作家でごはん!鍛練場
広瀬翔之介

恋は盲目、月の耳

祐樹編(1)

 十六年前のあの日以来、僕はずっと闇の世界で生きてきた。闇の世界といっても悪の魔王や怪物がいるような場所ではなく、ただ突然に、あるいは理不尽に、両目の視力が完全に失われたというだけの話だ。僕と僕以外を繋ぐ五つのセンサーのうちの一つがなくなり、残りの四つで生きていかざるを得なくなってしまったのだ。
 だけど今ではそんな生活にもすっかり慣れ、今日は親友とその家族と一緒にお月見ドライブなんかをしている。
 もちろん僕は月を見ることなんてできないけど、外に出掛けるのは好きだし、彼らと共に過ごす時間はもっと好きだ。助手席の窓から吹きこむ秋の冷たさもなかなか心地良い。
「あとどれくらいで着く?」
「うーん、五分くらいじゃないか」
 僕が問い掛けると、車を運転している健斗の声が右側から返ってきた。その声と喋り方は快活で、彼の人柄をそのまま音として響かせたような感じだ。
「のどかなところだね」
 右側後方から、水のように透き通った声が聞こえた。健斗の奥さんである真利だ。
「何が見えるの?」
「別に何ってわけでもないんだけど、星空が一面に広がってて、道路の周りは畑とか民家があるよ」
「へぇー」
 ざっくりとした説明だけど、想像してみると悪くない。でも、片田舎にはいくらでもありそうな光景だ。
「みりか、あそこに猫がいっぱいいるよ」
 真利が娘に話し掛ける。だが、返事はなかった。
 僕のちょうど真後ろのシートに座っている彼女はもう高校生になるが、別に反抗期というわけではない。
 笠原みりか、というのが彼女の名前だけど、みりかは生まれつき耳が聞こえない。それも、補聴器の使用すら難しい最重度難聴というものだ。だから自ら言葉を話すことはない。真利は彼女に向かって口頭の言葉も交えながら手話を使っているらしい。
 この車内で僕の五感が捉えられるものは、夫婦の声と走行音、振動と窓から吹きこむ風、車の独特な匂いだけだ。そこにみりかの声というものは含まれない。この助手席に座っている限り、僕はみりかの存在というものを感じ取ることができないのだ。

 健斗の言った通り、目的地には五分ほどで辿り着いた。
 車の窓を閉めると、周囲からドアを開閉する音が聞こえた。すぐに助手席のドアも開かれ、誰かが僕の腕を掴む。
 といっても、この形が誰の手なのかは僕には分かっている。みりかだ。
 自宅とか自分のよく知っている場所は一人でも歩けるけど、こうしてこの家族と出掛けるときは、みりかが僕の腕を引っ張って歩く役となっている。健斗だと男同士で気持ち悪いし、奥さんである真利に腕を掴まれて歩くのは色々と問題があるから、自然とこのフォーメーションが定着してしまったのだ。
 僕は独身でみりかは年頃の女の子ではあるけれど、みりかは小さい頃、僕の手を握ったり抱きついてきたりしていたものだから、僕にとっても一応旧知の仲のような感覚だ。
 それに盲目と難聴である僕らは、会話もできなければ、筆談や手話や読唇術で意思の疎通を図ることもできない。今となっては、この手の温もりだけが唯一のコミュニケーションとなっていた。
 僕の腕を引いて歩くみりかはどんな表情をしているのだろう。楽しそうなのだろうか、それとも無表情なのだろうか。それすら僕には分からない。

 僕たちはどこかの公園の駐車場に着いたらしく、そこから少し歩いていくと、地面の感触が平坦なアスファルトからなだらかな土の道へと変わった。
「蟹沢君、ここから階段」
 真利が後ろから僕に声を掛けてくれた。
「ありがとう」
 僕は白杖で階段の位置を確かめながら、ゆっくりと上った。他の人が気付いているかどうか知らないが、何か障害などがあるときは、みりかも手を握る力を強めて合図を送ってくれていた。
 それほど長くない階段を上り終えたところで、僕は訊いてみた。
「どこかを登っているみたいだけど、この公園に何かあるの?」
「この公園に景色のいい高台があるんだよ」
 前方から健斗の声が聞こえた。
「満月の夜にそこで願いごとをすると叶うっていう言い伝えがあるんだって」
 真利が補足した。
「ふーん」
 確かに、満月の日には願いが叶うという話はよく聞く。まさかそんなメルヘンチックな話を本気で信じているとは思えないけど、まあ神社でお参りをするような感覚なのだろう。
 いずれにせよ僕には見えないものなので、普通のお散歩として公園の道と外の空気を楽しんだ。当然のことだけど、みりかはずっと黙って僕の腕を握りつづけていた。

 しばらく丘のような斜面を歩いたところで、ようやく目的の高台に着いた。目が見えなくても、どこか開けた場所に出たのだということを風の流れで感じ取ることができた。
「やっぱり、夜景が綺麗ね」
「よーし、願いごとをするぞ」
「満月はどっちの方向にあるの?」
「蟹沢君、こっちだよ」
 真利が僕の両肩を掴んで、体の向きを変えてくれた。
「願いごとは決まったか? いっせーのせーで、願うぞ」
「なんだよ、それ」
 健斗のアホみたいな提案に僕と真利は笑った。
「つべこべ言わない。それじゃあ、いくぞ。いっせーの、せ!」
 その掛け声と共に、僕たちは沈黙した。
 僕には見えないが、健斗と真利は手でも合わせているのかもしれない。神社のお参りみたいに。だけど僕の腕はみりかに握られているので、手を合わせることはできなかった。
 その代わり、僕は空を見上げた。満月も星も、何も映らない真っ黒な空を。
 僕は願いごとも特に用意していなかった。だから最初に浮かんだ、叶ったら一番嬉しいことを架空の満月に願った。

 みりかの耳が聞こえるようになってほしい。

 気のせいだろうか、それを願ったとき、みりかの手が温かくなったような気がした。
 そして次の瞬間、異変はすぐに表れた。
 まず周りの音がゆっくりと少しずつ小さくなっていき、一分ほど経つと、僕の耳は何も聞こえなくなっていた。
 その現象と同時に、僕の閉ざされた瞼の裏側が段々と色付いていることに気が付いた。
 まさか――。
 おそるおそる瞼を開けてみる。
 そして、僕はまさに自分の目を疑った。
 目の前に満天の星空があった。それは確かに僕の目に映っていた。
 僕の目が何かを見ることができたのは一六年ぶり、みりかが生まれた日の前日以来のことだ。
 星々の間に、本物の満月がぽっかりと浮かんでいる。夜空の下では、人々の営みが小さな光となって煌めいている。
 それは夜景というほど立派な景色ではないのかもしれない。片田舎のごくありふれた日常なのかもしれない。
 だけど、見渡す限りのその景色に圧倒された。長らく忘れていたのだ、世界はこんなにも美しいのだということを。
 僕は、生まれて初めてこの世界を見た赤ん坊のような気持ちになっていた。
 そんな奇跡のような出来事に我を忘れてしまい、僕の腕を掴んでいた感触が消えていることに気付くまでに、少し時間が掛かった。
 それは数秒だったかもしれないし、あるいは数十秒だったのかもしれない。音が聞こえなくなっていたことも、僕の時間感覚を麻痺させていた。
 すぐに自分の左側を見た。
 そこには、僕が初めて見る女の子がいた。小柄で、肩の上まで伸びた黒い髪が風になびいている。
 この子が、みりか――。
 そう思ったのも束の間、彼女の様子がおかしいことに気付く。
 彼女は狼狽した様子で何もない方向に顔を向けたり、自分の手のひらを顔に近づけたりしていた。
 そう。まるで、彼女には何も見えなくなってしまったかのように。

 異変に気が付いた健斗と真利がすぐにみりかのもとへ駆け寄った。何があったのか手話で訊こうとしているが、やはりみりかにはそれが見えていないように思える。
 健斗がみりかの腕を掴むと、彼女はじたばたと暴れ出した。真利が戸惑いながら何かを話しているようだが、僕には聞き取ることができない。
 この二人の姿を見るのも十六年ぶりだ。最後に見たのは僕たちがまだ十九歳の頃だ。
 健斗はあの頃とそれほど変わっていなかったが、真利は歳を重ねたことによってむしろ綺麗になっていた。年相応に顔つきは変わっているんだけど、心の可憐さのようなものが内面から溢れているようにも見えた。
 こんな異常事態にも関わらず、僕は久しぶりに見る真利の顔に少しだけ見惚れてしまった。
 やがて、健斗と真利は僕の様子がおかしいことにも気付いた。
 耳が聞こえなくなり、目が見えるようになった僕は、身振り手振りで状況を伝えようとした。
 すると健斗が察してくれたのか、ポケットからスマホを取り出し、画面を僕に見せつけた。全盲だった僕でもスマホは持っているが、実際にこの目で見るのは初めてだ。

《目が見えるのか?》

 文字を読むのも十六年ぶりのことになるけど、画面には確かにそう表示されている。
 僕は健斗の目を見て頷いた。二人はそんな僕を見て焦りの表情を浮かべる。
 健斗はスマホを操作し、もう一度僕に見せつけた。

《耳は聞こえないのか?》

 僕はもう一度頷いた。
 健斗は目を見開き、真利に向かって何かを告げた。困惑しながら二言三言会話を交わし、健斗が再びスマホの画面を見せつけた。

《みりかは目が見えなくなっているかもしれない》

 僕は力強く頷いた。
 同意だ。みりかはさっきから僕たちの顔を見ようともしていない。

《これから病院へ行く》

 僕は手でOKのサインを作った。
 健斗がみりかをなんとか抱きかかえ、僕たちは丘を下りていった。
 目が見える状態でレンガの道や石の階段を歩いていると、さっきまでこういう場所を歩いていたのか、と答え合わせをしている気分になった。
 駐車場に着くと急いで車に乗り込み、出発した。
 病院へ向かう車内でみりかを観察しているうちに、僕はあることに気が付いた。
 みりかは目が見えなくなった代わりに、耳が聞こえるようになったのではないだろうか。僕の耳が聞こえなくなった代わりに、目が見えるようになったのと同じように。
 真利も僕と同じ考えに至ったのか、みりかに向かって話し掛けている。みりかもそれに反応しているように見える。
 どうしてこんなことになっているのか、さっぱり分からない。もしかして僕が満月にお願いしたことが関係しているのだろうか。まさか、そんな非現実的なことが起こっていいわけがない。

 夜間急患診療を行っている病院に着き、みりかから先に診察を受けることになった。健斗と真利が付き添い、僕は廊下にある長椅子に座って待った。
 二人は医師に対してどんな説明をしているのだろうか。まあ、現状をありのまま言うしかないのだろう。家族で月を眺めていたら娘の目が見えなくなりました、と。
 医師はそんな無茶苦茶な症状に対してどう対処するのだろうか。僕は担当の医師が少し気の毒になった。
 三十分ほど待っていると、診察室から笠原一家が出てきた。三人とも難しい表情をしている。
 健斗がスマホに文字を入力し、僕の目の前にかざした。

《目が見えなくなってる。耳は聞こえるっぽい。他は異常なし。明日詳しく検査。次はお前の番》

 そこに書かれていることは、概ね僕の予想通りの展開だった。僕は健斗の目を見て頷いた。
 健斗が僕の診察にも付き添い、真利とみりかにはロビーで待っていてもらうことになった。
 診察室に入ると、デスクの前で初老の医師が座っていた。既に僕の症状についても聞いているのか、明らかに困った顔をしている。
 僕と医師は筆談で話をしたが、僕から与えることのできる新情報などはほとんどなかった。せいぜい、十六年前に突然失明したことくらいだろうか。だけど、結局そのときも原因は分からずじまいであった。僕の五つのセンサーは、神様が好き勝手にスイッチを切り替えてしまうのだ。
 今回の医師も僕の瞳や耳を注意深く診てくれたが、やはり原因は分からなかったようだ。
 それから明日精密検査を受けるかどうか尋ねたが、僕はとりあえず断った。健斗は心配そうな顔をしていたが、今起こっているのは医学では説明できない現象のような気がしてならなかった。
 診察を終えてロビーへ戻ると、長椅子に座っている真利が心配そうに僕を見上げた。みりかは真利の腕にしがみついてじっとしている。
 健斗が真利に向かって何かを話した。きっと僕の診察結果についてだろう。みりかと同じで何も分からなかった、と。
 帰り道は、車で先に僕のアパートまで送ってもらった。
 到着すると、みりかがドアを開けて僕の腕を引っ張るのではなく、僕は自分の手でドアを開け、自分だけでアパートの前まで歩いた。みりかは何も映らない瞳で虚空を見つめながら、微動だにせずにいた。
 そこには初めて見るアパートがあった。苦労して借りて何年も一人暮らしをしていた家なのに、見るのは初めてだった。なんとも不思議な気分だ。
 僕はスマホを取り出し、健斗にメッセージを送った。

《ありがとう。落ち着いたら連絡してくれ》

 隣に立っていた健斗がスマホの画面を見た。そして、僕の顔を見て笑い、励ますように肩を叩いてくれた。健斗だって娘が大変なことになって混乱しているはずなのに。
 彼の強さに僕の心は少しばかり救われた。

 玄関へ入り、約十年ぶりに家の中の照明を点けた。
最後に点けたのは、このアパートへの引っ越しで両親が手伝いに来たときだろう。それ以来、目の見えない僕は照明を点ける必要がなくなった。
 部屋が明るくなり、室内の様子が視界に飛び込んでくると、アパートの外観を見たときと同じように「こんな場所に住んでいたのか」という奇妙な感慨にふけた。
 僕には、帰ってきたら真っ先に確認しなければならないものがある。それは鏡だ。健斗や真利の顔と同じく、自分の顔だってこの十六年間見ることができなかったのだから。
 急に緊張し始めた。自分がもの凄く老けていたらどうしようと思った。浦島太郎にでもなった気分だ。
 だが、僕は意を決して洗面台に行き、おじさんになった自分の顔を見てみた。
 感想としては、予想よりは老けていないと思った。健斗と真利の大人になった姿を先に見ていたので、ショックが軽減されたのかもしれない。
 しばらくの間、若干ハリの衰えた肌や、朝に剃られた髭を点検し、洗面台を離れた。
 それから、もう一度自分の部屋を眺めてみた。
 今までは形や手触りでしか認識することができなかった部屋の物や家具にも、それぞれ色や模様がしっかりとある。
当たり前だけど、配置は僕が記憶していた通りだ。テレビ、冷蔵庫、電子レンジ、洗濯機、ベッド、テーブル、タンス……。できることが限られている分、普通の人の部屋よりはいささかシンプルかもしれない。
 自分の家というものを隅々まで観察してみた。目が見えないなりにも掃除をしていたつもりだったが、やっぱり埃が積もっている箇所がいくつかある。
 クローゼットの上段に、段ボール箱が一つ置かれているのを見つけた。引っ越したあと、開けるのが面倒になってずっと放置していたものだ。確か不必要なものしか入れていなかったはずなので、その段ボール箱はそのまま置いておくことにした。
 ベッドに倒れ込み、瞼を閉じる。
 すると、最初に浮かんできたのは久しぶりに見た真利の顔だった。
 彼女のことを考えると、高校時代の淡い思い出が流星群のように絶え間なく降ってくる。
 そこには目を背けたくなるようなことも含まれていた。目が見えないままでいれば、思い出さずに済んだようなことが。
 要するに、高校生の僕は真利に救いようのないほどの恋心を抱いていたのだ。


みりか編(1)

 車が家に到着すると、私はママの腕にしがみ付いて自分の部屋まで行き、ベッドで横になった。
 ママは私に毛布をかけ、何かを語りかけた。その意味を理解することはできないけれど、ママの声には温もりのようなものが感じられた。
 しばらくすると、ドアが開閉する音が聞こえた。ママが部屋から出ていったのだろう。階段を下りているような音も聞こえた。
 ようやく自分の部屋で一人になり、冷静に物事を考えることができるようになった。私は今日起こった出来事を振り返ってみることにした。

 あの公園で満月にお願いごとをした瞬間、私は闇の世界に連れていかれてしまった。視界が徐々に暗く――やがて、真っ黒になり、何も見ることができなくなった。
 同時に、今まで体験したことのない感覚が私の脳へ入り込んできた。
 それが生まれつき失われていた感覚、「聴覚」であるということに、直感的に気が付いた。
 だけど、次々に送られてくる音が何を意味しているのか分からず、頭の中がパニックになってしまった。いつの間に祐樹にーちゃんの腕を離してしまい、私の手は虚しく空を切った。その手を自分の顔に近づけてみても、やっぱり何も見えなかった。
 どうしたらいいのか分からず困惑していると、誰かが私の手を掴んだ。近くにいたパパかママかもしれないし、祐樹にーちゃんが手を握ってくれたのかもしれない。
 頭ではそう理解しているけれど、目が見えない状態で誰かにいきなり手を掴まれるのはとても怖かった。
私は余計に取り乱し、抵抗した。
 やがて、私の聴覚にさっきまでとは違ういくつかの音が聞こえてきた。その音たちは、お互いに何かを交換しているような感じがした。
 もしかしたら、パパやママや祐樹にーちゃんが「お話」をしているのかもしれない。
 かつての私では、口の動きを見ることでしか認識できなかった行為だ。今はそれを別の感覚として認識することができている。
 そう思うと、ほんの少しだけ安心することができた。暴れるのをやめると、誰かが私を抱きかかえ、歩き始めた。体付きがいいからきっとパパだろう。
 さっきから何が起きているのかさっぱり分からないけれど、とりあえずこの状況に対して自分でどうこうするのは一旦諦め、パパとママと祐樹にーちゃんを信じて大人しくすることにした。
 それから車でどこかに連れていかれ、歩かされたり座らせられたりを何度か繰り返した。たぶん病院だろう。とりあえず、なすがままにされることにした。
 そして、自分の診察結果も分からないまま車へ戻り、こうして家に帰ってきたというわけ。
 落ち着いて考えてみても、どうして私の目が見えなくなり、耳が聞こえるようになったのかが分からない。
 私はただあの満月にお願いしただけなんだ。祐樹にーちゃんの目を見えるようにしてください、と。なのに、なぜ満月という奴は私の方に異変をもたらしてしまったのだろう。
 そんなことに頭を悩ませているうちに、今度は睡魔が私のもとへやってきた。今日はもう着替えて眠ることにしよう。
 目が見えないままパジャマを捜し出して着替えるのは、なかなか骨の折れる作業だった。
 ふと、同じく目の見えない祐樹にーちゃんのことを思い出した。毎日こんな風にして生きていたのか、と改めてその大変さを実感した。
 そういえば今日聞いた「声」の中に祐樹にーちゃんの声も含まれていたのだろうか。
 分からない、目が見えなくなって祐樹にーちゃんの腕を離してしまった瞬間から、私は彼の存在を一度も感じ取ることができずに帰ってきてしまった。
 それに私の目が見えなくなってしまったら、誰が祐樹にーちゃんの腕を引いて歩くのだろう……。なんてね。そんなのは私たちと出掛けるときだけの話だ。祐樹にーちゃんは、普段は一人で生活しているんだから。
 でもこれから祐樹にーちゃんと一緒に歩けなくなるとしたら、とっても寂しいなと思った。
 いや、それだけじゃない。パパやママの顔も見えなくなるし、テレビや映画や本やパソコンだって見られなくなってしまう。夕陽を眺めて一日の終わりを感じたり、綺麗な花に見惚れて季節に想いを馳せたり……そんなこともできなくなる。それに、学校だってどうしたらいいのだろう。
 そこで、ようやく事態の深刻さに気が付いた。
 どうしようもなく悲しくなり、見えない目から涙がポロポロと溢れ出した。今や私の瞳はただ涙を流すために存在する器官となっていた。
 やがて泣き疲れた私はいつの間に眠りに落ちた。暗闇の中で独り歩き続ける夢を見たような気がした。

 目が覚めても、私の世界に朝陽は昇っていなかった。実際にはカーテンの隙間から光が漏れていたのかもしれないけれど、その眩しさを感じることさえできない。
 しばらくの間、どうして目を開けているのに真っ暗なんだろうと寝ぼけていたけど、やがて昨日の出来事を思い出し、まさに目の前が真っ暗になった。
 朝になっても世界が暗いということが、これほど絶望的なことだとは。
 そもそも、今が本当に朝なのかも分からない。真夜中に目が覚めただけなのかもしれない。今の私では、時計を見て時間を確かめることすらできないんだ。
 そのままベッドから起き上がることもせずに、放心状態になってしまう。
「ふわぁー」
 こんな状況下なのに、いかにも呑気そうなあくびが出た。
 まあ、寝起きなんだから、さすがにあくびの一つくらい出るでしょう。そう、あくびくらい…………。
 あれ? 今のって?
 今更になって、自分が視覚の代わりに聴覚を手に入れていたことを思い出した。
 じゃあ、さっき聞こえたのはもしかして……。
 私は起き上がって、もう一度あくびをするように息を吐いてみた。
「うぇー」
 やっぱり、聞こえた。これは私の声というやつだ。
 昨日はパニックになってて気が付かなかったけど、パパやママの声らしきものが聞こえたんだから自分の声だって当然聞こえるはずだ。
 生まれて初めて自分の声を聞き、謎の感動に包まれた。
 試しに色んな声を出してみると、だんだん楽しくなってきた。
「まー」
「あよよよ」
「のうのうのうのう」
 自分の声で遊んでいると、部屋のドアが開く音が聞こえた。
「◎△※!?」
 誰かが何かを言った。もしかしたらママが私の声を聞いて、部屋まで来たのかもしれない。
 いつもママが言っている「おはよう」の口の動きをしながら、声を出してみた。
「おあおー」
 すると、その誰かは私に抱きついた。
「◎△※! ◎△※!」
 同じ言葉を叫びながら、頭を撫でてくれた。きっと喜んでくれているんだと思う。
 私もその人の頭を撫でてあげた。艶々とした髪。やっぱりママだ。
 声を出す練習をもっとすれば、いつかママやパパと「お話」ができるようになるかもしれない。頭を撫でるだけじゃなく、朝はちゃんとおはようって言って、寝る前にはおやすみって言いたい。
 そうだ、祐樹にーちゃんもだ。ママとパパとは今まで文字で会話していたけど、祐樹にーちゃんは目が見えないからそれすらできなかった。
 でも私がお話できるようになれば、初めて直接会話することができるようになる。
 祐樹にーちゃんは一体どんなことを話す人なんだろう。そんなことを考えるとわくわくした。
 満月の不思議な力によって闇の世界に放り込まれてしまったけれど、「声」というものが一筋の光となって私を導いてくれるような気がした。
 それに、目が見えないけど耳は聞こえるというのは、完全に祐樹にーちゃんと同じ立場だ。自分が祐樹にーちゃんと似た者同士になれたことも、私にとっては救いだった。

 翌日、私はたぶん、また病院に連れていかれた。
 車で少し遠い場所まで行き、歩かされたり座らせられたり、あるいは寝転がったりさせられた。昨日と比べるとかなり長い時間、検査されたと思う。
 周囲でどんな会話がされていたのか理解することはまだできず、私には依然として自分の状況が分からないままだ。
 学校には行かなくなった。私が通っていたのは、聴覚障害者を対象とした特別支援学校。なぜか聴覚障害者から視覚障害者に変身してしまった私にとっては無縁の場所だ。それに、こんな理不尽で無茶苦茶な状況下で学校なんかに行っている場合じゃない。
 私は学校に行かなくなった代わりに、喋る練習をすることにした。というより、ママが一日中話し掛けてきて、私に会話を教えてようとした。
 今までは昼間にお仕事へ行っていたけど、休んで私の面倒を見てくれているみたいだ。
 私が最初に発音を覚えた言葉は「みりか」だ。その次には「ママ」という言葉を言えるようになった。どうやら赤ん坊と同じらしい。
「ママー」
「みりか!」
 ママは、私が「ママ」って言うと喜んでくれているような気がした。声の感じで分かるんだ。それに、目が見えなくても幸せオーラが肌で感じられる。おそらく。

 ある日、パパが小さい折り畳みキーボードを私にくれた。
 今まで知らなかったけど、スマホには、文字を入力すると同時にその文字の音声を読み上げる機能があるらしい。キーボードをブラインドタッチしながらスマホに文字を読ませれば、目が見えなくてもある程度は使うことができるのだそうだ。ブラインドタッチは元々得意だから、これには大いに助かった。
 数少ない学校の友達からも、私を心配するメッセージが届いた。私はインフルエンザで休んでいることになっているらしい。本当のことを言うわけにはいかないので、感謝の言葉だけを伝えた。
 ママが家事をしているときは、ひたすらスマホをいじって色々な言葉の発音を覚えようとした。以前は、スマホばかり見ていると「本も読みなさい」とかいうメッセージが送られてきたけど、状況が状況だけにそういうことも言われなくなった。
 そんなこんなで、私は一週間みっちり練習をして、そこそこの日常会話を話せるようになった。
 さすがに普通の人と比べるとたどたどしいし、周りの会話を全て聞き取れるわけじゃない。でも、パパとママとお話をするにはこれで充分だ。
 少しずつ会話を重ねる中で、私の症状の原因がまだ不明なままであることも分かった。でも、それほど落胆はしなかった。最初は辛かったけど、今は話ができるようになってちょっと楽しくなってきたところだ。
 私はパパとママに尋ねた。
「祐樹にーちゃんは、どうしてる」
 もともと祐樹にーちゃんは数ヶ月に一回くらいしかうちに来ていなかったけど、あの日以来祐樹にーちゃんに関する話を聞いてなかったから、なんとなく気になった。
 それに、私は目が見えなくなってしまったけど、耳は聞こえるようになった。祐樹にーちゃんの声も聞いてみたいし、お話もしてみたい。
 だけど、パパとママは私の問いに対して少し黙った。
まさか祐樹にーちゃんに何かあったのだろうか。
「みりか、落ち着いて聞いてくれ」
「うん」
 胸がドキドキする。
「祐樹は、目が見えるようになった代わりに、耳が聞こえなくなってしまったんだ。ちょうど、みりかと正反対みたいに」
「え」
 一瞬、心臓が止まったような気がした。
 祐樹にーちゃんは目が見えるようになった代わりに、耳が聞こえなくなってしまった?
「そんな」
 せっかく祐樹にーちゃんと同じ世界に来れたと思ったのに、また私たちの世界の位相がズレてしまった。周波数が変わり、お互いの存在を受信できないままだ。
これには少なからずショックを受けた。しかし、こうなった原因に一つだけ心当たりがある。
「もしかしたら、私のせい」
「なんだって?」
「みりか、どういうこと?」
「みんなで、満月を見に行ったとき、お願いごとをした。祐樹にーちゃんの目が、治りますようにって」
 私はお月見ドライブに行った日のことを思い出した。
 祐樹にーちゃんの腕を握って満月を見上げたとき、確かにそう思った。
「…………」
 パパとママは再び沈黙した。
「みりか、そんなことで目が治るわけないでしょ」
 ママが諭すように言った。
「私がこんな風になった理由も、分かった」
「えっ!?」
「私と祐樹にーちゃんは、視力と聴力が交換された。満月の力で」
「ちょっと、何言ってるの!」
 ママの反応は、信じられないという声色だ。だけど、こんなに明瞭で簡単な答えなのに、どうして大人たちは気付かなかったのか、どうして受け入れらないのか私にはとても不思議だ。
 仕方がないので、建設的な提案をしてあげることにした。
「祐樹にーちゃんをうちに呼んで、話を聞けばいい」
 少しの間があった。そして、パパの声が聞こえた。
「まあ、原因はともかく祐樹にまた来てもらうのはいいんじゃないか」
「でも蟹沢君、耳が聞こえないんでしょ? 話なんてできるの?」
「チャット使うしかないかなぁ。けど、それでも顔を突き合わせた方がいいと思う」
「蟹沢君がいいなら別にいいけど……」
「今聞いてみるよ」
 それから、パパとママはしばらく黙った。パパが祐樹にーちゃんにメッセージを送っているのだろう。
 祐樹にーちゃんは暇だったのだろうか、すぐに返事がきた。
「明日でも大丈夫だって」
「じゃあ夕方迎えに行って、スーパーに寄ってきてくれる?」
「いいよん」
 これで、私は明日祐樹にーちゃんと再び会うことになった。直接会話をすることはできないのだけど。

 その日の夜はなかなか寝付くことができず、ベッドの上で何度も寝返りを打った。
 どういうわけか、私は視力を失ってから祐樹にーちゃんのことをよく考えるようになった。今まではこれほどじゃなかったと思うんだけど。
 目が見えなくなって、かつての祐樹にーちゃんと同じ立場になったからだろうか。それとも、この異常事態を彼と共有しているからだろうか。
 祐樹にーちゃんはパパとママの昔からの友達で、私の物心がついたときからうちにちょくちょく来ていた。彼は目が見えなくて、私は言葉が話せないのに、小さい頃はよく遊んでくれていた。家族でもないのに、生まれたときから知っている不思議な存在だ。
 もう一度、祐樹にーちゃんの顔を見たい。カッコイイのにたまに寝癖がついていたり、髭の剃り残しがあったりするところが可愛らしかった。これがいわゆる「失って初めて大切さに気付く」というやつ?
 はたして、私たちが元の状態に戻る方法はあるのだろうか。いや、きっと何かある。祐樹にーちゃんと力を合わせればなんとかなる。そう信じたい。
 また目が見えるようになったら、今度は私が祐樹にーちゃんの寝癖を直してあげよう。
 私は眠りに落ちるまで、高鳴る胸の鼓動に耳を澄ませていた。

恋は盲目、月の耳

執筆の狙い

作者 広瀬翔之介
153.204.26.249

盲目の男と難聴の少女の、視力と聴力が入れ替わることによって起こる恋物語です。
主人公とヒロイン、それぞれの視点で交互に進行します。

小説家になろうとカクヨムにも掲載していますが、鍛錬の場ということで序盤のみの投稿となります。
ストーリーや文章に突っ込みどころ等があれば教えて頂けると助かります。
よろしくお願いします。

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