作家でごはん!鍛練場
そうげん

赤尾

(全文)


 清綱は屋敷の縁に腰をおろしていた。手入れの行き届いた庭に目を遣る。胴体の細かくひび割れた唐松は、四肢を執拗に捻くらせ、それぞれの先端の針葉は剣山のように凄まじい。石燈籠の脇には椛(もみじ)が植わっている。長引く冷え込みは葉脈の浮く五指を紅く染めて久しい。鮮血の赤さだった。
 漏らす溜息には懐旧の情が籠る。年々肌に皺を刻んできた。己(おれ)は十分すぎるほど生きた。晩秋の淋しさがそうさせるのか、日没に迫る寒さがそうさせるのか、かつての懐かしい雄飛のときが、近頃殊(こと)に思い出される。
 先々代当主亮政(すけまさ)と遠乗りをした夕まづめ。近場の百姓が手すきに捕まえた泥鰌を譲ってくれて、あれは泥を吐かせて次の日の晩酌の肴になったものだった。下女に言いつけ、背開きにして中骨を取り去り、白焼きにしたあとで味噌をつけて食った。ちびちびと齧りながら盃を傾けるたびに、語り合う声にも熱が籠った。あのころは六角の突き上げも厳しかった。何度捕えられても釈されては再び戦いへと赴く亮政の熱意に絆(ほだ)され、綱親も内蔵助も直経も、その他の者たちも、彼を措いてほかに盟主はなしと意を固めてきた。
 直経の心変わりを変節とばかり言い切れない己がいる、と清綱は感じる。彼とは一回りの余(よ)、離れていた。若さは齢の差によるともいいきれない。在りし日。直経は、いま信長の命を獲らずば後えに禍根を残すと言った。同じ信長をいまは縁を保つべしと並み居る部将の前で言い切った。一度決めたことを翻えせる、いまだ柔軟な思慮を保ち続ける直経が羨ましい。家老の立場に縛られている己(おの)が姿と、つい比べてしまう。
 遠く、秋空を抜けて鴉の声が聴こえる。見上げると彼方で木立が揺れている。上空には風がある。空気は乾いていた。江南からの突き上げに対処していた一昔前を想起する。亮政と騎上にあった戦乱の数々は、内も外も構わぬ、気力の充溢していた、樹木でいう若木の季節だった。戦場において、いくつの首級を上げたか知れぬ。顔中に血糊を浴びて、鉄くさい臭いが支配する戦場で、勇猛心に駆られて、つぎつぎに刃を揮った自身の修羅は、いま縁にいて、熊笹や、枯れて筋だけになった酸漿(ほおずき)の橙に目を向けている己が心根と同じものだろうか。
 戦の合間に水利のために堤を築くのに、雑役夫と共に肌脱ぎになって土を運んだあの頃が懐かしい。汗と泥にまみれ、一日の終わりに地の若嫁たちが振舞ってくれた握り飯を頬張ったときの旨さは格別だった。世人の上に立つ者なら、さぞ旨いものを食うておることと思われがちの時勢だった。しかし共に飯を食うという、分け隔てのない胸襟の広さを見せる亮政には、一度その人に接すれば、その内部に渦巻く仁義の厚さが感じられた。役夫にいざこざがあればすすんで仲裁にも立った。互いの話に耳を傾け、適宜、差配してやる。思慮深さにも感服していた。直経も、綱親も、いまは亡き内蔵助も、みな、そういった感慨を抱いていたはずだ。
 亮政の亡くなったときのことは、いまも憶えている。
「久政では心もとないが盛り立ててやってくれ」と言いつけられたときに感じたのは、僭越であろうが、蜀漢の劉備と諸葛亮の事績であった。劉備の亡くなるとき、その子、劉禅を頼むと言い置いたその臨終の言葉が重かった。「暗愚であれば、君のその手で介錯を頼む」と伝えた劉備の決意は、亮政にはなかった。武をもって鳴る勇将だからこそ、心中響き合うものを感じていたからこそ、その子久政の終始控えめなところに浅井家の帰趨も極まったと覚悟した。江南との争いの趨勢は相手方に傾いた。それが猿夜叉の誕生で持ち直した。正直、期待はしていなかった。柔弱の目立つ久政が、亮政に優るとも劣らぬ資質の若武者を子に持ったのである。
 鍛錬の場においてはじめて打ち合ったときの感動は、名状しがたいものだった。気迫に溢れる一打一打は、諦めかけていた心に再び火をつけた。思えばずっと燻っていたのだ。亮政亡き後の、蠟を噛み砂を含むような、味気無い日常に、まるで己が心胆まで冷え切ったのだと信じ込んでいた。熱度は熾火のままに保たれていたのだ。必要な状況と必要な機会さえ与えられれば、心火はふたたび盛んになるものだった。警戒する気持ちはあった。勘違いではないのか。期待は裏切りと隣り合わせではないのか。しかし杞憂に過ぎなかった。
 かつて連戦に次ぐ連戦を経ながら浅井が一向に適わなかった六角の軍を、その初陣において見事打ち破ったのは、亮政が亡くなって二年の後に生まれた長政であった。かくなれば諸将の賛同も得られようと、長政を中心に家臣団の結束を固めた。結果として久政を追い出すことになったが、浅井の今後を思えば躊躇う理由はなかった。
 亮政は慎ましかった。他家の領地を蹂躙しよう野心もなかったし、周辺から突き付けられる無理難題にしても、ことを荒立てるのを好まなかった。理不尽に思われることであっても、ある程度までは忍耐した。ともに京極の家臣であったころから、酸いも甘いも噛み分けた仲だった。望まぬ命に就くときの、苦い味わいも十分すぎるほどに舐めてきたのだったから。ただ、どう仕様もない時にだけ、謀略を張り巡らせ、ときに武力に頼った。
 時代は下って、ともに浅井亮政を主と仰ぐ友として綱親の言葉には感銘を受けた。
「江北のためにも、あの方を是が非にも守らねばならぬ」
 京師、越前、美濃、尾張、甲斐、江南。そこら中に火種は転がっていた。渦中にあってすら領国のことを思い、まっすぐに治政の安定を考える亮政の一本気にこそ、頼るべき支柱を見出した。他家には奸計を弄す者もあれば、私腹を肥やすのために領土の拡張を望む者もある。人を殺して悔いることのない者もあれば、人の悲しみを悲しみと受け取らぬ卑劣漢もある。海千山千のツワモノのなかには、度を越す者もある。しかし亮政の人となりは我らに安住の地を思わせた。亮政が亡くなり、久政を当主に仰いでからの、次第に領土を蹂躙されてゆくふがいなさを思うと、いまも口中に苦いものの溢れる思いがする。南北の連戦は必敗に帰し、南が北を飲み込む形で終息するかに見えた。属国扱いは忍従の立場であったし、そのなかですら悠々と振舞う久政の柔弱な態度に、家臣一同、なんど殺意が芽生えたか知れぬ。わが子には、六角の主家から一字をたまい、家臣の嫁を娶わせられ、その報知を受けた直経などは、ついに最後まで苛立ちが収まらなかった。だからこそ長政――当時の新九郎が偏諱の名を捨て、いったん迎えた嫁を手も付けずに送り返したと知ったときの快哉は、直経ならずとも、浅井家古参の家臣にとっては心底からのものであった。
 亮政の質実とも久政の柔弱ともちがった、いや、その双方を兼ね備えたうえに、どこか安定した頼もしさの感じられる、勇猛なる若武者長政の魅力は那辺にあったか。おもえば、吾らはここに一家の風を再建し、さらに新たな機軸を求められる予感に駆られていたのだ。長政の名の因である、信長の一字拝領、つまりこちらの偏諱は、長政からいいだしたことだった。己にはない性分を、この義兄に見出したのだといまならばわかる。兄のいない長政にとって、子供の頃から奔放に育ち、いまだ破天荒な行いに明け暮れる信長は、頼りになる兄であったのだ。深く心酔する頼りになる義兄(あに)。上洛の軍に付き従ったとき、二条城の改修のとき、ともに騎を並べることに嬉々とした顔すら見せていた長政だった。譜代家臣の誰にも見せない打ち解けた顔を、尾張のうつけとまでいわれたあの男の前に見せていたことは、我ら家臣団を微妙な心持にさせるものだった。
 一端をほどけば、と清綱は愚推する、そのときの違和感こそが、直経をして「信長除くべし」と言わしめたのだ。ほかならぬ己にもその気持ちはあった。敵意を抱くほどではないにせよ、他国の男に心酔しすぎる長政の軽佻に不安を覚えたのだ。油断すれば寝首を搔かれるかもしれぬ相手に、一方的にのぼせ上がることは危険きわまることであった。「寺に手薄な信長をいまこそ夜陰に乗じて討つべきでござる」といった直経の進言を受け入れておれば、現今の心配も生まれなかったはずだ。もちろん一人を除けば、次の一人、あるいは次の三人がその前に立ちはだかるのが乱世のならいである。
「ことここに到れば、尾張と結ぶべし」
 直経の意見に、長政の表情も曇り、清綱も同意しかねた。将軍家からは書状が届いていた。武田や六角、朝倉、三好などと併せ、近頃増長する信長を討つべしとの内容が、文面に色濃く塗り重ねられてあった。直経の意見を容れて、信長と結び、諸国を敵に回す選択は、亮政の時代を知る家臣団には踏み越えられぬ壁であった。
 なかには「御寮人を送り返すべし」と長政に進言する者もあった。
 過去に一度為したことを、人を変えて、同じように為せとの言葉である。さきの平井の娘とちがうのは、長政にはお市御寮人と仲睦まじい時期があったということだった。交歓のない相手をどうしようと心は痛まない。しかしそこに厚情あってみれば、たとえ敵手の血縁であろうと、その縁を払ってでもいまの仲を大切に思いたい。長政の性根の部分――人としての温かさを知るからこそ、清綱は、進言した家臣に対して、慈父のような面持ちで間をとりなしたのだった。家の都合で人質に出され、返されるのが尋常なる世上に抗うべきであると。思えば長政も生まれは江南観音寺であった。六角の城にて生まれ、ある時期を六角の館で過ごし、事実上の人質として、ふがいない家のための犠牲になったのだ。いまここで御寮人を送り返すことは二重の意味で、人の意志を左右することになるとわかっていた。
 人の気持ちを案じる長政だからこそ、一度は竹生島へ追い出した久政を、ふたたび浅井家に引き取り、隠居という形ながら軍議の場に出ても構わぬ扱いにしたのだった。それは甘さなのか、弱さなのか、一回りした強さであるのか。なににせよ、しなやかな対応だったと、清綱は思う。
 すでに密偵は、織田家中に戦の準備のあることを知らせてきた。京師では将軍は飾り物にされ、天下の実権は織田が握るかのようだった。もはや誰にも止められぬ。止めるとすれば、もっと前に食い止めるべきだったのだ。かつての直経の言葉にこそ実感が籠る。いま直経の告げる言葉に、今度こそ乗るべきであろうか。もう一度拒むべきであろうか。かつて家中に頼みにしていた忠臣賢臣の多くが亡くなった。ある者は戦場で、ある者は臨終を経て。
 清綱は思う。亮政亡き後の浅井家のぐらつかぬよう、その重みの幾分かを背負っていかねばなるまい。決断は急がねばならぬ。時には限りがある。幸いこの年まで生きた。あるいは還暦までこの世にあり続けるかもしれない。しかし浅井の家を今後も保ちたければ、決断を引き延ばさず、いまを必死に生きるしかあるまい。
 魑魅魍魎(ちみもうりょう)の棲む世。明日に死に追いつかれるやもしれぬ。その前に、今日も日が暮れて、夜が来る。夜は荒いものを隠すだけの幕なのか。亮政のいちばんの願いは、身近なものの傷つけられることのない世の到来だった。一国を保つのも難しい。久政を経て、長政の時代になっても、この基(もとい)はかわらない。信長につけば、日本が平らかになって、争いもなくなると考えた時期もあった。しかし、年々人を見るに、まったき安定などないことがわかる。やはり、将軍の言葉を容れるべきだ。しかし、本当にそれでいいのだろうか。
 ときは夜に近づき、秋の虫がさびしげに鳴いていた。かつて戦場に散った仲間たちの野辺の骸から聴こえるすすり泣きのようだった。
 清綱は縁を立って、中へ入った。下女は申しつけに忠実で、ついに最後まで彼を呼びには来なかった。
 清綱の去る足音が遠くなる。
 秋の空はしまいには雲すら見えぬ暗闇に支配された。



(終わり)

赤尾

執筆の狙い

作者 そうげん
121.83.151.235

久しぶりに自分にとっての時代物を書きたくて、浅井家家臣赤尾清綱視点で書きました。
時勢でいえば、織田信長が越前朝倉氏を攻める決断をする前段階です。
固有名詞が多すぎて、詳しくない人は置いてけぼりになってます。

浅井亮政、浅井久政、浅井長政、赤尾清綱、
遠藤直経、海北綱親、百々内蔵助、

あたりが固有人物名です。

時代に詳しくなくてもなんとなくこういうことかなとわかるように
書いたつもりです。書きたくて書きました。一人がたりです。
読めるか読めないか、教えてください。

では失礼いたします。

コメント

はるか
106.154.130.254

 そうげんさま

 拝読しました。取り急ぎ一読した、という感じなので、内容については、追ってまた再訪して感想したいと思いますが、ファーストコンタクトにおける感想のみ記させてください。

 一読してすぐにわかる文章についてですが、リズム、とてもよいな、と感じました。これまでに読ませていただいた作品のうちでも、とりわけ今作は、語りのリズムがよいように思いました。とても音楽性のある作品である、ともいえそうです。そしてまた、その意味では、大変「読みやすい」小説であるな、と感じました。

 けれども、すべての読者にとって、この文章が、というか作品が、「読みやすい」のかというと、私みたいなものにとっては、ふたつの意味で「読みにくい」のでありました。

 ひとつには、漢字がたくさんで、すぐには読めない漢字があり、また、もうひとつには、言い回しが、時代小説ならではなのですが、日常の言い回しでなく、つまり、馴染みがないからです。時代小説に通じている方なら、あるいは読みやすいのかもしれません。でも、私の読書ジャンルには偏りがあり、ミステリーと時代ものは苦手な分野に入るのでありました。だから、御作を読み進める私のスピードは常ならざる遅々としたものでありました。でも、読み終えたら、今、常ならざる、だなんて、日頃の私にはない種類の言い回しが飛び出てきて自分でも驚いたのですが、常ならざる言い回しに浸かると、常ならざる何かが刺激されて、常ならざる自分にいくらか目覚めたりもします。親戚のお兄さんから『じゃりン子チエ』という漫画を譲り受けて一気読みしたあと、しばらく大阪弁が止まりませんでした、私は小さな頃大阪に住んでいたことが二年間だけあるのです。つまり、大阪弁が日常であるところの漫画世界に浸かったら、たった二年間だけしゃべっていただけの大阪弁が、私の中で鮮やかに蘇ったのです。時代小説というのも、それに似て、入りづらいのですが一度入ってしまえばその味が馴染みになる、癖になる、といった類いのものなのかもしれませんね。だから、言い回しの馴染みのなさは、つまり、味、であります。よって、この「読みづらさ」は、受け入れてしまえば、味わい深さ、という喜びになります。よい「読みづらさ」というものがあるのですね。

 御作の中にあった、夕まずめ、についてですが、夕まずめという言葉は、単に時刻を表すのではなく、薄暮の時間に釣糸を垂らすその雰囲気を包んで時を語ります。背景を伴って漂います。そういった、風情、味わい、趣き、こういったもの、文学ならではの醍醐味ですよね。哲学なんかも、日常的ではない言葉を使用しますが、あれは風情を出すためでも、門外漢を閉め出すためでもなく、言葉の正確な意味を極限までに追い求めた結果、であるわけですが、つまり既存の言葉にはない概念を示すにあたっての、いわば造語にも近い試みであるわけですが、ああいった正確性の追求とはまた、文学のチョイスは一見異なっておりますけれども、その言葉の持つ背景や、響きや、味わいなんかを吟味してシビアに選択し抜く、という点で、文学におけるチョイスも、哲学なんかの、意味におけるチョイスと同等に、いえ、それ以上に、のっぴきならない、ぎりぎりの選び出しであるのだな、と、実に厳しい勝負であるな、と、そんなふうに思うのでありました。ちょっと引用させてください。

>手入れの行き届いた庭に目を遣る。胴体の細かくひび割れた唐松は、四肢を執拗に捻くらせ、それぞれの先端の針葉は剣山のように凄まじい。石燈籠の脇には椛(もみじ)が植わっている。長引く冷え込みは葉脈の浮く五指を紅く染めて久しい。鮮血の赤さだった。

 遣るは、やる、と開いてはならないのです。つっと目を遣る感じは、やる、じゃ出ない気がします。目遣いを表すために、ここは、「読みやすく」できません。
 四肢を執拗に捻くらせ、は、手足を複雑にくねらせ、には直せません。老いた唐松の、そのごつごつとした幹が、頑迷なまでにひねくれ曲がっている様を表すには、「読みやすく」するわけにはいかないのです。手足を複雑にくねらせて、じゃ、タコであります、軟体な感じであります、裂け目のできた老幹の形容には軟らかすぎるのであります。
 先端の針葉は剣山のように凄まじ、くなくてはなりません。剣山のように尖っていた、じゃ、その、容赦のないつんつんっぷりが出ないのです。凄まじくなくてはなりません。
 石燈籠の脇に植わっているのは、もみじじゃなく、紅葉でもなく、椛なのです。紅葉としたんじゃ、あーきのゆーひーにてーるやーまもーみーじ的な平穏な感じになっちゃって、凛としたストイックっぷりが出ません、半端な橙色を想像しちゃいます。作品全体を貫くストイシズムを表すためにも、葉脈の浮く五指が紅く、鮮血の赤に染まっている、という厳しい表現との釣り合いをとるためにも、ここは童謡の色のついた紅葉じゃなくって、国字としての椛じゃなきゃいけないのです。

 と、引用させていただいて、勝手に解説しちゃいましたが、私にはそのように思えたのでした。
 軽薄短小でも構わないから、とにもかくにも読みやすく、馴染みやすく、わかりやすく、気取らずに、日常遣いで、みたいなことをよしとする考えもあるようですが、志が商魂よりも希薄だったりする種類のエンタメなんかはそれでよしとして、言葉を芸術的に紡ぐ純文学や、面白さを礎に深いテーマをも語りたい本当の意味でのエンタメなんかの、いわゆる文学は、それじゃあぜんぜんまったく、よし、じゃなくて、だから作家は、言葉を、表す対象にふさわしい正確な言葉を、しっかり吟味し、選択し、尖らせて、容赦なく磨かなくてはならないのだと私は思います。硬いものも、軟らかいものも、いい加減に、曖昧に、心なく紡がれてはならない、と思うのです。いい加減な人間を、いい加減な人間が描くことはできないし、脱力した話を、脱力した姿勢で書くことはできないわけですね。本気で書かなきゃ何も書けない。

 その意味で、御作は、これでなくてはならない、という判断のもとで、その漢字を、その言い回しをチョイスしているのだ、ということが凛々と伝わってきますから、実に素晴らしい「読みづらさ」であるなと、そのインテグラルな「読みづらさ」を、リズミカルな「読みやすい」文体が補完して、やじろべえみたいにうまいことスタンディングしてるさまが、御作の、芸術性、ともいえそうな芸風なのだと私は感じました。

 つづきます。

はるか
106.154.130.254

 そうげんさま

 つづきました。

 さて、もうひとつ、歴史もの、の宿命としてある、非日常性について感想させてください。ぶっとんでるSFなんかもそうでしょうし、ホラーなんかもそうかもしれませんが、歴史ものも、今の時代を描いていない、って段階からして、すでに非日常なのであって、現代の高校生が戦国時代にタイムスリップ、みたいな話なら、導入部において高校生の日常を語れば感情移入の土台を作れるから簡単なのですが、最初っからその時代の歴史もの、ってなると、読者が作品の世界にリンクするなんらかの仕掛けがないとなかなか、かもしれませんね。
 他の方の感想欄で、そうげんさんが、大長編ドラえもんのことを語られているのを読みましたが、ドラえもんって、なんであのようなあり得ないひみつ道具やら、ドラえもんそのものが簡単に受け入れられて違和感がないのかっていうと、あるいはまた、大長編ドラえもんでは、のび太たちが、時間の、あるいは、空間の、あるいは次元の大冒険に毎度繰り出すのですが、なんでそれに無理がないのかっていうと、私が思うには、ドラえもんって、徹底して日常が描かれていて、それが非日常をやじろべえしてるからなんじゃないかと思うのです。変わらない日常、いつもの学校、いつもの仲間、いつもの空き地に、いつものママ、そんな、思いっきりカワリバエシナイ日常がのび太たちを圧倒的にグラウンディングしてるからこそ、未来の世界のネコ型ロボットがやってきたり、そいつがおかしなものを出したり、大長編では大冒険に出掛けたり、それらの非日常が担保されるのではないかと。安心に支えられての不安が求められているのではないか、カワリバエシナイ日々を送っている小学生たちに、と思うのです。だから、のび太たちは、大冒険に出掛けても必ず日常に帰ってくる。ひみつ道具でいい思いをしても、必ず冴えない日常に、教訓的に戻される。このバランス、これがドラえもん作品の駆動力なんじゃないかと思うのです。

 さて、御作ですが、御作にあるところの、非日常をバランスする日常性は何か、というと、実は、一読では、それが見当たらないような気がしました。橋が見当たらない。また、例をあげさせてください。『傭兵ピエール』という作品をご存じでありましょうか? これは、私が、一番好きな時代ものであり、エンタメであります。舞台はヨーロッパで現代日本ではなく、傭兵の生きざまは私にとって異世界であります。しかし、とても、共感しました、泣きました、怒りました、感動しました。なぜなんだろう、と思いました、苦手なはずの時代ものに、なぜ私はそこまで夢中になったのか。キャラです。キャラがすごくいいんです。ピエールが、カッコよくて、かわいくて、愛しくて、心配で、応援したくて。でもピエール、ちょっと悪魔みたいなやつでもあるんです、愛する仲間が汚されたときに彼がした復讐は、とんでもなく、ものすごいです、日頃多弁なピエールが、一言も語らず、さも当たり前のように、冷徹に、敵をなぶり殺します、たった独りで乗り込んで、淡々と、失感情的に、残虐に、圧倒的な力で完膚なきまでに蹴散らします、チンピラのケンカとは格が違うんですよ、その剣に宿っている怒りは、血以前に、涙により染め抜かれているのでした、透明に染め抜かれているのでした、冷たく冷たく凍っているのでした、だから、そのときの彼は非人間的なまでに悪なのです。彼のキャラを見せているのはエピソードです、現代社会においても、また、私の日常においてもあるような種類の、共感しうる、いつもの模様、いつもの形です、ここに模擬的な日常があり、そこを生きるキャラのキャラっぷりがまた、まぎれもなく現代風なのでした。舞台は昔だけど、それが味わいだけど、そこにある時代がかった小道具を弄して物語を演じているキャラは、キャラたちは、もうどうしようもなく私たちで、つまり、私たちの怒りで、私たちの涙で、私たちの身勝手さで、私たちの残酷さで、私たちの愛しさなのでありました。つまり『傭兵ピエール』は、とことん人間の感情を描いたエンタメなのでありました、その意味で究極の文学でもありました。

 また、つづきます。

はるか
106.154.130.254

 そうげんさま

 また、つづきました。

 さて、非日常を描くのはなぜか、ということになります。子供たちに、F先生が提示したものは、つまり、未来のロボットや、便利な道具や、さらに、時間や空間や次元を越境する珍事により提示したものは、思うに、変わらぬ日常の価値ではあるまいか、と私には思えるのでありました。非日常は、日常を描くためにあるのではないかと、なぜなら私たちのホームグランウドは、いま、ここ、でありますから。人間模様のリアルも、いま、ここ、にあるのでありますから。舞台をここではないところに設定して物語を書くということは、ここではないところにより、ここを照らす企てなのではないか、だなんて私は思うのでありました。『傭兵ピエール』にとっての、ここ、とは、人間の感情、でありました。そこに私は共感いたしました。御作における、ここ、は、どこでありましょうか、現代の、普通の私たちの、このカワリバエシナイ日々に通じる何か、それが御作に見いだせたら、私は御作の虜になるでしょう。

 一読では、それが見いだせませんでした、見いだせたのは、老いた清綱の、秋めいた感傷、懐古するところの夏めいた日々、その対比と、それから、家ですね、浅井家というものを、太くて広かった亮政の時代から辿り、久政、長政について思いを馳せつつ、赤尾清綱は、天下国家を思います、思いながら、消えゆく自らの命の炎を眺めたりもしているようです、そんな案配です、そんな配置を読みました。赤尾、がタイトルになっていることにも鑑みて、あるいは清綱の立ち位置、が語る景色が御作だ、ということであったりするのでしょうか。さて、そこに、読んでいる私の、いま、ここ、がどういう橋にて結ばれるのか、そこであります、ワビサビ、のようなものはわかるし、群雄割拠な、ツワモノどもの日々もわかります、鉄のにおいのする赤い荒野を駆け巡る武者たち、すごくイメージできましたから、それから、魑魅魍魎うごめく市井、みたいなことも、まあわかります、しかし、わかっただけで止まってしまう、心が揺さぶられることなく、割りきれてしまう、ふむふむ、こういう配置で、なるほど、こういうこともあらむかな、とは思うのだけれど、そこに、!や?のみならず、……もなければ、嗚呼、もないのでした、私の場合、その一読目においては。この作品は、たぶん、風合いを楽しむ作品である、とお見受けいたしましたので、頭ではなく、心でもなく、感覚で、後日、体調のよりよいときに、まとまった時間を用意して、腰を据えて味わってみたいと思いました、染み出てくる何かの予感もあります、でもまだ、一読しただけでは、それがわかりません、わかろうとすると余計にわからなくなります、だから、とっとこうと思います。つづきを読みたいですか? という問い掛けに似た問いで、もういちど読みたいですか? という問い掛けがあります。頭で割りきれてしまっても、心に響かなくても、もういちど読みたくなる作品、というものがあり、それが御作なのだ、と私は感じました。するめは、三回噛んで、はじめてするめなのでありました。格調高く、味わい深く、言葉の響きの美しい作品の中に、何か、いま、ここに通じる血脈のようなものが読み取れたらよいな、と思い、日を置いて再読させていただく所存です。

 最後に、単純によかった点を一言で。凛、とした、それでいてどこかしら枯れた、乾いた味わいがよかったです。ありがとうございました。

九丸(ひさまる)
126.179.47.68

拝読しました。

読めるか読めないか?
読めます。
なんでしょう? 意識されたかどうかは分かりませんが、最後まで読んで感じたのは、詩だなあ。なんて。
正直読めない漢字もあったりしたのですが、リズムで後押しされたというか。もちろん、内容も入ってきます。
もう少し欲しかった点を。
長政が信長に傾倒している場面はあるのですが、その全段階をもう少し厚みが欲しかったかなと。
時代もので一人称って、なんか新鮮でした。三人称なら読みやすくはなるのでしょうが、この長さなら、どっぷりと浸かるのもありなんですね。

拙い感想、失礼しました。

九丸(ひさまる)
126.179.47.68

失礼しました。
全段階→前段階
すみません(>_<)

そうげん
121.83.151.235

はるかさまへ

今回もお読み下しましてありがとうございます。創作動機なのですが、水野さんの「金髪エルフの美少女」という作品に触発されたことが挙げられます。自分にとってこのところ書いていないジャンルである時代物を、ふたたび書くことによって、なにか新しい発見ができるのではないかと期待したからでした(そして断っておきますと、水野さんの作品はジャンルとは関係なく、わたし、そうげんのなかで複数ある書ける題材の中のひとつに、浅井長政ものという時代小説の舞台があるということでした)。

また、赤尾清綱を視点に据えたのは、清綱であれば、浅井家三代を比較的公平に見ることができ、家臣の中ではもっとも有力者であったからこそ、ほかの家臣についてもそれなりに物をいえる立場に立つことができる。また、たった一場面(庭を眺めて昔を振り返り、いまを憂える)だけでもそれなりに形になるという期待があったためでした。

というわけで、はるかさま。読みにくいはずであったこの作品、この実験作を読んでくださいましてありがとうございました。

>すべての読者にとって、この文章が、というか作品が、「読みやすい」のかというと、私みたいなものにとっては、ふたつの意味で「読みにくい」のでありました。

はるかさんはこのように書いてくださっています。たぶん読みづらかったと思うのです。わたしも繰り返し読むときに、その速度はかなりゆっくりめです。スピードをあげては読めません。意味をきっちりつなげながら読むことを断念すれば、口当たりだけで読み通すことも可能である気がします。ついさきほど、ある人のnoteの文章を目にしたのですが、そのなかに書かれてあったことがありました。読みやすい文章は、読む速度と、頭に内容の入ってくるペースが、一致している文章だと。その言葉にしたがえば、わたしの文章「赤尾」は相当に読みにくい。わざわざ読みにくくしているとしかいえないレベルだと感じます。ですので、「読みやすいけど」「読みにくい」作品だというはるかさんの言葉はそのまま本当だなと思います。

たぶん語りのレベルを平易なものにすればリーダビリティは格段に向上するはずです。漢字もりもりで角ばった印象にしてしまっているのは、わたしの書くときの頭が、勝手な時代物モードになっているからに違いありません。どこまで柔らかくして、つまりかみ砕いて書くかというところにまったく意を配らなかったことが、この生硬な作品になってしまった原因だと思います。

言葉のひとつひとつに着目してくださったのはうれしいことです。夕まづめ(夕まずめ)はたしかに釣りの用語として通用していますね。わたしがこの言葉をはじめて知ったのは、大江健三郎さんの「燃えあがる緑の木」の第一部第一章、釣りのアマチュアが渓流釣りのために谷間の川にやってくるという記述も含まれた、アメノウオが空中に飛び跳ねて古虫をくわえる情景の描かれる部分でした。魚、釣りという言葉の関連性は、わたしにもその部分によって喚起されたところでした。ですので、そのあとで、今作ではどじょう(泥鰌)のことを書くことになったようです。

はるかさんは、

>ああいった正確性の追求とはまた、文学のチョイスは一見異なっておりますけれども、その言葉の持つ背景や、響きや、味わいなんかを吟味してシビアに選択し抜く、という点で、文学におけるチョイスも、哲学なんかの、意味におけるチョイスと同等に、いえ、それ以上に、のっぴきならない、ぎりぎりの選び出しであるのだな、と、実に厳しい勝負であるな、と、そんなふうに思うのでありました。

と、とてもきっちり書いてくださってます。わたしの態度はこれよりは多少軟派なところがあって、ただ居住まいだけは正したいという気持ちに駆られてしゃっちょこばってるだけなのです。あらためて丁寧に書かれてしまうと、反対にちょっと恥ずかしくなってしまいます。でも、ありがとうございました。

>だから作家は、言葉を、表す対象にふさわしい正確な言葉を、しっかり吟味し、選択し、尖らせて、容赦なく磨かなくてはならないのだと私は思います。

この言葉はわたしも自分の書くときの態度を振り返らせられます。まだわたしの態度はそこまで真剣になり切れていなくて、今作に関しては、将軍の書状のことだったり、直経が心変わりしたところをピックアップしたり、すでに年配であった清綱は、一家の枢軸として、そう簡単に揺れるわけにはいかないというところを示したり。そういう各人の思惑みたいなものを先に設定して、表に滲ませはしないけれど、ちゃんと踏まえて書き進めたいというそんな欲求ばかりがあったのでした。そんななかで、綴る文章は、きっちり固い、防壁のようなものにしようという意志が働きまして。

芥川の「或る日の大石内蔵助」でも「偸盗」でも、もっと物語に揺れがあったり、一種の遊びがあったりする。わたしの今作には揺れも、遊びの部分も皆無で、そこは完全に足りてない部分だと思ってます。中だるみしたくないという気持ちが強すぎて、いっさい、遊びがなくなってしまったように感じます。

>実に素晴らしい「読みづらさ」であるなと、そのインテグラルな「読みづらさ」を、リズミカルな「読みやすい」文体が補完して、やじろべえみたいにうまいことスタンディングしてるさまが、御作の、芸術性、ともいえそうな芸風なのだと私は感じました。

たぶん、そのやじろべえみたいなスタンディングも、方針を一切転換しないワンイシューだったところに、今作に対するわたしの反省点があるように思います。ただし当初の書き方の想定通りでもあったことから、反省点ではあるのですが、書いてみたいことは通過することができたので、ちょっとした満足感はあるのでした。ただ、読んでいて「楽しい」と思ってもらえるものにはなっていないだろうから、今後、長く書くときには、このあたりは考えてゆきたく思ってます。



つづきます。

そうげん
121.83.151.235

お読み下しまして→お読み下さいまして
古虫→小虫

訂正です。

そうげん
121.83.151.235

はるかさんへ

>さて、もうひとつ、歴史もの、の宿命としてある、非日常性について感想させてください。ぶっとんでるSFなんかもそうでしょうし、ホラーなんかもそうかもしれませんが、歴史ものも、今の時代を描いていない、って段階からして、すでに非日常なのであって、
(中略)
ってなると、読者が作品の世界にリンクするなんらかの仕掛けがないとなかなか、かもしれませんね。

非日常性――そうですね。たしかに工夫がないと読んでもらいにくいと思います。書いている側の、作品を書いているときの心理ですが、かつては信長を暗殺すべきだといっていたのを、たくさんの出来事があってのち、いまでは信長との関係を重視すべきだといっている直経を振り返るシーンがあります。これを書いているときには、いったん決めた方針からはなかなかはみ出すことの出来ない日本の政策のことだったり、またフットワークの重さを年齢のせいにしてしまっている自分の弱い心なんかを振り返りながら書いていて、書くときの運動性からいえば、とても正しく、今を思いながら書いていたりするのですが、そんなことは読み手にとっては関係のないことですから難しい。

「家」を考えるとき、核家族から、いまでは個室(アパート、マンション)の独り暮らしが、家庭の一単位になっていて、「家」を考えることも減ってきたかなと思います。このまえここに書きましたお通夜のシーンのある作品ですが、これは「家」とか「親類縁者」「地縁」について、そのどろどろしたものも書きたいと思っていて筆をとった作品でした。(じつは遅々とした進みゆきですが、いまも続きを書いています)。

現在の天皇制も、令和になって、父系と母系について取りざたされています。「家」について考えるときに、血脈みたいなものをどう考えるかって、ここには個人的にちょっとしたロマン的なものを抱きもします。また人は血筋でなく、生育環境によってこそ、その人格が決定するのではないかみたいな一方の極もしっかり見ておきたくて、なにごともバランスですけれど。

書いていることは戦国時代であっても、書いているときに終始あたまに去来するのは、いまのこともむかしのこともみらいのことも含めたごった煮になってるなにかです。ただこれも読み手には関係のないことになってしまいますね(むずかしいですね)。

ドラえもんについて書いてくださいました。たしかに日常というベースがあるからこそ、非日常が立ち上がった時に、その比較が活きてくる。それはあると感じます。指輪物語だって、はじめはホビット庄での生活が語られますし、冒険の旅のさなかにも、フロドたちがしきりにつぶやく、里に戻りたい、っていうその台詞が活きてきますしね。こう書いてくださったことを踏まえると、日常、や非日常というより、心情の一点景でしかなかったように思います。あれこれ考えるんだけど、考えてる中に動作がほとんどない。ザッピング的に動かずにチャンネルを回してるだけみたいな。

『傭兵ピエール』はサトケンさんの作品ですね。お名前だけは拝見してますが、一作も読んだことがありません。文体が苦手なために遠ざかってます。ただはるかさんの紹介文を読んでいると、とても面白そうに見えます。実際、面白いのでしょう。きっと。

>橋が見当たらない。

橋が見当たらない。あるいは、いまに対して橋を架けるつもりがなかった。といえるかもしれません。こう書いてみると、駄目な書き手ですね。わたし。読者サービスをする気がほとんどなかった(いえ、まったくかもしれません)。もっと動的にして、あれこれ人物の裏と表を描くこともできるはずなのです。でもしませんでした。台詞や、動的なシーンを増やすことによって、活劇的になることを避けたかったのと、市販されている時代小説の多くのスタイルにわたしはうんざりしているせいでもあります。一行二行ですぐに改行というのが売れるスタイルです。こんかいは私小説風のスタイルをとりましたが、たぶん、これはあまりうまくない書き方です。比較的多くの人に楽しんでもらえる舞台を提供するのも書き手の務めかもしれません。ただいまはそれを第一義に置くには、自分の中にあまり余裕がないのでした。せっかく魅力的な多くのことを書いてくださったのに、無下にしてしまうような言い方をしてしまってごめんなさい。

サトケンさんは、いまナポレオンの話をハードカバーで出版されてますね。
書店で見かけてます。


つづきます。

そうげん
121.83.151.235

>御作における、ここ、は、どこでありましょうか、現代の、普通の私たちの、このカワリバエシナイ日々に通じる何か、それが御作に見いだせたら、私は御作の虜になるでしょう。

これは書いた私には、私小説的に書いたところのもとが、私的に印象している清綱の位置でしかなくて、そこからわたしたちの生活している現代にむけて架け橋のようにつながっているものがないように思います。ただまったくよその土地のよその時間のなかにあって、架けられている一枚の絵、みたいなものでしかない気がします。それも読み手の読みときを、かなりの硬さで拒んでしまっている作品です。

実はわたしは小説が大好きで、読む本の大半は小説でありました。しかし多くの本は、感情移入や共感を求めて読んでいません。ああ、とてもうまい。とてもよい。みごとすぎる。そんな称讃を感じる作品に接したくて、読んでいることが多いです。全体を通じてよいと思えなくても、この箇所のこの部分の書き方がとてもいい、と思えば、拍手してしまう読み手です。内容はきらいだけど、書き方がうまいからとにかく読む、というような読み方もしてしまいます。

しっかりした文章を書きたくて、時代物的な書きものをしたくて、綴った文章だったので、あ、とてもいい! と思って貰いにくいものになっていたと思います。

>しかし、わかっただけで止まってしまう、心が揺さぶられることなく、割りきれてしまう、ふむふむ、こういう配置で、なるほど、こういうこともあらむかな、とは思うのだけれど、そこに、!や?のみならず、……もなければ、嗚呼、もないのでした、

はるかさんのこのコメントはきっとそうだろう、と書いていたわたしにも感じるところでした。配置している、置いているだけに近いものだからです。運動性も薄いので、ほぼないので、揺さぶるという影響も与えられなかったのだと思います。

>頭ではなく、心でもなく、感覚で、後日、体調のよりよいときに、まとまった時間を用意して、腰を据えて味わってみたいと思いました、染み出てくる何かの予感もあります、

とてもありがたいことばです。でも、書いた当人にとっても書きたかったことの多くはそのまま文章上では埋もれたままになっているように思います。信長に対する久政の態度であったり、このあと、信長包囲網が敷かれるが、朝倉も、浅井も滅亡することであったり、お市にしても、再婚した柴田勝家とともに、兄が攻め立てる城で果てることであったり。

あとこっそり仕掛けたのは、はるかさんが根岸くんで書いていた、男性同士の友情(?)を、信長と長政をつかって、ちょこっと書いたというのもありました(鈴木輝一郎さんの小説はその層の気持ちをがっちりつかむ作品でありましたが)。そう考えると、直経さんや、清綱の気持ちのもやもやも、ちょっとした嫉妬にもなるという。とてもわかりにくく書いているのでした(汗) 男同士のもやもやした気持ちは、中島敦の「悟浄歎異」で、八戒が悟空のなかに玄奘三蔵に対してそういった傾向があるということを告げるシーンがあって、そういった雰囲気もすこし加味しました。

書いているときには感じていた執筆態度も、しばらく経って、すっかり忘れてしまっていることも多く、わたしもいまだに自分の書いた「赤尾」からなにか引き出せるのだろうかと、日に何度も読み直しています。

はるかさんの時間を奪ってしまわないことだけを危惧しています。

今回もしっかりした感想をくださって、感謝に堪えません。
ありがとうございました!

はるか
106.154.130.191

 そうげんさま

 再訪、失礼いたします。

 日を置いて、フィジカルに読み直してみよう、と、頭の冴えてる早朝に向かい合ってみました。味わい、確かに、するめの味わいで、前回よりも格段によく、しかも、読みなれてきたのか、読むスピードも上がり、そうか、イメージしていたような長尺ものでもなかったのだな、と気がつき、手のひらに乗せて眺めるように、じっくり見つめてみました。

 現代の社会との橋、思いっきり架かってましたね。

 語り手が、現代の、例えばサラリーマンだったとして、読んでみたんですけど、

>漏らす溜息には懐旧の情が籠る。年々肌に皺を刻んできた。己(おれ)は十分すぎるほど生きた。晩秋の淋しさがそうさせるのか、日没に迫る寒さがそうさせるのか、かつての懐かしい雄飛のときが、近頃殊(こと)に思い出される。

 定年して、齢を重ねて、自宅の中庭見ていて、現役時代はよく働いたよなあとか、思ってる。

>先々代当主亮政(すけまさ)と遠乗りをした夕まづめ。近場の百姓が手すきに捕まえた泥鰌を譲ってくれて、あれは泥を吐かせて次の日の晩酌の肴になったものだった。下女に言いつけ、背開きにして中骨を取り去り、白焼きにしたあとで味噌をつけて食った。ちびちびと齧りながら盃を傾けるたびに、語り合う声にも熱が籠った。

 先々代の社長の出張に同行したら、下請けが接待してくれて、鱒料理を肴に宴会して、ちびちびやりながら、社の業績や社運について、熱く語り合ったっけ。

 なんていうふうに読んでいったんですが、読んでいくと、読めますね、定年退職した元サラリーマンが、会社の来し方行く末に思いを馳せつつ、我が命の消えゆくのを見つめてる、そんな流れで、現代のこととして読める。

 組織と仕事、の話に読める。

 なぜ、最初、橋がないように感じたのだろう、と思って、もしかしたら私が、単に、あんまり社会的な人間じゃないからなんじゃないか、組織に興味がないからなんじゃないか、とも考えましたが、通して何度か味わいながら読ませていただいて、ちょっとわかりました。

 御作、太陽が丁寧に描かれている割には、それに見合うようには月が描かれていない、のかもしれない、あるいはわざと、とか。

 社会的な側面を太陽とするなら、家庭的な側面が月でありますね。理性的な側面が太陽なら、感情的な側面が月。

 サラリーマン小説とか、そんなに詳しくはないのですが、組織の中での派閥闘争や、他社の吸収合併や、夜の世界のクラブ活動なんかが描かれるとして、そしたら、その対比として、やはり、主人公の奥さんや子供や、田舎の老親なんかのことも併せて書かれてたら、サンアンドムーンかな、とか感じたのでありました。

 私が、私の、いま、ここ、に繋がるものを御作に見いだしづらかった理由は、ひとえにそこにあるのかも、だなんて思いましたが、男性の、社会的な活動と、盛衰を、味わい深くスケッチした文章という点では、御作、とても味わいのある、美しい作品であるなと、やはり感じました。

 読み手の世界観が、作品の世界観に馴染みづらかった、というだけのことかもしれません。

 逆に私、月の側面を描くの、好きなんですが、太陽の側面を、つまり社会的なこととか、ちょっと硬質で、客観的なこととか、書くの苦手なんだ、って気がつきました。月の目と、太陽の目、両方で、読み、書けるようになりたいです。

 橋の話は、妥当じゃなかったです、硬質な味わいのある、よい作品であると、改めてつくづく感じました。

 ありがとうございました。

録画予約
61.215.1.97

高い文章力と、意外性に富んだ着眼点のある良作だと思いました。
戦国時代ものの小説はプロアマ問わず大変多く書かれていますが、赤尾清綱を主人公に据えた作品というのは珍しいのではないでしょうか。誰もが知る人物ではないものの、ドラマやシミュレーションゲームでは常連の中堅武将なので(僕はこの人に治水と城の改築を命じた記憶があります)読み手によっては物語の背景を思い描きやすいかもしれません。
新しい勢力の勃興と終末を、当事者たち代々の至近から見届けて生涯を終えるという主人公の立ち位置も絶妙です。小説に登場する浅井家とその家臣は大抵、信長や秀吉の「中盤の相手」でしかないので、この作品の切り口は非常に新鮮でした。欲を言えば回想主体で構成される短編よりも、地侍諸家が京極氏から離反して行く動乱期の北近江から始まる清綱一代記として読んでみたい題材です。



次も頑張ってください。

そうげん
121.83.151.235

九丸(ひさまる)さまへ

感想をくださいまして、ありがとうございます。

読んでいただけるだけのものになっていたとわかり、ほっと安心しております。ふだんと異なる言葉遣いだけど、読むときには口のまわり方的なもので、ひっかかりが少なくなるようにという配慮だけはしました。意味を受け取るときにかかる時間と、読むときの目の流れ方とがうまく調和していないのはこの作風の欠点かなと思います。

長政と信長に関すること、もっと厚みがあればとのことですね。赤尾清綱視点で描いているのであっさりと流してしまいましたが、たしかに両者の関係をもっと色濃く書いてもよかったでしたね。どこに重点を置くかですが、信長を書きすぎると、長政、信長に語りの主軸が移動してしまいそうで、そのために控えめにしたという書き手側の心理もありました。

時代物で一人称。この作品を書くに当たって、谷崎潤一郎の『盲目物語』のような形もいいなと感じて、一人称をはじめました。書いているうちに、私小説的な書き方で書く方向にかわってきて、この内容になりました。一人称でも、言葉をもうすこし日常寄りにすれば、読んだときに感じるものも変わってくるだろうなと予感します。

またなにか書きますので、気が向けば読んでみてください。
ありがとうございました。

そうげん
121.83.151.235

はるかさまへ

再訪してくださり、ありがとうございました。

組織としての物語として書いたというそれに限ったものではありませんでしたが、いちおう、物語られている時点での清綱の立ち位置を示すために持ってきた舞台(?)が太陽に類するものばかりになってしまったというところでした。日の当たる場所のこと、表のことしか書いていないということになります。

月を描く。となれば、月の映る湖面よりもさらに下、水底に深く潜っていくようなものになってくると、俄然、書く気が起こってきます。過去にそういうものを書いたかなと思えば、実はそんなに揺れのあるもの、揺蕩ったり、さまよったりするものを書いては来なかった気がします。

深い底を進むようなものを書くとき、泥まみれになったり、むせかえったりするようなところまで生々しく書いてしまって、読むに値するものにならない気がしてしまうのです。それはわたしの逃げの姿勢かもしれません。

どこかで防壁を張っていて、ここから先は描かないことにしておくと勝手に決めている面があります。なので、深みのある内容が感じられないものがいつも仕上がる気がします。

今回は枚数はこれくらいにしようと決めて書いたこともあって、ほとんど奥の方へ進み入ることはありませんでした。戦国時代の近江の地域のことをベースに、ほとんど史実とされるもの手を加えずに書いたこともあって、自分のなかでは二次創作を行ったような感覚を抱いています。

信長も、長政も、あるいは清綱だって、こういうことをした人だという歴史的事実が多くの人によって信頼されてしまっていて、そこをあまり踏み外さないように書いたことから、書くときの心理状態は二次創作を行う人ととても近いものがあったなと感じます。

今作においては、一歩も二歩も、現代から引いたところから眺めてほしい気持ちもあって、わざとのように、「橋」をかけないように心掛けたところがありました。

それでも独立したものとして、なんだかよくわからないけど、読むことは読めるなと思ってもらいたい気持ちはあって、今作が出来上がったというかたちです。

何度も読んでくださってありがとうございました。

今日発売の「十三機兵防衛圏」というPS4のゲームを4時間ほど遊びました。
作りこまれた作品に接すると、こう、創作意欲がむくむくと湧き上がってきます。
そんなことより小説をすこしでも書きなさいと、ベテランからは思われてしまいそうですが、6年間も心待ちにしていたのだから、それは遊んでしまいます。

関係のない話をしてしまいました。またいろいろ教えてください。
ありがとうございました!

そうげん
121.83.151.235

録画予約さまへ

感想をくださいまして、ありがとうございました。

赤尾清綱。わたしはこの武将をはじめて知ったのは、「信長の野望 全国版」でした。ファミコン版の、あの縦長のソフトで、友達数人がひとりの家に集まって、コントローラを回しあいながら自分の選択した大名を操作して遊んだ時でした。わたしはあのとき誰を使っていたかな。もうはるか前なので、忘れてしまいました。

わたしの浅井ものの基本は、馬場秋星という方が書かれた自費出版本を読むことで得たのです。いまは知り合いに貸してしまって、もう帰ってくるあてはほぼありません。

赤尾清綱を主軸に据えると、浅井三代を比較的自由に書けるのと、ほかの人物ほどにたくさんの情報がまつわってないので、自由度が効くという利点があるように感じられました。小谷落城まで描けるから、たしかに録画予約さまのおっしゃる通り、偶然とはいえ、とても適した視点人物を選択することができたように、いまさらながら感じました。これもコメントをいただいたからこそです。

またわたしの地元とも近いので、詳しく書き始めれば、いまも残る地名にたくさんの由来を見出すこともできます。またあまりピックアップされない部将のなかにも、字(あざ)の名前から来ている苗字もたくさんあって、実は、わたしの住む地域にも、のちに浅井に仕えた部将(いちおう勇将であったそうです)もいて、その名前も地名に残っていてややほこらしい気持ちもあるのでした。

ただ今作は地域性をほとんど出せませんでした。出さなかったともいえます。じっくり腰を据えて描くには、私自身、力不足なところもあるだろうし、概略をなでる感覚で、清綱の一人語り、という形に無理から落とし込んでしまいました。

いまときおり読んでいるものにも決着がついて、整理もつけば、いつかどっしりしたものにも取り掛かってみたいと思っています。希望だけなので、予定が立っているわけではありません。ただ書きたい気持ちはありますので、今回はいろいろな形でお褒めの言葉をいただけて、書くためのモチベーションが向上しました。ありがとうございます!

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