作家でごはん!鍛練場
HBK

信号の多い街

 この街には信号が多い。
 車道にも歩道にもおよそ十メートル間隔で横断歩道が設置されている。それゆえ歩行者は歩いては止まり、止まっては歩きを強いられる。自転車を漕いでいる人間などは見たことがない。
 無論車など走っているはずがない――勇敢にもこの街に車で訪れる観光客はいるが、五十メートルも走らないうちに信号に捕まってしまうため、ゆっくり、ゆっくりと引き返す羽目になる。
 ただパトカーや救急車といった車は例外だ。それらはただ走るばかりか、赤信号の前で止まる義務を持たない。そのためサイレンが鳴り始めると、歩行者は申し合わせたように路傍に寄るし、高齢者には立ち止まってやり過ごす者も多い。反対に物心がついたばかりの子供などは、非日常的な速さで走る車を見ようと家から飛び出すこともあるという。
 一度、パトカーがそのような子供を轢いてしまう事故があった。「好奇心の強い子供だった」とニュースで母親が涙ながらに語っていたのを覚えている。関係者たちの判断は緊急時ゆえにやむなし、で一致し、裁判が行われることもなかったという。警察側の「子供は信号が赤だったのに飛び出してきた」という主張が決め手になったのだろう。
 そういうわけで、この街の人たちは皆忠実に信号を守る。もちろんパトカーに轢かれないようにとの理由もあるが、そもそも小学校に上がる時分には誰もが信号を無視してはいけないことなど悟ってしまっているからだ。
 僕は自室の窓際に腰掛け、日々外を眺めている。二階の窓からは向かいの道路に引かれた横断歩道がいくつも窺える。信号機が列をなして赤い光を灯している。もちろん横断歩道の真上には青く光る信号機もある。だがそれらはほとんど意味を成していない。どうせ車など通らないのだから。
 歩道には民家の前で信号待ちをしている老人がいる。この街では向かいの家に行くにも横断歩道を使うのが当然なのだ。民家の緑木を揺らす涼風がわずかに開けた窓から吹き込み、僕は少し身震いした。信号が変わり、老人はようよう足を踏み出した。彼が渡ってしまっても、すべての信号は青く発光したままだ。他に歩行者はいない。なんとも贅沢な話だな、と僕はふと思った。
 やがて信号は点滅し、赤く染まる。今度は歩道と平行に引かれた横断歩道を渡る許可が下りる。老人は次の信号機までのわずかな道のりをせかせかと歩いた。
 僕は路地を行き交う人々を見下ろしながら、車用の信号になんの意味があるのかを考えることがある。歩道の真上で赤、黄、青と繰り返し輝く信号機は、人通りの少ない昼下がりはおろか真夜中にも灯っている。だが普通車は走らないのだし、パトカーなどは赤でも青でもお構いなしに走り抜けていく。また歩行者には歩行者用の信号がしっかり電柱に備え付けられているのだから、やはり無意味だ。それでも信号機は同じことをいつも繰り返している。見る人が見ればそれは優雅な花火のようなものかもしれないが――確かに夜分に見ると、どこまでも奥まってゆく信号の列はある種壮観ではある――、大した審美眼を持たない僕には、それらは単なる平和の象徴に思えてならないのだった。

 僕は今日もいつものように窓の外を眺めていた。空から柔らかい光が降り注ぎ、フローリングの床を温めていた。山のような形をした雲が少しずつ街の中心部へ流れていくのが見えた。時刻は九時を過ぎ、にわかに歩行者の数も減ってきた時のことだった。
 何やら聞き慣れない音が聞こえてきたかと思うと、自転車に乗った女性が黒い髪をなびかせながら、横断歩道を斜めに走り抜けて行ったのだ。信号は赤だった。僕は仰天してその背中を見遣った。だが女性は――女性と思しき後ろ姿を見せる人物は、振り返る人の傍らを風のような速さで走り抜け、そのまま角を曲がってしまった。
 僕はぽかんと口を開けたまま、たった今目にした夢のような出来事を胸の中で反芻した。すると黒髪の人物にイメージし難い「速さ」というものが伴って、恐ろしい、ぞっとするような印象が呼び起こされた。しかしその危険な衝動は、どこかしら魅惑的な威力を含んでいることもまた認めないわけにいかなかった。まるで雷鳴が轟く前の稲光を見たような、ぐっと歯を食い縛り耐えなければならない感触が彼女には付き纏っていた。だがその姿に少なからず心が惹かれているのもまた事実だった。
 僕はその日ずっと窓際から離れず路地を見下ろしていた。瞬きすら控えるように意識して、人足の繁くなる夕刻の陰ったアスファルトを見渡していた。信号は周期的に赤く青く光り、日の暮れゆく街を機械的に照らしている。街灯が灯り怪しい静けさを帯びた路地に、一際眩い明かりを灯して彼女は再び現れた。
 紛れもなく女性だった。目鼻立ちはよく見えなかったが、信号に照らされて染まった頰が若々しい桃色に映えていた。
 彼女はまたも僕の家の門前で横断歩道を縦断してみせた。遠くから怒鳴り声が聞こえた。だが彼女は笑っているように思えた。風もないのに黒髪は大きく後ろに流れている。僕はいつしか窓から身を乗り出し、言葉にならない叫び声を上げていた。女性はこちらを見上げ、にこやかに手を振った。まるで全身にスポットライトを浴びているかのように、信号機の放つ光の中央で彼女は誇らしげだった。だが一瞬の後にはもう遠くに走り去っていた。振り返ると、自転車の後を追う老人の駆け足が、赤信号の前で止まるのが見えた。
 
 窓から世界を見下ろし、通りかかる人々を様々な種に分類するのが僕の趣味だった。
 一番多く見受けられるのは、ただ社会に揉まれ流されてとぼとぼ歩く「社会人」だ。男女差はさほどないが、強いて言えば男性の方が疲れ切った顔をしていて、信号が変わってから足を踏み出すまでの時間がやや長い。
 かと思えばやたら背をぴんと伸ばして快活に歩く者もいる。彼らは自信に満ちていて、頻繁に友人たちと馬鹿笑いする「学生」だ。中にはスーツを着込んでいる者もいるが、種分けにおいて彼らは「学生」に属する。僕には彼らが何者かを装っているようにしか感ぜられなかった。信号待ちをしている彼らは電柱にもたれかかったり、アスファルトの間から生えている雑草を足で払ったりするが、その様は互いに自分の役割を果たそうと躍起になっているように見えた。きっと一人の時はあんな風に甲高く笑わないだろうな、というのが僕が「学生」に持っている印象だった。
 他にも信号待ちから手をぴんと伸ばして横断歩道を渡るまで、すべてが楽しくて仕方ないといった「学童」や、すべてを鈍重に、優雅にしてみせなければ気が済まないといった風情の「老人」などがいるが、少なくとも一つ、つまり必ず信号を守るという共通点があることが僕をどこか安心させていた。部屋からほとんど出ない僕には、信号待ちなどをする必要はない。それが僕を大多数から優越させている点であり、僕を僕たらしめている要素だった。
 あの女性を見た時に感じたのがただの驚きでなかったのは、それも理由かもしれない。彼女は背後に流れていくすべての人々を驚愕せしめるだろう、まるで自分が築き上げてきたものを否定されるような恐怖を伴わせて。それでも僕は何度も彼女の顔を思い出そうとしたばかりか、一度は彼女の走り抜ける姿をカメラに収めようと思い立って押し入れを漁ったりもした。だが僕は思い直した――ビデオカメラならともかく、ただの写真に躍動する彼女を、足の運びを、回転する車輪を収めることは、極めて不躾な気がしたからだ。
 
 翌朝、僕は窓辺に座ると「老人」が一人、信号の辺りをうろついているのに気がついた。昨日女性を怒鳴りつけた男だ。僕は胸騒ぎを覚えた。
「ノベさん、遅れてごめん」と甲高い女性の声がした。見ると老女が二、三人、「老人」を引き連れていた。重々しい足取りが信号の前で一斉に止まる。
「信じられんね。信号を無視するなんて」
「それが本当だから。私も昨日見たですもん。ね?」
 僕は耳を塞ぎたくなった。だがどうしても彼女への世間の印象、あるいは影響を耳に入れたくて、窓に身を寄せていた。そのうちに「警察」という言葉が出てきた時には全身が強張る思いがした。
「場合によっては呼ばなきゃいかんでしょうね」
 その時誰かがあっと叫んだ。僕はすかさず首を巡らした。一台の自転車が、凄まじい速さでこちらに向かってくる。銀色の車体が光沢を帯び、朝の陽を辺りに乱反射しているようだった。額を露わにした女性の顔を、今回ははっきりと目視した。ほっそりとした顔が涼しげに笑んでいる。
「おい、何してる!」
「降りなさい!」
 老人たちは道端に立ったまま口々に叫び出した。だが女性は止まらず、むしろペダルの上に立って漕いでみせた。そのまま赤信号の灯った横断歩道の真ん中を縦断した。誰もが、おお、おおと喚いた。僕には女性がこちらに一瞥をくれたように思えた。その表情は「社会人」のそれとも「学生」のそれとも違って柔らかく朗らかだった。
「警察だね」
 呆然と立ち尽くす老女が、ことさら深刻そうに言った。僕の家の前に集った「老人」たちは、それがいいと頷き合った。僕はただその会合を祈るような気持ちで見下ろしていた。窓枠に砂や泥が溜まっているのがこの時はやけに気になって、後できっと取り除こうと思ったりもした。
 それから数分、老女が電話を片手にしきりと何かを訴えていた。やがて苛立ちを吐き出すようにため息をついて、「駄目。取り合ってくれません」と訴えた。
「警察はもっと他のことで忙しいって、逆に怒られましたよ」
「他のことって、信号を無視する以上に大変なことがあるものかね」
 最初に現れた老人が不快感を露わにして言った。誰もが女性の去っていった先を見遣っていた。
「あんまり関わり合いにならない方がいいかもしれませんよ」
「確かに、異常者には関わらない方がいいかもしれん。警察も動いてくれないし、止めたところで何をされるか分かったもんじゃない」
「異常者」という言葉は僕の眼球を激しく動かした。下から上へ、そして正面へ。僕にはあの清々しい姿を「異常」と断じる者がかえって異常に思えた。だがそんな自分を責める気持ちもどこかにあった――僕はこの街に生まれた時から住んでいるのだ。
「いや、私はほっとかんですよ。あんなのがいると街の風紀が乱れる」
 最初の老人――ノベさんと呼ばれている男が声高に言った。だが周囲は彼を案じるだけで、賛成している者は一人もいないようだった。

 夕刻の空は雲に覆われていた。寒々しい風が吹き、そのたびに窓枠が小刻みに揺れた。
 案の定、老人は現れた――それも両手に重々しい鎖を抱えて。遠目ながらに彼の真剣な面持ちを窺うと、考えていることはすぐに伝わってきた。横断歩道を封鎖するつもりなのだ。実際車などは通らないのだし、歩行者は電柱の裏を通ればいいのだから、それは誰にも迷惑のかからない手段に思えた。だがその考えは一人を爪弾きにする、ひどく寂しく悲しいものだとも思った。
 彼女の――名前も知らない彼女の戸惑いブレーキをかける姿を想像すると、僕は今にも立ち上がりそうになった。だがどうしても腰が持ち上がらず、僕は焦ったい思いを抱え一人、部屋の中で膝を寄せ体育座りをしていた。鎖が音を立てて電柱に巻かれていく。
 すると遠くから地鳴りのような音が聞こえてきた。だんだん近づいてきて、やがて家の前で止まったそれは、パトカーの走行音だった。
「そこの人。何をしてるんですか」
 スピーカーを通して聞こえる声が無機的に響いた。老人はパトカーに向かって恭しく頭を下げ、「実はまた信号を無視した人がいたものですから……」と訴え始めた。
「そういうのの取り締まりは我々でやるから、ね。勝手なことはしないでもらえますか」
「でも今朝は取り合ってくれないと聞いたもんですから」
 老人の憐みを請うような声を、車の中にいるのだろう警官は無視して「あなたに取り締まる権利がある?」と問うた。
「とんでもないです」
「じゃあそれ外して。電柱に傷なんてつけてないだろうね」
 そう言ってようやく警官は車を降りた。その立ち姿は僕の知る「大人」とも、また居丈高に振る舞うだけの「馬鹿者」とも違っていた。
 彼は老人を加害者のように押し除け、電柱の様子を調べ出した。その顔に表情はなく、それでも威圧的な雰囲気を漂わせていた。とりわけ僕を驚かせたのは、住民の彼への態度だった。大半の人間が老人の方を見向きもせずに彼に深くお辞儀をして、自分がそこにいることを強調するかのようにパトカーの傍の信号で立ち止まった。そうして青になると一斉に横断歩道を渡っていく――その中には今朝の老婆の姿もあった。老人は蒼白になって「すいません」と繰り返していた。
「傷はついてないようですけどね。次はないからね。一応名前とか聞いときますけど、いい?」
 僕は老人が警官の問いに小声で応じている間、「警官」という種に新しい属性を付することを故意的にしていた。自分にだけは余裕があるところを、家の前の連中に示したかったのもしれない。
 僕の中には「役人」という種があって、彼らは「社会人」よりは年寄り染みていて、「老人」よりは浅はかな、常に眉間に皺を寄せている連中という程度の認識しか持っていなかった。だが今回の件から察するに、それだけではないらしい。
 彼らは人を管理する者であり、人に指示される者ではない――動かし動かされないもの、そしてそれはこの街の信号機と同じだと気付いた。現に去り際に何度老人が頭を下げても、警官はお辞儀の一つも返さず、「今後は気をつけてね」という一言だけで老人を萎縮させている。僕は沈みゆく太陽に目を遣り、また視線を落とした。車は去り、老人が忌々しげにこちらを見上げていた。僕はとっさに目を逸らし、窓から離れた。整然と並ぶ家具の重々しさに威圧されるような感触を覚え、すぐさま目を閉じる。鎖の鳴る音がして、僕は耳も覆おうとした。
 その時、もはや聞き慣れた音が届いてきた。タイヤが軽快に地を滑っているのが分かる。
 僕は目を開け、地上を見た。老人が横断歩道の中央に駆け出し、女性を阻んでいた。悲鳴とブレーキ音に混じって鎖の落ちる音が辺りに響き、続いて自転車が路上に倒れた。女性は慣れているのか、うまく着地したが、老人の方は派手に倒れ込んでみせた。だが僕は自転車が老人に触れてさえいないのをしっかり目の当たりにしていた。すんでのところで女性が大きくハンドルを切ったからだ。かえって老人の鎖の方が自転車のタイヤを掬った形に見えた。
 だが老人はアスファルトに手をつき、何やら呻き声をあげている。
「大丈夫ですか?」
 女性が声をかけた。イメージしていたよりも低めだが、澄んだ声音だ。
「大丈夫じゃあるものか。どうしてくれるね」
 老人はわざとらしく腰に触れながら地面に座り込んでいた。眉間に刻まれた皺が二階からでも見て取れるようだ。
「でもぶつかってないでしょう?」
 女性は飄々として言って、老人に手を伸ばした。「ふざけるな」と相手は憤慨し、手を振り払った。
「訴えてやるからな。逃さんよ」
「ぶつかった跡なんてないでしょう?」
 依然女性は悪びれず、それでもかがみ込んで老人の様子を伺っている。青になっていた信号が、再び赤に変わった。老人は何かに取り憑かれたようにはっと顔を上げ、四つん這いになって歩道にまで身を運んだ。女性は不思議そうにその光景を眺めていた。
「恥を知りなさい。あんたもさっさとこっちに来る!」
「でも車なんて来ないでしょう?」
「そういう問題じゃないんだから。若いもんには分からんかも知れんが、もっと重要なものなんだよ、信号っていうのは」
 分からない、といった様子で女性は首を傾げ、自転車を起こした。鎖はもはや薄闇に紛れつつある白線上に黒く重なっていた。女性は訝しげに鎖を見つめ、その目で老人を見つめた。
「何だ。あんたが悪いんだろうが。文句があるか」
 女性は顎を上向け、天を仰いだ。僕は視野に入ることを恐れて身を隠したが、すぐにまたおずおずと窓に身を寄せた。
「早く来なさい! どこまで人を馬鹿にするんだ」
 日の落ちた路上に老人と若い女性が二人、並び立つ信号機の中央で睨み合っている。それは奇妙な光景だった。老人の仲間が一人も現れないのもまた奇妙だった。
「とにかく警察に行くよ。信号を無視してた件といい、あちらも聞きたいことが多いと思うしね」
 いくらか得意げな口調になって老人は言った。女性は「だから怪我してないでしょう?」と言って譲らない。
「あんたに分かるか」と老人が激昂した。
「あんたに味方はおらんが、俺にはたくさん証言をくれる人がいる。ちょっと羽目を外しすぎたね」
 女性は何かを探すように左右を見遣った。だが顔を上向けることはしなかった。それが彼女なりのメッセージに思えたのは、後になって考えると僕の思い上がりかもしれなかった。
 だが僕は既に立ち上がっていた。寝巻き姿で一階に駆け下り、玄関を開けた。二人の視線がこちらに向けられた。女性は上から見るより体つきが引き締まっていて、対して老人は骨張っていた。
 老人は僕を無視して易々と立ち上がり、女性の手を掴んだ。女性はやんわりとそれを振りほどき、「あの人が証言してくれますよ」と言って僕の元に歩み寄ってきた。その時初めて女性の剥き出しの前腕に擦り傷ができていることに気づいた。赤く染まった手首の辺りに滲んだ血が、今にも滴り落ちそうだった。僕は彼女の傍に立ち、「僕は全部見てましたから」と震える声で言った。
「お坊ちゃんが、何を言うか。引っ込んどけ」
「警察に怒られてたところも」
 老人は一瞬間顔を引きつらせて無言のまま激した。赤い光の下、三人は静かに立ち並んでいた。
 やがて老人は、「警察に突き出してやるからな」と言って踵を返した。が、すぐに信号に引っかかり、そのままの姿勢で一分ほど横断歩道の向こう側を見遣っていた。その苛立った背中に、女性は含み笑いを見せた。僕はどうしていいか分からず、曖昧な笑みを浮かべた。
 そうして僕らが取り残された。僕は鎖を抱えて去っていく老人を見送りながら、「大丈夫でしょうか」と言った。
「なるようになるでしょ」
 女性に気にする様子はなく、かえって清々しそうに白い歯を覗かせた。そうして倒れたままの自転車を、赤信号なのに構わず起こしに行った。
「あの、信号……」
「ああ、これ? あたしこれ嫌いなの。だっていちいち意味もなく待たされるって理不尽じゃない? そういうのは嫌い」
「それを言ったら、この街では暮らせませんよ」
 僕はいつになく多弁になっていた。
「本当に警察に捕まるかも」
 熱っぽく語る僕に、彼女は「捕まったら脱獄してやるから、ニュース見ててね」と言って悪戯っぽく笑った。
「今回は大丈夫だよ。あの爺さんは君に見られてたの知ってるから。怪我人がいなきゃ警察は動かないって」
 いても動くかどうか、と僕は付け足した。彼女は「確かに」と無邪気な笑みを浮かべた。この街の「役人」は信号機と同じだ。ただ規則的に責務をこなすだけだから。
「じゃあね。バイバイ」
 名前を聞く前に女性は去って行ってしまった――また歩道の赤信号を突っ切って。けれど、それでもいいとも思った。
 自宅に戻ると母親が慌てて駆け寄ってきた。その顔にはまるで僕が信号でも無視したかのような驚きが浮かんでいる。
「どうしたの? 何かあった?」
 何もない、と言おうとしたが、あの女性に失礼な気がしたのでやめにした。だから僕は「ちょっと用事ができただけ」と誤魔化し、お母さんもついて行こうか、と気を揉む母親を残して二階に戻った。
 肩に埃の積もった学生服。机の上に並んでいる、真新しい教科書の背表紙。僕はそれらから一度目を逸らし、窓の外を見遣った。街の暖色の灯りよりもはるかに鮮烈に、信号機の発光が壁に映り込んでいる。
 一歩外に出ると信号に捕まってしまう。さりとて家の中にはいつも親がいて気が休まらない。畢竟、僕には自由も居場所も行き場もない。だが彼女は、信号を無視する女性は、僕を無理やり立ち上がらせた。自分の意思があったかに自信はない。ただ気がついたら階段を降りていたのだ。それを自由と呼べるかは分からないが、もう体は動いてしまった。何日も洗ってもいない顔を、あの女性に見られてしまった。そう思うと今更のように恥ずかしさがやってきた。
 母親がドアをノックして、ようやく食事の時間だと分かった。僕は少し迷ったが立ち上がり、ドアを開け温かい食べ物の載ったトレイを持ち上げた。その迷いのなさはまだ階段にいる母親を驚かせたようで、振り返った母親の見開いた目を見下ろす形になった。
 僕はところどころ薄汚れた机の上にトレイを置き、振り返って窓の外の信号機の一つを凝視した。普段はカーテンを閉めている時刻だったためか、その赤はやたらと際立って路地に浮かんでいるように思えた。
 僕は赤が青に移り、また黄色から赤に戻る様を見て、知らずと立ち上がっていた。そうしてまた階段を駆け下りて、戸惑う母親とすれ違ったが構わず玄関を開け、靴を履いて路上に立った。そうして赤く灯る横断歩道の警告を無視して、アスファルトの真ん中に足を運んだ。背後から名を叫ぶ声がする。だが僕は応じず、壁に遮られない四方を見回した。何も怖くはなかった。
 すぐに泣きそうな顔をした母親に引きずられ白線を何度となく跨いだ。家の前にまで戻った時ようやく信号は青に変わった。誰も渡ることのない横断歩道が、何本も何本も白く青く伸びているのが見えた。
 僕は、まずは湯船に浸かる前に体を洗おうとか、あわよくば明日は間近で女性の速度を感じられるかもしれないとか考えながら、階段を上っていった。窓から注がれる青い光が学生服にかかっていた。僕はふんと笑いカーテンを閉めてから、まだ少し湯気が立っている夕食の前に座った。

信号の多い街

執筆の狙い

作者 HBK

今回も上達のために書きました。
ご意見、ご指摘をいただけると幸いです。
よろしくお願い致します。

コメント

夜の雨

読みました。

よくできています。
信号がやたらと多い街なのですが、こういった架空の街を舞台にした奇妙でそれでいて、主人公の立ち直りみたいなものを描いた作品ですね。
訴えるものは、十分に描かれています。

御作がしっかりしていると思うのは、描き方が複数視点になっているところです。

>舞台は信号の多い街なのですが、信号はふつうは守らなければならないわけです。

● 警察や役所関係の権力視点。自己都合が強い。

● 信号を守る側の弱者であるが、かたくなに意地を通そうとする老人たちの正義感視点。

● 必要のない信号を守らなくてもよいという、ここでは自転車を暴走させる女性視点。

● 主人公の傍観者視点からの変化。(作品を読み進めると主人公は引きこもりから立ち直る)。

● ほかに一般的な傍観者視点。
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これら複数の視点(考え方)が絡んで展開しているので、話に厚みがあります。
それぞれの立場がわかりよく、納得させられる。
話の構成などが良くできていて、ラストで主人公が引きこもりから立ち直るところが良かったですね。
伏線として導入部あたりに、引きこもりがわかるエピソードをさりげなく書いておいたほうが良いですね。

どちらにしろ、よくできた作品だと思います。


僕は仰天してその背中を見遣った。 ← 僕は仰天してその背中を見やった。(ひらがなのほうが良い)。


お疲れさまでした。

はるか

 HBKさま

 拝読しました。素晴らしい、と思いました。いろんな形容を思い浮かべたのだけれど、たぶん、素晴らしい、というのが、私ふだん遣わない言葉だけど、適切な気がしました。面白い、というのとは少し違うし、感動した、わけでもないような。たとえていうなら、美しい建築物を目にしたような。つまり、構図が、配置が、模様が、バランスが、組み立てが、きちんとしていて、気が利いていて、たぶん美しい、ってことなんじゃないかと思います。
 文章、淀みなく、つっかかる箇所もまったくなく、端正で、作品内容にも見あったものであったと感じました。
 場の設定、いいですね、閉じられた町、ぜんぜん似てないけど『オブ・ザ・ベースボール』を連想しました。移動してゆく話に比べて、書くの、難しいんじゃないかな、とか私なんかは思うのですが、どうなんでしょうね、ともあれ、部分社会における部分的な価値観が描かれている。車が通らないのに、律儀に信号を守る人々、固定観念だとか、硬直したものを感じました、対するところの女性、この町的にいうなら違反者、異端者、異常者。いえ、町の外から見たら、というか流動的な価値観に照らしたら、女性の判断のほうがはるかに合理的だしまともなんですが、相手は信号ですからね、悪法もまた法なり、ってわけで、なるほど、面白い構図であります。
 私なんかは、颯爽と走りゆく女性に単純に共感しちゃうんですが、いろんな読み方ができそうです。このような、配置、というか、模様、というかだけを端と提示して、書き手の主張や考えが全面に出てこない作品は、それだけ読み方の多様性を許すから、その分たくさんの読者に訴求できるかもしれないですね。
 ラストで、そうか、引きこもりだったんだ、ってこれもよかったです。『IWGP』のワンシーンを連想しました。閉じ籠った部屋から、いわば閉じられた町を凝視してたんですね。閉じられた世界の中の、さらに閉じられた世界に、すっと、一陣の、自由な風が運ばれてきた、だなんて読みました。夜の雨さんがご指摘されてるように、冒頭に、引きこもりを、さりげなく、本当にさりげなく、ちょっとだけ匂わせておく、っていうのもいいかと私も思いました、でも、匙加減を間違えて匂わせ過ぎちゃうくらいなら、今のままのほうがいいかも。なんにしつも、ラストもよかったと感じました。
 最後になっちゃったけど、タイトル、実はこれもすごくいいな、と思いました。さりげないんだけど、思わせぶりで、ちょっと象徴的でもあり、どんな話なんだろ、と興味をひかれてしまいます。
 というわけで、刺激を受けました。配置の妙、みたいなの、真似させていただきたいです。読ませていただき、ありがとうございました。
 あ、蛇足ですが、HBKさんって覚えづらくて、勝手に、ハート・ブレイク・キングとか、そんなふうに覚えちゃいました、だなんて報告する意味もないですが。

HBK

夜の雨さま

読んでくださってありがとうございます。

さっそくのお褒めの言葉、恐れ入ります。
訴えたかったものがしっかり表現できていたようで幸いです。

複数視点の書き方になっているのは特に意識したわけではないですが、なるほど言われてみるとそういう構成に出来上がっていることに気がつかされました。
作品の構成上いつのまにかそうなった、という側面が強いのですが、結果的に話に厚みを持たせることになっていたようで嬉しい限りです。
話の最後が少し陳腐で意外性がなかったかな、と思っていたのですが、良かったと言っていただけると自信になります。
正直に言うとその辺りに迷いがあったので伏線を入れるかどうか迷ったのですが、結果的に投稿して読んでいただく以上はしっかり頭から爪先まで整えるべきでした。ただどう書いてもわざとらしく、自作を大袈裟に書いているように思える気がしたせいもあるのですが……その辺りは単に実力不足だと思います。ご指摘ありがとうございます。

よくできた作品、と言っていただけて光栄です。書いた甲斐があります。また次回作へのモチベーションも上がります。

「見遣った」に関しては個人的に気に入っていると表現と申しますか、正直に言ってしまえば「見る」の類語のバリエーションの一つとして「見遣る」の方が「見やる」よりも遠いように思う、というだけの理由なのですが、単なる語彙の不足ですね。
ただ今書いている作品でも使っている部分が既にあるので、もしも訂正されておらず読みにくいようでしたら「読みにくい」「伝わりにくい」等率直に言っていただければ助かります。

ご感想ありがとうございました。いつものながら感謝しております。
また次回作も読んでいただけると幸いです。

ありがとうございました。

HBK

はるかさま

読んでくださってありがとうございます。

身に余るお褒めの言葉をいただき、恐悦至極に存じます。
私としては「堅苦しくない純文学」を書くことが理想なので「面白い」と言っていただいても嬉しいのですが、今回はそれ以上に(そして自分で思っていたよりもはるかに高く)評価していただけて感謝の言葉もありません。
文章がつっかかる場所がなかったのなら安心しました。以前はとにかく読みにくい文章を繋げたり、読みづらい言葉を選んだり(今回も「畢竟」については子供らしくなかったか、と反省しております)していたのですが、多少なりとも改善されたかと自信になります。
『オブ・ザ・ベースボール』の設定には私としても非常に惹かれています。「ああいう作品が書きたい」とはまた違いますが、私の作風としてそういった非現実的な状況を扱うものが多いようです。個人的には移動していく話の方が調べることが多く書くのが難しいイメージがあるのですが、どうなのでしょうね。
自作について言及するのは無粋だと思うのですが、信号については現代的な融通の効かなさだとか、頭の固さの象徴として描いた形です。悪法もまた法なり、この街に関してはごもっともです。構図を褒めてくださってありがとうございます。
作中に自分の主張を差し挟まないのも私の作風のつもりです。おっしゃる通り、様々に感じていただきたいという思いもありますし、解釈を作者が提示し固定するのも野暮だという感もあります。
ラストに意外性があったようで、自分としては何よりだと思っています。「オチが読める」と思われてしまうのではないかとの懸念があったので、夜の雨さまのご意見も踏まえて安心している次第です。
当方は寡聞にて『IWGP』は読んだことがないのですが、「自由な風が運ばれてきた」という綺麗な表現をしていただけたことは素直に嬉しいです。
夜の雨さんへの返信でも触れましたが、やはり伏線を張るべきだったかとの思いもあります。ただおっしゃる通り匙加減が難しく、また私の中では「オチが単純」と言われてしまうのではないかと思っていたため、下手に工夫をしてかえって見苦しくなるのを避けた形でもあります。
タイトルについては久々に納得できるものになったつもりです。やはり読んでもらえないと意味がないので、なるべく興味をひきそうなものにしたかったというのもありますし、逆に記憶を辿ってみれば、タイトルからこの話は発生したのではなかったかと思うくらいです。お褒めに預かり光栄です。
配置の妙、という大きなものを拙作などから読み取るところがあると言っていただけるだけで恐縮です。こちらこそ、読んでくださって感謝の言葉しかありません。
ハート・ブレイク・キングは私のハンドルネームの由来に当たらずとも遠からずです(笑)。いずれにせよ覚えていただければ幸甚の至りです。

ご感想ありがとうございました。こちらこそ、多くの刺激を得ることができました。感謝致します。
次回作も読んでいただけると幸いです。

ありがとうございました。

u

HBK様 読みました。
なかなか良いので(上から目線ww)感想書こうと思っていたんですがチョイ遅くなりました。
もう少し感想ついてもいいのにね。

素直に感想書きます。
この尺であれば、>この街には信号が多い。で始まり>大した審美眼を持たない僕には、それらは単なる平和の象徴に思えてならないのだった。のイントロ部分が長いのではないかと思った、(無駄)じゃないんだけど。

次項。黒い髪をなびかせた自転車に乗った女が登場します。ここからお話動き出す。

信号も自転車の女性も老人も警官もマア全てがメタファーというお話だろうけど。
じゃあ、主人公は何なの? 主人公だけメタファじゃない? (ついでに言えばお母さんも――これ蛇足)。

だから、(落ち)が普通な気がします。優等生的。
引きこもりは冒頭からわかります。主人公、自転車の女で(覚醒して)前向きに! こう来ると、マアええ話、どこかで誰かが描いた話。--になるので・・・・。
メタファやるのなら落ちも。

とあれ、いい作です。御健筆を。

HBK

u様

読んでくださってありがとうございます。

なかなか良いと言っていただけて光栄です。書いた甲斐がありました。
ご感想が少ないのは力量の不足の表れだと思っているので、これからも努力していく所存です。

率直なご意見、参考になります。
たしかに冒頭の部文は冗長過ぎたかもしれません。
なかなか主人公の感性を示しつつ、かつこの街の特徴を書く(特に歩行者用の信号が無意味にたくさんあるくだりですが)ことをさらっと書いてみせることができませんでした。
ここでも実力の不足が露呈してしまっていますね。

おっしゃる通り本作の多くはメタファーから成っていますが、主人公が何かと言われると難しいですね。
私の作風として、何かがおかしな街や世界で(それが何かの象徴であることも多いのですが)主人公がその違和感に気づき対応に難儀する、というパターンが多いのですが、その時主人公が何を表しているかと言うと、強いて言えば「人の意思」でしょうか。
世界を変えることはできなくても懸命に生きていこうとする(あるいは展開によっては生きていくことを諦めてしまう)「意思」を象徴しているのだろうと思います。
世界が奇妙で理不尽なのは現実と大差ないので、その中で足掻こうとする人一般の意思を主人公に据えている――自分ではそういった構造では、と思っています。
母親はこの場合は支援者ですが、そこまで深い意味はありません。あくまで今回の主人公の都合に合わせて登場してもらった形ですね。

落ちのメタファーは最後に主人公が赤信号の真ん中に立つことでその意思を発露させたつもりだったのですが、それだけでは弱いですね。
それにやはり冒頭から「引きこもり」設定は見え透いてしまっていたと思いますし、それゆえ「どこかで誰かが描いた話」との評価、ごもっともです。

いい作と言ってくださって嬉しいです。今後の励みになります。

ご感想ありがとうございました。
また次回作も読んでいただけると幸いです。

はるか

 HBKさま

 春香の話、拝読しました。気づいていただけるよう、こちらで呼び掛けておきます。読み応えありました。

HBK

はるかさま

気がつくのが遅くなってしまい申し訳ありません。ご報告ありがとうございます。
本編の方に返信をさせていただきました。

あちらと重複しますが、過去に遡って読んでいただけたことに感謝致します。

>読み応えありました。
本当に嬉しいです。あちらに具体的に書いてありますが、私としてもご感想をいただけて非常にためになりました。ありがとうございました。

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