作家でごはん!鍛練場
はるか

私の答え(インディペンデンス・ハイウェイ)

 タータンチェックのシャツの袖をまくりあげ、とうもろこしをかじりながら、はるかに伸びた道の、先の、そのまた先を見つめる。陽が西に、少しだけ傾きかけたアリゾナのハイウェイ。ポンティアックのカーラジオからはカントリーウェスタンが流れていた。ありがたい、単調な道に音楽は欠かせない。
 さっきまでバラバラとヘリコプターが飛んでいた。スピード違反を監視していたのだと思う。時速八十マイルを越えないように注意しよう。
 ダッシュボードには、オークリーのサングラス、キャメルの箱、ごろりとしたターコイズが埋め込まれたジッポ、それから一枚の絵葉書。絵葉書の中では、夕日が、あるいは朝日が、荒野を、美しく、オレンジ色に染めていた。
 流れゆく景色の中に柱サボテンが見えた。かわいい、と思う。なんか、とぼけていて。でも抱き締めることなんてできない。恭介と同じだ。私が抱くと、抱かれたそれは私を傷つける。
 刺さったトゲについて、いろんな人がいろんなことを言った。親だとか、友達だとか、家庭裁判所の調停員だとか、そんなような人たちが、私たちのあれやこれやを嗅ぎまわり、私たちが求めてもいない、わかったようなアドバイスを言ってよこした。ノーモア、と私は思った。だから飛行機に乗ってアメリカに来た。空港で、係員から、アリゾナ? と嬉しそうに尋ねられた。そうだ、と応えると、また嬉しそうに、独りで? と訊かれた。そうだ、と応えた。係員は、気をつけて、とは言わなかった。嬉しそうな笑顔をさらに嬉しそうに歪めながら、よい旅を、と言って、それから右手を差し出した。私たちは握手を交わした。
 そんなわけで、私は独り、荒野の中の一本道を走っていた。
 日が暮れる前にモーテルに辿り着きたい。そんな気持ちが速度に出てしまったのだろう。回転灯をひらめかせて、ハイウェイパトロールが追いすがってきた。停められた。
 太ったのと、のっぽなのと、二人の警官が用心深そうにやってくるのを、ポンティアックのサイドミラーが映し出していた。どのくらいオーバーしていたのだろう。アメリカで切符を切られたらどこに出頭することになるのだろう。だなんて考えていたら、コツコツとウィンドウを叩かれた。ウィンドウを下ろした。
 こんにちは、いや、そろそろ、こんばんは、かな? と、でぶっちょのほうが言った。こんばんは、のほうを選んで私は、そう挨拶して、にっこり笑ってみせた。そして国際免許証を提示した。
 若い美人が独りきり、と、でぶっちょはまた言った。これは事件だ、と続けた。
 事件? と尋ねて、眉を寄せてみせた。エマ・ワトソンの表情を思い出しながら、ハリウッド女優みたいなオーバーアクションで顔を作ってみせた。
 べーるりー、でーんじゃらす、と、噛んでふくめるような、でもどこかユーモラスな口調で、でぶっちょは言った。それから、車から降りてプロポーションを披露しろ、と付け加えた、ちょっとエロそうな目をして。おまえこそがデンジャラスだよ、と思いながらも指示に従って白いポンティアックを降りた。後ろを向いて車に手をつけ、と言われたのでその通りにした。腰回りを探られ、目的地を訊かれた。目的地なんてなかったので、適当な嘘を応えた。
 こんな砂漠を一人旅じゃあ、さみしくて夜、体が泣くんじゃないのか? とか、いかにも田舎の警官が言いそうなことを、でぶっちょはちゃんと言い、言いながら私の胸を後ろから揉んだ。逆らうべきか、逆らうべきでないか、冷静に判断するだけの余裕が、私にはまだ残っていた。
 じゃあ、まあ気をつけて行きなよ、と言って、でぶっちょは手を引っ込めた。
 切符は? と尋ねる私に、いいもの触らせてもらったから、そのお代と相殺ってことで、と言って、でぶっちょは、ベイブみたいな、人の良さそうな目で笑った。その間じゅう、のっぽは一言もしゃべらなかった。しゃべらないままに背を向けてパトカーに戻って行った。でぶっちょもそのあとを追った。
 停車したポンティアックを追い越して、パトカーは走り去った。助手席の窓から突き出た手が、ちょうちょみたいにひらひらと揺れていた。パトカーは行ってしまった。私は、また一人きりになった。
 モーテルまで、あと七十マイル、日が沈んでからの到着になりそうだった。オアシスみたいなネオンライトをイメージしながら、暮れゆく砂漠の、陰影に満ちた景色を堪能した。赤く染まった岩は、熊のようにも、鷹のようにも、ピカチュウのようにも見えた。かと思うと、芝を刈る恭介の姿が、出し抜けに思い浮かんだりもした。私たちの結婚生活みたいに、暮れゆく荒野の陰影は濃く、苦く、甘く、味わい深かった。
 三十マイルほど走ったところで、日が完全に暮れた。カーラジオからは、古い映画が、ラジオシネマとして流れていた。愛し合った二人が別れるときはどんなときか? という台詞が耳に止まった。知らずに上がっていたスピードメーターの針に気がつき、ふとバックミラーを見た、そしたら驚いた。とんでもないものが映っていたから。なんてこった、と日本語でつぶやいた。路肩にポンティアックを停めた。降りた。走ってきた道のほうを、足に力を込めながら見つめた。すごい、と思った。大きい。とんでもなく大きな月が出ていた。黄色い月。白くなるまではまだ時間が掛かるだろう。ひとけのないハイウェイに立ち、私は、月と向かい合っていた、長いこと向かい合っていた、月の、じりじと這い上がる音が聞こえてきそうだった、踵をかえすと路面に月が、私の輪郭をくっきりと描き出していた。
 また走り始める。私は走り始める。今夜は停まっても、明日になったらまたきっと走り始める。いつまで走るのだろう? と思う。答えが出るまで、と私は思う。月の光に押し出されて、すべりゆく船のように車は進み、私の気持ちも進んでゆく、答えに向かって。別れようか? と夫は尋ねたのだ。七年間のすべてをリセットしようか、どうしようか、と尋ねたのだ。
 どうしようか、と私は、バックミラーの中の月に尋ねる。闇に沈んだ砂漠に尋ねる。月明かりに照らされた、闇の中のあれこれみたいに、私の中の、奥の、奥のほうであれこれが光っている、かすかに、けれども、確かに。そのかたちを、凝視するような思いで、私は探る、私の中の、答えを探る。
 明朝まで待つ必要なんてない、と思う。月に背中を照らされて、私は思う、もう明日からは、あてもなく走ったりはしない。私の中に答えはあるのだ、すでに、ちゃんとあるのだ、あとはそれを掬い上げるだけなのだ、たぶん。モーテルに着いたら絵葉書を出そう、アリゾナの大地が写った絵葉書を恭介に出そう。答えはそこにある。その答えをまだ、私は知らない。でも、モーテルに着いたころ、私はそれを知るだろう。そんな予感がある、確かな予感がある。
 答えまで、あと、三十マイル。それは、幸福にも似た旅程だった。私は、どちらに振れることもできるのだった。恭介と別れて、このまま西に進むか、恭介と生きることを決めて、東にユーターンするか、それは私に任されていた、この広大な砂漠の、どちらに向かってアクセルするのか、それが私に委ねられているように。でぶっちょも、のっぽも、答えを強要したりはしない、私は自由なのだった、どこまでも自由なのだった、だから私は、親や、友達や、家庭裁判所の調停員にではなく、自分に、この私に、あるいは私の中の月に、答えを求めるのだ。私は、私の生き方を選ぶことができる。
 ラジオシネマの物語が進行していた。愛する二人が別れるときはどんなときか、その答えを、まだ若々しい声で、ブラッド・ピットが語った。その答えに私は頷いた。そうだね、ブラピ、私もそう思うよ。
 モーテルに着いて、絵葉書を書いた。葉書の中で大地を照らしていたのは、どうやら朝日だったらしい、夕日ではなくて。書かれた答えをもう一度確かめてから、葉書を、フロントに託した。
 答えは一言。
 Never.
 ポンティアックを明日、東に向かって走らせよう。

私の答え(インディペンデンス・ハイウェイ)

執筆の狙い

作者 はるか

 読点を乱打して、漢字を開きまくり、フレーズをひたすらにリピートする……、そんな文体が読みにくい、とのご指摘を一部の読み手さまより頂戴いたしまして、で、これはわりと普通に書いてみました。これより前に、テンポをとことん速くして疾走感を強調した文体で一作書いたのですが、そしたらそれが思いのほかよく書けて、だもんだから何度か推敲したあと公募に出すことにいたしました、ので、それ、鍛練場への投稿はやめにいたしました。かわりに急遽書いたのがこれなのですが、疾走文体で長い話を書きまくったあとの虚脱感がいい塩梅で作用したのか、普通の文体で端的な話を素直に繰り出すことができたようにも思います。これでもまだ読みづらいか、あるいは平凡でつまらないか、いえ、文体がどうこう以前に話がそもそもつまらないとか、ありきたりだとか(私は、内容云々以前に文体ありき、と考えるのですが、そうでない方もいらっしゃるようで――とはいえ、これも、もちろん内容についても手は抜いていませんが、全力ですが)、そのあたりを含めたご感想を頂戴できますと参考になります。

コメント

九丸(ひさまる)

拝読しました。

読みづらいかどうか?
読みやすいです。


誰もが知っている画(言い過ぎか?)を言葉で上手く押し上げて、欲しいところにちゃんと欲しいものを配置してくれて(ハイウェイパトロールとか)、走りながらそれに主人公の思考も乗せて流す。
雰囲気もあるし、良かったです。

気になった点を。
小道具がベタなチョイスでアメリカを感じさせてくれたのですが、車はポンティアックにしたのは意図があるのでしょうか? 響きとか思い入れとか。もっとイメージしやすいメーカーがあると思うのですが。ポンティアックは社名ですが、トランザムとかファイヤーバードとか車名の方がイメージしやすいです。それともまさかのSUV系とか? いや、会社がもうないので、それはないのでしょうが。

警官が胸を揉みますが、アメリカ人ってスタイルが良い女性好きなイメージあります。確かに。今のトレンドはお尻なんですかね。巨乳も好きなんでしょう。ただ、あんまり揉んで満足ってイメージがないのです。映画やポルノでも、視覚として刺激は受けるものの、意外と揉んでないような。鷲掴みなら分かります。揉むってなると、そこで日本を感じてしまいました。そんな警官だったと言われればそれまでですが。(これはすごく個人的なイメージです)

上記の点が気になったのは、このお話の背景がまさにアメリカとして誰もが浮かべやすい画なので、ほんのちょっとのズレが明確になりやすいのかなと。もちろん、間違ったことを書いてあるわけではありません。

多分、気にならない人の方が多いのかもしれませんが、参考までに。

失礼しました。

ナトホ

はじめまして。

>これでもまだ読みづらいか、

はるかさんの小説を初めて読んだのですが、読みやすかったです。

>読点を乱打して、漢字を開きまくり、フレーズをひたすらにリピートする……、そんな文体が読みにくい、とのご指摘を一部の読み手さまより頂戴いたしまして、

それは確かに読みにくそうです。

>テンポをとことん速くして疾走感を強調した文体で一作書いたのですが、そしたらそれが思いのほかよく書けて、だもんだから何度か推敲したあと公募に出すことにいたしました

どこに出したのだろうか? と思いました。(プライベートな話なので、答える必要はないです。)


>平凡でつまらないか

この話をさらにあらすじにしてしまえば、平凡かもしれませんが、平凡でとくに何もないに近い出来事をうまく書いているなあと感心しました。

>私は、内容云々以前に文体ありき、と考えるのですが、

わたしも文体は重要だとは考えてます。

なので、どういうところに応募されたのかな、と興味をもちました。
はるかさんの文体に対する意識のしかたは、純文系のような気がしました。

文芸誌系の純文の新人賞に応募する場合は、一般的に読みやすいかどうかは関係ないような気がするので、突き抜けていったらいいと思います。
ただ、その実験的な作品がどう評価されるのか、単にわかりにくいだけなのか、新しい文学を追及していていいのかは、わたしにはわかりません。

この作品の書き方については、これはこれで好きです。
希望を言わせてもらえるのなら、新人賞に応募できるくらいのものを読めたらいいな、と思いました。
たとえば、文學界に応募できる70枚以上とか。
長いものもオーケーのところに短編でチャレンジするのは、よっぽど特別なものでないとダメだろうな、という気がしますので、普通にチャレンジできる長さと考えると、100枚以上とか。

純文を目指してないのでしたら、余計なことを書いてしまい、ごめんなさい。
もしも、目指していても、普通に書いたものは出さないかも、ですよね。これはあくまでも、ここ用で。
失礼しました。

櫻井

 散文詩的な作品に感じられました。語彙の統一や話型の簡易性のためでしょう。アメリカンなノスタルジィが一貫して感じられる、風情のある作品に仕上がっていたと思います。話の筋も、悪く言えばありきたりなのかもしれませんが、良く言えば王道、より多くの人に響くものです。上手に書ければ、非常に良いものとなる話型といえるでしょう。
 文体についてですが、個人的には以前の方でも洗練すれば十分戦えるものなのではと思っていました。勿論この作品の文体の方も軽妙で読みやすいのですが。
 
 ここからは、客観性や妥当性をあまり意識せず、ごく個人的な意見を述べさせてもらいます。最初に目についたのは、でぶっちょが主人公にセクハラを加えるシーン、ここは人によってはあまりにも生々しいものに感じられてしまうのではと思いました。私は先程この作品を散文詩的だと述べさせてもらいました。他が散文詩だとすると、ここだけ通俗小説じみています。少なくとも私にはそう感じられました。もしかすると、読者の感興を削いでしまいかねません。
 あとは、細かいところですが、ピカチュウやハーマイオニーのような比喩は流石にやり過ぎなのではと。私はこの作品を初読した際、悪くはないが、まだ洗練しきれてないのではという印象を受けました。その理由は、こういった細かな語彙選択にあったのではと思います。作品の持つ爽やかな風味を、これらのあまりにも通俗的過ぎる語彙や表現が、阻害している気がします。

 以上となります。途中から自分でも分かるくらい、かなり私見に寄っていて、妥当性は全く保証出来ません。一個人の意見として、捉えていただけると幸いです。
 
 

はるか

 九丸さま

 ありがとうございます。

 月、という、感情やら、無意識やらを表象するものと対峙して私が、インディペンデントな荒野で、私の問題に、主体的に、つまりインディペンデントに回答を下す、西に進むか、東に戻るかを決める、その乾いた力強さを、クールに描きたかったのが本作でありまして、そこを際立たせるためにノイズはできるだけカットしたく、今回は、奇をてらったような小道具や登場人物は起用せず、本筋を邪魔しないように、目立たないように、お約束のものをお約束の場所に配置したいと考えました。

 白いポンティアックについて。アメリカ車で、実際に乗せてもらったことあるのが、古い、ポンティアックファイアーバードだけだったので、それにしました。不死鳥な感じがぴったりかと思ったし。もっといかにもアメリカな車にすればよかったですね、調べればよかったです。

 アメリカの警官に胸を触られたことないので(日本の警官にもないです)、想像で書きましたが、そうでありましたか、揉む、は日本的で、アメリカだと、掴む、がお約束なんですね、確かにそのほうがなんとなく大陸っぽいかもしれませんね、掴むにすればよかったです。

>このお話の背景がまさにアメリカとして誰もが浮かべやすい画なので、ほんのちょっとのズレが明確になりやすいのかなと。

 おっしゃるとおりですね、波紋がたたないように石を投げたつもりなのに、ポンティアック、と、揉む、とで、ぽしゃんと音が出ちゃってる、ってことですね。

 鋭くも正確なご指摘をありがとうございました。

はるか

 ナトホさま

 ありがとうございます。

>どこに出したのだろうか?

 まだ出してません。わりと上手く書けた気がしたので、とっとくことにした、って段階です。群像か、文藝か、文學界か、みたいなことを考えていますが、どれも来春、来秋の締め切りなので、まだ時間がありますね。

>この話をさらにあらすじにしてしまえば、平凡かもしれませんが、平凡でとくに何もないに近い出来事をうまく書いているなあと感心しました。

 傷心旅行、舞台はアメリカ、よくあるパターンですよね。私、うがった設定で、うがった人物を描くことが多くて、今回のはその逆を狙ってみたのですが、書いていて、ああ、こういうのも書くことの鍛練になるなあ、だなんてしみじみ感じてたりしました。

>わたしも文体は重要だとは考えてます。

 はい、文体がしっかり獲得できてると、どんなお題をも、それなりに書きこなせるような気がします。むろん、自分の中にないものを書くのは気が進まないのですが。

>はるかさんの文体に対する意識のしかたは、純文系のような気がしました。

 はい、純文学を志向しています。平たい言葉で書いた、けれども言葉を吟味し尽くした感じのするのを書きたいのです。エンタメよりの純文学、みたいなあたりが着地点になるかな、とか。

>文芸誌系の純文の新人賞に応募する場合は、一般的に読みやすいかどうかは関係ないような気がするので、突き抜けていったらいいと思います。
ただ、その実験的な作品がどう評価されるのか、単にわかりにくいだけなのか、新しい文学を追及していていいのかは、わたしにはわかりません。

 はい、今回のを公募に出しても、ありきたりで個性がない、文体が新しくない、みたいなことで跳ねられちゃうかと思うのです。なので、私、だらだら系の疾走文体、みたいな矛盾した変なのを練習していて、これがなんだかいい感じになってきたな、と思ってて、変な文体だけど読みにくくはない、と自分では思ってて、でも鍛練場では、読みにくい、と指摘されたりもしたので(読みやすい、と評してくださった方のほうが、それでも多かったんですよう)、だからちょっと基本に立ち返ってみようかと今回のを書きました。

>希望を言わせてもらえるのなら、新人賞に応募できるくらいのものを読めたらいいな、と思いました。たとえば、文學界に応募できる70枚以上とか。長いものもオーケーのところに短編でチャレンジするのは、よっぽど特別なものでないとダメだろうな、という気がしますので、普通にチャレンジできる長さと考えると、100枚以上とか。

 私、この鍛練場に来て、三、四ヶ月くらいで、今回のが四本目になるのですけど、一本目が百八十枚、二本めが百三十枚、三本目が五枚、今回のが九枚、くらいでした。公募って応募したことなかったんですけど、こちらに一本目を投稿したとき、ある方に、公募に出したら? って言われて、興味をもって調べて、今、公募に出せそうなものを書こうと努力しているところです。百五十枚くらいがいちばん書きやすい(一ユニットを八枚くらいで書いて、十六ユニットか二十四ユニットで一作品とするのが私には書きやすい)感じなのですが、こちらのサイトは字数制限があるので、八十枚とか超えてくると、つづきものになっちゃって、つづきものはあんまり評判よくないみたいなんで、三本目から、結果的に、練習作の投稿先としてこちらを利用させていただいているような感じです。感想のやりとりが勉強になるし、発奮するためのきっかけにもなるみたいなので。

>純文を目指してないのでしたら、余計なことを書いてしまい、ごめんなさい。

 目指してます、目指してます、身の程知らずにも、目指してます。

>もしも、目指していても、普通に書いたものは出さないかも、ですよね。これはあくまでも、ここ用で。

 出しますよ。一本目も二本目も、私の文体で書いたものだったし。公募用によけちゃったやつも、ほんとうはこっちに出したかったくらいです、公募なんて考えないで。っていうか、常に、こちらへの投稿を意識して今後も書いてゆきます。ただ、わりと上手く書けちゃったのは、公募用によけちゃうとは思うんですよ、今後しばらくは。でも失敗作をこちらに出すんじゃなくて、ウォーミングアップなものも含めて全力の本気テキストをちゃんと出すようにしたいです。今回のにも、思いは込めてるんです、わりとのっぴきらならない思いなんかも。

 励まされるご感想をありがとうございました。

はるか

 櫻井さま

 ありがとうございます。

>散文詩的な作品に感じられました。語彙の統一や話型の簡易性のためでしょう。アメリカンなノスタルジィが一貫して感じられる、風情のある作品に仕上がっていたと思います。

 ポエムな感じ。そのご指摘は嬉しいです。具象を扱ってはいますが、象徴的な構図を表したいと意図しましたので。
 鍛練場で拝読したある方の作品が非常に構造的で、真似したくて、舞台設定をジオメトリックなものに、とまずは考えました。
 テーマは、タイトルにあるとおり、インディペンデントな選択、に尽きるわけですが、右か左か、進むか戻るかの選択を、大陸の東西、はるかに続くハイウェイ、という地形に落とし込み、無意識を照らすサーチライトの役割を、砂漠にのぼる特大の満月に担わせたい、と考えました。舞台セットみたいな、いかにもな配置、でありましょう? その配置を印象深く表すためだけに言葉を繰り出した感じです。
 なので、一枚の絵柄が端的に浮かび上がるような、ポエムなものになれていたなら、なかなか成功だったのかも、だなんて思ってしまいました。

>筋も、悪く言えばありきたりなのかもしれませんが、良く言えば王道、より多くの人に響くものです。上手に書ければ、非常に良いものとなる話型といえるでしょう。

 はい、手垢のついた、わかってもらいやすい、単純な構図のお話でありますね。しかも、ラスト近くで、どちらを選ぶかは私にすべてが任されている、とか、今回、テーマを語り手自らがしっかり語っちゃっていますから、誤読のされようもなく、一義的にわかりやすい、それこそ砂漠を貫く一本道みたいなお話でありました。迷子になりようがない。そんな話の中に、たぶん新味はない話の中に、なんらかの面白さを感じていただけるのだろうか、と、そのあたりの手応えを感じてみたいと思いました。もしも感じていただけたなら、それは、手前味噌な言い方にもなりますが、語り口の勝利、つまりは文体の勝利であるように思えたのであります。確かに、今回の文体は、わりと普通に振っているけど、でも、実は結構スキルフルに書いてるつもりだったりもするのです。解説しちゃうとみっともないからしないけど、リズムにも韻律にもリピートの取り方にもなかなか気を配ってたりするのでした。そのわりには今見直したら、速度を超える、と書くべきとこを、速度を越える、とか書いちゃってたりするし、なんだかなあ、と自分に突っ込みを入れたい気持ちになりますが。
 ともあれ、話に新味なく、テーマに階層性なく、人物の感性にも際立った異質性がなく、ありきたりな話なので、にもかからわずなお、そこに、何かよいものを感じていただけるのだとしたら、それは文章そのものの味わいゆえなんじゃないか、だなんて都合のよい解釈をしていたりします。

>文体についてですが、個人的には以前の方でも洗練すれば十分戦えるものなのではと思っていました。勿論この作品の文体の方も軽妙で読みやすいのですが。

 ありがとうございます。嬉しいです。文体、洗練させてゆきたいです。今回の文体は、ちょっと個性がなさすぎる気がするので、公募に出したりするのは、もうちょっと個性の香るものにしたいと思っています。だらだら系統の疾走文体(←矛盾を内包してますね!)、みたいなの、今練習中で、書いてみたらわりとよく書けちゃったんで、今度また新作でお披露目したりして、ご批評いただければ、とか思ってたりします。

>でぶっちょが主人公にセクハラを加えるシーン、ここは人によってはあまりにも生々しいものに感じられてしまうのではと思いました。私は先程この作品を散文詩的だと述べさせてもらいました。他が散文詩だとすると、ここだけ通俗小説じみています。少なくとも私にはそう感じられました。もしかすると、読者の感興を削いでしまいかねません。

 勉強になります。なるほど、通俗性が風味を損ねる、みたいなご指摘ですね。
 ポリスにセクハラめいたことをされちゃうくだりは、女性がインディペンデントに生きることの険しさと、そのような険しさをものともしないでやりすごす語り手女性のクールなタフネスさを示したいがゆえのエピソードだったのですが、生々しくある必要は特にないので、警官には、ジョークめかしたセクハラトークを耳元で語っていただくくらいに抑えたほうがいいかもしれませんね。通俗性についての捉え方について、参考になりました。ありがとうございます。

>細かいところですが、ピカチュウやハーマイオニーのような比喩は流石にやり過ぎなのではと。私はこの作品を初読した際、悪くはないが、まだ洗練しきれてないのではという印象を受けました。その理由は、こういった細かな語彙選択にあったのではと思います。作品の持つ爽やかな風味を、これらのあまりにも通俗的過ぎる語彙や表現が、阻害している気がします。

 ピカチュウ。これ、書き手が照れちゃったんです、月に背中を照らされて荒野を行く女性、っていうのが、いえ、自分で狙ったんですけど、絵になりすぎちゃって、なんか気恥ずかしくて、まぜっかえしたい気分で、ピカピー! とか岩山に叫ばせちゃったんです。読み手さんからすると、こういうの、ノイズというより、もはや不協和音かもしれないですね。書き手の照れが、作品を駄目にしかねない例として、しっかり意識化しておくことにします。
 語彙選択に力を入れてるつもりでいながら、変な力の入れ方とかしちゃって不協和音を鳴らしちゃってたのかも、と認識できました。ご指摘をありがとうございました。

よつば

 あの、その、ね、月のひかりって、青くてつめたくさびしそうって、ずっと思っていたのですけど、実際の月のいろは、ぜんぜん違っていて、なんでもお日様のひかりを反射しているからとか、そんな話を聞いたような気がしないでもないのですけど、とにかく、青くてつめたい印象が、わたしのなか、どこかにずっと残っていて、いつも、いつも、そういうふうに考えてしまっていたのですけど、夜中にそとを歩いたときのことなんですけど、現実の月はむしろぎゃくで、この世のおわりと思えるぐらいあかいときがあって、どきんと胸が大きく鳴って、とにかく、とにかく、無性にこわくなって、大きいお父さんの手をぎゅっと握ったときのことを思い出しました。じゃあなんで、月ってあおいの? って、そういうイメージがずっとつきまとって、子供ころ、疑問に思っていたんですけど、あ、いまのいままでどうしてこんな単純なくいちがいを忘れていたのだろう、とかちょっと不思議なんですけど、あ、ごめんなさい、えっとね、わたしにとっての、お月さまって、つめたさのなかに、ね、やさしさがあって、ね、照らしてくれているっていえばいいのかな、えっと、そういうイメージがあったんです、でも、現実はぜんぜん違くて、その、ね、あおい頭のなかのお月さまも、あかい現実のお月さまも、照らしていることはいっしょなんだろうけど、うまく言えないけど、その、影のなかに隠れてしまった、わたしの影、というのかな?、とにかく、つめたい手であるのはきっとそうで、わたしの背中をやさしく押してくれているような、それとも、わたしの背中を、わたしのからだから、無理やり引きはがそうとしているかのような、つんとした月のイメージ、らんぼうな月のイメージ、そんなあべこべの不安が、いつも、わたしを襲って、でもきっと、子どものころの、わたしは、きっとお父さんと、はなればなれ、になるのがきっとこわくて、この世のおわりのような感じがしたのが、ほんとうに、ただ、こわかっただけで、その、ごめんない、感想になっていないかもしれませんけど。
 えっと、その、太陽のひかりは、そのまぎゃくというか、北極星のようにいつもそこにいて、はじまりの場所であり、おわりの場所みたいな、えっと、絶対、という、孤立したさみしいことばがよくにあう、こどくなミチシルベで、あんなに熱をはなっているのに、どこにも届かない、かなしみみたいなものを感じて、でも、その、ね、わたしは、どっちかっていうと、朝日の方が好きなんです。朝がきたっていう実感よりもさきに、いかなきゃって、思ってしまうところがあって、その、太陽はひかりをたくさん、わたしにむかって、なげかけるのですけど、わたしには、きっととどかなくて、どうしてもとどかなくて、ただただ、まぶしい感じだけが目の中に残って、それが届いたひかりのせいなのか、やっぱりひかりは届かなくて、ただそう錯覚しているだけなのかは、わからないですけど、えっと、とにかく、ひかりに目をほそめて、わたしが、朝日を、わたしが、好きなのは、たぶん、きっと、夜明けのひかりが、わたしの身体に、目に見えないぐらいのちいさな、ちいさな孔をあけて、わたしのからだに、ひと晩中ため込んだ月のひかりが、わたしのからだから、あふれていくからなのかなって、だから、きっと、朝の、わたしの身体は、わたしが思っているよりも、うんとつめたいんだと思う、って、あのね、言いたいことは、こたえってそういうふうにして見つかるものだし、そういうふうにしか探しだせないものっていうか、ううん、そうじゃなくて、そうしなきゃいけなくなるあの感じのことを、こたえということばにして、わたしは、一人前の顔をして、前にすすんでいるだけなのかな、って、子供のころお父さんの手を強くつよく握っていた、わたしは、ただ勇気がなかった、お父さんの手をはなれて前にすすむことが、ただ、こわかった、あの、その、ね、そういうふうなこと、を、このお話は、わたしに、思い出させてくれたんです、って、ごめんなさい、わたし、なにを言っているのかしら。

はるか

 よつばさま

 ありがとうございます。

 月っていうのは、ユングによれば、幼少時代の象徴であり、自らの感情の象徴であり、母親の象徴であり、他者の象徴であり、シャドウにもなりうる、というような類いのものだとか。

 よつばさんの感想を拝読して、よつばさんが幼少期を思い出したり、赤い月や青い月に特別な感情を抱いたりしたことは、むべなることかな、とか、だから思いました。

 私は大きな双眼鏡を持っていて、ときどきそれで月の顔を眺めたりしてるんですけど、あばたがいかにもアポロアポロしてて、そうか、お月さまも拡大してみると、そのあやかしさがとけて、いわゆるひとつのブッシツであるのだなあ、なんて興醒めなことを思って寒々としてたりします。

 でも月は、やっぱり不思議であやしいです。太陽の光に照らされたんじゃ見えなくなってしまうような心の裏側を確かに照らしてくれてるような気がします。

 ありがとうございました。

ナトホ

補足させてください。

>今回のにも、思いは込めてるんです

この作品で、応募てぎる長さのものにして、チャレンジすることも期待してます。

>今回のを公募に出しても、ありきたりで個性がない、文体が新しくない、みたいなことで跳ねられちゃうかと思うのです。

この作品のセンスで100枚くらい書いたときに、どこまでいけるのか楽しみでもあります。気になります。

でも、はるかさんには、この文体で書いた作品を応募してみるつもりはないのかな、と思いまして、ここ用、と書きました。


いずれにしても、引き続き、がんばってください。
では、失礼しました。

中野サル信長

文体のことですが、これでも別におかしくはないと思います。でもまだ混乱があるのなら本多勝一さんの文章技術の本に、「、」については詳しいです。

はるか

 ナトホさま

 再び、ありがとうございます。

>この作品のセンスで100枚くらい書いたときに、どこまでいけるのか楽しみでもあります。

 そうでありますか、なんか、コメントを拝読して、今回の書き方もそう悪くないのかも、とか思えてきました。わりと素直に、てらったとこなく書けてる気がして、自分でも、いいのかな、みたいなことになっていて。うがった文体じゃなくて、今回のみたいな、誰もが読みやすい文体で、地下二階のない、誰もがわかりやすい構造のものを、百枚程度で書いてみることにします。非常に励みになりました。ありがとうございました。

はるか

 中野サル信長さま

 ありがとうございます。

>本多勝一さんの文章技術の本に、「、」については詳しいです。

 ご推薦ありがとうございます。大変興味があります。勉強してみたいと思います!

加茂ミイル

はるかさんの文章には、おしゃれで文化的な香りのようなものを感じます。
それは表面的に気取ったものではなく、おしゃれ、文化というものの本質的なものが備わっているようなそんな雰囲気が漂う感じです。
そして、詩心を感じました。
それらの言葉はちぐはぐな感じではなく、有機的に生き生きとつながりあって一つの作品を構成しているように思えました。

ナトホ

す、すみません。また来てしまいました。

>地下二階のない、

素人の個人的な考えではありますが、
文芸誌系純文新人賞に出すんだったら、地下二階はあったほうがいいと思います!
おおっ、ここの扉を開けたら、さらに地下に行く階段があったけど、暗くて先が見えなーい。
いやいや、目が慣れたら、横穴もみえてきたぞ? どこに続いてるんだ?
くらいでもいいと思います。

>誰もがわかりやすい構造のものを、

地下一階から屋上まではわかりやすいとか。
もしも、一般読者(わたしもです)が、地下二階には気づいても地下三階への階段に気づかなかったとしても、いやいや、地階があることすら気づかない人がいたとしても、あまり気にしなーい。
下読みさんとか、編集部の人とか、選考委員の先生方が気づけばいいのであります。

わたしはたまに新人賞の選評とかを読みますが、純文新人賞の選考委員の先生方は、地下三階の横穴があったほうが喜びそうな気がします。井戸もあって底が見えなかったりすると、さらによかったりして。
でも、井戸の存在に必然がないと、単に面白そうだから井戸を作っただけじゃないか、とか言われる危険もあるし、下読みさん辺りで単なる穴(ミス)と判断されたり。
下読みさんを通過していれば、単なる穴(ミス)ではないと思ってもらえた、ということになるかもしれないので、下読みさんのことを出しました。

そんなことは、別の作品では自然にやってるかもしれないけれど。
(わかりやすい作品も書いてみようかな、という話ですもんね。)

たびたび失礼しました。

はるか

 加茂ミイルさま

 ありがとうございます。

>おしゃれで文化的な香り

 小物、でしょうかね。キャメルの箱だとか、ターコイズが埋め込まれたジッポだとか。意識してなかったので参考になります。

>詩心を感じました。

 たぶん、リズムとか響きとか、そういうのを意識してるからかもしれません、嬉しいです、詩を書いたことは、大人になってからは、たぶんないのですが。私、ヘッセが好きなんですが、ヘッセは詩人でありますものね、詩を書けたらいいなあ。

>ちぐはぐな感じではなく、有機的に生き生きとつながりあって一つの作品を構成しているように思えました。

 つながり。これは深い意味をもって響きますね。配置、とか、模様、とか、と同じように。他との関り、ってことなのかもしれませんね、調和、みたいなこと、ハーモニー。有機的、というのも、いいですね、無理矢理じゃなくて自然な必然において、ってイメージで。そのように感じていただけるのも、加茂ミイルさんに、そのような感性があるからだと思われます。加茂ミイルさんの感性に照らされて拙作も、月に照らされた荒野みたいに輝けたような、そんな感じがして嬉しいです。

 以下は私信ですが、前回、加茂ミイルさんのコメントに触発されて、私、疾走文体みたいなのがひらめいたのでした。で、早速それ、試してみたら、つるつると書けちゃって、しかも読み直したら、私的には、ひじょーに、いいんです。なので公募に出すことにして、今、日々、推敲を重ねています。公募でどこまで通用するかわからないけど、新しい試みによる作品ができたのは加茂ミイルさんのお陰であります。心より、ありがとうございました。

はるか

 ナトホさま

 再び、ありがとうございます。

 地下三階、すごく深いですねえ(笑)。

 素人である私が感じるに、地上は意識化できる内容、地下一階は個人的無意識(村上春樹さんは、地下一階を、自我、というように捉えているようですが、私のイメージだと、自我はむしろ地上一階なのかな、とか、いえ、村上春樹さんにモノモウスだなんて、そんなつもりはないのですが)、で、地下二階は集合的無意識、とかそんな感じで。なので、地階は無意識なんで、意識では捉えられない、と、そんなふうに感じてるんですね。ただ、漂ってるっていうか、香ってるっていうか、そんな情報。
 そういうのって、よいと感じる読み手さんと、なんか思わせぶりでもやもやしてイヤ! と感じる読み手さんがいらっしゃるみたいで、ターゲット次第ってことかもしれませんね。
 で、おっしゃるとおりかもしれませんね、純文系の文学賞に送るなら、ターゲットは明らかに前者であるわけで、もぐら稼業に邁進することが吉かもしれませんね、やっぱり、地階を作れるように鍛練して行こうと思います。上手にこしらえるだけの力がまだないかもしれないけど、ちょっとずつ掘り進んで行きたいです。ありがとうございました。

ラピス

書こうか書くまいか迷ったのですが、はるかさんは懐が広そうなので書きます。

純文学を志向されているのですね。ですが書かれている内容は、どう見ても大衆もの、いわゆるエンタメです。
三作ともそう感じました。エンタメとしては面白い。けれど純文学にするには、もっと掘り下げないといけないと思います。そこのところ、いかがでしょうか?

加茂ミイル

>月に照らされた荒野

この表現好きです。自分もどこかで使ってみたいと思いました。

>疾走文体

それは駆け抜けるようなスピード感のある文体でしょうか?

はるか

 ラピスさま

 ありがとうございます。

 はるかさんは、懐が深くないし、心も広くないので、みっともないけど対峙します。

>どう見ても大衆もの、いわゆるエンタメです。

 そこまで断言できるなら教えてください。純文学と大衆文学とを、どのような線で、ラピスさんは区切られているのですか?

 古い話ですが、綿矢りささんが文藝賞を、確か十七歳でしたか、たぶん最年少で受賞されたあの作品、『インストール』でしたっけ? あれなんかは、ラピスさん的には大衆文学なんですか? あるいは、芥川賞を受賞した作品の中で一番売れてるのは、たぶん『限りなく透明に近いブルー』だと思うんですけど、あれなんかも大衆文学だったりしますか? 『テニスボーイの憂鬱』は? 『なんとなく、クリスタル』なんかはどうですか? ああいうのって、ラピスさんがいうところの「深く掘り下げた作品」なんでしょうか? 『太陽の季節』とか、あんなちゃらい話が芥川賞だなんておかしいって、元都知事に抗議しちゃいますか?

 ある編集者が言ってました。純文学と大衆文学とを分ける明確なラインなんてないよ、と。どの賞を獲ってデビューしたかによって、便宜的に分けられてるだけだよ、と。オール讀物新人賞を獲って作家になった人は大衆作家と呼ばれ、群像新人賞を獲って作家になった人は純文作家と呼ばれる、それだけのことだよ、と。村上春樹さんなんかも、文体がライトだし、ポップなメタファがおもしろおかしく登場するんで、あれは純文学じゃなくて大衆文学だ、とか泡飛ばしちゃう人たちもいるけど、春樹さんは群像出身だから純文学作家なんだよ、と。

 そういうことです。ラピスさんも、泡飛ばしちゃうくちですか?

>純文学にするには、もっと掘り下げないといけないと思います。そこのところ、いかがでしょうか?

 鍛練場には、四作品アップしたんですけど、一作目と二作目は地下二階まで掘りました。三作目も今作も、短いから、そんなにわからないかもしれないけど、地下一階までは掘ってると思いますよ?
 というか、読んでくださればわかると思うのですが、四作とも、無意識の意識化を表してる作品なので、地下を扱ってるに決まってるじゃないですか。
 地上階すら読まない読み手がたくさんいるのに、地下階なんて書いても意味ないよ、だなんて声も聞こえてきそうだけど、少なくとも自分のためにはなるし、地下階を読んでくださる一部の読み手さんのためにもなるし、なにより蝉のためになるから、私は掘ってますよ、ラピスさんが掘れてないっておっしゃっても、掘ってるんです。地上階的にはおもしろく、地下階的には味わい深く書いてるつもりです。どの階層を読むかは読み手さん次第だと思われますけど。だなんて、ラピスさんがわざわざ挑戦的なこと書いてくるから、こんなみっともない話になっちゃったじゃないですか。深い浅いが、純文学と大衆文学の違いじゃないので、掘ってるとか掘ってないとか、そんなこと話しても意味ないわけですが。

 で、ラピスさんのものさしって、何なのですか?

はるか

 加茂ミイルさま

 ありがとうございます。

>月に照らされた荒野 この表現好きです。自分もどこかで使ってみたいと思いました。

 汎用的な表現であるし、誰もが自由に使って構わない表現だと思いますが、それを、どのような文脈の中に配置して、何と関連付けるか、これは書き手次第でありましょう。今回私は、無意識に照らされた心象、くらいの意味で使用しました。

>疾走文体 それは駆け抜けるようなスピード感のある文体でしょうか?

 はい、そうです、読点を介してだらだらと続くセンテンスでありながら、走って、走って、跳ねて、走って、走りまくって角を曲がれず、転んで、しかしすぐに立って、ひと声叫んでまた走り出すような文体です。読み手はくたびれるかもしれません、でも、途中で休めない、走り続けるしかなくて、ずっと走ってると、それが気持ちよくなって、ランナーズハイになっちゃうような文体です。十七歳の女の子に語ってもらったら、すっごく痛快な話になりました。そこで使った文体、いつかはお披露目したいけど、しばらくはちょっと走れそうにないし、けちけちと技を温存したかったりもしてるんです、盗まれて、先に、それを世に問われちゃったらやだな、とか、そんなふうにも思ったり。ともあれ、加茂ミイルさんのお陰であります、ありがとうございました。

ラピス

そうですね。はるかさん、私は自分の価値観を押し付けてしまいました。申し訳ない。
私にとっての純文学とは太宰治や三島由紀夫や芥川龍之介や、そこら辺です。でも当時は彼らも大衆文学と言われていたのですよね。だから、私のは個人的な偏った意見でした。すみません。
偏りついでに言うと、はるかさんが挙げたプロ小説群は、私の中では純がつかない。強いて言えば、ただの文学です。ただし、純文学にしろ文学にしろ、プロの作品にはリアリティある人間が描かれています。

ここから先は私もひっくるめてなんですが、はるかさんのこれまで上げた作品はエンタメとしても、まだ未成熟です。
人物造形がラノベ的というか、漫画的というか、、、下手したら奇人変人大集合になりかけてます。

もちろん、個性的で面白いし、文章もこなれておられます。伸びていく人だと思います。だからこそ、感じたことを述べました。

私も素人ですし、間違った見方かも知れません。こういう意見もある程度に留めて、スルーして下さって構いません。

香川

読ませていただきました。
 
洗練された文章で、淀みなく、けれど流れすぎることなく要所要所に、おっ、となるような言葉が散りばめられていて、センスと技術がしっかり呼応しているように感じました。
冒頭についても、語り手の視線が道を眺めるのと同じように読み手側にも道がずっと先まで伸びているのが見えてきます。
そして、その先の傾いた陽が見えた瞬間、景色がさらに広がり、道が一本伸びるのみの砂っぽいアリゾナの大地がぱっと立ち上がってきます。
この点に関しては(というか全体の景色についても)いかにもという感じがしすぎな気がしますが、それでも書き手の方がイメージした画を、その立ち上がり方までそのままに読み手に伝える技術というのは、やはり素晴らしいなと思います。
当たり前のことを言いますが、私にはこうは書けません。
その後の、サボテンの棘の喩え、「親」「友達」と来て、いきなり想像を飛び越える「家庭裁判所の調停員」という具体的なワードを出して状況を一瞬で想起させる所なども、見事だと思います。
 
その他、描写や小道具の使い方、キャラクターの配置等も、とてもお上手です。
特に大きな月の使い方は、とても良くて、自身の曖昧な心を照らし出す、という以上のものがあったように思います。
大きな満月のイメージが、欠けていたものが満ちるような感覚を伴っていて、心の旅路の答えを見出す展開にぴったりだと感じました。

ただ、失礼なことを言うようですが、私にはすごく上手い方がサラッと書いた文章、という風に読めました。
よくある話をよくある展開でよくあるようにまとめた、という感じに(言葉を選ばずに書いていますすみません)。
だからか、語り手が夫と何かあり決別しようとしたけれど自身の心を見つめ直してもう一度やり直す決意をする、というその心の旅路に、そのキャラクターならではの特別な何かを感じることができませんでした。
よくある話だ、という以上のものを、私は見出すことが出来ませんでした。
それは私の方の問題もあるのだろうと思います。
でも、終盤で「別れようか? と夫は尋ねたのだ」とわざわざそれまで伏せていた事実を明らかにするというような書き方をするなら(「家庭裁判所の調停員」という言葉があればだいたい想像がつきますし、想像通りだったというだけではこういう勿体つけた書き方はマイナスだと思います)、もっとパーソナルな、語り手と夫ならではの、二人の間にしかないだろう特別な何かを提示してほしかったなと思いました。
そういうものがないと、なかなかキャラクターに寄り添って読むことは難しくなってしまう気がします。

デブとのっぽの警官の使い方、彼らに体を触られたりといった屈辱的(本人がそこまで思っているかは定かではありませんが)な経験をしても、彼らに支配などされないのだという所は、好きだなと思いました。
 
ありがとうございました。

u

はるか様 読みました。

文章は短いセンテンスの積み重ねで、乾いた感じ。舞台(アリゾナ)にマッチしている。
主人公女性なのですが、文は男性ぽいなーなんて感じた次第です。

内容なのですが、パトの警官が類型的に過ぎるように思いました。

あと、彼との別れ話の経緯・心情などが時折挟まれますが、これもあまり深刻さは感じられず、文体同様乾いた感じを受けました。
マア落ちが夕日ではなく朝日だったので、これでもいいのかも。

御健筆を

はるか

 ラピスさま

 再び、ありがとうございます。

>はるかさんのこれまで上げた作品はエンタメとしても、まだ未成熟です。人物造形がラノベ的というか、漫画的というか

・ラノベ=エンタメ。
・漫画=エンタメ。
 を、前提に、
・はるかさんの作品=ラノベであり漫画
・はるかさんの作品=エンタメとして未成熟
 って論理は、矛盾もはなはだしく、ラピスさんのご指摘は、論理的な意味内容を欠いていて、感情に基づくものであり、かつ、その感情は、おそらくは、作品に対するものの形をとったところの、書き手に対するものなのだろうなと感じました。ニュートラルじゃない。

 なにをもってエンタメを定義しているのか、さっぱりわからないし、なにをもって「未成熟です」と言い切れるのかも、さっぱりわからない。基準がなく、感情でただ言いたいことを断言しているだけのように思われます。それは批評じゃないし、読書感想文ですらないし、不毛なコメントであるなと感じます。

 純文学といったらこんなもの、エンタメといったらこんなもの、という思い込みがあり、その固定観念に縛られて、のびやかに作品を味わえていないのではないでしょうか?

 鍛練場にいて、何か学べてますか?

はるか

 香川さま

 ありがとうございます。

 類型的、ということなのだろうな、と思います、カキワリを立てて、役者を配置して、シナリオ通りに動かした、という感じだし、その意味で、葛藤もなく、対立もない、主人公はいたってクールだし、迷いを迷ってないし、煩いを煩っていない、人形のように、いくらか失感情的にアクセルを踏み、月と向かい合っただけ、そしたら、never、という言葉に辿り着きました、と。さらっと書き流された、かどうかは別として、ご指摘のとおり、表面的には、とことん類型的な話であるかもしれません。

>そのキャラクターならではの特別な何かを感じることができませんでした。

 おっしゃるとおりですね。語り手女性という人間を書いていない、むしろ、荒野と月とが主役のようです。

>よくある話だ、という以上のものを、私は見出すことが出来ませんでした。

 私、離婚経験者なのですが、そして、離婚の話し合いのさなか、アリゾナハイウェイを、連れ合いに運転していただいてですけれども、漠たる気分で走りました。そのとき、自分がなくなってるのを感じたのです。無意識は、激しく何かを演算してるみたいだったけど、意識の表面は非常に静かで、変な感じですが、あてどのなさに爽快感すら覚えていたような気がします。ちょっと乖離してたのでしょうね。私は、neverという答えには辿り着かず、車は東じゃなくて、西に進んだわけですけれど、それは紙一重で、もしもあのとき、満月が私の中を、くまなく照らし出していたら、あるいは私は、東へ向かっていたかもしれない、だなんて、思ったりもします。劇外のことを語りたくない、と思ってたんですけど、月の光に照らされたみたいに、無意識が発動して、ワタクシゴトを書いてしまいました。

>もっとパーソナルな、語り手と夫ならではの、二人の間にしかないだろう特別な何かを提示してほしかったなと思いました。

 まったくもっておっしゃるとおりですね、そこがないと物語にならない。事情や人情や感情を、すべて引き算してしまい、荒野と月とを書いてしまいました。芝刈りの絵を思い出す、と、一文だけ書いたのですが、それ以上は書きたくないと思ってしまったし、書かないほうがいい、とも思ってしまった。人間ドラマを排することで、乾いた荒野を照らす月を押し出して、そこに無意識を読む、というような配置を表現したかった、ような気もしますが、やはり人は、人にこそ寄り添えるわけで、月やら荒野やらに晒された孤独な存在には、事情も知らないのに寄り添えないよ、ってことかもしれません。

>そういうものがないと、なかなかキャラクターに寄り添って読むことは難しくなってしまう気がします。

 あ、まさしく、これですね。インディペンデントな在りかた、これは、寄り添いを拒絶する在りかたであってはいけないですね。まったくもって香川さんのご指摘の通りであります。

>デブとのっぽの警官の使い方、彼らに体を触られたりといった屈辱的(本人がそこまで思っているかは定かではありませんが)な経験をしても、彼らに支配などされないのだという所は、好きだなと思いました。

 はい、支配されないぞ、と頑張ってるわけでもなくて、眼中ないというか、自分の体が自分じゃないというか、むしろ触れ合いにいくらかの感謝さえしてるくらいで、だから、人間的なふとっちょの体温を、ちょうちょのように見送ったのだろうな、とか思います。パトカーは去ってゆき、また独りになっちゃうんですけど。インディペンデントって、つっぱることじゃなくて、受け入れることなんだな、とか思うのです。

 丁寧に読んでくださり、まっとうかつ、正確なご指摘をありがとうございました。人間の情を書く、人間の輪郭を描く、みたいなこと、意識してみたいと思います。私の書いたのは、意識の構造であって、意識が描き出す人間性ではなかった、ということを意識化できました。

 ありがとうございました。

はるか

 uさま

 ありがとうございます。

>主人公女性なのですが、文は男性ぽいなーなんて感じた次第です。

 今回のは、感覚と感情を禁じて、直観を研ぎ澄ますみたいにしてるので、つまり女性機能じゃなくて男性機能で紡いでるので、男性っぽい印象になってるのかもしれません。女性に名前も与えてませんしね、主人公は、たぶん、月なんじゃないかな、とか。月は女性ですね。自らの中からこぼれ落ちちゃった女性性に、男性的な荒野に埋没している語り手が照らされて、neverに辿り着いたんだと思います。

>内容なのですが、パトの警官が類型的に過ぎるように思いました。

 香川さまへの返信にもしたためたのですが、警官に限らず、とことん類型的であるように私も思います。地上階はモデルルームなんです。でも書き手的には、地下一階に隠し部屋があるわけです。

>あと、彼との別れ話の経緯・心情などが時折挟まれますが、これもあまり深刻さは感じられず、文体同様乾いた感じを受けました。

 はい、事情は書きませんでした。彼と彼女の事情は、また別の、そういう話で書くかもしれないけど、たぶん書かないと思います。あと、水分がないのが荒野だから、今回のやつには、事情書かなくて正解だったように思うのです。

>マア落ちが夕日ではなく朝日だったので、これでもいいのかも。

 アメリカンですからね、ハリウッドにバッドエンドはありえないですよね。

 ありがとうございました。

ラピス

私は漫画、ラノベ=エンタメとは思っておりません。ラノベはラノベの定義があります。これ以上は不毛なので、やめておきますが、一つだけ。

私はこのところ、鍛錬場であまり学ぶことはありません。下読みなら、選者ならどう判断するだろうと予測して、現実を助言しているだけです。
以前は趣味で書いていたのに、今は公募に応募する方が増えた為でもあります。

素人ですので意見は当然、間違いもあります。が、思った事を正直に書いています。感想の取捨選択は作者によります。

もう、はるかさんには関わりませんが、作者に対して感情的になっているわけではありません。至って冷静に考えた結果です。
香川さんのように具体的に書かなくて、言葉をオブラートに包めなくて、すみません。

はるか

 ラピスさま

 再び、ありがとうございます。

>私は漫画、ラノベ=エンタメとは思っておりません。

 漫画って、エンターテインメントじゃないのでしたか? 純文学かエンタメか、という二分化した話をラピスさんが振ってきたわけですから、漫画がエンタメじゃないとすると、漫画は純文学ってことになっちゃいますね、論理的に話を追うならば。ラピスさんは、雰囲気で語りすぎなんですよ、エンタメの定義も、純文学の定義もないままに、あなたのそれはエンタメです(ビシリ!)みたいなことを書かれているわけです。そして今度は、ラノベにはラノベの定義があります、とかおっしゃる。ラノベの編集者に訊いたって、ラノベの定義なんてまちまちでしょう? ググればそれっぽいことを独断している情報はいくらでもありますが、曖昧なものだと思いますよ、そんな曖昧なものさしで、あなたのそれは純文学ではありません、とか、エンタメです、とか、ラノベはラノベの定義があります、とか、ラピスさん角川にでもお勤めでいらっしゃいますか?

>鍛錬場であまり学ぶことはありません。下読みなら、選者ならどう判断するだろうと予測して、現実を助言しているだけです。

 なぜラピスさんが、下読みさんや選者の代わりになりうるのですか? しかも、想像で? 選考委員の先生だって、別に神さまではないだろうけれども、いちおう自分も賞を受賞して、プロとしてごはん食べてるわけです、こんな時代なんでお腹いっぱいごはんできてるかどうかは別にして。そのような方に、私は素人なので、とかのたまう無責任な立場にある方が、どうやってなりかわりうるのか? そんな意識で感想をつけていらっしゃるから、ラピスさんの感想は、根拠もないのにどこから目線? な感想になりがちなのだと私は感じていました、ラピスさんが他の方の作品につけていらっしゃる、かなりユニークな読み方の感想を拝読して。

>今は公募に応募する方が増えた為でもあります。

 サイトの管理人さんでいらっしゃいますか、もしかして?

>素人ですので意見は当然、間違いもあります。

 そう思うなら、そういう書き方をされたほうがブナンですよ。これはエンタメです、とか、これは未熟です、とか、断言しちゃってるじゃないですか、理由も示さず、根拠もなく。

>思った事を正直に書いています。感想の取捨選択は作者によります。

 ずいぶんと甘えたことをおっしゃる。

>作者に対して感情的になっているわけではありません。至って冷静に考えた結果です。

 では、何に対して感情的になったのですか? 何を冷静に考えたんですか? 

>香川さんのように具体的に書かなくて、言葉をオブラートに包めなくて、すみません。

 香川さんに失礼ですよ?
 感想は、相手にわかるように書きましょうよ、コミュニケーションの基本じゃないですか、作品はいいんですよ、表現されたものですから、わかる人もいれば、わからない人もいるでしょう。ただ、それでも、ここは鍛練場なので、私は、私の書いたものについて、求めがあれば、できうる限りの説明はします、作品がすべてなんで解説はいたしません、だなんて、プロでもないのにそんな勘違いな態度はとりません、書き手には、相応の説明責任があると思います、相互の鍛練の場なのだから。でも、ですよ、作品ですらそうなんですから、感想に関しては、それ以上に、きちんと、誠意を込めて、相手に伝わるように言葉を尽くすべきです。オブラートに包むか包まないかは、その人の美学でしょうからどちらでも構いませんが、断言するなら、その理由や、根拠を、わかりやすい日本語で相手にちゃんと伝えるべきです、そんな簡単な日本語操作もできない読み手が、小説なんて書けるわけないじゃないですか。感想を書くのだって自己鍛練だし、よそさまの作品に意見するわけですから、結果としては、まちがっていようが、とんちんかんであろうが、なんにせよ誠意と言葉を尽くすべきかと思われます。そういうのって、ルールというより、マナーというか、鍛練場じゃなくても、どこにおいても必要になるであろう礼儀じゃないですか。批評すべきだし、ときにはそれが酷評になるかもしれないでしょうが、言葉は尽くすべきだと思います、じゃなきゃ単なる嫌がらせになっちゃいます。思ったことや感じたことを、上手な言葉で、相手に伝わるように表現することを、せっかく鍛練場にいるなら、学ぼうではありませんか。近頃学ぶことがない、と言い切った上で、素人だから「選者になったつもりで正直に」書きたいこと書いて「さしあげる」という姿勢は、美しくないし、相互に有益でもないし、偽りの優越感で何やらを補償したいだけの身勝手な行為のように思われます。

 と、言葉を尽くして語るなら以上のように私は思いました、オブラートはお気に召さないようなので、中身だけ、お伝えいたします。

そうげん

日没直後だから、アリゾナの夜に昇ってきたのは満月(に近かった)でしょうか。日が暮れて夜になり、東から昇った満月は、あくる朝までのながい時間に星空の半球をぐるっとまわることでしょう。

車のダッシュボードには、夕日か朝日かはわからないけれども、一枚の絵ハガキが入っている。旅の途中に買い求めたのでしょうか。なんにせよ夫に返事を書かなくてはならないという義務感もあって買ったんだと思いました。あくまで導入は義務感に似たものに駆られて手に取ったのかなと感じました(のちにはこれが積極性を帯びて、返信を書いたように思えます)。

わたしが夕日(日没)にたいして思うのは、西に沈む。西は中国でいう白秋の方位、これから玄冬へと向かう、辛く厳しい時季へのとば口である。順路として死に向かう方向である。太陽の方を向いているから。

しかし日没とともに満月(に近い月)が東から昇る。暗くて冷たい夜の世界、砂漠だったらなおのこと寒さは堪えるかもしれない。訪れるにも季節を選ばなければならないくらいだろう。月が昇らなかったり、厚い雲に覆われていれば、真っ暗の砂漠は暗い海の底のようでもあったかもしれない。しかし彼女が車を走らせる夜は月明かりが励ましのように、彼女に光を送っている。

すでに地平のはるか向こうに没してしまった太陽を追いかけるように自分も西へ西へと向かってゆく。自分の心の奥底にあって、ふだんは正体をつかみづらいものをあきらかにするため、なんとかそこまで意識を届かせようとする。いわば自分自身との競争だったかもしれない。たぶん、村上さんの作品に出てくる、主人公がひんぱんに降りる井戸の底で出会うものと似ているのだろう。ふだん地平をうごめくわたしたち人間の活動を描くとき、井戸のような垂直方向でなく、砂漠と夜空の無味乾燥ななかに、動く天体、すでに見えなくなった日没後の太陽の仮想軌跡と、月の運行、やがて昇るはずのあくる日の朝日という平面の描き方は、実生活に基盤をおいている現代人のなまの生き方を示すように思いました。

そして主人公はいま、西にむけて失踪中。車のバックミラーで月を見ながら、西のまっくらな前方を見据える時の主人公の心の衝迫がなんとなくわかるように感じました。せかされて、かられて、何かが見えそうだけど、まだ見えない。夫のことを考える、もしかしたら警官からの肉体的接触がなければ、よるべのない一人として西へ西へとあるいは、西海岸からそのまま海に突っ込んでいったかもしれない。夫の芝刈りのことだったり、かつての思い出がよみがえるようになって東へと気持ちを向けたのには、たぶん、そんなつもりなんてまったくなかった警官の行動があったんじゃないかと思いました。

そしてわたしが朝日について思うこと。新しい一日のはじまり。東。新たなものの芽生え。春。青春。徐々に温かくなる上向きの気持ち。また朝日はこれから日が昇っていくから、じっと見ていると、目線が上へとあがっていく。日没は反対に下がっていく。上向きの気持ちを喚起するものがあるように思います。

村上さんが井戸(地下)、地上、太陽(天空)という、垂直でやったこと(「ねじまき鳥クロニクル」)を、この作品では車の進行方向(前方)と車内に座って運転する自分(定点)とバックミラーの反射(後方)という一直線上で書かれているのが面白いと感じました。

とてもシンプルなんだけど、そこに脇に生えている柱サボテンがあったり、モーテルがあるという希望であったり、そういうのもある。枚数に適した企みがしっかりされてありました。サボテンの棘は、ヤマアラシのジレンマみたいで、どきっとしました。エヴァンゲリオンでその言葉をはじめて知ったのですが。ブラッドピットの映画は、「Mr.&Mrs. スミス」ですか。ブラッドピットの作品は、「リバーランズスルーイット」や「セブン」、「セブンイヤーズインチベット」あたりの、ずいぶん以前の作品しか見てませんでした。最近の映画に疎いので、いまいろいろ借りて視るようにしています。

こんかいも読みどころがたっぷりでした。
ラノベはラノベレーベルで出ればラノベ、直木賞を獲れば一般文芸、芥川賞を輩出する雑誌(「文學界」「新潮」「群像」「文藝」「すばる」)の掲載作は純文学、それくらいのことでざっくり決まってると思います。『十二国記』が講談社X文庫ホワイトハート→講談社文庫→新潮文庫と刊行元をかえていってるのも面白い現象ですけどね。区切りとか区別は根拠をあきらかにしないかぎり、「その人の中ではそうなっている」にしかならないように思います。

ではありがとうございました!

はるか

 そうげんさま

 ありがとうございます。

>日没直後だから、アリゾナの夜に昇ってきたのは満月(に近かった)でしょうか。

 はい、満月、とは書いていないけど、私の中にあった絵は満月でした。来し方に、大きなおおきな満月。

 私、月を感情だと思いました。太陽は理性。劇中の彼女は、感情を切り離してしまっています。泣くでもなく、怒るでもなく、笑うでもなく。終わりにしようか? という質問への答えを、感情を切り離して、荒野に求めています。でも、そう、日が傾き、日がしずみ、背後から、感情がのぼって荒野を照らしたとき、荒野みたいにからっぽな彼女の心を照らしたとき、彼女は自らの中に、最初からあった、アイラブヒムを発見します。切り離していた感情が、好き、と、劇中には書かれていないけど、パーカッショニストが叩かなかった大事な音(マルシーみみずくは黄昏に飛びたつ)を、まちがいなく絶対的な気持ちを、照らしてくれたのでした。彼女は、答えを、発見したのです、考えついたのではなくて、無意識という、地平の下に沈んでいた、自分の気持ちに気がついたというわけです。そういう話と、私は読みました。

>車のダッシュボードには、夕日か朝日かはわからないけれども、一枚の絵ハガキが入っている。旅の途中に買い求めたのでしょうか。

 ついさっき道の脇の露天で買い求めた絵葉書、と、いったんは書いたのですが、リズムが悪かったかなにかして消した記憶があります、なくてもいい情報だし、まあいいか、とか思って。

 ともあれ、私の中には、路肩に車を停めて、埃っぽい大地に降り立ち、露天の店先で、太陽にやかれた絵葉書を、無表情でピックしてコインで買い求めた彼女の絵がありました。無心、なイメージでした。買うともなしに、無意識に、なんでか知らないけど、手が買っていた、というふうに、もう少し長い話にするなら、そんな描写をしていたように思います。絵葉書の絵が、サンライズでありサンセットではなかったことを、親指は上を向いていて下を向いていないのだということを、彼女の無意識は、すでに、知っていたのかもしれません、彼女の意識が知らなかっただけで。そして彼女が、地平下の気持ちを知るために必要だったことは、単に、夜を待つことだけでした、時を待つことだけでした。

>わたしが夕日(日没)にたいして思うのは、西に沈む。西は中国でいう白秋の方位、これから玄冬へと向かう、辛く厳しい時季へのとば口である。順路として死に向かう方向

 西、日がしずむ方向、東、日がのぼる方向。西は終わりを、東は始まりを示しているような気がしました。西に向かうこと=結婚生活の終わりを、東に向かうこと=結婚生活のやり直しを、というように、この話の中については私はそんなふうに思っていました。

 でも、この私は、西という方向、嫌いじゃないんです、朝日より夕日を美しく思うし。これから始まる光じゃなくて、これから終わる光。それも悪くはない。だって、本当は、終わらなきゃ始まらないんだから。終わっても、また始まるんだから、新しいことが。だから夕日は悲しくありません。夕日に向かって走ったからこそ彼女は背中に月を抱えることができたわけで、日がしずまなかったら、荒野を月が照らすこともなかった。だから、現実の私、西という方角が嫌いじゃないんです。南と西が好きです。

>砂漠だったらなおのこと寒さは堪えるかもしれない。

 日中の乾いた暑さ、夜間の冷たいまでの寒さ、そんな体感も、劇中の彼女には一切なかったようですね。でも、日中の汗や、日がしずんだ後に何かを羽織るような描きかたで、「外の」気温を描いたほうがよかったかもしれませんね。それに無頓着な彼女、が、より際立ったかもしれない。suggestionをありがとうございます。

>自分の心の奥底にあって、ふだんは正体をつかみづらいものをあきらかにするため、なんとかそこまで意識を届かせようとする。いわば自分自身との競争だったかもしれない。

 その読み方も素敵ですね、意志的で、dynamismみたいなのがあって。

 私は、彼女、からっぽなんだな、って読みました。何も感じられていないので、何も感じていない。でも、違うのかもしれない。感情こそは切り離していたけれど、日中の太陽に励まされて彼女の意志は、答えを探して、男性的に、dynamicに思考していたのかもしれない、でも、その思考は、感情を連れていなかったので、だから、アイラブヒムに気がつけなかった、ということもあるかもしれませんね。彼女、足掻いてはいなかった、と、私は読んでいたのですが、足掻いていたのかもしれない、男性的な、太陽的な側面で。でも、それじゃあ答えにたどり着けなかったんですね。しずんでいた答えをsalvageできなかった。

>たぶん、村上さんの作品に出てくる、主人公がひんぱんに降りる井戸の底で出会うものと似ているのだろう。

 村上春樹作品の主人公は、自らの意志で井戸に潜るのですよね、確か。あれ? ノルウェイの直子、でしたっけ、彼女は落ちちゃったんでしたっけ、井戸に、メタフォリカルな井戸に。男性は、女性よりも、たぶん、意志的な生き物だから、自ら潜るのかもしれません、回答を、取りにゆく。拙作劇中の彼女は、女性だからか、感情を失い、今は男性よりに傾いてこそいるけど女性だから、意志的に潜るのではなく、地平下にしずんでいた月がのぼるのを、ただ「受け入れた」ということなのかもしれません。回答を取りに無意識の海にdiveするんじゃなくて、回答が、時とともに、浮上してくるのを、ただ待ち、ただ受容し、照されて、染まったのだ、と、そんなふうに私は読みました。

 つづきます。

はるか

 そうげんさま

 つづきました。

>せかされて、かられて、何かが見えそうだけど、まだ見えない。夫のことを考える

 彼女を、端から、誰かが見てたら、あるいはそんなふうに見えるのかもしれませんね。わざわざ飛行機に乗ってアリゾナにまでやってきちゃったんだから、なにかにかられている、ように見えるに違いありません。でも、アリゾナに来ても彼女、モニュメントバレーを見物するでもなく、ローウェル天文台に立ち寄るでもなく(私はアリゾナ行ったとき、モニュメントバレーにのぼる月を撮影したし、冥王星を発見したローウェルにも立ち寄って大口径を覗かせてもらったりしました、メテオクレーターのふちをヤジロベエになって歩いたりもしたなあ)、ただただ一本道を走っているのが彼女です。彼女にwetなところは見当たりません。夫のこと、たぶんあんまり考えていないんじゃないかなあ。考えられない。考えてるのかもしれなけど、それを意識化できていない。かられたり、あせったり、そんな行動をしてるのかもしれないけど、意識において彼女は、荒野のように乾いてからっぽなんだろうなって、そこに悲しみはなく、解放感にも似たすがすがしさすら漂っていて、彼女、あるいは結婚生活から逃げたいのかもしれない、親や友達や調停委員の干渉から逃げてるつもりになってたけど、本当は彼女、うまくいかなくなった結婚生活から逃げたくて、だから西を、終わりを目指してアクセルを踏み続けていたのかもしれない。そんな彼女を追い掛けるように、背中から立ち上がってきたものが、アイラブヒムだったんだと思うのです。好きだ、という気持ちだけが、彼女を、煩わしい結婚生活に繋ぎ止めるんだと思うのです。無重力の荒野を疾走していた(失踪していた、も、面白いかもしれません)彼女は、好きだのひとつに繋がれて、また重力に引き戻される。東にユーターンして始まるのは、しんどい暮らしのやり直しです、にもかかわらず彼女が東に走ることにしたのは、気持ちが、neverだからに違いありません。勇敢だなあ、彼女。

>サボテンの棘は、ヤマアラシのジレンマみたいで、どきっとしました。エヴァンゲリオンでその言葉をはじめて知ったのですが。

 はい、ヤマアラシのジレンマをイメージして書いてました。彼は私を傷つけるけど、私も彼を傷つけるんです。

 ヤマアラシのジレンマ、エヴァに出てきてましたか、覚えてないです、私は、教養課程の心理学で、ヤマアラシに出会いました。わかるよう、って思いました。

>ブラッドピットの映画は、「Mr.&Mrs. スミス」ですか。

「Mr.&Mrs. スミス」、言いそうですよね、愛し合った二人が別れるのはどんなときか? に対して、neverとか。実生活ではあの夫婦、別れちゃいましたけど……。

 私が記憶してるのは、たぶんもっと古いやつで、メキシコの砂漠で拳銃を撃ち合うような話で、タイトルも筋も忘れちゃってるんですけど、ブラピが確か、言うんですよ、愛し合った二人が別れるのはどんなときか? の設問に対して、最後の最後に、neverって。たぶん言ったと思います、そんなふうに記憶してます。

 neverかあ、とか私なんて、尊敬しちゃいますね、そう言いきれる強さを。ともあれ、劇中の彼女は、自身の気持ちに応えて、月を受け入れ、やり直すことにしたみたいで、めでたしめでたしです、結婚生活はイバラノミチかもしれないけれども、別れたって、無重力非行(飛行でなくても面白いかもしれません)を楽しめるのはいっときですからね、そのあとは太陽に照されて乾き続けなきゃならない。月は必要です。ルナティックになるのもまた人生ですからね。私なんて、月が死にましたから、月を求めてますね、また、のぼってくる月を、時がやってくるのを。でも、月は、ちょっと怖い。劇中の彼女は賢明です、エールをおくりたい。

>純文学やエンタメの定義

 純文学かエンタメか、という区分けよりも、自我の葛藤を描くのか無意識の模様を描くのか、つまり地平線より上を描くのか地平線より下を描くのか、の区別に私はこだわりたい。

 人物が描けてる、とか人物が描けてない、とか、ずいぶんと昔から、よくそんなことを聞くけれど、多くの場合、人物を描くって、つまり自我の葛藤を描く、ってことと同義だったりする。夏目だとか、太宰だとか、三島だとか、そういう近代的な自我を描いた時代の作家を純文学者として捉えている古い感性は、いまだに自我の葛藤を描くことが深い文学だと思っていたりするのかもしれない。でも、欧米の文学の変遷を追ってもわかるように、時代はもはや、自我なんてものにフロンティアが残されていないことを知っている。ヘッセはユングの時代に生きて、実際にユングのお弟子さんに精神分析を受けていたようですが、ヘッセの作品は、音楽だし、模様だし、地下階を描いている、おおかみなんて特にそうですよね、ゴルトムントもそうだしクルヌプもそう、あれは物語であり詩であり、旧来の小説を超えそうな小説であるように感じます。ユングやフロイトが無意識を発見したときから、そうげんさんが書かれたような、垂直な方向にフロンティアを求める時代になっている。物語、というものが見直されてきているわけです。桃太郎も、浦島太郎も深い話だけど、自我なんてこれっぽっちも描かれていない。自我という意味での人間なんて描いていない。苦悩やら何やらを描いていない。描かれているのは、いくつかの階層に及ぶ模様です。私はそういうものを書きたい。だから掘り下げてるつもりなんだけど、近代作家の亡霊を信仰しているような方から見ると、自我の葛藤が描けてないから浅い、みたいなことになるようで、でも私は、そっちのほうが浅いよ、と思うわけです。人を描くのは当たり前、でも、人の何を描くのかで、浅い文学と深い文学とに分かれてくる。深いものが浅いものよりも、よりいっそう求められるか、っていうと、そんなことはないけど、神さまと対話したければ、深いところを書くしかないわけで、だから、自我の葛藤が描けてないから未熟だとか、純文学足り得ないだとか、そんな有害な言説は蹴散らして、私は私が深いと思うものを、純文学のつもりで書いていきたいと思います。そうげんさんもでしょう?

 ありがとうございました。

えんがわ

雰囲気が良いですねー。
アメリカのサボテンが描写されるけど、自分はそのバックにただっぴろい空と黄色い大地を想像しました。
その乾いた空気が、荒涼とした女の子の心情に、情景として映り、その渇きが、からっとした感じの明るさに変わるのも。うん、好きだな。

「」で閉じなかったのは、そうした字の文の風景の中に、口から出た言葉が溶けていくような、そういう感じは出ていたと思うんですが。
ただ、読みやすさという点では、ちょっとマイナスに働いたのか、読み疲れみたいなのを感じました。
そのプラスとマイナスの効果の、この難しさはあるよなー。うーん、今回はプラスの方が大きいと思うけど、そのちょっとコリみたいなものはウィークポイントにもなりうるような。うーん。わかんなくなってしまった。

でも、他に対向車もなく、前にも後ろにも車も他人もない道を、思うまま滑走していく気持ちよさ。
そういう癒し感覚みたいなものは。
車の運転とはめっちゃ相性が悪く、日本の狭い道を自転車な自分でもなんとなくわかるし、それながらも憧れるものなのです。
この作品自体にもそういうテイストがあって、気分が陽の方にリセットされて。
なんか良い時間を味わったな、って感覚でした。うん。

カリフラワーの存在価値について考える人

 自分探しの旅に出よう! といった幟を、堂々と店の前に置いている旅行代理店は、四半世紀の間、残念ながら、ついぞ見たことはないが、旅とは、畢竟、自分探しの行程そのものであるため、わざわざ同語反復の断りを入れる必要はないのだろう。なぜならば、人は対立軸の中に生きており、対立軸という名の大きな壁を足で蹴っ飛ばして、その反発力で宙を舞い、なんとか前に進んでいる。しかしその一方で、壁を蹴っ飛ばしたのと同じだけの反発力を、その体の中に及ぼすこととなる。やや迂遠な書き方になったが、旅に出るという外側での作用と、自分探しという内側での作用とは、対立する軸をこちらに設けるかあちらに設けるかの違い、或いは、作用か反作用かの違いでしかないのであろう。
 舞台はアメリカのアリゾナ州。文化も、風俗も、自然のスケール感もまったく異なる場所で、アメリカという軸を蹴っ飛ばして、ポンティアックを走らせる彼女が、アリゾナの大地で見たものははたして何であったろうか? スケベなでぶっちょ、そして、おそらくはむっつりであるがやっぱりスケベであろうのっぽ、というのはいささか品のない冗談としても、ところで、これは非常に瑣末なことなのだが、でぶっちょとのっぽというコンビもまた、対立軸として機能する(例えば、コメディアンのコンビを思い起こしていただけば分かることと思う)ものの定番であることは果たして偶然の符合なのだろうか? 話を戻そう。彼女が、アリゾナの大地で見たものは、西部開拓時代の精神性あらたかな文化でもなければ、圧倒的な迫力を誇るグランドキャニオンでもなく、インディペンデンスの象徴であるところの、ただ一つの大きな月であった。いつもと違う(ときっと彼女はそう思ったであろう〕月が、そこにただ存在していたのである。
 この出来事を転機に、ロードムービーの様相を呈していた物語は、この文脈で言えば、外の世界を旅をしていたはずの物語は、内側へと加速する。そして、終着点にて彼女は自身の内側の月に答えを求むるに至る。内側への加速がはじまってからの物語はどこか閉塞感があるように思える。しかし、彼女は堂々と次のように述懐する。どこまでも自由だ、と。外側の力と内側の力が一度つりあった場所、広大な大地のさる丘陵のてっぺんを抜けた先で、西に転ぶか? 東に転ぶか? は、さほど重要でない。そんなものは、サイコロでもふって決めればよいことである。(もちろん、ここでの選択が、彼女という個人にとって決定的に取り返しのつかないことなりうるということに注意が必要である。しかし、ここでより重要なのは、力がつりあってフリーになるこの事象の変曲点に、彼女が、到達したというまさのその事実である〕。はたして、彼女は東へと戻ってきた。これをハッピーエンドと見るか、バッドエンドと見るかは、意見が分かれるところだが、それはさておき、彼女はついに至ったのである。「自分」というインディペンデントな存在の在り処へと。論説がここに着地して、その結果、ひとつの結論が見出される。インディペンデンス・ハイウェイとは、すなわち、対立する二つの軸からの力の葛藤から不可避に現れる一つの平衡状態をなす第三の軸のことなのである。
 最後に感想を述べて筆を置くことにする。アリゾナという外の世界でのロードムービーがそのまま彼女の内面世界の合わせ鏡になっているのと同時に、物語の意識の流れは外側の世界から内側の世界へとフォーカスされるように流れており、けれども、やはり全体としてはどこかカメラ越しに描かれたような印象があり、メタな構造を感じさせるのだが、さておき、主人公にとって、おそらくは外側でも内側でもない元の場所(それが夫の元がどうかはneverに意味することによって変化するが、カメラの外であることは間違いないであろう)に帰っていくとう、すっきりと無駄なく流れて、着地するようにできているきれいな小説だったように思う。

はるか

 えんがわさま

 ありがとうございます。

 とても気づかされるコメントをちょうだいいたしました。

 明るさ、を読んでいただけたということ。

 台詞を「」に入れないやり方が及ぼす効果について。

 この二点、読み手が感じる印象として、書き手にとって非常にためになる、とてもありがたいコメントでありました。

>渇きが、からっとした感じの明るさに変わる

 そうなんですよね、明るさと軽さなんですよね、なんにもない荒野に香るものは、インディペンデントな明るさ、軽さ、のびやかな自由さ。
 うまくいかなくなった結婚生活の重さ、うまくいかないことへの外からの干渉、そういった不自由さから解放されて彼女は、からっと晴れたからっぽの中を走ります、はるかに続く一本道を走ります。この感じ、を感受していただけて、私も拙作の明るさと軽さに気がつけた次第です。
 明るさや軽さと相反する暗さや重さを彼女は宿しているわけですが、だって離婚調停中ですもんね、光は闇の中においてこそいっそう光なのでもありました。
 wetじゃない、とは思っていたけど、明るさ、とまでは意識化できていなかった。でも、おっしゃるとおり、明るさが表れてますね、まちがいなく。
 明るさ、軽さって自分の持ち味なのかも、って思っちゃいました。離婚を書いても、失恋を書いても、喪失を書いても、病を書いても、暴力を書いても、被虐を書いても、どこか妙に明るく、軽い、事態とは乖離した意識が描かれちゃうみたいです、実生活においてもそれは指摘されるのですが、妙なポジティブさがあるんですよ、圧倒的なネガティブのただ中においても。そういう特性があるのかも、だなんて意識化できました。

>「」で閉じなかったのは、読みやすさという点では、ちょっとマイナスに働いたのか、読み疲れみたいなのを感じました。

 このご指摘、初めて受けましたが、非常にためになります。そうでありましたか、地の文に台詞を溶け込ますの、疲れに結び付きますか。すべての台詞にそれをやっちゃうとマイナスなのかもしれませんね。どうしよう、公募用によけたやつ、もっと長いやつのその全編で、ひとつも「」を使っていない……。
 読点がゼロのプロ作家作品を初めて読んだとき、うわあ、読みづらいなあ、とか思ったのだけれど、そんな感じなのかもしれませんね。
 鍛練場に出した最初のやつは、一人称の私の台詞だけ「」をつけず、内的なモノローグと台詞の区別をわざと曖昧にして、他の登場人物の台詞は「」でくくっていたんです。そしたら、それ、わりと好評だったんで、ニ作目、三作目と続けるうち、よほど強調したい台詞以外は「」に入れない、というスタイルが身に付いてしまった……。そんな折りに、「読みづらいかも」とご指摘を受けて、はっとすることができました。
 分岐点ですね。目だったこの書き方を個性として洗練させてゆく方向にアクセルするか、引き返すか。
 勉強になりました。

>そのちょっとコリみたいなものはウィークポイントにもなりうるような。

 コリミタイナモノ。この響き、大事に鞄にしまいました。「」に入れることは強調のはずなのに、「」に入れることが小学教育以来のならわしになって浸透しているので、「」に入れないやり方は、むしろ悪目立ちしてしまい、コリミタイナモノとして感じられてしまう、このこと、強烈に意識化できました。盲点でした。

 気付かされるご感想を、ほんとうにありがとうございました。

はるか

 カリフラワーの存在価値について考える人さま

 ありがとうございます。

 対立軸。これですね。これ、私もいつも思います、生きることも、物語を進めることも、対立軸が力学的に推進力を生み出してるような気がします。右足と左足を交互に出すことで私たちは歩くことができるんだと思います。
 また、反発もモーションを維持する契機になりますね。対立しながら、ぶつかりながら、エネルギーを得てるんだと思います。
 それから、アウフヘーベンということも思いました。ご指摘のように対立を、外と中を擦り合わせることで彼女は、そして物語は、一段高いところで統合され、平衡を得ているわけですが、これはアウフヘーベンと呼ばれてしかるべきものなのでは、と私は思います。
 だなんて、十年後に開けたい、と思ってた箱が、もう開けられてしまいました。そうなんですよ、私がわかったふうに地下二階とか書いてた場所にある模様は、テーマみたいなものは、二極の対立とそれゆえの統合、すなわちアウフヘーベンなのでありました。私たちは存在するものすべてはあらゆる対立をアウフヘーベンしているのだと思うのです、それが生きることだし、存在することだと思うのです。というか、アウフヘーベンし続けないと、存在していられない。
 というような様を、ご指摘より、描きました。

>旅とは、畢竟、自分探しの行程そのものであるため、わざわざ同語反復の断りを入れる必要はないのだろう。なぜならば、人は対立軸の中に生きており、対立軸という名の大きな壁を足で蹴っ飛ばして、その反発力で宙を舞い、なんとか前に進んでいる。

 素晴らしい洞察ですね。深く首肯いたします。
 旅、書きやすいです。登場人物がじっとしてると私は比較的書きにくい。外的にせよ、内的にせよ、登場人物に旅をさせると話は展開してゆきやすいです。生きること即ち旅であるのかも知れないけれど。
 それから、蹴飛ばした壁からの反発力、これ推進力になり得ますよね、バランサーにもなる。他者や対象が必要な理由ですよね、存在するために。

>旅に出るという外側での作用と、自分探しという内側での作用とは、対立する軸をこちらに設けるかあちらに設けるかの違い、或いは、作用か反作用かの違いでしかないのであろう。

 そのとおりだと思われます。

>でぶっちょとのっぽというコンビもまた、対立軸として機能する(例えば、コメディアンのコンビを思い起こしていただけば分かることと思う)ものの定番であることは果たして偶然の符合なのだろうか?

 でこぼこツインズ、これ定番ですよね。相補性、みたいなものを表してるのかも。男女のカップルが相補的に機能してるみたいに。

>インディペンデンスの象徴であるところの、ただ一つの大きな月であった。いつもと違う(ときっと彼女はそう思ったであろう〕月が、そこにただ存在していたのである。

 素晴らしい。インディペンデンスの象徴としての月。そうですね。月はひとりぼっちで凛々と冴えていますもんね。しっくりきますね。

>この出来事を転機に、ロードムービーの様相を呈していた物語は、この文脈で言えば、外の世界を旅をしていたはずの物語は、内側へと加速する。

 素晴らしい! 転換、外から内への。ツボにささる深い針のようなご指摘ですね。

 つづきます。

はるか

 カリフラワーの存在価値について考える人さま

 つづきました。

>しかし、ここでより重要なのは、力がつりあってフリーになるこの事象の変曲点に、彼女が、到達したというまさのその事実である

 ほんとうに鮮やかなる言語化ですね、恐れ入ります。こうして、しっかりした言葉で様相を寸分の狂いもなく照らしていただけて、なお、しっくりくる、ということは、嬉しいかな、拙作に嘘がなかった、無理がなかった、ということの証左であり、だから私は拙作を、正しい模様が描かれた一片だと、胸をはって見送ることができるように思われます。我が子がちゃんと育っててくれたんだなあ、と実感する親みたいな気分です。

>これをハッピーエンドと見るか、バッドエンドと見るかは、意見が分かれるところだが

 いろいろとわかっていらっしゃるのですね。気持ちがいいです。

>彼女はついに至ったのである。「自分」というインディペンデントな存在の在り処へと。

 デザートのティラミスを食べたとこですよ。豊かな論説のデザートタイムまでしっかり味わえてきましたよ。

>インディペンデンス・ハイウェイとは、すなわち、対立する二つの軸からの力の葛藤から不可避に現れる一つの平衡状態をなす第三の軸のことなのである。

 鳥肌が立ちました。完璧ですね。もう、ほんとうに、そうとしかいいようがない。dynamismを読み取った上で結晶化してくださった、しかもかなり美しく。
 しかも、私が書きたいと思ってることを明確に図式化してみせてくださった。
 そうなんですよ、私がやりたいのは三角測量みたいなことで、AとBとの対立にCという角度をさすことで、AやBの位置を定位したいと思ってるんです。物語を紡ぐことで、やりたいと思ってたのは、とどのつまり、そういうことだったんですね。平面を垂直な方向に力学的に立ち上げたかった。アウフヘーベンです。
 それにしても、すごい直観力でありますね。感情や感覚だけではもちろんなく、思考にのみ頼っているわけでもなく、さらなる直観機能を駆使して模様を過たずに活写しちゃうんですね、鮮やかです。
 
>全体としてはどこかカメラ越しに描かれたような印象があり、メタな構造を感じさせる

 かゆいところをかきまくっちゃうようなご指摘ですね。

>おそらくは外側でも内側でもない元の場所(それが夫の元がどうかはneverに意味することによって変化するが、カメラの外であることは間違いないであろう)に帰っていく

 はい、エスプレッソを飲み干したところです。ごちそうさまです。完璧なるディナーでございました。シェフに、ありがとうございました、とお伝えしたいです。満たされてしまいました。

 ありがとうございました。

そうげん

純文学という単語が苦手になったのはいつからなんだろう、と考えると、そもそものはじめからそうだったと感じます。純文学という言葉を知った瞬間に嫌悪感に似たものをわたしは感じました。街を歩いていて、純喫茶という看板を通りで見つけたときの気恥ずかしさと似ています。自分で自分のことを「純」といってしまうところに、イタさがあると感じてしまったようです。

ただ小林秀雄が「純粋小説について」という評論を書いていて、そこでは、ジッドの『贋金づくり』を引き合いに出して、フランスにおける文学の潮流を説明していました。当時、日本では、ジッドを含め、純粋小説というものを、ある種誤解して導入したために、純文学という言葉が、日本独自の方向へ補強されてしまった。本来、映画であれば映画ならではの表現があり、演劇ならば映画独自の表現があるべきで、であるならば、小説は小説独自の表現をとりうるとすればいかなる形になるべきや、という問いかけであるはずだった純粋小説という言葉の存在意義が、この国――日本ではことのほかあいまいになってしまった。現在の純文学という言葉が、日本以外に、どの国の文学とも接続しづらいものになっている、携帯電話におこったようなガラパゴス化が日本の文学のなかで発生したのだと思います。

わたしは村上春樹さんや、大江健三郎さんのほか、古井由吉さん、山尾悠子さん、丸山健二さんの新刊が出ればチェックをします。それはその人たちの文学の中に、自分自身、ある種の可能性を観るからです。村上さんは語り口。大江さんには物語の奥行。古井さんには古典の素養をいまに生かす力、山尾さんには、現在進行形で進められる幻想文学の発展形を、丸山健二さんにはかれにしか扱い得ない言葉による細密な表現の粋な姿を、それぞれ観ています。現今の作家のなかで、平野啓一郎さんや、中村文則さん、西村賢太さん、千早茜さん、あたりの作品は気にしています。しかし40代前後、つまりわたしたちの世代の書くものに、心底、感銘を受けたことはありません。どれもうまく題材を扱うだけで、そこに心がこもっていない。広義にいって演技(ロール)をやっているにすぎないものしか感じられない。

わたしはこれほど深く苦しみ、悩んだんだということを、その底の方まで下りて行って、そのなかからどうにか表現をつかんで描くというのでなく、すでにフォーマットとしてある物語、小説的なものを借りてきて、うまくこしらえることで民心を得ている、それだけにすぎないごっこ遊びにしか見えません。わたしの年齢は高校卒業と同時にオウム事件が起こりました、阪神大震災もありました。バブルは崩壊して、これから落ち目に向かうはざまの年齢です。この年以降、コギャルや、ルーズソックス、アイドルや、オタク文化の方面へ日本の大衆の関心が舵を切ってゆきました。あるいみ、それまでに高校までの学習を終えていて幸運だったかもしれません。

さかきばらの事件のあったときは、フランスにいました。海外にいながら、これまで自分が暮らしていた日本がどういう国であったのか、どういう立場をとっているのか、それを見直すきっかけが形作られてゆきました。そしてそれまで自分が育ってきた日本が、不自由な面がたいへんに多いと同時に、とても優れた面もあって、是々非々で多くのことを判断することができるようになりました。

パソコン教育のはじまったのも、わたしたちが卒業してあとの年度からのことですし、IT以前と、IT以後の境目、さいごの年が、わたしの年齢だったと記憶しています。現在の年齢。同一年齢のなかで、ほんとうに自分の内部にためているものを、これこそ、と思える形で発信している人がわたしの見る中で皆無である。それがわたしが創作を志す動機のさいたるものです。

団塊ジュニアでありながら、上の世代と下の世代の中間項として、その接続的な、両者のバランサーとしての、衡平な表現をとっている創作物にわたしはまだ出会っていません。平野啓一郎さんの「決壊」も、中村文則さんの「教団X」も、ポーズにすぎない。第三者の立場にあまんじて、まったく自分の中に引き受ける責任というものが感じられない。当事者意識が希薄だと思っています。しかし横を観れば、そのようにわたっていく生き方をせざるを得ないのが、偏差値教育と、内申書制度によって教師の顔色をうかがうしかやりようのなかった、学生時代のなごりともいえるせせこましい精神性のなせるわざだと思います。いいこちゃんであるしかない。いまの文学界、そんなものばかりです。だから、純文学雑誌を読んでも不満だらけです。

わたしは純文学を書こうと思って書くのは、ばからしいと思っています。「純文学」という規定をうっすらとでも形作っている制度自体がばからしいし、そんなものは絵に描いた餅でしかないと思ってます。それよりは、トーマス・マンや、ロマンロランや、ドストエフスキーのように、ただ単純に、文学としかいいようのないものを、自分もそこに肉薄できるように、日々漸進していくしかないと思っています。

ただいまの自分がいわゆる世間に通用する「小説」という言葉にも疑いを抱いていて、むかしの、「大説」に対応する「小説」――つまり、書き手個人の手になる論説、という本来の意味のほうにこそ、この言葉を用いたいと思っています。そんなことをいっても、世間では通俗小説とか、SF小説とか、そんなふうな言葉の使い方をし続けることでしょう。そんななかにあって、自分にしかなしえない書きものとして、なんらかの表現を形にしてゆきたい。そのためなら、いわゆる物語でも、詩でも、評論でも、意見文でも、説明文でも、言葉であればどんなものでも利用して、表現するという目的を達したい。そういう動機が自分の中にあります。

永遠に習作の範疇を出なくても構わない、書きたいから書いている。
それでわたしは動いていこうと思っています。


>人を描くのは当たり前、でも、人の何を描くのかで、浅い文学と深い文学とに分かれてくる。深いものが浅いものよりも、よりいっそう求められるか、っていうと、そんなことはないけど、神さまと対話したければ、深いところを書くしかないわけで、だから、自我の葛藤が描けてないから未熟だとか、純文学足り得ないだとか、そんな有害な言説は蹴散らして、私は私が深いと思うものを、純文学のつもりで書いていきたいと思います。そうげんさんもでしょう?

はるかさんの問いかけにたいして、ちょっとざっくりすぎますけど、わたしの思っていることを書かせていただきました。こういうやりとりができるのは、わたしはとてもうれしいです。ありがとうございました!

そうげん

× 演劇ならば映画独自の表現があるべきで
〇 演劇ならば演劇独自の表現があるべきで

はるか

 そうげんさま

 ありがとうございます。

 そうげんさんも、そうでしょう? みたいに、私が安易に問い掛けてしまったからかもしれません、お手数をお掛け致しました、でも、安易な問い掛けをしたがために、そうげんさんの、真摯なる論説を読むことができて、なんだかラッキーだったりして。

>純文学という単語が苦手になったのはいつからなんだろう、と考えると、そもそものはじめからそうだったと感じます。純文学という言葉を知った瞬間に嫌悪感に似たものをわたしは感じました。街を歩いていて、純喫茶という看板を通りで見つけたときの気恥ずかしさと似ています。自分で自分のことを「純」といってしまうところに、イタさがあると感じてしまったようです。

 そうですね、純喫茶も、純文学も、純愛も、なんだか、純がついてないほかのが汚らわしいかのような名乗りかたで、なんだかな、という気もしますよね。

>日本では、ジッドを含め、純粋小説というものを、ある種誤解して導入したために、純文学という言葉が、日本独自の方向へ補強されてしまった。本来、映画であれば映画ならではの表現があり、演劇ならば演劇独自の表現があるべきで、であるならば、小説は小説独自の表現をとりうるとすればいかなる形になるべきや、という問いかけであるはずだった純粋小説という言葉の存在意義が、この国――日本ではことのほかあいまいになってしまった。

 小説は小説独自の表現をとりうるとすればいかなる形になるべきや って、よい問い掛けですね。
 私が思うに、小説は、文字の配置でありますから、本当に、それだけで構築されているものでありますから、文章、というものが、アルファにしてオメガなんだと思います。筋とか、テーマとか、展開とか、エピソードとか、台詞とか、ほかの、映像表現や身体表現にもある、あれこれ以前に、そしてあれこれを選び抜いたその後に、やはり、文章というものが、燦然と輝いていなくてはならない、と思います。
 言葉の配置が、意味を生み、リズムを生み、模様を描くわけですから、結局のところ、それがすべてであり、そして小説は、筋も、テーマも、展開も、キャラも、台詞も、なにもかも、文字の配置によって見せるわけですから、小説表現とは、まさに、テキストそのものなわけですね。文字の配置。いかなる形になるべきや、という問い掛けに、文字の配置をこの上なくよきものとすることなり、みたいに私は応えたいです。

>現在の純文学という言葉が、日本以外に、どの国の文学とも接続しづらいものになっている、携帯電話におこったようなガラパゴス化が日本の文学のなかで発生したのだと思います。

 そうでありましたか。

>40代前後、つまりわたしたちの世代の書くものに、心底、感銘を受けたことはありません。どれもうまく題材を扱うだけで、そこに心がこもっていない。

 心がこもっていない。『みみずくは黄昏に飛びたつ』の中で村上春樹さんが、一度無意識を通したあとの言葉は、表層的な意識のみにより並べられた言葉とは違った意味を持つ、的なことを書いておられました。

>これほど深く苦しみ、悩んだんだということを、その底の方まで下りて行って、そのなかからどうにか表現をつかんで描くというのでなく、すでにフォーマットとしてある物語、小説的なものを借りてきて、うまくこしらえることで民心を得ている、それだけにすぎないごっこ遊びにしか見えません。

 鋭く、厳しいご指摘でありますね。真摯に生きていないと真摯な言葉を綴れないのかも、とか感じました。

>さかきばらの事件のあったときは、フランスにいました。海外にいながら、これまで自分が暮らしていた日本がどういう国であったのか、どういう立場をとっているのか、それを見直すきっかけが形作られてゆきました。

 外からの視点。母国を外から眺めたのですね。

>同一年齢のなかで、ほんとうに自分の内部にためているものを、これこそ、と思える形で発信している人がわたしの見る中で皆無である。それがわたしが創作を志す動機のさいたるものです。

 そうでありましたか。

 つづきます。

はるか

 そうげんさま

 つづきました。

>自分の中に引き受ける責任というものが感じられない。当事者意識が希薄だと思っています。しかし横を観れば、そのようにわたっていく生き方をせざるを得ないのが、偏差値教育と、内申書制度によって教師の顔色をうかがうしかやりようのなかった、学生時代のなごりともいえるせせこましい精神性のなせるわざだと思います。いいこちゃんであるしかない。いまの文学界、そんなものばかりです。だから、純文学雑誌を読んでも不満だらけです。

 引き受ける責任。当事者意識。そうげんさんの新作を拝読して伝わってきたように感じています、そうげんさんの当事者意識。

>わたしは純文学を書こうと思って書くのは、ばからしいと思っています。「純文学」という規定をうっすらとでも形作っている制度自体がばからしいし、そんなものは絵に描いた餅でしかないと思ってます。それよりは、トーマス・マンや、ロマンロランや、ドストエフスキーのように、ただ単純に、文学としかいいようのないものを、自分もそこに肉薄できるように、日々漸進していくしかないと思っています。

 そうかもしれませんね。純文学という枠自体がいかがわしいわけですから、そこを目指す価値もない、かもしれない。ところで、ロマン・ロランいいですよね。『ジャン・クリストフ』的な香りを、そうげんさんの書かれるものに感じなくもありません。

>ただいまの自分がいわゆる世間に通用する「小説」という言葉にも疑いを抱いていて、むかしの、「大説」に対応する「小説」――つまり、書き手個人の手になる論説、という本来の意味のほうにこそ、この言葉を用いたいと思っています。

 そうでありましたか。小説、という枠自体に意味がないのかもしれませんね、あるいは。

>自分にしかなしえない書きものとして、なんらかの表現を形にしてゆきたい。

 それは、私も思うところであります。

>そのためなら、いわゆる物語でも、詩でも、評論でも、意見文でも、説明文でも、言葉であればどんなものでも利用して、表現するという目的を達したい。

 かくあらねばならない、という枠にとらわれずに、つまり、純文学であるとか純文学ではないとか、小説であるとか小説ではないとか、そういう固定観念に縛られずに、自由に、積極的に逸脱して、自分の究極をきわめたい、ということでありますね。

>永遠に習作の範疇を出なくても構わない、書きたいから書いている。
それでわたしは動いていこうと思っています。

 理解しました。選考委員や、編集者や、あるいは、さらに、読者のために書くのではなく、己のために、または蝉のために書くのですね。

>人を描くのは当たり前、でも、人の何を描くのかで、浅い文学と深い文学とに分かれてくる。深いものが浅いものよりも、よりいっそう求められるか、っていうと、そんなことはないけど、神さまと対話したければ、深いところを書くしかないわけで、だから、自我の葛藤が描けてないから未熟だとか、純文学足り得ないだとか、そんな有害な言説は蹴散らして、私は私が深いと思うものを、純文学のつもりで書いていきたいと思います。そうげんさんもでしょう?……という、私の、いくらか、上向きに何かを吐き出すような物言いに対して、真摯なる思いを語ってくださってありがとうございました。

 書くこと、って何なんですかね。私は、自己を立ち上げるための探索の一方便であるように捉えています。内的だったり、外的だったりする模様を、過たず、重層的に配置して、それを鏡にして、この自己の位置を定位したいんだと思います。言ってしまえば、生きること、と同義であり、存在すること、と同義であります。だから、売文業者になりたいわけでは、私もないです。評価を求めて書くのではない。探求の一方便として、そのように生きるのであります、作家的に、たぶん。

 熱いのの交換ができて嬉しいです、ありがとうございました。

瀬尾 りん

技術的な事はわからないので、内容だけの感想でごめんなさい。
このお話すごく好きです。めっちゃ荒野ですよね!つよい感じがまた好きです。私のことは私が決めたる、みたいなとにかくつよい!感じで。
読みながらカサカサの肌を撫でてる気分になりました。でもそれって悪くなくて、どこかいじらしいんですよね。私は彼女の気持ちわかるなって、一方通行かもしれないけどそう感じました。作者様の意図とは違うかもしれないけど、私この二人はきっと上手くいかないと思う。でも、きっと「私」は荒野での選択に後悔は微塵も抱かないと思う。それってすごく素敵じゃないかって、そう感じます。
なんか羨ましくなってしまいました。

千才森 万葉

 2面『私の答え(インディペンデンス・ハイウェイ)』へお邪魔します。

 んー。
 詩として読むのか、小説として読むのか。
 わたしは数ヶ月前から現代詩のサイトにお邪魔させてもらっているのですが、そこで詩と小説の読み方の違いにぶつかり、めちゃくちゃ驚きました。詩の読者って、作者の考えまで読み取ろうと作品を深読みするんですよね。
 小説は、書かれている文章をそのまま読み込んでいくのが一般的だと思うのですよ。もちろん、深読みする方もいるでしょうけども。
 そして御作、わたしは詩の要素を含んでいるな~と感じながら、小説として読ませてもらったのですが。
 わたしには合わなかったかもしれません。すいません。

 好意的な評が並んでいるので、書きにくいのですが、まあ、鍛錬上なので。
 すみません、辛口です。

 情報が少なすぎるのと、文章と情景と行動が噛み合っていないような気がします。
 主人公の女性の心理状態が掴めなかったんですよ。この主人公なら次はこんな動きになるだろうという予想が外れるんです。単身アメリカに渡れるほどの行動力と度胸を兼ね備えているのに、交通違反の罰金程度と引き替えに無抵抗のまま見ず知らずの男に好き放題胸を揉ませちゃうし、乾燥している語りが情の薄さを演出しているのに、最後はほとんど予備動作も無いまま急に幸福を感じて帰ることを選択する。主人公の中には、元々帰りたい考えがあったのかもしれませんけど読者が知るよしも無いですし、トゲや傷つくといったネガティブな単語が並んでいましたから、てっきり別れるものだと思ってしまい、最後は『え!?』っとなりました。

 んー、とひっかかったのが、別れ話を切り出したのは男性の方だったって事なんですよ。わたしは主人公のことも恭介さんの事も全然知らないので、書かれていることから想像するしかできないのですが、別れ話に至る経緯や二人の感情が書かれていないので想像のしようがないんですよね。すごく単純に考えれば、恭介さんから話を切り出しているわけですから、一緒に居るのが嫌になったんじゃ無いかなと、そうとも思えるのです。『七年間のすべてをリセットしようか』なんて、慎重に言葉を選んで本音をオブラートに包んだ表現とも受け取れますし。
 主人公は相手をほっぽったまま、アメリカに傷心旅行に行って、ハイウェイを飛ばしてすっきりしたから帰ってくるのかもしれないですけど、恭介さんの方は毎回そんな感じで振り回されることに嫌気が差しているのかも。とか。
 感情の推移がほとんど書かれていないせいか、すごく気まぐれな女性って印象を受けました。その場の勢いで物事を選択しちゃうタイプ。自由と言えば聞こえは良いですけど……

 何度か読み返すと、すれ違ってるだけの幸せな二人の絵も浮かんできます。きっと作者さんもそういう未来を想像しながら書いたんだとは思います。ただ、さらっと読んでしまうと、どうとでも読み取れてしまう。恭介さんがため息をつきながら独りきりの部屋でどこかへ消えた嫁の安否の心配をしている、そんな風に読者が恭介さんに同情してしまえば、その想像を覆すすべが作中に無いので、作者さんの思惑とは全く違う小説になってしまいます。
 情報を伏せることの弊害ですね。
 
 単語や名詞そのものが備えている色や形、イメージから世界観を作り出して、その景色を味わう人にとっては、ヒットする作品だと思います。もちろんそういう方々も多くいらっしゃるでしょう。
 ただ、わたしは情を読むタイプでして。書かれていないと、想像が膨らんでしまうのです。そんなわけで、今作は多分合わなかったんでしょう。

 まあ、わたしならこう読むという感想でした。本当に邪魔しに来ただけになりましたね(笑)
 適当に読み流してください。では。

はるか

 瀬尾 りんさま

 ありがとうございます。

 気がつかずにいて返信が遅れてしまいました、すみませんでした。

>めっちゃ荒野ですよね!つよい感じがまた好きです。私のことは私が決めたる、みたいなとにかくつよい!感じで。

 自立。独りで立つことは大変ですね。離婚と直面して彼女は初めて自分の足で立てたのかもしれません。そして自立してこそ愛せるのでありますね。他者を。夫を。

>私この二人はきっと上手くいかないと思う。でも、きっと「私」は荒野での選択に後悔は微塵も抱かないと思う。それってすごく素敵じゃないかって、そう感じます。

 地上での結果がいかなるものであれ、地平線下の月が担保してくれた模様は彼女を彼女の真ん中にいざなうことでありましょう。後悔しない。ご指摘のとおりであるかと思われます。彼女の旅はたぶん、帰国してからも続くけれども、そして向かうべき方角は変わるかもしれないけれども、でも彼女の道はいつだって一本道で、もう迷うことはない、って彼女は感じてるし、二本の足がそれを支えてくれてるように思われます。

 ご感想をありがとうございました。

はるか

 千才森 万葉さま

 ありがとうございます。

>詩として読むのか、小説として読むのか。

 どちらも表現でありますから、表現として、私は、例えばヘッセを読みますね、ヘッセの作品は詩であり、かつ小説でありますし。

>詩の読者って、作者の考えまで読み取ろうと作品を深読みするんですよね。

 小説の読者だって、そうでありましょう?
 論説や、納税督促状なんかじゃないのだから、読み手は、テキストに、自らを映して読むんじゃないかと私は思うし、それは詩に限らず、絵でも、書でも、歌でも、写真でも、あるいは恋する相手の在り方でも、同じでありましょう?

>小説は、書かれている文章をそのまま読み込んでいくのが一般的だと思うのですよ。

 それじゃあ小説がもったいない、と、私なんかは思いますね。行政文書すらだに最近は「解釈されてる」みたいで、それはcrazyなことだと感じますが、小説は、書かれてないことも表していますから、当然に深読みされてしかるべき表現であるかと思われます。

>御作、わたしは詩の要素を含んでいるな~と感じながら、小説として読ませてもらったのですが。わたしには合わなかったかもしれません。すいません。

 小説というものの定義がよくわからないし、小説というものの懐は深いですから、poemを含む表現を「小説として読む」という意味がよくわからなかったのですが、読み手さまには「合わなかった」とのご感想、ありがとうございます、参考になります。

>情報が少なすぎる

 例えば短歌、五七五七七の世界、あれは、少なすぎる情報の中に、豊かな意味を表す試みであると思われます。自然界もそうですね、空も、海も、何も語っていない、その意味で言語的な情報はゼロですけれども、自然が表しているものは絶対的な広さと奥行きを有しています。それは蝉の声を聴けばわかります。だから、表現も、情報量に比例して豊かになってゆくのでは断じてありません。八百頁の行政文書が豊かな表現であるとは私はまったく思わないわけです。伝達と表現は異なります。表現は、特に日本人の表現は、引き算により成り立っていると思うし、あるいはフランス人の表現もブランクによって成り立っているように私は思います。過剰は表現を蝕むように感じられます。なので、表現において、「情報が少なすぎる」というのは辛口の批評足り得ない、と私は思います。むしろ、好評であるかと、その部分に関してのみ言えば。

>文章と情景と行動が噛み合っていないような気がします。

 これは、酷評でありますね。模様に嘘がある、というご指摘でありますから、事は重大であります。

>主人公の女性の心理状態が掴めなかったんですよ。この主人公なら次はこんな動きになるだろうという予想が外れるんです。

 表層の模様と、地平線下の模様が異なっている、ということではないでしょうか?
 違う意味なら、大問題ですね。

>単身アメリカに渡れるほどの行動力と度胸を兼ね備えているのに、

 離婚に直面した女なら、そのくらいのこと、しちゃうし、できちゃうような気がします、人にもよるのでしょうけれど、彼女はできちゃうんですね。

>交通違反の罰金程度と引き替えに無抵抗のまま見ず知らずの男に好き放題胸を揉ませちゃうし、

 引きかえに揉ませた、なんて書かれていないし、抵抗しなかったのは、当たり前だけど、反則金が惜しかったからではないと思いますよ。好き放題揉ませてる、って、そんなふうに書かれていないし、離婚に直面して彼女は感情を見失っているので、胸を触られるくらいなんでもないし、むしろ、そこにあたたかさみたいな、相手がhumorousなでぶっちょさんだったからこそだけど、そんな救いみたいなものさえ感じていて、だから彼の白手袋をちょうちょみたいに見送るんですよ、私はそう読みます。というか、そう表せてると思うのですが、そう読めないでしょうか。反則金を節約するために屈辱に甘んじている、と読むなら確かに、単身でアリゾナを行く女性らしからぬ行動ってことになるでしょうね、それはもう間違いなく。

>乾燥している語りが情の薄さを演出しているのに

 情の薄さ、という言葉は適切な言葉じゃないと思われます。情の薄さ、というと、それは、人格の恒常的な偏り、特性であるように響きますが、彼女が陥っているのは、一時的な「失感情」でありますから、彼女は、情の薄い女性なんじゃなくて、一時的に感情を見失っている女性なのです。

 つづきます。

はるか

 千才森 万葉さま

 つづきました。

>最後はほとんど予備動作も無いまま急に幸福を感じて帰ることを選択する。

 急に幸福を感じて? いるのでしょうか、彼女が。どのあたりの言葉にそのような表れをお読みになられたのでありましょうか?
 急に、も何も、彼女の無意識は、はなから変化していません。月は最初から地平線下に存在していました。単にのぼってきただけです。彼女の無意識がのぼってきて、それを彼女が意識化したように。彼女は時を待っただけです。待ったら月がのぼったのです。そしたら気がついたのです、月明かりに照らされた荒野の模様に、自らの無意識に、問いへの答えに。そのように書いてあるし、そのように言葉は配置されている、と、私には感じられるのですが、感じられませんか?

>主人公の中には、元々帰りたい考えがあったのかもしれませんけど読者が知るよしも無いですし

 読者も知らないし、彼女も知りません、彼女の無意識を。読者も彼女も、読み進めてのち気がつくわけです、彼女の無意識に。だから、読者が知るよしもないのは当然ですし、最初から、帰りたい、とか、回答が明示してある物語を読む意味なんて読者にはありません、物語は、行政文書ではありませんから、冒頭に結論を置き、それから徐にその根拠を開示して行く、という作法に則るべきでもないはずです。表現は伝達ではないのです。

>トゲや傷つくといったネガティブな単語が並んでいましたから、てっきり別れるものだと思ってしまい、最後は『え!?』っとなりました。

 ヤマアラシのジレンマは、痛いけれどもギュッとしたい、ネガティブでありかつポジティブであるからこそジレンマなのです、葛藤なのです、対立し、背反するものの同時出しです、右手でチョキを、左手でパーを出すのです、それが奥行きであり、深みであり、見渡せば、自然界も、対人関係も、私たちの心の内部構造も、そのような矛盾により成り立っています。禅の表すところであります。そのような両義性を、頭で無理矢理ねじ曲げて、一義的なものに閣議決定してしまうようなやり方は誤魔化しであり芸術表現足り得ません、わかりやすく簡易化し得ないものが表現です、言葉はできるだけ易しく噛み砕いて表現したいと私は考えていますが、表現そのものを簡易化することは誤魔化しであり、嘘つきでありますので、それはできません。蝉の声はあくまでそのまんま蝉の声なのであります。単純化もできないし翻訳もできません。私たちが表そうとしているのは、そういった本当のホンモノであり、読みざわりのよいハリボテではないはずです。難解な言葉によりかえって表現そのものを簡易化するようなテキストは行政に書かせておけばよい、と私は思います。

>んー、とひっかかったのが、別れ話を切り出したのは男性の方だったって事なんですよ。

 そのあたり、明示されてない、はずなんですが。別れって、どちらかが一方的に求めるものじゃないようにも思うし。

>わたしは主人公のことも恭介さんの事も全然知らないので

 私も知りません。知る必要もありません。

>書かれていることから想像するしかできないのですが

 私もそうです。

>別れ話に至る経緯や二人の感情が書かれていないので想像のしようがないんですよね

 そんなものを書く必要があるのは、裁判所に提出する調停証書かなんかにであって、小説には書いてもいいし、書かなくてもいいはずです。読み手には通常、想像力というものがありますから、書かれていない部分については、読み手が、自由に想像して、創造すればよいわけです、繰り返しになりますが、表現は、行政文書じゃないので、事実を羅列して情報を一義的に定位する必要なんてないし、しちゃったら、そんな薄っぺらな皮みたいなテキスト、美味しくもなんともないし、深みもないから味わいもないでしょう、そう思います。

 つづきます。

はるか

 千才森 万葉さま

 つづきました。

>恭介さんから話を切り出しているわけですから

 そうなんですか?

>一緒に居るのが嫌になったんじゃ無いかなと

 人が別れる、というのは、そんな単純なことじゃないと私は感じますが、そのあたりを、どう感じようと、それは読み手さんの自由でありますね。

>『七年間のすべてをリセットしようか』なんて、慎重に言葉を選んで本音をオブラートに包んだ表現とも受け取れます

 それも、読み手さんの自由でありますね。読み手さんは、作品に読み手さん自身を映すのでありましょう。

>主人公は相手をほっぽったまま、アメリカに傷心旅行に行って、ハイウェイを飛ばしてすっきりしたから帰ってくるのかもしれないですけど、恭介さんの方は毎回そんな感じで振り回されることに嫌気が差しているのかも

 彼女を、ずいぶんと嫌っておられるようですが、それも読み手さんの自由であります、たとえそれが、思い込みに基づく妄想、ないしは、書かれている事実の捏造に基づく空想であったとしても。

>感情の推移がほとんど書かれていないせいか、すごく気まぐれな女性って印象を受けました。

 書かれていないのに、気まぐれ、と判じてしまう、ということは、読み手さんの中にいらっしゃるのかもしれませんね、その気まぐれな女性が。

>その場の勢いで物事を選択しちゃうタイプ。自由と言えば聞こえは良いですけど……

 よくそこまで想像できますね、想像も、創造も読み手の自由でありますから、ご自由に、それを、味わってください。

>何度か読み返すと、すれ違ってるだけの幸せな二人の絵も浮かんできます。きっと作者さんもそういう未来を想像しながら書いたんだとは思います。

 違いますよ。

>ただ、さらっと読んでしまうと、どうとでも読み取れてしまう。

 表現でありますから、読み手次第で、読まれ方も変わります、行政文書じゃないので。

>恭介さんがため息をつきながら独りきりの部屋でどこかへ消えた嫁の安否の心配をしている、そんな風に読者が恭介さんに同情してしまえば、その想像を覆すすべが作中に無いので、作者さんの思惑とは全く違う小説になってしまいます。

 私の意図がどうしてわかるのかは、わかりませんが、読み手さんは、読み手さんにふさわしい物語を、この作品の中に見いだせばそれでよいかと思われます。

>情報を伏せることの弊害ですね。

 私は、そうは思いません。政治家が情報を伏せるのとは筋が異なります。
 
>単語や名詞そのものが備えている色や形、イメージから世界観を作り出して、その景色を味わう人にとっては、ヒットする作品だと思います。もちろんそういう方々も多くいらっしゃるでしょう。

 それだけでも大変にありがたいことですし、表した意味があったと感じます。

>ただ、わたしは情を読むタイプでして。書かれていないと、想像が膨らんでしまうのです。そんなわけで、今作は多分合わなかったんでしょう。

 情とは、インフォーメイションのことでしょうか、それともエモーションのことでしょうか、文脈的にはどちらともとれるので、あるいは掛け詞でありましょうか、ともあれ、失感情もまた情を表しますし、情報は引き算されることによりても意味の輪郭をより明確にもいたしますし、情なるものの扱いは、作品ごとに使い分けたい、と私は考えます。読み手さまに、合わなかった、とのご感想は、ありがとうございます、真摯に受け止めたいと思います。作家性みたいなものを削ってまで情なるものを特筆せんとは思いませんが、次回は情なるものに比重を置いたものを書いてみるなどして鍛練に励んでみたいと思いました。モチベーションを与えてくださって、ありがとうございます。

>適当に読み流してください。では。

 とてもじゃないけど、読み流したりはできません。このような指摘があったことを、政治家じゃないけど、真摯に受け止め、今後の筆に活かしたいと考えます。ありがとうございました。

千才森 万葉

 一回だけ、再訪させてもらいます。何度も伺ったり補足説明を入れるのは、好きじゃ無いんですよ。言葉が通じなかったというのはこちらの文章力不足の表れですから、それは受け入れなければと考えます。一回で文章が通じなかったら文章が悪かったのだと諦めるタイプです。

 とはいえ、色々お返事を戴いたのでちょっとだけ。
 細々した質問等はスルーさせてもらいます。いえね、正直、作者さんの解説を受けてから読み直すのは、小説としてどうなのかとも思うんですよ。販売している本の売り場に作者が居るなんて事はないですから。うーん、場合にもよりますけども、今回は読み返しません。4、5回は読んだので。

 んと、です。伺っておきたい事が何点かありまして。
 はるかさんは何を狙って書かれていますか?
 はるかさんの作品、直近の3作品ですけども、現状の日本で出版されている一般小説のくくりから見れば、出版社からは好まれない手法が用いられている、と見ています。海外文学がどうなのかは存じませんが、日本の文学賞を狙うなら使用を控えた方がいい書き方です。選考では、おそらく早い段階で弾かれてしまう。今は、ですが。将来どうなるかはわかりませんけども。
 一方で、最近お邪魔している詩のサイトでは好評価されそうな作品です。特に『ラップランドに降る雪は』に関しては、現代詩では受けがよさそう。詩を嗜まれる方には、大いに刺さる作品でしょう。わたしは好きな作品です。
 でも、小説しか読んでいない方には、恐らく『読めない』、『全く意味がわからない』と仰る人も多くいらっしゃることでしょう。3年前のわたしなら、意味がわかりませんでした、と書いていたかもしれません。

 なぜ、こうも厳しく書くかと言いますと。どうも、作者さんが、読者を選ぶ作品を書いていることを自覚していらっしゃらないんじゃないかなと思いまして。今の作風を書き続けるなら、批判は多く頂戴する羽目になるでしょう。その方々は、いくら補足説明を書いたところで、受け入れられないと答えるかと思います。特に、受賞を狙っている方々からすれば。
 海外作品に詳しくはないですが、詩情をメインにおいた作風を日本の文学賞に持って行ったところで、恐らく受賞は難しいと思います。よほど文章を巧みに操る技術が無いと無理です。現状では。村上春樹さんの作風とて、皆に好まれているわけでもなく、一部の熱狂的なファンからの支持が多いと聞いています。実際、作風・文章が肌に合わないと言う方も少なからずいらっしゃることですし。
 いずれにせよ、直近の作者さんの作品は万人受けする作風・文章ではないんですよ。なので、合わない方も多いでしょうし、賞を目指して鍛錬されている方から見れば、(受賞の目が無い作風だから)これじゃダメだ、と仰ることでしょう。本人の好き嫌い、面白い面白くないとかは関係なく、受賞できないからダメだと。一般向受けする文章じゃないからダメだと。出版社からしても、万人受けしない作品を受賞させたところで、旨味がないですし。新興の出版社・投稿サイトなら話は変わりますけど。
 一応、ここは鍛錬場ですし、文学賞狙いの方も多くいらっしゃる様子。

 ニッチな作風に手を出しているんだという自覚があるのであれば、全く問題ないのです。それでしたら、「こいつ変な事言い出したぞ、頭は大丈夫か?」と読み流してください。スルースキルは大事です、大事です。
 正直、言動を見ていて危なっかしいんですよね。読者さんとのコメントがすれ違っているのをみるに、恐らく、作者さんと一部の読者さんの、一般小説に対する認識が大きくズレているように見えますし。その認識に気が付かない限り、問答は平行線を辿るでしょう。
  
 ちなみに。
 わたしは文学賞などなどはあまり視野に入れていなくて、詩と小説を組み合わせた新しい分野を自分で切り開こうと考えています。当然ですが、皆さんに馴染みの無い作風ですから批判も来るでしょうし、読めないという感想も戴くことでしょう。てか、批判的な感想の割合が多くて当たり前のはずです。ただ、上手く折り合いを付けたい、そのギリギリを探るために持ってきています。
 そこらへんの指摘は覚悟の上で、この鍛錬場に持ってきています。
 わたしの作品ほど、ちんぷんかんぷんでは無いにしても、はるかさんの直近三作品はかなり読者をふるいに掛ける作品です。

 それだけ、伝えたかったのです。
 失礼しました。
 質問しておいて何ですが、返信は無理には結構です。

(個人的には、新しい形を持った小説が現れる流れは喜ばしいことです。開拓者は苦労するでしょうけども。)

はるか

 千才森 万葉さま

 再び、ありがとうございます。

 慇懃な姿勢の中にある〈含みを含めて〉残さず伝わっておりますよ、おっしゃっておられることの内容も、そうおっしゃられる意図、あるいは感想者さまが意識化できていない、かもしれない意図も、掌にのせることができそうなくらいに、くっきり伝わっております。

>言葉が通じなかったというのはこちらの文章力不足の表れですから、それは受け入れなければと考えます。

 伝達はそうですよね、表現は違いますが。そう書きましたね、私、すでに。聞き手の粗相は言い手の粗相、これは用事伝達においてのみ成り立つセオリーであります。表現は、行政文書じゃありませんし、感想欄における感想でもありません。感想文は表現じゃなくて伝達でありますから、これは正確に伝わらないといけませんね、表現と違って。そして返信もまた伝達です。なので以下言葉を尽くそうと思います。

>いえね、正直、作者さんの解説を受けてから読み直すのは、小説としてどうなのかとも思うんですよ。

 ずいぶんとまた、都合よくねじりあげた認識でいらっしゃいますね。解説は、鍛練場だからしてるだけですよ、もちろん。だから、

>販売している本の売り場に作者が居るなんて事はないですから。

 このセンテンスは的外れであります。私は、作品は、読み手が自由に読めばよいと申し上げました。表現されたものは、読み手を映す鏡でありますので。

>うーん、場合にもよりますけども、今回は読み返しません。4、5回は読んだので。

 お好きにどうぞ。四、五回読んだがわからないしろものであった、と、おっしゃりたいのかもしれませんが、わかっていただかなくてもよいのですよ、すでに少なくはない方が面白かったと感想してくださっていますから。わからなかった、とのご感想は、感想者さまただ一人からしかいただいていません。ともあれ、反響がある本が売れる本なわけで、わかりやすい本が売れるわけではないのです。

>はるかさんは何を狙って書かれていますか?

 私は、私の中の模様を知りたいのです。存在の真ん中に近づくためです。そのために無意識を客体化します。それが表現することです。――と、ここまでを読んで本音で応えましたが、この質問、引っかけだったんだな、と、のちにわかりました。

>はるかさんの作品、直近の3作品ですけども、現状の日本で出版されている一般小説のくくりから見れば、出版社からは好まれない手法が用いられている、と見ています。

 聞き捨てなりませんね。出版社の何をご存知なのかわかりませんが、好まれている手法と、好まれていない手法を具体的に伺いたいものであります。群像の過去五年、文藝の過去五年、文學界の過去五年に目を通しておりますが、好まれている手法といえるような明確な偏りは見受けられませんでした。年度ごとに文体も、何もかも、全然違うものが受賞しています。『十七八より』と『ジニのパズル』を比較してみてください。コンクリートと豆腐くらいに違うし、量子力学とオムライスの美味しい作り方くらい違います。抽象の鬼と具象の女神くらい違うし、わからなさすぎる限界と、わかりすぎちゃう限度くらい違います。メタフォリカルな作品は、群像において変わらず選出されておりますし、『クチュクチュバーン』や『オブ・ザ・ベースボール』が純文学として讃えられちゃうあたりは、純文学じゃありません! とか言い切りたい種類のシーラカンスを絶句させることでしょう。共通点があるとするなら、突出していることです、例年にはない種類のものが常に望まれているように感じられます。選考委員の高橋源一郎氏もおっしゃっています。傾向と対策なんて無駄だと。むしろ、昨年とは真反対のもの、近年には例のないものを出してこい、と。当然ですよね。コンクールは新しい才能と新しい文学を求めているのですから。
 それにですよ、言わずがもがなではありますが、私のここ三作くらいっていうのは、掌編であります。百枚にも達しないものがメジャーな文学賞の対象になるわけもなく、私も、直近の三作で応募しようなんて考えたこともありません。一作目の百八十枚は、ある文学賞向けに適したものであったと思います。普通すぎもしないけど、ラディカルとは言いがたいので、受賞に足るものではないかもしれませんが。二作目は失敗でしたが書き直しています。これは一作目とがらりと違うものですし、当然ながら直近の三作とはまるで違います。さらに別の、こちらに投稿していない一作は、文学賞応募用としてストックしています。目立ってラディカルですから、感想者さまの好みではないでしょうし、そちらは、感想者さまのご指摘のとおりの、近年には好まれてこなかった作品であろうかと思われます。リズミカルではあるけど、詩的ではなく、メタな作品ではありません。浅いと言えば浅い、さわやかなだけです、その方向に傑出してます、女子高生の一人称なんでメタになりようがないんです。キャラクターと季節にgravityを掛けたものです。前例のないものなので、これには期待しています。というか、それが一番、次が一作目のやつですね、いくばくかなりとも、いける可能性があるのは。というわけで、直近の三作というのは、まるでまったく文学賞向けのものではないのです。当たり前ですよね。あいみょんの歌を下敷きに描いたものが文学賞向けのわけないし、アリゾナの掌編は普通すぎる、感想者さまが普通じゃなさ過ぎるとおっしゃろうが普通すぎるので、わかりやすすぎるので、地下一階までしか掘ってないので弱すぎるわけです、既視感ありまくりですしね、orthodoxにすぎるんです。ラップランドの話も二人称ですよ、そんなテクニカルなもので技能点狙いにいったりしないですよ、クリスマスネタでちょっと二人称を、あ、そういえば、感想者さまの作品を拝読してやってみようかって思ったのでした、二人称。そんな付け焼き刃な、実験的練習作品が、近年の文学賞の好み、もなにもあったもんじゃありませんよ、当然であります。

 つづきます。

はるか

 千才森 万葉さま

 つづきました。

>海外文学がどうなのかは存じませんが、日本の文学賞を狙うなら使用を控えた方がいい書き方です。

 具体的には、どんな書き方ですか? 詩的な書き方ということですか? メタな作品、という意味ですか? 謎かけ部分が潜んでいる掌編、という意味ですか? 多層的な表現を指しているのですか?

>選考では、おそらく早い段階で弾かれてしまう。今は、ですが。将来どうなるかはわかりませんけども。

 なんでそんなことが感想者さまにわかるのですか? 根拠なく言われると脅しのように聞こえちゃうので、根拠なり、理由なり、具体例なり、ソースなり、データなりを例示してください、でなきゃ、こういう場において、あまりに無責任な放言でありますよね?

>一方で、最近お邪魔している詩のサイトでは好評価されそうな作品です。特に『ラップランドに降る雪は』に関しては、現代詩では受けがよさそう。

 詩と小説を、どうしてそこまで明確に分けたがるのか、私には理解できません。ヘルマン・ヘッセはお嫌いですか?

>でも、小説しか読んでいない方には、恐らく『読めない』、『全く意味がわからない』と仰る人も多くいらっしゃることでしょう。

 まったく意味がわからないのは、感想者さまの感想であります。詩をわからない人は小説だってわからないし、詩をわかる人は小説だってわかりますよ。すぐれた小説家は詩人としての素養も併せ持っています。ナルチスとゴルトムントが、感想者さまにはわからないのですか? 荒野のおおかみが、読めないのですか?
 まあ、わからない、ということでもいいんですけどね、わからなくてもニーズがあればいいわけで。でも、わかるはずですよ。感想者さまは、感想者さま以外の、拙作に好意的な感想を寄せてくださったすべての感想者を愚弄しているのでしょうか、わかりもしない作品をさもわかったかのように評していた嘘つきたち、と決め付けているわけですか? 根拠もない雰囲気だけで。

>どうも、作者さんが、読者を選ぶ作品を書いていることを自覚していらっしゃらないんじゃないかなと思いまして。

 紋切り型の批評ではありますが妥当ではないか、と。直近の三作品はどれも鍛練のための素材であります。今後も私は、課題を設けた掌編をアップしてゆくことでしょう。それがフックを立てる、ということです。提起すべきポイントのない、つるっとしたものをアップしても、誰のプラスにもならないじゃないですか、感想に照らされて意識化できる気付きにも恵まれない。それこそ不毛でありますよ。自己満足で終わってしまう。読み手を選ぶ、というなら勿論選んでいますよ、鍛練場ですからね、ここにいる読み手はすべて書き手でもあるわけです。書き手が読者なんです。targetを書き手に絞りこんだ出版物ってレアじゃないですか、当然だけど。だから、読者は選ばれてるんですよ、その他大勢の普通の読者の中から、書き手として。

>今の作風を書き続けるなら、批判は多く頂戴する羽目になるでしょう。

 ひどいな、このコメントは。脅しもいいところです。一作目にも二作目にも、ネガティブな感想は、あまりつかなかった。三作目以降にはつくようになったけれど、四作目のアリゾナものにも、批判はむしろ少なかったですよ、感想者さまも、「好意的な感想が並んでいて書きづらいのですが私は辛口です」とか、書かれていたじゃないですか。どのあたりをふまえて、あ、ラップランドですか、ラップランドの二十四時間で鬼の首とったかのようなおっしゃり用ですか?
「今の作風を書き続けるなら、批判は多く頂戴する羽目になるでしょう」とのこと、じゃあそうしてみましょう、今の作風ってのは、よくわからないけど、想像するに詩的な小説を意味するんだとして、私的にいうなら無意識の意識化を目指した地階の模様を描く作風を続けるとして、そこに、「どのような意図に基づいた」「批判」が集まるのか確かめてみたいと思います。

>その方々は、いくら補足説明を書いたところで、受け入れられないと答えるかと思います。特に、受賞を狙っている方々からすれば。

 なんでしょうか、この論じ方、なにを根拠にした推論ですか? 根拠の明示もなく、予言者ですか、どこから目線ですか? 批判はwelcomeです、しかし、根拠は示しましょうよ、具体例も、じゃなきゃ、ある感情に基づいた、思わせ振りな脅しに過ぎないじゃないですか、そういうの。流行りの反社じゃないですか、まるで。ご自分で読み返して、いやらしい書き方だな、って思わないですか?

 つづきます。

はるか

 千才森 万葉さま

 つづきました。

>村上春樹さんの作風とて、皆に好まれているわけでもなく

 村上春樹さんほど売れてる作家を持ち出して、皆に好まれているわけでもなく、って、どういう論理ですか? そりゃあアンチもいるでしょう、あれだけ売れているのですから。嫉妬する同業者からも叩かれまくってましたよね、村上春樹さん。ファンが多ければアンチも多いでしょう。誰からも見向きもされなければ、批判の矢面に立たされることもないでしょう。アンチの多さは力量の証明であります。売れてるだけで村上春樹さんの一人勝ちですよ。皆に好まれているわけでもなく、って、なんですか、そんなの当たり前じゃないですか。

>一部の熱狂的なファンからの支持が多いと聞いています。

 どっから聞いたんですか? 「一部の」ファンがあの部数を支えられるわけないでしょう? 一人で百冊買ってるんですか? いい加減な発言だなあ。一部の? データもないのに、よく、そんな匂わせ方ができるもんです、マーケティング部にいたら解雇されちゃうパターンですね。

>実際、作風・文章が肌に合わないと言う方も少なからずいらっしゃることですし。

 少なからず、ですか。匂わせるの、お好きなようですね。曖昧な副詞を用いて。そういうのって、何も語ってないのと同じですよ。雰囲気で語っちゃってる。作品でならいいですよ、ほのめかしも、匂わせも、表現ですからね、でも、感想ではダメです。アンチがいるのは当たり前です、でもそれを凌駕するファンがいるから、その数が優勢だからベストセラー作家になれるのですよ。出版界はそれを求めているわけです、生き残るために。アンチの存在を恐れて、誰にも叩かれないような作風で書き続けたとして、で、それが何になるんですか?

>いずれにせよ、直近の作者さんの作品は万人受けする作風・文章ではないんですよ。

 褒めてくださってありがとうございます。万人受けするものなんて書きたくないし、誰にも書けないし、事実、感想者さまは、村上春樹さんすらだに万人受けしない、と書いていらっしゃる。もはや、論がはちゃめちゃじゃないですか。何をおっしゃりたいのか、ご自分でもとっちらかっておいででしょう?

>なので、合わない方も多いでしょうし

 多いでしょう、ですか。また曖昧な。アリゾナの話は、好評が九十%以上でしたよ。酷評は感想者さまと、あと、一人か二人。それも作品についての感想じゃなくて、純文学の定義に外れるとか、そういうようなコメントでありました。読みづらい、わかりづらい、という評価は、感想者さまから初めて頂戴いたしました。アリゾナの話が読めない、わからない、なら、世の中の、ほとんどの小説がわからないんじゃないですか、もしくは、わかった気になれるとこだけわかってるとか。そのくらいシンプルな話ですよ、アリゾナの話は。底も浅いし。小説に比喩を使っちゃいけない、特に暗喩は厳禁だ、とかいう不文律でもあるんですか? 小学生の作文にすら暗喩は散見されますよ、多層構造ってそんなにアクロバティックなものでしょうか、私たちの人生だって多義的かつ多層的だし、感想者さまの意識構造だって平屋建てじゃないでしょう? アリゾナの話は、表層だけを読む小学生にだって理解できると思います。浅いお子さまには浅いとこを読んで楽しんでもらえばいいし、深い大人には深いとこを読んで楽しんでもらえばよい、オヤガメノウエノコガメ構造です、お子さま用プールと大人用プールを併設してるんです。いかなる読者も排除していません。読者を選ぶ、ってことについて語りたいなら、まずは『十七八より』を読まれることをおすすめいたします。

>賞を目指して鍛錬されている方から見れば、(受賞の目が無い作風だから)これじゃダメだ、と仰ることでしょう。

 また、aboutな。受賞の目があるとかないとか、そんなことがわかる書き手さんなら、とうのむかしに出版社の文芸部門からお給料をいただいていることでありましょう。このコメント、何を根拠にした推論ですか? 賞を目指して鍛錬されている方、って誰ですか? 拙作をダメだ、と思わない書き手は、賞を目指していない書き手さんなんですか、なんでそんなことがいえるんですか、拙作に好意的な感想を下さった書き手を、感想者さまは、あなたたちに賞を目指す資格はない、と、判じているんですよ、そういう文言をですね、根拠もデータもなく、雰囲気で書き付けちゃダメですよ、反社のやり方ですからね、そういうの。そういう感想を真に受けてくじけちゃう書き手さんがいたら、あなたのやってることは、ほとんど犯罪です、とても悪いことですよ。

 つづきます。

はるか

 千才森 万葉さま

 つづきました。

>本人の好き嫌い、面白い面白くないとかは関係なく、受賞できないからダメだと。

 すごい決めつけだな、それを言いたいのはあなたでしょう?
 だなんて太宰治みたいなことを書いてしまいますよ、思わず。
 あ、こういう仕込みですか。
――はるかさんは何のために書いてますか?
――賞をとるためです!
――そうですか、でも、それならこの作風はバツですよ、賞を目指してる「みんな」も絶対そう言いますよ、あ、私? 私はいいんですよ、賞を目指してないですから。でも、はるかさんは賞を目指してるんでしょう? だったらこのままじゃダメです。根拠は、昨今の出版界がそれを求めていない(と私がそう思う)からです。
 新興宗教か、マルチ商法みたいな論理ですね。

>一般向受けする文章じゃないからダメだと。

 一般受け?
 何が一般受けなんですか?
 そんな基準がどこにあるんですか? なんだか、純文学の基準がわかってるかのようなハッタリをかましてくださった誰かさんとそっくりな論法ですね。根拠のない前提にさらなる前提を乗じて結論を導いている。
 それにですよ、その論法の真似してお返ししちゃうとですね、一般受けするような凡庸なものを選考委員の先生も、出版社も求めていないですよ、新人賞に関して言うと。デビューしてからならともかく、純文系の新人賞は独自性を求められてるんですよ、むしろ。みんなとおんなじじゃ獲れないんですよ。というようなことを、この感想欄でも述べてくださっていた方がいらっしゃいますね。アリゾナの話は普通にわかりやすく面白いけど、賞を狙うには浅いので、地下階を「三階までも」掘っちゃったほうが選考委員の先生方に喜ばれると思われます、と。その方は、近年の受賞作も読まれていたし、選考委員の講評も読まれて研究されていた。感想者さまの、雰囲気だけで語られたような指摘とは信頼性において天地の差があります。感想者さまとは正反対のことを、そちらは論理的に、根拠を添えて助言してくださっていますから、お暇があったら読まれてみては?

>出版社からしても、万人受けしない作品を受賞させたところで、旨味がないですし。

 わかったようなことを(笑)。万人受けする作品なんてあったら出版不況なんて起こってませんから。わかりもしないことを、よくそんな、わかったふりできますね。万人受けは、村上春樹さんだってしないのでしょう、あなた、そう書きましたよね、で、万人受けしないと出版社は旨味がない? どれだけ破綻した論理展開でありましょうか?
ご自分のはったりに気がついていらっしゃらないのですか?

>新興の出版社・投稿サイトなら話は変わりますけど。一応、ここは鍛錬場ですし、文学賞狙いの方も多くいらっしゃる様子。

 様子、ですか。誰と誰と誰が、狙っておられるのですか? 多く、って、十人くらいですか、その十人のリストをください、一人ひとりに確認して回りますよ、目がないだとか、わからないだとか、感じておられますかって。その十人って、あなたの中にいるんじゃないですか? あなたの心の円卓会議による決定なんじゃないですか? そういうのって独断っていうのですよ。とか書くと、俺もわからない、私もダメだと思う、とかお祭り好きの方から声が上がるかもしれませんが、根拠や具体例を携えていらしてくださったら、いちいち論理的におもてなしする所存です。そのような方々の作品が、もしも素晴らしいものであったりしたら、私も開眼いたしますよ。

>ニッチな作風に手を出しているんだという自覚があるのであれば、全く問題ないのです。

 ニッチ、って言葉は妥当じゃないけど、オリジナリティ、ないしは希少性と言い換えるなら、それをもちろん目指してますよ、万人受けを目指してもいないし、既存の路線やら、コンテストで好かれてきた(?)とかあなたがおっしゃるところの、よくわからないですけど、ともかく前例のあるものなんか目指してないですよ、そんなもの目指してる書き手がどこにいるんですか、売文業者を目指す人、いることはいるんでしょうけど、そういう人は作家を目指していらっしゃらないのでしょうから、お好きになさったらよろしいかと思います。そのような、一般受けやら前例やらを狙っておられる方々になら、いくらでもダメ出しされたいですよ、それは金ぴかのバッジですよ、胸はって付けて歩いちゃいますよ。

>わたしの作品ほど、ちんぷんかんぷんでは無いにしても、はるかさんの直近三作品はかなり読者をふるいに掛ける作品です。

 御作、ちんぷんかんぷんじゃないですよ、わかりづらくもないし、ただ読みにくいかもしれませんが。

>質問しておいて何ですが、返信は無理には結構です。

 何をか言わんや、であります。論理的に破綻していて、何をおっしゃりたいのかわかりませんでしたが、意図だけは読み取れましたよ。感想者さまは、事実を、もっと正しく、歪ませないで認識されたほうがいいです。根拠なく、数字も示さず、雰囲気だけで、副詞や形容詞に嘘をつかせないことです。これはモラルの問題でもありますが、凛としてませんから美しくもありませんし、ほとんどペテンです。感想者による感想に反論しているから書き手として云々、みたいな見当外れなことをのたまう方々もいらっしゃるかもしれませんが、詐術を用いたでっちあげのコメントは、作品に対する感想ではなく、感想者のかたちをのみ映す鏡でしかありません。まともに反論する方は少ないでしょうから、相手にされないことをもって納得されるのかもしれませんが、ここは鍛練場なので、とか、強調されました感想者さまに対してなので言葉を尽くして向き合わせていただきました。

 おっしゃられている内容こそはさっぱりわからなかったけれども、おっしゃられるところの意図だけは明確にわかりました。そのような意図を披瀝してくださって、ありがとうございました。参考にさせていただきます。

千才森 万葉

 あぁ、もう来ないつもりでしたが犯罪者になってしまっていたようなので、謝りに来ました。ごめんなさい、大変失礼いたしました。コメント欄で用いた手法、および手段が常識的なモラルを逸脱していたことをお詫びいたします。

 再訪して書いた文章は、わたしの目標以外全てハッタリです。わたしの妄想と言ってしまっても差し支えありません。わたしは単なる素人で、下読みでもなければ出版関係者でもありませんから、完全な妄想です。妄想を駆使して書かせてもらいました。
 あ、村上春樹さんの件に関しては、アンチ以外でも彼の文章が苦手という方はいらっしゃいます。わたしの身近にも。この件に関しては反論されても困ります。事実いらっしゃるのですから。とはいえ、村上春樹さんと同等のレベルの作品を書けたら、もちろん売れっ子になれるでしょう。アンチが付こうが、苦手な人が多かろうが。当然です。
 そして、わたしと作者さんの間にはどんな関係もないので、作者さんの進みたい道を塞ぐ、もしくは考え方を変えさせようとする権利は一切ありません。当たり前ですが。てか、そんな意図は正直無かったのですけどね。他人様は他人様。

 では、なぜハッタリを噛ましたのかといいますと、はるかさんの覚悟を伺いたかったのです。一度目のコメントを送りまして、返ってきた返事を読ませてもらいまして、わたしは「もう、この作者さんに批判的なコメントを書くのは止めておこう」と思いました。元々反論の多い方だなと言うのは知っていたのですが、実際やりとりをさせてもらいますと、まあ、しんどい。具体的に書くと、「~と感じた」という感想に対して「ここにこう書いているのだから、そう感じるのはおかしい」と述べられると、読者の側からすれば反論のしようが無いんですよ。

>急に幸福を感じて? いるのでしょうか、彼女が。どのあたりの言葉にそのような表れをお読みになられたのでありましょうか?
 急に、も何も、彼女の無意識は、はなから変化していません。

 具体例を挙げれば、こういう反論ですね。作品の世界を統べているのは作者だけですし、作者が「この世界はこうなんだ」といえば、それは間違いなく真実になります。でも、読者からすれば感想で書いた通りに『感じた』んですよ。全力で読み込んで、感じたことをそのまま感想として述べる、しかしこれを否定される、『この文章を読んで、そんな風には感じるわけがない。あなたの感じ方は間違っている』と作者さんに言われると読者の立場が無くなってしまいます。んー、読者からすれば、心・精神を否定されているような物ですからね。そういう反論が多く戴いてしまうと、「反論返しは骨が折れるから……はるかさんを刺激しないように、とりあえず面白かったと書いておこう」となる。まあ、わたしはそうなりました。
 いえ、批判出来なくはないのですが、その先に待っているのは間違いなく喧嘩です。誰だって喧嘩はしたくない物ですし。ならば、否定的なコメントは控えておこうと考えてしまいます。感想を書く方は、言い争いをしたいわけではありませんからね。

 この先、恐らく作者様の作品に対しては、がっつりとした否定的なコメントはほとんど付かないでしょう。読者が否定的な感想しか持たなかったとしても、感想欄に書いてこられる方は稀でしょうね。わたしのような物好きぐらい。実際にガッツリと批判コメントを書かせてもらった経験から来るわたしの感想です。予想です。否定してもらってももちろん構いませんが、わたしはこの予想は外れないと思っています。
 その予想を立てて、わたしには1つの危惧が生まれました。本当に身勝手で自分勝手なおせっかいなのですが。果たして、批判コメントが少ない中で、作者さんは成長できるのだろうかと。褒められる中にいながら成長するには、相当な向上心がないと難しいものです。これはわたしの経験則から来ています。みなさんに当てはまるわけではありませんが。
 そんなわけで、はるかさんという作者さんには褒められる中に居てもぶれることのない、上へ向かおうとする覚悟はあるのだろうか? とそんなをこと確かめたくなったのですよ。で、再訪のコメントとなりました。
 手段・文章が悪かったです、本当にごめんなさい。

 それと、もう1つだけ。
 コメント欄で熱くなると、来て欲しくない人が寄ってきます。このサイトは、そういう傾向にあるとのことでした。お気を付け下さい。

 わたしは、このサイトでのコメントは基本的に辛口が多いです。
 なので、もう、はるかさんには絡まないように気をつけます。

 賞を狙うのですね、頑張ってください。この先は、どんな風に罵られようが、お邪魔には来ませんからご安心ください。

 では、ほんとうに失礼いたしました。

はるか

 千才森 万葉さま

 背面コミュニケーションは最悪ですよ。

 失礼しました、と、右手を見せながら、

>反論が多く戴いてしまうと、「反論返しは骨が折れるから……はるかさんを刺激しないように、とりあえず面白かったと書いておこう」となる。まあ、わたしはそうなりました。いえ、批判出来なくはないのですが、その先に待っているのは間違いなく喧嘩です。誰だって喧嘩はしたくない物ですし。ならば、否定的なコメントは控えておこうと考えてしまいます。感想を書く方は、言い争いをしたいわけではありませんからね。

 と、左手で書く。売ってるじゃないですか、このコメントが喧嘩を、思いっきり。批判できるならすればよいじゃないですか。鍛練場なんでしょ。鍛練場なんで返信も真摯に為しますよ。感想する側だって、鍛えられてしかるべき書き手さんなわけでありますから、とんちんかんな感想や、まちがった思い込みや、傍若無人ないしは高慢な感想に対してはその醜さを指摘してさしあげたりもしますよ、お互いに鍛練なわけですから。ともあれ、まともな批評を、感想者さまは、ひとつもなさっておられないじゃないですか。できないことを、しないと言い換えるのはペテンだし、やっぱりハッタリですよ?

>この先、恐らく作者様の作品に対しては、がっつりとした否定的なコメントはほとんど付かないでしょう。

 また、予言ですか。根拠なく、雰囲気で。がっつり? ほとんど? 雲みたいに曖昧な、ふわふわとした言い訳を緩衝材にして何をか言わんや、で、ありますね。

>読者が否定的な感想しか持たなかったとしても、感想欄に書いてこられる方は稀でしょうね。わたしのような物好きぐらい。

 なんですか、これ?
 好評がついてもそれは偽物で、だから、今後のあなたに真の好評がつくことは皆無でありますと、このおれさまが、なんの根拠もないけど、判じて差し上げます、と。いつもの論法ですよね。殺人論法。私の息の根、止めたいですか? ネジ曲がりかたがすごいですよね、空振りしますよ、イチローだって。

>予想です。否定してもらってももちろん構いませんが、わたしはこの予想は外れないと思っています。

 だから、そういうの、脅しなんですよ、悪辣な。好評がついてもおれの勝ち、酷評がついてもおれの勝ち、って、ダブルバインドじゃないですか。あなたが、もしも人の親なら、子供がかわいそうなことになりますよ、これは予言です、外れません、まちがいなく(って真似してみました)。←あ、私が、誘拐するとか、そういう意味じゃないですからね、もちろん。通報したりしないでくださいね。あなたの教育が、ダブルバインドな接し方が、子供をアンビバレントに追い込んで、で、結果として、お子さまのメンタルが、回復不能なレベルにまで傷つけられるであろう、って意味ですからね。あなたが予言の放言に責任を持たないように、私も、私の予言の放言に責任を持ちません、外れませんけど、この予言(って、また真似してみました、ね? 脅しでしょ、威嚇でしょ、嫌がらせでしょ、しかも狡くて卑劣な、へんなにおいがするでしょう?)。

>なので、もう、はるかさんには絡まないように気をつけます。

 ご親切なお気遣いをいただいたので私からも。もう、誰にも絡まないほうがよいですよ、公共の利益です。アンビバレントなコメントは相手の精神を破壊します。感想者さまのターゲットになられた方はメンタルをやられますよ、これは、まちがいなく(って、真似してみました)。

>コメント欄で熱くなると、来て欲しくない人が寄ってきます。このサイトは、そういう傾向にある

 感想者さまよりもタチのよろしくない方に、私は、今のところ遭遇しておりません。ほんと、曲げかた、背面コミュニケーション、最悪ですよ、真摯さに欠けるし、攻撃的というより、なんでしょう、腐敗してますよね、何かが。愛すべきキ○ガイさんを私は好きに思いますが、感想者さまのような種類のコミュニケーターだけは避けたいです、愛せませんから。

 背面コミュニケーション、さようなら、フォーエバー。でも、また悪態つきたくなったらいらしていただいてもいいですよ、言い訳に対しても、三度目の謝罪に対しても門戸は開かれております。

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