作家でごはん!鍛練場
はるか

君はロックを聴かない

 どきどきどきどき、おっさんの胸はときめいた、どきどきどきどき、体によくない、ぜったいよくない、でも、だが、しかし、にもかかわらず、ばっとねばーすれす。
 おっさんは、ターンテーブルにレコードをのせて、埃の匂いを感じつつ、ジェンガを抜くような手つきでそっと、そうっと、黄金色の針を降ろした、むすめの視線を意識してなせる、最大限にスキルフルな動作であった。
 むすめは、おっさんを見つめていた、タピオカミルクティーをすすりながら見つめていた。その目は澄んでいたけれど、はしっこあたりに、葉陰みたいな色もちらほらしていて、だからおっさんには、むすめが、単純にさびしそうに見えた。
「プレゼントだよ」と、おっさんは言った。「この歌は、僕から君へのプレゼント」
 ぷつぷつぷつ、とレコードがつぶやき、それから、ぎゅいいんとギターが叫んだ、ろけんろーるだぜ、べいべ!
 おっさんは、いくらかほほを染め、少年のような瞳でむすめを見た。
 むすめは、くすりと笑った。
 おっさんの目が泳ぐ。「なぜ笑うんだい?」
 むすめは、今度は、風にそよぐ青葉みたいに笑った。
 少し怯んだおっさんだったが、下唇をくわえて、しばらく力をためて、それから絞り出すようにして言った。「知ってるよ」と言った。「君がロックなんか聴かないって知ってる、わかってる、でもね、だけどね、僕はね、この僕はね、ロックンロールに頼ってきたんだ、ずっとだよ、そう、君くらいのときに僕は恋をして、大震災みたいにぐらぐら揺れちゃう恋をして、苦しくて、切なくて、どうしていいのかわからなくて、だからロックを聴いたんだ、あんな歌やこんな歌、やみくもに聴いたんだ、それで乗り越えたんだ、なんとか乗り越えたんだ、春の嵐みたいな、夏の稲妻みたいな、そんな恋を、心がばらばらになっちゃいそうな、危ないときめきを、とにもかくにも乗り越えたんだ、ほんとだよ」
 言ってからおっさんは、胸に手をあて、しばらくじっとしていた、今でもまだ胸が痛い、というふうに。
 むすめは黙って、ただ、おっさんの目を見ていた。
「だからね、だから、べいべ、踊ろうぜ、乾いたリズムでしぇいくしようぜ、ろけんろーるだぜ」
 レコードが二曲目を奏で始めた。
 と、誰かがドアをノックした。おっさんとむすめはドアを見た。ドアが開いた。おばさんが入ってきた。
「ちょっとあなた、音、大きいんじゃない? お隣さんから苦情来るわよ、それから、あんた、あんたは宿題終わったの? まだなら自分の部屋に帰って、まずは宿題片付けちゃいなさい」
 むすめは肩をすくめた。おっさんは肩をおとした。
「あ、それから、えーと、青山、利治くん、だね、ほら、彼からまた、ラブレター来てるよ、今度のは前のより分厚いよ、今どきあれだね、手紙だなんて古風だね、あたしも昔を思い出すよ、ね? お父さん?」
 鳴り響くリズムに合わせるようにしておっさんは、小さくヘッドバンキングした。
 むすめは立ち上がり、歩み寄り、おっさんの肩を軽く叩いた。
 部屋を出てゆくむすめの背中に、おっさんは何か言った。
 でも、ギターがぎゅいんと鳴って、だからむすめにはその声が聞き取れなかった。

※有名な歌の情景を文字に書き起こしてみました。この作品については著作権を主張しません。歌の景色の書き起こしってわりといい練習になるかもしれません。私にはそう思えました。

君はロックを聴かない

執筆の狙い

作者 はるか
106.154.130.254

 有名な歌の情景を文字に書き起こしてみました。何かプラスアルファなものが漂っていますでしょうか。向こう側が匂ってきますでしょうか。余韻は残りましたでしょうか。地階は描けておりましたでしょうか。余分なテキストはありましたか。足りないテキストはありましたか。この作品については著作権を主張しません。歌の景色の書き起こしってわりといい練習になるかもしれません。私はそう思いました。

コメント

水野
114.184.129.14

「歌」というものを考えるとき、私はいつも混乱に陥ります。歌詞カードを眺めれば、そこにはある程度意味や情景の読み取れる文字列が並んでいます。しかし、いざ歌われている実際の曲を聞くと(「聴く」という表現を私は敢えて使いません)、先ほどまで頭の中にあった意味や情景がことごとく拒まれていくのがわかります。歌を文字として読んだ際の解釈と、歌が声として歌われたものを聞く際の解釈は相容れないものなのだということを実感します。

今回、はるかさまはどのような態度で「有名な歌の情景を文字に書き起こして」みたのでしょうか。歌詞カードから文字に書き起こされたのであれば、創作にそれほど苦労はしなかったはずです。このとき行なわれるのは文字から文字へのごく単純な変換操作ですし、文字から自然と見えてくる意味や情景は、最初から歌手のものではなく解釈者自身のものですので、湧き上がる光景に破綻は見られないはずです。

一方で、執筆の狙いには「何かプラスアルファ的なものが漂っていますでしょうか。向こう側が匂ってきますでしょうか。余韻は残りましたでしょうか。地階は描けておりましたでしょうか。余分なテキストはありましたか。足りないテキストはありましたか。」と書かれています。もしも初めから、歌の情景を文字に書き起こすにあたって「何かプラスアルファ的なもの」を求めようとすれば、私だったら歌詞カードからではなく物理的な音響としての楽曲そのものから書き起こそうとします(現にやろうと思ったことが最近ありました。しかし、その作業は今の私を大きく変容しかねないので、実現することはありませんでした)。

その作業は、自分自身ではなくまさしく他者の見た情景を他者自身の言葉で表現することにほかなりません。加えてそれは、歌詞に沿って歌う歌手の声にどのような「向こう側」が具わっているのかを決定づけてしまう、残酷な悲劇を身をもって体現することにほかなりません。そのようにして書かれた文章は、できあがってみると歌詞カードに書かれている文章とはまるで別のことが書かれている可能性が高いです。似たようなことしか書かれなかったのだとすれば、創作者は他者ではなく結局のところ自分自身の情景しか頭になかったということになるでしょう。その情景は無論、楽曲を聞く前から創作者の記憶に眠っていた、既存の情景です。

今回はるかさまが題材に選んだ「有名な歌」がなんなのか、私は敢えて考えないことにします。書き起こされた「歌の景色」が、原曲の歌詞とどこまでかけ離れているか、そしてどのような声が、両者の文字列を統合しているのかが、『君はロックを聴かない』を読むうえで焦点になってくるかと思われます。

鯛茶漬け美味し
14.132.254.69

拝見させていただきました
句読点が独特なので、話しが入ってき辛かったです
それと、三人称の進行で“おっさん”という表現も独特なので、話しが頭に入り辛らかったです
すみません(>_<)

櫻井
60.155.199.121

 読点や改行、ひらがな語の多用により、とても軽妙で爽やかな作品に仕上がっていると思いました。こういった何気ない詩美を宿した文章を書くためには、筆者にもまた純朴な精神性が求められると私は考えています。それは私にはないものなので、こういった文章を書けてしまえるはるかさんに対し、ささやかな羨望を覚えてしまうくらいです。
 
 ただ、ひとつだけ気になるところがありました。ラストシーンですが、あえておっさんがむすめにかけた言葉を明示しなかったのは、読者の想像をかき立て、余韻を生み出すための工夫でしょうか?違っていたら申し訳ないのですが、このシーンには少し違和感を覚えました。というのは、この作品における視点というものが、基本的におっさんに集中されていたからです。それが最後の最後むすめに注がれるのは急な気がします。そしてむすめは、おっさんやおばさんと違い、この作品において一度も台詞を発していません。むすめは常に客体として描写されています。それが最後突然、前触れもなくむすめが主体となったわけですから、私はややラストのシーンが腑に落ちず、あまり余韻も感じられなかったのです。勿論これは私個人の感想です。他の人にとってはあまり気にならない点なのかもしれません。けれども、私にはそこだけが唯一残念な点に感じられたので、的外れな指摘かもしれないと思いつつも、一文したためさせていただきました。

 歌という文章とは隔たりある媒体を起点に、豊かな想像力を膨らませる感性の肥沃さにはただただ脱帽するばかりです。光るところが多分に感じられる、素晴らしい作品だったと思います。拙文、失礼しました。

はるか
106.154.131.45

 水野さま

 ありがとうございます。

 この歌を、私、よく歌います。この歌を作詞作曲されたあいみょんさんはギタ女であります。フォークギターを掻き鳴らしながら歌うのであります。私はウクレレを弾きます。ギタ女じゃなくって、ウク女を気取ってジャカジャカ演ります。ウクレレなのに、ジャカジャカなのです、ポロポロじゃなくて、そういう歌なのです。

 だから、歌詞は、とうの昔に頭に入っています。コードも暗記してます、というか、指が覚えているので、拙作を紡ぎ出すにあたって、歌詞カード等の文字列はちらりとも見ていません、日頃そらで弾き語ってる歌を小説で表してみました。

 歌は、言葉じゃありません。水野さんのおっしゃりたいことも、そのあたりにあるのではないかと思うのですが、歌は、音であり、リズムであり、息遣いであり、ことに歌い手の作詞作曲である場合それは、歌い手の思いや、ときに歌い手の在り方、歌い手の恋愛観、歌い手の親子関係、などの染み出しでもあります。

 あいみょんさんの『君はロックを聴かない』を、歌詞検索するのではなく、YouTubeなどで実際に聴いていただければわかるかと思うのですが、いえここは、聴いて、じゃなくて、聞いて、でも構わないのですが、耳にしていただければわかるかと思うのですが、あいみょんさんは、この歌を読んではいません、弾き語っている、語っているのです。何が語られているか、文字を追っただけでは、実に解釈の難しい歌であります。歌詞カードを読んだだけでは、僕、という一人称が、君の、なんなのか、それがよくわかりません。ふたりの年齢差、ある、ような、ない、ような。というか、これ、恋愛? という疑問も。なぜレコードなの? という不思議が、なんてことないシーンをミステリーにしています。しかし、あいみょんさんの、いろんな歌を聴いてみると、いろんなことを感じます。彼女の、中性性、は、その歌い方からしても、誰もが感じるかと思うのですが、彼女の中にある、父なるもの、への憧憬、いえ、憧憬、という言葉のチョイスは外してる気がします、なんだろう、青葉がそよぐみたいな感じ、そんなのを、私は強く感じるのでした。

 今回私が、私の、あるいは勝手な解釈により、とはいえ、歌詞をリスペクトして、歌詞から引き算はしないで、しかし歌詞の行間に新たなる言葉を、そうですね、歌詞ではなく、歌声からの解釈により、いえ、直観により、追加して紡いだのが拙作なのですが、これが示して、いえ、表しているのは端的に次のようなことであるかと思われます。

 僕の君への気持ち=X。さて、Xに「代入」する「べき」は何か?

 すごく難しい。『君はロックを聴かない』は、そういう歌なんです。言葉で表しづらい。それを、Xを、小説、という形で、なんとか表せないか、というのが今回の試みでした。

 あいみょんさんの歌を勝手に意味付けて許さない! というファンはたぶんいないと思います。だってこれは小説であって、解説ではないから。勝手に、わかったふうに、こういう歌です、って決めつけられちゃうと嫌かもしれないけど、私は、私の受けた情景を、匂わせたり、漂わせたりしてるだけで、歌の意味を分析してるわけじゃないんで、歌の価値を損ねたりしてないし、歌へのリスペクトも感じていただけるだろうし、誰も不快に思わないだろう、って信じてます。著作権云々みたいなことも侵害するつもりはないですし、というか、侵害しえませんから、こんな無名の筆じゃ、なので安心して投稿しました。

 作品のタイトル、敢えて歌と同じものにしました。作中の台詞も、可能な限り、歌を尊重しています。

 つづきます。

はるか
106.154.131.45

 水野さま

 つづきました。

 以上のような感じで、水野さんへの回答になっておりますでしょうか、向き合えておりますでしょうか。

 関係ないけど、ウクレレ、いいですよ、弾き語り、いいです、リズムが学べます、語りのリズムが、ポエムは間違いなくそうですけど、小説にも、わりと、リズム、大事な気がするんですよ、だから、言葉をリズミカルに語る練習に、弾き語り、とてもいいんです。ウクレレなら、Amazonで二千円くらいからあります、安いのだと千五百円、私のは三千九百円でした。ギターに比べたら簡単で、こんな私でも、一日で弾けるようになりました。八個くらいかな、そのくらいのコード覚えたら、たいていの曲は弾けます。今では、私、勝手なメロディを勝手に爪弾いて、勝手な歌詞を付けて、勝手に歌ってたりします。楽しいし、小説書くのにも、ほんと、たぶん、役立ちますよ、言葉に感情を乗せて語れるようになる、演劇に似た何かを感じます。

 物語を歌うと、それはポエムに近いものになりそうですが、次回は、私、物語を歌うみたいに書いてみたいと、これを書きながらそう思い立ちました。言葉を、筆で奏でる、みたいなこと、できたらいいな、と感じました。歌は、勉強になります。

 だなんて、おしゃべり、失礼しました。ご感想をありがとうございました。

 と、締めてから、ふと思い付いて、試しに提案してみるのですが、

>書き起こされた「歌の景色」が、原曲の歌詞とどこまでかけ離れているか、そしてどのような声が、両者の文字列を統合しているのかが、『君はロックを聴かない』を読むうえで焦点になってくるかと思われます

 ここ、おそろしく、まったく、そのとおりであります。ので、そして水野さん、たまたま『君はロックを聴かない』が既知ではなかったようなので、そして卓越した聞き手さんであり、読み手さんであられるとお見受けいたしましたので、実に適任でありますれば、もしも、もしもお手間でなければ、いえ、お手間ではございましょうけれども、できましたら、まずは『君はロックを聴かない』を歌詞検索して、歌詞をお読みいただき、そこにある文言の「表層的意味」が、拙作とは「まったく異なっている」ことを確認していただいたうえで、次にYouTubeで『君はロックを聴かない』をきいていただいて、で、果たして、そこにある「響きが」、拙作の響きに「重なっている」のかどうかを判断していただきたいと、そのような実験を、恐縮しながらも、提案させていただく次第です。お忙しいこととは存じますが、ふとその気になられましたあかつきには、是非被験者に……嗚呼、すみません、なっていただけたらすごく嬉しいです、水野さんの目と耳を信じておりますので。歌と小説との間にいかなる情景の橋も架かっていない、と認識されましたあかつきには、そのむねビシリと、この私めに突きつけていただきたく、というか、その可能性ありますね、おそろしくて、ジェットコースターの列に並ぶ気分で、裁定を楽しみに……、なんて、私のゲームに、身勝手なお誘いをしてしまい、すみません、気分を害されたら謝ります、その際にはスルーしてやってください。

 長々と失礼いたしました。

はるか
106.154.131.45

 鯛茶漬け美味しさま

 ありがとうございます。

>句読点が独特なので、話しが入ってき辛かったです

 勉強になります。句読点、独特でありましたか、そうですね、今、書いてるこの文章みたいに、私、句点の代わりに読点を使って、たらたらとセンテンスを長くする書き方を最近試していて、それを、読み手さんは、どうお感じになるのかな、と、非常に知りたかったので、ご指摘、大変参考になります、そうでありましたか、やはり、読みづらいですか、うーん、やっぱり普通の書き方、しようかな、なんか、私ふうのリズムみたいなの、作りたかったんですよね、長いのも、こんな呼吸で書いてみたりしてるんですよ、読みづらいに一票が入ったので、少し、考えてみます、非常に参考になりました、ありがとうございます。

>三人称の進行で“おっさん”という表現も独特なので、話しが頭に入り辛らかったです

 ご指摘、理解できます。おっさん、それから、むすめ。読み手さんで、この歌を知らない方は、なんだかキャバクラとか、連想しちゃうかもしれないし、不倫? とか勘ぐっちゃうかもしれないし、ふたりの関係が非常にわかりづらいですよね、元の歌もそうなんですが、あ、もちろん、元の歌には、おっさん、なんて出てこないですよ。思春期の娘と、その父親、というものを私はイメージしたのですが、いえ、これも、元の歌は、そんなことまったく明示していませんが、ともかく、それは、拙作のうちでは最後に明かされる、いわば真犯人で、読み手さんには、最後に至るまで、行間に目をこらしながら、かつ、それでも、?、?、?と、ふたりの関係を把握できずにいてほしかったのでした。なんでそんなことをしたかというと、村上春樹さんの言葉でいうところの地階を、表してみたかったからです。限られた字数でそれをやると、物語は、ポエムに近いものになるようです、つまり、一階がすんなり読み解けなくなってくる、なんかもわもわするなあもう! みたいな感じになりやすいかと思われます。そこんとこをなんとかするのが書き手の技なわけですが、私の力量不足で、たぶん、一階が霞んでしまっていたのでしょう、霞んだ一階の下に地階があろうがなかろうが読み手さんの知ったことじゃありません、一階が、「意味なく脆弱であったなら」、それは、独り言に限りなく近いポエムにしかなり得ませんよね。鯛茶漬け美味しさんに、読みづらい、入りづらい、とご指摘いただいた時点で、拙作は失敗だったのだ、と悟りました。読みづらい話に、匂いも、余韻もあったもんじゃないですもんね。手抜きせず、全力で書いて、何度も推敲して、自分じゃ、よし、と思って投稿しても、全然見当違いのとこ掘ってたんだな、って、あるいは、掘ってたのかな、って気づかされました。ありがとうございました。

はるか
106.154.131.45

 櫻井さま

 ありがとうございます。

>読点や改行、ひらがな語の多用により、とても軽妙で爽やかな作品に仕上がって

 はい、軽やかさの下にあるちょっと切ない感じも含めて拙作には深刻な要素はありません。

>何気ない詩美を宿した文章を書くためには、筆者にもまた純朴な精神性が求められると私は考えています。それは私にはないものなので

 非常に驚きました。純朴なる精神、そんなものが私の中の、どこかすみっこに隠れていたのでしょうか、今度また何か書いてさがしてみることにします。すごく自慢のバッジになりそうです、純朴なる詩美、ヘルマン・ヘッセみたい。若草の匂い。

>ラストシーンですが、あえておっさんがむすめにかけた言葉を明示しなかったのは、読者の想像をかき立て、余韻を生み出すための工夫でしょうか?

 解釈を読み手さんに委ねた格好でした。むすめに、おっさんが、なんと呼び掛けたのか? その言葉次第で、この短い話の意味みたいなのが定まるかと思うのですが、そこを一義的に、書き手という名の一読み手が決めつけたくなかった。私の中にはあるんです、おっさんの言葉、はっきりとあるんです。でも、それを書いた途端に、読み手さんの物語は崩れてしまいます。おっさんの最後の一言は、読み手さんが、読み手さんの好きなように綴ればいいんじゃないかな、と、私は、わりと強く思っています。読み手の数だけ物語はあるわけですから。あいみょんさんの歌を、私が、私の物語として受け取ったように、拙作を、読み手の方が、読み手の方の物語として受け止めてくださったらいいな、なんて思いました。あいみょんさんの元歌より、拙作は、より意味を、あいみょんさんには申し訳なくも、限定してしまっていますが。

>少し違和感を覚えました。というのは、この作品における視点というものが、基本的におっさんに集中されていたからです。

 視点。
 三人称視点の物語として書いたのですが、おっさんの語りが長いですし、おっしゃるとおり、終始、おっさんに視点を寄せてます。元歌は完全におっさん、っていうか、男性の一人称視点ですし。でも、ろけんろーるだぜ、べいべ! とか最初に叫んだのは、ギターだし、あるいは、そういう擬人化した捉え方が嫌な場合は、それ、すなわち、書き手の発語、ってことになりますよね、ろけんろーるだぜ! って。わかりにくく溶け込ませてますが。だからまあ、書き手としては、拙作、徹頭徹尾書き手視点なのであります。元歌は、僕、という、男性の一人称語りでありながら、私はるかは、なぜか、君、に視点があるような、そんな気がして、つまり、あいみょんさんが歌うからなのかな、君、と呼び掛けられてる君の眼差しが僕を、受容的に、しかしかなり主体的に見てる歌なんだな、って気がしてしかたなかったんです。その情景をスケッチしたんで、拙作、おっさんがたくさん語るけど、真の視点はむすめという湖の中に沈んでいるってしたかったんですよ。「おっさんを見つめてる私、を、見つめているおっさんを、この私がみつめている」と、そんな構造をイメージしました。おっさんは、むすめをいだいているつもりで、実は、いだかれている、というふうに私は感じるのでした。だって、このおっさん、っていうか、お父さん、すごくかわいいじゃないですか。

>それが最後の最後むすめに注がれるのは急な気がします。

 最後のセンテンスで、こう、がばっとひっくり返すっていうか、軸足を入れ替えた感じにしたかったんですが、これって、三人称小説においても、視点のぶれ、みたいなことになるのでしょうか? 読み手さんに、おっさん寄りの視点で読んでいただいて、でもって、最後のセンテンスで、あれれ? そうか、僕視点じゃなくて、むしろ君視点の物語だったのかな、とか思わせたかったのですが、そういうのって、三人称視点、というか、書き手はるか視点の物語においても禁じ手だったりしますでしょうか? あれ、なんか、私、わかってないのかな? 視点、というものが。ちょっと、よく考えてみますね。

 つづきます。

はるか
106.154.131.45

 櫻井さま

 つづきました。

>むすめは、おっさんやおばさんと違い、この作品において一度も台詞を発していません。

 はい、湖の瞳です。

>むすめは常に客体として描写されています。

 いえ、これは、どうなんでしょうか、常に客体、ではないような、私の捉え方が違うのかな、そうか、わかりました、理解しました、台詞ですね、発語の主に、読者さんは、視点、というか、主体性を感じやすいのですね、たぶん。私なんかは、むすめの、眼差し、に、むしろ主体性を感じちゃうタイプなのかも、です、沈黙は金、じゃないけれど。静かな瞳が、ずっと、ただ、見つめているわけです、真昼の月みたいに。見つめるほかには、むすめは、くすりと笑うか、若葉のようにそよぐかしか、してません、でも、その圧倒的な存在感を、野辺に咲く花の存在感を、あいみょんさんの、別の歌の、マリーゴールドじゃないですけど、主体性として感じてしまうのです。おっさんに主体性を感じる読み手と、むすめに主体性を感じる読み手がいて、だから、むすめは、必ずしも、常に客体、という書かれ方をしているわけじゃない。と、いう問題じゃない、のでしょうか?

>それが最後突然、前触れもなくむすめが主体となったわけですから、私はややラストのシーンが腑に落ちず、あまり余韻も感じられなかったのです。

 そうでありましたか、大変参考になります、主体性がシフトしちゃうと、感受点が分裂しちゃって、余韻どころじゃない、ということがあるのかもしれません。こういうのって、こういう場で、こういうやりとりをしないと、まったく気付けないことであります。私は、私の読み方をベースにして、私の書き方を定めているわけですから、私の読み方が、ひとさまと違うと、それすなわち、私の書き方が、ひとさまの読み方をはねつけるようなものになりかねないわけで、普遍的な読み手さんが、物語を「どう読んでいるのか」、これは、すべての書き手が気になることでしょう。いろんな読み方があってよいわけですが、多様なるその読み方に、ひとつでも多く精通していたほうが、書き手の筆幅は広くなってゆくように思われます。勉強になりました。なお、私の、視点や、主体に対する考え方が根本から間違っているようでしたら、ちょっとなんだかそんな気がしてきました、お手間でなければ、是非再度そのむねご指摘ください。ともあれ、余韻に浸れなかった、とのご感想、受け止めました。非常にためになるご指摘を心よりありがとうございました。

 と、締めてから、ふと、あるいはこういうことかな、と思い当たり、改稿してみました。

> でも、ギターがぎゅいんと鳴って、だからむすめにはその声が聞き取れなかった。

改 でも、ギターがぎゅいんと鳴って、だからむすめにはその声が届かなかった。

 主体のスイッチ、みたいなのを避けるためには、このようにしたほうが、いくらかベターかと思ったのですが、余韻、というか、この話の隠された主体というか、湖の瞳を明かすためにも、作品としては、やはり、

> でも、ギターがぎゅいんと鳴って、だからむすめにはその声が聞き取れなかった。

 のほうがよいと、私は思うのですが、どうかな、違うかな、ともあれ、改稿したやつだと、主体の入れ替り、みたいな不快感は和らぎますか?

 だなんて、質問で締めちゃってすみません。お忙しいようでしたら、スルーでお願いします。

 だなんてまた締めておいて、またまた書くのですが、今、気になって、ちょっと見たら、櫻井さんって、あの、アルペンガリヨンの書き手さんですよね、冷や汗です、あの書き手さんがご指摘されるってことは、そうでありましたか、どうやら私の、三人称小説の書き方に致命的な盲点があるようですね、たぶんかなり基本的な部分で私、わかってなくて、ずっときちゃったんだと思います。三人称視点の小説における主体、というものについてちゃんと学びたいです。ありがとうございます。まだちゃんとわかってないんで、自分でも調べてみますが、今後機会があったらまた教えてください、あと、すみません、この感想欄を見てくださっていて、私の間違いを、どういう類いの間違いなのか、指摘してくださる方がいらっしゃいましたら、是非、機会のあるときに指摘して、教えてやってください。まずいなあ。ずっとこれできちゃいましたよ。これからは当分、一人称の物語だけを書こう。で、その間に、もう一度三人称視点の文章における主体について学んでみたいです。本当にありがとうございました。

夜の雨
118.18.72.209

読みました。

また元歌の歌詞をチェックして、ミュージシャンの歌も視聴してきました。

元歌とは視点が違うので、別物になっていますね。
元歌は「主人公(僕)」が「彼女(君)」に対して歌っていますが、御作では父親が娘へ歌っています。序盤では父親だとはわからないような演出。
だから似ているようで似ていない。
恋人への愛情表現が「おっさんと思わせて、父親の」娘への愛情表現になっています。

御作についてですが、完成度が高いです。
読んでいて、まったく違和感がありません。

【    】 ← このカッコで囲んである文のところに、味(個性)があります。


 どきどきどきどき、おっさんの胸はときめいた、どきどきどきどき、体によくない、ぜったいよくない、でも、だが、しかし、にもかかわらず、ばっとねばーすれす。
 おっさんは、ターンテーブルにレコードをのせて、【埃の匂いを感じつつ】、【ジェンガ】を抜くような手つきでそっと、そうっと、【黄金色の針を降ろした】、むすめの視線を意識してなせる、最大限に【スキルフル】な動作であった。
 むすめは、おっさんを見つめていた、タピオカミルクティーをすすりながら見つめていた。その目は澄んでいたけれど、はしっこあたりに、葉陰みたいな色もちらほらしていて、だからおっさんには、むすめが、単純にさびしそうに見えた。
「プレゼントだよ」と、おっさんは言った。「この歌は、僕から君へのプレゼント」
 【ぷつぷつぷつ、とレコードがつぶやき】、それから、【ぎゅいいんとギターが叫んだ】、ろけんろーるだぜ、べいべ!
 おっさんは、いくらかほほを染め、少年のような瞳でむすめを見た。
 むすめは、くすりと笑った。
 おっさんの目が泳ぐ。「なぜ笑うんだい?」
 むすめは、今度は、風にそよぐ青葉みたいに笑った。
 少し怯んだおっさんだったが、下唇をくわえて、しばらく力をためて、それから絞り出すようにして言った。「知ってるよ」と言った。「君がロックなんか聴かないって知ってる、わかってる、でもね、だけどね、僕はね、この僕はね、ロックンロールに頼ってきたんだ、ずっとだよ、そう、君くらいのときに僕は恋をして、【大震災みたいにぐらぐら揺れちゃう恋をして、苦しくて、切なくて、どうしていいのかわからなくて、だからロックを聴いたんだ、あんな歌やこんな歌、やみくもに聴いたんだ、それで乗り越えたんだ、なんとか乗り越えたんだ、春の嵐みたいな、夏の稲妻みたいな、そんな恋を、心がばらばらになっちゃいそうな、危ないときめきを、とにもかくにも乗り越えたんだ、ほんとだよ」】
 言ってからおっさんは、胸に手をあて、しばらくじっとしていた、今でもまだ胸が痛い、というふうに。
 むすめは黙って、ただ、おっさんの目を見ていた。
「だからね、だから、べいべ、踊ろうぜ、【乾いたリズムでしぇいくしようぜ、ろけんろーるだぜ」】
 レコードが二曲目を奏で始めた。
 と、誰かがドアをノックした。おっさんとむすめはドアを見た。ドアが開いた。おばさんが入ってきた。
「ちょっとあなた、音、大きいんじゃない? お隣さんから苦情来るわよ、それから、あんた、あんたは宿題終わったの? まだなら自分の部屋に帰って、まずは宿題片付けちゃいなさい」
 むすめは肩をすくめた。おっさんは肩をおとした。
「あ、それから、えーと、青山、利治くん、だね、ほら、彼からまた、ラブレター来てるよ、今度のは前のより分厚いよ、今どきあれだね、手紙だなんて古風だね、あたしも昔を思い出すよ、ね? お父さん?」
 鳴り響くリズムに合わせるようにしておっさんは、小さく【ヘッドバンキング】した。
 むすめは立ち上がり、歩み寄り、おっさんの肩を軽く叩いた。
 【部屋を出てゆくむすめの背中に、おっさんは何か言った。
 でも、ギターがぎゅいんと鳴って、だからむすめにはその声が聞き取れなかった。】

「大震災」は、現実にかなりダメージを日本国民に与えているので、使う場合は気を付ける必要がある。下手すると、ネット等でたたかれる。

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いままでも個性のある文章を書かれる方だなぁとは思っていましたが、
はるかさんは、文章へのこだわりがあるようです。


伝言板に書かれていた『みみずくは黄昏に飛びたつ』という対談集で村上春樹が語っていた「文体」のことですが、
”ストーリーは向こうからやってくるのでレシーブしているだけです。でも文体は向こうからは来てくれません。自分の手でこしらえなくちゃならない。”
これって、ストーリーよりも文体を創ることの大切さを語っているのだろうと思いますが、朝ドラの「ゲゲゲの女房」のなかで複数の出版社の編集者が言っていましたね。

「ストーリー」や「絵」はうまくても「個性」がない。 ←水木しげるのところに貸本漫画家の女性が出入りしていたのですが、彼女が「ガロと講談社(テレビでは別名)」に自分の漫画を持って行ったときに編集者(ガロの場合は社長で講談社は当時の少年マガジンの編集長)が彼女に直接、またはいないときに言っていました。それで、彼女は漫画家になることをやめて故郷に帰ることになりました。
漫画で「ストーリー」や「絵」はうまくても「個性」がないとダメということで、個性とは何かというあたりも表現されていました。
わかりやすく言うと、絵画でいうところのゴッホやピカソの表現力みたいな感じです。
これって、小説に例えるなら「文体」になるのでしょう。
村上春樹が語っている「文体」は絵画でいうところのゴッホやピカソの表現力になり、結局のところは、創作に関連するものは、「個性」だ大切ということだと思います。

で、はるかさんの文章は今回の作品も含めて三作(投稿作ではもっと多い)読ませていただいていますが、個性がある文体だなぁと思っている次第です。
今回の「君はロックを聴かない」も原作とは違い、自分のものになっていると思います。


お疲れさまでした。
 

ゴイクン
121.92.248.169

短かったので、読みました。
おもしろかったです。
元歌もユーチューブで聞いてみました。ああ、いいな、と思いました。

繰り返しを意識的に使われていますが、どれもよかったです。繰り返しは、書く上で何の問題もないです。詩なんて、リフレインだらけ。ごちゃごちゃある。
問題は、意識しない繰り返し、うかつな繰り返し、語感が変な繰り返しの場合だけで、意識されて、御作のようにきちんと書かれていれば、とてもよい効果が出ます。

なので、気になったのはたった一つでした。おっさん、という言葉です。

これが父親とか山田太郎なら何の問題もないです。まあ、客観小説みたいになります。

でも、おっさんは、誰かの言葉のはずです。誰がおっさんという言葉を使っているのか、つまり誰の目線で変な男を見つけているのか、という問題が残ります。
私は気になりました。

となれば、きっと物言わぬ娘だろう、と思います。
なので、すべては娘が聞いたこと、見たことになるのではないかと想像したわけです。

父親の唄う様子を見て、徐々に心が近づいてきて、そして最後に肩を叩いて、お父さん、という^^

ははっ、逆でしたね。お父さんとはいわない。ラストでは、主役は父親になってしまう。

でも、まあ、娘にそんな言葉をいわせたら、陳腐すぎてどってんこきますが、でも、元歌を聞けばそんな気がしました。恋人のように寄り添ってほしいわけだものね、お父さんは。

というロマンチックな雰囲気の中にお母さんが現れる。

ジュリエットもロミオもさえずっていればいいわけです。そこには必ずリアルの代表のような人が入ってくる。ジュリエットの場合は、エミリアだったかな。
そういう対比は、たとえ常套だとしても必要でしょうね。
このお母さん、もう少し迫力があって、みんな唖然とするくらいでもよかったじゃないでしょうか。

まあ、感想というより、妄想です。
楽しく読めました。それでは。

櫻井
60.155.199.121

>はるかさん
私は確かにアルペンガリヨンの書き手なのですが、あれはまぐれみたいなもので、純粋な力量、総合値でははるかさんの方が上手だと思っています。なので、本来なら教示などとんでもない立場なのですが、自分が先に感想を書いておいて無反応というのもあれなので、私見を述べさせていただきます。

 個人的な考えですが、三人称視点の作品において、読者は劇や芝居を見ているかのような感覚に陥りがちだと思います。劇中の出来事と読者の視点との間にいくらかの隔たりが生まれます。とはいえ、その視線は完全に分散し切ったりはしません。実際に劇を見る時同様、私たちは舞台全体を見渡すのではなく、一点にピントを合わせようとします。そしてピントを合わせる先は、作中の展開に応じ変化していくのが常です。
 私ははるかさんの作品を読んでいる際、途中までおっさんに視点のピントを合わせていました。けれどもそこから容易に、むすめへとピントの先を変えることが出来ませんでした。それは、むすめへとスムーズにピントを変えられるほど、むすめの人格が詳細に描かれていなかったからです。
 湖の瞳、という表現を聞き、私はハッとさせられました。それは非常に興味深いと発想だと思ったからです。けれどもこの作品において、読者はむすめがどういった人物か想像をはたらかせられるほど、むすめについての描写が与えられていない、私はそう感じました。タピオカミルクティー、澄んだ目、笑いなどでは、どうしても不十分だった気がします。この作品においては、娘は内面でも言動でもなく表層に表れる行動で描写されます。ペットの犬や猫を描写するかのごとく。要するに娘は外面しか描かれていないのです。しかも外面から内面を照らし出せるほどの描写量が足りていないのです。
 そして内面不明の人物に対しては、読者は視点のピントを合わせづらいものです。少なくとも私の場合はそうだったようです。父の言葉の内容について、むすめはどのような想像を馳せるような人物なのか、そこが、今一つ分からなかったのです。

 話は変わりますが、

>でも、ギターがぎゅいんと鳴って、だからむすめにはその声が聞き取れなかった。
 
 すみません。この部分については何とも言えないです。確かに改訂版は少しよそよそしい気もします。ただやはり、バイアスのない初読時じゃないと、正確な評価は難しいです。


 前の感想でも述べさせていだたいていますが、ラストシーンについての指摘は些細なものです。自分でも、人によっては気にならないんだろうなと思います。こういう場所に投稿された小説じゃなかったら、私はまず感想を書く際こんな指摘はしていません。別にはるかさんが、視点について致命的な盲点を抱えているわけではないと思います。いくらなんでも大仰です。どちらかというと問題は、前述の通りむすめの描写にあった気がします。娘を一人のキャラクターとして受け取るだけの材料が、読者に与えられていなかったわけです。
 最後に、自分の感想を真摯に受け止めていただいたことへの、感謝の言葉を述べさせていただきます。自分の感想の一言一句を、丁寧に読んでいただけたことが一目で分かりました。どうも、ありがとうございました。

はるか
106.154.131.45

 夜の雨さま

 ありがとうございます。

>元歌の歌詞をチェックして、ミュージシャンの歌も視聴してきました。

 すみません、ありがとうございます、お手間をとらせてしまいました、嬉しいです。

>元歌は「主人公(僕)」が「彼女(君)」に対して歌っていますが、御作では父親が娘へ歌っています。序盤では父親だとはわからないような演出。

 はい。

>だから似ているようで似ていない。

 そこんとこなんですが、みんなも言うわけです、みんなというのは私のまわりの人なんですけど、元歌の「僕」は彼氏だって、しかも「君」とそれほど歳の差のない彼氏であろうって。でも、「ほこりまみれドーナツばんには、あのひのゆめがおどる」って歌ってるし、「ふつふつとながれるせいしゅんのおと」とも歌ってるし、「ぼくはあんなうたで、こんなうたでこいをのりこえてきたんだ」って歌ってるから、「僕」って、かなり、歳上だと思うんですよ、「君」はセイシュンどまんなかの女の子だと思うんだけど、「僕」は、私にはどうにも、四十歳とか五十歳くらいに思えるんですよね、だから、ちょっと、もしかして、これ、お父さんなんじゃないのかな? って。年頃になって、恋の気配を漂わせるようになった、妻の若い頃に似てる娘に、どぎまぎしちゃいながら、ワルイムシに娘が泣かされないかと心配しつつ、なんだろ、そういう父性で娘を愛してるんだけど、なんか、それだけじゃなくて、深いところで、我が娘に、ちょっと女みたいなものを感じちゃわなくもなくて、だから目とか泳いじゃって、娘はそれを、そよぐみたいにして受容的に見つめていて、だからお父さん、「こいびとのようによりそってほしくて」なんて、ちょろりと本音も歌っちゃったりして、なあんて思っちゃうのでした、いえ、まわりの人はブーイングなんですけど。そうかな、そういう父娘ってありだと私は思うんだけどな、あいみょん、パパっ子みたいだし、って思って、だったら小説で書いてやれ、って思ったんですよ。親子なのに気持ち悪い、って感想が集まっちゃうか、母親に照らされての、父娘の純粋無垢な愛着をほっこり感じてもらえるか、そのあたり、確かめたかった、っていうのもあります。私は、元歌の「僕」が父親で「君」が娘だったら素敵だなあ、って感じるんですけど、どうなんでしょうね、元歌の「僕」は、やっぱり普通にボーイフレンドなんですかね、レコードとか集めてる、わりとマニアックな若者なんでしょうかね、謎です。

>【    】

 ありがとうございます。個性、とか、自分じゃわかりづらいです。ひとさまと違う部分、だから、あまり意識化できないので、くくってもらったとこ、頷けたり、意外でびっくりしたり、参考になりました。

>「大震災」は、現実にかなりダメージを日本国民に与えているので、使う場合は気を付ける必要がある。下手すると、ネット等でたたかれる。

 ああ、おっしゃるとおりですね! 安易に使えない言葉でありました。311の直後、漫画かなんかの新連載告知で、列島全土を揺るがす超弩級新連載!!! 的なキャッチコピーを見て、なんて非常識な、と愕然とした記憶が蘇りました。何か他の言葉に置き換えます!

>文章へのこだわりがあるようです。

 はい、言葉への愛着があります。私の家、私が子供の頃、すごく貧しくて、玩具とか、夜祭の金魚とか、欲しいもの、ぜんぜん買ってもらえなかったんですけど、移動図書館で本を、母に、たくさん借りてもらえたんですよ、本だけはたくさん。だから、言葉とか、文章って、私にとっての原体験的な宝物なんですよ。愛着、っていえば、夜の雨さん、この鍛練場に愛着をお持ちでいらっしゃいますよね、たぶん。感想のやりとりが活性化して、このサイトが持ち直してくれるといい、って思ってらっしゃいますよね。私も、こういう場所はありがたいな、って思うので、できる範囲で協力的に、積極的に、活動させていただければ、って思ってます。

>朝ドラの「ゲゲゲの女房」のなかで複数の出版社の編集者が言っていましたね。

「ゲゲゲの女房」についてはよく知らないのですが、そうでしたか。アイディアは持ち寄れるけれど、ペンを握るのは漫画家ですもんね。小説もそうかもしれない。

>はるかさんの文章は今回の作品も含めて三作(投稿作ではもっと多い)読ませていただいていますが、個性がある文体だなぁと思っている次第です。

 ありがとうございます、三作ぜんぶ読んでくださって、毎回感想をくださって感謝しています。

>今回の「君はロックを聴かない」も原作とは違い、自分のものになっていると思います。

 はい、練習という意味で、あいみょんさんの歌を拝借して、オマージュとして二次創作させていただいた、みたいなことかな、と思っています。元歌を貶めるような、ひどすぎる二次創作になってなかったら、ほっとします。

 ありがとうございました。

そうげん
121.83.151.235

作品を読みました。

そして感想欄を拝見して、あいみょんの歌を動画で視聴し、ついさきほど、歌詞を検索して拝見しました。

なにから書こうかと思いますが、あいみょんの歌詞。これは、はるかさんの見立て通り、父から娘へのメッセージとみるのが、わたしもすっきりするように感じました。レコード盤はあの日の夢、青春の音と、迷いなく、僕はいってるから。

ここではるかさんと見方が変わってくるのは、僕は、君に対して、かつて恋をした相手のようなドキドキは感じているとは受け取らなかったのです。むしろ、君にたいして、「恋せよ乙女」というメッセージを押し出していて、押し出しすぎていて、多少わがままになって勝手にBPM190を打ってる心臓の速さに、娘の反応をうけて、気恥ずかしくなっているというその泳ぐ目だったのかなと読んだのでした。

あいみょんさんが歌うときの君と僕の関係は、あいみょんさんが、聞き手に伝えるために理想化した、一種のモデルと思うからこそ、ちょっとドロッとしたところを垣間見せるより、純粋に伝えたいことを伝えていく、ストレートにメッセージを発するという勢いのある歌声にも、その思い切りは表れているように感じるのです。

と、わたしはこの曲はなにげなく聞いていることはありましたが、歌詞を確認したのははじめてでした。

そう。わたしよりもすこし上の男性で、娘や息子を子供に持っている人。青春時代に聴いていた音楽を車の中で聴いたりしていて、それを子供は自然と耳にするようになって、子供もその音楽、そのアーティストを好きになるということがありますね。すくない例ですが、親子でコンサート、ライブに行くという人もありました。はるかさんの作品を読みながら、聞きかじったそういう身近なエピソードを彷彿しました。

ちなみにその娘さんはファザコンといっていいほどに、お父さん素敵! という人でした。娘にそういってもらえる父親って、おお、なんてすばらしいんだろうって思いましたし、私から見ても、なかなかいけてる男前のお父さんでした。


はるかさんの作品への直接の感想は、一度ここで話を切って、あとで記させていただきますね。それではまた!

九丸(ひさまる)
126.179.47.68

拝読しました。


原曲はサビしか知りません(お恥ずかしい(>_<))
それで、聴いてみようかとも思ったのですが、あえて聴かずに感想書いてます。
自分の青春時代を語りながら、自分の支えになったものを、娘に一生懸命進める姿は、思春期の微妙な関係の中、最近悩んでいる娘を勇気づけようと後押ししたのか。その場合、きっと恋の悩みだと気づいての行動。そして、書かれていない最後の言葉は「レット・イット・ビー」とか。でも、流れてる音をみるに違うかな笑
娘ちゃんが肩をたたく場面好きです。「わかってるよ」とか「心配しないで」とかを含んだ「ありがとう」なんて感じがして。
僕は子供がいないので分かりませんが、なんか、ほんわかして、いい家族なんだなあとか思いました。
上手くは言えないのですが、温かくなりました。

気になった点を。
「おっさん」って言葉、誰視点か気になりました。三人称ですが、最後に娘ちゃんに集約したんですかね? ちょっと混乱しました。

拙い感想、失礼しました。

はるか
106.154.131.45

 ゴイクンさま

 ありがとうございます。

>おっさん、という言葉です。これが父親とか山田太郎なら何の問題もないです。まあ、客観小説みたいになります。でも、おっさんは、誰かの言葉のはずです。誰がおっさんという言葉を使っているのか、つまり誰の目線で変な男を見つけているのか、という問題が残ります。

 私の目線ですね。書き手はるかの目線です。

>となれば、きっと物言わぬ娘だろう、と思います。なので、すべては娘が聞いたこと、見たことになるのではないかと想像したわけです。

 むすめの中にいるはるか、が、リスニングしたもの、あるいはウクレレ片手に歌ったもの、すべてというなら、それがすべてです。

 以下の部分は、ちょっと意味がわかりませんでした。

>父親の唄う様子を見て、徐々に心が近づいてきて、そして最後に肩を叩いて、お父さん、という^^ははっ、逆でしたね。お父さんとはいわない。ラストでは、主役は父親になってしまう。

 父親は、歌っていないし、心は、そもそもの最初から、父親を内包している、徐々に近づいたりする描写はないです。湖面は最初から、ただ単に湖面であったわけですから。むすめは、お父さん、とは言わないし、主役は父親になってしまう、の意味、よくわかりませんでした。

>でも、まあ、娘にそんな言葉をいわせたら、陳腐すぎてどってんこきますが、でも、元歌を聞けばそんな気がしました。恋人のように寄り添ってほしいわけだものね、お父さんは。

 意味がわかりませんでした。
 陳腐すぎて、どってんこ?
 元歌を聞けばそんな気がしました?
 これ、あいみょんを、ディスってるんですか?
 恋人のように寄り添ってほしいわけだものね、お父さんは ???
 いえ、こいびとのようによりそってほしくて、っていうのは元歌の歌詞ですよ、お父さん、って、ほのめかしたのは、拙作ですよ、二者は別のものですよ、情景としての橋を架けただけです、私が勝手に。なんか、私が書いたもので、書いたことで、あいみょんがディスられたみたいで、嘲笑されたみたいで、非常に不快です。

>というロマンチックな雰囲気の中にお母さんが現れる。

 という、って、そんな、見も蓋もない繋げ方をされましても。という、ってそれはゴイクンさんの妄想みたいなものから繋いでますか?

>ジュリエットもロミオもさえずっていればいいわけです。

 非常に失礼な書き方ですね、どこらへん目線から、登場人物や、ロミオやジュリエットを揶揄してます?

>そこには必ずリアルの代表のような人が入ってくる。ジュリエットの場合は、エミリアだったかな。

 そうなんですか。必ず、って副詞も、ずいぶんと安易に使用されますね。ゴイクンさんにとって、副詞って、「面倒くさい」存在で、「ちょっと置き場所を間違えるとねっちりと睨んでくる」存在で、「嫌味を言う女」のような存在なんですよね、「はるかさんの睨んでる姿が目に浮かぶ」とゴイクンさんが形容されたところの私からの感想に対する返信にそう書いてありましたよね。だなんて書くとまた私、副詞のような女、という貼り紙を貼られちゃいそうですが、でも書きますけど、言葉を嘲笑うなら筆を折りなさい、副詞に、ごめんなさい、って謝りなさい。

>そういう対比は、たとえ常套だとしても必要でしょうね。

 たとえ常套だとしても、って、また、バカにするような上から目線ですか、どんだけ権威なんでしょうか?

>このお母さん、もう少し迫力があって、みんな唖然とするくらいでもよかったじゃないでしょうか。

 これだけは書くまい、と思ってたけど、ゴイクンさん、あなた、まったく読めない人ですね。読めなくたって構いませんが、読もうともしてませんよね?

>まあ、感想というより、妄想です。楽しく読めました。それでは。

 すごく馬鹿にした書き方、ちっとも、ありがたくありませんでした。感想欄に、まあ感想じゃなくて妄想でした、って、よくもまあぬけぬけと、しゃあしゃあと、と私は感じましたよ。楽しくなんて読んでいただかなくてけっこうですよ、そういうハラスメントオヤジ的なコンタクト要りませんから。

そうげん
121.83.151.235

改めて、読み直しました。

地下一階、作品の地下一階ではなくて、
読み手であるわたしのなかの地下に降りてしまった感覚がありました。

「おっさん」、「むすめ」という言葉のひびきと、冒頭の「ときめいた」ではじめにすっかり誤読させられました。これは習慣的なものでありますが、この誤読してしまう自分の感覚にこそ、自分の地下にあるものを見つめさせられた気がしました。異性としての関心を向けているのではないかと疑いながら読み進める自分の猜疑心こそが、本当は地下に降りて見定めるべき、正体ではなかったかと。

そして、あいみょんさんの歌詞を読んで、ニュートラルに立ち返って、ふたたび御作を読んでみれば、すんなりと読めました。二度読んで二度ちがった味わいを抱くことの出来る、一粒で二度おいしかった作品で、一度目は苦くもあり、二度目は温かみのある味わいでした。

おかあさんが入ってきてからの、ラブレターの厚みを渡すときの、お父さんもよくくれたね、というときに、ヘッドバンキングしてしまうお父さんの内心。その肩を軽く叩いたむすめの本心は、おとうさんもやるじゃんか、みたいなエールだったように感じました。

音楽を聴いたこともそうかもしれないけど、それ以上に、かれから届いたラブレターがそうだし、おとうさんとおかあさんののろけ話もそうだし、おとうさんなりに、わたし(むすめ)を励ましてくれようとがんばってくれた姿に、心が上向きになったんだと思います。

なんだよ、とってもいい家庭じゃないか! ってうらやましくなりました。
予想外にハートウォーミングでした。流れるように読むこともできるけど、じっくり意味を考えながら字面を追っていくのも楽しかったです。

あとヘッセスキーなわたしは、春の嵐にも反応してしまうのでした。

今作もよかったです。
またひらがなが多めの文体もやわらかい感じがして、心地よかったです。

よつば
194.102.58.6

 あの、その、ね、感想を書くのって昔から苦手で、うまく言えないのですけど、盲点って、さがしたこと、ありますか? 一方の目をつむって、もう一方の目で見て、見ているものをあたまのなかで、意識しながら、見ているものとの距離をね、すこしずつ、変えていくんです、すると、ある点で、ある点が、ふっ、と映らなくなって、死角と違っているのは、いるのが当たり前で、なんだけど、映らないんです、というのが左目の教えで、いないのに、まるでいるふりをしている、というのが右目の言い分で、その、ね、くるってるというか、ちょうじりのあわなさ、を抱いてしまうのですけれど、あ、タコやイカには盲点がないそうですから、いかにも、って、これってつまんないおっさんギャグですね、そういえば、タコの足の数は、はちほんですけど、イカの足って何本あるのかしら? 
 歌には、そういうところが、結構あって、リズムや音が胸に響いて、かなしく響いたりとか、うれしく響いたりとか、遠いようで近いところで、近いようで遠いところで、とにかくビートは刻まれているって、純文学っぽい、わたし、思っちゃうのですけど、盲点って普通に気づけないわけだし、それで、わたしがこわいのは、そこにあるのに気づけないとか、そこにないのに気づいているふりになっちゃうとか、いる、でも、いない、でもない、交じり合って、だから取り付くしまがないところ。こどものころ、お父さんと一緒にお化け屋敷に行って、ようやく外にでられたときに、お父さんの顔をみて、わたし、びいびい、泣いちゃったんです、なんであんなにひどく泣いてしまったのか、今でも不思議なんですけど。
 それで、その、ね、うまく言えないのですけど、歌って、詩とは、ぜんぜん違うなって、旋律と、ビートと、歌詞とを、同時に、わたしたち、けっして聞けないわけで、でも聴いてはいるわけで、変なこと言っちゃってますね、わたし。でも、わたし、思うんです、きっと互いが互いの盲点の関係にあって、これって、それとなく支える、の究極形だなって、あ、それから、歌詞から浮かび上がる情景が、こんなにも胸に響くのは、情景が盲点にあるものだからなのかなって、いる/いない、とかじゃなくて、うまくは言えないのですけど、わたしは、なんだか、お父さんのことを思い出してしまって、さすがに、もういい大人ですので、びいびい泣いたりはしませんけど、今の今まで、お父さんのことを思い出せなかったことの方に、悲しみを感じたりもしいて、あの、その、ごめんなさい、感想になっていないかもしれませんけれど。

はるか
106.154.131.45

 櫻井さま

 再び、ありがとうございました。

>内面不明の人物に対してはピントを合わせづらい

 おっしゃるとおりですね。勉強になります!

 三人称視点について、少し調べてみました。三人称視点には、どうやらみっつ、あるいはそれ以上、あるようです。

一、三人称一元視点
 これは、一人称の「私」を登場人物名に置き換えたもの、のようです。で、主人公の心理描写はしていいけど、他の登場人物の心理描写をしてはいけないってやつ。

二、三人称神視点多元型
 どの人物の心理描写をしてもよし、ということらしいですね。全登場人物の心の中がわかるので、神視点。

三、三人称神視点客観型
 神様、雲の上から、つまり遠くから見てるので、心理まではわからない。ので、誰の心の中にも入れず、ゆえに心理描写しては駄目で、言動のみでキャラを描くようです。

 さて、拙作の場合、一ではないです。おっさんの、いわば一人称として読んでゆくことも、終盤にいたるまではなんとか可能です(おっさんが、自分で自分を、おっさんと自称していると、読むわけです)が、終盤で、おっさんが、何かつぶやいた、と、この、何か、という一言で、おっさん視点は弾かれます(おっさんが、自分で自分を客体視していて、自分の口から漏れた意外な言葉を、言葉として認識できず、言葉の音自体もギターに掻き消されていた、と、捉えることも、話が話なんで、ぎりで、できなくはないけれど)。でも、問題の最終センテンス、むすめには聞き取れなかった、ここは論外ですから、完全に、むすめの聴覚について自覚的に語ってますから、ご指摘のとおり、読者さんは、最後の一ラインでむすめの中に入らなくてはならない。ともあれ、終盤のふたつのセンテンスにより、おっさんの一人称、ないしは、おっさんの三人称一元視点は、成立しなくなります。と、なれば神視点、となるわけですが、ここで私は、書き手視点=神視点、と、果たして、雑駁に等号で結んでよいものか、と疑問に感じます。作中のキャラからすると書き手は神に等しい存在かもしれませんが、書き手からすると、書き手ははるかであり、神ではありません。純然たる客観視点ではなく、拙作には、はるかの視点、というものが導入されています、なぜなら、拙作は、元歌を、はるかが解釈して綴ったものでありますから、元歌に対する、はるかの心的態度というものが、純然たる客観とは別に、劇中のむすめにだぶるかたちで存在しているわけです。劇外のはるかは、あいみょんさんの元歌を歌っていたところの「僕」に対して、ある種の思いを持った存在として、劇中のむすめの中にいるのでした。湖の瞳とは、すなわち、はるかの瞳であります。その意味で、拙作は、神視点の三人称ではなく、神のように客観ではない、はるか視点の三人称なのであります。劇中のむすめは、確かに、キャラ描写が薄い、なぜなら彼女は湖面でありますから、おっさんのときめきを映し出すのみの鏡でありますので。しかし、物語の視点は、湖面の下に潜んでいるわけです。湖面の下から、おっさんとむすめのやりとりを見つめている、元歌という験なる情報を握って。いうなれば、三人称的に展開する話、喩えれば、テレビ番組を視聴しているテレビの前の私の視点が、テレビ番組の中に入り込んでいるのです。これは特殊で、劇中人物が互いに見つめあっているところを見つめている書き手を含んだ全体を読み手は見つめなくてはならない構図なわけです。劇中に、いくらかの距離感を持ちながらも入り込んでいた読み手が、終盤に至ったところで、はっと気がつく、気がついたかどうかわからない曖昧さで、けれども気がつく、違和感のような何かに、どこか、ここではない、どこかから、外から見つめてくる視線に、真昼の月のごとき視点に、書き手の目線に。そうか、むすめの中には実は書き手が潜んでいたのか、だから書き手は、あいみょんさんの歌を、歌そのものとしてではなく、歌声と、書き手のヒアリングのミックスとして、統合的に記したのだな、という、帰結に至る、みたいなことが、この物語の道筋なのかな、とか思ったり。なので、ラストの二行に違和感を覚えていただくことで、それはむしろ、ひとつの正しい読み方で、違和感なく読み流してしまう読み方も勿論ありだけど、敏感に躓く読み方もまたあり、なのではないかと、で、その結果として、この感想欄で、櫻井さんと、はるかが、こんなふうにやりとりできた、ということも、これもまた、物語に孕まれていた種の発芽ではないか、と、そんなふうにも思ったのでありました。ですから、先の、三人称の分類によりますと、拙作は、一でも三でもなく、とすれば、二なのだけれど、神視点ではなく、はるかという具体的な一感受点が元歌を感受することにより、視点化しているという意味で、二の亜流、ということになるのかな、とか思いました。と、書き散らかしてみますと、言い訳めいた屁理屈に辿り着きます。すなわち、櫻井さんをして躓かせた終盤のふたつのセンテンスは、やはり拙作にはインテグラルなギミックであったのであろうと。あそこを直して、おっさんの三人称一元視点的なものにしてしまったら、それはいくらか陳腐な物語になってしまうし、元歌との間に橋を架ける、という書き手のチャレンジは失敗に終わり、元歌とよく似た、しかしなんの関係もなくても構わない、別の物語を書き手が創作したことになってしまい、となると、はるかのリスニングがまったく意味をなさなくなってしまうので、やはり、今作においては、あれでよいのかな、とか思う次第です。

 ともあれ、それとは別に、ご指摘のお陰で、三人称視点なるものを意識的に学び直すことができましたし、物語が進行する中で、三人称視点は、登場人物を、その都度渡り歩いてゆく、その際には、そのスイッチに無理がないよう、視点が憑依する人物のキャラを、内、外ともに、しっかり立たせておかなくてはならない、というお話を拝読することができました、大変、非常に勉強になりました、誰かの言葉として、それをきっぱり伝えていただけたお陰で、なんだか、体感的に、肉体的経験に近いかたちで、三人称視点たるものを呑み込むことができたようにも思います。丁寧で、鋭いご指摘をありがとうございました。今後もまた、いろいろ教えてやってください。

はるか
106.154.131.45

 そうげんさま

 ありがとうございます。

>感想欄を拝見して、あいみょんの歌を動画で視聴し、ついさきほど、歌詞を検索して拝見しました。

 お手間をとらせてしまいました、ありがとうございました。

>あいみょんの歌詞。これは、はるかさんの見立て通り、父から娘へのメッセージとみるのが、わたしもすっきりするように感じました。レコード盤はあの日の夢、青春の音と、迷いなく、僕はいってるから。

 なんと、そうでありますか、私のまわりの人、頑として、その解釈を受け付けないのですが、そうげんさんもそう思われましたか。

>ここではるかさんと見方が変わってくるのは、僕は、君に対して、かつて恋をした相手のようなドキドキは感じているとは受け取らなかったのです。むしろ、君にたいして、「恋せよ乙女」というメッセージを押し出していて、押し出しすぎていて、多少わがままになって勝手にBPM190を打ってる心臓の速さに、娘の反応をうけて、気恥ずかしくなっているというその泳ぐ目だったのかなと読んだのでした。

 なるほど、です。父親は、娘に、あくまでも保護者として、ないしは一人間として、青春を乗り越えるエールを送っている、男性としてではなくて、ということですね。

>あいみょんさんが歌うときの君と僕の関係は、あいみょんさんが、聞き手に伝えるために理想化した、一種のモデルと思うからこそ、ちょっとドロッとしたところを垣間見せるより、純粋に伝えたいことを伝えていく、ストレートにメッセージを発するという勢いのある歌声にも、その思い切りは表れているように感じるのです。

 いいですね、勢いのある歌声に、曇りなき青空のごときメッセージを読む。
 ただ、私はですね、父親が娘に、ちょっと、ほんのり、異性を感じてしまってどきどきしちゃう、ってありさまを、ちょっとドロッとしたところ、とは感受しないのであります。むしろ、非常に健全なこと、翳りのないこと、と、感じて微笑ましく思うのであります。父親の中にいる、かつての、思春期の男の子が、いけないいけない、って思いながらも、思春期の我が娘にときめいてしまう、これって、すごくいいなあ、と思うのです、五月の青葉みたいに爽やかだな、とか、牧歌的だな、とか、思うのでした。すでに紹介していましたっけ、岩宮恵子さんという臨床心理士さんが書かれた本で『思春期をめぐる冒険』というのがあります。これは、村上春樹さんの小説と、思春期外来の患者さんの内面を擦り合わせたような不思議な本なのですが、そこにはこうあります。思春期とは危機の時期であると。そして思春期は、人の中に、大人になってからも内在し続けていると。ある種の男性が買春行為に走って、援助交際を仕掛ける思春期のむすめを買ってしまうこと、これは、性欲のみならず、物語の希求であると。そのような買春行為自体は許されざることだけれど、その背後にある衝動は、思春期を生き直すことによる自己の回復であると。春樹作品には、大人の僕の友人として、よく、思春期の魅力的な女の子が登場する、と岩宮恵子さんは指摘するのです。「僕」は恋には落ちない、でも、限りなく恋に近い穴に落ちる。父親が、かつてときめいた妻によく似た面影を持つ娘に、限りなく恋に近い感情Xを抱いてしまうのは、もしかしたら、思春期の反復かもしれません、彼は、まだむねがいたいんだ、と歌っている。父親の中にいる少年を、少女は、そよぐように見つめている、受容している、だなんて歌として、私は、あいみょんさんの歌を歌ったのでした。

>青春時代に聴いていた音楽を車の中で聴いたりしていて、

 村上春樹の小説の僕がよくやってそうなことですよね。

>それを子供は自然と耳にするようになって、子供もその音楽、そのアーティストを好きになるということがありますね。

 ありますね、ちょっと前から、思春期の女の子の間では、昭和の歌謡曲がリバイバルなんですね。ネット時代なんで、むかしの歌とか、簡単に聴けるんで、親子で楽しんでるみたい。あいみょんさんの曲も、むかしながらのフォークをベースに、ちょっとだけ、独特なタイミングでの歌詞の入れ方をしたものだと思うし。

>すくない例ですが、親子でコンサート、ライブに行くという人もありました。

 ありますよね。あ、村上春樹さんも、自分の本は、親子二世代で回し読みされてる、って書いてましたね、どっかで。

>ちなみにその娘さんはファザコンといっていいほどに、お父さん素敵! という人でした。

 わかりますよ、女はかなり普通にファザコンだし、男はかなり普通にマザコンだって、私なんかは感じちゃうんですよ、みんな女の子や、男の子を、内に抱えながら大人をやってる。ムスコンや、ムスメコンや、ブラコンや、シスコンや、そういうのって、内的回復に関係した何かなんじゃ、とか思います。そうげんさんが扱う、家、みたいなのに比べると、すごく、なんだろ、軟らかいものなんだけど、家族、ってのが表象してるフックたちは、実に私たちの内的な手掛かりなんだな、とか思うのでした。

 今回も、ご感想、ありがとうございました。

はるか
106.154.131.45

 九丸(ひさまる)さま

 ありがとうございます。

>書かれていない最後の言葉は「レット・イット・ビー」とか。でも、流れてる音をみるに違うかな笑

「あいらぶゆー、べいべ」じゃないかと、私は思うんですが(笑)

>「おっさん」って言葉、誰視点か気になりました。三人称ですが、最後に娘ちゃんに集約したんですかね? ちょっと混乱しました。

 はるか視点です。劇中むすめの中に潜んだ書き手の視点。おっさん、というのは、なかば、おっさんの自称、というようにも読めると思うんですよ、照れたような自称、その曖昧な感じでラストまでゆけると思うんですよ、でも最後の、ナニゴトカを呟いちゃうように呼び掛けちゃった、おっさんの言葉のあたりで、ぐらりと揺らぎますよね、「あいらぶゆー、べいべ」だかわからないけど、そういう無意識みたいなのを、おっさん、口に出してしまう、口から出てきてしまう、その言葉はギターに掻き消されて、むすめの「耳には」届かないんだけど、その「あいらぶゆー、べいべ」は、むすめの中に、もう、すでにあるんですね、だって、それ、はるかの中にはあるわけですから。というわけで、無意識は繋がっている。おっさんとむすめは深いところで、言葉なんか媒介にしないで繋がっているんですよ、その結びめがはるかなんですけど。だから、誰の視点か、なんて、どうでもいいことになる。蝉の視点です、でも、いいことになる。リアルな私たちも、深いとこでは繋がっていると思うんですよ、何かを媒介にして。その結びめにいるのは蝉かもしれない。

>拙い感想、失礼しました。

 感想に、拙い、も、巧い、も、ないと思うんですよ、あるのは、誠意ある感想か、誠意のない感想か、それだけなんじゃないかと私は思います。

 ありがとうございました。

はるか
106.154.131.45

 そうげんさま

 再び、ありがとうございます。

>地下一階、作品の地下一階ではなくて、読み手であるわたしのなかの地下に降りてしまった感覚がありました。

 地下一階、とか、こういう言葉で通じ合えるのって、いいですよね!
 地下一階っていうのは個人的無意識で、地下二階が集合的無意識。無意識の二階建て構造を喩えるのに、村上春樹さんは、地下一階、地下二階という言葉を用いられたんだと思います。私もそうです。ユングが言うところの、個人的無意識と集合的無意識、いうなれば、月と海王星。占星学って分厚い本を読んで学んだんですが、月は、人の個人的無意識を、海王星は、人たちの集合的無意識を表象してるのですって。
 ともあれ、そうげんさんは、「読み手であるわたしのなかの地下」に降りられたのですね。個人的無意識を覗かれた、ということでしょうか。

>「おっさん」、「むすめ」という言葉のひびきと、冒頭の「ときめいた」ではじめにすっかり誤読させられました。これは習慣的なものでありますが、この誤読してしまう自分の感覚にこそ、自分の地下にあるものを見つめさせられた気がしました。異性としての関心を向けているのではないかと疑いながら読み進める自分の猜疑心こそが、本当は地下に降りて見定めるべき、正体ではなかったかと。

 習慣的傾向、地下にあるもの、猜疑心、正体。雰囲気としてわかるような、でもよくわからないような。わからないままにしておこう。

>あいみょんさんの歌詞を読んで、ニュートラルに立ち返って、ふたたび御作を読んでみれば、すんなりと読めました。

 あいみょんさんのテキストと、私のテキストは別でありますから。橋こそは架けむ、と頑張ってみたんですが、架かってないかもしれないし、あいみょんさんのテキストなしで感受された内容こそが拙作の内容なのかもしれません。

>二度読んで二度ちがった味わいを抱くことの出来る、一粒で二度おいしかった作品で、一度目は苦くもあり、二度目は温かみのある味わいでした。

 はるか苦くて、のち、あいみょん温し、ですね(笑)

>おかあさんが入ってきてからの、ラブレターの厚みを渡すときの、お父さんもよくくれたね、というときに、ヘッドバンキングしてしまうお父さんの内心。

 ヘッドバンキング。ここ、私は、激しい同意、とは読まず、照れ隠し、というか、誤魔化し、というか、リズムの中に同意を紛れ込ませる、というか、そんなふうに読んだのでした。このお父さん、というか、やっぱり愛を込めて、おっさん、かわいいと思います。

>その肩を軽く叩いたむすめの本心は、おとうさんもやるじゃんか、みたいなエールだったように感じました。

 私はですね、肩を落としたお父さんの肩を慰めてあげた、みたいにとりました。

>音楽を聴いたこともそうかもしれないけど、それ以上に、かれから届いたラブレターがそうだし、おとうさんとおかあさんののろけ話もそうだし、おとうさんなりに、わたし(むすめ)を励ましてくれようとがんばってくれた姿に、心が上向きになったんだと思います。

 ハートウォームな読み方ですよね。そうげんさんの地下一階は、翳ってなんかなくて、温かいんじゃないんですか。そうげんさんは、たぶん、そうげんさんを読んだんだと思います。湖面に映る読み手の顔、それがこの話だったりして。
 私はですね、むすめ、最初っから、前向きだったように思うのですよ、むすめの瞳の中に、翳りみたいなのを、おっさんは見るわけですが、その翳りは、むすめの翳りじゃなくて、おっさん自身の翳りだったんじゃないかって。むすめはさびしくなんかなくて、青山くんとの恋も順調で、というかまだ本格的に始まってなくて、むすめはまだ子供で、だから傷ついてなんかいなくて、澄んで、どこまでも澄んで、翳りや疲れや痛みを知らないんじゃないか、って思ったんですよ。そんなノープロブレムなむすめの瞳に自分を映しておっさんは狼狽えている。そんなおっさんのありさまを見てむすめは、全肯定的にそよいでる。おっさん、むすめにいだかれてるよなあ、って思うんです。大の男の、大人の男の、はずかしいありさまを、むすめは、嫌悪することなく、目をそらさず、見つめている、都筑くんのはずかしい欲望を受容的に受け止めていた比佐子の瞳を私は思います。だいじょうぶだよ、はずかしくなんかないよ、それでいいんだよ、って。

>あとヘッセスキーなわたしは、春の嵐にも反応してしまうのでした。

 はい、ゲルトルートですね! 私も意識して、そこ、書きました。そうげんさんに、私、かなり繋がれてるなあ。

>ひらがなが多め

 はい。ばっとねばーすれす、とか、ろけんろーるとか、べいべとか。おっさんのダサさを表したかったのもあります。ジェネレーションギャップってのもあるかもだけど、べたなダサさにピュアな男の子のイメージを重ねたくもあり。あと、勢い。そうげんさんが、あいみょんさんの「歌声」から感じてくださった勢い、みたいなのも、表したかった、あと、てっててっててれって、って、あのリズムも。
 そうげんさんの新作、ごつごつした漢字がたくさん転がってるあの景色とは真反対の景色だけど、あの新作が奏でるメロディに比べると私のは、ずいぶんとアップテンポで軽々しいメロディだけど、なんか、味わいを描く、って意味で、今回の私たちの書き方って通じてなくもないかな、とか思っちゃいました。

 今回も、ありがとうございました。

はるか
106.154.131.45

 よつばさま

 ありがとうございます。

>感想になっていないかもしれませんけれど。

 いえ、感想にも、もちろん、なっているけど、創作物にもなってますよね、読みごたえ、ありました。
 あと、文体、勘違いかもしれないけど、もしかして、はるかの文体を、意図的に使用してみせてたり、します?
 なんか、目の前に鏡を置かれた気がして。

>タコの足の数は、はちほんですけど、イカの足って何本あるのかしら?

 じゅっぽんでは?

>盲点って普通に気づけないわけだし、それで、わたしがこわいのは、そこにあるのに気づけないとか、そこにないのに気づいているふりになっちゃうとか、いる、でも、いない、でもない、交じり合って、だから取り付くしまがないところ。

 シャドウ、みたいなことでしょうか?

>きっと互いが互いの盲点の関係にあって、これって、それとなく支える、の究極形だなって

 アウフヘーベン、ってことを思います。対立は必要ですよね。物語を進めてゆくのは、対立軸ですから。右足を左足と交互に前後させることで私たちは前に進むわけですから。右足だけじゃ進めない。もちろん、車椅子に乗ったっていい。でもやはり、右の車輪は左の車輪との相関により安定する。右には左が必要なんですね。だから生きてく上で、クリエイティブに生きてゆく上で、対立者は常に必要となってくる。男の子たちが拳を交えることで仲良くなったりとか、あれ、アウフヘーベンですよね、対立して相容れなかった両者が、具体的に対立しあうことによって対立を統合して高次の私たちに目覚める。一ミリも譲らずに、一ミリも譲られずに、しかしひとつにまとまる。すなわち階段を上がる。内的なフックもまたしかり。父は娘が、娘は父が死角になってて、っていうのが普通かと思うのですが、拙作の中のむすめ、目覚めてますよねえ、盲点なしの、軟体動物であります。おっさんを、完全に見透かしている。ともあれ、盲点を直視してシャドウを抱きしめることは私たちが私たちの真ん中に目覚めてゆく過程であると私も思います。

 姿見を立てていただいたように感じるのですが、大丈夫です、たぶん、私、見えてますから、自分のかたち。
 というようなこととは別に、よつばさん、面白いですね。含蓄のある、だなんて言葉じゃ表せないほどに含みのある、よくもわるくも、匂ったり、漂ったり、香ったり、残ったりする感想をありがとうございました。

加茂ミイル
60.36.87.119

はるかさんの文章は柔らかくて、読んでて感情が引き込まれる感じがする。

村上春樹の文体に似てるような気もした。

何となく、優しくて、すがすがしい感じがする。

かもみー
49.98.173.241

今までも曲から想起して書きましたって人はたくさんいたけど、どの作品も(私が感じる)その曲とは無関係な運動がみられるんだよね。

で、伝言板にも書いたけどちょっと続き
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
例えば、ブログの文章を書くとき、どんなテーマを選ぶか、どういった切り口で文章を書くか、文章の組み立て方や論理構成はどうするか、何を引用するか、こういったことを突き詰めて考えれば、「何が好きか」「何を考えたいか」の結果になる。つまり、文章を書く時に頭に浮かぶ選択肢や決断は、自分が興味を持っている、あるいは持っていた事柄の積み重ねの結果であり、その延長線上にあるものが、今書かれつつある文章を規定しているんだと思う。

この文章を規定している「何が好きか」ということは過去の出来事が関係しているというのはさっき書いた。その人が辿ってきた歴史――その人がどんな出来事を経験して、どんな人や物事に出会ったのか――が、その人の興味関心に影響を与えているはずで、そうした出来事の積み重ねが「何が好きか」ということの判断材料になっている。だから、その人が主体的に判断していると思っているのは、過去の出来事の結果でしかない。主体性を基礎付けているのは過去の出来事に規定された選択肢と指向性だからだ。

しかし、そうだとすれば、その人が文章を書くときの判断基準――「何が好きか」「何を考えたいか」――は、過去に経験した出来事に大きな関係があるからこそ、逆説的に個性が生まれる余地がある。誰かと同じ人生を歩んだ人は絶対にいないわけで、あなたと似たような人生経験のある人はいても、まったく同じ人生を歩んだ人は、絶対にいない。あなたが考えたことは、あなたが考えたという事実によってユニークなものになる。あなたと同じ過去を持つ人がいないように、あなたと同じ文章の人もいないはずで、だからこそ希望がある。

こういうことを書くと身も蓋もないが、あなたが自分の自然な感情によって、自分を偽らずに文章を書くことができれば、それだけでオリジナルな文章になる。自分の文体になる。結局は自分と向き合うことが、自分らしい文章を書くこと、自分だけの文体を手に入れることに繋がる唯一の道だとしか言いようがない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

要するに何から想起しようが作者の感じるものはそれだけで他人のそれとは違うものになり、想起元(今回の場合は原曲)が何だろうなんてことは読者にとって無関係になる。

どうでもいいけど私はあいみょんならマリーゴールドが好きだけど、それを誰かに書いて欲しいなんてこれっぽっちも思わないし、もし自分で書くなら書くで曲から得たイメージのなかでおさまりたくないのであくまでもそれは起始点として、そこからどこまで離れられるか(はるかさんのいうプラスα?)、ということをやりたい。なんて書くのは簡単だけどね……

はるか
106.154.139.53

 加茂ミイルさま

 ありがとうございます。

>文章は柔らかくて

 ひらがな多いし、読点多いし、短文重ねてるし、純文学っぽくないテキストだから、たぶん、そうです。

>読んでて感情が引き込まれる感じ

 感情乗せて書いてるかもしれません、思考、直観とのバランスにおいて、感情、感覚優位のテキストかも、たぶん、しれません。

>村上春樹の文体に似てるような

 これは、ありがとうございます、とても気になるご指摘でした、ので、自分のテキストを読み直してみたら、そうですね、さすがに、やれやれ、はないけど、ともあれ、がありますね、あと、これは村上春樹、に限りませんが、翻訳ものによくある、会話文の扱い方をしてますね、 「……」と私は言った。「……」  とか、  ……と私は思った。……  とか。組み方のバリエーションは増やしてるつもりではあるのですが。これって、日本の文壇じゃ嫌われるらしいんですけど、「」を独立させて行替えすると、ぱっと見たときの余白が増えちゃうし、字数をとっちゃうし、それに、だらだらと続ける感じの効果がそこで途切れちゃうんで、敢えて翻訳ものふうの書き方を現状ではしているのですが、もしかしたら、それが村上春樹っぽい印象を与えてしまうのかもしれません、直そうかな、と、今、少し思いました、ありがとうございました。

>優しくて、すがすがしい感じ

 益荒男じゃない、ってこと、手弱女だってこと、かもしれないですね、今度ちょっと、益荒男な女の子を主人公にしたもの書いてみようかな、なんて、ふと思いました、あるいは、手弱女な男の子の話とか。あ、手弱女な男性は、わりといつも、すでに書いてるかも、ですね。

 なんか、優しいご感想をありがとうございました。

はるか
106.154.139.53

 かもみーさま

 ありがとうございます。

>伝言板にも書いたけど

 あれ、参考になりましたし、強く同意いたしました。文体って、文の並べ方であるわけですけど、硬軟、強弱、長短、リズムなどとは別に、確かにフレーミング、トリミングって要素、ありますよね、何を書いて、何を書かないか。小説の文章とか読んで、読みにくいな、と感じるのは、

一、文法がおかしい
二、主述にねじれがある
三、読点の位置がおかしい
四、言葉のリズムそのものが悪い

 ときなのですが、確かに、あともうひとつ、

五、フレーミングが悪い

 というのもありますね、一文の中に、不必要な説明を無駄に加えていて、多数の場や、あるいは、多数の時や、多数の主語やらがひしめいているような場合とか。要らない情報は、あると、邪魔ですよね、小説には。書かないでおけるとこがテキスト表現の長所であるわけだから、つまり、映像表現みたいに要らない情報まで映っちゃうのに比べて優位な点なのだから、積極的に、情報をマスキングしてゆくべきだと、私も思います。よく、映像が浮かぶように書けてる、とか、書けてない、とか、そんなことが言われるわけですが、小説は、シナリオじゃないんだし、映像が浮かんでもいいけど、浮かばなくてもいいわけです、徹底して抽象的であっても構わないし、イデアのみで構成されてたっていい、そこらへん自由であるべきかと私も思うので、要らない情報や絵面は、どんどんトリミングされてゆくべきかと思われます。映像に負けないテキスト表現、というか、映像にはできないテキスト表現を試みたいですよね。

>ブログの文章を書くとき、どんなテーマを選ぶか、どういった切り口で文章を書くか、文章の組み立て方や論理構成はどうするか、何を引用するか、こういったことを突き詰めて考えれば、「何が好きか」「何を考えたいか」の結果になる。

 嗜好、ですね。

>「何が好きか」ということは過去の出来事が関係している

 あるいは、そうかもしれませんね。ナチュラルボーンな嗜好、も、あるような気もしなくはないけど。

>だから、その人が主体的に判断していると思っているのは、過去の出来事の結果でしかない。

 人は機械じゃないから、いえ、厳密には、機械であろうとも、アウトプットがインプットとの因果で説明しきれるとは、私は実は思ってないんです、量子的に考えるなら、そこには、エンタングルメントが想定できるし、因果的にではなく、共時的に事物の発生することは、宇宙的に見れば、むしろそちらの方が当たり前で、私たちが因果的に捉えていることも、すべては共時的に、つまり、易経的に説明しうるんじゃないかと、いえ、易経に説明は馴染みませんが、解釈しうるんじゃないか、だなんて、そんなふうにまで思ってるくらいなので、あらゆる意思決定が経験則により支えられている、とは、私は思わないのでした。


>過去に経験した出来事に大きな関係があるからこそ、逆説的に個性が生まれる余地がある。

 個性が、生まれつき備わっているからこそ、その個体に特有の経験が重なってゆくのだ、という、真逆のベクトルもあるように思うのですが、いかがでしょうか?

>こういうことを書くと身も蓋もないが、あなたが自分の自然な感情によって、自分を偽らずに文章を書くことができれば、それだけでオリジナルな文章になる。

 ここ、ここには強く同意いたします。己を己であるがままに表せば、それイコール、オリジナルな表現でありますよね、たぶん。

>結局は自分と向き合うことが、自分らしい文章を書くこと、自分だけの文体を手に入れることに繋がる唯一の道だとしか言いようがない。

 おっしゃるとおりかと、私も思います。大事なのは、正対すること、向かい合うこと、対峙すること、ですよね、自身にも、他者にも、事象にも。向かい合わずに、椅子を回して逃げを打つ人は成長しないし、何も悟らない。文体も手に入らないし、だから何もオリジナルなことは書けない。

>想起元(今回の場合は原曲)が何だろうなんてことは読者にとって無関係になる。

 おっしゃりたいこと、わかるような気がします。が、無関係、という言葉はどうかと。そこには、もつれあい、つまり、架けられた橋が存するのではないかと、つまり、関係性が生じるのではないかと私は思いますが、ただそれでも、私が私を私の筆で書くならば、それは参照元との関係を有しながらも、結局、書き上げられたものは私であり、私にしかならない、と、そういうことではありましょう。

>私はあいみょんならマリーゴールドが好きだけど、それを誰かに書いて欲しいなんてこれっぽっちも思わないし、もし自分で書くなら書くで曲から得たイメージのなかでおさまりたくないのであくまでもそれは起始点として、そこからどこまで離れられるか(はるかさんのいうプラスα?)、ということをやりたい。

 いいですね、やってみますか。マリーゴールド発、かもみーさん着なテキスト、私は読みたいかも、です。元歌へのリスペクトを保ちつつ、しかしオリジナルな、ともいえる、矛盾があるけど二次創作、これ、なかなか、きっと練習にもなるし、誰かのその練習風景を見て私、学びたい、というか、その景色そのものに興味があります。

 文体と、二次創作におけるオリジナルでありうるためのディスタンス、みたいなことについての考察、勉強になりました。ありがとうございました。

カリフラワーの存在価値について考える人
194.102.58.6

 これは、所謂、おっさん小説である。おっさん讃歌を扱った物語と言い換えることも可能であるが、おっさんという言葉の持つ、苦々しさ・微笑ましさ・禍々しさが惨禍のようでもあり、讃歌のようでもあるという、いわゆる、双対性(Duality)を持っているように思える。
 核なる部分は、おっさんとむすめという関係、もっと言えば、距離なるものが巧妙に描かれているところにある。二つの例を挙げよう。
一つは小道具の使い方にある。おっさんとレコード、むすめはタピオカティーといった具合である。もちろん、アナログに嵌りレコードを集めているアナクロJKもいるだろうし、逆に、99%女性比率のタピオカティーショップの長蛇の列、堂々とならず、おっさんもいるだろう。しかし、これはあくまで少数派である。
 二つ目は、
ものとして映る。

カリフラワーの存在価値について考える人
194.102.58.6

 送信ミスゆえ再送する。

 これは、所謂、おっさん小説である。おっさん讃歌を扱った物語と言い換えることも可能であるが、おっさんという言葉の持つ、苦々しさ・微笑ましさ・禍々しさが惨禍のようでもあり、讃歌のようでもあるという、いわゆる、双対性(Duality)を持っているように思える。
 核なる部分は、おっさんとむすめという関係、もっと言えば、ふたりの距離が巧妙に描かれているところにある。概ね二つの要素から成るように思われる。
 一つは小道具の使い方にある。おっさんとレコード、むすめとタピオカティーといった具合である。もちろん、アナログに嵌りレコードを集めているアナクロJKもいるだろうし、逆に、99%女性比率のタピオカティーショップの長蛇の列の中威風堂々と佇む猛者(おっさん)もいるだろう。しかし、これらはあくまで少数派である。
 もう一つは、ロックンロールミュージックが二人の間にある隔たりとして機能しているところにある。ロックンロールミュージックは、おっさんとむすめの間のパーソナルスペースを隔てるものと推察されるのだが、ことはそう単純ではない。ここに更に二つの側面が存在する。すなわち、客観的関係におけるパーソナルスペースの隔絶の側面と、こちらの側面の方がより重要なのだが、この音楽は実のところ、おっさんにしか聴こえていないという側面の二点である。つまり、パーソナルスペースは、語り手の俯瞰によるもの、と、おっさん主観によるもの、とのせめぎあいによって定められていることになる。とするならば、ロックンロールのビートは、おっさんの心臓のビートであり、ロックンロールのボリュームはおっさんの気持ちのボリュームなのである。語り手は三人称を気取りながらを、俯瞰しながら、あきらかにおっさんよりなのである。すなわち、これはおっさん讃歌なのである。なお、この二つの側面のせめぎあいが生み出すであろう味わいについては読めば感ぜられることなので、ここでは、割愛する。
 であるならば、この小説において、むすめの表情をうかがうことはほとんど不可能である。けれども、むすめがどういう表情をしているのか、を考察することには、少なからず意味があるだろう。ここに一つの問いがある。風のそよぐ青葉のような笑顔は、はたしてむすめの真実の顔だったのだろうか? それとも、ロックンロールの憧憬がみせる幻の顔だったのだろうか? ただ、一つ確かなことがある。ロックンロールという過去からの風が、未来を象徴するむすめという青葉をそよぎ、やがて、青葉は枝から離れ、青い空の向こうへと飛び立っていく。青葉は風のことを知らない。それでいいのだと。このやや感傷にすぎた考察は一つの結論を呼び寄せる。これはただの、おっさん讃歌ではない。パーソナルであって、ユニバーサルですらある、父と娘とをつむぐ物語なのである。
 さて、おばさんについてである。おっさんとむすめとの閉じた空間において、登場したおばさんは明らかに異物であり、不純物であり、その登場からして不自然ですらあるように思えた。しかしながら、この場合は、それにも増して、おばさんが重要な役割を持っていたと見るべきであろう。おっさんとむすめとの隔絶の象徴であったロックンロール、けれども、それは娘にはけっして聴こえないものであった。とするならば、おばさんの役割は、伝道師ほど直截ではないにしても、ロックンロールの存在を、おっさんの気持ちがむすめに向いていることを、それとなくむすめに伝えることあったのではないだろうか? 不可避な隔絶は隔絶として受け止めるながらも、とにもかくにも、つむいでいく姿がここに映し出されているのである。
 最後に、「君はロックを聴かない」というタイトルについて考察しておく。もし、これまでの論説が正しく、語る主体の混合比はどうあれ、真の主人公がおっさんであるとするならば、「君にロックは聞こえない」とするのが一つの解のように思える。「聴く」という言葉はもともと耳を傾けるという積極的なニュアンスがあるため、「聴かない」には、必然、頑なさが宿ることになる。頑ななのは、むすめであろう。すると分からなくなるのである。「君」とは一体誰なのだろうか? もし君=むすめという図式が成り立つならば、このタイトルは、一体全体、誰の言葉なのだろうか? 
 これは我々の宿題として、筆を置くことにする。

はるか
106.154.130.92

 カリフラワーの存在価値について考える人さま

 ありがとうございます。

>おっさん讃歌を扱った物語と言い換えることも可能であるが、おっさんという言葉の持つ、苦々しさ・微笑ましさ・禍々しさが惨禍のようでもあり、讃歌のようでもあるという、いわゆる、双対性(Duality)を

 すごい。笑えました。讃歌のようでかつ惨禍、逆もまた真なり。確かにそんな感じですね。苦々しさ・微笑ましさ・禍々しさ、これも笑えるし、すごく妥当かもですね。とくに、禍々しさ。すごい。

>核なる部分は、おっさんとむすめという関係、もっと言えば、距離なるものが巧妙に

 距離。そうですね、その距離を感じて一方的に狼狽えてるのは、おっさんのほうだけ、という気もしますが。むすめはとうの最初から、おっさんを受け入れていて、澄んでいて、そよいでいる。明鏡止水なむすめに映るおっさんの像だけが震えている。この感じに私は結構萌えます。

>一つは小道具の使い方にある。おっさんとレコード、むすめはタピオカティーといった具合である。

 はい、レコードは元歌にあった、いわばお題で、それを取り入れてバランスするためのタピオカですよね。

>二つ目は、
ものとして映る。

 あ、これ、あれですか、誤投でしょうか、いえ、これが、ほのめかしなら、結構なかなか、すごく、いいかも。でも、わからない。ものとして映る。余韻ありまくりですね。こういうのも、萌えますよね、なかなか。ありがとうございました。

はるか
106.154.131.213

 カリフラワーの存在価値について考える人さま

 再び、ありがとうございます。

>この音楽は実のところ、おっさんにしか聴こえていない

 え?

>ロックンロールのビートは、おっさんの心臓のビートであり、ロックンロールのボリュームはおっさんの気持ちのボリュームなのである。

 なるほどです。

>語り手は三人称を気取りながらを、俯瞰しながら、あきらかにおっさんよりなのである。

 そうですね。元歌が、男性の、完全なる一人称視点なので、三人称の小説にしてもなお、「表層的には」視点は、おっさんよりなのではないかと。

>この小説において、むすめの表情をうかがうことはほとんど不可能である。

 そうですね。むすめは、ただ、笑ってるだけの鏡ですよね。でも、見ているおっさん、を見ている、誰かの視点があるはずだ、と私は思うのです。その視点は、はるかの視点である、と私は思っているのですが、どうなのでしょうね、むすめの、地下二階に潜んでる書き手の視点、というものを考えたい、と私は思うのでありました。そして、むすめを見つめているおっさん、を見つめている、はるか、という全体を、やはり、地下二階に降りた読み手は見つめている、という構図になるのではないか、と思うのですが。つまり、私は、ある種の読み手さんの前に私を晒してしまった、ということになるような気がします。

>おばさんについてである。おっさんとむすめとの閉じた空間において、登場したおばさんは明らかに異物であり、不純物であり、その登場からして不自然ですらあるように思えた。しかしながら、この場合は、それにも増して、おばさんが重要な役割を持っていたと見るべきであろう。おっさんとむすめとの隔絶の象徴であったロックンロール、けれども、それは娘にはけっして聴こえないものであった。とするならば、おばさんの役割は、伝道師ほど直截ではないにしても、ロックンロールの存在を、おっさんの気持ちがむすめに向いていることを、それとなくむすめに伝えることあったのではないだろうか? 不可避な隔絶は隔絶として受け止めるながらも、とにもかくにも、つむいでいく姿がここに映し出されているのである。

 そうでありましたか、書き手としての一読み手である私には、おばさんの役割がそこまで読み解けていませんでした……。

>最後に、「君はロックを聴かない」というタイトルについて考察しておく。もし、これまでの論説が正しく、語る主体の混合比はどうあれ、真の主人公がおっさんであるとするならば、「君にロックは聞こえない」とするのが一つの解のように思える。

 小説の読み方としては、それ、ありかと思うのですが、拙作は自立した小説でもあり、かつ、元歌に依拠した表現でもありますれば、元歌のタイトルを尊重したかった、と、オマージュであることを明確にしたかった、と、いうことがあります。

>「聴く」という言葉はもともと耳を傾けるという積極的なニュアンスがあるため、「聴かない」には、必然、頑なさが宿ることになる。頑ななのは、むすめであろう。すると分からなくなるのである。「君」とは一体誰なのだろうか? もし君=むすめという図式が成り立つならば、このタイトルは、一体全体、誰の言葉なのだろうか?

 あいみょんさんの言葉ですね、間違いなく。そして、はるかは、それをいじりたくなかった。君とは、あいみょんさんの歌の中では、間違いなく一人称男性僕の相手女性であり、小説の中では、うーん、ここは解釈分かれてもよいのかもしれませんね。 

>これは我々の宿題として、筆を置くことにする。

 深い考察をありがとうございました。一読み手でもあるところの書き手には、一読み手としての解釈があるのですが、読み手それぞれにおいて別々の解釈があってよいようにも思います。拙作は、おっさんの物語、というよりは、どなたかも指摘されていたけれど、たぶん、あいみょんさんの物語からの何かをてこにした、書き手はるかの物語、だったんじゃないかな、という気もしています。

 重ねての言葉となりますが、深い考察をありがとうございました。

加茂ミイル
60.36.87.119

翻訳調というところもあるのかもしれませんが、私が春樹に似てるなと思ったのは、もっと根底にある世界観や文体の爽やかさのためかもしれません。

>風にそよぐ青葉みたいに笑った。

ここだけを取って春樹調だとは言い切れないかもしれないのですが、
こういう詩的な一文が出てくるタイミング、みたいなのが、春樹を読んでいる時に感じる言葉の選択のインパクトを連想させるものを感じました。

あるいは、その一文だけでは春樹に似ているとは思わないかもしれませんが、たとえば、

>「なぜ笑うんだい?」
>むすめは、今度は、風にそよぐ青葉みたいに笑った。

このつながりとか、組み合わせとか、ある文章の後に別のある文章が続く、といった、そういう連関が、何か春樹を連想させるものを感じさせた可能性はあるのかなとも思いました。

>「なぜ笑うんだい?」
>むすめはくすくすと笑った。

だと、生真面目な古典文学とかによく見られそうな文体ですが、
そこに、「風にそよぐ青葉みたいに」というのは、やはり何か個性的なものを感じました。

はるか
106.154.130.140

 加茂ミイルさま

 再び、ありがとうございます。

>世界観や文体の爽やかさ

 村上春樹の世界観、というの、私にわかってるかどうかわからないのですが、なんとなく、氏の作品には、メタフォリカルに表された、愛に関する構造、みたいなのを、私は、どうやら感じているようで、また、思春期に関する何か、もしかしたら、満たされきれていない何か、あるいは、喪失してしまった何か、みたいなの感じるのですが、私の書くものの中に、そういうのがあるのかな、って今、省みたら、なるほど、ありますね、そういうの、確かに。というわけで、世界観が似てるかも、ってご指摘、当たってるかも、とか思ってしまいました。私は私のこと好きじゃないけど、村上春樹の見てる世界を、私も見(ら)れてるなら、私の人生もまんざらじゃないかも、とか思えました。ありがとうございます。

>風にそよぐ青葉みたいに笑った。こういう詩的な一文が出てくるタイミング、みたいなの

 比喩表現。その持ち出し方。
 なるほどです、文体について、敢えて書かない、というトリミングもまた文体なのかも、というセオリーを、ここの、別のある方が立ち上げていらっしゃって感銘したのですが、今回、加茂ミイルさまにご指摘いただいた、比喩表現の入り方、みたいなの、これも確かに文体の構成要件のひとつであるかもしれないですね。村上春樹さんって、地下二階を書いてるあたり、いいな、すごいな、おもしろいな、って感じるのですが、また、私もそれを書きたいのですが、だから私、文体も知らずに影響受けてるのかもしれないですね。特に今回の話は、それ書いてるときにちょうど、『みみずくは黄昏に飛びたつ』という対談集(川上未映子が訊いて村上春樹が語るやつ)を読んでいたので、それも関係あるかもしれません。意識化してる範囲で、他の作家さん、名前は敢えて挙げませんが、数人の影響も、私、色濃く受けてるような気がします。自分のオリジナルな文体、作りたいけど、まだまだ、いろんな影響下にある文体で、私は、私を表現してるんだな、って思い当たりました。道半ばなんだな、って改めて自覚できた次第です。

 だから私、呼吸を、例えば村上春樹さんの呼吸とか、よりも速く、テキストのピッチ、もっと速く、ラテンな感じで紡いでいこうかな、とか、ナルシスティックな何か、とか入り込む余地のない、疾走感みたいなのを、だらだらとしたけだるさと一緒に取り入れていこうかな、とか、そんなふうに今思いました。疾走感。なんか見えてきました。

 ありがとうございました。

『』
150.31.134.121

前回は粗相を致しました。
素敵な作品ですね。ただ、元歌がわからないんです!
わかられてる方がたくさんいらっしゃるようで……うーん、悔しいです。
読ませて下さり、ありがとうございます!

『』
150.31.134.121

わかりました!
あいみょんさんの『君はロックを聴かない』なんですね。
お邪魔しました~♪

はるか
106.154.130.109

『』さま

 ありがとうございます。

 そうなんです、あいみょんさんの『君はロックを聴かない』なのでありました。

 コードとか、簡単なんで、ギターやウクレレの初心者さんなんかには、絶大な人気があるのでした。

 今回も読んでくださって、ありがとうございました。

柴咲
123.225.214.1

もし、むすめが人形だったら。
もし、むすめの耳が聞こえなかったら。
読み終えて、ふっとそんなことを考えていました。もしかしたら着地点に物足りなさを感じていたからかもしれません。
じつは、すぐに読んでいたのですが、厳しい感想しか思いつかず躊躇していました。
 
情景の練習ということで、狙いはとてもいいと思います。ラストでむすめが言いたいことも想像できますし、それが情景のプラスアルファだということも理解できます。
でもそこに、はるかさんの持ち味を出せたかなと思うんです。二作しか読んでいないので断言できませんが、確か、日常を一瞬で非日常に変えてしまうばかりか、心理描写をせずに読み手の胸を波立たせる書き手。それが思いもよらぬセリフであったり、行動であったりと記憶しています。
 
そして今回、狙いはどうであれ、枚数の少ない掌小説です。ならタイトルも作品の一つにすべきだったと思います。もしラストの一文で、その答えがタイトルに結びついていたならより余韻を感じ、読後感も変わっていったような気もします。
なぜ、おっさんは道化を思わせるパフォーマンスをするのかという、伏せられた背景も浮かび上がったでしょうね。だから途中まで、むすめがあまりに話さないため耳が聞こえない(ロックを聴かない)のではと思ってしまったほどです。
 
文章に関しては同語反復の多用と、接続詞の連続使用が目につきました。より強調するために効果的かもしれませんが、私はくどさと軽さを感じました。妻のセリフも平凡そのものでした。
 
やはり人物設定のミスでしょうか。
仮にもし人形であれば、別に妻のセリフはなくても、最後にひょいと持ち上げるだけでいいし、墓前で聴かせようね、でも余韻は残せたと思います。おっさんのパフォーマンスにも共鳴できたかもしれません。むすめが心底愛していたロックを聴けなくなったから。
 
 
自分よがりの、終始的外れな感想になってしまい申し訳ありません。
いつの日か、また。

はるか
106.154.130.168

 柴咲さま

 ありがとうございます。

 着地点、終わり方、最後のセンテンス、について他の方からもご指摘をいただき、このところ、もやんと意識下で考えていたのですが、つい先ほど、ふわんと浮かんできたのは芥川龍之介の『羅生門』でした。あれで、確か、芥川は、下人の心を描き、読者が下人に十分に憑依したであろうそのあと、最後の最後を【下人の行方は誰も知らない】と締めたのでしたね。ぐっと、いきなり、視点の出所は空高く舞い上がっている。推敲前は【下人は闇の中へ消えて行った】だったそうですね。でも【下人は闇の中へ消えて行った】だと、あの物語は、ただ単に下人個人の物語にまとまってしまう。しかし書き手としては、あれは下人個人の物語ではない、と思ったのでしょう。あれは読み手の物語であり、何よりも芥川の、すなわち書き手の物語であった、ということであろうかと思われます。最後の一文【下人の行方は誰も知らない】によって物語は、その一センテンスのみによってあの物語は、開いた、のだと思います。それとこれとは違う、と言われるかもしれませんが、私は、拙作の最後のあの一ラインに関連して今日、ついさっき、『羅生門』を思いました。

>もし、むすめが人形だったら。

 書き手が思ってもみなかった、ユニークな着眼ですね。

>もし、むすめの耳が聞こえなかったら。

 どこらへんからその着想が生まれるのか、私にはちょっとわかりませんが、もしそうなら、拙作は、ぜんぜんまったく違うお話になるのでありましょう。元歌であるあいみょんさんの『君はロックを聴かない』からかけ離れた、はるかの掌編からかけ離れた、まったく別のお話に、あるいは柴咲さんのお話に、なるのではないかと思います。そのような、物語を開く効用が拙作にあったのだとしたら、『羅生門』じゃないけど、それは最後のあのセンテンスのお陰なんじゃないかとも思います。私は、拙作に私の物語を読みましたから。

>読み終えて、ふっとそんなことを考えていました。もしかしたら着地点に物足りなさを感じていたからかもしれません。

 着地点により、何かが振り分けられるのでありましょう、あるいは。

>じつは、すぐに読んでいたのですが、厳しい感想しか思いつかず躊躇していました。

 厳しい感想を躊躇する気持ち、よくわかりません。感想は、柴咲さんのものであって私のものではない。柴咲さんが、どう厳しくコメントしようとも、それで拙作の何が変わるわけでもありません。変わるとしたら、読み手の感想が書き手の腑に落ちたとき、または、書き手の無意識が反応して書き手の目が開かれたとき、書き手による次の作品に、なんらかの反映がある、かもしれない、ということかと思われます。いただいた感想はじっくり読ませていただいて、そこから何かを学ぼうとしますが、読んでもわからない感想からは何も学べないかもしれません、たとえそれが厳しい感想でなくとも。なので、厳しい感想を躊躇う意味は、読み手の側にも、書き手の側にもないように思われます。双方が何かしら学べることがあるなら、好評にも酷評にも価値があるし、双方が何も学べないようなら、好評にも酷評にも、挨拶以上の価値はないように思われます。

>ラストでむすめが言いたいことも想像できますし、それが情景のプラスアルファだということも理解できます。

 むすめが? 別のある方も同じようにご指摘されていて驚いたのですが、むすめは、ラストで、何も言っていないし、言おうともしていない。ラストで何か言ったのは、おっさんのほうです。おっさんの台詞がむすめに届かなかったのです。むすめは、言葉を発する必要を感じていない、なぜならむすめは、あたまからずっとおっさんの全面的な理解者であり、受容者であるからです。

>そこに、はるかさんの持ち味を出せたかなと思うんです。二作しか読んでいないので断言できませんが

 前回のやつは後半の半分だけしか読んでいただいていないし、今回のは掌編だし、ほとんど何も読んでいただいていないに等しいと思うので、柴咲さんからの感想は、まっさらな感想として受け止めています。もちろんそれで構わないのです。

>確か、日常を一瞬で非日常に変えてしまうばかりか、心理描写をせずに読み手の胸を波立たせる書き手。それが思いもよらぬセリフであったり、行動であったりと記憶しています。

 柴咲さんの、その記憶は、短い話の後ろ半分だけを読まれてのものだし、多分にそれは、柴咲さんの「書く力」(←読む力ではなくて)に依拠したものなのでありましょう、日常を一瞬で非日常に変えてしまうのはたぶん柴咲さんの筆であり、心理描写をせずに読み手の胸を波立たせるのもまた柴咲さんの筆であろうかと思われます。

 つづきます。

はるか
106.154.130.168

 柴咲さま

 つづきました。

>タイトルも作品の一つにすべきだったと思います。

 本歌とりなので、タイトルは、元歌のものをそのまま採用したかった。タイトルというのは、とても大事なものだし、だから、ひとさまの作品を本歌とりしておいて、しれっと自分のタイトルを被せるようなことはしたくなかったのでありました。しかし、

>もしラストの一文で、その答えがタイトルに結びついていたならより余韻を感じ、読後感も変わっていった

 読後感も変わっていった、とまで書かれてしまうのだな、と学べました。今後は、元歌があるものであっても、断じて作品タイトルは私が付けることにいたします。元歌へのリスペクトは他のやり方で示すことにします。学べました。ありがとうございます。やはりタイトルは、とてつもなく重要でありますね。

>なぜ、おっさんは道化を思わせるパフォーマンスをするのかという、伏せられた背景も浮かび上がったでしょうね。

 道化を思わせるパフォーマンス? 読み方はいろいろであります。柴咲さんの、他の書き手さんの作品への感想を拝読して、で、思ったのですが、柴咲さんの読み方と私の読み方にはずいぶんと隔たりがあるようで、私は、私の読み方に立脚した書き方で作品を書いていますから、柴咲さんのお眼鏡にかなうものは今後も書けないように思われます。書くことは、ほんと、読むことに支えられているわけですから。

>だから途中まで、むすめがあまりに話さないため耳が聞こえない(ロックを聴かない)のではと思ってしまったほどです。

『君はロックを聴かない』という元歌タイトルは、元歌の中の「君はロックなんて聴かないと思うけれども」という歌詞の前半部分だと思われます。つまり、君はロックを聴かない、のあとには、「と思うけれども、でも、しかし、ばっとねばーすれす」が省略されているわけですね。あいみょんさんの元歌でも、女性は笑っているだけで、一言も発していません。でも私は、女性を人形だとも、難聴の方だとも思わなかった。男性は、拙作のおっさんと、ほぼ同じことを語っているのですが、それをパフォーマンスだとは思わなかった。女性がむすめだとは、はっきりそう歌われてないけど、私は女性をむすめであるかのように、男性を父親であるかのように聴いた、ということです、開かれた歌を耳にして。それと似ているのかもしれません。柴咲さんが、例えば、おっさんの熱い語りをパフォーマンスとして読むなら、その独創的な読み方は柴咲さんのクリエイティビティであり、そこに展開するのは柴咲さんの物語なのでありましょう。

>文章に関しては同語反復の多用と、接続詞の連続使用が目につきました。くどさと軽さを感じました。

 読み方はいろいろですね。そこは私の盲点ではないので、特に目を開かされるご指摘ではなく、読みづらいと感じる読み手さんがいらっしゃるのだな、と認知しましたが、リズムを作るため、話の表面を重くしないため、今後も、いわば作風として、その部分はより尖らせてゆく所存です。より洗練させて、いずれは柴咲さんにもくどいと思われないようなスキルにまで高めたいと決意いたしました。ありがとうございます。

>妻のセリフも平凡そのものでした。

 平凡な、あたりまえの台詞を言わなきゃいけませんよね、あそこで妻は。独創的な台詞を言ったりしたんじゃ、父と娘の普通じゃなさを照らせないですよね、思春期の危うさ、平凡でなさを照らせないですよね。と私は思うのですが。柴咲さんのご指摘の意図が、どうにも私には理解できていないようです。何か、別の、私が気づいていない重大なことがあるのでしょうか。だって、
 
>やはり人物設定のミスでしょうか。

 と、こんなふうに書かれてしまうのですから。妻の台詞が凡庸だと、人物設定のミス? 私の、日本語読解力に問題があるのでしょうか。前半と後半の関わりが読み解けませんでした。柴咲さんの物語のキャスティング、という点において、おっさん、むすめ、妻であり母である女性は、ミスキャストだということでしょうか? 柴咲さんは、書かれているものを読む読み手さんではなくて、書きたいものを読む読み手さんなのかもしれませんね、あるいは。

>仮にもし人形であれば

 人形じゃないです。あいみょんさんの元歌においても、拙作においても断じて人形ではない。人形の話は、別に、柴咲さんが書かれたらよいかと思われます。

>別に妻のセリフはなくても、最後にひょいと持ち上げるだけでいいし、

 ひょいと持ち上げる? 人形を、おっさんが、ですか? だとしたら、わりと悲しい、孤独な話ですね。思春期の魔法に関する、少しハートウォームな話だと、私は拙作をそう読んでいます、他の読み手さんもおおかたそう読まれています。それにですよ、妻の台詞なくして、何が父娘を照らすのでしょうか? あ、人形だから、むすめは照らされなくてよいのでしょうか、あるいは、おっさんの孤独に照らされたらそれでよいのでしょうか? とにかく、まったく違う物語を求めておられるようですね。

>墓前で聴かせようね、でも余韻は残せたと思います。

 墓前? なんの話ですか? ここは、もう少し噛み砕いて解説していただくことを希望します。

>おっさんのパフォーマンスにも共鳴できたかもしれません。むすめが心底愛していたロックを聴けなくなったから。

 すみません、意味がわかりません、説明してください。
 あいみょんさんの元歌、調べたら歌詞も出てくるし、歌も聴けますよね。その上で、まさか、墓前だとか、パフォーマンスだとか、じゃないですよね。本歌とりだと書いてあるけど、元歌がどうあれ、この小説からは墓前だとか、パフォーマンスだとかが導かれるのだ、ってそういうことですよね。それならいいんですが。似た匂いの感想を、他にもう一人の方からも頂戴しているのですが、その方の文章なら柴咲さん、たぶん違和感なく読めるのかもしれませんね。

>いつの日か、また

 いえ、できましたら噛み砕いて説明してくださいよ、ニ、三の、難解な日本語の意図する内容について。

 ありがとうございました。

柴咲
123.225.214.1

再訪させて頂きました。
 
私の感想が自分よがりのために、作品を傷つけてしまったことを深くお詫びします。
そのうえで言い訳がましい補足をさせてもらいます。
 
>むすめが? 別のある方も同じようにご指摘されていて驚いたのですが、むすめは、ラストで、何も言っていないし、言おうともしていない。ラストで何か言ったのは、おっさんのほうです。
 
>むすめは立ち上がり、歩み寄り、おっさんの肩を軽く叩いた。
 部屋を出てゆくむすめの背中に、おっさんは何か言った。
 でも、ギターがぎゅいんと鳴って、だからむすめにはその声が聞き取れなかった。
 
・ここを、私は二人の無言の会話と捉えていました。思いを娘は肩をたたいて伝え、おっさんはギターを弾いて返す。その行為によって、言葉はなくても二人は心を通わせたのだと勘違いしてしまったようです。申し訳ありません。
 
>墓前? なんの話ですか? ここは、もう少し噛み砕いて解説していただくことを希望します。
>おっさんのパフォーマンスにも共鳴できたかもしれません。むすめが心底愛していたロックを聴けなくなったから。
>すみません、意味がわかりません、説明してください。
・あいみょんさんの歌も当然知っていますし、ここの部分は完全な言い訳になりますが、元歌と切り離して一つの作品として読んでしまったからかもしれません。そのうえで、何か今以上のものを期待して、読解力のなさからもの足りなさを感じ、作品を汚すような感想を書いてしまいました。
完全な蛇足です。ただ悪意はありません。
そこを理解していただけると幸いです。

はるか
106.154.130.214

 柴咲さま

 再び、ありがとうございます。

 詫びていただく理由はありません。墓前、だとか、パフォーマンス、の意味を知りたく、教えていただきたかっただけです。
 作品、汚されてません。

>ここを、私は二人の無言の会話と捉えていました。思いを娘は肩をたたいて伝え、おっさんはギターを弾いて返す。その行為によって、言葉はなくても二人は心を通わせたのだと勘違いしてしまったようです。申し訳ありません。

 おっさんは、ギター弾いていないです。元歌においても、拙作においても。元歌ではドーナツ盤が、拙作においてはレコードが、ロックを奏でています。

>ただ悪意はありません。そこを理解していただけると幸いです。

 おっさんとパフォーマンス、むすめと墓前、その組み合わせにどのような意味があるのか知りたかったのです。意味がわからなかったので、悪意とも善意とも解しかねます。作品がもの足りなかった、という部分は理解しました。

 ありがとうございました。

中野サル信長
106.173.154.115

はるかさま
拝読いたしました。あいみょんさんの曲も聞いてみましたが、家族アレンジでよく表現できていると思いましたよ。比喩はもうちょっとひねったほうがいいかなと。歌もありじゃないですか。まあ僕的には父と娘ですんで、近親相姦的際どさをチラッと見せてといいのかなと思いました。海辺のカフカも近親相姦で味を出してますよね。もっちライトでいいと思いますけど。

歌もそうですが、漫画のコマも文章化すると鍛錬になったりします。
写経と漫画のコマは一時ハマってました。
まあ公募に本気作を書くのが一番鍛錬になると思いますが、そのほかにも折を見て文章力の鍛錬をしたほうが良いのかなと感じています。写経タイムとか作ろうかな。

はるか
106.154.130.47

 中野サル信長さま

 ありがとうございます。

>比喩はもうちょっとひねったほうがいいかなと。

 そうですね。春の嵐みたいな、とか、夏の稲妻みたいな、とか、青葉のように、とか、紋切り型ですよね、ご指摘いただいて自覚しました。

>まあ僕的には父と娘ですんで、近親相姦的際どさをチラッと見せてといいのかなと思いました。

 あいみょんさんの元歌に対してあれなんで、ちょっと、なかなかですが、ちらり、って塩梅を工夫すれば、ぎりぎりありかも、かな、どうかな、むりかな。

>海辺のカフカも近親相姦で味を出してますよね。

 佐伯さんでしたっけ、かなり歳上の方と、カフカ少年が、ある種の層において母子であるような、ないような、曖昧な、って、そんな感じでしたっけ。

>まあ公募に本気作を書くのが一番鍛錬になると思いますが

 なるほど、そうかもしれませんね、私は、ここに投稿することがいいアップになる感じなので、まずはここに出すことを目的に書こうと思ってます、で、書き上がって、我ながら上手く書けたかな、って思えたやつは、こちらに出すのやめちゃって公募に回しちゃう、ってそんな感じでやっていこうと思ってます。実は、この、君はロックを聴かない、を投稿したあと一作書いて、そしたら、それが意外と上手く書けちゃったので、こちらに出すのはやめて公募に出すことにしちゃいました。でも、二週間に一度はこちらに新しいのアップしたいと思ってて、だから昨日、新しいのまた書きました、短いのです。で、今、推敲してますが、それを、明日にはまた投稿するつもりです。公募もいいけど、鍛練場もいい感じです。よかれあしかれ反応がダイレクトだし、バトルみたいになっちゃったりとかして、最初は萎縮してたんですが、ある段階から吹っ切れて、吹っ切れたら違う自分に出会うことができました。感想書いたりするのも勉強になるし、だから、鍛練場八割、公募二割くらいのガンバリ配分でやっていこうかな、とか、私は思ってます。公募にまわしちゃったやつ、ほんとはこちらにアップしたかった、ってつくづく思うのですが、まあしかたがない、公募に落ちたら、そのあと投稿するかもです。

>写経タイムとか作ろうかな。

 写経ですか。面白そうですね。私も今度、仏説小説ハンニャーシンギョー、みたいなの書いてみようかな。色即是空なテーマで!

 ありがとうございました。

まほろ
119.239.184.12

はるかさん
先は拙作にコメントをありがとうございました。
私は原曲を知りません。
櫻井さんという方がおっしゃっているように、こうした透明な文章は、書き手にある種の精神性が備わっていなければ出てこないように思います。そしてその精神性は、創作に作家の個性を与えるはずです。
シナリオと小説の間のような、何か新しいものを見たような気がしました。
賛否両論ありますでしょうが、こうした二次創作(?)をメインとしないのであれば、手遊びとしては、悪くないように感じられます。
(最後に老婆心を。著作権法はころころ変わるので、ご留意をば。)
失礼いたしました。

はるか
106.154.130.47

 まほろさま

 ありがとうございます。

>こうした透明な文章は、書き手にある種の精神性が備わっていなければ出てこないように思います。そしてその精神性は、創作に作家の個性を与えるはずです。

 透明な文章、精神性、それから個性。個性、というのは意識したいと思っていましたが、透明な、精神性、というのは意識してなかったけど、素直に嬉しいです、ありがとうございます。

>シナリオと小説の間のような、何か新しいものを見たような気がしました。

 シナリオっぽい、というのは、一般に、小説にとっては誉め言葉じゃないような気がするし、シナリオからは遠いところを書こうと、書き手は意図してたりするのですが、文脈からしてなんだか褒められてるようなので、ありがとうございます。

>手遊びとしては、悪くないように感じられます。

 なるほど、手遊び、そうですね、遊んでいるつもりはなかったけど、遊んでいるのかもしれませんね。
 歌詞から二次創作したかったんじゃなくて、リズムや響きや歌声を小説にしてみたかったのでした。リズム、学べるような気がするので、またいずれ、もっとアップテンポな歌でやってみたいと思っていますが――、

>著作権法はころころ変わるので、ご留意をば。

 ――なのですね。気をつけなくては。やっぱりもうやめとこうかな、こういうの。

 ありがとうございました。

まほろ
119.239.184.12

はるかさん
再度のコメント失礼します。

>歌詞から二次創作したかったんじゃなくて、リズムや響きや歌声を小説にしてみたかったのでした。

なるほどです。私が的外れな読みをしてしまいましたね。
もしもう創作されていたらすみませんが、短歌の創作などは、リズム感を学ぶのには良いのではないかな、と思いました。

お節介を失礼しました。

はるか
106.154.130.124

 まほろさま

 再度、ありがとうございます。

 わかりづらい返信をしてしまったようですみません。まほろさんのご指摘が的外れだなんてことはまったくありません。

>短歌の創作などは、リズム感を学ぶのには良いのではないかな

 そうですね、むかし仲間と、よく、あいうえお短歌とか作ってましたよ。

あ あいしてる
い いのいちばんに
う うそつきに
え エッチされたら
お およめにいけず

 とか、そういうやつ。何人かで、あの人、いの人、とか分担して作ったらそれも面白く、おっしゃるとおり、リズム感の習得に役立ちました。

 ありがとうございました。

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