作家でごはん!鍛練場
はるか

ラップランドに降る雪は(十枚)

 寒い朝、君は起きて、暖炉に火をくべ、軽く体操をして、ベリージャムを塗ったクラッカーを食べてから、白くなった髪に丁寧にくしを入れた。それから戸外に出て、薄闇の中、繋がれた相棒に餌をやった。息が白く凍った。
 昨夜は、グリーンに閃くオーロラを見物していて、寝るのがいつもよりも遅くなってしまった。そのためだろうか、目がしょぼしょぼとして、手にした配達リストを読むのにも、いちいち老眼鏡を外したり、また付け直したりと手間取った。
 ラップランドの冬は果てしなく長く、妻も子供も、友達のひとりすらもいない君にとって、やってくる明日は、去ってゆく昨日とまるで同質で、日々は、堪えがたいまでの退屈に覆われていた。そんな君の唯一の楽しみが、毎年巡ってくるこの時期の、たった一夜の世界旅行なのであった。
 いそいそと君は準備を整えた。送料無料の配達は、近頃じゃAmazonなんかで当たり前だが、とうのむかしから君は、送料のことなんて考えもしないで配達作業に勤しんできた。一日の遅延も許されない厳しい役目を、数世紀にわたってこつこつと担い続けている自分のことを、君は、自身で、ひそかに褒めてやったりもしているのであった。
 へへいの、へい!
 と君は叫んだ。すると暖炉の隣に茶色い扉があらわれた。金色のノブを掴み、ドアを開ける。中は倉庫になっていた。広大な倉庫である。フィンランドとノルウェーを足したよりも広いが、さらにスウェーデンを足した場合に比べるといくらかは狭い、そんな空間だった。ずらりと棚が並んでいた。どこまでものびていて終わりが見えない棚の列だった。棚には地名がふられていて、一段いちだんには住所がふられていて、ひとつずつの品物のところには宛名がふられていた。
 君はまた叫んだ。
 ほほほの、ほいほいほい!
 君の右手に白い袋があらわれた。雪のように真っ白な袋だった。袋の中に君は、棚の品物を順繰りに、ぽいぽいと詰め始めた。すごい勢いで詰めていった。袋は、あっという間に膨れた。でも君は手を休めない。どんどんどんどん詰めてゆく。袋は、なんと、不思議なことだが、一定の大きさまで膨らんだのちには、もう膨らむことをやめてしまい、そのままの大きさを保って安定していた。どういう仕組みなのかわからない。四次元ポケットみたいなもんだ、と前任者からは説明を受けた。ふうん、そうなんだ、と君は思ったが、四次元ポケットというのがなんのことなのかはよくわからなかった。
 あらかたの荷物を詰め終わったのは、時計の針がてっぺんをいくらか回ったころだった。お昼ご飯に君は、雷鳥の肉を食べ、野菜のスープを飲んだ。昼はしっかり食べることにしている。その分夕飯を少な目にしていた。メタボは大敵、君は自身の健康に十分な気配りを怠らなかった。
 老眼鏡を外して壁のカレンダーを見る。いよいよ明日だ。明日の夜には出発だ。プレゼントを待ち望むよい子たちの笑顔を思い浮かべた。それから君も笑顔になった。
 ラップランドの冬、太陽は昇らない。昇らないから、沈むこともない。朝も昼も暗く、宝箱の中の輝きみたいな星空が、積もった雪を覆うようにして、ずうっと頭上にあった。
 果たして翌日、快晴の星空が、つんと澄み、いっそう、つつんと澄みわたり、とうとう出発の刻とあいなった。
 ほほう、ほほほう!
 と君が叫ぶと、相棒は橇を引き、百メートルほどを走ってから、音もたてずにテイクオフした。何度やっても、このときばかりは胸が高鳴る。老いてはいても、そんなの関係なかった。少年のような瞳をきらきらさせて君は、星空の向こうを、はるか向こうを見つめていた。時折、ちらりと下に目をやった。空から見ると、暗い大地は、月の光でわずかに白く、凪いだ海のようにも見えた。
 なんのために? と訊かれたことが三回ある。なんのために配達するのか?
 一度目は応えた。子供たちの笑顔のためです。
 二度目は、少し気恥ずかしかったのでこんなふうに応えた。まあ、運動不足解消のためかな。
 そして近年になってから放たれた三回目の質問に対して君は、初めてそれを語った。生まれ変わるためです。
 最初の家に着き、君は、腕時計の針を少し戻した。こうすれば時は進まない。確かにちょっとインチキかもしれない、でもこうしないと、一晩のうちにすべてのプレゼントを配り終えるだなんてとうてい無理な話だから。新しい家に着く度に君は、腕時計の針を少しずつ巻き戻すのだった。
 白い袋を、大事に抱えて煙突に入る、慎重に入る。煙突のない家にもちゃんと、メタファとしての煙突はあるので、だからそこに入る。配達作業のクライマックスである。
 必ず、右足から入る、それから左足。けっして間違えちゃいけない、と前任者が真剣な口調で言っていた。左足から入ったら最後、その煙突からは永遠に抜け出すことができない。君は煙突になり、煙突は君になる。煙突は煙を吐き出す役目を失い、君はプレゼントを配達する役目を失う。よい子は悲しむし、一家は一酸化炭素中毒になるかもしれない。だから君は、自身と煙突と、それからよい子とその家族のために、慎重に、意識的に、気をつけて気をつけて、さらにまた気をつけながら右足を、そろうり、そろりとつっこむのであった。
 わあお、わおわお!
 と叫びながら君は煙突を下り始める。スライダー遊びをする子供になったような気分だ。けれども、袋を握る手に力を込めながらも、そのうちどんどん、自分や世界が、からっぽみたいになってゆく。二年間掛かるからだ。出口に辿り着くまで、標準的な家の標準的な煙突の場合、だいたい二年くらいが相場だ。出口を出てから時計を巻き戻せばいいだけのこと、と、前任者は簡単に言った。けれども、スライダーを、二年間もの長きにわたって滑り落ちることって、口で言われるほどには簡単なことじゃない。そりゃまあ特になんらかの努力が必要、ってわけじゃない、ただ落ちるがままに身を任せていたらそれで済む話ではある。世の中には、もっと重労働だったり、あるいはあちこちに忖度しなきゃならないような仕事がいくらでも転がっている。だから不満に思っちゃバチが当たる。そうとも言える、と思えばこそ君は、文句も言わずに二年間を滑り終える。最初の煙突で二年間、次の煙突でもう二年間、さらにまた次の煙突でやっぱり二年間。
 腕時計の針を戻すから、外では時間は進まない。でも、内的時間はそうじゃない。君の内部では、きっちりと二年分の時が過ぎ去るのだ。君の容姿に変化があらわれるわけじゃない。見た目は変わらない。見た目は、外的な時間に属するものだからだ。君の中に、何かが降り積もる、それだけのことである。でも、それほどのことである、ともいえる。
 とはいえ、時は、雪に似ている。この仕事を続けるうちに君はそのことを悟った。どんなに降り積もっても、溶けてしまえば、そこにはもう何も残らない。降りだす前と同じことだ。つまり、二年間を疎ましく感じるのは、滑っているその間に限ったことであり、出口から出てしまえばもう憂いはさっぱり消えているのだった。そればかりか、世界は、その度に新たな光を帯びて、君の前にたちあらわれるのであった。
 子宮に似ている、と君は思う。煙突の中の暗闇は、実に子宮なのであった。煙突から出てきた君は、赤子のように純化されている。憂いも疎みもなく、世界への期待にうちふるえて君は、鮮やかな世界を目にするのだ、あの煙突の出口においても、この煙突の出口においても。
 プレゼントの配達人が長寿である秘密は、実にそこにあるのであった。君は毎年、この時期に、二年間×何十億軒分かの歳を内的にとり、かつ、何十億回もの生まれ変わりを体験するのであった。
 生まれ変わった君は、プレゼントに喜ぶよい子たちからの感謝の思いに照らされて、誇り高く、前向きに叫ぶのであった。
 おうおう、おおう!
 ラップランドの冬は長い。君には妻もなく子供もなく、友達のひとりもいない。果てしなく積み重なる日々に押し潰されないよう、今年も君はプレゼントを配る。
 よい子たちの笑顔のためであり、自身の健康のためであり、そして存在の車輪を転がすためでもある。
 なんのために転がすのか、そして前に進むのか、そんなことまではわからない。雪の降る理由を、雪に尋ねたって応えがないのと同じだ。
 ラップランドには、ただ雪が降るのだ、そして降り積もる、音もなく、けれどもやがて雪は溶け、輝く世界が巡ってくるのだ、その輝きをより鮮やかにするために、たぶん雪は降るのだろう、君は、なんとなくそう思うのだった。

ラップランドに降る雪は(十枚)

執筆の狙い

作者 はるか

 優れたパーカッショニストは一番大事な音を叩かない、というようなことを、『みみずくは黄昏に飛びたつ』という本の中で村上春樹さんが語っておられました。
 そんなふうな書き方をしてみたい、と思って書いてみました。そしたら、ちょっと、村上春樹さんの物真似みたいな語り口になっちゃったかもしれません、テーマはオリジナルなんですけど。クリスマスってことでおおめにみてやってください。
 さて、語り手は誰なのでしょうか? 誰の視点の物語なのでしょうか?

コメント

名前はどうでもいい

久しぶりに来ましたが最近のごはんは、作者が知らないことを追求したり、こちらが考えさせたり、そういうものが本当に少ないと感じます。

櫻井

 一見して、プロの水準に近い作品だと感じました。具象と抽象の交錯、当世風の瀟洒な詩的感性、豊かでのびやかな空想力と、とても見どころが多く、読んでいて心地良かったです。所々挿入される「へへいの、へい!」などの掛け声も、よく効果を発揮していました。この掛け声のおかげで、文体のリズムがよく整えられていました。また、amazonやメタボ、忖度のような俗っけの強い語彙ですら、「大人向けの童話」とでも形容すべき、瀟洒な作風の良い隠し味となっていますね。小洒落ており、文全体の中で浮いているわけでもありません。
 
 もう一つ、興味深いと思ったのは、二人称視点を用いていることですね。基本的にハードルが高いとされる人称ですが、この作品では上手くハマっています。これだけでも加点要素と言えるでしょう。それに誰かに対し問いかけを行うようなこの二人称の文体は、作品全体を貫く優しい有機性に繋がっています。二人称視点なのに、どこか抒情性を感じさせる文体というのは面白いですね。

 私見ですが、前作よりワンランク上の作品だと感じました。こういった作品を継続して書き続け、表現を磨き続ければ、いずれはプロデビュー出来るのではと思います。
 

u

よみました

本作の肝は
>わあお、わおわお!
 と叫びながら君は煙突を下り始める。スライダー遊びをする子供になったような気分だ。

から最後までだよね

2人称 かなりいい出来ですね

>語り手は誰なのでしょうか? 誰の視点の物語なのでしょうか?
君はあたしであたしは君なんだろうね

御健筆を

名前はどうでもいい

群青なんとかが他人の感想を批判したくなるのもわかるわ……

底辺

文体が安定しないね。〇〇〇〇と、みたいな擬態語多用と、横文字がアンマッチ。繰り返しの多いラノベっぽい文体が見え隠れするのに、無理にハイカラな文章目指してチグハグな感じ。この短さで文体がバラバラなのは致命的と思う。
あと、要らん説明が多いかな。すでに指摘があるけど、ラップランドという地名を強調しておきながらグーグル画像検索しかしてないようなペラペラの描写が残念でならない。ショートショート的な簡素な文を目指すにしては、説明がくどい。二人称は本来語りの形式にも関わらずただ目の前の男を逐一追うだけなので、二人称として失敗してると思う。ブラックサンタクロースかどうかは知らないけど執筆の狙いがなければ語り手が誰かなんか気になりもしなかった。語り手と聞き手がいて二人称になるということは頭に入れたほうがいいと思う。あと、こういうの書いても練習にならないんじゃない? このサイトの人、やたら短いの好きだけども。

野良犬

レベルが高い。
けど、二人称小説に挑んで失敗してる人間はアウシュヴィッツ以上だから気をつけてね。

夢酔人

感想を書かせていただきます。
思ったことは
①語り口が軽妙、好感が持てる、ユーモラス、上手。
②語り掛ける文体に違和感はないが、語り手が誰かまではわからなかった。
③煙突を落下するのに二年かかるという設定に疑問を感じた。ここまでは良かったけどここで「?」となった。

>ラップランドの冬は果てしなく長く、妻も子供も、友達のひとりすらもいない君にとって、やってくる明日は、去ってゆく昨日とまるで同質で、日々は、堪えがたいまでの退屈に覆われていた。

日々を堪えがたく退屈に感じるという描写と二年の落下をかける数億回たえられるところとが一致していない違和感がありました。

④途中、サンタが時々変な声を上げるのが味があって良かった。
⑤時間と雪の類似の指摘はなるほどと思いました。
⑥煙突を子宮にたとえる話は突飛な印象がありました。生まれ変わりの反復、という概念は重要だと感じますが、サンタの能動性や努力が伴わない点と、形而上の話であり曖昧さを拭えない点とにひっかかりを感じました。説明をはぶき暗喩として語る場合、小説の効果をコントロールするのが難しくなると思います(読者の感性や知識や理解力に依存してしまう)。しかし作家は一貫して隅々まで効果をコントロールするつもりで小説を書くべきだと思います。
⑦最後の締めの部分(存在の車輪を転がす云々)はとても共感できます。ふとシーシュポスの神話を思い出しましたが、自分に課せられた労働を徒労ととらえずそれを肯定する、しかも強がりではなく心から。それにはちゃんと意味があるから。でも根拠はない。しかしそれを信じられる。この認識へと至る前段階として、徒労を課せられている可能性について気付く段階があるわけですが、この段階はその人の資質によってはニヒリズムやテロリズムへと転落する危険性を孕んでいます。しかし転落せず明るい方を向く。そこに偉大さを感じますし、根拠はないですが正しいと感じます。
⑧結論として季節感のあるユーモラスな小品として一定のクオリティがあるように感じましたが、テーマに曖昧さがあり、それが味や余韻として好意的に捉えられる水準には達していないような印象がありました。村上春樹などはそのへんが名人芸の域に達していると感じます。何をテーマにしても(例えばおでんとか洗濯ばさみとか)それなりに読ませるものを書くと思う。彼にはそういう小手先の技術がある。それがいいのかどうかは別にして。個人的にはその道の名人がどんと居座っている間はその方向性を目指すべきではないと思います。

KT

まずこんな面白いものはない。二人称をこんなにうまく書ける人はプロでもいない。間違いなく傑作であり、プロ並みの水準(それ以上)を確保している。才能の塊である作者の末が恐ろしい。

夜の雨

読みました。
文章はうまいというか個性的な文体ですけれど、題材の表現のしかたに工夫が足らないような気がします。
ちなみに二人称で書かれていますが、実のところは一人称の作品でした。
「君」とあるところを「私」に変えて読むと、違和感なく読めます。
たしかに文末などの処理が一人称にしては少しおかしいところはありますが、問題のないレベルです。意味が分かるということです。
となれば、何のために御作は二人称モドキで作品を書いたのかということになりますね。
その狙いは何なのか?
たぶん主人公のサンタクロースと距離を置くためだと思います。
一人称で書くと内容が身近になります。自分のことなので。
二人称で書くと他者が主人公のことを書いているので、距離感があります。
この距離感の雰囲気が御作の個性的な二人称の文体になっています。
しかし、それ以外には二人称にする意味がありません。
二人称小説にするなら、二人称でなければ書けない内容にしないと意味がないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
ちなみに三人称にすると空虚になります。全くの他人ごとなので情報を伝えるだけでぬくもりがない。一人称とか二人称と比べたらの場合です。

題材の表現のしかたに工夫が足らないような気がします。 ←と、上に書いたので説明します。

>新しい家に着く度に君は、腕時計の針を少しずつ巻き戻すのだった。<
これはサンタさんが世界中の子供たちにプレゼントを配ると時間が足らないので、時間を戻しながら配るというお話なのですが、説明で書くよりも、情景を描写したほうが面白いのではないかと思います。

>君の中に、何かが降り積もる<
これなども映像として目に浮かぶように書くと良いと思います。

 >子宮に似ている、と君は思う。煙突の中の暗闇は、実に子宮なのであった。<

これを描写するとかなりインパクトがあると思います。もちろんエロにはなりません。
「煙突の中の暗闇」を「子宮」として表現するのですから。

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 >ラップランドの冬は果てしなく長く、妻も子供も、友達のひとりすらもいない君にとって、やってくる明日は、去ってゆく昨日とまるで同質で、日々は、堪えがたいまでの退屈に覆われていた。<

 >ラップランドの冬は長い。君には妻もなく子供もなく、友達のひとりもいない。果てしなく積み重なる日々に押し潰されないよう、今年も君はプレゼントを配る。
 よい子たちの笑顔のためであり、自身の健康のためであり、そして存在の車輪を転がすためでもある。
 なんのために転がすのか、そして前に進むのか、そんなことまではわからない。雪の降る理由を、雪に尋ねたって応えがないのと同じだ。
 ラップランドには、ただ雪が降るのだ、そして降り積もる、音もなく、けれどもやがて雪は溶け、輝く世界が巡ってくるのだ、その輝きをより鮮やかにするために、たぶん雪は降るのだろう、君は、なんとなくそう思うのだった。<
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>やってくる明日は、去ってゆく昨日とまるで同質で、日々は、堪えがたいまでの退屈に覆われていた。<

>果てしなく積み重なる日々に押し潰されないよう、今年も君はプレゼントを配る。<

>なんのために転がすのか、そして前に進むのか、そんなことまではわからない。雪の降る理由を、雪に尋ねたって応えがないのと同じだ。<

御作は「時間」と「自己の存在」を題材にしていると思います。
そこにすべてが集約されるように、一つ一つの文章がエピソードが組み込まれているように思うのですよね。


お疲れさまでした。

加茂ミイル

はるかさんの文体はファンタジックで、クリスマスというテーマにはとてもぴったりだと思いました。
文章全体が、クリスマスツリーのイルミネーションのようにきらきら色とりどりに輝いているように見えました。
そして、リズミカルでありながらも、意義深い一つ一つの言葉のつらなりに、いつの間にか文章の世界に引き込まれていました。

はるか

 名前はどうでもいいさま

 ありがとうございます。

>久しぶりに来ましたが最近のごはんは、作者が知らないことを追求したり、こちらが考えさせたり、そういうものが本当に少ないと感じます。

 なぜ、それを、ここに記されたのか、何か深いメッセージが込められているのか、三回半くらい読み直しましたが、よくわかりませんでした。

 あと、つかわれている日本語も、いまひとつ、よくわかりませんでした。

一、 久しぶりに来ましたが、最近のごはんって、作者が、自らの知らないことを、作品を描くことで追求したり、あるいはまた、そんな作品を読むことで、読み手であるこちらが考えさせられたり、そういうことが本当に少なくなったな、と感じています。

 と、いうことをおっしゃってます?

 あるいは、

二、 久しぶりに来ましたが、最近のごはんって、作者の知らないことを、読み手が示唆して、作者をして、それを考えさせたり、そういう場面が本当に少ないな、と感じています。

 一と二のどちらを伝達していらっしゃいますか?

 久しぶりに来ましたが最近のごはんは、【作者が】知らないことを追求【したり】、【こちらが】考え【させたり】、そういうものが本当に少ないと感じます。

【】内の意味がよくわからないのは、文法的に問題があるからです。作者か知らない、なのか、作者が追求したり、なのか、そのどちらかで意味が変わってくるじゃないですか、主語すらも。読点を入れたら明確になるのですが。読点を使いたくないなら、文章の組み立てを変えて対応すべきかと。あと、考えたり、なのか、考えさせられたり、なのか、文字通り読むなら前者ですが、文脈を追うなら後者になりそうです。マジカルなセンテンスですね。なので、上記ふたとおりの解釈ができちゃいました。ともあれ、端的に言うと、書き手も、読み手も、考えてないなあ、浅いよなあ、ということでありましょうか。……だなんて、考え込んじゃいましたよ。

 ありがとうございました。

 と、締めようとしたのですが、名前のとこにカーソル移動させたら、数字が出ちゃいましたよ。足掻いておられますか?

はるか

 櫻井さま

 ありがとうございます。

>具象と抽象の交錯

 はい、降り積もる時を描くことで、存在し続けることの意味、みたいなのを描いてみたいと思いました。作家なら、書き続けることの意味、みたいなこと。孤独な君へのエールでもありますが、なんにせよテーマは抽象的なんです。人間も描いてません。君は人間じゃないですもんね。具象的なあれこれを、限られた字数の中に散らすべく、誰もがよく知ってるaffairをmotifにしたって案配でした。

>当世風の瀟洒な詩的感性

 詩的感性、というご指摘(だなんて調子にのって韻を踏んでみたりして)、有り難く頂戴いたします。

>豊かでのびやかな空想力

 空想力、いい響きですね、なんか青あおと突き抜けてる感じで。想像力っていうと、創造力と音が同じだからか、なんか、茶色っぽい、エンヤコラな感じがしちゃうけど、空想、って言葉の響き、とてもlightですね、嬉しいです。

>「へへいの、へい!」などの掛け声

 はい、掛け声って、リズムを整えますよね、ほかでも使ってみよう。

>amazonやメタボ、忖度

 ほっとしました~。ピカチュウ的な失敗をまたやらかしたかな、とか、一瞬身構えましたが、隠し味、みたいな感じで、セーフだったでしょうか。どうしても、照れちゃうというか、崩しちゃうというか、格調の高い感じが馴染まないというか、注意はしてるんですけど、やらかしちゃうんですよ、でも、前回ご指摘を受けていたお陰で、なんとかセーフな範囲でコントロールできたのかもしれません、ありがとうございました。

>二人称視点

 ちょっとやってみました。二人称、というのは、読者に呼び掛けるもののことだと、どこかでどなたかがおっしゃられていたのですが、調べましたら、そうでもなくて、読み手が憑依しうる特定の誰かに呼び掛けるのでもいいみたいなんですね、一人称視点の考え方とそのへんは同じなんじゃないかと。というわけで今回は、あの人に呼び掛けるかたちにしてみました。主体に憑依していただくか、客体に憑依していただくかの違いはあるけど、憑依という点では一人称に、外からの視点という意味では三人称に似ていて、だから、やり方次第で、一人称よりの二人称になったり、三人称よりの二人称になったりしそうなんですけど、やってみてなんとなくわかりました、呼び掛けることの効果、みたいなのが。

>二人称の文体は、作品全体を貫く優しい有機性に繋がっています。二人称視点なのに、どこか抒情性を感じさせる文体というのは面白いですね。

 ご指摘の点、書きながら私も感じてました、書き終えて読み直したら、なんかいいんじゃないかな、とか思えました、やさしい感じで。挑むような、問いただすような二人称じゃなくて、わかってるよ、それでいいんだよ、みたいな二人称ですね。なので、わからなくなっちゃったんですが、二人称って、誰の視点なんでしょうね? 読み手は客体に憑依してるわけだから読み手さんの視点じゃないし、書き手の視点とか、神視点というのとも違う気がするんですよ、眼差しに体温みたいなのを感じるんです、今回のでいうと。だから、もしかしたら、これは、外の瞳かな、って。月の眼差しなんじゃないかな、って。だから童話っぽい話にはまるのかな、とか。

>前作よりワンランク上

 そうでありますか。書き続けることには意味がありますね。わあお、わおわお! みたいにslidingしてゆけたらよいな、と思います。

 過分なお褒めの言葉をありがとうございました。

ふつうに一だよ

二は意味がわからない

はるか

 uさま

 あっちの感想欄で、

>小学校の国語からやり直せっていわれる

 こっちの感想欄で、

>↑の人に童話から読み直せっていわれそう(笑

 目にしていたあたりを、坊主めくりみたいにめくってみたら、簡単にsalvageできましたよ、uさんの感想って短くて白いから検出が楽で助かりました。

 ともあれ、なんでありましょうか、よそさまの感想欄で恨み節ですか?

 納得していただけたのか、と私は思っていたのですが(ふりだけだったんですか?)、あんな文言やそんな文言をあちこちで……だなんて、どういうごりょうけんでありましょうか、納得されてなかったんですね、だから、指摘を受けたのに、まったく改めないで、つづきを上げちゃうんですね。

 だとすると、感想のやりとりって、あまり意味がないかも、ですね、お互いに徒労なだけで。

はるか

 名前はどうでもいいさま

 一人二役のキャッチボール、お疲れさまです。

はるか

 底辺さま

 ありがとうございます。

>文体が安定しないね。

 そうなんですよ、こちらに来て四ヶ月、いろんな文体で書いてきました。試行錯誤してます。今回の文体じゃない別の文体が本命なんですが、今回の文体も自分的には悪くない、と感じておりました。ので、

>〇〇〇〇と、みたいな擬態語多用と、横文字がアンマッチ。

 アンマッチ、とのこと、勉強になります。が、ご指摘の意味が、すみません、よくわからないのです。「〇〇〇〇と、みたいな擬態語多用」とのことですが、擬態語? 多用? 具体例をひとつかふたつ頂戴できますと助かります。「横文字」が、アンマッチ? 何にアンマッチなのでしょうか? 擬態語に? 擬態語が何を指すかもわからないのですが、横文字が何を指すのかもわかりません。何が何に「アンマッチ」なのでしょうか?

>繰り返しの多いラノベっぽい文体が見え隠れするのに、

 繰り返し、例えばどこのことでしょうか? 繰り返し、は意図的に多用してきたおぼえがあるのですが、今回のやつでは、そんなに意識しなかったのだけれど、目を引くほどの繰り返しがありましたでしょうか? また、ラノベって、繰り返しが多いのですか、勉強になりました。

>無理にハイカラな文章目指してチグハグな感じ。

 すみません、混乱してきました。論理の筋道が見えなくなっちゃいました。ラノベっぽい、って、普通に考えますと、すなわちlightにしてpopにしてmodernでcasualな印象ってことでありましょう? それって、「ハイカラ」みたいなものに馴染むんじゃないでしょうかね、category的には。ハイカラ、って言葉が死んでしまってかれこれな気がするし、だから私がハイカラなる言葉の示すところをイメージできてないのかもしれませんが、ラノベ的なグループαと、ラノベ的でないグループβがあったとして、ハイカラなるものがよりどちらに馴染むかっていうとαに馴染むと私は思うんですよ。classicとかacademicってのはβだと思うんですけど。だから「ラノベ的なのにハイカラ目指してチグハグ」ってことに矛盾を感じちゃうんですよね、何を指摘されてるのかわからない。何かがチグハグだって、そういう雰囲気なんですね、それだけでも勉強になりました。何と何が、どこらへんでチグハグなんでしょうか、腑に落ちないので、ちょっと考えてみます。

 つづきます。

はるか

 底辺さま

 つづきました。

>この短さで文体がバラバラなのは致命的と思う。

 文体がバラバラ? まったくもって腑に落ちない、というか、バラバラな「文体」って、なんでしょうか? 文体とは、文章表現のstyleであり、固まったものを差しますから、固まったものがバラバラって、それって矛盾してますよね、バラバラな文体、って概念、初めて聞きましたが、なんだろう、それってたぶんかなり新しいstyleですよね、新種の文体。そんなものを私、いつのまに獲得してしまっていたのでしょうか? 私には、今回のやつの文体は、ありふれた、陳腐なものだと思えていた(いえ、でも、しっかり、ひとさまにお見せできるqualityのものだとは認識して投稿したのですよ、もちろん)ので、なんだか不思議な気がします。

>あと、要らん説明が多いかな。

 説明? 説明なんて、してましたっけ? しかも、要らん説明? 多い? 説明は省けるだけ省いたつもりだったし、むしろ、情報を隠し過ぎてる、ような気さえしたので、心底びっくりです。具体的には、どれとどれとどれが、要らん説明でありましたでしょうか? 例示していただけますと勉強になります。

>すでに指摘があるけど、ラップランドという地名を強調しておきながらグーグル画像検索しかしてないようなペラペラの描写が残念でならない。

 描写なんてしてましたっけ? そういう話じゃないんですけど。Googleの画像も見てません。私、ラップランドに行ったことあります。サンタ村で、世界のみんなと合作のマフラーも編んだし、サンタさんとの記念撮影もしたし、犬ぞり乗って、snowmobile乗って、砕氷船で北極圏も旅してナショジオの取材も受けたし、緑のオーロラも赤いオーロラも見たし、トナカイもサーモンも雷鳥も食べたし、フィンランド名物のサウナに入って湖にも飛び込みました。でも、緑のオーロラのことと、雷鳥のことくらいしか書いてません。必要ないからです。
 私の一作目は、バリ島の話だったんですけど、それは、実際に滞在したウブドのピタ・マハヴィラを舞台に描きました。必要だったからです。二作目には南の小島の水上コテージが出てきましたが、これも実際に滞在したボラボラ島の水上コテージについて書きました、でも、ちょっとだけです、必要のない情報だったから。四作目はアリゾナを舞台にしました。アリゾナも実際に走りました、一人旅じゃないけど。そのときに感じたことを活かして書きました、必要なだけ活かして書きました。と、ことほどさように私は、自分の実体験の中から必要十分なネタをピックアップしてものを書いています。Googleの画像を見て薄っぺらな描写をしたことはありません。今回の作品では、ラップランドを詳細に描写していません、必要ないからです。

 つづきます。

はるか

 底辺さま

 つづきました。

>ショートショート的な簡素な文を目指すにしては、説明がくどい。

 目指してません。それから、説明は、絶対にくどくない、と言い切りたいと思います。説明する必要のある話じゃないんですよ、っていうか、君へ月が語りかけてる語りでありますからね、全編において地の文は。だから、説明箇所は一箇所もないはずなんですよ、論理的には。書き手が介入していませんから。
 失礼ですが、説明、語り、描写、みたいなことについて、何か勘違いをしていらっしゃいませんか?

>二人称は本来語りの形式にも関わらず

 そのとおりです。語りです。だから、説明じゃないんですよ、全編。サンタさんに向かって、サンタさんがいかなるものであるのかを、月がわざわざ「説明する」わけないじゃないですか。

>ただ目の前の男を逐一追うだけなので、二人称として失敗してると思う。

 ちょっと待ってください。「目の前の」男って誰ですか? サンタさんしか出てこないのでサンタさんのことですよね。誰の目の前にいるんですか、サンタさん。一人の客体を「追って」ないですよね、語りは、「語りかけている」んですよね、一人の客体に。二人称は語りの形式だって書いておいて、一人の客体に語りかけてるから失敗だって、論理破綻してますよね。

>ブラックサンタクロースかどうかは知らないけど

 は?
 ブラックサンタって、どなたの作品内のサンタさんのことでしょうか?
 拙作のサンタさん、誰がどう読んだって真っ白じゃないですか、超ホワイトサンタですよ、三歳の子供にだってわかります。

>執筆の狙いがなければ語り手が誰かなんか気になりもしなかった。

 それはよいことであります。いちいちそんなこと読者に気にされたら普通は失敗ですよね。でもここは鍛練場らしいので、考えてみませんか、と話題を振っただけですよ?

>語り手と聞き手がいて二人称になるということは頭に入れたほうがいいと思う。

 はい?
 語り手と聞き手が明確に定まってる二人称なんてあるんですか?
 読み手が「君」に憑依して、書き手が設定した任意の語り手が語るのでいいんですよね?
 拙作の視点は月みたいな何かで、拙作の客体はサンタですよね、それで何か問題がありますでしょうか?

>あと、こういうの書いても練習にならないんじゃない? このサイトの人、やたら短いの好きだけども。

 一作目が百八十枚、二作目が百三十枚くらいだったと思うけど、字数制限があって分割投稿になっちゃうんですよ、分割してアップしたら、読みきりにしろって言われて、連作ものは批判されちゃうから、三作目から短いものを書いています。
 練習にはなりますよ、短くても。勉強にもなります、今回、底辺さんより頂戴いたしました感想は、でも、具体性がなくて、残念ながら勉強にはあんまりならなかったけれども。

 ところで、底辺って、なんかルサンチマンな響きのあるハンドルですね、使い捨てのハンドルじゃないなら、すごいセンスでありますね。

 ありがとうございました。

はるか

 野良犬さま

 ありがとうございます。

>二人称小説に挑んで失敗してる人間はアウシュヴィッツ以上だから気をつけてね。

 おっしゃるとおりですね。今後は近寄らない所存です、二人称には、まだ、当分。

 ありがとうございました。

はるか

 夢酔人さま

 ありがとうございます。

 非常に為になるご指摘でした。すべてを呑みこみ糧とさせていただきます。

>①語り口が軽妙、好感が持てる、ユーモラス、上手。

 素直に受け止めさせていただきます。

>②語り掛ける文体に違和感はないが、語り手が誰かまではわからなかった。

 わからない、と私も思って考えましたら、月かな、と。夜の雪原を海面のように照らし出していたあの月かな、と。あの月なら、サンタさんにだって、包み込むような語り掛けができるんじゃないかな、って、私はそう思いました。サンタの生まれる前から月は存在していたわけだし、何世紀ものあいだ、サンタさんを見守っていられたのは、ラップランドの月なんじゃないか、って私はそう感じたのでした。

>③煙突を落下するのに二年かかるという設定に疑問を感じた。ここまでは良かったけどここで「?」となった。

 勉強になります。唐突な、かつ、常軌を逸したそのセンテンスに、違和感をおぼえた、というご指摘でありますね、理解できます。書き手としては、両刃の剣と感じていたのですが、読み手さまの読み方がそこはまっとうであろうかと感じました。少し考えてみます。

>>ラップランドの冬は果てしなく長く、妻も子供も、友達のひとりすらもいない君にとって、やってくる明日は、去ってゆく昨日とまるで同質で、日々は、堪えがたいまでの退屈に覆われていた。
――日々を堪えがたく退屈に感じるという描写と二年の落下をかける数億回たえられるところとが一致していない違和感がありました。

 おっしゃるとおりですね。煙突スライディングは、サンタさんも苦手なんだと私は思います。でも仕事だし、よい子の笑顔も見たいし、頑張っちゃうんだと思うんですよ、世の中にはもっとヘヴィな仕事もあるんだから、とか受容的に諦めて。その忍耐が、出口において、再生、という祝福に繋がる。長い冬を、退屈をやり過ごして堪え抜けば、やがては輝く白夜の季節に巡り会える、季節は巡り、世界も、心も生まれ変わるんだ、だから私たちも、堪えて、継続しよう、今やってることを。新生するために。だなんていうふうに自作を私はそう読みました。が、ご指摘を受けてわかりましたが、矛盾に掛けた架け橋がいささか安普請でありましたね。勉強になりました。

>④途中、サンタが時々変な声を上げるのが味があって良かった。

 変な声、って形容、いいですね、ありがとうございます。

>⑤時間と雪の類似の指摘はなるほどと思いました。

 どちらも降り積もるし、止められない、でもやがては解ける。忍耐の日々もまた。

>⑥煙突を子宮にたとえる話は突飛な印象がありました。生まれ変わりの反復、という概念は重要だと感じますが、サンタの能動性や努力が伴わない点と

 誕生は、自主的なものでも、能動的なものでもないので、ただ煙突内を落ちるに任せるしかない受動性に喩えてみました。

>形而上の話であり曖昧さを拭えない点とにひっかかりを感じました。

 形而上、といえるかもしれませんね。メタフォリカルともいえるかもしれません。

>説明をはぶき暗喩として語る場合

 はい、そのように語っています。正しいところに打たれた駒の響きが聞こえましたので、続く言葉を注意して承ります。

>小説の効果をコントロールするのが難しくなると思います(読者の感性や知識や理解力に依存してしまう)。

 うーん、うーん、響きました、そうでありましたか、わかりました、腑に落ちました。説明ではなく、しかし暗喩でもなく、つまり模様を提示するのみではなく、エピソードとして具体的に語ったほうが、小説をコントロールしやすい、これは、まったくそのとおりでありますね。参考になります。

>しかし作家は一貫して隅々まで効果をコントロールするつもりで小説を書くべきだと思います。

 同意いたします。少し時間を掛けて考えてみますね、そこのところ。

>⑦最後の締めの部分(存在の車輪を転がす云々)はとても共感できます。ふとシーシュポスの神話を思い出しましたが、自分に課せられた労働を徒労ととらえずそれを肯定する、しかも強がりではなく心から。それにはちゃんと意味があるから。でも根拠はない。しかしそれを信じられる。この認識へと至る前段階として、徒労を課せられている可能性について気付く段階があるわけですが、この段階はその人の資質によってはニヒリズムやテロリズムへと転落する危険性を孕んでいます。しかし転落せず明るい方を向く。そこに偉大さを感じますし、根拠はないですが正しいと感じます。

 その音でした。それを直接叩かずに響かせたかったのであります。その音を聞いてくださった方が一人でもいらっしゃったら、今回の、ここでの試みは報われました。私は、ここでは、書き手に向けて書いています。選ばれた読者に向けて書いています。いろんなネタをまな板にのせて、反応に照らされて、自分を定位し、書くべきものを書く際の糧にしたいです。サンタさんは偉大です。そう肯定してくださってありがとうございました。

>⑧結論として季節感のあるユーモラスな小品として一定のクオリティがあるように感じましたが、テーマに曖昧さがあり、それが味や余韻として好意的に捉えられる水準には達していないような印象がありました。村上春樹などはそのへんが名人芸の域に達していると感じます。何をテーマにしても(例えばおでんとか洗濯ばさみとか)それなりに読ませるものを書くと思う。彼にはそういう小手先の技術がある。それがいいのかどうかは別にして。個人的にはその道の名人がどんと居座っている間はその方向性を目指すべきではないと思います。

 この、最後のご指摘がいちばん刺さりました、深く、そしてこれ以上にはない正しい箇所に、非常に痛いです、たくさんの血が流れました、ありがとうございます。まったくもって、あなたのご指摘は、どこまでも正しい。だから私は選ばなくては行けません、村上春樹を超えるつもりで西に向かうか、そこにはすでに三重連のトレーラーが走っているので引き返して、東に、新たなるフロンティアを再発見しようと、走り始めるか。少し、考えます。たぶん答えは、正しい答えはあるんだと思います、私の中に、でもまだ私にはそれが意識化できていない。心を澄まして、月に照らされ、太陽に照らされ、風に吹かれて、雨にうたれる所存であります。そして答えが見えましたら、全力疾走いたします、その方角に。

 非常にありがたいご感想に心より感謝いたします。ありがとうございました。

はるか

 KTさま

 ありがとうございます。

 これは、ちょっと額面通りには受け取れませんね。

 だって、1.72.4.7は、名前はどうでもいいさんのアドレスじゃないですか、どう足掻いてもさんのアドレスでもある。

 仏の顔も三度まで、です。三回もやられたので、アドレス晒しちゃいますよ、二回までは許してあげてたけど。

 ↓のコメント、私が、ご満悦したら、手を叩いて笑いたかったんですか、情けない人だなあ。

>まずこんな面白いものはない。二人称をこんなにうまく書ける人はプロでもいない。間違いなく傑作であり、プロ並みの水準(それ以上)を確保している。才能の塊である作者の末が恐ろしい。

 単なるアラシなんでしょうけど、みじめな人だなあ。

KT

ありがとうございます。

 非常に為になるご指摘でした。すべてを呑みこみ糧とさせていただきます。

>①語り口が軽妙、好感が持てる、ユーモラス、上手。

 素直に受け止めさせていただきます。

>②語り掛ける文体に違和感はないが、語り手が誰かまではわからなかった。

 わからない、と私も思って考えましたら、月かな、と。夜の雪原を海面のように照らし出していたあの月かな、と。あの月なら、サンタさんにだって、包み込むような語り掛けができるんじゃないかな、って、私はそう思いました。サンタの生まれる前から月は存在していたわけだし、何世紀ものあいだ、サンタさんを見守っていられたのは、ラップランドの月なんじゃないか、って私はそう感じたのでした。

>③煙突を落下するのに二年かかるという設定に疑問を感じた。ここまでは良かったけどここで「?」となった。

 勉強になります。唐突な、かつ、常軌を逸したそのセンテンスに、違和感をおぼえた、というご指摘でありますね、理解できます。書き手としては、両刃の剣と感じていたのですが、読み手さまの読み方がそこはまっとうであろうかと感じました。少し考えてみます。

>>ラップランドの冬は果てしなく長く、妻も子供も、友達のひとりすらもいない君にとって、やってくる明日は、去ってゆく昨日とまるで同質で、日々は、堪えがたいまでの退屈に覆われていた。
――日々を堪えがたく退屈に感じるという描写と二年の落下をかける数億回たえられるところとが一致していない違和感がありました。

 おっしゃるとおりですね。煙突スライディングは、サンタさんも苦手なんだと私は思います。でも仕事だし、よい子の笑顔も見たいし、頑張っちゃうんだと思うんですよ、世の中にはもっとヘヴィな仕事もあるんだから、とか受容的に諦めて。その忍耐が、出口において、再生、という祝福に繋がる。長い冬を、退屈をやり過ごして堪え抜けば、やがては輝く白夜の季節に巡り会える、季節は巡り、世界も、心も生まれ変わるんだ、だから私たちも、堪えて、継続しよう、今やってることを。新生するために。だなんていうふうに自作を私はそう読みました。が、ご指摘を受けてわかりましたが、矛盾に掛けた架け橋がいささか安普請でありましたね。勉強になりました。

>④途中、サンタが時々変な声を上げるのが味があって良かった。

 変な声、って形容、いいですね、ありがとうございます。

>⑤時間と雪の類似の指摘はなるほどと思いました。

 どちらも降り積もるし、止められない、でもやがては解ける。忍耐の日々もまた。

>⑥煙突を子宮にたとえる話は突飛な印象がありました。生まれ変わりの反復、という概念は重要だと感じますが、サンタの能動性や努力が伴わない点と

 誕生は、自主的なものでも、能動的なものでもないので、ただ煙突内を落ちるに任せるしかない受動性に喩えてみました。

>形而上の話であり曖昧さを拭えない点とにひっかかりを感じました。

 形而上、といえるかもしれませんね。メタフォリカルともいえるかもしれません。

>説明をはぶき暗喩として語る場合

 はい、そのように語っています。正しいところに打たれた駒の響きが聞こえましたので、続く言葉を注意して承ります。

>小説の効果をコントロールするのが難しくなると思います(読者の感性や知識や理解力に依存してしまう)。

 うーん、うーん、響きました、そうでありましたか、わかりました、腑に落ちました。説明ではなく、しかし暗喩でもなく、つまり模様を提示するのみではなく、エピソードとして具体的に語ったほうが、小説をコントロールしやすい、これは、まったくそのとおりでありますね。参考になります。

>しかし作家は一貫して隅々まで効果をコントロールするつもりで小説を書くべきだと思います。

 同意いたします。少し時間を掛けて考えてみますね、そこのところ。

>⑦最後の締めの部分(存在の車輪を転がす云々)はとても共感できます。ふとシーシュポスの神話を思い出しましたが、自分に課せられた労働を徒労ととらえずそれを肯定する、しかも強がりではなく心から。それにはちゃんと意味があるから。でも根拠はない。しかしそれを信じられる。この認識へと至る前段階として、徒労を課せられている可能性について気付く段階があるわけですが、この段階はその人の資質によってはニヒリズムやテロリズムへと転落する危険性を孕んでいます。しかし転落せず明るい方を向く。そこに偉大さを感じますし、根拠はないですが正しいと感じます。

 その音でした。それを直接叩かずに響かせたかったのであります。その音を聞いてくださった方が一人でもいらっしゃったら、今回の、ここでの試みは報われました。私は、ここでは、書き手に向けて書いています。選ばれた読者に向けて書いています。いろんなネタをまな板にのせて、反応に照らされて、自分を定位し、書くべきものを書く際の糧にしたいです。サンタさんは偉大です。そう肯定してくださってありがとうございました。

>⑧結論として季節感のあるユーモラスな小品として一定のクオリティがあるように感じましたが、テーマに曖昧さがあり、それが味や余韻として好意的に捉えられる水準には達していないような印象がありました。村上春樹などはそのへんが名人芸の域に達していると感じます。何をテーマにしても(例えばおでんとか洗濯ばさみとか)それなりに読ませるものを書くと思う。彼にはそういう小手先の技術がある。それがいいのかどうかは別にして。個人的にはその道の名人がどんと居座っている間はその方向性を目指すべきではないと思います。

 この、最後のご指摘がいちばん刺さりました、深く、そしてこれ以上にはない正しい箇所に、非常に痛いです、たくさんの血が流れました、ありがとうございます。まったくもって、あなたのご指摘は、どこまでも正しい。だから私は選ばなくては行けません、村上春樹を超えるつもりで西に向かうか、そこにはすでに三重連のトレーラーが走っているので引き返して、東に、新たなるフロンティアを再発見しようと、走り始めるか。少し、考えます。たぶん答えは、正しい答えはあるんだと思います、私の中に、でもまだ私にはそれが意識化できていない。心を澄まして、月に照らされ、太陽に照らされ、風に吹かれて、雨にうたれる所存であります。そして答えが見えましたら、全力疾走いたします、その方角に。

 非常にありがたいご感想に心より感謝いたします。ありがとうございました。

KT

間違えました。

>情けない人だなあ。

>まずこんな面白いものはない。二人称をこんなにうまく書ける人はプロでもいない。間違いなく傑作であり、プロ並みの水準(それ以上)を確保している。才能の塊である作者の末が恐ろしい。

>単なるアラシなんでしょうけど、みじめな人だなあ。

情けない、みじめな人、というのは全くその通りであります。

KT

上に書いた感想は間違ってますか

はるか

 夜の雨さま

 ありがとうございます。


>二人称で書かれていますが、実のところは一人称の作品でした。「君」とあるところを「私」に変えて読むと、違和感なく読めます。

 三人称一元視点の物語もそうですよね、三人称の視点人物を、私や、僕に置き換えても違和感なく読めます。でも、距離をとるために三人称で書くわけですよね。実のところは一人称なのだけれども効果を狙って三人称で書く。逆もありますよね、三人称の距離の取り方なんだけれど、狙いがあって視点人物に、僕、とか語らせる。村上春樹さんの初期の作品がそうですね。あれらは、実は、純粋な意味での一人称ではない。僕が僕を客観的に眺めている。川上未映子さんがそう指摘して、村上春樹さんも、そうですね、と同意している。つまり三人称の皮を被った一人称もあり、一人称の皮を被った三人称もあるわけですね。狙いによって書き手が、半ば以上は、その作品の文体として、そのような視点表現をチョイスしているわけです。

>となれば、何のために御作は二人称モドキで作品を書いたのかということになりますね。

 モドキ、でしょうか? J・マキナニーの『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』は、二人称を書くための代表的な参照テキストとして有名ですよね。あの、君、を、僕、に、すべて置き換えても、あの作品は、読めます、意味は通じます、でも、君、と、主人公を客体化することによって、マキナニーはふたつの効果を狙ったのではないか、と、私は思います。ひとつは、呼び掛け、語りの効果です、視点を外に置き、地の文のすべてを、外からの語りにすることで、三人称的な客観描写を排除した上で、一切の説明を語りに落とし込んだのであります。ゆえに、二人称の物語には、論理的帰結として、説明がない、ことになり、描写も、三人称神視点で扱うような形では存在し得ないことになる。呼び掛け、という語り、マキナニーはこれを狙ったのではないか、と思われます。あとは、一人称と同じ、憑依ですよね、拙作でいうなら、読み手さんに、サンタの気持ちに重なってごらんよ、っていう効果です。このようなふたつの効用がうまくいって、マキナニーは一夜にして有名人になったのです。が、シンデレラボーイのデビュー作を映画化した、邦題でいうところの『再会の街』でしたか、マイケル・J・フォックスがやったやつ、すすめられて私もレンタルしてみましたが、大失敗でした、なぜか、映像は三人称一元視点になっちゃうから。呼び掛けの、語りの効果を捨象したら、単なる三人称一元視点の、つまりは、一人称的な、普通の話になっちゃった、て、ことであるかと思われます。映像は、小説を超えられなかった。二人称視点の物語の完全勝利でありました。

>その狙いは何なのか?
たぶん主人公のサンタクロースと距離を置くためだと思います。

 距離を置くだけなら、三人称神視点でよいわけですよね?

>二人称で書くと他者が主人公のことを書いているので、距離感があります。

 伝聞小説、みたいなものとも、二人称は違うと思うんですよ。書いてみてわかったのは、距離というより、呼び掛け、ないしは見守り、という視点の創造でした。作品によっては、注察、監視、見張り、威嚇、みたいな効果も出せるでしょう。外からの視点。しかも、客体には、その視点の出所がわからないのです。

>この距離感の雰囲気が御作の個性的な二人称の文体になっています。
しかし、それ以外には二人称にする意味がありません。

 私は、呼び掛けに、強く、意味を感じたのですが……。

 つづきます。

はるか

 夜の雨さま

 つづきました。

>二人称小説にするなら、二人称でなければ書けない内容にしないと意味がないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。

 同意します。そして確かに今回は思い付きでした。思い付きで書いてみたのです、試し書きでした。でも、サンタ、雪、時、というモチーフを、季節ネタを、二人称に合わせて選択しました。確かに、テーマゆえに二人称を選んだわけではない。でも、テーマは呼び掛けにより強化されると感じました。孤高な彼に、私は、クリスマスのプレゼントを届けたかった。彼に、書き続けてほしかった。日の昇らない冬を、今は、過ごしてるかもしれないけど、時を待ちさえすれば、書き続けていさえすれば、やがて、日の沈まない夏が来る、雪も、疎みも、憂いもきれいに溶けて、きらめく草原がよみがえる、って、そういう呼び掛け、ないしは見守り、みたいなのを、クリスマスのラップランドにカタクしたくて、だから、呼び掛けの手法と、テーマを、エンタングルメントしたのでした。というわけで、思い付きでやってみた二人称ではありますけれども、やる以上は、効果を見込んで、しっかりテーマに結び付けたつもりなんです。その効果が、書き手でもあられる読み手さまに及ばなかった、ということは無念であります。距離をとるためだけの二人称、という効果しか発揮し得なかったのですね。書けた、と、感じていただけにショックが大きいです。ご指摘ありがとうございました。

>>新しい家に着く度に君は、腕時計の針を少しずつ巻き戻すのだった。<これはサンタさんが世界中の子供たちにプレゼントを配ると時間が足らないので、時間を戻しながら配るというお話なのですが、説明で書くよりも、情景を描写したほうが面白いのではないかと思います。

 そうかもしれませんね、三人称神視点なら、そうできたのに。一人称でも、三人称一元視点でもできますよね。でも、二人称には、語り手がいます、そして、その語り手は外にいながら、純然たる客観ではない。ですから、呼び掛けの物語においては、説明が説明足り得ないように、描写が描写足り得ない。すべては、外からの、しかし意図を込められたボイスなわけです、全編語りなんです、目の前にはいない人についての。一人称でも三人称一元視点でも、登場人物の視覚や聴覚や嗅覚を通して描写はできます、三人称神視点なら描写は自由自在です、しかし、二人称視点だと、語り手は、目や耳や鼻を持ちませんから、登場人物の感覚器官を借用できません、と、同時に、客観視点でもないので、万事をひとごととして描くこともできません。二人称の物語における視点にできることは、ふたつです。遠くから、いくぶん抽象的にしかしあたたかくないしはつめたく見つめることと、地の文として語りを語るだけです。書いてみて私は、そう思いました。そしてその制約は、うまくいけば、二人称の物語に独特の味わいを与えるはずです。脱説明にして脱描写な語りが語るものは、具象に託したところの抽象の「配置」です。諦めにも似た受容が漂い、それがエンディングにおいて、あたたかく読み手を慰撫するのです、マキナニーの作品は、そうなってました。でも、拙作はそうなってない。ならば失敗ですね。

 つづきます。

はるか

 夜の雨さま

 つづきました。

>>君の中に、何かが降り積もる<これなども映像として目に浮かぶように書くと良いと思います。

 映像は、基本、客観表現です。語りには向かない。だから、語りにしかできないように語りたい。語られた「コトバ」から、読み手が映像を浮かび上がらせるならよし、でも、映像を語ってはいけない、と、私は思いました。そういうふうにやるなら、わざわざ二人称視点なんて使わずに、普通に三人称視点で書けばいいわけですから。ないしは一人称で、視点人物の感覚器官を借用すればいい。

>>子宮に似ている、と君は思う。煙突の中の暗闇は、実に子宮なのであった。<これを描写するとかなりインパクトがあると思います。もちろんエロにはなりません。「煙突の中の暗闇」を「子宮」として表現するのですから。

 月が、サンタに語りかけるとき、サンタという君に、君がスライディングする煙突の中を、子宮のビジュアルで語りかける、というのは、どうなんでしょうか。サンタは実際に何億回もリアルに煙突を滑っているのですから、煙突の中のありさまは、描写されなくても、説明されなくても知ってるわけで、相手の知ってることを、知ってる相手に向かって再び語るのは不自然だし、すでにわかりきってることの向こうを語る話なのだから、描写も説明も要らないように私は感じるのですよ、読み手には想像力がありますから、サンタになったつもりで語りに耳を傾けていれば、その読み手には、その読み手ならではのビジュアルや意味が浮かび上がってくるんじゃないでしょうか、むかしばなしを読み聞かされた子供がそうするように。鬼ヶ島の風景を桃太郎は細かく描写したりしてないけど、語りは、聞き手に、聞き手のイメージを喚起させる力を持つわけで。だから、書き手が、そのありさまを、限定的に描写してしまうことは、のびやかさを損ねるし、空想する翼を折ることになりかねない、と思うのです。サンタさんの話は、誰もが知ってる寓話みたいなもんだから、そういう語りによく馴染むと私は思ったんですが、描写や説明が、やっぱり必要ですかねえ。それがないと、物語が痩せますかねえ。だとしたら、感想者さまの、ご指摘のとおり、私の二人称は無意味な二人称だったんだと思います。この話は、三人称に直しても、映像で見せても、面白くないし、語りの効果がすべてみたいな話だから、もう、直しようがないです。これは没にして、何か新しいものを、二人称じゃない視点で書くことにいたします。

>御作は「時間」と「自己の存在」を題材にしていると思います。

 おっしゃるとおりです。

 貴重なご指摘をありがとうございました。

底辺

ごめんね、言い方が悪くて伝わなかったかもね。
まず、文体というのは、一つ一つの単語でどういうものを使うか、変換をどうするか、とかそういうものをそろえて、一定の雰囲気を醸すように作っていくものだと思ってるのね。(音楽の~長調とか短調とかが似てるかも)で、あなたのは、そこらへんが無頓着だと思ったんだよ。
>こつこつと担い続けている自分
>いそいそと君は準備を整えた。
>ぽいぽいと詰め始めた
>つんと澄み渡り
>少年のような瞳をきらきらさせて
〇〇〇〇と、と言ってるのはこういうのね。こういう表現を多用しすぎると軽く見える。けれど、
>ベリージャムを塗ったクラッカー
>グリーンに閃くオーロラ
というような感じで、横文字(カタカナ語って意味で使ってる)を用いた細かい描写が序盤に多いんだよ。で、これらが混ざってるせいで、雰囲気が一つに醸成されないんだよ。雰囲気が壊れてるから、情緒を感じられないってこと。
繰り返しってのはまあ、
>ラップランドの冬、太陽は昇らない。昇らないから、沈むこともない。
>果たして翌日、快晴の星空が、つんと澄み、いっそう、つつんと澄みわたり、とうとう出発の刻とあいなった。
こういうの。リズム重視って言えばいいのかな。実際のところ、あんまりリズムがいいとは思わなかったんだけど、こういうのはラノベっぽいなって思ったよ。
で、説明ってのはさ、
>けれども、袋を握る手に力を込めながらも、そのうちどんどん、自分や世界が、からっぽみたいになってゆく。二年間掛かるからだ。出口に辿り着くまで、標準的な家の標準的な煙突の場合、だいたい二年くらいが相場だ。
ここらへんのこと。一部だけ抜き出したけど、二年に関する説明がくどかった。簡素に二年たつって書いたほうが文章が引き締まるし、印象に残ると思うよ。文章の雰囲気を壊す一因になっていたと思うしね。ショートショートって書いたのは、どっちにしたいのかな、って意味なんだよ。雰囲気を出しながら書いていきたいのか、簡素にストーリーを追わせる形にしたいのか。どっちにしろ中途半端だから、ちゃんと方向性定めたほうがいいよって言いたいんだよ。
で、二人称に関しても伝わっていないみたいだけどさ。二人称って、要するに誰かに一方的に話したり、手紙に書いたりするときの形式なのね。会話なのよ。今の書き方って、一人称や三人称と変わらない形式で「君」にしているだけなの。二人称を使っている意味がなくなっちゃってるの。で、二人称は、本来、誰が語っているのか、どのような状況で語っているのかというのが初めは見えてこなくて、後になってわかっていくという形式が多いんだけど、それをやろうとしているんであれば、二人称の条件を満たしているようには見えないので、失敗しているように見えたんだよ。
ちなみに、ずっと前に別のHNで常連だったんだけど、文字制限が4万文字になってるの知らなかったよ。ごめんね。ただ、短い作品って難しいよ。そういうの書くと、どうしても人を書くという小説家にとって一番の課題をおろそかにしがちだから、気を付けたほうがいいと思う。あと、びっくりしたのは、なんでそんな喧嘩腰なの? そんなだと、だれも指摘してくれなくなっちゃうよ?

そうげん

一度通して読んだのですが、もう一度じっくり読んでから感想をつけたいと思ってます。
クリスマスまでに間に合うといいのですけど。ディケンズを読み直したくなりました!

カリフラワーの存在価値について考える人

 底辺氏の見解をお借りしつつ論説を書く。底辺氏の感想に割り込むようでまことに恐縮なのだが、どうかご容赦願えればと思う。

 底辺氏の文体に対する見解は、ある意味において、正鵠を射ているように思える、この作品を詩情性という一本の線をなすものとして眺めたときに、気になる言葉の取りわせは、いたるところに存在するように思える。その顕著すぎる例は、明らかに浮いている「ほほほの、ほいほいほい」などに代表される掛け声である。本来、御伽噺のような虚構性の高い物語こそ、詩情性が一つの導線をなして、一塊の想像力を立ち上らせるべきであり、そうして初めて、物語の内奥まで含めて、読者はまるで自身のこととして錯覚し体験することが可能になる。この錯覚はすなわち没入感という言葉に言い換えられるべきものであり、まさしく、底辺氏の指摘はこのことに対する不具合を示唆するものである。
 然り、である。しかし、ここでは、別の視点を示したいように思う。氏の言う様に確かに気になる言葉の使い方があらゆるところに存在する。しかし、こうは思わないだろうか? ありとあらゆるところに存在するのは、逆にあまりにも不自然ではなかろか、と。「ほほほの、ほいほいほい」はあからさますぎてよい例ですら最早ないのだが、この作品にはこうしたタイプの違和が、文体レベルで埋め込まれているように思えるのである。文体レベルで違和が埋め込まれるとは、すなわち、一つ下の層、はるか氏の言葉を借りるならば、地下一階ということになるのだろうか、すなわち、現象を詩情性とともに生み出そうとする、いわば、物語の内燃機関のうちに、あたかもがん細胞を作り出す壊れた遺伝子のような不具合が意図して置かれている、ということである。迂遠でない言い方をするならば、事象生成機構にバグがあるのは仕様です、ということになるのあろう。
 この作品は二人称小説である。であるので語り部は決して「君」を見出すことはできない、ただ彼の思う「君」を照らすのみである。月の声であり、太陽の視線である。であるからして、原理的に、この作品は、どうしたって不在、まるキャッチコープ、核に据えざるを得ないのである。脱線するが、君の名は、というアニメが大ヒットしたのは不在の感覚を映像表現の力とカタルシスで、虚構と現実とのかけ橋をなしたことによるのではと、著者はいまでも思っている。Radwinpの曲は単体では名曲だったと思うが、作品内においては不意の実在として、地上階でのひっかかりであり、ノイズであった。
 ここで、一つ下の層にあるバグの存在が、きわめて重要になってくる。虚構の世界に導引されながら、虚構という渇いた感覚に立つことができなければ、この小説が二人称小説である、意味がないのである。虚構に没入しながら、虚構という渇いたものを客体化し、メタな視点を得たやがて僕らは、太陽に目を細め、そして、姿を文字通り網膜に焼きつけることになる。すなわち、これは誰の視点の物語なのかという問いを内側から突きつけるように仕向けなければならないのである。しかしながら、虚構への没入と虚構の客体化は背反するため、ひっかかりをなくすために詩情性という導線をそのまままっすぐ引くのも、ひっかかりを物語の内容(地上階)に用意するもの、うまくはない。表面上はひっかかりのないふうを装いながら、文体の方に埋め込むというやり方は、一つのうまい回答のように思える。「優れたパーカッショニストは一番大事な音を叩かない」というのは、地下1階にある音、休符としての音、裏拍としてのリズム、つまり、文体というのはそうあるべきものである、ということを言及しているのではなかった? とするのは筆者の偏見が過ぎるだろうか?
 二人称視点における語り部は、その存在がすでに、道化である。作品にみられるありとあらゆるタイプの詩情性は、小説世界を彩ると同時に、道化師のあのけばけばしい化粧と、赤いつけ鼻、のわざとらしさに貢献しなければならない。ここで一つの推察が成り立つ。「君」がサンタクロースであるならば、語り部たる道化師とはトナカイのことである。従って、これは、トナカイの視点の物語である。証明終了。いくらその顔と体躯を不在の壁の向こうへとひそませたとて、事象の特異点であるところの、まんまるとした赤鼻は、決して隠せはしないのである。

どう足掻いても凡人

良い文章だと思います。クオリティもかなり高い。
指摘は2点ありますが、小さな違和感、というレベルです
では、以下、指摘です
送料無料の配達は、近頃じゃAmazonなんかで当たり前だが、とうのむかしから君は、送料のことなんて考えもしないで配達作業に勤しんできた。 読点で文章を挟むというのは、中々に難しい技法です。自分は最初読んだとき、この文章を3回読みなおしました。改善した方が良いかと思います
時計の針がてっぺんをいくらか回ったころだった この部分ですが、これは1時間程度経過したということなのか、そうだとすると積み込み始めた時は何時だったのか。もしくはいくらかを何回かと解釈し、積み込むのに数時間かかったと解釈するのか。自分にはよくわかりませんでした。

はるか

 加茂ミイルさま

 ありがとうございます。

 あたたかいご感想に癒されました。

 ありがとうございました。

はるか

 ふつうに一だよさま兼KTさま兼名前はどうでもいいさま兼どう足掻いてもさま

>二は意味がわからない

 ふつうに一だよさま兼KTさま兼名前はどうでもいいさま兼どう足掻いてもさまの文章を読んで、普通に、一と解釈はできませんよ?

はるか

 KTさま

 しつこいなあ。めんどうだから、運営さんに言い付けたりしないけど、もう来ないでくださいね?

はるか

 底辺さま

 再び、ありがとうございます。

 まず、

>なんでそんな喧嘩腰なの?

 前回みたいなぞんざいな、そして今回みたいな、ひとを幼児扱いしたようなコメントの書かれ方に対しては不快感情を刺激されるからであります、わかって、そう書いておられるのでしょう?

 具体例を挙げてくださってありがとうございます。前回の、独り言のようなご感想の中身を、お陰で、日本語としては理解できました。が、私の書き方を具体的に例示してくださったのは嬉しいのだけれど、その例示された書き方が、よろしくない、という判断に結び付くものさしが何も示されておらず(というか、ものさしは、もしかしたら、イコール底辺さんの感性なんでありましょうか)、だから、やはり、何をもってそう判じておられるのか、さっぱりわかりませんでした。具体例あれども、ものさし見えず、ゆえに結論へと架けられた橋を渡ることができません。

>まず、文体というのは、一つ一つの単語でどういうものを使うか、

 単語で?
 文体とは、リズムであり、軽重であり、文脈であり、視点でもあり、何を書いて何を書かないかという判断でもあり、つまりは文章のstyleのことでありましょう? そう理解しています。一つひつの単語でどういうものを使うか、が、底辺さんのおっしゃられる「文体」なんですか? じゃあ、「単語のチョイス」って読み替えてうかがうことにいたしますね、底辺さんのご指摘を。

>そこらへんが無頓着だと思ったんだよ。

「単語のチョイス」が無頓着だと思われたのですね? 私が、底辺さんの、例えば、文体、という単語のチョイスが不適切だと感じているように(ってことなのかな、ほんとに?)。
 あれ? ちょっと待ってください。どの単語が無頓着だったんですか?

>>こつこつと担い続けている自分>いそいそと君は準備を整えた。>ぽいぽいと詰め始めた>つんと澄み渡り>少年のような瞳をきらきらさせて
〇〇〇〇と、と言ってるのはこういうのね。

 最後のやつに、「と」はないけど、わかりました、要するに、底辺さんは、単語、というか、「と」という助詞の、格助詞――ないしは、接続助詞も含めたいのかな?――の、使い方が無頓着だとご指摘されておられるのですね?
 あれ、違うな。助詞の使い方、とか、そういう文法のことじゃないんですね。〇〇〇〇と、とか書かれちゃうから、と、に注目しちゃうじゃないですか。そうではなくて、
 ・こつこつと
 ・いそいそと
 ・ぽいぽいと
 ・つんと

 様子を形容する言葉たちでありますね。このような形容を、私は、例えば、前作において、ほとんど使用していません、たぶん。そして、ここに今記している返信文にも使用していません、たぶん。なぜ、ラップランドの話には多用しているのか? 寓話として、童話として、読み聞かせの物語のような味付けを本作に施したかったからであります。意図的に多用しているのです。その結果、狙ったとおりの効果も出ていると思われます。ということは、すなわち、「無頓着な」扱い、の正反対であります。気を付けて、気を付けて(ってここ、繰り返すのも、無頓着にではなく、意図的に狙いをこめているわけですが)、慎重に、吟味して、これしかない、という言葉を、ここにしかない、という場所に使用しています。日本語としておかしくないのは勿論でありますが、その上で効果的な表現になっているはずで、様子を形容する、やわらかな、語り口調を多用することが、「単語のミスチョイス」になっているという結論には同意できないし、なぜ、そのように感じられるのか、底辺さんの感性がわかりません。

 だいたいですよ、「~と」が目についちゃうなら、私が多用しております、「~しちゃう」とか「~とか」という表現、これは感想欄の返信にも好んで多用しておりますが、それも、ミスチョイスとかになっちゃうんじゃないですか、底辺さん的には? だって、私、「おっしゃられて」とか、「しております」とか、丁寧な言葉も多用しておりますでしょう? ですから、そのような、丁寧語と、スラング扱いされることすらある、「しちゃう」とか「とか」とか、そういう口語が混在してること、意図的に混在させてることも、底辺さんの感性、というものさしをあててみると、ミスチョイスであり、「文体がばらばら」ってことになるんでしょうかね?
 カレーライス、ごはんとカレーを別々に食べるタイプですか?
 異種混合がハーモナイズする妙味ってわかります?

>こういう表現を多用しすぎると軽く見える。

 軽く見せてるんですよ?
 桃太郎の話が会議録みたいな文体で書かれてたらお笑いでしょう?

>>ベリージャムを塗ったクラッカー
>グリーンに閃くオーロラ
というような感じで、横文字(カタカナ語って意味で使ってる)を用いた細かい描写が序盤に多いんだよ。で、これらが混ざってるせいで、雰囲気が一つに醸成されないんだよ。

 これも、狙っているのですよ? 序盤だけじゃなく、たぶん全般に散らしてると思います。
 Amazonや、メタボや、忖度、が、もう一歩踏み込んだ狙いであるように。
 桃太郎のお話の中に、わざとポップな表記を混ぜて、そうやって、ああ、すみません、自分でこんなこと書くなんて赤面なんですけど、ちょっとお洒落な桃太郎に、ちょっとポップな桃太郎に演出してるんですよ。
 例を出しますね。最近リバイバルしてる歌で、森進一さんという演歌歌手(ワンオクのボーカル、Takaのお父さんですよ)の『冬のリヴィエラ』っていうのがあるんですが、そこに使われてるコード進行って、狙ってわざと、Am→Em→Am→G7を多用してたりするんですよ、演歌っぽくない、つまり、暗い曲調の中の一部が目立って明るく、軽く、さわやかなんですよ、別れの歌なのに。出た当時に売れたのか知りませんけど、今の若い人には人気です、演歌とポップスのハイブリッドだから。そういう効果を狙って、不協和音にならないよう、異種混合することで、――いいですか、文体ですよ、ここは本来の意味での文体です――新しい文体って生まれるんです。わかりますか? 

>雰囲気が壊れてるから、情緒を感じられないってこと。

 情緒を感じたければ、ひなびた温泉にでもゆくことです。うちは、ひなびた温泉でもないし、健康ランドでもない、あったかいお湯に浸かれますけど、バリ風のヴィラでのカクテルサービスもあるアジアンスパなんですよ、お嫌いですか、日本人はやっぱり熱海の老舗旅館ですか、でもね、底辺さんの感性は熱海こそ最高で熱海にあらずんば浴場にあらず、なのかもしれないけど、私は、アジアンスパとか気持ちがいいって思うんで、ポップさと童話的語り口をミックスさせて表現しますよ、それが個性ですから。

 つづきます。

はるか

 底辺さま

 つづきました。

 わかりましたよ、底辺さんのおっしゃられてること。文体が、底辺さんの見知った文体じゃなかったんですね、見慣れなくて、戸惑っちゃったんですね、でもですよ、書き手はね、無頓着に、それらを選択してるんじゃないんですよ、文体をね、あ、文体っていうのはつまりそういうことを言うんですよ、その文体をね、作ってるの、私たち書き手は、創作してるんですよ、いろんな配合の割合を慎重に見極めながらね。私はね、たいていの人が読んで気持ちがいいって文体を模索してるんですよ、狙ってそうしてるんですよ、底辺さんにはちょっと気持ち悪かったんですね、あんまり読書とかしないのかな、でも、そんなふうに感じちゃう読み手さんもいらっしゃるってわかったからね、今回の文体は改めないけど、こういうのを気持ちよくなく感じるお客さんがいるってわかったから、ありがとうね、今後の経営に活かすからね、って、そんな書き方だと、底辺さんの今回の書き方にうまく釣り合うでありましょうか?

>繰り返しってのはまあ、>ラップランドの冬、太陽は昇らない。昇らないから、沈むこともない。>果たして翌日、快晴の星空が、つんと澄み、いっそう、つつんと澄みわたり、とうとう出発の刻とあいなった。こういうの。リズム重視って言えばいいのかな。実際のところ、あんまりリズムがいいとは思わなかったんだけど、こういうのはラノベっぽいなって思ったよ。

 童話ふうにしたかったんですよ、サンタクロースの寓話性を強調するために。読み聞かせのお話って、そういう語り口じゃないですか。リズムもいいと私は思うんですけどね、全般に。つんと、つつんと、のとこは、平仮名にこだわったから、少しリズムよくないの我慢したけど、リズムには私、すごくこだわってるし、リズムが悪い、っていうのは他のどこでも言われたことないし、なにせ、書いてる私の、いちばん気持ちがいいリズムを私の文体にしていきたいから、わざと破調で書いた別の一作を除いては、私、このリズムを基調に文体を固めてゆく所存です。

 びっくりしましたよう、無頓着だとかおっしゃるから、ミスチョイスしてるのかと思ったら、底辺さんのつぼがちょっと特殊な位置にあるから、針が痛かったんですね。つまり、好みのものさしで、無頓着って、ちょっと上から言っちゃっただけなんですね、びっくりしたなあ、もう。

>で、説明ってのはさ、>けれども、袋を握る手に力を込めながらも、そのうちどんどん、自分や世界が、からっぽみたいになってゆく。二年間掛かるからだ。出口に辿り着くまで、標準的な家の標準的な煙突の場合、だいたい二年くらいが相場だ。ここらへんのこと。一部だけ抜き出したけど、二年に関する説明がくどかった。簡素に二年たつって書いたほうが文章が引き締まるし、印象に残ると思うよ。

 二年、じゃなくてもいいんですよ、三年でも、五年でも。だから、それは情報としての価値に重きがあるんじゃないんです。降り積もる空虚な時間を表すのに、二年、という響きを用いただけです。だから解説でもないし、説明でもない、語りなんですよ、ながーいながーいトンネルをいつまでもいつまでもすべりおりてゆくのでした、とだけ語るんでもいい、意味の伝達だけなら。スライダーなんて単語も、わあお、わおわお! だなんて掛け声も、そして二年、だなんて情報も、本来ならなくていい、意味を伝達するだけならね? でもですよ、小説っていうのは表現ですから、語りに色をつけるわけですよ、スライダーって言葉でポップさを、わあお、でリズムや勢いを、二年で内省的な諦念みたいなのを匂わせるわけです、それが語りの味であり、つまりは小説の文体なんですよ。底辺さんは、どうやら、私の文体がお気に召さないらしい。ありがとうございます、アンチな得点入りました。すべての読み手に無条件に受け入れられるような癖のない文体は、無個性で、味がなく、古くさくて、陳腐だから、新たな読者も獲得しづらいでしょう。底辺さんのおっしゃりようが、いささか上からの「わかったふう」であったがため、私、拙作に瑕疵があったのかと勘違いしたのでした。要は、底辺さんの好みの文体、ないしは、知ってる文体じゃなかった、ってことですね。文法的に間違ってるわけでもなく、意味内容が伝わらないわけでもなく、おそらくは、稚拙なわけでもなく、念入りにチョイスされ配置されたところの言葉の響きやテンポが趣味じゃありませんでした、という、そういうご感想だったのでありますね。だったら、感想の文体、というか調子を選んだ方がいいですよ、たぶん。前回のはぞんざいな上目線、今回のは幼い子供を見下ろすような上目線、つまり、挑発的なんですよ、好みを伝えるだけなのに。内容と調子の、これは、明らかなミスマッチです、でも、狙っておられるのでしょう? 書き手ですもんね、しかし狙いは作品で表現しましょうよ、感想で表現しちゃうと、返信を表現されちゃいますよ? 目には目を、ってやつです。私が仕掛けたんじゃありませんからね。

 つづきます。

はるか

 底辺さま

 つづきました。

>二人称に関しても伝わっていないみたいだけどさ。二人称って、要するに誰かに一方的に話したり、手紙に書いたりするときの形式なのね。

 ずいぶんと単純化したことをおっしゃいますね。またしても、要するに、とか、なのね、とか、わかったような物言いで。書簡形式は二人称小説じゃないはずですよ?
 一方的に呼び掛ける語り口が二人称なのは自明でありますが、手紙が二人称? そんな雑駁な。二人称のラブレターって嫌だな、君を主語に恋を語るんじゃなくて、僕を主語に愛を告白してほしいですよ。

>今の書き方って、一人称や三人称と変わらない形式で「君」にしているだけなの。

 だけなの、って、J・マキナニーにも言ってやってくださいよ。僕、を、君に、置き換えただけじゃ二人称じゃないって。ついでに村上春樹にも言ってさしあげたらよろしいんじゃないですか、あなたの小説の「僕は」をすべて「渡辺は」に書き換えても文章が成り立つから、あなたの作品は、一人称小説じゃないのですよ、って。「僕」を、わざと客体視してるんですよね、春樹さんは、語り手が僕という主体の中に埋没していない。ああいうのを、文体っていうんですよ? 一人称にも、いろんな一人称があるように、二人称にも、いろんな二人称があります。三人称の定義が一義的に定められないように、二人称の定義も一義的に定められないんですよ。だから、底辺さんが、私のやつを読んで、読みづらかったです、と感想することは自由だし、welcomeなんですが、これは正しい二人称ではないので失敗してる、だなんて指摘することは、まあ、自由だけど、反論や議論を招くに相応しいご感想なわけです、いずれにせよ、ありがとうございます。相互の鍛練ですよね?

>二人称を使っている意味がなくなっちゃってるの。

 底辺さんが、なんで、なくなっちゃってるの、だなんて、意味を決めちゃってるんですか? どのような根拠で? 外からの視点がサンタに呼び掛ける効果には意味がありますよ、サンタの一人称や、サンタを三人称にして書くのとは、明らかに効果が違いますよ。

>で、二人称は、本来、誰が語っているのか、どのような状況で語っているのかというのが初めは見えてこなくて、後になってわかっていくという形式が多い

 本来? 多い?
 ふたつくらい例を出してくださいよ。推理小説か、ミステリーぐらいじゃないですか、そんなトリッキーな二人称小説って。『ブライト・ライツ・ビッグ・シティ』の視点は、じゃあ、誰だったんですか、誰かが名乗り出たんですか?

>それをやろうとしているんであれば、

 やろうとしてませんよ、ミステリーでも、ホラーでもないんだから。そんなトリッキーな表現に、二人称を応用する必然性が、本作にはまったくないですから。

>二人称の条件を満たしているようには見えないので、失敗しているように見えたんだよ。

 ちょっと待ってくださいよ。教えてください。二人称の条件、って、なんですか? 満たしてない、って言い切れるんだから、底辺さんの中には、二人称なるものの、枠みたいなのがあるんですよね、さまざまに議論されている、その枠が、客観的な基準として、底辺さんの中にあるんですよね、ていへんだ~とか、江戸っ子なら叫んじゃいそうですよ。

>ちなみに、ずっと前に別のHNで常連だったんだけど、文字制限が4万文字になってるの知らなかったよ。

 ずっと前のこと、私は知らないんで、私はいいですけど、長く活動されてる方もいらっしゃるみたいだから、そう打ち明けるなら、名乗ったほうがフェアなんじゃないですか。常連だったなら、なおのこと、みなさんにご挨拶されてはいかがでしょうか?

 つづきます。

はるか

 底辺さま

 つづきました。

>ただ、短い作品って難しいよ。そういうの書くと、どうしても人を書くという小説家にとって一番の課題をおろそかにしがちだから、気を付けたほうがいいと思う。

 私、どちらかというと、もう少し長いものを好んで書きます、百数十枚がいちばん楽だけど、半年くらいみっちり掛けて七百枚書いたこともあります。それは失敗だったんだけど。掌編は、ここに出すためにしか書かないです、今のところ。
 あと、人を書く、って、まだルネッサンス時代、であるかのような価値観を未だによく耳にしますが、また村上春樹さんですけど(読者が多いから例に出しやすいんですよ)、村上春樹さんの文学は「人間を書いている」わけではないですよね、でも売れている。構造を書く、模様を描く、しかも垂直な模様を、みたいなことをしたくて、そのための手段としてキャラを描くことはあるけど、人物を、つまりは人の自我的葛藤を描く、みたいなのはもう古いと私は思うんですよ。『クチュクチュバーン』や『オブ・ザ・ベースボール』は、もちろんのこと、『ジニのパズル』でさえ、人物の葛藤を、いえ、まあ描いてますけど、ジニは、でも、差別的な現象のほうが前面に出てたんじゃないかな、そんな気がする、断言はできない、でも、いわゆる近代文学がこぞって人間を書こうとしていた時代とは今は異なる、って私は感じているんですよ、だから、人間を描くことを目的にするんじゃなくて、目的を果たすために人間を書く必要があるときは人間も書く、って書き方を私はしたいと思っています。

 で、最初に戻るんですが、

>あと、びっくりしたのは、なんでそんな喧嘩腰なの? そんなだと、だれも指摘してくれなくなっちゃうよ?

 なぜ、喧嘩腰になるかというと、アラシみたいなコメントに対してはもちろんそうなるんですが、たぶん、私が生意気に見えるんでしょうね、私の素性もご存じないのに、とるに足りないニューフェイス、と見下したいのかもしれません、特に常連さんとか、番頭さんとか、そういう方々は。私、そういう圧力に、脊髄反射のレベルで抵抗しちゃうんですよ。底辺さんの、前回、そして今回もなんですが、なんか、感想書くのに、いちいち、

一、上目線で、
二、さもわかったように、
三、教えさとすかのごとく、
四、そのくせ、実は自分の好み、ないしは限定的な知識に過ぎないことを、
五、根拠や理由を明示しないで、
六、たいてい、とか、みんな、とか、多くが、とか、そういう、数値化できない雰囲気に支えられた副詞や形容詞を「無頓着に」使って、

 で、コメントされるから、喧嘩を売られてるな、って感じるんですよ、私の感覚では、ふりかかる火の粉をはらってるんです、私のほうから喧嘩売りたいんじゃないんです、どちらかというと仲良くやりたいんです、ネガティブな渦がやってきても呑み込まれたくはない。でも、反撃しちゃいますね、副詞や形容詞がかわいそうだからです。言葉を使役して人を傷つけたり見下したり追い込んだりすることが言葉に対する冒涜みたいに感じられるんですよ、言葉を犠牲にして自分の自我を防衛するなよ、とか思っちゃうんです。だから私も対抗して、言葉を使役して相手を傷つけちゃったりするんですよ。鏡になるんです。そういうのは、とても気持ち悪くて、もう嫌なんだけど、嫌なことに言葉を使われて、なのに私が黙ってて、それを呑み込んでるふりしたり、スルーしてかわしたりしたら、使われちゃった言葉の怨霊みたいなのが私を苦しめるんですよ、だから痛いけど、言葉に言葉をぶつけるんです、言葉のために。でも、本当は、こういうの限界なんで、そろそろ、とは考えてますよ。

 ともあれ、具体例を示してくださり、ありがとうございました。お陰でコミュニケーションできましたよ。底辺さんにとっても私にとっても気持ちいいコミュニケーションではなかったかと思うけど、言葉を交えることなくスルーとかされなくてよかった、嬉しかったです。見下しの感じが漂う語り口は好きになれなかったけど、向かい合ってくれてありがとう、感謝しています。

はるか

 カリフラワーの存在価値について考える人さま

 ありがとうございます。

>この作品を詩情性という一本の線をなすものとして眺めたときに、気になる言葉の取りわせは、いたるところに存在するように思える。

 はい、ご指摘、理解できます。現代詩という言葉があります。なぜわざわざ現代なんて形容を被せるのか、詩は詩じゃないか、あるいは、女流作家という言葉があります、なぜ女流だなんて特筆するのか、作家は作家じゃないか、と、思われる向きもあるかと思われますが、それと似たようなことを思います。童話や寓話に、○○な童話、○○な寓話、と、通例ではない、という意味の形容を施さざるを得ないものにより、私は、詩情性の香る物語の中に、一種哲学的とも呼べる諦念を埋め込みたかったし(逆を逆に埋め込んだ、ともいえるわけですが)、他方で、腰を振ってくいくい子供が踊ってるような、ポップでイノセントでカラフルなテイストも塗り込みたかった、つまり、オーソドックスな童話や寓話や散文詩ではない、※※※※を紡ぎたかったのであります。その意味で、言葉のチョイスは、登山家が次の一歩をどの岩に託すか決めるときの慎重さで、丁寧に行ったつもりでありまして、無頓着に、ほいほいと、言葉を書き並べたわけではないのです。こちら鍛練場に投稿したほぼすべての作品(アリゾナの話だけ除きます)は、読み終わったときに、なんか不思議な話だったな、と、そんな、違和感に近い読後感が残るものとして書いています。整合性はあり、ハーモナイズされてるんだけど、よく読むと、取り合わせが意表を衝くような、それは、語彙もそうですし、展開もそうですし、キャラクターもそうなんですが、本来ならハーモナイズしえないものをハーモナイズさせようとしてきました。妙、という味付けにしたかったのです。感想者さまに、以前、ちょっと長めの話の冒頭における私の、センテンス内の言葉の取り合わせについて、深い洞察を寄せていただいたことを記憶しています。異種混合による、ゆらぎ、のように表現してくださいましたね。まさに、あのようなことを、文体、というレベルで為したい、とも私は考えているようです。

>違和が、文体レベルで埋め込まれているように思えるのである。

 はい、私が、申し添えることはもうないです。

>この作品は二人称小説である。であるので語り部は決して「君」を見出すことはできない、ただ彼の思う「君」を照らすのみである。月の声であり、太陽の視線である。

 こくりと、首を縦に振るのみです。

>虚構に没入しながら、虚構という渇いたものを客体化し、メタな視点を得たやがて僕らは、太陽に目を細め、そして、姿を文字通り網膜に焼きつけることになる。すなわち、これは誰の視点の物語なのかという問いを内側から突きつけるように仕向けなければならないのである。

 言葉で、このように、外から照らしていただけることを奇跡のようにさえ思います。鍛練場にテキストを晒して有意義であった、と、こうした瞬間に実感しますし、また、底辺さんへの返信にも書かせていただいたのですが、底辺さんのような方に、言葉をぶつけていただけて、その言葉に私が、やはり言葉のつぶてで応酬しうる、そのこともまた、僥倖のように私には捉えられます。

>表面上はひっかかりのないふうを装いながら、文体の方に埋め込むというやり方は、一つのうまい回答のように思える。

 はい、私といえども、言葉を、整合的に扱えないような未熟な書き手では、いちおうないのであります。感想への返信やら、ほかのテキストを読んでくださってもわかっていただけるかと思うし、日常的な伝達文書に関して私、文章うまいね、と形容されることはあっても、へただね、と形容されたことは、小学生からこっち、ありません。表現において、ミスマッチをマッチさせようとしているのは、それが表現であるからです。言葉の使い方に無頓着なわけではないのです。文体、というものが、作家のすべてだと思っています。だから、凡庸ではない文体を、作品に合わせて構築してゆきたいし、いずれはそれらを、私、という書き手そのものにしていきたい、と思い、文体には心血を注いでいるつもりです、私だけじゃ、もちろんないでしょうけれども、最近、ユニークな文体で綴られた感想文も目にいたしますし、感想者さまの感想文もそうでありますね、豊かな表現力と鋭い論調をエンタングルメントなさっておられる、ことほどさように、文体というものは、命であり、不可侵であるべき聖域でありますれば、そこをぞんざいに扱っているはずはないのです、すべての、作家を目指す書き手は。

>「優れたパーカッショニストは一番大事な音を叩かない」というのは、地下1階にある音、休符としての音、裏拍としてのリズム、つまり、文体というのはそうあるべきものである、ということを言及

 裏拍子、そのとおりでありますね、そこんとこが味わいなんですよね、手触りであり、テイストであり、テーマをしのばせるポケットなんですよね。

>ここで一つの推察が成り立つ。「君」がサンタクロースであるならば、語り部たる道化師とはトナカイのことである。従って、これは、トナカイの視点の物語である。証明終了。いくらその顔と体躯を不在の壁の向こうへとひそませたとて、事象の特異点であるところの、まんまるとした赤鼻は、決して隠せはしないのである。

 すごい! 鳥肌が立ちました。確かに、トナカイ、って言葉、サンタクロースって言葉と同様に、叩かれてないんですよね、ただの一度も。そうか、相棒か、相棒の語りだったのかあ、ありですよね、それ、道化としての赤鼻かあ、長年、ずっとサンタさんを見つめてきたんですもんね、それ、すっごく素敵なだけじゃなくて、すこんとはまっちゃう読み方ですよね、ありがとうございます、クリスマスのプレゼントあけたら、包みの中から輝く答えが出てきた、みたいなサプライズであります! こういう体験をしちゃうと、苦しくても、まだ続けてゆこうかな、とか思えちゃったりもします。

 素敵な回答と、響く論考をありがとうございました。

はるか

 そうげんさま

 ありがとうございます。

 お手すきのときにご足労いただけたら嬉しいです、ありがとうございました。

はるか

 どう足掻いても凡人さま

 ありがとうございます。

>送料無料の配達は、近頃じゃAmazonなんかで当たり前だが、とうのむかしから君は、送料のことなんて考えもしないで配達作業に勤しんできた。 読点で文章を挟むというのは、中々に難しい技法です。自分は最初読んだとき、この文章を3回読みなおしました。

 ご指摘ありがとうございます。私、自分じゃまったく気付きませんでした。このセンテンス、呑み込みづらいのですね、勉強になります。読点で挟んでいる? 重文ということでありましょうか。複文ほどではないけど読みづらい、確かに、新聞社なんかでは、重文も複文も弾かれて、記事は単文を積み重ねるよう指導されるみたいです。だが、という接続部分で、ふたつの単文に分けたら読みやすくなるでしょうね。ご指摘、ありがとうございました。

>時計の針がてっぺんをいくらか回ったころだった この部分ですが、これは1時間程度経過したということなのか、そうだとすると積み込み始めた時は何時だったのか。もしくはいくらかを何回かと解釈し、積み込むのに数時間かかったと解釈するのか。自分にはよくわかりませんでした。

 なるほど、おっしゃるとおりですね、短針か、長針かを、ここは明示するべきでした。ご指摘ありがとうございます。てっぺんをいくらかまわったところ、というのは、12時15分くらいのことかな、と、私は読んでいたんですが、つまり、時計の短針が、てっぺんをいくらか、と考えていたのでしたが、ここは自由に受け取っていただいてよいかな、とか思います。1時でもいいし、もしかしたら、2時でもいい。三日後だとクリスマス終わっちゃうんで駄目ですが。
 搬入に要する時間については私も思案しました。なんせ広大な倉庫でありますからね、朝食後昼食までの数時間で、ポイポイ任務を完了しうるのか、と。で、ま、サンタさんだから、と、私は納得しちゃったのであります、ありかな、と。一昼夜は掛かりそうな作業を数時間でホホホイと完了させちゃうマジカルな早業も、彼なら、とか思っちゃったわけです。でも、ちょっと、ひっかかるかもしれないですよね、時間経過についても、読み手さんは、ほんとはサンタさんじゃなくて、人間でありますから。ご指摘ありがとうございます。

 ご感想をありがとうございました。

はるか

 なんか、ネガティブな渦に巻き込まれてる自分に気がついたので、今後、私は、以下のようにしたいと思います。

・率先して感想は書きません。感想が欲しい、と思われた方は、私の感想欄に「感想希望」と記してください。必ず、ではないけど、できるだけ、感想を書きたいと思っています。私自身の筆力向上と、お互いの鍛練のために。

・頂戴いたしましたご感想に対しましては、一律に「ありがとうございました」とのみ返信させていただきます(明らかなアラシはスルーいたします)。感想を読ませていただきました、という印として、そのように書かせていただきます。感想への返信で鍛練することは諦めます。

 以上、たぶんレギュレーションには反していないように思いますので、そのようにさせてください。

 これまでよくしてくださった方々には、あるいは失礼なる顛末かもしれませんが、すみません、ありがとうございました。

見習いさんH

こんな時にお邪魔して気が引けるのですが、せっかく読ませていただいたので感想を……。

今年ももう終わりですね。
いい子にしてるから、私にもプレゼントしてほしいです。

あ、二年間ってどういう意味ですか?
詳しいことを知らないので気になりました。

はるか

 見習いさんHさま

 ありがとうございました。

九丸(ひさまる)

拝読しました。

感想書くタイミングが……。
それでも、読んで思ったことを。
子宮の例え、良いですね。
二年にしたのは、十月十日だとベタだからなのか、僕が読みとれてないんでしょうが、意味があるのですね。
個人的には月の周期でもなんて思いましたが、そんな分かりやすくはしないのが良いですね。
視点は読者の胸のうち。月だったり、トナカイ(これは納得の感想でした)だったり、このお話に自分を投影する仕方によって変わるのでしょうかね。
ちょっと五億年ボタンの思考実験を思い出しました。

感想のやりとりははるか様の好きにして良いと思います。
いつも興味深く読んでいるので、また投稿されたら読ませていただきます。

失礼しました。

はるか

 九丸(ひさまる)さま

 ありがとうございました。

中野サル信長

拝読しました
筆致が全然こなれてませんね。無理して文体を作るより量です。
ご飯で一番損したと思うことの一つに屁理屈と短編が愛される
とのことでご飯を中心に活動して千枚くらいしか十五年の筆歴しかないことです。
でもどんな人でも作家になれるレベルって一万枚らしいですね。
だからシンバルよりも中学の国語力をくもんでチェックして
とにかく書く量を増やさないと。楽器もやったことないんだろうなと思います
とにかく練習量です。あとは指導者。
鈴木輝一郎先生とCWSの小説講座は有意義です。
正直に申しますがお金払って先生に学ばないと我流とご飯では作家は不可能です
ただより怖いものはないです。

中野サル信長

例えばギターの話をしましょう。
僕もギターが上達するようになにが秘訣なのか考えて見ました
練習量と指導です。僕は我流でクラプトンというギターのソロとか一応弾ける気になりました
これは練習量です。でもなんかリズムと言うかズレてるなあと思い二十年そのままで
ふとあるときアンプに音楽を流してそれに合わせて弾いてみたら全然ダメでした。
二十年前指導者に出会えればもっとアドバイスされたのになあと思います
だからタッピングみたいなシンバルの中抜けなんかは後でいいんです
とにかく良き指導者にあって練習量をこなさないとえらい損失を後で被りますよ
昔の自分を見てるようでした。

中野サル信長

とりあえず手遅れになる前にごはんの功罪をちゃんと考えた方がいいですよ。
僕もいろんな人にご飯で教えてもらったけど、その中で本当にプロの先生に教えてもらったことはなかったです。27で公務員になって今無職で47で障害年金です。二十年で千枚程度。まあ群像の新人賞をとるかも知れんですけど。そこから九千枚ですよ。
下手するとあなたもこうなりますよ。27歳で指導者についていれば三十七歳で一万枚書いてプロになってました。なんかハマってるなあと思ったから老婆心に。僕も昔道草文学って調子に乗ってたんです。学校いかないと。

はるか

 中野サル信長さま

 ありがとうございました。

そうげん

世界中の子供たちの数、かける2年という膨大な時間を、繰り返し、生き直す、生まれ直すことを繰り返してゆくサンタクロースの内面には、どんな変化が訪れるのだろうかと興味がわきました。「存在の車輪を転がすため」、第三の理由はこれなのですね。この理由ははじめには「生まれ変わるため」と示されてあります。プレゼントを配るためにそれぞれの家の煙突を抜けなければならない。その労苦を、ひとりひとりの子供たちにプレゼントを届けるという理由のために、すすんで引き入れる。それは奉仕の精神なのかもしれないけれど、行為の中に内心の動機があってこそ、サンタクロースは毎年毎年、子供の数かける二年の歳月を費やして、せっせとプレゼントを配っている。

この作品を読みながら、わたしは子供のころのことを思い返していました。保育園に入っていたころですが、周りの子供たちがしきりにサンタクロース、サンタクロースと、シーズンが近づくころにいいはじめていました。なんとなく北国のイメージはついていたのですが、サンタクロースがプレゼントをくれるというイメージが子供ながらについていませんでした。それは幼いころ、同年代の子供たちと触れ合うことがなくって、またテレビも見ない子供だったので、サンタクロースがなんなのか、クリスマスの夜にプレゼントが用意されるという習慣も、いまいちよくわかっていないのでした。だから、北欧からサンタクロースがわたしたちのためにプレゼントを配りに来てくれたという想定の物語を受け止めるだけの土壌が自分のなかに作られていませんでした。いまも、小さな子がサンタさんがプレゼントをくれたという言い方をするのを見ていると、ふつうの子供は、こういうことを素直に受け入れているものなんだなと、ふしぎな気持ちになってしまいます。

以上、話が脱線しました。

存在の車輪を転がすため=生まれ変わるため、自分自身が生き直すためでもあるけれど、人に喜びを配る仕事が、その一回一回の生の意味を問い直す行為となってゆくことだと考えると、幻想的だし、素敵な話のように感じられます。わたしはロバート・ジョーダンが書いたファンタジー小説の「時の車輪」という作品がとても好きなんですが(「指輪物語」のオマージュ作です)、この車輪というのは、すでにすぎたかもしれない、まだこれから回り直すのかもしれない、それとは知らずに繰り返し繰り返される歴史の流れのことを示していて、一人一人の輪廻というよりも、世界全体が何度も何度も同じ生を生き直すという世界観を示していたりします。そのなかで、歴史模様の織られ方に干渉してくる存在がイレギュラーな存在のように発生して来るという世界観のありようでして、この作品におけるサンタクロースは、しかし、世界の予定調和のなかに過ごしながらも、一回一回の生の生き直しによって、なにか自身のなかに変化するものはあったんっだろうかと気になりました。

生き直そうとする、生まれ変わろうとするなかに、何度生まれ変わっても、そう変化することのない世界の中に閉じこめられてしまっている窮屈さもともなってくるのは、生まれ変わるための通路が各家の煙突という狭い空間にあるためかなとも感じました。ほんとうは、煙突をくぐる時だけではなくって、もし用意することができるなら、プレゼントの準備をしているときだとか、世界をくまなく飛び回っているときだとか、そういうときどきにも変化を助長するきっかけには満ちている気がするのです。煙突をくぐるときだけに限定してしまうことが、このサンタクロースの限界になってしまったのかな、なんて風にも感じました。

わたしは掛け声もそうだけど、この作品、とても好きです。楽しかったです。
ありがとうございました。

はるか

 そうげんさま

 ありがとうございました。

中野サル信長

なんかざっと書き出し読んだけど、なんかリズムが悪いよね。読点をもっと絞って打ったらいいんじゃないかな。
あと感想でやりあってあとスルーってそれがおかしいんだよ
ここは素人の集まりであって感想は全スルーでいいんだよ。
金払わないと講評でまともなのはもらえない。

はるか

 中野サル信長さま

 ありがとうございました。

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