千代が微笑みながら辰雄を見上げた。
 辰雄はゆっくりと椅子を押して川辺を歩いた。
「ミッチー」
 歩きながら辰雄が声をかけた。
「なんやのん?」
「お前なあ。わしが先に死んだときのことが心配なんやろう」
 美千代が振り返った。
「急に、なに言うてんの。縁起でもない」
「真面目な話やで」
 辰雄は立ち止まって車椅子の前にしゃがんだ。
 美千代が首をかしげて微笑んだ。
「わしなあ、ミッチーより先には絶対死なへんからな」
 美千代の顔から笑みが消えた。
「わしなあ。タバコやめるで。酒も半分にする。夕べずっと考えてたんや」
「あんた、なにもそんな無理せんかて」
「無理やない。わし、ミッチーの為やったら何でもしてやるで。そやからな、ミッチーはなにも心配せんかてええんや」
「うち、たっちゃんに何にもしてあげられへんのに」
 くぐもった声で言って美千代が涙ぐんだ。
「そんなことあるかいな。昨日、ちゃんとしてくれたやないか」
「え? なにを?」
「ほら、風呂場で」
「ああ、たっちゃんのあほ」
 美千代が赤面した。
 辰雄は立ち上がってゆっくりと車を押し始めた。
「もし、わしが年とって先に死にそうやったらミッチーも一緒に連れて行く。死ぬ時は一緒や」
 美千代が後ろに手を伸ばした。その手を辰雄が握りしめた。
「たっちゃん、ほんまに一緒に連れて行ってよ。うちだけ残さんといてや」
「絶対約束する」
 さわやかな川風が通り過ぎた。
「ちょっと、あの人何してるんやろ」
 美千代の指さす方向で、三人がもつれあっているのが見える。辰雄は速度をあげて近寄ってみた。
 白髪の老人が、松葉杖を頼りに足を踏み出そうとしている。その脇を妻らしい老婦人と、中年の女性が支えている。老人は何度か倒れそうになりながら、やっと右足を一歩踏み出した。
「その調子、お父さん。頑張って」
 中年の女性が声をかける。老婦人が老人の額に浮いた汗を拭った。
「あなた、ちょっと休みはったら」
 老婦人が心配そうに老人を支える。
「いや、もう少し頑張る」
 口の端からよだれを垂らしながら、不明瞭な発音でそう言って老人は足を踏み出した。
 辰雄達とすれ違う時に老婦人が軽く頭を下げた。
 辰雄と美千代も思わず頭を下げる。
「ねえ、たっちゃん。うち、練習したら歩けるようになるかしら」
「歩けるようになると思うけどな。ミッチーの足は、半分はシンインセイのもんやいうて、先生が言うてはったやろ」
「シンインセイって何や?」
「心の問題や。ミッチーは初めから歩かれへんと思いこんでるやろ」
「そやけど、ほんまに動かへんのやで」
「そう思いこんでるだけと違うか」
「そやろか」
「思い込みちゅうもんはえらいもんやで。風呂場のあれかて、でけへんと思うてたやろ。けど、やってみたらでけたやないか。それも上出来やった」
「もう、たっちゃんたら。風呂場のこと、言わんといて。恥ずかしいわ」
「あんな爺さんでも頑張ってるんやからな。ミッチーはまだ若いし、治るかもしれへんでえ」
「うち、明日から歩く練習してみる。あかんでもともとや」
 水辺の近くに来た。
「たっちゃん、もっと水の近くに連れて行ってんか。流れが見たいんや」
 辰雄の顔色が変わった。
「大丈夫やて。もう、あんなあほなこと、せえへん。うちは生まれ変わったんや」
 美千代が振り向いて微笑んだ。
 濁流が牙を剥いている。
「この前とどっちがすごいやろうね?」
 美千代が濁流をじっと眺めながら言った。
「さあ、今日の方がすごいかな」
 そう言って辰雄がしっかりと車椅子を掴みなおした。
「たっちゃん、心配せんかてええで。うちのウツは治ったんや。もう飛び込んだりせえへんから」
「そやな。また風呂に一緒に入らなあかんからな」
「もう……、風呂のことは言うたらあかん言うてるやろ」
 辰雄は笑って石を濁流に投げ込んだ。石は濁流に跳ね返って遠くに飛んだ。
「淀川ってすごい川やなあ」
「そやなあ。水の勢いが違うでえ」
 濁流は大量の泥とともに淀川のヘドロやゴミを大阪湾へと流し去っていく。
 辰雄は濁流に向かって、力一杯遠くまで石を投げた。

 それから数ヵ月後、淀川の河川敷をかばいあうように散歩する男女の姿が見られるようになった。
                 
                   了

濁流

執筆の狙い

作者 大丘 忍

現在から始まり、途中に回想が入って又現在に戻ります。

…………と思った、という心理描写は一切無く、客観描写に徹する文体を試みました。これがいいのか悪いのか知りませんが。

コメント

にわか

やはり読みやすいですね。読了しました
大丘さんの小説を読んでいると、せっかくいい所なのになんで全部そっちの方に持っていくのかなって笑っちゃうくらい作風に結構偏りがあるような気がしますが、それはそれで楽しいのでこれからもニヤニヤしながら読ませてもらいます。
私は独身なので、いわゆる夫婦の絆というものについては無知ですが、血が繋がっているから家族な訳ではなくて、お互いが本当に愛している時にこそ見られる言動というものが、この小説には含まれている気がして、なんだかほっこりしたような気持ちになりました。思慮深い人同士の会話って感じがして僕は好きですね。一見、相手を乏しているような会話でもその裏の意味はしっかりと相手への思いやりがあるというか、それをお互いが感じているからこそ、生まれる強固な絆と言いますか。とにかく、私はこの小説が結構好きでした。一つ欠点を言うのなら、もしテーマを夫婦の絆という点に絞るのなら、ここまで生々しい性描写はいらなかったのではないかとも思いました。

ラピス

心理描写が一切ないのに、心理がわかります。ハードボイルドによくある手法ですよね。私も試してみたくなりました。
個人的には、二人が惹かれ合うエピソードが省かれたのが残念です。

大丘 忍

にわか 様

読んで頂き有難うございます。夫婦間の性交渉ですが、私の人生経験として非常に重要だと思っております。最近はセックスレスが多いと聞いておりますが、その理由が私には理解できません。ということで、私の小説では性交渉を大切に取り扱っております。
若い方から見れば、性交渉の場面がくどいように思われるかもしれませんが、私の若い頃はその性交渉の中に夫婦の絆があったのだと思っております。
丁寧な感想を頂有難うございます。

大丘 忍

ラピス 様

心理描写が無い描写が、ハードボイルド的手法であることは聞いたことがありました。それを念頭に置いて書いたのですが、それが伝わったことは良かったと思っております。
二人の馴初めた経緯を省略しましたが、

> 辰雄は振り返って白い歯を見せた。美千代はその後ろ姿がトラックの運転台に消えるまで  見送っていた。

の一文にて、表現したつもりでした。これもハードボイルド的を意識した結果ですが、もう少し工夫があったらよかったと思われます。このような経緯はいくらでも書けることですから。

読んで頂き、感想を有難うございます。

中野サル信長

大丘さんがどのレベルを目指されてるかわかりませんが
ごはんでプロにはなれません
学校をオススメします。

大丘 忍

中野サル信長様

アドバイス有難うございます。ごはんではプロになれない。その通りかもしれませんが
私はプロになるつもりはありませんので。

中野サル信長

再訪します。なら大丈夫です。
アマチュアイズムに徹するべきです。
ここは掌編の鍛錬。素人のマーケティングには適しています。

御廚年成
M014011161224.v4.enabler.ne.jp

明けましておめでとうございます。
変わらずの御健筆を心よりお慶び申し上げます。

「身も心も」と申しますが、御作は夫婦の「身」と「心」の結び付きを描いた策と解釈いたしました。
この「身」と「心」の結び付きを例えば辰雄の自慰場面を挿入し、それを見た美千代が手や口で行い、潤滑を感じる……などの方が、若井達夫の行動としては自然ではないでしょうか。


もったいないな。と感じた所は、カツカレーから一気に所帯を持つところまで飛んでしまったところです。
恋愛を夫婦の前駆活動とするのなら、最も面白いところを意図的に抜いているからだと思います。
御作は、恋愛小説ではなく、夫婦の結び付きを語るものであると解釈してもなお、この部分を入れて欲しかったと思いました。

好き勝手を申しました。
寒中なにとぞ御自愛下さい。
重ねて、大兄の御健勝と御健筆を心より祈念申し上げます。



追伸

過去の権田医院シリーズに「潤滑」を使い、夫婦の悩みを解決する作品もありました。
新たな権田医院シリーズで権田医師が処方する「突角隆起丸」や「開門湿潤散」などでセックスレスの解消……なども読んでみたいと思います。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内